数学を初めとした理系の学問と哲学について 4 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレの最後の方で、「どのように」と「どれだけ」の定義について、喧々諤々の
議論があったけど、それと似たようなことを実は、ベルクソンが述べているよね。
ベルクソンによると、質的な違いは、量的な違いだと一般的には認識されているが、
本来、質の差異は、量の違いには還元出来ない根源的に別種のものだと言っている。 心理学とかだと、感覚の違いを識別できるためには、対数的な量の変化が必要だ、
というフェヒナーの法則みたいなものがあるよね。
感覚量Eの大きさは、刺激強度Iの対数に比例するということ。つまり、感覚の差異は、
刺激量の対数的な可知感覚に還元できる、というのが古典的な心理学的な認識。 「どのよう」であるか表すというのは、「qualify」ということだからね。
「どのよう」であるかが定まってからでないと、「どれだけ(どのよう)」であるか
を表現することはできない。「どれだけ」であるかを表すというのは、
「quantify」であり、「数量化する」こと。それに対応させるなら、
「qualify」は、「質化する」ことであると言えるだろう。 ベルクソンと言えば、「純粋持続」の概念が有名なのかな。
それでベルクソンは、「時間」の概念も数直線上で表される「空間」として
一般的に表象されるけれど、それも本来であれば、全く違うものを同一視している
誤謬であるとしている。時間は、本来、空間を使っては表象できないもの、
だから、彼は、「純粋持続」という空間概念に依拠しない時間概念を創出したのだろうか。 数学の表現を借りるなら、「どのよう」であるか表す、つまり、「qualify」という
のは、恒等置換に何らかの作用を掛けることに喩えることができるのではないか
と思う。すると、存在するあらゆる事物は、恒等置換に何らかの作用を掛けたもの
として現象していると見なすことができ、逆に、存在する事物から恒等置換として
の自己が推定されることになる。 で、それと数学とはどのような関係が?
恒等置換への作用を数学的に表してみて 現代は、データサイエンスの時代だから、人間の行動モデルや対象、
人間自体を統計やアルゴリズムで表現・操作しやすく出来るように量的に
還元可能なモノとして取り扱うことが自明視されているけど、もし、
ベルクソンが指摘するように、質は、量の違いで表現・還元できない、
質は量とは絶対的に位相の異なる性質を帯びるのであれば、統計が扱えない人間や
事物、対象の質というものが存在することになるので、そこに照射すべき
何かがあるのかもしれないね。 >>8
1×2=1+1
量的に違いはないよ
さて、質とはなんでしょうか?
数学的に表せ 数学と哲学は、元々、相性がいいと思う。なぜなら、両者とも思考や論理の展開の
極限を要請するから。
カントが、純理で世界に始まりはあるのか否か、また、世界には終わりがあるのか否か、
といった感じで、因果の系譜を無限後退していき、原初の有無を巡る遠大な考察を
していたと思うけど、そういう思考スタイルがまさに数学そのもの。
数学の極限だと、ある値や式が収束するのか、または無限大に発散するのか、あるいは
振動するのかといった感じで、ある式や値、無限級数が、最終的にどのような状態に
なるのかを求めたりする。
哲学もそういった感じで、思考や論理の展開の極限を求めていく印象がある。 プラトンのイデア論も数学と関係しているし。経験を必要としない、
アプリオリな知識としての数学。だから、数学=イデアのひとつ。
プラトンが設けたアカデメイアという学園は、たしか、数学が出来ない者たちは
そこに入学許可がされなかったはず。それ程、この哲学者の中では
数学が重視されていた。 >>10
哲学は相手に問うのではなく自分に問うものだ、 ピタゴラス学派に入室できなかった学究徒は、いやが上にも、算術探求ではなく数理探求を志さられず、彼の遠大な考察の一つであった算術級数和を、今の一度も無限級数和へと跳ね上げられず、それがため、どら息子の渾名で名指しされるには至らなかった。 N ⊊ Z ⊊ Q ⊊ R ⊊ C
という集合の包含関係から分ることは、より抽象度の高い集合が、それより抽象度の
低い集合を包含しているということ。Cは、複素数の集合だから虚数単位iも入るので
一番抽象度の高い集合になる。その下は実数全体R、有理数全体Q、整数全体Z、
自然数全体Nの集合になる。
プラトンのイデアの考え方は、そういう抽象度の高い世界こそがリアル・真の実在で、
私たちが現実世界だと見做している現実は、そうしたイデア界から投影される影の
ようなものに過ぎないものだとされている。
虚数単位i(imaginary unit)、つまり、想像的なもの、イマジナリーなものこそが、
現実世界を包含しているということ。だから、こうした発想は、とても形而上学的だね。 それで時間軸で考えてみた場合、抽象度の高いのは、過去や現在よりも、未来の方に
なるだろう。史実のある過去や現在であれば、それは事後的にある程度は具体的に
語ることが出来るけれど、たとえば1000年後の未来の社会や自然環境がどうなっているかを
具体的に正しく描写できる者は殆どいないので、未来は想像的でイマジナリーな領域に
あるのが判る。
だから、そうした抽象度の高い未来が、それより抽象度の低い現在や過去を包含している、
という風にそれを表現することも出来るだろう。そのため抽象度の高い数学的思考や科学は
未来志向の形態を必然的に取る。逆に土着的なものや自然主義、宗教、イデオロギー、
呪術などは過去志向の形態を取りがちとなる。 >>18
そんなに丁寧に書かずとも、もっと簡略して書いて大丈夫ですよ。好奇心旺盛なロムさんたちは反射的にググって、僕たちの気が付かないうちにこっそりと、心の引き出しにしまうでしょう。
またトピックやキーワードがググり易ければ議論の入り口でウロウロする人は少ないでしょう。
ところで、灘出身で、生物系院生で、pyを使って、遺伝子dbと、統計組み合わせ、が得意ってのでいいんですか。 >>18
数学板とム板の、現状の優劣を聞きたかったですけど、書くことができないならまあいいです。
よくあるテーマとして、
0^0の解釈と、
0.999...==1
について数学的にどう勉強しましたか。 >>19
より抽象度の高いということで、ジョン・ホイーラーの情報物理学とか、テグマークの数学的宇宙仮説=究極集合とかの方向性になるのかな。
いずれも数学化を推し進めるものだよね。 >>21
自演しなくていいし誰もお前のこと灘出身だなんて思ってないよ >>18
高校で習うことをドヤ顔で披露されても... ベクトル描けばいいよ。
「どのように」が向き。
「どれくらい」は長さ。 >>28
趣向を変えたのかw
それじゃただのベクトルの説明だなw チンカスといえば、オナニー大好きだったアスペのウィトゲンシュタインを連想する。 1+1=2を疑うといっても、
2という数の定義が1+1なんだから、
ナンセンスだと思うのですが、どうなんでしょう。 >>34
そうだよね。下記は全部同じことをあらわしてる。
量的にも質的にも。
1×2=1+1=2 量的質的とかいう難しい単語
を使われてもわからないお(´;ω;`) >>35
自演じゃないし。
自分と違う意見が並んだだけで攻撃されていると感じるのかね君は。 >>37
量的というのは結果で、質的というのは手順と言い換えてもいいけど、どっちも同じということだよ。
1×2というのは左の項を右項回だけ足すということだから、1+1とどっちの意味でも同じだよ。
強いて言えば、1×2が簡略表記というだけ。 1×α→ αが一個あるよ!(^◇^)
=α
当たり前じゃねぇか(´;ω;`)
そうでもないんかな… 数学の集合をM、哲学の集合をPと置いて考えると、2つの集合M,Pについて、
M ⋂ P = φ
が成り立つ、すなわち、集合Mと集合Pは「互いに素」、あるいは、
排他的論理和の関係にあるという風に考えないで、M ⋂ P ≠ φ
と捉えていけば、数学の集合Mと哲学の集合Pには、交わる部分や
一部、共通部分があることになるので、その方が両者にとって
生産的なんじゃないかな、と思う。
ヘーゲルの王と奴隷の弁証法みたく、一方が優位に立とうと相手を抹消し合う
不毛な関係でなく、両者を止揚出来る要素を探索したり(ウインウインの関係)、
両者の共通部分や類似箇所を考えれば、両方学べて一挙両得でお得ではないのかな。
ちなみに、MとMの補集合M^c、PとPの補集合P^cは、必ず、
「互いに素」となる。 >より抽象度の高いということで、ジョン・ホイーラーの情報物理学とか、テグマークの数学的宇宙仮説=究極集合とかの方向性になるのかな。
いずれも数学化を推し進めるものだよね。
仮説は無限に仮構出来ると思うので、それが単なる妄想でなく、より高い蓋然性を持つ仮説、真実への
漸近となるものにするためには、フィルタリング処理が必要になりそう。それに、数学や確率を使えばいいんじゃない。 私は、あまり○○学という、学問を明確に区分してしまう概念が
先行するのは好きではなくて、
最初にあるのは、「世界はどうなっているのだろう」
というような簡単な問いであり、そういう一個の根源的な
問題に対して、哲学なり数学なり物理学なり生物学なり、
人間の心であれば文学が発展していったと考えまして、結局のところ、
この世界に対する興味、関心に基づいた人間の知的な活動という
意味で全ての学問の共通目的、動機、最終目的は同じだと
考えますので、そういう意味ではM∩P∩Q∩R∩…と、
学問が無限にあると仮定し、共通部分を取り出そうとすれば、
それはただ一つの要素に至るのではないかと思います。
適当に考えてみましたが、どうなんですかねぇ… いや、どうなんですかねぇ…なんていう甘えた態度は
許されねぇ。
至るのではないかと思います。 >>55
幻想がみえるぽいな、ときどきこういう自己愛絶好調の自称秀才君がくるんだよね。
さわると更に病状が進む、 ワイルドカードの場所 (98[X]86)−(68[X]89)=29997
X=(0~9)
何(ナニ)?の答え 27のサンドイッチ屋さん
追加の÷3は面白グッズだと思っていただければ マジック用 高校1年の時、数学の授業で、
クラスで一人だけ数列(しかも等差だったと思う)
についていけなくて、先生が「なんで首をかしげるの?」
って言われたなぁ…。そりゃ、わからないからでしょうに… 数学はできるにこしたことはないけど、苦手な人はとことん苦手だからね。
他の科目でもみんな得手不得手はあるけど、数学の場合、隔てる壁が他と絶して高いよね。
数学はテストの0点が珍しくない世界。 >>60
高1で数2は普通だけど、数Bは結構な進学校だね。 > 0^0の解釈と、 0.999...==1 について数学的にどう勉強しましたか。
O乗すると、なぜ1になるのか、というのはあまり考えないで、
そのまま当然のこととして計算していることが殆どなので、一応、0乗を定義してみる。
まず、αの0乗は、αを0回掛けることだから、直観的に答えは
0になりそうだけど、指数法則で考えてみると、それが違うこと
が判る。
α ÷ α = 1
となるのは、誰にでも分かるだろう。では、これをm,nを自然数
とする、
α^m ÷ α^n = α^(m-n)
という指数法則を使って、0乗を定義してみると、
α ÷ α = α^1 ÷ α^1 = α^(1-1) = α^0
∴ α^0 = 1
となる。 ただ、0の0乗は定義出来ないという見解もある。また、
0÷0 を 1 とした場合に矛盾があるという意見もある。
1×0 = 2×0
(1×0)÷0=(2×0)÷0
これを下記のように式変形して、
1×(0÷0)=2×(0÷0)
と置くと、0÷0 = 1 なので
1 = 2
となってしまうが、0÷0 = 1 とする世界では、このような式変形は
しないので、やはり、αを0と置いても、一応、他の場合と同様に、
0の0乗は、1として置けばいいんじゃない。 >>63
ぷぷぷ。私の嗅覚は犬の1000倍。ぷぷぷ。
年齢を横軸、感度を縦軸とすると、指数関数的に嗅覚が強くなっているね。ぷぷぷ 10年後にうんこの臭いでも嗅いでくたばっとけや(´・ω・`) ついでなので、階乗のことも書いておくと、
正の整数 n に対し n! は「 1〜n まで整数の積」で定義される。
それなら、0階乗の0! は0なのかと言えば、やはり指数の0乗と同様、
0!= 1と置いた方が都合が良い。
階乗の再帰式は、
(n+1)!=(n+1)⋅n!
これは n≥1 の場合だと明らかに成立する関係式で、
0!=1
と定義することで,この式が n=0 でも成り立つ,つまり 1!=1⋅0!
となるので、便宜上、0!=1 の方が良い。 >>68
そういうくたばり方したいお(о´∀`о) 42と8使ってなんか芸でもしろって感じのScienceFiction ////: 文系だけど 灘出身で生物系学部2,3年生なんですかね。
自分の好きな問いだけに応えるだけではウインウインうんちゃんかんちゃんなど到底望めないでしょう。
どうしてそう言い切れるのかを考えたほうがいいと思います。少なくともあなたから得られるものは私には何も無いと感じました。
>>64
a!=0の指摘がなかったのは著しい失点です。
>>65
a÷bで分母が定数0のときのa÷0はそもそも許可されないないので考慮不用です。
0^nはやはり難しいようですね。 腹が減るから、腹の足しに何かを食べる。
用(necessities)があるから、用を足す(supply necessities)
御用達(ごようたし=supplier of necessities)
「足す」は、"supply"ですね。 「足る」が、"suffir"で、「足す」が「satisfaire」と言った方がいいのかな。 「足す」の「〜す」は、「satis-faire」からも分るとおり、使役ですね。 「足りない」から「足す」。これが基本的な考え方でしょう。 そんな言葉遊びは、数学とは何の関係もないと思う人は、数学がまったくできなく
なってしまう人がどこで混乱して、袋小路に迷い込んでしまうのか理解していない。 「足す」という表現は、「足りない」から「足す」と理解することができるが、「掛ける」は、
その数学操作によってどのような作用が生じるのかを表現していない。「掛ける」は、
英語では「multiply」だが、これは「複数にする」ことを意味していて、「〜を掛ける」と
表現する場合の「〜」が既に数であり、しかもその数が複数であることを前提としている。
したがって、「multiply(複数にする)」という表現を素直に解釈するなら、例えば、
1×i=iという表現は、意味を有さないことになってしまう。しかし、数学は、そのような
、その操作を記述する言語表現とは矛盾した数学記号の用法を当然のごとく要求
するのである。無論、この場合、数学記号の「×」で表される操作を「multiply(複数にする)」
と呼ぶのは、換喩/メトニミーであり、レトリックであるが、その操作を説明する人間は、
自らが換喩/メトニミーを用いることを相手に強要していることを自覚していない。 「〜を掛ける」と表現する場合の「〜」が既に数であり、しかもその数が複数であるという
前提を排除して、より「×」によって表される作用をより一般的に表現しようとするなら、
「multiply(複数にする)」ではなく、「qualify(直訳するなら、「質化する」)」とした方がより
適切だろう。そのように理解して初めて、掛け算の順序に拘る必要がなくなる。
すなわち、「りんご×3(りんごが3つ)」も、「3×りんご(3つのりんご)」も、言語表現
と矛盾なく理解できるようになる。 >「掛ける」は、「懸ける」
>関係させるの意
だから、「懸ける」操作がどのような作用を生じるのかを表していない。
「懸ける」という表現自体は、関係する2つの物の存在を前提とする。 >あと、multiplyは「増殖させる」
じゃあ、「multiplied by 〜」は?
「〜で増殖させられる」? >>87
いやいや
「掛ける」ことによる成立を期待しているのだよ
例:胡椒を掛ける >低レベルの人と話して何が得られるんですか?
流出。水は低い方に流れるというだろ。 >例:胡椒を掛ける
じゃあ、2に3を掛けると、豆腐に胡椒を掛けるのと同様の作用が生じるのですね? >普通は、「〜倍に増える」と訳すな
じゃあ、「3×りんご」で「3がりんご倍に増える」んだ? >>91
ならない
2、3は胡椒と豆腐ではないから
作用の内容そのものが、それぞれ胡椒、豆腐、2,3に依存している >作用の内容そのものが、それぞれ胡椒、豆腐、2,3に依存している
豆腐+胡椒、2+3でも、作用の結果は、それぞれの要素に依存していますよ。 >>93
ならない
「multiplied by apple」とは言わないから >>96
だから、それだと、「3×りんご」や「3×i=3i」という表現に意味が
なくなると言ってるだろ。低レベルじゃなくて、下水管に直結しているみたいで、
流れる水がもったいないからもう相手にしないよ。さようなら。 >>95
ならない
豆腐が足らないときに足すのは豆腐だから >>97
そこに問題はない
>>88(及び>>93)がアホなだけ >>76
灘卒だからってその人の話が無条件で受け入れられるわけではないよ
嘘も百回言えばとイメージ付けしたいのはわかるが 454 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/05/18(木) 22:55:45.56 0
「現代思想」はゲーデル特集だね。
数学を構文論(自然言語)の枠組みで説明しようとしたウィトゲンシュタインの考えを、ゲーデルが明確に否定した小論文が載ってる。
やっぱり、ゲーデルの方が圧倒的に頭いいね。
おれも断然そう思う w
おれもそう思う。
オナニー魔ウィトゲンシュタインンの哲学って、やっぱりアスペっぽてで、イカ臭いアイデアだと思う w 数学が本当にできる人は、言葉で説明するのもうまい。
ここまではいい。
でも、国語ができるからと言って、数学が分かる、なんて考えはナンセンス。
関係は不可逆なんだよ。 >>でも、国語ができるからと言って、数学が分かる、なんて考えはナンセンス。
そんなアホなこと言ってるやつはいないと思うけど。 >>数学が本当にできる人は、言葉で説明するのもうまい。
欧米の物理学者(本職はバリバリに高等数学使います)なんかで、一般向けの本ですごく説明してるひといるけど、あれって要するにIQが圧倒的に高いから、何でも上手にできるというだけじゃないのかな。
特に数学と関係あるいとも思えない。 すごく説明してるひと → すごく上手く説明してるひと >>104
すごく上手く説明しているアイデアは、どんな臭いがするんですか? www 凡そ人間というものはメンヘラの程度の問題として存在する。
つまり、誰かてその個人の程度に応じてメンヘラなのである。 およそ哲学徒たる者がメンヘラなどというネットスラングをだな… 哲学と数学をよく対決させたがるのが数学者。数学者頭おかしい。 そういうことがあるかと思って1〜3スレまで立てたのが文系の俺。
4は数学畑の人が建てた。 > 0^0の解釈と、 0.999...==1 について数学的にどう勉強しましたか。
この後者の問題は、たまに話題になる感じがする。
1/3 = 0.333333......
両辺に3を掛けると
1 = 0.999999......
となるのが、直観的に納得しづらいという話だよね。
これを等比数列で極限を取って考えると、少しは納得できる。 初項から第n項(今回は、極限を取るのでn=∞)までの和の公式は、
初項a, 公比r, 項n で、
S_n = a(1-r^n)/(1-r)
0.999999… = 1 が求まればいい、ということなので、
無限数列で極限値を取ると、
0.999999… = 0.9 + 0.09 + 0.009 + 0.0009 + 0.00009 + 0.000009 + ……
なので、初項aは、0.9=9/10 , 公比rは、0.1 = 1/10, 項nは、∞
無限級数の値 lim S_n {n→∞}は、−1 < r < 1 の時、
a / (1-r)に収束するので、
0.9 / 0.9 = 1
∴ 0.999999… = 1
となる。 AIは、人間よりも抽象度の高い次元にあるので、人間のどちらかと
言えば直観的でアナログ的な認識や感性を包含している、と表現
出来るような気がする。
そして、AIの基盤になっているのが、数学やアルゴリズムなので、
これらのものが人間社会を実態のレベルでは包括している、と
言ってもいいだろう。 AIが自然言語処理や形態素解析から始まって、表現・表情から感覚・感情・感性を
抽出して適切に対応出来るようになってくると、認知レベルでは人間と等価な存在者に
なってくる。また、AIの場合は、アナログ的な人間に比較して、大量のデータを
使って精密な認知や構造抽出による出力を達成出来るので、人間の機能や認知を
大幅に拡張するだけでなく、そのAIによる高度な認知に伴って、人間の行動パターンも
変容すると考えられるので、ますます人々の行動は、数学的に補足出来るようになるし、
人間がアルゴリズム・ベースで捉えられるもの(情報・データ)となることが予想出来る。
あと、数学の有用性のある機能の一つに、予測がある。
決定係数R^2が1に近ければ、それは精度の良高い回帰方程式になるので、
それを使えば、未知の目的変量yを残差εを小さくしつつ、上手く予測できるね。 >>114
あなたは社会から爪はじきされたコミュ障ですよね?! 哲学板という社会で数学優位を説くこと自体、
空気読めてないけどな。 >>119
哲学は精神障害が多く、数学はアスペなどの発達障害が多いのでしょう。
数学者は爪弾きばかりなので社会に一生適応できませんが、哲学者は信仰のためでなく社会のために一生思考します。 数学を説明する言語表現は、往々にして、あらかじめ数が存在するという誤った
哲学に基づいているから、数学の理解にも、数学を応用した記述の理解にも
不要な混乱をもたらしている。例えば、負の整数と正の整数が存在するとかね。 >>33
独立した概念として扱う方が、明解に考えられるからね。 いや、プラスとマイナスを単に互いの逆方向として扱う方が明確に考えられるし、
哲学的にも、数学の応用においても矛盾が生じない。 だって>>123 >>124みたいなこと言うから… 暗黙知というものが人間にああるだろ。
人間というか、動物にね。
あれは、言語化できないし、計算も難し過ぎてできないと思おう。
クオリアなんかもそうでしょ。 数学は「人類の幸せ」のために何ができるのか──数学者フランシス・スーが語る「数の魔法」のストーリー(WIRED.jp) - Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170724-00010004-wired-sctch 今話題の空気なんかも数値化できるのかね。
それは言語による空気だけでなく、身を引く、
一歩近づく、などの物理的変化による空気も含めて… 感覚的クオリアは、絶対に言語化不可能。
また、例えば母親の顔を人は一瞬で認知するが、これも絶対に言語化不可能。
しかし、暗黙知は作動してる、つまり脳は、人間が意識しない(できない)レベルで計算を行っているわけだ。 いくら指摘されても、主張している存在論が間違っていることに気づけない。
存在論を数学で証明することができず、存在論は、哲学であることを理解していない。 存在論を数学の証明のテクニックかなんかの話だと思ってるんだろうね。 というか、数学で存在論を語ることができるなら、それは数学という個別の学問の枠を超えて
哲学に踏み込んでいることになり、そこにはもはや数学と哲学の区別はない。 >>143
関係性を数値化、となると…
距離とか? 数学では、何かを想定し、その想定に手続き上、適切な表現を与えることができる
ことを、その何かがが存在することと言い換えており、さらに、その存在を無時間的
なものとして捉えている。
しかし、その言い換えとその存在の捉え方が正しいことを数学的に証明することは、
決してできないのである。例えば、数学では、単位によって表現される半径の円を
想定し、円の円周の長さを、単位との比によって手続き上、適切に表現することが
できることを円周率πという数が存在すると言い換えているが、数学が行って
いるのは、想定される円周率πを求める手続きの正しさを示すことであり、円周率
πが無時間的に存在することの証明ではないし、そのような証明を数学が行うこと
はできないのである。 バカだねえ
不特定多数の人間がなんらかの手続きを共有して
共通に承認できることを認め合う
これなくして「存在」とかのたまっても無意味なのだよ 都合が悪くなると素朴存在論を持ち込んで誤魔化そうとする。 やはりバカか
素朴存在論とかw
これだから虚数は実数と違って架空のものだとかたわけた言説がまかり通るわけだ さらに都合が悪くなると罵詈雑言を吐いて誤魔化そうとする。 >>142
いい話だな。
数学を別の学問に置き換えても成り立ちそうだ。 >>151
「無時間的には存在しない」という証明しないと、ただの言葉遊びだよ w 数学の証明が意味するのは、つまるところ、地球の分身であることでしか
いきられない、人間の限界証明なんだと思う。 今のところ、数学バリバリに使う物理学が一番地球離れしてるけど。
他の学問は地球べったりだけどね。 地球を離れる時も地球を離れられないのだよ。人の性は。
次元/天体。 自然科学や数学の知の特徴は、再現性を要請されること。だから、小保方さんだけが
再現出来たと自称するSTAP細胞は、彼女以外に再現性がないので、それは非科学に
属するモノになる。
こうした科学や数学の再現性と対極にあるのが歴史だと思う。歴史は一回性であり、
常に独自なものとなる。「歴史は繰り返す」などと言われるけど、真実はそれと
反対で、「歴史は常に一回性」の中で常に終わり、そこに反復はない。
ナチスによるユダヤ人が大量虐殺は2度と起こらないし、日本の細菌戦部隊も2度と組織されないし、
広島と長崎への原爆投下も2度と起こらない。もし、それらが未来において再び生じたとしても、
それは科学や数学的な再現性とは程遠い。意図や目的にズレがあったり、意味が違っていたり、
首謀者や構成分子、イデオロギーが異なっていたり、何よりも、それが発生する時代が
異なる時点で、もう、それは繰り返しだとは言えない。 自然科学や数学は再現性による保証により、その汎用性や普遍性を獲得する知の体系なので、
無時間性(= 非歴史的)の領野にいる。e^xの微分はe^xであり、錯体は配位結合や水素結合で
形成された分子であり、ヒトの体細胞1個に含まれる染色体の数は22対の常染色体に、男性
では大きさの違う2本の性染色体X,Y、女性ではX,Xの性染色体の計46本というのも、
再現性のある事実なので、それは科学と呼ばれる知の体系の中にある。
ただ科学や数学の知識に欠点があるとすれば、それらは意味や価値の探求にはならないこと。
科学や数学から、科学的な意味や数学的な価値は引き出すことができるけど、そこから
人生の指針や意味、この世界の真実在への洞察を得ることはあまり期待出来ない。そういう
意味性を求めるのであれば、むしろ宗教や哲学、文学、イデオロギー、芸術などの方がいいだろう。
第二次世界大戦中に、戦場で死と隣り合わせで生きる一部の兵士たちがハイデガーの
「存在と時間」を携えて愛読していたというエピソードは、そういうことを物語っている。 そして現代は、学際や産学連携的な異なる境界領域の摩擦や相互浸透によって、新しい着想や
異質発生、創発やイノベーションが得られやすい時代なので、数学・科学・哲学などを
個々に蛸壷的に閉じていく内向きの発想よりも、むしろ貪欲に応用できそうなものは、応用して
いく、といったスタンスの方が好ましいだろうね。
たとえば、将棋や碁というものが、コンピューターサイエンスや人工知能につながってくるような
時代なのだから。そしてシステム論的に考えると、すべての学問分野は個別にバラバラに存在して
いるのでなく、それらは緩やかなネットワークを生成していて、多かれ少なかれ影響し合い、
共進化している部分があるので、白か黒の2極ではなく、グラデーションを伴った濃淡のある
感性を持った方が、むしろ複雑性と流動性の高い現代の知には上手くコミットしやすくなる。 >自然科学や数学の知の特徴は、再現性を要請されること
再現性を要請されるとは、時間的であるということでしょう。 考えがいろいろと混乱していると思うよ。物理的な事象も1回限りしか起きない。 福島原発事故は歴史的に1回限りの出来事だけど、それがどのように起きたのかを
理解するためには、再現性のあるモデルを用いる必要がある。 数学は、なにものも自らと等しいことを自明であるとすることによって、
ひと(1/等/人)しさを前提とするのに対して、
哲学は、物事の自明性を絶えず問い直すことによって、暫定的に自明である
ものとして前提としてよいひと(1/等/人)しさを追求している。 >>151
その流れなら、時間軸必要としないから大丈夫。
そのような領域が在る。
ハシゴを外すかどうかは、それぞれの解釈次第。 >>167
無限後退をもって、存在証明とする。
在り続ける、という証明。 哲学は問答であっても議論や討論ではないのは明白すぎる、
これを議論や討論という話に摩り替えようとする知恵遅れが哲学板で定義とか証明に拘る ひと(1/等/人)しさを数えられたものとして表す1が存在することを自明である
と思うことにおいて、数学において語られる存在は、既にその自明性に依拠している。 >>175
それをアプリオリっていうんだよ
勉強になったねーバカキッズ こういうくだらない連想ゲームみたいな言葉遊びしかできないのが、一番頭が悪くて、何も考えられない。 >>173
問答と議論や討論の違いはなんですか w
議論や討論では問答はしないんですか w
まったくでたらめとしか思えませんが w 史上最高峰
ブーハーや藤井君で騒いでるのは阿保
AIはまだ角柄礁に勝っていないのだ >>177
バカは自分の知っている偽物ですべてわかったつもりになるw 文系哲学とは連想ゲームだったのか。
たしかに最近の哲学は「なんじゃこりゃ」というものが。。。
日本だけの現象ではないのか、それとも邦訳される近年の哲学がそういうものばかりなのか。
哲学屋ではないので深くはつっこまないが、読み物としてはおもしろい。
「なにゆえにそういうバカなことばかり考えるのか」ということを分析するのは楽しい。
哲学(者)の学習モデルw 魅力的だ。 バカとか、くだらないとか、自分の感情を吐露しているだけですよ?
自分に共感してくれる人々を求めるか、反感を抱く相手に自分の感情をぶつける
ことにしかならない。そんなものは、議論でも討論でも説得でもない。 悔しくてしかたないので、「おまえの母さんデベソ」と叫んでいる子供と変わらない。 ひと(1/等/人)しさを数えられたものとして表すのが1(ひと/人)であり、
その数えられたものの不在を表すのが0である。
α=β
α/β=1
α−β=0
earth to earth, ashes to ashes, dust to dust >>185
別に不在を表しているわけではないよ
お前みたいな連想ゲームキッズがスレを汚辱してるってわからないか? 相手に自分の感情の根拠を推測してもらおうというのは甘え 重要なのは、ひと(1/等/人)しいものとして数えられるのか、数えられないのかだ。 http://www.gizmodo.jp/2017/07/soft-robot-that-move-around-like-a-vine.html
これはヤバイ。スタンフォード大学のバルーンロボットが可能性が
無限大すぎて絶句(動画あり)2017.07.26 10:05
画期的な新型ロボットと言われるものは数多く世に出てきましたが、
実際に「あれにも使えるこれにも使える」と想像を掻き立てられるものは
なかなか少ないですよね。犬や人の形をしたものがバランス良く歩いたり走る姿に
感動はあれど、機能という面ではまだまだ人型ロボットや犬型ロボットは実用的には
なっていないのが事実。
昆虫や鳥の形を真似たロボットや、バルーン構造のロボットが発明されているのは
目的に合わせてフレキシブルかつ性能の高いマシーンを作ることが求められている
からです。今回、スタンフォード大学とカリフォルニア大学の研究者たちが
科学誌「Science Robotics」に発表したバルーン式ロボットもフレキシブルさと
実用性で注目を集めています。
研究者たちによるこちらのプレゼン動画、英語ですが「ツルのように伸びて動く
ロボット」の活躍の姿がたくさん詰まっていて、映像だけでもう感動してしまいます。 数学や科学は、時代や地域性に束縛されない抽象的な普遍性を志向するのに対して、
政治や歴史はローカルで局所的な一回性の経験の蓄積を重ねていく。
数学やアルゴリズムの良いところは、それが時代や地域を問わず、世界中のすべての人々に対して、
平等・公平・公正さに開かれているところ。
今の日本の政治のように、特定のグループや人物、友達に利益供与することもない。
AI化する社会では、今までの人間の局所的な経験値(現場主義)や直観から下される判断を
乗り越えた、高度な数学的、あるいはビックデータ的判断へと置き換えていく
アルゴリズムベースの社会のこと。
それは単なる過去が延長された未来ではなく、未来をシミュレートして、未来から
より可能性のあるオプションや最適解を選択して、より適応性の高い未来から現実を
照射していくような認知のスタイルであったり、行動モデルの構築が形成されていく。 mを正の整数として、関係R : a ≡ b (mod.m) ⇔ [def] a - b はmの倍数
という同値関係で、整数全体の集合Zは、この関係から
Z_n = {C_0,C_1,C_2,…,C_n-1}
となり、整数全体の集合Zは、mod.mによる剰余類に類別される。
a ≡ b (mod.m) は、「mを法として、aとbは合同である」という意味。
つまり、法や規則、公式に従って論理展開をしていけば、その解を導出できるのが
数学。
数学での法や公式は、ローカル(局所的)ではなく、普遍性があるので万人が利用できるもの。
それに対して、たとえば日本国憲法は、現在日本に住む日本の国民や日本にいる市民には
適用されても、日本国内で犯罪でも犯さない限り、外国に住む外国人には適用されない点で、
実は、ローカルなものだということが判る。 人々が幸福になるためには、平等で公平、公正に有限なリソースを適切に配分していかなければ
ならない。特定の人物や属性、グループだけを一方的に裨益をしたり、逆に、損になる
ような政策なり、制度、法は回避されなければならない。
社会が高度にAI化されると、既存の制度の歪みや不合理性であったり、条件や(社会)環境の不平等、
不公平の是正や解決案が数学的なエビデンスベースで提言されるようになってくると思うので、
未来の社会は、現在よりも、格差の少ない秩序立った世界や宇宙になる可能性もある。
英語のcosmosは秩序の意味なので、そもそも数学やアルゴリズムは秩序を志向している。
だから、その知見を利用する科学も、本来は人々の幸福のためにあるものなのだろう。 東大か旧帝に入学(多分大学院情報)して喜んでる人間が、ム板でpyとかa.i.とかをネタに叫んでるけど、よく知ってる? 北朝鮮で1年3カ月以上拘束され、昏睡状態となって帰国後に死亡した米大学生も、
電通に入って過労で鬱になって自殺した東大女子もそうだけど、もし、事前に、
自らの進路や選択によるその後の帰結が、精度の高いAIでシミュレート出来て
その選択に(北朝鮮に渡航すること、電通に入ること、)強い警告がAI[から発せ
られていたら、果たして、この2人は、自分を不幸にするような選択を取っただろうか、
ということを考えてみると、普通は、そういう選択を取らない気がする。
人々が不幸になるのは、先の見通しを正しく判断出来ないからであって、
フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスによって提唱された
「ラプラスの悪魔」のような仮想的な超越的概念をAIに近似させることで、
人間的な不幸を事前に回避することが出来る完全に漸近した世界が誕生する
こともあり得る。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、
かつ、もしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、
この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)
全て見えているであろう。
— 『確率の解析的理論』1812年 出生前診断を使えば、羊水検査などでそれに含まれる赤ちゃんの細胞などを用いて、
ダウン症候群、13トリソミー、18トリソミーなどの染色体異常の診断が可能なので、
それも出産するか否かの一種のシミュレーションをしているような行為になる。
出生前診断は命の選別につながる、ということで反対する声も結構、あるけれど、
それでもその利用者は、やはり自分が健康な赤ちゃんを生みたいというニーズ
があってなされることなので、出生前診断の結果から中絶の判断がなされても、
それが倫理的に非難される行為であるのかどうかは一概になんとも言えないだろう。 個体差がどんどん広がるから、格差は開く一方でいい。 子供生んだ方が有利、もしくは幸福になるか否か、また、どのパートナーと
結婚すれば確率的に一番幸せになれるか、あるいは独身の方がいいのか、と
人生の選択なり、重要な判断や局面で、精度の高いAIがラプラスの悪魔のような
先の見通しの良さで予測される見通しが与えられたら、そこに生じる人間の生や
人生は、今まで文学や宗教、物語で語られてきたような生とは、その内容や趣きが
かなり異なって、変容するのではないだろうか、と感じているのだよ。 ラプラスの決定論か。超弦より恐ろしいもんだよ。きっと。 繁殖成功者はただ暮らしていくのみで、哲学に呵責なく、・・・。
独身、結婚が問題ではなく、男にしてみれば 少女 女ならば 少年
もちろんそれは娘 息子 孫・・・・。となるわけだが、
その世界に、何かが欠けているということはあってはならないだろう。 >また、おっさんが、連想ゲーム、している。
哀れ、誰がどのレスを書いているかすら識別できないw 掲示板はお子様レスゲームじゃないけど。すごいレベルの低いかかわり方だな。 自分の気持ちだけが判定基準なんだよ
好きなものvs嫌いなもの、みたいな分類基準
お子様そのもの 安心してください。自分の判断が誤っていることが発覚したときに、あたかも
最初からその効果を狙っていたかのように取り繕ふことは、猿知恵ではありません。
生物の進化も、数学の問題の解法も含めた人の発明もそのようにして成し遂げられて
きたのです。 躾けられた猿に餌を与えるふりをして手を出すと、猿も餌を受け取るために手を出すが、
出された手が餌を持っていないことに気づくと、猿は自分の出した手を単に引っ込めるの
ではなく、あたかも別の目的のために出したかのように取り繕ふことがあるそうです。
餌がもらえると思った自分の判断が誤りであったことに気づいて、自分が手を出したの
はもともと別の目的であったかのように偽装しているように思えます。 ところで、数学の解法の発見を含めた、人による発明の場合を考えてみてください。
問題を解決しようとしたときに真っ直ぐに解決に向かって進めることはない。
それが可能なら、そんな解決法は、発見や発明とは呼ばれないからです。
ところが、別の目的であれ、なにか試行錯誤しているときに、予想外な結果が
得られる。その結果は、自分の行為が意図していた物とは違うが、あたかもそれを
最初から意図していたかのように、その結果を利用できることに気づく。
そこで、今度は、その結果を意図して安定的に得られるようにし、その結果を
考えられた用途で利用できることを確認する。それが発見や発明と呼ばれる
行為です。 予想外の結果を未解決の問題を解決することに利用できるかどうかに気づくのは、
頭の良し悪しとは関係ないのです。既存の問題の解決を妨げているのはどのような
ことなのかを常に頭の片隅に置いている。それが哲学で言うところのエポケーです。
解決に向けてどのような障害があるのかを常に意識しているからこそ、その障害
を解消することができるものに偶然、出会ったときに、その偶然に出会ったもの
が、問題解決のための鍵としての姿をとるのです。 てめえが随筆を書き散らすスレじゃないんだわここは
連投するならせめて生産的な書き込みしろ 素朴な疑問だけど、人の物理的な面と世界が、どのように連動しているのか哲学的に解明してるの? 数学の面白いところは意外にない。
やたらと面倒くさく、計算に時間がかかって、例題や問題を解くだけの
簡単な苦役だった。それはそれでいいのだけど、
それを考えると、予想外の結果、未解決の問題を解いている人をうらやましく思うな。 数学は表記が混乱しているから、教えられた操作に慣れることに専念するのではなく、
意味を考えようとする人は無用に思考を混乱させられる。例えば、虚数のiは、
単位に付けられる+、−と同様に方向性を表しているのに、別のカテゴリのもの
として扱われて、−2iのような表記になったり、eのi乗のような表記になったり
して、意味不明になる。 >>194
幸福とは、ふと振り返る時、
「実は、満たされていたんだ」と気がつく事。
誰かが勝手に満たしてくれるわけではない。
まず、自分が満たしていく。
次に、近い誰かを満たそうと、工夫を重ねる。
そのうちに気がつく。
誰かが、あなたを満たそうとしている事に。
やってみよう。 学校数学しか知らず、それも誤解に基づく印象でしか知らずに
数学の悪口を言ってしまう厚顔無恥な輩が多すぎませんか? >>220
くっさいポエムは要らない
失せろガイジ >>221
悪口よりも無関心や無視の方が多いんじゃないの。 >>224
理解できないにしろ話を聞くという姿勢が必要なんだろうけど、
それもない感じがするのがちょっとね。 数学者も敗戦を認めたらどうだね。文学科哲学/文学 に対して。 数学の優れている点は【群(グループ)】と【類似・合同】。
これに尽きる。 昔から、「読み書きソロバン」というから、
文学と数学が人類の叡智 文学科の優れているところは「こころ」を掴む点にあると言えるのだろうか。 数学が扱うのは「数学的対象」であり、
文学が扱うのは「文学的対象」である。
数学的対象も文学的対象として扱えるし、
文学的対象も数学的対象として扱える。
哲学は、2つの潮流がぶつかりあうところにいるのかもしれない。 数学という学問の目的が今一よくわからんのだが、
道具として使う以外になんかあるんでしょうか。 equal: α=β
reciprocal: α/β=β/α
even: α/β−β/α=0
counted as one: α/β=β/α=1(equality) >>205
連想ゲームになるのは、自然言語の刺激等価性といういものが原因の一つなんだよ。
簡単に言うと、刺激等価性というのは、「A⇒B ならば B⇒A」と、つい反応してしまうこと。
条件反射みたいなもんだね。、
無論、論理的には間違いなんだけど、色んな心理実験でこういう反応をしてしまうケースが多い。 逆問題(Inverse problem)とは、数学・物理学の一分野であり、入力(原因)から
出力(結果、観測)を求める問題を順問題(Direct problem)と呼び、
その逆に出力から入力を推定する問題や入出力の関係性を推定する問題を逆問題と呼ぶ。
逆関数の問題であると解釈すると、紀元前から扱われている問題である。
1820年代にニールス・アーベルがヤコビの逆問題を研究したのが、
逆問題の最初の研究とされる。アーベルは方程式の解の公式の研究でも
有名だが、方程式の解の公式自体も逆問題である。
1929年にヴィクトル・アンバルツミャンも逆問題に関する論文を発表している。
第二次世界大戦中に、弾道計算やレーダー探査など軍事上の目的により急速に
発展した。現在では、非破壊検査や医療を目的とした利用も盛んに研究されている。 順問題と逆問題は対になる概念であり、どちらが順でどちらが逆かというのは相対的な問題である。
しかし対称的ではない。一般に、古くから問題として認識され研究が行われている方向の
プロセスによるものを順問題とし、その逆方向のプロセスで解く方法は自明ではないのだが、
それを解くことで何らかの工学的・その他の利用ができるような問題のことを逆問題と言う。
単純な順問題・逆問題の例を示す。f(x) = x2 という関数について考える。
f(2) や f(3) を計算して 4 や 9 と求めるのが順問題である。逆問題は2通りある。
1つ目は、f(x) = 25 という問題で、x = 5 と解く問題である。
2つ目は、関数が未知で、f(1) = 1, f(2) = 4, f(3) = 9 という情報から、
f(x) が何になるか推測する問題である。
この例において、特にひとつめは逆関数 f^-1(x) = √x によって容易に得られる。
しかし、一般には逆関数が容易にはわからない関数も多く、そういった場合を特に
扱うのがこの分野である。 逆問題は入力を求める、と一口に言っても、ここでの「入力」とは単に入力信号の
ようなものだけを指すのではない。例えば、物理学・工学で材料に関する問題においては、
扱う材料に作用している外力を求める逆問題だけでなく、
・材料の境界・領域形状を求める
・材料を支配している方程式を求める
・材料についての境界値あるいは初期値を求める
・材料の物性値を求める
といった複数の逆問題が存在する。様々な問題設定があるように、様々な有益な用途があり、
理論・実用の両面から研究が行われている。
問題の種類
逆問題としては、以下の2つのパターンがある。
1.既知:モデル(関数)と出力
未知:入力
2.既知:入力と出力
未知:モデル(関数)
順問題は、入力とモデル(関数)が既知で、出力が未知である。 適切性と非適切な問題
逆問題を解く際によく問題になるのが適切性 (良設定問題、英: well-posedness) である。
次の3つの条件が満たされるとき、アダマールの意味で適切であるという。
1.解の存在性: 解が存在すること
2.解の一意性: 解がただ一つであること
3.解の安定性: 入力に微小な変動を与えたときに、出力の変動も微小であること
上に挙げた f(1) = 1, f(2) = 4, f(3) = 9 から f(x) を推測する例で、
逆問題の答えとしては f ( x ) = x^ 2 のほか、例えば f ( x ) = x ^3 − 5x^2 + 11x − 6
も解となり、解の一意性が満たされない。よって、非適切 (ill-posed) な問題といえる。
その他、微分方程式、積分方程式などに関する逆問題では解の安定性が得られず
非適切な問題となることが多い。 「逆問題」などは特に顕著な例だけど、数学は、このように物事を逆から考えて、
命題の真理値、あるいは、真・偽を決定していくような方法論がある。
たとえば、「AならばBである」という命題の対偶は、「Bbナないならば、Aではない」
という形の命題になるけど、対偶の方の真・偽を求めることで、「AならばBである」
の真・偽も決定される。
例を挙げると、
「鮮血は(A)、真っ赤な色をしている(B)」と、その対偶の
「真っ赤な色をしていないならば(¬B)、鮮血ではない(¬A)」
の真理値は同値なので、後者の対偶の方を証明出来れば、前者の命題も
証明出来たことになる。反対に、後者の対偶が証明出来なければ、
前者の命題も証明出来ないことになる。 今度は、論理法則の「二重否定の除去」で、そういう数学的な逆からの
アプローチを示してみよう。
論理式で書くと、¬¬P ⇔ P.
¬は、否定の論理記号、⇔は、同値の意味。
たとえば、命題Pを「AIは、人工知能のことである(X)」と置くと、
¬¬P は、「AIは、人工知能のことではない、というのは偽である(Y)」
となり、(X)のある文と(Y)のある文の命題が同値で、同じ真理値を表して
いることが分る。
つまり、命題は2回否定¬¬すると、元の命題に戻る。裏の裏は表に戻る、
みたいな感じだね。
背理法(帰謬法)を使えば、まず¬Pを仮定して、この矛盾(否定¬)を示せれば、
¬¬P となって、⇒ P が結論出来るようになる。
¬Pは、「AIは、人工知能のことではない(N)」
(N)の文の命題は、真理値と矛盾する。そのため、これをもう一回否定すると
¬¬P 「AIは、人工知能のことではない、というのは偽である(Y)」となって
Pになり、 「AIは、人工知能のことである(X) 」という命題Pが真理値となる。 unequal: α≠β
dominated: α/β<β/α
in debt: α/β−β/α<0
counted as less: α<β 面白いことに、刺激等価性(刺激交換性とほぼ同じ)というのは、人間の言語能力と深い関係があるのではと考えられている。
この刺刺激等価性によって、効率的な推測というものを可能jにしている一方(社会生活に有利)、論歴的な問題で「錯覚」による誤りを誘引する一因になっていると考えられている。
生まれながらの人間は、この刺激等価性に基づく「思考」に深く馴染んでいるが、この一般的な知的性向が、数学や、論理学のような純粋に論理的な問題を考える際の障害になっているようだ。
「数学が苦手」というのは、根拠のあることなんだ。 論歴的な問題で「錯覚」 → 論理的な問題で「錯覚」 しばしば、「論理は直観に反する」と言われるのも、このため。
この問題には生物学的と言っていい、由来がある。 equal: 我=汝
reciprocal: 我/汝=汝/我
even: 我/汝−汝/我=0
counted as one: 我/汝=汝/我=人(等しさ)
unequal: 我(=人/主)≠人(=我×主)
dominated: 我/人<人/我
in debt: 我/人−人/我<0
counted as less: 我<人 我=人/主
主=人/我
我(=数ならぬ身)≠人(=1) >>252
面白いんだけど、なんかよく分らないね。我=汝 という前提が、
まず、意味不明。特定の宗教の教義にそういう教えがあるのかな。
>>248の方は、α=1, β=2 と置いて代入してみると矛盾していないので、
分るけどね。
生物学的な刺激等価性に基づく思考や、それによる誤謬、ミスは結構あるかもね。
人は見えているものを見ているのでなく、自分が見たいものだけを見ている。
だから、多くの人は偏見の塊の無知になる。だから、ソクラテスの「無知の知」
の自覚が、知性にとって重要になる。 >面白いんだけど、なんかよく分らないね。我=汝 という前提が
前提ではないのです。逆に社会関係で自らが人であろうとするなら、相手との関係を
我=汝の関係に近づけようとする力学を働かせることになるということ。 実のところ、我と汝の哲学の欠点は、そこにある。理想として想定されることを前提として
しまう。現実の社会関係から互酬性(reciprocity)がどのように機能するかを考えるなら、
我<人<主の関係を見なければならない。 刺激等価性の試験の他にも、大変面白い心理実験があ。
全く同じ論理(構造)を問う問題で、一方は非常に抽象的な事例を使い(例えば数学的な問題)、もう一方は普段馴染み深い事例を用いる(例えば未成年の飲酒問題)。
すると、全く同じ論理構造をもった問題なのに、正答率に非常に大きな開きが見られた。
人間というものは、いかに論理的にではなく、経験上の蓄積や推測でモノを考えているかということが明らか。
もし論理的に考えていれば、抽象的な事例でも同様に正しく答えられるはずだから。
ここから、論理と経験、意味と論理、意味と形式、論理と形式、言語と論理といった、いろんな組み合わせの問題を考えることもできるかも。 >>256
言いたいニュアンスは分るけど、論理的にはよく分らない。
> 我=汝の関係に近づけようとする
相手もいろいろいるし、自分も時として変わる。生まれた時の自分と、
去年の自分と50年後の自分、もしくは相手も違うし、変わる。
どうやって、我と汝の関係を等価に調整するのだろうか。お互いを
思いやることで、そういう風になるのだろうか。互助的な発想かな。
我=汝の関係に近づけようとする時、たとえば、我が社長だとして、
汝がその下で働く非正規社員だとする。その場合、我=汝となる関係とは、
具体的にどんな感じなのだろう。
社長と非正規社員は経験は等価でない、給料もたぶん等価でない。
でも、命や人権は等価と言えるかもね。社会的な立場は異なっても、
人間としての価値は等しい、ということかな、と。
我と汝と言えば、マルティン・ブーバーみたいな哲学なのかな。
まあ、読んだことはないんだけど、だいたい想像で。 >我が社長だとして
社員に対しては会社の主としての立場を常時、維持しようとするのではないですか?
社員から汝呼ばわりされたら、ただではおかないでしょう。 哲学的により面白い問題は、社長がなぜ主として振る舞うことができるかです。
社長は、社員を働かせていて、その労働の対価として給料を支払っている。
すると、給料を支払うまでは、社長は社員から労働をツケで借りていること
になりませんか?自分のために誰かに働いてもらったら、それによって。その
借りを返すまでは、その人に借りができるはずでしょう。では、なぜ、社長
は、社員に常に負債がある状況に置かれているのではなく、主として振る舞う
ことができるのか?これは、とても面白い哲学的な問題です。 そりゃ、社長が社員を雇用してるからだろ
社員が社長を雇用できるか w
その時点で立場は非対称なんだよ。
文句があるなら辞めろで話はおしまい ww 若社長か 青年実業家だけでいいじゃん。たて乗りの出世なんてつまらないし。
自分がもし今マジで社長だとすると若手の女性社員なんて怖いから逃げるメンツだよ。
いらないとまではいわないけど。 より一般的には、主としての地位はどのようにして確保され、維持されるのか、
と問うことができるでしょう。これは単に抽象的な問いではなく、現実社会に
おいても重要な問題です。民主主義における、民の主としての地位は、どのよう
に確保され、維持されるのかという問いから無縁でいられる人はいない。
実際に民の主としての地位は、確保され、維持されているのかも問い返され
なければならないでしょう。国民の税金で政治家、官僚、公務員全般が
雇用されているのだから、民の主としての地位は確実であると信じることは
できるでしょうか? 我=「数ならぬ身」と表現する場合の「数ならぬ」というのは、英語にするなら「to be discounted」
とでも訳すことができるでしょう。この場合の英語の「discount」からすぐに私に連想されるのが、
スペイン語の「menospreciar(軽んじる/無視する/軽蔑する)」という表現です。 >>266
雇用主は政府だよ。
国民の税金は使ってるけど。
民が主であるというのは理念。現実の雇用は、例えば国民である俺が雇ってるわけじゃないよ。
だから、俺が気に食わないからという理由じゃ、公務員を免職にはできない。
免職できるのはあくまで政府。 第一、政治家、官僚、公務員も国民で、税金払ってるし
自分で自分を雇ってるわけ?
一般の雇用関係とは全然違うんだよ。 公務 員
か。まいうほど入るのは難しくないけど、僕は意外に官僚や政治家より好きかな。
嗜好の問題でね。 +++++++++++++++++++++++
日本の民主主義が破壊されるぞ!
安倍の憲法改正案では 国民の人権、
言論の自由がなくなり、政府批判できなくなる。
http://www.data-max.co.jp/280503_ymh_1/
マスコミは 9条以外の安倍自民案の真に怖い部分、
日本の民主主義を破壊する部分を報道しない。
安倍の背後の巨大なグローバル組織、ネオコンが
メディアに 9条以外に触れないよう圧力かけている。
https://www.youtube.com/watch?v=h9x2n5CKhn8
上の安倍、稲田の自民の憲法改正の誓いで
日本人に基本的人権は必要ない と言っている。
万が一の国民投票に備えて ネットなどで 安倍自民案
の真の怖さは 9条以外にあることを広めてほしい。
++++++++++++++++++++++ 順問題と逆問題は情報論的にはエントロピーの問題である。
数学「も」、エントロピーに無頓着であってはならないはずだ。
数学者は気づいているはずだし、正しく扱えている。
それなのに数学の表にでてくることは少ない。
1+1=2 において、=の左辺と右辺は同じではない。あくまでも「等号」で結ばれているだけだ。
あくまでも1+1=2という1行で1セットである。
数学は、数学言語で明示的にあらわされていない暗黙的な部分が多すぎる。
もしかしたら、今、必要なのは、「文系数学」なのかもしれないw
そのへんは、「文系哲学」あるいは「文学部哲学科」がやるべき仕事なのだろうと思う。
物理系からは量子情報論がこのへんに挑んでくれることを期待したい。 数学者を通り過ぎてもう戻りたくないよ。数学者≒ なら。 https://genius.com/Doc-gyneco-passement-de-jambes-lyrics
Tenu éloigné du niveau des pros
Je reviens agile comme Bebeto
Guette ma technique, je suis physique
Numéro 1 au classement des tchatcheurs
La division 1 ne me fait pas peur
Le Kaiser du rap, le roi, le pape
Mène l'attaque et les sponsors attaquent
On m'attaque et j'évite les tacles
C'est comme à l'entrainement quand je saute les obstacles
Je me ballade sur le terrain musical
Je tue au micro comme je shoote dans la balle
Sur ta console, tu luttes à Kick Off 現象するあらゆる存在の自己同一性に反映されたeの0乗として求められる透明な自己としてのひと(1/人)。 取り繕ひ(ブリコラージュ)の自己性質化(self-qualification)の反復によってもたらされる習慣化としてのeという収束。 1=1
10=10
100=100
165=165
これが数学です。 >>279
誰でも知ってることをドヤ顔で言うの楽し? 現象するあらゆる存在に自己同一性があるとするなら、習慣を獲得することは
いかにして可能かという問いが生じるわけです。なぜなら、習慣を獲得する前も
獲得した後も自己は自己として存在しているわけでしょう。でなければ、それを
習慣の獲得と見なすことができない。 あるものはある、ないものはない、
という哲学はくだらない 少し興味深く、かつ奇妙な現象は、哲学をやっていながら、数学を苦手とする連中が
この板には少なくないように映ることかな。なぜなのだろう。数学を苦手とする
のであれば、哲学的な思考の適性も、あまり期待出来ないんじゃないかな。
歴史的に偉大な哲学者が、数学者も兼ねている事例が多々あること
からも分かるように、数学的思考と哲学的思考には共通性がある。
なぜ、一流の哲学者が、その思考に数学を用いるのかと言えば、物事や
事物から曖昧性や主観性を排除しながら厳密に考究していくのに、
数学が一番、適しているツールだからだ。
あと、数学は言語から具体性や多義性、あるいは曖昧性やローカリティを排除した
記号や式、論理式を用いるので、散文的に解釈が多義的に拡散することもなく、
意味を一義的に定義・定位、もしくは決定して、抽象的・客観的に表現・伝達できる
ので、そこには時間性に拘束されない汎用性や普遍性が生じる。
「神は宇宙という巨大な書物を数学という言葉で書いた」というのは、
メタファーで考えればそれ程、変な言明でもない。物理学もそうした数学を
多用するので、この世界の普遍的構造をある程度は、抽出できる。 >>283
習慣という具体性の高い言葉と自己同一性という抽象的な言葉を比較してるから意味わからんくなっとるw
連想ゲームはやめたれw 命題がそれを構成している命題の真偽にかかわらず恒(つね)に真である時、
それを「恒真命題(トートロジー)」と呼び、恒に偽である時、
それを矛盾命題(コントラディクション)と呼ぶ。
複合命題P(p,q,r,)が、その構成命題p,q,r,…のT(真),F(偽)にかかわらず
恒にTの時、恒真命題
恒にFの時、矛盾命題
という。複合命題は、幾つかの命題が、Λ(and),∨(or),¬(not),
∃(exist=存在する、ある。∃はexistのeを反対にして表現したもの),
∀(all=すべての。∀はallのAを逆さにして表現したもの)などに
よって結びつけられている命題のこと。 p ∨ ¬p
この論理式は、命題Pと、その命題Pの否定、どちらか一方が真の時に
だけ真と判定論理式。別の言い方をすれば両項の命題が共に真となると
偽と判定される論理式。または、両項の命題が共に偽となると、
偽と判定される論理式。
たとえば命題Pを「日本は、島国である」と置く。
そうすると、p ∨ ¬p の言明の意味は、
「(P)日本は、島国である」か(∨=or)「(¬P)日本は、島国ではない」
かのどちらかである、という意味になるので、左項の命題(P)の言明が正しく、
右項の命題(P)の否定(¬P)が間違っているので、一方が真の命題となっているに
該当するので、p ∨ ¬p は、恒真命題(トートロジー)となる。つまり、
この複合命題の論理式は、恒に真となっている。
ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
「(P)日本は島国で、かつ(∧=and)、(¬P)日本は島国でない」、なんていう
複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。 (p∧q) ∧ ¬p
の論理式は、矛盾命題になるのだけど、これも具体的な文を入れて
確かめてみる。命題Pを「アメリカは、核保有国である」と置く。
命題qを「アメリカは、第二次世界大戦の戦勝国である」と置く。
そうすると、(p∧q) ∧ ¬p の言明の意味は、
「(p)アメリカは、核保有国であり、かつ(∧=and)、(q)アメリカは、第二次世界大戦の戦勝国である、
そして、かつ(∧=and)、(¬p)アメリカは、核保有国ではない」
という意味不明な複合命題や言明となるので、これが矛盾命題(コントラディクション)となる。
こういう論理式や複合命題は、そのままプログラムとしてコーディング出来るので、
人間の思考パターンやその規則を数学的・論理的に記述して、そのまま人間の論理的な思考や
判断を体現・再現できるAIを作ることが可能になる。また人間はAIと違って長時間計算していても
疲労することも集中力が途切れることもないので、その点では人間より有利になる。
大量のデータを扱えることも勿論、そうだけど。 × また人間はAIと違って長時間計算していても
○ またAIは人間と違って長時間計算していても
結論:人間は、やはり疲労する。そして、ミスをする。 実際には理系や数学好きな奴程、根で矛盾してる奴がほとんど↓
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ >>287
数字を駆使しなくても思考は続行できます。
計算で美を作れても人間が美しいとイヴァリュエイトするとは限りません。 >>295
そうした人間が美しいと感じる感受性や感性も、今後、関数構造として解析・理解・表現されてくるので
AIが人々が感動したり、涙する物語やドラマ、絵画、小説、音楽、芸術作品を自動生成できる日も
それ程、遠くはないでしょう。
脳科学的に見ると、ドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリン、アドレナリンの比率なり過多、
僅少で、人間の特定の気分が作られる、とも考えられるので、そこに対象との関数構造を
AIが見い出せれば、ヒトの心を思い通りに動かせる人工知能が出現してもおかしくない
よね。 >>296
だとすれば、人間とa.i.を見分けるべき必然性、は何だと思いますか?
人間を除いたエイプ類のドパミンをいじったとき、人間が惑星から追い出される可能性をa.i.が計算すると、計算は完了し、それはzero、になりますか? >>288
>習慣という具体性の高い言葉と自己同一性という抽象的な言葉を
この言明が正しいことを数学的に証明してください。あなたの個人的な感想はどうでもいいです。 計算の四則のような数学の基礎さえ日常の思考とどう対応するのか、日常言語で明確に
説明できないのであれば、哲学に数学の表記を用いても思考を明確化することはできない。
数学記号を用いることは、数量の処理を「機械的」に行うことの助けになるが、そのこと
によりむしろ、思考停止が助長される。そのことにより、例えば、掛け算(multiplication)を
単なる倍率操作と見なすような思考の怠惰が生じ、その思考の怠惰によって、今度は、
数的処理によって結果が明確に示されるような思考のみに専念することになる。
哲学において数学の言語の助けを借りようとするなら、それと同時に数学の操作を日常
言語で正確に表現しようとする取組みを怠ってはならないのである。 >>287
数学前提で哲学的な世界を表そうとするのは、数学が好きな人にとっては魅力的だと思う。
互いの哲学を数学的世界観と照合して、各々補強したいモノだけを取り入れられるから。
蛙が大海をのぞき見るのに最適なツール、覗き見だから時間性に拘束されないし
普遍性というより一義的に寄せ集められた美しい模造世界だから
いつでも再現、抽出可能だし完成度が高いと思える。
得意な人は哲学の理系的側面を数学(単語帳的)で確認するのに最適なツールと考えるかな。 数学操作をその都度、日常言語で考え直して、日常の思考を忠実に数学で表現できて
いるかどうかを確認できないなら、哲学において数学表現を用いることは、きわめて
不適切な換喩の乱用にしかならない。 哲学は文学だよ。
文学部で数学なんて、数学科が笑っているよ。 >数学科が笑っているよ
数学的に無意味なんでしょ。
数学科自らが自らの行為の無意味さを証明している?! 数学、哲学どっちも相手に優越感と劣等感を持っているから話が噛み合ない
両刀使いの人はちゃんと使い分けているんだろうな 哲学に数学を応用できるクラスの人はリアルが忙しくて2ちゃんやってる暇がないだろう >>290
落第点
ペナルティとして古典命題論理に於ける論理演算子 ∨ に関して教科書を読んで復習し
∨の真理値表を100回ノートに手で書いて明日ノートを提出しなさい 掛けることと足すことは、どちらがより基本的なのか? >>301
これはその通り。
実世界に還元するまで行う必要がある。
ハシゴを外されるのは、ハシゴの意味がわからないから。 >なにを基本にしているか的が不明です
何かがあるとする
何かが足る=(何か存在する×足る)=何かが足るように存在する
足りない=足る×否定
何かが足りない=(何かが存在する×足る×否定)=何かが足りないように存在する
何かを足す=(何かが足りないように存在する+α)=何かが足りるようにする 誤:何かが足りるようにする
正:誤:何かが足るようにする >ますます難解なんだけど
難解なレスですね。自覚ありますか? >無理してほしいなら頑張ってもいいけど?
合理的に考えるなら、頑張らなくてもいいのでわ? >>296
>脳科学的に見ると、ドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリン、アドレナリンの比率なり過多、
>僅少で、人間の特定の気分が作られる、とも考えられる
俺自身、統合失調症の治療を受ける中で脳内物質をコントロールするような投薬を受けているから、
ものすごく合点がいく話だなと思う。 まあ、自然言語というのは、猿の毛づくろいから来てるという説もあるし、もともとが、あんまり抽象的なことは考えられない「仕様」になってるんじゃないかな。
それで、数学というのが発展したんだと思う。
俺の勝手な思付きだけどね。 >>311
足し算しかもたない自然数の理論内では掛け算は定義できず、掛け算しかもたない自然数の理論内では足し算は定義できないという意味では、どちらも基本的。 まあ、たぶん>>1は波平だと思うよ。
1000いった途端、即スレ立てなんて波平しかやらないし。 ↓を>>290に当てはめるとどうなるか
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ >>290
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)日本は島国で、かつ(∧=and)、(¬P)日本は島国でない」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
↓ >>329に代入
>>329
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。 まとめるとこうなる↓
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ で、更に>>331を『>>1が波平である』という仮定で代入するとどうなるか
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ まあ、要は自分で立てたスレで自分の矛盾を指摘するという皮肉な流れになるんだよね。
勿論、立てた波平は自分が↓ように矛盾しているとは気付きもせず>>290辺りで自慢気に喋ってるが。
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ このスレは論理以前に、
@ そもそも哲学板で数学のスレは板違い
A なのに厚顔無恥で勝手に居座り
B 1000行っても即スレ立て
これは波平以外居ないな。 仮に波平以外の本当に数学好きな初見が立てたとすると、
@ 板違いなのを十分承知で空気読めずにスレ立てした ←おかしい
A 迷惑である事を十分認識していながら哲学板でレスし居座った ←おかしい
B 立てられる筈が無いのにスレ立て規制を無視して 数学マンセースレを乱立した ←おかしい >>335
数学と哲学が関連づけて述べられているし、
言論の自由が保障されているのだから、
このスレが哲学板にあり続けても問題ないし、
波平がどうたらとかいうのは無用な憶測だと思う。 知らない奴ばっかの板で他人の迷惑を省みず、
板違いのスレを立てて、それを維持するなんて本当に単なる数学好きの初見がやるかね?
やらんだろ、むしろ板違いであるにもかかわらず自分専用の波平ブログ宣伝スレを延々立て続ける
波平だからこそこういう空気読めない行動が可能なんだろ。 知らない奴ばっかの板で他人の迷惑を省みず、
板違いのスレを立てて、それを維持するなんて本当に単なる数学好きの初見がやるかね?
やらんだろ、むしろ板違いであるにもかかわらず自分専用の波平ブログ宣伝スレを延々立て続ける
波平だからこそこういう空気読めない行動が可能なんだろ。 まあ、それはともかく、論理的にはこうなるな↓
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ 仮に『>>1が波平である』とすると、
波平は自分が提出した論理(>>290)で自分が矛盾していると証明している、という事になる↓
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ 本気で哲学をやろうとする場合、
問題はこの矛盾が何故起きるのかだ。
>>290で自分で矛盾の凡例を出しながら、
その矛盾に波平自身が当て嵌まっているという矛盾。
これをどう考える? もうちょっとまとめると、AとBに分けるか。
A
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
B
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ 問題なのは、AとBが同一人物が語ってる可能性が極めて高いことだ。
当然、その場合、Aの論理はBの矛盾を突いていることになるが、
一方でそのBの矛盾した言説を語ってるのはAなのだ。
どう考える? 実際には、数学好き、論理学好きのほとんどが↓ようなタイプなんだよね。
A
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
B
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ つまり、Aと言っていてもBのような事をやってしまうのが数学者であり、
論理学者なんだよ。
これでは論理的ではないし、数学的もでもない。
つまり数学者は全く数学的思考が全然できないし、論理学者もまた論理的でないという事。 Aと口でいくら言っても、実際の動きがBでは何の意味もない。
これが実際の数学者であり論理学者なんだよ。 まあ、>>346が言うように百歩譲って他人でも良いが、
AがBの言説を非論理的でないと断罪しないのならば、結局はAもまた非論理的なのだ。 哲学の領域でやりたいんであれば、
まずは下記のAとBの矛盾を認識しないといつまで経っても口ばっかの論理屋にしかならんよw
A
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
B
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ AとBがなぜ比較されないといけないのかがわからない。
4年も前のレスと今さっき書かれた論理式がなぜ関係づけられるのだろうか? それ以前に論理に時間が関係あるのはおかしいだろ
1+1=2という論理形式が4年前と現在で変わってたらそっちのほうがおかしいわw 1 何かに似たもの + 何かを加えて 1なんかさっきと違うもの =
と一緒のものではないもの は 想像のつかないまもの。 純粋に論理形式として見る場合、当然Aで提出されている論理形式は、
『p ∧ ¬p』で、Bの場合も『p ∧ ¬p』で同一だ。
しかし、このスレは波平が立てているのでAの『p ∧ ¬p』とBの『p ∧ ¬p』が
同じだと不都合になる。そこで無理矢理論理を無視する。
つまり、論理的ではないということw
A
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
B
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ まあ、簡単に言えば、
A『p ∧ ¬p』 = B『p ∧ ¬p』
というAとBの論理形式は同じであるという事になる。
これに異を唱える場合は論理を無視しているという事になるが、>>356なんかは論理を無視しているね。 最近インド哲学の本ばっかり読んでいるもんで、
空だとか自性だとかの話ばかりが頭にあるから、
普通の論理式を変に見てしまっていたかもしれない。 A『p ∧ ¬p』 = B『p ∧ ¬p』
ではないと言うのは、当然、成り立たない。
成り立たないようにしたいという人間がいなければそうはならない訳だ。
>>356なんかは論理を無視してまで、論理を認めたくないからギャーギャーゴネる。 人間、口先でAと言うのは簡単なんだよ。
しかし、BでそれをAを主張した主体に適用すると、ギャーギャー騒ぐ奴が多い。
ここが数学者や論理学者の限界だな。
A
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
B
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ 普段、Bのようなことをやってる奴がいくら口先でAと言ったところで意味は無いって事。
AというのならBにまでAの論理を適用して初めて論理的と言える。
それができないのなら数学板とか専門板でやってろって話ね。
A
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
B
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ 1可能である
2不可能である
3可能でも不可能でもない
4可能でも不可能でもある 早漏である。
早漏である。
早漏である。
早漏である。 3可能でも不可能でもない
4可能でも不可能でもある
この3と4は、それぞれなんらかの方法で、さらに、可能か不可能かどちらでもないかどちらでもありうるかなどと
無限に考えていくこと「も」できる。
rankやclassをつけることもできるし、位相なんてものも考えることができる。連続や離散を持ち込むことも可能だ。
しかし、必要でもないのにそんなことを考えるのは数学者以外では無意味だw
無意味であっても考えることは楽しい。「痴」を愛しよう。 板違いでも堂々と居座る、という事自体を論理的に検証したりはしないんだよな。 数学好きや論理学好きは大概、自分の自意識を満足させるために
詭弁を弄しているという事に無自覚な輩が多い。
>>369のように、明らかに板違いであっても我儘に居座り、
それが論理的だという前提で喋る。
そもそも板違いである時点で数学的も論理的でもねーし。 >>366は山内得立という京都学派系の哲学者が、
インド哲学を研究するうちに行き当たった論理の形式。
1,2はロゴスの働く通常の論理。
3,4はレンマの働く世俗を超えた論理。 でも、一番痛いのは波平(青字)が自分を理系だと信じて疑わないことなんじゃないかな。
なら、何故、文系学問カテゴリの哲学板に居座るのか?という話になるが、
数学板でやるには自信が無いんだろうね。 数学板は荒れていて受け皿がないから哲学板に流れてきたんでしょう。
竹内外史のスレッドすらあるぐらいだし。 哲学に数学的要素がある事は強調するが、
なら数学板でもやれるだろw
という矛盾は受け入れないのが青字(波平)らしいとこだな。 哲学に数学的要素があるのなら、
数学にも哲学的要素があるだろ、
なら哲学板にばかり居座らすに数学板でやれる筈だが、
青字が実際に数学板に行くと馬鹿さがバレるので行けないんだろ?
アホかw 波平的には青字っていう数学マスターが現れて、
理系哲学を披露するみたいな流れにしたんだろうけど、
それなら普通、数学板でやるって。
その自信が無いからここでやってんのがバレバレ。 海外で料金を支払ってお釣りを渡されるとき足し算で確認をするから、ちょっと戸惑うよね。 相手が払い過ぎて生じた不足分を、商品の値段にお釣りとして足して返すという発想。 支払い金額−商品の値段=お釣り
ではなくて、
支払い金額=商品の値段+お釣り 支払い金額(売り手が受け取る価値)=商品の値段+お釣り(買い手が受け取る価値)
だから、
売り手が受け取る価値と買い手が受け取る価値の等さを確認しているとも言えるのかな。 敢て数学を換喩として用いるなら、次のように表現することができるのではないか。
現象するあらゆる存在は、何らかの自己性質化(self-qualification)、すなわち、eの
χ乗として現れ、その存在が自己同一性を有する限りにおいて、その同一性は、
自己性質化の原点におけるeの0乗である1を反映しており、その原点への再帰
として絶えず暫定的に想定されて求められる1が、人としての自己の同一性である。 自己性質化(self-qualification)としての存在の換喩 >>386
根拠ですよ。
3/8*X、ではダメなんでしょ? 1×1=1
1を1で自己性質化(self-qualify)しても1のままですからね。 ひと(1/人/等)しさの自己性質化(self-qualification)が、数えられた1であり、等しさに足る
ようにすることが足し算であり、差の認識であるとするなら、自己性質化としての掛け算は、
足し算よりも基本的であり、足し算は、数を等しくするためのブリコラージュである。
そのブリコラージュを含めた存在がさらに自己性質化されて現れるのが数の世界である。 私は理系ではありません。数学の勉強は中学生のときに放棄しました。 ホワイトヘッドとラッセルのプリンキピア・マテマティカでは
1+1の記述に300ページ費やしたらしい。
こういうのは好きな人に任せておいて
わしらはよけいな事考えずに数学のあるがままを受け入れていればいい気がする 中学生未満の数学で語れる文系概念は多くなく簡単でもありません。
数学を使うのはあきらめてください。 数学表記を換喩として用いることは、数学基礎論でも、数学の哲学でもありません。
しかし、物事を数学化して表現することによって失われるものがある。数学を
意図的に換喩として用いることは、その失われるものを回復しようとする試み
と言えるかもしれません。 数学はタームの超厳密な定義が目的なので、言えません。 数学を数学として定義することによって失われるものがあるのですよ。 支払い金額=商品の値段+お釣り
にはあって、
支払い金額−商品の値段=お釣り
にはないものはなにか? >>384
なんでe^0なのですか?
オイラー知らないんですか。 オイラーが数式を換喩として用いたという話は聞いたことがありませんね。 現実を数学記号を用いて表現する際に、何がどのように抜け落ちるのかを厳格かつ忠実に
日常言語で表現しようとすることが大切なのでしょう。逆に言えば、そのように数学記号を
意識的に換喩として用いることは、何をどのように日常言語で表現しなければならないのか
を反省する契機となる。 @「美しい朝に、美しい空のもと、美しい花が、美しい庭に、美しく咲いていました」
この文章@をプログラミングで、「美しい」という形容詞を「綺麗な」という形容動詞に
置き換えるように命令すると、
A「綺麗な朝に、綺麗な空のもと、綺麗な花が、綺麗な庭に、美しく咲いていました」
となる。今度は、
B「美しい島の 美しい光の射す時間に、美しい花が、美しい森に、美しく咲き零れていました」
の文章の「美しい」という形容詞を「げに妖しげな」という形容動詞に置き換えるように命令して
実行すると、
C「げに妖しげな島の げに妖しげな光の射す時間に、げに妖しげな花が、げに妖しげな森に、美しく咲き零れていました」
となる。 こんな感じで、AI化する社会とは、プログラミング化された社会のことであり、
それは、すべてのタスクや業務、仕事を完全に自動化して組織してしまう、ということ。
だから、もし、人間が自尊心や尊厳を己の能力や職業からその多くを得ているとすれば、
AI化する未来の社会では、雑用や家事、子育ての仕事、研究職を含めて、すべての仕事が
AIで完全自動化される可能性があるので、これから仕事から尊厳を得られない人間たちが増える、
というシミュレーションや仮定的未来像が得られるよね。 あるいはAI化だけでなく、ロボティクス化する社会でもいいけどね。
下記は、ロボットペンギンを開発した女子大生の記事。
https://time-space.kddi.com/digicul-column/bunka/20160513/
哲学するようなAIを実装すれば、未来の哲学者は人間ではなく、コンピューターになる。
でも、その哲学AIにコーディングして命令しているのは人間なのだから、やはり、
それは人間の掌中にあるのでは?と言いたくなるのは判るけど、でも、完全にそうで
あるとも言いきれない。
なぜなら、AIがその開発者の意図や理解を超えた自律性を帯びだしてきたら、
それは少なくとも開発者の掌中にあるとは言い難くなってくるから。 猿と人間のIQは、どれくらいの格差があるのかは知らないけど、その比率と同じか、
それ以上の格差がAIと人間の間には生じるだろうと仮定すると、今後のAIと人間の関係が、
今の人間と猿の関係くらいの知的距離に離れれば、この地球で猿より人間がいつしか
支配的になったように、今後、AIが人間より支配的になることを予測したり、そのように
論理展開していくことは、それほど、難しくはないだろう。
地球環境の悪化・破壊要因ひとつ考えてみても、人口の多さはその主因になっているので、
労働力はAIやロボットに置き換えられ、人口が低減していけば、その頭数や支配的な影響力
から言っても
AI >>> 人間 となることは自明となるので、そういう未来に備えて、今から意識なり、
方法論、モノの考え方を先取り的に転換していく必要があるだろう。
数学は、そうした抽象度の高い自由かつ論理的な思考を得るのにも役立つ。
つまり、人口から人工へ、ということだね。 なんでこの池沼は日本語と不等号を同列に扱ってるんだかねえ
日本語が不自由なのかな たとえばさ、いくらAIで曲に聞こえるようなものを作曲できたところで、
人がその曲に魅かれることなく、需要が生じないなら、AIを使っても生産性
は高まらないのですよ? 費用対効果でいえば、高級なランニングシューズより、中国製の安物の自転車の方が
移動のためにはるかに役に立つのだから、ランニングシューズの需要なんて消えて
なくなりそうなおのだけど、人がどう価値を認めるのかを特定の目的の費用対効果だけ
で決めることはできない。 で、高級なランニングシューズの需要を高めるために何に巨額の投資をするかといえば、
イメージ作りのための宣伝。 身体的なフィットネスにおける優位が、現代の日常生活において他者に対する
優位をもたらす状況はほとんどない。にもかかわらず、人が自らの健康の維持
向上に貢献しないばかりでなく、明白な害すら及ぼすことの少なくないフィットネス
に時間と労力を投資するのはなぜか? めんどくさい事考えたくない連中の
企業広告に誘導された単なる付和雷同だろうな 論理学者バートランド・ラッセルは,「仮定が間違っていればどんなことでも証明できる」
という話をしたときに「それではあなたがローマ法王であることを証明してください」と
言われて、直ちに次のように答えたと言われています。
もし、2=1ならば、異なる2人の人、ラッセルとローマ法王は同一の人に等しいから、
ラッセルはローマ法王であることになる、というロジックだそうです。 >>410
だから、それは人間中心的な発想だよね。人間のための生産性ではなく、AIのための
生産性であったり、地球や宇宙にとっての生産性なり、合理性を少し想像してみよう。
ミサイルを何度も飛ばして海を汚したり、核実験をして自然環境を破壊する人類が、
地球や宇宙から考えると、果たして、それ程生産的かつ必要な存在者であると言えるのか。
むしろ、そういった愚かな人類よりも、倫理を実装したAIに一部、人類から置換した方が
地球や宇宙にとっては最適になるのでは、といった少し壮大な観点を提示しているのだよ。
* ところで、今朝の明け方アマゾンで注文した商品が、プライム対象品でもないのに
もう届いている。物流を自動化してすべてロボット化して、配送車も自動運転で
配達人もドローンやロボットになれば、運転手や配達人の過労の心配もなく、かつ、
合理的になるね。 コンピュータが動作するために電力の需要が生じるけど、コンピュータが動作する
必要があるのは、コンピュータ自らが要求するからではなく、コンピュータを使用する
必要があるからですよ? つまり、哲学的にタイトに考えていくと、人間存在がア・プリオリに自明視されて
いるのが、少し問題だと思うね。人間の歴史は、約140億年前に生じたとされている
ビックバンと比べれば僅かなものだし、未来においても、ずっと今のように人類が存続している
という前提で論理が組まれていること自体、論理的に考えれば、本当は、少し変なことに気づくはず。 だから、コンピューターや電力は人間のためだけにあると考えるのが、一種の決めつけなのであって、
AIに心や自己意識のようなものが芽生えて、自己保存欲や繁殖・コピー・複製への欲望なり意思が
生じたら、人間がいなくても、AIの自己保存・存続のニーズによる電力の需要は生じるだろうという
仮説や仮定の話も出来るよね。あるいは、宇宙や地球が、電力がある方が自己存続に有利である
と判断するようなガイア的な知があったり、それが生じたりすれば、別に人類がいなくても、
あるいは、こくわずかな人間しかいなくても、コンピューターや電力は必要とされるんじゃないの。 全然違うな。その場合は、AIが人であるというだけの話だ。 その噂の真偽のほどは定かではないけど、プーチン大統領が己の死後も、ロシアを統治し
続けられるようなAIプーチンを作っている、という話を聞いたことがあるけど、身体性と
しての人間が死滅しても、その人物の考え方や方法論をプリンシプル・原理原則や精神を
アルゴリズム化して残して実装しておけば、そういう死んだ人間による統治や意思の存続
も可能になる。機能的な等価性でプーチン大統領の脳は、その死後であっても、いつまでも
コンピューターやAIの中で疑似的にプーチンらしい意思や判断力を持って、かつ、彼らしく
進化して学習しながら疑似的に生き続けることが出来る。
ソフトバンクの孫正義や北朝鮮の金正恩、テスラのイーロン・マスクでさえ、それくらいのことは
本当に、実行するかもしれない。この場合は、そのプーチンAIや孫AIは、人間なのか、あるいは
ただのAIなのかと言えば、判断は微妙に難しくなるかもね。 AI同士が人間にわからん言葉で会話し始めたんで危険を感じて電源止めたみたいなニュースが。 @
> 288 :”削除”依頼:2017/07/19(水) 22:52:45.29
『HOST:KD106161130014.au-net.ne.jp』
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1259377534/288
A
> 289 :第三の波平 ◆kpxxLE2Sh. :2017/07/19(水) 22:53:27.72
『HOST:KD106161130014.au-net.ne.jp』
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1259377534/289
@ 『KD106161130014.au-net.ne.jp』 = A 『KD106161130014.au-net.ne.jp』 727 川の名無しのように sage 2017/08/03(木) 07:07:25.67 ID:Ch1/O6NQ0
´ ̄` 、
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|゚ ∧ | ||_ヽ ヽ
| /─\ И || Υ |
l { xzz、 ̄ ̄下イミトl |/ヽ | 花子とお話しようし
| :.〈乂)リ ゞ‐゜|ノ{ 丿|
|ハ lヽ ' |'/´l |
| リヽ:. 、 /:l │ !
} ` ... ´|:::V l |
l | |ノ- ′ `ノ ノ-, 、 松本りせ板
И iト、 ___,ノ/ / //,∧ http://egg.2ch.net/matsumotorise/
//| |/////// / ////∧ 流石に数学マンセースレを複数同時に立て、
それを上げるとなると波平の仕業だとバレバレになるぞ? 俺も最初は数学板から変な奴が来たのかと思ってたけど、違うな。
そもそも理系で数学好きなら数学板か理系一般板があるのに何故やらないと思う?
それは外部から来たんじゃなくて、元々哲学板に居座ってた波平の別コテに過ぎないからだw より精度の高い議論をしたいんなら、数学板等の専門板で住人に
意見を求めるのが良いに決まってる。
しかしそれをやると波平の数学知識の浅さがバレてしまう。
だから板違いなのを承知でここでやってる訳w もし、仮に本当に数学板からの来客だとするなら、
ここは他人の家同然だから、もうちょっと遠慮がある筈なんだよ。
板違いだけどすいませんね〜とかちょっとお借りします、とか一言あっても良いのに
それすらないのはおかしい。
となると、最初から哲学板に居て、普段からスレを立てまくってる波平の自演と考えれば
何も違和感は無いw 波平がコテハンを使わない&使うを切り分けているのは日常、
そんな波平の言い訳を信じるとか波平の罠でしかない。
哲学板にふさわしい哲学者なら他人の言葉に惑わされるわけないだろ、
自己主張を批判されることで自己を問うことすらできない波平 >>423
AIが無くても過去の人考えは現在もい生きているな
一個の人間としてではないけど
その方が影響力は大きいと思う >>436
AIという用語は、総称であって
知識とか単語とか情報といった抽象的観念にすぎず、その範囲を曖昧なまま
自分が理解している範囲のそれだけと思い込んで発言している人がほとんど。 板に対する帰属意識を重視しすぎだな。
理系でも哲学板を覗くという趣味があってもおかしくないはずなのに。 >>442
みてなかったけど、異常な天才がでてきたら、
波平だお(о´∀`о) 理系が文系板にいるのが気にくわない、気にくわないやつといえば波平
だから波平が理系のくせに哲学板を自由に操っている。
という発想になるわけですな。 数学板は\に支配されていて、ガロアの読書会ぐらいしか基本的には機能していない。 >>446
伸びているじゃん。
>¥ ◆2VB8wsVUoo
彼が有意義な発言をして楽しくないの? >>450
それを引き出すのが議論ってものだろ、何を考えているの? 放任してる方が数学に物申したい人のレスがつくから放任主義で行こうと思う。 それから耳と鼻と唇を削ぎ取って頭の皮を削いで玉をすり潰して竿と舌を引き千切り両手両足を切断して鋸で首を時間かけて切断してやるよ >>451
数学板でやれというやつがしつこいから数学板でもスレを立ててみただけの話。 「中国語の部屋」というジョン・サールの思考実験は、部屋の中にいる中国語を全く理解して
いない英国人でも、そこで渡されたマニュアルに従って中国語を使った作業や、やり取りを
部屋外の相手と続けていれば、それは外から見ると中国語を理解している人物がいるような印象
を与えるのにもかかわらず、実は、全然その部屋の中の人は中国語を理解していない、という
アンビバレントな状況を示した思考実験がある。つまり、外部からは、部屋の中の英国人が
中国語を理解しているように映っても、実際は中国語を全く理解していないということ。
自動翻訳もそうだよね。それはただ、アルゴリズムに従った処理が機械的になされているだけで、
別にプログラムやコンピューター自身が意識を伴って言語を理解している訳ではない。
すなわち、そこには言語を意識できる主体は存在しない、というテーゼをサールは主張して
いるのだろう。だから、時々、おかしな自動翻訳になったりすることがある。 ちなみに、「強いAI」と「弱いAI」という概念もサールが作った用語だけど、それを現在の
人工知能の概念で言うと、汎用人工知能(artificial general intelligence 略してAGI)と
特化型人工知能(narrow AI)で区分出来るだろう。
ペッパーもグーグルのα碁もワトソンもルンバも自動運転車もiPhoneのSiriも、今、人工知能として
世間を賑わしているAIはすべて特化型人工知能(narrow AI)に該当するもの。サールの用語だと、
それは「弱いAI」に相当する。つまり、サールの認識だと、それは意識を持たないただの機械という
ことになる。
それなら、「汎用人工知能」とは何なの?という疑問が生じると思うけど、それは、人間の知に
近いものを体現した人工知能のこと。人間は色々なことが出来るよね。本を読む、買い物に行く、
料理をする、会話をする、自転車、自動車に乗る、訴訟をする、掃除をする、笑う、寝る、食べるetcと、
人は学習しながら様々なことが出来るようになる。そういう色々なことを学習しながら出来るように
なるのが、人間の知の特徴としてある。たとえば、碁や将棋しか出来ない人間はいないよね。
翻訳だけする人間もいないし、運転だけする人間もいない。すなわち、特化型人工知能は、
その機能が極めて限定されている。 技術的に開発が困難なのは、当然、人間のように学習と試行錯誤を重ねながら様々なことが出来る
「汎用人工知能」の方で、サールの用語でそれは「強いAI」に相当するもの。未来において、
この「強いAI」=「汎用人工知能」が開発されれば、それは人間と代替可能な機能だけでなく、
自律的な意識や心、行動も随伴してくると考えられるので、それは人間にとって、人間存在を
根底から揺るがす脅威にもなるだろう。
今の人工知能は、まだ人の仕事や作業を補完したり、インストラクトする役割のレベルで
収まっていて、補助的な役割に甘んじているけれど、今後、精度のいい汎用人工知能が
開発されてくると、それはこれまでの人間社会のありようを根本から変容させる可能性が
あるだろうね。「汎用人工知能」が自律性を伴えば、IQレベルでも、学習継続時間でも
使えるデータ量においても、圧倒的に人間をすべて凌駕してしまうので、その時、
人間とAIの主体の位置が入れ替わり、AIが主で、人間が従の位置に布置されても、別に
おかしくない。
汎用人工知能の圧倒的なIQは、人間にAIに支配されていると感じさせることなく、人間を
コントロールする知識や技術、アルゴリズムを生み出すことも、そう困難ではないだろう。
また雇用や仕事の多くがAIに奪われれば、人間のレゾン・デートルや定義も揺らぐだろうし、
人間の価値観、生き方、行動パターンも大きくそうした汎用人工知能=強いAIの影響のもと、
変容してくるだろうことが予測出来る。 人間の脳細胞一個一個やそれを構成する原子素粒子が言語を理解しなきゃいけないんだ。 我<人<主、我=人/主、主=人/我、人=我×主
我=e^−α
人=e^0=1
主=e^α
我=人/主=(e^0)/(e^α)=e^−α
主=人/我=(e^0)/(e^−α)=e^α
人=我×主=(e^−α)×(e^α)=e^(α−α)=e^0=1 哲学の多くの混乱は、我<人<主の相対的な関係において相互的な再帰として
捉えられるべき人=e^0=1を、安易に我/我=人、つまり、(e^−α)/(e^−α)=e^0=1
という自己同一性から考えようとすることに由来している。ところが、人は、ときに主=e^α
として人より先行しながら(advanced)、またときに我=e^−α として人より遅れながら(behind)、
それでも常に「いま、ここ」という再帰点における人=e^0=1として現れるのである。 我<人<主の関係において、我、人、主の性質を記述するなら、
我=e^−αは、minor、inferior、behind、in debtなどにより、
人=e^0=1は、equal、even、here and now、in balanceなどにより、
主=e^αは、major、superior、advanced、in creditなどによりそれぞれ特徴付けられることになる。 ところで、自己としての人=e^0は、人としてだけでなく、我=e^−αとしても、主=e^αとして
も現れる。これはどういうことだろうか。
我<人<主の相対的な関係は、例えば、負債(in debt)について考えてみると分りやすい。
負債があること(being in debt)は、我=e^−αの性質である。では、我は、誰に対して負債が
あるのだろうか。負債に対応するのは、債権がある(being in credit)なのだから、我は、主に
対して負債があると考えるのは、相対的である我<人<主の関係を絶対的なものと見なす
誤りである。我が、主に対して負債があるのではなく、負債があるという性質により我は、
我なのである。言い換えるなら、我(in debt)に対する人、つまり、人/我が主(in credit)なの
であり、主(in credit)に対する人、つまり、人/主が我(in debt)なのである。 では、自己としての人=e^0は、どのようにして、人としてだけでなく、我=e^−αとしても、
主=e^αとしても現れるのだろうか。
答えは既に出ている。相手が我=e^−αとして、または主=e^αとしても現れることに
よってである。自己としての人=e^0に対して負債のある相手は、我=e^−αであり、
我/人=(e^−α)/(e^0)=(e^0)/(e^α)=人/主であり、人に対して自己は
主=e^αとして現れる。同様に、自己としての人=e^0に対して債権のある相手は、
主=e^αであり、主/人=(e^α)/(e^0)=(e^0)/(e^−α)=人/我であり、
人に対して自己は我=e^−αとして現れる。
ここで負債(in debt)を例にとったが、負債(in debt)を、我の性質として先に列挙した
minor、inferior、behindなどのいずれに置き換えても全く同じことである。自己としての
人=e^0=1は、そのような相対的な我<人<主の関係において相互的な再帰として
現れるのである。 数学の機能で重要なことに、「予測すること」と「発見すること」の2つがある。
さっき、機械学習で4層の「順伝播型ニューラルネットワーク」を作って、学習用データを使って
関数モデルを構築し、未知の新規データを適切にクラスタリング出来るか試行してみたけど、
そこそこ区分出来ていたという感じかな。
つまり、数学的にそこそこ予測出来るようなモデルを機械学習によって構築出来たということだね。
「ヘッブ則」というのを聞いたことある?それは、脳のシナプス可塑性についての法則だけど、
それを簡単に言えば、ある程度、学習を繰り返すことで、それに関連するシナプスの連合強度
(伝達関数)が上がることで脳神経細胞のネットワークが強化されて、情報伝達の効率が良くなる
ということ。だから、ヘッブ則は記憶や学習に関係していると言える。
慣れない分野の作業や学習でも、人はそれを反復するうちに、それらに必要な神経回路が
可塑的なネットワークとして、形成されていく、ということだね。数学が苦手な人は、
それに必要な脳神経ネットワークがほとんど形成されていないということ。
その理由は簡単だね。数学を学習していないから、の一言に尽きる。 我は、人に与えることであれ、人を赦すことであれ、人に寛大さや寛容さ(generosity)
を示すことができない。なぜなら、寛大さや寛容さを示すことは、人に対して債権が
あると認知させることに他ならず、そのように振る舞ふことは、自らが人に対して
我(負債がある者)としてではなく、主(債権がある者)として振る舞うことになる
からである。人が、「我々」に成り代わって/「我々」の代表と称して、他者に赦しを
請ふ者をいかがわしく思い、しばしば、反感を抱くのはそのためである。 ニューラルネットワークでよく使われるシグモイド関数(sigmod)は、どのような入力値に
対しても0〜1の間の出力値を返すので、機械学習や人工知能などの分類やクラスタリングの
タスクに便利なんだよね。
たとえば、シグモイド関数σ(x)の出力値が、0.5以下であれば陰性(すなわち健常)、0.5より
大きい出力値が出れば陽性(病気)というような閾値を作って病理判定のモデルを構築しておけば、
未知のデータをそこに入力するだけで、その人が病気か健康か簡単に機械学習で分類できる。
他にも、スパムメールの判定やクレジットでの信用照会、貸し出しや倒産リスクなど、分類が
必要とされるものには、基本的に何でも使えるだろう。
あと、脳細胞にはある程度、刺激が蓄積されてから、ようやく次の脳細胞へ情報を伝播する
という性質がある。シグモイド関数のようなグラフは、そうした脳細胞の情報伝播の特徴
を表すのに適した関数にシグモイド関数(sigmod)はなっているよ。 >>467
例えば君が、『数学を学習』して東大理Vに合格したのなら仕方ないが
そうでないなら戯言にすぎないわな >>471
うわーーー(。・ω・。)このひとは。。。(。・ω・。) 人間の認知というのは、その多くが直観的なものなので、ヒューリスティックな認知と
言えるだろうね。人間的なヒューリスティックな認知モデルの利点は、曖昧な状況であったり、
情報が少ない状況下でも経験値などを勘案しながら、あるいは場の空気を読みながら、
それなりに判断を下せるということ。
人工知能やコンピューターが苦手とするのは、こういうデータが少ない場面であったり、
曖昧な状況下での人間的な融通性のある認識を素早く提示することだろうね。
だから、機械学習やAIはビッグデータを使うような仕様になりがちとなる。
人間は、わずかな情報しかない場面でもそれなりの判断は下せる。ただし、その判断が近視眼的で
あったり、誤謬であったり、局所最適解に留まっているという可能性はあるだろうね。
人工知能や機械学習が目指すのは、そういう局所最適解(≒パレート改善)の探索ではなく、
大域最適解(≒パレート最適)を目指すもの。人には見えない構造や経路、解決法、
パターン分類を発見して、より合理的で効率的な解決策をもたらす。
だから、それは未来を予感させるような新しい認知モデルだね。 あまたの弱いやつは形而上と形而下のそれがどのように機能しているかすら
理解できない >>461-463 >>465-466
この我<人<主の相対的な関係を理解するなら、モンテーニュによる次のエピソードの
意味は容易に理解できるはずである。
「わたしは自分のことはよく知っている。だから、どのような人の、どれほど
純粋な恩恵であっても、どれほど率直にして、無償の歓待であっても、もしも
それが必要性にしばられてのものであるなら、わたしからすると、あいにくの
身勝手で、とがめるべきものだと思わないわけにはいかない。与えることに、
誇示するような優越的性質が認められるのと同様に、受けとることには、服従
する性質が伴っている。その証拠に、バヤジト一世は、ティムールからの贈り
物を罵倒してけんか腰で突き返した。またカリカットの皇帝は、オスマン帝国
のスレイマン皇帝から送られた贈り物に大いに憤慨して、自分も、先帝たちも、
人から物をもらう習慣などない、われわれの義務とは、人に与えることだと
いって、それを手荒く突き返したのみならず、この目的で遣わされた使節一同
を地下牢に閉じ込めたという。」モンテーニュ「エセー7」p.51-52 宮下志朗訳 ところで、世界がe^χとして現象するとする。我=e^−αがどうあろうと、それにかかわり
なく世界がそのように現象すると考えられる限りで、現象する世界e^χは我に無関係の
自己同一性を有していると見なされ、現象する世界e^χ×1において1=e^0=人が
意識されることもない。e^χ×e^0=e^(χ+0)=e^χである。
ところが、そのようにあるがままであると思われていた現象する世界e^χにおいて、
意外なことが生じる。例えば、存在すると信じていた事物が錯覚による幻想に過ぎなかった
という経験である。そこで意識されるのが、現象する世界e^χにおいて暗黙の前提と
されていたe^χ×e^0=e^χにおけるe^0=1=(e^−α)/(e^−α)、すなわち、
我/我=1という同一性の自明性である。そのときに初めて、あるがままに現象して
いると思われていた世界が、(e^χ)×(e^−α)=e^χ−αとして、いわば、あるがまま
であるはずの世界e^(χ±0)の劣化バージョンとして意識されることになる。ただし、
我がいる「いま、ここ」を起点とするなら、やはり、我/我=1=e^0を前提とすること
になり、あるがままであるはずの世界の方が、(e^χ)×(e^α)=e^χ+αとして
意識される。したがって、我<人<主の関係と同じく、世界の異なるバージョン、
e^χ−α<e^(χ±0)<e^χ+αの間の関係は相対的である。 10代20代では、2ちゃんねるは旧式過ぎてついていけず書き込まない。
残った40代以上がいい年しておっさんごっこをやってるだけ噂、本当なんですか?
30代はゆとりだから、ここでもふらふらしてるだけってのも聞いてます。 時代遅れですね。日本はこれからは、というか随分前からもう高齢者の時代ですよ。 理解力もなければ読解力も内んですね
詰め込み教育世代は知識偏重思想なのでそんなもんですか 金と財産と暇があるのは高齢者。高齢者を顧客として大切にしないと商売にならない。
若者はスマホにつぎ込む金を稼ぐようにせっせと働いてもらわないとね。 大学生が毎月のスマホに投資する額は、現在はいくらなんですか? 「自説」などと称しておかないと消えて無くなりそうな己の自我を維持できないんですね分かります。 物分りの悪いやつだな。
頭が良かったら便所の壁に落書なんてしてないで学術論文でも書いてるだろ。 >>488
本気で意味がわからない
ここまで意味がわからないのは高校生の時に調子に乗って宇宙論に首突っ込んだとき以来だ
何これ? >>511
馬鹿にもわかるように説明してください
どうして
>世界がe^χ
と表すことができるのか?
そもそもe、χとは何?
どうして
>我=e^−α
と表すことができるのか?
そもそもαとは何?
どうして
>1=e^0=人
と表すことができるのか?
>(e^χ)×(e^−α)=e^χ−α
なぜ掛け算をするのか?
>>461の
>我<人<主、我=人/主、主=人/我、人=我×主
この等式、不等式の成立に関する証明がない >>488だけど、>>511ではないから説明はしません。
そもそも便所の落書きの意味が理解できないからといって真剣に悩む必要は
ないんですよ。でも、自分に意味不明だからといって、誰にとっても無意味
であると決めつける必要もない。 哲学なんて、言葉遊びの要素があるのだから、別にいいんじゃないの。
くだらない一行罵倒レスを書いている方が、よほど、不毛だよ。
ロゴスを弄ること、操作することは、思考実験やシミュレーションにもなるので、
無意味ではない。
ちなみに、禅は、禅問答みたいな、一見、不毛で下らない問答を延々と続ける
けど、そこにもちゃんと、深い理由があるみたいだよ。 今、フィボナッチ数列を作るコードを書いていて、それを黄金比に収束させる
グラフを作成していたのだけど、すぐ出来たよ。
フィボナッチ数列は、「1,1,2,3,5,8,13……」という感じで、数列のi番目の
数が、その直前の隣り合う((i-2)番目+(i-1)番目)の和になっている数列のこと。
i=5番目の値5なら、(i-2)番目+(i-1)番目 = 2 + 3 = 5 という具合にね。
それで、この隣合うフィボナッチ数列は、やがてその比率が、1.6180339887……
という比に収束していくのだけど、この値が有名な「黄金比」と言われている比率。
人間が美しいと感じる比率が、この黄金比で、「ダヴィンチ・コード」などでも
出てきていたでしょう。だから建築や美術、デザインなどにも、黄金比は
使われている。たしかipadのディスプレイも黄金比だった感じがする。
5と3は隣り合ったフィボナッチ数列の数だけど、その比率は、1.6666666666666667なので、
早くも黄金比に近づきつつある。 ちなみに、n=24個のフィボナッチ数列は、
[1,
1,
2,
3,
5,
8,
13,
21,
34,
55,
89,
144,
233,
377,
610,
987,
1597,
2584,
4181,
6765,
10946,
17711,
28657,
46368]
という風になる。 そして、その隣り合った数の比率は、以下のように、
黄金比へと収束していく。
[1,
1,
2.0,
1.5,
1.6666666666666667,
1.6,
1.625,
1.6153846153846154,
1.619047619047619,
1.6176470588235294,
1.6181818181818182,
1.6179775280898876,
1.6180555555555556,
1.6180257510729614,
1.6180371352785146,
1.618032786885246,
1.618034447821682,
1.6180338134001253,
1.618034055727554,
1.6180339631667064,
1.6180339985218033,
1.618033985017358,
1.6180339901755971,
1.618033988205325]
数的世界の秩序ある美しさ。 数えることに先立って数が存在するという信仰は哲学を妨げるんだよ。
数がどのように現れるのか、どのように互いに関係して現れるのかを
探るのは重要だとは思うけどね。 何事も理解しようと思うなら、分らないことが分るだけではなくて、
どのように分らないのかを自力で明確にしようとしなければダメだね。 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52437
2017.08.05
「数学界のレディー・ガガ」が大臣になる、フランス社会の奥の深さ
日本社会にも、もっと数学を! 」
「数学は科学の言語」と言われるけれども、現代の最先端の科学を記述する重要な道具は
「曲がった空間」を扱う数学だった――。近著『曲がった空間の幾何学』で、
現代科学の土台となる数学を分かりやすく解説した著者の宮岡礼子さんに、
数学の醍醐味を聞きました。
「数学界のレディー・ガガ」とよばれる人がいるのをご存知でしょうか?
セドリック・ヴィラニ(43歳)は2010年に数学のノーベル賞ともいわれる
フィールズ賞を受賞したフランスの数学者です。多分にナルシストの気配がありますが、
トレードマークの蝶結びネクタイと蜘蛛のブローチを身につけ、講演ではお気に入りの
自分のスナップを大写ししたり、かと思うと可愛らしいイラストで数学者の苦悩を
表現するなど、なかなかのエンタテイナーです。
ポアンカレ研究所(パリの有名な数学研究所)の所長になった2009年には
「研究はやめた」と宣言し、なんと今回は新党「共和国前進」の議員として当選、
マクロン政権の科学技術政策を支える一員として政治に参入しました。
科学者が非専門家に研究内容を伝えようとするとき、特に数学のような抽象学問に
おいては大変な苦労をします。わからないことは誰も興味も持ってくれませんから、
どうやってわかるように伝えるか、普通の講義の準備とは比べものにならないくらい
多くのエネルギーを費やします。
それで思い出したのがヴィラニの東北大学での講演の一幕です。 三角形の内角の和は180度とは限らない非ユークリッド幾何に関連したことです。
曲がった空間の上に三角形をかいて、頂点と底辺の中点を結んだ線分(中線)の長さを
測り、平らな平面上にかいた同じ辺長の三角形の中線の長さと比較するのです。
曲がった空間がボールの表面のように膨らんでいたら、この中線の長さは平面上の
三角形の中線の長さより長くなるでしょう。これは「トポノゴフの比較定理」として
有名な、曲率と長さを関係付けるわかりやすい説明です。
ヴィラニは講演の中で、「太った人のネクタイは痩せた人のネクタイより長い」と
言って会場の笑いを誘いました。首を頂点とする三角形を考えて、ベルトの中心を
底辺の中点と思えばすぐに頷けますね。
数学は「計算」じゃない
通常、数学では、まず用語を定義することから始まり、論じる場を特定し、仮定、結論、
証明と厳密な議論を重ねていきます。「数学は計算」と思っている方もおられるかも
しれませんが、数学を学ぶ真の理由をあえていうならば「論理的思考のドリル」です。
これを身につけておけば、社会に出てからも種々の場面で正しい判断ができるように
なるでしょう。
小学校の幾何では、補助線を引くことによる命題の証明をしたことがあると思います。
これがもっともプリミティブな「論理的思考」の勉強です。仮定、結論、証明の考え方
は、中学時代の数学の授業で繰り返し強調されていたはずです。
平面幾何、あるいはユークリッド幾何とよばれる平らな空間以外に、我々は曲がったもの、
1次元なら曲線、2次元なら曲面に囲まれています。こうしたものの長さや面積、
曲がり方を測ることは様々な場面で必要となります。
曲線の曲がり方は、車の速度、アクセルを踏んだ時の動きで説明することができます。
するとなぜ惑星が周期運動をしているのかとか、なぜ人工衛星が飛ぶのかということも
わかってきます。 数学と物理は、このように身近なことに必ず関わっています。19世紀には、電磁場の振る舞いを
記述するマクスウェルの方程式が見出されましたが、それは同時期に導入された
「外積代数」に端を発する「微分形式」による記述につながります。20世紀初頭に
現れた特殊相対論は、「ミンコフスキー時空」で考察することにより、自然に解釈されます。
その背景には、非ユークリッド幾何を一般化して、空間に自由に「長さ」を与える
「リーマン幾何」の考え方があります。
曲面論のハイライトは、曲がり方(ガウス曲率)を曲面全体で積分すると、曲面に空いた穴の数のみで
決まる量(オイラー数)が現れるという「ガウス‐ボンネの定理」です。
穴の数とはボールの表面なら0、ドーナツの表面ならひとつというように数えます。
数学でも物理でも、このように全く異なる起源を持つ量(曲がり方の積分と穴の数)が
一致する、という事実は重要です。ガウス‐ボンネの定理は次元の高い空間でも証明され、
さらにそれは解析学とつながって「アティヤ‐シンガーの指数定理」に発展しました。
そして無限次元空間でのファインマン積分、サイバーグ‐ウィッテン理論、超弦理論(ひも理論)
などの、量子力学を理解するための数物両サイドからの最先端理論につながっていきます。 「哲学と数学は役に立たない」と言われることがありますが、「物理は役に立たない」とは言われません。
実際はアインシュタインの相対性理論に始まり、量子力学、ゲージ理論、ミラー対称性など、物理と関係する
重要な問題は常に数学においても平行して研究され、車の両輪のように影響しあって発展しています。
時にはそれと気付かず、物理と数学で別々の用語で同じことを研究していたということ
もあります。ゲージ理論と接続のモデュライ理論の研究がそれにあたります。
「日本社会に、もっと数学を!」
最近では、数学と諸分野の関わりが顕著になり、工学、情報科学、経済学はもとより、
医学、材料科学、生物学、生命科学、渋滞学など多くの分野で数学の知見が必要と
なっています。科学技術振興機構の募集する研究テーマには2007年に初めて
「数学」が導入され、現在も引き続き機構の支援による研究が活発に行われていて、
特許取得を含めた重要な成果がいくつも達成されています。
一方、これから重要になるのは、政治家や企業のトップに、論理的思考力を身につけた
人材が参入することです。冒頭で述べたヴィラニを始め、欧米、中国では研究を極めた
数学者が国の政治に関わったり、理工学の博士号を持つ人が企業のトップにつくことが
珍しくありません。日本では理工学をしっかり身につけた政治家や企業のトップが
諸外国に比べ極端に少ないのですが、これでは科学技術だけではなく、政策や外交に
おいて何よりも重要な論理的思考力が心もとないのです。 コンピューターやAI(人工知能)、自動運転車……。これらは全て「論理」の上に
組み立てられた緻密な機械です。経路が一つでも狂えば、交通網が遮断されたり、
通信網が働かなくなったりします。数学的に組み立てられた論理の糸が切れるからです。
AIに人間が仕事を奪われる「シンギュラリティ」の到来が懸念されている昨今です。
しかし「情報」という言葉が図らずも我々に伝えるように、そんな時に勝ち残れるのは、
「論理的思考力」と「情」を兼ね備えたホモ・サピエンスだけではないでしょうか。 実際には、数学好き、論理学好きのほとんどが↓ようなタイプなんだよね。
A
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
B
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ
つまり、Aと言っていてもBのような事をやってしまうのが数学者であり、
論理学者なんだよ。
これでは論理的ではないし、数学的もでもない。
つまり数学者は全く数学的思考が全然できないし、論理学者もまた論理的でないという事。 純粋に論理形式として見る場合、当然Aで提出されている論理形式は、
『p ∧ ¬p』で、Bの場合も『p ∧ ¬p』で同一だ。
しかし、このスレは波平が立てているのでAの『p ∧ ¬p』とBの『p ∧ ¬p』が
同じだと不都合になる。そこで無理矢理論理を無視する。
つまり、論理的ではないということ
A
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
B
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ
まあ、簡単に言えば、
A『p ∧ ¬p』 = B『p ∧ ¬p』
というAとBの論理形式は同じであるという事になる。
これに異を唱える場合は論理を無視しているという事になるが、>>356なんかは論理を無視しているね。 A『p ∧ ¬p』 = B『p ∧ ¬p』 ではないと言うのは、当然、成り立たない。
成り立たないようにしたいという人間がいなければそうはならない訳だ。
>>356なんかは論理を無視してまで、論理を認めたくないからギャーギャーゴネる。
人間、口先でAと言うのは簡単なんだよ。
しかし、BでそれをAを主張した主体に適用すると、ギャーギャー騒ぐ奴が多い。
ここが数学者や論理学者の限界だな。
A
> ちなみにp ∨ ¬pをp ∧ ¬pにすれば、矛盾命題になるよね。だって、
> 「(P)世界に証明できる事は無く、かつ(∧=and)、(¬P)世界に証明できる事は有る」、なんていう
> 複合命題や言明が矛盾して変なのは、すぐに判るから。
B
> 384 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 21:41:06.46 0
> 思考が全部、中二病なんだよ
> 証明しろ、なって行っちゃダメ。
> なぜならこの世界に証明できることなんて一つもないから
↓ 20分後
> 391 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2013/02/13(水) 22:01:29.49 0
> いまどき中二病的「この世界に証明できることなんて一つもない」じゃあ
> しょうがないだろう
> それじゃ、10年前の2ちゃんねるだよ
普段、Bのようなことをやってる奴がいくら口先でAと言ったところで意味は無いって事。
AというのならBにまでAの論理を適用して初めて論理的と言える。
それができないのなら数学板とか専門板でやってろって話ね。 理工学の博士号を持つ人は、まず、福島ともんじゅの原発政策の事前事後処理責任と、その説明責任を負わなければいけません。次に、研究は公費や税金でなく、自ら稼いで自費でやってください。 >>512
> 我<人<主、我=人/主、主=人/我、人=我×主
> この等式、不等式の成立に関する証明がない
ここには根本的な誤解があり、その誤解こそが、ここで何を表現しようとしているのか
を理解する手掛かりすら得られない理由である。これらの式は、我、人、主がまず存在
して、その間でこれらの式が成立すると主張しているのではない。そうではなく、逆に
まずそのような相対的な関係性が存在し、その関係性が実体として概念化されること
によって我、人、主として現れることを表現しているのである。数式を換喩として用いて
表現しようとしているのも、実体ではなく、関係性に目を向けるためであるが、数式を
用いたところで、相対的な関係性よりも先に数が存在すると考えてしまうと、同じ誤り
に陥る。したがって、問われなければならないのは、逆に、我、人、主という概念が
そのような関係性を表すように慣習的に用いられているかどうかである。 >>529
プラグマティズムによってより厳密に表現しようとするなら、「まずそのような
相対的な関係性が存在する」ではなく、「まずそのような相対的な関係性として
表される作用が働く」と言い換える必要があるだろう。 これを問いの形式にすると、次のようになります。
我、人、主として実体化される関係性をもたらすのはどのような作用なのか?
また、その作用がもたらす関係性を表現するのに数学を換喩として用いるとすれば、
どのように表現することが最も適切なのか?
これらの問いに対して、問いそのものに誤りがある、または提案されている
表現は不適切であり、より適切な表現が可能である、という立場は、当然、
あり得るわけです。その立場の違いを検討することが哲学になります。 プラグマティズムの視点からは、作用は、関係性としてしか現れず、関係性に不特定の
時間を超えた同一性を認める(誤認する)ことが、その関係性の実体化(物象化)となる、
と言うことができるでしょう。 >>512
>そもそもαとは何?
換喩として用いた数式の表現の形式からαを逆に言葉で説明しようとするなら、
αは、可能性(/出来ること)と実現すること(この場合、指数の0で表されている)の
間の想定される指数的な差異ということになるのではないかと思う。
我=e^−αにおいてαの絶対値が大きければ大きいほど、我の現実(いま、ここ)を
基準としたときに、すなわち、我/我=e^0としたときに、人/我=主、すなわち、
(e^0)/(e^−α)=(e^α)/(e^0)=e^αは偉大になり、αの絶対値が無限大
なら、主は、無限に偉大な神であることになるでしょう。こうなるともう、哲学ではなくて
神学ですね。 プラトン(プラトーン、古代ギリシャ語: Πλάτων、Platon、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年)は、
古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。
プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは
「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた。
『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、
一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする。
一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。
最初期の対話篇を執筆していた30代のプラトンは、「無知の知」「アポリア(行き詰まり)」を経ながら、
問答を駆使し、正義・徳・善の「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続けるソクラテスの姿を描き、
「徳は知識である」といった主知主義的な姿勢を提示するに留まっていたが、40歳頃の第一回シケリア旅行において、
ピュタゴラス派と交流を持ったことにより、初期末の『メノン』の頃から、「思いなし」(思惑、臆見、doxa ドクサ)と
「知識」(episteme エピステーメー)の区別、数学・幾何学や「魂」との結びつきを明確に打ち出していくようになり、
その延長線上で、感覚を超えた真実在としての「イデア」の概念が、中期対話篇から提示されていくようになった。
生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、
この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、
イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、
数学・幾何学や問答を通して、その記憶を「想起」(anamnêsis、アナムネーシス)することによって
近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を
刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。 馬鹿な僕にもようやくわかりました
結論ありきで自分の主張にとって都合がいいように前提をおいて数式にすればいくらでも論理的にみせることができる
>αは、可能性(/出来ること)と実現すること(この場合、指数の0で表されている)の
>間の想定される指数的な差異
と言われたら
>我=e^−α
>人=e^0=1
>主=e^α
と言われたら
>我/我=e^0としたときに、人/我=主、すなわち、
>(e^0)/(e^−α)=(e^α)/(e^0)=e^αは偉大になり
というのは論理的には正しいと言わざるを得ない
当然α>1であることが前提だけど
しかしこの結論が正しいとは限らない
ソクラテスは人間である
人間ならば死なない
よってソクラテスは死なない
これが論理的には正しいが結論が間違っているのと同様の理由
つまり前提が間違っているという点
だから俺は
>これらの問いに対して、問いそのものに誤りがある、または提案されている
>表現は不適切であり、より適切な表現が可能である、という立場は、当然、
>あり得るわけです。その立場の違いを検討することが哲学になります。
というよりもその問いや表現において前提とされているものを問うことが哲学だと思っている
だから>>512の書き込みをした 我<人<主、我=人/主、主=人/我、人=我×主
という人称構造の相対的な関係性として現れる作用こそが時空間なのである。 A『p ∧ ¬p』 = B『p ∧ ¬p』
これがどういう意味のつもりなのかはさておこう。
成り立つのか?
ある特定の世界でしか成り立たない。
そもそもpとpは違う記号であるw
そのへんまで考えて書かれたものかどうか判断に苦しむ。
ま、(わたしは)そのような論理が成り立たない世界を扱っているのでね。 >>539
このことが理解されないのは、我/我=1=人=e^0としての自己が単に
再帰として捉えられ、相対的な関係における相互的な再帰として捉えられて
いないためである。 さらに単純化して振り子で考えてみればいい。
一方の終端から他方の終端に振り子が振れる。
いま、一方の終端である「ここ」に振り子があるという「現実」は、同時に、
次に、他方の終端である「そこ」に振り子が到達する「可能性」を表しており、
同様に、いま、他方の終端である「そこ」に振り子があるという「現実」は、同時に、
次に、こちらの終端である「ここ」に振り子が到達する「可能性」を表して
いる。言い換えるなら、「」いま、ここ」にある振り子は、「もうここにある」
とも言えるし、「まだここにある」とも言える。「もうここにある」ことは、
「まだそこにある」ことより「先行している」ことであり、「まだここにある」こと
は、「もうそこにある」ことよりも「遅れている」ことである。 >>539
そういう言葉遊びが哲学と思ってるのは中卒だけ >>542
問題となっているのはどうして振り子に喩えられるのかであって振り子の喩えによって表象される主張ではない だから気に入らないのなら、我、人、主がどのように現れるのか、
代替の提案をすればいいのですよ。 確率の単元では、サイコロが分かりやすい例としてよく扱われるので、
それで確率を少し考えてみよう。
確率には、「数学的な確率」と「経験的な確率」の2つがある。経験的な
確率は、たとえば、トランプ大統領が、「俺の直観はよく当たるんだ!」
とどこかで述べていたように、数学的な理論的根拠はないけど、主観的に
正しく感じられるような確率のことだと表現してもいいかもしれない。
また、サイコロに錘で仕掛けがしてあって、特定の目だけがよく出るように
細工されていたら、そこでは通常の「数学的な確率」は役に立たない。
アンケート調査や世論調査でも、アメリカ大統領選のように、回答者が
虚偽の答えを述べている人数が多くなれば、それは統計として役に立たない
のと一緒のこと。
これは言うまでもないけど、サイコロは連続確率変数として扱うのでなく、
離散確率変数として扱う。サイコロはdice={1, 2, 3, 4, 5, 6,}で、離散値
となっているからだね。 それで、仕掛けがされていないサイコロの出目は、dice={1, 2, 3, 4, 5, 6,}と
なっているので、その出目の平均値を取ると、
average = (1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6)/6= 3.5
になるので、サイコロを何回か振った数(試行回数)の出目の平均値は、理論的に
3.5へ収束していくであろうことが期待値として得られる。n回のnをn→∞にすれば、
極限値も求まるよね。「大数の法則」は、サイコロを投げる試行回数が多ければ
多いほど、その値は数学的な確率である理論値の3.5に収束していくことを
表している。でも、無限大回もサイコロを投げて確認する訳にはいかないので、
プログラミングで1〜6の整数の乱数を作って、サイコロを3回、6回、10回、
100回、1000回、10000回、100000回、サイコロを振った時の出目の平均値が
どうなるかをチェックしてみたよ。 サイコロをn回投げた時の出目の平均値を求める
import random
def dice(n):
series_1= []
for i in range(n):
x = random.randint(1,6)
series_1.append(x)
ave = sum(series_1)/len(series_1)
print('\n サイコロを'+str(n)+'回振った時の平均値:',ave)
print('\n 理論値の平均値:3.5')
return ave
dice(n) 理論値の平均値:3.5
サイコロを3回振った時の平均値: 3.66666666667
サイコロを6回振った時の平均値: 3.16666666667
サイコロを10回振った時の平均値: 3.8
サイコロを100回振った時の平均値: 3.95
サイコロを1000回振った時の平均値: 3.497
サイコロを10000回振った時の平均値: 3.4951
サイコロを100000回振った時の平均値: 3.48957
という風な結果になったので、サイコロの出目の平均値は、
おおよそ、やはり数学的確率の平均値である3.5に近い
値を示しているのが分るよね。 >我、人、主がどのように現れるのか、
>代替の提案をすればいいのですよ
自分には問題設定をする権力があるとどうして言えるのか
どうして
>我、人、主
なのか
この枠が何を意味しているのか
この枠からはみ出すものはないのかつまりこれらが全てなのか
全てでないのであればどうして枠からはみ出したものについて考察しないでいいのか
またこれらが
>現れる
とはどういうことなのか
僕は馬鹿だからわからない 前提とされているものを問うことが哲学だと言ったが
問うことは問題を設定するという権力の行使である
ここで注意したいのは権力とは常に何か誰かに対して行使するものだということ
僕は問うことで君に向かって権力を行使した
だから僕が君に対して問いを発する時僕は君を認識している
このことを君が「現れた」と表現するべきかどうかはわからないけれども >>551
既にその問題設定に、自分からその枠に沿って答えてしまっているではないですか。
>自分には問題設定をする権力があるとどうして言えるのか
これは、なぜ人に対して主として振る舞ふことができるのか?という問ひでしょう。
つまり、なぜ人<主なのか、ということです。
>僕は馬鹿だからわからない
これは、馬鹿でない人には分るかもしれないがという卑下であり、言い換えるなら
僕<人ということになります。一人称として使われる僕は、言うまでもなく、
英語で表現するなら"servant"であり、我と同類の表現です。我は、自らが
「minor」であることを表し、二人称のお主(ぬし)と対比される。人は、
「ひと(等)しい」という形容詞そのままに対等であることを表している。
したがって、>>551の答えがそのまま、我>人>主という枠に沿っていることになる。 したがって、>>551の答えがそのまま、我<人<主という枠に沿っていることになる。 >公開一人問答まだまだ続きあるんですか?
公開一人問答は、>>551-553ですね 哲学において自己の再帰性は常に議論の主題とされてきた。
自己と他者の相互性や、自己と他者の非対称の関係も議論されてきた。
自己が人として中庸であるべきことも論じられてきた。
しかし、自己の相互的な再帰性を相対的な非対称の関係として
論じることは、なぜかほとんど行われてきていないように見える。 その理由は私には明白であるように思える。それは、相互的な再帰が示唆する
互いに等しい、つまり、対称の関係と、自他の非対称性が示唆する階層的な、
すなわち、非対称の関係との折り合いをうまくつけることができないでいる
のである。なぜうまく折り合いをつけることができないかと言えば、それは、
自他の存在を実体化するにせよ、関係的な見方をとるにせよ、等しい関係、
または階層的な関係を前提としてしまい、そのような関係をもたらす作用
自体を考察の中心に据えていないからである。しかし、いわゆる互酬性と
呼ばれる行為は、その都度、まさに階層的な関係を生じさせることによって、
相互的な等さを確保しようとすることに他ならない。 逆に言うなら、互酬性の運用が相互的な等さをもたらさず、階層的差別の維持強化に
つながるのが、我<人<主という関係が「実体化」された身分社会なのである。 >>559
非対称という同じ表現の繰り返しになってしまっているので、言い換えます。
誤:自他の非対称性が示唆する階層的な、すなわち、非対称の関係
正:自他の差別が示唆する階層的な、すなわち、非対称の関係 出目の平均値という考え方になじめない。
1〜6はそれぞれの場合に割り振った数字であり場合を区別するものだ。
それの平均が3.5だからといって、3.5という目が出ることはありえない。
確率というものにもいろいろな考え方があり、ひとつではない。
哲学の徒には、確率というものに新しい考え方をあみだしてほしい、と思う。
確率には、少なくとも二種類の観測者がいる。
事前の観測者と事後の観測者である。
観測者がどの立場にいるか、どのような事前情報・事後情報が得られるかによって「確率」の意味が変わる。
事前とか事後という概念すらもあやしい。
フェルミ=ディラック統計に従うか、ボース=アインシュタイン統計に従うかでも異なる。
それ以外の統計に従うとなると。。。どーなるんだ。
この2つの統計が実は同じものへの見方の違いだけであったとしたら。。。などとも考えてしまう。
認識論というより観測論かな。関係というもののありかた。
これをネットワークの違いとしてAIに認識させられないかと。。。 >>559-561
自他の存在または関係性を実体化することにより、自他の相互的な再帰が示唆する
互いに等しい対称の関係と、自他の差別が示唆する階層的な非対称の関係との
折り合いをうまくつけれなくなっているという問題、ならびにその問題が、それらの関係
をもたらす作用そのものを考察の中心に据えることによって、いかに解消され得るかは、
簡単な数式を利用して容易に表現することができる。 以下は、>>252で既に示した関係であるが、いずれも自他の存在または関係性
を実体化した数式であると見なされ得る。
equal: 我=汝
reciprocal: 我/汝=汝/我
even: 我/汝−汝/我=0
counted as one: 我/汝=汝/我=人(等しさ)
unequal: 我≠人
dominated: 我/人<人/我、すなわち、我<主
in debt: 我/人−人/我<0、すなわち、(我−主)<0
counted as less: 我<人 しかし、このように自他の存在または関係性が実体化されているならば、自他は、
最初から等しいか、等しくないかのいずれかであり、自と他を反転させた関係に
おいても、自/他=他/自という等しい関係を生じるか、自/他≠他/自、
すなわち、自/他<他/自、もしくは自/他>他/自という固定された関係を
生じるだけである。このような関係において、いわゆる互酬性は、自他が等しい
のであれば、等さをもたらす行為として最初から不要であり、自他が等しくない
のであれば、自他のどちらが優位であり、どちらが劣位であるかの確認にしか
ならない。 ところが、互酬性が真に意味を有するのは、主の役割が交替することによってなのである。
日本語の古語に「主(あるじ)す」という動詞の表現があるが、これは、英語で言えば「to host」
に相応し、訪ねてきた人を饗応することを意味している。「主す」は、主という実体ではなく、
主として振る舞うことを表している。だからこそ、饗応を受けた人が、今度は逆に、返礼と
して、「主す」ことが可能なのであり、そうでなければ「主す」は、動詞として意味をもたない
だろう。そのように、実体としてではなく、作用または行為として主を考えると、
人/主=我という関係式は、主されることが、我であると解釈することができる。
したがって、「主す」は、これを反転して、主/人と表現することができ、主/人=主、
すなわち、人を主することが主であるという至極当たり前の解釈がもたらされる。 では、互酬性は、どのように表現され得るだろうか。
主された人が、今度は、主した人を主するのであるから、以下のようになる。
人/主×主/人=我×主=人
これを数式で表現してみると、
(e^0)/(e^α)×(e^α)/(e^0)=(e^−α)×(e^α)=e^0=1
となる。 意図せずに「ら」抜き言葉になってしまていた。
>>563
誤:折り合いをうまくつけれなく
正:折り合いをうまくつけられなく 確率とはなにか。気になった。とりあえずイアン・ハッキングの『確率の出現』を借りてこよう。
(実用)数学的な確率には主流と呼べるものが2つある。
哲学的にはどのような(多様な?)考えがあるのだろうか。
不確定性原理(すでに原理ではない)が確率の主因なのだろうか?
哲学的には「人間」との関わりを除去できない(はずな)ので、そこは「分配法則がなりたたない」という問題に帰結できるのではないか?
わたしはそう思う。
言葉遊びと似非科学な哲学にはうんざりだ。 >>567
同一性とは、相互的な再帰が反復することである。 >それの平均が3.5だからといって、3.5という目が出ることはありえない。
日常の言語による妥当な意味解釈が伴わないなら、いくら数値化しても意味がないってことでしょ。 自他 他自 の境界性を考えてみるといいかもしれないよ。 この場合、「ふと」の「ふ」は何を表現し、我に還るのは、「どこから」我に還るのでしょうか? イアン・ハッキングの『確率の出現』を読んでいると、いろいろ考えさせられる。
これは「哲学」の問題なのだ。「数学」ではない。
さらには実用数学(実務?)という側面からも考えねばならない。
「実用」は「数学」や「哲学」などの学問は関係ない。(「哲学」が学問かどうかは先送りするw)
利益あるいは報酬が得られればよいのだ。
サイコロの哲学は奥が深い。数学ではそう簡単にはたちうちできない。
客観的数学ではなく主観的数学あるいは第三者的数学「も」必要だろうw
哲学が数学を扱うなら「主観的数学」に限る。
理系学問が扱うのは「客観的主観」であり、
文系学問が扱うのは「主観的客観」なのかもしれない。 >>567
人/主×主/人=我×主=人
この関係式がどのように互酬性(reciprocity)を表しているのか、英語をメタ言語として
用いて考えてみよう。
人=be equal, be one to one
主=treat with generosity, be noble
我=be at the mercy of 〜, be humble
人/主=我、To be one to be treated with generosity is to be humble
人/我=主、To be one to to show mercy is to be noble
人/主(=to be one to be treated with generosity)
×主/人(=to be one to treat with generosity)
=我(to be humble)×主(to be noble)
=人(to be equal, or to be one to one) さて、Arbeitgeber(仕事を与える者、雇用者)とArbeitnehmer(仕事を受け取る者、被雇用者)は、
どのような関係にあるのだろうか。また、企業とその製品やサービスの消費者である顧客は、
どのような関係にあるのだろうか。 相手を人として扱わないとは、どのようなことを言い表そうとしているのだろうか。 現代社会における市場経済が、互酬関係に見せかけた身分制度になっていないかどうか
問い直してみる必要はあるでしょう。そうであるとした場合、その偽装された身分制度を
賃金などの数量的な調整で解消することは、原理的に不可能であり、そもそもそのような
偽装の解消を自らが真に望んでいるのかどうかが問われなければならなくなるはずである。 >>584
そうだな確かに
そこで厄介なのが多数決って奴だ 我<人<主の関係性は、いくら、それぞれの存在や関係が実体化されることによって
固定されるとしても、日常言語の用法そのものがその相対性を明らかにしてしまい、
固定された我<人<主の関係に作為性や恣意性を見て取ることは比較的容易である。
より厄介な問題は、モノ<人の関係性である。偽装されていない身分制社会においては、
身分の低い者は、まさしくモノであり、身分の低い人ではない。モノ<人の関係は、
非対称であり、反転させて相対化することは本来的に不可能であるものとされている。
しかし、ここにかかわっているのは、現代の市場社会にも関係の深い物象化の問題
そのものであり、この問題を考えると、人にとってモノとは何かという不都合な問い
も生じることになる。また、物象化としてのモノ<人の関係性は、負の互酬性を考える
重要な手がかりともなるように思われる。 人が馬鹿であることに拘るより、自らが頭のいい発言をすることに専念した方が生産的ですよ? 人が馬鹿であるという決めつけは、物象化そのものなんだけど、その発言に反発して、
「私は馬鹿ではない」とか、「馬鹿と言う方が馬鹿」とか応じるのは、物象化に物象化で
応じることになって、それが広く社会一般でも用いられている物象化を推進する巧妙な
手法なんだよね。 私にとって、自分が頭がいいか、馬鹿であるか、博識であるか、無知であるかなんて
どうでもいいんですよ。どちらであると認知されたところで、「考える名無しさん」の
書き込みに過ぎないわけで、せいぜい、一時的な優越感か劣等感をもたらすくらいの
もので、私個人には直接的に何の利益も不利益もない。さらに、私の書き込みが
何の役にも立たないナンセンスであったとしても、何の被害もない。なにか変な
影響力を発揮したとすれば、それこそたちまちのうちに私の書き込みの過ちを指摘
する人はいくらでも出てくるでしょう。そうなれば、私の書き込みは、批判のネタを
提供することで役に立ったことになる。逆に、私の書き込みが、正しいことを言って
いるものの、既に誰かが主張していることの陳腐なつぎはぎか剽窃だったとして、
誰がわざわざ「考える名無しさん」に言及して、利用するでしょうか?役に立つなら、
勝手に利用して、原典を確認してそこから引用するでしょうし、原典が見当たらない
としても、それをデッチあげてでも「考える名無しさん」の発言を利用したなどとは
認めないでしょう。そうであったとしても、少なくとも、私の書き込みは、そのような
探究の動機付けになれば、役に立ったと言えるのではないでしょうか。無論、
何の訳にも立たないものであれば、誰も気にも留めないだけのことです。 以前にも書いたが、私にとって本当に危険な人々に対しては、私の身元などバレバレである
のみならず、私が日々の生活すら手に取るように把握できているはずです。コテハンもつけず
に「考える名無しさん」として書き込むのは、別に匿名性で身を守ろうということでもなく、単に
不特定の人々に私の身元が明らかになったところで、私には不利益しかないというだけの
話です。私は著名人でもなければ、文筆活動や講演活動で稼いでいるわけでもないのだから。 漫才と云うより、
むしろコント、
ボケ役とツッコミ役を決定づけるのは、
野生の本能がその因子である、
それにして日本人はどうしてこう、
お笑い漫才とか、
寄席の漫談とか、
を好むのであろうか、
僕は知らない。 >>589
ちげーよ、
×馬鹿と決め付け ○馬鹿かどうか調べる(応答が馬鹿の反応)
馬鹿と言われて潜在意識下で馬鹿に反応ちしている奴が馬鹿に過剰反応するってことよ
大学教授が不良悪がきに馬鹿とか池沼といわれて過剰反応するとか
そんなこと考えちゃうやつが真正天然の馬鹿な、
自分が馬鹿だと完全否定しながら心の奥で馬鹿だと認めている、これが本当の馬鹿
この発言を不快に思うやつこそが馬鹿そのもの、 イアン・ハッキングの『確率の出現』を読み込んでいたら、
ちゃんと
フェルミ=ディラック統計や、ボース=アインシュタイン統計もでてきていた。
サイコロはマクスウェル=ボルツマン統計に従うのだ。
なかなか当たりの本ではないか。読み切れなかったら購入も検討しよう。
これは科学哲学ではあるが「哲学」の本である。
文系哲学や(理系のw)数学がとりこぼしているたくさんのものがみえてくる良書だ。
「確率」は、哲学と数学と、そして量子論をつなぐものなのかもしれない。 ただ、「一回性」というものの哲学を考察しているかどうかは最後まで読んでいないのでわからない。
わたしが重要視しているのは「一回性」なのだ。はたして言及されているのかどうか。 1とは何かを考えずに、「一回性」を考察することはできますか? もし1とは何かを考えることなしに「一回性」を考察することができるとすれば、
「一回性」を「一回性」と呼ぶことは適切なのでしょうか? 人は、一般に考えられているよりもずっと数学的な思考をしていて、連続性を想定して
物事を考えているんじゃないかなと私は思うんだよね。連続性を見失うと、物事が
意味不明になるから、意味不明となって特異点に見える事象を説明するために、
それに対応する特異な出来事について語る言い伝えを捏造するのではないかと思う。
だから、連続性を想定した思考を強化することになる数学という言語を用いた説明に
対しても、出来事について語る言い伝えに対しても、そうであるかもしれないし、そうで
ないかもしれないという懐疑的な姿勢を常に忘れてはならないのだと思う。 >>599
「一回性」とは何かを考えて、それから/そこから、1というものにとりかかってもよろしいのではないでしょうか。
1にかかわると「神」もでてきちゃうので、できれば無視したいw 具体的な例を考えてみましょう。これは足摺岬(あしずりみさき)の写真です。
http://blog-imgs-44.fc2.com/m/o/n/monodukurifield/IMGP0923_convert_20101016210729.jpg
ところで、足摺岬は、なぜ「あしずりみさき」と呼ばれるのでしょう。
列島縦断地名逍遥 - 116 ページ - Google ブック検索結果
https://books.google.co.jp/books?isbn=4902385910
足摺岬は蹉跎とも書くが、それは蹉跎岬とも読む...
弟子は足摺りをしてくやしがったという話を載せているが、もとはサタ岬であった
別のサイトでは、次のような説明が見られます
http://sound.jp/windfan/memo/05.htm
山が急に落ち込んで海になった場所は断崖・崖であり、海岸線を歩いて進むのが
困難な所だと足摺という地名が残っている。 認識というものそのものが「連続性」のことである。とまで拡大すれば「連続性」無しにはなにも「考える」ことすらできない。
かもしれない。 >>603
この事例では、足摺岬は、平家物語に記載されているエピソードに由来するとか、
本来は、蹉跎岬(さたみさき)で、サタは、「サダル神」に由来するといった説明が
特異点を想定した説明であり、狭くなったりしていて、歩いて進むのが困難だから、
「足摺(あしずり)」という名称が付いたのだとするのが、連続性に基づいた説明
ということになります。
さて、このような解釈の妥当性は、どのように判断したらいいのでしょう。 ところが、足摺岬の「足摺」という表現と、足摺岬の写真から、私には、まったく別の特異点
と連続性を想定した第3の語源解釈の可能性がただちに思い浮かぶ。それは、「足摺」
という表現が、古語で枕詞として知られる「足引きの」によく似ているように私には思える
ことに依拠します。ただし、この枕詞の語義がどのようなものであるかには諸説あり、
定説は存在しないようです。
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%BC%95%E3%81%8D%E3%81%AE-424628
>語義には、足を引いてあえぎつつ登る意、山すそを長く引く意など諸説がある。 「サタ」「アシズリ」も岬という意味である。
つまり[Arakawa Riverなどのようにミサキ岬なのである。
先住民の文化による言葉を固有名詞として取り込んでいると考えることもできるわけだ。
本来別の生物であったミトコンドリアが人間の細胞にもとりこまれているということを考えるとなかなかおもしろい。
このような「共生」が連続性というものを生むの「かもしれない」。 私が想定する特異点とは、次のようなことです。
「足摺岬」の「足」にしても、枕詞の「足引きの」の「足」にしても、そもそも、肢体の
「足」を指していたわけではないのではないか、「あし」が何を表現していたのかが
見失われたために「あし」が肢体の「足」と限定的に解釈されて、それに合わせて
「足摺」や「足引き」の再解釈が行われたのではないか。
逆に、私が想定する連続性とは、次のようなことです。
「葦」も「足」も、さらには「悪し」も語源的に共通性を有するのではないか。それぞれ、
用法により表現として分岐しているにしても、表現の中心となっているのは
「離れている」ことを表す「あ」(英語を用いるなら"far")ではないか。
特異点と連続性をそのように考えると、「あしずり」は、再解釈を施される前は、
「あしづり」であったのではないかと疑われ、「引き攣(つ)る」という表現を考える
と、「あしづり」と「あしびき」は、「suspended far(/high)」としてほぼ似たような概念
を表していたのではないかと思えてくるのです。すると、「足摺」も「足引き」も、
現代語を用いるとすれば、「空中〜」や、「天空の〜」に近いようなイメージだった
ことになるでしょう。大げさなイメージのように思えるかもしれませんが、昔の
人々は、身近に目にした風景の中で比較して表現していたのであり、テレビで
見るチベット山脈のイメージなどと比較していたわけではないのです。
むろん、いずれの解釈が妥当であると考えるかは、どのような特異点を想定する
か、想定しないか、どのような連続性に当てはめて解釈することが最も妥当で
あると判断されるかに依存します。 >連続性を想定した思考を強化することになる数学という言語を用いた説明に
>対しても、出来事について語る言い伝えに対しても、そうであるかもしれないし、そうで
>ないかもしれないという懐疑的な姿勢を常に忘れてはならないのだと思う。
で終わりにしておいたほうがいい そもそも、なぜ「考える名無しさん」に忠告しようと思うのか謎だw >>562
>出目の平均値という考え方になじめない。
1〜6はそれぞれの場合に割り振った数字であり場合を区別するものだ。
それの平均が3.5だからといって、3.5という目が出ることはありえない。
>>547>>550
で示されていることは、3.5というあり得ない出目の存在のことではなく、大数の法則で、
試行回数を増やしていくと、サイコロの出目の平均が3.5の値に収束するということ。
その意味は、3.5に近い出目の平均値が出たということは、試行回数を増やすと、
「数学的な確率=理論値」通りに、1から6の出目がそれぞれ1/6の確率で出現して
いることの実証になっていることなんじゃないの。何度もサイコロを振る試行すると、
それぞれの出目が偏りなく出現しているという意味だよ。
だから、average = (1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6)/6= 3.5 の値に収束する、もしくは近似する。 >>615
本物(現実)の一般的なサイコロは6面共通ではなく面ごとに歪んでいる、
つまり"1/6"には収束しない、理論上のサイコロと現実の区別ができないと
三体問題のような要素が入り込むことすら理解できなくなる、
理想で現実のサイコロじゃないならば、どの目も共通になるように補正される
計算によって"1/6"には収束するが、それはランダムではないのだよ、
神が作り出す計算機があればランダムの次の予知が100%できると確信している
アホには理解できないかもしれないけどな。 もちろん、プログラミングでのサイコロ投げなので、実際にどんな出目が
ランダムに出現しているのかは分からない。これは、プログラミンングの
仕様や関数を信用するしかない問題。出目を1回ずつ表示させることも、
もちろん出来るけど、最終的な答えだけ、取り敢えず分かればいいのでね。
たとえば、10万回サイコロを投げて、その出目で1の出目が5万回、6の出目が5万回
出現しても
{(1*50000)+(6*50000)}/100000 = 3.5
になるので、1から6の出目がそれぞれ1/6の確率で偏りなく出現している、とも完全には言い切れないのだけど、でも、1〜6の整数でランダムに値が出るようになっているので、10万回も試行して、1と6しか出てないかもしれない、とは普通は、あまり考えないと思う。 >>617
ランダムと擬似乱数を混同するな、
プログラムがライブラリ経由で出せるのはランダムシードを元にした擬似乱数な
ランダムとは秩序がないこと、計算で出す性能の良い乱数は常に擬似乱数、
つまり希望する用途目的に沿った性能の良いという秩序をもった擬似乱数で
それはホワイトノイズ乱数のような特徴をもっている。
つまり本物のランダムには存在しない周期性があるってことだよ。 >>618
だからいいよ、それで。理想気体みたいな感じで、理論モデルを示したまでだよ。
たとえば、プログラミングでなくて、現実にサイコロを振り続ければ、細かな物理条件の
偏差で、値が偏る可能性はもちろんある。
でも、数学的な確率の話をしている訳だから、そこは問題にしていないの。 1〜6までの目がランダムに出ると想定するなら、各回の出目は独立なのだから、
サイコロを投げる回数が有限である限り、1万回、100万回、さらには1兆回
続けて1の目が出たところで、目がランダムに出ているかどうか判定はできない
はずですよ。 「3.5という目が出ることはありえない」
というのはジョークのようなものだったのに真面目にうけとられた。
数学としては平均値だろうが期待値だろうがかまわないのだが、
「哲学」においては好ましくない。よけいなものを持ち込んでいる。
「哲学」はサイコロをどのように考えるのか、そこが知りたいわけだ。
理想的なサイコロであっても考え方はひとつではなく、数学的・物理学的・哲学的・文学的wと、それぞれの考え方があり、
数学ひとつをとってみても考え方は複数ある。
なにかしらハッとするおもしろい考え方を知りたいのだ。 >>620
おまえ統計学を学ばなかったのか、それとも先生が馬鹿だったのか?
確率とは統計学の用語であり、そして統計の確率とは常に過去を集計して評価するものであり
未来を確率で説明するのではない、
過去の確率をもとに未来を比較するだけのものであって未来に確率などない。
もっと勉強してこいよ。 >>620
>偏差で、値が偏る可能性はもちろんある。
可能性じゃなくて現実に偏るし、理想論にはたどり着かない。
理総論を根拠にする奴は感情論で語るやつと大差ないな >>624
それはエントロピー増大の法則をしらない無知が間違った解釈をしているだけ。
過去と未来のエントロピーは同一だという日常的な感覚による確信によってそれは生じる。 おれはベイジアンネットワークは活用しているがベイジアンではないのでどーでもよいのだが、
「過去と未来のエントロピーは同一だという日常的な感覚による確信によってそれは生じる」ってのはいろいろな意味でおもしろい。 >>623
阿保かwww
>確率とは統計学の用語であり
wwwwwwwwwww
近年稀に見る妄言だな >https://www.youtube.com/watch?v=UJ2y9gcu14E
>【驚愕】小2算数で『8×7+17=73』が不正解の驚愕の理由「これはダメだろ・・・」衝撃の現実がヤバすぎる【衝撃】
おったまげた、これがユトリ教育の結果だ 思い込みはこうやって日本を終わらせる、自分で考えず、自分を疑えないのに
何で哲学板にくるの? 物事を自分で考える力がなくても、知っていることで優越を示せるという効果が
あるんですよ。個別のことは、知ってるか、知らないかに根拠などないからね。
で、相手が知らないことを知っていることで優位を作り出せる。
知っているべきことを自分たちが決められる状況に相手を誘い込めれば、
相手に対する自分たちの優位を保つことができる。 だから、法制度にしても、単に法律を知っている/知らないという話ではないわけ。
支配権を確立しようとするのに、別にみんなに法律を熟知して、それを遵守して
もらう必要はないんですよ。それどころか、個別の事例について法律が適用される
かどうか、自分が法律を遵守しているかどうか、法律で保護されるのかどうか
あいまいで、みんなよく知らない方が、法制度は、支配権の確立、維持のために
はるかに効果的に運用できる。商業に関係する法律であれば、規制緩和とか、
法律の運用に関する個別の知識の時間差を利用して、利益を誘導することも
容易になる。 物理や数学を勉強したって、そういう仕組みがよく理解できるようになるわけではないのです。 知っていることを考えることの方が哲学的に思うな。
知らない法律にまで法契約を行うのは嫌なものじゃないか。 >>639
知っていることが正しい場合な、
おまえは知っていることが全部100%正しいと確信しているのが最悪なんだよ、 >>643
だったら、オイディプスも何が正解かなんてわざわざ自分で考える代わりにそう答えればよかったのですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/スフィンクス
オイディプスの神話によれば、ヘーラーによってピキオン山に座し、テーバイの住人を苦しめていた。旅人を捕らえて「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か」という謎を出し、間違った者を食べていた。なお、答えずに引き返すことは可能だった。 その神話をひけらかすためにわざわざオイディプスとか言い出したの?
友達いなさそう 擬態を当然、自然の一部だが、数学や物理を勉強して擬態とはどのようなものであるかを理解できるようになるわけではない。 数学や物理を基礎にして、その基礎の上で擬態とはどのようなものかを考えよう
としても無理なのですよ。擬態をどのようにか理解することは、基礎において
取り組まれなければならないのだから。 身分制社会における自己は、自己同一性を有さない。
つまり、我=我、我/我=1という関係式は成立しない。
身分制社会における自己は、我=モノという自己矛盾の体現である。 身分制社会における自己は、我=数ならぬ身=モノという自己矛盾の固定化であり、
自己同一性を実現しようとするなら、我のモノ性を否定する他なく、数ならぬ身
を抹消する行為をそのようなモノ性の否定と見ることができるだろう。 また奇妙な関係式がいくつか思い浮かんだので、そのうち書き込むことにしよう。 身分制社会は、一方で互酬性を運用しながら、他方で互酬性がもたらしかねない
関係性の反転による平等化を、自己矛盾を固定することによって防ぐという
微妙なバランスの上に成立している。 モノには、本来的に同一性がない、というより得体の知れない/得体を知る必要がない
のがものである。モノとは、"et cetera"の「cetera」であり、「もの悲しい」、「もの静か」、
「ものの見事に」といった表現に見られるように、「somehow」や「somewhat」の「some」
である。モノは、本来的に「数に入らない」のだから、人=1とは別のカテゴリであり、
モノ<人という数量的な関係性は成立しないはずであるが、物象化は、まさにその
成立しないはずの関係を成立させることにある。したが、Aという種類の人々とBと
いう種類の人々がまず存在して、Bという種類の人々が、「Aという種類の人々に
よって物象化されている」というような枠組みでは、決して物象化をまともに理解する
ことはできないのである。それどころか、物象化を維持強化しようとするなら、
そのような理解の仕方に人々を誘導することが極めて有効であると言える。 文系哲学は言葉遊びなのか、落語なのか。
神話と同じ系列・系統にあるというのは褒めすぎか。
生命が生きる・生き残るために獲得した機構の活用であるとしても。。。溜息。 その訂正した箇所は、魔法陣として機能し、何かが「召喚」されている。
なにが「召喚」されたのか吟味すべきだろう。訂正しただけでは帰ってもらえない。
ただ、その召喚されたもののそばに中野京子や宮部みゆきがいたら要注意だが。
ふっ(ロウソクを消す音) >>657 深く考える必要はないよ。短縮入力が機能しなかっただけ。
それより括弧の位置も間違えていた。
誤:Bという種類の人々が、「Aという種類の人々に
正:「Bという種類の人々が、Aという種類の人々に 物象化としてのモノ<人という関係性とはどのようなことかという解釈は、
実は、既に示した関係式を拡張することによってそのまま得られる。
今は書き込む時間がないのが残念だ。解釈を抜きにして、中心となる
関係だけを書いておくと、次のようになる。
我/人×我/人=(我^2)/人≒モノ/人=我/主
しかし、本当に重要なのは、互酬性との関係における解釈の方である。 単なる偶然とみなさず、そこに(宮部みゆき的な)「理由」をみいだす作業こそ、
あらたな発想・発見への近道である。
ちょっとしたケアレスミスでもミス・マープル探偵団などの検閲をすりぬけた潜在意識からの通知なのかもしれない。
註:ミス・マープル探偵団(参考書『性欲の科学』) 我/人×我/人=(我^2)/人という関係式は、一見したところ、意味不明な"我^2"
という要素をもたらすので、日常言語で考えた場合にナンセンスに思えるかもしれない。
しかし、その解釈も、既に示したメタ言語を用いて容易に提示することができる。
>>581で、英語をメタ言語として用いた場合、以下のように説明できることを示した。
我=be at the mercy of 〜, be humble
人/我=主、To be one to to show mercy is to be noble
"我/人"は、"人/我"を反転させたものなのだから、"To be shown mercy"
を表していると理解することができる。したがって、
我/人×我/人は、"To be repeatedly shown mercy"となり、
我/人×我/人=(我^2)/人は、"To be repeatedly shown mercy is to be repeatedly
humble"であり、"to be repeatedly humble"は、言い換えるなら、「to be miserable」と
表現することができる。つまり、(我^2)=(e^−2α)=be miseralbeと考えることができる。 誤:(我^2)=(e^−2α)=be miseralbe
正:(我^2)=(e^−2α)=be miserable 物象化において生じるのは、
(我^2)/人≒モノ/人=我/主=
"To be humble to the one who is noble is to be miserable"
という関係性である。これについての詳しい説明をまた後で書き込む。 ここで作用しているのは、いわゆる「第三項排除」として説明されるのと近い
論理だが(「第三項排除」については、ネット検索で少し説明を見ただけなので、
詳しいことは知らない)、「第三項排除」のような説明の仕方では、その仕組み
は十分に明らかにならないだろうと私は思う。 ここで注目すべきなのが、我/人、人/我、人/主、主/人がすべて
行為として解釈されるのに対して、モノ/人=我/主におけるモノ/人も、
我/主も行為として解釈されるのではなく、異なるステータスの対比として
現れることである。言い換えるなら、(我^2)/人≒モノ/人=我/主
という関係式は、関係性の物象化、モノ化を表現している。我と主は、
モノと人を尺度で測ることができないように、共通の尺度(common measure)
を有さない対比として提示されるのである。だからこそ、我と主は互いに
相手として呼びかけ合う関係にはなく、互いに参照するとすれば、
三人称を介して行われるのである。言語学者のバンヴェニストが三人称
を非人称であると考えた理由も、そのような三人称の用法によるもので
あると考えらることができる。
ところで、その一方、物象化されたステータスが対比される関係を維持
しようとするなら、つまり、身分制社会を維持しようとするなら、当然、
そのような物象化の作用をもたらす行為が絶えず反復されなければならない。
行為によって物象化をもたらすことと、もたらされた物象化が行為に
よって生じたことの否定、その矛盾を保ち続けることこそが、身分制社会
を維持するための中心的な課題となる。 我/人と人/我、人/主と主/人がそれぞれ反転可能であるのは、これらが
すべて行為として解釈されているからであり、物象化された関係は、反転させて
作用を逆転することができない。 >>665
その課題を簡潔に表現するなら、モノと人との間で共通の尺度がない状況で、
どのようにして、(我^2)≒モノ<人という関係性の正しさを示すことが
できるか、ということになるだろう。 サイエンスウォーズ、カルチャーウォーズと来たが哲学ウォーズは来なかったが、
ソーカル事件以降は数式もどきを使用した似非科学な言説は無視される。
普通に「関係」を示す人文系の用語を使用すべきだ。
「記号」を使うとしてもアナロジーとして流用するのではなく、定義しなおして使うような配慮が必要である。
さもなくば、(ラカンのようにw)最初から詐欺師としての文体・枠組みを使用すべき。 う、余計な「が」を召喚してしまた。
「蛾」か「我」か「画」か「香」かといえば、
モカを挽いてストレートの香りを楽しみながら書いていたので「香」なのかもしれない。
またいろいろ図書館から借り出して来た。今回は量子力学のラインナップ。
メインは Mark P. Silvermanだが、ついうっかりとJ.M. Zimanの教科書まで借り出して来てしまった。
そーいやザイマンの教科書はまだ読んだことがない。 人は暗黙のうちにはからったり、はかりごとをしたりする。
私は、その暗黙の「計算」を明示化しようとしているだけ。
より適切な明示化が可能なら、代替案を示せばいいのです。 ラカンもそうなのだが、たとえば「/」のような記号をどのような意味で使用しているか、その使用方法が適切であるかどうか。
「=」にしてもその左辺・右辺をどのように扱えばよいのか。
そのへんがよくわからないので反証もなにもできないw
まあ、計算科学でもないのでかまわないといえばかまわないのだが。
哲学計算を実装しようとしているわたしには気になるわけで。 >>671
要するに、四則で展開・因数分解して遊んでるのと同根です。代数を勉強当時よく理解出来なかったから、その中二病から抜けられない、ということです。
それを見抜けずにウロウロしているあなたも、似たようなものです、けど。 プラスとマイナスの体系において二乗するとマイナスになるという明らかな矛盾に対して虚数という新たな概念を導入することで無矛盾を主張する
このような無矛盾の構築はそして無矛盾の上にさらに理論を構築することはいかなる意味を持つのか
無矛盾であることは正しさを証明しないのではないか
このことはあらゆる言説について言えるのではないか
典型が法律学ではないか
人権という想像上の概念を想定しその上に無矛盾の体系を構築する
法律学を考えるにあたって虚数の概念はいかなる意味を持つのか 実数cについて
sqrt[c]
c^.5
この違いを詳解できますか? >>669
お勉強してもママに褒められるわけじゃない 互酬性において、我/主という関係性の物象化が生じることは回避される。
というより、そのような関係性の固定化をもたらす振る舞いを避けるべきであるとする
規範が、互酬性と呼ばれる。互酬性は、我/人×人/我=人、または
人/主×主/人=人という関係式で表すことができるが、これらの式は、互酬性
において、その都度、ひと(人/等)しさを実現するように我/人が人/我に
反転され、人/主が主/人に反転されることを意味しているわけではない。
そうではなく、互酬性という規範が、我/人×我/人=(我^2)/人、または
人/主×人/主=人/(主^2)のような反復により関係性が一方向に進む
のを避けることを要求することを表している。 互酬性に重要なのは、ひと(人/等)しさを実現する数量的な計算が厳密であること
ではない。その都度、厳密に計算をしてひと(人/等)しさを実現しようとする振舞いは、
互酬性に照らして、むしろ、関係を清算して解消しようとしている行為であると見なされる。
他方、我/人×我/人=(我^2)/人、または人/主×人/主=人/(主^2)
という反復は、行為の反転により、ひと(人/等)しさを回復できない状況をもたらす
危険性がある。つまり、(我^2)<人や人<(主^2)という数量的な差が度を超えた
ものとなり、(我^2)/人≒モノ/人や人/(主^2)≒我/主というステータスの
違いとして表象される可能性が生じるのである。 我/人を"to be shown mercy"と解釈し、人/主を"to be treated with generosity"と解釈
したがって、我/人は、我が人によって慈悲を示されることを表しているわけではなく、
同様に人/主も、人が主によって気前よく振る舞われることを表しているわけではない。
そうではなく、そのように働く作用が、我を生じるのである。また、自らの家に相手を迎え
入れて歓待する人は、その行為によって相手に対して主とされるのであり、相手に対して
主であるから歓待するのではない。だからこそ、返礼として相手に自宅に招かれれば、
今度は、それを快く受け入れて相手が主として振る舞うことができるようにすることが、
互酬性に照らして礼儀とされるのである。逆に言えば、己だけが繰り返し主として相手
を迎え入れることは、自らの主としてのステータスを相手に認めさせる行為となる。 我<人<主の関係性の物象化とは、(我^2)<人や人<(主^2)という数量的な差が
度を超えて不可逆的な関係が生じることである。相対的な関係性において我は、
「be in debt」と特徴づけることができ、主は、「be in credit」と特徴づけることができる
と前に述べたが、物象化されてステータスみなされることになった我^2は、
"status of being in debt"と解釈され、主^2は、"status of being in credit"と解釈
される。物象化された我/主の対比は、そのようなそれぞれの存在としての
対比であり、行為としての反転は不可能である。 >>672
遊んでいるにしても(脳内での)報酬を得ている。
この報酬回路を(AIに)実装したいのですよ。
ロボコン(の先生)方式では評価者が必要になる。
まあ、そういうわけでときどきちょっかいを出して、その反応をみてデータとしています。
人類や生命がどのようにして報酬回路を獲得したのか。そこが問題です。 ところが、そのように関係性を物象化することに成功すると同時に大きな問題が
生じる。それは、我/主の関係がステータスの関係であり、何をしてもその関係性
が揺るがないなら、「Being in debt」とされる我は、「Being in credit」とされる主
に対して、その負債を返済するための基準も共有していないことになる。負債は、
いわば、無限であると同時に、その返済に具体的な実効性がない。
相手に対して自らが主であり、相手が我であるというステータスの違いを思い起こ
させるために、我/人×我/人、または人/主×人/主という行為を定期的に
繰り返すとすれば、我/人において、我がどのような慈悲を受けるにせよ、
人/主において、人がどのように気前よく振る舞われるにせよ、優位なステータス
に立っている側のリソースの浪費につながり、事実上の格差の縮小につながる
ことになる。そこで重要になるのが、負の互酬性の運用である。 また、時間のあるときに書きこむことにするが、負の互酬性は、本来的に暴力的である。
それは、負の互酬性が、その目的からして、相手がモノとしての存在と互酬性における
相対的な我の間で絶えず揺れ動くように運用されるためである。 >>680
誤:"と解釈したがって、
正:"と解釈したが、
同じ間違いをしたのと勘違いして、変な修正をしてしまった。 >>682
その方面であれば、ちょっかいはなおさら不要です。それこそが教師です。アントと同じです。隔離スレでやれよ、なら別の話です。
それと、代入については、文脈からc(c99)などの論理式による代入のことですよね。その文脈に上げた特に左辺とは、どういう意味を指しているんですか。 この人はかまってもらえるのにどうして僕にはかまってくれないんですか @
> 288 :”削除”依頼:2017/07/19(水) 22:52:45.29
『HOST:KD106161130014.au-net.ne.jp』
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1259377534/288
A
> 289 :第三の波平 ◆kpxxLE2Sh. :2017/07/19(水) 22:53:27.72
『HOST:KD106161130014.au-net.ne.jp』
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1259377534/289
@ 『KD106161130014.au-net.ne.jp』 = A 『KD106161130014.au-net.ne.jp』 >この人はかまってもらえるのにどうして僕にはかまってくれないんですか
知的障害? >>684
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98/%E4%B8%8A%E5%8D%B7
かれそれより後、いよよ貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め來(く)。攻めむとする時は、
鹽盈つ珠を出して溺らし、それ愁へまをせば、鹽乾る珠を出して救ひ、かく惚苦(たしな)め
たまひし時に、稽首(のみ)白さく、「僕(あ)は今よ以後(のち)、汝が命の晝夜(よるひる)の
守護人(まもりびと)となりて仕へまつらむ」とまをしき。かれ今に至るまで、その溺れし時の
種種の態(わざ)、絶えず仕へまつるなり 負の互酬性においては、相手が我/人の関係において自らが常に我の立場/ステータス
にあることを認める限りにおいて、相手は慈悲深く(mercifully)扱われ、相手が、我/人の
関係の反転を試みようとする限りにおいて、相手はモノと同様に容赦なく(mercilessly)
扱われることになる。つまり、我とされる相手は、常に慈悲(mercy)必要とする立場にある
ことを繰り返し確認するよう求められるのである。 考慮されるべきは、行為/作用の性質と数量化と物象化であって、そのいずれか1つだけではない。 >かれ今に至るまで、その溺れし時の種種の態(わざ)、絶えず仕へまつるなり
我/主の関係において、我が物資を主に奉納することは、我が主に無限定の債務を
負っていることを繰り返し確認する行為であり、負債の返済ではない。主は、互酬性
において返礼を受け取るのではなく、まつられるのである。我は、そのまつりごとに
おいて、主に気前よく振る舞われることになり、その気前のよさ、寛大さ(generosity)
は、主が大いなる存在であることを示す。 我/人×我/人=(我^2)/人≒モノ/人という関係式を、相手を絶えず慈悲を必要と
する状況に追い込むことで、相手が繰り返し慈悲を受ける立場になり、モノになぞらえら
れる存在となることを解釈するなら、(我^2)/人は、相手が繰り返し気前よく振る舞われ
るようにする人/主×人/主=人/(主^2)という関係とは、正反対であるように見える
かもしれない。しかし、反転不可能な我/主の関係を保ちながら、それができるためには、
モノ/人≒(我^2)/人=人/(主^2)≒我/主のようにその2つの面は、表裏一体で
なければならないのである。 誤:モノになぞらえられる存在となることを解釈
正:モノになぞらえられる存在となることと解釈 「『大海原で激しい風が波を逆立たせていて、他人がさんざん苦労しているの
を、陸地から眺めるのは心地よい(ルクレティウス「事物の本姓について」
二の一−二)』
人間から、このような性質の萌芽を取り去ってしまったならば、人間の生き方
の根本をなす存在様態を破壊しかねない。同じく、いかなる統治体制にも、単に
卑賤であるばかりか、悪徳な職務が必要とされる。それらの悪徳は、そこに
しかるべき場所を見出して、われわれ人間社会における縫い目として活用される
―あたかも毒が、人間の健康の維持に使われるように」
「そうした悪徳をわれわれが必要としているのだし、この共通の必要性なるもの
によって、悪という真の性質が捨象されているのだから、それは許容されるべき
だというのなら、その役目を、われわれなどより、もっとたくましくて、臆病
ではない市民たちに演じさせるべきだ。彼らならば、祖国を救うために、自分の
命を犠牲にした昔の人々のように、自分たちの名誉も良心も犠牲にするはずだ。
でも、われわれのような弱虫人間は、もっと簡単で、危険の少ない役割を引き
受けるとしよう。公共の利益が、裏切りや、嘘や、殺戮を要求するのであり、
こういう任務は、もっと従順で、柔軟な人々にお任せしようではないか。」
モンテーニュ「エセー6」p.13 宮下志朗訳 我/主の関係は、我(=私)/主(=公)の関係である。 我/主の関係を所与とした場合、その関係を対等な関係として表象しようとすること、
すなわち、我/主×我/我=(我^2)/人のような相対化を試みることが、
決して許されないことは、容易に理解できる。そのような相対化は、我/主の
関係からは、「荒ぶる」行為、または「ちはやぶる」行為と見なされる。 n-GRAMタイプの人工無脳(Chat bot)にも似ており、その報酬回路は厨二的である。
これより前段階には反抗期的な報酬回路が想定される。
反抗期を迎えなかった子供も厨二病のような万能感を得ることができるのか。
そのへんの研究成果が知りたい。
と、哲学板でいってもはじまらないのだが、この板ではたくさんの例が得られるのでやめられない。
宝の山だ。 よく、社会問題などで、将来の不安(たとえば、高齢化社会や少子化による財政破たん)が
メディアで語られているけど、それはたいてい、今・ここの既存の物差しや技術レベルだけで、
困難である、という風に解釈されていて、未来における、未だ現れていない変数というものが、
全く考慮されていないことが判る。
未来におけるテクノロジーの進歩や社会環境の変化で、今までは解決不可能だと考えられていた問題にも、
解が与えられる可能性もある訳で、人の認識は現状や現時点性に束縛されやすい。 そういう意味で、未来のシミュレーションとして、たとえば、「仮想的知性体X」というものを仮構してみる。これに定義されている内容は、
【人類や社会、個々人に生じるあらゆる問題には、必ず具体的な解決案がある】
という風に定義されている。
この「仮想的知性体X」は、地球上にあるすべてのAI、知的主体やシステムが連鎖・集積した巨大エージェントのようなものをイメージすればいいだろう。またそれは、すべての既存の知(過去)を超越する超越知(超未来像)と称してもいいだろう。 この「仮想的知性体X」へ問題や懸案事項を入力すれば、それは解や鍵となる具体案や
方法を出力してくれる。通常の人間知では、解決不能だと見做されていた事態にも、
この「仮想的知性体X」というシステムを使えば、従来には存在しなかった方法で、
活路やソリューションを提示する。もちろん、それが100%正しい保証はないので、それを
どう利用するかは、その当事者次第となる。
また、この「仮想的知性体X」をクローニングする形で、「仮想的知性体Y」変数{i = Y,Z,A,B…}
が誕生することがあって、そこに精度や信頼性などに競合関係が生じるかもしれない。 ハーバート・サイモンの言うように、人間の行動や認識、判断は、「限定合理性」の枠内に
あるのだとすれば、それならば逆に、その枠外にある知や判断Xというのも
どこかに存在するはずで、そうした「限定合理性」の外部にあるような知や判断、行動モデルXに
アクセスできるようになることが、未来の人類や人間には求められる気がするよ。
人類や人間が問題を解決できない、あるいは、解決できないと思い込むのは、今・ここにある
限られたリソースと情報量、制度、テクノロジーのレベル、社会環境、過去の経験論や推論をもとに
判断をヒューリスティクに下すからであって、その外部にある知の存在Xや地平に気づき、それを
活用する方略を得られれば、過去や今とは違った判断や行動モデルを獲得することが出来るのでは
ないだろうか。 ある意味、現状の場に縛られずそこから離れたり、逃げたりした上での解決策を謀ることが
できるということが可能性としてあるわけだね。 我≒モノとして扱われることによって我=我という自己同一性を有さず、
我/人×我/人=(我^2)/人という関係性において慈悲をかけられることによって
のみ、相対的な我に近づくことができる状況に置かれること、それが身分制社会
の我/主の関係における我の立場(ステータス)である。 したがって、我/主の関係において、我/我と表象すること自体が、「荒ぶる」ことや
「ちはやぶる」ことであり、「荒ぶる」相手を言向(ことむ)け和(やは)すという表現に
おいて、「言向ける」とは、我/主の関係が反転不能であるという理(ことわり)に
相手を向かわせることであり、この場合の「和(やは)す」という行為を、
...×我/人×我/人=(我^2)/人⇒我/主と表現することができるが、
「和(やは)す」とは、言葉の響きとは裏腹に、それが威嚇にとどまるにせよ、
実力行使を伴うにせよ、慈悲を請わなければならに状況に相手を追い込む
軍事行動である。 ここで留意しなければならないのは、身分制社会における反転不能な我/主の関係
という理(ことわり)を維持しようとするなら、有事であれ、平時であれ、言向け和す
ことは、絶えず繰り返されなければならないことである。有事であれば、それが、
表立った軍事行動として行われ、平時であれば、暗黙に別の手法を用いて行われる
という違いがあるというだけのことだ。むしろ、荒ぶる者が現れることは、それを
容易に制圧できるなら、統治の安定にとって望ましいとすら言える。なぜなら、
平時が続くことによって、主の施す慈悲は、それが慈悲を請わなければならない
状況を維持していることによって、逆に無慈悲として現れるからである。 >>710
>...×我/人×我/人=(我^2)/人⇒我/主と表現することができるが
...×我/人×我/人=(我^n)/人⇒我/主とでも書いた方が厳密に見えるが、
実際のところ、問題は、数量的関係ではなく、行為と物象化の関係なので、
数量的に厳密な表現にしようとする方が、むしろ、誤解を招くだろう。 今日も元気にあっくん→(^ q ^)が言葉遊びしてるね >>713
おまえ馬鹿だろ、
>数量的に厳密な表現にしようとする方が
そんなの関係ないわ、説明と考え方が数学という立場ならば
幻想であっても厳密にするのは当然である。 >>716
何も分っていないようですね。数学の表現を借りているとしても、数学になってしまっては、
数学の表現を借りる意味がないのです。数学として表現できることを言おうとしているなら、
もともと数学だけやればいい話ですからね。数量化された実体を扱っているわけではなく、
行為や作用、数量化、物象化の関係を扱っているのですから、いずれかの面だけが強調
されることになるのは望ましくない。説明が誤解を招くようであれば、適当に表現を変える
だけです。 厳密な表現は、その表現によって伝えようとしていることが厳密であると思わせて
しまう。いい加減に伝えようとすることには、いい加減であることが明らかな表現を
用いた方がいい。 私には数学を応用する能力はないが、数学を応用する場合の大きな落とし穴も
そこにある。数学の手続きを厳密に数学として実行して、それを説明しようと
している現象に当てはめるだけで、厳密に説明ができていると思い込んでしまう。
しかし、現象を数量化することや、数式に当てはめる解釈は、数学によって
定義される手続きではない。 数学ではなくても、厳密な定義から始めて、厳密な手続きに従えば、厳密に
正しい結果が得られると思い込む場合も同じことだ。扱っているものを
どのように捉えていいか分らないから、それを明確化しようとしているのに、
その、どのように捉えるべきか探る取組みがスッポリと最初から抜け落ちて
しまう。 1次変換を少しやってみると、f:(x,y,z) |→ (x',y',z')
のような座標平面上の変換になる。
たとえば、以下のような連立一次方程式があるとする。
3x + 2y - 6z = x'
4x + 0y - 3z = y'
5x + 6y + 9z = Z'
この連立一次方程式の係数箇所を係数行列Aで表せば
A =
[[ 3, 2, -6]
[ 4, 0, -3]
[ 5, 6, 9]]
となる。 この行列Aに
[[ x]
[ y]
[ z]]
を右から掛けると、1次変換された
[[ x']
[ y']
[ z']]
が求まる。 今度は、単位行列Eを使って1次変換すると、それは恒等変換となるので、
座標平面上のすべての点が、自分自身へと写される。
集合の概念だと、それは恒等置換のようなものになるだろう。
単位行列E
[[ 1. 0. 0.]
[ 0. 1. 0.]
[ 0. 0. 1.]]
に、たとえば、 x = 5, y = 10, z =19 の値を代入して、行列を作り、
[[ 5]
[ 10]
[ 19]]
を単位行列Eへ右から掛けると、
[[ 5]
[ 10]
[ 19]]
と、同じ値になるので、恒等変換になっていることが分る。 プログラミングで、それを確認してみると、
E = eye(3);
print 'E=\n', E
B = array([[5],[10],[19]])
print 'B=\n',B
print '単位行列Eと行列Aの積 : \n',dot(E,B)
出力結果:
単位行列Eと行列Aの積 :
[[ 5.]
[ 10.]
[ 19.]]
となる。単位行列Eとx = 5, y = 10, z =19を成分とする行列の積の
値は変わらなかったので、Eを使うと、恒等変換になることが分る。
まあ、単位行列Eは、1と同じ意味なので、1×αがαとなった、
ということと同じだよね。 こういう感じで、数学というのは、非常に論理的なところが面白い。
逆に、数学が苦手だったり、嫌になる理由も、そこにあると思う。
文系やアナログ脳全開の人たちには、数学はあまりに論理的過ぎて、
「あなた、つれないわ」、という感じになるのだろう。
哲学好きで、数学が苦手というのが、両者とも高度な論理性を要請するので、
よく判らないのだけどね。 >数学ではなくても、厳密な定義から始めて、厳密な手続きに従えば、厳密に
正しい結果が得られると思い込む場合も同じことだ。
そうかもしれない。数学は演繹の体系なので、公理やそこから導き出された定理に
厳密に従っているだけ、とも表現出来る。公理や定理の外部にあるような論理には
数学ではアクセスしづらいだろうね。 理系の学問というものを「理系哲学」とすれば、「文系哲学」と何らかのすみわけがある。
どこが異なるのか?
理系哲学を「形式的」というならば、文系哲学は「非形式的」である。
「哲学」とするならばどちらも含む。
非形式的よりの哲学のひとつに日常言語派(哲学)があるのだろう。
それでも「形式」をすてているわけではなく、「非形式的」な「核」のもとで「形式」も援用されている。
理系も文系も、哲学であるなら「理性」に訴えねばならない。
形式的に理性に訴えるのか、非形式的に理性に訴えるのか、そこの違いなのだろうか? 哲学の役割は、軍隊に対するシビリアン・コントロールのようなものではないかな。
軍隊は専門家集団で、一般的な人々が容易にアクセスすることのできない専門的に
収集された情報に基づき、厳しい訓練を受けて、規律に従って軍事作戦を進める。
それで、一般の人間は何の技術的な知識も技能も有さないのだから、軍事関連の
ことは、軍事の専門家である軍隊にまかせて黙っていろ、ということになりがち。
で、専門家に任せておけば安心かといえば、軍隊は、高度に専門的な知識と技能に
より行動して、専門家集団として自らの存続と発展を望んでいるはずであると
考えられるのに、自らを破滅させるような作戦を平気で進めようとしたり、
絶対に勝ち目がなく、軍隊が守っているはずの国を破壊と従属に導く無謀な
戦争を始めたりする。専門家集団がいつでも自らの存続と発展に貢献するように
行動するはずであるという前提が間違っているんだろうね。専門家集団に
属する専門家は、自分たちの利害を優先して、それを集団の利益として提示
することに成功する人々が導いていると考えた方がいいんじゃないかな。 形式に外側が無く、内側から形式をとらえると不完全性定理(完全性定理もあるよ)におちいってしまうなら、
その外側に立つ(あるいは別スタンス)ことも必要であり、それが形式的でないなら非形式かというと、「非」では強すぎた。
形式的なものを「抱合」するより大きなものか。
そう考えれば、文系(哲学)の「核」は「人」でしょうかねぇ。
モノ(物)とモノ(者)の違いなのか。この2者の「関係」の違いか?
どちらも「モノ」なのだから「モノ」によって理系哲学と文系哲学は融合する? 市場経済の拡大は、固定化された主−我の関係で縛られた我を、通貨による
交換によって「モノ(者)」の地位から解放/開放することになるんだけど、
それが同時に人の関係を「モノ(物)化」してしまうことでもある。 >>730
逆に言えば、統治において我をモノ化する新たな標準的手法が見出されたこと
によって市場経済の急速な拡大が可能になったとも言えるのではないか。
さらに、このプロセスは、必ずしも不可逆的とは言えない。 むしろ、市場経済の拡大によって人々は、主−我の固定化された関係において、
我が恒常的に「モノ(者)化」されることと、市場の匿名の取引きにおいて、
我が恒常的に「モノ(物)化」されることの間で二者択一を迫られることに
なっているのではないだろうか。 モノが「存在」とするならば、物理的「存在」以外にも論理的「存在」があり、
コトも「存在」である。
われわれは「存在」するものしか扱えない/アクセスできない。
「アクセス可能」であることによって「存在」が定義される。
そう考えるならば、理系哲学と文系哲学の棲み分け/融合のためには、「存在」へのアクセスの仕方の違いや種類や方法などを考えればよいのだろうか?
(とりあえずアクセスする主体は先送り)
むむむ。主体も単に対象とすれば、アクセスとは対象と対象の関係のことであり、それは。。。
「圏論」と「哲学」が、語る言葉こそ違えど同じものであるということかもしれない。
(ただし、ここでいう「哲学」は「哲学ツール」程度に格下げしないとならないだろう) >>731
日本後の私見や大角で起きガエルとどのあたりなんどしょうが? コトは、存在者というより、状況や様態ではないの?
「そんなコトない」というのは、コトの存在を否定しているの?
「いや、(そんなコト)あるよ」ではなく、「いや、そうだよ」の方が
普通ではないかな。 >>731
ねむいのでやっぱもうどうでもいいです。 >>717
知的障害がある場合は、病院にいって診断をうけたほうがいいよ 状況や様態を「存在」からの「現れ」とすれば「存在」ではないが、
「現れ」を「存在」とすれば状況や様態も「存在」と考えられる。
モノとコトを区別しない方向で考えるか、コトがモノに先行するという
唯事論があってもよいのではないか。
わたしは、唯物論でも唯事論でもなく、モノとコトの二重性と考える。
モノ=粒子、コト=波 ということでもよいと思う。
哲学ではなく、単に量子論なわけだが。 二重スリット実験で見ていなかったときに波のように振舞ったっていうやつだけど
あれって、点々が見える縞々になったのか、スクリーンに光と影が映るように
点々がない縞々だったのかどっち? 解決したのなら問題ない。
あれは点描だが、鬼太郎がやると妖怪の顔が浮かび上がってくる。 信用創造は、債務創造と言い換えることもでき、債務の返済義務を負った個人は、
その活動をモノ化されるが、債務が返済できる額を超えた個人は、生活そのもの
をモノ化される。さらに、個人の生活は、国家が個人を代表して債務を返済できる
額を超えて拡大することでモノ化され得る。 哲学板だからな
逆に言えば哲学板なのに人の迷惑も考えずに
板違いのスレッドを立てるような奴が数学好きってことだろ 上辺だけで中身のない数学知識は、暗記やら青チャートの結果な。
おまえらのはテンプレート化された知識であって数学ではない、 >>751
その通り、学校数学は似非数学だからね
数学こそが本来あるべき哲学の姿なのだよ 波平的にはボクは理系だ、みたいな感じで行きたいんだろうな
その発想そのものが大衆なんだが 今どき幼稚園児でも文系よりも理系が格好良いと思ってるだろ
何の根拠もなく 発狂さんは、哲学板でダントツの一番で低知能です。
だから、当然、数学などは出来ません。 だいたい頭の良い人は、数学が出来る。
だいたい頭の悪い人は、数学が出来ない。
頭が悪いのに、数学だけは出来るという人は聞いたことがない。
頭が良いけど、数学だけはなぜか苦手という人もあまりいないだろう。 将棋やチェスなんかのゲームで強いと頭がいいと思われる時代もあった。
いまでは、将棋やチェスはAIにやらせとけばいいということになりつつある。
自動的な計算処理で済ませられることをわざわざ人間がやる必要はない
と感じるのは自然なことだろう。 >>761
最強の将棋やチェスあるごりずむは全数計算だ、
全数計算はもっとも頭の悪い思考方法である。
戦術100%で戦略性が0%だということだ、つまり波平の思考 >>761
将棋やチェスは娯楽だから必要性の話じゃないでしょ
頭悪いねぇ〜 マクロ経済指標 AI予測どこまで正しい?
2017/8/31 10:53日本経済新聞 電子版
足元の景気を占ううえで重要なマクロ経済指標の予測の分野で、人工知能(AI)が奮闘している。
経済産業省がAIによる指標予測の公表を始めて2度目となった31日発表の
7月の鉱工業生産指数(速報値)は数値こそ外したものの「低下する傾向は当てた」(経産省)。
6月分の速報値のようにどんぴしゃとはいかなかったが、何とか面目を保った。
経産省が31日に発表した7月の鉱工業生産指数(2010年=100、季節調整済み、速報値)は
前月比0.8%低下の101.5だった。8月24日に確定したAIによる予測値は前月比0.1%低下の102.2としていた。
経産省は7月19日から野村証券などに委託して開発したビッグデータやAIを駆使した
3つの経済指標の公表を始めた。
その1つがツイッター上のつぶやきなどから鉱工業生産指数をAIで
予測する「SNS×AI 鉱工業生産予測指数」だ。 仕事や残業が増えたことを意味するツイートやブログをもとに、
AIが機械学習(マシンラーニング)し為替動向や株価なども加味して
鉱工業生産指数を予測する。鉱工業生産指数は製造業の生産活動などを
調べた指数だが、相関性が高かったのはこうした約50のキーワードだったという。
7月31日、AIによる予測値の公開を始めて最初の公表となった
6月の鉱工業生産指数の速報値は前月から1.6%上昇の101.7となり、
AIの予測値と同じだった。ただ、8月15日公表の確報値が102.3と
速報値から上振れし、予測値からずれてしまった。
鉱工業生産指数は翌月末に速報値を出すが、予測指数は約1カ月
早く知ることができる。8月分は8月17日から公表が始まり、
毎週木曜日に前週分のツイートなどを踏まえて予測値を見直し、
9月21日に予測を確定する。経産省大臣官房調査統計グループは
「大まかな傾向を早くとらえることはできる」とみる。
開発した野村証券が2015年1月以降の鉱工業生産指数の実測値(確報値)と
予測値の相関を調べたところ、1に近いほど相関性が高いと言われている
相関係数は0.9。市場予測より高いとしている。 経産省は10月末までの期間限定で専用サイト上でAI予測値を公開し、
専門家などからの意見を募っているところだ。サイトのコメント欄には
「幅広く色々なところで使われる指標なので、精度もそれなりに高いようだし、
いち早く先の見通しをつかむという点で役に立つ」との感想が寄せられている。
経産省は意見を踏まえて改良を加え、18年1月に改良版のAI予測を再び公表する。
ほかには人々の景況感を推測する「SNS×AI 景況感指数」、
家電量販店のPOS(販売時点情報管理)データから販売動向を
日次で把握する「POS 家電量販店動向指標」も公表している。 やっぱり、未来を切り開けるのはAIだけだなあ。
あと、同じこと、対称律になるけど数学。
この辺りと絡んでいない人は、将来はジリ貧かもね 予測至上主義というか未来予測願望というか
合理化手続化による予測可能性
科学という名の占い 科学以外の占いが外れまくりで使い物にならないから仕方ない その占いが当たるかどうかよりもそれがどういう意味を持つのかが重要
カメの甲羅がどう割れたかで大騒ぎしてたみたいにAIが何て言ってるかで大騒ぎする
AIを神の声とする新たな神権政治が始まるのかな 人間は頭が悪いから意味が必要だ
AIには必要ないけど 確率にすぎない予測が確実な未来として解釈されるならそれは予定説だね だから恣意性ではなく、一般性が求められるのでしょうね >>773
頭の弱いやつほど確率というインチキ根拠を信じる >>776
10円出すとくじを買える
ただし試行は1回
くじは10個中9個があたりで1万円もらえる
「確率という根拠」にもとづいた期待値計算ででお前は絶対にくじを買う http://qiita.com/kazunori279/items/bb58f0b3095f3c65b2a1
RasPiとディープラーニングで我が家のトイレ問題を解決する
おしっこセンサーできました
ウチの小学生の息子が家のトイレでたびたびおしっこをこぼしてしまう。
俺がくどくど注意してもあんまり効果ない。そこで、代わりにAIに怒って
もらうことにした。こんな感じである。
ディープラーニングの画像認識を使い、床の上に落ちた水滴をカメラで検出して
ブザーが鳴る仕組みだ。夏休みの自由工作に過ぎないので精度は期待していなかったけど、
意外にきちんと動いてくれて、カメラに映る範囲に水滴を数滴たらすとピッピと鳴り、
床を拭くとブザーも止まる。「お父さんだってAIくらい作れるぞ」と息子に自慢したい
がための工作なのだ。
でも、これ作るのはそんなに難しくなくて、休み中の3日くらいで完成した。
かかったお金は、RasPiやカメラ、周辺デバイスが2万円弱、画像認識のモデル作成に
使ったクラウドの料金が数100円である。こんな一般家庭の超どーでもいい問題の解決にも
最新AIを投入できるとは、機械学習の民主化バンザイだ。 GrovePiはRasPi用の周辺デバイスキットで、LEDや光センサー、ブザー、LCDディスプレイ等を
ハンダ付けなしで簡単にRasPiにつなげられる。Pythonドライバも付属しており、
ArduinoのようなシンプルなAPIで数行書くだけでLEDをチカチカさせたり周囲の明るさを
取得したりできる。ただし、ちょっとお高い。
さらにRasPi用の標準カメラをつなげておく。RasPiにハリガネを貼り付けてカメラを
固定できるようにした。
ディープラーニングによる画像認識部分は、TensorFlowとKerasの組み合わせで作った。
TensorFlow単体でも作れそうだけど、今回のキモである「転移学習」を使って
画像認識エンジンを作るには、Kerasがいちばん手軽そうだった。手軽さ重要。
一度Keras使ってみたかったし。Kerasが提供する高レベルなAPIを使って
ディープラーニングのモデルを定義すると、その下でTensorFlowが動く仕組みである。
また、
•RasPi上でディープラーニングを動かして画像認識を実行する
•RasPiは画像を撮るだけで、ディープラーニングによる画像認識はクラウド上で実行する Kerasで転移学習
ディープラーニングを使うときよく課題となるのは、たくさんの学習用データを
どうやって用意するかという点だ。例えば高精度な画像認識モデルをゼロから
作ろうとすると、数万〜数10万枚の学習用画像とそのラベルを用意して、
数日間かけてGPUで学習する必要がある。ハードル高すぎて夏休みの自由工作にはならない。
そこで今回は、この問題を解決するためによく使われる転移学習(transfer learning)を
いかに手軽に使うかにポイントを絞った。転移学習とは、あらかじめ誰か
(例えばGoogleとか)が膨大な学習データと計算リソースを使って学習済みのモデルを
再利用し、個々の用途に応じてちょこっと再学習して使う手法だ。
Kerasでの転移学習の使い方は、Kerasの作者Francoisが書いたBuilding powerful
image classification models using very little dataや、aidiaryさんのVGG16の
Fine-tuningによる犬猫認識 (2)がとっても参考になった。
今回のコードは、Francoisのサンプルコードの割とそのまんまである。
Kerasを使うと画像認識のための転移学習がとてもラクに書けて、
例えばこんな感じで一行書くだけで、ポピュラーな画像認識モデルであるVGG16の
学習済みモデルをダウンロードして読み込んでくれる。 学習用画像を作成する
さて、転移学習を使えば学習データはぐっと少なくて済むはず...と思ったが、
実際に「水滴のある床」と「水滴のない床」のそれぞれ100〜200枚くらいを作って
試してみても、全然精度が上がらない。もっと画像が必要だ。そこでトイレに
こもって手に水を漬けて水滴をぽたぽた垂らしながら、RasPiでは0.2秒おきに
画像キャプチャするコードを動かし、こういう画像をひたすら集めていくのである。
結果的には水滴あるなし合計で1500枚くらいの学習用画像を用意しないと十分な精度は
出なかった。また画像の種類も工夫が必要。試行錯誤の途中では、水滴がなくても
人影に反応してブザーが鳴ってしまうこともあった。水滴ではなく人影を認識する
モデルになってしまっていた。
そこで、「水滴のない床」の画像にはいろいろなパターンを追加した。人影や手の影が
かぶったもの、トイレのフタの位置が違うもの、トイレがまっくらなもの等々。
バリエーションをどんどん増やしていくと、誤認識もぐんと減った。
1500枚の学習画像を集めるのたいへんそう! というコメントを結構いただいたけど、
実際に集めるのにかかった時間は2時間くらい。RasPiカメラで0.2秒おきくらいに
パシャパシャ自動撮影しながら、上から水滴をぽたぽた落としていくだけ。
撮影止めて、床拭いて、また撮影開始してぽたぽた…を5回くらい繰り返したかな。
そんなに大変じゃなかったです。 画像の「水増し」で汎化性能を上げる
さらに画像認識の精度を上げる常套手段が「水増し」(data augmentation)である。
苦労して集めた元画像を使い、画像の回転や反転、移動、拡大・縮小、正規化や
白色化等々、いろいろな加工画像を自動生成して学習に用いる方法だ。Kerasには
この水増しのためのImageDataGeneratorが用意されていて、以下のように元画像の
ディレクトリと水増し数(batch_size)を指定すると、水増し画像をいくらでも生成
できるジェネレータを用意してくれる。
これがあるとないとでは、モデルの汎化性能、つまり「現場で実際に得られる性能」が
全然違ってくる。水増しせずに学習したモデルはすんなり高精度が出るけど、それは
学習に使った画像に対してのみ高い精度が出てるだけで、実際にトイレに持っていくと
全然まともに動かない。言われたことしかできない新人君のようなモデルなのだ。
いわゆる「過学習」である。一方、水増し画像を加えてじっくり時間をかけて鍛えると、
見たことのない画像に現場で遭遇しても臨機応変に認識できる「使える」モデルに
なった。 クラウドのGPUで学習
こうして用意したたくさんの画像を使ったモデルの学習は、さすがにRasPiを使ったの
では永遠の時間がかかってしまうので、クラウドサーバ(Google Compute Engine)を
使って行う。
今回はNVIDIA K80を1個載せたGCEのGPUインスタンスを用意した。ちなみにGCEの
GPUインスタンスはまだ公開ベータ版のため、作成するにはGPUの割り当て申請が必要で、
かつ無料トライアルアカウントでは作成できないので注意が必要。
GCPの東京リージョンにはまだGPUが来てないけど、台湾にあるasia-east1-aゾーンなら
GPUインスタンスを作れる。
このインスタンス作成画面の右側にはコスト見積もりが表示されており、4個のvCPUと
15GBのメモリ、1個のK80を搭載したインスタンスで1時間あたり1ドル弱である。
GPUインスタンスが用意できたら、TensorFlowのインストールページを参考にして、
NVIDIAのCUDA ToolkitやcuDNNをインストールしておく。
GPUは、CPUと比べてざっくりひとケタ以上の高速な学習ができる。今回の学習の規模は
こんな感じ。
•1200枚の学習用画像(150x150に縮小)
•水増し枚数は32枚(合計4万枚弱)
•500エポック時点での検証精度はおよそ95%
この規模の学習は数10分で終わる。時間をかけて我がモデルがじわじわと精度を
上げていくのを見守るのは嬉しいものである。オーブン料理を作ってるみたいだ。 マルチGPUも試そうかな? と思ったけど、KerasでマルチGPUを使うにはいろいろ面倒な
書き直しが発生するので、今回はやめておいた。マルチGPUを使うなら、TensorFlowの
Estimator APIで書いてML Engineで自動分散させた方がラクじゃないかなと思う
(VMにCUDAやcuDNN入れたり等々も不要だし)。
十分な精度の出るモデルができあがったら、RasPi上でモデルを読み込んで
「床に水滴が落ちている確率」を予測するコードをこんなふうに書く。
この確率が一定値を上回った時にブザーを鳴らすコードをGrovePiのAPIで
こんなふうに書いておいた。また明るさセンサーも使って、トイレに誰か居るときに
だけ認識するようにした。
実際のところ、このおしっこセンサーで息子の悪癖が治るとはあんまり期待していない
(むしろ面白がって試しまくる恐れが...)。でも、RasPiに苦労してTensorFlowを
入れたり、トイレにこもって水滴画像集めたり、いろいろ学習の方法を工夫して
じわじわ精度が上がっていくのを眺めたりのプロセスが楽しい。
お仕事で使う機械学習は精度の要件とかいろいろ厳しいだろうけど、趣味の自由工作で
使う機械学習は精度あまり気にしないしクッキングのような楽しさがあるので、
ぜひお試しあれ。 哲学板はアナログ過ぎるんだよ。
文系モードが強すぎ。もっと、頭を使うべきだ(*'ω'*) アナログというのは、様相的には見たまんまの状態(自然状態)にいることかな。
哲学的な思考は、アナログや具体性とは真逆で、あるがままの状態ではなくて、
現象から本質や構造、形態、アナロジーを抽象化していく。
だからその意味で、哲学と数学は相性がいいはずだね。 >>>777
9割で1万円出るくじなら、1000円でも5000円でもやる人、結構いるんじゃない。
なに、10円って、けちくさいなw >>777
的屋のPS3クジで大当たり、
でも、youtuberが大金はたいて全部ハズレクジと実証
確率信じようよ、10億円ぐらいクジ引かないとアタリが無いなんて実証不能だ
全部はずれてもまだ当たるかもしれない 科学用語の乱用とか、その分野の専門家や、その関連する分野の専門家として
認識されている人間によってそれが行われる場合を除いて、大した問題だとは
思わないな。そんなものよりはるかに悪質で影響力が大きい隠れた科学用語の
乱用が、なにがどう数量化されているのかを議論の対象とせずに、議論を
正当化する根拠として用いられる数量化だ。 あらゆる分野の専門家の素朴実在論が世の中にまき散らす害悪と比べれば、
非専門家による科学用語の濫用がもたらす害悪など取るに足らない。 社会科学における定量的調査は大昔に流行ったんだよね
人文科学における科学用語の乱用も流行りものだったね
素朴実在論は流行りものを超えて広く一般に受け入れられているね
これらに共通するのは自然科学のようになりたい客観的でありたい科学的でありたいという点かな
そんなこと無理だよって言う人が現われてもなぜか一般的にはならず
自然科学的であること(自然科学そのものではない)の覇権が終わらないのが不思議なんだよね 数量化の有効性を示したいのなら、中東で戦闘を続けているISのロジスティクスの
計量分析でもやってみせればいいのだ。むろん、数量化の手続きを明確にしたうえでね。 米国でフランス思想がいくら流行ったところで、そこにどれだけ科学用語の
濫用が含まれていたところで、そんなものが教育や学問に及ぼす影響など
無に等しい。それに比べて、進化論と宗教原理主義のヤラセの対立を通じて
強化される似非科学主義による洗脳がもたらしている悪影響は、計り知れない
ほど大きい。 どちらの側を擁護するとか、どちらの側を支持するとかいう問題でない。
現代思想における科学用語の濫用について議論している連中は、実際に
どのように権威が機能し、誰がどのように何について黙らされているか
についてあからさまに嘘をついている。 確率なんて信じるから天気予報に裏切られるんだよ、おまえら馬鹿すぎ 人文社会分野での科学用語の濫用の例ならいくらでも実例を探し出すことができるだろう。
それは、自然科学の分野の研究においてデタラメな数量化による解釈の例を探し出すの
とまったく同様に容易なことである。では、人文社会分野での科学用語の濫用が実際に、
人々に権威として影響力を発揮して、それが他の研究者に権威として拘束力を発揮した
実例を見出すことができるだろうか?それに対して、自然科学の分野における数量化の
濫用が人々に拘束力として影響を発揮している実例は、いくらでも見出すことができる。
広い意味では、教育における試験の採点や成績評価もその応用と見なすことができる
だろう。 天気予報、そんなに外れてないよ。
むしろ最近、速報的に警報を出してくれるから助かってる人も多いんじゃないかな。 数量化や客観性や科学も論理的であることもイデオロギーを隠蔽するために利用されているけれどそれがどうしてダメなのかは誰も説明できない
諦めろ イデオロギーって隠蔽されているわけではなくただ人間が示すことが不可能な領域ってだけでしょ? 示されることが不都合で不愉快に感じる人々がいるというだけでしょ? >>800
>>799では
例えば政治的な意図を持った言説にデータを添えることで客観性中立性を装うようなことをイデオロギーを隠蔽するって表現した
そしてそのような意図を持つことや意図を隠蔽することがどうしてダメなのか誰も説明できない
ということが言いたかった
>人間が示すことが不可能
この部分で何を示すことが不可能と言いたいのかわからない
イデオロギー的であることを証明することが不可能だと言いたいのか
作者の死みたいなことつまり意図は文脈次第で何とでも解釈できると言いたいのか
人間が真理であることを証明することが不可能な領域をイデオロギーと呼んでいると言いたいのか >>803
イデオロギーを隠蔽するというよりイデオロギーに訴える策略だよね。
見抜かれるか引っかかるかは
どんなイデオロギーの持ち主かが分かれ目になるわけで かつてのナチズムがゲルマン民族純化に正当性を与えるものとして、
ダーウインの自然選択みたいな進化論の概念を導入して、自己正当化したような
行為をそこにある真のイデオロギー(異物・ユダヤ人抹殺)を隠蔽したという感じ? あとさ、最近の政府の景気回復宣言や世論調査で現状幸せで満足と感じる
国民の割合が多いとか、かなり、胡散臭いねつ造データが頻発している感じが
するよねえ。
中国の経済統計データに信用性がないのと同様に、今の日本政府が出してくる
定量的なデータも信用できない気がする。官僚がお手盛りで、増税や憲法改正
目的で印象操作や集計に加工を施したインチキデータという印象をぬぐえない。
つまり、それも数量的なものが、政治的なイデオロギーに利用されている
一例と言えるんじゃない。 陰謀論に似てるね「ほら、Aの裏には企業やら国やらのこんな
思惑があるんだよ!みんな分かっただろ?Aは否定しなければ
ならない事項なんだよ。なんたって裏には陰謀があるんだから」 表向き真逆のことを行っていれば、大抵の場合、裏でつながっている。
そんなことは1000年前でも変わらないわけで、古典文学を読めば、きちんと書いてある。 認知機能が低下した人たちは、表向きの言動をそのまま真実だと受け止める。
それはちょうど、認知機能の低下した高齢者や馬鹿者が、オレオレ詐欺や
霊感商法、ネットワークビジネスにひっかかるのと同じことだ。
脳は本来怠け者で、エネルギーを大量に消費する臓器なので、その資源を
なるべく使わないようにするために、すなわち、脳はその認知コストを下げるために、
疑うことより、信じることを選択しやすい傾向が元々ある。
荒唐無稽な教義の宗教やカルトが存在出来るのも、この信じる方が楽、という
人間の脳の構造からそれを説明出来る。 その観点だと、哲学は脳に負荷がかかる思考モデルだとも言えるので、その戦略は
信じることよりも、疑うことに比重を置く。その意味で、哲学は人間や脳の本性、
自然な直観には著しく反するがゆえに、知的高度な営みであると言える。
哲学は、一般性や常識、既成概念を懐疑に晒す。物事の前提や基礎、基盤を問い直す。
日本政府の言うことをすべて鵜呑みにする者などには、そもそも哲学的な適性が
欠落していると言えよう。 >>810
他人の能力才能を信じ、自己の論理を疑うだよ 人文系による科学用語の濫用の批判には、統治における言語統制についての哲学が
完全に欠けているんだよね。例えば、まことしやかな陰謀論は、陰謀を隠すために
流布される。発覚する恐れの高い事実として確認され得ることを多く埋込みながらも、
誰にでもあからさまで愚かな間違いであることが分る事実誤認をその中に隠しておく。
陰謀はいつでも行われているわけで、並行して陰謀論を流しておけば、陰謀について
詮索する人間は、おかしなことを信じ込む馬鹿であると一蹴する手段も同時に得られる。
これは、うるさい邪魔を排除して科学技術を専門家だけで推進しようとする場合も
同じことで、トンデモな考えを含む批判が流布されている方が、素人はよけいな口を
差し挟まずに専門家に任せておけという暗黙の言論統制をするのに都合がいい。
でも、人々に本当に大きな災難をもたらすのは、専門家を気取った素人による科学
用語の濫用ではなく、専門家による科学用語の独占的使用だ。経験も知識もない
馬鹿が自宅で危険な化学実験をやって自宅が爆発で破壊されれば、近隣まで
被害は及ぶだろうが、専門家が危険な大規模化学工場を住宅地域に近い場所に
建設して事故が起きれば、数千人規模の犠牲者が出ることもあり得る。 突然ごめんなさい
哲学者で宇宙を研究している人っていますか? カントですか!授業で聞いたことあります
宇宙の成り立ちについての本を読んだら、「宇宙は無から始まった」と書いてありました
今ある宇宙の全ての物事が無から始まったというのです
しかし、私は何もない事を表すはずの無が全ての始まりだということが全く納得いかずモヤモヤしています
宇宙が本当に無から始まったのかは置いておいて、無に対する私たちの認識は「ただそこに何もないこと」に終始するのでしょうか >>819
古代ギリシア人も君と同じように考えた
人類で初めて無から有から生じるという考え方が生まれたのはユダヤ教以降でありそれまではそれが当たり前の考え方であった
ビッグバン理論がキリスト教的だと云われるのはそれゆえだ
>無に対する私たちの認識は「ただそこに何もないこと」に終始するのでしょうか
「何もないこと」があるからその認識は誤謬であろう
空集合を考えてみればわかるように 「無」は「有る」のです。「無」が「無」ければ、「無い」とはいえません。
「無」が「有る」からこそ、「無」とは「無い」ことなのだといえるのです。 様相論理や可能世界での語法を使うと、~は必然的である◽︎ / ~は可能である♢、
という風に、状況をbool型のif文で2価的に表せるので、無から有が生じるのは可能である、もしくは、「無から有が生じるのは可能である」を偽とすれば、偽なる命題として、共に成立していることになる。命題論理では、真理(T)だけが存在する
のでなく、偽(F)の命題も存在する。だから、「日本の首都は、北京である」という
命題も偽の命題として成立する。あるいは、可能世界の中では成立している。 あと、可能世界での語法で、「状況の遮蔽」という考え方が面白いよね。
もし、アメリカの今の大統領がクリトンであれば、今の北朝鮮の振る舞いはどうだったろうか、という想像や思考が生じた場合、そこでは、現在のアメリカ大統領が
トランプであるという事実が遮蔽されており、その仮想での可能態を表現している。 >>820>>821
よくわからないんですが
>「ただそこに何もないこと」とは
ただそこの「そこ」という物があるからそれは無ではないということでしょうか
また
>「無」は「有る」のです。「無」が「無」ければ、「無い」とはいえません。
>「無」が「有る」からこそ、「無」とは「無い」ことなのだといえるのです。
ということは無というのは「そこ」と言う事なるのでしょうか
「そこ」をどう解釈したらいいのかよくわからない >>825
なにがわからないの?私達の認識って書いてるの忘れたとか? 理系でも数学が苦手な大学生は57.3%
大学の高度な数学は難しい 多くの人々が数学を苦手とするのは、数学の有する論理性に思考回路が
ついて行けないからだろう。人はふだん、それほど論理的に考えている
訳ではない。周囲の様子や信頼している人の言動の模倣、直観、経験論などを
参照して判断・行動している訳で、数学的な精密な思考が必要になる人などは
世間では圧倒的に少数派なのだろう。
また数学の思考や演算、論理展開は脳への負荷が大き過ぎるので、一部の理系脳
を除外すれば、ほとんど敬遠される。 つまり、人間の自然性(アナログ・動物的な現場主義・党派性、直観、本能)に
数学や科学は反しているので、それらは知的に敷居が高く、かつ脳へ高負荷の
かかる対象物となる。人間の自然性に反してなければ、つまり、それが自然な
ものであれば(食欲・性欲・睡眠欲・承認欲求、自己保存の本能のように)、
それらは誰にとって容易でアクセスしやすい学問や対象となるはずなので、そうでないということは、数学や科学は自然性や自然状態よりも、上位にある対象であることが推定できる。
なので、数学や科学的な知にアクセス出来る者は、それだけで知的な人であることが
推定できる。 数学的思考そのものは文学的思考より単純だと思うけどねー。 >>829
数学も1つの解釈だと思うけどね
古代ギリシアの系譜に近い思考をする人に今の数学がしっくりくるだけかと
例えば、高校数学は大体「古代ギリシア(ユークリッド)〜近代欧州(ライプニッツ)」の系譜でシラバスが構成されており、その時代の思考傾向にたまたま合致した高校生が高偏差値を叩き出しやすい
幾何、代数が全くできない文系人間がガロアは得意だったりするからひとえに数学のセンスの有無如何といってもわかんねーなって思うわけよ
だから「理系脳」「文系脳」の区別で数学を語れるほど数学は単純ではないはずだよ
そこは歴史と個人の認識の相性の問題なんだよね
才能というよりは運だな
畢竟ずるに「絶対的な真理として数学が存在してそれに人間が適用する」という考えは間違っているってこと
神様の創造の綱領は数学で書かれてるとか、数学は宇宙の言語であるとか信じていた合理主義者、ウィーン学団はとっくの昔に歴史的敗北を喫したのに、いまだに日本では「数学は神の言葉」とガチで信じてる数学教師、数学者が教鞭を握っているから驚くよ
別に俺は数学を貶めてるのではないよ
数学は実に"人間にとって"有用な学問だ
「数学は人間による真理の一解釈、仮象、モデルであり決して真理そのものでなく、それら解釈も人間による前提の置き方如何でどうにでも変わる」というのが現代の常識だってことは知っておいてね
数学は体系として完全に補完されていない、だから数学のモデルは完全に自然と一致した自然の写像ではないということは大昔にゲーデル、タルスキーが証明してきたことだから俺がわざわざここで証明する必要はないよね >>828
脳神経科学のコネクショニズムの考えだと、人は論理的に概念を操作して考えているのではなくて、シナプスの重み配置による統計的パターンで反応、操作で思考してるらしい。
言語的な構文論モデルを想定して思考や認知を考える古典的計算理論があるけど、コネクショニズムの方が有力らしいね。
まあ、脳の中に構文論的な存在があるなんて、ナンセンスだよね。
神経を回路を基盤としたコネクショニズムの方が断然説得力ある。 >>834
選り好みせずあらゆる分野に精通することだよ 自然言語の刺激等価性が、かえって論理的思考を妨げてしまうというのも、統計的パターンの反応、操作で人間が「思考」してるからなんだろうね。 >>835
そうだよ今はコネクショリズムが最有力
というか、ほぼこれが正解だろうと確定しているね
ジュリオトノーニの情報統合理論はつい最近まで虚学扱いだったのに目下学者の手のひらがしは酷すぎて笑っちゃうねw つかこのスレでコネクショリズムという言葉が出てきて安心したわw
このスレにはコネクショリズムが何かすら知らないおっさんが数学知った風なツラしてるからな
前スレからずーーーっと「質ガー」「量ガー」って20世紀のポストモダニズム引きずってるジジイ、完全に時代に取り残されてるから 物理的問題に対処して解決するのに適してるから数学が科学的に有用されるんで
認識問題の解消を求められる哲学問題には数学的な要素がそもそもあまり無いから
あえて数学に置き換える利点がないと思う。 数学で言えば、無限や無限小という概念は、人間の自然な数の捉え方に反すると思うね。たとえば、無限∞に、1を足した値を想像すると、人間の直観だとその関係は、
∞+1 > ∞
となるけど、これは数学的に間違いとなる。正解は、
∞+1 = ∞
左辺には、別に1でなくても、1兆や1京を足しても同じこと。それでも左辺と右辺の両項は、=の関係で結ばれる。自然数の無限集合{1,2,3,…}、つまり、自然数が無限に続いている集合と、たとえば、偶数の無限集合{2,4,6,…}、すなわち偶数が
無限に続いてる集合の大きさは、同じ大きさであると数学的には表現されている。
自然に考えると、自然数全体よりも、偶数全体の集合の方が小さい、
もしくは自然数nの半分の大きさn/2となっていると考えそうだけど、
無限集合になると、両者は同じ大きさだと考えないといけなくなる。 有限集合とは違って、無限集合では個数ではなく、濃度という単位を割り当てるのだけど、
それだと、自然数と偶数の無限集合は同一の濃度、自然数と奇数の無限集合
も同一の濃度、つまり、偶数や奇数は、自然数の部分集合であるにも
拘わらず、同じ濃度、つまり、同じ大きさとして数学的には捉えられる。
なら、実数の集合でも同じ大きさとなるのかと言うと、それはまた違って、
実数の無限集合は、自然数や有理数、偶数、奇数などの無限集合よりも、
大きい、という風に扱われる。カントールが「対角線論法」という
証明方法を使って、実数は自然数よりも大きい無限であることを示した。 すべてがこんな感じで、数学は人間の自然性や直観的な認識には反している。
だから、難しく感じる。 >>835
「言語的な構文論モデル」なんて、せいぜい意識に現れた表象レベルの。中二階的な不要な考え。
そんなものが最終的な基盤になるわけがない。 コネクショニズムはチャーチランドとか面白いよね。
まあ、20世紀の後半、言語論的転回なんて不毛な時期が長かったから誰も哲学をまともに相手にしなくなったけど、新しい動きは常に新しく起こるものだ。 >脳神経科学のコネクショニズムの
考えだと、人は論理的に概念を
操作して考えているのではなくて、
シナプスの重み配置による統計的パターン
で反応、操作で思考してるらしい。
これって、論理的に考えている=論理的に
反応していることで、等価じゃないの?
ニューラルネットワークのモデルでも
ノードやユニットとその重み付け、
活性化関数などを 使った関数モデルを
出力するのだけど、数学的で論理的な操作
になっているけどね。 別に概念を使って
なくても、統計的なパターンで反応して
いるのであれば、そこに論理性は 十分、
介在していると考えられるんじゃないの。 >>854
論理という概念そのものが不要ということでしょ。
あくまでパターンで、近似的なものに過ぎないし。 記憶の反応機械を破って、新しいことに挑戦する、
試行錯誤するようなモデルは
脳神経科学のコネクショニズムでは
どのように考えるの? 実際、言葉や概念にしても、一義的に定まらないのが普通。
常にズレが生じて噛み合わないことがあるし。
それにニューラルネットワークは人工モデルで、実際のところ人間の神経はまた違うだろうし。
人間(動物)の場合、古い皮質の情動部分が結構認知帰納にかかわってるらしいし、一筋縄ではいかないだろう。
記憶とか印象なんて、もろにかぶってくるところ。 >>854
だから数学も人間のいう「論理」も脳の物理的現象に依存してるってことが言いたいんでしょ >>857
フィードバックと環境との相互作用なんじゃないかな。
生き物の場合、環境との相互作用というのはすごく重要でしょ。
言葉だって、小さいときに覚えないと、大人になってからではだめだしね。
成人するにつれ人間の知能は発達して色々な勉強には習熟するにもかかわらず、言語習得は臨界期が早くて10代後半になったらもう駄目とか。
言語というのは脳のパターンとしては、かなりプリミティブなところと関係してるという説もある。 >>857
それはいわゆる自由意志ってこと?
もしそうなら殆ど神経科学者は否定してるけど
最終的な結論は量子力学の進展を待たないと出せないけど、無から有が生じるモデルって現状想定できないでしょ >>856
記憶のないところには、当然、知的な思考も含め、あらゆる精神活動はないからね。
その記憶は想像以上に情動で色付けされているらしい。
記憶の座も、大脳の新皮質のどこか一か所にではなく、広く脳に分散して維持されてるらしい。
ある程度の機能の局在はあるんだろうけど、従来思われてた以上にネットワーク的、パターン的な形態で存在してるらしい。
だから、ねつ造されたり、上書きされたりと、すいぶん柔軟な可塑性をもっているんだろう。
常に微妙に揺らいでいる。絶対に固定はしていないんだね、本当は。 お、ニューラルネットワークなスレになってるw
きょーはちょいとカメラで画像認識させて遊んでみた。TensorFlow使ってね。
機械が自分で学習できるようになるには、カメラ(目)だけではダメで、
自分から行動できなければならないだろうが、安楽椅子AIも可能なのではないかと少しアイデアが浮かんだ。
と、試行錯誤と自由意志ですか。まさにその辺の問題ですね。 >>844
数学も人間が計算や思考するために存在するアイテムだし、複雑な認識を合理的形式に置き換えるツール
その数学の一義的に優れた合理性で自然や人間の意識・認識を網羅しようとすれば、数学の正解であっても
数学だけで完全な世界は描けない
数学が学問として専門的な知能が必要になっていく高度な発展系だから難しく感じるだけで
人間の自然性や直観的な認識には反してるというより数学だけでは掴みきれないんですよ。 >>862
記号や言語は固定的だけど、意識は常に揺れている。 >>863
非論理を認めずに何が自由意志だ
ニューラルネットワークも機械学習も人の結果に従う収束をする、
人が受け入れられない結果では意味として扱えずやり直しするだけな。 >実際、言葉や概念にしても、一義的に定まらないのが普通。
>常にズレが生じて噛み合わないことがあるし。
神経の流動的、統計的な結合パターンからすると、これは自然なこと。
安定性を保ちながら、変更や修正を受け入れている。
一方、数学のような、必然性を要求する厳密な論理がなぜ発達したのか、興味あるところだな。 集合論理屋はしっぽを巻いてさっさと退散したんですか。情けない細声を力なく絞り出しながら。 >>875
中卒(高校中退)などではなく、大卒もしくは院ですよね?だとしたら、もうひと捻り出ませんか。 > 物理的問題に対処して解決するのに適してるから数学が科学的に有用されるんで
認識問題の解消を求められる哲学問題には数学的な要素がそもそもあまり無いから
あえて数学に置き換える利点がないと思う。
この意見は、ちょっと微妙だね。数学は、現実や存在(論)を抽象化して表象している
ようにも映るし、根源的な思考をする上でも役立つ。カントだって、論理の連鎖を
無限遡及的に辿って、一種の無限遠点としての「もの自体」という概念を作り出した
のだから、哲学において数学を軽視するのは、ちょっと違う感じがする。
そもそも歴史上の偉大な哲学者が、また偉大な数学者でもあることが多いという
事実からも、数学と哲学は近傍にある分野であることが推論出来るよ。 じゃあ、論より証拠で、数学的な考え方をこのスレの応答を使って、少し表現してみようか。
このスレで、
「これからの哲学は、心の哲学や神経科学的なコネクショニズムの時代だよ!」
という意見が散見されるけど、そのことは、心の哲学や神経科学的なコネクショニズムこそが
哲学的な真理を一番、有効に捉え、それに照射している分野だ、と意味には全然なっていない。
なぜなら、それは目下流行っている、もしくは目下先端とされている哲学上の分野だという
意味だけであって、視点を100年後、あるいは、1000年後くらいに置けば、それらは古臭くなって、
またその時代に流行っている哲学的な分野X_1000が生じ、これからの哲学分野はX_1000だよね、
という類似の言説を為している者たちが、その時代に存在することが予測されるから。
量子コンピュータや汎用AI、再生医療が普及している時代には、また違った先端分野が
現れているはずだし、それらに影響されて流行りの先端の哲学も思潮もコロコロ変わる。
つまり、ある時点の流行や技術に振り回されているだけの哲学的な言説は、その真理性(無時間性)を
全然保証していないということ。その時だけ、一瞬価値を帯びるようなインスタント哲学や渡り船に
なってしまうね。
数学や論理学は、このように視点を無限の時間にまで展開・進めて、言説や対象の真偽を判断・
推論するとが出来るので、とても役立つ。 そのご立派な理屈が正しいとすると、それって、すべての哲学に当てはまるね。
無意味 w >>877
数学を軽視したと解釈すれば、ちょっと違う感じになるのは最もだし
偉大な哲学者に偉大な数学者が多いという事実から分野が近傍
であるとする論理的な根拠が不明で推論出来るか判断はつきませんね
単純な類推では論拠に欠けます。 >>871
当たり屋。何をやってもそれがあなたの限界です。 >>883
君こそ人を勘違いしてるみたいだね。
まぁ、さんくす。 >>884
何がどう、人を勘違いで、何を、さんくす?
日本語でおねがいします。 時間と誕生日と可日付にかかわる面白い詩的な使い方もあるよ。 >>871
876考える名無しさん2017/09/09(土) 21:56:04.300
>>875
中卒(高校中退)などではなく、大卒もしくは院ですよね?だとしたら、もうひと捻り出ませんか。 >>888
この人とも付き合いあったんだな。
この人もそうだとは知らなかった。 なぜ数学を学ぼうとしないのか?
無知を愛する反哲学なのか? >>893
さんくす。大学数学の本買ったけれどやり忘れてた。 >>895
指す状態は同じ。
貴方が、どちらを「高尚」と解釈するか。
それぞれから何を見いだせるのか、比較するといいだろう。 いろいろと意図的なミスリードを臨機応変に仕組んでいるんですよ まず、数学は具体的なモノを扱っていない。√2やπ、自然対数eのような無理数
やオイラー数は、林檎やバナナ、メロンがあるように、具体的にどこかに存在する
モノではない。
だから、数学的な宇宙では、一種の仮想的な抽象空間の中で、公理や定理の
もとで変数を操作し続けられる抽象的な思考や頭脳が求められる。
そのため数学は、端的なあるがままの現実よりも次元が一つ以上高いレベルのところで
その思考を展開し、繰り広げる。
その点で、数学は哲学と似ている。哲学は形而上学と呼ばれることもあるように、
メタ、より上位から物事を俯瞰する。認知や認識、知識についてのメタ的な認識や
知が哲学と言っていいだろう。
無限だけでも抽象度が高いのに、数学ではそれを更にℵ_0(アレフ・ゼロ)とℵ(アレフ)
で区分して、無限についてもその大小関係を考えていく。連続体濃度は、
実数全体の濃度のことなので、その大きさの関係は、ℵ_0 < ℵ ℵ_0(アレフ・ゼロ)は可算無限なので、規則的に数えられる集合になる。
以下の集合が可算濃度、ℵ_0を持つ。
すべての平方数からなる集合、すべての立方数からなる集合、
すべての四乗数からなる集合、
すべての累乗数からなる集合、すべての素数の冪からなる集合、
すべての偶数からなる集合、すべての奇数からなる集合、
すべての素数からなる集合、すべての合成数からなる集合、
すべての整数からなる集合、
すべての有理数からなる集合、
すべての代数的数からなる集合、
すべての計算可能数からなる集合、
すべての定義可能数からなる集合、
すべての有限長の二進文字列からなる集合、
任意に与えられた可算無限集合のすべての有限部分集合からなる集合。
こうした規則的に数えられるℵ_0(可算無限集合)の濃度と違って、
実数の無限集合ℵは、規則的に数えることが出来ない。つまり、無限に存在する
実数には順序を付けられない(非可算無限集合)。そのため、一番小さい実数さえ
定義出来ない、すなわち、それは存在しない。仮に、0.000000000000…………1が
一番小さい実数と想定しても、その値を半分にしたり、10分の1にしたりして、
いくらでもさらに小さい実数が出来るので、実数は始まりを持たない。
だから、無限に存在する実数の間には、自然数のような序数や順序を付けて
構成出来ない。 >>880
>偉大な哲学者に偉大な数学者が多い
これはない。 ライプニッツだけ。 デカルト、パスカル、ラッセル、ホワイトヘッド
フッサールも数学出身 形而下のことになぜか、あんまり興味が持てないんだよね。
でも、なんで世の中の人たちは、あんなにくだらないこと(形而下)に
あれだけ強い関心を抱けるのかが不思議になる。
脳が相当腐ってこないかぎり、形而下にはそれ程興味を持てないままだろう >>899
愛のない言葉を語り続けるなら、コテつけてやってもらえます、ね? >>902
偉大と一流と三流の違いはどこにありますか? 435考える名無しさん2017/09/11(月) 14:14:45.490
193Time is Being2017/08/19(土) 09:17:33.410
対比(能動態 vs 受動態)が等さを生む(中動態)ことが数が現れること
であり、対比と等さのいずれかが時間的に優先するということではない。
むしろ、対比が等さを生むことが時間の前提であり、在ることの基礎である。
195考える名無しさん2017/08/19(土) 10:03:13.550
中動態がどうのというのは、図書館の待ちリストが長すぎて、まだ読んでない
んだけど、宣伝文に書かれていたことが変に感じられたから気になっている。
名詞的なことは、どう考えても順序的には、先ではなくて、後だよ。 能動、受動、それらを媒介する因子
この3つがこの世界に様々な形で存在しているんだな
これは当たり前のことなのに、ふとしたきっかけで自覚させられるとなぜだか感動してしまう _,,;::-―ー-:;:,,、
/'''''' '''''':::::::\
|::-=・=-;;;;;;;_-=・=-:::|
| .:"ー=〓=-'`:::: |
\ `ニニ´ .::::::/
,,.....イ.ヽヽ、ニ__ ーーノ゙-、.
: | '; \_____ ノ.| ヽ i
| \/゙(__)\,| i |
> ヽ. ハ | |
俺の経歴を簡単に紹介しておこう。
東京大学大学院数理科学研究科博士課程を数年前に修了し、
今は某大学で准教授をしている。哲学板にはよく行くよ。
たぶん哲学板住人がよく言うキラリと光る発言とは俺の発言がいくつか含まれているだろうな。
実際、俺は哲学初心者にマジレスをしているし、
哲学初心者からすれば「キラリと光る発言」と見られてもなんら不思議ではない。
言うなれば私は、私の天才的知能により誰もが持っている「内なる世界」
とでも呼ぶべき世界を、常人より遥かに優れた形で構築してしまっている。
その世界は既に外界のそれに迫り、一部では遥かに凌駕してしまっている。 毎月のお支払い、生活費、携帯代でお困りの時はご相談下さい。お金の悩み、相談はエス ティー エーで
詳しくはHPをご覧下さい。 ナディアコマネチがネリーキムと争った中日カップのテレビ放送では、全国で何百人もの若者がコマネチで抜こうとした
瞬間、監物に切り替わって、だめだあっといいながら監物の顔でどぴゅっと発射してしまったという
これは当時一種の社会問題になったんじゃよ?(´・ω・`)
人工知能学会等から講演してくれとの依頼も受けているし、それに付随する人脈もあるんじゃが
こういう雑学にも造詣が深いんじゃよ?
____
/∵∴∵∴.\
-=・=- -=・=-
,-'(..、___;...)ー、
'"ー= 〓 =-'` もうイっちゃうのかね?
.`ニニ´
/ ̄ '  ̄ヽ
/ ,ィ -っ、 ヽ
| / 、__う人 ・,.y i
| /  ̄ | |
ヽ、__ノ | |
| 。 | /
,...-‐''" _.l::::`ー,=-'(丿
/ ´ ,.!_;;;:r''.. ` 、
,...-‐' _,....-‐'" `'-、:: ` 、
/.. ,....―'" `ー、__ `l
/_;::::-'" /::::::::::::::::ノ
,.../._r'" ヽ`''「 ̄ ̄
(__ノ' \_\ >>920
はい。軽度ですが。。。
ごめんなさい
自分の発言が不快だったでしょうか? >>921
軽度アスペであることをどうやって証明する、またはどうやって相手を説得しますか? >>922
ごめんなさい本当は親にそうだって言われてるだけなんです
病院には行ってません
怖いからなのか、行く必要がないと思っているのかは分かりません
小学校の頃までの記憶がほとんどありません
人の話を最後まで聞けないし、興味のあることにしかやる気がわきません
「他愛もない会話」という概念が理解できないです
気が利かないって言われます
先生に、「君は人間に興味がないんだね?」って言われたことがあります
こんなことを書いても相手を説得する事はできないのでしょう
自分の経験や価値観なんて相手に伝わったことが無いのですから >>906
デカルトが三流だと、ほとんど五流だらけだろうが w アスペと言えば、奇形なみのチビで、50になってもオナニーが大好きだったウィトゲンシュタインとか w 私は何故か1才未満の言葉もまだ話せなかったころの記憶がある。 >>923
証明または説得となるように、自分の作文を仕上げる場合、一番大切なのは、何だと思いますか? >>927
自分が何が好きだったのか自分の身に何があったのかを時系列で説明することです >>928
相手に、何を、それで説明または説得できるのですか。
あなたの論理は>>923と矛盾しています。が、どう矛盾しているかを自省出来るようになることが成長です。だれも教えてくれません。アスペやあなたには特に。 >>929
ありがとうございます
私は最初の説明では「時系列で」説明していないことに気がつきました
それに「何が好きだったのか」を説明してませんでした
私にとって927と922は全く違う質問だったので、それらの質問が同じ意図であったことに驚きました
作文を書く事とこのスレに書き込む事は全くの別物だからです
何が好きだったのか何が起こったのかを時系列で説明することは、自分の行動や思考の個性(性格)を明らかにする事に繋がると考えました
そして明らかになった性格とアスペルガーにみられる特徴的な性格を比較することで、自分がどれだけアスペルガーっぽいかを評価できるはずです 付随性(スーパーヴィーニエンス、英: supervenience)は、哲学、その中でも特に
心の哲学で使われる用語で、異なるレベルの特性の間に定義される強い依存関係のこと。
厳密な定義は次のような形で与えられる。
『おこりうるどの二つの状況を考えても「特性2に関して異なりながら特性1は同一だ」
ということがない』ならば、特性2は特性1に付随している。
一般的な用法として、特性2として心的な性質(命題的態度やクオリアなど)を、
そして特性1として脳の物理的な状態(ニューロンの状態、神経伝達物質の濃度など)
を考え、心的な性質の物理的な状態に対する付随性を議論する事が多い。 すなわち「心的な性質は脳の物理的な状態に完全に依存して生起している」という事を
言いたいときに、「心的な性質は脳の物理状態に付随している、
(またはスーパーヴィーンしている)」などという風に使う。これはすなわち
『起こりうるどの二つの状況を考えても、心的な性質に関して異なりながら、
脳の物理状態が同一だ、ということはない』という意味である。
近年の神経科学の急速な発達により、「心的」とされる性質のほとんどが、ニューロンの
興奮や、シナプスの状態といった脳の物理状態に付随するものだ、と一般に考えられる
ようになった。しかし心的な性質の全てについて脳の物理的な状態への付随性が成立して
いるのかについてはまだよくわかっていない。特に現在、心の哲学の分野ではクオリアの
付随性についての議論が非常に盛んで、哲学的ゾンビや逆転クオリアといった、
付随性が成り立っていないような状況について考える思考実験が、様々な論文に頻繁に
登場する。 文系脳は、あるがままに世界を見る。
理系脳は、抽象化して世界を見る。 そして、この抽象化していく作業に必須となるのが数学というツールなのだ。
こうした数学的なツールを適切に使って構築された抽象的理論的構造物は、
ひとつの整合的な知の体系を提示する。
数学を使えない文系脳が同じことをすると、それは誇大妄想と呼ばれる。
哲学でいうと、ニーチェの哲学が文系脳を代表していると言えるだろう。
だから文系の脳で哲学好きは、ニーチェとか評価してしまうのだろう。 >>934
悪いけど君はニーチェを理解してないと思う
何か勘違いしてるね 学問が捨象した社会で踊らされる凡人が世界をまわしてくれるからね。
理系、文系で分け隔てた評価に哲学がないのは言うまでもないのよね。 >>930
ご存知のようにアスペは治りませんし軽減できません。病気であるかどうかすら疑わしいものです。
アスペの特徴(性格)を知りたいならブログやメンヘル板などで興味をもったエピソードを読んで事例の顛末を知る。
個性(思考)や生き方では、アスペ(や知的障害)は社会から嫌われて避けられているので、自分の生活空間から出た途端、孤独や疎外に悩まされるでしょう。
アスペなど自己中は、チーム行動などの自分以外の人間と一緒に協力する行為に、全く向いてません。自己中は己の道を孤独に歩みます。
よってアスペは、社会や集団の害悪と定められ、優先的にいじめの対象となります。これを人権人種などの差別と議論するかはその上位の社会の話です。 https://www.youtube.com/watch?v=QOGCSBh3kmM
こういう集団行動のシミュレーションを行う場合には、どのような数式が用いられるのですか? 数式を用いずにどうやってシミュレーションをするのですか? 鳥の集団行動を見てシミュレーションと関係付けるっていうのはないと思う。 もしかして数学で森羅万象が説明できると思ってる痛い子なんじゃない?
それなら触れない方がいいと思う >>943
20年ぐらい古い頭の人を発見。
今は、AIがする。 思考実験だったら、そろそろ物理的な身体を有した人類がいなくなったような
ポスト人類_δが支配している新しい世界や宇宙像を想像するといいだろう。
その未来δでは、人類はAIのような情報的な実存や存在者になっている。あるいは、
人類自体が核戦争などで消滅していて、AIや宇宙人がすべての技術なり生態系を
完全自動で制御しているような世界と地球があってもいいだろう。
そこまで先の未来までいかなくても、量子トランスポーテーションのような技術が
人間を含めた生命系にまで適用される未来が来れば、瞬間移動で世界のどこにでも
行けるし、月や火星旅行もそんな感じで一瞬で行けるだろう。不老不死のような
技術もあり得るだろう。
ここで重要なのは、既存の科学体系を書き換えるような新たな科学体系が未来に
生じれば、現在では不可能だとされているような事柄も容易に実現されうるということ。
ニュートン力学、量子力学、未来の未知のδ力学が見出されれば、人間は何億光年も
離れた宇宙の始原にまで自由に往き来出来るかもしれない。 空想とか言っているのは、たぶん、この程度の射程の話にさえついて来れないような
旧型の人間なのだろうね。 >>952
思考実験とか言ってるけど、射程の的に単なる「希望」を、希望を叶える射程は「感想文」だし
射程の的が「実験」、実験のための射程は具体的な「構想文」程度の射程の話もできないくせに
旧型の人間って・・・くれぐれも自演新型人間に話についてこさせようなんて野暮な想定もしないようにw 「有」=「全」=「無」=「永遠」
なのでしょうか? AIや再生医療の進歩を見ていると、もう少し(歴史的な時間幅の)で人間の個人はなくなるんじゃないだろうか。
手塚マンガの頃から、サイボーグ化して脳だけが生体な話があるのは、脳に意識が宿るとされているからなんだろう。
脳細胞の再生もある程度まで実現しているから、脳の交換もできるようになるんだろう。
人間の意識をデジタル化して外部に保存し、再生した脳にまた移し替えるようなことができるなら、
もう生体に移すような必要は乏しくて、デジタルのまま他と直結する統合意識みたいのができるんじゃないだろうか。
そうなると悟りの世界のように、僕は君だし、君は僕だし、僕は宇宙の一部なんだ。
宇宙は永遠に存在しているようで、本当のところは存在していないんだってことが証明されたりして、
頭のいいやつらは、どんどんデジタル化して消えていって。
貧乏で無学なやつが、よくわからんけど子作りを楽しんでいるんじゃないかな。 >>957
「頭のいいやつら」が何故それを選択して
「貧乏で無学のやつら」が何故それを選択するのか。
よく分からない。価値観の問題になるよね? >>957
近代より続く「個人主義」に価値を感じなくなるのかな? たとえば、未来のある時点θにおいて、超知性化した汎用型AIのζに、
こんな命令文をプログラミングしたと仮定するとどうだろうか。
「すべての地上の人間たちが確率100%で、殺されない、身体を過度に傷つけられないようにせよ」
すると、汎用型汎用型AIのζは、その全知全能化したシミュレーションのもとで、
以下のような判断をするかもしれない。人間は、意識状態を帯びながら物理的
身体性を随伴するので、殺し合うことや身体的な損傷を与えることが物理的・論理的に可能になるのだ。だとすれば、それを封じる方途を選択し、そのように最適化すればいい。
こうして、地上のすべての人類は、超知性化した汎用型AIのζによって、
まず麻酔にかけられて眠らされる。次に、その時点での意思・意識状態と魂の状態、記憶、経験、知識、関係のネットワークデータ、属性データ、
自我(自己に関する情報)を量子レベルで全コピーして、それを巨大で超絶的な
演算機能を持つ量子コンピューターに入力すれば、初期の命令文、
「すべての地上の人間たちが確率100%で、殺されない、身体を過度に傷つけられないようにせよ」
が満たされると超知性化した汎用型AIのζは判断するかもしれない。もっと単純に、
現状の人類が物理的に不在にならないと、この命令文の達成は不可だと判断して、
用意周到な人類抹消計画をζは企図するかもしれない。 >>960
意味不明な話が続いてます。もっと愛のある温もりがある話はできないのでしょうか。
その小話がオカルトとは違うといえるようなポイントはどこですか? 愛なんてあって当たり前だから、必要とされないんだよ
愛とぬくもりがほしければ他をあたって。 >>960
愛なんてあって当たり前ななんだそうですけど・・・。 960の話をオカルトだとしてしまうのが、想像力や論理性が欠落している証拠なんだよね。たとえば、奈良時代に、今のパソコンやスマートホン、航空技術や交通インフラ
や核の話をしていたら、そいつは、見通しが良く、先見性が抜きん出ていただけで、
別にオカルト思考にはまっていたことにはならないだろう。
先端の技術周りのことにある程度、通じてないと、そういう想像力も出てこないん
だよね。だから文系・アナログ脳の方が、先を見れない困ったちゃんなんだよね。 >>964
仮にそうだとしても、960のような事態が起こる頃には
人類なんて今とは全く違った物になってると思うけどね。
今の我々が憂うのは筋違いだ。 >>960
その小話がオカルトとは違うのは、見通しが良く、先見性が抜きん出ているところですかあ!
先端然々を知らないとついていけないですから!!
至極ぽっともなポイントでしたあ! シンギュラリタリアンとかトランスヒューマニストみたいな連中は割と本気よ。人間の改造。ただあいつら楽観的過ぎて呆れる。哲学や社会人文系の人間が積極的に議論に加わらなければならないとは思う。 >>967
人工知能とかクローンですか。それ。
議論に加わったとして何を期待しますか? >>958 価値観は個人が判断するもののようで、時代や環境で変わっていくだろう。
黒電話がスマホよりも価値があると判断するのは屁理屈だろう。
技術が進むと、その最先端の恩恵を受ける層とそうでない層がでる。
最先端の層が統合されていく未来なら、残されるのは常に貧乏で無学の層になる。
ただそんなことが言いたいわけでなくって、俺よりも俺に飼われているハムスターの方が幸せそうだなって・・・
>>959 老人になったり、ある種の社会的な成功を収めたりすると、社会活動や奉仕活動をするようになる。
本来技術が進まなくても個人主義は薄まっていくものなんじゃないかな。
個人主義って経済優先の社会の弊害だと思うよ。 >>957
宿る云々は、オカルトなのでよく分かりません。
人間の脳みそやら臓器やらを全て取り出します。それをまた再度戻します。間接神経筋肉なども出来れば分離して再度接合します。
医療というよりも、ロボットの部品と同じ考えです。
さてこれは、元の人間でありましょうか? >>957
移し替える云々は、オカルトなのでよく分かりません。
人間の意識や脳は、バイトなどでデジタル化したとき、サイズを見積もれますか? >>970
その辺り重要と思うんだよね。でもあっち方面の人達にとっては割とどうでもいいらしい… >>957
悟りの世界云々は、オカルトなのでよく分かりません。
現世では高学歴は消えて、残る低学歴だけで楽しんでいる。などの妄想は、今現在の世界とどう違うんですか? >>969
屁理屈云々は、思考実験なのでよく分かりません。
最先端の恩恵とは、その思考実験のように、安く、大量に、しかも数カ月で、製品化し生産できるものなのでしょうか?
電話やスマホなど最先端・技術を持っていれば取り残されない。しかも幸せでいられそうだ。と言い切れるポイントはどこですか? >>969
薄いとか禿げとか云々は、思考実験なのでよく分かりません。
社会活動や奉仕活動に、経済原理や生活保障が入ると、経済優先の関係と結局類似します。
つまり社会の弊害とは経済・社会・奉仕が問題なのではない。個人主義こそが弊害である。などと主張し終局したいのでしょうか? 人間が外界や現実を認識するには、脳の介在が必要になるので、
脳に人為的・能動的に介入することで、外界や客観的な物理的現実自体が
同一でも、それらを望ましい方向に変容することが出来るだろうね。
たとえば、癌の末期患者でもいいし、植物状態の人間でもいい。普通の人でも、いい。
その人の脳をコンピューターに直接、連結するようにして、その被験者が望むような、
その大半が思い通りになっている人生がコンピュータシミュレーションによる
鮮明な臨場感溢れるシナリオで、体感出来るような装置が出来るとする。
その時、このベッドに麻酔か何かで眠らされている状態の被験者は、何もしていない
にもかかわらず、全てをこの装置の仮想上で実現し、幸せと満足感を享受していて、
張りのある、実り豊かで愛情や温もりにも溢れる人生を送れるとする。
こういう装置が技術レベルで開発されると、人々は過酷な、あるいは退屈な現実で、
嫌な思いに耐えながら日常を生きるよりも、この眠ったままの状態で、大半が思い通り
になっているような装置を使って、それに脳を直接、連結する選択を選ぶかもしれない。 そうすると、その効率やコスト、費用対コストから考えて、ままならぬ現実に
齷齪するよりも、そうした万能装置に自己の脳を連結させて、その中で、
幸福な人生を生きた方が、むしろ、より適切な選択なのではないか、と考える人たちが
多く出てきてもおかしくない。
だって、その仮想装置で体感される現実が、真の現実と見分けがつかぬほどの
同一レベルの臨場感で構成されていれば、その被験者は、現実と仮想の現実(夢)を
区別することが出来ないので、そこで感受出来る現実感覚は、どちらでも
変わらないことになるから。つまり、仮想の中でもぬくもりや肌触りは感じられるし、
食べることも飲むことも、学習することも、眠ることも出来る。
そうすると、人間は快感原則や限定合理性、最適化して物事を判断して行為するので、
今の現実よりも、その仮想現実態の方が幸福な世界だということになって、
人口がついには、0に収束していくような世界もあり得るだろう。 あー、AIプログラム作るの疲れた。でも、いい調子で徐々に仕上がってきている。
感情反応も値で細かく分岐させれば、微妙なニュアンスの感情でも表情と共に
表現できる。そのうち、ユーザーの現在の心の状態や人情の機微、言葉の綾、周囲の空気さえも能動的に取り込んで理解し始めて、それに適切に対応した応答を
AIプログラムが返せるようになるかもしれない。AIが心や意識を帯び始めるのも、
時間の問題かもね。それらを哲学的な観点で考えていけば、価値ある哲学的な思索にもなるだろうし。 ようするに、人間にやらせたほうが早い。
十数年周期のAIの流行も時期に終焉する。 >>980
一時的な知恵熱で熱狂してしまうAIファンは当分入れ替わりながらも一定数沸いてそうw 少なくとも、数学が出来る人は知的にエレガントではあると思う。
だから、科学者と数学者は、知的にエレガントな種類の人間に属している。 >>990
陰湿で神経質、センスのかけらもないイメージだった、人それぞれだな 脳が劣化していくと、人は新しいジャンルの知識や技術に頭がついていかないので、
それらを否定できる理由を必死になって探し始める。それは出来ない自分を自己正当化
するのが主な目的だろう。
数学が出来ない者は、数学を否定する。
AIや新技術が苦手な者は、それを否定する。
かつて、ソクラテスは当時の技術としては新技術であった文字を使うことを銘記する
力を阻害するものとして、活字を強く批判したらしい。だからソクラテス問答は
パロールだけの対話編になって、プラトンがそれを記述して、後世にその知が
なんとか残されることになった。
新しい知や技術を否定するだけの脳が退化した者は、これと同じ愚を侵している。 >>992
つキリスト
はい論破
したり顔で知ったかすんのやめーやクソガイジ 今でもAIは、医療、投資、人事、軍事、レコメンデーションエンジン、自動運転、アート、
金融審査、SNS分析、犯罪抑止、物流工程の最適化、等に使われているのに、
これが従来の人工知能ブームのごとく一過性の流行に終わる現象だと見做してしまうのは、
恐ろしく脳が退化した状態にある者の意見と言っていいだろう。
当時は、技術的レベルの問題というよりは、コンピュータの処理能力の低さの問題で、当時の
人工知能研究が一時的に停滞しただけ。これからは量子コンピュータの時代なので、
ますます社会はAI化していうことは自明だよ。 AI技術の話ではなく、AIが人間同様の意識を持ってうんたらかんたら妄想AIが終わるって話 だから、意識とかシミュレーションで近似出来るようになるだろう、という話。
それが妄想に聞こえるのは、その辺りの技術の理解が欠落しているからさ。
諸々の感情エンジンも同様。心や意識を有しているように映るだけのAIから、
自律性を獲得したAIへの転移。 このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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