【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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手書きパッドが使えない環境で、旧字体を調べるのに便利。 三木清の哲学入門って
ものすごくいいところどりした感じの妙な本だなあと最初の方を読んでそう思った。 「哲学」、「科学」、「芸術」、「心理学」、「意識」、「概念」、「命題」、「知識」、
「帰納」、「演繹」などの訳語を創ったのが西周(にしあまね) 西田より 京都鎌倉五山文学をまず。立命同志社も応援。 良いか悪いかは置いといて、日本の哲学の中で
西田や京都学派の存在は大きいよ。
日本語と日本文化の枠組みを通して
現象学や西洋哲学を把握した例として。 同時代には、他にも優れた人がいるから
西田や京都学派から始めて、多角的に見ていくのがいいだろう。 >>4
kindle版が無料だったから今読んでみたけどいいね。
当時の雰囲気が掴める。 先月の100分de名著が三木の『人生論ノート』だったか。 西田のは文章の勢いに乗って読み進めることができるが、
田辺のは緻密な読解が必要になりそうだ。。 俺は帝大とは縁がないのに帝大の関係者の本ばかり読んでるなあ。
ちょっと志向性を変えて井筒俊彦の本でも読んでみるか。 中退らしいよ。まだ慶応の文献にも続きがある模様。
行ってみると興味なくなるよな。大学なんてさ。 宮沢賢治はある種哲学っぽいというか倫理的なところがあるよな。 なるほど。宮沢賢治は法華経や華厳経の影響を受けている。 南方熊楠の南方曼荼羅も、華厳経や真言密教の影響といわれる。
http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1624_img222.jpg
旧制中学時代には漢訳大蔵経を読破したとも、読んでいなかったともいわれているが。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) 船山信一って、普通にはフォイエルバッハの翻訳をした人ぐらいの認識だけど、
岩崎允胤の『日本マルクス主義哲学史序説』を読んだら、
翻訳者である以上にいろいろな論争に関わった思想家だったんだなあと思わされる。 船山信一
『西田・ヘーゲル・マルクス』 (1999)
『ひとすじの道 唯物論哲学者の自分史』 (1994)
『昭和唯物論史(上下)』 (1968)
「明治仏教と社会主義思想」『講座近代仏教(上巻)』 (2013)
『舩山信一著作集』、『フォイエルバッハ全集』 私を咲き誇ろう。?
貴方は貴方として咲き誇りなさい。? 井筒俊彦の本が少し読み進められた。
この人って博学だね。 ・西周(1829-1897)
・福沢諭吉(1835-1901)
・中江兆民(1847-1901)
・井上哲次郎(1856-1944)
・井上円了(1858-1919)
・内村鑑三(1861-1930)
・岡倉天心(1862-1913)
・清沢満之(1863-1903)
・南方熊楠(1867-1941)
・鈴木大拙(1870-1966)
・柳田國男(1875-1962)
・折口信夫(1887-1953)
・柳宗悦(1889-1961)
・宮沢賢治(1896-1933)
・井筒俊彦(1914-1993)
京都学派
・西田幾多郎(1870-1945)
・波多野精一(1877-1950)
・田辺元(1885-1962)
・九鬼周造(1888-1941)
・和辻哲郎(1889-1960)
・久松真一(1889-1980)
・三木清(1897-1945)(京都学派左派)
・戸坂 潤(1900-1945)(京都学派左派)
・高坂正顕(1900-1969)(京都学派四天王、近代の超克)
・西谷啓治(1900-1990)(京都学派四天王、近代の超克)
・高山岩男(1905-1993)(京都学派四天王、近代の超克)
・鈴木成高(1907-1988)(京都学派四天王、近代の超克)
・梅原猛(1925-)
・上田閑照(1926-)
・大橋良介(1944-) >>37
上半分が経済右派で下半分が共産左派って感じだな 俺としては滝沢克己と八木誠一も京都学派系に入れたい 『京都哲学撰書』全30巻、燈影舎
高坂正顕、三木清、田辺元、下村寅太郎、九鬼周造、鈴木成高、
木村素衞、和辻哲郎、務台理作、戸坂潤、西谷啓治、唐木順三、
大島康正、植田寿蔵、高山岩男、高橋里美、三木清、今西錦司、
久松真一、山内得立、三宅剛一、高坂正顕 京都学派(wiki)より
京都学派とは、一般に西田幾多郎と田邊元および彼らに師事した哲学者たちが形成した哲学の学派のことを指す。
京都学派は西洋哲学と東洋思想の融合を目指した『善の研究』などで表される西田哲学の立場に立ち、
東洋でありながら西洋化した日本で、ただ西洋哲学を受け入れるだけではなく
それといかに内面で折り合うことができるかを模索した。
しかしながら東洋の再評価の立場や独自のアイデンティティを模索することは次第に
「西洋は行き詰まり東洋こそが中心たるべき」との大東亜思想に近づくことになった。
特に京都学派四天王(西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高)らは、
「世界史の哲学」や「近代の超克」を提唱し、海軍に接近した。
なお、大橋の著書では梯明秀の分類に依拠しながら、京都学派と京都哲学とを分けて捉えることを提案する。
要するに、「何らかのかたちで<無>の思想を継承・展開した思想家のネットワーク」を京都学派と捉え、
西田や田辺に学び、単に彼らの知的ネットワークの下にいるものを京都哲学に分類する。 『日本2.0 思想地図β vol.3』に東と梅原の対談「草木の生起する国――京都」があるね。
千葉のギャル男論もここに所収。
ギャル男論は九鬼の現代版というところだろう。
「いき」とは異性との交渉における媚態だった。 妖怪思想を撲滅しようとした井上円了って一体何者なんだろうな。 おばけの正体 井上円了
緒言
明治三十一年のむかし、『妖怪百談』を著し、つぎにその「続編」を作りしが、望外にも世間より歓迎せられ、
再三再四、版を重ぬるに至りたるも、数年前に残本全く尽き、久しく購読を謝絶しきたれり。
その後さらに再版せんと思いしも、本書の内容が古人の書を引き、古代の話を伝えたるもの多ければ、
そのまま再版するもおもしろからずと考え、絶版のまま今日に至れり。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001021/files/49355_58901.html 以下の論文が、西田以前の明治期哲学について詳しい。
「明治期アカデミー哲学の系譜 : 「現象即実在論」をめぐって」
井上克人
http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006160420.pdf?id=ART0008128267
船山信一(一九〇七−一九九四)は、『増補明治哲学史研究』(昭和四〇年)のなかで、
西田幾多郎は井上哲次郎(一八五五−一九四四)が初めて提唱した「現象即実在論」の継承者であり、その完成者なのであって、
一定の流れどの中で自らの思想の原点を見出し、それを彫琢することに一生を費やしたと語っている。
ところで、この「現象即実在論」、つまり現実そのままが真の実在であるとする考えは、
遡れば天台本覚思想にその淵源をもつが、明治二〇年代には日本人独自の考え、しかも仏教的な哲学として人々に夙に知れ渡っていた。
とくに、明治期の哲学界に於けるもう一人の鬼才、井上円了(一八五九−一九一九)は明治一九年の「哲学一夕話』以降、
「現象即実在論」と呼べる論文をいくつも発表しており、その影響は無視できない。
じじつこの『哲学一夕話』は西田の若い頃の愛読書の一冊に数えられている。
更に清澤満之の『純正哲学』(明治一、四年)がその後に続くわけであり、
そういった仏教系の哲学者とならんで東京大学の哲学教授の井上哲次郎が、
宗教色を感じさせることなく純哲学理論として、「現象即実在論」を提唱していたのである。
明治一六年に公刊された井上哲次郎の『倫理新説』に於いては、しばしばカント、フィヒテ、シェリング、へーゲルの名が挙がっている。
とは云え、ただ彼らの原理のみが紹介されているに過ぎない。
カントの「物自体」、シェリングの「絶対者」、へーゲルの「理念」は、
荘周の「無々」、列子の「疑独」、釈迦の「如来蔵」と同一系列に置かれて、いずれも「人力の管内」に入り難きものとして説明されている。
ただ注意すべきことは、ここでは、ドイツ観念論の神秘的側面が既に東洋的形而上学と結びつけられ始めているということである。
この点については、井上円了も同様である。彼は『仏教活論序論』(明治二〇年)の中で、仏教の「真如」とへーゲルの絶対者とを同一視している。 その他、
フェノロサ、スペンサー、『第一原理』、「不可知者」、「宇宙の第一原因」、「リアルチー(reality)」、
「大乗起信論」、「真如」、プロティノス、「根源的一者(ト・ヘン)」 ・井上哲次郎(1856-1944)(東京帝国大学で日本人として初めて哲学の教授となった)
・井上円了(1858-1919)(哲学館(現:東洋大学)を設立した)
・清沢満之(1863-1903)(親鸞『歎異抄』を再発見した) > 日本哲学の源流に位置づけられるのが、東京大学(お雇外国人)哲学教師アーネスト・フェノロ
> サ(明治11年就任)に学んだ、井上哲次郎、岡倉覚三、嘉納治五郎(明治10年入学:第一期生)
> 有賀長雄(第二期生)、三宅雄二郎(第三期生)、井上円了(第五期生)、清沢満之(第七期生)ら。
> つぎに、ブッセ(明治20年就任)に学んだ、大西祝ら。ついで、ケーベル(明治26年就任)に学んだ、
> 夏目漱石、西田幾多郎、九鬼周造、和辻哲郎、波多野精一らが、つづきます。 船山信一はフォイエルバッハの「キリスト教の本質」を翻訳していますな。 それどころかフォイエルバッハ全集をひとりで翻訳しているな。 『フォイエルバッハ全集』全部やってるね。
翻訳以外の著書もいくつか読み始めたけど、
教科書的なものや手記も良かった。 とは言っても中山元の場合は
『思考のトポス 現代哲学のアポリアから』新曜社 2006
『賢者と羊飼い フーコーとパレーシア』筑摩書房 2008
『フーコー生権力と統治性』河出書房新社 2010
『フーコー思想の考古学』新曜社 2010
といった書を著している訳で、純粋な翻訳家とは言えない。
だから、翻訳家が学者になる可能性がある訳で、
業務遂行者を限定するのにはいささか無理があるようにも思える。 山内得立の読書が進まない。
自分なりにであれ、これを読み解いた木岡伸夫を純粋に尊敬するわ。 https://www.amazon.co.jp/%E3%80%88あいだ〉を開く―レンマの地平-世界思想社現代哲学叢書-木岡-伸夫/dp/4790716430
↑はなんとか読み通せたけど、
『ロゴスとレンマ』は40ページで挫折しそうだ。 近代日本思想史といえば、
丸山眞男門下、藤原保信門下も外せない。 宇野弘蔵一派もあるな。
宇野弘蔵は東大教授になる前、戦前には東北大で研究活動をしていた。 内村鑑三(1861-1930)
津田左右吉(1873-1961)
長谷川如是閑(1875-1969)
大内兵衛(1888-1980)
南原繁(1889-1974)
矢内原忠雄(1893-1961)
大塚久雄(1907-1996)
丸山眞男(1914-1996) こうしてみると、丸山眞男は、無教会キリスト主義者の内村、南原のラインと、
在野のジャーナリストの長谷川、帝大ではなく早稲田で教えた津田のラインの重ね合わせ、
つまり、思想史研究に資するであろう前者と後者のあと半分、
ジャーナリズム(本人は夜店と言った)から影響を受けたと言えるのだろう。 津田左右吉は早稲田が主とはいえ、東大でも一応教えていたんだな。 話しかわるけどもし人が単子論の事象化を考えるなら単子は窓をもたないという事が矛盾となるでしょうね✨💮 事象化って何?
単子論を訳した人は河野与一と言うんだな。 >>71
その辺も含めて、全体を概観したい。
このスレで扱うのは「近代日本哲学」や「近代日本思想」周辺。 >>70
ありがとう。木岡の本は読みやすいね。
山内『ロゴスとレンマ』は、西洋と東洋の論理空間を比較した重要な本だけど難しい。 ヘーゲルとマルクス、あるいはSR(=思弁的実在論)でも、
「観念論」と「唯物論」とが対比されたが、
例えばデリダの「痕跡」というのは、丁度その「言葉」と「もの」の中間的存在だった。
痕跡は、知覚可能でも知覚不可能でもなく、意味作用でもエネルギーでもなく、
形而上学のいかなる概念によっても記述できない論理空間の裂け目。
デリダの哲学は反西洋哲学的であるのだから、
その結果として導き出されたものが、東洋的なものに近づいたのは当然かもしれない。 “そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。”
― リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129) 南原繁を一高で教えた新渡戸稲造は、京都帝国大学でも教えていたんだな。 「ロゴス的」論理は、同一性や矛盾律によって、ものとものとをはっきり区別し分けていく態度であるし、
分断することのできない事物の<あいだ>を見ていくのが「レンマ的」論理。
差異の哲学、関係主義、仏教の縁起、間、水墨画の余白を見る様な見方。 京都学派的な関係性の見方って
<切り結ぶ>感じだよね。 ガイドブック
『日本近代思想を学ぶ人のために』 藤田正勝 (1997)
西、福沢、中江、内村、大西祝、西田、波多野、田辺、九鬼、和辻、三木、岡倉、清沢、大拙、久松、西谷
『日本の思想家(上中下)』 朝日ジャーナル編集部編 (1975)
約70人を紹介
『近代日本の哲学者』 鈴木正、卞崇道 (1990)
『近代日本の哲学』 宮川透 (1961)
『日本の「哲学」を読み解く:「無」の時代を生きぬくために』 田中久文 (2000)
『近代日本思想史の基礎知識』 橋川文三 (1975)
『概説 日本政治思想史』 西田毅 (2009) 『日本哲学原論序説: 拡散する京都学派』 檜垣立哉 (2015)
『〈日本哲学〉入門講義 - 西田幾多郎と和辻哲郎』 仲正昌樹 (2015)
『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス (2005) 『日本の思想』 丸山真男 (1961)
『現代日本の思想 その五つの渦』 鶴見俊輔、久野収 (1979)
『近代日本精神史論』 坂本多加雄 (1996) 『日本の哲学』(日本哲学史フォーラム編)の各号から抜粋
『山内得立のレンマの論理』 後藤正英
『批判的思惟の有効性―マルクス主義と日本思想史』 末木文美士
『田辺元の思想形成と西田の「永遠の今」―微分から瞬間へ』 竹花洋佑
『インド大乗仏教における解脱の思想と慈悲』 宮崎泉
『日本仏教は非論理的か?』 末木文美士
『意味の発生の理論としての井筒俊彦の分節理論』 満原健
「創造的モナドロジー」の世界―後期西田哲学における個物と世界』 城阪真治
『東洋と西洋の統合―明治の哲学者たちの求めたもの』 高坂史朗
『近代の「知」としての哲学史―井上哲次郎を中心に』 中村春作
『「無と空」をめぐって』 上田閑照
『「空」と「無」の間―仏教思想史の視点から』 木村清孝
『現象学的思惟と東洋の思惟との間―経験の深層次元への問いの道』 新田義弘
『日本の哲学の場所―欧米から見た』 J・W・ハイジック
など 渡辺浩『日本政治思想史―十七~十九世紀』(2010)
現代の眼編集『戦後思想家論』(1971)
三島、吉本、福田、竹内、花田、埴谷、丸山、黒田、梅本、武谷、清水、宇野 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています