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悟りに近づくために9 [無断転載禁止]©2ch.net
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0927Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/02(木) 20:43:36.200
右脳のみを働かせ、じんわりと思考するのが良い。幸せや平安は、右脳で感じるものである。
不快感とは、脳内で生じるものであり、脳の働かせ方の習慣的な間違いが、右脳をだめにする。
駄目にはなっていないが、働かないようになっている。
従って、俺はもうだめだとか、自分がおかしいといったことを感じる、ほとんど妄想に近い絶望は、
習慣的に働かなくされた右脳を目覚めさせて、じんわりと感じることで、落ち着き、解消される。
こだわったり思い込んだり、感情のコントロールを失ってしまったり。それらに対して、自発性、
すなわち自分自身の考えを、おさめることは実は難しくないのである。
0928Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/02(木) 22:48:13.900
全ての行動にはそれに至るまでに、原因がある。例えば、腹の辺りがむかむかするとか、お決まりの状態だ。
もちろんそれは、簡単に耐えることが出来るものなのだが、そのむかむかがトリガーになり、行為に走る。
あるいは、映像が脅迫的に訴えてきているのかもしれない。
それらすべてについて、右脳でとらえれば、それほど困窮した心持にならないもので、大したことはない事を、
人が経験し、思考しているのが常である。それらをぶつける相手が、「勝手に選択されること」はないのであり、
事実を知らねばならない。失礼をしてカチンとさせてしまった、その場合は、自分の自由一存で決まることで
ないから、へりくだって待つくらいしかできない。謝りの言葉と言うものを、僕はたくさん知らないため、
どうやって謝ればいいのかという経験も積んでいない。もしかしたら人は、不条理なことを意識的に与えている
という理解をするのかもしれない。
無垢なものなどありはしない。自分の欠点は、自分で考える、客観的に考えなければならないかもしれない。
自分の行動の原因を、探った場合、行き違いやマナーに抵触する形になる未熟さ、マナーとの関係において、
自分が社会的になる必要がある事が多い。つまり行動の原因が、悪い結果、意図せざる結果に結びついて
しまったりする場合も多い。というわけで、自分を大切にすることは、他人にとやかく言われることではないという
当り前のことを、原因と結果の両方を総括する形で、捉える以外に方法がない。そして、総括の結果、自分の
間違いとマナーが、混線してしまっている場合がほとんどだ。そうなったら仕方がない。右脳で考え、
時が過ぎていくに任せるしかない。
あらゆる人は、生きている。死んだのと同じ状態にあるものもいるが、生きているという事を、止めないという
心を、しっかりと持てば、たいていの人は分かってくれるのだ。それが、自殺が推奨されない理由だ。
右脳で頑張るのだ。
0929Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/02(木) 22:57:18.440
呼吸は、片方の肺のみを使って(使う意識をもって)すると良い。安心を司るのは横隔膜であるが、
片方の肺のみを使うと、なぜか横隔膜が良い状態になる。
0930考える名無しさん垢版2017/11/03(金) 01:21:39.160
@「感情+情動」感性に頼るな 、
A「知識+論理」理性に頼るな、では?何に頼ればいいか、それは自分以外だ、
自分という主体が転げ落ちる道をAで考え道筋を周囲に構築し、
@という原始的な行動原理で目的へ向けて落下してゆく第Bの方法を選べ。
感性の力で目的に上る、感情をむき出しに感情に任せ思考をせずに進むなら
原動力としては十分だ、それは進むことはできても道を選ぶ制御が出来るわけがない
理性の力で目的に上るのは1歩1歩制御して上れたとしても、上るという行為は簡単ではない。
第三の方法Bとは、理性で道に布石をして感性が迷わなくてもそこにしか進めない道を
理性で刻んでおくという方法である、故に目的へ昇るのではなく、目的へ落下するのである
意志や思考の考えなどでは訂正のできない一度転げ落ち始めたらとめられない下り坂だ、
目的へ努力するとか1歩1歩進むとかの積み上げはない、どうにもならない道が過去の理性
によって刻まれ、そこに向かって転がるだけ。選択などない、転げないようにしても無駄になる、
それが落下する目的へ下る道だ。
積み上げて昇る道は学校や社会で習うが、下る道は誰も教えてはくれない。
絶対にわき道にそれない条件の道を決めておけば、一度転がりはじめれば止まらない、
転がり行く道以外を絶対に選んではいけない禁じ手で封じる、たとえば間違った道を進めば
意志とかその後の訂正の努力とは無関係に死あるのみ。完全に選択を封じることで
人を進化させる、つまり巨大な対価を条件を落下以外の選択に刻めばいいだけ。
選択を間違えたら大きな対価を払うほど選択は間違えない、選び迷うなどありえないからだ、
もし選び迷う条件付けで緩く目標を決めたら、それは落下になっていないということだ。
失敗することを恐れては、落下することはできない、パラシュートで飛行機で上空から飛び降りる、
それは訂正できない目的、地面への落下する布石、地面以外にたどり着けない対価という条件づけである。
そらから落ちる夢をみた。
0931Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/03(金) 14:37:37.720
人との関係は、見栄の張り合いみたいになったら、まずクールになれ。クールなら、上げ足を取られることもないだろう。
クールなら自信あふれる。そして、クールでありつつ、温かみを持たなければならない。他人に対して冷酷であれば、
それはほとんど犯罪的なのである。

心は、多重性を持つ。一つではなくブレている。心には、受け取る心(自己性)と、顕れる心(対他性)がある。
自分が他者に見出したかったサインがあり、自分が他者に理解してほしかったサインなどもある。だが、サインとは、
例えば青信号であれば、そのサインは「進め」であり、「ワタシヲミテ」や、「存在の孤独」といったサインを発して
いるわけではない。ただ信号と言えば、物質であるということ以上に、求めることはできない。

心の、自己の心という部分は、信仰心のみである。信じる心が自己の心である。

サインを見誤らず、正しく受け取るようにすれば、何も考え込んで落ち込むこともない。疎外されているという風に、
他者からメッセージを送られていることだけを感じて拒絶されたと落ち込むこともない。
必要なのは、自己の欲しかったメッセージを、他者のサインの中に探ろうとする誤った考えを、直すことである。
自己の欲しかったメッセージは、いつか叶うのかもしれない。今すぐ、現在に欲しい、と信じ込んでしまうこと、
そのように誤りやすいのが人間というものだ。
サイン以上のかかわり方は、おそらく存在しないだろう。もちろん、話し合うことはあるが、そのような話し合いで
通じ合うというものは、サインと同様の錯誤と裏切りの危険に、常にさらされている。

サインだけで理解が可能であるということは、非常に経済性の良い機能である。もちろん平和な社会で、過ち
に陥ってしまえば、孤独と憤懣である。だが、感受性と能力の高さゆえに、過ちに陥りやすい、ということは、
当然あるわけであり、何も、過ちはその人のせいではない。あらゆる人間が、何らかの危機にある人間を、
責めようとするわけではない。本当は、温かく見守られているのであるかもしれないのだから、自己と他者に
絶望する必要はない。

サインを、正しく受け取ることにつきる。間違いは、可能性の別名だ。
0932Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/04(土) 17:18:26.240
皮と骨との分離を行うべきである。瞼、後頭部、首、胸、背中、腕、脚。下へ皮を引っ張り下ろす。
0934Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/05(日) 11:23:05.240
頭の中の想像の世界のイメージと、現実の世界のイメージを、共存、融合させる。どこで?やはり頭の中で、か?
つまり、現実の視界が頭の中に流入してくるということか?入れたり、押し出したり、往還運動を行える。
0935Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/05(日) 11:31:44.110
現実の世界も、前方、後ろ、横、上、下などのイメージを、全て共存させるべきである。
0936Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/05(日) 11:37:21.260
頭の中のイメージとの距離を、測らねばならない。虚の現実化の一つ。その上で、虚なイメージを、近づけたり遠ざけたり
できる。
0937Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/05(日) 11:45:35.010
脳内のイメージを包んでいる空間の「バックグラウンド自体」を、捉えることはできる。現実の世界に於いても、「背景」
を意識するのは大切である。
0938Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/05(日) 12:19:19.300
意識の背景も存在している。それを意識化せよ。文章、思考の背景を見よ、考えよ。目の前の焦点を合わせた
対象すらも、背景として、意識せよ。対象として意識した思考さえも、背景化してしまえ。
0939Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/05(日) 12:58:11.530
意識化した思考の背景にある、気持ち、感覚に気をつけよ。
背景を極めたところに悟りがある。自分の存在が、あやふやではなく、理由を見誤らず、現実化する。現実に階層を作る
必要がなくなる。全てが背景になり、対象と背景が融合し、同一化し、これ以上の不安を誘うものもなくなる。
脳の働きが、健全化する。本当に欲しかったものが、現在も諦められず存在しているが、それらへの執着を
おさめる方法が、背景化による無差別化だ。意識や自我は、ストーリーのためにあるのではなく、あるためにある、
とはっきりする。対象化された意識については、それは原因の方を見つめるべきである。もし、それが実体化
するなら、恐ろしいことだ。それはあるべきであるが、それだけがあるべきではない。妄念を捨て去り、
悟りに生きるべきだ。それは理念であり、形にできない。それ故にむしろ、攻撃されない。他者を攻撃するものでは
ないのだから、当たり前だ。人間の理想として、頼るべきものはそこにしかない。つまり、動かず迷わないためには、
迷う原因を、当てなければならない。僕自身が考えたところでは、それは、対象と背景の混乱と妄想であった。
頼るものがない場合、仮の気持ちになり、どうしても自己が攻撃されているという妄念に支配されている。
自分が見る世界に、攻撃的要因がなければ、それは安楽であろう。自己自身の認識、その土台と視野が、
なくなっていたために、何一つとして確かではなかった。自己が自己の部分について、確かであると思えるならば、
それは迷いのない現実である。人間にとって自然は移り行くものであり、確かと思うことだけは、救いである。
確かと思えるために、思考と気持ちの背景を、自己化しなければならない。
0940Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/05(日) 18:49:57.460
思い出す事物のイメージ(例えば部屋の風景)に、近寄っていったり、遠ざかったり、出来る。アドベンチャーゲームのように。
現実の世界の事物にも、近寄ったり遠ざかったりした結果の映像を、予測することが出来る。それはいいリハビリになる。
0941Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/05(日) 20:09:35.220
表情やしぐさ、声音などから、また文章から、人の思考を想像し受け取り、「真似する」ようにせよ。それが、味わい深い
ものなら、いつまでも飽きない。安らぎとは、そのような行為の中にあるだろう。人を好きだとは、そんな響き合いが
心地よいということだろう。
0942Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/06(月) 13:56:16.770
感情について、その感情は、きっと今まで味わったことのないような感情なのであるかもしれない。感情によって
損をしている、などと思うことはない。感情の起伏があること自体は、生きているあかしである。その感情の
負の面ばかりを考えてはならない。感情を受けているのは、自分なのであって、相手ではない。
その感情を、愚弄されても、気にするな。一人になった時には、その感情は、自分のものだ。今までには
なかったような……。可能性の発展、そのようにして、人は自分に納得していく。決して、やり返す
こと自体に、意味を見出すのではない。自分がこのようにあるべきであるとするもの、自分自信は決して騙されるのを
良しとしないもの。それぞれの人が、感情を持っている。嫌なことは、助けを呼んでも、最終的には、自分の中で
納得するしかない、そのための、意味付けが、感情の未知性にあるだろう。過去を振り返って、嫌なことがたくさん
あると、感情が苛む。だがそれは、自分が生きているという意味付けをされるべきものだ。
0943Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/06(月) 14:48:55.310
私は一個の人間であり、決して知覚、環境によって私であるのではない。自己の存在の獲得。それは、
苦しみが自分のものであることを知り、他者に気使いすることではない、と知ること。今命果てることを対置し、
私は生きている私を感じる。
0944Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/06(月) 19:24:20.670
自己の独立のためには、共通点ではなく相違点を見ねばならない。協和のためには、相違点ではなく、共通点を
見なければならない。この矛盾。だが、人間は両方を認めうる。自己の論理性は、常に必要なのではない。
何故なら、この場合、論理ではなく現実が重要なのだから。現実には、矛盾したことはいくらでもある。
ただ、法によって理論づけることもできるが、その理論は非常に難解になるだろう。易しい問題では
ないのである。その理論に、論理的厳密性を持たせるためには、有るようで無い、無いようで有るといった、
仏教ではよく聞かれる理論を、含まねばならない。
そのとき、独立的人間であり、協和的な人間である、という自己内での力に、方向を与えられるのではないか。

つまり、時間的な矛盾は、矛盾ではない。時間に沿っていく存在も、変わることを責められるべきではない。
アイデンティティとして、他に向けては、言動に一貫性を持たねばならないが、自己の存在には、そのような
枷をはめることは、決してできない。
0945考える名無しさん垢版2017/11/07(火) 04:41:14.120
虚も実なり、実は虚なり
見極めて虚が実ではないと判断するのはいいが、立ち位置や時によって
普遍ではないことを知ろう。
0946Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/07(火) 07:33:57.660
>>945
親が鼓と能管をやっているのですが、能は虚と実を扱っています。そこはかとない美意識を持てます。
虚と実は、なぜそれぞれに成り立つのか、立たないのか、ということを、精神に問うことは、大事だと
思います。自然と精神は、本質を同じくしているのでしょう。
0947考える名無しさん垢版2017/11/07(火) 14:30:40.660
佛沸仏
表裏一体じゃよ、虚も実も裏返りにすぎず両者は同時にあってこそ真なり
鍛えるべきはそれに流されずバランスを保ち平静でいられること、
座禅は、座ることと言うが、座っているのに坊さんから肩をたたかれる理由を考えろ
何も考えずに座るだけなのにそれを維持することがどれだけ難しいか、
肉体的、精神的な抽象的なバランス応答を鍛えるのが座禅、
何事にもゆれない心は、心を強くもつことでもなく、何も考えないことでもなく、
何かを考えることでもない、同じ心の状態のバランスを維持する集中力だ、
0948Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/07(火) 17:11:56.040
視界の中の物と視界自体が、眼球に、直接につながっていると考えるべきである。聴覚も同様に、聞こえたと
思ったら、その時すでにつながっている。脳の中の部分同士もつながっており、身体のあちこちも
つながっている。そのように思うと、視界や聴覚について、一番効率が良く自然な感覚になれる。
そしてそれが、迷いのない状態である。
0949Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/10(金) 17:45:50.210
呼吸をする時、その始まりと終わりではなく、中間(経過途中)を、意識してするべきである。同様に、視界の
中空(対象の手前)、眼球の中心、肺の空っぽなところ、腹の真ん中などを意識して、感覚するべきである。

車の窓から見る異性や他人について言えることだが、記号としての特徴ではなく、その人の持つ心の中空を、
想像しながら、見る、知るべきである。

自分には心があるから、他人の心も想像できる。つまり、同胞であるという意識が持てるわけである。
表面だけの知覚ではなく、想像された心こそ、真に知る価値のあるものである。
0950考える名無しさん垢版2017/11/11(土) 05:36:47.250
>自分には心があるから、
自分を構成する心は自分の中ではなく自分の外にある、他が自分の存在を意識することで
自分の心が存在できる、心は他とのつながり、無数の観測が個を存在させる、
他人の心も見ていてくれる何かがあるからこそ価値が生じる、
他を感謝してこそ、自分が祝福される。
心はつなぐ、それは勇気が必要だ、心は形作る、それは希望が必要だ、
そこに生じる真実こそ愛だ、ホーリアップ
0951Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/11(土) 13:57:07.440
>>950
そうですね、感謝したい気持ちです。ご自分でそのように考えていらっしゃること、尊いことではないでしょうか。

自分はポピィくんの髪型に似ているな、と思ったり、まやちょんの純愛に感動したりしていました。

後ろめたい気持ちとは、忘れてしまうことからくる混乱と焦りから生じるのです。自己内対話(自己内問答)を
行なってみましょう、そのとき、前の方にした質問がなんであったか、思い出すのは難しいことです。
でも、そのようなことを思いだす行為は、大変に脳を活性化させ、爽快な気分になれるのです。
答にたどり着くことの、そのプロセスこそが、生きるということの、実行なのです。
何をやっても、やることが一瞬では、つまりません。そのプロセスから発見したこと、
プロセスにおいて良い感覚を得ること、そんなことが、存在の方法です。
良い結果を得られない自分であったとしても、気にする必要はないはずです。
敗者には敗者の気持ちがある、ただ、影響力と報酬が、ないだけなのです。
だから、思い出すことに迷ってストレスや不安に侵されないことが、よい考えなのです。
我に返ることを、怖がらないこと、それが、全ての契約の掟です。
何を得るか、何を得られるか、それは、もちろん、自分の気持ちの、落ち着け方、そして、真理と
いまだ明かされざる実在への希求の気持ちでしょう。そんな信念を持っていて、終身の探究者たる
失われないもの、そんなことへの、尊重として、どこかでつながる、霞のような真実を、操れることです。
0952考える名無しさん垢版2017/11/11(土) 22:19:41.570
考えて感謝するなら、その力は小さい、感謝が自然に生まれる、
世界が感謝に満ちている、それこそ本当の感謝の力である、
感謝の基本は円の動き、円の流れ、円の形、円の質、円の理、
まわりめぐって成すのは徳である、それは善意ではなく、悪意でもない、
理屈ではなく感じ取ること、彫刻家が木材の丸太から仏の像を削りだす
所業の類である、円は円弧であっては機能しない、円となる気配を感じ取り
円になる手助けをする、それが感謝の力だ。
一度円ができた場合、大きな円の繋がりを補正してより大きな円になれば穏やかにゆったりとやさしくなるが
円を小さな円にすれば強く単純な力へと変貌する、心眼をもってそれを感じられるかどうかが円の力を知る術である。
遠い話の縁が、園内で縁を気づいているような気がした。
0953Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/12(日) 02:10:40.760
>>952
円には中心があり、内と外を分けるものでもありますね。色々な場面で登場します。
円を生成することを、人間も行える、ということ。その場面は、徳と感謝であるということ。
数学には平面幾何と立体幾何がありますが、平面幾何の円でも、十分に豊かなイメージがあり、
何らかの形と比喩的な意味合いになる。これは、囲碁では、九路盤(九×九の盤)で十分に、
勝負の結果が推定的に予定されないゲームとして、無限のパターンが生じるのだ、ということと、
同じようなことのように思います。
あなたは感覚を使うことにたけておられますが、その仮説を行う能力には、端倪すべからざるものがあります。
正しいことと正しくないことを、見分けておられますが、それが、勇気をもって、愛を持って、希望するという、
一つのやり方を、押し広げる、それこそ希望の光を掲げられるような考え方に、僕は意味を見出しています。
つまり、意表を突かれるわけです。臆病者の勇気ほど尊いものです。愛もたざる者に生まれる愛ほど尊いのです。
希望は、必要とされる事情がなければ、輝かない。
0954考える名無しさん垢版2017/11/12(日) 15:13:36.950
目覚めの言葉エルダ・タルータ
本質の言葉サークス・サーク
真実の言葉アーク・アルクス

なぜかあたらない弾、
0955Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/12(日) 15:43:32.260
>>954
その作品は、動画をちらっと見たことしかありませんが、そういうことですよね。ヤンマーニですね。
0956考える名無しさん垢版2017/11/12(日) 22:46:53.100
たとえ幻想であっても、すべての事象、すべての万物に適用しえない根源の
法則でなければ、それはこの世の法則に適用する術ではないはず。
より高尚で抽象的で掴み得ないそれは、妄想幻想の類に恐ろしく近似しているはずだ。
壁に見えるコケや汚れの模様であっても、それは世界の一部である。
0957Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/12(日) 23:37:31.100
>>956
希少性、極意の高みが、いわば隠されているわけですね。それを得ることが出来れば、世界の把握が実現される、
というようなことでしょうか。実在の一側面が見えることはあり、その先に、別の側面が、見えるような術がある。
コケや汚れは、実在の一側面である。
つまり、記録と記憶の向こうにある、過去の失われた知を探り当てる。そんなことを、現在の時点から、
開いていかないといけない。幸い、今はのちの世であるから、多くの力が、集まってくる。
そのとき、個人の仮説と、他人の仮説が、有効に共存して影響しあう。
妄想ということは、ある極端な仮説、労力を惜しまない仮説というものであり、本当に自分が思うなら、
きっと、現実化されるようなこともあるかもしれないと思います。以前仰っておられた、人の和などは、
そうした理想郷の実現でしょう。

私は、悟りを得るために、特に認識論的な方向からのアプローチを行い、考えてきました。生物の進化や、
生命の意味、また存在というものについての哲学、存在論のことは、なかなか良くは知っていませんし、
自分の考えも少ないです。
ですから、現在においてたどり着いた、様々な方面からの認識で、現在自分の最高のものを、表しておきます。

それは、視覚、想像されたイメージと、声が、密接に結びついているということです。イメージと声が、
なぜかお互いにかかわっている。
豊かであるイメージと、自己の認識限界が表れる声というものが、お互いに高め合って、最高の認識にいたるだろう、
と考えています。
それは、記憶のプロセスというような(記憶にはプロセス、メカニズムがある)、存在の内と外、存在の境界を、
成り立たせる世界と言うもの、時や意識や美やといったものの、最高の頂点を極めるようになる、世界の
謎は、まさに解き明かされようとしているように感じています。世界にはもともと境界はあったのか、いつ生まれたのか、
何がその原理をもたらすのか、いかなる形にその認識を加工し得るのか、そういうことを考えています。
0959Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/13(月) 14:06:29.370
悪いことをしていないのにいつか死ぬということ。つまり、原罪を行ったからである。だから罪とは人間のものであり、
人間は罪によってこの世界の中にいられるようになる。もし罪がないのであれば、人は世界の外にあらねばならない。
救いとは、罪を贖うということを選ぶことであって、明るい世界こそがふさわしい。
最後の運命が、決まり切っているのであれば、痛みということが、執拗に訪れること、愚かさは、本来的ではないこと、
そういう理解を、真理として持つのであろう。
愚かさこそ、最も許せないものだ。愚かであることをごまかすことは、末法である。原罪が知恵をもたらす。
人の命を食い、人の考えを取り入れることで、人間は知恵をつける。そこには、余りにも醜いものが、
表れている。だが、その醜さから目をそらさないことで、現世の進行を支え、悪の必要性も信じ、
多くの人間が実践的に知っていることに、反しないということを教わりつつ、精神修養にも親しむことが出来る。
愚かさは原罪を見ようとせず、覆い隠す。原罪と向き合うには、知恵を体現する必要がある。自分が救われるとは、
誰かのせいにしないことである。そうすることの空しさが、最後までわからないなら、悟りを知らずに終わることになる。
何よりも、一人で終わることを、自分で引き受けるしかないのであり、そのとき、崩れる瓦礫の中で、自分自身を知る。
だから、迷い、悩み、苦しむこと、そうしたことにも大きな意味があるだろう。
個人を超えるもの、世界を超えるものが、存在するという悟りは、神の存在を知ることと同じである。
そういうことには、実在と仮象の区別はないのである。現実化していくものの法(のり)を知れば、そうしたものが、
まさに存在するものであり、そのリアリティこそが、現在の曖昧なものの行くことのできる方向であるということが
わかるはずだ。わかっているのに行えない、そうした迷いを踏み越えよう。
0961考える名無しさん垢版2017/11/13(月) 16:14:33.760
>最後までわからないなら、悟りを知らずに終わることになる。
死の最後の一瞬、すべての活きが失われるとき悟りが訪れる、
これは釈迦の言う仏になること、滅しなくてどうして悟りといえる
生きていても小さな滅が繰り返される、それも悟り。
1つの命が滅びて悟りに達しても、他の個体へ因果は続き輪廻する、
釈迦はこの因果すら滅する夢をみた。

>そうしたものが、まさに存在するものであり
神とはそういうもので、それそのもの、「それ」が宿ったとき、神が降りてくる。
万物のそれぞれが活きたまま神が宿ると日本ではそれを鬼と呼ぶ。
生物が活きた場合ではなく物に鬼が宿ると、妖怪と呼ぶ。
不完全な生き物の所業、非生物の不完全な働き、それらが偶然の原理によって
人に姿をあらわすのが憑依霊(鬼)や妖怪であって、それが相互に連鎖して
偶然の域から必然の域に達して働いてしまうと、物の怪や八百万神になる。
これらは見えない"形容"と見えない"原理"と、見えない"真実"から成り、それぞれが
見えることで対峙(退治)することができる、つまり客観的に科学として理解しえる。
信仰において神は実在しなくても、信仰の心に存在する真実であり、人を活かす原理であり
社会に信仰という形を与えてくれる。
0962Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/14(火) 00:05:20.880
>>961
>>そうしたものが、まさに存在するものであり
よいピックアップをありがとうございます。
僕の考える、神についての考えと、生死についての現実的な考えは、二分され、なかなか混じりなじまないようです。
科学思考をも含んだ神理解をされていて、しっかりとした展開に、安心感を覚えました。
僕の中での現在の考えは、懐疑論=無神論と、再発見的な神秘世界とに、二分されています。

社会発展を歴史として追うことができる、ということは、人間の精神も、その発展をなぞるように、発展できる
ということだと思います。するとこれは、例えば、

「諸君、嵐は終わった。にもかかわらず、われわれは、あたかも嵐が起ころうとしている矢先のように、不安である。」

といような、ポールヴァレリーの言葉の、意味を追うこともできるはずです。

個人の世界は生じて閉じるものであり、天稟を損なわれずに教育をされ、自分で学んでいくことが、思想を発展
させる結果になるのではないでしょうか。

最上の感覚を研ぎ澄ませ、字面などを感覚できるようになりたいと思い、今は頑張っているのですが。
0963Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/16(木) 19:10:11.220
>>958
身体の声を聞き、本当に正すべき姿勢というものを、掴むと、いい、ですよね。
心の声を聞き、考えたいことを考え、考えるべきことを考えるということも大事なことだと思います。
0964Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/19(日) 00:46:15.120
小説の人物の名前を覚えておける記憶力があるなら、きっと大丈夫さ。
ちなみに、『ジェイン・エア』のヒーローはエドワード・フェアファクス・ロチェスターだ。覚えられるかな。
0965Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/22(水) 23:05:53.350
意識というものは、どれだけでも強化できる。逆に、弱くもできる。つまり、コミュニケーションの成り立ちが
経験となり、感情の揺れや不安にうまく水をかけてそれらを治めることが出来るものだとしても、
コミュニケーションによらない経験と言うものが、別の界において可能であり、それがまさに
意識の強化と弱化という自己コントロールに他ならない。意識を念ずること、そのとき、自己の脆弱が
乗り越えられ、自らの能力を引き出すことが出来る。
0966Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/22(水) 23:12:42.200
赤ちゃんを考えればわかりやすいのだが、筋肉の緊張をなるべく取った方がいいのである。
身体をグニャグニャにして、座っていると、実に落ち着く感じが得られる。
0967Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/22(水) 23:25:25.900
脳を弛緩すると、たいていの不快感や恥の強制は、忘れてしまうのである。座禅において、目を閉じたりするのは、
外界とは別に存在する自己というものが、自己をコントロールできるのだという事を、体現することに
目標が置かれるからであろう。脳と筋肉の弛緩において、必要なものは一つもない。

一方の端には脳と筋肉の構成があって、他方の端には意識が存在する。その関わり合いを、
解き明かすことは僕にはできないが、どちら側もそれぞれに突き詰めることはできるので、
能力や安心について、考えた一つの例にはなっているはずであると思う。
0968考える名無しさん垢版2017/11/24(金) 00:39:09.090
座禅は筋肉を弛緩させるのでも緊張させることでもない、
目を開けて同じ時間だけ直立不動するのも座禅と同じだ、
力をいれても駄目で、力を抜いてもだめ、考えても駄目で、安らいでも駄目、
その中間で常に平静という一定状態を保つということである。
つまり座禅は簡単なようで難しいのである、簡単な座禅ならそれは座禅ではない、
やりかたを間違っている、
明白に座禅の修行をするならば、片足立ちで目をつぶり姿勢を維持すること、
できれば足元が不安定なものの上で行う。
それは"円"の修行(訓練)である、座禅の意識とはバランスを保つこと、
0969Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/24(金) 18:53:35.390
>>968
バランスですか。僕は相当に苦手です。片足で立って目をつぶって姿勢を保とうとしても、一秒くらいで、
姿勢が崩れてしまいます。徐々に覚えていきたいことです。以前は、何もないところで立っているだけで
転びそうになり、暗澹たる気持ちになりました。
片足で立つときは、脚だけでなく、腰や上半身も整っていないといけないのかなぁと思います。
0970Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/24(金) 18:59:33.710
態度には、心が表れるもの。態度に気をつけることで、実際の心が交流しあうことになる。態度が悪いというのは、
心をどうにかしたいという傾向の意見である。心を抜きに態度を気をつけても、大した意味はない。反社会的な
憤怒へいたる過去を、その個人の中に作り上げているようなものだ。態度の悪さを一度で気をつけられるなら、
それはその人が悪い状態に陥っていないということである。体罰を加えるような事をするのは、人を尊重しない
愚か者だ。形式と実質のどちらが根本かなど、当たり前のことが、軽視されているのではないか。
0971Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/24(金) 19:01:04.110
会話をする時、自分の過去にそのトピックについての蓄えがなければ、何も言えない。言ってはいけない。
会話が成り立つとすれば、それは、確かな意見が偶然に自分の中にあったということであろう。
0972Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/24(金) 19:16:34.560
考えがまとまらないのは病気の症状である。考えをまとめるために、脳の海馬を意識したり、自分に対して語り掛ける
などをせよ。まとまらない考えでは、何も生み出せない。過去を想起するにしてもまとまりをつけること。
まとまった意見は自己の表現になる。まとまらない意識の不快感は、それは相当なものがある。
まとまらない状態で会話をしても、何の意味もない表面の音声のやり取りでしかないだろう。

考えをまとめようとしなさい。その場その場で意識してやっていって、まとまらないなと感じることは、大変に
頻繁にあることである。それをまとめ上げたとき、それは自己解決の段階の上がった、
自己が先へ向かったという証である。不快感がストレスになるなら、そのストレスの原因は、
きっと自分の潜在能力を証しているような、まとまりへの希求とした形で生まれるものだ。
どのようなことを考えるのも、可能性だ。健全的だ。まとまりをつけられるなら、そのとき、
頭はやっと平静な状態へと、水面の上に頭を出したような状態に至るということであろう。

その状態があってこそ、意味が生まれる。思考の世界の扉を開こう。まとめることのできる自分の能力は、
あらゆる未来へ向けて、飛躍的に、発展的に、一歩ずついくことである。生きていることの救いを、人間がもたらす、
ということなのである。
0973考える名無しさん垢版2017/11/27(月) 01:16:15.340
>考えがまとまらないのは病気の症状である。
まとめる必要があるのか?たぶん纏めるのは自己満足だろう、過去を評価するときには重要でも、それは評価であって創作ではない。
自分の考えは膨らますものであって、まとめるのは評論でしかない。
結果は努力ではない、覚悟だ、掴み取る準備ができていれば つかめるのが能力である。
答えは気がつくかどうかであり、纏めたそれは土台にしかならない、
継続の力で情報は繋がり劣化し自然にまとまる、そこに意思や思考などいらない、下手に纏めれば
纏めた人の主観でゆがむ、それではそのときの真実は掴めても本質は掴み得ない、
継続は裏切らない、それは見えないだけ、必要なときがきたとき、それが見えるのです、気がつくのです
情報は自分の脳の中だけで形成されるわけではないのです、潜在能力は自己の中にだけ存在するわけではないのです。
混沌と秩序の中にのみ真理の形は形成され、秩序だけでは過去の統計にしかなりえない。
階段は1段登るのではないのです、階段は1段落ちるのです、それは努力で昇るわけではなく、気がつくことで
意思と思考とは無関係に落ちる、ひらめくのです。
その時、その何か、それが来るのです、意思で乗り越えようとしても登るだけ、落ちることはできない
0974Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/27(月) 13:22:56.830
>>973
落ちるということが、ひらめきである、混沌から想像する、などの言葉を興味深く拝見しました(ということは、
お定まりのとおり、完全に理解はしていないということですが)。僕が、まとまりをつけたいと思うのは、
会話がうまくできず、ストレスになるからです。でも、考え直して、不快な思考、悪口のようなものも含めて、
そういう思考に陥ることを避けなければならないと思ったのです。
どうするかというと、思考の始まりを注視して、それが芽吹く前に抑える、ということをします。
悪いことを考えるということには、悪いことを言うこととまた別の悪さがあるわけで。
悪い考えを抑えるという訓練をすることで、良い考えを意識に持ち続けることが出来る。
これが、気分の良い状態ではありませんか。避けてばかりはいられないとしても、
良いことを考えている状態の方が、創造に近いと思うのです。
抑えられる自分は、能力を内部に溜める自分であって、そんな人間にこそ、天は力を貸してくれるのでは
ないでしょうか。自分にできないことばかりを考えていると、空想で頭がいっぱいになってしまい、
結局のところ、虚しく生きることになってしまうような気がします。
自分の無意識と向き合うためには、抑えることが正しいのだと思います。
0975Absalom ◆owNN8RDlXo 垢版2017/11/27(月) 19:19:06.470
色即是空空即是色が、物理法則であるとしたなら、一切皆苦は、生物のみに与えられる現象である。
空は苦を助けない。であるから、人間が自身を助けなければならない。そのために、人間の何かが
変化しないといけない。それは、苦を苦でないものにすることだ。では、苦は欲からくる。
しがたって、欲を増長させてはいけない。そのために自己を抑制できなければならない。
抑制すれば、苦を消すことが出来る。永遠に欲を消さねばならないのではなく、人間存在が
悟りを得る瞬間を持てば、欲の在不在は、その意味を変えられる。最低限のレベルに抑えられる、
という知恵を持つ。
自己を極限まで削り、欲と、悪い感情が、悪い見解が、芽吹く場所を極限まで消さなければならない。
その結果、自己の増長は、無駄なものであったと知りうる。そう思えば、自己と他者の対立は、
消え去り、全ての物体的世界を、安心した自己が眺めているようになる。安心感以上に素晴らしいもの
はない。
自己の中の、変化の力を頼みとせよ。自我を良く保ち、他を悪く言い、悪く思う心が真から遠ざかることである
ということを、気づかなければならない。安心は、そのように自分にやましいことがないと思えなければ、
できないものである。
悪いことをした、と気づき始めれば、あとは方法を習うことで、真理を得られる。その真理の一片が、
悪い思考を抑えることが出来る考え方と自己観、そして自分中心に考えていたのではないということ、
色即是空の体現を行うことである。色即是空と同じになった自己である。
0976考える名無しさん垢版2017/11/27(月) 20:54:30.380
>会話がうまくできず、ストレスになるからです。
意味を意味で返すからこそ旨くできないのです、パンチをパンチで返せば、どうなるでしょう
外れた片方にたいして命中したほうが2倍のパンチ力で相手に止めを刺すことになる、
パンチを自分に受けたい相手に対してはそれはいいかもしれない
パンチを殴りかかりたいだけの相手にとっての返し方は、ボクシングではサンドバック
殴られ役になることです、練習ではパンチ専用のグローブを装着しグローブに向けてパンチをしてもらう。
または殴られても問題のない防具をつけてでしょう。
会話が旨くゆかないのは両者が正義であり、両者が正論だからです、議長や審判がいない
相手を負かそうとする討論で、特に2chのような匿名討論で正義vs正義は相手と強くつながろうとするほど
強い反発力になり論理は議論ではなく相手を威嚇する暴言に変貌します。
会話はキャッチボールという例えがあります、言葉を論理で理解できなくても直ぐに上手に受け止めてあげる、
つまり聞いてあげることがキャッチボールでって、野球の2人でやるキャッチボールがグローブではなくバットで
やりあえば、それは旨く行くわけはなく、片方は常になんで玉を受け取らないの?と思うのは必然とおもわれます。
0977考える名無しさん垢版2017/11/27(月) 21:10:15.260
会話は円です、つまり相手が凸なら凹であわせ、凹なら凸であわせる
会話を楽しくするのは、会話で楽しめばいいのです、つまり笑えば(作り笑い)いいのです、
発言は力です、だが力は永遠ではなく、相手のそれは凸のあとには凹がきます、そのときに
あわせ相手の凹にあわせ凸とする、これがストレスのない円です、つまり感謝です。
会話は論理ではないのです、凸の根源は強さと力、それは感情に盛り上がりにあり、
それを論理部分だけで読み取り論理で返せば凸に凸を返すことになる、
念仏を唱えていると思って「なるほど」と頷いて聞き流してください理解する必要はないのです
聞いてあげたという相手との繋がりを示す、つまり感謝です。
所詮は言葉と理解の力や解釈で言葉が正しく伝わるなど少ないこと、
内容や具体性はともかく相手の感情を捉えること、そしてその具体性について聞かれれば
俺にその固有の具体性を理解する知識がないと説明すればいいだけのことです。
体験したことがないものに体験したような理解を示すのは愚作です、聞くだけでいいのです。

自分の語りを流したいときは、それに対する反論や意見を求めてはいけません、ただ詠うだけ
韻をふみ響かすことが重要です、相手にコメントするときは相手の韻を使い韻を発展させ響かせる、
それは論理ではなく歌です、ポエムなのです。
小鳥は数羽でさえずることがありますが、そこに論理も意味もありません、小鳥の会話は
リズムと円をもつ会話でしかないのです。
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。

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