お金のない世の中は可能か [無断転載禁止]©2ch.net
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何かと何かを交換する方法では利便性の面から貨幣が必然的に発明される
ではあげるとか貰うだけで経済を構成することはできるのか
そのためにはリテラシーなども含めて何が必要か >>76
貴方が語る一般常識がずれているというか株の本やネット情報に翻弄されているのが良くわかるので……
常識で言えばリーマンで儲けた人の方が多いです
あれだけ下がれば誰でも儲けますから 株の本の類は読んだことがありません。あなたが私のことをどう考えようと
自由ですが、たとえ私があなたの言うとおり「本やネット情報に翻弄されて
いる」としても、私としては確定して利益を出しているのだから、翻弄され
ていてもノープロブレムですよ。 プロブレムというのはその人がどう感じるかという問題ですからね。
私から言わせればマネーゲームに一喜一憂する人生を歩まざる得ない時点でプロブレムです。
ああいうのは普通、30歳くらいで卒業すべきものです。
私も一頻りリーマンショックを楽しみましたけど、それで十分ですね。
実際、とてもくだらないですし。 さてね、考え方次第でしょう。マネーゲームがくだらないという決まり
文句は、マネーゲームを動かしている人々が言うことなんですよ。
マネーゲームは、他人をコントロールするための手段であって、額面
の資産金額を最大限にすることが目的ではありませんからね。で、
金がないためにどんな無理難題を吹っかけられても黙って従うしか
ないような状況に陥るのが嫌なら、やはり、いつの間にかマネーゲーム
の敗者にされないようにいつでも注意していなければならない。
ギリシャやブラジルの国民のようになってからでは遅いですからね。 その程度のことしか考えない人間になってはいけない、
なってしまっては、その程度の下らない人生しか歩めない。
ということを申し上げているわけです。
マネーゲームに憑りつかれる人たちというのは、
「現象や解釈に翻弄されている人たち」そのものであろうと思います。
それは真理に至って後世の人々を導こうという大志を抱く人間が行く道ではないのです。
ここが何板か思い出して頂きたいものです。
by 鼎 梯仁 さて
真理も視座によって変わる
貴方の真理ではないというだけだ
そもそも視座すら持てない鼎の視線は泳いでばかりで酩酊状態の酔っ払いの戯言に過ぎないが 真理は視座によって変わったりはしないと思いますよ。
そんなことを言ってるのは真理ですらないただの現象を真理だと偽って売り捌こうとしている人だけだと思います。
私がなぜ金融市場を馬鹿にしているかと言いますと、
「その店で真理を買い求めることはできないから」という単純な理由です。
糞みたいな商品しか売っていないお店に行く客など、
全くいないことも無いのでしょうけど、
目利きができない人たちであることは間違いないと思います。
by 鼎 梯仁 真理を掴んでいるなら「思う」とは言わない
はい論破
覚者でもない者が何を言ってるのか?
というわけで視座で変わる 視座(観点)という言葉が出て来たので本当の真理について解説させて頂きますと、
真理という視座は全ての現象の中心にございますので、
「真理は視座によって変わる」などと言っている人たちは、
そもそも“真理という視座”に立てていないのです。
私が少し常人離れした知性(想像力)を発揮しているのは
「真理という視座」を見つけ、そこから物事を眺めるようにしたからなのです。
そのあたりの話は本スレパート2で取り上げるようにいますね。
「真理という視座」へ至るにはちょっとしたアプローチのコツがあるんですよ。
一口に言えば“後ろ向きに歩く”ことなのですが、言葉では中々伝わらないと思いますので、
パート1同様、図示も交えて解説するように致します。
by 鼎 梯仁 それに鼎 梯仁に嫉妬したところで鼎 梯仁に比肩する知性(想像力)など手に入りませんし、
私はどのようにして真理という頂きに至ったのかとか、
真理そのものについても積極的に無償で皆さんに公開しているわけです。
実際に真理を手に取って思ったのは「これは私だけが持っていても仕方のない代物だ」ということなのです。
全ての人に行き渡ってこそ、これは真価を発揮する宝具である。と即座に私は理解しました。
故に発見者である自身を神格化するなど、様々な手法を工夫して、
それが世に行き渡るよう活動している。といったところになります。
私は赤子にすら真理を渡すでしょう。
by 鼎 梯仁 レスに合わせてコロコロ変えてるようじゃダメだね
また思いますっていってるし
君を導くのは手間がかかる 皆さんは意外に思われるかも知れませんが、
真理というものは容易に【複製】することが可能なんですよ。
たしかにこの時代の原版(オリジナル・ザ・ダイアグラム)の保有者は鼎 梯仁なのかも知れませんが、
幸いにも私は真理の性質をよく理解しており、それを複製することを惜しんでいません。
しかし、なぜ私が真理の継承者となったのかは今でもよく分からないところがあります。
あるいは真理というものは予め全ての人々に埋め込まれていて、
その性質とよく適合する人物が発現させて来たのかも知れませんね。
ということは、真理を発言させた人からその性質について説明を受ければ、
皆さんに埋め込まれたそれも容易に起動するはず。
私が行っている真理の複製とはそういった作業になるのかなと思います。
by 鼎 梯仁 真理とは理であって複製などする必要もなく目の前にある
ファセットによって見え方がかわるんだよ
わかるかな?
鼎ちゃん 真理とは眺めるものでは無いんですよ。
【真理から眺める】のです。
かの聖徳太子は「世間虚仮唯物是真」という言葉を残したと言われていますが、
周囲がその言葉を理解していたかは別として、
この人物は私と同様に現象と原理の違いを見極められる境地に達していたのだろうなと思います。
現象や解釈、視座に翻弄されるばかりで終わった人たち
(ニーチェとかハイデガーとか)
とはやはりレベルが違う人だったのだと思えますね。
by 鼎 梯仁 ちょっと誤字が多かったので書き直しますね(笑)
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真理とは眺めるものでは無いんですよ。
【真理から眺める】のです。
かの聖徳太子は「世間虚仮唯仏是真」という言葉を残したと言われていますが、
周囲がその言葉を理解していたかは別として、
この人物は私と同様に現象と原理の違いを見極められる境地に達していたのだろうなと思います。
現象や解釈、その視座に翻弄されるばかりで終わった人たち
(ニーチェとかハイデガーとか)
とはやはりレベルが違う人だったのだと思えますね。
by 鼎 梯仁 おそらくですが、私はその風貌も聖徳太子と似ているのではないかと思えますね。
その時代にタイムスリップしたら「お、皇子。今日はどちらへ?」などと
野良仕事のオジサンから声を掛けられるのかも知れません。
「うむ、ちょっと山へ霊気を浴びにな。セイヤッ!←馬に乗っている」
こんな感じではないかと思います。
by 鼎 梯仁 ではなぜ思うと更に言うのか?
ただその一点だけを見ても盲目である事が見て取れる
これ程簡単な事すら理解出来ないのなら真理への道は那由多の彼方 >>96
おそらくあなたは真理について誤解されています。
そうですね、おそらく免罪符か何かだとお考えなのではないでしょうか?
真理を手に入れたら全ての謎が解けるとか、究極のゴールだとか、
そういった妄想をしておられる。
むしろ真理というものは各々がその想像力を
いかんなく発揮するためのスタート地点のようなものなのです。
また真理を得ないものの愚かさを痛感させられるという意味では、
現象や解釈に翻弄される者たちに対して強い怒りを憶えるかも知れません。
この私ですら「こんな猿に何を説いたところで理解できるわけない、
このホモサピエンス野郎が(ペッ」と苛立ちを禁じ得ないことが
しばしばあることを告白せねばならないでしょう。
とはいえ、このことは発見者である私自身がこれから
「真理とはそのようなものでは無かった」という事実を
皆さんに時間をかけて説明して行けば良いことだとも思います。
σ原理の活動とはそういうものなのでしょうね。
by 鼎 梯仁 おそらく実際の真理(聖杯)が想像していたものと違っていたときにどう振る舞うかが、
ヒューマンビーイングへと再生される者と、
ただのホモサピエンスとして破却される者との違いになって来るのだと私には思えます。
それは「在るもの」を見ようとするかしないかという話だと言えますから、
旧約聖書の神の“真名”とも一致します。
「真理が齎す始まり」を受け入れるかどうかという話とでも言いましょうか。
しかし、私はその始まりを拒絶したところで何もならないと思うんですよね。
受け入れたからといって何かを奪われるわけでもなく、
拒絶したからといって得るものもない。
私はそれを見つけたとき、とくに迷うことも悩むこともなくそのスイッチを入れたのです。
「ああ、これかぁ。ポチっとな!」
そしてこうなりました。
いつまでも猿をやってるのにもウンザリしていましたので。
by 鼎 梯仁 >>62
http://agora-web.jp/archives/2023083.html
↑の本は中々良いですね。
深いことは書いていないのですが、私が予てから話していることと一致することも多いですし、
むしろ私の方が先を行っているものもあれば、そうかブロックチェーンで実現できる可能性があるのかと新たに勉強させられるところもあり、
私にとっては中々の良作です。
私も一つ人々に祝福を齎す「鼎流ブロックチェーン」というものを設計、実装してみたいなと心躍る内容なのです。
その取り組みはσ原理の流布と合わせて私のライフワークと成り得るのかも知れません。
もちろん、「鼎流」などとは言わず皆さまと共に歩んで行けることが更にこの上ないと考えます。
by 鼎 梯仁 世の中に出回るお札の総額、初めて100兆円の大台へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161221-00000005-asahi-bus_all
世の中に出回るお札の総額が初めて100兆円を超える見通しになった。
日本銀行のマイナス金利政策で預金金利が低下し、
現金自動出入機(ATM)の時間外手数料が上がるなどしたため、
「タンス預金」として手元に現金を持つ人が増えているようだ。
日銀によると、世の中に出回るお札の総額は、今月19日時点で99兆9857億円。
11月末の97兆4298億円から約2・5兆円増え、近く100兆円を超える見通しだ。
年末年始は年越しの現金の必要性から、銀行から引き出す人が多いため、出回るお札の増加ペースが速い。
昨年12月末時点は98兆4299億円だった。
出回るお札の額は、2014年は前年比3・6%増、15年は同4・9%増。
16年は毎月、前年同月比で5〜6%程度の伸びが続いており、「現金志向」が高まっている。(真海喬生) ビットコインだけはホントに不味いな
例えばFXで海外の金を手に入れて両替してビットコイン購入だけで
生活費賄える。これ根本から国破綻するぞ 多分ビットコインは弱小国から銭をむしりとる
システムになるだろう。末恐ろしい事になるな これだけ人間関係を荒して、生活しづらい状況を作れば、余裕がなくて
金を使わないと生きていけない人間だけが金を使い、余裕がある人間
は、できる限り金を使わずに状況の悪化に備える負の循環が生じる
のは、自然の成り行きですね。 元素先進せさせたまはれば、可能な面もあるかも知れない。 お金を必要としない状態とは、信頼関係だけで全ての約束が成立する社会だが
人間の本性からしてそのようなことは不可能なんで管理社会にならざるを得ないが
管理する役人の腐敗と汚職によって自由を奪われるだけで平等な社会などどこにもない
この手の話は、必ずマルクス主義とその結末ということになる >>109
「人間はお金の奴隷になってしまっている」から
お金を無くして自由になるべきではないですか? 銀行券もいいけど、株主優待券とか、ビットコイン、とか色いろ。 金が無くても代わりになるものが存在する限り自由にはなれない
金は手段であってかつては債権であり要は契約だ、それを否定するなら
個々人が自立的に自給自足で暮らすしか道は無いな 債権者→ 国債発行 債務者 国民 とはいかなくてもいい。 ある種の思想を持った人は「人間はお金の奴隷だ、お金に縛られている。だから人間はお金から解放されなければならない」
と言います。それに対して皆さんはどうお思いですか? 金の呪縛から精神的には開放されても、実態的には支配され続ける
全ての生命が天候や寿命など自然や運命の支配を逃れ得ないのと同じように とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
PMCTL >>110
これは、理(ことわり)がある。物々交換になればいいという
1つの主張だ。
・・・我々自身が「金」になれば、カネも寄ってくるし、
我々自身がすでに労働としてのカネである。、俺が止めても
誰かがやればいいと言う意味でカネである。
一般的人間になれば、己自身かねになる。 >>91
視座は移動する。岩を見るとき岩の近くに視座が移り、
虫をみるとき、虫の視座に移る。異議に対し、対立をもって答えない。
あえていうならば東洋思想の、「最大の欠点」は、「普遍性」を求めることである。
複数の「視座」を視座というはいい、だがそれを知ったと言えばいいのに、
「真理を知った」などと言ってしまう。ぼんミスだと言っていい、遠近法主義はニーチェもライプニッツも知っている。
ーー「しかし、なぜ私が真理の継承者となったのかは今でもよく分からないところがあります。
あるいは真理というものは予め全ての人々に埋め込まれていて、
その性質とよく適合する人物が発現させて来たのかも知れませんね。
ということは、真理を発言させた人からその性質について説明を受ければ、
皆さんに埋め込まれたそれも容易に起動するはず。
私が行っている真理の複製とはそういった作業になるのかなと思います。」ーー
これが、ドゥルーズからクロソウスキーを分かつのだな。こういったとて、91氏について異議を称えてる
わけでもない。むしろ、永劫回帰「向こうから」とらえたな・・というのが正直な感想。
真理の複製は、真理にとらわれている。シミュラークルとクロソウスキーが言ったものだ。だが
それらを「ビジネス」に使うには自由だが、俺は91氏がどうも気に食わない。ちょっと嫌がらせ・・。許せ。 >>118
お金は、どんなものでも、一夜にして値段をつけれる、変換できる、物に、人に、土地に。
そして、それらは、売り買いされる。ゴッホの絵が「3億円」で売られる、天国のゴッホは喜ぶが、「充分」ではないだろう。
そして、その「余り」はお金で買えないだろう。
本当に「絵の好きな名も無き人」、あの黄色が・・といった「モディリアーニ」
トランキル爺さんと絵の名前を間違えた「アルトー」、・・そうした人眼力ある人に買ってもらいたいだろう。ただ眼力ある人は大概お金は無い・・。
・・そういうふうな人に絵が渡っていたら、ゴッホは喜んだだろう。。ただ「お金がもう「ちょっとね」とか言うだろう。
「充分に」喜ぶ条件は? 前者は「ホントに絵が分かるのか?」、後者は「もうちょっとお金があれば」・・。
そういうことになろう。しかし、前者の条件(絵が分かる)、後者の条件(もう少しのお金)。
条件を満たすために苦労はどちらだろう?お金をかければ「眼力」がやどるのだろうか?
お金は「それ自体」は何ものでもない。使用方法の問題だ。
それは、鉛筆を字を書くか、武器として使うか、フォークを食事の道具か人を刺すかと同様。(言語の意味についてウィトゲンシュタインが言っていた1つのこと)
お金も使用法によってかわる。お金は、その汎用性(使い方の汎用性)が無限に近いということ、どんなものとでも交換可能なことを力の本質としている。
絵を買う、武器を買う、大統領の椅子を買う、美女を買う、・・何でもできる。・・・、しかし「皆がそう思っている」ときにその力を発揮する。
皆がいっせいに、そうではない・・と思えば、お金は直ちに無価値になる。
お金は「容姿」、「健康」、「魅力」、「自然災害の防御」、「素朴な人々のあれこれ」、は「全部」買えるとは言えない。
もっとはっきり言えば「自然の美」、「自然の魅力」、「自然からの自然な防御」、・・・やつらはついには「自然」を「買う」のかな?
・・まあ「全部」買えはしない・・ということ、が「本質」になるだろう、なにしろ「やつら」は「全部」買うことにこだわるのだから。
そして「やつら」は「少し」の過不足に耐えられないのだから・・。程度の問題。
家を建てれない、大工を買う、妻がいない、カネでつる、犬が欲しい、ホームセンターで買う、なつかない、ドッグトレーナーやとう、文章をかけない、ゴーストライター、
太ったのでやせたい、やせるマシーン、運動いやだ、運動マシーン、目が悪い、手術、暑い、クーラー、寒い、ヒーター、動けない、自動なんとか・・いいかげんにしろ・・。 っと、まあ、無能力をさらけ出してもお金もちになりたいわけだ。体、身体が退化してゆく。
1つくらい、能力もったらどうかね、という話。そうしないと、アメリカ人みたいにデブになるよって、
話。でした。終わり。 そして、1リットルの涙のあやさんが言った意味が分かるだろうよ。 んで、でも、「何もしないより、何かせよ」、というワナに引っかからないように。
ここんとこ、大事です。道徳のワナです。 30歳過ぎではじめてロードス島戦記を読んじゃだめなんですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています