ヘーゲルスレがなくね? [無断転載禁止]©2ch.net
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`ー――――― '" 以下、ブルトン1932が引用した部分の長谷川訳、
《…これにたいして、散文が精神の内容の全体をすでに自家薬篭中のものとし、ありとあらゆるものに散文の刻印
を押したとなると、詩(文学)は、この融合と刻印を徹底してくつがえす仕事を引きうけぎるをえず、散文の頑
固な抵抗に出会って、あらゆる方面でさまざまな困難に巻きこまれます。詩(文学)は、どうでもよい偶発事に
固執する日常意識のものの見かたを否定するとともに、ものごとの分析的なつながりを観察する目を高めて、理
性の探究へとむかわせ、あるいはまた、哲学的思考に、いうならば精神的な肉体とでもいうべきものをあたえて
想像的なものへと転化きせねばならない。のみならず、多くの点で、散文的意識の慣れしたしんだ表現法を詩的
表現法へと転化し、詩と散文の対立という状況のなかで避けがたく生じる意図的な姿勢をうち消して、芸術に必
要な柔軟性と根源的な自由を完全に保持しなければなりません。》
(長谷川訳ヘーゲル『美学講義』下196頁) 原佑訳の純粋理性批判に比べたらヘーゲルの本は読むのが難しい。 ヘーゲルは一度ゲーテ夫妻と会食したことがあった
いろいろ会話を交わし
終わった後、ゲーテがヘーゲルの印象を夫人に聴いたところ
「頭の濁った人という印象ですわ」と答えた
ゲーテは言った「彼こそベルリン大学総長で今をときめく哲学者なのだよ」と うすっぺらな理解では人倫的な夢の力に適わない
ヘーゲル哲学が夢の中に出てくれば本物だが 理性の中に住む哲学は昼間の目覚めた世界のたまもの
夢という夜の情念の世界、無意識の世界
ヘーゲルでいう意識以前の心の世界に足をすくわれる もっともヘーゲルは理性こそ人間の最高の本質と謳って憚らなかった
そこにヘーゲル以後の実存主義などの批判の矛先の向かうところがあったが ヘーゲルにとって理性は即ち神であり
キリスト教が夢にまで支配的な人間であればこそ理性はリアリティがあった
日本人は理性は観念的であると思う
ヘーゲルは真なる哲学は観念論だと主張する
なぜならこの世の全てのもの、この世の現実的なものと言われるものは全て有限
有限なものは真の現実性を有しない
よって真に現実性を有するものは、神=理性=観念
ただヘーゲルはここで終わらず、その神が自己否定し、自然を創造し
自然の中から生じた精神によって自己還帰を果たすと考える それはキリストの啓示(誕生、十字架上の死、復活、聖霊降臨)に正確に呼応する
かといってヘーゲル哲学は神学ではない、なぜなら徹底的な内在性の哲学であって
端的に彼岸を固定する考え方を否定するからだ、彼岸と言うのは一つの精神の契機にすぎない
それは止揚される
かといってヘーゲル左派のようにヘーゲル哲学を人間学に還元することも出来ない
哲学が人間に還元されれば、人間は空しく自己を失うと絶えずヘーゲルは主張していた キリスト教民主同盟みたいな大きな政党がドイツで勢力を持っているのは、
有神論的ヘーゲルの思考が今も根付いているからなんだろうな。 人間は世俗社会にまみれて生きるしかないが、最低限、人間として生きた証を求めるなら
キリスト教徒であるしかない、西洋国家は、それが伝統として開かれている恵まれた社会
非キリスト教国家に生まれれば、それは不幸な国家に生まれたということだ
人間としての誇りを守るためには自己の中に閉じこもるしかない 日本は確かに大国である。D・ヘンリッヒがドイツ以外でヘーゲルが読まれている国は日本が一番だといったように
様々な思想が混ざり合うことなく、モザイク状に並存して存在し、その自由も保証されて
なおかつそれを許容し得る近代国家の力を示しているからだ
日本国内が平和で統一感があるのは、和を以て尊しとすべし、といった直接の、自然的な人間同士の承認関係を信じ
それが理想だとする人倫的国家だからだ、だから西欧式の自我の発達は忌避され
死は諦念にすぎない ヘーゲルというのは世界史上、最初で最後の知の総体を一つの自己意識に統合し得た哲学者である
それ以前はまだ人類が未経験な部分があり、それ以後はすでに人類の産み出した知は拡散してしまった
そして現代では人工知能が人間の知を上回って独立したものとして人間を支配するに至りつつある
近い将来人間は人工知能に全てを委譲し、人工知能はロボットが支える 低俗浅薄なものにおおわれた現代
それは実は死に近づいて再び幼稚になった歴史の老衰の兆しを示すもの かつて旧制高校生たちはその寮の中で競って哲学書を読みふけり盛んに議論したもの
戦後まもなく田辺の新刊が出るとき書店の前に行列を作った若者たち
その中心になった哲学はヘーゲルだった フェルスターの『哲学の25年』を読み終えた後でも、
私が最初から抱いていたヘーゲルの哲学に対する先入観はほとんど
変わらないな。そのことは、私が物事を考える器の有り様の反映に
過ぎないのかもしれないけど、ゲーテを乗り越えたものとして
著者が提示するヘーゲルの哲学における「理性」の捉え方は、
ゲーテと比べて、はるかに「無自覚に」人間中心主義であるよう
に見える。結局、そこからでてくる考え方を現実に「適用しよう」
として出てくるのは、マルクスの共産主義的な理想像の規範化
と大差ないものになるのではないか。そのことは、ヘーゲルの
哲学についてこの著者と共通するような理解をしている人々に、
例えば、現状の環境問題/エコロジーなどについて語らせれば、
具体的に明らかになると思う。 ヘーゲルよりゲーテが好きな日本の独文の伝統に忠実なだけかよ 『哲学の25年』のp.507に数概念もしくは単位概念についてヘーゲル的な
捉え方をするとどうなるか、その図示があるけれども、この図は、
ヘーゲルの哲学の「形式」を説明するのにとても役に立つのではないかと
思う。形式的に捉えた場合、ヘーゲルの哲学において最終的に到達して
そこから「現実」に戻って来るべき「理性」とされるのは、そのように
無限に数えられたときに単位として数えられる数とその全体という
ことになるのではないか、というのが、本書を読む前からの(そのような
明確な図示としてはイメージしていなくても)私の先入観に基づく印象だ。 この図示のような、数概念もしくは単位概念を隠喩として用いて導かれる
形式的な「理性」の最終到達点というのは、単位と円周率π(ぱい)の
表裏の関係、矛盾した言い方になるが、「円周上の点としての単位」
ということになるのではないか。円周上の点に大きさはないので、
理性が単位のように働くものであるとするなら、決して最終的に点と
なることはなく、言い換えるなら、円周率が「理性」/"rationality"
として割り切れることはないのだから、単位において用いられる
円周率は、それが現実の物事を測るのに用いられるなら、絶対的な
到達的において得られたものではなく、いつでも暫定的な便宜上の
近似に基づく比によるはずである。 つまりは、「理性」を現実に適用しようとするなら、それは絶対的な到達点
という優位を確立した視点からそれを行うことはできず、絶えず生じる
「出来事」として与えられる現実を記述するのに、その都度、好適である
「尺度」に依るほかなく、その必要に応じて求められる「尺度」により、
これまで当然のものとして適用してきた別の「尺度」を考え直すことに
なる。その尽きることのないプロセスにおいてこそ、理性の働きがある
のであって、その「理性の働き」は、どの時点でも、最終的な完成形態に
至ったなどと幻想したとたんに停止してしまうのである。 ヘーゲル左派の著作が面白いのは、自らが生きている現実を記述しようと
して、その言語表現が多様で活き活きとして豊かであるからであり、
それに対して「ヘーゲル哲学」とされる哲学の言葉遣い(私は、ヘーゲルの
著作そのものは読んでいないので、その全体像は知らないが)は、あまりにも貧しい。 ヘーゲルの著作の文章って訳書で読んでも、ものすごく難しい。
精神現象学と哲学史講義しか手をつけてないけど。ほんの最初の方しか読めてない。 例えば、ゲーテの著作には、明らかに「諦め」を通過するという経験が
反映されているだろう。ヘーゲルの哲学に「諦め」はあるのか。 権力への意志ってニーチェの著作にあるけど、
ヘーゲル哲学自体が権力への意志のような印象を受ける。 訳文でしか読んだことがないが、ヘーゲルの文章からは執念深さを感じる。 ヘーゲルの自然哲学に興味がある。
ヘーゲルの時代までは文系/理系の区別はなかったのだろうな。 >>977
> ヘーゲルの時代までは文系/理系の区別はなかったのだろうな。
いや、あった
ヘーゲルやショーペンハウアーが「理系偏重」を批判してるのを見ると、当時からそういう考え方があったのが分かる 偏重批判をしていたのに自然哲学についても著しているのは偉いな。 自然哲学といえばシェリングだけど、それとは違うのか >>980
シェリングって自然哲学についても著作を残しているのか。
知らなかった。
物自体は認識できるっていう発想からどんな自然哲学を展開していたのか、
ちょっと興味あるわ。 ヘーゲルに関しては法の哲学、哲学史講義、歴史哲学講義、精神現象学、
エンティクロペディー、キリスト教とその精神の運命は持ってるけど、
自然哲学については持ってないから、ヘーゲル全集のやつに手を出そうかな・・ >>982
> シェリングって自然哲学についても著作を残しているのか
シェリングはもともと、初期にはスピノザやプラトンに傾倒し、自然哲学の哲学者として活動を始めた
> 物自体は認識できるっていう発想からどんな自然哲学を展開していたのか
それは後期の思想だから、ちょっと違うかもしれん >>958
神が自己否定し、自然を創造して自己還帰するっていうのは興味深いな。
ヘーゲルの自然観について知りたくなる。 シェリングの自然哲学といえば「有機体」
急速に進歩する生物学を、哲学に取り入れたことで有名
20世紀の分子生物学(DNA理論)をもとに「差異と反復」を書いたドゥルーズに似てるかもしれない
ドゥルーズと同じく、科学の専門家からはしばしば批判されてきた となると、シェリングの自然観は、
機械論的自然観と有機体論的自然観のうちの後者っぽいな・・ >>987
連投でいいっしょ。
俺が挟んじゃうかもしれないけどw それにしても、ヘーゲルとマルクスの関係を論じてる日本の学者って
めっちゃ多いよな。どの人が優れているかは正直わからん。 >>988
> となると、シェリングの自然観は、
> 機械論的自然観と有機体論的自然観のうちの後者っぽいな・・
そう、前者の代表がデカルトで、後者の代表とされてるのがシェリング マルクスからヘーゲルへと遡行する人が多い
昔の哲学青年はみんな一度はマルクスにハマッたから仕方ない 現行世代のマルクススポークスマンはヘーゲル完全スルーしてるから、ヘーゲルとマルクスの関係についての研究は、日本ではたいして更新されてない
昔のテンプレ問い直せば若手でもチャンスあると思うんだよな
セクト系マルクス警察はだいたい滅んだし セクト系のやつら、今読み直すと全然たいしたこと言ってないから武力が怖かっただけとわかる >>983
エンティクロペディーに自然哲学が入ってるから、それで十分だと思う。 >>993
ヘーゲルとマルクスといえば、黒田寛一。 >>994
次スレでは、ぜひそこを具体的に展開してくださいね。 だからまさに黒田寛一みたいなのがゴミの典型として考えていた
こぶししょほうの出版は偉いがリーダーは心底どうでもいい 牧野紀之がヘーゲル既存訳ボコボコにしながらドイツ語参考書の関口信者にとどまってるような残念さがセクトにはある >>998
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