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悟りに近づくために9 [無断転載禁止]©2ch.net
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0002Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/04(土) 15:03:10.400
もの、と、関係、とがある。事実どうしがどういった関係にあるのか、自分の中のどの部分と別の部分は、なぜ関係される、あるいは
いったいそもそも、関係があるのか、と考えるのである。個人と言うものは、自分で知っていることに対して責任感を持つ。
知っている、すなわちそれは自分の中のどの部分かが、産んでいるものだ、ということである。あるものとあるものの
あいだにある関係を、知ることこそ大切である。それが、独創性である。そして、アイデンティティというものが、
みなしという信念であり、妄想をおおく孕んでいるということに注意を向けなければならない。不安こそは、治癒可能な
物である。不安は完全に病的であり、癒せない不安はない。そのためにこそ、関係を理解して、ものとものとの関係に
対する洞察を持たねばならない。
関係は、事実とはまた違っているが、事実どうしの関係という意味を解明できることのできるものが、知恵の所持者であるといえよう。
事実やものといったものが、単語で言い表されるにしても、言葉の使い方として事実叙述は偏っており、関係に目を向けること
のほうが、より意識的にするべきであり、意識的に考えることの多くをそれに使っていくべきであると考える。
他者との関係は、感覚に依らねばならないが、自分の体験の記憶の間の関係は、それゆえ他者には観測されないものなのであり、
そういういみでは個の能力と自由、そして、権利的な、ものである。人にやり返すことは、自分が嫌になって不満を抱えているからで
あるが、外に解決を求めても、大した成果は得られないのは、当たり前である。自らを裏切ってほしいという鬱々とした怒りは、
根源的であるが、解決するには、自己の中の関係を一新した能力的な自己力の向上が必要で、それがなければ、新たな自分を
もたらすものはないのであろう。
0004Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/04(土) 20:56:13.240
>>3
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』には、「一 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」と書いてありました。
そして、「二 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である」
そして、「二・0一 事態とは諸対象(もの)の結合である」

つまり、もの→事態→事実→世界と、さかのぼることが出来る。だからこそ、僕が書いたような、「関係」という操作
が行なわれることによって、ウィトゲンシュタインのこれらの述語を、より明確に位置付けることができるのだろうと思っている
のですが、言葉と思考の不一致について、どう考えていくべきなのかは、よくわかりません。言葉とは、記憶媒体であり、
無限であり、思考とは行為であり、有限である、という区別が本質的であるような気がします。つまり、自由である記憶媒体
を、部分的に再現している脳において、関係性のショートによるサイクルが、無限性に達することが出来るのである
かもしれない、と思います。つまり、時間の流れが、人間に与えられている最大の枷であり、逆に可能性、能力である
ということ。切なく、また感傷的に喜んだ気持ちになりますね。
0006Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/05(日) 11:30:53.160
>>5
乏しい知識からの妄想です。言葉には本来的に本質が現れる。つまり、来歴を想像すると、ものは神が作ったものである。
あるいはまた、ものが神である(八百万の神)のかもしれない。もののけにも神的なものがかかわっているのか。
原因がわからないことは、原因を形相化する。葛飾北斎の描いた六条の御息所の絵などは、心に直接に訴え
かけてくる。
ということで、ものは形相を与えられる。だが形相の与えられていないものが、特別な意味を与えられ、何か特別な原因を
含まされる。音声的であることが、意味があることイコールであり、同じ音が同じ意味を持つ。答えを与えるということは、
答えを探ることと同じことである。端緒がつけば、それは存在する。
イメージは、客観的である心の像として、こころを支配する。音とイメージは、それぞれ人間と神を代表する。
形相の区別が、全てのイメージに存在する。判然とはしなくても、主体性の現れである音声は、イメージとはまた
違った関係を表している。
日本的なものはもののあはれとして言われるように、漠然としたことが本質を語る奥義になっているようであり、美というものが、
存在性と、存在する価値の存在を、一言で表すために用いられる。

まとめていうと、答えを導き出すためには区別することが必要であるが、日本語の特徴は、区別をあまりしないことである。
だから、区別をしないというやり方の、特徴は、美の概念に個人を解消するようにしてあり、答えを区別しないところ以外には、
日本的な概念のよりよい未来は、展開していかないのではないかと思われる。
0007考える名無しさん2017/02/05(日) 18:35:33.520
モノは形か?
モノは事か?
モノは理か?
モノは素か?
モノは美か?
モノは意か?
さてどうする、
0008Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/06(月) 17:11:10.420
>>7
モノとは、あるかたまりだ。かたまりになることで、個性が生まれ、形、事、理、素、美、意というようなまとまりになる。
世界から切り出した部分、あるいは考えたところの概念、自らというものの理解範囲、などである。
かたまりを使うことで、周囲の理解と、自己理解ができる。フォースに近いかもしれない。モノというのは、一種の
マジックワードである。実体が、現れたり消えたりする。

モノを使うには、直観が必要である。モノにおいては、論理はさほど重要ではないのだ。自由で大きな思考が出来る。
ミステリアスである、直観とは。それがあるからこそ、そこにこそ生きる意味がある。従ってばかりではないのだ。
自分でできるということだ。
0009考える名無しさん2017/02/06(月) 23:22:38.730
モノを基準にモノの世界が作られるとき、モノを塊りとしている素が別のものに
置き換えられても塊りとしての原理が元を完全に代行していれば
おなじモノなのか?

たとえばアルミのネジをステンレスやチタンのネジに置き換えたとき
完成したその機械が同じように動いて仕様を満足させた、
それは同一のモノなのだろうか?

ならば人と人ならざる素材で人と同じ働きを完全に模倣したとき。
0010Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/07(火) 12:09:49.500
>>9
自発性ということが、人格、人間の、同一性においては、重要な点であると思います。死者の部分、ホルマリン漬けの部品が
生きてはいない。生きているとは自発性があることだと思います。脳死などについて。自発的な行動においては、
そのメカニズムが完全に証明されていなくても、他者にとっては、その人物を信じることが出来る。
代用できるものは代用すればいいのだし、代用できないものはできない。それは、実際に行えばわかるようなことだと思います。

自発性のないものは、もう死んでいるもの。どんな小さな自発性であっても、それがあるものは、生きているもの。
明確な区別は難しくても、完全性を求める必要は、僕にはない。完全性を求めるべき場面では、それを求める人もある。
0011Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/07(火) 20:03:40.200
脳の働きを止めることで、不安や怒りを客観視できるようになる。客観視で得られるもので大切なのは、多くの、大きい、確かさ
なのであり、自明性の喪失という心的状態に陥るということは、ある思考の、必然的結論が、わからないでいるままに、色んな
ことを考えてしまうということである。少し余裕を持てば、この感情をもたらす思考が、一体どういう方向へ向かうのだろう
ということがわかるのに、予感に、気づかないままに、色んな思考をさまようことになる。もちろん、持論の未来を知るなどと
いうことは、どんな人にとっても簡単だ、などということはあり得ない。大変に、高度な察知ではある。だが、感情と予感は、
感じているのに放っておいたら、いつまでも、無意識的な枷をつけた状態からのがれられなくなる。

だから、脳の働きを止めることで、その働きを引き起こしている持論、また気分的な予感、を考える余地が生まれる。
そのようにして、自分にとっての感覚を、コントロールできるようになる。これが、自己能力の発達である。

多くの思考において、自分自身というものが、最大の障壁になる。自分自身というか、自明性を失った状態の時間的堆積と
いったものである。頭を悩ませられて、見えないわけでもある。少し感じた限りで、快=不快という、何かに気づいており、
さらにそれ以上の展開が分からない、といった人は、そのきっかけにしがみつく。耽溺する。そして、感覚だけが残る。
時間が切れる。

死への恐れは、脳の停止への恐怖である。生きている状態で、脳の停止を経験したものにとっては、その恐怖も類が見えており、
恐ろしくない。

こういった、勇気を与えるもの、自己を食む蛇をしりぞける実践、時間感覚をうまく使えるようにすること、予見、といったものを
得ることのために、脳の停止と、予感の思考化を使っていけばよいのであろうと思われる。
0012Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/08(水) 16:41:08.770
中心においては、場所が指定されるということに、おそらく間違いはない。そして、その周囲には、広い個所に力を広げるための、
円状の意識が広げられる。場所を指定しておいて、より広く取り扱うためにそうする。こうした意識を持つことで、場所と内容という
二つのものを取り扱える。この意識モデルは、記憶やイメージ、身体感覚、呼吸の方法などに応用されることができるだろう。
最も重要なのが、呼吸に関して行なうことだ。息を吸い込み、横隔膜を広げたり狭めたりして、吸気をポンプさせる。
この自由こそが、意識の自由と、身体の自由の中で、最も身近で、頻繁に繰り返される、原始的な事である。呼吸では、周辺と中心
が融合している。
0013考える名無しさん2017/02/09(木) 03:15:43.400
機械的な仕組みとしての働き、たとえば電子の物理的挙動について
それらが連鎖して系としての働き、たとえば熱の集合的挙動について
後者には未知の余地があるが、前者には未知などなく決定されていること、
後者は決定的にデジタル的な結果として計算し、前者は必然的に答えをアナログ的に近似する、似ているが違うものだ。
それは時間という概念の中で繰り返すそれが無限ループから抜け出せない単純反応ではなく、誤差が蓄積され
エントロピーが増大し計算が収束しないという決定的な増大性質を示す。

決定していないからこそ形が計算しえない形の高次元解釈を作り出す、
それは低次元の底からみた計算では説明しえない原理が生じるということ。

モノが更なるモノとして集合を底辺原理とする高じの集合模様を作り出したとき、
そのモノは底辺から見た精神世界かもしれない、そんな世界を底辺の理屈や論理で説明できるのだろうか?
「たとえば神とは何ぞや?」これを説明するということだ。

モノが形を成すとき、形が生み出す他の形との関係はモノより下の原理で理解していいのだろうか?
つまり、物理学などの学問の説明で生命や倫理、人間の定義を語って意味がある結論がだせるものか出せない類かという問いがあるはず。
汝はその答えを出すべき。
0014Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/10(金) 20:57:05.050
>>13
>底辺原理とする高じの集合模様
ピラミッドを連想しました。

自分にとっての意味、自分が作る意味というのは、まず集中力こそが大事になってきますね。そして、間違いで埋もれてしまわない
ということが。だから、自分で考える時には、「待つ」ということが必要になってくるのだと思います。自己の表現においては、
ある記述の途中には、記述に向かってしまう。そして、それは道を作る。その前に、すべきことかどうかという調査が必要になる。
だから、自分にとっての未知的なものに出番を与えるためには、待たなければならない。それは、作家のインスピレーション
のようなものです。
>決定していないからこそ形が計算しえない形の高次元解釈を作り出す
決定していないということを、もたらすための、「待つ」です。自己と言うものが、高次のものも、低次のものも、両方必要で
あるということから、ただ一つの絶対に、凍り付くということは、難しいのです。でも、チリ一つない黄金の頂上、それに対する
希少性が、高次の素晴らしさを言い表すでしょうし、天使の羽は、高みを指すアイテムです。
0015考える名無しさん2017/02/11(土) 01:13:42.460
>高次の素晴らしさを言い表す
果たして、すばらしいのだろうか
0016Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/11(土) 06:56:59.620
>>15
そうですね、ピラミッドの頂上が素晴らしいというイメージを感じながら、そう書いたのですが、
無限後退に陥ってしまっている。
希少なものは素晴らしい、高次は希少だ、だから高次は素晴らしい、という論法でしたが、そもそも、どこに注目して、
底辺であるかと定義することが難しい感じだし、僕の考えの中では、黄金という形容に無理があったかもしれません。
そもそも黄金の価値とは、美しさと希少さにあり、絶対的なものではない。
だから、それを頂上におくことは、ヒエラルキーの権威付けであるのであって、黄金自体の価値が増えるわけではなく、
黄金自体の能力が増すわけではなく、黄金という存在と人間との関係性を、高めたものでしかない。それを普遍的に高いと言うには、
つまり、他の価値体系において通用する存在に高めようとすれば、王水によってしか溶けないといったことのような
ことを持って来なければならない。

複雑なものは乱雑でない。つまり複雑な高次は、乱雑ではない(エントロピーが低い)。
ピラミッドの上の方が、より石数が少なく、だんだんと出来上がっていく。上の方が、見はらしがよい。それゆえに上に価値あるものを
おく。そして、ピラミッドの内部に、棺をおさめる。重力に関係がある。
0017考える名無しさん2017/02/11(土) 18:28:31.000
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詳しくはHPをご覧下さい。
0018考える名無しさん2017/02/12(日) 05:09:15.920
>無限後退に陥ってしまっている。
孤立系(熱力学用語)では一定の秩序に収束し、開放系では秩序らしきが普遍のように
存在してもその先は無限の次元をあらわす一瞬の刹那にすぎない。
どちらの世界の住人に属するかの選択ではなく、両者が対称性の関係性を
示さなければ、神のような主体意識が必要になるように見える。
真実は1つだが、真理は1つか?無限真理という次元性をもつなら、
我々の次元からそれを確かめるのは困難ではないか、1つなら1つの
次元で考えればよい。
見えざる、掴み得ない次元の真理は当然掴み得ない、故に否定しても良かろう、
1つの真理だとすれば、その真理は実につまらないものでそれを知ったとしても
何の意味も何の未来も掴めないのでは?と問う、
我々の想像力は有限であり、決められた範囲の時間で存在している、
故に想像力の本質は無限であっても、有限思考原理に支配される
思考ではない領域へ飛躍できる能力が無いわけではない、ただ思考と創造と知識と言葉と論理と
いった形によって呪縛されているだけである、決して何にも縛られない
思考ではない領域にしか本質へはたどり着けない、人が見るゆめうつつ、妄想といったもの
それらは決して計りえない具体化しては形骸化してしまう領域では?
0019美魔女2017/02/14(火) 20:36:38.310
自己の源泉と自己の力とを
良心から得る。

様々な限界に面し決断を為す。

真であるものを自ら語る深い心が隠ぺいされずに純粋に保たれる処では心は過ちをすることは無いよ。

でもそんな私の心はあらゆるものに眠り込まされています。

それでも現実に私を世界内で示してはならないんだなぁ。

と同時に沈黙により防御しないといけない。
0020学術 ディジタル アーカイヴ@院教授2017/02/14(火) 22:14:33.410
全力疾走で世界レコード出したときでしょ。
0021美魔女2017/02/14(火) 22:17:02.100
    
    
最近、天啓の如く悟りました。

哲学は元来めちゃめちゃです。

でも

それでも私は

立ちションこそが健康を維持する最上の方法であると学びました。


.
0022美魔女2017/02/15(水) 00:11:50.880
知識や対象では無いはずのハイデッガーの実存論的分析論が知識や対象になってしまうのは
めちゃめちゃですよね〜☆
0023美魔女2017/02/15(水) 00:15:41.790
プルトマンの「科学的思考に於ける世界の統一には科学的思考そのものの統一が適合する」
と言う言葉は真理とは反対ですよね〜☆

元来めちゃめちゃよね(☆∀☆)
0024考える名無しさん2017/02/15(水) 02:09:22.310
知で思考する美魔女は非知につぶされる、
非知識、非知恵、非言語、非論理
貴方には届かない、なぜなら拒絶しているから。

科学を追うものに非科学は扱えない、科学で割り切ろうとするそれが真理だ、
知識に支配された奴が知識以外を信じることなどできない、それも真理だ、
ならば、科学の入れ物に閉じこもり、知識の入れ物の中でのみ暮らせばいい。
その外側など存在しえないからだ、それが真理である。

あげるな危険
0025考える名無しさん2017/02/15(水) 02:19:55.350
>>23
私が思うに本当の未知と遭遇したとき、
そこに学者も劣等生もないのだと思います。

そこにいるのはただの人間です。

よって私は皆に等しくダイアグラムを授けることにしたのです。
予期せぬ状況に何もかもが吹き飛んだとしましても、
このダイアグラムだけは貴方の手元に残るでしょう。

by 鼎 梯仁
0026美魔女2017/02/15(水) 03:15:35.630
>>24
貴方は誤解です

私は逆説と背理とパラドックスを背景にして話しています。
0027美魔女2017/02/15(水) 03:16:21.570
>>25
先生出てきてくれて嬉しいo(^o^)o

いつも爽やか
0028Parama0002017/02/15(水) 08:27:21.770
悟り=禅の創作

解脱 → 梵我一如=智慧ある者が生まれる
0029美魔女2017/02/15(水) 13:46:30.570
>>25
ダイアグラム欲しい欲しい!⤴
0030美魔女2017/02/15(水) 14:34:32.550
>>24
私の本質の自己を主張することもできないし現すことも見せたり図式化したり知識や記号化することもできないので

疑われやすく

それは非真理とされるし

そこで私は心理学のように「いたらなさ」
として恥じることになります。

私の自己の本質をひとつの目標として扱うこともできないし

私自身と皆さんの前では私自身のことを沈黙することが最も深い内面の現象です。
其れが破られると私は恥じるのです。

その恥じることが現実の中で貴方から色々言われることとか現実の不真実なことからの防御です。
だから知識では無い根底を持ちながら
人に話す時は知識で話すのです。

それと下ネタ禁止でお願いいたしますo(^o^)o⤴
0031美魔女2017/02/15(水) 15:46:17.510
>>21
天啓ですか悟りですか

…哲学は根本概念とかだけど私のは概念の含まない感じかなぁ。

波動みたいなぁ。

先生のは高級感があるからインスピレーションからかなぁ?
0032学術 ディジタル アーカイヴ@院教授2017/02/15(水) 16:27:34.450
ランスピルレーションじゃ。ファーサイドじゃないけど。
0034Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/15(水) 16:44:08.910
自分の表情を普通の状態で認識できるということが重要だ。インディアンポーカーをするというような状態になってはいけない。
自分の表情と自分の感情が一致していなければ、そういう賭け事のような緊張感にいつもさらされているということになる。
表情を把握していれば、行為や行動において、自分がするべきことがわかる。自分の人生を自分で積み上げていく
ことができるのである。自分の表情を、代弁されることほどつらいこともあまりない。ようするに、お前、チャックが開いてるぞ
と、なんども言われるような屈辱である。自分で自分の表情が分かる、とは、自分の気持ちと表情が一致しているということだ。
そのとき、自分の存在自体が理解できて、理解できない物事が、少なくなる、すなわち、理解できることが多くなる。
知識の欠陥なども同様である。自分で理解できていると瞬時に思える事が多いほど、生きていくうえでは、自分のするべき
ことがわかるのである。理解できないことを勉強すればいいのであって、理解できているかどうかよくわからないことを勉強
することは、指針を間違えがちだ。
0035Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/15(水) 16:45:19.270
   (34から続き)

何もかもバカらしいと思っているなどということも、持論の一つではあろう。別にわがままを言っているわけではない。立派な人
であれば、自分だけが正しいと思ったりするであろうか。人の気持ちを、探って、代弁して、やっつけるというようなことを、
するのが、人であろうか。人は、集団的な合意も作って、説明責任を果たすことをすべきではないだろうか。
自分の表情を持っていれば、いい悪いの判断を自分で下すことができるし、
自分の持ち札が分かれば、自分の説明をできる。自分の責任をコントロールできる。全てに見放された人に、自分の
表情を与えよ。公正なルールの下にあること。自分を侵されないこと。自分とは代弁されていてはならない。
代弁されないために、自分を持たねばならない。今は、自分の表情を考える余裕がなくても、自分の表情は自分のもの
であるということは、何によっても否定されないのだ。こういうことを考えるのも、自分の表情を無くした悲しい人生が
続いたからであり、今は違うからなのである。外に求めず、自らに求めるという普通の事をする。過去の無念を朽ちさせる。
私の主観は全て客観性につながっており、私の客観性は、主観的な意見である。自他の分裂は、一般に思われるほど、
自己像において決定的ではない。というのは、自他の両方に実質があるからである。
0036学術 ディジタル アーカイヴ@院教授2017/02/15(水) 16:48:38.450
底底。
0037学術 ディジタル アーカイヴ@院教授2017/02/15(水) 16:56:40.150
実存的には高高。
0038考える名無しさん2017/02/16(木) 00:19:47.260
美魔女は最高、一度も嘘をつかないし、事実と真理だけを語る神の代行者
0039美魔女2017/02/16(木) 00:28:03.450
>>38
(*≧∀≦*)キャハ⤴

ありがとう❤
0041美魔女2017/02/16(木) 04:11:18.830
美魔女はこう言っているっていう短い引用は意味が無いのです。

別の文脈では違うことを語っていることもあるからです。

ポイントはどんな文脈で語っている言葉なのかが大事です。
0043美魔女2017/02/16(木) 11:04:46.590
>>42(*≧∀≦*)キャハ
0045Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/17(金) 23:30:56.050
私は、私でなくてもいい。私を私にするものなど、存在しない。ある要素の組み合わせとしての、物体であるということであり、何も自分
を自分足らしめず、自分が特別には存在しない、と考えたいのである。私に似た人間は多いだろうし、私が生きているということ、
そしてその主観性の絶対感を、大事にしたいとも思わない。
話はそれだけではなく、もっと心が軽くなるような発見もあった。それは、特定の他人を特別に認める必要さえないということだ。
ある不快感を他者に抱いたとして、それを良く考えてみると、その他者と似た人間は、またたくさん存在しているのである。もっと言えば、
多くの他者の代表として、ある知人がいるというわけである。こう考えると、考えに詰まることなく、さまざまな関係を、心理的に
受け止めやすくなるはずである。これは、少し飛躍した考え方であった。こう考えると、自分も他人も特別ではないのだから、
結局のところ、特別な人間とはないことになる。ただ、少しの条件資質が変わるだけなのである。
そのように、特殊性から普遍性へと変わることにより、考え方が自由になり、視野も広がるわけである。そういうことを考えたうえでこそ、
可能性の探索の人生も生まれるのである。
0046考える名無しさん2017/02/18(土) 14:12:09.520
私は私であって、私ではない、されど私ではなくなろうとしても私なのだよ。
主観性は絶対的であって絶対的ではないのだよ、大事であって大事ではない。
他人は特別であって特別ではない、特別な人間を否定しようとするとき
それは特別になるのだよ。
特別じゃないものが特別なことをしてはいけないわけでもなく、特別じゃない
ものが特別なことを出来ないわけでもない、世界を司る秩序がそれを決める。
0047オビト2017/02/18(土) 16:16:26.480
俺は誰でもない。

誰でもありたくない。
0048オビト2017/02/18(土) 16:34:36.480
気まぐれであり計画であり

戦争であり平和であり
0049なると2017/02/18(土) 21:51:44.250
おまえは駄目、明らかにだめ、

なぜならお前自身が自分を駄目だと気が付いているから、
おまえが駄目じゃないと願望を持っているから間違いない。
0050考える名無しさん2017/02/18(土) 23:38:00.38O
現代哲学人がどうやって生活していけるのかという素朴な疑問
0051考える名無しさん2017/02/19(日) 00:56:29.92O
思い出が美しすぎたわボケw しね おれもしぬ
0052美魔女2017/02/19(日) 03:25:55.890
>>50
一番いい質問ですね〜⤴

究極的に現すことが不可能です。

職業でもないです。形にして理想でもないです。
直感的なものでもないです。

何者か聞き取れないので経験する為に世界の中に入ります。

知識欲からしてすべてのものに気を注ぐ。

科学技術にもね。

哲学者とは本当の自己に成ろうとする人

そのことにより空間と広がりと可能性を見るよね。

現実に形式化もできないので
自己を見失わない為に
節度と人間性を大切にしますね。

そしてもっともっと先へと考えることは危険であることも知っています。
0053考える名無しさん2017/02/20(月) 02:52:10.310
>節度と人間性を大切にしますね。
なことは、言うだけ
その本質が何かを気がつけない奴は上辺だけ
自分にとって正しければ他者にとっても正しいとミスリードしてしまうからだ、
形式化を掴まずに、具体性を掴まずにどうすればいいのか知らずに
掴み得ないものを掴もうとすると、貴方の言う危険へつながる。
0054美魔女2017/02/20(月) 19:36:18.070
>>53
そこは深い真理ではなく
浅い真理で
0055考える名無しさん2017/02/20(月) 19:37:45.990
 . ∧_∧ おおっ
  (´・ω・)
  O┬O )    キキーッ!
 ◎┴し'-◎ ≡
         _____
         (\  ∞   ノ
         ヽ、ヽ美魔女  
           `ヽ)⌒ノ
              ̄
   _____
  (\  ∞  ノ
   ヽ、ヽ美 lヽ,,lヽ
     `ヽ)__(    ) )) クンクンクン♪
        と、  ゙i

          :∧_∧:
         :(;゙゚'ω゚'): ピクピクッ…
         :/ つとl:
         :しー-J :

         . . .   . .
        :<⌒ヽ--つ: バタンッ!  即死 ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
        .<__つ_つ
0056美魔女2017/02/20(月) 20:16:25.500
>>55
……
0057考える名無しさん2017/02/21(火) 00:10:11.210
神経系が反応を示さなくなって、限りなく脳死に近づく
悟りとは結局、無気力障害に過ぎないのである
0058考える名無しさん2017/02/21(火) 02:19:42.200
金正男て、実は女だったんだよ。
<<55
そのとおり、くんくんしたら脂肪
0059美魔女2017/02/21(火) 03:09:14.490
>>58
……
0060美魔女2017/02/22(水) 11:59:26.320
始まりあるすべてのものには終わりがある。
0062美魔女2017/02/23(木) 00:09:51.580
>>61
たけし!バンカーよバンカー!


これ違う!木のやつ〜


(刑事物語)
0063考える名無しさん2017/02/23(木) 16:51:42.290
>>62
美魔女の頭に小さいハゲを発見、これ?はげ!なの?
どうしたの?
0064身心脱落2017/02/26(日) 07:29:47.860
悟りが理解できないやつは、悟り(意味)の反対、

すなわち反意語を知りたまえ、反意は意味の裏側であり

その反意語を正しく理解しそれを否定すれば正意味にたどり着けるだろう
0065Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/26(日) 18:06:03.080
理性が闇を払ってきた歴史。例えば、ある他人と同じしぐさをしてしまうとする。それで、その人があまり感じが良くない人の場合、
嫌悪感が起きる。だが、その背後にある事情を考えれば、まったく違う原因に起因していることであって、別に気にする必要は
ないとわかる。例えば、努力をすることの動機は、さまざまであり、何を努力するかということに、クラス分けした場合、
当然似たところは見当たるとはいえ、完全に同じ状態を辿ることはない。これは、迷信などに対する態度としては、
中々に強力であると思われる。安心して、努力にまい進できる。

光の闇に対する優位性を、哲学の結果として手に受け取る。しかし、闇の状態は、いつも人間に対して、半分はあるものである
であろう、本来的には。そのため、迷信に対する態度も、問題として再浮上してくるわけである。そのように、色々と
努力できるということはあるにしろ、それが水泡に帰すということもある。というわけで、なにがしかの枷は、受けることになっている。

そして、様々な人が歩んだ道の数だけ、光も闇も経験される。そして、身体の中の光と闇の具合を、光に向けることで、
自分が成長する。このように、自己の独自性への自信と、努力しているという精一杯の個人的事情の中での行動、
これらは、親和性が良く、世間に対して引け目を感じるような事も少なくなる。だから、誰もが傷つけあうことなく、抑圧
することもなく、劣等感を乗り越え、休息の流儀を手にすることもできるはずである。
0066考える名無しさん2017/02/27(月) 04:08:00.150
己のあるがまま、道を進みたまえ、
正しい道は正しく進むとき刻まれるもの、

進めないのは正しくない、闇に向かうものは正しく闇の道を刻み、
光に向かうものは正しく光の道を刻み道とする。

前が見えないのは自分の刻んだ道が正しくないと間違った解釈をしているからだ。
進む前に壁なし、壁は己の中にできるものであり壁を造るものは進むことができない。

表裏一体は無限に対称とさせることが正しい、正しい道は欲すれば見えなくなり世界へ告げれば正しき道を与えてくれる、

合唱、自分が進む道があることに感謝せよ
0067Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/27(月) 14:32:02.290
まだ頑張れるのに怠けているということは、人に非難されることになる。では、頑張るとか努力するには、どうすればいいのか。
簡単に答えが出せることでもないはずである。
一つ考えたのが、注意を払ってものごとを考えたり、存在したり、行動したりすることである。
自分の心の働きによく注意を払って物事を考えれば、よりよく物事を捉えることが出来るであろう。
呼吸に注意を払えば、呼吸機能をより高められるであろう。
瞬きや表情に注意を払えば、筋肉の緊張をとることが出来るであろう。
作戦に注意を払えば、組み立てる思考が、獲得されるであろう。
以上のように、注意を払うだけで、自分のパフォーマンスは、五割くらいは増すだろうと思える。そして何より、
心の平安をもたらすための基軸になり、他人からの視点が、どこを向いていたのかということに、ある程度は
気づくことが出来るはずである。
つまり、自分のことをすることが出来る、人の中においても、安心して物事をできる、自分の権利を持つべき個所を、
知ることが出来る、といった感じである。
0068考える名無しさん2017/02/27(月) 22:55:18.360
>頑張るとか努力するには、どうすればいいのか。
それは頑張るという力を抜き、日常とすること、
すなわち頑張ると等価な作業が気負いするその唯一の"抜け道"だと自覚認識すればよい。

頑張るのが当たり前と思えなくなった時点でそれは心を縛り大きな壁になる。
日常としそれこそ幸せと思えたとき頑張るという作業は空気になる。
人が頑張って呼吸するのか?頑張って食事をするのか?頑張って排便をするのか?
当たり前なことを頑張るとは理解しえない。
努力ではなく楽になると目指せ!

>以上のように、注意を払うだけで、自分のパフォーマンスは、五割くらいは増すだろうと思える。そして何より、
5割増したあとに、さらにその思考では、さらに5割増しという思考になるだけ
過去のパフォーマンスなど他人のそれと同じである、今たっている自分の姿勢と
歩み行く未来への1歩、それが貴方であって目指す理想においての最適である
1歩を考えればいいだけである、その1歩が苦行であっても避けて通ればもっと苦行になるだけ、
進まなければ目標には至らない。だがそれも貴方の選択だ、自分で納得できる苦行を選び得よ、
自分で選んだ幸せと理解しなされ。
1歩進んだ実感があるなら、それは間違いなく貴方の1歩だ、間違いかどうか
は自分で判断できるよな?
0069Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/02/27(月) 23:45:57.670
>>68
>唯一の"抜け道"
気負いでなく、作業という風に、分析すれば、客観化できる、ということですよね。
すると、「頑張る」同士という間柄で、よきライバル関係になることも、まず自分を先に持っているべきである、と。
そのうえで、何かの信頼感を持てるのであれば持てるし、合わないものは合わない、という結果になるのだろうか。

選択こそが、自分の責任、自分の道。
間違いかどうかの判断、もちろん僕はできる。

理想というものは、僕にはわからないのです。あまりにも、可能性が広がって見渡せるので。疲れない体を、取り戻せたように思う。
それはつまり、楽が身に付いたということでしょう。

組織というような関係においては、どこで何からつながるか、ということは大事なのですよ。それは、努力して頑張っている、
ということが、一つにはあるんですよ。その上に、頭を出せれば、それでいいんですけど、もし、組織の中にいるのが難しい
と思われるのであれば、そういう、ちょっと媚びをうったかのような、認め合い、頑張ったね、っていう関係も、一つにはある。
そして、自分にとって、一歩を踏み出すのも、とどまりつつ足場を固めるのも、どっちも大切だと思うんです。
さて、これからの未来はどうなるか、どういう社会に変わっていくか、何が最終的に現実として残るのか。
個人がすることは、何よりも基本。そして、和の中にいることができればいい。日本という国の力には、実に優れているといえる
ことも多い。

人生において、青春といったものが、あるのだとしたら、それはきっと努力と何らかの関係があるように思います。
だから、理想を求めたり、苦を厭わないことであったりといったことが、自分の輝き時代を持とうとするなら、そういうことが
あるのであろうと思います。
0070考える名無しさん2017/03/01(水) 04:54:31.760
>疲れない体を、取り戻せたように思う。
日光浴とカフェインを完全に絶つだけで恐ろしくかわる。
0071考える名無しさん2017/03/01(水) 13:01:08.100
我ら青春
0072学術 ディジタル shinscake adaniu2017/03/01(水) 13:07:19.010
低レベル調。音韻詩文音楽ならなあ。つかの瞬間のダンスと。

バスケットの ラングレー
0073学術 ディジタル shinscake adaniu2017/03/01(水) 13:39:10.230
パラレル ターニング ポイント ライブハウス・テクノ系 シスコ
レコーズ マンハッタン トル―フ カフェ
はプレゼントの箱。でいっぱいだ。

みなと神戸 午後一時 アフリカンにグロ アワード。
0074考える名無しさん2017/03/01(水) 13:44:39.790
反省
0075考える名無しさん2017/03/02(木) 09:00:03.820
青春ラングレー
0076考える名無しさん2017/03/05(日) 00:02:55.980
ちんこ ぐるぐるまき、皮がのびきってシワシワの万個の周囲
0077美魔女2017/03/05(日) 04:13:48.710
それでは

皆さん御待たせいたしました。

鼎先生どうぞ〜😉
0078考える名無しさん2017/03/05(日) 04:15:51.190
>>77 どぞ

波平「ソフィアのおっぱい飲みたいから、おれの子供を妊娠してから堕胎しろ!」
0079考える名無しさん2017/03/06(月) 11:51:19.510
美魔女が乳牛になって貢献するらしい
0080純一魔女2017/03/06(月) 20:14:48.510
波平さん、たちしょんいっしょにしましょう
0081美魔女 ◆m56q6JyM70mL 2017/03/06(月) 22:01:18.770
なりすましはやめてくださいっ!!
0082Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/07(火) 19:40:04.440
常識というものは多いが、その中でも、最も基本的な事に、「ルールを守る」ということがある。ルールは、自己内にあるものだが、
それは外から取り入れたものであり、外に対する規則であり、「ルールだから守る」ということになる。みんなが守っているルール、
というものには、常識としては、理由なく存在するはずはない。そして、ルールを守る、と自分の意志で決めたことのない人は、
ルールとルールでないことの判別がつかないため、いつまでたっても常識と遠くなる。
つまり、自分の守るルールというものは、自分で理解し、そのうえで設定している規則なのである。
いわゆる、ソクラテスの、「悪法も法なり」というとおりである。
0083Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/07(火) 19:46:39.490
人が自分に対してひどいことを言ったり、したりするとする。それについて憤慨するのは自然である。だが、考えてみてほしい。
はたして、そのひどいことは、自分に対してされたこと、つまり、自分だからされたことである、と言えないか?もちろん、
通常はそうである。
では、それがどういうことになるか。つまり、恐ろしいことが起きるという不安を呼び覚ますのは、自分であるからされたこと
ではなく、それが、無差別に行われた、ということ、すなわち、災害的な危険性がある、という場合である。人が災害を
もたらす危険がある、ということを、身をもって感じた場合、その恐ろしさは例えようがない。
だから、自分に対してされたことである、自分以外の人間にはそんなことはしない、だから自分は同じことをくりかえさないように
気をつければ大丈夫、となった場合、その懸案事項には、解決が与えられた、ということなのである。
世の中で、危険を察知する事以上に、大切なことはない。すべて、危険がないなら、何の憂いもないのである。
0084Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/07(火) 23:38:38.800
>>82 訂正

×常識としては、理由なく存在するはずはない
○常識的であり、かつ理由がないルールが存在するはずはない
0085Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/08(水) 00:10:24.480
>>82 >>84

常識的であり、理由のないルールがない、とはなぜそのようになるのか。
思えば、全てのものには理由がある、と考える。
そうであるならば、理由を吟味して、重要なこととそうでないことを、わけることになるだろう。
個人が利益を得ようとすれば、ルールを改変することにより、自分に都合の良いルールを主張することが出来る。
つまり、価値の低い、益のでない作業を、押し付ける。身分制のようなものか。
だから、それは公平でないとして、理想的なルールを整備する。
この、ルールの整備を、根拠づけるものが、理由である。ルールの理由を明示する義務の必要を提唱することにより、
その理由を吟味して、公正にもとるものを、正すわけで、それは説明がなされなければ、多数の反対をもたらすことに
なり、権力なしでは、その不公正なルールを、保つことはかなわないわけである。その大きな例が、常識的規則という
ことになる。常識は、公正な共同性には必須となる。

全てのものに対して理由が存在することで、人間の行為の、動機及び主体的心的了解性を説明される。
ルールというのは人工的だが、それも、個人の心と身体という人間モデルに備わった理由によって、説明される。
そこには、理由があることと、理由同士が矛盾しないということが必要である。
矛盾がおきるような事態(喧嘩、契約のいざこざなど)は、あらかじめルールによって規制しなければならない。

弱者や少数者という、力のない者たちに対する思いやりを、自然に育てることが、人間教育の上では、必要である。
0086考える名無しさん2017/03/08(水) 03:58:49.270
>>82
ルールは徳ではない、常識も徳ではない、正義も徳ではない。
0087徳を学びたまえ2017/03/08(水) 04:11:29.280
>>85
益は得でもあり、得ではないものでもある。
徳は益であるが、得ではない。
公平と公正は違う、絶対的多数が圧倒的な不利益であっても公正は成立する。
不利益であるからとしても、得が成立しないわけでもない。
絶対的多数が公平を分け与えれば全体としては得が否定される。
どこかに対象性のバランスが極度に崩れるときすべての対象が全体として
不利益を受ける。
個の益が全体の益を損ねるとき個を閉じ込め犯罪者のような不利益の立場になる
それは両者がそれぞれの益や公平や権利と自由を求めるとき、得に傾き、徳が無くなるからだ。
得の対称性の崩れこそ徳の崩壊である、主体概念の公平は対称性を保つ道具にはなりえず、非主体の
公平=徳は対称性を成す。
0088Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/08(水) 16:07:40.280
>>87
もうずいぶん前になりますが、東京で居候をしていたころ、金で手に入らないものがあるか否か、という話になりました。
僕は随分と世間知らずで、真面目っぽい人間だったので、金で手に入れる方法についても、あまり知りませんでした。
だから、話は少し聞いているだけでした。

今ならわかります。金とは手段であり、手段は何かを生み、何かに影響を及ぼすが、その影響は大きくはなく、やがて
消えていくものである、ということが。何を得ようとするかということが、計画であり、計画には、実際の成功において、
積極的に応援されるモデルがあるはずであるだろう、と。計画を立てる心は、子供から大人になる目安。
つまり、計画能力、実践能力があれば、責任を取れるということとなる。

手段自体の純粋性というものは、心の中をきれいにするものでしかない。つまり、徳とは、治める力であり、
純粋とは二次的でしかない。
だが例えば、文学に描かれるような、例えば源氏物語が、「いとやんごとなき際にはあらぬが、
すぐれて時めき給ふありけり」、というのは、美と純粋という、無常的価値を、恒常的にのちの世まで人々の心に
伝えるという目的があったのだろう。

つまり、手段自体にこだわる心(感受心、きれいさ)と、現実を治める能力(力の大きさ、現実的能力)、とがあり、
この二種はほぼ関係のない意味である。この二種を、結びつけようとする考えが、徳である、というように思います。
それは、大勢の人間の中の自分、ということが基本です。沢山のものの中の自分。力が多数あることで、大きな力になる。
大きな力が、どういう風に使われるべきか。これが、計画性というものを、慎重に作っていき、達成しないといけない理由です。
黒澤明の『生きる』という映画で、主人公の市役所の市民課長が、がんの余命で公園を作ります。

あなたが、どんな人生を送ろうとしているかは知りませんし、人生の計画を立てることをそもそもする人なのかという
ことも、わかりませんが、徳を得るという、知識と実行についての一つのあり方から、物事を進めようというのは、
中国などで最上とされることなのですから、ぜひ頑張っていただきたい。僕は、なにもかもやりなおしですが。
0089Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/08(水) 20:54:30.120
音楽愛好者は多い。一つ、頭の使い方として考えられるものを、考えてみた。それは、ぼーっとしている間に、頭の中に、
自然に思い浮かべる音や音楽を、大音量で流すことである。思いつくメロディーで、リズムということを気にせず、感じるままに、
自分で音を思い浮かべるのである。すると、言いたいこと、考えたいこと、言葉、思考といったものの原型が浮かぶのである。
すると、自分で押さえてきた思考や、外部からのストレスに押さえつけられてきたものが、表出される。そのように頭を
使ったら、ストレスの減った状態に至ることが出来る。脳の運動としては、上々であろう。
0090Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/08(水) 21:17:26.780
様々なイメージが、自己の思考における欠陥として、私をずっとさいなみ続ける。私は自分が悪いのだと思い、それらのイメージ
から逃げ続けた。もう十分に逃げたのだから、自己を置きなおしてみよう。イメージは、黒板消しのように消せる。イメージを
拭きやる。そうすると、自己は新しいものへと、頭を使うことが出来る。過去に囚われていては、何もなしえない。だから、自己を
甘やかし逃げさせる悪い癖ではなく、そのイメージが浮かぶという自己をしっかりと掴まえ、対峙せねばならない。
そうしたうえで、これからの生を、追いかけ、未来に生きることが、正しい生き方に他ならないではないか。自己に勲章は
必要ではない。ただ未来だけ、未来に生きる生き方だけ、そんな単純な方法のみによって、自己への誓約とする。
私は私である、私の持っているものをすべて使って、私自身を正しく持とう。そのこと以外には、私と言うものは、
少しもなくていい。
0091Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/08(水) 21:43:59.950
思念とは能力の断片でもある。思うことが出来るなら、自己に思考能力があるということなのである。体は、使わなければ
衰える。だから、使えばまた能力を取り戻す。どのように使うことが出来るかというと、感覚への意識を取り戻すことだ。
首の骨をひねった時、首の筋肉の感触が生まれる。その感触を意識していることで、感触に直結した、使用をしている
ことになる。そのように、全身において、感覚自体をえるということが、身体を使うということの基本であろう。
思念は、悪いものといいものがあるが、悪いものも、習慣的におかしくなるまえの状態はあり、危機察知というものに引きずられて
いるゆえに、他の思念に悪い影響を及ぼして、脳の使用を妨げるものになってしまったのである。それを、良い方に向けることが
できる。先ほど述べた、自由な音、イメージ、触感の解放である。抑圧からの解放を、身をもって感じられるなら、それが
自己の自由を、理論的にも、感覚的にも、取り戻すことが出来たということである。
0092Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/08(水) 21:58:18.310
自分には荷が重いことがらを、他の能力を使うことで、解決しようということが、後々に自己に災害をもたらすことになる。
つまり、自分の感覚によって、知ったことに他ならないのに、それを、思考によって、ごまかすということがいけない。
自己のするべきことは、自己を得ることである。そうでなければ、個人はない。考えと言うものが、指令を出し、まとめ上げる
ものなのだとすれば、まとめ上げられるほうの感覚を、うまく意識できないとき、適切な指令は出されない。この、適切で
ない司令とは、自分に荷が重いに他ならない。できないものはできない、とはっきり区別するべきであり、なんでもできる
気持ちになるのはいけない。
感覚を磨くことが、一番の基礎であり、感覚の存在意味は、不快が解決され、快の状態にいつもいるということである。
危機の察知を、こじらせてしまっては、何の生きる意味もない。快の状態を、自分にもたらせるということが、個人の
存在としては、一番楽なものであろう。
0093考える名無しさん2017/03/09(木) 15:05:19.220
感覚を磨くには、感覚で得た何かを理解すること、

つまり理解できないものを理解すること、

人類が理解できないことを理解するにはどうすればいいと思う?

その答え(術)を得られれば世界の真理は我の中にある。

何をするにしても盲目とやっても強引に具体化させて決め付けても答えはでない、

海を泳ぐには海を知り海と会話ができる技が必要であり、空を飛ぶには空を知り、空と会話できる技が
必要になる、より掴むことが困難なものを意志だけで掴もうとしても溺れるだけである、
合気道の奥義の説明にこういう言葉がある「相手と友達になる」自分と相手の気を合せ道となすとき
それが合気道である、困難なもの、掴み得ないもの、理解しえないもの、そういう類を友達にし
友達の気持ちが自由自在に感じられるなら、その対象は自分であり、対象でもある。
すなわち全は一、一は全である。

すべての真理は環を作り巡廻している、個の意志だけで感じても環の一部にならなければ上辺だけの
感じる術とは思わないか?
機能しない真理は死んでいる、機能する真理は活きている、活きるとは美しいと感じられる状態だ、
貴方は極限の美しさとは何かを自分自身で知るべきである、答えは与えられただけでは死んだ真理になる。
盲目の人ヘレンケラーが始めて知った真理とはwater(水)である、我々には死んだ真理であっても
彼女には活きた真理としてその後のすべてを導く光そのものである。
0095美魔女2017/03/15(水) 14:08:53.980
一つ晒せば自分を晒す

二つ晒せばすべてを晒す

三つ晒せば地獄がみえる

みえるみえる墜ちる様

👿
0096Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/15(水) 14:51:37.430
嫌々やることは、嫌々すればよい。料理屋の勘定を払うのが面倒くさい、のならさっさと帰りたいと
思いつつすればよい。したくないこと、考えたくないことは、自分が悪いのではなく、事実なのである。
それを、純粋じゃないのかもしれない、とか、失礼に当たる、とか、思わなくてもいい。
思考というものは、複雑なのだから、思考の事実的なところを切り捨てる必要は無いのである。
0097Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/15(水) 15:34:42.070
「埋め立てですかあ」規制にひっかかり、pcから書き込みできませんので、
出現頻度が下がりますが、悪しからず。
0098美魔女2017/03/16(木) 02:48:17.670
>>97
✨楽しみにしてますね✨
0099考える名無しさん2017/03/16(木) 03:10:07.480
あの悟りを求めた日々は何だったんだろうか

愛する人の死体を見てから

なんて醜悪な世界んだと飛び出したあの日から

ありもしない死という観念を元に

生老病死が繰り広げられる

この人生の深さよ

結局はそういうドラマを演じたかっただけかもしれない
0100考える名無しさん2017/03/16(木) 03:43:35.700
あのアナルを求めた日々は何だったんでしょうか
0101美魔女2017/03/16(木) 04:57:25.510
知りません。
0102美魔女2017/03/16(木) 13:06:38.370
ちんこを舐めたなんて絶対にいいません
0103美魔女2017/03/16(木) 15:14:50.550
>>102
シモネタ
勘弁して下さい😂
0104学術2017/03/16(木) 15:21:12.810
ちんこなめた奴なんていません。
0105学術2017/03/16(木) 15:21:43.340
アナルを見た人も。哲学者には。
0106美魔女2017/03/16(木) 15:43:31.640
うん(^^)
0107美魔女2017/03/16(木) 21:10:18.560
>>106
なりすまし!
0108美魔女2017/03/16(木) 22:10:11.650
キモータスライムを分離するとナメクジもはやく水分になるワヨ
0109美魔女2017/03/17(金) 01:21:52.120
あたちが立ちションマスターだってこと忘れたの?
0110考える名無しさん2017/03/17(金) 01:28:36.340
下さい!
0111元祖美魔女美魔女 ◆m56q6JyM70mL 2017/03/17(金) 05:31:08.810
立ち野ションの後は拭かないのが鉄則!
0112美魔女 ◆m56q6JyM70mL 2017/03/17(金) 05:32:57.580
いいこと?

あなたたちのために拭いていないのよ!!
0113美魔女2017/03/17(金) 11:43:23.840
>>112
前に一度、御話しされたかたでしょうか。😉
正直そればかり見てるほうも毎日書かれると吐き気がします
貴方も私に全力投球してあの時のように知恵と策略で全力投球でかかって来てはどうですか。
最近の私はハッキリ言うようになってしまったので
私の論破はキツイですよ♪
貴方のすべての支えと人生すべて否定と没落に持っていきます。以前貴方が言ってたように相手の人格崩壊することは当然です😋
0114元祖美魔女 ◆m56q6JyM70mL 2017/03/17(金) 12:31:41.510
偽物を相手にしたことなど

当然のことながらありません😊

そんなくだらないことに時間を使うより

今日も野ションです!
0115美魔女2017/03/17(金) 12:59:45.360
>>114
そうですか。
わかりました✨
私が偽者でいいです😅
0116美魔女2017/03/17(金) 13:35:47.560
>>114
てか
変えてよ。😉
吐き気するから。
0117Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/18(土) 17:38:21.330
過去の世界はいつまでもあって、独自の過去世界は、今も存在変化し続ける。だから、個人の失敗などというもの
は、存在しない。すべての過去は、こともなく独自に存在変化し続けている。
未来世界も、未来の時点において、存在変化し続けている。だから、失敗などといったものは存在しない。
個人は、ただ存在者に他なく、世界にある一定の時間現れたというに過ぎない。
人間は世界に現れたただのチリのような現象であって、何一つ、人間の栄光が世界と一致する
ということが、人間だけに特別に用意されているなどということは無いのである。
ただ人間の向上心や、念というものが、積極的な大いなる力を持つように発展してきたという
ことは正しく、ある意味間抜けな理想にとらわれているものであると言える。
とにかく、過去と未来の変化生成は、何によっても修正否定のしようがないものであるのだから
決定的失敗が些細なものであると位置づける見方も、味方にして、常識的で善良なる世間での
渡世の裏に忍び寄る狂気などといったものに、ある種の納得を得られるのではなかろうかと
考える。
0118Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/18(土) 20:40:43.930
つまり、過去は現存在のあずかり知らぬところで、自由に変わっているのであり、現在から見られた、
経験された過去とは、視点の設置と関わりながら存在していたとゆうふうに考えることができる。
物理的に現象としての面での根拠を考えると、スポットライト論のように、関係性を法とした
変化が、時の流れであり、現在のみが存在する、という一見正しそうな感覚は、実在性という
生物原理の意味によっているという事を考えなければならないのではないと思うから、宇宙の成り立ちの
「何故」を答えられぬゆえに、信仰としての現実解釈としか、解釈の余地が生まれない。
唯一の解釈を答えとするもの、即ち真理である、と考えても良さそうだが、信仰としての真理では、
死を救う答えではないようにも思える。宇宙に対して謙虚であるとして、救われる、目的として正しい方向へ
進み得ると言えるとはいっても、個人的に気になるのは、やはり宇宙の裏側なのである。
過去と未来を解釈するに、幻想として片付けるのとは、別のアプローチを取りたくなるのであった。
0119考える名無しさん2017/03/19(日) 11:22:58.360
>過去と未来を解釈するに、幻想として片付けるのとは、別のアプローチを取りたくなるのであった
意味は創るものだ、

何もしないで解釈だけで意味は成されない。
0120考える名無しさん2017/03/19(日) 11:49:48.910
>「何故」を答えられぬゆえに、信仰としての現実解釈としか、解釈の余地が生まれない。
我が有る故に、何故は唯一の意味を生み出す、誰かの意味、多くの人の
意味ではない、それは解釈ではなく生き様だ、

>死を救う答えではないようにも思える。
死とは生きるものの権利だ、生あるもの死ぬまで生きる、
それは死でなく、自分の本当の望みが何かを掴めず望みが叶わぬゆえの無念、
望みを叶えようとしなかった者への罪である。
心が活きているならば、魂となって意思は伝わる、心が死んでいるなら
肉体があろうが、何も伝わらない。
何故に傲慢にならなにか、我がある故に我がある、それが生だ、
我が活きずに我に生なし。
0121Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/20(月) 00:16:17.980
>>119
意味とは何により成り立っており、何のためにあるのでしょう。対話の実質であり、
モノとしてとらえられるものであり、記述することができるということによる手段、
と考えるべきなのでしょうか。意味とは、生成変化する時間の中にある、ということから、
論理を過たない人にとっては、本質として意味を与えていくことになるでしょうか。
意味とは、途切れ途切れで、全体性とは違うと言えるはずだと思います。意味とは、
作業台、作業ツールである、と言ってしまいたい気持ちになるのですが、偶然が働き、真理
を意味化して伝えられるようになる、そういう前向きさは、歴史において、卓越した希望の
例として、しばしば起こってきたものであると思います。魔法使いに問いかけるのは、
解釈から、自己の意味を操るまでの、個人という世界の中の小ささが、脳内の広がりによって、
問を立てるという、自己の生成行為の繰り返しが、視界を広く持つことで、先人の魔法使いの
極意を現代においても知りたいと思うからでしょう。人はどこから来てどこへ行くのか。
どこに帰るのか。生きていて、自分の行動と言葉と思考は、捨て去らねばならないものを、捨てていく旅路において、
一人の旅人は、立ち止まって、意味を知り、安らぎと平穏に包まれたいと思い、そう求めるのか。
0122考える名無しさん2017/03/20(月) 01:50:16.090
意味は人が人であるからこそ意味なのです、人でなしに意味はない。
人が人であるために人の有り様は、人を人の姿へと導いてくれる、

人でありつづけるには、意味を成し続けるということ、心が病み闇にとらわれ
1つの希望も持てないとき絶望が訪れる、そのとき意味は失われ人は人でなくなる。

人は人になれる、だが人が人を否定したとき、そこにあるのは人ではない。

人は人の道を行く、人であることが罪であるわけがない、あるがままに人になる
人が歩む道は人間の道、生まれて死ぬまでの道、それが人が行く道、戻る場所、
何も考えずとも誰でももっている生きる力、
活きる意味?それは物ではなく、人です、人が故、人は死ぬまで活きる意味がある。
安らぎは意味を信じられた人にだけやってくる、それは苦難でも平穏でも
信じられなければやってこない。
0123Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/20(月) 19:19:53.510
一回的関係とは、何らかの都合により、望むだけの交流が持たれないもののことである。それでも何らかの関わりがあるので、
原因が、時間性や原因性により、あるときにはたくさん、先後として、心の中に繰り返されるものである。
心の何を見るべきか、自分の価値観の中にある未熟な部分には、答えなければならない。全体との同一視は、
自己の未熟たる部分の、最たるものであり、しかも重要でもあるのだ。文化は健全性を育てようとする。
個人は、その時は未熟の中にあった自分の大切なものに、別れを告げたくない。
果たして自己の本来性とは、無差別に、価値として高く置かれるものであろうか。これまた、未熟なるものへ向けた思考だ。
どこの時点においても、決意することができるのであり、その結果を、導くこともできる。何が破壊的なのかと
知っている者にとっては、まさにそれを避けることができないはずはないだろう。その行為は贖罪的であり、
妄想、理想と、得られなかった現実に対して、今まさにその時点から振り返り、全ての完全性を個人にもたらす
ものであるとして、生きることを放棄しないために、また同一のことであるが、世界に先後を問わず、
世界を自己にとっての融和的な優しいものとして、存在させるという目的のために生きることを、実在させるために、
何度も起床を繰り返しているのだろう。啓示もなく、ただ知という刃物の切れ味の割には、
愛による感情を伴うということのために、優しい涙は、十分に見返りを与えられるものである。
0124Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/24(金) 23:24:03.130
現実において価値観を見なおすときには、その認識の変化を、現実に適用することが必要である。
みなし、と行動は、密接に関連している。価値観を変化させることが容易であり、でも自己内の行為
などとして変化を現実化するのが難しいときには、変化した関係での心持ちとして、それを表し現実化することが、
大切である。現実化こそ、価値の発動するところなのであり、自己の心は、そういうある種の契約的な相互承認によって、
成功失敗が決まってくる、自分の力では不可能である状態で、まだ考えが足りない状態より見識が
高い状態ならば、変化を最後までやり通し、新世界へ変われる。これは、自己の変化という、
世界以前の個人にとり唯一可能な努力というものである。もう一度言おう。価値の変化を
人間同士の関係において考え、不要な思い上がりを変えるのである。そのときに必要なのは、自己に対する
切実な思いだ。よくシミュレーションをして、新しい世界を作り上げる。自分を阻む自分自身の自負心には
正しくあることに対する柔軟さと誠意を当てはめるべきであり、失敗に拗ねてしまっては、小学生である。
いい加減なことを続けるのは時間の無駄であり、自己が関係において上であろうと下であろうと
大したかわりはないではないか。柔軟な態度と、迷いに曲げない心根を持って、大きな船のような自分が
あれば、将来未来にむけて、安心ではないか。
0125考える名無しさん2017/03/27(月) 00:11:42.890
合理性に流されたとき、合理性に支配される。
正しさを知ったとき、間違いを否定する。

正しさに流され、本当に正しいかという判断すら流されてしまう。
0126Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/27(月) 12:37:25.440
病院へ行ってきました。一つ気づいたのは、繊細である顔の筋肉にアプローチするには、
皮ではなく、筋肉自体を掴まなければならないとうこと。顎の先や、眼輪筋などが好適。
美容にもおすすめ。生まれたときから筋肉が凝っていく何らかの素因があったことは
疑いない。だが、こういう簡単なことで、大変深刻な病状が軽快されるのは、医学的
知見の不思議さというものである。自分で治す方法を発見したことは、個人的な誇りでもあり、
そして安心なのである。
0127Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/27(月) 12:52:54.500
つまり、表情というものは、表面の皮を変化させるようなものではなく、筋肉を動かすような
ものなのである。意識を筋肉に置かねばならない。
0128Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/27(月) 14:09:36.510
思考において、価値があるものは、飛躍である。当たり前のことは、当然にわかる。だが世界は必ずしも
当たり前にできているわけではない。それなら人間は、飛躍した思考にこそ、意味を見出すべきであろう。
何を考えるにしても同じ行為というものであるなら、考えの意味に、深く長く安らえるのは、
距離が離れており、意味深い思考に違いない。みんなが突拍子もないアイディアを言い合うようになれば、
そこには、楽しい安らぎが生まれるだろう。本当に大事なことは、自分にとって不安を払拭するような
考えるというパズルなのである。
0129考える名無しさん2017/03/28(火) 14:13:39.510
美しく飛躍しなさい

ときめくような意味を見出しなされ

目の前の飛躍ではなく、空の扉の向こう側にあるより高い飛躍を選びなされ
0130Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/03/28(火) 22:25:20.430
>>129
飛躍の美しさ。意味。空の扉。
思考には魔術があると思います。
0131考える名無しさん2017/03/30(木) 19:16:36.310
とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、
もし興味ある方は読まれて下さい。

『救済的真理の伝達・証明』
《神・転生の存在の科学的証明》
http://message21.web.fc2.com/index.htm
0132Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/01(土) 11:59:47.350
思考実験は面白いものである。例えば、時間というものが取り去られたとしたらどうなるか、と考えると、
世界が止まってしまうような気がする。目の前の意見がないのだとしたら、自分の気持ちや考えは大きく
変わりそうである。このように、必然と思えるものをカッコに入れる思考実験は面白い。即ち、存在する物の
性質を、裏から知るすべになる。本質は、欠如によってより明らかにされる。本当に大事にすべきものが
何であるかという、自己の性質を、知ることもできる。
0133Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/01(土) 22:15:02.850
川の流れをイメージしてみよう。それが時間の流れと本質を同じくするんだ。血の流れは、
基本的な生物的属性であり、人間以外の生き物にも、体液の流れは基本的である。
存在は認知に先立つと言えるだろう。応用的にはどこに行けるのだろうか。そうした際も、自然と切り離して
考えるのは間違いだ。宇宙の内部ではないとでも言えるというのか。やはり、基礎とその裏の、
両方を持つべきなのであろう。
0134Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/01(土) 22:28:19.460
頭を首で保持することも大切である。首の骨が折れたら、生きていないではないか!
0136Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/01(土) 23:56:58.370
感情を持て。論理VS感情。それでよい。矛盾ほどに気持ちのいいものはない。
0138Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/05(水) 14:14:54.800
愛とは肯定である。自己の思惟を、肯定せよ。なんとなれば、自分以外に、自分の思考を肯定し、存在させるものは、あまり
ないからである。自己の思惟を肯定しなければ、自己は失敗し、見失われてしまう。それは、存在への否である。存在への
否を持った人間が、論理的にも心理的にも向かうところは、自己と他者を損なおうとするところである。悪人は、悪を知っている。
だから、悪を担う、すなわち、悪について知り、悪を対処できる第一人者が悪人なのである。現実の中において、現実をうまく
回そうとするなら、悪を避けて通ることはできない。そして、死は、法廷ではない。
他者の存在と、他者の意見を肯定せよ。なぜなら、他者は自分の可能性の内に生きているのであり、それを自滅させることは、
その他のものにとっても功利的に得策ではないからだ。どうしても他者と他者の意見を否定したいなら、それは、きっぱりと
断言するほかにはない。そして、その否定の理由として、愛ゆえに、とすることのみが、めったになく仕方のない否定なのである。
自分を肯定すること。その力を知らねばならない。無知の知において、永続的ではない無を、愛することさえできる。
無を愛するには、無知を愛する以外にはない。
カントが問うたように、「真理とは何か」とその答え、『真理とは認識とその対象との一致である』。一匙の勇気を手に入れるために、
他者を尊重し、肯定する。そして、人は、意味と心の一致を見出す。意味とは、巧拙あるものであり、生きがいだ。心とは、存在の
型であり、その中で作用が起こる。それらが一致することは、まさに「認識とその対象との一致」をもたらすものである。
失われたものに対する気持ちを、悪に変えないように。この肯定された存在が時熟するときには、一匙の勇気を手に入れた
ということであろう。
思惟と存在の尊重、肯定こそ、良い態度として、考えてみるべきことであろう。何であってもよいから。迷いを払い、自分の
考えを、脳と自己の存在自体を、褒めて優しくしてあげられる、そうできることこそが、愛を知ることなのである。

否定は、可能性としては、認めなければならない。肯定の裏面としての否定であり、最終的には肯定のため
であった、とならなければならない。なにも、教条的にすべきことを定めているわけではない。利害関係の存在しないもの。
0139Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/05(水) 14:31:50.880
自己の思惟において、こぼれ落ちていくもの、反射的に否定してしまうもの、それらの中には、大切なもの、欠けてはならないもの、
そういうものがあるのだから、自己の存在と思考内容を愛することによって、肯定し、必要のない苦しみを、必要としない
自分になるべきなのである。そのためには、まず、自己を観察すべきであり、他者に対しても、フェアであると自認するような、
大切にするという関係を、とりあえず持ってみることから始めなければならない。
それはまた、考えるとはどういうことかということへの理解にもつながるはずである。
否定するということは、感情的にも論理的にもそうするべきで、そうせざるをえないという面があるが、その否定をする自分が、
上手くできないのが忸怩たるものがある、とか、なるべくなら穏便なウィンウィンのほうがいいんじゃないかとおもうのは、
しかたがないにしろ、その否定という未熟な自分の、未熟ゆえの行動であると認め、自分はこれだけしかできません、
という気持ちを持つならば、その、否定するという、ある意味では情けない自己、他人への怒り憤懣といったものを、
勇気を萎えさせる方へ向けてしまってはならないのだ。否定するけど、その否定について、最後まで責任をもって
付き合うよ、という姿勢でいるのが大切である。
0140考える名無しさん2017/04/05(水) 21:33:06.780
>愛とは肯定である。
肯定とは対象以外を否定することでもある。
常にそれが成立する背景も捉えよう。

>それらの中には、大切なもの、欠けてはならないもの、そういうものがあるのだから、
意味は常に意味だけで成立するわけではなく、非意味の積み重ねによるもの、
完全や効率、簡易さ、捉えやすさなどに傾くほど意味だけが意味を土台に積み上げられ
その結果として非意味部分が失われてゆく。
不完全をもって完全となす姿勢がなければ未来へ繋ぐのは困難になる、
現時点をもって最後の終わりとするなら完全さこそ重要になる、だが先は無い、終焉が待っているだけ。
論は意志を構築する道具として最上級の道具であるが、その論に特化すれば主人たる人が道具を使うのではなく
論が人を道具にしてしまう、絶対的な否定不可能な論を自らの弱さから否定できないのはそういう状態である、
不可能は不可能であると認めたとき論に支配される、未来への積み重ね不可能を可能としてきた
歴史があるだろう、今は不可能でも未来まで不可能する思考は論の支配の中である、
人が論の外側にでることは非常に難しく論に従うことは容易いことであるだろう、つまり論を極めては
非常に困難な論の否定という道を塞ぎ、単に流されるだけ、可能性の全否定しか道が残されない。
0141Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/05(水) 21:59:44.290
>>140
無差別的に肯定することは、他をないがしろにして対象を上にあげることになる、ということでしょうか。背景としては、エゴイズム
につながるものがあるだろう、ということもわかります。自らの労力を、振り分ける(『三国志』のゲームのように)。

不完全を完全にする、ということは、努力して築き上げられるということかもしれませんね。快と不快という原理的な概念に
ついては、まだ考えていないようなことが、ありました。つまり、快に思えることの中には、現実や物事の、移り変わりに
ついて、快不快を感じるものがある、つまりそれは、上級の美であり、事象を判定する基準になる、ということです。
とくに、言葉による説明を重ねる時、その内容について、現実的な意味がどう動いて行くのを認めているか、という
点について、非常に重要で面白く、また快をもたらしてくれる、などとして、感じることが、否定できないエゴであるな、
ということです。つまり、良いことが起きたかな、というレベルを感じる話で、根源的なレベルの話です。文学というもの
でもあるでしょう。つまり、細部にこだわらないレベルの話です。細部を究明するのは大変なのでしょうが、それは、
細かい話の中にとどまらずインパクトがあれば、素晴らしいものにもなる。
そうです、世の中の流れ、運命、比較自慢(金銭的、成績的)、思惟の理解不理解などについて話しています。
根本から変えうると感じ、感じられるゆえに信じ、そして夢だったことを実現する。
こういったステップにおいて、自らの価値が試される。他人との比較も悪くはないでしょうが、結局自分の価値は、
自分が作り出さなければ、無いことになってしまう。
一生懸命に生きねばなりませんね。運に頼らず、自らを頼み、自らの声を聞き逃さず、現実の運び方を、理想化する。
そのようにして生きなければ、まったく無駄です。無駄にある種の美学はあるにしても、それを信じ込むのはいかがな
ものでしょうか。もしかしたら、市民ケーンのような大富豪になる人もある。そういった可能性の中で、僕やほかの人が、
快というところにいられるために必要とすることは、比較ではなく、ナニカなのです。我にとり、知りえざるもの無きや?
0142考える名無しさん2017/04/07(金) 02:47:16.760
今は完全でも、1歩先は今ではない、
今のみの完全さへの特化は1歩先では恐ろしく歪になりえる。
何歩進んでも一定の完全の1歩手前で頑張れ。

神は人間を不完全に作った、不完全こそ完全なのである。
すべてに、すべての時に、そんな都合の良いものがあるなら、
それは現実ではない、非現実に神がもつといわれる全知全能のような完璧さは
存在しえるのか?
時に支配される時の下僕たる神など全知全能とはいえないだろう。

完全に肯定する確信は、思考や判断の完全放棄と同一である。
悩み苦しまない考えない支配されるだけの一方的な愛を肯定するのもいいだろう。
愛が自身の中にだけにあり、外側の何かと繋ぐ心がないのならば、独裁者の支配も
愛といえるのではないだろうか。
0143Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/07(金) 19:02:26.840
>>142
現実存在(実存)の、厳しい教えを守りたい。ですが、しくじってばかりのしくじり君は、妨害する意向と妨害を受ける意向の
お遊びに供されてしまうのです。僕が、あるときには僕のすることに意味を持ち、僕のすることは僕自身で受け入れるかどうかを、
どんな時点からでもいいので、自分で決めることができるという事を重要視します。快不快原則により、僕は何を受け入れるか決める。
決められる。だが、選択したいものを与えてくれる場合のみがあるのではなく、夢のように妄想して、しがみつくことが多いのです。
どうか僕が、たくさんのものを手に入れられますように。食べものはそまつにせず、もったいないことはしません。

哲学の中心に実存を置く。存在するべきものを、自らの手で作り出そう。そのためには、情報はかけがえのないものを
表せられなければならない。表すとき、表されたものは現実を越え、不完全を持ってやりすごす歪んだ思考が、
現実の中にさえ魂が完全な形でつかまれ、かつて一度もなかった認識こそが、現実の自分にもたらされる。

冥王の手を引き、受け入れさせよう。時が終わった世界では、ただ闇と光が分断され。下等な我は心の隅に息をひそめ、
不完全をいつくしむ……。
0144Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/09(日) 00:58:16.030
時間は個人が完全なる主体となって関われるものであり、それが実在するのかどうかは分からないという欠点はあるにせよ、
基本的には個人の味方である。例えば、未来の一分が過ぎる時、過去に同じ一分が同じだけ加えられる。こうした完全に
客観性を持ったものは、ほかにはない。であるから、言葉について、その発音の長さでは、中心部が何という記号であり、
それを挟んでどれくらいの文字が関連しており、一単語を受け取れるかといったことについて、完全に個人の能力でもって、
関われるのである。このような能力は、最後まで人に付きまとう、身近な、一番親しい間柄の友であるのだ。
そして、時間は記憶されるから、思い出すことが出来るものである。思い出すという習慣がなく、そういうことが出来る
ということを忘れてしまっていると、だんだんと思い出そうとすることもなくなっていくものであろう。だから、しじゅう
思い出すことを続けることが大事だ。思考にメリハリをつけ、色々な次元で、思考行為をすること、それが、工夫できる
ところである。焦る必要はない。日々の実行だ。そういうことに後ろめたさを感じる人も、特に倫理的な要請である、とか堅苦しく
考えることもないから、良く生きるためによく思い出し、時間という友達と仲良くすることである。お手玉をするように
時間とかかわろう。現在の事物と関連の深い、過去を思い出すことに包まれれば、「懐かしい」という感覚を得ることが出来る。
「懐かしい」というのを「不安だ」が覚まし、食い破ろうとするところこそを、時間を深く体験することによって、
正しくあるということのために、「思い出す」と「手元にある」が、関われるところを、実に強く現実化していく
べきなのである。
The Junky's Christmas-William S Burroughs
https://www.youtube.com/watch?v=u6kHN92Yv48
0146考える名無しさん2017/04/10(月) 02:41:45.860
>>144
感謝を常に心がけよ
正しく感謝できる事により間の対照性が生じ、
間の対象性は正しい感謝を呼び込む。
0147考える名無しさん2017/04/10(月) 17:12:24.520
世界は廻っている、めぐりくるそれを知れば
巡る力は環となることを悟る
0148考える名無しさん2017/04/11(火) 19:17:09.800
感情によって行動しなければ対象をつかめず、
感情によって行動すれば対象を感じられない、

矛盾しているこれを解決しよう。

人間の心は1つ、多重人格なら2つ以上の心をもつ、分裂したこころに
まとまりはない。
だが心が1つでも1つのまま2つ以上の人格を働かせることは不可能ではない。
0149Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/11(火) 19:57:34.180
>>148
一つの心で二つ以上の人格を動かす、そうすれば、感情を持ちつつ感情によらない二つの行為を行える、ということでしょうか。
すると、感じながらつかむことができる。対象への思い入れでしょうか。

小説を読むなどと言うことの意味は、自分の頭と身体という客観的区別を、超越した、何かわからないけれども素晴らしいことが、
自分の中に起こりうる、という体験があるということなのです。知識でもない、見解でもない、知恵と呼ぶのも当てはまらない、
ある神秘的な体験が。それは、一つの心で二つの人格を働かせることが出来るということとも等しいし、意味を越えた神秘が、
自分に起こりうるということの、ある例でもあるでしょう。

なんであっても、目の前を変化させるもの、この瞬間にも、地球の惑星を俯瞰する意識によって判断をしたり、
小さなものになり替わって、自分を変化させる、そういった、スケールの知恵と、神秘性を秘めた心の持ち主である
から、生きる時の超越に、触れられるのです。それは感情を、行動への原動力として、先走ってしまう焦りに、
融合させる心の働きでしょう。
志向性に従ったまま、可塑的な脳を、自分の指令によって、少しづつ動か射ていけば、きっと対象を得る自分にしかできない
やりかたが、つかめると思います。
0150Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/11(火) 21:33:54.230
>>149
訂正
×少しづつ動か射ていけば
○少しづつ動かしていけば
0151考える名無しさん2017/04/12(水) 03:55:18.020
答え、「理性によって世界を感じて同時に感情を操る」
だが素直な解釈では、これは答えではない。

理性と感情は極めるほど互いを否定して両方同時には成立しない関係にある。
だが2人の心あれば理性を受け持つ側を感情を受け持つ側で成立しえる、
しかしこれも答えじゃない、2重人格になるからだ、

では?理性を最大源に働かせる(感情を最小にする=冷静になる)と
感情を最大源に働かせる(理性を最小にする=考えず感情を爆発させる)を
同時にするには、どうしたらいいのか、多重人格以外でこの解がある。
それは素直ではない方法をやればいい、つまり。。。。(次回のお楽しみ)
0152Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/12(水) 23:42:44.060
多く腹に据えかねる気持ちになるのである。記憶力の減退の一つとして、思い出す力はあるのに、インプットする力がなくなっている
という状態がある。このとき、現在において、どうにも動かせない過去に責められるのである。どう処理するべきか。そのためには、
むしろ現実を強く持ち、入力を強引にもたらすということ、すなわち、自己感情の発散による現在の強化ということが出来るはずである。
すなわち、現在において、表情を作ることだ。腹に据えかねるままに、それを表情化させる。誰にも文句は言われることもなく、
現在が自分にとって、浄化されるような感情入力である。表情が裏切るならその時点でやめればよい。それは、自分と言うものの
切実な行為に対して、どれだけの負債を抱えさせられているか(すなわち、だまされたり、強制されたりされてきたことの総和がいかほどか)
が、自然と審判にかけられてくれるわけである。表情は、誰に伝えるべきものでもない。自己のみのための表情と、現実。
現実自体が悪いのではない。そう思うとき、表情は、きっと助けてくれるだろう。外界と内界が、自己という扉を通じて、風を送り合う。
そのような感じを受けるほどに、自己の全体は、とても大きな可能性を秘めたものだ。なんだって出来るはずだし、なんだって
やってみるはずである。それに対して、攻撃されても、現実によってインプットする力を、ためてきた、その自己の記憶は、
表象する力と等価に自己の価値として、全て知ってきたはずではないか。
インプットがアウトプット以上に多くなったとき、例えば、外界の刺激によって、思考能力がいっぱいになり、心が光と意味に
あふれたとき、それはとても美しい記憶になる。そして、その記憶と言うものは、自己の存在と言うものが、尽きせぬ泉となり、
何をしても充実している状態へ達するだろう。そうした時、失われたものへの追憶も、いつのまにか小さくなっていた怒りや
疎外感も、すべては自己の下にあり、すべてが入力の至福によって、失うものは得るものに追いつかない。
0153考える名無しさん2017/04/13(木) 01:45:51.330
冷めた心で理性によって、強い感情を操る、
これは1つの意志で同時にできないが、1つの意志で同時に成立することは可能である。

つまり理性で感情が転びゆく道筋を刻み感情はそのレールを転がるしか方法を
なくせばいい、それは自分への呪い。
レールを外れたとき襲い掛かるリスクを最大にすればするほど感情がレールを
死守してくれる。
意志をもって山に登るのではない、山頂にたどり着けなければ死と等価の
複数の契約を成せば制約が多いほど登るのではなく山頂へ落ちてゆく。
恐怖という感情によっても怒りという感情によっても喜びでも強いものが
あるのならば、そこにたどり着くための制約を自分に課し破れないように
するだけ。破っても取り返しがつくのならばそれは制約としては薄すぎる。
すべてを投げ出しすべてを対価とし未来をすべてそこに投げ捨て、
その対価として結果へと落ちてゆく。
それは理性でもなく感情でもなく認識でもなく、最初の1歩を進むときに
すべての感情を捨てた他人事のように感じ、その道筋を理性で捉え、
感情の赴くまま転がるようにする、その設計と布石には感情を限りなく捨てた
無我の状態で働く感性と理性がなければ布石を自分の未来に刻むことはできない
時間という隔たりを得て感情を極小と極大は分けることは可能である。
01552017/04/15(土) 06:42:48.540
感情は力である、感情で感情を縛れば感情は暴走し狂気の力を与えてくれる
狂気を意志によって発動させることができれば力は暴走し限界を超えた力を
得られる。

理性によってこれを発動させれば力を求める働きは停止できるものではない、
人が操る神の力である。
限界を超えた力がほしいか?、対価として差し出すものは魂だ、
力を操るのではなく、力に操られる、力の魅力は異質、力を得たものは
傲慢になり力の手放すことはできない、結果として理性すらも力に支配される。
自らに力を求めるな、力は他者から与えられるもの、自らの力を使役するのではなく
自分以外の自分の住む世界の力を使え、世界に使役されるべきである。

世界と分かち得ない強すぎる力では何も得られない、力は世界と共に!
その世界を感じ知る為には、自らの力を極小にすること、世界に感謝すること。
世界と共にあれば、世界は答えてくれる、世界を超える扉への道を
自らの力で扉を開く者に世界は常に祝福してくれる。
0156Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/15(土) 14:56:09.670
>>155
>力の魅力は異質、力を得たものは
>傲慢になり力の手放すことはできない
力の憧憬、世界と関わるときの、素晴らしさ。それが起こることを待ち、それを起こすためにいろんなことをする。すなわちそれは、
生きているあかしのようなものだ。

>自分以外の自分の住む世界の力を使え、世界に使役されるべきである
自分と同じことを考えているものに出会った時、自分だけのものなのに、と拒否感を覚えてしまうことがあるだろう。
だが、それは、その相手と協働できるということであり、むしろその同質性には、協力という可能性があるのだということを
見過ごしてしまってはならない。何をもって同じと為し、何をもって敵対とするか。そういう、バスの降りますランプを
押すことの競い。同じ対象や文化について、争いあうことに、どんな意味があるのだろう。
世界に使役されるとは、世界の限界まで知り、そのエッセンスを自らの力に変えるということ。そこには、もともとの願いとしては
争いの世界に没入することが必要だったわけではない。自らの可能性を、そこに見出していたはずだ。同じものを見る者に、
協力を願いでる。そしてそれは、争いと協調が、同じ硬貨の別の面であったということである。ありていに言えば、
「昨日の敵は今日の友」と考えられるものであり、真なる願いは、自らの謎であり、他への思慕は、自らの限界をわきまえる
ことと同じである。他としてみるということは、世界の存在としてまず現れる。そしてそれは、いつも変わりながら魅了する。
魅了されたものは、求め、自らの考えの中に異物を入れる。
自分は一人だから、責任は一人以上に負うことはない。そして、与えてくれるものが、世界なのであれば、世界化してしまった
他、共に同じところのあるような他が、敵ではないということこそ、真実なる思惟である。

鍵をもってドアを開ける。鍵はどこにあるのか、なぜ隠されているのか。ドアにかかっている鍵とは、古の誰かが
かけて行ったものなのか、パンドラの箱のような事が起こることを懸念したのだろうか。力あるものが、そして、たくみなものが、
自分だけにわかる方法で、謎を解き明かし、誰にも分らなかった鍵を見つける。僕はしばしば本当にそういう夢を見る。一般的な物
に関連して謎があることは、見直してみるべきだ。
0157Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/15(土) 17:29:59.990
カントの『純粋理性批判』を読みながら考えたことだが、意味とは、何であるか。言葉にはある長さがあるが、意味は一点か?
そうではない。意味と言うものも、ある広がりや長さを持っている。それが人間の思考である。感性による直観で、対象が
与えられ、悟性によってそれを考える。つまり、おそらく、感性には自己と言うものはなく、悟性という思考にこそ、自己が
あり、人であるのである。意味を悟性によって、じわーっと考えていると、全ての事は、優しく思えてくる。それはつまり、
悟性によっては穏やかさというものが、与えられるのであると思う。
0158考える名無しさん2017/04/15(土) 19:09:54.300
>鍵をもってドアを開ける。鍵はどこにあるのか、なぜ隠されているのか。
鍵をもっている者は、常に心の中に鍵をもっている、
隠されているのではなく、故意に意識的に主体が封じている、
鍵などどこにでもある。

鍵は世界と結ぶ心、それは扉を開くものなら誰もが知っている鍵だ、
鍵とは扉の開き方、扉を閉じるのは心のありよう、道を作り未知を望み、未来と繋ぐ姿勢だ
鍵を見失ったものは、メガネを見失った様子ににている、
自分の頭に載せているのにメガネが見つからない、メガネはどこか遠くに
隠れていると思い込んでいるからだ。

https://encrypted-tbn3.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRRXUm2yoGxxCmnvSjkLsh6JWkUdv3IxAkSglrhKY2R4OP1_BCh-w
0159考える名無しさん2017/04/15(土) 19:17:09.880
>じわーっと考えていると、全ての事は、優しく思えてくる。それはつまり、
>悟性によっては穏やかさというものが、与えられるのであると思う。
感謝をし感謝を感じればその通りになる。

感情に支配され、力に支配され、理性に支配されると、じわーと考えることはできない
不安、恐怖、憎しみなどがあることにより主体的思考は他を省き阻害し孤立した利を求めだす、
どうにもならないと判断した未来が来るのに抵抗する本能がそうさせる、
過剰に反応した感情や知識や力はそれを解決してくれない、世界に感謝すれば世界を感じることができる。
0160Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/17(月) 09:59:09.370
なんらかの形(図像)を並べて比較することにより、それらの形の特徴の違いを理解できる。この、文章なども、多くの文字を
並べて比較し、多くの刺激となっている。そして、文章を読むとは、形だけではいけないので、その意味について考える
事が必要である。あるフレーズの意味、また、その次に続くフレーズの意味、これらを、抽象化して、並べてみることで、
言葉の意味を得ることが出来る。
例えば悲しいことがあったら、感情を、意味によって、客観視できる。そのうえで、どうするか決め、問題に立ち向かう
ことが必要だろう。言葉は、形にすることだから、頭の中を少し形にするということが、言葉が出来ることだ。意味を
もたらすものだ。意味とは、言葉の形の半分だけを外郭として、たよるものであり、言葉の限界を良く知っている
ならば、幼児の言葉でも、なんの高低もつけることはしないものなのである。思考とは、半言語的であるから、
あるいはまったく言葉によらないが、あるいは、完全に言語と一致することもある。思考は流れていくのだから、言語が教育
されたあとでは、自らに最も身近なものであり、瞑想においては、言葉は静まる(非言語的思考に安んじられる)。

まとめると、形の比較が理解の鍵であり、意味は言語の効率的短縮であり、言語は不完全を言語量によって覆いつくそうと
しながら表現されるものである、ということだ。心の平安は、全ての問題を気が済むまで精一杯やった時に、いつか
得られるような、自分なりの悟りとなる。それは、少しずつやることも、がむしゃらにやることも、問題に応じて、自分が考える
通りに、周りと自分を使いながら、やらねばならないことをすることなのである。問題の多さに比して、得られる満足もより深くなる。
0161Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/18(火) 17:25:33.450
大切なこととして、反応をするということがある。人がある態度をとって、それに対してある気持ちを受け、何かしたくなったとき、
それを反応として行動化することが大切である。つまり、縮こまってしまっていたり、全否定して対抗するなどの行為と考えに
なったときは、それ以上の意味と言うものが生まれない。

ある理論を打ち立てることを目的とするのは間違っている。なぜなら、現実に起こることの全てを把握して、対応策を事前に
用意することは不可能であるからだ。したがって、何かが起こった時、それに対する態度を表すことが大切なのである。
例えば、驚いた表情を見せたり、感心して頷いたりといったことだ。

理論のために人がいるのではなく、人のために理論があるべきである。つまり、反応というのは有であり、また人間存在の
尊重されるところにある本質なのである。現在の存在をすべて否定するなら、それは無意味と言うものである。念仏を
唱えるに、心掛けがなければ、無駄になってしまう。だから、その念仏を唱えていることに、自分で見出している意味
というものを、表し、表現しなければ、何の発展もないのであるし、発展がないのなら、それは無策でしかない。

有なるものに向かい、自然的な態度で行動をする事、つまりニヒリズムの否定こそが、全てのきっかけであり、出発点であり、
ありがたく受け取ることが出来る、自らを肯定するための、天からの視点なのである。
0162考える名無しさん2017/04/20(木) 17:44:23.270
>理論のために人がいるのではなく、人のために理論があるべきである。
よく言えた、それが道しるべだ、
だがその逆も然り、
理論のために人がいるのも正しく、人のために理論があるのも正しい。
対になっている片側だけを捉えることが愚者の捉え方なり。
更に言うならば、もう1歩だ、理論と人が成す対照性があるなら、
その外に理論と人が1つとした意味がなす対象性の存在が隠されている。
その第3の存在を知るときすべてが見えてくる、
さらに外側の視点で見つめるとき世界は自分の中にあり。
0163Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/20(木) 20:19:18.500
>>162
第3の存在というものが、何なのか僕にはわかりませんが、対については考えたことがあります。
「あるものは恐ろしい」と考えるのもいいですが、「恐ろしいものはこのあるものである」と考えると、
恐ろしさのグレードが変わる。後者では、「恐ろしいと言えばこれだ」と言っているのですね。
斯様に集合というのは、面白いもの。前者では、恐ろしいという集合に一つの要素を加えただけなのですが、
後者では、集合の本質の代表として想定していた属性が、まさに発見された、ということです。
後者のために生きていると言っても過言ではないのですね。「あなたは人間である」といってもいいが、
「人間と言えばあなたである」、と言いうるように、自己を持てたら素晴らしいでしょう。
0164今日のポエム2017/04/21(金) 00:44:19.120
第三の存在は扉をあけた先にあるもの、その鍵が対称性による捉え方に隠されていること。
wiki"三位一体"の説明のように
>正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」
>とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての
>神秘であると強調される
信じることによって第三の存在が生(創造)じる、それは究極に感謝することであっても、神を信仰することでない、
神を具現化して比喩された具体的な名前を持つ神を信じることは偶像崇拝と同じであり、この信じることとは違う、
つまりその信じるとは見る(see、look、watch)のsee lookではなく、watchである。
それは見えるものを見るのではなく見えないものを見る意思が生み出すwatch(幻想)である、
存在しないものを信じるとは、主体が主体以外のすべての存在に感謝すること、世界と共に世界が我が中に
浮かび上がるとき、世界の意思が覗けるということ、世界と共に感謝することで世界を信じれば世界が自分で
ある原理ゆえに、世界が自分を祝福(活かして)してくれる、そういう類の信じる力である。
結果に至らない必然性(1歩手前の潜在性)があってこそ結果、決定があるわけで、その必然性を読み取り
世界に必然性を誘い呼び込み、飽和している必然は魔法のように神の奇跡となる、すべての出来事が神の
奇跡である、その神とはGODでもキリストでもアッラーでもギリシャ神話や日本神話の神でもない。
0165Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/21(金) 00:52:20.650
特別な範疇には、それにふさわしい名前を。それが人情と言うものだ。人情と言い出す理由は、
現実の総合が、思考の内容だから。名前を付けない範疇もある。だから、昔から名を持っている
事物には、多くの人が特別だと考えたという経緯があるのだろう。立派な名前を持つ中身ある
範疇。その名前の持つかすかに残されている由来を辿ることにより、見えてくる真理がある。
名前に引きずられすぎず、だが名を使い、真こそを開き明かすのだ。
0167考える名無しさん2017/04/22(土) 02:08:48.260
考えずに考えるんだ、どうやって?そんなの自分で考えろ
0168Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/22(土) 03:55:18.130
過去の人生の記憶は、思い出そうとすれば、あっという間に過ぎてしまったと思え、特に過去にさかのぼるほど
そうである。言ってみれば、空だ。また、現在の事物認識感覚に照らし合わせて、過去を思い出そうとすれば、
それはこだわりであるし、間違いであるし、時間としては、輪廻というべきものである。
色即是空、空即是色というように、色は思い出そうとするとき、空として感じ思うべきであり、
空として感じられるものもすなわちは色と言うものの変化であった、と考えるのが良い。
とにかく、現在の認知に過去の記憶を重ね合わせ再現しようとすることが、最大の間違いである。
記憶は完成しており、玉のようなものである。色と空の違いが、色と空を近づける論理である。
過去が本来的に表されるのと、現在も過去となるということによる、それが涅槃である。

また、他人の心を、自分に重ね合わせて想像するのも間違っている。主観と言うものは、幻である。
主観を追求することに意味はない。それは、上で述べたように、記憶が空である、ということを、
考えたとき、必然としてわかることである。客観で、他人の存在は表され、自分の存在も表される。
主観を客観に近づけるためには、記憶が空となるのと同じように、極限まで推し進めればいい。
そのとき、不完全は、自らを振り返ることをしないで、記憶のあるべき姿を得られなかった
自分が、誤っていたので必然的に感じていたのであったとわかる。悟りを得たひとは、人の完成形である
客観的な生というものを、知っており、他に対して示し伝えることもできるのである。
全ての物体の存在が空である、という見方は、全ての物体に対して現在の「主観」に、物体の存在を
重ね合わせて見ようとするとき、間違いとなることから、証される。客観的物体は、主観を抜き得る
空であると言える。

生きとし生けるものみなについて、この主観に重ね合わせようとしないならば、すべて客観的に現れ、
みなが自然と愛の対象として感じられる。この世界に生きた自分は死ぬので虚しい、といったことが、
正しいのではなく、やはり完結した客観の中に付け加わることが、主観を抜け出た救いであるということを、
私は思い、実感することが出来たのであった。
0169考える名無しさん2017/04/23(日) 02:20:58.320
ミクロの動き形の過去、と、マクロの動き形の過去の記憶は同じ意味ではない
原子の動きが過去のその成り立ちに精密に動いていようと、
マクロである人の形は、2年前のたんぱく質、脂質、糖質が残存していなく
すべて入れ替わっている
0170考える名無しさん2017/04/23(日) 02:24:18.360
ツナミが形を保ち伝えて行く様に
過去の形が全体の群れとして働く仕組みである、
ツナミは繋がっていても同一の延長が過去から未来へ続く仕組みをの固体ではない。
0171Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/23(日) 16:04:35.670
逆恨みと責任転嫁(なすりつけ)に気をつけないといけない。
人は人の責任でもって生きているし、私は私がするしかないということも多い。
だから、正しいことを求めようと信条に思う必要はない。
正義と正義を争っていては、何の正義ぞという結果になってしまう。
理念が形にならないこともこの世の節理だから、全てが形になるわけではない。
ということは、全ての人間が、程度のある正義を持っているのが普通の状態だ。
自分が正しいと思ってすることが、実は(結果としては)正しくないという現実に突き当たってしまう。
だから、他者に対しても、有限な責任しかないのであり、個人には、自分の外から救われることが、最低限度の
許しとして、残されているべきではないか。それを判定するのは、社会的理想であり、個人的親切さである、
或いは個人の自由からくる、気まぐれな遊びのような気持ちであるとか。
0173考える名無しさん2017/04/23(日) 19:12:28.550
悟りは対象として、何を想定しているのか。
そこが理解できれば悟れるかも。
科学の問題ではない。
0175Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/23(日) 19:35:26.640
>>173
生きるために必要なことを知るということを、想定しているのでしょう。労働とは、時間をいくらか使うことであり、
現代なら頭脳労働をするために、何に時間を使って考えるのが正しいのか、ということでしょう。
世の中にはくだらないこと、些末なものも多いから、考える時間を使う必要はない。自分で考えたいことを考える、
考えるべきことを考える、というのが、自分の主体的であるから、考えて意味のあることを考えるのに時間を使う
ことです。くだらないことに没入しないためには、主体性を持たなければならない。くだらないとははレベルの話では
なく、性質の話です。考えることが人間であり、考えることをどれだけやりがいあるままに持てたか、そんなことが、
人生を振り返るうえで、要点になることだと思います。理念的な自由ではなく、手ごたえのある自由というか。
表現が巧みであるかどうか、というのも、二次的な物にすぎないので、文学においても、些末な文体論に
こだわる必要はないのではないか、と僕は思います。
0176美魔女2017/04/23(日) 19:41:49.290
核実験の準備またしてますね✨(>_<)
明日からどうなりそうなの?⤵
0177考える名無しさん2017/04/25(火) 00:02:47.770
理解とは結局は認めることね
証明とか再現できるとか大多数の同意とかじゃない、個人が信じるかどうかの問題さ
客観的な事実を具象化する為に、仕組みや定義の具体性を求めるものは
本質や真理といった類の抽象的な存在の理解はできない。
人の存在は静的に決まる孤立系の物事ではなく、動的にフラクタルが描くような
カオスの中に決まる秩序の物事である。
微妙なバランスの中に無数の制限機能が1つの人としての整合性を保つ。
悟るのは色々な対象において人の心が世界の秩序制限によって1つの答えを出してゆく作業
これも認められるかどうかが重要になりえる、認められなければ過去に縛られ
未来へ進めない、活きよ、そして掴め、選べ、出でよ、開け、答えがなくても
答えは作ることができる、世界に感謝して世界を創造しろ。
0178Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/25(火) 01:01:21.600
>>177
なるほど、人たち全体というカオスの中で、どのような秩序が決まるか、そういった事を扱う理論(少なくともその試み)
が、オカルトなどであるということでしょうか。悟りを、そのような世界と向き合ううえで、まさにアトラクターのような
ものの存在を考えるということなのかもしれません。
0179Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/25(火) 17:20:17.620
物の、名前を呼んでいけ。好きな人の名前だけではなく、お父さん、お母さんなどと。あるいは運転中に、道路、看板
と呼んだり、など。車から見た通行人の、女の人を見て、睨み返されるかもしれないが、それは、おばさん、中学生、
などのように、名前を与えていけば、普通にやり過ごせる。
言葉、名前は、思考に効果を波及する。単語想起は、すでに判断を含んでおり、判断できる人は有能である。
思考の言語化とは、名前どうしの、関係をいろいろに置きなおすものである。名前を得ることに価値があり、それは、
自分が考えられているという事実が、良い方に自分の生を運んでいくことがあるからでもある。助詞や助動詞は、関係性
の表象に、使われるものなのであろう。
名前を呼ぶことをくりかえし、カオスは秩序になしていかれる。そして、人は安心の内におかれる。名前という
ものは、現実の対象と結びつくし、名前だけでも、思考に与える効果は、対象の映像と同じくらいに大きいという
ことも言えるだろう。物の名前を呼ぶということには、現実的認知したなら考えられる、事実のみがあるのではなく、
頭の中への働きかけ、自我との関係性構築などといった、不思議な機能と、連れ立ってくるものなのである。
0180考える名無しさん2017/04/26(水) 00:52:35.990
貴方が信じるものを信じぬけ貫け、たとえ間違いや罪だとしても、信じるとはそういうものだ。
問題があればそれをも取り込み1つの真実として全体が信じる世界を作り上げろ、
それは信じる真理。
そして信じるものに感謝をしろ、自らの力に頼るものは必ず力に支配される、
感謝という心構えを得たとき、世界は疑いや迷いの無い唯一の道を示すだろう。
道が分からず溺れるのは、感謝していない証拠である。
0181Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/26(水) 01:16:06.970
>>180
言葉とは、思考の際の存在の構え(ブイのようなもの)です。その下で、思考を実施する。どのようにか?それは、
脳を、わずかにだけ働かせる、ということ。例えば、空間には、たくさんなものを詰め込めば、情報量が増えて、
小さいものからなる構築が、より経済性のある思考の実施、すなわち、情報処理の量が増える。そういう原理
を考えると、より量の多い方法に当てはまる思考構成に、脳は質として、なっているのだと類推できる。

だから、小さい原理(チイサイゲンリ)、細かい原理(コマカイゲンリ)、を、脳の基本とするべきである。
そのように、経済性の高いわずかな動きの追及において、脳が整理されてより正しく良く働くように
なることは、身体制御の精密さとか、よりよく制御された身体機能と一緒のものである。
だから、感謝とは、そのような、感情という思考のあり方に、一番基本的な型的方策を与えるようなもので
あるゆえに、信じるべきものであるのかもしれない、と僕は考えた。

あなたは信じることが大切であるという。それは、限界まで行くことにより、何かの世俗からの離脱をもたらすもので
あるということを思っておられるだろう。僕は、信念とは別のルートを通って、離脱と解脱への道を歩もうと思う。
それは、知性というものであるのだが、僕のこの道は一貫して迷いなく通っているのだと、見通すことが出来る。
現実的な迷いもない。自らの分際を知ったからだろう。この知りえた分際は、「自己と他者が争わない、相互に所有
しようとして争奪を繰り広げない道」であるので、感情的安楽が嬉しい道であったと言える。そして、この道は、
急かせることがないので、次へ行ける。そんな感じです。
0182考える名無しさん2017/04/26(水) 02:34:41.930
世界は複雑怪奇で混沌としている、そして巡り、遷り行き、揺れ動き変貌してゆく、
常識と思った物であっても、すこしずつ変貌し、
不変たる意味や言葉、概念であっても、その僅かに変化する流れには逆らえない。
その流れは恐ろしく遅く、見えない部分で内包し隠された部分に蓄積に
時に大きく揺れ動く、地震のような発生のありようだ。
今と過去に手がかりを得て踏ん張り、確定した道を絶対的に確実に進んだとしても、
その蓄積の先は累積をもって揺らいでゆく、まっすぐ進んでいるはずなのに
空は銀色の曇り空、進み方向は間違っていないはず、だが、
徐々に方向を狂い、見慣れた世界は繰り返し、予測困難な偶然は予知できず、
学び刻んだ道の後は雪によって見えなくなってゆく。
時に天候が良く方角が分かればいい、しかし時に方角を惑わすどん底に落ち込むこともある、
その落ち込んだとき、そこから抜け出すには常識という明晰で明確を与えてくれる最先端メガネ
では混沌に溺れるだけ、混沌の中では手がかりが無いからだ、
最先端のメガネを捨てなければ混沌の道を進むことはできない、進めないなら天候が回復するまで
消耗を抑えいつ復帰するか分からない長い年月を忍び耐え隠れるべきだ、運がよければ...。
ハワイの原住民が海の真ん中で方角が分からなくなったとき、股の中で収まる金玉の傾きぐわいで、方角を
決定したという、生き残った人の知恵。
順調なときは誰でもなんとかできる、だが最悪に落ちたときどうすればいいか、それが重要。
0183Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/26(水) 03:37:04.870
>>182
外部にどう対応し、自らの困難な状況を、乗り越えるべきか、というような状況なんでしょうか。
人生でとどまっているのですね。確かに、自分の金銭的たくわえがなかったり、人の権力
や害をなす力に、やりこめられてしまい、逃れることができないということもあるはずですが、
まああまり正確な想像は僕にとっては難しい、です。ですが、ひとつづつ解決していけるのは、
おそらく超ラッキーを待つのではなく、自分の能力を、活かす道を見つけること。

何をするにしても、同じところへ行く、すなわち、人間などはちょぼちょぼなものである。
だから、方向転換が出来るなら、気軽にするべきである。駄目なら戻ればいい、そんな
余裕はあるでしょうか。

あまり経験豊富ではなく、友達付き合いもあまり得意じゃなかった僕が言うのもなんですが、

複雑怪奇といのは、その通りだと思います。それが猛威を振るうときはやり過ごすべき、あるいは、
そっと観察するか。
大事なことは、自分の愛と心、そして、それを確かに、表現することだと思います。人生の難しさに、
様々な準備や心がけをもって、怠惰な人間であってはあまり良くないということも、あるでしょうが、
それでも何とかやっていけるもの。そして、その先には、光が待っている。

本当に大事なものがあるなら、それを大切にするべきですね。僕は、人生最大の失敗をもうやってしまった
後なので、まあ逆に気は楽です。狂気の愛と、その破滅は、心に深い意味を与えました。

睡眠と食事を欠かさず、幅広い知識を、ゆったりと頑張っていれば、自然と自分の力が、あることに気づくのでは
ないでしょうか。何を目的にするかは、それほど重要ではないと。

あてずっぽうで想像したので、あまりいい加減な創造で描いた部分は、ご容赦いただきたい。
ぼくなりのエールはこんなところです。
0185考える名無しさん2017/04/26(水) 16:59:45.530
私を含めて、言葉は人に捧げるものではなく、自分自身へ響かせるもの
心で思うのは自分自身の思考だ、
他人に投げ捨て記憶にとどまらない言葉は自分の為にはならない、
そして言葉は今を言葉にしても未来には続かない、嘘偽りであっても未来を
発することが自分自身の形に繋がる、言ったことが出来る必要などないのだよ。
0186考える名無しさん2017/04/26(水) 18:50:36.940
見えない具体さを掴むにはどうすればいいのか?
具体さの無いものを掴み取るには具体化することではない、
感じ取り観念として受け入れ信じること

信仰者にしか存在しない神を理解するには、神と割り切って
言葉にしてはならない、信仰者の立場となりて感じること、
それは自分が理解できる主体的意味ではない、信仰する他者の意味である、
信仰そのものが神であり、信仰なしで神を語れば嘘になる。
経験と知識による常識が簡単な捉え方に流れるからこそ神は偶像になる
理解するな感じろ、目指すものに具体性は薄い。
0187Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/04/26(水) 19:09:36.250
兵法などは、論理の存在を認めたうえで、その論理の組み立て方に優劣を、つけるために、理論を
持ってきているでしょう。それは、抽象化すれば、自然とは別次元の理論、自然が組み立てなおされるべき、超自然
の理論となるはずです。そして、もっと進めれば、自然とも一体化する。そのような、試みは、神理解にも、
信仰の歴史の理解にも、なるのでしょう。生きるべき道、なぜ生きるか、なんてことは、普通には答えられず、
また、聞くのも身を引いて聞かねばなりません。つまり、重要さがはなはだしいわけで。
世にある仕事の進め方も、突き詰めれば「何々道」となるというわけで。
0190Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/01(月) 21:58:07.540
肉とは柔らかいものだ。動くためには柔らかくなければならない。柔らかくていいことの一つに柔軟性があるのである。
言葉も柔らかく、思考も柔らかく。やや抽象的だが、柔らかい肉をほぐすことでいいことは、
可動性を高めてくれるということである。肉の感覚にある、柔らかさには、複雑さをもたらすような、生物としての
強さが、現れている。複雑を表すには、硬くてはだめで、より複雑に相互に侵入するような仕組みを持っていれば、
物質としては壊れにくく、言葉としては間違いを確定しないことが、そして思考には、順序への寛容さがもたらされる。
遊びがある存在は、強いのである。硬直していてはストレスに弱いが、その克服を、柔らかさがもたらす。
0191考える名無しさん2017/05/02(火) 12:24:28.970
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0192考える名無しさん2017/05/02(火) 13:30:04.580
まずは、謙虚さ(humility)と盲目の服従(blind obedience)の違いを知ることでしょう。
正しいと言われたことを、言われたとおりにやり、他人にもそのとおりにさせようとする
のは、盲目の服従であって、謙虚さではない。むしろ、それは、謙虚さとは相容れない
権威主義である。
0193考える名無しさん2017/05/02(火) 14:02:33.760
無論、他者から正しいと言われたことを、根拠もなく拒絶するのは謙虚さではない。
その正しさを疑う根拠がなければ、暫定的にその正しさを受け入れてみるのは、
謙虚な姿勢である。しかし、自分が他人から受け入れた正しさを、自分がそれを
受け入れたという理由で、そうすることを拒絶する別の他人に受け入れさせようと
するのは、権威主義であり、その場合に謙虚な姿勢とは、その別の他人が、その
正しさを拒絶する根拠を理解しようとすることである。自分が受け入れている
正しさを相手が拒絶する理由を理解することなしに、その正しさを相手に強要
するなら、それが誤りであったことが判明した場合、その誤りの責任は当然、
相手にそれを強制した自らが負わなければならない。自分は、他人から正しい
と言われたことをやっただけだなどと言って、責任を免れることはできない。
それを自覚することが謙虚さである。
0194考える名無しさん2017/05/02(火) 14:08:01.770
権威主義は、他人に正しさ強制することのみによって成立しているわけではなく、
さらに別の他人に正しさを強制するように正しさを受け入れた他人に強制する
ことによって成立している。いわば、正しさのねずみ講である。
0195考える名無しさん2017/05/02(火) 14:31:52.340
権威主義の組織を構築するためには、謙虚さを破壊するための常套手段というのがあって、
謙虚な姿勢をとろうとする人間がいれば、わざとトラブルを多発させて謙虚な姿勢で
対応したのではオーバーフロー状態になって処理が追いつかないようにする。
0196Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/02(火) 17:24:48.980
>>192
その違いに気づくことは重要です。わかっていたとしても、それらを応用することが、なかなかできないのは、自分を
間違えてしまっているからですね。間違う理由とは、自分自身に対してごまかしを、してきてずっといるからでしょう。
結果に対して、しっかりと気をつけようとしないから、治らないのでしょう。結果の原因を探す習慣をつけなければならない。

>>193
自分の間違いに気づくことがhumilityで、気づけたなら、強行はできないもの。グレーゾーンがいじめなどにつながる。
責任転嫁ですね。

>>194
正しさへの注意が、他人のフィルターを通すことで、薄まってしまう、そんな機構があると思います。

>>195
事実のどれを教義にするかという偏向があり、謙虚さが邪魔になる場合、それを論理的に否定することを行う、
つまり、良心がその問題においては、不明確になるのだと思います。
0197考える名無しさん2017/05/03(水) 07:52:27.240
すべての階層組織は、次の2つの要件を満たすことによって成立している。

1. 命令に従わせること。
2. 命令に従わせる/従うのが正しいことであると正当化する/させること。

この2つの要件を満たすことができなければ、階層組織は機能しない。
したがって、この2つの要件を満たすためにどのような手段、手法、
技法、技巧などが用いられているのかを具体的に正確に記述すれば、
特定の階層組織の性質を理解することができる。
0198考える名無しさん2017/05/03(水) 10:56:03.250
階層組織がその成員に対して「謙虚さ」を求めるとき、求められているのは、盲目の追従
であるか、謙虚さに偽装した盲目の追従である。階層組織がその成員に真の謙虚さを求める
ことは決してない。なぜなら、その成員が謙虚であることは、階層組織化の機能に反する
からである。ただし、あからさまな盲目の追従は、対外的な関係において上層の責任も
可視化してしまうので、盲目の追従を謙虚さに偽装する技能に優れた成員が組織から
高く評価されるのである。
0199考える名無しさん2017/05/03(水) 13:06:20.030
催眠術を勉強しています
0201Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/03(水) 15:18:05.820
>>198
盲目の追従を、実現することは、割と簡単なのが、嫌ですね。数で押せばいい。また、国旗国歌とか。
恐怖を使えば、簡単。人間の醜さが表れる所で、何の意味もないように思います。人間が一番得意
とするところが科学技術で、一番苦手なのが政治である。だから人類が滅亡しそうになる。
もっとも、そういうことにふさいでいても仕方がない、物事を整理して良い方へ導けるよう、
とくに努力を要するのが、そういう場面。これもまた嫌なことで、すぱっと整理して導いてくれる
ようなことを、期待しつつも、期待しきれない自己勝手さが僕の中にもある。まだまだ、視野を広げ沢山の
理由を考えるということを経験しなければいけないと思います。我こそは知恵を持ちたり、なんてことを誇るのは、
またばかだと思われる。皆、それぞれの知恵はあるのに、上手く使わない。協力が苦手なんだ。
いいことはいい、悪いことは悪いとわかっていても、間違うことがある。
利害がぶつかった時、どう調停するか、公正な審判役も必要だ。考えるということが、
楽しいことだということに、道を見出さねばならない気もします。怠け心は、危険である。
勤勉さも危険である。盲目的なのが一番危険である。というのはつまり、盲目的なのは、
止まらない列車だからです。ボスになりたいという本能を、謙虚に乗り越えられるか。
人間の理性は、利害を何かによって代償する、という、文化的、社会的構造の機能によって、
保証するという仕組みを作っていかないといけないのではないか。一番の悪心は、未成熟によって
なされる。成熟がなっていないところを発見して、育てなければならない。だが、そういうことを思っても、
本当にそうなのか。悟りを希望としてみています。人は、生きることに努力を必要とするのである。
甘やかされても、実情はそうであるらしい。豊かさの中に道を見失い、甘え、みくびり。
死ぬようなことが、幸せな最後であればと、いつも願う。長い年月をかけた苦悶の中で、
生きることを楽しく、みずみずしくしたい。本能は生きることを肯定する。理性は良く生きるための条件を、
おしえる。問題解決と、節制と、人生の喜びが、謙虚に誰もに持たれうる。
0202Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/03(水) 17:39:10.770
頭の中に、外部から気が入ってきて、流動するようなイメージを持つとよい。この感覚とは、おそらくは目の使い方
ということになるのだと思う。とにかく、内部と外部との境目は、意識する意味がないのだろう。どんなに自然を
失っても、自分が孤立しておらず、気の中に生きているものだと思えば、対人の恐怖も薄らぐのである。
偽善とか、人の責任は、助け合いをもたらす気の循環によって、有限な境界内を、外部とつながるための
意識を持つことで、どこまで責任を果たすべきかという点で、区別をしないように、自然に起こり、治まる。
気の流入は、もちろん呼吸の事であり、見えないものに生かされていると思うことで、物事の順序に
秩序を与える。自分が生きるということは、気の中で、存在することを、助けとする。
0203学術2017/05/03(水) 17:40:10.990
サトリ、佐鳥、蠍座
0204美魔女2017/05/03(水) 17:59:19.290
>>203
サントリー🌋
0206Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/03(水) 19:40:14.470
>>202
気の循環、身体を吹き過ぎる風の体感を得た次には、情報の循環に進むべきであろう。

人は、自分と言うものについて、所有していると思い、攻撃されたりした場合は、守ろうとする。直接攻撃
でなくとも、日常のやり取りで、そんなことは当たり前にある。だが、他者はもちろん攻撃してくることは、
それほど執拗ではないはずだ。というのは、自分の考えと、外部の情報とを、見比べて、その間に境を
作るのが、拒絶であるが、情報を取り入れるという選択もあるのである。つまり、外部およびそれを受け取る
内部について、情報の拒絶と許容の、意識を持てる。全てを拒絶してしまっては、何もできないうつむきだし、
全てを受け入れるのも、能力的に不可能である。だから、自分の姿勢を、保つことをして、攻めも守りも、
自由に制御できることが、賢いのである。
また、自らの気持ちを、否定してばかりいると、自分が害されてしまう。そのような状況に至った時は、
環境を変えて、別の環境へ移るべきである。どんな暗闇の中で過ごすことも、ありえる。旅に出る
などと言う場合、様々な経験が出来る。自らに絶望してしまった人間は、情報の拒絶と許容について、
振り返ってみることで、可能性を取り戻せるであろう。悪意の目がじっと見ているような気分になれば、
ストレスが一気に上がる。

自らの思考に、外部と内部の区別を行ったり行わなかったりすること、気を許すなどといったことを、上手に
自分なりにすること、そんな風に世渡りはするべきではないか。今まで拒絶していた他人に対し、情報に
対し、受け入れようとしてみたら、意外とすんなりいく場合も多いだろう。拒絶している人間に対して、
快く思うような人はいないはずだ。害をなされないならばなるべく他者を受け入れよう。
0207考える名無しさん2017/05/03(水) 20:06:35.470
民主主義の理念を実現した階層組織というものが存在し得るのかどうかを考えてみるといい。
ところで、実在するあらゆる民主主義国家における組織は、国家という組織自体も含めて
階層構造をしている。民主主義の理念と階層組織が両立しないとするなら、どちらかを
手放さなければ、根本的な矛盾が解消されないままであることになる。ところが、民主
主義の理念の追求を保証しているのは、国家、および国家の相互関係である。民主主義
の理念の追求を保証しているのが階層構造をした組織であるという矛盾は、階層構造を
解体してしまえば、真の民主主義が実現されるなどということはありそうにないことを
明らかにしている。
0209現象のクマモン2017/05/03(水) 21:14:26.340
モノとは何かお?
0210現象のクマモン2017/05/03(水) 21:16:16.190
それはおまえ、
モノとは、われわれの外に在るのかお
それとも内にあるのかお
どっちなんだお。
0211現象のクマモン2017/05/03(水) 21:17:43.040
それは、モノは内にあるんだお。
外にあるように見せかけて内なんだお。
0212現象のクマモン2017/05/03(水) 21:21:22.180
簡単に説明するお。

「波」とはなにかお。
誰か「波」とは、なにか簡単に説明してほしいお。
0213現象のクマモン2017/05/03(水) 21:52:24.090
やっぱ、やめるお。フッサールの本質直観を説明しようと思ったけどど・・
0214考える名無しさん2017/05/03(水) 22:23:07.280
>>212
波とは波平の波、これがもっとも簡単な説明だ
モノとは物、物体のモノだ、これがもっとも簡単な説明だ

貴方が望んでいるのは簡単に説明されたいこと、つまり一言で言わなければ簡単ではない。
世界の説明は原理が組み合わさり因果した仕組みを理解したものだ、
それは世界が何故あるという問いではない、根源と定義した原理法則を認めないものには
その仕組みは信じられない。
つまり信じる姿勢があれば何であっても理解し説明されたと信じられる。
貴方は割り切れない無限数列を具体的に数値列で表したいという願望とその説明の主張でしかない、
永遠に無駄で無意味な目的だと悟れ。
0215現象のクマモン2017/05/04(木) 11:46:25.610
愚かな、割り切れるお。
「波平」さんの「波」って言うだろうなと思っていたけど、本当に言うんだねぇ
0216Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/04(木) 13:04:40.570
なんでも自分のことばかり考えても仕方がない。自分は有限で他は無限。自分の能力、自分の力などはもういい。
他のことも、考えるようにしよう。自分のことばかり考えて、自分に関してしか物事が存在しないと考えるなら、
すべては朽ちてしまうのだから、自分の思考は、どれだけ飾り立てても、意味がない。だが、他は違う。
他においては、変化、影響は保存される。従って、他は自を越えている。従って、他における他の存在、
他のことを考えることを第一義にするような行動、それらは、自という存在からは、自を離脱する、
大きなきっかけであるので、他への思慕、他の尊重、じぶんならざる者への感謝、感謝によって、自と他は
共存できる。自に思える事ではなく、他自体の存在、他に始まり他に終わる事たち、正しいかどうかは
他が決めるもの、それでいいのではないか。傾向として、また、原理として、他の理解、他を知ること、
他になること(頭の中で)、そうした心掛けにおいて、安心は生まれるのである。他において、命の有限な
自は、孤立せず、虚しくもなく、決して間違っていない、世界との同一化、そういった状態へ至ることができる。
自の自意識を、拡大しようとする、おかしな競争主義の、陥れようとする悪魔に対して、それを、退けること、
そのおかしな共倒れ、虚飾の存在、それは、誘惑、幻惑、嫉妬心によって、私に働きかける。私はそれを、
愚かで哀れであるとさえ思わない。悪魔は、悪を知っているのだ。私はけなされ、悪に染まった。
だが、自が悪となったといえども、悪でないもの、自の外にある自然や世界、それらの力を借りて、
それらと交わることで、それらが悪ではなかったのだと、汚染された自意識、自分観、意識の持ちよう
といったものが、全てではないのだと、知りえたゆえに。私は悟りについて考える。自の悟り、他の悟り。
自と他の相互否定、持ち上げて落とすこと。自を立場に置き、それを攻撃して悦に入る。私の好きな他は、
自を越えて語り掛けてくるから好きなのだ。私は他のことを考えよう。それは、自のためではなく、他自体
をありのままに見る視点だ。そのようにして、正しい人間観を持った人が、もはや悪をないものとし。
他人の瞳に映った私の姿を見るのではない。他人の瞳をそのまま見るのだ。
0217Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/05(金) 18:14:46.650
自と他の境目が、あるはずである。それが明確でないと、混乱して不快になる。答えを出せない。自信をもてない。
過去の人生の中で、思い返したときに引っかかる記憶はないか。また、理解しようとしてもつまづいてしまう箇所は
ないか。それらによって、かき回されたり、自己が不快、困惑、囚われてしまわないか。
身体において、全体全てが健康で、爽快であるなら問題はない。どこかに問題がある場合、その個所を
意識して、ほぐさねばならない。文章を読んで引っかかる場所はないか。自の境界が、頭をかき乱す
ことはないか。

以上において、記憶、心、身、自己の範囲と言ったことについて、良くない個所を探すことが解放への一つの
貢献であるということを言った。不快がなければ、全ての人生を見通すことが出来る。そして、不快がどこにも
ないのであれば、不快の幻惑が心を乱さないなら、死においても、負のベクトルへ振れる気持ちに囚われて
しまうことはない。たださみしさとお別れが、あるだけだ。寿命を気にするよりも、存在自体の健やかさを
もった状態に至ることの方を、心がけるべきである。生と死の境界線があやふやであり、浸潤しあっている
状態では、正しい終わり方をしない。不快な点を探し乗り越えよ。知るべき(必要、必然)である全てを知れ。
その生は、全てにおいて正しい場所に納まり、死すると言っても、それは有限なるものとしての本来から
要請され、生はもがきの中に見える遠い風景だ……。やがては見えなくなる。一人になり無になる。
全体の中においては、同じ状態へと至る、無限の遠さは、宇宙の原則としてのものであり、そこから生まれた
人は、その絶対的な存在の中へ帰っていく。
0218Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/05(金) 21:34:43.720
現在のところ、色々と理解が出来ないことに対して、間違った受け取り方をしてしまったゆえに、不快な思いを
する人も多いであろう。だが、その程度の事にくじけていてはならない。例えば、雑誌が乱雑に並んでいて、
その背表紙の月数を、5, 7, 6と並んでいたら、思わず5, 6, 7と並べなおす想像をして、とりとめない
思いに囚われてしまうといったことがある。こういうことをしている人が、まともな考えをまとめられるはずもない。
だが、正しい想起は、5, 7, 6といって並んでいるのに対して、カレンダーの日付を想起するべきだったのだ、
と理解が通じた!このように、正しい道はあるのであった。こんな状態で話が、性善説か性悪説かといった議論を
吹っ掛けられたりしたら、たまったものではない。

だが、正しい理解というのは、立場に依らないのである。立場を押し付けるのは、理解が足りないせいでもある。
それと同等な位置に立てない人もいる。自分の理解の間違っているのを、決定的だと見ないことだ。
どこかに、正しい日付を、想起できる。記号には、言葉には、概念には、そのような選択性があり、正しい
主張しかないのだ。つまり、間違っているとは、とりあえずの事でしかない。全ては、意味が違うという、
矛盾を、回避する体系の構築から起こる。矛盾を盾にとって、何かを食い物にする、そんな状態は、
長くは続かない。なぜなら、真理への管は、全てに対して開かれているはずであるから。人間に対する
態度というものは、さまざまである。様々な言い分、見方などがあるはずである。
雑誌の日付はいつでもそこにあった。矛盾を回避しようとすることのいじらしき意志よ、報われてあれ。
02192017/05/06(土) 01:44:07.020
わるいことはしてはいけません。
よいことをしましょう。
よいこととはいのちをたいせつにすることです。
わるいこととはいのちをらんぼうにあつかうことです。
0221Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/06(土) 15:44:29.710
頭で考えることは、現実とくらべると、現実が基礎をしっかりと出してくるのに比べて、ずっと同じ状態で続くという
ことはない。どんなに嫌なことでも、それは、頭で考え、思い出していることでしかない。この、考え=仮想という
性質を、わきまえていれば、ああ、嫌なことを考えたな、と現実に戻ってくることが出来る。憤慨しても、
仮想はやがておさまり、考えと言う、責任を持たないもの、自分以外には伝わらないものは、存在の原則
ではない。思い付きを事実に対して上位に置くならば、夢の現実化ということになる。それはそれで
結構だし、理想と言うものもある。だが、僕自身が思うのは、仮想、思い出しなどにある、ごまかしである。
色んな仮想は、必要であるからするのだが、現実を捉えることが重要だと思うなら、仮想の限界を、
上位においてはならない。ただ思ったことだ、という性質を考えなければならない。行動に移すべきこと
について考えなければ生きてはいけないが、変えようのない過去の出来事に集中しているとして、
それが、もはや、何度何度も思い返す必要はないと気づいたならば、新しいことへと考えを向ける
時間があるということになり、ただの思考に責任を持たなくてもいいのである。
0222考える名無しさん2017/05/06(土) 23:03:59.450
甘いな。現在のことが過去を想起させる。一度あったことは再び起きる
可能性があり、二度あることは三度ある。いくら今回は、別の可能性が
開かれているはずだと自分に言い聞かせたところで、再びすべてが徒労
に終わる可能性や、さらに前と同じく悲惨な状況に追い込まれる可能性
が想起されれば、現在、取り組んでいることに最善の努力を注ぎ込む
ことは難しい。
0223Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/07(日) 00:27:28.730
>>222
悪夢は永遠に続くものではないが、世界とは永遠に続くものである。
悪夢を見て、覚めることがないということがあるなら、それは、死がある種の救いであったと言えるかも
しれない。認識においては、個の生の差があるにしろ、それでも大悲によって、人類という種は前に進んで
いかなければならない。一瞬においても、呼吸をしたものは、それで生きたと言っていいではないかと思う。
悲なるがゆえに思が働き、他を認める。救われて、迷いから抜け出る。そして悟る。痛みのある悲しみを、
思い返すのは、人の根源だ。責任のない程度の思考において、自分のモチベーションを上げられない
ということであるなら、その悪夢を終わらせたいという気持ちになった時に、目覚めたいと思えばよい。
目覚めることが出来るという思考の特徴を、知ればいいと思う。
0224考える名無しさん2017/05/07(日) 10:50:47.670
人は、自分の都合のいいことをする他者を尊敬し、賞賛する一方で、
自分に都合の悪いことをする他者を非難する。また、表立って賞賛する
ことや非難することが自分に不都合をもたらす場合には黙り込む。
ただし、黙り込んでいるからといって、自分にとって都合がいいことを
賞賛し、都合が悪いことを非難する気持ちが変わるわけではない。
そのような利己的な賞賛や非難の態度がなんらかの倫理を生むとすれば、
それは、自らが人であろうとすることを介してである他ない。
0225学術2017/05/07(日) 11:41:55.850
自他の境界は、他者の中にあるとも言えないし、通り戻って
自分が他のかもわからないよねえ。

悪夢でも悪魔とコミュニケイトと出来て、人生を、うまくいくようにできるなら、
悪夢もまた、良夢もいいものだろうか。

都合のいい時はノリがよくて、都合が悪いと辛酸句をなめる。

人間はわがままにできていていいものだ。
0226考える名無しさん2017/05/07(日) 11:42:04.640
非限定的な相互関係こそが自己の人としての在り方を規定しているという考え方は、
支配者にとって最も都合が悪い。そのような考え方を排除するためにこそ、「利己的な
遺伝子」、「自由な個人」、「個人間の相互関係」、「集団間の相互関係」といった
限定された自己に基づく関係か、さもなければ「無限の他者」といった無限定の非相互
関係について議論することが思想・哲学業界において絶えず賞揚されているのである。
0227考える名無しさん2017/05/07(日) 11:43:15.000
自分が 自 なのか分からない。

とどのつまり、他動詞と自動詞を持たない言語種族もいるわけで、
そこらへんからがきっかけとなると思う。
0228考える名無しさん2017/05/07(日) 13:08:02.600
限定された自己に基づく関係と無限定の非相互的関係は、支配者が被支配者に求める
2つの要件に対応している。政治的に「限定された自己に基づく関係」は開き直りであり、
「無限定の非相互的関係」は帰依である。開き直りには、「正しさ」はないのだから、
力関係において優位の者が劣位の者に対して開き直ることが「正当化」されて、関係
の一方向性が確保され、帰依は、帰依する者の「自己責任」において、やはり一方向性が
確保される。
0229考える名無しさん2017/05/07(日) 16:11:03.240
こういう力が強いものが力の弱いものより常に上だと思い込む奴には高尚の次元へは至れない。
自分の無能さを呪え。
0230考える名無しさん2017/05/07(日) 18:23:05.880
力の優位は支配権力ではない。力の優位を支配権力に変換するには、
そのための技法を必要とする。
0231Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/07(日) 19:03:04.670
>>224
人であろうとする意志は、例えば僕のは、大人になり、苦を楽しめること、美しさを求めることに、あります。
僕が、死が怖いのと、寂しいのとが、感じられて、さらに、怒りを鎮めることが出来たとかを感じます。
人でなかったほどに悪かった僕が、人並みに自分を感じられるようになったのは、やはり、哲学的
思考によってです。詳しく言いますと、前頭葉を使って考えるのは基本ですが、言葉の理解とは、単語や文字などを、
近づけて意味づける、という方法に依り、脳内の回路においても、近くにある部位は近い同士で、遠くにおいては
あまり関係がなくして、概念なども、近づけて考えると、理解が早い。そういったことなのです。

>>225
わがままで、それがいい、というのは、面白いですし、なるほどと思います。非常に優れた視点だと
思います。

>>226
非限定的とは、無償の愛といったものでしょうか。無限の他者というのは、謎めいた言葉ですね。自己を
保たないようにするために、仕掛けられているのでしょうか。政治と歴史に詳しくなく、まだそういった
概念のことを、学ぼうとしている段階です。(今読んでいるのは、『西洋思想の流れ』という本です)

>>227
自分の周りにある物を、自分として、遠くにあるものを、他として考えるのが、いいと思います。「故郷は遠くにありて
想うもの」という言葉もありますが。

>>228
一方向性というキーワードは面白いです。上下関係、優劣関係、などで、確保されがちであると思います。
帰依は、なるべく一方向でないようにするべきのように思いますが、偽善的考えかもしれません。

>>229
高尚なるもの、公平でかつ情熱的な考えがいいと思います。

>>230
支配権力の技法について考えるのは、敵情視察(反権力を目的とする)としての意味がありますよね?
0233考える名無しさん2017/05/10(水) 01:28:23.200
>>231
高尚なものを知りえないものには、知りえるものと対等になる公平はありえない。
例えば神は高尚な存在だが、神を信仰しないものにはまったく価値などない、
0234Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/10(水) 12:02:43.530
>>233
抜きんでているものを知るということが、難しいことの例は、学問や芸術というところでしょうか。それは確かに
公平ではない。公平でありうるような、高い次元のものとして、時間であるとか、自我であるとか、
距離であるとか言ったことがあると思います。これらは教養や知性とは、あまり関係がないので、
生得的なものと言えるのかもしれませんが。また、高尚は運に関係がないので、公平かな、
と思いました。神の一手を打てるものは、高尚の極みとも言えるかもしれません。
高尚さの、価値には、疑うところはありませんし、それに届くように頑張ることは、やはり疑うところは
ありません。ただ、愛は高尚さに勝ると、僕は思っているのですが。くらべるような事ではないとも、
思いますが。高尚さは楽しくて、酔わせるものですが、高尚さというものがレベルに関係がある
ので、それには上位概念が存在していて、例えば知恵といったものが、高尚さのなかにある
場合には、それは普通の高尚さよりも、高い価値があるはずです。つまり、高尚さという概念には、
目くらましをかけることが存在していると思います。高尚さとは、拍手する、されるようなもので、集合的な価値
という面もあります。通る道はさまざまであり、神については、目くらましを越えて、その真実の存在を
得たときに、神はやはり素晴らしいものだった、と、普遍的な意識で、自己を革新する事でしょう。
いずれにせよ夢をかけることの、素晴らしさが、高尚なものには在って、それはやはり、一つの
人生の目標として、意味のあることです。普通に暮らしていても、高尚が指針となる場合もあるわけで、
ただの遊びにとどまらない自己実現として、考えと融和した文化を、作り上げることに意味があるでしょう。

まとめると、知恵が最上のものであり、高尚の価値は、自己実現にある。目くらましを越えて、真実の
存在を見ることこそが、学問や文化の、本当の価値である。人との比較は、自己にとって意味があるので
なければ、不必要なものとなる。だから、他人において期待するべきことは、愛ということの、不動性である。
僕は、あなたの境地には期待しています。このように、インターネットで間接的に交流することこそが、まさに
高尚さというものではありませんか。触れ合うまでに。
0235Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/10(水) 19:28:15.510
自分以外のことについて、怒ろうとすると、涙が出てきてしまう。脆弱な自我に、叱咤をかけねばならない。
もし、自分以外の事で怒れたら、政治家の立場で考える資格がある。政治家は、自分のことでない怒りを
持てるか?本心から……。怒りは常に、正しさと関係がある。社会とつながっていることで、自分を越えた
ものと、結びつくことになる。自分と言う本当に小さなものが、とても大きなものについて、考えを巡らせられたら。
だが、誰の為に怒るかというと、それはもちろん、小さなもののためだ。大が小を損なうことにこそ、
怒るべきだ。小が大を損なうという場合は、それはもはや小ではないのだ。観念の問題だが、そこには、
責任や原因といったものについての、評価が表れている。自分と自分以外のものは、それほどには疎遠ではない。
むしろ、そういったものへの関わりは、常に大きいのだと思わざるを得ない。
小が小を責める小競り合い、大が大を責める戦争。小が小を助ける市民性、大が大を助ける人類愛。
怒りとは、身につければ、自分以上のものへつながるものであり、太い綱を引きあうような、力を込めた、
ある種の人格性を育てるうえで必要なものでもある。コントロールされた怒りや、深い怒り、自分のためでは
ないこと、伝播するものではない怒り、それらは正しく責任を位置づけようとする争いだ。きっと、心が病んでしまったと
しても、じぶんではない者が存在するのだから、自分のために怒ってくれるものさえ、いるのだと信じる。
怒りを通じて精神性は、強靭性を取り戻す。
0236Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/10(水) 21:08:22.390
脳にしろ身体の各部分にしろ、大きくするというイメージと感覚が大切である。考えや記憶も、大きく広げることが
大切である。また、繰り返し訪れる怒りには、自分自身が理由である場合がほとんどなので、対象をではなく、
そのとき(過去)の自分自身に対して、自分自身(の記憶的自己感)を大きくしようと心掛けなければ、解決しない。
現実が大事なのであるから、大が小を含むのであるということを考えるのが大切である。そのようにして
作られた存在は、限界を知っており、死においてあたふたしない。
これらの操作は、何の引き換えも必要ではなく、ただ自分が楽になるばかりであり、幸せや成功をもたらすもの
である。失敗を恐れる際に、その行為に対する思考を、より大きな観点から包み込んで観察し、大丈夫である
という感覚が持てれば、実行に移すのが良い。
0237考える名無しさん2017/05/11(木) 01:35:52.030
>自分以外のことについて、怒ろうとすると、涙が出てきてしまう。脆弱な自我に、叱咤をかけねばならない。
単にドーパミンとセロトニン制御ができないだけだ、人の抽象的行動原理など脳内ホルモンに制御されているのに過ぎない。
それは理性の部分ではない。
http://img01.ti-da.net/usr/z/i/o/ziongardenkibou/01_image.jpg
0238Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/12(金) 18:25:37.670
>>237
「セロトニンの活動を制御する外側手綱核という脳領域は、動物が不快な状況や予想より悪い状況に陥ると
活性化されることが明らかとなっています。」http://www.riken.jp/pr/press/2013/20130515_1/

認知と脳内ホルモンの関係です。私は、二十年来患ってきた統合失調症が、今日、「完治」しましたが、そのために
とった方法とは、筋肉の緊張をほぐすというものです。特に必要とされるのは、眼筋をほぐすことです。
それは、簡単にはいきませんが。時間がかかるのです。

話は変わりますが、表情を作ることで、そこへ注ぎ込む感情を、実現することができます。感情の起伏が豊か
なほど、魅力的な存在であることができます。形と不定形は、お互いに必要とし合う。もちろん、
やかましいとかだらしないとかいった行動ではだめで、
人間の感情は、常に自己に把握されているべきである。そして、選ぶ他というものは、そのような自己の誠実さ
によらなければならない。また、文章などについても、意味をそこに込めるという行動において、
人間性に寄与するわけだと思います。感情も文も、人間としての構成を、根底から学びなおすという行為
であるわけですね。
人も、理性も、存在も、同じところから生まれた。ということを認めれば、それは真理の存在を示しているようです。
人間の栄光を、実現できるということが、私の快癒状態における実感です。
0239Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/13(土) 16:50:54.430
悲しみに臥せるのではなく、悲しみを理解できるように、理論を作りなさい。
例えば、表情が感情とつながっている、という話があります。悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか、
という有名な話があります。表情は感情を耐えるための理論。そして、理論は、いつも変えなさい。
例えば、飼い犬に接するような態度で、ライオンに対しようとすれば、やられてしまいます。
演繹的に理解しようとするなら、仮定とする理論に対して、それが当てはまるような事象であったのか、
ということを、考えあわせねばなりません。一つの理論にこだわらず、全ての理論を試さなければ
なりません。それは、上手くいく時も行かない時もあります。ストレスは、先が見えないときに、とても
大きくなり、感情も昂ぶっていき、不快感に囚われてしまいます。そんなとき、ストレスは、原因に対し
理論を変えてトライする余地があるのだと、知っていれば、大変に軽減することができます。
哲学の益とは、一つには、個人が物事を理解するための方法や観点を提供することであり、
知を愛することが出来るものは、知に意味を見出せるものなのです。そして、理解するだけではなく、
物事を作り出していくうえで、ためになること、「世界を愛するための方法」であり、危機からの脱出、
観点を変えれば簡単に問題が解けるという例を重ねていくことであり、虚しいということを、助けるもの、
からっぽに意味を与えていくこと。理論は、習うか、自分で作っていくかをしなければならない、ということ
を、全ての哲学者は、言いたかったはずです。もともと完全なる知が存在しないのであるというなら、
つぎはぎを作って、問題に対することを工夫するべきなのだと思います。作ったつぎはぎは、一つの
理論ではないということの証明であり、一つにする必要はないということであると思います。
多様な理論を、一人の自分が持っていて、使ってきた、そのようなことが言えると思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114869176
0240Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/14(日) 19:37:11.190
視界には限界がある。無限遠を見ることは不可能だ。そしておそらく、無限遠の手前のどこかで、視界は閉じている
のではないか、と考えられる。そう考える助走として、上下左右の視界に限界があるということも、視界の原理
に関わってくることであるだろう。閉じた視界内と、その外側があるのだとすれば、その境は必ずあるのである。
このため、世界に限界が生まれる。もし、原理的には無限遠を見ることが出来るのだとすれば、人間の視界
の限界はない。そのことが、どのような意味を持つかは、私には良く分からない。ただ、視界の広さが、幸福
なのであり、優等性でもあるので、無限遠を得られたらいいのだがな、とぼんやりと考える。
0242Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/15(月) 22:29:40.850
視界は、漫然と見るのではなく、どの視界の部分を切り取るか、という点が、大変に自由だ。
好きなもの、好きな範囲で切り取ることができる。それは、常に行える自由であり、個人の
好みであり、能力である。それを気づかないでいると、自分が自由でなくなってくる。全ての
影響を、一身に受けているような気がして、落ち着かなくなる。ショッピングモールなどを歩いていても、
人の目が気になる。どんな視界も、自由に選び切り取れるという能力を持っていれば、毎日が新鮮である。
0243Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/15(月) 22:48:03.880
文章や時間なども同様だ。好きに切り取って、把握できる。それが、自由であり、喜びだ。
0244考える名無しさん2017/05/15(月) 22:50:49.090
>視界には限界がある。無限遠を見ることは不可能だ。
見えないものを見るのではない、限界の先を眺めるは不可能だが
限界の先を己の意志を貫き見通し得るのは不可能ではない。

限界とは諦めたときにその壁が現れる、届かないというのは心の壁にすぎない。
そして壁は自分主体の直接の力が及ぶ範囲を判断すること、自分の力が届かなければ
その先に届く手に意志を受け継ぎ代行するという術がある。
己の欲と己の感情が強いほど自らの手が届かない部分には諦めと限界が現れる、
感謝して世界に頼ろう、己と世界と共にあることが限界を超える術である。
0245考える名無しさん2017/05/15(月) 23:00:58.770
未来は絶望をもったものには見えない、強請っても無駄なのである、
希望と理想をもち積み重ね実現させるまで意志を貫いたものだけが
見ることができる未来だ、

論理的原理的物理的な限界は出来ないと考えたとき訪れる、
哲学者ならば、不可能なものを可能にする方法とは何か、
見えないものを見えるようにする方法とは何か、
定義しえないものを定義する方法とは何か、
理解しえないものを理解する方法とは何か、
存在しないものを存在させうる方法とは何か、
考えたまえ、
世界の秩序は、秩序を作り変えるものを歓迎する。
0246Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/16(火) 11:58:48.830
>>245
そうですね、限界のお話をされていたと思います。限界をどうにかするには、自分の中の思い込み、普通、を変えねば
なりません。秩序は、なによりも個人の中にできやすいものです。それを変えるには、意識の並べなおしをしなければ
なりません。ストレスに耐え、ストレスの向こうへ行かないといけない。天才が楽々と超えるものでは、ないのですね。
でも、秩序を変えられたと思うことは、壁の向こうへ出ること。秩序に従って、やり方を覚えなければなりませんが、
それは、脳内物質が、恒常性を保つことを良しとして、頭に制限をかけてくる。その向うへ、意識を変えねばなりません。
これは、危うい理論ですが、考えるということには、論理には、疑うことを疑えないという限界があるので、
視界やデータといった、論理ではなくて構成しているもの、つまり科学とかオカルト(両者は表裏一体)によって、
秩序を変えうるのでしょう。既存の論理を打ち破ること、そのために必要なのは、心の力であり、自然の理との
親和です。
0247おね2017/05/17(水) 06:37:46.650
>>238
こんにちは。
統失なのは私と同じですね。
寛解であろうと実感できるぐらいに回復しているのであれば喜ばしいことです。
でもコテを使ってこんなパブリックの場で公開して大丈夫なんですか?
一定のテンポの文をよどみなく書き続けて長文を完成させるのは、コテ様の学力の高さだけでなく、それを常に磨き続ける日々の努力と鍛錬の成果であろうと思いました。
0248Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/17(水) 07:38:50.270
>>247
こんにちは。おねさん。
統失というのは厳しい病気でしたよ。あまりにもふざけていた。おかしいくらいの。
努力や鍛錬は、有限な時間の中では、したくなるものです。
「自分がこうなりたい、人にこうしてもらいたい」、というのは、甘えではなくて、希望という言葉の意味です。
希望を持つこと自体、どんな風にしたらいいの、と思う人は、結構いると思います。
失敗とは誰にでもあるものだし、勇気を持つという言葉の意味は、「普通の人が不安・恐れを懐いたり
躊躇・恥ずかしさを感じたりする所を屈しないで、自分が正しいと思った通りやってのけようという
積極的な気力」です。願いをもつ、ということは、それほど簡単ではないんですよね……。
希望には、知力も必要なのです。希望というのは、持って気にかければ気にかけるほど、
洗練されてきます。希望を持つという行為をするには、漠然とイメージを持つだけではだめだと思います。
希望感を感じる満足ではなく、現実化するぞという意志まで高めること、でしょうね。
0249おね2017/05/17(水) 09:44:30.920
>>248
文章がいつもと同じ感じで、思考が堂々巡りしてますね。
私と思考方法が違うのは、目指しているところ、欲しているところが違うからでしょう。
第1に、その希望というのが、いつ望んでも、いつも届かず、いつでも到達できない、のであれば、それは理想と言い換えられないでしょうか。
第2に、その希望や理想は、自分が創作したものでないと自身の気が収まらない、ようなものなのでしょうか。
他人の夢に乗っかり、その夢の一部分と自分の希望の一部分の共通のところをまずは片付けようとする。
その共通部分について協働するのは、それはまさしく現実化するぞなる自身の意思であると捉えられます。
第3に、自分のおぼろげな希望が、他人の夢と一部でも重なっているとき、他人は共感しもしくは協力してくれるので、片付くのが早くなります。
そのときの、仕事が片付いた実現したなどの経験と、そのような実現化や経験の蓄積が、当希望の達成である、というわけではありません。
協働して一緒にやったという体感や、実現化の一部達成の体感が、コテ様が求める満足ではないかと感じました。
といっても現実はそんなに緩くはなく、いつも殺伐としているのだから、希望とか満足とかは空想であり理想の中にあるものなのでしょう。
0250Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/17(水) 11:08:04.970
>>249
堂々巡りというご指摘ありがとうございました。自分ではなかなか気づかない点で。
第1について、理想の手前にあるのが希望でしょう。最も望ましいのが理想で、客観的価値の高さに
よらないで望むのが希望でしょう。
第2について、他人に共感するならそれはいいですが、そういう他人が見つからない場合は、自分で
考えないと、まったく希望、理想を知らない、わからないということになります。友人を見本にできたら
いいのでしょうが。現実化する意思、おそらくそれは、僕が知っていない、重要なことだと
思いますが。
第3について、協働が、どんなところでも、たくさんあるのでしょう。その際に大切にするべきであり、
考えるべきなのが、希望や理想(の一部)を同じく持つということであるならば、それは、エゴを越えた
もの、希望をめぐる非利己というようなものなのかもしれません。
0251おね2017/05/17(水) 12:00:07.950
>>250
なるほど。参考になりました。
希望と理想の違いを解析しその精密をさらに上げるために時間を使うのもまた面白い経験かもしれません。
現実化する意思はもう既に他の人が指摘していますが、その情景が自分の言葉ではないから指摘の本意をなかなか掴みとれず、結果としてその示唆を受け入れられず、自分の言葉による示唆を求めるあまり、指摘の現実を理解できないまま堂々巡りが続くのでしょう。
どんな思慮を続けてみても自分は生物であり人間であるという事実を改めて見つめ直すと思考の繰り返しによらずとも現実化する意思を直観できる瞬間が来ると思います。
0252考える名無しさん2017/05/18(木) 14:34:02.900
違う君たちは間違えてる全て個人側からしか考えてない
何故貴殿方は個の思考しか理解しないのでしょう
何故個が悲観するのか理由は簡単です。個より全の社会だからです
賭けてもいい。250も251も思想を考えてはいるが表面しかみてない
先ずは社長の気持ちを考えてみるといい。私はこれで救われた
あなたたちは矛盾に感じることは全て全を守るためです
きっと貴殿方も社長と同じ決断をして同じ過ちをするをです
全をすて個を選べば必ず全は崩壊します。貴方は全を壊して個を選ぶ勇気がおありか?
私には無い。故に私は同種ととらえてしまった。私も同じ決断をすると
私はこれを完全に理解するまで5年かかりました
長文書いてますがあまりにもレベルが低いです
0253考える名無しさん2017/05/18(木) 14:41:32.480
表裏一体と言う言葉の通り物事には2面性があるのに
ずーと個を考えるのならば空にはいるしかなくなる。
空は危ない。今の貴殿方の思想は縁起の入口なのに
何故個で止まってしまうのか。貴殿方がいくら外と関係をたっても
切れないのですよ。受け入れるしかない。受け入れるのなら
それ相応のバックボーンを作らなければいけない
人のバックボーンとはなんだと思いますか?
0254おね2017/05/18(木) 23:42:15.110
>>252
メリッソスすれの方ですか?
否定の否定とか、部分全体とか、モナドは、このスレの趣旨とはかなり違いますね。ただし無限については、彼は>>250で答えてます。
よって、神様スレでやるなら、時間をとれたら、考えなくもないです。モナドは禁則事項が多いのであまり参加できませんけど。
0258考える名無しさん2017/05/19(金) 23:14:54.550
>表裏一体と言う言葉の通り物事には2面性があるのに
一体であっても2面じゃないのですよ。
それは貴方がそういう風に思いたいから浮かび上がる2面性
簡単に理解する、つまり具現性をもって知覚する思考に流されている
表を問いすぎるから具体的な対極の表に対する裏が逆に見えてくる、
裏と表は同一それを自覚してください。
0259Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/19(金) 23:59:40.650
目の使い方について、以前から進んだ考えを記述しておきたい。
両目は、それぞれに使われる。獣医の人もそう言っていた。右目と左目は独立して動くのである。
だが、両目が補い合うことにより、より立体感がある物を見ることができて、焦点が合う、という。
だが、獣医の人の言うように、右目と左目は独立して動く。無限遠でないところを見ようとするとき、
左右の眼で違う像を得られるか?これの答えは難しい。自分で考えた限りでは、左と右に、二本の
視界を作り、それが、目の前50cm辺りで、平行して、先は止まっており、二本である、という感じに
工夫が出来た。つまり、左右が交わることがあまり良くないことのようだ。2が独立して動くことは、
視野の広さをもたらす。視野を狭めてしまうのが、左右の焦点を合わせるという目の使い方だ。
0260Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/20(土) 00:58:19.670
「はい」という返事は、意外に難しいものだ。語尾を上げると、「はい?」となってしまい、「は?」と同義になる。
語尾を下げ、「はい」とすることで、正しい返事になる。これらのしゃべり方は、立場をはっきりと持つことになり、
正しく居ることが出来るものだ。マウンティングにどんな意味があるのか全く分からないが、回避不能である
なら、やるしかないだろう。先の見えない不安があるにしろ、そうだ、力は使い方であり、疲れには休めばいい。
さまざまな叡知が、直接的な意味を持たないにしろ、ヒューマニズム(人間とは素晴らしいし、そうならなければ
ならないということ、だろう)と科学が、歴史の中で、自己実現を遂げようとしている絶対者のモデルに、栄光を
見出す類の過ちが、なぜ誤っているか、どこが誤っているか、どのように誤っているか、と考えると、
二元的な事の代表である生と死、存在と無、それらの重要なことを理性が捉えられないという暗い現実に、
理性が狂いだすのだ。だが、右目もあれば、左目も確かにある。それが可能性であり、なにかのすばらしさ
でもあるのだということは、生を耐えやすいものとし、理想のイマジネーションの大きな喜びへの
いくつかの理路をつくる。誰かが通った形跡があるが、誰もまだその秘密を完全に我がものとしては
いないようだ。つくづくと見よう、それが一番いいものに思えるから。折れた石柱の上に立ち、周りを見回せば
辺りは一面の草原。この場所は呪われているからこそ美しい。多様なヒューマニズムの願いは、
まるで何かを祈るかのようだ。何が出来るか知らないにせよ、操り始めた心の中の人形を、踊らせること
くらいはできる。この呪いをかけたものは一体誰だ。呪いは、言葉によってかけられる。生きるものすべてが、
望んでいるだろうことは、何かのきっかけに違いないだろうが、誰だって考えることも感じることもする。
それゆえにこそ、科学が夢を、作り出すことになる。遠い道を、登っていくことをする。
0261考える名無しさん2017/05/20(土) 10:48:07.760
>>258
それ事態がドブです。落とし穴にはまっています
そんなに深く思考する必要性はありません
表には表の正論裏には裏の正論これでよろしい
深く潜りすぎると逆に答えを見失います
0262考える名無しさん2017/05/20(土) 10:50:01.380
>>257
本当は人間はその方が良かったのかもしれません
武器を持って理性を手に入れた時点で
我々は異質な存在になってしまったのかもしれません
0263考える名無しさん2017/05/20(土) 10:50:53.060
貴方がたにもう一度問う
人のバックボーンとは何ですか?
0264Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/20(土) 14:06:53.620
身体の筋肉の良い使い方は、内奥部の筋肉を意識する、ということである。頭や脳に対しても、内奥部を使う
ということは大切である。そのアナロジーと言っては、情けないが、気持ちや思念の内奥部を、考えることが
大切である。自分の思念とは、外化され、形を与えられる(すなわち、意識される)とき、自らの手を離れ、
一つのかたまりになる。だからそれは、自分にとっても、外的である部分が生じていることになる。
それらの、表面だけを見たり、感じたり、考えたりするとき、完全に正しく行為を掴んでいるわけでは
ないと考えられる。思念の内部には、本音と生理がつまっているのである。
0265Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/20(土) 17:46:20.200
全ての時間は、自分のものである。自己は分裂せずにすべての時間の中に展開場を見出す。展開できるのだと、
見出された時間は、自己と同じになる。全ての物事が、自己であると言える限りの概念であれば。知っていると
知らないということは、基本的に尊重されるべきだ。展開されるために生きているのだから。人間は弱いものだという
意識が、持たれるべきである。弱いと思わないからこそ、自己中心的であったり、強制したりする気持ちが生まれる。
文明の発展が、いかに人を支えているかということは、振り返るべきことだ。そういう弱さを知らない人間が、
愚かな行為に走る。弱い人間であるからこそ、寛容さが生まれるのだ。今強いかもしれない。今弱いかもしれない。
「原理主義的な人間」は、やはり反省されないといけないのではないか。全ての人間が排除的な気持ちにならないで
一緒にいるのだとしたら、そこには弱さの認識が必要であると思われる。一つの宗教が、排除的に働く理由は、
神という絶対の強者が、自分(たち)をより選って祝福しているというような、意識に基づくからではないか。
何に帰依するにしても、それ以外を絶対的原理によって、見えなくするということが、悪を呼ぶのであろう。
0267考える名無しさん2017/05/21(日) 17:29:20.840
人のバックボーンの意味わからないか芯だよ背骨
思考の真ん中におくものは何かときいている
0268考える名無しさん2017/05/21(日) 17:31:07.120
君らは芯がない
思考するための基本がない基本がないから
うろうろする
0269考える名無しさん2017/05/21(日) 17:32:04.170
>>257
美しき野獣。
0270考える名無しさん2017/05/21(日) 17:38:40.010
>>645
君は般若心経間違えてること知ってるのか?
日本の仏教大半間違えてること理解していってるのか?
これは中国の翻訳が間違えてるし
書き加えられてるんだよ。そういう原理主義というけど
片っ端から解釈間違えてたらもーねなんも言えんよ
02716452017/05/22(月) 01:21:37.590
>>270
私が般若心経を書いた本人だ、お前はそれを評論しているのにすぎない。
書いた本人に対して理解しているか問うのは自由だが、貴方の解釈こそが世界の真理
であり貴方の言葉こそ世界のすべてである、貴方以外の説明はすべてが嘘である。
貴方が原理であり貴方が起源である。
すばらしい
0272考える名無しさん2017/05/22(月) 11:28:55.010
バカにしてるかしらんけど
間違えているものは間違えている。
こればかりはどうしよもない事実だ
間違えたまま広めるのならそれは原始的だ
合理的ではない。救う気持ちすら持ってない
仏教徒なんぞ必要性は皆無
0273学術2017/05/22(月) 11:29:47.540
聖書にも分裂あるね。
0274美魔女2017/05/22(月) 11:36:45.640
>>270
日本の仏教は世界中で絶賛ですよ✨💮
禅宗も臨済宗の正法眼蔵もね✨
ハイデガーも、とっくに考えられてたとは知らなかったって後悔してたよ✨
0275考える名無しさん2017/05/22(月) 11:38:20.670
>>269
美しき輪 昭宏
0276考える名無しさん2017/05/22(月) 12:24:18.720
>>271
それはもう仏教ではない。違うか?釈迦の教えが仏教だよ
宗派とか枝分かれしてる時点でアウトだろ
何考えてんだって思うね。仏教ではない違う何かでしかない
仏教といってほしくない
0277美魔女2017/05/22(月) 14:24:27.330
悟り=静かに立つ麻原。⭐⭐
0278美魔女2017/05/22(月) 16:37:46.870
>>265
そもそも言葉の誤解によって生まれた偽の疑問🐗
0279美魔女2017/05/22(月) 20:45:05.770
>>276
仏教を知らない人が仏教ではないといっても、インコが言葉を喋っているようなものよ
もうそうもそのへんにしたほうがいいのよ、✨💮
0280美魔女2017/05/22(月) 20:46:07.310
釈迦は地獄に落ちてるって言われてるよね。
可哀想💧
0281美魔女2017/05/22(月) 20:54:43.430
>>279
ちょっと ナリスマシ辞めてよ。⭐

私が怒られるじゃん💧
0282考える名無しさん2017/05/22(月) 21:13:29.060
まず1にブッタが悟ったのは自分だから
これは間違いない。自分とは何かを確立させた人
これを理解できない人は低レベル
0283美魔女2017/05/22(月) 21:38:27.480
>>282
そうねぇ✨
自分自身であろうとしない人間はそこでは哲学ばかりではなく仏教も宗教も終わりの次元だよねぇ✨そして純粋に政治学的、社会学的な問題だけが残るね✨
0284考える名無しさん2017/05/23(火) 08:51:15.320
我欲にはしった宗教は終わる。キリスト教も日本仏教も終わる
イスラムがリスペクトされるのは欲に走らないから
しかしイスラム教は致命的欠陥があるので世界はまた新たな宗教を
作り出す
0285美魔女2017/05/23(火) 18:36:43.810
人間は 一体 何処へ向かっているのでしょう。⭐🐗
0286考える名無しさん2017/05/23(火) 18:41:59.790
好青年は美魔女のアソコへ
0287美魔女2017/05/23(火) 19:24:18.180
>>286
もうーーーーーーーーーやだ〜〜
0288考える名無しさん2017/05/24(水) 02:06:04.890
>まず1にブッタが悟ったのは自分だから
ここまではいい
>これは間違いない。自分とは何かを確立させた人
間違いないから、次に続くのも間違いがないというキチガイ理論
0291Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/24(水) 22:08:28.000
逃げる(避ける)か、忘れるといった、対処ばかりしてきたが、自分が違うと思ったなら「戦う」ことをしなければ
ならないということに気づいた。それが、生きることの意味であり、人間の人間らしいところである。結局、
考えの中の事についてだが、だからこそ、力ではなくペンをとる、と言うことの意味である。自分ばかりが
常に正しいなんていうことはない。だが、戦いの中からは、何かが生まれてくるだろう。それは、やり直しのきく、
自由を求める、ということ、そして正しさを持つことのための行為だ。一つも恐れず、戦うべきだ。
ギリシャ精神をそのようにとらえることができる。自分で考える、と言う際に、絶対に現れてくるのが、
こうした、間違っていると思える意見である。だから、自分で考えるなら、避けてはいけない。
そこにこそ、意味のある思考が可能になる。それを会得しなければならない。対峙して、理屈や理由を
得られるなら、それが善なのである。
0292考える名無しさん2017/05/25(木) 21:30:00.660
やはりだお前ら人間として哲学者としてバックボーン事態がないんだろ
さっさとそれを作れよ。だからお前らの意見はブレーキるんだよ
即論破されんの
0293おね2017/05/26(金) 00:09:09.920
私のスレに誰も来ないのでちょっと寂しいです。
難しい言葉は書いてないんですけど。それでも難し過ぎるんでしょうか。
>>291
なんだかやる気が出てきたみたいですね。
統失の寛解でかつやる気がみなぎるのを肌で感じるのであれば先行き良好でしょう。
>>292
バックボーンをどのような意味で捉えこれをどうしたいのか不明です。これをどのような議論に発展させたいと思っているのかを明示して、捨てコテでもつけるなら、時間があるときに考えてもいいです。
もしそのままの意味の背骨であれば、背骨は首から尾てい骨まで伸びて胴体を支え、背骨から伸びる各ろっ骨は2つの肺を外部の衝撃から守ります。
背骨の最大の特徴として、猫背のように前かがみができ、前方に曲る柔軟性はあります。が、後方には(年が増すほど)曲がらないため、肺や臓器や腸はこの地勢を前提として配置され機能します。
0294考える名無しさん2017/05/26(金) 00:26:28.880
>>293
例えが合ってないやろ!
0295セルム2017/05/26(金) 00:46:34.280
>>294
コテ書いておく。いつでもきたまえ。
0296セルム2017/05/26(金) 00:50:02.580
>>294も俺だぞという意味だ!
0297おね2017/05/26(金) 00:53:04.270
>>295
バックボーンの人はあなただったんですかあ!!!
もしかしてビジュアル系?もののけ系?
0300考える名無しさん2017/05/26(金) 01:49:06.510
>>292
前から哲学板で論破論破で勝ち負けなキチガイがいたけど、そういうことでしたか。
0301おね2017/05/26(金) 02:43:16.760
>>294
背骨の話をしたかったんじゃないんですか。
というか、バックボーンがなぜ背骨とも訳せて、バックボーンの意味が、背骨の意味となぜ共有できるのかとか考えてみました?
>>298
どこが?
>>299
人間なんで反射も反応も思考もしますよ。
>>300
いつ頃からガイチキさんはいたんですか。
0302美魔女2017/05/26(金) 03:10:14.700
上善は水の如し。⭐⭐🐗
0303考える名無しさん2017/05/26(金) 03:39:52.880
>私のスレに誰も来ないのでちょっと寂しいです。
それは事実だ、おまえの言葉に力が無いという事実、
力とは何か、自分のスレで考えたまえ、力が何かが理解できれば
貴方のスレに誰もこないということは修正されるのは明白である。

理屈だけで思考する癖がそれを呼び込む
0304考える名無しさん2017/05/26(金) 03:48:24.970
力は理屈ではない、それは流れだ、変化することだ、
どんなに強力に押しても、均衡しまったく変化がない静止したそれを力と思うならそれでいい。
言葉は力を呪縛する、人の心が動かないのは言葉が足りないとか難しいとか、
高尚だとかデタラメだとかではなく、言葉が意味を呪縛して心を動かす変化の
起点にならないからだ、力のないのは、あますぎる自分を訂正できず
他者が原因だ、流れがいいところに行こう、流れにながされる、などアホな思考が
働いているからである

まず自分がアホだと悟りえたものが先に進める。
0305考える名無しさん2017/05/26(金) 10:39:33.220
ほらな基本的なバックボーンの意味わかってない
人それぞ違うとか思ってるタイプだ
思想の根幹は絶対に2つしかない。
人間ってものの生き方、コミュニティー、体験などなど
複合して自分のバックボーンを形成しなければならない
人はどんな選択をするのか何故その答えを選ぶのか
感覚的に選べば矛盾が生じる
お前ら偉そうに語ってるけど上の3つを本気で哲学してたら
ぶれない個人が出来上がるのよ
0306セルム2017/05/26(金) 11:18:48.840
>>301
バックボーンの意味わかってないぞ!
0307おね2017/05/26(金) 11:42:49.360
IDもなく捨てコテもつけなければ発言をしたのが誰だか分かりません。
>>295
ビジュアルでないならオウムの概念の話を聞きたいですね。
過去に3回しか見てないので覚えておらずあまりついていけませんが。
>>302
それを彼らが会得するのは無理でしょう。
>>303
自己紹介乙ですか。
>>304
スターゲイトとかは。
とにかく禁則事項が多いのでなんともいえません。
>>305
一応発言はブレてないみたいですけど上3つ、3,4,5とも同じ人ですか。
もし同じ人ならもうレベルは知れたのでレス不要で、私の発言は以後全て無視して下さい。
0308おね2017/05/26(金) 11:55:53.890
俺の自己紹介なんだけど
0309おね2017/05/26(金) 11:56:11.230
検索が必要なネタやタームはそのバックボーンがないと調べるのに時間がかかるので後回しになります。
>>306
そこまでこだわりがあるならバックボーンの意味をまずご自分で定義したり例示したらどうですか?
私はもう背骨について書きましたよ。そういう手順に無理解ならどんな人とも会話や議論はもう通じないでしょうね。
まず、相手に求めているだけでは、いつまでも自分の哲学を得られません。
価値や審美の根源を相手にいつでも求めるのも生き方の一つです。が、根源を求めるとき、これを相手か自分かどちらにするかを選ぶはあなたの意思次第です。
0310考える名無しさん2017/05/26(金) 13:54:48.170
日々の生活での返済、お支払いでお悩みの方。

急な出費などで、今月の生活費が足りない方。

多重債務、ヤミ金、家賃滞納でお困りの方。

東京、神奈川、千葉、埼玉にお住まいの方は優遇です。

エヌピ-オ-法人 エスティーエー
0311考える名無しさん2017/05/26(金) 13:55:59.880
きちがいだな
0312セルム2017/05/26(金) 14:47:31.830
>>309
バックボーンでおおげさだな!

バックボーンは世間でも普通に使うだろ
0313考える名無しさん2017/05/26(金) 14:58:30.100
>>309
それ提示したら意味がない。考えるのめんどくさいから
答よこせとしか言ってない。生憎俺はそんなに優しくない
上のヒントでピンとこないなら君には才能がないだけだよ
何故を模索するのが哲学1+1の問題は出したし
作り方も提示してる。何故わからないのか俺が聞きたいわw
0314考える名無しさん2017/05/26(金) 15:00:24.980
俺の背骨は完成してるからブレないよ
絶対に言ってることはぶれない
ここで答あげるのは簡単
しかし曲がりなりにも哲学スレでわからないなんてことあるん?
0315考える名無しさん2017/05/26(金) 15:06:06.460
思考の真ん中におくものとこれ2回目ね
判断基準だよ。何を元に人間として判断基準を儲けるのか
答は2つある。と何度も言ってる。答えてみ
当たってたら当たってると言うよ
君が本物で人のレベルがわかるなら答えられるよ
さぁーどうぞwてか答られないなら君は背骨すらできてない
哲学入門者だよ
0316セルム2017/05/26(金) 15:08:04.500
>>309
君が相手に質問して求めて、君がなにがしたいの?
0317考える名無しさん2017/05/26(金) 15:09:41.820
>>312
これはものすごく大事なことなんだよ。大袈裟にきこえるけど
コミュニティーを思考する上で政治や選挙や仕事などなど
家庭もそうだし。色々な事の判断基準になる
物凄く大事なんだよ。人としてね。
コミュニティーの成り立ちを思考すれば即座に答えられるよ
しかし答えられないってことはホントに頭悪いのよ
0318考える名無しさん2017/05/26(金) 15:11:18.730
>>316
コイツら本物か調べてる。少なくとも
波平とおねと美魔女は偽物だよ
コーヒーはかなりのレベル
0319考える名無しさん2017/05/26(金) 15:21:19.520
本物の哲学者は新しい発想をする
1+1=2これは常人1+1+1=3これ天才1+1+1+1=4だれもなし得てない
1+1すら出来ない人間が偉そうに哲学書を読んで語ってるに過ぎない
つまり哲学者でもない凡人。恥ずかしいレベルなんだよ
0320考える名無しさん2017/05/26(金) 15:34:01.030
ここで語られるのはだいたい西洋哲学
それが日本に符合すると思ってるのもかなりイタい
理由は簡単気候が違う日本は春夏秋冬あるが
西洋は夏が短いから作物がとれにくい
赤道近くになればなるほど陽気で赤道から遠くなるほど陰気なんだよ
日本はどうだ?真ん中あたりだろ。陽気もあるから祭りがあるし
陰気があるから宗教がある。実にちょうどいい
なのに何故陰気100%の西洋哲学を学ぶのか意味が不明全くやくにたたないのに
ひょっとしてと思い。馬鹿なのか調べたら馬鹿だった
賢くなりたいならせめて基本を作れといってんのよ。そしたらぶれないといってんのに
答くれだもんアホすぎてww
0321セルム2017/05/26(金) 16:53:31.870
>>320
答えくれって言われたから驚いたよ。
ありがとう。
0322美魔女2017/05/26(金) 16:57:59.940
>>318
昨日の深夜3時30分にコーヒーさんが起きてたから勝負して勝ちましたよ✨👰コーヒーさんは答えもって無かったけれど一番筋道が通っていましたよ✨
0323美魔女2017/05/26(金) 17:02:18.340
>>322
続き。⭐。西部72「コーヒー専用」のスレです。🍀
0324美魔女2017/05/26(金) 17:04:05.130
>>322
続き。⭐わかってらっしゃると思いますがバックボーンの答えではなくて哲学の答えのこと💗
0325美魔女2017/05/26(金) 18:15:36.670
>>318
私は2ちゃんねるなので本気を出したことは無いです。だって 真理が腐りそうで可哀想でしょう。⭐⭐
0326Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/26(金) 18:55:04.160
現実という概念が、いかに難しいにせよ難しくないにせよ、逃げる必要はない。現実を見つめ、これが現実
だという感覚を得られるようにするべきである。それはある大きな心掛けであって、何物にも否定されない。
なぜなら、現実と言うものは、ある意味での仮想現実であり、別世界の大本であり、現実を考えるということは、
別世界を支えることであるからだ。別世界のみに生きるということは、他者との交通や、自分の世界を、
確かめることが出来ず、現実こそは、思念の原理であるからだ。現実と夢の二種があり、どちらをどう位置付ける
のかということは、自分の安心を作りやすいようにそれらを位置づけ、必要ならば、どちらかに頼るということが
できる。両者は、知性や存在といったものが作り上げる、どちらも素晴らしい精神的意味を持った、想像なので
ある。現実の持つ安心感と、空想の持つ豊かな創造は、人に対して迷惑をかけないために、また、生きることの
困難さを思うとき、両方を自分の力として見ることのために資するものであり、誰もが精神を、思想を、疎外
されてしまった時に取ることのできる、唯一の行動だ。現実はただ現実でしかないというのに、それを思う
事の中には、自分の全てが現れる。自分には現実がある。別世界もある。他に足りないものがあるだろうか。
0327美魔女2017/05/26(金) 20:07:25.150
>>326
貴方は頭が足りなーーーい😄

おち🍀
0328美魔女2017/05/26(金) 21:20:43.740
>>327
冗談です👸愛が足りない
0329Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/26(金) 21:31:13.810
視界は中心がはっきり見え、周りはだんだんとぼんやりしている。同じように、思惟も、中心的な意味があり、
その周りにぼんやりとした感覚がついて回っている。このような、ぼんやり、と、くっきり、の構造を突き詰めて
見れば、人間にとって、絶対的な強制、逃れられない強制感は、思い込み、思い違いであるとわかる。
ぼんやりとしたものが自分の知覚と思考にあるのだと考えれば、悲劇的な運命といったものに、繋がれては
いないこと、自由があることを感じられるだろう。
0331おね2017/05/27(土) 00:08:38.010
>>312
まず使いません。
使うのはあなたの知ってる世間だけでしょうね。
>>313
自己紹介乙?
>>314
あなたの最も重要なことは、分かるか分からないか、なんですか。
>>315
別に答えを知りたいわけではないし、もうバックボーンさんのレベルは知れたので、このネタはもう飽きました。
>>316
ところでオウムの話、たとえば血のイニシエーションとかないんですか?
ネタも知識も大して持ち合わせず、人と話を開通するのもままならないみたいですね。
考えばっかりが先行すると頭でっかちになるだけです。そこに面白いは何も無いとそろそろ悟ってもいい頃だと思います。
>>317
道徳倫理とかは。
0332おね2017/05/27(土) 00:34:52.580
>>318
お呼びになりましたか?
>>320
西洋で人気の哲学を、東洋人に分かるように言い換えて翻訳して、これを新しい分野として金儲けにするのはどうなるんですか?
>>324
レスを遠目で追いかけてみました意味不明でした。
>>322
自分が何を聞きたいかをある程度絞ってから勝負を挑んでみたらどうですか。そうすれば勝ち負けに係わらず何かしらの哲学を得られるかもしれません。
>>326
どこかの中高生レベルの作文です。あなたの実力はもっと上のはずです。
10分15分も掛けて長文を入力したのに、この作文ではなぜ評価されないのか、しっかり読み返してみて下さい。
>>329
自分では、中心ははっきりとしているのに、自分の知覚と思考の判定が原因で、中心の周りはぼんやりでしか見渡せない。
他方で、他人の判定と、他人の価値観(中心)が自分の近くにあるとき、自分の判定レベルによっては他人の影響を受けやすくなる。
だとすると、帰納的に自他の区別は出来なくなり、結局どれか一つの影響下(思想)に置かれ、あなたの現在の思慮では、その一つの思想がシステムの名目上の中心になります。
しかし日本国内外でも、統一思想は少なく、思想や政治など右派左派など分断(自由とも)は顕著です。
この理想(精神)と現実(合理)について、推論では帰納的に判定して統一統合するはずだったのに、実際は違いました。
これほど結論が違うのはどうしてなのでしょうか。
>>330
北斗の拳とジョジョ初期はほぼ同時期でした。
画風や世界観やストーリー(ドラゴン退治とお姫様救出)はほぼ同じなのに、ジョジョが人気になっていったのはどうしてでしょうか。
0333おね2017/05/27(土) 00:35:46.840
俺は究極のアホなのだ
0334Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/27(土) 01:03:05.630
単語単位で、読んだ文の内容を思い出そうとすることは難しい。長い範囲の文の意味を覚えることは、より
たやすい。体についても、手だけ、頭だけ、首だけ、などといった部分のみの使用になると、
バラバラになってくるので、身体全体がどういう姿勢か、などという把握を行った方が、自分自身が
どのような身体感覚を得ているかということについて、答えが出しやすい。そういう把握が、自己の
状態の理解には必要である。
0335美魔女2017/05/27(土) 02:03:54.920
私は愛が欲しい😞
0336考える名無しさん2017/05/27(土) 02:17:21.470
>>330
愛は合いだよ、喘ぎ意味を成す思い。
巡る廻って形而上の創造を成す原理、未知と遭遇し次元の扉を開くものにだけ
愛はそんなに強いもじゃない、奏功するもの、土台が大きくなければ奏功は非力だ。
友達になれない愛は魔法を得ていない、無駄と無意味と非合理を否定する愛など
都合のよい創作物語とは思わないかね。
0337美魔女2017/05/27(土) 02:19:46.550
ああ、誰か私に愛をください😚
0338初めて哲学板にきた、通りすがり2017/05/27(土) 02:28:35.760
>>329
>視界は中心がはっきり見え、周りはだんだんとぼんやりしている。
ぼんやりするのは過去を見るからだ、
具体的な願い、希望はぼんやりはしていない、ぼんやりしているならそれはまだ選んでいないからだ。
覚悟さえすれば明確明晰な方向は選べる、どんなに闇や暗黙の中にいようと、希望という光は周囲が闇に
閉ざされ暗黙なほど輝くものである、まだ諦めていないはずだ。

>ぼんやりとしたものが自分の知覚と思考にあるのだと考えれば、
知識と感覚から答えを計算してもぼんやりした答えしかない、感謝して地道に願い進め。

>悲劇的な運命といったものに、繋がれては
何を選ぶかは貴方の心に若さが見出せるかどうか、省みない、感謝した結果に現れる本当の道を進めば
扉は自然にできあがる。
0339考える名無しさん2017/05/27(土) 02:29:51.610
>>337
愛をあげよう、10円でどうよ。
0340考える名無しさん2017/05/27(土) 02:34:55.540
釈迦の力を得た私が言おう、おまえら低レベルすぎる
0341考える名無しさん2017/05/27(土) 02:51:44.570
どうでもいい
0342考える名無しさん2017/05/27(土) 03:07:01.570
おじさんのいちもつをなめてくれる?
0343美魔女2017/05/27(土) 03:15:59.860
>>335
>>337うわ😰なりすまし発見〜*
0344美魔女2017/05/27(土) 03:33:26.710
波平さんなんとかして>>343
0345美魔女2017/05/27(土) 03:49:53.570
せめて私の愛を受け取って欲しい(_ _;)
0347美魔女2017/05/27(土) 03:52:07.180
愛はなんて儚いの😭
0348美魔女2017/05/27(土) 04:04:12.020
うわ😰
いっぱいおるう(*ノ▽ノ)
0349美魔女 ◆uADIuuYAIU 2017/05/27(土) 05:16:49.050
本物の力をみたいの?
0350美魔女 ◆E3wuV9wmXA 2017/05/27(土) 05:17:25.150
今日からマオウ、マクドナルドで働きます
0351美魔女2017/05/27(土) 13:41:02.620
>>350トリツプどうやってつけたん?🙊
行ってらっしゃい((🙋
0352Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/27(土) 13:48:36.780
本当は優しい。

憎しみを憎んだら、一つの時代が終わる。人の憎しみと、自分の憎しみと、憎しみ自体への憎しみと。
愛はそのようにして生まれるのではないか。
0353考える名無しさん2017/05/27(土) 14:13:42.680
ナニコレめっちゃレベル低い会話
ここ哲学スレだからどっか他所のスレでやれよ
ウザイ
0354Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/27(土) 17:19:30.690
今現在自分が感じている気持ちとか、先入見的な価値観といったものは、全て仮のものである。
今嫌いなものも、好きになりうる、今苦しい感じも楽になりうる、そういった、変化についての可能性が、存在する。
『朝まで生テレビ』で三浦瑠璃という人が言っていたのだが、議論の前と後で、各人の意見が全く変わらないのだ、
ということである。そこから考えてみると、自分の意見を曲げることは、考えてみれば出来ないはずはない。
せっかく人間にはある長さの時間が与えられているのに、まったく変わらないということは、ばかばかしいだろう。
こだわりは、自分をだめにする。だから、例えば脳自体を柔らかいイメージでとらえて、気持ちには可変性を
認めて織り込めば良い。何事も、受け入れることが出来れば、ストレスを感じないし、仮のものだと思えば、
他人をしいて否定する必要もない。変わりうる心ということを心がけるのが、安楽な状態へ至る考えであるだろう。
可塑性というものがあるのだから、自分とは、簡単に変わることが出来る。変わったところの状態を、感じて、
楽しんで、必要ならばまた変えればよい。
0355美魔女2017/05/27(土) 17:51:27.260
抽象的にとは、感じよ、響いて、轟いて、滲んで、響くのよ、
価値観を意味言葉にしちゃだめよ、具現化とか具象化することでダメダメだわ
あたしの言葉の意味を理解しようとするとダメダメなの
だから感じて、何か分からず理解しなければならないということはさ、具体的に
意味が収束しちゃうのよ、ダメだわ、イメージしても幻しが見えちゃうのね、
奏でて、囀って、分かち合って、すべて裏とさ表とさ、1つにするの、
わけちゃダメダメよ、わかるぅかしら
共に活きるのは個々が1人じゃさびしいじゃない、だからねぇ、お空のお星さまが
瞬けば、自分の心も瞬きキラキラするの、キラ星を心にね。
星に名前つけて割り切る具体化はイメージされた幻よ、誰かに言われたままに
流される悪の思想だから注意しなくちゃね、わかるぅ?
0357美魔女2017/05/27(土) 18:50:59.370
>>355
あ😰なりすましを発見〜☆☆
0359美魔女2017/05/27(土) 21:58:10.450
>>357
あ😰なりすましを発見〜☆☆
0360おね2017/05/28(日) 00:40:43.470
たまには美術館や図書館で他人が獲得した哲学の別の表現の形式を味わってみたら物事の自身の捉え方に変化が生じ悟りに近づくかもしれないですです。
パリにあるモネの睡蓮(の写真)を鑑賞してきたんで、ここの雑談は相変わらずレベルが低くいなあと感じてしまいますます。
意味を把握できない自身の内心を垂れ流すだけの表現や文章ばかりで興味深いレスはありませんでした。
>>334
生きているとは、足のつま先の小指の先端であっても常に神経を研ぎ澄まして、いなければ、いけない、ことなのでしょうか。
>>336
動物にも愛はあるのでしょうか。猿人や昆虫。
>>338
闇や暗黙のままではいけないと考えるのはどうしてですか。
>>354
三浦瑠璃。どんな人ですか?
0362セルム2017/05/28(日) 00:50:06.380
>>360
いや、君にとったら どれもレベルが高いはずだ。本当は君は何もわかっていない。空っぽだ。
0363おね2017/05/28(日) 01:01:36.080
パリだけじゃ特定できないですね。オランジュリー美術館所蔵です。
>>361
自己紹介ですか?
>>362
あなたは筋がいいんですがいかんせん自身の主張について強いこだわりを持ってますよね。
そこまでのこだわりを持つに至る強靭な自信はどこから生じたのでしょうか。
0365考える名無しさん2017/05/28(日) 01:13:11.480
>>363
>自身の主張について強いこだわりを持ってますよね。
巨大なブーメラン
0366おね2017/05/28(日) 01:16:21.750
>>364
読み返したとき特定するためなので、そこまでこだわりはありません。
張り付いてもいないし、書き込みも滅多にしないし。
0368おね2017/05/28(日) 01:29:45.450
>>361
そうですか。残念です。
そういう表現しか出来ないのは多分あなたの知能がそれ以上の表現を許さなかったからでしょう。
硬直しきった自分の脳みそに適度な刺激を与えるためにもたまには絵画や茶碗のモノホンを鑑賞するのをおすすめします。
>>367
クローズドやプライベートならもう少し禁則事項解除があるんですけど、どちらにしても哲学は私の仕事ではありません。
0369おね2017/05/28(日) 01:31:40.410
>>365
そうですか。残念です。
そういう表現しか出来ないのは多分あなたの知能がそれ以上の表現を許さなかったからでしょう。
硬直しきった自分の脳みそに適度な刺激を与えるためにもたまには絵画や茶碗のモノホンを鑑賞するのをおすすめします。
0371セルム2017/05/28(日) 03:19:12.890
>>369
ま、気にするな。罵倒から始まるのは挨拶みたいなものだ。
0372考える名無しさん2017/05/28(日) 03:39:51.120
>>369
自己紹介ですか?
そうですか。残念です。
そういう表現しか出来ないのは多分あなたの知能がそれ以上の表現を許さなかったからでしょう。
0373考える名無しさん2017/05/28(日) 03:41:35.590
>>368
自身の主張について強いこだわりを持ってますよね。
0374考える名無しさん2017/05/28(日) 04:06:35.520
>>373
自己紹介ですか?
そうですか。残念です。
自身の主張について強いこだわりを持ってますよね。
0375考える名無しさん2017/05/28(日) 04:16:53.090
>>374
自己紹介ですか?

…………
0376L'Arc〜en〜Ciel2017/05/28(日) 04:33:35.790
プレグナンツの法則
0378考える名無しさん2017/05/28(日) 12:59:04.030
>>377
自己紹介ですか?
0381美魔女2017/05/28(日) 15:39:06.950
あたしの世界
0382美魔女2017/05/28(日) 15:42:12.020
愛欲の世界
0383美魔女 ◆jPpg5.obl6 2017/05/28(日) 16:06:43.230
なりすましを発見😄皆さん〜⭐⭐
私が本物です👸

トリツプ覚えて下さいね🎵
0384美魔女 ◆jPpg5.obl6 2017/05/28(日) 16:10:28.240
>>379
おねさんの「自己紹介ですか?」を
欽ドン賞をあげたいと思います😄
皆さんも納得しますよね(^^)
0385美魔女2017/05/28(日) 16:49:41.250
>>383
なりすましを発見✨
0386美魔女 ◆uADIuuYAIU 2017/05/28(日) 16:50:19.300
自己紹介ですか?
0389美魔女 ◆jPpg5.obl6 2017/05/28(日) 17:30:14.510
記号内容を精神的な構築物として扱っています✨記号モデルは指示物をこかつに入れていました✨つまりこの世界に存在する対象への指示を除外します✨記号内容はつまり事物ではなくて事物の観念😘
0390美魔女 ◆jPpg5.obl6 2017/05/28(日) 18:19:12.710
>>387
ギギギ…☆☆
0391Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/29(月) 02:03:44.480
僕は頭の中に、黒い色のぐちゃぐちゃになった風景を、一瞬で現出させることが出来る。それらは、押し込められた
心象風景とも呼ぶべき物。それを考える。だが、自分の気持ちと言うのは、また自分の考えと言うのは、
どんなものであれ、それは自分の記憶の中に確かに刻まれ、現実と呼んでもいいものになる。
解体(デプログラム)は、洗濯(ウォッシュ)と表裏一体であり、錠前(プロテクト)を掛けることを、
しておかなければならない。それらの間で、もてあそばれる脳であれば、それは本来の自己を失って
いるということに等しい。

「そうさ。俺は駄目だって暗示が、脳(システム)の中で瓦みたいな層になって重なってる。そう考えてみても
いい。だから、その瓦の層をひっこ抜くまでやるんだ。それが抜ければ、つまり外したってことさ。
神経洞窟(ニューロティック・ケイブ)もふさがる。自己解体(セルフ・デプログラム)の基本だよ。
そして同時に、俺たちには未来があるって暗示をかける。それで新しい神経洞窟(ニューロティック・ケイブ)
が出来る。ぶっといやつが」 (いとうせいこう『解体屋外伝』)

プログラムのない状態なら未来は、真っ白な無である、それを否定するためにはどうするのか。
自分の気持ちが、頭の中に確実にしまわれているという事実を頼りにすることだ。どんな洗濯をされて
しまったとしても、自己の思惟の力は、それを上回るはずだと思う。
0392おね2017/05/30(火) 00:35:36.110
361も365もオウムなので似たようなものですが、既にレスしてある361へのアンカはただのミスです。
>>371
コテさんは禁則事項が多いんですが、少し不安定というか、自身が何を思索しているのか自覚が無いようです。
時間の無駄なので迷宮入りしないようにしましょう。
ところで名前の由来はなんですか?
>>384
なんですかそれ?もちろん美味しいものですよね?
>>389
新しい境地を常に探し求め新世界秩序の再構築を模索しているようですね。
ものの数秒で思考対象の真贋を把握できるその眼力には感心するばかりです☆
>>391
不思議な単語を散りばめた複雑な文章ですね。真夜中なのにいきなり頭が冴えてしまったのでしょうか。
不思議な文章なので気になることがいくつかありました。

自分の気持ちが頭の中に確実にしまわれているとき、その気持ちをアップデートするプリバリッジドをコントロールできるのはどのパーミッションのどのプリンサパルですか?

いとうせいこうさんのラップを初めて聞いたんですが、コテさんはラップを聞くんですか?

>僕は頭の中に、黒い色のぐちゃぐちゃになった風景を、一瞬で現出させることが出来る。
>それらは、押し込められた心象風景とも呼ぶべき物。それを考える。

興味深いですね。どうやるんですか?
やっぱり眼窩うんぬんかんぬんの話ですか(眼窩マッサージの話も興味深いですけど)。
0393Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/30(火) 00:56:02.540
>>392
ラップは、たまに聞くくらいです。もう少し研究してみたいです。

>>僕は頭の中に、黒い色のぐちゃぐちゃになった風景を、一瞬で現出させることが出来る。
>>それらは、押し込められた心象風景とも呼ぶべき物。それを考える。

これは、頭のスクリーンに、映し出すのです。気持を統一して、脳を預ける感じで。コツですね。
0394おね2017/05/30(火) 01:44:50.430
>>393
私は日本人はまず聞きませんが、日本人最強は、餓鬼レン「ひのこをちらすのぼりりゅう」です。
youtubeでは常に削除されるのでありません。
このまえでは、[Juice=Juice] + 「ひのこを」はお気に入りだったのに削除されました。

コテさんが見えている風景が、私にはまだよく見えませんが、そのうち見えるようになるのかもしれません。
それは2次元3次元なんですか?
時間的変化や色彩(音光明暗)の感覚はあるんですか?
まあ顔面マッサージ同様、時間があるときにでも、おいおい聞かせて下さい。
0397美魔女 ◆jPpg5.obl6 2017/05/30(火) 17:09:20.780
時空をアプリオリな形式と認めます✨😄
0399考える名無しさん2017/05/30(火) 19:02:55.420
>>394
おまい朝鮮人やな
0400Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/30(火) 19:40:56.670
無知の知とは、実にむつかしい。
例えば原子爆弾の製造法を知らないが、原子がなんであるか、爆弾がなんであるかを知っている。
このように、まったく知らないということは、考えることができない。他人を見て、背が高い、性別がどっちだ、
そういうことを考えてしまい、他人と言うものを知ることが、なかなかできない。
全てのものに対する断片的知識を持っていて、完全なる無というものを、知ることはない。
それらの断片的仮象からなる世界を解脱するために、どの道を通ればいいのか。
脳のシステムとしての機能は、全てを組み込み、全てに組み込まれる。
それは、外部の物事や、他者や神といったものを、哲学者が気にかけるゆえんではないだろうか。
0401考える名無しさん2017/05/30(火) 20:47:08.070
無知の知を知るだけじゃ、下の下
無知の知を応用できてこそ本当の無知の知、
それは自分の無知や他人の無知があることを知として
役に立てる知恵にこそ本質がある。
自分がすべての知識をもっているなどと思う人はそもそも知的障害であて
無知の知で障害者ではないという表現に使うべきではない。
そして既知の知とも関係づけ、既知によって他者がどのように行動するかを
応用できてこそ無知を知るということになる。

自身の起源となる古代の思想を捨て(捏造&誇張)た社会の人々には理解できない。
0402おね2017/05/30(火) 20:47:41.490
>>395
ラップはメッセージ性が強くてもしょせんは音楽であり表現の一つです。
主義主張をメロディーに乗せてリズムで調整しながら脳に焼き付けていくとしても、そもそもそのような主義主張の議論に興味がない人がいます。
このとき言葉による通信は無意味です。
>>398
なにを勘違いしてるんですか。
政治や社会問題の提議であればそのような団体が行うし、個人間チーム活動であれば音楽や芸能で表現します。
日本国内では、そのような活動は結社の自由や表現の自由として認められ、各々の団体が専門や職業としてやってます。
文芸や芸能の表現の美的姿形であっても、これ自体が主義主張に違いない、などと捉えてしまうとなにかを勘違いするかもしれません。
できることなら、そのような勘違いが生じる動因を調査したいです。
>>399
私は朝鮮人ではありません。
ところで、その様子だと、日々楽しそうでいいですね。
>>400
他人と言うものを知ることが出来たとしたら、他人の思想(経験)を会得するのでしょうか、他人の技術(芸術)を会得するのでしょうか。
0404考える名無しさん2017/05/30(火) 21:50:11.300
日本語違うから
0405考える名無しさん2017/05/30(火) 21:59:14.310
日本語ちゃんと使えるの?
>>1の発言を翻訳したってこと?!
0406考える名無しさん2017/05/30(火) 22:02:45.290
朝鮮人だから
0407考える名無しさん2017/05/30(火) 22:17:56.930
>>403
1万人の朝鮮人が貴方は朝鮮人でしょと問い答えた結果は日本人がほとんどで
あとは中国人やらで正直に答えることはまずありえない。
0408考える名無しさん2017/05/30(火) 22:27:08.640
そのコミュニティーでその日本語だけを使えば生活していけるならそこは正しく幸せのホームなんでしょう。
0409考える名無しさん2017/05/30(火) 22:29:46.170
生活できてないやろう
0410考える名無しさん2017/05/30(火) 23:56:22.050
「非言語コミュニケーションは成立している」というためには何が必要でしょうか?
0411考える名無しさん2017/05/31(水) 00:03:39.240
非言語コミュニケーションだと嘘とか捏造とか告げ口とか誇張とかデタラメな
コミュニケーションが難しいよな。
0412考える名無しさん2017/05/31(水) 00:42:53.240
誰と戦ってるんですか?
0415考える名無しさん2017/05/31(水) 04:53:46.180
        : :_ノ−- 、'    { ∧ 
      |   \   ヽ_ノ ./ノ l )
  : : : : :ノ ノノ/\.__ノ( (( ヽ,ゝ (ミ 
  : : : : : :(: 〈  ,ハフ'兀「        ! } :
    : : : : : : `ヽ  V       j _ ノ ,スヘ_ノ7--−イ∧〈
      : : : : : : : { /       ,  ハ、  _//く 〈 ___ r'九〈ハ.}
      : : : : : : :レ'    '   ,ハ ノ  ヘニイヽ_厂 、ノソト}〈V´
        : :_ノ−- 、'    { ∧ 
      |   \   ヽ_ノ ./ノ l )
        : :_ノ−- 、'    { ∧ 
      |   \   ヽ_ノ ./ノ l )
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  : : : : : :(: 〈  ,ハフ'兀「        ! } :
    : : : : : : `ヽ  V       j _ ノ ,スヘ_ノ7--−イ∧〈
      : : : : : : : { /       ,  ハ、  _//く 〈 ___ r'九〈ハ.}
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        : :_ノ−- 、'    { ∧ 
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  : : : : :ノ ノノ/\.__ノ( (( ヽ,ゝ (ミ 
  : : : : : :(: 〈  ,ハフ'兀「        ! } :
    : : : : : : `ヽ  V       j _ ノ ,スヘ_ノ7--−イ∧〈
      : : : : : : : { /       ,  ハ、  _//く 〈 ___ r'九〈ハ.}
      : : : : : : :レ'    '   ,ハ ノ  ヘニイヽ_厂 、ノソト}〈V´
        : :_ノ−- 、'    { ∧ 
      |   \   ヽ_ノ ./ノ l )
0416考える名無しさん2017/05/31(水) 14:16:15.810
荒らすなチンカス
0419考える名無しさん2017/05/31(水) 16:42:43.070
おまえハゲだろ
0420考える名無しさん2017/05/31(水) 17:07:31.580
>>419
おまえ朝鮮人やな
0421Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/05/31(水) 17:56:22.000
禅問答といったものは、つじつま合わせの訓練である。仏教は全てにおけるつじつまを合わせようとする。

自分の外を考えるためには、自分の中をさらけ出す必要がある。おそらく禅では、内的閉塞状態における、
最小限にして最大限の外との関わり、即ち、(全)環境の認知を得るための、自分の「外への許し」を
求めるのである。

思えば、身体と言うものは、つじつまが合っていればそれで何の問題もないのであるから、自己(免疫的な)
健康と、さらに、外部への許し、の両方があれば、個人が完成されるのであるだろう。

合わされるべきつじつまは、自己に対してのみに与えるべきであり、外に対しては、許しを、体験(あるいは思考)
しなければならない。
0422考える名無しさん2017/06/01(木) 00:27:25.670
>>420
マジでハゲだったのか、ベジータハゲ?まんま東ぽいはげ?
バーコードはげ?
0424美魔女2017/06/01(木) 16:21:21.280
おねさんに自己紹介ですか?💦って

言われるわよ♪👰
0425美魔女2017/06/01(木) 17:33:50.490
では、私の自己紹介です👩

せーーーの!

桃レンジャーーーーーーーーーー😆
0427学術2017/06/01(木) 21:18:52.360
五円ハゲ。スクラブがいいんじゃないの。逃避には。
0428学術2017/06/01(木) 21:19:11.120
頭皮
0430美魔女2017/06/01(木) 21:56:32.180
>>426
なりすましを発見👩
0432美魔女2017/06/02(金) 12:24:40.250
>>431
なりすましを発見👩
私の父は神ゼウスです。⭐
0433学術2017/06/02(金) 13:47:55.430
そなもんや。
0434美魔女 ◆jPpg5.obl6 2017/06/02(金) 17:07:54.990
>>431
なりすましを発見👩
私のパパは全知全能のゼウスです。⭐
パパは隠し子で生き残った
0437Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/03(土) 03:00:33.020
礼儀が身につかないのは、憎しみゆえだとわかった。他人への憎しみ、言葉への憎しみ。
あらゆる道をふさがれ、自分は生きているだけで不快を催させるものなんだと、教え込まされた。
怒りとは、ぶつける対象がないと意味がない。だから、怒りを使って憎しみを減らすという方法も、
とれない。従って、自分を責め、何かを責めるしか、方法を知らない。

あらゆる物に対して共通項を使ってまとめるということは、悪くはない。その共通した点において
憎しみを喚起してはいけない。いや、それはいいのだが、もっといい方法だってあるだろう。
つまり、共通項に対して、良い点を見つけられる可能性があるということだ。
ある共通項に対しての、感情は、プラスにもマイナスにも、より時間節約的に、考えられるものだ。

憎しみを、変えることは、正しく物事を得るという目的を立てれば、それほど難しいものではない。
こういった点が、哲学の優れているところである。憎しみを教え込まされた私は、私と言う価値判断
主体として、新たに存在するべきである。憎しみを向けるべき対象、嫌だと思い、蔑視する対象を、
私は私自身の判断で行うのだと、思えばよいだろう。それは権利なのだ。人と同じようにするのが
全て良いとは限らない。

生きる方法とは、憎しみを、必要な分だけ適宜にコントロールし、愛を惜しまない事であった。
いったい、全てが憎いなら、全ての生が憎いとなってしまう。うまくいかないのは、不自然なのは、
憎しみと言う思い込みの、強制感によって、無意識がコントロールされてしまうからなのだ。
何かを愛したことがあるかどうか、今憎しみを愛に変化させれるかどうか、これがポイントになって
くる。

他人が憎いか?言葉が憎いか?小さなものから愛していかないか?大きなものへ思い切って
いつもと違った気持ちで、コミュニケーションをはかり、それを成功させたいと、思わないか?
怖くは、ない、よ。
0439Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/03(土) 03:37:06.770
>>438
正義とは積極的行為ですね。完全に嘘を含まない。つまり、正しさへ、身を差し出す。勇敢である。
生命力があるという点では善であり、本質的に力を求めるという点では、相対的に悪でもある。
0440考える名無しさん2017/06/03(土) 07:03:20.900
正義は常に正しい、正しさとは常に正義
自分に対して常に嘘ではない、欲に対しても恨みや憎しみに対しても常に素直な正義、
正しい、自己に対する正しさは、自分の命との引き換えでも正義
自分1人とそれ以外のすべてが対立する正義、
0441考える名無しさん2017/06/03(土) 07:04:16.510
"衛宮切嗣"は常に多数の正義の味方だった、それは正しい
はたして、彼は善なのか悪なのか。
0442Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/03(土) 22:04:02.540
運転のできる人にとっては、まったく当たり前の話だが、物事を理解する基本は、地図である。頭の中で、
目的地までたどり着く想像。一つの本について、一度出てきた概念、単語、説明などを、見たことがあるとして、
それを地図のように辿れるなら、それは理解できた、と言ってよい。補助なしで自分で意味を辿れるのだから。
つまり、マウス(動物)が迷路を抜けるには、その個所へ来たかどうかと言う記憶があることと、その個所への道の
特徴を把握するということの、二つが必要である。生きていくことが怖いなら、道を覚えて、事象を覚えて、
夢を大きくすることだろう。そしてそのうち、自分の力に気づく。どこかへ行きたいという願いが生まれたら、
迷路を抜ける力がわいてきたということだろう。地図が迷路ではなく、開けて、制限を取り払うことが、最終的に
訪れるのだから、迷いと脱出が、ある一つの概念にまで高められる、それは人間の人間たる枷であった、
と私には思えるが、地図の上からの垂直の力は、いまだかつて感じたことがない。地図の比喩だって、
今日思いついたに過ぎない。何もないならつまらないし、狭すぎても鬱陶しい。つまらないから
迷路に挑戦し、鬱陶しいから迷路を抜けたいと思う。気概と愛嬌が、二つながらにしてここにある。
いつも、宴を望み、力強い知性を望む。生きている限り、地図を作り続けるのだから、それに熟練できれば
心配はない。
0443考える名無しさん2017/06/03(土) 22:38:24.960
おーぷん2ちゃんねるのオカルト板に行って
意味不明って検索してから260番のレス見てみ。

きっと必要なことが書いてある。
0444考える名無しさん2017/06/03(土) 22:40:42.490
>>443
きちがいだな
0449Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/07(水) 13:35:53.670
店での礼儀にしろ、文章解釈にしろ、人生の行動においても、答えを、一つだけの答えを探してはならない。
その場での多様な可能性、それこそは、全ての人が持つべきものである。答えを持とうとしてはいけない。
一生懸命やるのはいいが、そのやり方自体に、どこか思い込みがあるのだとしたら、それは生きていない
ということである。答えを出すこと自体には意味がない。つまり、人間の生というものは、自由を本来とするべきで、
格好をつけることが、より得だなんて思ってはならない。自然は汲み尽くせない情感をもたらし、
ただ一つの答えではない、自分自身にとっての可能性があるのであり、何かを固定して、その状態で
他を動かす(自己による解釈を、他に向けるということ)、ような、こじつけで自己の成功を確かめる、そんなことは、
ただの砂上の楼閣にすぎない。
答えがないなら、すべてのダイナミックな関わり合いが、人生となるではないか。何かを固定せず、他人(の意見、存在)
を固定せず。見えなかった答えは、存在しなかったから見えなかったんだ!ゆめまぼろしの持つ、可能性に、
自己の勇気が見える。どんな試みも、それ自体が尊重されるべきだ。固定された他人は、自分が人間視されていない
ということを感じるだろう。だから、たくさんのケンカは、自分が人間として生きたいという、自分の心の叫びを、
聞いている人々の、答えなき闘いなのである。それは短絡的に悪いことというのではない。心がぼろぼろに
傷ついても、現在において苦しみがないのなら、それは普通だ。トラウマなどといったものは存在しない。
トラウマなどと言ったものに代表される、概念の真理性こそは偶像化されてしまうものであり、人を苦しめる
悪魔のような考えなのである。自己を固定化しないこと(執着を逃れること)が、解脱への道となるだろう。
0451Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/09(金) 21:08:41.830
自分の知識を、演繹思考の糧にしてばかりではいけないのである。それは、単なる自己内部の働きだ。
もっと、革新的なことを、するべきなのだ。つまり、現実の目の前にあるものについて何か考えられるか、
議題を区切った時、その範囲で発想できるか、が鍵である。そういう意味では、文章を完全に理解しようと
する必要がない。なぜなら、それは自分の主体的な思考のために、二次的な環境として使うべきだから
である。常に新しい、目の前が新しい、過去の縛りを考えてしまうのではない、今はしっかりとしていなくても、
まともな自分と言うものは存在しているし、優れた思考力(自分なりに、考えられるということ)を、全ての
人は持っているからだ。鬱病とかの精神病で、過去にぐるぐる回ってしまっていても、倒錯的快感のような
ものの中で、回ってしまっているだけである。全ての人が、もっともっと、自分の発想を思いつき、表現
するような、力の方法を知らなければならない。
物事に取り組む、ということは、そうしたこと以外にはない。成功失敗に関わらず、また手間暇惜しむのでなく、
自分で考えること、習慣や手続きを思って、(一見)安穏と暮らしている限りでは、まったく知において、
得たもの、作り上げたものは、ないだろう。
思いつこうとして思いつくこと、これが大事なのである。レベルは気にする必要はない。自己に誠実である
ことのみが、発想の規則である。
ボケっとしていては、成功はなく、考える喜びこそが、成功をもたらす。考えに限界などはない。
0452Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/10(土) 17:57:21.640
一番苦しいことが、一番の解放への道である。或る拒絶感を感じたり、叶えられない希望を拒絶する、気持ち。
それらを感じているのは、全て、自分なのであり、自分以外ではないということ。頭の中をいっぱいにされる
気持ちは、すべて自分が感じているということ。それを振り返った時、自分は広く大きくなる。自由度が高まる。
だから、嫌な気持ちこそが、解放への道なのである。譲れないことを考える時、それを得るためには、
自分の存在を確かめること、そして現実的方法をとるべきかどうかと思うこと。我を忘れているとき、
我を思うこと。我のみが事実である。
0453Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/10(土) 18:41:33.070
自己を失うことは、案外と多いものである。句点で区切られた文章の、次に移る間に、自己を忘れたり。
そのせいで、意味に分断が起きる。自己が連続的に存在しない。そういうことが積もり積もっていくと、自己の
制御できない、得体のしれない世界が出来上がる。それを壊すためにするべきことが、どんなことを
考える時も自分と言うものを忘れないということなのだ。綺麗ぶっても、善良ぶっても、恨んでも、
頭に血が上っても、自分が嫌になっても。自分を思い出し、取り戻そうとしなければならない。
0454Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/11(日) 07:30:24.880
自己における自由とは、反省と理想によってもたらされる。自分はこんなことを考えているがそれでいいのか、
もっと他のことを考えるべきじゃないのか、そうすれば自分は悪くないものだと思えるのじゃないか、
などの、内省が必要になる。そのとき、迷いが迷いでなくなり、自由がもたらされる。
自分はここにいるがそれでいいのか、こういったところに視線を合わせているがそれでいいのか、
それらの、不安の気持ちは、混乱の延長線上にある。
生きていること自体に、奴隷のように自らが自らを縛っているのであれば、考えも行動も、どうするべきか
という点で、良くなりうる。
そういう風にして、自分の可能性と安心を、得られるはずであり、自己の自由の根拠には、意志と行動の
自由こそが創造的な理想の存在としてあれるのだと、思えるのである。
後ろめたいのは、自らを失った状態のままでいるからなのだ。
0455Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/11(日) 07:41:17.890
つまり、誤解と思い込みの上に現実が成り立っているのであるとすれば、それを正すことが出来るはずである。
無用な労力が、間違った方向へ向かってしまう、そうした事態を避けなければならない。そのために必要と
されるのは、ただ、自分がどういう思考の中にいるのかと言うことにおいて、現実との齟齬から、思い直し、
理想的な思考へと自らを変えるということだけなのである。物事を悪く進めたい、失敗をしたい、間違いが好きだ
というような人間はいないのであり、自らの存在を十分に働かせられるようにして、現実を捉えたい
と思うこと、自分の焦燥には裏があると読むことが、大切である。
0456Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/11(日) 18:47:03.830
自分と違う主義主張を持っている人の存在を、否定してはいけない。
0457Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/12(月) 15:21:03.530
人はいくつもの物語を体験しながら生きている。今日は、一週間前に未展開におわってしまった、この物語
の続きを考えよう、とか、この本の続きを読もう、とか、過去と現在を連絡させることで、日々生きているのだ。
音楽などは一番強力な物語で、常に過去のメロディーに付け加えて歌っていくことが、音楽体験である。

思い出せるということと、その続きを考えようということの、両方の意識を持っていない場合は、
物語が頓挫してしまう。そして、ガラクタの記憶ばかりが残る。

思い出して、続きをしよう。それが、記憶の本分である。良いということは、そのようにして、自分の考え
が正しく使われていく時に、感じることである。
0458Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/12(月) 15:33:20.250
それ故に人は、他者の物語に参加することによって、関係を結ぶ。それが最も簡単な寛容であり、
邪魔ではないということなのである。逆に言えば、物語を攻撃して、潰そうとする他者に対して、
敵であると判断されるのである。自分の嬉しい物語を、考えるということ、それが生きることの基本
であって、記憶の存在理由とは、記憶の連続による、生と感覚の充実感なのである。
0459Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/16(金) 16:04:20.170
良く分からないが、孤独であることと、死を恐れない事は、大きくかかわっていると、思われる。両親と別れ、
一人ぼっちになり、その中で、世界を思うこと。孤独を知っているものは、その孤独感を突き詰めること
によって、他者(その初めは両親である)に対する許しを得られるだろう。一人ぼっちであれば、なんの
傷つけるような行為も、必要ではない。つまり、孤独と言うのは、自分に対してストイックになることである。
「一緒に歌って、独りぼっちやから」。https://www.youtube.com/watch?v=1NsWmcNTL7I
愛とは自己から生まれる。他の存在に対することで、孤独であることを
忘れること、それが愛である。そして再び孤独は帰ってくる。今回は、弱くはない。制御できる。
孤独は、途切れないものであり、絶対的な物の一つである。なぜ絶対的であるかと言えば、それは、
孤独が死によって途切れさせられないものであるからだ。孤独は、何物も要求しない。

だから孤独を突き詰めるべきである。間違って人を害してしまわないためには、弱さを知り、限界を知ることだ。
限界の中には、制限と言う障壁を自由に操れる、「悪い思い込み」から抜け出すために、現実の展開を呼び込む
力が存在している。弱さを知らぬものは、必ず傲慢の影を踏む。弱さを知る者は、強さを知っている。
人間の行き着くところは、そういうところだ。誰もが孤独を抱えることで、情緒の影が豊かに育てられ、
虚しいものはないのだとしる。空しいものだが空しくはない。そんな両面性を理解できる。つまり、それは
弱さと強さの両面性と同じことなのである。

恐怖には原因がある。心的な要因は取り除ける。実際的要因は、力を持って対処するしかない。
恐怖について誤解しているところを修正したなら、現実のみが現実であるという、唯物論的な真理を、
正しく納得できるであろう。それは何も、魂の存在を否定しているのではない。魂は魂として正しく
対応すべきであるし、唯物論が全てを説明できないのは自明の理である。
0460Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/16(金) 23:15:58.200
人との人間関係で気をつけるべきなのは、その相手がどう自分のことを思っているのだろう、思うのだろうと
いうことである。それ以外に、基準はない。人の気をうかがい、慎重に心を見つめようとすれば、たいていの場合には、
自分が望んでいるように、人の心を与えてもらうことは、出来ることなのである。世界を見る時、世界は自分のことを
どう思っているのか、ということに気をつけるべきであろう。世界は自分を愛しているのか。思いと言うのは、
客観的意味を支点にして、変化する部分を意味づけることであるだろう。つまり、言葉には支点があり、
言葉とは変化するものである、という要点を逃してはならない。だから、思いが究極的にして愛となった場合、
自分が愛されている、ということ、自分が愛を作り出したのだ、ということ、それらのことを、現実として、
自分で持てるのである。人の思いを得よ、気持ちに気をつけよ、心を分けてもらうのだ。そのようにして、
人間の心は、お互いに見合って、落ち着く。誠意が通じない場面は少ない。気持に気をつけるのだ。
自分がしたいと思うことは、ほぼその成功に対してのものであり、変わらないことのない世界に対して、
変わらないことのない自分が、支点を移動させながら、自分の愛の存在として、助け助けられるということの、
普通の意味をこそ、真実として銘じなければならない。
取り返しのつかないことを、嘆くのではなく、自分自身の限定されてはいてもそれなりにある可能性を、
活かすということ、それ以外には何もない。現実を見るということが、特に有効になるのは、過去に生きる
ということの愚かであることに、対してである。本当の自分の願いは、必ずかなう。
0461Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/17(土) 16:28:52.600
自然に対する情緒という感受性は、人間が自然と共にあるとき、一番普通に感じられるところの、原点である。
悲しいものを悲しいとみて、醜いものを醜いとみる。それらの印象的なメッセージを間違ってとらえたとしたら、
自然は遠くなる。物事を正しく見るためには、まず、焦らず、不安にならず、怒らないということが、
必要である。人間が自分だけで生きていけないということが、いさかいや攻撃、憎しみとならず、広い心と、
優しい心と、穏やかで温かい心を、愛として、大切にして、現実に多く実践する事、こういうことを心がける
ならば、人生とは楽しく美しいものとなるだろう。感受性は、間違って思い込むことによって、捻じ曲げられ、
失われてしまうものだ。それを、再発見した時の喜びは、僥倖であるに違いない。物事を正しく見たいと
思った時には、昔を思い出して、昔のとおりにまたなれるのだ、ということを、確信しなければならない。
だれも、人に対して、お前は不幸になれ、などと言ったことは、考えないものであり、考えてはいけない
ものなのだ。人はプライドを持つから、様々な攻撃もしてくるだろう。だが、根本の、可能性をつぶしてやろう
という、憎みは、人の間にはない。たとえあったとしても、永続はしない。姑息だったり、小人物であったり
といったことが、目につくとしても、自分のことを考えて、それらのことに関わらないようにすべきであり、
また、関わったとしたら、自分にとっての誠意で答えようとすれば、なにもわだかまりも生じないであろう。
傷つくという事は、感受性がキャッチしたものである。それは、本来の感受性とはまた少し違うものである
かもしれないが、おおまかには違いはないと言ってよいだろう。だから、自分が漫然と過ごすのではなく、
喜び、悲しみ、精一杯愛を持つこと、そうしたことを、価値あるものとして、誰もが心に持つことなのである。
めんどくさがってはいけない。軽んじてもいけない。自分にとって必要であるということが、自分の中に
あるものなのだとしたら、それを、実現していかねばならない。善いことをしようとすればよい結果が
生み出され、悪い心を起こしたとき、現実に悪が生じてしまう。それらの実験は、もう終わっている。
0462考える名無しさん2017/06/17(土) 18:30:00.520
原点を本質を知りたまえ、対等する正しき名前を呼び起こし、
その世界に深く感謝しませり、

そこに活かされ生まれるのは力、言葉ではない、自分の活き方を信じよ
0463Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/17(土) 18:47:33.100
>>462
そうですね、自分らしいということを考えることは、甘えの一種ではないでしょうか。やりたいことをやることが、
人生の目標である。信念という言葉が、自分には一番面白いものに思えます。何の理由もなくても、
決心して、あることに全力を尽くしてみる。ご飯を食べる時も、他人との交渉があるときも、常にあることを、
考えている。それが必要とされる理由は、努力には必ず対象が必要となる、ということです。
対外的には無意識で処理して、意識化して考えるのが、目標としたこと。目標自体は、どんな馬鹿げた
ことでもいい。例えば、善行を積む、とか、善の概念について考究する、など。目標があれば、
計画的になり、まとまってくる。手ごたえもある。ただ長生きしたい、ということを、脱して、
例え短くても、何かをやり尽くした、そんな手ごたえがいいですね。僕は、そうした計画性とか目標が、
全く持てなかった。
信念の人になる、そんな決心で頑張ってみたいです。とりあえずは、というところですが。
広くものに関心を、持ち続けてきたので、それをある範囲の中へ没入していく必要が、僕には、あった、ということです。
常識では、研究に、ならない。
死に怯えることなく、無為であった生に、エネルギーを与えたい。
0464Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/18(日) 10:13:28.510
@思考、気持ちを言葉に言い表す。言葉の意味を想像し、自分なりに作り出す。言葉と意味の相互変換。ゆっくりと
やればいい。二つのへだたりと、関わることもできるという事。言葉を使うとは、意味を言葉に変換し、説明し、
言葉の意味を当て、言葉と意味が、関わっているところを、おおよそ共通させ、トライする行為である。
言葉とは現実情報と言っていい。言葉にならない意味は、上手く伝えることはできない。伝えようとする行為
に対して、それを知ろうとする意志、それは、労働である。だから、それはなんらかの形で報われるべきなのである。
言葉を嫌い、ストレスをためる前に、自分の言葉と言うものに対する理解度、態度が、考えられるべきである。
瞑想は、言葉との付き合い方である。言葉を意味を、どのように使うかが、瞑想の内容である。イメージの支配
から逃れ、自分と言うものの自由と力を得る方法も、瞑想的な言葉の変換行為である。

A現実の意味を掴むためには、イメージを取り扱う方法を得なければならない。それは、イメージを連鎖させるという
方法である。現実とは、最も連続しているイメージである。現実とはイメージの洗脳に他ならない。
現実には、間にイメージを挟むことが出来るし、実際それは欲求となる。睡眠時の夢がその代表的なことである。
イメージという把握の方法は、習熟すればかなりの性能を出せる。そして、それが、自由をもたらす。
現実と言うイメージに、頭を隷属させてはいけない。イメージのみが現実なのではない。因果関係の縛りは、
イメージをも縛る。むしろ、自己をも縛る。因果関係が、気持ちを縛るので、逃れられない。そうした、
非人間的な論理が、戦う相手である。苦闘の過程が、生きるということだ。それに勝利するためにはどうすれば
いいのか。何らかの持てる力を、集中し、解脱せよ。空想に力と内実を与え、イメージによる把握を知的に使用し、
自分が戦う相手とは、幻のようにあやふやでしつこい一瞬を、悪意のように押し付ける悪夢だ、さめる、悪夢とは
覚め得るものであるという事、エネルギーの力を借りて、イメージによる把握を知的に使用して、自己への強制から
解き放たれるのだ。
0465Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/19(月) 18:30:11.610
ある思念には、必ず原因がある。しかも、原因は一瞬で頭から消え失せ、結果のみが残る。だから、その原因を、
忘れる前に思い出し、確認しなければならない。そして、結果としての思念に対して、それを是とするか非と
するか、判断をして捨象しなければならない。自慢とか、侮りとかから生まれている思念を、支持するのは良くない。
そのようにして、人格を育てていくのである。

個人は、必ず自分の中の調和を、目指すものだ。人と人が共存するなら、必ず違和が生じる。それゆえに共通的良心
を育てる必要がある。個人が大きいことは、その全体に等しいほどだ。それゆえ、知性と事物を合致させるような
思考をすることさえできる。
等しいものは、等しいとみられたとき、現実の中にその展開を見せる。等しいという論理関係は、等しくない
という論理関係ではない。人間が意味を持つとき、矛盾が起きることが生まれる。矛盾的な時間というものは、
存在するのだろうか。時間においての無矛盾が、絶対の公理であるのか。
0466Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/19(月) 19:00:24.700
脳にしろ筋肉にしろ、あるいは言葉にしろ、すべて、波打っているものである。静的ではない。波打つ言葉
とは、言葉を絶対と見ず、そのあやふやな効果こそを、肉体のために必要であるものだという意義を持つものと見るべき
なのである。理解に汲々としていては、頭痛が起こるばかりだ。時間は静的に流れているが、人間の思考、精神
がそこに加わると、それはダイナミックに躍動されるものとなる。動かない筋肉と言うものも、まさにお笑い草である。
脳は、脳漿のなかで揺らいでいる。
このように、振動している、波打っている、ということが、微妙であるが決定的な、違いをもたらすものである。
0467考える名無しさん2017/06/21(水) 05:53:24.450
>そのあやふやな効果こそを
繰り返す不完全さこそ力となる、だが不完全さ故に特定の意味に分類し難い
0468Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/22(木) 18:21:52.220
儀礼についての個人的考えであるが、人に対して命令、アドバイスをしてはならないのである。車の窓から見える通行人に対して、
顔がいいからもっといい存在になれるのだよ、という思考を、一瞬の表情や眼差しで表してはならない。前の
車に対して、危ない運転だから、もっと気をつけた方がいいのに、などと思うのもダメだ。自分でやっている
ということが、行為においては、絶対的な基本である。自分の知らないことを、不安からあるいは勝手に、
どこかで騒ぎ立ててはならない。以上の事には、もちろん例外もあり、基本としてのみ考えるべきではあるが。
つまり、儀礼の本来性には、自己自立を目指し、自己行為を育て、成り立たせることがなければならない。
力なき交流に、なんの現実的意味があるだろうか。力の間の拮抗にこそ、知るべき意味がある。
太陽に対して、明日は西から上れ、などという命令がだめなのと、同等のことを、人に対して思いがちである。
自分勝手になってしまえば、自己を閉じたとき、間違いな生き方を身につけてしまっている。
理想の高さが良いものをうむこともあるが、悪いものを引き起こすこともある。人間とは、各人で
自立した行動をとるべきものであり、どんな強制でも、いかなる気持ちによっても、なされてはならない。
ダルマの存在を確かめるのは、そのような戒律を投げかけた上で、出来ることなのである。人を命令に従わせる、
そんな面白さを、考えることもあるだろう。だが結局のところ、それは嫌がらせにすぎないのである。
命令されることは、あまりにも騒乱的な耐えがたいことである。どんな奉仕も、主体的行動でなければ、ずっとは
成り立たせられないだろう。心は自由であるべきであり、自己の主は自分だけであるべきなのである。
他に対する心のざわつきの生起を、避けようと思うなら、人を勝手に解釈してはいけない。間違いであっても、
相当に必要であると感じられるとき以外には、おそらくわかってやっていることも多いであろうから、控えめに指摘
しなければならない。
そういった、善悪を孕んでいるのが、礼儀である。人と人が接して、気楽にやっていけるのは、なんと充実感
あふれることであろうか。
0469Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/23(金) 19:50:10.710
論理は誰のものでもなく、論理的思考方法は、コツがあるわけでもない。だから、論理的言説に対して、
何の嫉妬も感じる必要はない。論理的とは、物事についてくるものではなく、ただの心掛けにすぎないのである。
だから、たった今これからは、論理的に考えよう、と決意した時、もう全ては論理的になる。物事を越えた、
論理的な脳があるのは、脳がもともと論理的な物であるからだと考える。物事が済み、一人になった時、
何をしようかと考えるならば、論理の中へ飛び込み、論理と近しくあろうというような、心掛けをするならば、
そのときすべてが論理的になる。

論理的思考と双璧をなしているのは、感情的思考だ。感情を満足したいと思うばあい、飛躍への喜びがそれを
満たす。論理を感情の道具にすること、だ。だがそれは、どんな仕事をするにせよ、論理的な思考
こそが、共通語になるわけで、飛躍は飛躍なりの理論的価値がある、とはいえ、論理と敵対する必要は
ない。
0470Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/23(金) 20:19:58.230
感情や、怖さ(特に、不可能への恐れ)を論理的に解析することは、なにも感情をつぶすものではない。
感情の理由と、意味について、実際に頭で考えたとき、感情の由来を知ることになり、感情はより昂って
帰ってくる。そして、より自由に感情を扱えるようになるはずだ。あきらめではなく、考えることが出来る。
今を耐えれば、後々に何倍にもなって、報酬は帰ってくる。そのようにして、論理と感情を和解させるのだ。
0471考える名無しさん2017/06/23(金) 21:01:41.860
儒教の礼儀とは、

はじめに「仁」ありき

それは五徳と説明される、ただの形式ではなく、徳を正しく理解しないと
形式になってしまう。

徳とは利でも得でもない、多くの形式論者は個人的な利や得と自分中心の
思考の外にはたどり着けない。
そして徳は善でも悪でもない、その両者に平等にあるってこと。
0472Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/24(土) 19:49:10.760
>>471
そうですね、人間は、自分一人だと楽しくありませんから、仁義のみを約束手形として、その上にその礼儀を
おしえる。つまり、礼儀は、信頼関係、約束を一つの形にしたものでしょう。反故にされてしまいがちな
手形は、世間という監査役が、記憶していることで、約束を守るのです。それが礼儀だと思います。
自由において、悪党的になってしまいがちな人間というものは、約束を守ることで、信頼が生まれるのです。
僕が考える礼儀とは、あなたのお考えになる形而上の存在とのやり取りと、本質的(本来的)には同じもの
であると思えます。
徳の善性、形而上性が、現実の中に実現するとみるならば、その「現実における形態」をどのように
説明するべきなのでしょう。完全性への尊重として、それが真実に至る道である、と思うのは、良いことだと思います。
徳の人間における実現こそが、徳を本質的な表象と見ることの、根拠になってくるのでしょう。
仮想の絶対者、約束を作る客観的存在、そういったものを求めるのは、色々な意見が存在するでしょうが、
まさに、信頼というものが、人間存在の根本なのではありませんか。

約束手形は、見返すと面白いようなものです。見返し、楽しむ。約束が交わされたこと、
それが、実績であるわけです。
0473Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/25(日) 01:12:34.800
人間のやることと言えば、素朴的な時間や空間(実在であるところの)を、いかにして活用、開発するか、という
ことぐらいで尽きている。サッカーの試合などを見れば、そういうことはすぐにわかる。そして、学問と言うものも、
そうした活用の変奏に尽きてしまう。だから、知識によって教養を作り上げるという事は、そうした時間空間
の中にしかないのであって、その自由さと新しさに、大きく寄与が、作り上げられる場合がある、これで尽きる。
つまり、自分でわかっていることをもって、全ては解釈、あるいは理解可能なのであって、特別難しいことを言った、
言えるということに、それほど大きな意味があるわけでもない。

空間のここをこうしたら面白そうだな、時間をきちんと分けて行動できているな、ということが大事だと知っていること
のほうが、よっぽどに難しい教養よりも、大切であって、空間や時間を捨ててもいい(自分が利用できなくてもいい)
と言う人は、いないのである。
であるから、三人寄れば文殊の知恵という協力関係を持てるのも、空間と時間についての、共通の話が
かわし得る場合においてであろう。無駄に思えるやり取りではなく、何かをしたいと思った時に、できること、
また、自らの迷いを、有効に過ごし、乗り越えるためには、そうした時間空間が、個人の自由な畑であると、
知っていることで、簡単にできるようになるであろう。

言葉は、感覚の経験を伝えるということが出来る。だから、マニュアルを作れる。マニュアルを使いながら、
目的を達することが、行為であるから、言葉=マニュアル、の使用によって、実世界=空間時間、の活用を
もってして、本当の行為がなされるというわけである。
0474Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/25(日) 17:05:58.150
死が恐ろしいという気持ちを、なくすために必要なことを、その恐れは、気持ちにすぎないということから見てみるべきだ。
つまり、死の想像は、自分の思考を止めさせてしまい、勝手に不安を自分の中に囲い込んで、震えているということ。
想像の問題だ。壁の向こうへ行く。身体の力にせよ、加えて反作用が帰ってくる状態、その触覚の手ごたえで
満足しないということを考える。つまり、力を、より、出すこと。それが、物事を乗り越えようとする場合に、
必ず必要となる操作である。
それと同様の事を、思考に対してするのである。つまり、あるものを考えた場合、その始まりから離れたり、
変化し続けていくなら、それは、何も考えていないわけである。思考の内容よりも、思考作用、思考体験
といったものを、得ることにこそ、考えの本来的特質がある。
つまり、良いところまで行っているはずなのに、何か足りない、という気持ちが起こるのは、そのように
極限の向こうを見ようとしない事が原因のである。
力でも思考でも、限界を勝手に作って、引き上げてくることをくりかえさない事。一度取り組んだ思考において、
あきらめるということが、意味のないことである。
本当に生きるとは、何かの向こうへ突き抜ける体験を、自由にいつでも何についてもできることである。
死のむこうにあるのは、物質化された肉体と、消え失せた存在、散らばっていく粒子。そしてさらに、
そのむこう、物質の向こうには、作用を物質の立場で考えること、すなわち、生物の構成要素(元素)
となる。死は、やはり生命にはわからない。なのに分かっている。これは、細胞レベルでのサインと、
統合主体である意識の消失とが、和解されないことから起こる。それを、生命の不完全と呼びたい。
では、生命を完全にするのは何か。それは、そのために時間を使うことのできる、意志である。
意志においては、先ほどから述べているような、向こう側への突破が実践されうる。つまり、突破の手ごたえが得られる。
生命が失われるということを、受け入れることができるようであれば、その生は、完全であり、一つの形として、
消え去ることが出来る。ここにおいて、存在のゆくえを、実在の意志が、つかまえることが成り立つ。
つまり、その生は、在ったと思い、それでいいのである。
0475Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/27(火) 01:09:04.510
なにがしかのためになると思って、呼吸についての考えを述べます。禅というような高等なものではなく、
呼吸法と言ったところですが。

まず、息を吐くと、肺が空っぽになって、無の状態になる。そして息を吸うと、空っぽ(無)の肺に、だんだん
空気が満たされていく。この運動の繰り返し。肺の中が、満たされるか、空っぽになるかという区別が、
ポイントです。慣れると、楽しくなったし、頭が活性化されて、安楽な、気持ちになりました。
0476Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/28(水) 14:36:24.450
長田弘が言うように、世界と言う本を読むのがいいんだ。

気分や脳の状態も、読める。時間と記憶も読める。ないものは、ないとして、読める。
今という瞬間を見失い、上手く生きられない、考えられないという場合には、読むという行為によって、
自分が存在しているという感触を得られるだろう。
0477考える名無しさん2017/06/28(水) 19:28:37.480
人の肉体心が働き、人の形に魂が宿る。
肉体そのものが考えたり悩むことはない、
体が病んだのは心が働きが肉体を作用したからだ、
心と体を包み込むのは魂、それは人の形を活かし殺す
環境や状況といった前提条件である、
これらは3つが1つになって廻るのが人の形といえる、
物質的な肉体、精神的な心、霊的な魂、
この中で魂は自分以外であるかこそ実態は見えないので分かりにくい、
運とか偶然とか日常とかなど、貴方を誘う空間的な働きだ
偶然(チャンス)を掴むのも、迷いを取り去るのも、運を呼び込むのも
その魂との付き合い方である。
その三者一体で1つの存在だ、それが世界であり真実でもある。
その小さき力は求めるものには与え、拒むものには与えられず
世界との対話の中から間合いを見つけ、人の進む道となり描かれる、
背負うべき魂の形は如何様か?それを見つけたとき、体も心も導かれるだろう。
0478Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/06/28(水) 22:59:06.460
>>477
魂については、ノーベル物理学賞をとったような人の中にも、それを探す人がいるそうです。肉体と心と魂の
廻りが、人の形なのでしょうか。どれが欠けても、生きられません。魂が、「環境や状況といった前提条件」である、
というのは耳新しく新鮮に響きます。統一感というか、他の力と自の力の合一を目指しておられるように
思います。人間の闘争を、力として美しいと思った古代ギリシャ人も、きっと別の形で、真の力に、
達していたものだと思います。
0483Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/01(土) 20:15:17.810
現実に満足できず、自分の感情の示すところと反対する行動ばかりとってしまい、底辺である気分に沈む。
それは、もちろん、何回も。
掴んだと思った感情の、保持のしかたを知らない。
では、感情が逃げていくのをどうすればいいのか?
それは、その感情を包み込むということだ。包み込む作用を施した感情は、永続する。だから、満足が増える。
眼球なども、周りで包み込めば、しっかりと存在できる。

包むことを心がければ、感情が溢れ、幸せになり、不幸なことにこだわらないでいられる。
いかなる不快感も、いかなる挫折感も、コツを掴めば一日で消えるだろう。
0484Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/01(土) 20:25:31.200
包み込むべきなのは、もちろん、良いこと、よさそうだがまだ自分で分かっていないことであり、
苦しい物事は、良いことの圧倒的な感動の前に、押し消されるようにするべきである。
良いことが一つもない、自分の生において希望が全くない、苦しいことばかりだ、というような
場合には、少ない良いことを掴むべきであり、それでも、不快に対して、快をもって制するべきなのである。
じわじわと範囲が広がっていき、ついには、幸せさえもつかめるのである。
0486Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/01(土) 23:09:30.730
人間とは、目前のものを見てしまうものだ。だから、人間を越えようとすれば(より向上しようとすれば)、
イメージを人間からより、越え出たものにしていくことが必要である。そのためには、イメージを、ぱっと
脳内に映し出し、さっとそれを消すこと、その繰り返しだけを、担っていくことではないか。
考えることを、楽しむべきであり、ストレスのないイメージ思考に、変わることである。
目前のイメージを、消すこと。そういう操作によって、因果の縛から逃れられる。なぜなら、そういう、
イメージを変化させるというような考えが、縛られないからだ。目的に達する道自体が楽しい、とすれば、どうだろう。
ゆっくりと自在にイメージを操ることが、楽しいことなのである。つまらないという感情は起きない。
考えに達するまでに、つまらない気持ちで、待ち続けていないのである。時間と心身の有効利用である。
0487Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/02(日) 00:15:24.510
忘れることの、最上の効果は、苦悩のように心を拡大して訪れる。泣きそうなとき、泣いてしまいたい心を、
忘れるなんてできない、と、普通に思えるかもしれないが、その悲しさを忘れようとしたとき、感情は
何倍にもなって、またすぐに起こってくる。だから、忘れることは、全ての場合に当てはまるような良い
行動である。忘れることで、揺れていた卵のような自分は、正しい位置に置かれるだろう。それは、
忘れることが積極的にできる唯一の思考であるからだろう。忘れるとは、執着しないということを、
達成する方法である。
0495Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/03(月) 14:03:33.090
勝敗を成り立たせるルールは、自分が理解、或いは作って、成り立たせなければならない。レベルの高い闘いのみに、
人は注視する。勝敗などはどうでもいい、というようなことは、ただのぼんやりとした、甘えのようにしか
思えない。勝敗があるから人は生きるのであるし、高度なゲームをできるものこそ、真に生きたと言えるのである。
もちろん、素人の立場でものをいう人間がいてもいいだろうが、勝敗ののちそういうことを釈明する人間には、
何をかいわんやという感じである。

当然、自己の勝敗をごまかす人間はいるので、自分自身を粉飾するような愚かな人間は、何の価値もない。
当然、自己の勝敗を気にかけない人間はいるので、自分自身をまだ戦いの場に出していないというような、
独立的な人間は、まだ、これからそうした戦いを戦える自分と言う可能性はあるのだから、これから
正直に自己を展開するべきであろう。
0497Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/03(月) 22:54:16.010
視覚や聴覚の中で、二つ以上のものを、同時に考え、注意を向け、対比させることが、正しい脳の使い方である。
比べることにより、唯一の自分だけの意味が生み出される。例えばモーツァルトなどを聞く時、二つの音を、
(やや時間的先後を処理しつつ)聞き比べる時に、その音の妙味を味わうことが出来る。こういった、注意を
向けて、いくつかの物を比較し、意味を立ち上げる時、可能性が大きく開かれる。つまり、唯一といったことは、
考えなくてよい。ただ、生き方といったもののために、純粋ではなくなってしまうのだが、それも、唯一の理論
を作る邪魔になる、などと考えなくてよい。なぜなら、もともとの悟りへの意志は、人間がいかに楽になれるか、
といった点を、もくろむものだったはずであるからだ。「いくつかの物を比較する」という方法の適用こそが、
例えば難しい理論的優秀点を、出すこともできるようなものである。めまいがするほどに、豊かだ。
受け取って、作り変えて返す、そんなことが、楽しいのである。
0498Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/03(月) 23:04:23.570
そういうことを考えると、死についての考えにおいて、それを唯一のものとしてとらえるのがうまくいかない原因だ。
今ある生と同時に比較し、生と死について、その感覚の違いを比べ合って、捉えられるようなものが死である。
良く考える良い思考者なら、考えること自体が素晴らしいのだから、その方法を学び実践することを、
ぜひとも、するべきであると考える。

死は、近づいてくる。生は、最後まで失われない。生と死は、まるで双子のように似ている。生と死の感じについては、
共におなじ、味わいを感じるのだ。生に酔い、死に抱かれる。そんな感覚が生まれる。
0499Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/04(火) 00:18:59.460
死に対する覚悟を持たねばならない。そうすると、出生の時点と終わりの時点を同時に意識できて、比べたうえで、
両側から、真ん中の時点に近づいて行ける。そして、それこそは、生の全てに一度注意を向けたのだ、ということで
あり、また、生の全ての時間を、同時に捉えたのだということになる。
0500考える名無しさん2017/07/04(火) 00:22:45.450
>>495
勝敗は優劣ではない、最後に勝ってこそ勝利であって途中経過の優劣を
小さな勝利とする考えでは最後の勝ちは得られない。
また最初から、戦う前に最終的な勝敗が確定しているならば、それは勝負ではない
途中の優劣のそれをみて妬むのは最後に勝つという覚悟ができていない証拠だ。
いくら負けても最後に勝てば良い、途中の小さな勝利がすべて無駄になる
勝ちなど負け組みの遠吠えでしかない。
優秀なそれに勝とうとするのは間違いだ、優秀さをもって負けてもらう
凡人やそれ以下の能力で優秀に勝つのは無理、優秀な奴が踏み間違えを誘って
勝利を譲ってもらう、これが弱者の唯一の勝ち方だ。
小さな負けの積み重ねが取り替えが付かない負けにならなければ、積み上げれば
追いつける、卑怯かもしれないが勝負の相手に負けてもらうこれが基本だ。
0501考える名無しさん2017/07/04(火) 00:32:23.310
>>499
死に対する覚悟は、多くにおいて死を回避する。
生を対する迷いは、多くにおいて死に近づく。
それは時間という法が逆順を許さないから、
迷いは未来を見せてくれないし迷えば迷うほど深みにはまる、
覚悟は時に角に当たるが、修復の効く覚悟なら角の1つや2つ我慢すればいい、
覚悟はチャンスと運を掴む道具である。
進むべき道は道を信じるかぎり裏切らない、ただ遠回りか近道の違いなだけ。
0502Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/04(火) 00:41:22.920
>>500
「最後に勝つ」の「最後」はどのように決めるべきなのでしょうか。長期戦と考えるべきでしょうか。
個人的勝敗の、凝縮された小説が、ヘミングウェイ『老人と海』だと思います。「老人」というところが
ポイントですね。

まあ、競技というものは、優劣を争うものであり、勝敗にこだわる、というようなものは、形式の勝負
であって、運を味方に勝てるかもしれない。つまり、優劣に、チャンスを加味した勝負というものが、
面白味があるのかもしれません。
0503考える名無しさん2017/07/04(火) 02:31:52.940
>>502
>「最後に勝つ」の「最後」はどのように決める
争いが終わるときそれが最後、戦う片方がその次を望まないこと。
自分との戦いなら、自分が終わりと思ったときそれが終わりになる。
最後が自分が生きている間とは限らない、死して死後に勝利する魂の人は
自分の生きた意味を後世へ繋ぎ、後世のそれが勝利者とすればそれが勝利の終わりである。
常に自分中心で自分が続く世界の中で限りなき勝負を望むのに最後などない、
最後を望まないものは常に向上心の道である。
確実に勝つより負けないで延長するほうが高い確率でより安易だということ、
決定的な負けを許さないで小さな負けならいくらでも継続してチャレンジし続けられる、
負けとは己との戦いにおいての己への負けである、自己を信じられない己の弱さ、
自分を自分として続けられない自分への信頼の薄さによって自分が自分に負けるのです。

戦術で勝てない相手に勝てるわけがありません、たとえば最高の戦術である核兵器に
武器も持たずに戦争を仕掛ける、それで勝てるとすれば負けを認めず、戦術ではなく戦略
として勝つ以外に何があると思うのでしょうか、答えは自らが勝つのではなく
相手に負けてもらうことです、平等ではない勝負ならルールそのものを改変するのです、
それは将棋の勝負なら角、金、飛車などを落としてそれをルールとするような条件付けです。
速度勝負で光速と人の走る速度で比較して勝つとかいう勝負は、はじめから勝負ではなく
たんなる支配や、強い側からの拷問であります。
勝ち負けを成立させるには必ず弱い側も勝てる道筋が必要なのです、必勝側のルールに沿って
考えるからこそ必ず負けるし、努力しても勝てない、工夫しても勝てません。
勝負なら対等なルールになるように勝負そのものを改変すること、これが勝利への手順になります。
0507Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/05(水) 14:09:31.250
脳が何を話したがっているか、何を考えたがっているか、(あるいは何も望んでいないか)を観察してとらえ、
わかったら実行する。脳の観察。ある思考をしているときの、脳の状態を観察せよ。もう何も余分は必要でない。
全てはあるがままにあり、自己の妄想は止む。思考の本体は、現象と関係を持つように、存在する。
思考が行くべき場所、するべきこと、したいことは、それほど大きなことではなかったのだ。自己とはとても
小さく穏やかななものだった。外界はとても激しかった。つまり、外界よりも内界のほうが、静まりと
近しかった。外界のために生きるとしたら、内界は本来とは違うものに無理やり合わせてしまうことになる。
人が人を思いやるという事は、外界的な外科手術であり、自分を知るとは、服薬のようなことである。
病が癒えたとき、小さい自己は、もう愚かを繰り返さないで済むということになる。欲望の正体は、妄想であった。
妄想に自己が囚われたとき、必要のないことに一喜一憂する。それは、愚かである。飾り立てた衣は、他者
からの称賛のためにある。結局のところ、それはむなしい。経験として持つのみにとどめ、本当ということに
至らねばならないのである。外界は仮象であり、外界を思い通りにすることは、無理である。何が仮象であり、
何が真実であるか、それによって、導きがなされる。注意を色んなところへ、自由に向けられることだ。注意
を自らの能力として行為できることが、怒りや不安の状態においても、自らの本来的な落ち着きへ回復できる
ためには、有効なのである。探すことのできるものを探し、感じるものを感じることができる本来に沿って感じることである。
0508Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/05(水) 15:03:49.020
何かを研究するとは、物事の細部を思考することにほかならない。つまり、細密な思考が、新しさを発掘する。
例えば、モーツァルトを聞いたりするとき、その音を、極限まで分析して、理解することである。問題の解決
についても、ある物事の細部を知っていれば、それは理解したということであり、自在に解決が出来る。
不安の襞を解析し、怒りの原因を分ける。平静をよりよく味わい、出来ることをするべきであると知る。
出来ないことを取り扱おうとする。つまり、問題の突きつける我への挑戦が、そういった細密な思考を
ためそうとするのだ。それはきっと素晴らしい意味があるだろう。誇り高くあり、深い愛を持つ。
行為自体の本来的特性として、細部を考えるということが要求される。感情を解析することもできる。
細部を考えていれば、思考のネタは、いくらでもあり、全てが創造的になり、飽きることはない。
不安に囚われることもない。挑戦は全て、報いられる。
0509学術2017/07/05(水) 16:26:37.150
被投性から死への先駆性、無の自覚、シックザールとか。
0510Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/05(水) 23:19:21.810
全ての否定的な気持ちは、全て恐怖だった。
お前を見ているぞと言われ
礼儀がなっていない可能性が高いぞとささやかれる。
何が憎いわけでもなかったが
厳しく物事を強いられ、私は、自分を滅ぼした。
恐怖の育つところには、悪がある。

人間性の勝利と言われる。
その主体は誰であり、どういう勝利なのか。
それは、被支配者の勝利であり、生を制限されることへの不満と
その底に通じている恐怖を、取り去ったという勝利なのである。
人は生きるなら、他人を傷つけず、殺さないようにしなくてはならない。
内に感じた恐怖はそれを教える。
死の後に広がる、無恐怖の状態。
生の内に与えられた恐怖、それを克服する。
そのために、少しずつ恐怖を安心に変えていくのが、大人の辿る道である。

全ての否定的な気持ちは、恐怖だった。
様々な形で執拗にまつわりつく否定的な気持ちは、恐怖として対象化することで、
取り扱える。自己のわがままではなく、他者との関係の内に固く生まれてしまった
恐怖のバリエーションだったのである。恐怖を克服する、と一元化すれば、
他者を知らずにいることも難しくない。結局、自己の中の恐怖という形で、
全ては説明される。生きてきて懸命に生きた君と、恐怖に対するという形で連帯したいな。
一緒に歌って、独りぼっちやから。私の存在を、恐れない戦士として。
モーツァルトの持つ勇気。みんなの負けん気の強さのみは、私は認める。
0511Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/06(木) 06:54:19.580
考えることで、純粋であるのはいけない。ある思考を、一つの対象に純化し、集中できるようにしなければ、
などと言うように考えるのは、大変に間違っている。どうするべきかというと、物事を捉える際に、
いくらかの混ざり合い、同時に、ミックスされた知覚と思考を、するべきなのだ。物事も、人間も、
複雑なものであるから、純粋な思考は、どうしても失敗する。他の擾乱に負けてしまうのだ。
混ざり合った思考をする限り、決して、純粋な負けはないのであり、自らに向けられて攻撃を、
乗り越えて、経験として、しまっておくことが出来るようになる。
思考とは、純粋、単純であってはならないのだ。同じ対象に向き合うときも、それと混ざった別のものにより、
場合によって違っているのだから、同じ現象ではないわけである。このようにして、健全で強靭で、しなやかな
思考は、自分のものとなる。混淆こそが、思考の秘儀である。
0514Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/07(金) 17:17:13.200
生きるという事は、ジェットコースターに乗ることを楽しむような事だ。
自分の頭で判断し、そのためにも自分の感覚でスリルのような事を感じる。
自分の感覚を、外部の事物とくらべてみても、スリリングがもたらされるということと外部の世界とが、
連絡していないということは、確かであろう。そこには、人間にとって、本質的な断絶(内と外の断絶)がある。
その断絶こそが、悩みの種であって、外部より自己の方により重きを置くべきである、ということは
当然である。
だが、その両方を考えるということも、また大事である。
どちらもなくしてはいけないものだ。
ぶーーーーん、と、スリリングに鼓舞して、自己の確認を行える。スリルの感覚が、人間の虚しさを
救うものなのであろう。
0515考える名無しさん2017/07/08(土) 22:02:36.740
>ジェットコースターに乗ることを楽しむような事だ。
ジェットコースターに乗るのは基本だが、ジェットコースターをレール以外を走らせるのも1つの選択だ、
ジェットコースターがレールの上だけを走るというルールは、
それが一番最適だからだ、つまり簡単で合理的だということ、自分自身が納得してしまったルールだ、
ありえない非合理さ、あってはならない矛盾、そういうレール以外の
道を考えないものはレールに流されて順風満帆なら問題はない、
だが、何かおかしい、このまま行けば、スリルが現実になり、現実が
予想の範囲ではないことを世界は起こしえる。
スリルを体感し、さらにその先を考えるものは、見えない何かをつかめる。
流されるだけの人生で、それはそれでいいだろう、日常が普通が平凡が
未来永劫続くそれにはスリルなどで誤魔化して、現実は平凡だと納得させ
最悪が絶対に来ない、それも運しだい。
自分も平凡の中を続く限り継続されたいと感じる、神は平等に生を与えてくれたはずだ
0516Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/09(日) 00:26:58.230
>>515
ジェットコースターにのることは、いいのだが、現実を歪める可能性もあるということを意識しなければなりませんよね。
ジェットコースターが、古くは鉄道や車の発明が、人間の感じることのできる体験を広げた。そういう体験を経験
するということは、例えばバンジージャンプの発祥などに、良く見て取ることができます。
人間のなかに無限の情報があるということは間違いないが、それを、体感によって引き出す通路は、都会の迷路、
自然の迷路、いずれも、そこから出る方法が見つからなければ、挫折に終わってしまいますね。
スリルの先を考える、可能性が多いほど、迷いやすくもなる、神の平等を担保するものは、あらゆる人間が、
迷路の中を歩く資格があり、実際にそうするということです。つまり、人は無限の中で迷ってしまう、
そのことの意味とは、今を見るということ、今は、決して見やすいものではなく、つかまえたと思っても、
まだまだ迷う、賢者は見者、孤高の立場とは、本当に今を見ることのできるかどうかによって、試される、
今の捉え方の一つとして、スリルという内的視点を使ってみる、すると、過去も未来も怖くはない、
こうして色々と考えるのも、今においてのみ、今に関わりえぬものには、存在といったことは遠い、
今における働的可能性は、過去より多く、今における視覚的可能性は、未来よりも多い。過去に学び未来を夢見よ、
そして、関わることが出来る範囲での今を、常に自分の庭とせよ、自らの中に囲い込んだ作物は、
自らの手で育て、見守ってきたもの、最終的に行きつくところに意味がなくとも、今ここで自由に喜んだり
悲しんだりできるのだから、無意味な生き方であるはずはない。手を離すことで得られるものがあるのであって、
失っていくことが幸せだ。

安部公房の人生
https://www.youtube.com/watch?v=7vJF19xQDDI
0517Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/10(月) 21:53:38.770
端的に言って、過去の嫌な記憶は変化しない。だが、未来の、良いこと、素晴らしいことは、どんなに大きくであっても、
いくらでも考えを変えることができる。つまり、嫌なことを考えるのが、無駄なことであり、よい将来を期待して、
希望に胸を膨らますようなことのみが、出来ることなのである。他者を攻撃する理由は、過去の嫌な記憶と、
そのこととに、類似性があるからだ。未来に希望を持つことが、実に楽しいことである、ということである。
これは、脳の過去には(なぜか)アクセスできないが、未来においての変化は(なぜか)出来るということである。
塑性のある脳であるから、未来に関わる物事の希望はいくらでもありうるし、多様な可能性に満ち溢れている。
未来に対しての想像は、大変に大きな力となる。とくに、過去の嫌なことが、イメージと一緒に現れてくる
のにたいして、未来を思考するときには、抽象的な、映像以前の認識によって、それが行なわれる。
0518考える名無しさん2017/07/11(火) 18:37:05.310
>>517
過去の事実は変化しない、だが記憶というのは関係という解釈である、
それは事実と完全一致ではないの

つまり解釈が180℃変わる状況になれば、昔ホモでもいまは人権だ、差別撤廃
という話になる。ホモがばれて自殺した人や殺された人までいる。
事実は時間と共に、状況と新たな関係と共に世界がその評価がかわる、
天動説が地動説になったように、いまでもアメリカの多くの人が進化論を否定し
神が人類を創ったという関係がある。
0519Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/11(火) 19:15:36.190
>>518
そうですね、関係についての問題がメインテーマです。事実の確認では、解釈の変化を、引き受けなければならない
時もあります。良い風に、解釈は変わっていくところもあるけれども、悪い風に変わっていくところもある。
全体に対して、また長い目で見れば、人々の営みは、結果を見る限りでは、愚かな部分もあるでしょうが、
日常的に暮らしていると、善意の方が優勢になるような気がします。
0520考える名無しさん2017/07/13(木) 10:37:12.650
無駄を恐れるから、合理を選ぶ、困難を拒否するから簡単を選ぶ、それが流されるということ、
どんなにそれを認めたくなくとも、結局は流される。
サーファーのように波乗りにはなれない、立ち向かう覚悟と、
壁を突き破る執念、壁は越えてこそ意味があり、超える手前で
繰り返される努力と忍耐は結果に繋がりにくい、
最後まで流されず無理を通したものにのみ答えは与えられる。
天のかなたに、雲のはるか上に、天井と見える星空のさらに遠くに
掴めないところに星はあり、星は逃げたりしないが掴むのは無駄と定義されている。
音速の壁はなんとか超えた、しかし光速の壁は不可能だ、そう定義している、
だが次元の壁を突破すれば光速の先は目の前にある。
次元の先がどのようなものかを拒絶するものには言葉や思考という次元を
理解できない、認識そものがその次元を掴む原理なのに。
つまり我々が見える3次元以外の空間、たとえば11次元空間(超ひも理論)は嘘800なのです。
0521Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/13(木) 12:53:33.640
>>520
>認識そものがその次元を掴む原理なのに
次元は、物理でやったはずなのですが、良く理解しないままで、来ました。そのため、次元の乗除のしかたを
考えてみても良く分かりません。
ですが、認識が次元を掴む、つまり、光速の壁と認識の関係についても、科学的には語れません。ですから、
当然、その応用であるところの認識原理というものも、なかなかわかりません。

ですが、考えてみると、次元とは、自由度と関係があるのじゃないでしょうか。だから、認識が自由度を
もたらすと言ってもいいのじゃないでしょうか。三次元空間の最終的絶対性。そしてそれの保証として、
認識できるということが、全ての根源であるという原理。

僕自身は、迷うということに、大きな意味を見出します。思考において、二つのものを比べ、併存させて、
頭の中で一緒に二つの事を、考えるという事。このコツをつかむと、頭の働きとしては、かなり健全な
状態へと回復することが出来るでしょう。光というものは、目に見えているのに、その速度を認識できない。
それはつまり、光速の壁の前に、敗北しているという事でしょうか。光速の壁は、鏡の道具によって、
認識できるようになる。そのような、認識の延長性は、全ての科学が、限界のこちらと向うということを
引き比べることによっておこるでしょう。

僕は、認識と思考の原理とは、二つのもののあいだで迷うということだと思っています。それに、道具を足すことで、
認識の使い方が、また新たになる。原的な物と、進歩と、元への回帰。そういったことが、僕の現在の、
手持ちの力です。それを増すためには、知識と思考が、共に働くことをしっかりと得て、飛躍して越えた
もの、すなわち、地面のない穴のようなものを飛び越える時、それが悩みという力によってなされるということ、
迷いの力を、実際に使って、何かの答えを得ること、そういった実践によって、自己の方法の有用さを
確かめていかねばならないと思っています。力の協和こそが、正しさを証明するものだと言っていいでしょう。
ただし、協和は、正しさのみによって可能になるわけではなく、認識の限界が融け合うような、神秘性
と分けられぬ飛躍を含んでいるのだと思います。「より」正しきことを、人間の思考の、「さらなる」可能性を。
0522Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/13(木) 20:31:25.520
「全てを知っている必要はない」。全てを知ろうと心掛けるのは良くない。分際を知らなければならない。狭い範囲でも、
考えられればいい。そう考えれば、洗脳が解ける。完璧主義を、止めよ。争うことと、知ることとは違う。知る必要のない
ことに触れない。幸福な生の基準は、ただ法を知る自分になれたか、であり、全ての知などではない。それはもともと
不可能だ。争うということを仕掛けてくる人間にはそれなりの考えがあるのであろう。あるいは、幼すぎるとか。整然とした
自己でなくてもいいだろう。まだ悟りを知らざる身であるのだから。あまりの人の醜さに、事実をごまかしていないだろうか。
事実を知れば、それでその問題のすべては終わる。どのようにしても、知に通じる通路は開かれており、ごまかしは
効かない。すなわち、知ると知らざるは、開いた通路で過程が結びついており、生と死の間の道も、全て開かれている。
行くと戻るを、繰り返しながら、知は、得たり捨てたりされるものだ。全ては開かれている。感情にまかせて現実を
捻じ曲げようとするのではなく、そこに通行できるということを考えれば、そこには何かがあっただけであり、
感情のままに考えると、処理のできないことになってしまう。生きること自体を禁止する人間は、多いのであるが、
その事実に対して開かれている通路を、なにものも制限はできない。開かれた通路の果てにあるものに対して、
もはやうつ手を間違えたりはしないであろう。開いていることを最大の可能性と見て、閉じることを心の毒であると
考えるべきでないことがあろうか、人間存在は。
0523Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/15(土) 15:57:57.760
精妙な、曲線や直線の美しさを、たとえば朝顔の花の中に、見ているのである。数学が情緒であるとはそういう意味も
含んでいるだろう。人間の美的感覚は、幾何を、またパターンを、見ることで、働くのである。これが慰めであるのか、
それとも真理的本質であるのか、ということは、わからないが。頭の中で美しい線を想像できるのであれば、
それは画家の資質があるということである。僕自身は、このようなことをこれまで考えることは、なかった。
0524考える名無しさん2017/07/15(土) 20:36:37.030
知るというのは具体的な識別用語に割り当てて、過去の体験と経験に関連する
情報との距離と関係性を計る類であろう。
全てを知っても起こり得る未来を知る時点で変更が可能という矛盾を解決しな
ければならない。知ることで回避すればそれは知ったわけではなく予測&予想しただけだ。
具体的なものを知ると考え、抽象的なものを知るとはしない、なぜなのか?
抽象的なことは計るのが困難だからだ、抽象度が高いほど距離が曖昧になるからだ。
より高次で抽象的なものを知るというのは信じることに過ぎない、それは神を知ると同じだ。
矛盾を抱擁できない実世界では虚世界を認めない限り未来は知ることができないのは明白である、
未来は知るのではなく見るものだ、希望や夢を現実にする執念と覚悟と努力によって実現に至る妄想
にすぎない、妄想を知るというのならば、未来を抽象的に知るといえるのかも?
重要なのは知るから見るへの転換である、今を未来へ繋げる本質を読み取り、自分の真実から、
物事が結果にたどり着く為の真理という物事を描き出す心構えである。
0525考える名無しさん2017/07/15(土) 20:55:30.570
数学的美しさとは何か、最先端のそれは乱雑ではなく秩序をもつ方程式を
もって、それがより単純に表現できるかが美しさとされているようである。
それは任意で無数に化ける具体的パターンの事実ではなく、1つの秩序で
記述できる美しさだ。
本質はより単純で具体性を欠け、より抽象的で掴み得ない何かになってゆく
知りえた具体性ではなく、観念、概念がたどり着く本質的な真理である。
数学はそこにたどり着いていないが、東洋思想では陰陽という根本概念に
たどり着き、全ては根源である陰陽の秩序から派生したものだと説明する。
陰陽そのものを理解するべき意味はない、世界の根源は裏と表という2択の
性質が複雑になったというだけのこと。
コンピュータのデジタル符号の0と1に意味を割り当てるようなことはできるが
有無のような関係が根源であるならば、そこに意味を割り当てると嘘が生じる。
有の価値観で無は説明できず、無の価値観では有は説明できず、表裏一体の二面性という単純な秩序である。
0526Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/15(土) 21:34:38.470
>>524
一本の線を、想いを込めながらゆっくりと引いていくとするとします。すると、その線を見たら、自分の感覚が
投影されていて、その線からいろいろなものを思い出すでしょう。他者がその線を見たとき、よく見れば、
感情の揺らめきは感じ取れるでしょうが、具体的な意味を持つのは難しい。そのように、表象には、
記号化の成立を待たねばなりません。記号によってもうまく表せない、それを、抽象的観念と呼べるでしょう。
抽象的実体は、どのように表すべきなのでしょうか。抽象においては、夢のようなものが幅を利かす、
錯乱の満たしあいになるのでしょうか。他者とのコミュニケーションにおいての話ですが、

引用始め──
大学紛争以来学生自治会と学部長の団体交渉という奇怪な風習ができました。私も学部長のときこの
団交をやらされましたが、書面で済む交渉を何故大勢が集まって時間を浪費しなければならないのか、
どうしても理解が出来ないので、団交のはじめに「何故君達は団交を好むのか、書面で交渉する方が
よいではないか」と聞きましたら、「学部長から直接話を聞きたい」というので、
「生物間の情報伝達は生物が進化する程間接的になるものだが、君達は進化に逆行するつもりか」と、聞き返し
ましたところ、何の返事も得られませんでした。団交という風習が本能的、呪術的な儀式であることを
示しています。更に不思議なのは教授の方がどなたもこの奇怪な風習に疑問をもたれないように見えることで
あります。
──引用終わり(『怠け数学者の記』小平邦彦)

さすがにフィールズ賞数学者らしく、理知的に物事を進めるべきだと考えているようですが、人間の本能
をどのように取り扱うかは、人それぞれの個性によって百花繚乱たる多様さが見えるようです。理性は挫折
してしまったのでしょうか。先生方は、諦めの理知性によって、授業を進めようとしているようです。理性のない
本能は、動物と同じであり、本能無き理性は、硬直的になる。「知る→理知性」という構造性に経験として
心当たりがつかない人は、受けてきた教育に問題があります。すでに知っていることは知ることが出来ず、
知らないことは未来において既知に変わる。見るとは、知らずに知ること、つまり、未来の前に全てが
予感として用意をしてあるということです。
0527Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/15(土) 22:02:02.390
>>525
僕は、誰とでも、理知的な話をしたいのです。あなたと理知的に分かり合えたらいいと思っていた。というか、文字を
介するコミュニケーションは、必然的にそれが自然な形として(形としては)収まるでしょう。例えば、美というのは、
直観であり、秩序に基づく(基づくという言葉で正しいのかな?)。「抽象と具象」という、間が連続して存在する
反対概念は、「無と有」のような、間が不連続である矛盾概念に比べて、同一的地平に存在する、といえないでしょうか。
陰陽は、どちらなのか、と考えると、寧ろその両面(反対概念と矛盾概念の両面)を持っていることが、
対極図からは読み取れるような気がします。それを、表裏一体と言い表せられるのかもしれない。
0528考える名無しさん2017/07/15(土) 23:45:54.820
>さすがにフィールズ賞数学者らしく、理知的に物事を進めるべきだと考えているようですが、人間の本能
>をどのように取り扱うかは、人それぞれの個性によって百花繚乱たる多様さが見えるようです。理性は挫折
書面で万人に語る言葉は具体的に示す比喩するものでしょう。
具体さ故に多様性となるのは必然と思われます、より高次な本質を表記しても曖昧すぎるそれが意味を
示すことはできないはず。
人間の本能がその言葉でしか表せないとするなら、「人間の本能」が全ての答えでそれ以外の表現は
その比喩にすぎないとおもわれる。
>本能無き理性は、硬直的になる。「知る→理知性」という構造性に経験として
この説明になると知るは因果関係の情報伝達になります、物が繋がる、観測が成される、それは
観測者の次元において意味が違ってくる類ではないでしょうか、この場合は人間ではと主語をつけ
人間という高次の次元、人間社会という世界の一般論としてという前提があるはずです、
その構造性については人間が人間として知覚する一般常識やら人間的な認知空間という流れで
その根底の人間という定義なしで説明しえるものではないと思う、人間とは何かを示さずに行う
その思考は曖昧であり、強引に答えを考えるのは個人的感想という話にすぎないでしょう。
未来を"見る"とは、主体を定義したうえ主体が未来を決定でき、自我が存在する前提における未来創作作業という
知(未知)であります。
それは過去に過ぎ去る時間軸が選択によって変更しうるという前提での答えです、過去と未来は似ていても互換せず
という立場の説明にすぎません、未来は確定していない、その根拠としてエントロピー増大の法則が過去と未来の
それで増加することで過去にありえない法則や次元時空そのものが非互換になるという解釈によるもの。
0529Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/16(日) 00:41:51.710
>>528
>人間社会という世界の一般論としてという前提があるはずです
そうですね、社会では何が行なわれているか、を知ることが、日々の常識的行動をとることが出来るためには、
とても大切なことです。
その上で、見解やその人の発想により、新しいことに没頭できるようになりますね。あなたは、人間と言うもの
の本質を知ろうとしていらっしゃいますね。そして、それが存在するところである社会というもの、そして、
未来を。良いと、思います。

エントロピー増大の法則が、未来と過去との非互換性を、もたらすということですね。また、もう少し考えて、
あなたの世界観を、もっと知り、意見できるよう、頑張ります。
0530Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/17(月) 13:46:26.890
見る時は、目の箇所にこだわらず、そのつど見る。考える時は、脳の箇所にこだわらず、そのつど考える。
身体は自然な位置が使われ得るというものだ。思い出すときも、運動するときも、箇所にこだわらず、
そのつど自然に身体、脳を使う。自分についての考え、表情など、も、その都度自然に脳を使う。
めんどくさい、や、不快、と思った時、自然に脳を使えばいい。結果はどうでもいい。
記憶において、最も、その自然的脳使用の、効果がある。例えば、何度も思い出す大変不快な記憶にたいして、
自然に脳を使うなら、不快は減じ、自分自身が取り戻される。生物的機能と叡知の粋を持つ人間は、
そのような不快感に屈してしまうほど、意味のない弱いものではない。だから特に区分けする必要のないものはある。
環境と自己の区別であるとか、過去と未来の区別であるとか。全ては、脳の機能の健全さのみを目標とするべきだ。
それによって、一体感と陶酔の、完全なる「存在」になったと思われるようになるのである。思考作用のみが、
全ての上に位置する。解消されるもの、全てを解消するもの。一言で言えば、そのつど、自然に対応することである。
脳の働きの部位別の区別に従って、思考を実行できるわけではないのだから。思考と行動の真理とは、
「そのつど」行うことに他ならない。感じることや考えることが、無数の課題を自分に突きつけてくる。
そのすべてを解こうとするとき、遅すぎるという事はない。解決するべきとして自己に働きかけてくるものは、
無数にあるのだから。であるから、「そのつど」解決を図ることが出来る。これほどに慈悲深い問題は他にないだろう。
人間は悟りうるものである、ということは、全ての時点における事が悟りのきっかけとなり、あふれるほど無数の
柔らかい泉の水の粒のように、泉が尽きぬように、自らが悟りの契機を無数に持っているということであろう。
つまり、悟りという問題は、全ての事において付き添っていて、たった一つのあらわれとして、一つにして全に
おいて存在している究極の真理なのである。
0531考える名無しさん2017/07/17(月) 16:27:33.020
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0532Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/18(火) 05:57:01.800
或る声楽曲を聞く時、頭の中では、その声音まで再現する必要はない。自分の声で(に翻訳して)メロディーを辿れば
いいのである。それが自己性である。完璧な再現をしなくともよい。ある時間を持つことは必要となるが、
飛び飛びであったり、時間感を翻訳しても良い。見る時や、感じる時も、それを自己に翻訳する(デフォルメしてイメージを描く?)
のが良い。時間の間(存在の間)、イメージを保て。ものは、かならず存在において(沈黙した)時間性を持つ。
絵画などを見る時、あるイメージ、あるいは印象を、どれだけの時間持ったか、ということが、重要である。言葉などの
意味というものも、どれだけの時間考えたか、ということが、理解、真実に関係する。気持ちについてもそうである。

自分にとって、何かを正確に再現することは、あまり重要ではない。自分なりの形でいいから、何事かを変奏する
ことが、十人十色の理解があることが、大切である。イデアの下で、多様な存在としてあること。そこに人間の
秘密がある。
0533Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/18(火) 06:22:39.950
人の気持ちは、ある時間の中で、色々と変わるものである。そのことを知っていれば、どの考えにどれだけの
時間を使ったか、という反省が出来る。そして、反省が適度であることが、安心した心持ちには大切である。
時間の中で変わるということが、快不快、幸不幸をもたらす原因である。時間がたっても変わらないこと(真理)と、
変わっていくもの(事物)の法則を捉えなければならない。そうすることで、思考という自己の根本も、
永遠の理にかなった、人の自由可変な歩みの速度として、現れる。
0534考える名無しさん2017/07/19(水) 01:47:09.360
人の気持ちは行動の根源原理である、判断の原理でもある、感情なしの理性だけでは行動には繋がらない、
理性をもってもその原理を制御しきれない、だからこそ神のみぞその感情と
心を操れるということだ、その神とは、その心と理性の外にある何かだ、
その人と関係しえる関連が幾重にも重なり過去と未来を共有して描く何かだ、
その神こそが真理であり、神は理性で操れる。
理性で感情を操るとは感情を殺して操るのではなく、感情を活かして、理性を
単純合理化への道へ誘導して、操るのである。
魂とはそういう類の喩えられない神の法則である、
神の原理を理解できたとき、曇りなきまなこをもって見通せば、魂の形が浮かんでくる、
見出すべきは人に宿る魂の道筋、逆らうことのできない天命の働きである。
その魂とは人が営む主体の、主体に関係する主体意外の全ての何かである。
0535夢空2017/07/19(水) 11:14:47.110
他の宇宙は、並列宇宙として言われていますが、あの世の並列宇宙とこの世の並列宇宙が
あることを、大悟を開くことによって智ることができると思います。

回答者の悟りに限界があったか、あるいは質問者の心境が反省ができていない方に観えた
ので、宇宙観を説くことをためらったと思われます。
0537Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/19(水) 17:55:12.560
>>534
行動、判断の根源原理ということは、感情を満たすことが、一番初めの目的で、感情に自己が左右される
ということでしょうか。魂という神の法則にしたがった時、真理が見える。そのような、視的把握に至ることを
目標として生きておられますね。心と理性の外にあるものが神、魂であると。その方向へ向けて実践すると
すれば、どんなことをしていけばいいのでしょうか。祈りと思索、作戦、といったものでしょうか。
僕は、悟りに至るとして物事の真理を(かなり)信じているので、自己の解放が、目的であり、
そのために、とりあえずのところ、思考の真理を見つけたいのですが、そのために、他者の心との交流
を、日常の気遣いと礼儀によって行うことを、しています。一人では悟れない、いくつかの助けを、人の良心、
行動力を、みならわなければならない、そのようにして、「人の気持ちは行動の根源原理である」という
直観的ご意見は、まさに、そうした気持ちの働かせ方、絶対安心への近づきである、そういったことを考えて
います。主体以外の全ての何か、と主体とのかかわり方の真理が、魂として(魂同士の関係、距離とはいかに?)、
主体の現れた目的であるということなんでしょうか。僕は、まだ悟りには、明快に納得し、説明できるような
風には至っていません。健康を取り戻し、過去の懐かしい思い出を呼び戻しているところですが……・。

>>535
大悟は何とも難しい。並列宇宙を想い、知ることによって大悟が得られるということでしょうか。できれば、
アンカーをつけるなどされていたら、質問者と回答者がしれたのに、と思いました。宇宙観、という問題に
興味を引かrました。
0538平行宇宙からきた宇宙人2017/07/20(木) 00:59:27.020
>どんなことをしていけばいいのでしょうか。
@感謝、A覚悟、B執念、C布石、
恐れるべきは迷い、必要なのは希望の創造、捨てるべきは失敗の幻、信じるべきは他者の本質、目を塞ぐべきは壁の存在、道を示すのは1歩1歩の歩み
>他者の心との交流
自分が活きる為に他者を活かす受け答え、悪も善も等しいことへの気づき
>魂として(魂同士の関係、距離とはいかに?)、
知識としての距離はない、2つの魂があるなら重なり具合をもって距離とする
>明快に納得し、説明できるような
無数の答えは明快ではなく常に霊的な高次のもの、1つ1つは具体的明快さは見えても
それは側面にすぎない。
肉体、心精神、霊魂の次元の違いは混同してはいけない、心の問題と肉体の問題は似て非なるもの
心の問題は魂の問題と似て非なるもの、肉体と心は区別できる、だが同一であるが同一でもない。
心の持ちようで肉体への認知は変わり、生き様は魂をも変える、
0539Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/20(木) 17:08:19.850
心こそ真実である。まず自分の心を感じてみる。それは、胸と腹の間くらいのところに、感じられるはずだ。
そしてそのまま心を観察すると、心というのは全く動かないものだと、感じられる人も多いだろう。
それではいけない。心は死んでいるか、固まってしまっているのだ。心自体は生きていても、何層もの膜が、
心を覆っているのだ。ではどうするか。心を、裸にして、外に出すのだ。イメージとしては、胸から前へ、
三十センチほどの大きさの赤いこん棒が露出している感じだ。そうすると、裸の心は、外界、自然でも、
人でも、外界の影響で、傷をつけられる感じになり、今まで漠然としていたような精神の働きが、
取り戻される。そして、自己の中に心をしまったとき、もう膜では覆われていないことがわかるはずだ。
頭にくることは多い。だがそれは、心に関わらない。頭にきたときも、心を思えば、ほとんどの場合、
心は動いていないことがわかる。全ての存在やコミュニケーションにおいて、心の動き程、根本であり
大事なものはない。大事ではない思考にとらわれず、心の働きを得ること、それが、正しく、最も重要な、
喜びの真実なのである。
0540ルークはまだ修行中2017/07/20(木) 20:06:24.380
>心こそ真実である。
真実は心にしか映らない。逆にいえば心に映らないものは真実ではない。
どんな事実だろうが、心に映るのが虚像であれば真実になりえない。
0541考える名無しさん2017/07/20(木) 20:07:04.150
>心というのは全く動かないものだと、感じられる人も多いだろう。それではいけない。
恋をすれば、その心は上の空、恋をした相手に心は飛んでゆく、恋は人を羽ばたかせる機能がある。
心の一部を失えば、心は滲み、それは涙となって現れる、人という形は心の形を成す。
動かない心はある、それは心が繋がりを維持する機能がないか、心が非明確で境界が曖昧な場合(ボケ)
心は行動の根源であるが、強い心は心で制御できるものではない、暴走した心は柔軟性を失った闇、
行動を求める果てには極論しか待っていない、適度が難しいのである。
理性は心を縛り、無駄や難しい苦になりえることを迂回する、理性を極めれば行動は抑制され、未来は掴めない。
安易でバランスを取り、かつ、行動に繋げるには、第三の力が必要になる。
知がもつ理性的でも心がもつ感性的でもない、その他だ、それは何か、魂の力だ。
フォースを感じろ、それは目で見えないものだ、まだない心眼でのみ見れる世界の本質。
0542Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/20(木) 20:24:11.750
>>541
恋はいいですよねえ。僕は、つくすタイプです。僕は、怪盗紳士ルパンシリーズで、恋を知ったのでした。
無駄や難しい苦を迂回しない(冒険心)。魂のことは良く知りません、少し気にしてみます。
スターウォーズはエピソード1しか見たことがないので、これからエピソード2を借りてきてみようと思います。
0543考える名無しさん2017/07/20(木) 21:41:29.470
スターウォーズの小説設定では、フォースで超新星爆発を起こせるそうです。
ルークがエピソード5でヨーダからフォースを学ぶとき、その力は大きさは関係ない
心の持ち方だけと習います。
つまり心の使い方、力の使い方は、可能か不可能化ではなく「やるか、やらぬか」です。
https://www.youtube.com/watch?v=BUFXuxHqTU4
物理法則で不可能と考えたら、物理法則を破る扉は開きません、
超えるべき壁が不可能であるとき、やるか、やらぬかという問いは、物事の真髄の奥義になります。
その不可能に対して最後に働くちからが、天地人の「人の和」であります。
より不可能に近いものほど神は対価を要求します、個人が捧げる贄は小さいということ。
0544考える名無しさん2017/07/21(金) 01:06:54.160
>>542
魂あるくせに。車にもあるんでしょ?(о´∀`о)
0545Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/21(金) 01:47:58.630
>>544
車にも、魂があるということを例証するために、辞書を引きました。「仏作って魂入れず」(=九分九厘まで仕事を
完成していながら、最後に最も大切な点を欠くことのたとえ)
僕流に解釈すると、まあ、動きだしそうな完全なる芸術作品には、魂があるとして、考える方が、むしろ
合理的である。自然である。そう理解をするのも、全て人間であるということはどういうことか。もちろん>>543さんが
考えておられるように、原始の世界の混沌から陰陽に分かれた世界、ということです。人間だけは、思考という
特性を持つ、と、中国の思想ならば、と、僕は考えています。仏は、石であっても仏、そして、
車は鉄であるが、善として我々が考えるものであるという点で、車も仏のように魂を込められる。
つまり、少しオカルトを含みつつ考えると、人間の行為の結果が、作用のように、ものを動かす
ことを、実現する、つまり、念を込めて作れば、環境に力を(ただし、善なる力を)与えるような、
存在物として、作りなせる。動くという点だけをみると、人間と車に、差異は見られない(もっと言うと、ない)。

ということは、魂は何であるかの考察として、受け継がれていくものが魂だ、と言う風に言えると、思います。
0546考える名無しさん2017/07/21(金) 05:13:26.640
>>537
ユニバース第二階層からしたたらせられない目薬一滴では、スペースがあまりに近すぎるから、君のユーフォリアへは影響しないし、それだけでなく、僕のシードとなり得るはずもない、これが元々のアンカーだったのではないのか、と。
0551Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/22(土) 15:25:33.700
大人はコミュニケーションのとき、掛け値をする、ということを、知らねばならない。
自分自身に対して、掛け値をするなら、意味の増幅ということが可能になる。掛け値が、人間の自分自身にとって、
効果を発揮する。掛け値によって、認知のしかたが様々であるということを知る。つまり、量的には、個人差、
心得のしかたによる差があるということだ。
物事が与える印象を、最大限に掴むことの秘密こそが、掛け値である。人間の認知について、イノベーションを
起こさなければならない。

コミュニケーションにおいても、掛け値が意図的な行為なのだとしたら、それを取り入れると、関わることの新たな結果が、
生まれるはずである。騙されるとは、掛け値で騙されるわけだ。死において、最終的に残る自己は、
なにも後悔なく、劣等感や残念もなく、全てが正しい自分であったと思えるわけである。

掛け値をすることで、時間は変わるだろうか。本当に、人間の究極まで、達するだろうか。自己の存在と
思考に、掛け値をすることで、自らは真になるだろうか。
0552Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/22(土) 15:39:03.920
視界をどう正しくできるか、ということで悩んでいる人は、かなりいるだろうと思われる。ここに、その最終的
解決を書いておこう。

「頭の後ろの方から前方へ視界を見る」ということである。別の説明の仕方をすると、眼球によって見ようと
するのではなく、後頭部から見るようにするのである。こうすると、どこに焦点を合わせるべきか、という
ような問題が、意味を持たなくなる。つまり、焦点はどこを見ても自動的に合うものになって、苦労して
焦点を合わせるような意識を持たなくてもいい。

頭の後ろから、視界を見る、ということだ。このことは、絶対的に正しい、と確信する。
0554Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/24(月) 13:05:57.500
物事について、価値観は全て、集団的なものである。それに半ば自覚的であってさらに人を自分の集団的な
価値観に取り込もうとする人間には、訂正の必要の観を示さなければならない。まったく自覚的でないうえでのことなら、
憐れんで、訂正の意を示せばよい。

価値の集団性に気づいたときには、あらゆる人は、その集団性に疑念の思いで接するだろう。集団的であった
だけであり、真であるかどうかは、まったく別の話である、と。むしろ、集団性とは、様々な欺瞞を集合させた
ものでなりたっており、取り込もうとするとき、明らかに偽の言葉を使って、非真摯にだますのである。
そして、現実の力と、操った心において、偽りの満足を重ねる。

このことは、人間が集団として生きる時に、建て前をのみ提示して、集団性をかさに着て、数の対決、
一対多による破壊快楽、復讐ということを考えるものだということが、通念であろう。

集団的でない価値観こそが、真の価値であり、真の意義である。自らを騙すことが、ないようにしなければならない。
話すべき言葉にうさんくささのあるものが、偽りの人生を生きるなら、勝手にさせておけばよい。
頭を下げるのが嫌だとか、感じるならば、それが、通念的でないことなのであったならば、自己欺瞞である。
自己の意見が、自己の気持ちが、どこからきているものであり、何の目的を果たそうとしているか、それらについて、
考えないならば、愚かであり、改める必要があるのではないか。
0555Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/24(月) 19:12:14.130
悟ることにおいて、僕自身にとっては避けられない、重要なことがある。それは、予測、予定といったことである。
例えばこたつ机の下にペンが転がっていってしまった時、この体制のままペンをひろえるだろうかと思ったなら、
手が届くかどうかを考えて、姿勢を変える必要があるかどうかを決めねばならない。ただ気が急いて反応のように
ペンをひろおうとして、手が届かない、と、頭にくるというのは、非常に無駄で、賢くないことである。

世界について知っていくうえで、知恵と言うものは、こうした、可能かどうかを、「予測する」という心掛けである。
全ての事について当てはまる万能な一つの真理、などというものは、存在しないし、それをあると思い込むことは、
悟りではない。全ての事を、侮らず、自分の力ではどうなのであろうか、と、出来る限りの予測を尽くすこと、
そういった知恵を持つならば、為すべきこと、為したいこと、そういったものを、実現することが出来る。

つまり、考えてみてできない公算が高いことは諦める、ということも大事である。そして、諦めたことが
あまりにも大切なものであるなら、人の和によってなそうとすることが、大切なことだと思います。
それは、誕生と、性交と、死という場面であり、不可能に思えてもなさなければならない三つのことである
ということではないでしょうか。それらの三つのことは、自分の力ではできないことなのです。だから、
一般にこれらのことについて、軽々しく、また馬鹿にしたりすることは、誰もしないのです。
これらは、努力によってはどうにもならないことです。知らなければ、出来そうもないことです。
これらのことについて知るために人は生きており、これらのことへの感覚が、自由にコントロールできる
ようになることが、目的となります。これらのことについての経験や思考が、これらを乗り越えられたという経験が、
日常的に自由に経験と雰囲気によって満ち溢れているなら、その人は悟った人であり、その世は、
浄土となるでしょう。

生きている限りは、知恵を尽くすことが個人知なのです。常に、出来るかどうかということを考えていること。
それが知者というものです。
0556Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/24(月) 19:37:39.460
>>553
一言で意見すると、為しうることを探せ、為しえないことを探せ。となるべきではないか、と僕は思います。
物語を作ることは、それとは違う、より理想的につながっていることです。
0557Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/25(火) 20:33:20.090
日ごろ気にかけないのは、時間の自由です。何が起こっていようと、何があろうと、常に、自分が時間の線上を
行き来できると、知っているならば、それが、自己自身の、一番の自由です。音楽を聞いたりすれば、
分かることなのですが、周りの情報を理解しようとすることばかりを考えるのではなく、時間を自由に行き来
しながら、様々なことを楽しんでいることが出来ます。その自由を行使しないのは、大変にもったいないです。
過去にも戻りうるし、未来から待ち構えていることも出来るのです。
例えばこんな音楽がきっかけになれば良いです。
https://www.youtube.com/watch?v=uRXSAJ9jpno

時間への制覇を、正しく得るならば、どんな風な考えであろうと、次々に、自分が自由に考えることが出来る
ようになるのです。これは、ある意味で人間の無限の情報でありますし、人間にとってここにある在り方
だけで、奇跡のように感覚し、完全に制限を持たない、神との同一という感覚に至ることになるはずだと、
感じます。戒めを解かれた状態では、やるべきで楽しいことがどれだけでもあり、やれる楽しいことが、
どれだけでもあるのです。頭の中の遊び、そういったものなのですが、思考の無限がこの時間線上
の自由によって可能となるはずです。ですから、振り返ること、待ち受けること、それらが大切な
能力であることが、わかるでしょう。自己の自由が時間を鍵としてそのように得られるのです。
0558考える名無しさん2017/07/25(火) 20:41:00.560
1ヶ月ぐらい前に悟り開いたけど、なんか質問ある?
0559学術2017/07/25(火) 21:03:16.560
性交は 虹。賭け値?虹を飾ることだ。色とりどりに。虚飾を張って。鮮やかに。
0560考える名無しさん2017/07/26(水) 01:37:06.030
貴方のうんこの色は黒と赤、僕のは黄と橙
なぜなんだろうね
0562おね2017/07/26(水) 05:51:39.600
>>557
今までに聞いたことがない、美しく、新しい、そして斬新なメロディーですね。メジャーなのばかりだったので新鮮でした。
楽器のポイントは、スクラッチに近いのでしょうか。
全体の曲調は、構成や音韻やリズムではなく、ただ単にメロディーが流れるだけです。けれど、時にはげしく、時にゆったりと、永続する時間と、人間の生活、すなわちハレとケ、をここに観ました。
https://www.youtube.com/watch?v=uRXSAJ9jpno
Lunapark: Riley's A Rainbow In Curved Air
0563考える名無しさん2017/07/26(水) 06:38:08.670
学生を風俗嬢だって。
0564Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/26(水) 11:23:21.200
>>562
人間の生活ですか。そういうイメージも持てますね。想像力が豊かでおられますね。時間の永続の
感覚は、大変に心安らがせるものだと思います。時間という檻は、無限の自由を与える檻である。
無限の自由のその向うにあるものが、あるはずであるのだが。
0565Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/26(水) 12:14:05.000
どんなものについても、その向うを考えるのが、最も重要である。ただ事実を解明するだけではない。そこから、
物事を越えたもの、人が思っている答えのその向うに、何かが考えられるはずであり、それはイデアともいえる。
どんなくだらないこと、ばかばかしいこと、腹に据えかねること、自らの失敗、などに対して、その向うにも
何かの超越が輝きながら待っている、そう思えるはずである。そして、そのことが、生きるということの、
意味を考えようとすれば、おそらく生きるということ自体に、意味があるということを、感得できるであろう。
概念の向こうに何かがあり、自分にはそれは知りえるものであり、人間はみな神であるということが、
僕の中には、事実としてあり、心が質量を持ち始める。
0566Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/26(水) 14:07:27.280
口論や恨みといったことは、相手をうらやましいと思うことが根本的な理由である。攻撃されたら、攻撃したという
爽快感を、自分を踏みつけて達成した相手の事に、羨望を感じるから許せないとなる。テストの結果を比べるのと
同じことである。その変奏として、自分は割の合わない仕事をしている、そういった、自己中心的なところに、
羨むということが表れる。もちろん、仕事をしているという事は、尊敬されるべきであり、他者の尊敬を身に受ける
ことではある。だが、うらやましいということは、言葉にすると、おかしなことになる。何事も、むしろできないことに
理由があるのではないか?それを、一律な価値基準のみによって定義づけることが、真実ではない、ということも、
あるのであるだろう。
つまり、他者へうらやましいと思い、羨望することだけが、絶対の悪である。そこには、自己と他者の違いという
視点が欠けている。政治や社会システムが、救うこと、調整すること、そういったものを正しくすることは、
確かに必要である。
攻撃されても羨まない、人が優越していることも、羨む必要はない。そのように生きた方が、より真実を捉えた
ことではないか。たとえケンカに負けたって、遊びにすぎない。人がある理論を先行的に身につけて、裏をかかれたり
するとしても、社会的成功には、影もある。人の事を羨まず、自分が出来ることの範囲でしたいことをすればよいだろう。
これらのことは、当然ながら心理的側面について述べている。
考えうることとなしうることの違い、今まで歴史の中で色んな事実があったこと。それらを、自らの意志のよりどころ
として、学ぶこと、そして考えること。
個人と言うものは、責任を持たねばならないが、完全に公正であるはずもなく、間違いも起きる。それらを、調整したり、
その他、愛を実現すること、たとえおかしなことであっても、良く考えれば、正しいと思えることをしっかりと持ち直し、
自分が責任として持つべき見解を、持つことで、自分の責任を考えても、おそらく、揺るがされることのない見地となるだろう。
何も羨んではいけない。誰をも羨んではいけない。劣等感を行動のばねとしない方が良い。
0567考える名無しさん2017/07/26(水) 15:54:05.360
>つまり、他者へうらやましいと思い、羨望することだけが、絶対の悪である。
絶対の善とか絶対の悪とか、
0569Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/26(水) 19:47:52.480
>>567
全て正しさは相対的なものである、ということでいいんでしょうか?(コソコソ
スターウォーズのエピソードUは、とても面白いです。
0570Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/26(水) 21:12:08.840
思考と言うものは、一つの流れになる。そこで、別の道に行くことができるよう、二筋に分かれている箇所に
至る。どちらに行くかは、何度目にその点に来たのか、ということから、どちらかに行くことが出来る経験的可能性
が増える、それをもとに、可能性としてはどちらに行く可能性も高くなる。これが、思考の発見である。
発見とは大げさだし、別の表現をするべきだが、とにかく、この別れ道で、思考は必ずどちらかに行くことになる。
さらに思考が進むと、道を作り出そうとする力も備わる。

そして、その力をもたらすものが何であるか、というと、直観を得たという経験である。頭にピンとくる、直観的
発見が、個人が生きる上での、意味であり、全てを越える意味である。それを得るためにこそ、思考を行うのである。
何の経験もないものが思考するときには、気づきの直観を得ることはない。自分における選択肢の多さから、
その直観を得ることになる。

それは、あらゆる場面における、特に多く共有された価値観において、人工知能が答えを出すこととは、違っている
のであるように思う。あまり人工知能には詳しくはないが、想像で言うと。言いたかったのは、人に備わった普通の理解力
の中でも、その直観は、十分に価値があるということである。他人を理解することは、ある共通の理念において、
共有された思考事案の中では、直観を使っている人間の意見の卓越性から、「そのことが不可能ではない」ということ
から、認められる意見なのであるということによって、理解されやすい意見となる。

全ての創造性に祝福されている個人の力に、大いなる期待と希望を掛けようと思う。
どのように生きればいいのか、と悩むことは、おそらくもうないだろう。自分を理解し、他人との通じ合い方も、
とりあえず得たのであるから。その上で、研鑽を積んでいくことが出来るだろうという気持ち。私が現実に
どれくらいの意味を置くかということに対して、答えからのアプローチが見えることから、不安を減ずることに
なったということ。

これから、気持ちと能力の両方に安心を与えられたのである。
0571Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/26(水) 22:48:22.690
一回でわからないことは、二回考えればいい、二回でわからなければ三回。繰り返しにおいて、直観が働くかどうか、
ということで、その繰り返しが(少なくとも自分にとって)意味があることかがわかる。
不安に感じる時、それについて何度も考えれば、すぐに答えは得られるのである。それが重要であるという結論
がどうしても浮かぶ時、それは定理として成立するものである。それを変えることは、自分には荷が重すぎる
となる。だが大抵の不安は、動揺して、虚を突かれたように襲ってくるものであり、考えることさえおぼつかない
といった特徴がみられるのだと思う。自分を騙すような立案が、世間で行われる時、自分が十分な情報を得ていない
ということになる。そのとき、自分が未熟であったということである。それは責められるような事ではなく、
穏やかに話し合い、解決していかなければならないことだ。
0572考える名無しさん2017/07/27(木) 23:18:30.460
>僕は毎日 想っていたのに
哲学者なら自己に問え。
0573考える名無しさん2017/07/27(木) 23:30:50.260
>穏やかに話し合い、解決していかなければならないことだ。
話し合いの対象の思考(働き)を操作しろ、相手にとって徳であるなら、それが合わせるということ、
必要なのは感謝すること、心に思い浮かべ手を合わせ祈ること。
その祈りが世界を廻り光を感じられば正しく感謝できたと考える。
全ては自分自身の中にある、自分で決断してゆく、正しき答えは感謝できているならば
知っているはずだ。
0575考える名無しさん2017/07/28(金) 01:15:12.040
答えは自分で見つけるしかない、なぜならば選ぶは自分自身だ、
迷ったときはどちらを選んでも正解だ、迷うことが間違い、
ただ未来へと繋げる答えは、どちらを選んでも
「やるか、やらぬか」の問題となる、答えはでているはずだ。
自分の心の底に隠れている本質に嘘をつくな、自分に正しく生きろ、
って友達の師匠が死ぬ前に言っていた。

師匠って幽霊なの?
0576Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/28(金) 18:14:38.380
全ての認識作用は空なり。それゆえに我は無なり。因果性を逃れられざるゆえに、我は有なり。

上の条件からして、我が思考は無なり。空と無の中に一つの花が開き、有と無は瞬間に絶対的に結び付け
られてあり。

心配りの細やかさと、些事に囚われざることとを理想とし、我は今自らの中心性に立ち居たり。
0578考える名無しさん2017/07/28(金) 18:35:27.300
>合気道とは感謝なのです。
http://www.aikidoryu.or.jp/aikido/index.html
> 合気道の稽古は様々な人々と稽古します。当然うまくいく人、うまくいかない人が出てきます。
>10人十色で体の感じが全て微妙に違うのです。稽古は一人では出来ません。
>相手をしてくれるあらゆる人を受け入れることが大切です。
>相手を受け入れて自らを変えることで、成長していきます。
>そして成長を自覚することで、自然に感謝の気持ちが生まれます。
>逆も真なりで、うまくいかない人にも感謝することで、自らを見つめ、自らを変化・成長させる事が出来ます。
>そうした積み重ねが、全ての物事に明るく積極的に取り組む性格になります。
>混迷する現代社会に合気道は最も適した武道であります。
0579Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/30(日) 20:12:33.050
感情と言うのは、ある程度の時間、保持される。楽しいという気持ちは、長続きするほど幸せだ。怒りの感情は、
長続きするほど発散できる。それを無理やりなくそうとすると、ストレスになる。だから、何事もじっくりとやるのが
いいし、自分が嘘をつかないとすれば、それは感情に対してだけだから。渦巻く感情に答えを出すのが、
一番大変で、苦しいこと。自分が感情を持つとして、他のものに原因と責任を負わせると、それで答えであれば
いいが、やはり感情の変化を抑えることは不可能に近く、感情の変化によって、良いこと悪いことが判断される
ものだ。感情が変化しないなら、ストレスはなく、自信を失ったりはしない。その辺の、持続と変化という対立は、
感情の場合は避けられない。スマートに対応しようとしても、難しい。頑固が加わると、救い難い。だがそういう
ものであり、人は自分に合わせて条件を作りなせる。それを、平和の裡に、自己を置くことを、実行していけば、
それなりの安心と幸福は得られるだろう。だが、向上と出世を望むためには、様々な策略を実行していくことが
避けられない。そのうえで、人間性の法が、力を持つ世の中に変えていかなければならない。そのために、
感情を操り、自己の世界を、普遍的な善に満たさせねばならない。変わりゆく世界、それに対応する感情。
ここに、人間の救いがたさがある。進化に意味を持たせようとすれば、全ての救世主としたものが、バラバラな
利己性を、自分を信じながら、投げ出すようにすべきであるのではないか。そうできるために必要とされる
精神の条件は、感情の理解である。意味の上書きに左右される、タイムラグのある感情を、開く鍵を
見つけなければならない。自分で自分を使わねば、何一つとしてできはしないのだ。中道的互恵性の
システムとして、他者との関係の、理想的なあり方を目指すべきではないだろうか。自己と他の両側から
理想を持とうとできるということ、そこに、二重に守られた、社会の救いが、自己の救いが、見えるのであると思う。
0580Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/07/31(月) 23:41:30.350
文章を理解するということは、意識の働き方に他なりません。良く意識を持とうとすることが、
エポケーの行為の一つの目的として立てられる、と思います。文章というのは、個別的なもの(単語、フレーズ、概念)
の集合であり、文章を読む時の意識は当然それ自体が個別が集合したものの集まりとなっています。
それが、文章を思考するときの意識です。では、どういう風に文章に向かうべきでしょうか。それは、
個別的な思考の断片を、「つなげていく」ということです。このつなげる作用が働くことを、意識の志向性と
言い表されます。色々なものをつなげていくということが、意識の本来的な脳機能としての、正しい、
人間の生来の能力なのです。

文章の持つ力というのは偉大です。嫌なことを思いだして逃れられない時など、文章を読むことで、新しい記憶が、
「考える」という行為によって、どうでもいいことを離れ、また自分自身の本当の力を見出すことになるでしょう。
そんな風に、思考の力というのには、特に文章の力というのには、人を癒す素晴らしい力が秘められているのです。
そういうことを、死の恐怖の克服としても、持てるのではないでしょうか、などなどと。音楽の演奏のように、
メロディを感じるような、楽しい文章との付き合い方が、存在しているのだと思います。考えるという行為は、自らを、
人間の本当のあるべき姿を、思考行為のうちに、すべて含んでしまい、かつ思考の展開という行為の中に、
自分を実現していくことが出来るものでしょう。そういう意味では、意識、あるいは僕の言葉では文章の思考というものは、
時間を自明のものとして掴まえる、本当に素晴らしい解放をもたらすものです。

モーツァルトの音楽と対するとき、漫然と流しながら聴いているのであれば、それは時間とのかかわり方が薄く、
流れを利用してはいないという事でしょう。音のあいだをつなげていく思考行為こそ、音楽自体よりもずっと重要であり、
それをするのが鑑賞と言うものです。美しさというエサに騙されてはなりません。時間の流れの中に、文章や音楽があり、
高尚な芸術というのは、高尚な哲学というのは、全て人間が悟りに向かっていくようになるための、そしてそれに近づき、
そしてそれを得て、結果として、死を恐れないようになるための、自己の充実と解けにほかなりません。
0582考える名無しさん2017/08/03(木) 01:09:38.560
つかみ所が無いものは、掴むのではなく掴んでもらうこと。
指先で掴めば掴むほど指の間から抜けてゆく。
0583考える名無しさん2017/08/04(金) 02:39:26.490
盲目なものを具現化すれば、それは極所や目の前では理論整然とした正しき何かであっても幻想にすぎない。
それが現実に合わないときは、なおさらだ、
見えるものは見える部分を具現化して識別し理論体系にしてもいい、それは理解というものだ
しかし見えないものを具現化すれば、それは理解ではなくレッテルや幻覚にすぎない、
幻覚を信じ、幻覚を現実にしたとしても形の無いもの、見えない本質でできたものは、
現実の具体化したそれに帰着しない。
0585Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/04(金) 21:23:35.980
>>583
>極所や目の前では理論整然とした正しき何か
これの例は何かありますか。形があるような内容な、雲の形、といったものなのでしょうか。雲は分けきれないから……。
あるいは、妄想の類でしょうか。映画でフォースとして現れるようなものでしょうか。

幻覚を、どう扱うかということでは、予知とかに使える、ような気がします。
0586Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/04(金) 21:50:33.140
悟りというか、あまりにも当り前なことで、今になってやっと気づいたこと。仕事は、行為は、自分でやるか、
あるいは人に命令されてやるか。指揮・命令系統の実体。自分でやれば、なんてことはない。仕方なく命令
する必要があるなら、お願いする(という次善策)。人に命令されるのは、誰だって一番いやだ。
スレ立てに乙と言うことも、労に対しねぎらうことである。目上の人がすることは、命令系統どおりに、
目下のものが目上の者に仕事を頼むことはほぼあり得ないので、ねぎらいの言葉は、目下の者
に対する「ご苦労様」で足りる、と理屈としてはそうなる。

自分の時間は、うまくぼーっとして疲れを癒したりすることに使うなどして、頭の中を頑張りばかりに占拠され
ないようにするべきではないか。

戦いでは、最終的な勝利には、命令系統をはっきりさせ、どう戦うかという戦術の仕組みをしっかりと理解し、
天才的な戦略で、望むということです。現場と作戦本部の両方を大切にすることです。

バリエーションはさまざまでしょうが、理論としてはこんなところではないでしょうか。
0587考える名無しさん2017/08/05(土) 02:54:17.770
>これの例は何かありますか。
聖書にある神の存在、信者にとって理論整然として、信者にとって真実つまり正しき存在
しかし非信者にその神を真実といわれても神の関係の正しさが説明され矛盾がないとしても
それは信者と神の関係であるだけである。
全ての価値観は神の教えによって成立するので他の系統のそれの理論と違うといわれても
それは神の理論ではないので神以外の理論こそ妄想である。
つまり疑わない信者にとっての神の働きは最優先の真実である。
0588考える名無しさん2017/08/05(土) 03:14:07.440
>仕事は、行為は、自分でやるか、
組織にとっての仕事は組織という仕組みを働かせるもの、そのメンバーであるならば指揮命令は対等の
立場で受け取るわけではない。
>あるいは人に命令されてやるか。指揮・命令系統の実体。自分でやれば、なんてことはない。仕方なく命令
>する必要があるなら、お願いする(という次善策)。人に命令されるのは、誰だって一番いやだ。
お願いというのは対等の立場で双方の選択権の対立時に片方に譲歩してもらうことだろう。
命令権のあるものがお願いするのではそれは指揮命令系統が機能していないということ、組織として成り立たない
つまり命令を受ける立場なのにお願いでなければならないというのは『組織では非ず』。
>目下のものが目上の者に仕事を頼むことはほぼあり得ないので
これは目上の者を扱う技量がないことを意味する、目上のものがその立場上として機能しなければなない条件づけを
すれば立場としての本文をまっとうする命令を受けないことは最上位の意思決定権(資本家と投資家)の意思に反する
ことであり立場をまっとうしないものは組織の上位者としてふさわしくないと正すことは可能である。
それは取締役を超え、投資&資本を超えた位置にいる顧客総体が更に最上位になりえる、組織としてその立場を守らない
不適合な上位者は市場原理や顧客総体によって処罰されるものである。
会社を動かすならば、会社を評価し会社に利益を誘導する環境そのもの変貌させ動かなければ致命的な状況を作れば
可能になりえる。それこそ戦略というもの。
0589考える名無しさん2017/08/05(土) 03:20:48.410
>天才的な戦略で、望むということです。
戦略は戦術ではない、理解の及ばない力を創造し戦術という仕組みに反して、「戦わずに勝つ」、それが戦略というもの。
物理的に勝てない相手に勝つ"非論理"こそが戦略であり、それは戦術ではないので一度使い知識として理解されれば
既に"戦略ではなく高度な戦術"の1つでしかない。
理屈家が重視する理論そのものはどういう技法、どんな仕組みであっても戦略ではない。
戦略が完成するまえにそれが敵に判明するならば、それは戦略もどきの戦術である。
戦略を理解できないものは、常に理解を通して計算と理屈をもって高度な戦術が戦略だと考え出す。
勝ち負けを偶然や確率で解いている時点で戦術家としては下の下、"勝負する前に勝つ"のが天才とえる。
戦いにおいて「勝つ」を求めているのは戦略家としは間違いだ、「負けない」ことが正しく、
100%負けないならば必ず勝つということ、相手が相手側から負けるように状況を設置できないのは戦略ではなく戦術にすぎない。
0590Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/05(土) 13:11:27.030
物事の順序を、並べなおして自分にとってわかり良いように、位置づける。そこに、思考の自由が生じる。
時間のとおり、正しく物事を並べなければならない、などと考える必要はない。
物事を捉える時、少しであっても、リズムが生じる。意味を、リズムに乗せて、考えることもできる。
内的世界では、組み換えが行なわれる。それは、必要があるからそうなっている。

物として存在しなくても、事としてリズムは捉えられる。物と事は、(もちろん)抽象化してとらえるという、
思考行為が無効であるということはなく、その他の形而上的存在と同等に、抽象化を目的として
思考することはできるが、少なくとも物と事の関わり合いに必然的法則が介在しているという
ことを、認めることが、時間的存在としての人間にとって、最も必要な、幻想性ということの証明
として、順序を並べなおす、「事」の意味をつかまえること、そうしたことに、自由がかかっているのである。
0591Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/05(土) 13:18:43.610
例えば、「死」というのは、物としてはどこにもないが、事としては、簡単にとらえることが出来る。
物と概念だけではなく、物事を捉える際に、出来事として捉えることが、肝要である。
単語の意味を、分解することは、そのエッセンスを見つけ出すための実験として、考えることが出来、
だが一方で、人間的意味と単語が、平行して発展してきたのであろうと、考えることは当たっていないか。
0592考える名無しさん2017/08/05(土) 13:37:26.940
>例えば、「死」というのは、物としてはどこにもないが、
物の熱力学的な面では科学的に存在するのでは?
個々の物理現象ではなく集合としての物理現象であって、
集合が1つの秩序をもって形而上の世界の働きを成すときが命であり
その働きがなくなるのが死であると。
故に国家の死、企業の死、宗教の死、経済の死などという現象はある。
国家の境界線がありその中が全て無秩序になったとき、国家の影や魂は残存しても
国家の働きは消える。
>単語の意味を、分解することは
分解できない単語の意味(観念)を分解して捉えられない、単語が常に組み合わさって仕組みによって形を
つくり意味づけているわけではないからだ。分解して捉えるのは基本ではあるが形而上の存在の意味の場合は
分解してはいけない場合もあるはず、観念がその形而上の世界の関係性と社会の意味によってのみ成立する類の
場合は、分解(具体化)すると余計意味が不明になる。
人間原理を原子の動きで説明してはいけない。ギリシャ、エジプト、などの神話の原理を神未満の原理で説明してはいけない。
神それぞれが具体的な力や物や富や支配力のように具体的に説明がなされてもそれを分解して捉えてはいけない。
なぜなら要素は次元の違うものへの比喩でしかないからだ、
0593Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/05(土) 13:41:22.480
物の要素とは、現実の法則を無視はできなくとも少なくとも人間にとって理解できるものであり、理解のしかたは、
幻想的にも、実際的にも、利便的にも、さまざまにできるものである。優柔不断とは、物をしか認識できず、
事という把握がされてないために、シミュレーションの不能に陥っている。純粋に能力的、経験的、実際的な、決断
をするということができないのは、情報が不足しているために、基準が分からないために起こる。
0594Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/05(土) 14:05:25.610
>>592
>物の熱力学的な面では科学的に存在するのでは?
熱力学によって死を描くことはできますが、それとは別の面、葬式がどうとか、細胞の痛みがどうとか、
墓がどうとか、周りの人の悲しみがどうとか、消滅の納得のしかたがどうとか、それらは皆、事である
としてしか、個人が理解することはできないものでしょう。

>集合が1つの秩序をもって形而上の世界の働きを成すときが命であり
集合の秩序という面での命とおっしゃることは、僕の言った事の側面と、近いはずだと思います。

>分解してはいけない
分解してはいけないのの筆頭は、「魂」でしょうね。でも、やってはいけないと言われたらやってみたくなる、
そんな実験精神、反骨精神って、結構素敵じゃないですか。難しいですけどね。

>神それぞれが具体的な力や物や富や支配力のように具体的に説明がなされてもそれを分解して捉えてはいけない。
いったいどのようにして、神を捉えるのか、(社会)構造の頂点には必ず神が置かれるべきなのか、
そんなことを考えました。
0595考える名無しさん2017/08/05(土) 14:32:14.640
葬式だの墓参りだの納骨堂に参る事もやめちゃうだろうね、頂点の神が自由なら
人間はいつになったらじゆうになれるのやら
0597考える名無しさん2017/08/05(土) 16:19:10.380
>としてしか、個人が理解することはできないものでしょう。
理解とは信じることである、常識的に周囲に定説や知識としてあるものは
自分で確かめた理解ではなく関係性をもって”信じた”だけにすぎない。
認めるかどうかの問題は無条件で信じるべき偉い人が複数で口をそろえて
いえば納得の条件は不要となる、
理解などその程度のもので証明ではないのだから
ほとんどの場合は自分の感性と経験と知識との相性にすぎない
0598考える名無しさん2017/08/05(土) 16:34:02.500
理解とは、その対象の振る舞いを予測でき、かつ自分がその予測を正解することが予測できる状態である
0599考える名無しさん2017/08/05(土) 16:37:31.810
>>598
寄生虫的
0600考える名無しさん2017/08/05(土) 16:49:07.010
>>598
座布団一枚
0601Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/05(土) 19:56:25.420
>>597
>理解とは信じることである
では、「意味」というもののすべてを信仰と言えるのですか。全てが、信じながら理解することなのですか。
自分の行った計算が、全て、一つの体系の中に納まるからと言って、その計算に自己的な創造性の寄与
がなく、信じることが根本であるからと言って、信じていないことがないとは言い切れないのです。
つまり、信じていないものは(自己の中に)あるのです。感覚自体が信仰であるとは言い切れないでしょう。
それが、個別性か同一性かといった議論は、無意味なのです。ただそれは、在るだけです。
解釈は、解釈でしかなく、自然な意味とはかけ離れており、そういう意味では、信仰は、非常に抽象的な
事柄を対象とするものであるとしか、言えません。

だから、おっしゃるように、相性ですね。非常に良く分かっていらっしゃる。立場の違いは、絶対的に違う
というわけではない。何を信仰するのかという点が、複数をを分かつものなのである。それが本質ですね、
おっしゃるように。では、本質でないものは、どうなのですか。本質ではない信仰が存在するとは、即座に、
信仰において、信仰ならざるものが本質を左右する、という意見を要請する。本質的に分かれている複数のものが、
本質自体を巡って考えを進める所に、現実の生における、現在の意味を広げようと結びつくことの可能性を
もたらす。したがって、本質的でないものが、必要とされるような条件は、あるのである。
0602考える名無しさん2017/08/06(日) 00:39:30.930
お金がないと生活できない仕組みを作った人間をどう悟ります?
お金に、仕組みに、命を人質として取られている世界に生まれてきた我々
、未来の人たちもルールに従わねば生きられないし、かといって
楽に死なせて貰える仕組みはない。
 物理的な体と世界と他の者が起因で生じてしまってた自我は
その中で生きている事が人間の使命であるように教育させられ
物理的な人間界と、自然の仕組み事実に、生きなければならない意図は
ないのに、わざわざ価値を見出して自発的以外で機能が停止する
まで主体は現象に付き合わねばならないわけですが
現実がこの事実からかけ離れた夢や希望を勧め生きるよう
煽るだけの価値があるのかか。。。どう悟りますか?
0603考える名無しさん2017/08/06(日) 00:45:02.410
>>601
>では、「意味」というもののすべてを信仰と言えるのですか。
意味は信じているんでしょ?なら同じでは?
0604考える名無しさん2017/08/06(日) 01:12:48.690
具体的な知識ほど信じるということ、
WHY(なぜ)ではなく、HOW(どのように)を信じている、
科学信仰といわれると、科学は宗教ではないと反発する、何も信じない無頼ではなく
何かを信じる事なしに他を理解するなどできない。
信じるべきは眼に見える事と思いたいのは分かる、それが普通だからだ、

本当に信じるべきは自分自身であり、それが無頼だ、自分を基準に考えようとしながら
無意識に他の具体性をみてそれで思考し意味と理解という答えで納得しようとする、
それは選びやすい何かを与えてほしい他者に求めているだけ、
自分で踏み出していない、信じるべきは自分自身でないのならば、どこかにある
都合の良い答えを探してそれに感化されればいいと思う。自分で自分の都合のよい
幻想をつくりそれを答えにすればいい。
気が付くこと、決断すること、迷わないこと、そうじゃない形式だけの言葉をつかみたいなら
永遠にその言葉を説明しつづければよい、思考によって物理世界の物理的事実が変わるような
魔法を与えてほしいのか?そうじゃないだろ、そんな都合のよい悟りという価値観があるなら
信じてつづければよい。
Don't ask for it. Just grab it yourself. And then,you will get it.

自分が得る結果はどうなる感じているはずだ、それを納得できないと嫉妬したり妬んだり
誰かに助けをもとむ。
誰も助けやしない、自分で解決するしかない、自分の言葉は常に自分自身へと語るものだ、
他者に強制するものではないのは明らかである、自ら掴み取ればいい。
何かへの反感は自分自身がそれを掴み取れない、壁を作っているからにすぎない。
心は外界の鏡であり、自身の心だ、言葉を発するなら私を含め、自分自身へ発するがよい、自分を変えずに何がかわるか、知ってるはずだ。
0605Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/06(日) 06:20:09.970
>>602
それは、水泳を例にとればいいと思います。泳げない人間は溺れてしまう。従って、泳ぎ方を覚えなければ
ならない。一度泳ぎを習得すれば、泳ぎを楽しむことが出来る。
同様に、お金のルールの世界で、上手く生きるようになれれば、生きることを楽しむことが出来る。

以上の論は、偶然的不幸への対処の必要ということを、抜きにして考えており、完全ではありません。
また、助け合うことの本質も、説明してはいません。お金というものの性質をのみ、説明しようと
しています。ただ、手持ちの札で勝負することは、在るわけで、『ハンターハンター』の34巻に書いて
あったように、人とは本当に面白いものなのです。手持ちの札とは、現時点で自分が受け継いだ能力に
ほかなりません。自分で獲得したものでもなく、従ってそれが自分の手柄であるわけでもありません。
従って、業が深いものほど深い悟りを求め実現するものもある、と言えるかもしれません。

お金の、道理であるという側面は否定できませんが、悟りと最も遠い金銭欲、自己保存欲求、こうしたものの追及自体
は大して意味ががない、と皆が思うわけで、情欲が愛になりうる、というような人間の本質の昇華こそ、
業が悟りであるということと、同じ構図として見られる。そういった、本当に尊い人間性は、自然的に保とうとされている
ものなののです。
0606Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/06(日) 07:51:24.020
>>603
意味を知る、ということが、理解する、ということです。信じることなく理解することはできますし、
理解することなく信じることもある。自己を理解するというとき、自己の中の矛盾を、容認することが
信じるということである、と私は理解しています。例えば、茶番、ということの悲しさを誰でも理解できるでしょう。
求めていないものがあるとき、あるものを求められるという、求めるということの文脈を違え、
それを感情によって同じと見るという、理解作用の混線を、信じるという概念が、一手に引き受ける
という構造になっているのだと、私は思います。
0607Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/06(日) 08:14:13.060
>>604
人の評価で行動を決めるのではなく、自分自身が意味を感じなければ、意味など存在しない、ということですね。
0610Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/06(日) 14:33:22.210
>>609
意味とは思考内容のことです。ここからは、少しずれながら、感情、読書、思考などについて、加えて少し述べさせて
いただきます。

笑うとき、そのおかしい内容を、思い浮かべながら笑うといいのです。他にも、怒るときや、悲しむときも、その内容を怒ったり
悲しんだりしなければ、感情の対象が空疎となり、せっかく起こった感情が、経験として内容を得ることが出来なくなります。
全ての思考は、内容なしにはなせないのです。だから読書は充実しています。だが、読書には様々なスタイルがあります。
僕なりの読み方は、文章を目で追いながら、頭の中でもう一度、見たものを再構成して本なしでも読んだと言えるまで、
言い方を変えれば、文章という文字の助けを借りながら、自分で体験することの思考をして、身につけることで、
それが良い読書に必要なことであるというふうに思います。思考における自由とは、自分だけで想像できるということ
だと思います。
感情の例が一番わかりやすいですが、自己と内容が、頭の中で併存していること、つまり、異質な二つのものが、
同時に一つの場(頭の中)で結びつくことに、思考の極意があります。視覚的把握ののち、音声と内容を結び付け、
さらに再び形を変えたイメージも、結びつけることです。そうやって、意味(meaning, sense)は、人間の知的活動の中でも、
一番自由に自己を実現できる体験なのです。
思考内容でないものは、意味ではないです。全ての意味は、思考できるものです。理解とは、それを合理的に
把握することです。意味は、必ずしも合理的でない場合もあります。
「知る」、ということは、常に働いていて、漠然としており、行為の一つであるとしか、僕にはわからないものです。
あえて言えば、情報伝達と言えるかもしれません。知る意欲、ということは、人間の健全性の中でも、最も頼りになる
意識であると言えるでしょう。
0612考える名無しさん2017/08/06(日) 17:00:30.610
>意味とは思考内容のことです。
思考の信じる観念(一意)か、思考の構成と仕組みという組み立てと聞けば、思考内容ということから後者ということですね。
これは砂浜や砂場砂丘の砂が細かい小石の集合ではなく、それと同等の認識ができれば
同じ意味(内容)という話になりえます.
例えばコンピュータの"ソフトウエア"は半導体で出来ていますが、真空管や歯車でも理論的に構成可能です、初期のコンピュータは
半導体ではなく真空管で機能していました、今後のコンピュータでは光のプリズムと空間屈折による回路で置き換わろうと研究されています。
ソフトウエアは基盤となるそれらが変更されても同じ基盤技術があれば仮想の中でも機能しえる、マリオ2のゲーム内で加算回路を実現した
人もいます、すなわち内容が一致すればソフトウエアの意味(内容)となります。
これを述べると砂浜の砂がプラスティックや、金属糞とか、人間の情報活動と見た目を完全に再現した機械であっても人間であるという意味内容と
たどり着きます、また将来にできる仮想環境で計算される人間や社会現象も区別が付かないならそれは現実の意味だと判断される。
ならば「現実の意味とは何ぞ?」すなわち、過去に見えた境遇は形而下の物理現象を含まない"思考内容"ですから、事実は解釈の問題にすぎないという
意味内容とはならないでしょうか?
0613考える名無しさん2017/08/06(日) 17:01:12.260
見た目で判断すれば黒人は人間でないという観念が働き、中世の欧米人は黒人を奴隷として道具扱いしていました、一行目で述べた前者と後者の
どちらか片方か、両方か、判断は不明ですが、黒人が人間として機能する仕組みは人間以外なのでしょうか、また中世の人の感覚で得られるレッテル知識として
常識化する奴隷だという判断でしょうか、私は愚か者ですから、思考内容の意味で考えることはできても愚か者として中世の時代に生きているとすれば後者の
黒人=奴隷という意味になっている可能性が高いと思います。
自分の経験に学び、それが正しいという判断は信じる(常識)ではなく、思考内容という意味、すなわち原理と仕組みという構造が意味で、見た目や抽象的に
感じられる観念の一意は意味ではないと判断できるのでしょうか、賢者となれば。信仰に左右されず、その正しい?思考内容が出来るでしょう。
意味が一意であるならば、正義は1つです、イスラム社会(テロ)の正義とアメリカの正義がぶつかれば、片方は確実に間違っています、意味が多面性をもてば
思考内容の判断はそれぞれです、人によって正義が違うということ、それは正義の意味は個々の解釈によらず人々の信じる正義となることの否定です。
0614Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/06(日) 21:06:09.680
>>612
人間が、コンピューターと同じように意味(内容)のみに規定される。「信じる観念」ではなく、人間が構成と仕組み
を機能として持っているにすぎない(「後者」)ということから事実は解釈の問題に過ぎないと言えるのである、
とおっしゃっていますね。解釈の問題に過ぎないとは、個人の得た意味については、形而下では、
解釈の数が有限であることから、人間の全員でも、無限な意味即ち完全な存在を、得ることが出来ないのである、
ということを、おっしゃっていますね。

>>613
一意になるというのはつまり、ある存在と向き合った場合全ての人間が同じ答えに至るのである、ということでいいでしょうか。
一意に至るプロセスが歴史であり、歴史はある一つの状態に向けて進行していくものである、という
歴史観を正しいとみるのである、と言っておられるように僕は思いました。少し単純すぎる理解かもしれませんが。
もちろんあなたは、最後の箇所で、正義という観念において思考内容の判断はそれぞれであるのである、
と正義の「非一意性」の方を述べておられます。
そのように前者と後者としてまとめられたことは、非常に意味深い対立のさせかたになっていると思います。

心と身体が相互に作用するのであれば、ソフトウェアとハードウェアは人間においてはお互いに自律し、
かつ変化させ合い、一意と構成・仕組みという対立を越え、完全なる個(集団を必要としない個)として
各成員が自らを歴史の中に実現するのでもなく、究極の可能性を実現することが可能であるのではないかと思います。
0615おね2017/08/06(日) 22:31:02.940
ノーライフキングが赤ワインを飲み干せば、
辺り一面は、干からびた黒いぶどうの山となる。
白ワインをすすれば、哀傷の響きが、思い出の挽歌を奏でる。
瞬発の閃光と共に現出した数多の下男下女は、
辺り一面に、死の種を巻き、次の命とする黄色い土を盛った。
マスターの持つ賢者の小石の抑止は、桃源郷への鉄門でなく、
僕たちの足跡の、悔いの八千度であれかし。
0616Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/06(日) 23:51:38.960
>>615
オマージュでしょうか、ノーライフキングや賢者の石などへ。
0617考える名無しさん2017/08/06(日) 23:59:29.610
> ノーライフキングが赤ワインを飲み干せば、
> 辺り一面は、干からびた黒いぶどうの山となる。
> 白ワインをすすれば、哀傷の響きが、思い出の挽歌を奏でる。

いい感じにアルコールがまわる

> 瞬発の閃光と共に現出した数多の下男下女は、
> 辺り一面に、死の種を巻き、次の命とする黄色い土を盛った。

ゲロを吐く

> マスターの持つ賢者の小石の抑止は、桃源郷への鉄門でなく、
> 僕たちの足跡の、悔いの八千度であれかし。

酔いが覚めた
0618考える名無しさん2017/08/07(月) 00:08:34.730
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
原爆の日
「ノーモア・ヒロシマ」のスローガンが象徴する原爆反対の平和祭の日。
1945年(昭和20)8月6日、世界初の原子爆弾が広島市に投下され、一瞬のうちに街が破壊され約8万名が即死。さらに9日に長崎市にも投下され、それ以後も被爆による死者は絶えない。
この歴史的悲劇を二度と繰り返さないように、毎年8月6日を原爆の日とし、広島をはじめとする各地で記念行事を行っている。

/wiki/原爆忌
それぞれの日には、広島平和記念式典や長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される。
関連項目
開戦の日:12月7日(ハワイ現地時間)、12月8日(日本時間)
沖縄慰霊の日:6月23日
終戦の日:8月15日
南島忌
0619Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/07(月) 13:58:09.980
時間があるかどうか考えよ。当然あると思えるのでは?同様に、自分の存在、意識なども、考えれば、
当然あると思えるだろう。それを掴め。
間違ったことを言う人はいるか?当然いるだろう。自分が嫌われることはありうるか?ないはずがない。
自分には理解できない文書はあるか?ないはずがない。自分にとって大切だと思えるものは存在するか。
当然ある。

このように、存在を疑わなかった概念はあり、思い込み、願い、硬直した自我、そうしたものに、人生で
圧倒されている。何事も、自分にとって疑問視したことのない、従って自分に都合が悪い事柄を、
避け続けているとしたら、愚かである。考え、しかるのち、当否を判断せよ。時間をかけて存在を
調べることが、叡知なのである。あきらめなければならないことは数多くあって、正しさを自己のために
いいように利用しているだけでは、考えるということが出来ないであろう。

自分にとって都合のいいもので塗り固め、よりよく改良していくという事をすら、違うのだと目を背ける。
そんなことでは、生きている意味がない。意味がない物事はあるのか?当然ある。自分の生を意味深く
するにはどうしたらいいのか?間違いの上に立った正解を、悟ることである。悟りはないのかあるのか?
当然それはある。私はそれを得られるか否か。当然、どちらの可能性もある。

調べるという事しか、人間にはできない。それを調べたのなら、人間存在が向上したということになるだろう。
もちろん、向上しない可能性もある。
0620sage2017/08/07(月) 15:53:47.420
ねーよ
0621考える名無しさん2017/08/07(月) 16:00:12.520
いうことできるあるねできねいうこともできるあるね
どゆことあるね
0624考える名無しさん2017/08/08(火) 02:28:14.290
>>623
のむ
0625考える名無しさん2017/08/08(火) 02:38:59.920
>>624
うわー(о´∀`о)
0626考える名無しさん2017/08/08(火) 02:49:28.750
1つ教えよう、最も重要なのはバランス感だ、
バランスがよければノイズの中から正しき選択ができる。
0627考える名無しさん2017/08/08(火) 02:54:51.110
>>625
ぷぴぴ。゚(゚´ω`゚)゚。
0628考える名無しさん2017/08/08(火) 07:41:57.000
>>623
おしっこが正常に出るのは体の機能は正常だってことだ。
そういうのを当たり前に思わず、感謝できることは、今のうちから全て感謝しておいたほうがいいぞ。
0630考える名無しさん2017/08/08(火) 11:45:32.880
当たり前のことは失わないと
依存してたことに気づかないからね
失う経験をして生まれる感覚を
前もって知ろうとしても無理だと思うよ
0632考える名無しさん2017/08/08(火) 12:56:36.790
予知能力を見る夢を見て起きる夢を見たような気がするらしい
0633考える名無しさん2017/08/08(火) 16:42:31.970
おれは予知能力者だ、預言者でもある、
おれの師匠、大川隆法を崇拝しろ
0636考える名無しさん2017/08/08(火) 21:27:33.720
自分に誇りをもて、自分に自信をもて、
自分を信じろ、言葉や理解とか単細胞が掴むもの、
他人の言葉に惑わされる愚かさは、おまえの自己紹介だ、
0637微魔女2017/08/08(火) 21:30:18.050
だけど うんことかしょんべんとかちんことか、弱いのよ、

女の子だもの。涙がでちゃうわ
0638考える名無しさん2017/08/08(火) 22:37:37.890
うんこ味のカレーと、うんこにしか見えないカレーとどっちがいい?
0639考える名無しさん2017/08/09(水) 18:15:16.400
うんこ味としょんべん味と、おなら風味か、
じゃあさマンコ味とかないの?
0642Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/10(木) 15:15:56.970
いくつかのことを同時に考えることが良い。視界に、次々に現れるものを、見て、それを積み重ねていく。
耳で聞いたものを、次々に積み重ねていく。決して、今を掴もうとしてはいけない。今は結果として現れる
ものである。
一人の人と言うものは、現在至上ではないのである。むしろ、時間の流れを、体験するものだ。
記憶を持っている人が、自分の中でまとめ上げることを至上とする。思考とは、いくつかのものを受け取り、
それを体験することであり、自然に備わった感覚器が感じるものを、かなり自由に使える者、恐れを克服できる者
へと人を変える。漫然と過ごすうちに、見えてくるものがあればそれでよい。私はむしろ、自分の五感に不満を持った
ところから考えを始めた。つまり、言語化できないとしても、それを越えた体験があるならそれで良い。
試験を受けるために言語化を訓練されているとしたら、そこには、捻じ曲げられた人間ができあがるだろう。
言葉にすることのために自己を曲げなくてもよい。法として律する一つの心掛けが、器官を使い、記憶の中で何かを
創造することを可能にするなら、それは、至上の喜びであり、現実、器官に背を向けられているのではない、
個人に親しく、自我を裏切らない永遠の友である。
0643Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/10(木) 15:31:23.100
失われた自分の基準から、どうやって感覚器と思考、記憶能力の、同時的使用において、人にとって
どのように行えばいいかという答えは、容易には与えられないだろう。それなら、まず、まばたきの回数を
数えるなどといったところから始めればいい。器官の誤使用は、絡まり合っており、思考は硬直した
思い込みになってしまっている。それを元に戻すことに、ずいぶんと苦労が立ちはだかるだろう。
とりあえず、試してみればよい。何も焦ることはないのである。良くならないということが積み重なり、
焦りを感じる。その焦りを与えているのは、転んでしまいそうで逃れられない自分の「今」という
他者とのコミュニケーションのための概念なのである。
0644Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/10(木) 15:43:17.650
まばたきを数えることは、お経と同じ目的を達する。文章を読むとき、意味を与える時、その行為と共に
数を数えることは、音で思考を考えるような、絡まり合った視界と思考を、別のものに分ける訓練になる。
視界は視界、考えは考えとなるべきである。数を数えることで、音の圧迫から脳を守る。時間がくっきりと
親密に感じられるようになる。
0645考える名無しさん2017/08/10(木) 16:58:52.250
なるほど
0647考える名無しさん2017/08/10(木) 19:44:40.740
黄金の臭いがする
0648美魔女2017/08/11(金) 01:14:56.390
シャーーー
0649美魔女2017/08/11(金) 01:53:13.410
>>648
成り済まし発見😡

ニャーーッ
0650美魔女2017/08/11(金) 02:05:42.210
>>649
私のおしっこ
0651美魔女2017/08/11(金) 02:07:52.160
>>650
シャーーーッ
0652美魔女2017/08/11(金) 02:09:54.760
キンキンに冷えた泡が立っているやつで
0653考える名無しさん2017/08/11(金) 02:13:43.370
>>648-652
鬼手マンされても辛抱しなさい!
0654Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/11(金) 15:06:06.280
言葉によって自分を表すこともできるとはいえ、言葉と自分は同一でない。したがって距離を置いた地点に言葉があると
捉え(言葉が自分の内部にあると考えず)、言葉の立場、つまりそこにある意味を、あるとして信じて、充実させる、
つまり本質を自分や誰かが捉えることが、大事であると思われる。
0655Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/11(金) 15:26:05.380
ある表現をしようと思ったり、思考をしてしまうときには、必ず、ある確かであることに基づいて、不確かなものを確かに
していくという形になる。妄想も含め、すべての表現、自己対話は、「その考えが正しいかどうか確かめるため」に、
発表したり、考えたり、勉強したりする。
「比較的確か─かなり不確か」の相対的なコンビによって、お互いが力を発揮できるようになり、あらゆる相違を取り込み
つつ、自己はその主題においての、確かめを、自己の課題として、また妄想からの脱出や、苦しみの軽減を脳の力の
全てを使い乗り越えるということなどを、切実な心でもって、果たそうとする。それは、単なるつばぜり合いや、揶揄の
応酬を巻き込みつつ、知るという人間の理性が、逃れられないものから逃れようとして、有限の絶望にうなされながら、
やっとの思いで果たそうと苦しんでいることについて、それをごまかそうとしたり、気づかないふりをしたりしながらきた
ことから目覚め、自分の不十分なところを乗り越えるため、確かめようとして、必ず確かなものから出発するという
理論構成を十分な補助の悟りとして、この先、確かめていくものである、と言う風に考える。
0656考える名無しさん2017/08/11(金) 17:11:07.200
知的な趣味なだけだから真に受けないでくださいな
0657考える名無しさん2017/08/11(金) 18:02:13.090
腑抜けには何をいっても肝っ玉なし
0658考える名無しさん2017/08/11(金) 22:43:01.190
悟りっていうけど、
当時の知的エリートのもので、庶民のものじゃないよな
哲学者として大成するのと同じくらい、難しいだろう

平凡な凡人ができるのは、そうした天才の残した文献から、
かいまみることくらいで、同じように悟れるとは思えん

禅とかを見ても、瞑想に何年もかけて、やっと神秘体験して、
それも魔境として退けて、さらに修行は続くわけだ
悟った師匠の元でないと、そんなの続けられるわけがない
0659考える名無しさん2017/08/12(土) 03:11:42.630
なるほど
0660Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/12(土) 15:01:29.870
子供のようなことを言って申し訳がないが、他人の行動に対処できないことはないか。それは、人の集まる場所、
店など、また車の運転などでのことである。
他人が、口元に手を持って行ったり、店のあいさつで、語尾をやたらに伸ばし続けたりするときのことだ。
それはようするに、私より遠くから私の存在を確認しているということのうえに、そうした優越的な気にかける
ということがはじまる。だから、私にとって大事なのは、遠くから、その人が私を見えているかどうか、と確認する
ことである。視界に入っていない場合は、私の存在を知られておらず、何かをされる心配はない。
だが、私がその人の視界に入っていると確認出来たら、その人との関係が始まる。つまり、その人は、
私に対して、気をつけているのだ、ということが明らかにされる。それを私も知っているなら、大した攻撃
を受ける危険はない。だが、その人が遠くから私を確認しており、私がそれを知らないなら、どんなことを
外に考えたところで、それは視界に入っているか否かという情報を加味していないのだから、どんな考えも
失敗することになる。その視線を考えに入れないなら、全ての行動は実際に良くなることはない。
つまり、視界のなかというルールのゲームが始まり、それで楽しんでさえいることも多くある。
0661考える名無しさん2017/08/12(土) 22:24:49.170
うはうは
0662考える名無しさん2017/08/13(日) 02:44:19.500
さとれよ
0663考える名無しさん2017/08/13(日) 09:15:55.660
なるほどなあ、
家に帰ってくるとき、道を歩いてると、ふと気づくと猫が足元に挨拶しに来てることがある、こちらが気づかずにいて突然楽しめることが起こると、結構な喜びになる、そういうことはよくある気がする
0664Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/13(日) 11:08:05.500
>>663
逃れられないと辛いけど、無視されていないということは一つ言えますね。猫は、遊んでいる。人も、猫とは遊びたい。
人生が終わる前には、という考え方。誰からも憎まれてはいないということ。つまり、対等条件ということです。
条件が違いすぎるとゲームが面白いと思えないし、面白いゲームなら、やる気が上がる。自分が圧倒的に下だと、
どちらも愉快ではない。感情と思考によるバトルですね。
視界については、そういう自他の仕組みを気づけばすぐに全部分かるようになるはず、気づかなければ
だらだらと不快にまとわりつかれる。そこを知ろうとすることがあがきであり、一つの鍵は、心を開く。
0665Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/13(日) 11:12:37.950
骨をさすると健康にいいが、さするように文を読む、見ることが出来る。世界のものをさするように見ることもできる。
脳をさするような想像をすることもできる。さすることが愛すること、理解することにおいて大変に基本的な行為である。
0666考える名無しさん2017/08/13(日) 12:48:51.960
>>663
あたひのおしっこ美味しい?
0667考える名無しさん2017/08/13(日) 23:53:05.030
>>665
ちんこに骨ないんだけど
0668Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/14(月) 00:08:58.690
>>667
つまり、さするというのは、慣れ親しむことを目的としており、孤独な楽しみに親しむことは、ほどほどにするべきである。
色々理屈をつけるべき場所を間違えておられますよ。
0669考える名無しさん2017/08/14(月) 01:09:22.290
>>668
マジレスがくるとは思わなかった
0670Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/14(月) 01:21:14.730
>>669
だって恥ずかしいじゃないですか。これでも結構考えたんです。
0671考える名無しさん2017/08/14(月) 04:27:39.020
きゃん
0673Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/14(月) 13:36:08.390
どれほど参考になるかはわからないが、文章に自分を合わせすぎてはいけない。つまり、言葉から言葉へ移るとき、
律儀にその言葉の意味だけに集中する必要はない。言葉から言葉へ注意を移す時、必ず、移る前と移った後
のあいだに、なにがしかの思考がバックで働いている。その思考は、まさに自分にとって大切なものであるはず
である。また、自然な読み方になることにおいて大事である。ある型にはまったことの、その間に、自分の
自然な意見が、持たれているのである。

思考において、考えようと型にはめて思考を展開しようとするとき、その型とは違った思考が、その型を完成させ、
乗り越えるための、重要な思考であるはずである。つまり、見るというタイムラグに、どう対処するかということ。
思考の拾い上げと、捨てることにおいて、その基準となっているもの(型)を見直すこと。
そうしたために、自然な自分の欲求の声を聞くべきである。

型において、捨ててしまうということが、健全から目を背けさせ、ストレスをもたらす。整いすぎてはいない思考、
整序されない思考や行為が、自らの、生きている、豊かな可能性の溢れた行動であることに、気づかねばならない。
それは自由や倫理を考える時、一番、原的に自己の理解について、失敗、挫折にめげないようにするうえで、
大切なのである。成功も失敗も、自分の貢献ということから見たとき、紙一重の差なのである。それを救い上げ、
経験となし、次にもっと考えを改良して、自分の力として臨む場合に、必要となる態度なのである。

自他の区別を、あまりに重要であると捉えてはならないのだと思われる。自然性が、最も正しくなるはずだ。
行為によって自己の正しさを証明しようとすることには、意味がない。自分で正しいと証明したことについて、
それを行為とするべきなのである。だが実際にはその二つは程度問題であり、入り組んでおり、スッパリと
正しくできることは、難しいであろうが。そういったことを解くのに、型と自然の存在理由があるのではないか。
0674Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/14(月) 16:22:44.620
どんな思考も、どんな読書も、普通に行うことが一番である。体をねじるとき、この部分を意識しながら……などと
やっていると、逃してしまう運動がある。だから、自然にねじりたいようにねじることだ。人前で取り繕う必要が
あれば仕方がないが、どんなときも、どんなことも、自然を基本として行うべきである。考えすぎは、無駄に
なることも多い。だから、戦略によって変わってしまう中で、戦略というステージにのれば、また運動できる。
怠惰な先送りは、基本的に良くない。自分に聞けば、大抵のことは自然にできるようになる。
最後は目を自然に使って見れるようになることだ。
どこが不自然なのかと、常に気をつけるべきだ。
0675Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/14(月) 19:05:58.030
想像力とは、例えば何もない空中に十個の色とりどりのピンポン玉があるのを想うというような、持続性の能力である。
相手の立場、気持ちになりかわって考えよ。そして、他人も、僕の立場に立って、自由に想像したり、蔑んだりするわけで
ある。これは、考えようによっては、かなり怖いことである。他人に馬鹿にされないように自己の外面を制御し、
相手の立場に立って相手の事を思いやって、スムーズに面会は終わる。これは怖いことでもあるが、うまく
終えられたら、充実感があり、嬉しいことではないか。想像力自体が物理的におかしくなっているか、或いは
何かの影響によって、心が不自然になってしまっているか。自己と他者の対面は、想像力を必要とする
行為であり、それゆえに耐えられない苦痛を心にもたらすこともあるような事である。想像力抜きに生きるのは、
ほぼ無理であり、挫折は勝負の形に押し込まれ、勝手に攻撃欲を満たすことのターゲットにされる。

想像力の持続性とは、別世界に遊ぶことの可能性につながり、人のためではなく自分のために生きることができる、
というかなり高度な思考のために、用いることが出来る、有力な武器である。自分─他人。ある場面では、口うるさい
他人は鬱陶しい、またある場面ではそっけない態度はさみしい。

人間が他者の心を得る時、それは、少しの信念を用いているものである。他者の気持ちを直接得ることはできないが、
信念とはそれほど脆く不器用なものではない。対面的信念は、瞬時に判断が行なわれ、危険を回避する。
だから、暗い影ばかりを見つめていないで、明るい魂の色を想像することだってできるのだ。クオリアがあるのと
同じように、魂も存在している。

人が脳裏に描いたものは、力を持ち、幻という存在になるのである。そして、人が尊重されるのと同じように、
幻が大切に思われ尊重されることはおかしなことではない。
0676考える名無しさん2017/08/14(月) 21:27:47.820
なるほど
0677考える名無しさん2017/08/14(月) 23:52:18.710
具体的論述 と 本質観念、
実態のある比喩と説明により論点の判り易さは向上するが、
目に見えない質的な部分は大量の実態で曇りだす、

それでいいなら問題なし
0678Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/15(火) 14:01:57.630
過去の嫌なイメージが浮かんでくるとき、それらは過去で、決して消えない変えられないと思い地団太を踏むことが多い。
だが、過去のイメージの中に、今現在から分け入っていくことが出来る。過去の記憶は改変可能であり、頭のために
そうするのは当然の権利である。過去の場面の中に現在において自分が登場し、いくらでも過去に関わっていくことが
出来る。つまり、過去の記憶には縛られない。嫌なことは過去の時点でうまくやることもできただろうが、現在において
うまくやることもできる。過去に対して自由に考えることが出来るということは当然の権利であり、自分の力でああも
できたと思えば、そう思った時点から、過去の中に姿を現し、あたかも目の前にあるものに関わるのと同じように、
過去の不快を想像において現在と同じように変えることが出来る。記憶との距離はどのようにも取れる。ならば
感情思考の自由を奪うものは、身体的刻印を受けなければ、何一つとしてない。不満や吐き出しの小さなイメージに
とらわれることもない。様々な登場人物は、自分ではなくただの意見をいうだけの力ないもやでしかないのだから、
自分には力があるはずであり、当時の過去の人物は、何一つとして一方的な虐待を越えた素晴らしいものなど、
表さないのである。イメージと共に不快がやってくるのは、現在自分が力を持ち始めた証拠である。
0680Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/16(水) 17:09:13.360
>>679
みました。全部で一時間半くらいでした。内容は、自分の課題を自分が引き受け、他人が甘やかしてはいけない
ということだったのが、記憶に残っています。少しの勇気を持て、とかも、考え方の一つとして、良いと思いました。
コンプレックスは、僕はそれほど大きくないのです。むしろ、人の役に立っていないという後ろめたさがありますが、
他人からの復讐も、まあ一通りは過ぎ去ったことです。高校の頃、先生が言っていたことですが、笛のうまい
人が、ただ笛を吹くことによって、世間と関わり、認められるというようなことがあるのです。そんな、悲しさと
切なさが、全ての人の勝利になればいい、人間関係には意味がある、ということを思いました。
0681考える名無しさん2017/08/18(金) 08:23:04.460
>>1
0682考える名無しさん2017/08/18(金) 11:38:42.320
ここは、悩み事の相談をしてもいいでしょうか?、悟りの観点からみれば、どうすべきか?が分かるのではと思いまして、投稿してみました
0683パタリロ2017/08/18(金) 12:28:25.660
>>682
どうぞ!
06846822017/08/18(金) 12:57:28.620
ありがとう御座います、では
実家で長期引きこもりの兄が居ます、親が亡くなり親の貯金で、細々と一人で暮らしております、特に荒れる事はありません、相変わらずの様です。同居のままでは、依存する相手が親から私に変わるだけと思い、私は家を出た
06856822017/08/18(金) 13:12:17.120
つづき→私(弟)が別居した事で、自分(兄)の身の回りの最低限の事はするようになりましたが、それ以外は以前のままです。親の貯金は、そのまま兄が使っていたのですが、その貯金も尽きようとしています。悟りを得た聖者なら私(弟)はどうするのでしょうか?
0686考える名無しさん2017/08/18(金) 13:23:00.180
兄の居住区にある福祉相談窓口へ出向きどうしたものか対策を立ててもらいましょう
06876822017/08/18(金) 13:34:17.660
の問は私に荷されたカルマか?
この問は聖者でないと答えられないのではないかと思うんです。親には親のカルマ、兄には兄のカルマ、弟には弟のカルマ、カルマを断ち切るのが聖者の域なら、これは神が私に与えた試練なのでしょいか?
06896822017/08/18(金) 14:12:05.040
元々私(弟)は結婚や家庭を築く事に疑問を持ちながら生きてきた、その点は見切り着けた、私の道は私が決める、私の生き死には私の責任、ただ兄の生き死には兄が決める、と言えど今後の私の動向に関わる。ここに居られる賢者の方々何かお言葉を貰えましたら有り難きところ
06916822017/08/18(金) 14:46:48.460
>>690
ありがとう御座います。
そういう私の生活も安泰ではない、まず自分の事と思い生きてたんですが、答えは出ないままの現状です。問から逃げてたんでしょうか、今、頑張る方向を模索してる状態です。
0692考える名無しさん2017/08/18(金) 14:55:37.910
行動あるのみですよ、何ができるか何ができないか判断できたら模索などしていません
何もできない、適切な機関に相談するしかありません
06936822017/08/18(金) 15:16:53.430
>>692
ありがとう御座います。
板違いの相談にのっていただいて
06946822017/08/18(金) 15:23:34.220
>>693
文章校正していてる途中で送信してしまいました。すみません。
と言っても、これ以上書く言葉もみつかりません。ありがとう御座いました、頑張ります。
0695考える名無しさん2017/08/18(金) 16:37:33.420
>>684
これタカタのコーヒーゲイ?だったらタダ乗りなのにやばいなw
0696Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/18(金) 17:56:29.890
>>687
カルマにはこだわらず、十分なことをして、お兄さんに与えてあげることが良いことだと思います。
『仏教聖典』200ページに、、
「怠るのは死の道、努め励むのは生の道である。愚かな人は怠り、智慧ある人は努め励む」とあります。
何かをする上で、基準となるのは、智慧の存在を知ることだと思います。何も起こらないことはありません。
僕自身は、20年間を無為に過ごした末、これでいいやと思える状態に回復しました。そのように、ではありますが、
何が起こっても、起こらなくても、全ては決まっているのです。決まっていると思った中での行動に対し、
(本を読むように)知らないものを知っていく驚きが待っていると思います。
0697学術2017/08/18(金) 18:00:31.620
仏の姿か。
0698考える名無しさん2017/08/18(金) 18:13:21.970
>>696
自己紹介ですか?
06996822017/08/18(金) 19:17:20.130
>>696ありがとう御座います
私は仏教について学ぶ必要がありそうです
世間でいう怠けの定義と、仏教でいう怠けの定義が違うようですね。20年間無為に過ごすというのは、為すべきとに為すべきものを為してきたと理解しました。
07006822017/08/18(金) 19:24:29.180
為すべきとに為さないのもダメ
為すべきとに為さなくていいものを為してもダメ
為すべきとでないのに為してもダメ
為すべきとでないなら為さなくてよい
為すべきとに為すと
0701Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/18(金) 19:55:09.650
>>699
今為せることは決まっています、それを為すか否かという選択が出来ます。考え抜いて、その末に持った結果が、
自らの助けになる可能性があるわけです。それ以上の不幸については、できることは少ないでしょうが。
生あるものが失ってしまうことに対して、間違っていますよと、教えてくれるのかと。
転機においては、良く相談をした方がいいです。
0703考える名無しさん2017/08/18(金) 22:48:53.220
>>699
今そんなものを学ぶのはただの現実逃避ですよ、現実問題を解決して余裕ができたら学べばいいのです。
07046992017/08/18(金) 23:21:25.030
現実問題の解決と簡単に言いますが、簡単に解決できなかったから現状に至ってる訳です。
ですから、今後も解決しないまま進むと予想されるのです、私が面倒をみながら。相手は変えられないから、私が成長して変わるしかないのではと、そんなところです。
0705Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/19(土) 00:12:55.800
ただ漫然と日々過ごしているが、実際には、思考の展開は、常に起こっている。つまり、頭の中であるイメージが
浮かんだ、それをこう思った、そしてそう思ったことについて、またある評価という考えを持った、……と連なる。
それは、無意識のうちに、下手にやっていることである。だから、一連の思考の流れ、それによって思考はやっと
可能になるのだが、それはどこまでも追及され、連続して変わっていくものである。
そういう思考の連続、それは前に何があったか、ということに意味を負いながら変わっていくのだが、
その連続を、上手く使えるようになれば、大変に本来の意味に到達できるだろう。それが、ニルヴァーナへ
通じるものなのではないだろうか。あれ、これ、それ、……。特別なものを作り出す必要はない。ただ、
思考が本来の働き方を得られており、それに従わない思考全てを疑いを含んでしまうものと認められるとき、
脳はやっと自己の姿を見出す。決して失敗はしない、ただ思い返し、変化の瞬間を観察し、変わっていくことが、
それが大したものでなくとも、自分にとって、本来の自分が行くべき唯一の場所がそこであった、と感じられる
はずなのである。それを証明するのに、根拠としては、何かがないのに何かが生まれることはない、何かが
生まれるとしたら、そこには何かがある、という同じ意味、二通りの表現、対偶を持ってくる。そして考えとは、
大きなものではなく、小さなものであればよい。大きなものは、如来である。悟りとは恐らく小さなものである。
小さな現実が、大きなものと同じところに存在する、という事があるのではないかと考える。
大きな存在=如来、と、小さな現実=仏(解脱)とが、同じものである、ということではないか。

そして、おそらく十二縁起というものは、先に述べた脳の思考の、逃れられない一連の変化作用という、人間の真理を、
表しているのではないかと考える。
0706考える名無しさん2017/08/19(土) 06:04:25.180
歯垢の付着は常に起こっている、定期的に歯医者いって歯垢除去してもらおう
0708Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/19(土) 16:15:53.730
今から未来を詳しく知ることは不可能だ。だから、脳にできることは、ごく直前の未来を知ることだけだ。
分からないものを予知することはできず、頭に入らない意見を前にできることは、ただ直前の未来を
得ることだけだから、全ての苦しみは、知りえないものを知ろうとする際に起こるエラーであるだろう。
直前の未来を、知ることが、直前の未来が自分を変えるということと、同じであると、関わっているのだから、
計画通りに事が運ぶというのは、直前の未来が必ずしもでたらめな構造を持っておらず、やや先の
未来から、どうすれば事がうまく運ぶかというメッセージが送られてくるのにしたがって、頭をならす
ことが出来るのである。だが、未来がその通りに運ぶことばかりではなく、未来が悪くなることも、
確率的には起こるはずだ。そういったとき、直前の未来としか関われないのだということを、振り返る
ことになり、それを破ることはついにできなかった、ということを知ることになるのであると思われる。

全体の意味から、意見の意味を類推し、得るという考えだけしかしないのは良くない。意味を解ろうと身構えず、
一つずつの言葉の意味を順次知っていくという、時間に従った思考が、考えられるべきである。
それは何とも精妙な頭の働きを、意味に目隠しをされることによって駄目にしてしまわないために必要なのである。
過去の亡霊は、現在を悩ませるというわけである。必要なのは、しばしば(五秒に一度くらい)、直前の未来
を飲み込んだ、という、決心のような鮮やかな現実を感じることである。

たとえば呼吸を考えると、息は直前の息を考えるべきであり、その全体を統括して呼吸と考えることは、
あまり良くないのであると思う。そして、新鮮な息の働きの爽快さを、随時得ることが出来るということで、
現実に息を捉えることが出来る。直前の息に、全てをかけて、それの与える安ど感を、常に得ていること。

そうした未来とのかかわり方を良いものだと考える。
0709考える名無しさん2017/08/20(日) 02:29:02.940
>>今から未来を詳しく知ることは不可能だ
知るのではない、見るのです、眺めるとか見れるのではなく、意志をもって見出す作業のことだ。
知るという立場では突然の不運により未来の曖昧さすら未来は裏切ってくれる、
>>直前の未来を知ることだけだ。
それは知るのではなく予測するということ過去と同じ流れだと断定し、変化が無いときにおおよそ通じる詭弁だ
力を行使し状況を否定し、自分が願うことを現実へと結ぶ執念と努力と世界の調和のバランスによって、
未来を見ることができる、自分の考えを否定し、世界のいうことを疑い、自分と、世界の隠れている本質を信じ、
上辺ではなく、その心が浮かび上がらせる心理を真理へと昇華することだぁ
哲也-雀聖と呼ばれた男で登場する房州さんが未来を見る方法を示している、それは
凸凹のバランスが悪く転がって立てられな卵を垂直に立てるには、故意を凸凹をつくり、何かを犠牲にしてでも
立てるという意志を貫き通す姿勢をもつことだと説明する、具体的には卵の下の部分を割ってでも地面に立てるということだ。
お上品に育てられた人は、その土下座してでも、自分の腕を犠牲にしてでも、結果を掴み取るという考えには至らないのだぁ。
常に常識というメガネで現実の汚い部分や非常識部分を曇らせ見ようとはしないのだぁ、
罪を背負ってでも、一生の負債を背負ってでも結果をだす、それが未来を掴むという方法論だぁ。
やくざと行われる賭け事で絶対に勝つにはやくざそのものを買収してでも勝つ、国との戦争では国そのものを買い取ってでも
勝つ、将棋の勝負ではルールを決める権力者全てを説得してまでルールそのものを曲げる、これが勝てない相手に絶対に
勝つということだぁ。
0711Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/20(日) 22:49:54.300
>>709
>自分の考えを否定し、世界のいうことを疑い、自分と、世界の隠れている本質を信じ、

疑うことは、なかなか難しいんですよね。それで、隠れてる本質に近づけるという縛りをするなら、
未来を想像し、それを見て、前向きに進む時間の摂理に従うこと。

>心理を真理へと昇華する

これは、アプローチとしてはなかなか本質的、そして独創的。

あまりにもフリーな意味の世界で、バランスをとることが重要なやり方である。そしてコロンブスの卵、ルールを
変えること。ずっと仰ってきたこと、勝つということの絶対的なところ(それゆえに、突き詰められてしまう)、
世界の理解、作り出すためにするべきこと、などを、大分知れたように、思っていますが、極めた後で、
どんな視界が可能になり、なんて気持ちになるのか、人間とは何なのだろう、そういったことを思います……。
0714Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/23(水) 15:39:11.450
好きであるとは、優れた何かを認めていることに他ならない。嫌いであるとは、すぐれている点が無いと感じる
ことである。自己に優れたものがあるならば、それを認めてみることで、自分が好きになり、自信が持てる。
すぐれたものがあることを知るために、つまり自分の位置を知るために、何かをやってみる。それが成功することも、
失敗することもある。劣っていることに対して、それをきちんと位置付け、諦め、コンプレックスにしないならば、
そのことについては、笑ってやり過ごすことが出来る。そして、自分の力を発揮して、利益を得るようなことを、
別にすることが出来る。大部分の絶望とは、病気などによって、挽回のチャンスがなくなることから起こる。
それでも何かを好きになれるだろうか。
外ではセミが鳴いている。風は吹いていて、私を抜きにしても世界はそこにあり、私を攻撃することなく、
私が代償を払うかどうかにかかわらず、存在している。
この自然が、いつもあったということ。自分を持ち上げすぎず、好き嫌いについてはもう決着して、何かの
脅威を身に知ること、なぜいくつかの人生の生き方について、自己に厳しくあらねばならないのか。
それは、仕方のないことかもしれない。だが人の生き方について、間違っていると指摘されたとき、
反論を考えよう。或いは、承諾してもいいかもしれない。結局のところ自分勝手とは、思想の問題、性癖の
問題ではなく、スキルに他ならない。だから、人は他のことと同じように、存在を否定されるのではない。
いがみ合いが起きたとき、三分の理を、攻撃することはない。決定的に否定するなら、そのための理由を
考えられる人はいるのだろうか。一方で人の生命を損なうとか、また一方で新しい考え方を思いつくとか、
そういった全ての事を、知らねば、心が救われるということはないだろう。

好きなものを作るということは、物事の成功について判断する力をもち、何も認められることだ。
つまり、真実をわきまえるということだ。誰も、心からそうであると思えるようなことを懐くことだ。
そのようにして、現代社会にせかされることのゆがみもなく、自然な形で、争いを作らないなら立派なことだ。
人間が生きていく上で、何もモデルとされないという状況は、横のつながりへと変化しただろう。
それはきっと正しいのである。
0715考える名無しさん2017/08/24(木) 17:09:19.190
成功は纏うものだ、成るべくして着こなすもの、
成功する為に正しき判断を組み立てれば必ず得られるわけではなく運とツキが重なる
ぎりぎりで始めの1回目で成功するとか、失敗クジを引く奴の言い訳、
試験などで合格点が100点満点中60点として、60点を狙うのは下の下、
なんど模擬テストを繰り返しても100点しか成しえないのが本当の勝者の行動だ、
0716考える名無しさん2017/08/27(日) 01:49:27.560
がんばれがんばれ
0717考える名無しさん2017/08/27(日) 02:38:00.400
>>716
自己紹介ですか?
0718考える名無しさん2017/08/27(日) 05:48:40.120
血が流れているなら、地の流れが感じられるはずだ、
血の流れは繋がり、結ぶ、血とはそういうものだ、
流れが造形を生み意味を呼ぶ、それは潮であっても構わない、
過程なき結果に力などない、合理性を極めた論理、科学技術など
1点の曇りさえあれば崩れ去る、
そこには決定性はあっても必然性はないからだ、不完全がいくら集まろうが
それは不完全でしかない、それが科学技術の論理思考の形である。

現状で意味が無いからといって意味の無い血の流れを無視するものは時と共に
錆び朽ちてゆく関係に気が付けず、炸薬の無い兵器を信仰しつづける。
神が宿る時きたるとき、地の利が働き、天の和が働く、
バランスを保ち続けるものにしかそれは感じることはできないという
0719Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/28(月) 12:38:00.190
誤った見方とは、因果関係のあることを無視することから生じるのではないと思われる。むしろ、因果関係の
ないところに、間違った因果関係の存在を思い込むことから生じる。つまり、ある物事や、人が、自分と関係が
ないはずであり、関係性を正しくとらえれば、大した問題はないはずである。だが、物事の一部の類似性を
つなげていき、誤った反応を誘起することによって、自分も対象もやはりだめで、解決不能のアポリアだ、
などと思い込んでしまう。そうではなく、自分と対象の、問題がないところを問題にしている訳であり、
それを正しく解くことなど、初めの段階から挫折を決められていることである。
0720考える名無しさん2017/08/28(月) 13:51:58.200
>関係性を正しくとらえれば
正しさは主観が複数存在するように複数あり、同時に生じる正しさが衝突すれば片側は悪になる。
誤った見方は主体からみる見かただ、かならず自分の主観的に認知する側という立場になるからだ。
世界をみれば常に間違った因果関係しか認知することはできない、常に歪んでいるということだ、
見ることができない見えない部分を見ない時点で正しく見れるという神の視点は幻想にすぎない。
主観を捨てられるのは仏の座にたどり着いたときだけ、関係性を海の上にできる波の模様と
同等に捉えられるときということだ。
波の模様に是も否も無い、正しさという何かが見える時点でそれは波の模様ではない。
正しくないことを正しさに変えることができることが重要だ、
正しくとも誤った状態になることを悟る、それこそ佛の領域、波に出来る水の模様にすぎない。
人が人であるかぎり解決できないことがほとんどである、悟ったところで仏にならなければ
人は人である、人とはどういう模様の生き物かをまず認めることだ。
人が歩むのは道であり、道を歩めば徳を纏う、正義を成すものに徳などない、
そして正義は力であり、力を持つものは力の衰退と反力に逆らう必要がある、
力を持つものは道を反れて力を成す、道には正も間違いもない、
進んだ後にできるものが道、その跡を築くのが道への1歩だ、
正しさを極限に極める程に対照的に生じるものを考えることだ、正しさとはその類であり、
それでも正しさを求めるならば、反力に気をつけたまえ。
0721Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/28(月) 15:57:25.990
>>720
自分の言動は、他者が気にかけます。僕が正しいと思ったことでも、他者は正しくないと思うことがある。
考えを言うとき、立ち位置をしっかり決めることは、大事です。思い付ついた大きい発見を、話すとき
相手を選ばないと、嫉妬や不理解から、だめだと言われてしまいます。
あらゆる人の考えが気になってしまっていた。なすりつけされる感じ。
波の模様に似た自分、正しさによってある方向へねじ曲げられていない自分。

>>719で言ったように、或る人、或る物について、もともと、自然な関係とは、ただ関係がない人である、何のかかわりも
持つ必要がない人たちであるのに、礼儀について考え過ぎ、恐ろしくなって自分を無くす。それをさけたいので、前もって
十分に、言葉遣いと考え方を、用意しておかねばなりません。
0723考える名無しさん2017/08/29(火) 23:59:03.460
自由意志がないと先には進めない、されど、自由意志があるからこそ流される、
このジレンマは意志が強いほど働く、自分が思っているように進めていると錯覚するからだ、
まず自分を疑うべきだ、自明こそ否定しべき答え、そうでなければ井の中の蛙、
重力から抜け出せない人の思考、決定論的な力は過去が変えられないように
未来も変えられないように働く、それが流されるということ、過去の知識記憶経験すべてを否定し
人は何もなく未来をつかめるか?それは非であって、是ではない、
0724考える名無しさん2017/08/30(水) 00:02:15.950
唯一抜け出せる方法はファンタジーだ、だがそれは自分が描くファンタジーではない、自分の
描くそれでは抜け出せない、世界は流れ、流されるもの、ならば、世界を流し流せばいい、
世界、自分以外の何かの自由意志を流せば、その本質を見極め真理を作れば簡単に流れる、
あなたは正しいと肯定し希望を見せるだけだ、自らを隠し忍び大きな他者の流れに乗りきれば
自らは流れの意志に組み込まれずに幾つもの流れを選択できるはずだ、自分で自分を制御
できるという自惚れは錯覚であると自覚できなければ波乗りではなく、自分で作った流れに
流されるだけ、

認識は常に自分の想念に向かって収束する、意志が強いほど素である本質に狂いと過剰な
解釈が含まれ具体的になるほど幻想に化す、自分で描くファンタジーの先にあるものほど怪物だ。
0725考える名無しさん2017/08/30(水) 00:22:28.850
個の想念は拡大する、やがては他者の強い想念を加えてより拡大してゆく、
現実から選ぶそれは正しい、正しければ正しいほど道ではなく自己満足になる、
それが怪物だ、想念が強いほどよりよい結果を返してくれる、しかし結果は
想念をより膨らませる、強すぎる想念は一人歩きを始める、一人歩きするのは
結果を得る それが他のそれを融合しなければ大きな結果が得られないからだ、
想念は肥大しバブルになる、空洞化したそれを膨らむ以外の結果は選べない、
未来は見えている、流されているのである。
得たそれは得た大きさに比例し対価を要求する、何かを得る、何かに成る、未来を掴むとは
そういうことである、変化とは変化せずに変化することはできない。
個の思いと現実に奪われる対価は小さい想念では一致できても、大きなそれは他を
巻き込み肥大してゆく原理により一致しない、大事なものが奪われてゆく。
選んだものは本当に自身で選んだものか、感情から生まれた術は、やがて術が重要になり
元の感情は失われ、術こそが働きとなる。ほんとうにそれがあなたの選択か?
0726考える名無しさん2017/08/30(水) 13:40:34.930
>ほんとうにそれがあなたの選択か?
相対的認識を拠り所にする原理がどうしても働くんだろうな
0727考える名無しさん2017/08/30(水) 17:40:58.880
ホント、おっさんファンタジーだなw
0728考える名無しさん2017/08/30(水) 17:42:34.750
はたしてほんとうにそうかな?
0729考える名無しさん2017/08/30(水) 17:47:40.950
ホンホホント、おっさんファンタジーだなント、おっさんファンタジーだなト、おっさんファホント、おっホホント、おっさんファンタジーだなント、おっさんファンタジーだなさんファンタジーだなンタホントホント、おっさんファンタジーだな、おっさんファンタジーだなジーだな
0730Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/30(水) 18:32:03.910
>>724
他人のファンタジーにのるわけですね。納得です。自分の見えないところを見える他人、心までも。
認め合えることは素晴らしいでしょう。他者とのかかわりの中で得られるのは、経験であり情動である、
理論であり賢さである……でも、その向うには何かが見えているでしょう。それは、字義通りの明示
された意味、すなわちシニフィアン(能記)と、それを通して志向される二次的意味、すなわちシニフィエ(所記)
です。存在は、十分に満たされれば、シニフィエを生むでしょう。そのときに自分の立っている場所が
どのようであっても、自分は言葉で言い表されているところから飛び立った、新たな意味に囲まれて、
極楽と見まがう意味が横溢する自己充実の達成感にあふれる。
この世をかき分けるような、子供のころの、未分化な状態へ。そうしたものへの憧憬は、そうしたものを
引き寄せずにはいないでしょう。
見える神が見えなくなる場所に立つとき、何もかもが自分のためにあると感じられるのです。神殺しの
わざを、わざわざ蓄えてきたとすれば、選ぶことは、背理的でないことはできません。
私の選択とは、結局、知であり、またもう一つ、二人になることです。それはもう選択してしまったものである
のですが、そうしたこと以外の道を選べたとは思えません。選択したものが、時間と真理によって洗われたとき、
そこに見えるものがなんであるかという予測は、立っていません。でも、人を恨んだり、人のせいにするつもりは
なく、全ては自分の自分らしさを、正直に表した結果なのだと思っています。
0732Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/08/30(水) 22:17:17.860
自分で生きていますか。何かの映像を思い出し、自分を見失ってはいませんか。つぎはぎだらけの、無意味に
乗っ取られてはいませんか。自分の表情の記憶がありますか。無頼とは、自分ということです。どんな苦しみも、
自分のものであるとすることです。自己イメージは、とても重要なのです。自分の味方をしてくれるような、
場面の映像が、過度に訴えかけすぎること、そうしたことは、みな、まずは表情を生きることです。
長く生きるよりも、自分を持って生きる方が大切です。子どもは夢見がちでありますが、大人の言うことを
聞くことの多いものです。成功の理論は、理論であって、無頼の関知するところではありません。
無頼にとっては、勝敗はどちらでもいいのです。ただ自分のものである感情を、極限まで自らに
全てを任せること。自ら考えるということは、生易しいものではないでしょう。でも、特別な才覚などは、
後からでもつけられること。むしろその、自分を頼っているということが、見える場合に、多くの人がそうであるような、
一人前の人間になります。それは、後からでもできることであり、失われやすいものでもあります。
逃げる時、逃げるという事を、心得て行わなければなりません。その時、画策した自分の持ち札に、全てを
賭ける勇気が必要です。そうでなければやられてしまうし、そうであることは、自己の始まりとして、
世界に合わせて生きるのではないこと、自らの無力こそが、力の源泉であること、無力を感じたという事実が、
むしろ自分の周りの環境全てを、自分の思い通りにならないという天理であると知らせるものであると知るのです。
0733考える名無しさん2017/08/30(水) 22:33:16.250
囚役を課せられたおっさんのジレンマ!ここに始まる!!
0735おね2017/09/01(金) 23:09:02.410
おっさんたちのバブルが弾け飛び、
掴み損なったそのシャボンたちは、
ふわふわ、ふわふわ、現世の富力であり続け、
神通力が失せるまで、僕たちを常世へいざなう喚問であった。
0736考える名無しさん2017/09/01(金) 23:29:27.900
おまえら死海文章よめ
0739Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/02(土) 12:00:38.770
良く見るには、見える所を増やすのではなく、いかにして見えないところを作るかという技術を使うことである。
特に、前後(奥行き)を制限していくのが素晴らしい。視界で見えないところを作り、増やすこと。
聴覚も同様に、聞こえているものをいかに聞こえないようにするか、というような心掛けが大切である。
感覚も同様である。痛いところを、いかに痛くないようにするか、という心掛けが大切である。(ストレッチのこと)
呼吸も同様である。いかに吸わずに吐くか、吐かずに吸うか、という心掛けが大切である。
思考も同様である。考えていることをいかに考えないようにするか、という心掛けが大切である。

以上で、良い存在のしかたが分かったが、そうすると、死ぬことが悲しい。怖いというより、悲しい。
誰もが願いを持っていること、それが、叶えられないものを叶えずに別のもので置き換えてやっていくこと。
その選択と、心に秘めた思い。それらを、達成できないようなことがあるということ。
心の重みに引きずられて悲しくなる。それも、少しずつ乗り越えていかなければならないことだが、
そういったものは荷が重い。

悲しみを悲しくなくさせるとうい心掛けが、大切である、というくらいで、死を捉えた態度と言えるのだろうか。
0740Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/02(土) 12:19:21.780
>>739
補足

思考については、いま考えていることをいかに削っていくかが大事である。技術、方法の問題である。
0745考える名無しさん2017/09/03(日) 21:18:09.940
>いかにして見えないところを作るかという技術を使うことである。
技術として単純に全て割り切ると、
感性が秩序を生み出す美しさがなくなる、そういったものは技術ではなく芸術の類とおもわれ
ただ、見えないところを作るという類を"始めて"対話する過程では技術は重要だろう。
経験者となった後に技術だけというなら、全てを計れない技術依存者にやってくるのは
完全なる白紙の壁、命題のない結果の目的、空気を上るという階段、
0746考える名無しさん2017/09/04(月) 01:28:20.380
自称哲学者に多いよね。
完全なる白紙の壁、命題のない結果の目的、空気を上るという階段、だけの人って。
0747考える名無しさん2017/09/04(月) 09:15:02.160
>>746そこまでは哲学者ではなく思想の段階だからね。
しかしそこから、道徳的な方向(信仰系)か科学的な方向(学問系)に
脚色されていくのが自称哲学者
0748考える名無しさん2017/09/04(月) 16:13:27.380
先人の知性を吸収して、次にその知恵を利用して自身のやりたいことに活かし、これら知識を整理するのが、哲学者科学者の仕事です。知識を知行に翻訳することができれば殿堂入りです。高知能であれば、全ての工程をスキップできますが、成功するとは限りません。
0750考える名無しさん2017/09/04(月) 23:51:39.530
北朝鮮や中国に自称哲学者がいないのは社会主義共産主義国家にとって重大な損失です。
0752考える名無しさん2017/09/05(火) 10:43:42.630
整理しても生み出せなければ、歴史にすぎない
0753仁王2017/09/05(火) 10:59:13.960
真理の光の正しさは、高次なる認識の人時所により、
多様な光の正しさとなっている。
0757Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/05(火) 19:55:08.680
思考と言うものは、おうおうにして二極にふれるものだが、その中間をとり、バランスをとり続けるという思考、行為は
いいものだ。生理的な身体の制限を持たされている、そして、ネットワークは偏ってはならない、ということから、
二極の間にあるということは、人間を安定させ、生きている実感をもたらすものだと言えよう。なにせ、二極の間
を取るということは、それ以上に向上の余地を押し付けられたりはしない行為であるからだ。どこにもないものを、
仮象としておくのではないし、どこにもないものを必要としないのである。それは、永遠の探究ということに、しがみ
つかなくてもいい、という思考であり、行為である。そして、何かに目隠しをしてしまうこともない。全ては、自らが
関わりながら、否定することを至上としない、目隠ししない。目隠しとは、否定のことであり、愚かさを進んで
引き受けざるを得ないという思想上の制限のことである。つまり、段階を経ることではない。今自分が悩んでいること
について、考えるとき、その悩み自体の内容を解決するというよりは、悩み方についての方法なのである。
どこかおかしいと考え続けるものは、経験によって解決をもたらされることはないだろう。思想の意義は、
社会の中にではなく、個人の中にあるのである。そういった思想は、他者を使うことに積極的な意味を見出す
のではなく、自分を使うことに積極的な意味を見出そうとするものだ。それは、言葉によっているのではなく、
感覚によっており、得ることよりは、生きることに、光を当てる。欲を制御することが、なぜ必要であり、
なぜ良い生き方であるか、ということが、自然にわかってしまうのである。
どちらを取ればいいのか、ということではない。どちらを取ってもよくなかった、ということなのである。
死まで歩むのは辛い。死によって得られることは少ない。何も助けてはくれない。
では、そのことを、耐えられるようにすることだ。二極の中間をとるということの、実践によって、
辛さは軽くなる。そしてぶつぶつに切れない人生が、一つの状態において、まとめ上げられるということ。
そういう編集機能が、個人の中にはある。その編集のしかたがおかしくなってしまっては、より辛くなる。
何かを求めないことにこそ、行き当たりばったりでいいという良さがある。重荷を下ろす楽な状態。
0759考える名無しさん2017/09/06(水) 10:30:24.720
思い心から生まれるものは正しい、だが率直に言葉にすると歪む、
本質から遠ざかるだけである、
言葉に表すとき意味を重視すればするほど、言葉は心の現れの思いではなく
整合性のある意味を作り出す、言葉は独り歩きするものだ。

掴みどころの無いものを掴むには、掴もうとするのではなく掴んでもらうのだ、
そういう上る技術をフリークライマーは語る、
それは掴もうとすればするほど力をいれるほど意味にしようとするほど、
向き合う対象との相性が悪くなるということ、喧嘩をするときは相手もけんか腰にならないと
強い掴み合いにはなりえない。
0760Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/06(水) 11:26:28.200
>>759
言葉にするという行為は、直観を含まない場合、多くは歪んだものになるでしょう。何かを考えることは、
何かを自己が選別するということに、なってしまうのかな。自己を投影する対象は、煎じ詰めれば、自己との
相性がいいものを選ぶしかない。その相性は、自分をわかってくれるもの、あるいは自分が自分自身を
発見し、実現していく上で、未来というものを現在のところ考えるところ、協力できるということを、
夢の中で描きたいものを、現実において選んで、実現することであるでしょう。
つまり、行為の中で考えが伝わり、伝わったことの中から真実を見る。現実に見れる。

何もかも同時に幾つかのものが混ざる状態について、懐疑的になるならば、文字判読、思考、イメージ、
言語化などの、いくつかの行為を、混ざらない状態でやっていくことに、真実があるのだと思います。
混乱の中から拾い上げたものは、何かの特別なものであるとは言え、自分が生きるといううえで、
掴むために、協力をする、この協力関係は、自己の中にあるいくつかの能力と、他者の中にある
いくつかの能力、それらを、共に活かすということができるので、自他の境界は、行為における協力
による場合には、存在があまりなくなる。そのような協力は、文化的作品の、テーマとして、しばしば
表れる。

自己の、力と、意識的に持っている方法には、個別の生き方として、質的なレベルはいくつもあるが、
結局本質は、それ以上の本質に包まれることによって、非本質的なものの中にもある、本質、
ゴミくずの中にある本質、つまり、劣等性であるのにも関わらずそこにある本質、つまり、仏性、
方程式の形に表わされることが難しい、ゴミゴミした夾雑物の理解、そういったものを、捨ててしまわないことも、
考えるべきである。つまり、自己を構成しているものの中には、意識下にある複雑なゴミゴミしたものが、
存在していて、それらを切って捨てることはできないからである。

つまり、本質を抹消と交換可能にする何かの術や思考を、得られることで、さらに次元を上がることが
出来るのではないか、有限と無限の中にあってそれを救われるような方向へ展開していきたいと
するならば、交換の術を、あみ出すべきである。
0761考える名無しさん2017/09/06(水) 19:57:56.520
だが言葉をつかい、言葉で歪めずに表す方法がある。
それは意味を扱わないこと、意味として表現すれば必ず歪む。
0762Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/06(水) 20:12:23.790
>>761
美しい言葉の響きを表現することでしょうか?それとも、意味に代わる別の、もの(あるいは概念)が、あるのか、
印象を与え、どことなしに外側から浮き彫りにするように、直接的な言及を避けようとすることか、
それらの三つ考えられたものは、どれもいいものには思えますが。
0763おね2017/09/07(木) 11:09:53.380
宗教団体に取り込まれてしまった不動明王は、
右手には正義の銀貨を握らされ
左手には不義の荒縄を掴まされ、
充てがわられた粗岩に坐したまま、
電波すら届かない虚無宇宙において、
高次元なる真理の烈火であぶられ続けていた。
0764考える名無しさん2017/09/07(木) 16:12:07.170
フリークライマーは、つかみ所のないところを上る技術をもっている、
それは掴むのではなく、掴んでもらうのだ、岩に体をあて、岩に体を支えてもらう。
意味も同じ、意味を表現し言うはなく、それによって意味が生まれること。
0765考える名無しさん2017/09/08(金) 14:24:08.210
>>754
0766学術2017/09/08(金) 15:04:47.560
👑卜い ダイアモンド ★
0767考える名無しさん2017/09/08(金) 15:08:47.260
運子
0768Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/08(金) 16:10:57.320
本を読んだりするとき、気をつけるべきなのは、自分が間違った理解をしている可能性に気をつけて、考えて
間違っているなら、もう一度考え直さなくてはいけない、ということだ。さらに、本の内容自体が間違っている
可能性もある。世界についても同様だ。この青空と雲と緑の地球自体の存在が、完全に誤っている、
という可能性があるのである。
自然科学などといって、自然は絶対であると思ってしまうが、その自然自体の意味が、おかしいのではないか、
と反省しなければならない。
誤りを認め、もう一度正しい自分になるために、一度、疑う、間違いを正すといった、当たり前のことを、
していく必要がある。
0769おね2017/09/08(金) 17:27:31.450
>>766
金剛石よりもオリハルコン、と同じく、ドゥルーズ(ガダリ)よりデリダ、の方が本物の哲学者な感じです。wikiなどを読んだ感想です。
それと、◇でなくて★がよかったんですか?
ホワイトニング・ダイヤは、しょせんただの石ころです。が、持つ人によって、何があってもアンブレイカブル、かつ、物によってはトランスペアレントになります。
ブラック・スターは、カウンティングできないほど天にはたくさんあるのでしょう。目利きであっても目が潰れるほどキラキラしてます。
0774考える名無しさん2017/09/09(土) 14:19:31.350
>>769
バカにはムリw
0777考える名無しさん2017/09/09(土) 16:41:34.040
>>771
で、何を何とかすべきなの?
0778考える名無しさん2017/09/09(土) 17:09:03.940
>>775
宗教団体に入ってないと悟れないでしょ!
0779おね2017/09/09(土) 20:48:14.900
>>771
何かご用ですか?
0780考える名無しさん2017/09/09(土) 20:54:51.400
>>766
「自分で何とかするべき」などと茶坊主が小突いてる、よ。
0782考える名無しさん2017/09/09(土) 22:06:49.800
>>766
他力本願を掲げる宗教団体の信者なら、悟りも他力本願でいいでしょう。失態するような茶坊主など確かにどうでもいいです。
0783考える名無しさん2017/09/09(土) 22:40:59.590
              ,. -‐  ̄ ̄`  ̄ ´        ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ._,{ 、,i !  諸行無常 諸法無我
          __.. -/       ,..            /        `ヽ、
      , -‐ ,.´-─./     /:. . .            / ..__ / !     `ヽ ヽ クゥクゥ クゥ 空
    /,.-‐´  _r‐'   _,ノ: : : : : : : . . . . . . . . . . .(_  `丶、ヽ、   、__,ス ,)
~~ ̄/(三,. -‐ ´ /  ,.-‐ ´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`丶 l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
~ ̄i l゙´  ̄ ̄ / ,/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ し,j ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 . l. !     / / 女のスカートの後ろに隠れ手を出す名無し、粘着コテ、妄想(もうぞう)は荒らし確定 
 . ! |    (, ,,/
  ! ,j   2chの鉄則(おやくそく)とは 【荒らしはスルー(無視・放置)・あぼ〜ん・透明あぼ〜ん】 しましょう。
  ゝ、ノ
      ● 荒らしは放置されるのが一番の苦手です。
        → ウザイと思ったらそのまま放置!
      ● 放置の荒らしは焦り、煽りや自作自演、PCスマホで多人数を装い、あなたのレスを誘います
        → 釣られてレスしたらその時点であなたの負け、あなたが荒らしです!!
      ● 反撃は荒らしの滋養にして栄養であり、ヨダレを垂らして最も喜ぶことです。
        → 荒らしにはエサを投げ与えないで下さい!
      ●荒らしは語尾に w をつけてあおる特徴があります。
       → 問いに問いで返す脳無しで、裏の小藪に捨てましょう。
      ●荒らし・粘着にはスルー・あぼ〜ん・透明あぼ〜ん・が推奨です。
        → 無駄レス連続のどたわけは放置。
      ●荒らしは自立できず、もたれかかり、ストーキングする
       → 放置プレーで共に楽しみましょう。
      ●無いものを有ると思い、有るものを無いと思う、これが顛倒(てんどう)、妄想(もうぞう)です
       → 公案の答えは無尽蔵、己だけの答えを出せ
      ●枯死するまで孤独に暴れさせておくのが一番です。
        → ミイラ化です、放置、風化させ、土に戻しましょう
0784考える名無しさん2017/09/09(土) 23:08:26.110
で?

何か言いたいなら書き込めばいい、なんでかけないの?
0785美魔女2017/09/09(土) 23:09:24.820
今、人から
太ったな!って言われた(;_;)ぁ
0786考える名無しさん2017/09/10(日) 05:24:32.320
>>766
バカにはムリw
0787考える名無しさん2017/09/10(日) 08:44:12.350
>>766
「自分で何とかするべき」などと茶坊主が小突いてる、よ。
0788考える名無しさん2017/09/10(日) 11:14:03.380
>>766
他力本願を掲げる宗教団体の信者なら、悟りも他力本願でいいでしょう。失態するような茶坊主など確かにどうでもいいです。
0789考える名無しさん2017/09/10(日) 12:24:33.110
阿弥陀様が救います✨
0790考える名無しさん2017/09/10(日) 15:53:32.290
>>783
ほれ、そこの、☆おにいさん!コールが入ったぞ!
0792考える名無しさん2017/09/11(月) 07:41:26.250
>>771
おまえは自分で何とかするべき。
0793考える名無しさん2017/09/11(月) 10:48:08.720
>>791
何を?!
0794考える名無しさん2017/09/11(月) 11:25:42.240
>>791
かわいそうだろ、天然は自分で気がつけないから天然言うのよ
そして具体的に説明するほど、絶対に認めないから、
0795考える名無しさん2017/09/11(月) 11:53:02.190
自分が理解できない事象を奇跡として認める連中は、不十分な悟り故?
0796考える名無しさん2017/09/11(月) 14:07:42.580
馬鹿には無理。
07977872017/09/11(月) 14:35:31.110
誰か助けて、自分でどうにもならないの
0798考える名無しさん2017/09/11(月) 14:39:02.530
俺は上から目線が嫌いで、他人を妬んでばかりいるヒキコモリだけど、
3行以上の発言ができない馬鹿なのよ、だけど自分は馬鹿ではなく高学歴、
内容のある高尚な発言をみるとつい一言書き込んでしまう。
0799考える名無しさん2017/09/11(月) 14:55:55.930
>>754
0800考える名無しさん2017/09/11(月) 15:35:52.090
     _,,;::-―ー-:;:,,、
    /''''''   '''''':::::::\  
    |::-=・=-;;;;;;;_-=・=-:::|       
    |  .:"ー=〓=-'`:::: |         
    \   `ニニ´ .::::::/   
 ,,.....イ.ヽヽ、ニ__ ーーノ゙-、.
 :   |  '; \_____ ノ.| ヽ i
     |  \/゙(__)\,|  i |
     >   ヽ. ハ  |   |
  
俺の経歴を簡単に紹介しておこう。
東京大学大学院数理科学研究科博士課程を数年前に修了し、
今は某大学で准教授をしている。哲学板にはよく行くよ。
たぶん哲学板住人がよく言うキラリと光る発言とは俺の発言がいくつか含まれているだろうな。
実際、俺は哲学初心者にマジレスをしているし、
哲学初心者からすれば「キラリと光る発言」と見られてもなんら不思議ではない。
言うなれば私は、私の天才的知能により誰もが持っている「内なる世界」
とでも呼ぶべき世界を、常人より遥かに優れた形で構築してしまっている。
その世界は既に外界のそれに迫り、一部では遥かに凌駕してしまっている。
0801Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/11(月) 16:18:00.280
単語を一つ一つ考えることはできるとしても、単語同士の関係を考えるのも、単語と同様に一つの考えである。
関係を考えることも、単語を考えるのとと同様に、一つの考えの単位である。イメージを浮かべる場合、全体
として一つのイメージを思い浮かべることもいいが、そのイメージを構成する要素について、反省することが、
一つのあがきである。自明性を失った自分が、昔どうやっていたか、ということを、思い出すのは困難で
ある。現在の頭の状態が、正しく使えるようになること、そのためには、言語と記憶について、しっかりとした
理論を持っていることが、足掛かりになる。それこそが、正しい思考をすることを望み、あふれるほどの意味が
しっかりと自己を充実させるような状態にないものが、哀しいまましがみついた混乱が、自らの潜在性
によって、いつかはたどり着くことのできる状態へ、だんだん近づいて行く不離不即なる自己と自についての意識、
即ち自明性によって考える必要もなく分かる状態へ行く探索である。
健全なるものが健全性の表現として、思考を紡ぐ。非健全的であるものが、非健全性の表現として、また健全
への渇望を常に感じながら、単語同士の新しい関係を思いつくことが出来れば、その中には注視すべき何らかの
ただ一つであり、皆が感心するような、本当の創造を、為しえることが、たまたま起きることがある。
その先には、健全に近づくための、う回路について考え、生きてきたという、独自の生き方や考え方が、
新しい考え方への一つのアプローチとして、少なくとも自らの中ではそれを捨て去るべきではなく、感情と
卓越の境地を目指そうとする、誰もがやっている思考、行為の、新しい道を通る先鞭を、持っているはずだとして、
注目すべき点は注目し、受け取るべきことは受け取るべきである。失われた普通には、哀惜の念を持つ。
自らの生き方について、前向きに生きようと考えられるようになるきっかけは、何かあるはずである。
苦痛はどのようにも避けられない。不快は不快の原因を解決すればよく、どんな不快も、必ずいつか、
乗り越えられる。文章がきっかけを与えるのは、不安や不幸を逃れたいと思うものの、願う、脱出口である。
人間が幸福になるために、変わるべき境地は、物事についての、一つ一つの理解である。
0802考える名無しさん2017/09/11(月) 17:52:57.520
415考える名無しさん2017/09/11(月) 07:04:25.350
0b11110111111
0b10100000111
0803考える名無しさん2017/09/11(月) 18:36:25.670
>>801

795考える名無しさん2017/09/11(月) 11:53:02.190
自分が理解できない事象を奇跡として認める連中は、不十分な悟り故?
0804考える名無しさん2017/09/11(月) 20:07:42.230
>798

905 名前:考える名無しさん 2017/09/11(月) 08:50:42.24 0
>>899
愛のない言葉を語り続けるなら、コテつけてやってもらえます、ね?
0805考える名無しさん2017/09/11(月) 22:28:32.200
>>798

905 名前:考える名無しさん 2017/09/11(月) 08:50:42.24 0
>>899
愛のない言葉を語り続けるなら、コテつけてやってもらえます、ね?
0806考える名無しさん2017/09/11(月) 23:20:41.360
>>798
東京大学大学院数理科学研究科博士課程終了程度の学歴じゃ「キラリと光る発言」なんて馬鹿すぎて書き込めませんよね?
0808考える名無しさん2017/09/12(火) 12:13:11.540
自己愛とは、常に主観的に自分と他者の関係を見る思考から抜け出せないこと

仏の心を持て。
0809考える名無しさん2017/09/12(火) 13:58:08.140
>>808
仏の心なんて持つ必要ない。
愛されるということは憎まれることだ。
0810考える名無しさん2017/09/12(火) 14:08:13.840
いつもより怒りの感情が湧き上がらないのは、この人は遠くに飛んでいって小さく見えなくなって自分の前から消えるなんてことは、想像つかないからだな。
0811考える名無しさん2017/09/12(火) 14:10:25.500
これを勘違いされたら困るんだが。笑
0812考える名無しさん2017/09/12(火) 16:27:24.760
>>809
ドパミンの塊りめ、
0813考える名無しさん2017/09/12(火) 16:28:13.270
>>810
>いつもより怒りの感情が湧き上がらないのは
感情を行動の原理としている病気
0814考える名無しさん2017/09/12(火) 16:29:24.060
>>811
何がしたいの?何がいいたいの?
だから早く言えよ、ごちゃごちゃ意味不明な発言しかできないお前って何?
0815考える名無しさん2017/09/12(火) 19:55:33.230
とりあへずあげとく、
0816考える名無しさん2017/09/13(水) 00:11:41.050
>>806
え?
0817考える名無しさん2017/09/13(水) 00:13:31.800
>>788
お子様の発想だよ
0820考える名無しさん2017/09/13(水) 08:41:36.620
狂気を活かすと狂気が膨らむ、
混沌の正しさは混沌であって、秩序ではない。
小さなかけらを肥大させるには、自分を否定できる強い意志が必要、
誰かが与えるものではない
0821考える名無しさん2017/09/14(木) 21:38:30.850
>>1
0822考える名無しさん2017/09/14(木) 22:03:25.990
殺されます。
0823未知草2017/09/15(金) 10:54:40.270
作用あれば反作用。

善因善果、悪因悪果。

悪を捨て、善を取ること。

知識で知っていても善因善果の実践が伴わず、
善を捨て悪を取ることになるのは、自らの心を穢し粗末にすることになり、
他の人の心も穢し粗末に扱う。

テイク&テイクの近視眼的地獄の利欲より、感謝からのギブ&テイクの方が
天国の見返りの方がよい。
0824考える名無しさん2017/09/15(金) 11:08:12.570
"縁なき衆生は度し難し"。
0825Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/15(金) 21:43:37.370
「見る」という言葉は、もっとも一般性のある思考の能力の、実現結果とその過程を表す言葉ではないかと
思う。小平邦彦『怠け数学者の記』のなかに、「数覚」ということが書いてある。数を、感覚、感じで、とらえられる
能力、感覚を言い表すような言葉である。
見るということについて、何が見えているかということを、明確に意識していない場合があり、その場合には、
至急「見ること」の健全な状態を取り戻すことが肝心だ。
そして、脳内のイメージを、一分に一度くらいは考えているものではないか。それを、「見る」に属するものだと、
考えるのが良い。
そして、人の心が見えてしまうということは、結構あることである。それは、表情を読み、全ての必然を判断することであり、
直覚し、どうしてもわかってしまうことだ。
だが、見るということ(またはある種の感覚によって知覚すること)は、統合的に自分の能力を働かすうえで、
最も高機能で、融通の利く便利な機能である。見ることは、考えとは独立してあるため、行き詰ることが
少ない感覚である。
悟りに合わせて考えると、人間が破れてしまうまでの間、苦しみにさいなまれ、虚しさに心が苦しくなる。だがそれは、
見ることによって、悟りの状態(考えが一つ所にまとまっており、苦しまない行為が実現された場合に、安心し、
そしてまたいくらでも、苦しみを訴えかけ、正直に表せる、というようなこと)は、一つの感覚として自明に
見えるのであれば、そのとき人は生きてよかったと、赦されるのではないだろうか。
0826考える名無しさん2017/09/15(金) 23:48:29.260
木を見ないで森を見よって口癖だった数学の塾講師を思い出しました
0827考える名無しさん2017/09/16(土) 12:01:10.100
つまらん。
0828考える名無しさん2017/09/16(土) 16:05:11.540
>>827
つまらないスレへの粘着って楽しい?
0829Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/16(土) 16:38:54.510
過去の出来事の記憶は、今からは変えられない。だから、「運が悪い」という実感は、一番堪えがたい
苦しみである。
だが、それは、改良の余地がある。
例えば、コップに半分水が入っているのを見て、「もう半分しかない」と思うのと、「まだ半分ある」と思うのと、
二通りに捉えられる。
こういった考え方は、過去の記憶に対して強力に働かせられる。
例えば、ある人が自分と話していて、その人は過去に自分に嫌なことをした人だったとする。そして、その話は、
自分との会話であったとする。自分は、その人を嫌っていたはずなのに、会話をしてしまった、つまりやっぱり
自分は、自分の思いを貫けず、負けたようなきがする、運をうまくつかめなかった。と思ったとする。
だが考えてみると、向うだって、自分に対して嫌なことをしたと思いながらしたのではなく、結局自分が悪い
気持ちになったという事実のみが残された、というのが事実として考えられて、過去と今が微妙にずれていた、
ということを見て取れる。すると、過去のわだかまりは、その会話によって消えるということになる。
まとめると、過去の記憶は気持ちが悪くても、その時の会話で、過去を考え直せるという事であったということ
なのである。勉強になった、という自己への利益のみが残る。
このように、過去は変えられないけれど、その捉え方は、変えられるのである。だから、運が悪いなんて思いこむ
ことは良いことではない。考えてみれば、どんな人も負け続けるばかりであるはずがなく、自分の思い込み
を晴らすというような、執念を、一度くぐってしまえば、あとは解釈の能力の上達がもたらされる、そういう、
決定的な悟りに、あずかることが出来る。
このように過去は絶対ではない。現在も未来も絶対ではない。解釈と幸せは、等しいことなのである。
解釈によって幸せになる、事実は人の中で、気持ちに包まれて、温かくある。許せないということは、自己の偏見、思い込み
であり、過ちであるのだ。何一つとして、こだわらなければならないことなど、存在しない。
0830考える名無しさん2017/09/16(土) 21:36:12.440
>>827
つまらないスレへの粘着って楽しい?
0831考える名無しさん2017/09/16(土) 22:17:46.820
>>827
つまらないスレへの粘着って楽しい?
0832Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/17(日) 16:25:08.750
近視では焦点が網膜の手前で結ばれてしまう。しかし注目したい事実は、左右の眼において、二つ独立の焦点が、
合わせられているということである。すると、目のコリは、左右の眼の焦点合わせを、無意識のうちに絡み合わせて
行ってきたということの結果であるかもしれない、と仮説を立てられる。このことは、獣医さんが、左右の眼は
独立して動くはずなのに、と仰ったことから、医学的にもかなり確かな問題であると思われる。目の不快感や、
口の中の不快感、酸素不足で息苦しい、さらには不安で胸が締めあげられる、というような、色々な病状に
関わってくる。左右の目の独立を思えば、何となく楽しい気分になる。つまらない目の病気などに負けてはならない。
網膜は確かにあって、目の外側や中側から常に光を取り入れて、独立して処理を行っている。それをうまく司れる
ようなしがみつきなどが、混乱した苦痛の中で、光を放つ。どんな人にも当てはまるような療法であるかは
わからないが、とりあえず、左右の独立については気をつけていきたい。
0833考える名無しさん2017/09/18(月) 15:42:38.990
物を見、物を聞き、物を触り、など人間に与えられた感覚器官を操り
正しく機能させれば見ようとすることはできる。だが、見えないものはどうか?
見えないものを見れば幻想になり妄想となる、どんな技術や技巧や技法、高次元からの
接触、自分の意志で見ようとすれば自分が見たいもの現れる、それが人の行為で感じるということだ。
感じ得ないこと、感じ得られないと定義されたもの、
それは感じることで得る類ではない、目や耳を塞ぎ暗黒の感覚の中から自我を閉じ深い瞑想に達し
て経験や体験や知識から得る知もそれは自我の延長線という抽象的な知だ。
0834考える名無しさん2017/09/18(月) 15:43:27.570
知ではないもの、それは妄想と幻想の深い抽象的な世界から生まれる可能性だ、
知では非ずと書いて「非知」、何も感じ知り得ようとしないとき訪れる無意味の混沌、
それが偶然を知らせる、ノイズとしてしか聞こえなかった何かが意味を成す、
木を見るのではなく、森を見よではなく、そこに潜む魔物や妖怪を見るということ、
それは意味ではないし、知識でもない、何かいるというざわめき、
何もない森から底知れない得体のしれない力を知る、何か分からないままと認知すればそれが正解だ、
何か形のある姿や名前や生活観や顔が見えればそれは間違い、違和感のことだ。
0835考える名無しさん2017/09/18(月) 15:44:19.770
それほど言葉に表せない感覚を現実の中に見出す術、
その術は森に気づき、森が導くランダム模様である、それは雑音にすぎないが、
雑音といえど何かの関係である、雑音といえど手を加えることで特徴のある雑音になる、
理解しえない雑音を、受け入れられない雑音を、雑音を味方にする非知の術を知りたまえ。
雑音と友達になれば、雑音は雑音でなくなる瞬間がくる、それが非知の術だ。
0836考える名無しさん2017/09/18(月) 15:51:22.850
瞑想は精神を落ち着かせ思考しないこと、脳を休めることではない、
集中して世界と仲良くなる、つまりバランスという平行感覚を得ること。
知りえないものを知ろうとすれば、無意識下の心が揺らぎ、バランスを失う。
絶えず揺れ動きリズムがない1日続く地鳴りのようなもの、それが世界のことのありかたである。
世界と我が1つになったとき、無意味な雑音は世界の意味をなし、我は世界の意味となる。
自分が努力や修行の果てに目標を掴み取るのではなく、自然に世界が与え勝ち取るということだ。
これはあなたに与える言葉でもなく、その他の人に与える意味でもない。ポエムだ。
0837考える名無しさん2017/09/18(月) 15:53:23.610
ポエムにコテハンも理解も説明も不要である、
たんなる響き、ランダムなノイズである、知らないのも然り。
0840Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/18(月) 17:03:01.510
>>836
理解に努め、知りえたことだけ、を強いて記憶するのではなく、理解しないままに意識にとどめ、その集まりが
一つの内的世界として、現れるべきなのである、というようなことでしょうか。人間の脳のタイムラグと、
不完全性からは、そのような術を使い、囲い込む必要があるのだと思います。直接理解できないこと、
頑張ってもわからないこと、それらは、知るのでなく、保存するということで、後々まで伸ばし、
調和のための一つの道具として働かせる、ということ、つまり、全てを知りえないなら、そのことは、
全てを知るべきではないと捉えるべきである、と言う風に。

長くなったので、直観だけをしるしますと、感覚が逃すことは、よくあることであるから、自己の秘密は、
どこかたどり着くべき場所を望み、全ての人はわかり合えずに別れていく、という、感覚的自己と
行動的自己が、共に責任を負いあって、未練に心を与えることは、根性ですべてを前向きに変えていく
べきである、と言う風に思いました。
0844考える名無しさん2017/09/18(月) 17:40:11.860
光がほしければ魂の歌を唄え、
送じゃなければ求めよ、さすれば与えるそれが闇の力だ、支配下になりたいなら求めよ。
アドロック・サーストンの言葉を忘れるな。
0845Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/18(月) 22:49:03.280
文章の冒頭や終わりには、大して重要な情報は込められていない。文章の本体を知ることが重要だ。
思い出す時、冒頭や終わりを正確に思い出すのは難しいが、中間で語られていたことを思いだそうと
すれば、比較的簡単である。悟りにおいても、生まれや死には、重要な意味はない。その間にある
生をどう生きるか、それこそが大切なのである。分かることは真ん中にあり、自由になるのは真ん中にある。
それをスキップすることは、生自体に対する否定的な感想によるものである。だから、本体において、
魅力や楽しさが、あふれているとすれば、だれも進んで死のうとはしないだろう。苦しみの中に意味を見つけ、
思い出すことだってできる。瞑想に入って、瞑想をし、瞑想を終わる。この中で、瞑想をすることが、
意味がある。何事も、自由がある個所こそ、始まりの儀礼と、終わりの感謝、の間なのである。
恐ろしい入門体験のみを、語ろうとしたり、自らにおいてもこだわっていてはいけない。
本当に意味があるのは、生の真ん中なのである。
思い出すことが難しくないなら、きっと生きていけるだろう。思い出せないものにとっては、生きることは地獄の様に
つらい。だから、生きること、考えること、悟ることに対する手はずを整えようとしたのが、この中間説なのである。
0846Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/23(土) 19:54:50.270
純粋に身体的な事だが、呼吸にはコツがある。思えば、真向法やストレッチの本などに、息を吐きながら行え、
吸いながらや止めながらしてはいけない、といっぱい書いてある。その理由がわからず、考えてきたのだが、
やはりそれらの本は正しかった、と今は認める。
つまり、喉の感覚を会得することが重要だったようである。吐きながら、喉の感覚を確かめる、吐きながら、目の感覚を
得る(上下に目を動かしたりすると良い)。これらのコツは、一瞬で多くの苦しみを軽減するものだ。永遠に続くような
呼吸の邪魔しない時の中で、どんな夢を見れるのか。
0847Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/23(土) 20:23:57.880
頭の中に浮かぶ考えは、旅のようなものである。だが、行きつくべきところ、答え、親和性の高いものは、もちろんある。
それを考え、求めればいい。だが、全ては旅の途中であり、絶対と言うものはない。絶対の答えは自分の中にあるはずも
なく、ただ性癖のみが、強迫観念の形であれ、具現化している、それは、すぐ納得、感覚できるであろう。
死の理に反した絶対と、生の理に反した捻じ曲げは、しない方がいいのである。いつからか自分のものになった何かと、
自分の性癖について、それぞれを大切にして、生きればいいのである。
考えるということはいつも中途であり、いくつかの記念碑を過ぎてきている。何の苦しみも、答えにすることはない。
望むものこそ答えとして見て、他者との食い違いを、自然と見よ。旅人にとっては、答えが重要なのではない。
答えを望むことに、自然な楽があり、消えていくものへ拘泥しないことに、悟りがある。
死ぬことと生きることが、まったく交じり合わないものだとしても、それが、答えと中途という、考えを二分する
ところに、現実的に体現されているようなものである、という理由をつけて、これは無上の悟り、理法であると見られる
のである。
自らの欲求の具現であり、自らが自然に望んできたところの答え、と、自らが生きているときの、弱点であり、柔軟性
でもある中途の二つは、それぞれに人に与えられている、楽しみの根源なのである。
0848Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/24(日) 00:52:05.080
今見ているものが旅の景色だ。今考えているのが、途中だ。最後の答えを出そうとする、必要はなく、
全ては意味がないように思えても、過ぎ去ってしまうという生の寿命によるから、そう思えるのだ。
旅人は、決して旅を抜け出ない。人は決して考えを超えない。もし超えるとしたなら、それは、記念碑を、立てられた
ときの話だ。いくつかの名誉は、誰しもが作る。
旅人は他者に期待しすぎない。自らにも、過大な要求をしない。なぜなら、その要求は、旅の途中にある自分の、
必要としていたものを、為すのだからだ。必要性ということは、後ろからやってくるのであり、前に追いかけたり
はしない。できるならないほうが良いことだ。だがもちろんそれは、別のものを一緒に処理するチャンスとしてもよい。
旅は終わるか?終わらないか?逗留する地は、どんなものをそこに蔵してあるのか。それを知ることも、
旅のだいご味である。旅する人に、道連れがいてもいい。皆そのように、関わってきた。それを受け取ることが出来る
とき、自らの器と、経験と、機転が、そして注意力というのか、あるいは何かの感覚(心?)というのか、
そういったものが、愛というようなものを、人間の間に作り上げる。
束の間の楽しみに、みんな気づいていく。穏やかな気持ちでテレビ番組を見たり、料理や趣味に打ち込んだり。
そのようにして、家の中にいるようであっても、その「実際の景色」は、「実際の旅」であるということを、言いたいので
ある。仮想によってたてられた論は、新しいものであることもあるだろうが、自分の考えた(もちろん自分でという
ものであり、自分にとってオリジナルであるのであり、後追いであるかどうかとかは問わない)答えを、
しようのないくらい、欲しかった答えを、「現実に思う」(我思うゆえに我あり)、そこには人同士の戦いも、思想の対決も、
必要がない。答えについて争うことは、もはや本質的でない。避けることが、仏教的には、
まず思うべきであり、現実を奪い合う洗脳などといったものからも離れている。
感情のいざこざは、旅人の切る仁義によって、なくされた。死への不安も、喪失の不安も、だんだんと
失っていくことを、必要と見なければ、その中にある意味、それを受け取ることがかなわない。
0849謎のポエム2017/09/24(日) 14:45:43.920
想いを載せ小さき言葉を重ねろ、詩を躍らせ、唄が弾ませ、歌が満ちるように精霊が唱う言葉だ、
理解するのではない、世界がひらめき、それを受け取り涙がでれば、それが言葉が到達したときの
感謝の扉が開く合図である、『魂』のさえずりである。
0850よぞらの星はランダム2017/09/24(日) 16:27:17.800
大事なのはどの尺度、どの側面、どの次元からみても
対称性、調和、バランス、均衡が取れること
これの乱れを感じ取れること、何かが正しと思えば絶対に感じることはできない。
全てはそのバランス類を守る能力に依存している、だがそれは平均をとることではない。
まったく違う値であってもバランスが取れるのが現実の調和、対象性だからだ、
全体で1つの和を描けば、より強い力程その和から抜け出せない、和の支配とはそれほど強い
和から抜け出せないということは、和を保つために和の歪みを補正する力を和の一部が故意に乱せば
全体の大多数の主体となれる条件も一部が作れるということ。主体の逆転現象がある。
一度共振状態に入ったら、大多数の主体は、その主体の和を乱すことはできなくなる法則だ。
バランスをとり対称となる和を描くことで、個は全であり、全は個になる。
という夢をみた
0851Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/24(日) 17:29:46.800
>>850
とても美しい夢ですね。野心や信念は大切でしょう。僕は楽器を演奏する夢をよく見ます。
そして、起きているときにも、夢の中のような非現実的な美しさを、例えば夕日に感じたりします。
息に呼と吸があるように、現実と夢は、交代に現れます。夢に習熟するものは、現実にも習熟し、
心の中に夢を描く人は、人に語ることがたくさんあるものだと思います。
一度平衡を無くしてみると、まさに感謝の心を持つことが、たやすくなります。山に登る体験が、最高ならば、
失敗の経験から、学ぶこともたくさんあると思われるでしょう。
あなたのお考えの背後にあるものを、考えるのですが、たしかに、この世を掴むには、とても少ないもの
だけで、十分であり、本質的なものを、捉えるだけで、単純な法則だけで、ことたりるもの。
単純化されることと、ランダムがランダム性を持つこと、その二つは、不思議に相性が良いように思える。
あなたの夢の現象を作り上げている初期条件と、本質的な事態、それを解いてみたいと思うのです。
0852Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/25(月) 12:45:56.070
頭の中で文を読むとき、その音はどこにおいて鳴っているのか、ということを、しっかりと考えよ。
触覚なども同様である。首の骨をひねったり、手でものに触った時、その感触がどの位置で感じられるか、
知り、意識せよ。
視界を持っている自分はどこにあるのか、視界の中心はどこか、それを、知り、意識化せよ。
脳で思い浮かべるイメージも、それがいったいどこに位置しているのか、していないのか、と知り、意識し、位置を追え。
0853Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/25(月) 13:09:34.710
頭で作るイメージにおいて、そのイメージ界が、視界の全体(読書なら本の字)を、写し取るように、目にプラスした
もう一つの視界を自らに得よ。
0854ほーりあっぷ2017/09/25(月) 17:12:52.460
イメージするときは みかん集中法をしたあとイメージしろって、誰かが言っていた、
0855Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/25(月) 23:41:39.570
文章などを読むとき、理解するには、自分の中の記憶の、目の前の文と同様な記憶のかたまりと、関連付けて
考えると良い。大人らしい知恵だ。
記憶に結び付け、知識が増える。体験が増える。頭の中には、その文章と関わりの深い記憶が、あるはずだ。
その記憶がもっともっと豊かになっていって、知恵がついてくるものである。
たとえば、夜おなかがすいたとき、それを我慢するには、我慢した体験に照らし合わせ、食べなくても平気であった
という経験の中におなかがすいた気持ちを、付け加えるとき、その記憶がまたもっと豊かになる。
簡単な言葉で言うと、それは、「学習」である。
一足飛びに物事を発明できる人間は、大変稀であろう。
だから、関連した記憶を考え、それであれこれ考えることを身につけたとき、考えることの楽しさと、益が、
自らを祝福してくれるのである。
0856Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/26(火) 00:40:52.150
自分の中の差別的意識、人を攻撃することの本能、それらを使うように直覚的に考えてしまうこと、これは
仕方がない。もう一方の、慈愛と寛容、励まし、協調、自己犠牲意識といったものを、考えるべきなのである。
人間の差別意識は、一つの人格があるなら、その中に必ず存在している。では、私は本当に、差別をすることで
すっきりするのか。思考を進めるなら、差別の本能についての、考えの記憶が、別の道を教える。
差別意識をめぐる葛藤は、消し去ることはできない、すると、その反対概念の中における経験こそ、
そうしたときに頼ることが出来るのだ。人間の攻撃本能は、育つとともに複雑化、先鋭化していき、
愚かなふるまいをするもの、考えが不自由であるもの、とくにそうしたことが目立つものについて、
社会的、正義的、制裁的、侮辱的、批判的な行為を持つ。これは、社会の厳しさとして、仕方がない。
だが人を、追い込むことをしてはならないというのが、考えられないか。
考えることによる善への歩みが、わかり合うことの、大人物的な、傑出へつながる。
必要のないことで、苦しめられるなら、もはや自分は何もできない。子どもの時に夢に見ていた、
コミュニティの楽園は、幻であった。そこに存在する業については、子供のころは何も知らなかった。
だが今というものの先は、まだ決まっていない。思考の真理に近づくために、新しい哲学を。
誰もが悟るような、新しい思考の方法を求める。
人の努力の方向とは、同じ喜びを持ち、同じ悲しみを持とうとすること。同じ気持ちになれたなら、
そこに何の不和があろうか。その程度の努力は、惜しむべきでない。
0858Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/27(水) 20:25:48.560
目の使い方について述べよう。
左右の眼を協調させながら、視界をうまく得る、ということは、相当に複雑な機構を必要とするだろう。
つまり、どこかほかの場所からの統率が必要であると思われる。
それは、両目の間である。
右を見たいなら、両目の間によって、右を見ようと意識すれば、それでほぼ必要な情報は得られる。
どうしても視界が足りないなら、首を動かすという方法がある。
無意識のうちに、両目の間は左右上下の視界獲得を指揮しており、それを使う以外に、正しく視界を得る
方法は、ないのではないかと思われる。視界に対するストレスは、現実認識や思考において、とても悪い影響を
与える。
例えばつらい精神病に陥ったとき、目の自由感があるのだ、と思い返せば、少しはその苦しさも和らぐのではないか、
と考える。
0859Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/27(水) 22:55:55.280
頭の中に入力ばかりしていてもしょうがないであろう。
頭の使い方とは、脳の中央から、脳の各部分に指令を出すことである。
その指令なしでは、頭は働かない。
その他、胃とか肺とか筋肉に対しても、脳の中央部から指令を出せばよい。
心配はいらない。自分は自由なのである。入力や影響に縮こまる必要はない。
一つの人格として、全ての傷心はいつかなくなる話である。
こういった話が、悟りだとしたら、それは誰もが悟る状態に至ることが出来る、という、
思想ではないもの、だったではないか。
一つの命が、することを、否定はできないものだ。なぜなら、それは全人類を軽視することになる。
それを、釈迦は、望まなかったであろう。ただ気づいたことと、悟ったことを、広めれば、人々が
救われるということを考えていただろう。
0861Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/29(金) 09:04:54.980
人の中にあったり、自分で何かをしようとする場合、究極的に判断基準となるのは、他者や自己に対する「評価」
である。この人はこう言ったから、なかなか良い、とか、自分はこう考えふるまえたから、なかなか良い、とか、
この行為はモラルにもとる、ごまかしている、などである。自己にできるはずのことなのにできなかった、などである。
常に、その時々の行動に対する視線を持っていて、それに従って物事の良し悪しを判断することが、
なにかの行動をするときに、最も確かな基準となる。それが人の中にあることであり、自らを捉えることである。
そのようにつながっているのが人である。自己の判断行為は、生きることへの敏感さということでもある。
いずれ人に評価されるようなこと、仕事などがあるのだから、それを自分で知っていて出来るということは、
大変に意味のあることである。無礼だとかいうことではない。それは、行きつくべき場所であり、行動の
意味の、最終的なチェックである。このような、評価すること、評価されることを、忌み嫌っていては、
世間の中に出てはいけないということである。その厳しさがあってこそ、優しくすることもできる。
何も知らない者には、見えない、行けない領域なのである。
0862Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/29(金) 09:18:22.490
例えば人間にできるのは、美しさを求める、といったようなことである。一方で、できないのは、物理法則を
否定する、などのことである。そのような望みに安心して、可変なるところを、厳しく確かに評価しながら
求めていけばよいであろう。
0863考える名無しさん2017/09/29(金) 20:11:42.150
自分の為に、人につくす、それは人の為ではない。
0864Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/30(土) 14:26:37.320
肉体と精神がある。見えるもの、聞こえるもの、感じるものは、一つの所与の自然であり、それを精神が
統御する形になる。精神は苦しい肉体とは違い、理性的で快適な判断を求められる、しかも限界がない。それを感じる
ことで、脳のある側面に従った正しいあり方になる。

>>863
何をもって自分とし、何を持って人とするか。人の肉体を支え、精神の世界へ目を開かせる。
それは自由である。人の為ではないことが、精神的融合という、人間の心の進歩の突破口
になるはずだ。そんなことがなければ、精神はずっと悲しいままだ。人も自分も、できそうな
余裕を持っているなら、自分にとっての益になる。精神がなければ、苦しくなる。
0865考える名無しさん2017/09/30(土) 14:43:27.320
必要なのは和の心だ、和は世界が与えてくれるのではない、
自分の意志で勝ち取るものだ、自分が和を創造することで大きな和ができる、
その和こそ魂だ、手を合わせ感謝する事、それは和を描くことそのもの、
より大きな系列、より抽象的で高度な和こそ大きな感謝である。
具体的で小さき和は利にすぎない、仁を感じて義となし和の調和をもつ為に謝とする、
自ら発する礼をもって大地の智となし、自信が生じる。(五徳)
0866Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/30(土) 17:51:06.330
>>865
自分が和しているなら、大きな和も生み出せる、そのような徳目で大きな結果につながるならば、
それは素晴らしいことです。ただ、もっと別のことを課題としてらっしゃるきもしますが、
とりあえず概念的に、そのようなことについて考えたことを書いてみました。
苦しくても精いっぱいやってみます。最近は昼寝が出来るようになったから、精神的余裕を
作るための、方策を身につけているところです。どうしても、自己の中に囲い込んでしまうことが
多少あり、自分を実現していくための、自分らしさは勝ち取るしかないのです。
0867Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/09/30(土) 22:08:06.660
考えは、脳の中のある点を捉えた場合、その周囲の脳細胞も励起されるのではないか。広がっていく脳細胞励起。
穏やかに、順々に。波及。
文を読むときも同様に、ある文字、ある単語区切りで読んでいっては理解が不能になる。
前後の言葉の波及する影響を考えなければ、文の理解は不可能である。 したがって、たくさんの波及的意味励起を、
考えながらすることである。つまり、関係性において言葉を関連付けて、意味を読み取る。上級だと、意味だけを
捉えるということも可能になる。大づかみで、関係を整理しながら読んでいくのが、また一つの考え方である。単語のみを
見るのは全く意味がない。
時間と言うものは、瞬間に注目するのではなく、波及的に感覚、理解するべきものである。
瞑想においては、頭の中で爆発する様々な想念が、波及しながらやがて収まっていき、静まり返る状態において、
禅の目標も達成できたと言っていいと思う。
無と有が、無あってこその有、有あってこその無であるという関係にあるのではないかと思われる。
蝋燭の炎がともるのは闇のなかでしかないのであるし、一切の無に、意味が与えられるのは、光の不在として
感覚される生物人間の前提があるからである。
言葉はあまりにも美しい。どんな人も、言葉や世界の、圧倒的美しさ、限りない意味深さ、それらを、感じて
生きているのがよいであろう。言葉の作る意味に、その真理を見出せたなら、何をすることだってできる。
0868Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/01(日) 13:48:56.520
自分が望むこと、楽しいことだけを、注目して、「つなげよ」。そうして出来上がった時間が、自らのための自らの記憶である。
誰に対しても何も尋ねない。自分の好き嫌いについて、それを消さない。自らの感覚なのである。
だが人は、苦しみと無理解、忍従、混乱などのために、間違った感覚を持ち、感覚がマヒしてしまっているのである。
望める自分、操作できる自分、そしてそのための記憶の編集、この世への所属からの権能、主体的感覚から
の本当の自由である。自分のために生きなければ、時間も記憶も出来上がらない。不要なことへのこだわりは、
ただ単に捨て去り、気にしないことである。そうしたときに、するべきことが、自らの快、充足といったことを
思い出すような、充実した生なのである。自分の望みをかなえることが、個人にできること、個人のすること、
即ち悟りに向かうことなのである。
0869Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/01(日) 18:12:22.230
世に起こる事の中で最も不安を呼ぶのが、混乱である。自分に処理できないことが、身に降りかかってきたら、
それはとても恐ろしい。混乱を直すには、時間順序をはっきりさせることである。時間の中に整然と並んだ
物事に、何の不思議もなく、恐ろしさを懐く理由もなく、淡々と眺め、やっていくだけである。
一番恐ろしいのが死であるが、死を位置づけるのに、自分の体験で、一番最後に起こること、とはっきりと
位置づければ、何の不思議もない。ただ、最後にあるものを受け取るだけだ。それですべては尽きており、
混乱の余地はない。逃げることも避けることもできないが、死は自分にとっては何も恐れる必要はない。
この整序された事象に、不安を呼び起こそうとする悪意はない。
0870Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/01(日) 20:04:53.260
人というのは、何かを育てるものだ。色んな縁に従って。手間暇かけて育てたものが、破壊されてしまったら、
その結果、大変な悲しみに襲われるのである。この世にあるものは、何かによって、人や生命や自然作用
によって、守られ、育てられている。自分が作ったものを壊されるとき、恐ろしいほどの悲痛がやってくる。
だから、なるべく、その物の自性を果たすまで、育てなければいけないのだ。どんなに間違ったことを言ったり、
したりしてきたものであっても、その物は今まで育てられ、守られてきたのだ。そこには、素晴らしい生命
という、根本が、植わっている。何かのきっかけによって、喪失への哀歌が、心に兆すならば、
そのことが、悟りへと至る道を見せている、ということが明らかになるだろう。
0871Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/02(月) 18:56:06.740
主体性というものには、一つの構成要素としてのみ、客観的意味がある。構成要素の、個人にとっての認識における
ものには、現実の視界の中にあるもの、過去の記憶、そして主体的思考がある。
認知というのは、たくさんの情報から、何かの意味を引き出すということで、真の主体性が活躍する。
我を張ったり、劣等感を感じたり、焦ったり、嫌な気分になったり、悔しかったり、それらは考えていく意味がない。
自分の能力は、構成要素からの意味を引き出すことで、ほぼ代表されており、個性とか、自己とかいったものは、
それほど優位に世界を構成しているわけではない。であるから、自己を主張するのではなく、関わるよりも
認識を広げる方が、自にも他にも意味深いということが、言えるのであろうと思う。だから、自分の好き嫌いは、
ほとんど主張する意味はない。
0872Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/03(火) 20:42:10.660
脳自体の働きは、意識して変えることが出来ないと思う。例えば、空腹感があるのに、頭で考えて飢餓に耐える
ことが出来ないように。だとすると、視野の緊張をとるための、正しい視覚の得方というのは、「視野の中の見たい対象
と、眼球を同時に意識すること」ではないかと思われる。脳については、コントロール外であるという仮定の上で、
こうした器官の使い方に特化した理論、理屈は、このようになった。その正しさを証明するためには、これから
ある期間、この目の使い方を実践していくことで効果がみられるかどうかであり、それで不調が改善されれば、
万々歳というところである。
特に注意することとして、視界には、外縁部のもやっとした部分が存在しているから、それらも含めて、
眼球と共に意識していくことを、考えるべきであると思われる。もやっとした部分全体を含めると、
視界にはとても広い範囲の情報に対して、柔軟に視野獲得を行える能力が備わっているはずである。
そして、目の存在は、脳に匹敵する原始性が、高機能に育て上げられてきたものである、と言えるだろう。

眼筋の緊張から身体全体の筋肉が緊張するようになったことが確実であるということから考えても、
眼球の存在に、脳と同程度の指令能力が存在していると思われる。
目の使い方次第で、いかなる緊張も、解けるのではないかと考える。
0873Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/04(水) 16:40:53.630
あるイメージが必然的に思い浮かんだら、その理由は、いくつかあるだろう。例えば、誰かよりも自分の方が
優秀であると思ったりと、何らかの思考展開をしていく。では、考え直してみると、記憶というのは何だろう。
記憶は、自分のものであっても、自分が全てを決めていったものではない。つまり、記憶の中には、自己
主張のもととなるものがある。この記憶について、現実がそれをほめたたえている、自分はやっぱり正しい、
と思うものではないか。
ある意味に、全ての現象を決めようとする。そういった心理的な働きを、人は持っているものであろう。
つまり、目的があって、そこへ向かって様々な材料を思考する。そのとき、人は見過っている。
つまり、あることを証明した、というところで、尽きている。だがその向うを、苦難の歴史、運命は、指し示している。
つまり、何一つとして絶対のものはなく、目的へとさかのぼる思考によって、その思考の働きを、さらに記憶を
辿らせるのに使えるのである。そのとき、目的は一つもなくなり、自己原因、即ち、自己を構成しているものが、
記憶においては幼児期を思い出せないという、非常に強い限界が、自己にはある。そして、さらに未来も、
分からない。この状態において、過去から未来への一つの線を描くことは、挫折せざるを得ない。本当には
頼りにならない。したがって、最終目的をさらにさかのぼると、円環を描くことになる。すなわち、自己の解体
という真理が、出生を、表していることになる。自己は遡及的であり、世界の法は、
前進的である。それぞれが、二重の円環を描き、その歯車が合えば、自己と世界が同一の働きの中に、
実現される。それは、思考によるものだが、その答えは自己に対してのみの意味を持つというような限りはない。
世界の真理と、自己の魂は、歯車でかみ合った経験に依って、初めて真理となる。
頭の歯車がかみ合えば、どんな意味も生み出せるはずだ。
私は、死にむかって、一つの真理に到達せねばならないという切迫感をいつも感じていた。自己と法の歯車は、
整えば、人を助けるものになる。自己の焦りを思いとどまって、外的な現実に、NOといってばかりではいけない。
0874Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/04(水) 22:47:52.120
自分の中心はどこにあるのか、と、左右、前後、上下を探る。そして気づくのは、時間の中心に自分がいる
ということだ。過去と未来の真ん中に自分はいる。したがって、空間と時間の中にある自分の中心は、
実存において明らかに最も生きる上で基本になるのであって、それを得たならば、悩みの時に
頼ることが出来る。
様々な物事が、時間の中に存在しているという真実を振り返れば、それらの物事や出来事に、
どのような意味を与え、どのような距離を取るか、そういったことを考える際に、記憶が出来ないというならば、
その本質を理解することで、記憶の補助となる。そして、補助は発展し、独自の意味を持つようになる。
こういったことが、実存主義であると思う。記憶は実存であるように思えるし、本質は、一般に言われている
ように、実存とは対概念であるとは言えないと思う。つまり、時間の中で、本質と実存はともに、存在という
概念に当てはまっている。
0875考える名無しさん2017/10/06(金) 22:38:54.020
自分の中心はどこにあるのか
自分が自分の外から自分を眺めている実感、

ありえないほど特別に集中したとき、見えないものが見えてくることがある
0876考える名無しさん2017/10/06(金) 22:42:07.650
特別集中したとき、世界の流れ、時間の流れが遅く感じてくる、
世界の見え方が変貌してくる、
0877Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/07(土) 14:55:00.980
>>875-876
集中は大事ですね。流れが遅くなるのは、良いことなのか悪いことなのか、よく分かりませんが、
最後のゴールを見定めて、物事を処理すると、逆にスムーズに事態が進むというのは、
良く知っている話です。自分の受け皿以上の情報を責任もって処理していくと、アップアップ
とおぼれてしまいます。精神と世界の関係はそれぞれ、作業主体と作業依頼主の関係に、
写して取られます。そう考えると、精神状態を良くしたい、作業の充実感を少ないリスクで
良く得たい、とにかく手掛かりを得たい、そうした目的を持っているならば、ゴールへの
最短距離を見据えたうえで、迂回するなり、歩調を緩めるなり、すればいいのです。
とくに、最後に触れた、歩調を緩めるということは、辞書に書いてある通り、何人かで一緒に
歩くことなので、そうした少しでもつながりへの余裕を保って物事を行う、そんな共同的な
作業をするならば、大変に重要になってきます。

つまり、行動することと探すこと、とは、探すことは戦略を練るためにほかならず、100%勝つというなら、
ゴールを見据え、そこからこそ考えないと、実現することが不可能になります。それが、戦略だ、と思うのです。

むしろ、少ないリスクということが、あまりお考えに反するかもしれませんが、そこのところはご容赦ください。
集中、ゴール、これらは何と多くの物事を説明するのでしょうか。
0879Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/08(日) 21:38:14.190
人との関係は、信頼を築けるかどうかだ。信用を失った人間と、いかなる協力を続けられるだろうか。
ぎゃくに信頼関係がある人との間に、余計な手続きは必要がない。そして、信頼は、常に存在している。
利害関係のみの関係は、一時だけの関係である。文章のやり取りで、信頼を築けるなら、それは
何よりだ。誰の信頼も得られていない人は、結局のところ、人生に限界がある。だから、信頼を結ぶことを
交際の結果として、自らの内にたくさんの信頼を築ける人は、充実した人生を送る。
意固地になって希望を失っていたり、虚しさに怯えた孤独な人間は、そうした信頼を得る行動を、
まず起こすことが、良いのだと思われる。
0880考える名無しさん2017/10/10(火) 01:42:31.840
人と人の関係は感謝だ
和をつくり徳となす、例え真っ向から立ち向かう敵であっても和は作れ徳を成せる、
なぜなら善や悪ではないからである。
どんなに信用できる人でも相手の言葉は信じないことだ、
信じるべきは相手の能力、才能、魂だ、最大の敬意をもって相手に徳をあたえれば
和となせる。
感謝して和を描き祝福されろ、望んで作り上げるのではなく、自然に生じる力である。
自己や他社の利、形など、そういうものを望めば善と悪のように隔てられ、1つの和は生まれない。
そういう風に電話相談した人が語っていた。
0881Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/10(火) 18:30:37.690
>>880
とりあえず、善悪ではないものは、知識だと思えます。能力、才能、魂が、見えるためには、それを展開する
だけの知識がないといけない。知識は大事だと思います。自分の中にあるものを使う、自己の営み、
それが、知識として現実化される、のではないでしょうか。魂を見通す時、結ばれる、しかるのちに知識の中で
共同を実現する。言葉だけを言う人もいるけれど、その真意は、簡単に見通せます。
充実していればそれでいいのではないかというわけです。
和することで、真理を探究する体勢を作る、だが、もともと和には、それ自体を目的とすることもできるということがあり、
探した末の答え、自己の生きる意味たりうるもの、話すことの意味、欺瞞の少ない自分、そういったものが、しばらくしたのち、
明らかになってくるのです。
思い付きは大切ですし、信頼も大切、だけれども、孤独を追求するのも、本来的ではあります。
つまり、生きることのできる時間を、何かに割くことと、自己を追求することの両方に、使うわけです。
世界の中に共にある、ということ、つまり他と自の両方を知っているということは、動かされません。
あえて、動かすものが何かと考えれば、それは自分と言う自己操作の自由度の、高いものでしょう。
そのようにして個人は出来上がっているので、社会がこのようにギクシャクするのです。
それを見つめたりしながら、脱自の感覚の中で、ゆっくりと思考しましょう。
0882Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/11(水) 01:13:56.160
掲示板上の発言や、現実のままならない事象、それらは、好きに編集するのが良い。自分にとって納得のいく、つまり、
自分が望むような、ものとして、世界を真に理解する、それをして良いのは、生きることの自由ということがあるからである。
物事の起こり方に何の義理も権利もない。人は人であり、自分は自分であり、「世界は世界であるとしてもそれを知る
手段はない」。世界は自己を越えており、従って自己は「世界に合わせられない」。そういう理由から、自己のための
物事の受け取り方を、工夫できるのだ。世界とは何か。世界は理解された世界ではない。世界は永遠の無関心である。
自己は、能力があるもの。能力ゆえに自己は生きられる。能力に目覚めるとき、事実は自己と同一におかれる、
あるいは事実は自己と自己自身によるものと同じ距離におかれる。無関心な世界の中で、自由によって並べなおし
情緒を取り戻すのだ。音楽の様に。音の連なりの様に事実がつながり、何一つ障害となるものはないのである。
無慈悲と無関心の中で、それらに頼るのでもなく、敬うのでもなく、力強くしっかりと、自己のやり方を、邪魔するのは
妄念でしかないと、認めよ。そのときには、あらゆる意味が筋の通った理解になり、楽しみを奪われる焦燥や
絶望は、消え去るはずだ。
0883Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/13(金) 22:25:08.410
頭の中のとても執拗に付きまとううるさい音楽、硬直した嫌な意味(考え)、空間の中に固定された頭を狭める視野、
そういったものは、頭(脳)あるいは視野の中を自在に駆け巡らせるのが良い。表情などと言ったものは、嘘か本当か、
考えるか騙すか、くらいの能力しかなく、そういったことからも、他者の言葉を待つことはないのである。
上手くいくはずがないことがなぜかうまくいった、などということは、運命の神にまかせればいいのであって、
思考することが人間の本来であり、どんなに底の方にいる人間であっても、上手く思考できれば、
ストレスを無くすることも地位のような優越感も、実際の能力も、全て変わってくるはずだ。
哲学をする人間が、享受されるべき未来とは、そのような思考能力の改善であり、
悟りを心がける人間に渡されるのは、独りぼっちでもまけないという、強い能力だ。
失われたものは、取り戻せる部分もある。自己に対する責務とは、自己を担い続けることだ。
責務と言っても、何も強制だと受け取るのではない。やってみたらいいよ、良くなるよ、と呼び掛けている。
まとめると、前頭葉、側頭葉、頭頂葉、後頭葉、脳幹といった場所で、どこかの一部のみを使うのではなく、
頭の中を移動させ、動かし反射させることで、全てのストレスが対処できるということだ。それと並んで、
視野の中を自由に、焦点を移ろわせ、自由に見る。新しい考えや、理解力と言うものも、それらの方法を心がければ、
ずいぶんと働きが向上するのである。そういうことに、ずっとずっと続けていれば、きっと生きることが楽になる。
楽になって、善や悟りが、どこからともなく生まれるだろう。そのために、本当ではないこと、漫然と過ごすことが、
充実とは違っているというのが、最も大きな違いだと判るのである。
本来的に、全ての脳は悟りうるものであり、考えの得方が、悟りなのではないか。自己の外にはどこにも行かない。
この場所こそが、全ての悟りの場所だ。全ての場所で、快適に生きられる。そうやって、この長いような短いような
生の中で、生まれた時の力を、涙や汗に変えたりしてきたではないか。ならば、誰が悪いのか知っているであろう。
0884Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/14(土) 12:27:55.770
答えとして見解を持つ。だが、その先は?答えの次にどう考えるか、それが出来ることであるから、絶望とは存在しない。
耐える必要も、キレる必要もない。どうすればいいかというと、答えでとどまらないことである。その先の思考を、
常に続けるべきである。
例えば憎しみがうまれるとする。その対象への恨み。恨みを募らせるのではなく、恨みの解決。つまり、変わることで
解消できるはずだ、という可能性を導かねばならない。金銭的絶望、対人的感情の絶望。それらは、自分で出した
答えの一つであるから厄介である。答えで終わりではない、ということを考えなければ、それらの示す意味に
従いつつ新しい局面を開けない。自分の答え通りにならないことがある。自分の不安が深いこともある。
絶望の先は必ずある。絶望を習慣化してはいけない。
「わからない」から駄目なのではない。過去にこだわることが、悪いことである。押しつけ、恨みをなする、
心配を募らせる、それらを、やめるためには、わかろうとする、ということを、善の最上に置くことである。
わかろうとしないことは、感情の満足程度の小さな意味になるだけだ。それは、当然一時のものであり、
他人の否定、世界の否定である。何も難しいことでもない。ただわからないとか、答えを適用していこうとか、
そういったことが残してしまう負について、出来るなら直した方がいいということだ。
0885Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/14(土) 18:42:06.290
禅。現在のみを残して、全ての記憶を消せ。そのためには、脳の中心部や側頭葉の一点、その他の脳の一部に集中し、
他を意識しないことである。思考においても、ある一つの考えに集中し、その他のことを考えないことである。
このように、ゾーンに入る経験をした後なら、雑多な生活に戻った時も、その経験を含んだ自分であるのだから、
その生活も、いつでもその禅体験に裏支えされているものになる。生きるということに必要な欲からの
要求ではなく、何かの集中を行い解脱の状態があるのだと思いなおせる。欲望のままに生きることがむなしい(なぜなら
死ですべてが消える)ということであり、生きている間に生物としても最上の認識に至ることが出来るなら、
その方がむしろ良いのである。欲望を募らせても飽きてしまうのであり、結局健康や、考えの健やかさ
を求める方が良い生き方だ。
生きる上で、失敗をしてしまったという後ろめたさが付きまとうとき、自分を助けるものは自分である、もし他人の
情けにすがらなければならないとしたら、そのためには覚悟も必要だ。覚悟を決められない弱虫なものが、
禅体験に励まされ、考え方を少し変えることになる。では、果たして自分には何が必要だったのか?
それが、自己の不十分なところだった、ということである。自分の禅体験が自己を救うために必要だった、
その外に何か必要なものがあるとしたら、それは自分が自分を精一杯苦労する、ということである。
迷いながら生きるしかない。自己こそが与える悟りを印として。
0886Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/14(土) 20:49:51.270
視界に対し、頭の中の焦点も合わせよ。部屋の中の様子であるとか、様々なこと、また人との対面、すべて、
脳のピントを合わせていくことである。新しいものを理解するということのためには、脳のピントを合わせる必要がある。
それがずれたままだと、いつまで経っても物事を進められないし、自分が空回りするばかりだ。
頭のピントが合ったのにできない、ということは、おそらく進めることが不可能であるか、相当に無理なことなのであろう。
とりあえず、自分に対しては、脳のピントが合った状態に持って行って、それから物事を考えるのがよいのであると
思われる。
0887考える名無しさん2017/10/15(日) 16:56:20.200
活き方のすべての基本は、無意識で行われるバランス能力にあり、
理屈ではなく法則、

たとえ立ったときの水平バランスであってもそれは然り
0888考える名無しさん2017/10/16(月) 13:06:41.970
例えばこんな時にご相談下さい。

借金の返済で困っている・・・。
(金融機関、住宅ローン、会社、個人など)
家賃や税金、公共料金、学費の支払いに悩んでいる・・・。
給料が減少し、生活が苦しい・・・。
数社から借入があり、どこからも借りられない・・・

お金の悩み、相談はエスティーエーで
0891Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/16(月) 19:47:47.680
瞬間を掴む(掴もうとする)こと以上に大切なことはない。子供のころには覚えていたこと、いつだって、自分は
一生懸命だった。哲学に必要なのは、文章力や思考力ではない。瞬間への渇望を失っていない
ような、感受性だ。
0892考える名無しさん2017/10/16(月) 22:28:51.530
瞬間を掴むのではく、瞬間が掴ませてくれるんだ。
大切なのは強すぎる意志で動かないこと、
大切にするのではなく、大切になる、大切が活きることだ、自分本位の大切さは、
自分だけの大切さだ、自分以外の大切さを考えること
0893Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/16(月) 23:35:45.690
>>892
忘却自体を、考え込んだりはしないのですか。完全な世界をはじめに見て、それに従った我を意志すれば、
世界を壊さない存在になる。なるほど、これは確かにそうだ。だが、それを導くために使う手数を、
増やしていかないと。具体的に言えば、哲学思想の発展の中に生まれた幾つもの哲学を指します。
それらの助けを借りないならば、その態度は世界>自己という真理的な世界の存在を、確かめることのみを
目指すことになる。そうするなら、完全でない私であるから、忘却という事態を持っているのです。
世界は忘却を指し示すでしょう。私はそれを喜んで迎えましょう。そして、それからもう一度意志しなおす。
私に何が見えたのか。
私は、人の本質を欲望するでしょう。意志的にそれを、正しいと叫び、欲しいと願う。だって、そうやってすることが
なければ、人は孤独です。孤独の中に失われていくとき、本当にそれを、耐えられますか。
忘却を埋め合わせるのでなければ、いったい記憶したことには何の存在的意味があるでしょうか。
自己の手綱を離してしまえば、犬たちは散らばって逃げて行ってしまう。手綱という「忘却の概念」を失えば、
記憶は自然な状態に戻る。そこに意味があるとすれば、その世界のほかに、より統御された世界が
存在しているということを指し示しており、意味がないとすれば、その世界のほかに、自己にとっての
対象として、受け取るべきものがないのであるということになる。つまり、忘却という概念を、
使うのかどうかということです。
孤独と癒しの合間には、感情という目安に従った、現象として理解運動をするべき、自己展開があります。
この、ゲームのような存在にとって、十分以上の、情報を、能力として選ぶべき、文化を作っていくことの
方へ、世界は傾いていくように思います。今はまだといっても、他との協力を可能にすること、そんなことを
見据えていった方が、世界の展開と関わって存在していくならば、それが社会的人間の心掛けであるように
思います。
0894Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/17(火) 23:12:33.290
いまこのまま生きようとするとき、どうできるかは論理的に決まってくる。いくつかの選択肢はあるが、現在の
状態から導き出せないことを、することは、非常に無駄な選択となる。もっと楽に生きられる、もっと成果の上がる
物事の行いかたがある。
文章をまとめる、思考する、会話する、なども、全ては、論理的に可能であることを、つなげていく場合にのみ、
それらの作業を行える。
思いつくことを現実的行動、思考に合わせよう、とするなら、その原理が論理性なのである。
文章とは、論理的なつながりを欠いているなら、でたらめな命題の羅列にしかならない。
思考の展開とは、一つの始まりから発して、それを使い尽くすまで、論理的に展開していくことだ。
それは、人工知能にとってかわられるだろう部分から成り立っているだろう。
人間が面白いのは、創造や、感情、思い込み、負けを逆転する、そういった行動へ、固執するからだ。
何か超優秀な機械が生まれるにしろ、それとは別に自己の能力を使うことに修練する成長は、
無くては生きがいがない。
風の音を聞く、心が騒ぐ、決心する、満足の中で夢を見る。
限界は普通であり、自己は穏やかだ。すると、限界を越えることのセオリーを信じている限り、自己は、苦難を
解決できる。現在の世界に対し、自らの内に世界を含んだ、と思うとき、自己は世界を超越しているということを、
確信する。論理を使える人、仏の内には宇宙が含まれているということを、どのようにかして、証明
できるだろう。
見えるものを踏み越え、意欲が与えてくれるあらゆる意志的な元気さを、良い方に向ける、心が良い風に向く、
自分は、何かの奴隷として存在しない。世界が世界であるゆえに、その世界が、唯一の自分の好敵手である。
世界に含まれる他人も、そうだ。そして、世界の中から切り出してきたキラキラ光る他人は、みんな好敵手だ。
決して私は度を越えて攻撃することはないが、いくつかの条件に対して、かかわりを持つという事を契約したのだ、
自分を紛らわせるつもりはないのである。
あまりにも長く間違いと関わっていた。関わりのないものは夢の中で吹き荒れた。行為の経験が生きることを
証明する。証明したことのみを知りうる。
0895考える名無しさん2017/10/18(水) 15:02:43.240
自己の思考に多様性をもたらせたまえ、他人の思考へは合理性を
0898考える名無しさん2017/10/19(木) 14:31:45.680
16 :名無しさん@1周年:2017/05/12(金) 18:15:13.76 ID:0TuxZw580.net
競争            勝ち          負け
VHS対ベータ方式  ビクター連合  ソニー + SAMSUNG
パソコン          IBM       アップル + SAMSUNG
銀行           栃木銀行    足利銀行 + 北朝鮮
家電小売        ヤマダ電機    コジマ + LG
自動車          トヨタ       三菱 + HYUNDAI
自動車          トヨタ      マツダ + HYUNDAI
自動車          トヨタ       日産 + HYUNDAI

231 :名無しさん@1周年:2017/05/12(金) 19:36:00.83 ID:/Y7T48Dh0.net
>>16
余所の信用でも平気で使いつぶすからだろうな

136 :名無しさん@1周年:2017/05/12(金) 18:57:30.74 ID:62i/HEwF0.net
>>16
戦争ですら韓国と組んだほうが負けてるからなぁ

18 :名無しさん@1周年:2017/05/12(金) 18:16:03.80 ID:0TuxZw580.net
戦争          勝ち         負け
白村江の戦い     唐        日本 + 百済
文禄の役        明        日本 + 朝鮮
慶長の役       日本        明 + 朝鮮
明滅亡         清         明 + 朝鮮
日清戦争       日本        清 + 朝鮮
日露戦争       日本        露 + 朝鮮
シベリア出兵     ソ連        日本 + 朝鮮
大東亜戦争     アメリカ      日本 + 朝鮮
ベトナム戦争    ベトナム     アメリカ + 韓国
0899Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/19(木) 23:08:26.770
言葉や視界という、純粋的な意味を与えることのできる存在。それは、勘によって当てられたとき、
やっと自己へ意味が渡される。勘と言っても、かなり長い時間探って、当てることを指す。自己の理解によって
自己が価値を帯び、意味が出来上がる。個別的特徴を工夫することに意味はあまりなさそうだ。
空想が終わると思えるならば、同時に、沈黙という状態に自分がなる。それは、能力が喪失されたと思ってはならない。
自己が意味を持つのは、それを含む世界に、いや、時間に、自己の存在を預け、ただ一つの統合された、
自分の独立性を真実と見るということを否定する時なのではないか。自己が空っぽであるとき、それは自己保存の業
を離れている。分裂を統合するという意識状態、思考状態の意味、価値は、他と自を区別する力から、離れている点にある。
自己と他は世界に於いて共有した接点を作り(地平の融合?)、孤独というものは独立的なものなのだと確信できるほどに、
本来的な揺るがない思考のようなもの、意識のようなもの、を、作り上げることを、自己がいいと、思える、それが
とても真理として見える。人間の精神的求道によって、他者を貶めるような欲望を、本当に持っていないのを自然と
されることになる。運命的な、人間。神を想定した、全てにおける善の到来。
0900Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/21(土) 12:56:49.540
文章を読むとき、「そこに書いてあること以外のこと」を考えるようにせよ。人生で現実になってしまったこと以外のことに、
考えを馳せよ。そうすると、すべてが少し救われた気分になるだろう。可能性とは、現実のみを導き出すために、
あるのではない。どうしても抜けられない条件が、知らないところへ、追いかけてきていない場所へ、そこを探し出し、
自分にとって正しく、望ましいことが何だったのか、何なのか、考えが強制することから抜け出ることで、
現実と非現実という反発しあうことに対し、自分の自由を確保しようとすることだ。意思の自由は、自分で
作り上げようとしなければ、訪れない。すべては、未来において、自分の過去で失敗したことを再挑戦するためにも、
その事実を、望んでいない失敗を、受け入れがたい現実を、それを敵と見て、そうではないものを、自分の身近に
呼び寄せるために、自分が嘘をつきたくないことへ、実現できなかったものと関わるために、
自分が無為に生きないために。これは違うと思うことを取り扱い、これが自分の夢だったと、思わなければ、
自分ではないと思ってしまうことのために。
0901考える名無しさん2017/10/21(土) 17:48:48.270
>文章を読むとき、「そこに書いてあること以外のこと」を考えるようにせよ。
そこに書いてあること以外から書いてあることを浮かび上がらせよ。
書いてあることは主体であり、書いていないことを知ることではないはず。

読むだけでは書いてある意味やその表象しか読み取れない、書いたものが成立するという主体を大事にし
それ以外のそのものから書いたものそのものではなく、書いてある主体に魂をさずけよ。
0902考える名無しさん2017/10/21(土) 17:52:32.500
物事を理解し知覚できる意味ではない、そのものの奥底に眠って隠れている本質を知り、
本質と本質の関係の理が「真実の中にある真理」を生み出す。
それは客観性の現実や物理法則ではない。
0903Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/23(月) 00:19:09.900
食堂、共同部屋などは、人が集まり共同に使う場所であり、顔を合わせたとき挨拶などをする必要はない。外では、
挨拶する。
私という存在の内部にも、食堂、共同部屋のような場所があり、そこでは様々な考えが集まってくる。だから、自己の中の
共同部屋では様々な話をするような思考をする。多様なものの共存する場所、これを作ることで、考えをスムーズに進め
られる。実験的な、創造性には、環境を整えることが、個人の思考の中においても大切になるはずだ。
場を改めて、礼儀を行う思考においては、それなりのスムーズな緊張感を持ちつつ、冷静に、公共的にならなければ
ならない。関係に合った言葉、思考、態度を持つことだ。
いずれにせよ、公共の場というものには、様々な個人が集まるので、それで共存するという意識を持つのが大切である。
礼があればスムーズである。安心を作ることが、個人的なものの働きを良くするために必要だ。そのような、エチケット
について、知っていくことも、大切である。
人同士の、表面的な争いには、まさに本質的でない思考になってしまうことがままある。表面的と言えど、そこには
それなりの難しさがあり、それを守ることに慣れることも、大切である。そして、自分自身についてそのアナロジーを
思い浮かべ、そして実行するならば、心が平安になるような、一つの共同性に、自分は貢献するのであると
いうことになり、その私的と公的の二種の交わりについて、本質的な思考を運ぶ舟となって、個人的な
創造性の場を用意できることになる。
ジャッジメントの基礎となる公共性(思考と行動の両方において)はそのように持たれるべきであると思える。
迷いを抜けることが大切なのだ。
0904Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/23(月) 00:35:02.150
つまり、哲学においては自と他の問題は、まさに存在するし、その他の学問においても、自説と他説、
あれとこれ、知と無知の間の運動、それらを扱うために、自分の意識の整え方は、重要になってくる。
何を意識するかということには、意味がある。考えとは、整然としたものではない。
0905Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/23(月) 00:48:08.550
つまり、時間的制約が、思考には必ず存在しているから、自己と他者の関係は、思考を作る上において、
時間の中でかかわり合うものである、と言える。様々な要因に洗われて、何らかの真理が生まれてくるのであろう。
先について何を残そうとするか、自己の満足や、正しさが、その意見に、ついて回り、過去をどう清算するか、
それについての判断は、やはり他者についての感覚と、結びつている。
0906考える名無しさん2017/10/23(月) 03:09:54.840
>実験的な、創造性には、環境を整えることが、個人の思考の中においても大切になるはずだ。
常識という環境を整えるのか、それとも非常識の環境か、
創造において無難な創造と、キテレツな創造があるはずだ。
それぞれが入れ替わることはまずありえない、それが選択というやつ、
0907考える名無しさん2017/10/23(月) 03:37:21.350
>過去をどう清算するか、
過ちを犯した認識ならば、断罪か、贖罪か、そのこと自体の認識の否定か、
歩んできたことが無意味なら、忘れて無からの始まりか、過去の積み重ね完成か、
過去を飛躍して次元を超えた別な創造か?
人として人(自分)とは何かを定義せよ、そんなもの誰か任せではない本人の選択だ、
人の定義、その認識があってこその始まりであり清算である、あいまいにできるものではない。
0908考える名無しさん2017/10/23(月) 03:42:48.210
>時間的制約が
時間は過去の繰り返しではない、過去があって現在があっても現在があって過去があるのは決してつりあわない、
時間とは変貌し状態がより複雑化(エントロピー増大の法則)してゆく過程だ、
関係が結ばれることは未来に進むことで、それが過去に向かって関係を結ぶなど絶対にない。
時間は「変化」する、過去で意味をなしても未来では同一ではない。
過ぎ去ったことは過去と切り離すのではなく、情報の創造で未来へ繋げる、それが正しい時間の進み方だ。
過去を大事にするならば、それ以上に未来を大事にするべき。
未来なき過去などそれは知的障害の愚か者の選択だ。
0909考える名無しさん2017/10/23(月) 03:45:22.730
>哲学においては自と他の問題は、まさに存在するし
自と他を含めて自となすことも哲学での存在問題である。
他は無限に続くわけではなく、自と他が関係を持ちえる有限の関係である。
それは否定できるわけがない、無限に関係できる意味のある存在には命はない。
自と他をあわせ新たな創造につなげること、1つの創造に感謝する姿勢をもて。
0910Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/24(火) 21:48:21.430
>>909
あなたは1つの創造に感謝します。私はその態度を解釈します。私の知識から言います。

あなたを世界の下に連れて行ってくれて、世界からもてなされる土台を作ってくれる。これが他者の存在です。
そしたらあなたは、世界をあなたの下に連れて行って、あなたは世界をもてなします。これが、あなたの
感謝の気持ちの実施でしょう。ホストとゲスト、運行者この三つのかかわり、その三者の正体が、
あなたと世界、そして他者であるでしょう。もてなす気持ちを持つ者こそ素晴らしいのであって、
もてなすことが平和と満足の源泉であって、世界を読み、自己を読み、他者を読むこと、
そのように、読まれたものたちの間に、理解が生じ、結果としては、世界理解、他者理解、自分理解、
そして、理解の先に持つ創造、それらはみな、大切にしなければならないし、簡単に切って捨てるわけには
いかないのです。態度に見えるからといって冷淡ではない、温度のある存在として、生きている間で、
交遊の安心があり、それが人を安らげるものであるわけです。
例えば、あなたは、子供のころ人の間の関係のカッコよさにあこがれはしませんでしたか。世界が広くて、
神秘的である、そう思ったでしょう。そう思ったからには、それを実践しなければならない、
私の心は、そのようなことを生きよと、確かに言っているような気がします。
0911Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/25(水) 16:47:00.410
何かを「待つ」ということを、実践していれば、何も怖くはない。約束で用事を待ち、良いことを待ち、変化を待つ。
待つことが出来なければ、いたずらにごまかすことになる。何を待つか、待つ必要があるのか。
座禅では、呼吸の吐き吸いを、待つのである。
日常的に小さなことを待ち、死の際にあれば、死を待つ。待つということが、一番難しい思考、行為である。
人との話し合いがうまくいかないのも、あせって話を進めるからだろう。待って、話をすれば、
会話に習熟できるのではないか。そうした場合、相手に待ってもらうことになるが、その間(ま)においては、
不器用な人間もいるのであるから、自分の状態をごまかし焦らず、待つことで、嘘やごまかしをしないのだ
という程度のことを信じてもらい、感じてもらい、結局最後には自分自身が劣っているというような気持ちになることを、
なぜかできなかったことを、人に謝って自分がしょんぼりしてしまうこともないのではないか。
0912考える名無しさん2017/10/26(木) 18:30:44.360
>座禅では、呼吸の吐き吸いを、待つのである。
座禅では呼吸の吐き、吸いでバランス能力を磨くのである。
それは平均を取るのではない、微動せず一定に保ち続ける難しさを通す精神集中こそが
バランスを磨くことではなく、平均を取ることでもない。
心は揺らぐもの、無想につけば心は自然とゆれる、これを集中することで一定に集中しつづける
でなければ力を失いバランスを失った体は揺れ始める。
何事も活きる活かすにあたってはバランス集中こそ重要な根源の土台である。
世界という物事を感じ、それを調和を取り、世界を活かすことこそ世界と1つになる感謝の修行である。
という夢をみた
0913Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/26(木) 19:36:18.710
>>912
自分のごく間近のところの空間に、意識を持て。近いところ、自分のテリトリー。時間も、近くの時間を待つ。
未来が何度もやってくる。短い時間の先の未来を待つことが、手始めである。

ごく間近のテリトリーを自分のものとしたら、次にはバランスをとることで、拡張した範囲の物事、空間をテリトリー化
できる。

意識の乱れには、邪念、雑念が、表れる。つまり、自分の信念が、正直な、だが愚かな心、悪い心が自らの内では、
潜在化していたということがはっきりする。それを消すことは難しい。だが、修行するということは、それらの、あらわすことが
悪いとされる邪念、それを、あなたの言うようなバランス行為によって、消すことが出来る。変わらない
ものもあるのであるが、それは消せないものでもある。であるから、先へ進む、進まねばならない、
自らの存在を「活かす」未来、それを待つことが出来れば、邪念は静まり、効果を現すまでの大きさでは
なくなる。そのように、完全な悟りに、まったく変わった状態に、至ろうとするのではなく、人間の根源的な
溢れるほどの思考をもたらす先天的能力、それらの自然な活かし方によって、自らの不幸と苦しみを、乗り越えた
状態になれる、そんなことが、現在の悟りについての考えである。
僕の現在の悟りに関わった、関心事は、他人の間でうまくやっていくことを、妨げる偏見、邪念、
生きる上での、世界の中での存在のあり方が、壊れてしまい、生きていくことが難しくなってしまうほどに
困窮している状態、それらをどう処理していくべきか、という対処法である。必要であるから来る要請、それらを
ごまかすことが、非常に悪いことである、そういう意識に向かわなければ、人間は、善の存在として認められない。
そんな、悪いものとして考えるような存在が、理想であるはずはない。けなしあいの中に、身をひたしてそのまま
人生を終わること、それは悲しい。最上を感覚、想起したのであれば、それが仏性なのであろう。
0914Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/27(金) 22:39:45.940
人を拒絶する気持ちを持ってもいいのである。距離感はそうして生まれる。人に対しての混乱した自分の気持ちは
整理される。常識的。
拒絶することを、知っていなければ、人の存在と、意思に、自分はずっと左右され続けることになる。
拒絶することは、ただのやり方にすぎないのであって、それで世界が崩れてしまったり、人が遠のいていったり
といったことはおこらない。それは、自然な意味としてだけ存在し、距離感は人を楽にするのである。
もともと、自分の幻想以外に自己が意識して自己を考えている実態はないのである。
人を許せないと思うのは、その人に甘えているからなのだ。別に恥ずかしいことではない。
だから僕は、大人として、生きられるのだ。自由とは、人を拒絶することから生まれる。
拒絶したものが考えたり話したりすることに、正直さや、気使いを、ねだったりする必要を感じはしない。
なぜなら、自分は他人のものなんかではないからだ。
0915Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/28(土) 12:21:32.550
一般性から話を始めたい。一般性への信仰が、著しく認められる。人とやり取りするとき、一般性を共有
していなければ、コミュニケーションが成り立たないであろう。例えば数学の問題に取り組むとき、ああ、
さっぱりわからない、と思い、答えを見ると、なるほどと思い、分からなかった自分を、その答えのプロセスに合わせ
考えを訂正する。だが待ってほしい。一般性の獲得に、意味があるにせよ、間違ってしまった自分の考え
というものを、捨ててはいけない。かっこ悪い自分、間違った自分、それらを捨てる理由は何もない。むしろ、
そういったものを頭に刻み込み、自分なりに感じたことなのであるから、自分らしいと思うべきである。

ショッピングモールに行ったとき、他人の顔が気になる。人からにらまれている、何か失礼なことをしていないか、
そういって、100メートルほど進む間にもう青息吐息である。そうだ、私は間違っている、何かを。どこか変だ。
その答えとして、信仰の置き所が違っていたのだ。思考の最高形態が信仰である。例えば本屋では本が
ずらっと並んでいる。それらの本の題名を見ていくことが楽しいと思おう。そのためには、本の背表紙に
信仰を置かなければならない。この世界。人の顔など気にする必要はない。地面を見つめ、地面への
信仰を持てばよい。このように、人間は思考において、信仰によって働きを持つ。

エントロピーの法則によると、複雑性は増加する。どんどん複雑に、エネルギー(仕事をする能力の量)が低く、
世界は悪くなっていく。信仰とは、複雑ではないのである。単純だ。そしてパワーを与える。そして、信仰は、
人間の行為の中で最も個人的でなければならないだろう。信仰行為には、一般性は必要がないのではないかと
私には思える。何をするにしても、自分があるだけであり、他人が肩代わりをすることはできない。

少し暗い話になるが、冷酷な死、望まざる死、例えば死刑によって死ぬ場合、つらくて悲しいだろう。その苦痛は、
あまりにも大きい。誰だって、温かく、穏やかで、明るい心許せる人の間で死んでいくことが、死を受け入れるためには
必要なのである。アカギは、友の間にあって、死んでいったから、その死が安らかだったのだ。孤独な死を迎える
とするならば、人ではないものに置いた信仰の中で死ぬのである。最終的救済。
0916考える名無しさん2017/10/31(火) 03:00:20.700
つかむのではない、つかんでもらうのだ、
もとめるのではない、もとめてもらうのだ、
信じるのではない、信じてもらうのだ、
それが超えられない先にあるものへの立ち向かい方。
たどり着ける類に対しては掴み、求め、努力し、理性をもって理解し、
超えられないものと超える必要のない世界は区別したほうがいい。
意味の世界に住む住人が安易に意味の世界を超えてはいけない、その存在を
知るのはいいが、対価が必要だ、鋼の錬金術師のように禁忌に触れると体を奪われるだけ、
力の使い方を知るのはいいが、使ってはいけない、何を引き換えに結果が生まれるか
わからないからこそ超えられない壁の向こう側だ。
もののけ姫の神は、生を与えてくれる、しかし同時に死も与える、人がつかってはいけない神の力とは
そういう類である。
0917Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/10/31(火) 18:09:43.860
人の気持ちや、物事のあり方、それらを推測して、その推測は、正しいか間違っているかどちらかである。自然科学的。
やればわかる。本能からの逸脱がギャンブルである。問題がない状態に近づけ、推測のギャンブルの結果、つまり
真実を知り、答え合わせをする。そうしたことが、基本的である。文章の理解の仕方が完璧であるはずはない。
間違いは、あとで機会があれば訂正できる。だから、推測を恐れず、自分のしたいようにする。他人に
迷惑をかけないように。つまり、問題が存在するのかどうか、と、推測の正誤に関する結果、その二つを知るよう心がける。
自分が自由であるとは、好きに推測を立てられること、問題をしっかり理解すること、答えに怯えないこと、
それらが決めることであると思う。勇気、しっかりとすること、問題の存在に敏感であること、これらを心掛け、
勇気を奮い立たせることである。自分は、決して、おかしなことをしないぞ、と心に決めなければいけない。
0918考える名無しさん2017/11/01(水) 19:41:08.220
正しい調和、正しい対称性、正しい感謝、
正しければ大いなる秩序の力が生じる、それは主体の力ではなく自然そのものの力だ
世界が祝福してる力こそ、その表現する世界の大きさが、そのまま力に生まれ変わる。
間違いであれば混沌の力が生まれる、個の意志は秩序の力より混沌の力を簡単に利用
してしまう。
不自然な力に注意せよ。
0919Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/01(水) 20:10:58.400
>>918
正しくない力はいっぱいあるからな。自然にまかせるってのはいい判断だ。自分が自然でいいんだし、
それが当り前さ。騙されんなよ、人間はこぇーぞ。生き延びて乾杯交わそうぜ。
0920Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/01(水) 21:04:25.910
文章や音楽の意味についてピントが合い、自然に意味が分かるようになるのが本来。記憶や実在感も、
そのような機構に従う。
0921Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/01(水) 22:17:43.470
我々は、現れているものを見ている。だが、私自身が現れているとはどのようなことなのか。我々は、現れている私を
見ているのか。おそらくそんなことはないだろう。私が現れているとは、時間を必要とし、それゆえその要求を呑んで
時間が表れる。時間は、自己の現象そのものであり、つまり自己の現象というものは、そのすべてが時間なのである。
時間の私性というものは、世界の拡張を可能にする。そのように、私の特異さは時間であり、現象は時間的に発展される
ものだということになる。
いったん、人間としての私を離れ、世界の各物について、考えよう。各物が、関わり合う力において、私性が各物に宿る。
すなわち、観測は人間だけがするものではなく、各物が、存在という形で観測を行う。つまり人間は、法則的力をもつ
物体に還元されると言えよう。クオリアは自己の自己へのかかわり方、として定義されるだろう。そのときクオリアは、
内閉的であり、結局モノ自体と同じことになる。存在が各物に帰されるとき、存在物はただのモノ自体ではなくなる。
つまり延長は内包に特徴づけられる、と簡単に説明されるとおり、続きと断絶が、物に変わる。

というわけで、時間と物と私が、現象を特徴づけ、決して人間の観測のみが特別なのではないということを見てきた。

つまり、時間は人間が意識し、その次に人間は思考に目覚めることにより、人間性を納得し、その次に各物が
世界を構成しているという風になる、と時間観を説明できる。その結果、人間の幻想性を特徴づけている
現象が、幻想的に唯一を表すこと、つまりアイデンティティが物、さらに人間にも、与えられるような、世界の
法則が、真理であると思われるのであった。付言すれば、「一」が分かたれないということなのである。
アイデンティティが、一を作っている。その解体は、行われ得る。
0922考える名無しさん2017/11/02(木) 03:23:09.010
感じるんだよ、理屈ではない、空気を読むってこと、
そして空気を読んで理解するのではない、空気を読んで空気を作る、
空気が作れないのに空気を読んでも意味などない、
0923Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/02(木) 17:52:52.590
記憶に残っていることについて、過去に起こったことと認識するには、それは過去にあったことだという意味付けをして、
信じなければならない。全てのことについて、その物事を意味付けして信じなければ、意味が生まれない。失われて
しまった認識を、再生しよう。まだわかりにくいか。例えば、人と話をすることがあったとする。あとで振り返って、ああ、
僕は人と話をしたな、という人生における物事のある経験をしたのだ、と感じる。同様に、言葉を意味づけ、信仰すること
によって、はじめて言語を使うことが可能になる。つまりそれは、個人の信仰のあり様が、別々であり、無意味に
落とし込まれないような、自由が個人に本来的にあるということだ。個人の信仰は、他者が否定できないものだ。
否定しようとされても屈してはならない。そのように、個人は尊重を持たれることになる。恐らく、言葉などはどうでも
いいものなのだろう。真理を知るとは、言葉にできなくとも起こりうる。言葉以上の存在に信仰によって至れるのだ。
0924考える名無しさん2017/11/02(木) 18:46:36.210
真理は永久不変ではない、どんな変貌でも矛盾でも抱擁できる根源的な真理を
否定しているわけではなく、個々の対象に対する真理だ。
0925Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/02(木) 19:12:18.980
>>924
僕の記憶は、整理されておらず、頼れません。そんな状態で、「しがみつく」ようなもの、それが、脳内で再生
できる、音楽です。友達は裏切らない、裏切られない自分自信を考えて変わってこそ、友達にふさわしい、
内部の音楽は全て再生できなければならない。知らぬものが友であるはずがない、とてもよく知っているならば、
最初も最後も僕の記憶が確かならば、いつまでも友達、僕自身の忘却、忘れてしまっても友達、
僕自身の安楽、真理は友達。最後まで。
0927Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/02(木) 20:43:36.200
右脳のみを働かせ、じんわりと思考するのが良い。幸せや平安は、右脳で感じるものである。
不快感とは、脳内で生じるものであり、脳の働かせ方の習慣的な間違いが、右脳をだめにする。
駄目にはなっていないが、働かないようになっている。
従って、俺はもうだめだとか、自分がおかしいといったことを感じる、ほとんど妄想に近い絶望は、
習慣的に働かなくされた右脳を目覚めさせて、じんわりと感じることで、落ち着き、解消される。
こだわったり思い込んだり、感情のコントロールを失ってしまったり。それらに対して、自発性、
すなわち自分自身の考えを、おさめることは実は難しくないのである。
0928Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/02(木) 22:48:13.900
全ての行動にはそれに至るまでに、原因がある。例えば、腹の辺りがむかむかするとか、お決まりの状態だ。
もちろんそれは、簡単に耐えることが出来るものなのだが、そのむかむかがトリガーになり、行為に走る。
あるいは、映像が脅迫的に訴えてきているのかもしれない。
それらすべてについて、右脳でとらえれば、それほど困窮した心持にならないもので、大したことはない事を、
人が経験し、思考しているのが常である。それらをぶつける相手が、「勝手に選択されること」はないのであり、
事実を知らねばならない。失礼をしてカチンとさせてしまった、その場合は、自分の自由一存で決まることで
ないから、へりくだって待つくらいしかできない。謝りの言葉と言うものを、僕はたくさん知らないため、
どうやって謝ればいいのかという経験も積んでいない。もしかしたら人は、不条理なことを意識的に与えている
という理解をするのかもしれない。
無垢なものなどありはしない。自分の欠点は、自分で考える、客観的に考えなければならないかもしれない。
自分の行動の原因を、探った場合、行き違いやマナーに抵触する形になる未熟さ、マナーとの関係において、
自分が社会的になる必要がある事が多い。つまり行動の原因が、悪い結果、意図せざる結果に結びついて
しまったりする場合も多い。というわけで、自分を大切にすることは、他人にとやかく言われることではないという
当り前のことを、原因と結果の両方を総括する形で、捉える以外に方法がない。そして、総括の結果、自分の
間違いとマナーが、混線してしまっている場合がほとんどだ。そうなったら仕方がない。右脳で考え、
時が過ぎていくに任せるしかない。
あらゆる人は、生きている。死んだのと同じ状態にあるものもいるが、生きているという事を、止めないという
心を、しっかりと持てば、たいていの人は分かってくれるのだ。それが、自殺が推奨されない理由だ。
右脳で頑張るのだ。
0929Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/02(木) 22:57:18.440
呼吸は、片方の肺のみを使って(使う意識をもって)すると良い。安心を司るのは横隔膜であるが、
片方の肺のみを使うと、なぜか横隔膜が良い状態になる。
0930考える名無しさん2017/11/03(金) 01:21:39.160
@「感情+情動」感性に頼るな 、
A「知識+論理」理性に頼るな、では?何に頼ればいいか、それは自分以外だ、
自分という主体が転げ落ちる道をAで考え道筋を周囲に構築し、
@という原始的な行動原理で目的へ向けて落下してゆく第Bの方法を選べ。
感性の力で目的に上る、感情をむき出しに感情に任せ思考をせずに進むなら
原動力としては十分だ、それは進むことはできても道を選ぶ制御が出来るわけがない
理性の力で目的に上るのは1歩1歩制御して上れたとしても、上るという行為は簡単ではない。
第三の方法Bとは、理性で道に布石をして感性が迷わなくてもそこにしか進めない道を
理性で刻んでおくという方法である、故に目的へ昇るのではなく、目的へ落下するのである
意志や思考の考えなどでは訂正のできない一度転げ落ち始めたらとめられない下り坂だ、
目的へ努力するとか1歩1歩進むとかの積み上げはない、どうにもならない道が過去の理性
によって刻まれ、そこに向かって転がるだけ。選択などない、転げないようにしても無駄になる、
それが落下する目的へ下る道だ。
積み上げて昇る道は学校や社会で習うが、下る道は誰も教えてはくれない。
絶対にわき道にそれない条件の道を決めておけば、一度転がりはじめれば止まらない、
転がり行く道以外を絶対に選んではいけない禁じ手で封じる、たとえば間違った道を進めば
意志とかその後の訂正の努力とは無関係に死あるのみ。完全に選択を封じることで
人を進化させる、つまり巨大な対価を条件を落下以外の選択に刻めばいいだけ。
選択を間違えたら大きな対価を払うほど選択は間違えない、選び迷うなどありえないからだ、
もし選び迷う条件付けで緩く目標を決めたら、それは落下になっていないということだ。
失敗することを恐れては、落下することはできない、パラシュートで飛行機で上空から飛び降りる、
それは訂正できない目的、地面への落下する布石、地面以外にたどり着けない対価という条件づけである。
そらから落ちる夢をみた。
0931Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/03(金) 14:37:37.720
人との関係は、見栄の張り合いみたいになったら、まずクールになれ。クールなら、上げ足を取られることもないだろう。
クールなら自信あふれる。そして、クールでありつつ、温かみを持たなければならない。他人に対して冷酷であれば、
それはほとんど犯罪的なのである。

心は、多重性を持つ。一つではなくブレている。心には、受け取る心(自己性)と、顕れる心(対他性)がある。
自分が他者に見出したかったサインがあり、自分が他者に理解してほしかったサインなどもある。だが、サインとは、
例えば青信号であれば、そのサインは「進め」であり、「ワタシヲミテ」や、「存在の孤独」といったサインを発して
いるわけではない。ただ信号と言えば、物質であるということ以上に、求めることはできない。

心の、自己の心という部分は、信仰心のみである。信じる心が自己の心である。

サインを見誤らず、正しく受け取るようにすれば、何も考え込んで落ち込むこともない。疎外されているという風に、
他者からメッセージを送られていることだけを感じて拒絶されたと落ち込むこともない。
必要なのは、自己の欲しかったメッセージを、他者のサインの中に探ろうとする誤った考えを、直すことである。
自己の欲しかったメッセージは、いつか叶うのかもしれない。今すぐ、現在に欲しい、と信じ込んでしまうこと、
そのように誤りやすいのが人間というものだ。
サイン以上のかかわり方は、おそらく存在しないだろう。もちろん、話し合うことはあるが、そのような話し合いで
通じ合うというものは、サインと同様の錯誤と裏切りの危険に、常にさらされている。

サインだけで理解が可能であるということは、非常に経済性の良い機能である。もちろん平和な社会で、過ち
に陥ってしまえば、孤独と憤懣である。だが、感受性と能力の高さゆえに、過ちに陥りやすい、ということは、
当然あるわけであり、何も、過ちはその人のせいではない。あらゆる人間が、何らかの危機にある人間を、
責めようとするわけではない。本当は、温かく見守られているのであるかもしれないのだから、自己と他者に
絶望する必要はない。

サインを、正しく受け取ることにつきる。間違いは、可能性の別名だ。
0932Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/04(土) 17:18:26.240
皮と骨との分離を行うべきである。瞼、後頭部、首、胸、背中、腕、脚。下へ皮を引っ張り下ろす。
0934Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/05(日) 11:23:05.240
頭の中の想像の世界のイメージと、現実の世界のイメージを、共存、融合させる。どこで?やはり頭の中で、か?
つまり、現実の視界が頭の中に流入してくるということか?入れたり、押し出したり、往還運動を行える。
0935Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/05(日) 11:31:44.110
現実の世界も、前方、後ろ、横、上、下などのイメージを、全て共存させるべきである。
0936Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/05(日) 11:37:21.260
頭の中のイメージとの距離を、測らねばならない。虚の現実化の一つ。その上で、虚なイメージを、近づけたり遠ざけたり
できる。
0937Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/05(日) 11:45:35.010
脳内のイメージを包んでいる空間の「バックグラウンド自体」を、捉えることはできる。現実の世界に於いても、「背景」
を意識するのは大切である。
0938Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/05(日) 12:19:19.300
意識の背景も存在している。それを意識化せよ。文章、思考の背景を見よ、考えよ。目の前の焦点を合わせた
対象すらも、背景として、意識せよ。対象として意識した思考さえも、背景化してしまえ。
0939Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/05(日) 12:58:11.530
意識化した思考の背景にある、気持ち、感覚に気をつけよ。
背景を極めたところに悟りがある。自分の存在が、あやふやではなく、理由を見誤らず、現実化する。現実に階層を作る
必要がなくなる。全てが背景になり、対象と背景が融合し、同一化し、これ以上の不安を誘うものもなくなる。
脳の働きが、健全化する。本当に欲しかったものが、現在も諦められず存在しているが、それらへの執着を
おさめる方法が、背景化による無差別化だ。意識や自我は、ストーリーのためにあるのではなく、あるためにある、
とはっきりする。対象化された意識については、それは原因の方を見つめるべきである。もし、それが実体化
するなら、恐ろしいことだ。それはあるべきであるが、それだけがあるべきではない。妄念を捨て去り、
悟りに生きるべきだ。それは理念であり、形にできない。それ故にむしろ、攻撃されない。他者を攻撃するものでは
ないのだから、当たり前だ。人間の理想として、頼るべきものはそこにしかない。つまり、動かず迷わないためには、
迷う原因を、当てなければならない。僕自身が考えたところでは、それは、対象と背景の混乱と妄想であった。
頼るものがない場合、仮の気持ちになり、どうしても自己が攻撃されているという妄念に支配されている。
自分が見る世界に、攻撃的要因がなければ、それは安楽であろう。自己自身の認識、その土台と視野が、
なくなっていたために、何一つとして確かではなかった。自己が自己の部分について、確かであると思えるならば、
それは迷いのない現実である。人間にとって自然は移り行くものであり、確かと思うことだけは、救いである。
確かと思えるために、思考と気持ちの背景を、自己化しなければならない。
0940Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/05(日) 18:49:57.460
思い出す事物のイメージ(例えば部屋の風景)に、近寄っていったり、遠ざかったり、出来る。アドベンチャーゲームのように。
現実の世界の事物にも、近寄ったり遠ざかったりした結果の映像を、予測することが出来る。それはいいリハビリになる。
0941Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/05(日) 20:09:35.220
表情やしぐさ、声音などから、また文章から、人の思考を想像し受け取り、「真似する」ようにせよ。それが、味わい深い
ものなら、いつまでも飽きない。安らぎとは、そのような行為の中にあるだろう。人を好きだとは、そんな響き合いが
心地よいということだろう。
0942Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/06(月) 13:56:16.770
感情について、その感情は、きっと今まで味わったことのないような感情なのであるかもしれない。感情によって
損をしている、などと思うことはない。感情の起伏があること自体は、生きているあかしである。その感情の
負の面ばかりを考えてはならない。感情を受けているのは、自分なのであって、相手ではない。
その感情を、愚弄されても、気にするな。一人になった時には、その感情は、自分のものだ。今までには
なかったような……。可能性の発展、そのようにして、人は自分に納得していく。決して、やり返す
こと自体に、意味を見出すのではない。自分がこのようにあるべきであるとするもの、自分自信は決して騙されるのを
良しとしないもの。それぞれの人が、感情を持っている。嫌なことは、助けを呼んでも、最終的には、自分の中で
納得するしかない、そのための、意味付けが、感情の未知性にあるだろう。過去を振り返って、嫌なことがたくさん
あると、感情が苛む。だがそれは、自分が生きているという意味付けをされるべきものだ。
0943Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/06(月) 14:48:55.310
私は一個の人間であり、決して知覚、環境によって私であるのではない。自己の存在の獲得。それは、
苦しみが自分のものであることを知り、他者に気使いすることではない、と知ること。今命果てることを対置し、
私は生きている私を感じる。
0944Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/06(月) 19:24:20.670
自己の独立のためには、共通点ではなく相違点を見ねばならない。協和のためには、相違点ではなく、共通点を
見なければならない。この矛盾。だが、人間は両方を認めうる。自己の論理性は、常に必要なのではない。
何故なら、この場合、論理ではなく現実が重要なのだから。現実には、矛盾したことはいくらでもある。
ただ、法によって理論づけることもできるが、その理論は非常に難解になるだろう。易しい問題では
ないのである。その理論に、論理的厳密性を持たせるためには、有るようで無い、無いようで有るといった、
仏教ではよく聞かれる理論を、含まねばならない。
そのとき、独立的人間であり、協和的な人間である、という自己内での力に、方向を与えられるのではないか。

つまり、時間的な矛盾は、矛盾ではない。時間に沿っていく存在も、変わることを責められるべきではない。
アイデンティティとして、他に向けては、言動に一貫性を持たねばならないが、自己の存在には、そのような
枷をはめることは、決してできない。
0945考える名無しさん2017/11/07(火) 04:41:14.120
虚も実なり、実は虚なり
見極めて虚が実ではないと判断するのはいいが、立ち位置や時によって
普遍ではないことを知ろう。
0946Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/07(火) 07:33:57.660
>>945
親が鼓と能管をやっているのですが、能は虚と実を扱っています。そこはかとない美意識を持てます。
虚と実は、なぜそれぞれに成り立つのか、立たないのか、ということを、精神に問うことは、大事だと
思います。自然と精神は、本質を同じくしているのでしょう。
0947考える名無しさん2017/11/07(火) 14:30:40.660
佛沸仏
表裏一体じゃよ、虚も実も裏返りにすぎず両者は同時にあってこそ真なり
鍛えるべきはそれに流されずバランスを保ち平静でいられること、
座禅は、座ることと言うが、座っているのに坊さんから肩をたたかれる理由を考えろ
何も考えずに座るだけなのにそれを維持することがどれだけ難しいか、
肉体的、精神的な抽象的なバランス応答を鍛えるのが座禅、
何事にもゆれない心は、心を強くもつことでもなく、何も考えないことでもなく、
何かを考えることでもない、同じ心の状態のバランスを維持する集中力だ、
0948Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/07(火) 17:11:56.040
視界の中の物と視界自体が、眼球に、直接につながっていると考えるべきである。聴覚も同様に、聞こえたと
思ったら、その時すでにつながっている。脳の中の部分同士もつながっており、身体のあちこちも
つながっている。そのように思うと、視界や聴覚について、一番効率が良く自然な感覚になれる。
そしてそれが、迷いのない状態である。
0949Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/10(金) 17:45:50.210
呼吸をする時、その始まりと終わりではなく、中間(経過途中)を、意識してするべきである。同様に、視界の
中空(対象の手前)、眼球の中心、肺の空っぽなところ、腹の真ん中などを意識して、感覚するべきである。

車の窓から見る異性や他人について言えることだが、記号としての特徴ではなく、その人の持つ心の中空を、
想像しながら、見る、知るべきである。

自分には心があるから、他人の心も想像できる。つまり、同胞であるという意識が持てるわけである。
表面だけの知覚ではなく、想像された心こそ、真に知る価値のあるものである。
0950考える名無しさん2017/11/11(土) 05:36:47.250
>自分には心があるから、
自分を構成する心は自分の中ではなく自分の外にある、他が自分の存在を意識することで
自分の心が存在できる、心は他とのつながり、無数の観測が個を存在させる、
他人の心も見ていてくれる何かがあるからこそ価値が生じる、
他を感謝してこそ、自分が祝福される。
心はつなぐ、それは勇気が必要だ、心は形作る、それは希望が必要だ、
そこに生じる真実こそ愛だ、ホーリアップ
0951Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/11(土) 13:57:07.440
>>950
そうですね、感謝したい気持ちです。ご自分でそのように考えていらっしゃること、尊いことではないでしょうか。

自分はポピィくんの髪型に似ているな、と思ったり、まやちょんの純愛に感動したりしていました。

後ろめたい気持ちとは、忘れてしまうことからくる混乱と焦りから生じるのです。自己内対話(自己内問答)を
行なってみましょう、そのとき、前の方にした質問がなんであったか、思い出すのは難しいことです。
でも、そのようなことを思いだす行為は、大変に脳を活性化させ、爽快な気分になれるのです。
答にたどり着くことの、そのプロセスこそが、生きるということの、実行なのです。
何をやっても、やることが一瞬では、つまりません。そのプロセスから発見したこと、
プロセスにおいて良い感覚を得ること、そんなことが、存在の方法です。
良い結果を得られない自分であったとしても、気にする必要はないはずです。
敗者には敗者の気持ちがある、ただ、影響力と報酬が、ないだけなのです。
だから、思い出すことに迷ってストレスや不安に侵されないことが、よい考えなのです。
我に返ることを、怖がらないこと、それが、全ての契約の掟です。
何を得るか、何を得られるか、それは、もちろん、自分の気持ちの、落ち着け方、そして、真理と
いまだ明かされざる実在への希求の気持ちでしょう。そんな信念を持っていて、終身の探究者たる
失われないもの、そんなことへの、尊重として、どこかでつながる、霞のような真実を、操れることです。
0952考える名無しさん2017/11/11(土) 22:19:41.570
考えて感謝するなら、その力は小さい、感謝が自然に生まれる、
世界が感謝に満ちている、それこそ本当の感謝の力である、
感謝の基本は円の動き、円の流れ、円の形、円の質、円の理、
まわりめぐって成すのは徳である、それは善意ではなく、悪意でもない、
理屈ではなく感じ取ること、彫刻家が木材の丸太から仏の像を削りだす
所業の類である、円は円弧であっては機能しない、円となる気配を感じ取り
円になる手助けをする、それが感謝の力だ。
一度円ができた場合、大きな円の繋がりを補正してより大きな円になれば穏やかにゆったりとやさしくなるが
円を小さな円にすれば強く単純な力へと変貌する、心眼をもってそれを感じられるかどうかが円の力を知る術である。
遠い話の縁が、園内で縁を気づいているような気がした。
0953Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/12(日) 02:10:40.760
>>952
円には中心があり、内と外を分けるものでもありますね。色々な場面で登場します。
円を生成することを、人間も行える、ということ。その場面は、徳と感謝であるということ。
数学には平面幾何と立体幾何がありますが、平面幾何の円でも、十分に豊かなイメージがあり、
何らかの形と比喩的な意味合いになる。これは、囲碁では、九路盤(九×九の盤)で十分に、
勝負の結果が推定的に予定されないゲームとして、無限のパターンが生じるのだ、ということと、
同じようなことのように思います。
あなたは感覚を使うことにたけておられますが、その仮説を行う能力には、端倪すべからざるものがあります。
正しいことと正しくないことを、見分けておられますが、それが、勇気をもって、愛を持って、希望するという、
一つのやり方を、押し広げる、それこそ希望の光を掲げられるような考え方に、僕は意味を見出しています。
つまり、意表を突かれるわけです。臆病者の勇気ほど尊いものです。愛もたざる者に生まれる愛ほど尊いのです。
希望は、必要とされる事情がなければ、輝かない。
0954考える名無しさん2017/11/12(日) 15:13:36.950
目覚めの言葉エルダ・タルータ
本質の言葉サークス・サーク
真実の言葉アーク・アルクス

なぜかあたらない弾、
0955Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/12(日) 15:43:32.260
>>954
その作品は、動画をちらっと見たことしかありませんが、そういうことですよね。ヤンマーニですね。
0956考える名無しさん2017/11/12(日) 22:46:53.100
たとえ幻想であっても、すべての事象、すべての万物に適用しえない根源の
法則でなければ、それはこの世の法則に適用する術ではないはず。
より高尚で抽象的で掴み得ないそれは、妄想幻想の類に恐ろしく近似しているはずだ。
壁に見えるコケや汚れの模様であっても、それは世界の一部である。
0957Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/12(日) 23:37:31.100
>>956
希少性、極意の高みが、いわば隠されているわけですね。それを得ることが出来れば、世界の把握が実現される、
というようなことでしょうか。実在の一側面が見えることはあり、その先に、別の側面が、見えるような術がある。
コケや汚れは、実在の一側面である。
つまり、記録と記憶の向こうにある、過去の失われた知を探り当てる。そんなことを、現在の時点から、
開いていかないといけない。幸い、今はのちの世であるから、多くの力が、集まってくる。
そのとき、個人の仮説と、他人の仮説が、有効に共存して影響しあう。
妄想ということは、ある極端な仮説、労力を惜しまない仮説というものであり、本当に自分が思うなら、
きっと、現実化されるようなこともあるかもしれないと思います。以前仰っておられた、人の和などは、
そうした理想郷の実現でしょう。

私は、悟りを得るために、特に認識論的な方向からのアプローチを行い、考えてきました。生物の進化や、
生命の意味、また存在というものについての哲学、存在論のことは、なかなか良くは知っていませんし、
自分の考えも少ないです。
ですから、現在においてたどり着いた、様々な方面からの認識で、現在自分の最高のものを、表しておきます。

それは、視覚、想像されたイメージと、声が、密接に結びついているということです。イメージと声が、
なぜかお互いにかかわっている。
豊かであるイメージと、自己の認識限界が表れる声というものが、お互いに高め合って、最高の認識にいたるだろう、
と考えています。
それは、記憶のプロセスというような(記憶にはプロセス、メカニズムがある)、存在の内と外、存在の境界を、
成り立たせる世界と言うもの、時や意識や美やといったものの、最高の頂点を極めるようになる、世界の
謎は、まさに解き明かされようとしているように感じています。世界にはもともと境界はあったのか、いつ生まれたのか、
何がその原理をもたらすのか、いかなる形にその認識を加工し得るのか、そういうことを考えています。
0959Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/13(月) 14:06:29.370
悪いことをしていないのにいつか死ぬということ。つまり、原罪を行ったからである。だから罪とは人間のものであり、
人間は罪によってこの世界の中にいられるようになる。もし罪がないのであれば、人は世界の外にあらねばならない。
救いとは、罪を贖うということを選ぶことであって、明るい世界こそがふさわしい。
最後の運命が、決まり切っているのであれば、痛みということが、執拗に訪れること、愚かさは、本来的ではないこと、
そういう理解を、真理として持つのであろう。
愚かさこそ、最も許せないものだ。愚かであることをごまかすことは、末法である。原罪が知恵をもたらす。
人の命を食い、人の考えを取り入れることで、人間は知恵をつける。そこには、余りにも醜いものが、
表れている。だが、その醜さから目をそらさないことで、現世の進行を支え、悪の必要性も信じ、
多くの人間が実践的に知っていることに、反しないということを教わりつつ、精神修養にも親しむことが出来る。
愚かさは原罪を見ようとせず、覆い隠す。原罪と向き合うには、知恵を体現する必要がある。自分が救われるとは、
誰かのせいにしないことである。そうすることの空しさが、最後までわからないなら、悟りを知らずに終わることになる。
何よりも、一人で終わることを、自分で引き受けるしかないのであり、そのとき、崩れる瓦礫の中で、自分自身を知る。
だから、迷い、悩み、苦しむこと、そうしたことにも大きな意味があるだろう。
個人を超えるもの、世界を超えるものが、存在するという悟りは、神の存在を知ることと同じである。
そういうことには、実在と仮象の区別はないのである。現実化していくものの法(のり)を知れば、そうしたものが、
まさに存在するものであり、そのリアリティこそが、現在の曖昧なものの行くことのできる方向であるということが
わかるはずだ。わかっているのに行えない、そうした迷いを踏み越えよう。
0961考える名無しさん2017/11/13(月) 16:14:33.760
>最後までわからないなら、悟りを知らずに終わることになる。
死の最後の一瞬、すべての活きが失われるとき悟りが訪れる、
これは釈迦の言う仏になること、滅しなくてどうして悟りといえる
生きていても小さな滅が繰り返される、それも悟り。
1つの命が滅びて悟りに達しても、他の個体へ因果は続き輪廻する、
釈迦はこの因果すら滅する夢をみた。

>そうしたものが、まさに存在するものであり
神とはそういうもので、それそのもの、「それ」が宿ったとき、神が降りてくる。
万物のそれぞれが活きたまま神が宿ると日本ではそれを鬼と呼ぶ。
生物が活きた場合ではなく物に鬼が宿ると、妖怪と呼ぶ。
不完全な生き物の所業、非生物の不完全な働き、それらが偶然の原理によって
人に姿をあらわすのが憑依霊(鬼)や妖怪であって、それが相互に連鎖して
偶然の域から必然の域に達して働いてしまうと、物の怪や八百万神になる。
これらは見えない"形容"と見えない"原理"と、見えない"真実"から成り、それぞれが
見えることで対峙(退治)することができる、つまり客観的に科学として理解しえる。
信仰において神は実在しなくても、信仰の心に存在する真実であり、人を活かす原理であり
社会に信仰という形を与えてくれる。
0962Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/14(火) 00:05:20.880
>>961
>>そうしたものが、まさに存在するものであり
よいピックアップをありがとうございます。
僕の考える、神についての考えと、生死についての現実的な考えは、二分され、なかなか混じりなじまないようです。
科学思考をも含んだ神理解をされていて、しっかりとした展開に、安心感を覚えました。
僕の中での現在の考えは、懐疑論=無神論と、再発見的な神秘世界とに、二分されています。

社会発展を歴史として追うことができる、ということは、人間の精神も、その発展をなぞるように、発展できる
ということだと思います。するとこれは、例えば、

「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である。」

といような、ポールヴァレリーの言葉の、意味を追うこともできるはずです。

個人の世界は生じて閉じるものであり、天稟を損なわれずに教育をされ、自分で学んでいくことが、思想を発展
させる結果になるのではないでしょうか。

最上の感覚を研ぎ澄ませ、字面などを感覚できるようになりたいと思い、今は頑張っているのですが。
0963Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/16(木) 19:10:11.220
>>958
身体の声を聞き、本当に正すべき姿勢というものを、掴むと、いい、ですよね。
心の声を聞き、考えたいことを考え、考えるべきことを考えるということも大事なことだと思います。
0964Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/19(日) 00:46:15.120
小説の人物の名前を覚えておける記憶力があるなら、きっと大丈夫さ。
ちなみに、『ジェイン・エア』のヒーローはエドワード・フェアファクス・ロチェスターだ。覚えられるかな。
0965Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/22(水) 23:05:53.350
意識というものは、どれだけでも強化できる。逆に、弱くもできる。つまり、コミュニケーションの成り立ちが
経験となり、感情の揺れや不安にうまく水をかけてそれらを治めることが出来るものだとしても、
コミュニケーションによらない経験と言うものが、別の界において可能であり、それがまさに
意識の強化と弱化という自己コントロールに他ならない。意識を念ずること、そのとき、自己の脆弱が
乗り越えられ、自らの能力を引き出すことが出来る。
0966Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/22(水) 23:12:42.200
赤ちゃんを考えればわかりやすいのだが、筋肉の緊張をなるべく取った方がいいのである。
身体をグニャグニャにして、座っていると、実に落ち着く感じが得られる。
0967Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/22(水) 23:25:25.900
脳を弛緩すると、たいていの不快感や恥の強制は、忘れてしまうのである。座禅において、目を閉じたりするのは、
外界とは別に存在する自己というものが、自己をコントロールできるのだという事を、体現することに
目標が置かれるからであろう。脳と筋肉の弛緩において、必要なものは一つもない。

一方の端には脳と筋肉の構成があって、他方の端には意識が存在する。その関わり合いを、
解き明かすことは僕にはできないが、どちら側もそれぞれに突き詰めることはできるので、
能力や安心について、考えた一つの例にはなっているはずであると思う。
0968考える名無しさん2017/11/24(金) 00:39:09.090
座禅は筋肉を弛緩させるのでも緊張させることでもない、
目を開けて同じ時間だけ直立不動するのも座禅と同じだ、
力をいれても駄目で、力を抜いてもだめ、考えても駄目で、安らいでも駄目、
その中間で常に平静という一定状態を保つということである。
つまり座禅は簡単なようで難しいのである、簡単な座禅ならそれは座禅ではない、
やりかたを間違っている、
明白に座禅の修行をするならば、片足立ちで目をつぶり姿勢を維持すること、
できれば足元が不安定なものの上で行う。
それは"円"の修行(訓練)である、座禅の意識とはバランスを保つこと、
0969Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/24(金) 18:53:35.390
>>968
バランスですか。僕は相当に苦手です。片足で立って目をつぶって姿勢を保とうとしても、一秒くらいで、
姿勢が崩れてしまいます。徐々に覚えていきたいことです。以前は、何もないところで立っているだけで
転びそうになり、暗澹たる気持ちになりました。
片足で立つときは、脚だけでなく、腰や上半身も整っていないといけないのかなぁと思います。
0970Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/24(金) 18:59:33.710
態度には、心が表れるもの。態度に気をつけることで、実際の心が交流しあうことになる。態度が悪いというのは、
心をどうにかしたいという傾向の意見である。心を抜きに態度を気をつけても、大した意味はない。反社会的な
憤怒へいたる過去を、その個人の中に作り上げているようなものだ。態度の悪さを一度で気をつけられるなら、
それはその人が悪い状態に陥っていないということである。体罰を加えるような事をするのは、人を尊重しない
愚か者だ。形式と実質のどちらが根本かなど、当たり前のことが、軽視されているのではないか。
0971Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/24(金) 19:01:04.110
会話をする時、自分の過去にそのトピックについての蓄えがなければ、何も言えない。言ってはいけない。
会話が成り立つとすれば、それは、確かな意見が偶然に自分の中にあったということであろう。
0972Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/24(金) 19:16:34.560
考えがまとまらないのは病気の症状である。考えをまとめるために、脳の海馬を意識したり、自分に対して語り掛ける
などをせよ。まとまらない考えでは、何も生み出せない。過去を想起するにしてもまとまりをつけること。
まとまった意見は自己の表現になる。まとまらない意識の不快感は、それは相当なものがある。
まとまらない状態で会話をしても、何の意味もない表面の音声のやり取りでしかないだろう。

考えをまとめようとしなさい。その場その場で意識してやっていって、まとまらないなと感じることは、大変に
頻繁にあることである。それをまとめ上げたとき、それは自己解決の段階の上がった、
自己が先へ向かったという証である。不快感がストレスになるなら、そのストレスの原因は、
きっと自分の潜在能力を証しているような、まとまりへの希求とした形で生まれるものだ。
どのようなことを考えるのも、可能性だ。健全的だ。まとまりをつけられるなら、そのとき、
頭はやっと平静な状態へと、水面の上に頭を出したような状態に至るということであろう。

その状態があってこそ、意味が生まれる。思考の世界の扉を開こう。まとめることのできる自分の能力は、
あらゆる未来へ向けて、飛躍的に、発展的に、一歩ずついくことである。生きていることの救いを、人間がもたらす、
ということなのである。
0973考える名無しさん2017/11/27(月) 01:16:15.340
>考えがまとまらないのは病気の症状である。
まとめる必要があるのか?たぶん纏めるのは自己満足だろう、過去を評価するときには重要でも、それは評価であって創作ではない。
自分の考えは膨らますものであって、まとめるのは評論でしかない。
結果は努力ではない、覚悟だ、掴み取る準備ができていれば つかめるのが能力である。
答えは気がつくかどうかであり、纏めたそれは土台にしかならない、
継続の力で情報は繋がり劣化し自然にまとまる、そこに意思や思考などいらない、下手に纏めれば
纏めた人の主観でゆがむ、それではそのときの真実は掴めても本質は掴み得ない、
継続は裏切らない、それは見えないだけ、必要なときがきたとき、それが見えるのです、気がつくのです
情報は自分の脳の中だけで形成されるわけではないのです、潜在能力は自己の中にだけ存在するわけではないのです。
混沌と秩序の中にのみ真理の形は形成され、秩序だけでは過去の統計にしかなりえない。
階段は1段登るのではないのです、階段は1段落ちるのです、それは努力で昇るわけではなく、気がつくことで
意思と思考とは無関係に落ちる、ひらめくのです。
その時、その何か、それが来るのです、意思で乗り越えようとしても登るだけ、落ちることはできない
0974Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/27(月) 13:22:56.830
>>973
落ちるということが、ひらめきである、混沌から想像する、などの言葉を興味深く拝見しました(ということは、
お定まりのとおり、完全に理解はしていないということですが)。僕が、まとまりをつけたいと思うのは、
会話がうまくできず、ストレスになるからです。でも、考え直して、不快な思考、悪口のようなものも含めて、
そういう思考に陥ることを避けなければならないと思ったのです。
どうするかというと、思考の始まりを注視して、それが芽吹く前に抑える、ということをします。
悪いことを考えるということには、悪いことを言うこととまた別の悪さがあるわけで。
悪い考えを抑えるという訓練をすることで、良い考えを意識に持ち続けることが出来る。
これが、気分の良い状態ではありませんか。避けてばかりはいられないとしても、
良いことを考えている状態の方が、創造に近いと思うのです。
抑えられる自分は、能力を内部に溜める自分であって、そんな人間にこそ、天は力を貸してくれるのでは
ないでしょうか。自分にできないことばかりを考えていると、空想で頭がいっぱいになってしまい、
結局のところ、虚しく生きることになってしまうような気がします。
自分の無意識と向き合うためには、抑えることが正しいのだと思います。
0975Absalom ◆owNN8RDlXo 2017/11/27(月) 19:19:06.470
色即是空空即是色が、物理法則であるとしたなら、一切皆苦は、生物のみに与えられる現象である。
空は苦を助けない。であるから、人間が自身を助けなければならない。そのために、人間の何かが
変化しないといけない。それは、苦を苦でないものにすることだ。では、苦は欲からくる。
しがたって、欲を増長させてはいけない。そのために自己を抑制できなければならない。
抑制すれば、苦を消すことが出来る。永遠に欲を消さねばならないのではなく、人間存在が
悟りを得る瞬間を持てば、欲の在不在は、その意味を変えられる。最低限のレベルに抑えられる、
という知恵を持つ。
自己を極限まで削り、欲と、悪い感情が、悪い見解が、芽吹く場所を極限まで消さなければならない。
その結果、自己の増長は、無駄なものであったと知りうる。そう思えば、自己と他者の対立は、
消え去り、全ての物体的世界を、安心した自己が眺めているようになる。安心感以上に素晴らしいもの
はない。
自己の中の、変化の力を頼みとせよ。自我を良く保ち、他を悪く言い、悪く思う心が真から遠ざかることである
ということを、気づかなければならない。安心は、そのように自分にやましいことがないと思えなければ、
できないものである。
悪いことをした、と気づき始めれば、あとは方法を習うことで、真理を得られる。その真理の一片が、
悪い思考を抑えることが出来る考え方と自己観、そして自分中心に考えていたのではないということ、
色即是空の体現を行うことである。色即是空と同じになった自己である。
0976考える名無しさん2017/11/27(月) 20:54:30.380
>会話がうまくできず、ストレスになるからです。
意味を意味で返すからこそ旨くできないのです、パンチをパンチで返せば、どうなるでしょう
外れた片方にたいして命中したほうが2倍のパンチ力で相手に止めを刺すことになる、
パンチを自分に受けたい相手に対してはそれはいいかもしれない
パンチを殴りかかりたいだけの相手にとっての返し方は、ボクシングではサンドバック
殴られ役になることです、練習ではパンチ専用のグローブを装着しグローブに向けてパンチをしてもらう。
または殴られても問題のない防具をつけてでしょう。
会話が旨くゆかないのは両者が正義であり、両者が正論だからです、議長や審判がいない
相手を負かそうとする討論で、特に2chのような匿名討論で正義vs正義は相手と強くつながろうとするほど
強い反発力になり論理は議論ではなく相手を威嚇する暴言に変貌します。
会話はキャッチボールという例えがあります、言葉を論理で理解できなくても直ぐに上手に受け止めてあげる、
つまり聞いてあげることがキャッチボールでって、野球の2人でやるキャッチボールがグローブではなくバットで
やりあえば、それは旨く行くわけはなく、片方は常になんで玉を受け取らないの?と思うのは必然とおもわれます。
0977考える名無しさん2017/11/27(月) 21:10:15.260
会話は円です、つまり相手が凸なら凹であわせ、凹なら凸であわせる
会話を楽しくするのは、会話で楽しめばいいのです、つまり笑えば(作り笑い)いいのです、
発言は力です、だが力は永遠ではなく、相手のそれは凸のあとには凹がきます、そのときに
あわせ相手の凹にあわせ凸とする、これがストレスのない円です、つまり感謝です。
会話は論理ではないのです、凸の根源は強さと力、それは感情に盛り上がりにあり、
それを論理部分だけで読み取り論理で返せば凸に凸を返すことになる、
念仏を唱えていると思って「なるほど」と頷いて聞き流してください理解する必要はないのです
聞いてあげたという相手との繋がりを示す、つまり感謝です。
所詮は言葉と理解の力や解釈で言葉が正しく伝わるなど少ないこと、
内容や具体性はともかく相手の感情を捉えること、そしてその具体性について聞かれれば
俺にその固有の具体性を理解する知識がないと説明すればいいだけのことです。
体験したことがないものに体験したような理解を示すのは愚作です、聞くだけでいいのです。

自分の語りを流したいときは、それに対する反論や意見を求めてはいけません、ただ詠うだけ
韻をふみ響かすことが重要です、相手にコメントするときは相手の韻を使い韻を発展させ響かせる、
それは論理ではなく歌です、ポエムなのです。
小鳥は数羽でさえずることがありますが、そこに論理も意味もありません、小鳥の会話は
リズムと円をもつ会話でしかないのです。
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。

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