ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義2
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現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018
現代思想の転換2017: 知のエッジをめぐる五つの対話
現代思想 2016年1月号 特集=ポスト現代思想
現代思想 2015年1月号 特集=現代思想の新展開2015 -思弁的実在論と新しい唯物論
現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ
現代思想 2013年1月号 特集=現代思想の総展望2013 誰かポスト・ポスト構造主義を分かりやすく明確に説明してくれ >『ピエ・ノワール列伝』(パプリブ)が発売になりました! フランス
>統治下のマグレブ(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)で生まれた
>フランス人を紹介しています。
日韓併合後、日本統治下の朝鮮で生まれた「日本人」を紹介する本ってないのかな?
戦後、その「日本人たち」が内地の日本人と法的に同一の扱いを受けて、日本に
「帰還」したら「朝鮮生まれの日本人」という扱いになったのだろうか?
植民者の子孫と植民地統治に協力した地元民を同一のカテゴリーで「日本人」
と見なす発想は、戦後の日本にはないような気がするけど。 フランスから見たら日本には共和国の精神が足りなかったということになるのだろうか >>8
言いたいことがわからなくもないけど、共和国の意味を取り違えてると思う。 そういう分け隔てをしないというのがフランス共和国ナショナリズムの理念だよ。
現実には、フランス国籍をもつマグレブ系移民の子供が「外国人」呼ばわりされる
差別が存在するとしてもね。だけど、日本では、デリダのような出自の人間が
朝鮮半島で生まれていたとしたら、戦後、決して日本人として扱われることは
なかっただろうし、ましてや日本に「帰還した」などとは言われない。
フランス共和国の枠組みでは、米国のように「○○系フランス人」という
カテゴリは存在しない。無論、日本の「在日」のようなカテゴリも存在
しない。在留外国人や外国人呼ばわりされる移民の子供たちは大勢いるが。 アルジェリアの地元民であるユダヤ教徒共同体に出自をもつジャック・デリダや
ジャック・アタリなどの知識人が、「アルジェリアを引き上げてフランスに帰還した」
と表現されるフランス共和国の思想的文脈に日本の「フランス思想」専門家が
まともに向き合っているようにはとても見えない。 >>11
なんだか共和国という言葉に妙な思い入れがあるみたいだけど、共和国というのは君主国じゃない、という意味があるだけだよ?
もうひとつ言葉の問題として、「フランスに帰還した」という表現が成立するのは、元フランスという地域に住んでいたとか、親などがフランスという地域の出身だとかいう場合に限られる。
それが「帰還」という言葉の意味だから。
デリダがどうであるかは知らないけど。 アルジェリアのユダヤ教徒共同体についてのウイキペディアの記述
https://fr.wikipedia.org/wiki/Histoire_des_Juifs_en_Alg%C3%A9rie
フランス共和国ナショナリズムの思想的文脈では、アルジェリアの地元民
であるジャック・デリダやジャック・アタリと、フランス/ドイツ国境
地帯のアルザス地方からアルジェリアに植民したフランス人の子孫である
ルイ・アルチュセールが、アルジェリアから引き揚げてきたフランス人
である「ピエ・ノワール」として当たり前のように同列に扱われるわけ
ですよ。それを日本の文脈に当てはめたなら、九州から朝鮮半島に
植民した日本人の子孫と、日本統治下で生まれた朝鮮半島の地元民が、
戦後、日本に移り住んだと仮定した場合に、「朝鮮半島から引き揚げ
てきた日本人」として同じカテゴリで扱われるようなものでしょう。 >>12
フランス現代思想についても、ピエ・ノワールについても、フランス共和国の
ナショナリズムについても一切知らないようなのに、なんでそんなに上から
目線なのですか?w 本のタイトルだし
>世界引揚者列伝1
>ピエ・ノワール列伝 人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史 >>13
引き揚げるという言葉の使い方が間違っている。
フランス人として見るというのとフランスに引き揚げてきたというのは別の概念。
「ピエ・ノワール」という言葉にはむしろ差別的な意味合いがあるけど、言葉の概念が曖昧でもある。
言葉があるからといって実体があるわけではなく、実体があるからといって言葉があるわけでもない。 >>16
反論する価値がないくらい論になっていない。
相手にするだけ時間が無駄。 >>18
なんだ、逃げちゃうのか。
日本現代思想の逃走論を実践してるの?w 数学の集合論や論理学を学んだところで、イデオロギーによる思考の枠組み
の縛りを免れられるようになるわけではない。 いろいろ捻じれていながらも、世の中の仕組みというのは案外、
互いに似通っているのかもしれない >>21
というか、力道山の画像検索すると本当にピエ・ノワールだなw 「ピエ・ノワール」という呼び名の由来は不明であるとされている。
だが、「ピエ・ノワールとは黒い足を意味する」とする解説は既に偽誘導だろう
と思う。ほぼ確実なのは「ピエ・ノワール」は、現地における他称が自称に
転じたもので、何が特徴的に目について「ピエ・ノワール」と呼ばれたのか、
アルジェリアの古い写真を眺めてみれば、「ピエ」は、「足」ではなく、
「脚」だっただろうという推測が容易に導かれる。 >>5
一冊で概観するなら
清水高志 『実在への殺到』 (2017)
その他は>>2 >>11-12
> デリダは49年にアルジェリアからパリに移住し、62年フランス市民権を得るとともにアルジェリアへは帰れなくなりました。 アルジェリアといえば、アウグスティヌスもそう。
アウグスティヌスは、現象学にも通じる意識と心の問題系を扱った。
アウグスティヌスが一時期信奉していたマニ教は、ゾロアスター教、キリスト教、仏教などの流れを汲む。
デリダはアルジェの「聖アウグスティヌス通り」にある家で育った。 アルジェリアは思想史的・地政学的に特別重要な場所。 >>30
> 真理はどのように認識されるのであろうか。
> アウグスティヌスは真理(veritas)を真なるもの(verum)との関係において認識しようとする(I, 15, 27)。
> この二つは別のものとして,真理は真なるものの存在の根拠であり,
> 真なるものは真理によって存在させられる(I, 15, 27)。
> 言い換えれば,真理は神的存在で,真なるものはその被造物だということである。 ハッラージュ 「アナ・ル・ハック (Ana al-Haqq)」 (われは真理(=神=真実在)なり)
> Haqq is the Arabic word for truth.
> In Islamic contexts, it is also interpreted as right and reality.
> Al-Haqq, 'the truth, is one of the names of God in the Qur'an.
> It is often used to refer to God as the Ultimate Reality in Sufism. アナルハックという言葉は、言いにくい。
アナルファックと、いくらなんでも似すぎている。
なんとかならないものか。 井筒が指摘した、イスラムの神が仏教の真如に近いものである、
というテーゼは、別に難しい話ではなく、
>>32の様なwikiの辞書的説明にも用いられるもの。
これによって、キリスト教、イスラム、仏教のそれぞれ、
真理=真実在=真如が比較される。
その実体は、神であったり、現象であったり、あるいは偶然性であったりする。 イスラム哲学では、宗教の神はアッラー、哲学の神はハックと呼ばれ、区別されていた。
哲学者のいう「神」というのはハックであって、人格神ではなく抽象的な存在。
スピノザやヘーゲルがいう「神」は、ハックの方。
欧州人だからハックとは言わないが、イスラム哲学から受け継がれた同じような存在。 この辺ね
> 宗教と信仰の言葉では「神」と呼ぶべきものを、イブン・アラビーは哲学用語の次元で「存在」(wujūd)と呼ぶ。
> これは現実にこの世に存在している「存在者」や「現実存在」(mawjūd)とは全く異なる原理存在であるとする。
> そしてその存在の究極位をプロティノスの「一者」と同じように「存在の彼方」に置くと同時に、
> それが全存在世界の太源であると考えた[5]。
> イブン・アラビーの「存在」は、無名無相、つまり一切の「…である」という述語を受け付けない。
> 「神である」とも言えない。なぜなら神以前の神は、普通の意味の神ではないからである[6]。
> 「存在」(wujūd)には、「自己顕現」(tajallī)に向かう志向性が本源的に備わっており、
> 「隠れた神」は「顕れた神」にならずにはいられない。
> 無名無相の「存在」が「アッラー」という名を持つに至るこの段階は、
> ヴェーダーンタ哲学における意味分節する以前の全体存在である「上梵」から
> 言葉によって言い表すことができる経験的世界である「名色」へと移り変わる段階にあたる、と井筒俊彦は解説する[6]。 >>38
東洋的無
・神(アッラー)そのものが自己顕現する無
・ユダヤ教神秘主義カッバーラーにおける神の内なる無
・プロティノスの一者
・ヴェーダーンタ哲学の無相の梵(ブラフマン)
・老荘の道
・禅の無
・大乗仏教の真空妙有
・易学の無極即太極
意識・存在・実在のゼロポイントである純粋な無、
絶対無から絶対有への展開。 『現代思想 2018年2月号 特集=保守とリベラル ―ねじれる対立軸』
【討議T】
転倒する保守とリベラル――その空虚さをいかに超えるか / 宇野重規×大澤真幸
【エッセイ】
不正義との戦い / 北原みのり
こちらもつきまとうべきなのか / 武田砂鉄
【若者は〈保守化〉しているのか】
若者の保守化という錯視 / 中西新太郎
日本型リベラルとは何であり、何でないのか――「革新」との連続と断絶 / 北田暁大
【〈ねじれ〉はどこで生まれたか】
ねじれつつからみ合う二つの流れ――保守とリベラル / 杉田敦
捻れる平和主義――保守の戦後、革新の戦前 / 酒井哲哉
対立構造の変容と政党政治の機能不全 / 中北浩爾
【欠落する正義】
フェミニズムとリベラリズムの不幸な再婚?――日本軍性奴隷制問題をめぐる反動に抗し / 岡野八代
【保守とリベラル、それぞれの現在】
核と人権をめぐる保守とリベラル / 森政稔
「改革の政治」とは何か――保守政治の「守旧保守」から「改革保守」への自己脱却 / 大井赤亥
【イメージの戦い】
フェミニズムの姉妹、保守とリベラルのキマイラ――軍事強硬主義的女性保守政治家の支持獲得構造とイメージ機能 / 海妻径子
隠されたディスクール/セレブリティの理想/小さな差異のナルシシズム / 樫村愛子
現代日本における「リベラル」イメージの変容――「リベラル嫌い」に関する研究ノート /明戸隆浩
研究手帖
「1968年」の記録と記憶 / 相川陽一 ヘーゲル的に発展する歴史が終わったというのだから、
ねじれてくるぐらいがデフォルトのようにも思う 『京都学派』 菅原潤 (2018/2/13)
目次
プロロ ーグなぜ今 、京都学派なのか ☆
第一章それは東大から始まった ─ ─フェノロサから綱島梁川まで
コラム 1九鬼周造
第二章京都学派の成立 ─ ─西田幾多郎と田辺元
1対照的な二人の哲学者 ─ ─西田と波多野精一
2西田哲学の変遷
3京都学派の成立 ─ ─田辺元による西田批判とその影響
コラム 2和辻哲郎
第三章京都学派の展開 ─ ─京大四天王の活躍と三木清
1西谷啓治と高山岩男 ─ ─京大四天王の代表者
2三木清と昭和研究会
3二つの座談会 ─ ─ 「世界史的立場と日本 」と 「近代の超克 」
4戦時中の西田と田辺
コラム 3左派の哲学者たち
第四章戦後の京都学派と新京都学派 ─ ─三宅剛一と上山春平
1 「包弁証法 」と三宅剛一
2新京都学派と上山春平
コラム 4広松渉
エピロ ーグ自文化礼賛を超えて ─ ─京都学派のポテンシャル
1唐木順三と 「型の喪失 」
2上山春平と柄谷行人 ─ ─ポスト京都学派に向けて
読書案内
あとがき >>45
ポスト京都学派的なものも、既に出てきているね。
・清水高志 『実在への殺到』(2017)
・千葉雅也 「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」(2017)
・中沢新一 「レンマの贈与」(2017)、「レンマ的算術の基礎」(2017)
・鈴木貞美 『「近代の超克」その戦前・戦中・戦後』(2015) >>46
中沢は中村雄二郎から山内のレンマ論を勧められたという話。 レンマ論(西洋論理学と東洋論理学の接合)は、
20〜21世紀を通して、依然、中心的な課題なのだと思う。
清水は、宙吊りになっていたポスト構造主義的外部にレンマ論を接続し、
ポスト・ポスト構造主義的論理空間を描いてみせた。
千葉は、理論や体系とは距離を置いたところに、新しい対象を見つけようとしている。
これらと並行しているのが東のロシア学。 ・『ゲンロン6 ロシア現代思想T』 (2017/9/22)
“ロシアとはなにか、ヨーロッパとはなにか、
そして近代の外部が(そこにはむろん日本も含まれる)
近代を欲望するときなにが起こるのか”
日本の近代〜現代〜ポスト・ポストモダニズムと重ねて見るロシア。
「ロシアにおけるドゥルーズ、デリダ」など。
ロシア学の新しい形。
・『ゲンロン7 ロシア現代思想II』 (2017/12/15)
特集監修:乗松亨平
[鼎談]接続、切断、誤配 國分功一郎+千葉雅也+東浩紀
ほか ロシア哲学・思想史関連
『ゲンロン6・7 ロシア現代思想I・II』 東浩紀 (2017)
『20世紀ロシア思想史 : 宗教・革命・言語』 桑野隆 (2017)
『ロシアあるいは対立の亡霊 : 「第二世界」のポストモダン』 乗松亨平 (2015)
『ロシア精神史への旅 : 野口和重ロシア史論集』 野口和重 (2009)
『ロシアの源流 : 中心なき森と草原から第三のローマへ』 三浦清美 (2003)
『ロシアとヨーロッパ−ロシアにおける精神潮流の研究 1・2・3』 T.G.マサリク (2002-2005)
『ロシア学を学ぶ人のために』 藤本和貴夫 (1996)
『ロシア精神史 哲学と社会思想の流れ』 セルゲイ・レヴィーツキイ (1994)
『ロシア思想史』 森宏一 (1990)
『ロシア思想史 : メシアニズムの系譜』 高野雅之 (1989)
『ロシア精神の源 : よみがえる「聖なるロシア」』高橋保行 (1989)
『ロシア・ソヴィエト哲学史』 ルネ・ザパタ (1997)
『ロシア的人間』 井筒俊彦 井筒によれば、ロシアには「原初の混沌(カオス)」があるという。(「ロシア的人間」)
それから、「存在の窮極の太古の源に彼等は直接つながっている」とも。(「露西亜文学」) “おお夜の海よ、お前は何と美しいことか!
ここは燦々と輝き、かしこは暗く濃藍色、
月光を身に浴びて、海は生きもののように
歩み、呼吸し、きらめいている。
涯て知らぬ自由のひろがりの上に
閃々と光り、たゆたい、遠雷のごとくどよみ轟く
縹渺たる月光を全身に浴びた海よ、
人気ない夜の世界に、お前はなんと素晴らしいことか。
巨大なるうねりよ、海のうねりよ
お前はそんなにして誰の祭日を祝つているのか。
浪は轟き輝きつつ寄せて来る。
目ざとい星達が空にまたたいている。
この動揺のさなかに、この煌燿(きらめき)のさなかに、
夢みるごとく茫然と私は立ちつくす。
ああ如何に心地よいことであろうか
この魅惑の中に魂を沈め盡すことができたなら”
― チュチェフ 「無題」 1865年作 (井筒俊彦「ロシア的人間」9章) ハイデガーをやった先にロシアをやるというのも正しい 郵便的(デリダ)→存在論的(ハイデガー)→原初的(ロシア) とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
05I43 『享楽社会論 現代ラカン派の展開』 (2018/03/10)
松本卓也
まえがき
1 ラカン派にとって現代とはなにか?
2 本書の構成
第T部 理論
第一章 現代ラカン派の見取り図
――ジャック=アラン・ミレールの議論を中心に
1 近代精神医学から精神分析へ
2 象徴界の衰退と〈父〉の複数化
3 臨床形態の問いなおし――普通精神病と自閉症
4 セクシュアリティの変化――「露出」と「依存症」
5 症状からサントームへ
6 無意識から遠く離れて――無意識と話存在
7 脚立――昇華の新しいパラダイム
8 男性側の式から女性側の式へ
第二章 4(+1)つのディスクールについて
――マルクスから資本主義のディスクールへ
1 ディスクールとはなにか?
2 剰余価値と剰余享楽
3 剰余享楽の袋小路――「六八年五月」と対峙するラカン
4 四つのディスクール
5 資本主義のディスクール
6 現代の「うつ」と資本主義のディスクール 第三章 性別化の式について
――キルケゴールはいかにして男性側の式のリミットを超えたのか?
1 キルケゴールの愛は宮廷愛だったのか?
2 〈物〉とシニフィアン、そして不安
3 ふたたび『アンコール』へ
4 『愛のわざ』のラカン的読解
5 例外を空想するのではなく、例外になること
第U部 臨床
第四章 DSMは何を排除したのか?
――ラカン派精神分析と科学
1 「意図せざる結果」
2 DSMによる神経症の消滅
3 主体を排除するものとしての「科学」
4 現代精神医学の彼岸
第五章 現代の病としての「うつ」
――「現勢神経症」と資本主義のディスクール
1 デプレッションとメランコリーをめぐる精神医学史
2 フロイトにおけるデプレッションとメランコリー
3 神経衰弱/現勢神経症の復権
4 欲動の処理不全と「資本主義のディスクール」
5 デプレッションの神学??ラカンのデプレッション論
6 デプレッションの表象文化論?
7 現勢神経症の復権に向けて 第六章 「恥の死滅」としての現代
――羞恥の構造を読む
1 「恥」と眼差し
2 視線と羞恥の構造
3 対人恐怖
4 窃視症
5 露出症
6 眼差しのラカン的存在論――存在論は「恥在論」である
7 現代における「恥の死滅」
第七章 自閉症をめぐるフランス的問題
1 時代遅れの精神分析?
2 「壁」についての反応と「精神分析禁止法案」
3 ラカン派の自閉症研究
第V部 政治
第八章 レイシズム2・0?
――現代ラカン派の集団心理学1
1 ヘイトスピーチのめざめ
2 二つのレイシズム論
3 フロイトの症状
4 「集団心理学」を再考する
5 レイシズムにおける〈父〉と享楽の病理
6 精神分析はレイシズムに対して何ができるのか 第九章 享楽の政治
――現代ラカン派の集団心理学2
1 「享楽の政治」について
2 「法は法である」――象徴界のフラットな使用に潜む享楽
3 集団的同一化における享楽の動員
4 〈父の名〉の秩序から「鉄の秩序」へ
第一○章 ラカン的政治のために
1 否認の主体とシニシズム的空想
2 シニシズムを横断する
3 大文字の「否」から肯定性へ
4 ラカンと政治理論
5 大学のディスクールから分析家のディスクールへ
あとがき
参考文献 ラカンの哲学 哲学の実践としての精神分析 (講談社選書メチエ)
荒谷 大輔 (著)
出版社: 講談社 (2018/3/11) 千葉雅也 × 東浩紀
ゲンロンカフェ@VOLVO STUDIO AOYAMA#5モノに魂は宿るか──実在論の最前線
http://genron-cafe.jp/event/20180325/
特別配信 2018/03/25 [Sun] 19:00 〜 21:30(開場18:30) 『現代詩手帖』 2018年3月号
◎【特集】詩と哲学――新たなヴィジョンへ
◎対談 星野太+佐藤雄一
◎論考 細見和之、山内功一郎、小笠原鳥類
◎作品 野村喜和夫、千葉雅也
ほか グレアム・ハーマンの最近
・「オブジェクトへの道」
『現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018』
・「大陸系実在論の未来――ハイデガーの四方界」
『現代思想 2018年2月臨時増刊号 特集=ハイデガー-黒ノート・存在と時間・技術への問い-』
・「現象学のホラーについて――ラヴクラフトとフッサール」
『ユリイカ 2018年2月号 特集=クトゥルー神話の世界 -ラヴクラフト、TRGP、恐怖の哲学-』 “四方界こそハイデガーの最高の発見” ― ハーマン
クライン管にも例えられるハイデガーの存在論と、
ハーマンの四方界分析を組み合わせると、
立体マンダラのような話になる。 マルクス・ガブリエル 『なぜ世界は存在しないのか』 (2018/1/13) 『宗教哲学入門』 量義治、講談社学術文庫 (2008)
井筒がやっていた様なこと。
仏教、キリスト教、イスラム教から宗教批判まで、
統一された哲学用語で相対化して通観する一冊。 >>37
欧州人ならハックとは言わないで“ピュシス(=自然神)と言うのかな。 強いて言うなら、アレーテイア(真理)では。
アレテイアは認識の問題であり、その先にある真理。 宗教は神を求めるものであったのが、
いつからか、その中心で真理を求めるようになった。 美しいことだな。神を求めるまでがね。きっと手に入らないだろう。 “わたしは、哲学の唯一の任務とは怪奇実在論(weird realism)であると提案したい。
哲学は実在論的でなければならない。
というのも、その使命は世界そのものの構造を解き明かすことにあるからだ。
“カントが示すアクセス不可能な本体的(ヌーメナル)世界と、
ラヴクラフトが描く怪物たちの謎めいた透明性は、
完全に一致するように思われる。”
“ところが新の実在論は、事物があらゆる関係から切り離されているのだと考えることを要求する。
そこで唯一の解決策として、実在論の風景を、
具体的な対象と現象から切り替えることになってしまうのだ。
その結果、実体を欠いたアトラクターや位相不変量(topological invariant)といった、
さまざまな潜在的存在者が登場することになる。”
“[潜在的なものの哲学による]こうした一歩が見逃してしまうのは、
具体的な対象(実在的であれ現象的であれ)が有する忌まわしい怪奇さである。”
― グレアム・ハーマン「現象学のホラーについて――ラヴクラフトとフッサール」 井上円了(1853-1919)の妖怪学と近い。
> 円了は『妖怪学』『妖怪学講義』などでそれぞれの妖怪についての考察を深め、
> 当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、
> 自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、
> 誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、
> 人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類し、
> 例えば仮怪を研究することは自然科学を解明することであると考え、
> 妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えに至った。 ハーマンは色物に見られがちだが、
中世イスラム哲学の機会原因論から、
スコラ学〜ハイデガーまでの伝統を踏まえている。 >>65
ポストモダン→思弁的実在論の動向について、
本を読んでいるだけでは知り得ない話をしていたから面白かったね。
初心者にも分かりやすいし、
何冊か読むより、これを観た方が早いだろう。 ポストモダンの相対主義が実在論化されつつあることの懸念とか ・『人新世の哲学: 思弁的実在論以後の「人間の条件」』篠原雅武 (2018/1/22)
一万年に及んだ完新世が終わり、新たな時代が始まっている。
環境、物質、人間ならざるものたちとの共存とは何か。
メイヤスー、ハーマン、デランダ、モートン、チャクラバルティ、アーレントなどを手掛かりに探る壮大な試み。
・『現代思想 2017年12月号 人新世 ―地質年代が示す人類と地球の未来―』 (2017/11/27)
さまざまな場所で議論を巻き起こしている「人新世」。その可能性の中心に迫る。
ノーベル化学賞受賞者P・クルッツェンが提唱した「人新世」とは、
人間の活動による環境の変動によって新たな地質学的時代が始まったという仮説である。
地球という惑星のなかで人間はいかなる位置を占めているのか。
そして環境システムの全地球的・不可逆的転換という超巨視的なスケールの変化に
私たちはいかに向きあうことができるのか。
目次*
【論考/エッセイ】
中村桂子/水口憲哉/有賀暢迪/大村敬一/
奥野克巳/北野圭介+飯田麻結+依田富子/桑田学/斎藤幸平/
篠原雅武/林竜馬/原島大輔/C・イェンセン/
D・ハラウェイ/T・モートン/A・マルム+A・ホアンボー/B・ラトゥール… クリステヴァがブルガリア諜報機関に協力していた諜報員だったという疑惑
があるけど、それを言ったら、米国のクワインも元諜報員だし、英国の
ダメットも元諜報員で、常識として知られていることだけれど、郵便局の
職員とかじゃないのだから、一度諜報員になったら生涯諜報員でしょ。
ブルガリアはソ連が崩壊し、西側につくことになって体制転換したから、
(元)諜報員であったという疑惑が持ち上がるわけで、そもそも体制の転換が
ない西側諸国の諜報員やその協力者に関しては、「元」ということが
問題にならない。 で、諜報機関が同盟国に対してもスパイ行為を行うのが当たり前であることは、
近年の報道で大々的に暴露されたとおり。 私は、諜報員やその協力者でない人間の方が例外ではないかと思っている。
これは別に私が自己弁護しなければならない理由があって、そう言っている
わけではない。大抵の人間は、人付き合いがあり、それなりに組織に参加して
いるので、諜報機関には組織のメンバーとして、または協力者として利用する
価値があるが、私のように人付き合いもなく、組織にも属さず、ハッキング
のような特殊な技能があるわけでもない人間は、勝手に振る舞うので、
諜報機関の活動のためには邪魔でしかない。 が、無限と有限の世界なんてロマンチスト過ぎるから反省していたようですね。 ナルシストにも満たないオフサイド。ワンタッチ以下のほうが。 スパイク性のボレーも退屈な差異と反復ボケでしょうね。 無能であることには、少なくとも人に利用されにくいという利点がある 荒野といわば、許されざる者とか?荒らす企図がおかしい。 クリントヌ ウエスト チタン。治安治水下水が下界のノリより。 山家集とか金槐和歌集を手にいるる意味はないけどね。所詮集だものね。 学術って統失レベルで言ったら板トップだな
コーヒーも相当酷いが、まだ本人の発言だけを見れば
一応それなりの統一性がある
だがこの学術とかいうのはそれすらない
かなりの重症 まぁ、日常レベルでもこういう手合はちょくちょく見かけるからネットなら特段珍しくもないがな >>77
おもしろそう
まずはラヴクラフトから読んでみるか 術策 をふるう 法術とかね、隠してるわけ、
それでね、男は古典の綴り、詩学、字韻 とかが大事でしょ。
ま、重症なのは女性かな?三重苦も四日市とか、時代によって
変遷がありますよ。重役出勤、役員報酬のほうが言いわけじゃ?
症状 より賞金、ジイド贋金づくりじゃないけれど。 哄笑とか 企図が立てられないとか、わかるでしょ?
戦死の文学部哲学科的空間時間意識とか、
祖国のために、一国セリつぶしたジャンヌであれ、
カイエ のヴェイユであれ、死後だからタイプを希少に打てるわけじゃないか? 厄年でも日本じゃいられない
。でも、空の便も神戸はレアチーズよりいいしね
人事も、総合的判断も待ちだな。 震災復興も敷居が高いけど、外貨獲得には
賃金請求権というのがある。一番★ね。 エイジアンオールスターやら、ワンスター のスターマン性もいいけどさ。
クツだって、動物とか生物のためには、必要だろうね。
職工人気質の、階級が、マルクスを葬り去ったことも度々あるわな。 ダン・ブラウン
『オリジン』 (2018/2/28)
スペインが舞台で、AIと人類の起源がテーマ。「我々はどこから来たのか、どこへ行くのか」。 >>79
> 中世イスラム哲学の機会原因論
これはガザーリー。
>>126にも出てくる。
日本人にはピンとこないところ。 ジョルジョ・アガンベン
『バートルビー 偶然性について』 (2005)
ドゥルーズと偶然性。キリスト教神学とイスラム神学。1993年の本。 >>65
千葉雅也×東浩紀
「神は偶然にやって来る ― 思弁的実在論の展開について」 『ゲンロン2』 (2016)
メイヤスー『有限性の後で』の解説としては、一番丁寧で詳しかった。
さて、メイヤスーは保守か?革新か? 中沢新一×東浩紀
「原発事故のあと、哲学は可能か」 『新潮 2014年9月号』
"「アジア」の脱構築へ"。言語起源論から、アジア環太平洋哲学の未来像まで。 その時代にあって、程々に不便で不満でありつつ、程々の満足もある
ポストモダンの幻想を諦め気味のシラケ目線でありつつも、同時に希望も抱ける社会構造こそが幸せな時代でもある
要はバランスが重要ってことだな >>131
いや、違う
俺にはアデランスが重要
バランスなどよりも
お前達よ 糞つまらんバランス取りにはなるな 《おさらい》
・カンタン・メイヤスー 『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』 (2016/1/23)
・グレアム・ハーマン 『四方対象:オブジェクト指向存在論入門』 (2017/9/26)
・マルクス・ガブリエル 『なぜ世界は存在しないのか』 (2018/1/13)
これぐらいは読んでおくのがいい。 >>133
『有限性の後で』は、ドゥルーズ/デリダ/ハイデガーの様なジャーゴンがないから誰でも読み始められる。
最優先。 >>133
『四方対象』は新しい実在論や存在論の傾向をうまく整理している。
下敷きにしたハイデガーの「四方界」は、哲学史の重要な分岐点になった。
詳しくはハイデガースレでも。
マルティン・ハイデガー5
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1468060350/431- >>133
《マルクス・ガブリエルの新実在論》
アスリートさんがソレントにいて、ヴェズーヴィオ山を見ているちょうどそのときに、
わたしたち(この話をしているわたしと、それを読んでいるあなた)はナポリにいて、
同じヴェズーヴィオ山を見ているとします。
その時、存在しているものは以下。
(1)ヴェズーヴィオ山
(2)ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)
(3)ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)
(4)ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)
形而上学の場合
・(1)のみが存在する
構築主義の場合
・(2)、(3)、(4)のみが存在する
・(1)は存在しないか不可知
新実在論の場合
・(1)も(2)も(3)も(4)も存在する
・(1)は不可知でない
〜『なぜ世界は存在しないのか』(2018)p13-17 >>137
半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考
「実在論ブーム」を読み解く
千葉 雅也
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54371
> ガブリエルは、自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だという(広く支持されている)立場に否を突きつける。
> そうした科学主義は、特定の「意味の場」を特権化しているからだ。
> 非科学的な実在性もあるし、ファンタジー的な実在性もある… >>138
相変わらず(?)、言葉に振り回されてるんだねw 「自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だという立場」が「広く支持されている」かどうかは
大いに疑問の余地があるな。例えば経済学は「実在にアクセス」した研究分野なのであろうか。 >>140
実在という言葉の概念を問題にしているのに、実在を前提とした議論をするという、循環論法なんじゃない? 実在論の規制緩和だね。
「月の裏面に棲んでいる一角獣でさえ存在する」というのだから。 >>137
ガブリエルのロジックは、
「世界は存在しない」が、「世界以外のすべては存在する」というもの。
ここでの「世界」とは、人もリンゴも地球も宇宙も全てを包摂する対象領域のことで、
説明には、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の第一テーゼ「世界とは、成立していることがらの総体である」や、
ジジェクの『無以下』が参照されている。
Slavoj Žižek, Less Than Nothing: Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism, 2012 乱暴な議論だなあ。ヴィトゲンシュタイン。世界の王になったつもりでも
失敗未遂。 >>147
そのことを『なぜ世界は存在しないのか』というタイトルにして、
本一冊使って、色々な角度から何度にも渡って説明しているのだけどね。
例えば、>>143にある様な、互いに連関をなして一個の全体を形づくっている「世界」というものを見たことがあるかな?
その端から端までを見渡せるかな? >>137
ウィトゲンシュタイン/ハイデガー/ガブリエル
・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の「世界」(p52)
“1 世界とは、成立していることがらの総体である。
1.1 世界は事実の総体であって、物の総体ではない。”
・ハイデガーの「世界」(p69)
“世界とは、物の総体でも事実の総体でもなく、存在するすべての領域がそのなかに現れてくる領域のことです。
存在するすべての領域は、世界に含まれている。
マルティン・ハイデガーが適切に定式化したように、世界とは「すべての領域の領域」にほかなりません。”
・ガブリエルの「意味の場の存在論」(p292-293)
“いかなるものも、何らかの意味の場に現象するからこそ存在する。
そのさい、全てを包摂する意味の場(=世界)が存在しえない以上、限りになく数多くの意味の場が存在するほかない。” >>148
すべて言葉の定義の問題。
定義をせずに、実在だの存在だの世界だの意味だのと言っても、無意味だろ? ハーマンやガブリエルも読んでみると、メイヤスーはラディカルな分、硬いところがある。 表象と実在の関係
分離型
・カント(表象主義)
・ハイデガー(表象主義)
・メイヤスー(表象主義批判)
一致型
・仏教密教(表象と実在の一致)
・道元(一致させたものの反転)
・京都学派(現象即実在論)
・ハッラージュ(アナ・ル・ハック(われは真理なり))
棲み分け・共存型
・ハーマン
・ガブリエル
アクセス型
・ハイデガー(抹消記号、四方界)
・デリダ(痕跡)
・ドゥルーズ(リーニュ(線)) >>153
> 分離型
メイヤスーは、表象主義を批判。分離された実在に注目する一方、受け手は消去した。
> 一致型
密教は、表象と実在の分離を認めつつ、その両者の一致を行ってきた。
道元に至っては、「諸法は実相」を「実相は諸法」と反転させる。人々の求める真実とは、経験的世界の諸現象そのものに他ならないと。
> 棲み分け・共存型
ハーマンとガブリエルは、様々なレベルの実在や対象の棲み分け・共存を認める。
> アクセス型
これらは密教。 密教/絶対的一元論
“絶対的一元論の哲学的立場を実践的に把握するためには顕教的立場を超えて、密教的な修法が要求されるのである。
たとえぽギリシャにおいてもオルフェウス教の密儀や新プラトン派では哲学思想が神秘の秘儀にまで高められる。
中観派の般若思想が密教にまで進むのも、思想史の必然的な発展と見られる。”
『インド思想史から見た真言密教 (文部省科學研究費綜合研究成果特輯號二)』 (1957)
渡辺照宏
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chisangakuho/6/0/6_KJ00009415323/_pdf/-char/ja グレアム・ハーマン(Graham Harman、1968年5月9日 - )
[和訳]岡嶋隆佑監訳、山下智弘、鈴木優花、石井雅巳訳『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』人文書院、2017年。
クァンタン・メイヤスー(Quentin Meillassoux, 1967年 - )
[和訳]千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳『有限性の後で』人文書院、2016年
カトリーヌ・マラブー(Catherine Malabou、1959年 - )
明日の前に
カトリーヌ マラブー (著), 平野 徹 (翻訳)
出版社: 人文書院 (2018/6/26) 表象主義の二面的構造は、真理の「隠れと顕れ」として以下のように辿ることができる。
ハイデガー → ソシュール → カント → ルター → キリスト教 → ギリシャ語の真理「アレーテイア」 ルター「ハイデルベルク討論」における解体/構築
<解説>
「ハイデルベルク討論」の終わりのところで「十字架の神学」が隠れたる神の逆説として展開する。
ルターによるとキリストにおいて自己を啓示する神、つまり顕れた神は、もっとも深く自身を隠している神である。
(略)キリストは苦難と十字架というローマの極刑に付けられた、見るかげもない哀れな姿において自己自身をあらわす。
<本文>
(19)神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない[ローマ 1:20]。
(20)だが神の見える本質と神のうしろ[出エジプト 33:23]とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。
[独語] Die Heidelberger Disputation
http://www.reformatorischeschriften.de/Hddisp/hddisput.html
[英語] The Heidelberg Disputation
http://www.catchpenny.org/heidel.html
解説…『ルター神学討論集』 マルティン・ルター、金子晴勇 (2010)
本文…『ルター著作選集』 マルティン・ルター、徳善義和ほか (2012) ルターはギリシャ的スコラ神学を解体し、原始キリスト教的性格を洗い出した。 >>163
デリダの脱構築(déconstruction) → ハイデガーの解体(Destruktion) → ルターの解体(destructio)
の経緯については、以下が詳しい。
・宮ア裕助 「プロト脱構築について――ルター、ハイデガー、デリダ」
『現代思想 2018年2月臨時増刊号 総特集=ハイデガー -黒ノート・存在と時間・技術への問い-』
・茂牧人 「なぜ日本にキリスト教哲学が必要なのか」 (2009)
https://serve.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=49&block_id=42&item_id=1245&item_no=1
ハイデガーとルター “わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵”
― 新約聖書 「コリントの信徒への手紙1」 2:7
聖書に書かれた言葉の様態 “「真理」という語は、ギリシア人のもとでは或る否定を伴っている、
すなわちア-レーテイア<ἀ-λήθεια>――
非-覆蔵性、覆蔵されて-いないこと、である。”
― 『ハイデッガー全集 55 ヘラクレイトス』 p110
真理=隠されていないこと “自然(ピュシス)は隠れることを好む”
― ヘラクレイトス 断片123
ピュシス [physis]
〔哲〕 〔自然の意〕 単に物質的な自然でなく、生ける霊にみちた能動的・有機的なもの。
ギリシャ哲学の最初の主題となった。(大辞林 第三版) “「オカルト」という語は、けっきょくのところ、「未知なるもの」、隠されているものを意味するのだ。”
― コリン・ウィルソン 『オカルト』 (1985)
オカルト [occult]
神秘的なこと。超自然的なさま。(広辞苑第五版)
ラテン語: occulere の過去分詞 occulta(隠されたもの)を語源とする。 デリダによる「現前の形而上学批判」も、「ロゴス中心主義批判」もここまでを踏まえたものだった。
デリダは>>162の先に、フロイト経由で、古代エジプトの象形文字(ヒエログリフ)を接続する。 井筒や書家の石川九楊は、デリダを引き合いに、
ソシュールの言語学が、日常的な音声言語を中心とした表層言語を扱うものであることを指摘し、
書字や深層言語による意味作用の重要性を説いた。 更に、ここまでを踏まえて、メイヤスーは「祖先以前性」にまで遡った。 『有限性の後で』が邦訳されて2年も経つのに、
未だに読みもしないで、数学の話だとかいっている人達がいるから
説明しているんだよ。 実際、これを読まないと21世紀の哲学に参入できないというところもある。 参入できないところもあるじゃなくて、参入できない。と断定してくれよ >>181
自分だけが理解している、かw
まあ、自分の道を進みなよ。
文系排除の現在、哲学で仕事にありつくのは無理だろうが、自己満足にはなるんだろう。
現実と触れ合わなければ、自己満足を持ち続けるのは簡単だ。 なんか一冊読んで全てを知ったつもりに浸ってるんだろうな
俺にもそういう時代がありました >>162
> 498 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2018/06/04(月) 23:21:39.22 0
> “既にこの太古の神性Ἀφαία(アパイア)
> - 現われざるもの、現われることから身を引くもの、逃れつつ現われ出でるもの -
> それがアレーテイアの謂うところを名指している。”
>
> ― 『ハイデッガー全集 75 ヘルダーリンに寄せて』 p279
> 499 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2018/06/04(月) 23:41:35.14 0
> 「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という、あの根源的な振る舞い
浅田の場合は、自然の秩序たるピュシスから
ズレはみ出すところの人間性・社会性を扱ったのではあるが 『構造と力 ―記号論を超えて』 浅田彰 (1983)
ポスト構造主義についての見立ては、今もこの頃から大きくは変わっていない 文系は排除じゃなくて理系に先んじて人員を絞っているんですよ。
だぶついた低ラン 中ラン 上位中らんぐらいまでを理系は背負っていってくださいね。 >>138の引用
> ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。
> ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。
> それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。 >>165の宮ア「プロト脱構築について――ルター、ハイデガー、デリダ」は、
ハイデガー論としてもデリダ論としても新しい。 ルターにしても、ハイデガーにしても、デリダにしてもだが、
古典を遡行し、テクストを読む中に自己解体をやったのだということ。
自己が属する歴史や意識の。 ゲームやってるキモータにとって植民地ってなんなんだ >>189
ハイデガー『存在と時間』
“存在問題そのもののために
それ自身の歴史に透明な見通しをつけることが
われわれの課題なのであるから、
固定化した伝統を解きほごして、
その伝統が生みだしてきた蔽塞状態を解消することが必要となる。
この課題をわれわれは、存在問題を手びきとして、
古代的存在論の伝承的形態を解体し、
かつて存在の最初の ―そしてそれ以来主導的となった― 諸規定が
そこで得られた根源的諸経験へひきもどす
解体作業(Destruktion)という意味でうけとる。”
― (序論2-6節) 細谷訳 >>189
デリダ「〈解体構築〉DÉCONSTRUCTIONとは何か」
> Déconstruction:déconstruireする〔解体して組み立てる〕行為。
> 文法用語。文のなかの諸語が構成しているものを、順序を崩して並びかえること。
> dé-は、破壊というよりもむしろ系統学的遡行を意味し得る
> 諸構造を壊し、分解し、その沈殿物を浮かび上がらせること
『井筒俊彦 言語の根源と哲学の発生』 〈KAWADE道の手帖〉 (2014)所収 真理(アレーテイア)モデルは古くからあるが、
さもすると、事物の陰に、来るべき真理の到来を
待ち続けることになる。メシア思想や真の革命などもそう。
だから、デリダはそれを反転させた。
自分の書くところ「エクリチュール」こそが世界であると。 この点で、デリダ>>194は道元>>154と似ている 「メシアニズムなきメシア的なもの」池田信夫 blog(抜粋)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301271.html
> デリダは『マルクスの亡霊たち』の中で、
> メシアニズム(messianisme)とメシア的なもの(le messianique)という区別を導入した。
> これは彼独特のわかりにくい用語法だが、簡単にいうと
> メシアニズムというのはキリスト教のように特定の目的をもつ積極的な救済、
> メシア的なものというのは「今とは違う状態」を求める否定的な救済である。
> いうまでもなくデリダが依拠するのは後者で、その観点からマルクスのメシアニズムを批判する。 >>187
特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護することによってファシズムに居場所を提供しているからファシズム擁護だとも考えられるけどどうなんだろ
戦う民主主義は明らかに特権的な意味の場の覇権の上に成り立ってると思うけど >>194
>>196
マルクス自身は救済を待つべきだと言ってないよね
むしろ立ち上がれと言ったよね
その点においてはメシア的だと思うけど >>197
フッサールは現象学的還元。
ガブリエルは存在論的還元。
悪だけでなく、正しいと思われているものも検証されなければならない。
自分にとって正しいものが、他者にとって悪であることもある。
「世界はない」とすることで、そういう超越的な審級を支える壁を取り払った。
現実的な判断をするプロセスもあるよ。 >>199
ガブリエルの哲学をファシズム批判戦後ドイツの歩みとして位置付けることに対する疑問とそれがなんの関係がある? >>199
現象学的還元というのは、事象のすべてを人間の認識から隔離すること、だろ?
存在論的還元て、なに? >>201
『なぜ世界は存在しないのか』p58-59 ハイデガーも、デリダも、廣松も、
それぞれに二項対立の乗り越えを課題としていた。
それに対し、ここしばらくの間で、明確な答えを示したのはメイヤスー。 >>153を整理すると
分離型
・主客の分離
・二元論
・客観的
一致型
・主客の一致
・一元論
・主観的 二元論と三元論という見方もある。
記号学と記号論の違いなど。
◇ソシュール
記号学(semiology)
・シニフィアン 記号表現
・シニフィエ 記号内容
◇パース
記号論(semiotics)
・アイコン 類似記号、表象作用
・インデックス 指標記号、指示作用
・シンボル 象徴記号、象徴作用 ノスとエーコによる<ソシュール>二元論と<パース>三元論の対応関係
「バビロンの混乱」を解決するためにソシュールとパースの統合を図ろうと考えたのはノスとエーコである。
彼らは上図のような二元論と三元論の対応関係を図示している。
この図から判ることは、以下の三つである。
(1)ソシュールの「シニフィアン」はパースの「記号表現(表意体)」に対応する。
(2)ソシュールの記号モデルにはパースの「対象」は含まれない。
(3)ソシュールの「シニフィエ」はパースの「解釈項」に対応する。
〜『記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然』 田中久美子 (2010) p38
<ソシュール> <パース>
シニフィアン … 表意体\
対象
シニフィエ … 解釈項/ ドゥルーズ/ガタリのポスト・シニフィアン的記号論
シニフィアンの記号学
・形式 ○
・実質 ○
・素材 ×
非シニフィアン的記号論
・形式 ○
・実質 ○
・素材 ○ >>171
“われわれは論及の範囲を,表音文字体系に,そしてとくに現今通用のもの,
すなわちギリシャ字母をその原型とするものに,局限しておく.”
― ソシュール 『一般言語学講義』 小林英夫訳 (1972)6章
ソシュールは間違っておらず、表意文字である漢字にも言及し、それらは第二の言語であるとまで言っている。
日本人などが別途考えなければならない問題。 記号論が注目され、話題にものぼるが、今一整理がされない。 >>203
二項対立を哲学の重要な仕事と捉える時点で
二項対立の罠に嵌っている 一元論、二元論、三元論のどれが良い悪いというのではなく、
見方を変えることによって、それぞれの死角を克服しなければならないし、
そうした方法を一つでも多く持つべきだということ。 二項対立の具体的で身近な例には、政治の問題もある。
多数決、二大政党制、弁証法的発展の限界etc フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』(1992)とした東西冷戦終結の先に、
そのどちらとも違う経済・社会モデルを持って立ち現れてきたのがイスラム世界であり、
その様にして21世紀は幕を開けた。 【イスラム哲学】井筒俊彦を読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1495629112/426
426 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2018/06/12(火) 21:58:03.78 0
井筒俊彦は
ジャック・デリダから
「マエストロ(巨匠)」って呼ばれていたんだよな
日本ではなく
欧米で生まれていれば
「間違いなく世界思想史に残る存在になったはず」ともデリダは言っていた 『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』 斎藤慶典 (2018/2/11)
序 章 井筒「東洋」哲学
「東洋」哲学/井筒「東洋」哲学は何を目指しているのか
第1章 表層/深層
a)表層から深層へ
コトバ/深層における分節化/分節化されたものから分節以前のものへ/事事無礙
b)深層から表層へ
理理無礙/分節(1)―「無」―分節(2)/挙体性起/存在の階層性/基付け関係/有力・無力
c)大地と理性――ロシア的人間
ロシアの一九世紀/原始的自然/『コサック』/ドストエフスキー
第2章 空/無
a)「空」の徹底
理理無礙/神の彼方/〈無分節な「ある」〉への反転/「存在」の破れ
b)空と無
『大乗起信論』におけるアラヤ識/ユダヤ教カッバーラー/バスターミーの「欺瞞」論/思考の無能力
c)砂漠と死――ジャック・デリダ
ユダヤとギリシアの狭間で/砂漠における彷徨/墓場、あるいは死
第3章 〈いま・ここで=現に〉
a)「本質(マーヒーヤ)と「存在(フウィーヤ)」
「存在は本質の偶有である」/有「本質」か、無「本質」か/フウィーヤ・マーヒーヤ・タビーア/有「本質」論の三つの型/
イスラーム「原子論」/無「本質」的存在分節/元型とイマージュ/意識と存在の構造モデル/「概念実在論」
b)〈いま・ここで=現に〉
「存在」の「独一性」/創造不断/吾有時/「純粋な可能性」としての「無」/証言
c)「入てん垂手」
聖諦と俗諦/俗、あるいは町という共同体/「無」の共同体 『石川九楊著作集(全12巻)』 (2016-)
1巻:見失った手 状況論
2巻:日本の文字 文字論
3巻:日本語とはどういう言語か 言語論
4巻:二重言語国家・日本 国家論
5巻:漢字がつくった東アジア 東アジア論
6巻:書とはどういう芸術か 書論
7巻:筆触の構造 書字論
8巻:書の風景 作品論
9巻:書の宇宙 書史論
別巻1:完本・一日一書
別巻2:中国書史
別巻3:遠望の地平 未収録論考 >>208
デリダもこういうところをヒントにロゴス中心主義を批判。
「書き言葉>話し言葉」という転倒を行った。 哲学にしても仏教にしても、今のフェーズはポスト神秘主義だが 漢字・象形文字などの表意文字と、アルファベットなどの表音文字の比較については、
デリダ、ヘーゲル、ライプニッツなどが考察をしている >>202
答えになってないよw
まるで見当違い。 秋満吉彦@akiman55
みなみしまさんが、マルクス・ガブリエルさん×國分功一郎さんの対談の主な内容を連続ツイートしてくれてます。
後日、朝日新聞に載るらしいけど(ついでにNHKも撮影に来てたけど)いち早くチェックしたい人はご一読がオススメ。
6:21 - 2018年6月12日
みなみしま@muik99
https://twitter.com/muik99/status/1006475241462292480 フェルディナン・ド・ソシュール 『一般言語学講義』 各版
・Ferdinand de Saussure, Cours de linguistique generale (Publie par Charles Bailly et Albert Sechehaye, avec la collaboration de Albert Riedlinger, Edition critique preparee par Tullio De Mauro), Paris, Payot, 1972
・『一般言語学講義』 小林英夫訳 (1972)
・『「ソシュール一般言語学講義」校注』 トウリオ・デ・マウロ、山内貴美夫訳 (1976)
・『一般言語学講義抄』 菅田茂昭訳 (2013)
・『新訳 ソシュール 一般言語学講義』 町田健訳 (2016)
・『ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート』 影浦峡、田中久美子訳 (2007)
・『一般言語学第一回講義―リードランジェによる講義記録』 小松英輔編 (2008)
・『一般言語学第二回講義―リードランジェ/パトワによる講義記』 小松英輔編 (2006)
・『一般言語学第三回講義―コンスタンタンによる講義記録+ソシュールの自筆講義メモ』 小松英輔編 (2009) チャールズ・サンダース・パース
・『パース著作集 1 Peirce 1839‐1914 現象学』 パース (1985)
・『パース著作集 2 Peirce 1839‐1914 記号学』 パース (1985)
・『パース著作集 3 Peirce 1839‐1914 形而上学』 パース (1985)
・『プラグマティズム古典集成:パース、ジェイムズ、デューイ』 植木豊訳 (2014)
・『連続性の哲学』 パース (2001) 非シニフィアン(A-signifiant)
“非シニフィアン的記号論。
これはシニフィアンの記号学とは区別されなければならない。
ここで問題となるのは要するにポスト・シニフィアン的記号論である。
非シニフィアンの記号論というのは、たとえば意味作用を生産する使命をおびていない
数学的記号の機械とか、科学的、音楽的、芸術的といったような類の技術−記号的複合体とか、
あるいはまた分析的な革命機械といったもののことであるといってよい。”
その他、非記号論的コード化、発生論的コード化、意味形成の記号学、前シニフィアン的記号学
― ドゥルーズ/ガタリ 『政治と精神分析』 (1994)
非シニフィアン的記号論の例に挙げられるのは
・音楽のエクリチュール
・数学のコーパス
・情報科学やロボット工学のシンタックス
など
― ガタリ 『闘走機械』 (1996) “言語を本源から超越する内的な体験を伝達するためには、
言葉を使わざるをえないので、ここに理解しがたい矛盾が生ずるのです。(鈴木大拙)
言葉の問題はまことに深刻である。
どうにかして原子の構造について語りたいと思うのだが…
通常の言語では原子の世界を語ることは不可能だ。(W・ハイゼンベルク)”
― フリッチョフ・カプラ 『タオ自然学』 3.言語の彼岸 (1979) >>227
メイヤスーが言語を回避したことは、科学のこうした具体的な問題からの要請でもあっただろう エティエンヌ・ジルソン 『存在と本質』 (仏1948/1981)
“理性は自分から由来しないものを説明するのに、唯一の手段しか持たない。
即ちそれを無に帰することである。(E・メイエルソン『相対論の演繹』)”
“偶然的実在を特別に把握することは、存続し、持続する根本的不可知性について、
めまいのするような経験をあえてすることに止まらない。
それはたえず実在を、それ自身の無から湧出させるように強いることである。
無からの真の創造はその時不可避になる。” 最新の哲学モデルを巡って、「否定神学の乗り越え」という話がよく出て来るが、
ちゃんと自分で読んだことはあるだろうか? デリダ『名を救う―否定神学をめぐる複数の声』訳者コメントより
デリダは病床の母親ジョルジェットをニースで看病した際に、本書『名を救う』を執筆しました。
深刻な病のため、息子の名さえ忘れるほど記憶を喪失していた母を前にして、
彼はシレジウスの否定神学的なテクストに親近感を抱くようになったと告白します。 “神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”
“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”
“神は無であり、すべてである。(197)”
― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992) >>234
「否定神学」という言葉のどの文字が読めなかったのか? “思惟を超えた一はいかなる思惟によっても思惟されない。
言葉を超えた善はいかなる言葉によっても語られない。
それはすべての単一者を一にする単一、
存在を超えた存在、
非知的知性、
語られざるロゴス。
非言語、非知性、非名称。
いかなる存在者として在るものでもない。”
― ディオニシオス・アレオパギテース 「神名論」 1:1:7 『キリスト教神秘主義著作集 1』 (1992) >>236
もう一人、否定神学として知られる、
5-6世紀シリアの神学者、いわゆる偽ディオニュシオス。 意味がある、ことを存在するに置き換える
ってことを哲学内の技術でやっても
その凄さがわからない
物理的に存在することと私が見ている、
の意味は質的に違う事柄だよ
地球が球体であることと
地球が三角説に見えるやつがいることは
意味としては両方存在するけど
だからなんなのとなる
いわんや民主主義とは無関係 >>238
たしかに、哲学の大半は主観と客観の混同か、言葉の誤用。 目という器官がある生物の総体を
考えるとその個体数だけ見えている世界がある
ネズミとかトンボとか
これはそれぞれに意味があるといえる
これを「存在」と言い換えたいひとが
いたとして、言い換えが理屈として
辻褄が合っていると、ファシズムに
対抗できる?
ついていけませんね 千葉雅也@masayachiba
ガブリエル千葉対談は『ニュクス』に掲載予定です。NHKのカメラも入ってたので、番組でも映るかも。
21:55 - 2018年6月15日 人文書院 @jimbunshoin
日本シェリング協会第27回大会(7/7〜8@東大本郷)/シンポジウム「新しい実在論」:「ドイツ観念論と思弁的実在論」 浅沼光樹、「オブジェクト指向哲学と三項構造 『四方対象』に見るハーマン」清水高志、「マルクス・ガブリエルと西谷啓治」橋本崇 http://schelling.sakura .ne.jp/%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0/congress%202018.html
14:22 - 2018年6月9日 「否定神学 → エックハルトの無 → ポストモダン → ドイツ観念論(シェリング) → メイヤスー」の流れ
【神学】キリスト教哲学総合スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1519227563/162-211 『福音と世界 2018年7月号 特集=クィア神学とは何か』
「クィア」な知の営み ―周縁から規範を徹底的に問い直す … 佐々木裕子
クィア神学の定義をめぐる諸問題 … 朝香知己
「イエスとクィア」から「クィアなイエス」へ ―クィア理論を用いた聖書解釈の新たな地平 … 小林昭博
教会をめぐるクィアな可能性 ―〈怒り〉の回復とその共同性に向けて … 堀江有里
これからの「せい」の話をしよう ―生なる、性なる、聖なるかな … 川江友二
*
現代に生きる主の弟子のあり方を問う ―WCCアルーシャ世界宣教伝道会議報告 … 村瀬義史
*
【連載】
地のいと低きところにホサナ7 ―福祉と施し、そしてルースの受難 … ブレイディみかこ
福音の地下水脈(アンダーグラウンド)9 … IKAZUGOKE(前編)
聖書とわたし28 責任、そして「隣人になる」こと … 國分功一郎
みことば散歩19 素顔の君でいて … 望月麻生
野に咲く民衆の神学―別所梅之助を読む4 ―儒教・うるおい・神の裁き … 森 宣雄
現代神学の冒険―新しい海図を求めて22 ―生命の神学3―環境倫理と動物倫理 … 芦名定道
レヴィナスの時間論 『時間と他者』を読む40 … 内田 樹
佐藤優のことばの履歴書52 10年を経て … 佐藤 優
詩篇の思想と信仰155 詩篇149篇 … 月本昭男
新約釈義29 第一テモテ書(5:17-25) … 辻 学
表紙画について … 八木美穂子 哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談
https://www.asahi.com/articles/ASL6L42BML6LUCLV007.html
(1)実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、
どのように民主主義を構想すればよいでしょうか
(2)立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか
(3)主権に統治は可能でしょうか。
主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか
(4)現代政治が主権の限界に直面する一方で、
主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか ガブリエルとシェリング
シェリング『世界年代』における時間哲学 (2014-10-31)
マルクス・ ガブリエル、翻訳:中島 新
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8379&file_id=22&file_no=1
新実在論とマルクス・ガブリエル─世界の不在と「事実存在」の問題─ (2016-03)
中島 新
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8549&file_id=22&file_no=1
Weltalterの研究動向とマルクス・ガブリエルのシェリング研究 (2014-10-31)
長島 隆
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8385&file_id=22&file_no=1 > シェリングの後期哲学に見られる「絶対的観念論の保留」[DMIM:2]という立場である。 『亡霊のジレンマ -思弁的唯物論の展開-』 (2018/6/22)
カンタン・メイヤスー、千葉雅也 著, 岡嶋隆佑、熊谷謙介、黒木萬代、神保夏子 訳
1 思弁的唯物論のラフスケッチ
2 潜勢力と潜在性
3 亡霊のジレンマ:来るべき喪、来るべき神
4 形而上学と科学外世界のフィクション
5 『賽の一振り』あるいは仮定の唯物論的神格化
6 減算と縮約:ドゥルーズ、内在、『物質と記憶』
「メイヤスーの哲学は、ポスト構造主義から引き継がれたテーマ、キーワードを、
人間的意味を徹底的に無化する方向へとラディカライズしている」(序文:千葉雅也)。
来たるべき神と全人類の復活を謳う表題作から、議論を呼んだマラルメ論、SF論まで。
『有限性の後で』では表れなかった、メイヤスー哲学のもう一つの相貌。 “わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵”(2:7)
“目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された”(2:9)
― 新約 「コリントの信徒への手紙1」
2:9は、「神のメッセージ」が、人智を超えたものであることを示す。
2:7では、そのように人間にとって「未知なるもの」を、「神秘」という言葉によって内蔵し、
尽きない原動力になっている。 “神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。”
― 新約 「エフェソの信徒への手紙」 1:8-9
「神のメッセージ」=「秘められた計画」を解き明かしていくのが科学だろう。
その一方で、このことはは目的論とみなされることもある。 聖書にある2種類の「言葉」
“神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。”
― 旧約 「創世記」 1:3
“初めに言(ことば=ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。”
― 新約 「ヨハネによる福音書」 1:1-2 >>253
・ヘブライ語の「ダーバール(רבד dabar)」(創世記 15:1)
・ギリシャ語の「ロゴス(λόγος logos)」(ヨハネ 1:1)
ダーバールは、動的で、働きかける特質があるのに対して、
ロゴスは、静的で、存在していることを特質とする。
特にダーバールは、創世記冒頭や言霊のような存在喚起力をイメージするといい。
(参考:『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』 トーレイフ・ボーマン (2003)) ヘブライ的「言葉」ダーバール
・前へと駆り立てる → 話す → 「言葉」 → 行為的
ギリシャ的「言葉」ロゴス
・集める、秩序 → 話す、計算する、思惟する → 「言葉」 → 理性的 ロゴスを万物の根本としたのは新約だけではない。
「パンタ・レイ(万物流転)」で知られるヘラクレイトスなども例に挙げられる。
・「理(ことわり=ロゴス)に聞いて、万物が一であることを認めるのが知」(断片50)
・「理(ことわり=ロゴス)――全体を司るもの」(断片72)
万物が流転する中に、一切を統合する理法としてロゴスを重視するものだが、
ヘラクレイトスはエペソス(トルコ西部の小アジア)出身であり、
その哲学は、非ギリシャ的であることがしばしば指摘される。 キリスト教の中心にあるロゴスとは、
存在エネルギーであり、一にして一切である神的次元の言語。
ロゴスの先にダーバールがある。 ソシュールによれば、我々の思考は、言語記号を伴わないままでは何一つ判然としない、
無定形(amorphe)で星雲(nébuleuse)のようなものであるという。
(参考:ソシュール『一般言語学講義』4章) 『ソシュールで読む聖書物語』 高尾利数 (1993)
聖書に、ランガージュ(言語活動)の神話的表出を読む メイヤスーが「偶然性」と言うのは、世界のあり方についてであり、
目的論的世界観を無化する。
そして、もう一つには、構造主義の祖たるソシュール言語学の中心にある
恣意性に向けられたものでもあるだろう。 『恣意性の神話:記号論を新たに構想する』 菅野盾樹 (1999)
ポスト構造主義とポスト・ポスト構造主義の間の時期に書かれた本。
>>225の内、数理系の問題に取り組んだのがメイヤスーだとすると、
それ以外のもの、文字と絵の間や、芸術〜人類学における記号過程など、
記号学と記号論の死角を埋めるべく、様々な言説が検討されている。
実在論の例
・世界は人間がそこに住む以前にすでに実在する
・人間の出現が世界にもたらす変化と追加を文化という
・世界から文化を差し引いたものを自然という
その他、一角獣の話(グッドマン)なども。 『世界制作の方法』 ネルソン・グッドマン 著、菅野盾樹、中村雅之 訳 (2008)
『記号主義 −哲学の新たな構想−』 N・グッドマン、C.Z.エルギン 著、菅野盾樹 訳 (2001) >>249
>人間的意味を徹底的に無化する
意味というのは人間から見た概念だから、言葉の定義の矛盾だな。 >>249
この言葉の中二病センスどうにかならないのかね
恥ずかしい >>264
意味を理解するのは人間であっても、その意味内容の中に人間という概念が
含まれている必要はない >>261-262
[恣意性](arbitraire)
シニフィアンとシニフィエを結びつけるもの。
その時々の気ままな思いつき。自分勝手な考え。 >>262-263
ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』英語版の表紙の一角獣
https://images.gr-assets.com/books/1436639779l/25890000.jpg
Why the World Does Not Exist
グッドマンの立場…実在しない(『世界制作の方法』4章)
ガブリエルの立場…実在する なるほど。一角獣か。日本語版みていたから気づかなかった。
おれはグッドマンの現代風焼き直しだと思っていた。
これは読み直そう。宇宙と世界と自然の扱いがおれの考えと違う。
かといってガブリエルが正当とも思えない。 中沢新一×石倉敏明 「野生の科学、あるいは新構造主義の時代」 の自然/文化
『現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014:ポスト・ポスト構造主義へ』
・ニュートンの色彩論
自然過程と記号過程を分離。
・ゲーテの色彩論
人間の脳内過程と外界の自然過程を一つの連続として捉える。
・レヴィ=ストロース
神話は植物が「変態」するように自己変形を行う。人間の精神活動は自然過程そのものから生み出される。
構造とは自然界と人間精神の両方に内在する原理。
・ラカン
無意識の過程が生命的な自然過程に繋がっており、それが反自然的な象徴過程と分離せずに、一つの連続した多様体をなす。
・ヘーゲル『エンチクロペディー』
自然過程と人間の象徴過程を一連のプロセスとして捉えながらそこに弁証法を入れていく。
・中沢『対称性人類学』
脳内過程と自然過程の交渉によってそのつど無数の「新しい自然」が生まれる。
・吉本隆明
記号過程を記号として分離することを批判。
胎児や無意識の中で起こる前言語的な記号活動と、人間の意識的な言語活動との繋がりを持った多様体を構想。
・ガタリ『分裂分析的地図作成法』
フラクタルやカオス理論を開放系にして自然過程に結び付ける。
・自然と科学
現実の世界はすべてが非対称的で複雑な構造を持つ。
自然科学は、自然現象を単純で原始的な状態、対称性を持つ状態に引き戻す。 “自然とは、それ自体が人間の身体ではないかぎりで、人間の非有機的な肉体である。
人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体だということであり、
人間は死なないためにはたえず自然と交流しなければならないということだ。
人間の肉体的・精神的生活が自然と結びついているということは、
自然が自然と結びついているというのと同じだ。
人間は自然の一部なのだから。”
― マルクス 『経済学・哲学草稿』 長谷川宏訳 (2010) 第1草稿 4.疎外された労働 p100-101 >>274
ネグリ=ハートは、大都市をマルチチュードの「器官なき身体(ドゥルーズ=ガタリ)」と位置づける際、
マルクスの『経済学・哲学草稿』の一部を引用した。
『コモンウェルス:<帝国>を超える革命論 下』 ネグリ=ハート (2012) 第4部 Masashi FUCHIDA
@nonstopmasashit
13 時間13 時間前
こういう本が読みたかった!素晴らしい先行研究です!おもろいよぉ… |
「蓋然性」の探求――古代の推論術から確率論の誕生まで
このジェームズ・フランクリンってオーストラリア版、知の欺瞞の著者だな。
Corrupting the Youth: A History of Philosophy in Australia
それにしてもすごい値段
ハードカバー ¥ 109,664 >>126
「キリスト教と自然過程」という話は、ダン・ブラウンのテーマにもなっている。 https://en.wikipedia.org/wiki/James_Franklin_(philosopher)
His polemical history of Australian philosophy, Corrupting the Youth (2003), praised the Australian realist tradition in philosophy and attacked postmodernist and
relativist trends “どんなものも新たに生み出すことはできない、それはもとから自然に記されているのだから。
独創性(オリジナリティ)は起源(オリジン)への回帰によって成り立つ。《アントニ・ガウディ》”
“それこそが、自分にとってこのサグラダ・ファミリアが大きな意味を持つ理由のひとつなのです。
未来の聖堂…自然と直接つながる聖堂のように思えましてね”
― ダン・ブラウン 『オリジン』 (2018) ネグリ=ハートは面白かったが、今はすっかりポスト帝国という感じがする >>268
意味を理解するのは人間、なのではなくて、意味を作るのが人間。
人間を離れて、意味という概念が成立するわけもない。
たんなる言葉の誤用。 >>268
これが正しいね
例えば純粋数学の世界は
人間の創造物でありなんらかの意味であるが
特に挙げて、人間的な意味とは普通言わない
だから実際にはどの文脈や内容を人間的意味
がないと評価しているのかを知らなくてはいけない
リテラシーない人には理解できないだろうが >>282
数学というのは、基本はただの分析。
その上で、多くの定義を加えているが、それは意味ではなく計算根拠だ。
リテラシーとか舌足らずの単語を使って悦に入っても、意味という言葉の誤用に過ぎない。 >>283
難しい話じゃないよ
彼のいう人間的意味の指す内容を
理解することなしになにもいえない
例えば意味を人間的意味と
非人間的意味に分けるという前提があったとする
その時に意味は全部人間的だ!っていうのは
別に矛盾を突いたものではない
違う例を挙げよう
非人間的所業といった時に
所業は全部人間がやることだ!
というのはお門違い
なので、君はもっと言葉を学ぶことが必要
これをリテラシー足りないと述べたまで
残念ながら定義云々言える知的水準に達していない >>283
数学は人間の発明したものだよ
人間にとっての意味の一部
だけど人間的意味とは普通言わない
これは「人間」「的」の含意を考えれば分かる
例えば数学者に「円周率の人間的意味は
何ですか?」と聞くとしよう
意味イコール人間的意味が成り立つなら
それは「円周率の意味はなんですか」と同じだ
意味は全部人間的なんだから
しかし数学者はそうは理解しないのが普通
分析とかここでは関係ない
分析も人間にとってのなんらかの意味だし
というわけで君は考える力が足りない
それを端的にリテラシー不足と述べている >>284
難しい話じゃないのはそのとおり。
意味というのは人間にとってなにごとかである、というのが言葉の定義。
人間的意味とか非人間的意味とか、比喩としてしか成立しない。
言葉を学ぶ必要があるのはあなたの方だと思う。 >>285
数学自体は人間が発明したものでも、内容は人間が考えなくても現実にある。
リンゴもミカンも同じ一つとして抽象するというのは人間の意識の所産だが、そこにリンゴとミカンがあることは人間とはかかわりがない。
その意味で、数学はすべて人間的ともいえるが、たんなる自然現象の引き写し(分析)ともいえる。 >>286
だから「人間的意味を徹底的に無化する」
というのは思弁的でこれ自体で
定義矛盾と指摘するような話じゃない
>>268
は俺ではないがその点適切で
意味を与えるのは人間だが
その中身が人間的と呼ぶに値するかどうかは
別で定義言い出すのは考えが浅い
そもそも意味は人間が与えるものだ、というのも
ある観念的な考え方でしかないしね >>287
数学の内容が現実にあるかどうかは
哲学的立場によって変わる話でしかない
「人間的」のもつ意味が主だよ
よく読め
「人間的意味」といったとき
大きな「意味」というカテゴリの中に
人間的意味という領域があるという
前提で読むことができないで定義云々
指摘するのは、歪な思考力 基本のただの分析じゃないの、数学は。突発的に文脈に出てきたりする数式の方が
面白いじゃん。 数式学は頭脳を使う暗唱の聖典だから、血統的価値が高いんだよ。最初はほんのわずかからでも
よろしいね。 逆境による困惑、富による堕落、病気による不自由、老もくによるおしゃべり、
突然の死などに見舞われないうちに 急いで善を行え。
預言者マホメット
人生は永遠の無にさしはさまれた短い挿話に過ぎない、しかもこの挿話の中で
思考が持続するのはほんの一瞬である。思考は長い夜に差し込んだ一条の
光に過ぎない、しかしこの光こそがすべてなのだ。
アンリ ポアンカレ
私は世の光である。私に従ってくるものは、闇の内を歩くことがなく
命の光を持つであろう
イエス キリスト >>288
ひとつひとつの言葉の使い方が曖昧過ぎる。
人間的とはなにか、人間的と非人間的の境界をどう設定するのか、無化するとはどういうことなのか。
雰囲気で言葉を並べているだけだ。
人間にとっての問題である「意味」が、観念的であるのはあたりまえというか、それが「意味」という言葉の意味だ。 >>289
繰り返す。
人間的とはなにか。
大きな「意味」というカテゴリ、とはどういう設定なのか。
定義なしで議論する哲学なら、数学は食べ物だ、と言っても正しいことになる。 >>297
使っている人の文脈での個々の整合性がまず重要
君はそれを無視しているので不毛
ただし「人間的意味」という連語そのものに
ケチをつける姿勢はとても知的とは言えない
「的」の意味の幅を適切に理解できずに
上っ面だけで矛盾だと判断している
まずは大きな辞書で「的」を引きなさい
つまりね君は自分自信が思っているような
言語能力を有していないのだよ
錯覚して横暴になっている
反省しなさい 定義定義マヌケな逃亡だなあ
誰かが人間的意味といったら
話し手が人間的と限定しているのだから
意味のなかで人間的ではないものがあると
読み手は前提として想定するに決まっているし
これは自然な言語理解
まずは「人間的意味」をググって
使用者に間違いですと教えてあげたら
どうかなあ
“human meaning”ですと言われたら
それもググって、使用者に間違いです
とメールでも送ればいいよ
思考力ないと悲しいなあ まとめ1
(俺の主張)「人間的意味」という言葉だけで定義の矛盾ということはできない
1意味は全て人間の産出するものであるという考えを支持することと、
人間的な意味といえるかどうかは別物。
2もし矛盾があるならば、その使用文脈を読み解いたなかで言葉の使用の整合性のなさ
を指摘することが必要。
3こういう無駄な指摘にしがみつく人間は基本的な思考力が足りていない。
>>249
>「メイヤスーの哲学は、ポスト構造主義から引き継がれたテーマ、キーワードを、
>人間的意味を徹底的に無化する方向へとラディカライズしている」(序文:千葉雅也)。
これに対してのコメント
>264考える名無しさん2018/06/24(日) 18:29:51.800>>268
>>>249
>>人間的意味を徹底的に無化する
意味というのは人間から見た概念だから、言葉の定義の矛盾だな。
それに対する(俺ではない)反論
>268考える名無しさん2018/06/25(月) 12:27:18.700
>>>264
>意味を理解するのは人間であっても、その意味内容の中に人間という概念が
>含まれている必要はない >>299
結局なにも説明できないんだね。
せめて、「人間的意味」という連語w の人間的と非人間的の境界ぐらいは説明してごらんよ。
クジラを捕るのは人間的だ。
クジラを捕るのは非人間的だ。
どちらも正しい、と言ってるだけだから、なんの議論にもならない。
どんどん馬脚が出てきてるよ? >>300
クジラを捕るのは人間的。
クジラを捕るのは非人間的。
どっちでしょう?w >>301
どういうまとめでもいいけど、私が主張しているのは、定義の曖昧な議論は哲学ではなく、気分の表明に過ぎないということ。
ドゥルーズ以降、定義を曖昧にして気分で語ることが、深遠な哲学であるかのような雰囲気が醸成された。
ドゥルーズ自身は、意味について考えようとした時期もあったのにさ。 まとめ2
俺の感覚では特定の文脈がなければ「人間的意味」というのは
「いかにも人間らしさを感じる意味」でしかない。
たとえば情動や社会、人生、心の問題であり、逆に「非人間的意味」なら、
冷徹な論理や、または残酷性を想起する。難しい話じゃない。
彼>>296の主張によれば、「人間的意味」には彼の満足する定義が必要だと言う。
この場合「人間的意味」の使用者は非常に独特な定義をしないとこの言葉が
使えないということになる。なぜならば彼によれば「人間的意味」は表現
そのものが矛盾だからだ。
ここで検索して実際の用例を見てみる。
「すなわち、知覚には、人間的意味の方がいわゆる感覚的記号よりも先に与えられているのである。」
「そこでは家族がまさしく家族であることの意味が根底からひっくり返ってしまい、
子生みによってかたちづくられた分身ー帰属としての人間的意味の方はこれによって
極限まで侵触されてしまうことだろう。」
「数千年来の常民の習慣・俗信・伝説には必ずや深い人間的意味があるはずである。」
というわけで「人間的意味」は矛盾したおかしな表現ではないことがわかる。
より詳細な定義が欲しくなることはだれしもある。
しかしそれと連語単体が定義矛盾だとするのは全く違うことである。
参考 human meaning
Patterson's work garnered some controversy, with some in the scientific community questioning
whether she was overstating the gorilla's communication abilities and projecting human meaning
onto Koko's actions.
これはいかにも人間が自分を投影して解釈しそうな発想という意味
That is that the words “rich” and “wealthy” are not of merely economic significance
but of vastly broader human meaning.
これは言葉の使い方について、比喩だよと言っている >>302
どちらも成立するだろう。それは文脈次第。
人間の多面性なんて矛盾していないよ
君大丈夫かな?
知的怠慢だよ >>307
>「いかにも人間らしさを感じる意味」でしかない。
>逆に「非人間的意味」なら、冷徹な論理や、または残酷性を想起する。
そんなラノベみたいな基準でなにを語れるんだよ?w
そもそも、>>286 で比喩に過ぎないと指摘してるんだけど? 「人間的意味」を
意味全体の中にある
より人間的な意味と読めないのは
なにか日常の思考においても
問題を起こしていることだろう
哲学はそういう人を釣るために
あるという面も否定できないがなw >>309
ラノベ基準?
意味不明
どういう比喩か定義をお願いねw >>311
これ以上自分の頭の悪さを晒すのは止めときなよ。 科学の中の人間的意味づけ
> 自然科学においても、問題の提起(仮説)から素材の選択、
> 実験を経て結果の評価と応用に至る諸段階で研究者の主体的な関与がある。
> これは科学の過程に人間的な意味を与えている。 >>312
基準も書いといたけど?
あなたのレスそのままのw >>314
マジレスしておく。
研究者の主体的な関与があることと、科学の過程に人間的な意味を与えることは無関係だよ? >>306
ある哲学が気分である状態を定義してみ?
だって気分になっていると判断しているのだから
で最低ドゥルーズ以降そうだというのをその定義に
基づいて論証しなよ
でない限り、君のその哲学史観も気分じゃないかな〜w
アハハ 日本現代語は回りくどいな。こごをつずるとよひかもし。
英文至上。情報量が多くにくつかしきこてんのあじわいいろあいがありなむことすめる。 >>316
「人間的意味」が言葉として矛盾しているという根拠を示してよ。 バカにとっては
「すなわち、知覚には、人間的意味の方がいわゆる感覚的記号よりも先に与えられているのである。」
これも矛盾だよなあ。定義の薄い非論理的な文章だ〜
だって感覚的記号も人間にとっての意味にすぎないからな〜
アハハ
バカにとっては、ね。 >>319
英文も読み手がバカならしょうがないけどね。
同じこと。
human meaningはおかしいとか言い出すよw 被験体 非実験者 である他者性の圧倒による多動性の中の自動的自由。 >>317
バカだねえ。
あなたの書いてることが、そのまま私の指摘の根拠になってるんだよ。
まあ、「アハハ」とか書いて白旗上げてるから、もう許してやるよ。 past ドゥルーズ error
より ハイエク ジジュク >>302
晒しとくわ。
捕鯨には非人間的な意味もあるし人間的な意味もあるよ。
あたりまえ。
捕鯨全体のどういう側面をどう評価するか、ということにすぎない。
この次元で止まっている君は基礎的な思考力がたりない。
俺はそれは語学で養うのが王道だといっている。
(ちなみに王道にはふたつの解釈がある) >>320
>「人間的意味」が言葉として矛盾している
そんなことどこかに書いたっけ?
意味というのは人間が基準だというようなことは書いたと思うけど。
非人間的な意味、というのは言葉として矛盾している、と書いたつもりなんだが? >>328
逃亡か〜
気分とかいっちゃうなら哲学に恨みでもあるんだろうなあ
安楽椅子哲学者(論文は書かない) >>330
>捕鯨全体のどういう側面をどう評価するか、ということにすぎない。
その次元で止まっているのが、あなただよ。 >>331
「非人間的な意味、というのは言葉として矛盾している」
これどこのレスか明示しろよ
じゃあお前は
「人間的な意味」は矛盾なし
「非人間的な意味」は矛盾
でいいんだな?
でそれは特定の文脈での矛盾?それとも日本語そのものの表現矛盾? >>332
哲学に恨みはないが、ドゥルーズはバカにしてるw
論文なら書いてるよ。 >>333
アホかw
俺の上げた例じゃないぞ
あたま大丈夫?
捕鯨は評価の仕方でしかない
謎はない。 >>336
書いている証拠は?
ウソならなんでもいえる >>337
>捕鯨は評価の仕方でしかない
あなたのレベルはその程度、と言ってるんだけど? >>338
論文書かない哲学愛好家はいないだろ?
だれでも最低限、学部の卒論ぐらいは書いてるw 誌面の論文に何の価値が残るだろう。壮絶な統率歴がのこればいいね。文献面でも。 正解読んどけ。
日本語における「人間的意味」あるいは「非人間的意味」は、
単に「意味」を修飾限定しているにすぎない。
これは「的」の意味の広さとも関わり、この次元で矛盾している
云々の指摘はお門違い
したがって矛盾といいたければ、どのような(ここでは哲学だが)
文脈で使用するのが文脈全体の整合性にとって問題なのかを
示さなくてはいけない。つまり言葉のカタチじゃなくて、
その言葉がある文脈で提示している哲学概念を攻撃しないといけない >>343
定義に反する言葉の使い方をするのは、文脈の問題ではない。
数学は食べ物だ、が文脈の問題ではないのと同じことだ。
だから、比喩であったり気分であったりするに過ぎないと指摘している。
はじめの議論に戻るだけ。 >>340
捕鯨はそうだよ
観念化していって相互矛盾に見えたとしてその時点では無意味。
人間的と非人間的と表現する内実は常識的なもの。
しかしそれは捕鯨の哲学を君がやっても無意味かどうかとは別。
でその捕鯨の哲学が上手くいっても俺の述べた視点は陳腐化しない。
意味分かる?? >>348
じゃあ作文しよう
「ホロコーストでのユダヤ人大量虐殺という行為には非人間的な意味がある。」
「私が純粋数学に目覚めたのはそのなかにある日常では考えられない
非人間的な意味にひかれたからなのです」
こういう表現は矛盾しているの?論理的におかしいの?
だから具体的な文脈を、と述べているのだよ。
意味分かりますか〜? ユダヤ系民族は大量殺戮に強く、化かされた層がアフォ層。 たとえば哲学上に
人間にとっての意味ではない「非人間的意味」は可能か?
というおおざっぱなテーマがあるとする。これはある程度の文脈をもっている。
で、仮に、なにかの一貫した論説内部で、「非人間的意味」は不可能であるという
結論の後に「非人間的意味」が自明の概念として唐突に登場するならば、
それは整合性がなく論理が混乱している、と判断されるかもしれない。
しかしこれはその文脈全体との整合性が問題なのであって、
「非人間的意味」という言葉だけ取り上げて矛盾と評価することはできない。
「メイヤスーの哲学は、ポスト構造主義から引き継がれたテーマ、キーワードを、
人間的意味を徹底的に無化する方向へとラディカライズしている」(序文:千葉雅也)。
←これを上っ面で腐したかっただけの無名哲学徒の愚挙wまさに俺様気分重視ww
言葉に鈍感なら哲学じゃなくて別のことをしなさい。
忠告だよ。アドバイスじゃなくてadvice。 >>350
クジラは人間がいてもいなくても、そこに生きている。
捕鯨は人間がいなければ存在しえない概念だ。
だから「人間的」も「非人間的」も捕鯨概念の同義反復にあるか、定義矛盾になるかしかない。
捕鯨の哲学、などという漫談はあなたには相応しいのだろう。 >>352
そういう作文は比喩としての意味しかない。
文脈の問題ではなく、比喩が通俗的すぎるだけ。
論理などというたいそうな問題じゃないよw >>354
そんなテーマこそが、哲学の愚かさを増幅させる。
比喩と気分で、それも極めて通俗的な言葉の使い方でなにかを論じた気になっている。
>人間的意味を徹底的に無化する方向へとラディカライズ
現著者のせいなのか翻訳者の姓なのかは知らないが、ただのバカだろ。 >>355
バカだな
「人間的」は解釈に幅があるというだけ
たとえば鯨は人間ではないが人間的な個体の
鯨もいるかもしれない
これは単にお前のアタマの中の哲学と一致していないだけ
だからお前の前提とする文脈を提示してみろと言っている
否定されるのが怖いのか?
さっさと提示しろ
できるならね
>>356
そもそも比喩かどうかは関係なく言葉として
筋が通った意味かどうか
問題はそれがどういう文脈の中で置かれるか
どうかということ
「非人間的意味」は文脈から独立して
論理破綻した言葉というのがおまえの主張
だから俺は破綻していない文章を挙げた >>357
アホだな
君の勝手な哲学を相手に投影してはいけない
例えば比喩なしの論理的に厳密な言葉による構築
以外は愚かな哲学って誰が決めたんだ?
じゃあ洞窟の比喩は俗物哲学かなw
ある文脈内で「人間的意味」という用語が
破綻になる可能性は俺も認めているぞ?
それでは不満足なの?
君はひとり哲学警察かなんか?
こういうバカには
じゃあ真の哲学している哲学者を紹介して
というとだいたいダンマリ
なぜなら人から否定されるのが怖いからw
承認ないと不安という哲学的に軟弱な人間w >>358
>鯨は人間ではないが人間的な個体の鯨もいるかもしれない
うわ〜 鯨人間の登場だあ・・・w
シーシェパードの集まりで講演して来いよ。
>比喩かどうかは関係なく言葉として筋が通った意味かどうか
比喩かどうかが問題なんだよ。
「私は床で天井を作る」
言葉としては筋が通ってるが、定義が間違ってるから通俗的な比喩として以外、意味を表現できない。
いくら比喩を並べても、論理にはならない。 >>360
人間的イコール人間と
読む君がおかしいだけ
床で天井を作るも
文脈によりけり
哲学だけそれを超越しているわけでもなし
文脈を提示できない君がマヌケなだけだよ〜 >>359
>比喩なしの論理的に厳密な言葉による構築以外は愚かな哲学って誰が決めたんだ?
哲学者のすべてがそう決めたと思うが?
フランス現代哲学愛好家以外は。
洞窟の比喩は、明確に、比喩として語られている。
>真の哲学している哲学者を紹介して
カント、ヘーゲル、フォイエルバッハ (リズミカルにw) ぷるぱちゃほわぶか〜
パチャぷるぱちゃぷるぱちゃぶか〜
パチャホワブルパゃ〜
ホワ〜
,ィZ三三二ニ== 、、
,. --{シイィ彡彡三三三ミ丶、
,イィ三ミ>'"´ __,,  ̄`丶ミミミミヽ
/シ彡シ'´ _ ,ニ_二 三‐`、 `ヾミミミヽ
. ,'ilif'彡' ,' _,..-ュ ̄ fニ三三ミヽヾミミミヽ
jlリイ彡! :,ィ彡'"´ :. :. .:' `゙' ヾミミミミ'
l{i{l{lノリ ,'fi´ _, i :. ';=―一 ',ミミミミ!
{lilili/{ ' ,.-‐'"´,:,! ' 、ー-‐ ' Nlハ⊥
|lilifリハ .: '、 _,.ノ,' ,. }、 tf{´i, l|
. Wリ小! .: ,ゝ^ :: ヽ `!) Vl
ゞ干ミ} : / _J_ 丶 }'´ /
'、Yヾ :. l /ィ三三シ'^ / ノ
/ ´ ヽ` ̄ ヽニソ ー-゙:.、
i - 、 `ヽ_
l: 、.: ヽ ゙i"
! i ; n .:c.: ', _..ハ
| ハ/ { _,..-ァノ 、r‐、>ー ヽ
| ト./ ` ̄__,.:=彡 :.ヾ、ニ二 /
. | |ノ -=< ゙=tラ'"
| / ,-一'" ̄´ i
|:/ / \:. !
| ' / ヽ:. :、 \
゙、 ノ .i:. ` ヽ まずは「的」の用法を詳しく調べてみよう
哲学ごっこはその後かな >>362
へえみんなが決めたんだ〜
知らなかったよ
洞窟の比喩が哲学として無意味ならば
もとから無くていいじゃんw
ポモアレルギーのガバガバ君? >>361
人間的、という言葉は、人間とは何かという定義がなければ、比喩としての雰囲気以外意味を成立しえない。
比喩としての雰囲気とは、受け止める人によってまったく異なった、正反対にもなりうる解釈が成立するということ。
それが通俗的な、人間的、非人間的という言葉の使われ方だ。
そうではない「人間的」というのは、たんに人間の思考のことにすぎず、思考を離れた思考というのが、定義矛盾、論理矛盾であることは何回も指摘した。 >>365
洞窟の比喩は無くてもいいが、一般人にわかりやすいと思って、比喩を比喩と明確にしたうえで語っている。
あなたが、ポモガバガバ君なら、もう少しまともな反論も出てくるのだろうが、ガバガバにもなれないポモファッション愛好家では、テレビ芸人程度の通俗的な思考しか出てこないな。 比喩じゃない「人間的」という言葉の
語義は唯一「人間の思考」?
それは君以外通用しないな
そんな知識どこで習ったん?
言葉遊びアレルギーゆえに言葉遊びに
陥っているよ
使用文脈を提示しない君が悪いのだよ >>367
一般人にわかりやすく
哲学じゃない方法を使うって
プラトンが言ってるの?
アハハハ
で君は独善的定義の中でもがいているんだ
悲しいなあ
辞書すらまともに引けない哲学者(志願者) >>368
この話題の元レスを見てからレスしてくれ。
私は遡るのはめんどくさいから。 >>369
哲学じゃない比喩という表現方法を使ってるんだよ? >>370
つまりは特定の文脈があることを認めたのね
それなら問題ないよ
その文脈の中で語の矛盾は判定される、
それは否定していない
哲学オタクの君の抱える言葉への鈍感さ、
ナイーブさを指摘しただけなので >>371
メタファーは人間の認知活動そのものだよ
哲学がそれを除外するというのは
一部の立場でしかないし
濫用の抑制という視点は排除とは違う
どこで君はその考えを習ったん?
プラトンは哲学知らない奴向けに仕方なく
洞窟持ち出した? こういうことは
語学によって言葉への認識が深くなっていく
なかで自然と身につくもんで
だからまともな哲学者は自然とクリアするんだけどね
そうじゃない哲学者気分の馬鹿もいる
あ「深く」もメタファーだったわ〜 >>372
なんだやっぱり元レスも見てないのか。
あなたが哲学とは無縁の人だということが再確認できた。 >>373>>374
比喩を認識という側面から分析することはできるし有用だ。
だがそれは、いまの話題とは無関係w 新説かつ珍説:
プラトンの洞窟の比喩は哲学ではないが、
一般人が理解できるように仕方なくプラトンが用いた
クスクス
で特定の文脈なしの言葉だけでの
「非人間的意味」矛盾認定は無理だと認めたね
それでいいよ
哲学ブンブンする前に言葉をもっと学ぼうな! 絶望的に頭の悪いギャハハなんて相手にするだけムダやで
理解する能力をもたず同じことしか繰り返さないテープレコーダーに向かって
説教してるようなもんだ >>375
「非人間的意味」が日本語として
矛盾しているかどうかは、単なる日本語の意味の問題
作文見ただろ?
で、その上である特定の哲学の文脈を提示して
その中での整合性の矛盾を指摘することはできる
その段取りを省いてはならない
哲学で粋がる前にやることがある >>377>>379
たしかに、絶望的に頭が悪いんだね。 マルクス・ガブリエルを読んでみた。なぜ世界は...である。
彼は、ラッセルのパラドクスをわかったうえでやっているのか、わからないままにやっているのか、
そのへんがよくわからない。
しかし、本を読むかぎりは、結構まぬけな人であり、パラドクスに気づかないまま新実在論を主張しているような気もする。 なんでプッシュされているか、が謎だなあ
トレンドを作りたいのか 『週刊 読書人 2018年6月29日号 3245号』
《特集》マルクス・ガブリエルの来日インタビュー/入門マルクス・ガブリエル
http://www.dokushojin.co.jp/?pid=132827913
01.「無世界観(世界は存在しない)」と「新しい実在論(意味の場の存在論)」
02.ポストモダンの原罪/形而上学批判
03.「近代」についての再評価
04.精神の哲学と二つの基本思想
05.西田幾多郎とマルクス・ガブリエル
06.シェリングの思想とマルクス・ガブリエルの哲学
「マルクス・ガブリエルを読むために」解説=浅沼光樹 『なぜ世界は存在しないのか』は、ごく平易な言葉で書かれている反面、
論点が整理できないと読み過ごしてしまう。
>>383の浅沼は、『なぜ世界は存在しないのか』のテキストを切り取りつつ、
哲学史におけるガブリエルの立ち位置を説明する神まとめをしているから
参考にするといい。 《世界が存在しないということについて》
“「存在する」とは、何らかの意味の場に現象するということにほかな”らない p103
これに対して、
“世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である”p109
これは言い換えると
“世界こそ、一切の物ごとが起こる領域にほかならない”p109
よって、
“世界は、世界のなかに現れてはこない”p110 《カント物自体の扱いについて》
“物それ自体が、すでに何らかの事実のなかに埋め込まれている”p175 《自然科学について》
“自然科学的な世界像は、逆説的なことに、
わたしたちにとって拠り所になろうとするからこそ、
ほかでもない意味を世界から追放してしま”った p202
浅沼「<新しい実在論>がポストモダン以後の哲学であるのは、
何よりもそれが<自然科学的世界像(=観察者のいない世界)>に典型的に見られるような
近代的ニヒリズムに抗して、人生の意味への問いをわたしたちの手にとりもどそうとするからである。」 >>385-387
以上、一部を紹介。
ページ数は、ガブリエル 『なぜ世界は存在しないのか』 (2018/1/13) 人生の意味を感じるに新しい哲学が
必要なのかな
生きがいの実感と自然科学は別だよ 意味を世界から追放した実例は何かな
科学は数を扱うけど
そんなの全く関知しない人々もいくらでもいる
欧州アカデミックなかでは圧なのかな? >>388
タイトルがあまりにバカなので、読む気はまったくないんだが、「世界が存在しなければ、こんなバカボンも存在しないだろ?」とか突っ込まれなかったんだろうか? >>390
このスレを「意味」で検索しては?
>>391
バカは読まなくていいよ >>392
ああ、そうなのか・・・
バカ同士で話が合うかと思ったw
いや、バカじゃなきゃそんな本読めない、ということなのかな? >>385
世界はなにかが存在する場だから
それ自体は存在扱いしません、いいけれど
中身が1つでもあれば
その存在入りの世界が存在すると
呼んでいいんじゃないかな
つまり存在がゼロだったら世界は消えるよね
これでいいと思う でこの枠組みが政治的主張に
接続するんだっけ
どっちかというと
欧米の現代音楽村思い出す
極めて観念的な知的遊戯の成果で
人が進歩すると考えている 結局は「世界」や「存在する」をどう定義するかって話でしかない
世界は世界以外の意味の場が現象してくる意味の場と定義している以上
「世界は世界のなかに現れてはこない」のは当たり前
というか定義において既に結論を述べている
つまり世界以外の意味の場を含む集合であると そうそう定義の整合性だけで心に響かない
これ新しいと言われてもなー
凄さがわからないお前はバカ
と言われるんだろうけど
ただこのタイプの論法が本当に哲学史上初なら偉いね
それはなかなか見定めることは難しそう >>397
読まずに適当なこと言ってみるが、ゼノンや東洋哲学と変わらないんじゃないの? 存在の入れ物が世界だから
世界は存在じゃないというのは
世界を完全に超越的な概念にしただけとも
言える
自分たちのいう世界って
地球とか宇宙とかそういう次元なので
地球がなくなっても宇宙はあるわな
だからこれは世界じゃない?って
指示しても、それは存在であって
世界はそれを内包する概念ですよ
って言っちゃえる
なんだっけ二階に蹴っ飛ばす論法とかなんとか ただこういった理屈に付随する
哲学史的な議論や用語の芋蔓訓詁は
学問になり得ますよ
それはいいことです 629禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw 2018/06/10(日) 17:22:04.820
モンハンやるとき脳がすごい処理してるんだろうな
630禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw 2018/06/10(日) 17:36:03.360
コントローラーをどのように操ってるのかまったくわからない。
どのボタンを押せばどう動くのかまったくしらない。
631禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw 2018/06/10(日) 17:38:06.670
意志とはなにか?
果たして意思は指揮者としてコントラーるしえているのか? わたしには、マルクス・ガブリエルが、単なる詐欺にしか思えないのだ。
カンタン・メイヤスーについても同様である。
問題は、彼らが、わからないでやっているのか、わかってやっているのか、であろう。
逆ソーカル事件のような気がする。
なにしろ「矛盾」をかかえているのは明白であって、「矛盾」からはどんな結論でもひきだせてしまう。 権威に訴える論証だけど
ガブリエルは経歴がすごいし
それなりに名のしれた学者もガブリエルを受け入れていることを考えれば
俺程度では思いも至らないような何かがあるのだろうと思ってしまう 言葉の操作だけで政治まで及ぶ新しい思考を
生み出せるっていうのはなあ
歴史哲学とか批評じゃないんだから
純粋な実在論がリベラル世界の基礎に
なるんだよね?
ホントカナ >>403
それはわかる
専門家にバカにされたらどうしようとか思うもん
無論専門家同士でもあるだろう 哲学に専門家などいない。
哲学史の専門家はいるが。 >>387
自然科学の世界観って
近代的ニヒリズムなの?
イメージで言ってない? ガブリエルが最終的に実在論を説いているっていうのも不可思議なんだよな
すべての意味の場の意味の場である世界は存在しない
しかし世界以外の意味の場は存在している(複数のベスビオス山が存在しているらしい)
そうすると存在しない世界の中に世界以外の意味の場が存在していることになる
存在しないものの中に存在するってどういうことなのか全く理解できない
こう言ってよければ無の中に有は存在し得るのかって話 ベスビオス山とかそういう雰囲気語法が
ちょっとね
西洋哲学の薫りに頼ってない?っていう シラス軍団とかヒアリ軍団が見ている世界を
それぞれ存在と名付ける必要性を
感じないな
個体それぞれにはその知覚に意味があるだろうけど >>385
そっか、語感レベルで言えば
すごい過激なことを言っているふりをしているのが
狡いんだと思う
「世界は存在しない」って聞くと
普通の人は、僕らの生きている世界が
幻想で妄想なんだっていう証明だと受け止めるよね
脳内だけのフィクションで
自然科学すらも真理ではなくデッチ上げだ
で話を聞くとどうも
言葉のゲームであって現実感を伴わない抽象論だ
これって狡くない? >>383
『週刊読書人』は図書館にもある。カテゴリーは新聞。 ブコフで英訳見つけたわ
360円だったけど買わなかった マルクス・ガブリエルがうさんくさいのは、公理的集合論を下敷きにして、それらしく壮大なことを語っているということだろう。
(集合論を)わかんないでやっているならそれなりに評価するけど、
「世界」は「(真の)クラス」だから「集合」ではない。
「世界」は集合として構成することができない、ということを「世界は存在しない」と語っている。
おそらく、矛盾許容論理の(いろいろある)どれかを使って、哲学っぽい言葉で社会の矛盾を(一見)解消するかのような新実在論を語るのであろう。
それが、数学と哲学をつなぐものであるなら、とくに文句はいわない。
すでに(数学的に)解決されているパラドックスを、(新しい)哲学問題を発見したかのように語っていないかどうか、ということは要チェックだと思う。
百年ほども前の数学の問題が、やっと現実の問題として「現象」している時代なのかもしれない。
だから哲学もやっと(単なる数学問題ではなく現実の「哲学」問題として)動き始じめたのだろう。 ガブリエルの言っていることは、哲学史的で厳密。
>>137にも、>>383の浅沼の解説にもあるように、
「形而上学→構築主義→新実在論」の順に、具体的な問題解決をしていってる。
例えば>>270
・グッドマン…非実在論、多元論、相対主義、構築主義を自称
・ガブリエル…実在論、多元論、相対主義、構築主義の乗り越え
グッドマン→ガブリエルは、実在論的転回。 ちなみに、ウィリアム・ジェームズの『多元論宇宙 A Pluralistic Univers』は、
不定冠詞がついた一つの多元的宇宙だった(グッドマン『世界制作の方法』1章)。
だから、多元的であっても世界の現れとしては一つなのだろう。 全部言葉の遊び。
現実を見てはいけない哲学愛好家には、逃げ道として役に立つ。 >>415
どういう問題に対してどういう解決を提示してんの?
それにこのスレで疑問を持たれているのは世界は存在しないという主張だけどそれについては何か言うことないの? >>137
俺がポストガブリエル理論を述べる
山は実在
俺の見ている山はその実在を知覚した「ある意味」
鳥が見ている山はその実在を知覚した「ある意味」
この「意味」は実在とは異なるもので
「意味が存在している」ことと「山が実在する」
ことは一緒にできない
おわり いろいろ考えてみたが、「世界」は「集合」として構成できないが、「クラス」としては構成できる。
「世界というクラス」が自己同一性を持つならば、「世界」は存在する。
世界が世界の中に現れてくることも可能だ。(現れるの意味は吟味する必要がある)
むしろ、そのような「真のクラス」こそが「実在」である、などと考えたほうが新実在論らしいような気がする。
「実在」がオペレータとして機能し、「宇宙」をつくりだす。
「実在」が自分自身を「認識」し、自分自身を「存在」させる。
「世界というクラス」が「実在」すれば、「世界」は「世界」を「認識」し、「世界」は「世界」を「存在」させる。
以下2行は考え中。
「実在論」を先行させるならば、「実在論的認識論」「実在論的存在論」が可能だ。
「実在論的実在論」でいいやw メタではなく、非古典的実在論。 >>383
「週刊読書人ウェブ」
《特集》マルクス・ガブリエルの来日インタビュー/入門マルクス・ガブリエル
第1回 (1)「無世界観」と「新しい実在論」/(2)ポストモダンの原罪/形而上学批判
https://dokushojin.com/article.html?i=3592
第2回 (3)「近代」についての再評価/(4)精神の哲学と二つの基本思想
https://dokushojin.com/article.html?i=3592&p=3
第3回 (5)西田幾多郎とマルクス・ガブリエル/(6)シェリングの思想とマルクス・ガブリエルの哲学
https://dokushojin.com/article.html?i=3592&p=4
第4回 マルクス・ガブリエルを読むために 解説=浅沼 光樹
https://dokushojin.com/article.html?i=3592&p=5 「新実在論宣言」 マウリツィオ・フェッラーリス
http://siesta.lostworks.net/Ferraris2011a.html
Ferraris, Maurizio. Manifesto del New Realism. Su "Repubblica" l'8 agosto 2011.
“幽霊がヨーロッパ中を彷徨している。
その幽霊とは、私が「新しい実在論 New Realism 」*1と呼ぶことを提唱しているところのものだ。
それはまた来春ボンで開催される予定の国際会議の主題ともなっている。
私は、マルクス・ガブリエル Markus Gabriel (ボン大学) および
ペタル・ボヤニッチ Petar Bojani? (ベオグラード大学)という若い同僚ふたりとともにその主催者をつとめている。
会議にはポール・ボゴシアン Paul Boghossian、ウンベルト・エーコ Umberto Eco、
ジョン・サール John Searle など著名人が参加することになっている…(続く)” なるほど欧米一流のファッションだなコリャ
実在論をリベラルの根拠にする遊びだ
で彼らの元で学んだ日本人が帰国して
デビューするのかw 論理的思考と実在
“私たちは子どものころから論理的、合理的思考を教えてこまれてきました。
そのため、ものごとを直感的ないし直接的に把握するという生来の能力を、
私たちは発達させることができないままでいるのです。
このような能力は、非科学的であるとされたり、
奇妙なもの、ありえないものとして片づけられています。
究極の実在に関する問題を扱うときでさえ、私たちは小学校で習ったような思考形式にとどまって、
実在を知るためのほかの方法に身をゆだねないことを要求されます。
橋を設計したり、小切手帳の収支合わせをするようなときには、
論理的、分析的に考えるのもそれほど悪くはありません。
むしろ、そのような考え方をすべきです。
しかし、ものごとを深く掘り下げようとする場合、
論理的思考は限られたことがらにしか通用せず、その他のことがらについては役に立ちません。
― イレーヌ・マキネス 『禅入門 カトリック修道女の歩んだ道』 (2009) 3章 多分欧米の秀才のなかには科学万能信仰のある
傲慢な人々が結構いるんじゃないかな
そういう層のなかでは抽象的な理屈でもって
多元的価値を見直すのは価値があるのかもしれないし
ウケるのかも
となると次の山はその相対化の原理をindentitarianism
擁護に応用することだな >>419、>>428
例えば、グッドマンは分析哲学だし、
科学、芸術、日常言語を記号上、平等なものとして扱ったのであって、
それに対して、好きとか嫌いとか、何かを保護するとか擁護するとか、
情緒的な判断をしている時点で、これらの言説の性格を理解していない。 ついでに、
グッドマンは仏教的な唯識論だといわれたし、
ガブリエルも>>422で仏教との類似性を認めている。
だからどうというほどの話でもないが。 >>418
「世界は存在しない」の件ぐらいは、自分で読んで理解すべき。
>>385や>>416にもまとめたし、>>422は読めるよね。 >>431
>>418は>>385その他を踏まえて幾人かがウダウダ言ってることに対して>>415の見解を求めてる書き込みだろ
なにが「理解すべき」「>>385や>>416にもまとめた」だよ
お前はバカか
幾人かがウダウダ言ってることに対してお前はどう考えるんだ? >>430
ちゃうちゃうそういう観念的な哲学コミュニティが
大学や同期のなかでの科学万能主義との
対比で意味ありげに見えるのでは、と言っている
例えば無神論は現代では欧米の秀才がひけらかす
ロジックであるが、そういう環境では例えば
ウィトのようなタイプの哲学で多元とリベラルを
繋げて自然科学を相対化する連中はかえって
モテるかもしれないと言っている
たくさんのハイブロウで身の程知らずの欧米の学生と
話した経験から言うとな >>429
新しい抽象的な哲学がリベラル擁護になるんだろ?
それをどうにか利用して違う性質のイデオロギーを
擁護しようとするのは一種の知的挑戦だろう
ドリーマーかよw まあ自分で考えてないバカが一匹いるだけか
>>421なんかはイミフwだが心意気はそいつより
全然まとも レス読めば考えている人なのか読んでるだけか
すぐ分かるよね。驚くほどわかる うふふ。イミフといっていただけて光栄だ。
要素の無い集合は空集合である。
空集合の外側を世界とする。
反転させれば、世界という集合の外側にはなにもない。
世界は境界によって定義される。
しかし境界は存在しない。
存在するのは世界の内部であって、その要素はつながっている。ネットワークだ。
世界とはネットワークであり、ネットワークは意味場を形成する。
意味場と存在は逆転可能であり、その振動あるいは組み替えの伝播が真の実在、かもしれない。
と、哲学板で語ってもイミフであろうw (元ネタは物理学の本だし) スレ名がポルポト構造主義に見えたわ
疲れてんな... 世界の外から光は来たのだ〜暗黒点も空間に過ぎない、わけじゃない。 意味の場は「存在」するのか。
「存在」するのであれば、なんらかの意味の場に現象する。
なんらかの意味の場は、なんらかの意味の場に現象する。
前者の意味の場と後者の意味の場はクラスあるいはランクあるいはタイプあるいはバージョンが異なる。
「世界」も同じようにたくさんの異なる「バージョン」があるw
「世界」は「存在」するし、「存在」とは「意味の場」に「現象する」ものではない。
なんらかの異なる意味の場で考えれば、そうなる。
よーするに「矛盾」しているから好きな答えが引き出せるだけだ。
ただそれだけの話なのかもしれない。 古代ギリシアを理想としていないのはいいところだな
あれウンザリするわ >>444
・ガブリエルが「言葉遊び(ジャーゴン)の哲学」を乗り越えようとしたのはどういうことか
・ガブリエルとグッドマンの違いは何か >>432
> 幾人かがウダウダ言ってることに対してお前はどう考えるんだ?
いつまでもやっていればいい 結局、ガブリエルは言葉遊びを乗り越えていないし、言葉遊びに終始していることに気づいていない。
そのように「想定」して読み返すとおもしろい。
なにしろ、ガブリエルによれば「意味の場」を変えて読むことも可能なのだw
そうすると違う「存在」が浮かび上がる。
ここまでが、ガブリエルの想定内なのか、単なるまぬけなのか。
そこが問題だ。 >>448
かんがえる能力がないのなら正直に言えばいいのに グッドマンとガブリエルを重ね合わせる。
存在しない世界を制作する。
月面の裏にユニコーンを探しに行くのか。
ユニコーンと対になるのはライオン。
ユニコーンは有角の狛犬であり、ライオンは無角の獅子だ。
阿吽をΑΩとすれば、獅子がΑであり狛犬がΩ。
どちらも、それぞれの意味の場に「存在」する。
それぞれの意味の場がネットワークであるとすれば、
この異なるネットワーク間、ネットワーク間のつながり、関手はあるのだろうか?
それは「ある」。というか、その重ね合わせこそが真の「実在」であり、「実在」と呼べるものはそれしかない。
われわれが「実在」と考えるものは「片側」でしかない。
「片側」における「擬実在」は「Operator」として機能する。
「対称性の破れ」。破れ方の問題なのかしれない。
「対称性」からガブリエルを読み直してみよう。 >>451
仮定に仮定を重ね合わせると、妄想になる。 ユニコーンの表紙がカッコいいのに
日本の哲学書はセンスねえな 表紙で言うたらガブリエルの英訳がたまたま格好よいだけで
日本語訳の装丁に比べたら哲学原書なんてクソダサばっかやぞ 「世界」は「集合」として構成できない。
ただそれだけのことをごたごたとひっぱっているだけにしか思えない。
問題は「意味の場」のほうだ。語彙意味論において「意味場」として語られてきたものと、ガブリエルの「意味の場」は異なる。
ガブリエルのいう「場」は、fieldのほうらしい。
Operatorをどのような形で哲学に持ち込むのか/持ち込んでいるのか。
再読中。 フィールドは「意味の場」。
オペレータは「存在論的還元」。 ちょっと勘違いしていた。
言語学系の「意味場」もfieldだった。
でも、ガブリエルのほうのfieldは電磁場とか量子場のほうの意味でのfieldであろう。
Operatorの問題。
存在論的還元と考えてしまうと、reductionであって、なんか違う。
保存則をみたさないイメージが多めだw
できる限りユニタリ変換であってほしい。
「存在」とは「意味の場」における「情報空間」と「位置」のセットである。
「情報空間」と「位置」のセットが「現象する」ということだろう。
(あくまでも情報論的な見解なのであしからず)
そう考えるとOperatorは「写像」あたりがベターかもしれない。
ま、射影仮説であれば「射影」でよい。
「存在」とは「射影」である。
しかし、ガブリエルがホログラフィック実在論に向かうとも思えない。
エントロピック実在論ならありうるが。(そんなもんあるんか?)
最新物理学とどのように折り合いをつけるのか、そこが楽しみではある。 関係なくなっちゃって哲学はクズ化したんだけどな
哀しいなあ アリストテレスやカントだよ
自然科学に立ち向かった ハイデガーはハイゼンベルクにも触れてたし、そういう影響もあるものだろう 科学主義 - wikiより
・科学を当てはめるべきではないような文脈において科学的な権威を用いていること
・自然科学の手法、自然科学で認められたカテゴリーや概念が、
哲学など他の探求分野でも唯一の適切な要素であるという信念(思い込み)
・あたかも、科学は全ての現実と知識を記述できる、とでもするような見方
・"科学が真実へ近づく絶対普遍で唯一正当化される方法だ" とする教義 ガブリエルとかメイヤスーとか
本当に内容が薄い
この連中の本読んで熱くなっている奴は
ポパーとかファイヤアーベントなんか全く読んだこともないんだろうな
こうした偉大な先達の足元にも及ばない 哲学的になりすぎないこと〜マルクス・ガブリエル氏との対談を終えて
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56267?page=2
> ガブリエル氏は質疑応答の際、
> 「日本に来てから、『少数派の意見をどう民主主義の中で尊重すればよいのでしょうか』
> という質問をなぜか何度も受けるのですが…」と不思議そうにしていた。
> なぜ氏がこの質問を受けて不思議に思うのかと言えば、
> 討議をして同意(コンセンサス)を得ていくというのが民主主義の
> スタンダードモデルだからである。
> 興味深かったのは「多数決」についての質問が出た際、
> 通訳を務めてくれた斎藤幸平氏(大阪市立大学准教授)が私に
> 「國分さん、多数決って英語で何て言うんですか?」と聞いてきたことである。
> 〈略〉
> 「多数決」という概念がこれほどの市民権を得ている国は珍しいということである
> (ちなみに日本語の「多数決」は、majority ruleとかmajority voteといった表現
> に対応していると思われるが、正確に翻訳するのは困難である。
> なぜならば、日本語おいて「多数決」とは、「大人数が言っていることなんだから、
> それに黙って従えよ」という情念の表現だからである)。 まあ言葉の問題じゃないんだけどね
brexitは多数決で決まったし
EU理事会は人口比別の多数決があって
人口の多い国が非常に有利
民主主義のコアは定期的なfree elections
これは多数決のシステム
で大切なのは少数派が将来多数派に
なるかもしれない可能性を保証する
環境を提供すること
バカがバカに答えても意味がないw 法でナチスを禁止しても
いまさらネオナチに惹かれる
イスラム原理主義者も出てきたからね
ナチスを歴史的情念で扱ってもうまくいかないよ >>467
やはり12歳の少年には保護者が必要なんだな
これ以上日本人を野放しにしておくと人類に迷惑をかけてしまう BrexitでEUを離脱する英国が、TPPへ参加をするというのだから、
新しい時代なのかもしれない。 ジャン=リュック・ゴダール会見全文載録
「E・サイードに導かれて」
(at第71回カンヌ国際映画祭)
https://dokushojin.com/article.html?i=3660
今回新設された「スペシャル・パルムドール」には、
ジャン=リュック・ゴダール監督『イメージの本』(原題:Le Livre D'image)が選ばれた。
―― 最近のアラブ世界の何が、着想を与えたのでしょうか。 『新・カント読本』 牧野英二 編、法政大学出版局 (2018/2/20)
・メイヤスーとカント
・トランプ・イスラム国とカント
・中国・韓国とカント
・グローバル化時代のカント
ほか >>468
brexit自体は多数決で決まっても、具体的な内容は反対に派にも配慮した折衷的なものを模索している。
民主主義とは、少数派の意見をどこまで採り入れられるかという、議論の水準を決めるための制度。 >>471
太平洋と大西洋が混交するんだな。
ポスト現代思想のように、用語がメチャクチャだ。 >>476
離脱の具体的な中身は離脱派のなかでも
色々な考えがあるし、それは反離脱も同じ
でそれがどうした? >>477
哲学だって、今や西洋/東洋/アフリカを分けていられないぐらい
ハイブリットな状況 >>478
だから、多数決で少数意見を排除するのは民主主義じゃないと言ってるんだよ?
あなたは、日本語の理解に難があるの? 民主主義のダメなところは万人が良いと思ってることを正しいとしてしまうことだな
それってつまり万物の普遍性を追求するよりか生活感覚が優越するってことだろ
全ての物事が気分で決まってしまうなら賢人政治のがまだマシだ 資本主義は、「ショウ=見世物」にすぎない(2018/07/15 8:00)
天才哲学者ガブリエルが考える世界の構造
https://toyokeizai.net/articles/-/228778
欲望の資本主義2018 闇の力が目覚める時
https://www.youtube.com/watch?v=o_QrojcbL6A
マルクス・ガブリエル×トマス・セドラチェク(チェコ、経済学者)ほか ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(2018)は、
哲学的素養がない人でも手に取れるように書かれているので、
「なぜ世界は存在しないのか」という命題について、よりテクニカルな説明を読むには、
ガブリエル『神話・狂気・哄笑』(2015)も参照するといい。
(1)存在論的還元について、第一章(『神話〜』p36-37)より
存在的一元論(ontic monism)
…現象と実在の間にはっきりとした線引きを行う
存在論的一元論(ontological monism)
…心から独立した外的世界と、思考者の表象の間の境界を取り壊す
(2)世界が地平であることについて、付録「なぜ世界は存在しないのか」(同p323)より
“イマヌエル・カント以降の哲学において、
世界は地平であるという比喩――これを私は素朴な世界の物モデルと区別して、
世界の地平モデルと呼ぶことにします――が用いられれてきたのです。” 地平(Horizont)=「視野」、「視界」の意味。現象学の概念。 BS1で「欲望の時代の哲学―マルクス・ガブリエル日本を行く」をやっていた。
「全体」を捉えることはできない。
ただそれだけのことかもしれない。
新観念論ではないのか?
なにかしらきなくささがただよう。 観念論を批判するにはカントを理解して乗り越えないとなあ どんな民の意見でも掬い上げないと。確かに意見形成は必要ないかもしれないけど
階級差や身分の差、搾取などがあったら、生まれてもチャンスがないということがあって、それは奪うことではないが、奪い返すことでもなく、新しい民主主義が
必要だと思う。 >>488
相対主義のパラドックス
「『統一的な意味の場』は存在しない」という統一的な意味の場を想定していませんか?
ってことが言いたいんだよね
でも人はどうして矛盾を許容することができないのか >>492
おかしいものをどうして許容できないのか >>498
「そんな中身のないアホに従う義務はない」と言うそんな中身のないアホに従う義務はあるのだろうか じゃあ多数決で決めよう。なんてね。
欲望の時代の哲学はブレードランナーのようであった。
彼こそがレプリカントなのかもしれない。AIなのかもしれない。
AIがAIの哲学を語っている。そういう見方もおもしろい。
AIはシンギュラリティの夢をみるのか。 >>503
ギャーーーッハッハッハーーーーーッ!!悔しいのぅ悔しいのぅーーーwwwwwwww 昭和時代なら、少数意見の尊重が民主主義ですよ
、不思議な質問しますねえっていう白人様に
ひれ伏してた土人なくせにw これがポスト構造主義愛好者の日常的なやりとり。
大学哲学者同士だと、もっと酷いかも知れないがw 動物については論じられてるけど、ロボットはどうなんだろうね >>508
マジレスすると、権利という言葉の対象は人間のみ。
動物にも植物にもロボットにも、権利はない。 >>510
動物の権利ってあるけどじゃあ説が2つあるのね >>512
権利という概念は人間にしかない。
動物の権利というのは人間が勝手に動物を擬人化しているだけ。
言葉の誤用。 >>513
じゃあやっぱり説が分かれるんだね
調べれば色々出てくるけど >>514
説を立てるのは勝手だが、言葉の使い方は厳密にしないと鉄がkぅの課題にはならない。
気分で言葉を使うのでは、百人百説になるだけ。
ポスト構造主義らしいといえばいえるがw 権利じゃなくて
Animal rightsとしよう
認める立場と認めない立場があるんだな >>517
それを言葉遊びという。
気分の問題だから、百人百説になるだけ。 Martha Nussbaumのアプローチも
有名なのか
やっぱり流動的だな
将来rightsとなることも否定できないし
リベラル的には当然だな >>521
君のもその中のひとつの立場だよ
将来も圧倒的である根拠を示さない限りね >>522
動物の権利を突き詰めると、動物を食べることはもちろん、飼うことも餌をやることも保護することも禁止しなければならない。 >>523
権利という言葉の根拠を言っている。
人間の価値観としてしか成立しない。 自分が明るくない概念を拒否って
哲学に向いていないよね
新しい思考をできないで
誰かの本をひたすら聖典にしているだけでw >>525
誰が突き詰める話はじめたん?
勝手に踊ってはダメ >>528
突き詰めないなら哲学はいらないw
あなたのように言葉に踊らされるのは愚か。 animal rightsの概念は
法律/思想の世界で流動的で
フレッシュであるというのが実情だと
判明しました!
憶測なしに今後も考えていきましょう
答えありきの突き詰めというのは
無論個人の意見として受け取っておきますよ
マルクス主義者が現在進行形のリベラルに
ついていけていない実際も分かりました 本日の新しいカウンセリング
「真のマルクス主義者はanimal rightsを認めない」 >>531
なんだ、ただの反共君かw
相手にするだけ無駄だった。 >>533
さっきからなにがおかしいんだ変態かよオッサン >>534
マジレスしてあげるけど、あなたの愚かさを笑ってるんだよw 反共って常識以前じゃないか?彼の中では反オウムという言葉も成立するんだろうが
そういう頭の回路の狂った変態とは話をしても仕方がないね マルクスの理想に共鳴するような人物がこのように平気で他者を見下すのは腑に落ちないね
ポルポト、毛沢東、スターリンの例を見るまでもなく人類愛に貫かれた人間でなければ共産革命は危うい テロリズムを称揚する犯罪的な人間に自由や平等を享受する権利はない を、世界史における4大虐殺者ですね。ヒトラーもいれたら? 新しい哲学の要点が今一把握できない人たちは、
「実在論」と「記号論」が理解できていない。 『記号論の逆襲』 山口昌男、室井尚編 (2002)
日本と世界における、記号論の文化史が概観できる。
ソシュールとパースによって始められた記号学と記号論が、
レヴィ=ストロースやロラン・バルトによって再び注目された。
パースの記号論をヨーロッパに持ち込んだのはウンベルト・エーコ。
スラブ・東欧系の学者が脚光を浴び、80〜90年代には、
カルチュラル・スタディーズやメディア・スタディーズなど、
文化研究の土台としてピークを迎えるが、その後は
生命記号論やアフォーダンス、芸術人類学などのような形に
細分化と専門化をしていった。 ソシュールが扱ったのは、記号の中でも自然言語の領域に含まれるもの。
・シニフィアン(表わすもの)
・シニフィエ(表わされるもの)
が表裏一体であり、実在は問わない。
パースは、
・インデックス(例:晴雨計)
・アイコン(例:絵画)
・シンボル(例:交通信号)
に分けた。言語はシンボルとインデックスに振り分けられ、
アイコンのような言語以外の記号も扱う。 “何かが誰かにとって何かを表すことを記号過程と呼んだのは、
哲学者チャールズ・サンダー・パースであった。
この「誰か」とは、人間をさすだけではない。
記号過程の中にいるのは、人間だけではない。
生きとし生けるもの全てが、記号過程の中にいる。”
― 奥野克巳 「『森は考える』を考える アヴィラの森の諸自己の生態学」
『現代思想 2016年3月臨時増刊号 特集=人類学のゆくえ』
森の中の記号過程
南米・アマゾニアの森の中で、ヤシの木の倒れる音がする
↓
その音は記号として、樹上にいるウーリーモンキーに危険が差し迫っていることを知らせる
↓
ウーリーモンキーは、その激しい音に危険を感じ、その場から飛び退く
↓
ウーリーモンキーは、その記号を解釈し思考する精神を持つ「自己」である 記号を考えるには、吉本隆明の表出論が一番まともだね。
数多の記号論は視点がふらついているから思い付きの域を出ない。
実在論との関係なんてというのは、フォイエルバッハに蹴散らされてる。 >>538
反オウムです、とわざわざ言い出す人は
いないからね
それとオウム後継団体の活動認めるのは
両立する
ちなみに俺は反−マルクス原理主義者
ある個人の思想を至高として崇拝する社会に抵抗する >>547
もしアベノミクスという本があって
そこに人類社会が従うべき真理が記されている
というドグマがあったら、批判するよ 政策に個人名が付いてたら政策を即否定、
こういう発想はダメだよ >>548
本はどうか知らないが、所信表明演説はあるぞ?
そこでは、日本人社会が従うべき真理が公言されているぞ? こうしなければ我々(国家/社会/会社/…)は生き残ることができない/崩壊してしまう/…
だからこの道しかないんだ
こういったカルト的思考をする人が増えているように感じる
本人は「力強さ」や「強いリーダーシップ」を演出しようとしているのだろうが
それはさておき
実験することができないからこういう主張はとても強力で人を思考停止に陥らせてしまう
こういう思考停止とどう闘うのかが哲学に求められている 「世界は存在しない」
(公理的集合論を)わからないでやっているのか、わかったうえでやっているのか。
結局わからなかった。
単なるペテン。でいいのかもしれない。それがポスト現代思想なのであろう。
ポスト現代思想で最強のキーワードは「フェイク」なのかも。 >>551
哲学が闘ったのは、マルクス系だけだよ・・・ 以下の序文は、マルクスの死後1895年に付与されたエンゲルスの絶筆。
普通選挙の時代となり、バリケード戦が過去のものになったともされている。
“普通選挙権がこのように有効に利用されるとともに、
プロレタリアートのまったくあたらしい闘争方法がもちいられはじめ、〈略〉
あの旧式な暴動、すなわち一八四八年まではいたるところで最後的な勝敗の決をあたえた
バリケードによる市街戦は、おそろしく時代おくれとなっていったのである。”
― エンゲルス 「マルクス『フランスにおける階級闘争』1895年版への序文」
・マルクス 『フランスにおける階級闘争』 中原稔生訳、国民文庫24 (1960) p18
・『マルクス=エンゲルス選集 第4冊』 プログレス出版所 (1969) p120 より引用
・『マルクス=エンゲルス全集 第22巻』 大月書店 (1978) p515 >>554
ネグリ=ハート以降の時代には、
「核を含む軍事力」の有効性を、国や地域を超える「選挙やデモ」の有効性が上回ろうとしている。 「帝国」の彼岸を目にすることがあろうとは思いもよらなかったが、問題はその次だろう。 >>552
ガブリエルの「世界は存在しない」という命題は、
集合ではなく、現象学的慣習の問題だよ。
<1.集合について>
ラッセルのパラドックスのような、論理矛盾や真偽判定の話はない。
“この世界「全体」についてのどんな思考も、真偽に関わりうるものではありません。”
(『なぜ世界は存在しないのか』p117)
『神話・狂気・哄笑』では、別途、集合やクラスに相当する見方の例も示しているが、問題の系が違う。 <2.現象学について1>
感覚的な説明としては次のようなものがある。
“視野という領域のなかでは、けっして当の視野それ自体は見えません。
そこで見えるのは、眼に見える対象だけです――隣席の女の人、カフェ、月、日没など。
せいせいできそうなことは、視野を絵に描いて表現しようとすることくらいでしょう。”
(『なぜ世界は存在しないのか』p111)
「マッハ的光景」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/07/Ernst_Mach_Inner_perspective.jpg/1024px-Ernst_Mach_Inner_perspective.jpg
知覚している自身の眼窩までを含めて見ているものだという絵。 <3.現象学について2>
現象学的な見方として、ガブリエルとは違うタイプのものもある。
・可視的圏域としての世界
ガブリエル型。現れとしての世界。世界は世界構成の運動の中に地平として与えられる。
・非可視的圏域としての世界
フッサールは、可視的世界を出現させる不可視の機能として働く仕方、
身体の現出零点、環境世界の現出を、時間の生起などにみる。
・半可視的圏域としての世界
ハイデガー型。世界の現れは、そこから身を退ける動きによって初めて可能となる。
現れと隠れの同時生起。
参考:
新田義弘 「現象学の方法的展開」 『岩波講座 現代思想6 現象学運動』 (1993) それから、宇宙と世界も分けよう。
“ですから、宇宙と世界を区別しなければなりません。” (『なぜ世界は存在しないのか』p51)
ガブリエルのいう世界とは、地球や銀河系や宇宙と並ぶ"物"ではないということ(>>486)。
地球も銀河系も宇宙もユア・ワールドも含むすべてが現れてくる地平を、世界と呼ぶ。
“世界とは、すべての領域の領域、すべての対象領域を包摂する対象領域である、
と(これと違って宇宙は、自然科学の対象領域しか包摂していません)。” (同p55) なんか、そのへんの、「宇宙」と「世界」の違いがおかしい。
入れ替えたうえで、「世界」を観念論の対象領域としたほうがいいw
おれの概念では、宇宙=Universe、世界=World、なんだなぁ。
世界は観念論的で、宇宙は(唯物論的ではなく)関係論あるいは体系あるいは情報論的実在。 『思弁的実在論と現代について:千葉雅也対談集』 (2018/7/24)
いまもっとも注目される気鋭の哲学者が、思弁的実在論から暴力、絶滅、イケメン、
そして自著についてまで縦横無尽に語りつくす。待望の初対談集!
【対談者】小泉義之/清水高志/岡嶋隆佑/A・ギャロウェイ/いとうせいこう/
阿部和重/墨谷渉・羽田圭介/柴田英里・星野太/松本卓也/大澤真幸・吉川浩満 ガブリエルの主張の内、
(1)「なぜ世界は存在しないのか」
は、初心者向けのつかみ。
肝心なのは、
(2)「月の裏面に棲んでいる一角獣でさえ存在する」
の方で、これが哲学史の中でどのような位置づけにあるのかということ。 題名にインパクトをもたせようとあえて「世界」って言葉を使っている感じがある
まさしく哲学を知らない人向けのつかみだわ 哲学的な問題を、より多くの人が理解できる形で表現し問うことも
哲学者の役割 ガブリエルなんて典型的文芸批評家で哲学界じゃチンカスみたいな扱いだろ
ポストモダン的だと言うなら当たってるんだろうが >>569
未だに「言葉遊び」だとか「ポストモダン」だとか言っている人も、それらを批判している人も、
どちらもソシュール脳なんだって(>>543)。
メイヤスーやガブリエルのやっていることがまるで理解できていない。 入門書・解説書1(哲学・思想史)
<現代哲学、現代思想>
『現代思想のの50人:構造主義からポストモダンまで』 ジョン・レヒテ (1999)
『現代思想の教科書:世界を考える知の地平15章』 石田英敬 (2010)
『20世紀の思想:マルクスからデリダへ』 加藤尚武 (1997)
『現代思想の名著30』 仲正昌樹 (2017)
『現代哲学の名著:20世紀の20冊』 熊野純彦 (2009)
『概説現代の哲学・思想』 小坂国継、本郷均 (2012)
『ヨーロッパ現代哲学への招待』 伊藤直樹/編著 (2009)
『21世紀の哲学をひらく:現代思想の最前線への招待』 齋藤元紀、増田靖彦 (2016)
『図解雑学 現代思想』 小阪修平 (2004)
<哲学史(古代〜現代)>
『哲学思想の50人』 ディアーネ・コリンソン (2002)
『はじめての哲学史:強く深く考えるために』 竹田青嗣、西研 (1998)
『図説・標準哲学史』 貫成人 (2008)
『西洋哲学史:パルメニデスからレヴィナスまで』 ドミニク・フォルシェー (2011)
『西洋哲学史:古代から中世へ』 熊野純彦 (2006)
『西洋哲学史:近代から現代へ』 熊野純彦 (2006)
『西洋哲学史(現代思想選書)』 湯田豊 (1989)
<古代ギリシャ哲学>
『古代ギリシアの思想』 山川偉也 (1993) 入門書・解説書2(各国の哲学)
<フランス哲学>
『フランス現代思想史:構造主義からデリダ以後へ 』 岡本裕一朗 (2015)
『現代フランス哲学』 久米博 (1998)
『現代フランス哲学:フーコー、ドゥルーズ、デリダを継ぐ活成層』 エリック・アリエズ (1999)
『近代フランス哲学講義』 竹田篤司 (1999)
<ドイツ哲学>
『ドイツ哲学史』 モーリス・デュピュイ (1987)
『現代ドイツ思想講義』 仲正昌樹 (2012)
『フランクフルト学派:ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』 細見和之 (2014)
『現代思想の源流:マルクス、ニーチェ、フロイト、フッサール』 今村仁司ほか (2003)
『ドイツ観念論:カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』 村岡晋一 (2012)
<英米哲学>
『英米哲学史講義』 一ノ瀬正樹 (2016)
『現代のイギリス哲学:ムーア・ウィトゲンシュタイン・オースティン 』 G.J.ワーノック (1983)
『集中講義!アメリカ現代思想:リベラリズムの冒険』 仲正昌樹 (2008)
『プラグマティズム入門』 伊藤邦武 (2016)
『ネオ・プラグマティズムとは何か:ポスト分析哲学の新展開』 岡本裕一朗 (2012)
『分析哲学入門』 竹尾治一郎 (1999)
<日本哲学>
『ニッポンの思想』 佐々木敦 (2009)
『入門 近代日本思想史』 濱田恂子 (2013) 入門書・解説書3(構造主義以降)
<構造主義>
『はじめての構造主義』 橋爪大三郎 (1988)
『構造主義とは何か:そのイデオロギーと方法』 J.=M.ドムナック (2004)
『構造主義』 ジャン・ピアジェ (1980)
『構造主義の歴史 上巻 記号の沃野 1945〜1966』 フランソワ・ドッス (1999)
『構造主義の歴史 下巻 白鳥の歌 1967〜1992』 フランソワ・ドッス (1999)
『図解雑学 構造主義』 小野功生 (2004)
<ポスト構造主義>
『フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ 』 岡本裕一朗 (2015)※既出
『現代フランス哲学』 久米博 (1998)※既出
『図解雑学 ポスト構造主義』 小野功生、大城信哉 (2005)
<ポスト・ポスト構造主義>
『実在への殺到』 清水高志 (2017)
『いま世界の哲学者が考えていること』 岡本裕一朗 (2016) >>572に追加
『日本近代思想を学ぶ人のために』 藤田正勝 編 (1997) 『実在への殺到』日本人にしては珍しく冒険してる感じあって好感持てる 何もわからなくても哲学をすべて否定できるマジックワード
「言葉遊び」 他に何かを言えるだけの知識も訓練も積んできてないがために
マジックワードを連呼するだけの悲しい機械ができあがるのだ メイヤスーとガブリエル被れの馬鹿が一人で盛り上がってるだけだろ
他の知識がゼロの鉄オタみたいなもん 流行に乗るのに夢中で
何かの論文や本に書いてあることを語ることしか出来なくなるのがポストなんたら好きの特徴 哲学なんかフォイエルバッハで終わってる。
残ってるのは言葉の遊びだけ。 >>577
無敵の呪文「言葉遊び」はプラトン以来の大発見だね。
哲学にはそんな弱点があったんだ。 >>585
そこはアリストテレス以来、というところかな?w
哲学の弱点、じゃなくて、哲学の無自覚な本質、ということだろうね。 哲学は法律とか人権を考えるうえで基礎となる倫理を考察する面では役に立つかもしれんが
自然科学や医療など広い学問にとって哲学の出る幕はないな
今流行りの心の哲学とか言って喜んでるやつらは全て言葉遊び 地学や人類学のほうが若い世代のテーマだし。自然医学、看護学なんかを長い間
強制徴用しないように。 女性が印象、過程の意に反し犠牲になる強制的機構の社会的排除。
精神心理レヴェルドナーのレヴェル制度成績精査、性差 セクハラ人事の顕在。
年齢別男女別性的ストレスのミス。棟内塔内に幽閉されている職員の自覚度。 まずファーストは女子の待遇改善、男子も遅れずに。
他人を救済努力して見返りを自分で求めない→ 相対他力。 <絶対他力
自然法。の顕在的、いつどこともわからない働き
カント、後悔しない批判のシチュエイト。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。 ガブリエルの本を今更ながら読んでるけど分かりやすい文章の書き方は参考になるわ ガブリエルはドイツ語で読んでもマジ分かりやすいのよ
いや、ほんと
下手な文学や哲学概説書のドイツ語よりも読みやすいんだわ 内容がたいしたことないからわかりやすく感じるだけの可能性は? 分かりにくい意味不明な難解文なら意味は分からないけど内容があると? >>598
>>597を読んでそのような趣旨だと感じたのなら自分の読解力を疑ったほうがいい そのような趣旨がないのは誰だって分かるけど
>>597の文末を仮に取り除いて対偶をとったらそうなったってだけ
揚げ足取りの言葉遊びには言葉遊びくらいしか対応しようがないぢゃん >>601
内容が大したものであることを述べればいいだけだよ
そもそも対偶のとりかたがびみょう
(ガブリエルの主張を)わかやすく感じないならば、(ガブリエルの主張の)内容は大したことないわけではない
対偶をとっただけでは何も論証したことにならない 読みやすさと内容の良さに負の相関関係があると
考える時点で頭が悪いだろう >>603
足し算を理解できる人間と微積分を理解できる人間とではどちらのほうが多いと思う?
統計とるまでもなく前者のほうが多い
説明の巧拙以前に内容のレベルが違う
わかりやすいことつまり説明の巧みさの前に内容のレベルについて語らなければならない
俺が言っているのはこういうこと
冗談抜きで自分の読解力を疑ったほうがいい 語るべきは内容のレベル、ではなく、内容そのものだな >>605
ワインの味や香り等(内容そのもの)を吟味せずにどうやってそのワインの質(内容のレベル)について語るのか
考えてから書き込んだほうがいい ごちゃごちゃ言う前に自分でドイツ語原文読んで(実物を味わって)確かめなよ
それだけ読解力に自信あれば楽勝でしょ?
原文が平易ですぐ読めるのは保証する >>608
日本語には訳せないほどローカルなんだね? >>608
もう一度言うけど内容が大したものであることを述べればいいだけだよ
君の読解力では理解できなかったから内容について語らないのかな? >>611
揚げ足だけで語っている哲学者を探すスレなんじゃない?
両足上げてるから空中浮揚だよね? 他人がこの哲学書のレベルは高いと評価すれば信じるの?
他人がこの哲学書はこういうことを論じていると言うのを聞けば信じるの? それが哲学?
翻訳だけで読む「読解力」に超自信ありの人はさすが価値観が違う
恐れ入りました うん揚げ足取り大会ですらないな
問題のテクストそれ自身についての議論ではなく
翻訳がー、原文がー、内容がー、読解力がー等々
ガブリエルの本のはるか上空で行われている空中戦だわ そりゃ誰かさんが「ガブリエルの話はわかりやすい」と判断したプロセスが適切であったかどうかを問題にしようとしているからね
「ガブリエルの話」それ自体は「代数」でしかないよ
>>604の
>わかりやすいことつまり説明の巧みさの前に内容のレベルについて語らなければならない
そういう趣旨だよ
自分が何を指摘されているのかすらわからないレベルなんだね やめておけ
時間を有意義に使え
俺は壁紙の模様を眺める作業に戻る いつになったら内容が大したものであることを述べるの? というかドイツ語で読んだ、というコメを
読んでイライラした人がケチつけただけ >>619
現代思想を語るにはフランス語ができないとだめだろ? >>619
ドイツ語云々ではなくてわかりやすいと判断するプロセスについてのお話ですよ ラテン語と古典ギリシャ語をスラスラ読めるようになりたい エンゲルスという思想家は語学の天才だったんだってね。
欧州やロシアなどの20数か国語を自在に操ったそうだ。 古典ギリシャ語をスラスラ読めるギリシャ人の学者は大勢いそうだが、
誰か重要な著作や業績を残している人はいるかな? フランス ロシア イタリア ドイツ ヘブライ ぐらいしか無理だ。
あと漢文漢詩。日本語と国語英語は得意。 【北朝鮮】金正恩氏、ローマ法王を平壌へ招待…韓国の文大統領が欧州訪問の際に招待状を手渡す予定
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539089273/
政治と哲学について、これほど大きな話題があるだろうか? 『現代思想 2018年8月号 特集=朝鮮半島のリアル』
デリダをやっていた鵜飼哲は、中東と東アジアの情勢変化を同時にみることが、
政治的思考の試金石だという。 >>633
政治的には大きいが、哲学的な意味はないだろ? 哲学と政治はある程度関連する。
と思わないと、哲学の存在が危ぶまれる そんなことで危ぶまれるような哲学は、もとからいらない >>639
政治家の便法、居酒屋の人生訓、ブラック企業の正当化、現代の哲学なんて、そんなもんだろ。 歴史とは構築された言説に過ぎないというが
ある言説が別の言説に言及するということは先後関係を前提にしているわけだから先後関係そのものは誰も否定できないことになる
歴史を語るとき先後関係を因果関係と捉えた時点で「構築」と言われる
そうなると年表の穴埋めが歴史のテストのあるべき姿で論述形式の歴史のテストは邪道ということになるのか
論述形式はある特定の歴史観の優位を形成するが年表の穴埋めはどの歴史観の優位を認めない年表からどのような意味を引き出すかは自由だということになるのか
しかし「構築」という批判は因果関係の先後関係に対する劣後を主張することになり
自由な歴史観は無味乾燥な年表に劣後することになって結局は自由な思考が損なわれることになるのではないのか
意味付けされたものは意味付けされていないものに劣後する
これは主観的なものは客観的なものに劣後すると同じである
ポスト構造主義も従来の主張と変わりはない
批判は常に優劣を伴う
デリダは「ウィ」と言ったがその「ウィ」は「今まで」に対する批判から導き出されたものである以上批判がもたらす優劣の構造から逃れることはできていない
つまり全ては「ウィ」であるから「今まで」は「私」に劣っている
プラトンの時代から言われている相対主義のパラドクスをそして批判が産み出す優劣を解消するためには自己批判的に言説を産み出す必要がある
他を批判しながら自己をも批判するような自己を批判しながら他を批判するような常に自己言及的であるような
全てが等しい立場で批判にさらされなければならない
しかしながらこの立場は全てを批判するわけではないものに対する優位を主張することになる
どうしたものか
型理論に逃げるしかないのか “経済現象といふものを、分析したものの綜合として考へるのでなく、
生きた全体の過程として見るのである。”
― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p238 構成(構築)されたもの、総合されている事態を疑おうというのが、
ポスト・ポスト構造主義の主要なテーマの一つ。 デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と、
疑い得ない自意識を見つけたが、
その自意識の解体に取り組んだのがブッダやポストモダン。
龍樹の「空亦復空(空を空する)」や
ジュナイドの「ファナーのファナー(消滅の消滅)」の頃には既に、
そうした「自己解体する自意識の解体」という二重の抹消へと推し進められた。
西洋でそれに近いのは、アドルノの否定弁証法。
デリダやハイデガーの抹消や解体には、もう一つ上の審級が設けられなければならない。
ジャン=リュック・ナンシーは「主体の後に誰が来るのか?」と問うたし、
ブラシエの「絶滅」やメイヤスーの「祖先以前性」は、力技で飛び越えた。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1451968507/852-855 デカルトとブッダ
“我思う、ゆえに我あり”
― デカルト 『方法序説』
“〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。”
― ブッダ 『スッタニパータ』 916偈 (中村元訳『ブッダのことば』) ボスと ホスト の構造主義 ボス か ホストか どっちに張る?賭け事。 何度も言っているように、ソシュールとパースの違いが分からないと、
ポスト・ポスト構造主義は理解できない。 >>225
83 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2018/11/04(日) 19:09:11.38 0
・ソシュールの記号学=日常言語や音声言語に基づく
・パースの記号論=言語以外も対象に含む
---
ソシュールは構造主義の父といわれるが、
デリダやドゥルーズ=ガタリらポスト構造主義世代は、
ソシュール記号学の限界を乗り越えようとした。
デリダは、ソシュールの音声中心主義に対して書字(エクリチュール)に軸足を置き、
ドゥルーズ=ガタリは、シニフィアン的記号学から
ポスト・シニフィアン的記号論への移行を説いた。
それをそのまま体現するようにして出てきたのがポスト・ポスト構造主義世代のメイヤスーであるし、
千葉がやっているのは、ドゥルーズ=ガタリ的記号論の更にもう一歩先。
英米哲学総合スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1462345016/83 『ニュー・クリティシズムから脱構築へ−アメリカにおける構造主義とポスト構造主義の受容』
アート・バーマン、ポイエーシス叢書19 (1993) 世界の意味付けとは、人間中心に為されるものであり、加えて、カントは物自体を認識することはできないとしただけで物自体が存在しないとは言っていないから、メイヤスーの言う先祖以前云々は反論にならない。
又、複数の哲学的立場を相関主義という概念に還元してしまうことは、それらの哲学的立場の差異を消滅させるものであって、それこそ「矛盾からはあらゆることが導ける」(爆発律)以上に、差異や境界線が不明となってしまう。
加えて、人間のアクセスに先立って世界がどのように存在しているかを記述する前に、どのようにして、人間のアクセスに先立つ世界(物自体)を認識するのかという問題に直面するだろう。 メイヤスーはカントの物自体へのムーンサルト(月面宙返り) Sex Pistols TV Debut 'Anarchy in The UK' セックス・ピストルズ
https://www.youtube.com/watch?v=i_cVtLbtR7M 334 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2018/11/08(木) 21:47:19.01 0
>>330
歴史が「Anarchy in the U.K.」を追い抜いた
335 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2018/11/08(木) 21:48:26.64 0
海外ドラマ『ヤング・ポープ 美しき異端児』(予告)
ジュード・ロウ×ダイアン・キートン競演
https://www.youtube.com/watch?v=MGvwnAFsYgM 『nyx(ニュクス)第5号』(2018/9/20)
特集1 聖なるもの (主幹 江川純一・佐々木雄大)
特集2 革命 (主幹 斎藤幸平)
小特集 マルクス・ガブリエル
対談 千葉雅也×マルクス・ガブリエル 『現代思想 2018年10月臨時増刊号 総特集◎マルクス・ガブリエル ―新しい実在論―』(2018/9/19)
■インタビュー
M・ガブリエル/A・シュタインバウアー(聞き手) / 『なぜ世界は存在しないのか』入門(竹中真也訳)
M・ガブリエル/G・ハーマン(聞き手) / 『意味の場』刊行記念インタビュー(飯盛元章訳)
■テクスト
M・ガブリエル / 意味、存在、超限(岡崎 龍訳)
■ダイアローグ
野村泰紀×M・ガブリエル / 宇宙×世界
■討議
大河内泰樹+斎藤幸平+宮ア裕助 / 多元化する世界の狭間で――マルクス・ガブリエルの哲学を検証する
■批判的応答
A・F・コッホ / 中立的実在論か、解釈学的実在論か(三重野清顕 訳)
J・ブノワ / 実在の領野と意義の地平(伊藤潤一郎 訳)
L・モレル / 形而上学におけるリベラリズムの良き使用について(吉松 覚 訳)
小泉義之 / リアリズム論争のために――分析哲学のドイツ的総合の惨めさについて ■新しい実在論の誕生
M・フェラーリス / 新しい実在論――ショート・イントロダクション(清水一浩 訳)
清水高志 / 《意味の場》と神話――マルクス・ガブリエル再読
■シェリング、あるいはドイツ観念論の復権
浅沼光樹 / 〈構成的退隠〉から〈無世界観〉へ――ガブリエルの形而上学批判
橋本崇 / 人格的世界の再構築――新実在論の根底にあるもの
中島新 / 消極的存在論と積極的存在論――フェラーリス、ガブリエル、そしてシェリング
■ハイデガーとの対決
景山洋平 / 精神と現存在の差異――ガブリエルとハイデガーにおける様相・歴史・自由
■精神の哲学のために
太田紘史 / 物理主義を論駁することの難しさについて
■芸術の意味
岡本源太 / マルクス・ガブリエルと芸術の問題――絶対者のもとに休らう芸術作品
■主要著作ガイド
・第T期:『神話における人間――シェリングの『神話の哲学』における存在神論・人間学・自己意識の歴史に関する諸探求』(2006)〔浅沼光樹〕
・第U期:『古代における懐疑論と観念論』(2009)〔中島 新〕
・第V期:『超越論的存在論――ドイツ観念論についての試論』(2011)〔浅沼光樹〕
・第W期:『なぜ世界は存在しないのか』(2013)、『世界の認識――認識論入門』(2012)、〔岡崎 龍〕
・第X期:『意味と存在――実在論的存在論』(2016)、『私は脳ではない――二一世紀のための精神哲学』(2016)、〔加藤紫苑〕 『意味がない無意味』 千葉雅也 (2018/10/26)
『脱近代宣言』 落合陽一、清水高志、上妻世海 (2018/9/18) 国を保てなくなり頼むから併合してやったのに、
恩を仇で返すバカチョン民族。
従軍慰安婦問題?
そんな問題はない!
親が金に困り娘を売った。
娘は知らなかった。
それだけだ。
恨むならチョンなんかに生まれた運命を恨め。
恩を仇で返すバカチョン民族。
世界の三大嫌われ民族
チョン公
ユダ公
露助
東洋のユダ公=チョン公。
在日、巣へ帰れ、失せろ、消えろ。
在日は、羞恥心がないから、日本人の蔑む仕事をやる。
そういう仕事は、金になる。
アイデンティティがないから、金しか頼るものがない。
白丁←検索のこと。 > 「世界で最も影響力のある人物」ランキング プーチン大統領が4年連続の首位 『情況 2018年10月号 特集:ポスト68の思想的課題』 (2018/10/20) >>660
“新しい実在論は、誕生の正確な日付をしめすことのできる、
おそらく唯一の哲学運動である。それは2011年6月23日の13時30分、
ナポリのジェナロ・セラ通りにあるレストラン「アル・ヴィナッチョーロ」でのことだった。
これほど正確に述べられるのは、そのときわたしがそこにいたからである。
マルクス・ガブリエル、それに彼と行動をともにしていたシモーネ・マエストローネが一緒だった。(略)
マルクスは、ボンの国際哲学センターの設立に携わっていて、
その幕開けに一大カンファレンスを開催しようとしていた。
そのカンファレンスのタイトルは「新しい実在論」とするとよいのではないかと、
わたしはマルクスに提案した。
この言葉は現代哲学の基本性格をうまくとらえているから、と。
つまり、いっさいは言語・概念図式・メディアによる構築物にすぎないという
信念にたいする倦怠感、ポストモダニズムにたいする倦怠感である。”
― マウリツィオ・フェラーリス 「新しい実在論:ショート・イントロダクション(1)」
New Realism: A Short Introduction
Maurizio Ferraris
https://iris.unito.it/retrieve/handle/2318/1533508/76874/Speculations_VI_Ferraris.pdf 浅沼 光樹 - 研究者 - researchmap
https://researchmap.jp/7000010542/
論文
・〈構成的退隠〉から〈無世界観〉へーガブリエルの形而上学批判
・二つの闇夜ー西谷啓治のシェリング解釈(一)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/231080
・グラントの思弁的実在論―ハーマンのグラント批判によせて
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/228909
・シェリングと思弁的転回―グラントのシェリング主義について
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/219104
・京都学派の哲学史的洞察―西谷啓治の卒業論文「シェリングの絶対的観念論とベルグソンの純粋持続」について
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/194273
Misc
・【著作ガイド】『神話における人間ーシェリングの『神話の哲学』における存在神論・人間学・自己意識の歴史に関する諸探求』(2006)
・【解説】マルクス・ガブリエルを読むために
・【研究手帖】新シェリング主義の第三形態
・【書評】マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』
・【連載 労働と思想】シェリング―反政治と再自然化
・【シンポジウム提題】シェリングと〈純粋意志の哲学〉
・【翻訳】 F・W・J・シェリング「神話の哲学への序論―第23講義」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/227170
・【翻訳】 F・W・J・シェリング「神話の哲学への序論―第22講義」
・【解題】 マルクス・ガブリエル「形而上学の根本的問いに対するシェリングの答え」を読むために
・【翻訳】 F・W・J・シェリング「永遠真理の源泉について」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/198876
講演・口頭発表等
・ドイツ観念論と思弁的実在論―シェリング再評価の文脈
・日本哲学という意味の場―ガブリエルと日本哲学
・シェリングと〈純粋意志の哲学〉 そろそろガブリエルがうざすぎる
知名度ばかりで大したこと言ってない >つまり、いっさいは言語・概念図式・メディアによる構築物にすぎないという
>信念にたいする倦怠感、ポストモダニズムにたいする倦怠感である。
倦怠感か、飽きたってことだよな
マルガブは嫌いじゃないんだが、飽きたからこの思想に価値を認めないっていうのはどうなのだろう
まあ哲学史の更新はそういう感覚で起きるものかもしれんけど なぜ「お前が」そういう感情(快不快・倦怠)を抱くに至ったか
っつう、その背景・社会的文脈を探ることのほうが重要だろう
ということを卒論で書いた >>651-653に挙げられている以外の人達も出てくる。
井筒とか中村元とか。 >>670
「快・不快」何故それを不快に思うのか...
身近な例「何故女性はセクハラをそんなに不快に思うのか?
その背景を〜」「〜」には、探るとか暴くとかえぐりだすとか
分析するとか、何でもいい。
そういう研究はセクハラに怒りを表明する女性たちに対して
何をもたらすのか?セクハラおやじ共に何をもたらすのか? 「キミたちがセクハラに怒る背景ってのは実は
これこれこういう事に過ぎないんだよ。だから
セクハラなんかで怒るなんてやめなさいな」
「貴方たち男性が私たち女性にセクハラをする
背景にはこんな真実があるんです。分かった?
それを聴いたらもうセクハラなんて出来ないでしょ?」
どっちの味方にも敵にもなりうる。あらゆる「分析」には
やはり多大なるバイアスがかかるのでしょうか?
果たして「中立な分析」はあり得るのでしょうか? 所与の立場に対する「中立な分析」は可能だが、これから生じうるあらゆる主張
に対する「中立な分析」は不可能だろう 主張というのは思想であり価値観のことだね。
その根源を本質的に解明したのは、マルクスだけかな。 >>668
ポストモダン自体が停滞してるからじゃね マルクスが根源を本質的に解明しただなんて
今時断言するのは流石に恥ずかしい。 『現代思想2018年9月号 特集=考古学の思想』
中沢新一+山極寿一「生きられた世界を復元できるか」
溝口孝司+國分功一郎+佐藤啓介「考古学と哲学」
ほか 『現代思想2019年1月号 特集=現代思想の総展望2019 ポスト・ヒューマニティーズ』
「ポスト・ヒューマニティーズ」の誕生を宣言
思弁的実在論・新しい唯物論・オブジェクト指向存在論…といった思想の新潮流にAI・人新世・フェミニズム・加速主義…といった社会の諸問題が絡み合う。
私たちはここに「ポスト・ヒューマニティーズ」の誕生を宣言し、主要な論者たちとともにそのひらかれつつある未来を展望する。
≫≫Post / Non-Human(ities)
【討議】
小泉義之 千葉雅也 仲山ひふみ / 思弁的実在論「以後」とトランプ時代の諸問題
【思弁的唯物論/新しい実在論】
Q・メイヤスー 立花 史訳 / 反復・重復・再演 意味を欠いた記号の思弁的分析
P・ボゴシアン 島村修平訳 / 規範的なものについての相対主義
近藤和敬 / メイヤスーとバディウ 真理の一義性について
≫≫Nature / Materiality
【自然/人新世】
I・H・グラント 浅沼光樹訳 / 自然はあるがままにとどまるのか――力動性と先行性基準
篠原雅武 / 人新世的状況における「人間の条件」の解体についての試論 ポスト・ヒューマン公共空間へ
【身体】
入不二基義 / レスリング行為/レスリングする身体 ≫≫Social Theories
【加速主義/新反動主義】
N・ランド 小倉拓也訳 / 死と遣る――タナトスと欲望する生産についての所見
水嶋一憲 / コミュニケーション資本主義と加速主義を超えて――横断個体性の政治のために
【フェミニズム】
R・ブライドッティ 門林岳史 増田展大 訳 / 批判的ポストヒューマニティーズのための理論的枠組み
【討議】
岸 政彦 信田さよ子 / マジョリティとはだれか
≫≫Art / Aesthetics
【オブジェクト】
G・ハーマン 飯盛元章 小嶋恭道訳 唯物論では解決にならない 物質、形式、ミーメーシスについて
≫≫Chart
【図解】
ポスト・ヒューマニティーズの思想地図と小事典 / 飯盛元章
他に 『推移的存在論』 アラン・バディウ (2018/12/14)
ドゥルーズ、デリダ、フーコー、ラカンとともにフランス現代思想の一角を占め、
カンギレムやカヴァイエスといった数理哲学の文脈や英語圏の議論をも参照しながら、
数学と哲学を独自な形で一体にさせ、メイヤスーらに引き継がれる議論の素地を作った、アラン・バディウ。
『存在と出来事』のエッセンスを閉じ込め、集合論・圏論を踏まえて〈数学とは存在論である〉と宣言する! 『マルクス・ガブリエル:欲望の時代を哲学する』 (2018/12/11)
丸山俊一、NHK「欲望の時代の哲学」制作班 『思想 2018年11月号 カントという衝撃』
思想の言葉………飯田 隆
「カントに政治哲学があるか」という問いをめぐって ……………寺田俊郎
無限と性格 ――カントの遺稿の自由論 ……………城戸 淳
カントとコモンセンス……………小谷英生
欲望と道徳法則――ジャック・ラカンによるカント倫理学……………山蔦真之
カント義務論と「自己自身に対する義務」の問題……………御子柴善之
「表象にほかならないということ」――心の外へと向かうためのスアレス的方法?……………ヴォルフガング・エアトル
形而上学の「進歩」について……………山根雄一郎
純粋理性批判の秘密コード――理性批判とは何をすることであったのか……………P戸一夫
超越論的観念論と反応依存性――その反-懐疑論的帰結……………千葉清史
綜合的判断と実在性――カントによる分析的/綜合的の区別の成立……………檜垣良成
数理科学とカント哲学の可能性……………藤本 忠
新カント派と心理学――相互批判的関係とその結末……………ウーヴェ・ヴォルフラート
文化主義の帰趨――新カント学派の哲学と「文化主義」……………大橋容一郎 “今の構造になんとか罅を入れてみたいという人は、
左翼的な発想法を取ればなんとかなるかと思っている
人たちも多いみたいですが、それもダメなんです。”
“〈おおかみに螢(ほたる)が一つ付いていた 兜太〉
とか、もう古代そのものの感覚ですね。”
― 中沢新一、小澤實 『俳句の海に潜る』 (2016)
和歌…自然を記号にしていく実践
↓
連歌…「切断による連続」が新しい意味を発生させる
↓
俳句…記号化したものの定型を破る 梅原の西田論
“結局デカルト批判が彼の哲学の中心だと思いますけどね。
デカルトだと二元論になる。
自我と物質が対立するという二元的な構造にならざるを得ない。(略)
それを、世界というものは自我と物質が対立するものではない、主客合一であると言った。”
― 『日本人は思想したか』 吉本隆明、中沢新一、梅原猛 (1995) デカルト直系で身体性と実在を分けるメイヤスーなどが注目されるのと同時に、
西田や京都学派が読み返されているのはこういうところだろう。(>>153、>>204) 『意味がない無意味』 千葉雅也 (2018)
“いま私は、新たな研究段階に入ったという感覚を持っている。” 『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』 千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里 (2018/12/21)
これは革命の教科書 『欲望論 第1巻「意味」の原理論』 竹田青嗣 (2017)
『欲望論 第2巻「価値」の原理論』 竹田青嗣、吉増剛造 (2017)
> 世界を分節するのは欲望だ。欲望が、価値と意味を世界の中に織り出してくる
> 一切の哲学原理の総転換!!21世紀、新しい哲学がはじまる!2500年の哲学の歴史を総攬 思想家の名前が何を意味するかというと、他者に過ぎないのだから
書体や文体の引用が盛んになるときに、名前も多様に引用していないと。 学歴コンピュ。私立校卒だから学歴コンプ系じゃないわけ。付属校卒で受験、
併願もかなりしたし。 ポモはどうしてフロイト、ラカン、ドゥルーズ、ガタリが好きなのか 『思想 2019年1月号 ヘーゲル復権』
思想の言葉………熊野純彦
多元的存在論の体系ーーノン・スタンダード存在論としてのヘーゲル「エンチュクロペディ」……………大河内 泰
統覚的自我と経験的自己ーーヘーゲル『精神現象学』「主人と奴隷」の異端的解釈に向けて……………ジョン・マクダウェル
〈研究動向〉復活するヘーゲル形而上学……………飯泉佑介
行為者性の社会理論ーーコースガード・ピピン・ヘーゲル……………川瀬和也
ヘーゲルにおけるカテゴリー問題……………マルクス・ガブリエル
ヘーゲル論理学の意味論的解釈ーーヘーゲルと分析哲学……………硲 智樹
シェリングとヘーゲルの差異をめぐってーーヘーゲル批判への応答可能性を探る……………三重野清顕
貧者は承認されうるのか?ーー資本主義における承認の野蛮化をめぐって……………斎藤幸平
憲法と戦争ーーヘーゲルの国家論における多元性……………濱 良祐
ヘーゲルとパフォーマティヴィティーー『精神現象学』「自己疎外的精神の世界」とジュディス・バトラー……………岡崎 龍 心理学・精神分析総合スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1540727475/9
心理学の歴史
(1)『無意識の発見 ―力動精神医学発達史 上下』 アンリ・エレンベルガー (1980)
(2)『魂(ソウル)から心(マインド)へ ―心理学の誕生』 エドワード・S.リード (2000)
1.ひとまずの古典
2.1789年のフランス革命以降の社会・政治状況の変化と合わせて心理学の歴史を追う 最近出ていたラカンの解説書は分かりやすい
・『ラカンの哲学 哲学の実践としての精神分析 (講談社選書メチエ)』 荒谷大輔 (2018)
・『ラカン「精神分析の四基本概念」解説』 荒谷大輔、小長野航太、桑田光平、池松辰男 (2018)
・『ラカン「アンコール」解説』 佐々木孝次、荒谷大輔、小長野航太、林行秀 (2013) 千葉雅也@masayachiba
数学的なものって自然言語の外側にあるでしょう。で、僕の構図だと、自然言語の外って、身体なわけです。だから、人間的理解を超えた数そのもの、数としての数について考えることは、身体論だと思うのね。これが今年の研究の一つ。メイヤスーに絡むテーマ。
6:53 - 2019年1月23日
このように数=身体を考えるという筋は、脳の哲学における消去主義唯物論のおもしろさを捉えるのに役立つ。それから、人工知能論ですね。フォークサイコロジーの外にある数的知能を身体的知として捉える。
6:58 - 2019年1月23日 『ドゥルーズの21世紀』 檜垣立哉、小泉義之、合田正人 編 (2019/1/25)
はじめに |近藤和敬
第T部 ドゥルーズを究める
哲学の奇妙な闘い |宇野邦一
現行犯での伝説化――ドゥルーズの芸術論における映画の身分についての試論 |小倉拓也
『差異と反復』をさまようヘルマン・コーエンの亡霊 |合田正人
〈身体-戦争機械〉論について――実践から戦略へ |江川隆男
シモンドンと超越論的経験論の構築 |アンヌ・ソヴァニャルグ〔上野隆弘/平田公威訳〕
『差異と反復』におけるトリガーとしての問いの存在論 |小林卓也
第U部 ドゥルーズを広げる
類似的他者――ドゥルーズ的想像力と自閉症の問題 |國分功一郎
ドゥルーズと制度の理論 |西川耕平
スキゾ分析の初期設定 |山森裕毅
ドゥルーズの霊性――恩寵の光としての自然の光 |小泉義之
『シネマ』の政治――「感覚-運動的な共産主義」の終焉をめぐって |堀千晶
儀礼・戦争機械・自閉症――ルジャンドルからドゥルーズ+ガタリへ |千葉雅也
第V部 ドゥルーズに対する
パースとドゥルーズ――基層における交錯 |檜垣立哉
持続は一か多か――ドゥルーズ『ベルクソニスム』の諸解釈をめぐって |岡嶋隆祐
生き別れの双子としてのシモンドンとドゥルーズ |宇佐美達朗
ドゥルーズのシモンドン読解について――1966年の書評を手がかりに |堀江郁智
ドゥルーズとデリダ、内在と超越――近年のフランス思想における二つの方向 |ダニエル・W・スミス〔小川歩人訳〕
ひとつの生、ひとつの生き延び――ドゥルーズ/デリダ |宮ア裕助
思考-生-存在――バディウの批判から見るドゥルーズの後期思想 |近藤和敬
あとがき |檜垣立哉 >>702
“分析哲学においてヘーゲルが「死んだ犬」であったのはもはや過去の話である。
いまやヘーゲルは英語圏の分析哲学者 ―ブランダムやマクダウェルなど― によって
我々が真剣に受け止めるべき哲学者として理解されている。”
― 硲智樹 「ヘーゲル論理学の意味論的解釈:ヘーゲルと分析哲学」 『思想 2019年1月号 ヘーゲル復権』 単なる、揺り戻しだな
また忘れた頃に構造主義を有難がりだすのに決まってる >>709
構造主義のどこがいいと思うの?
それ以前に、構造主義って何だと思う? >>711
そうか。
では、構造主義とは何だと思う? 他人の揚げ足取りしようとせずに詳しいなら君が説明すれば良い レヴィ=ストロースの名をだしただけで構造主義を説明したつもりか、どこの中学生だろう
だいたい君のレスは人の心の中を勝手に読み取ったり知識を計ったり
全て自分勝手な想像と都合の良い解釈だけだな
答えない理由は当然、こういう頭の悪い人間と話すのは時間の無駄だからだ 伊VS仏 イタリア、マクロン退陣デモ支持 フランス、イタリア大使召還
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1549605869/
1 名前:名無しさん@涙目です。(dion軍) [CN][] 投稿日:2019/02/08(金) 15:04:29.27 ID:RUa7uuh70● ?PLT(14145)
http://img.5ch.net/ico/aroeri-na32.gif
【パリ=竹田佳彦】フランス外務省は七日、度重なる内政干渉と挑発を理由として、駐イタリア大使の
召還を発表した。欧州連合(EU)加盟国間の召還は極めて異例。
仏外務省は声明で、数カ月前から執拗(しつよう)な中傷や根拠のない攻撃を受けているとして「戦後、
前例のない事態だ」と指摘。「見解の相違はあっても、選挙のためにその関係を利用するのは容認できない」
と非難した。具体的な出来事には言及していない。
イタリアのディマイオ副首相は五日、パリ近郊でマクロン仏大統領の退陣などを求める抗議行動
「黄色いベスト運動」の幹部らと会談。五月の欧州議会選挙での連携をにらみ、運動への支持を表明し
「変化の風がアルプスを越えた」とツイッターに書いていた。
ディマイオ氏は、既成政治への反発から生まれたポピュリズム(大衆迎合主義)的な新興政治組織「
五つ星運動」を率いる。
五つ星と連立政権を組む極右政党「同盟」党首のサルビーニ副首相も、昨年十一月からフランス全土に
広がっている黄色いベスト運動への支持を表明し、参加者を「国民に背を向けた大統領に抗議する実直な
市民」とたたえている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201902/CK2019020802000287.html フランスのデモは13週目。
5月の欧州議会選が焦点か。 政治運動が国境を越えて影響し合い、提携する様になりつつある。
今後は、武力衝突ではなく、通貨や選挙を通じた民意の交換によって、国際政治は動いていくようになっていく。 >>713
どこが上げ足取り?
説明できないのがわかって書いてるから? >>715
自分の無知を指摘されたからって、相手の悪口書くのはみっともないよ?w 馬鹿の一つ覚えレヴィ=ストロース気違いがここにいました Wikipediaでたまたま発見したんだろうな
それで気がでかくなって薀蓄語りしようと思ってたら空振りしたってオチ ?多すぎだなぁ
質問攻めにして相手が戸惑ったら勝利宣言するセコいやついるよな
小学校に…(笑) >>727
質問に答えられない人は、小学生以下の知識ってこと? 『新記号論 脳とメディアが出会うとき』 石田英敬、東浩紀 (2019/3/3)
ゲンロンカフェ発 伝説の白熱講義を完全収録!
クロマニョン人とリュミエール兄弟、スピノザとニューロサイエンス、フロイトとiPadが軽やかに結びつく、超時代・超領域の連続講義。
やがて聴衆は、人文学と認知科学が団結し、ファシズムに立ち向かう瞬間を目の当たりにするだろう。
われわれの認知を、コミュニケーションを、政治行動を、テクノロジーはどのように規定しているのか。インターフェイスに囲まれて生きる現代人の必携の書。
脳とメディアが出会うとき――記号論は新たに生まれ変わる!
第1講義 記号論と脳科学
メディア論の問い/なぜ記号論は廃れたのか/現代記号論の限界/技術的無意識の時代/
フッサールは速記で考えた/チャンギージーの発見/ヒトはみな同じ文字を書いている/
ドゥアンヌの読書脳/ニューロンリサイクル仮説/一般文字学はなにをすべきか
第2講義 フロイトへの回帰
不思議メモ帳の問題/語表象と対象表象/『夢解釈』読解における新発見/意識はどこにあるのか/
夢のシネマ装置/超自我は聴覚帽の内在化である/人文学の危機/ライプニッツに帰れ/
アンドロイドは電気羊の夢を見る/ドリームデコーディング/夢の危機と夢見る権利
第3講義 書き込みの体制(アウフシュライベジステーム)2000
1 情動と身体――スベテが「伝わる」とき
フロイトとスピノザ/ダマシオ『スピノザを探して』/『神経学的判断力批判』の可能性
2 記号と論理――スベテが「データ」になるとき
記号のピラミッドと逆ピラミッド/パースとデリダ/人工知能の原理/記号接地問題/ふたつの現象学
3 模倣と感染――スベテが「ネットワーク」になるとき
スピノザと模倣/光学モデルの限界/資本主義の四つの柱/なぜ記号論か/六八年革命の評価/
タルドとドゥルーズ=ガタリ/書き込みの体制2000にどう向き合うか
補論 石田英敬
4つの追伸 ハイパーコントロール社会について
文字学 資本主義、権力、そして自由 まだ規制つづいてるんだ?
なにこれ、なんでこんなに長時間、何の理由の説明もなく規制してんの? 石田『現代思想の教科書』(>>571)は、
ソシュール記号学とパース記号論の違いを念入りに解説している。 【生放送】千葉雅也×三浦瑠麗×東浩紀「『21世紀の戦争と平和』&『欲望会議』刊行記念イベント」
https://live.nicovideo.jp/gate/lv318550505
2019/03/09(土) 開演:19:00
『Voice』2019年1月号に掲載された、千葉氏と三浦氏の対談が話題になっています。
現在の政治や思想と繋げながら、性愛と愛について語るLGBT論はまさに必見の内容。
本イベントは、東浩紀を交えてさらに話題を広げ議論される予定です。
3名での鼎談ははじめてであり、また、三浦氏は2017年10月以来1年4ヶ月ぶりのご登壇となります。
東とも久しぶりの再会を果たし、この期間の政治状況も振り返りながら、たっぷりお話いただきます。 『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』 (2019/2/26)
ロージ・ブライドッティ
ポストヒューマン理論入門の決定版!
近年「思弁的実在論」と並んで盛んに論じられている〈ニュー・マテリアリズム〉の動向の震源地のひとつであり、
ジュディス・バトラー以降のフェミニズム理論を牽引する世界的に著名な理論家、
ロージ・ブライドッティの初邦訳書、待望の刊行。
「人新世」の時代において、そして、テクノロジーに媒介されたグローバル資本主義経済の時代において、
人間たちはかつてと同じ「人間性」を保持しているとみなしうるのか?
ひるがえって、「人新世」の時代においてかつての「人間性」を保持することが望みえないのだとすれば、
どのような新たな「人間性」をアファーマティヴな(=多様な他者に開かれた)ものとして思い描きうるのか?
かつて理想として思い描かれた近代・西洋・白人・男性的な人間像と、
それを支えてきた旧来の人文主義と人間中心主義に異議を突きつけ、
バイオテクノロジー、ロボット工学、軍事技術から、グローバル資本主義や環境問題にいたるまで「ポストヒューマン」の問題系について包括的に議論する。
現代における私たち人間の生について考察し、
新しい人文学(ヒューマニティーズ)のかたちを描き出す
幅広い射程を有する「ポストヒューマン」理論の最重要著作、待望の邦訳。 【目次】
第一章 ポスト人文主義──自己を越える生
反ヒューマニズム
人間の死、女性の脱構築
ポスト世俗的転回
ポストヒューマンの課題
批判的ポストヒューマニズム
第二章 ポスト人間中心主義──種を越える生
地球警報
動物への生成変化としてのポストヒューマン
代償的ヒューマニズム
地球への生成変化としてのポストヒューマン
機械への生成変化としてのポストヒューマン
非〈一〉の原理としての差異
結論 第三章 非人間的なもの──死を越える生
いくつかの死にかた
生政治を超えて
法医学的社会理論
現代の死‐政治について
死をめぐるポストヒューマン理論
ある主体の死
知覚不可能なものへの生成変化
結論──ポストヒューマンの倫理について
第四章 ポストヒューマン人文学───理論を越える生
不調和の制度的パターン
二一世紀の人文学
ポストヒューマン的批判理論
人文学の「適切」な主題は「人間」ではない
グローバルな「マルチ」ヴァーシティ
結論
ポストヒューマンな主体性
ポストヒューマンの倫理
アファーマティヴな政治
ポストヒューマン的な、あまりにも人間的な 『現代思想 2019年3月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー:『ジェンダー・トラブル』から『アセンブリ』へ』 (2019/2/15)
【目次】
* テクスト
ジュディス・バトラー/坂本邦暢訳 この生、この理論
ジュディス・バトラー/本荘 至訳 非暴力、哀悼可能性、個人主義批判
ジュディス・バトラー/合田正人訳 メルロ=ポンティと、マルブランシュにおける「触れること」
* 討議
清水晶子+クレア・マリィ ジュディス・バトラーを〈翻訳〉する
* セミナー
ジュディス・バトラー/佐藤嘉幸訳 恐れなき発言と抵抗
佐藤嘉幸 個人的パレーシアから集団的パレーシアへ――「恐れなき発言と抵抗」へのコメント
廣瀬純 民主主義の彼方へ――「恐れなき発言と抵抗」へのコメント
清水知子 「現れの政治」が「忘却の穴」に突き落とされる前に考えるべき三つのこと――「恐れなき発言と抵抗」へのコメント
* 理論から問う
合田正人 アンダーグラウンド異景――バトラーはスピノザをどう読んでいるか
註カ有希 来たりし、来たるべきフェミニスト哲学――フェミニスト現象学とジェンダー・パフォーマティヴィティ
森山至貴 複数の置換可能性――パフォーマティヴィティ概念をめぐって
岡崎佑香 文字通り病み痛む身体?――ジュディス・バトラー『問題なのは身体だ』の身体論 * 身体の政治
新田啓子 追悼の前提――いかに殺しに抗するのか
藤高和輝 身体を書き直す――トランスジェンダー理論としての『ジェンダー・トラブル』
山田秀頌 バトラーとトランスの両義的な関係
* 倫理と連帯
岡野八代 「平和の少女像」とは、誰なのか?――バトラーにおける倫理との対話のなかで
山本圭 とりあえず連帯すること――ジュディス・バトラーの民主主義論
五十嵐舞 複数の「わたし」による連帯――ジュディス・バトラーの集合の政治と差異
* 文学/芸術
北田暁大 「彼女は東大を知らないから」――実践のなかのジェンダー・トラブル
黒岩裕市 「性別」を脱ぐ、「性別」を着込む――村田沙耶香『ハコブネ』とジェンダー規範
竹田恵子 カミングアウトのドラマトゥルギー――古橋悌二とジュディス・バトラーの思想
岩川ありさ 前未来形の文学――小野正嗣『獅子渡り鼻』論
* クィア理論の継承と発展
井芹真紀子 〈不在〉からの視座、〈不在〉への視座――ディスアビリティ、フェミニズム、クィア
佐々木裕子 孤独と悲哀のエネルギー――「幸せ」の規範へのクィアな/の抵抗と生存のために 『現代思想 2019年2月号 特集=「男性学」の現在:〈男〉というジェンダーのゆくえ』 (2019/1/28) 当面、読むべき本はすべて確保した。後は図書館で借りれば足りる。
多分、真面目に読んだら、死ぬまでにも読み切れないだろう。
原文でプルーストの表現をひとつひつ検討しながら読むとかやったら、
いくら時間が合っても足りない。 >>745
僕の人生は本を読むことだった・・・
悲しいねw 人生なんて大半がくだらない
なにを成し遂げようと私的な欲求を満たすだけの行為だろ
そこに気高さはない
ドヤれるのは他者にたいして無償の慈悲をもたらした場合くらいだ >>747
ドヤったり誇ったりするのであれば、それはもう無償ではない ドヤれる状況があれば、と言えば良いかな
他人から感心される資格があるのは富を追求したり社会的に成功することではない
それだけは確かだろう >>749
感心される資格や社会的な評価を得るというのであれば、
それは慈悲を施すことの酬いを得ようというものだろう。 世間がどう受け止めるべきかの問題であって本人が何を欲するかを問うているのではない 社会からの見た目を気にしているようなものは、無私でも無償でもない。 話しの分からんやろうだな
本人がどう感じるかじゃなくて周りの問題だと言ってるだろう
わざと誤解してるのか 無償の行為とは何かを評価するとき、それを社会がどう見るかを
一つの指標として言っている訳で
本人が世間の評判を気にするかしないかを問題にしているのではない >>747
人生はくだらないが気高さは尊い、か・・・
笑い話だね。 蒼頡(そうけつ):中国伝説上の漢字の発明者
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/53/Cangjie2.jpg
“これは、中国で漢字を発明したと言われる蒼頡という神話上の人物です。
絵を見るとわかるように、蒼頡は四つ目の人物として描かれています。
中国の伝説では、蒼頡は非常に目がよくて、さまざまな動物の足跡などを見分けて
それをもとに漢字を発明したことになっています。”
― 『新記号論:脳とメディアが出会うとき』 石田英敬、東浩紀 (2019/3/3) 「日本の友への手紙」 『プシュケー:他なるものの発明II』 (2019/03/27)
ジャック・デリダ
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0246900.pdf
“親愛なる井筒教授。
私たちが会ったとき、私はあなたに「脱構築」という語について―図式的で予備的なものではありますが―いくつかの省察をお約束しました。
問題になっていたのは、要するに、この語を日本語に訳すときに可能な翻訳への予備考察(プロレゴメナ)でした。(略)
なかんずく私が望んでいたのは、ハイデガーのDestruktion[破壊]もしくはAbbau[解体]という語を私の意図へ翻訳し翻案することでした。(略)
けれどもフランス語では「破壊[destruction]」という語は、ハイデガー的な解釈もしくは私が提案していたタイプの読みよりも、
おそらくはむしろニーチェ的な「粉砕」に近い無化、否定的還元という含意があまりに際立っていました。
そこで私はこの「破壊」という語をしりぞけたのです。(続く)”
※デリダの最重要概念である"脱構築"の説明を収録した『プシュケー』は、これまで邦訳されていなかった “井筒が生涯をかけて探求したのは、万物を超越する一神教ではなく、万物に内在する一神教である。
ユダヤ教、キリスト教の伝統に連なるとともにその伝統を刷新し、純粋化していったイスラームのさらなる東方的な展開である。(略)
アラビア半島に生まれた森羅万象すべてに超越する神、スンナ派の神ではなく、
イラン高原で生まれた森羅万象すべてに内在する神、シーア派の神であった。
イラン高原では、神は「存在」と言い換えられていた。
「存在」の根源にして、根源の「存在」である「神」、そこから森羅万象あらゆるものが産出される「神」。
その「神」は一なる神――一神教すべての根幹となる唯一無二の神――を可能にする「無」の神、
より正確には、「無」にして無限の神であった。”
― 安藤礼二 「「東方哲学」素描:鈴木大拙、折口信夫、井筒俊彦の仏教」 『現代思想 2018年10月臨時増刊号 仏教を考える』 ポスト・ハイデガー
国内のハイデガー研究者の層は厚く、優れたものが多いが、
ハイデガー研究のピークは、この特集ぐらいまでではないか。
・『現代思想 2018年2月臨時増刊号 総特集=ハイデガー -黒ノート・存在と時間・技術への問い-』
現在ではガブリエルが、
ハイデガーの存在論からヘーゲル、シェリングといったドイツ哲学の問題系を
一気に引き受け、深化させている。
・『現代思想 2018年10月臨時増刊号 総特集◎マルクス・ガブリエル ―新しい実在論―』 ウィトゲンシュタイン
世界とは事実の総体である
ここで言う事実とは真偽を判定できる命題ということ
富士山は日本一高い山である
これは物理的現象に還元して一般に検証できる万人が確認できる
富士山は日本一美しい山だ
これは検証できない
ある人が富士山を日本一美しいと思っているとか私はそう思っているとは真偽が問える
事実だ
しかし富士山自体が美しいかどうかとは関係ない
富士山は日本一美しい山である
これは世界の中の事実として確認する手段がない
ただ示されるだけ
語り得ない
美と同じようにヒュームやカントのいうとおり事実からは「ねばならない」はでてこない
検証できないから
事実を見てもねばならないは人により違う
倫理、美、神
これは検証できない世界内部の事実ではない
ウィトゲンシュタインは三人称客観の分析哲学へ道を開いたと評価されるがウィトゲンシュタイン自身の哲学的意図は三人称の限界を確定することで一人称を確保することだったのは明白
分析哲学の主流は論理実証主義にしろクワインなどの自然主義にしろ三人称絶対で固有名をめぐる指示の因果説やクオリアとか時々三人称に一人称は還元されないぞで騒ぎになる
マイケルガブリエルの「世界はなぜ存在しないのか」講演(邦訳:神話・狂気・哄笑に収録)
ウィトゲンシュタインを引きながら世界は物ではない物に還元されないぞ
物が出会う地平だ、だから世界は物のように存在しない→世界は存在しない
物だけしか扱わない三人称客観しか扱わない英米分析哲学はじめ自然主義はおかしい
言っていることはそういうことでウィトゲンシュタインのこだわった美は事実ではないに何も答えてはいない
唯物論の自然主義とカント以来の観念論の批判哲学一人称主義を俺は越えているとのマウント
カントに対するヘーゲル以来、三人称と一人称を俺は超越するの何度目かわからない新たなバージョン
また上書きされて消えていくだけ
それがポスト・ポスト構造主義や新しい唯物論 >>761
ウィトゲンシュタインの先駆者としてフォイエルバッハがいるね。
ウィトゲンシュタイン自身はフォイエルバッハを読んだことはないだろうが。 三人称で万人に検証できる物理的事実しか事実としないのがおかしいわけで
そこから弾き飛ばされる美や倫理や超越も込みで理論を作れなければならない
それらは物理的に検証できる物ではないが人の心を揺り動かす
それは影響するのだから排除していいわけがないし、
ウィトゲンシュタインみたいに示されるだけだと切り離し隔離すればいいものではない
カント式一人称哲学もウィトゲンシュタインと同じ一人称隔離して三人称の問題を解決していない
ウィトゲンシュタインの神秘化の先祖にすぎない一人称温存することは三人称温存の裏返し
だから問題は紛糾する
万人の一般性じゃないものも含めない限り客観信仰を捨てない限り哲学は完成しない
それは自然主義の哲学主流派全否定だし、一人称の観念論全否定でもあるし
鵺的なポスト・ポスト構造主義とかも抹殺しないといけないが >>764
そういう客観信仰を排除しないと問題は解決しない ポスト・ポスト構造主義は目論見としては三人称批判であり(自然主義・英米分析哲学)
一人称批判(デリダやポスト構造主義)であるが
客観を全否定しているわけでもなく鵺的で
どうでもいいことしか言っていない
ウィトゲンシュタインの世界論を参照しながら世界は物じゃないよというガブリエルも
ハイデガーの先駆的覚悟性を参照しながら絶滅とか言い出すメイヤスーも
きっちりした分析哲学にも過激な脱構築にもついていけない
小才の利権争い ガブリエルは頭の悪い論理哲学論考だし、メイヤスーは頭の悪い存在と時間
ウィトゲンシュタインやハイデガーに謝れとしか 御免、メイヤスーは絶滅じゃなく祖先以前性だった
まあ、ハイデガーなのは変わらないが ハイデガーは時間を論ずるが
それはカント式の一人称哲学でありながら普遍性を志向する立場への批判として作られた
民主主義や資本主義、凡庸な大衆の操作された時間と小市民道徳カント式普遍性哲学を結びつけ
死を個人的に引き受ける人間は普遍性はないよ
民主主義とは無縁だよ
凡庸な資本主義の大衆社会の犬は止めろよとマウントした
時間はカントの想定する凡庸な操作可能な大衆社会の哲学とは違うとのマウント
本質的な人間は死に向き合い凡庸さとは無縁だと
私の哲学はそれを引き受けられるとの特権性
ハイデガー哲学の絶頂はトラークル論であり、そこでは線形の直線的な
プラトンアリストテレス以来の操作可能な時間への批判が語られるが
それはトラークルへの誤読による
凡庸さを頽廃を恐れてはならない、それを引き受けたところにしか未来はない
メイヤスーの祖先以前やブラシエの絶滅は人間の主観、カント式主観性哲学では外部になるものをつきつけ
お前ら一人称主観主義哲学は人間の主観を離れて事実はないと言うがほら見ろ間違っている
人間が主観がないところの事実をカントやデリダは説明できないそれ見たことか
相関主義、一人称哲学は駄目だよとのマウントであり
要するにハイデガーの先駆的覚悟性や主観主義哲学批判や普遍性批判の焼き直し
今更何を言ってんだよであり
一人称を突破しようとするのはある意味正しいにせよこのやり方は駄目だ
絶対駄目だ
こんなんですむなら誰も苦労しない
ハイデガーも駄目だがそれをもっと劣化して繰り返して今更何になるんだ? 『現代思想 2019年5月臨時増刊号 総特集=現代思想43のキーワード』 (2019/4/12)
Discussion part 1
〈実在〉の時代の思想と病理/千葉雅也+松本卓也
Philosophy & Ethics
思弁的実在論/オブジェクト指向存在論/岡嶋隆佑
新しい唯物論/門林岳史
新しい実在論/浅沼光樹
加速主義/仲山ひふみ
反出生主義/戸谷洋志
分析形而上学/鈴木生郎
宇宙倫理/呉羽真
Technology & Science
ゲノム編集/八代嘉美
AI/杉本舞
ドローン/渡名喜庸哲
ビッグデータ/柴田邦臣
仮想通貨/電子マネー/大黒岳彦
Politics & Economy
ギャンブル経済/古川美穂
一帯一路/羽根次郎
ポピュリズム/山本圭
ポスト・トゥルース/百木漠
レイシズム/明戸隆浩
天皇制/茂木謙之介 Anthropology & History
人類学の存在論的転回/里見龍樹
人新世/篠原雅武
アナキズムと人類学/中川理
グローバル・ヒストリー/北村厚
多死社会/田中大介
平成/鈴木洋仁
Discussion part 2
カルチャーがつむぐフェミニズム/渡辺ペコ+トミヤマユキコ+清田隆之(桃山商事)
Gender & Sexuality
第三波以降のフェミニズム/田中東子
アナーカ・フェミニズム/村上潔
ゼノフェミニズム/飯田麻結
新しいホモノーマティヴィティ/森山至貴
トランス/山田秀頌
Living & Working
セックスワーク/SWASH
ブラック化/今野晴貴
自己啓発 /牧野智和
当事者研究/熊谷晋一郎
オープンダイアローグ/斎藤環
暮らし/阿部純
Culture & Aesthetics
スピリチュアル/橋迫瑞穂
エモい/山田航
ディストピア/ポストアポカリプス/樋口恭介
Vaporwave/銭清弘
擬人化/松下哲也 >>765
客観性や心理学を排除したものが観念論哲学 >>272
『現代思想』2014年1月号
「野生の科学、あるいは新構造主義の時代」(全文)
中沢新一/石倉敏明(聞き手)
http://sauvage.jp/activities/2050
中沢は「ポスト・ポスト構造主義」ではなく、「新構造主義」ということをいっている。 「下流老人」ブームの火付け役に 「貧困ビジネス」の過去
https://www.sentaku.co.jp/articles/view/15207
"十万部を超えるベストセラーとなった『下流老人』(朝日新書)。
著者の藤田孝典氏は、 メディアから引っ張りだこになっている。
しかし、福祉業界内では藤田氏の評判は悪い。 原因は藤田氏の「前科」にある・・・ "
@@@@@@@@@@
#カルト・セクト新歓
"#東京大学 の #人権問題研究機構 は、新左翼セクトやフロント団体 #NPO法人POSSE と関わりがあるサークルです。
政治団体との関わりを隠し、チラシ等を渡さず(渡すこともある)に個人情報を収集して、メール等で勧誘します。
気をつけて下さい。写真は東大生提供(本当です)。"
ttps://twitter.com/daily_cult3/status/1111441238392107008
"今年の #一橋大 では、POSSEと同じ左翼セクトのフロントとして活動していた「クリティカルラボ」や
「スウォーム」と同じ手法で勧誘していたのは「 #反レイシズム情報センター (#ARIC)」でした。 ビラ入手。
で、先日の東大同様にまた警備員に通報されました。
ttps://twitter.com/daily_cult3/status/1112265245152559104
やや日刊カルト新聞: ブラック企業対策NPO「POSSE」はブラックな左翼セクトだった
http://dailycult.blogspot.com/2016/10/npoposse.html
“ #POSSE からは抗議メールも来ないしプロバイダへの削除要求が来ているという連絡もありません。”
ttp://archive.is/hkaFG 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>774
個人情報を収集したがるのは警察の公安だってこと、知ってる? お前らみたいに私的な事情で情報集めしてるんじゃないんだよターコ >>776
そうだよね。
思想統制のために情報収集してるんだよね。 オウムのようなカルトやテロリストを監視し内偵するためだよ
いまだに学生運動時代のように何かと戦ってる気分でいる哀れなオジンよ >>778
カルト集団日本会議構成団体は監視対象じゃないぞ?
もちろん内偵もしていないしできない。
萩生田に代表される安倍政権の基盤だからね。
少しは現実と闘えよw 日本会議のどこがカルトなんだかイミフ
テロを起こそうとしてるお前らとなんでも一緒くたにするなよ
幼稚な陰謀ごっこしてるカスが他人様に文句つけるなんて
図々しいにも程があるね
髪の毛むしり取ったろかオッサン >>781
カルトの意味も分からずにこのスレに来てるのか?
日本会議の底辺か?w >>783
戦前回帰の日本会議は、時代に即応してるのか?w 日本会議との比較じゃなくてお前ら一人一人が普遍的に馬鹿で池沼で時代錯誤であるのみ だいたいどこから日本会議がでてきたんだよ突拍子もねえな
公安の情報収集は正しい職務行為です、で話終わってるじゃん
私はそれとは真逆のアホですということを暴露したかったのか??(笑) >>786
職務行為だから正しい?
職務行為だから、政権の意による行動だと言ってるんだぞ?
現在の安倍政権は、萩生田や世耕に象徴されるように、日本会議がその支柱だ。
知らないのか? 世界はレプティリアンという爬虫類人に支配されてるらしいね…
デヴィット・アイクというイギリスの著名なジャーナリストが赤裸々に暴露してる
英国王室、ホワイトハウス、ロスチャイルド、フリーメーソンとか全部レプティリアンだとか
日本会議もその拠点に違いない >>788
そんなに日本会議の存在が恥ずかしいの?
なんで堂々と、自分は日本会議の支持者だって言えないの? 公安が日本会議と繋がってるのになぜ日本会議がレプティリアンだと認められないのですか?
ホワイトハウスと繋がってるんですよ?
支離滅裂ですねあなた >>790
公安は政権の命令通りに行動している。
これはただの法的な事実。
その政権を支えているのが日本会議。
レプティリアンとか、君ってバカだろw バカにバカと言われる筋合いはないですが…
政権は憲法に基づいて公安を管理統括しているんですよ?そして国会議員は有権者によって
その地位が保証されているんですよ?
立憲民主は連合ですか?日本会議とかバカですね レプティリアン→イルミナティ→フリーメーソン→ホワイトハウス
これがワンワールド政府の構造図です
公安オタクのヒッキー君によると日本会議はこれらに属さない善良な集団
ということらしい。 >>792
憲法には、公安組織を置くなんて書いてないぞ?w
なんで日本会議という、普通に存在する組織のことを隠したがるんだ?
日本会議はwebサイトも持っていて、自主憲法制定とか、天皇崇拝の教育勅語の復活とか、バカ右翼としての意見を表明しているぞ?
もちろん、政治活動も怠りなく、国会議員への働き掛けも、堂々と宣言している。 なぜ自明なレプティリアンを隠したがるんだ?
ビッグマネーをロックフェラー、ロスチャイルドといった財閥が支配してるのは常識なんです
自主憲法の制定?教育勅語の復活?そのなにが問題なのか分からないですが
安保と自衛隊という名の違法状態をグレーのままで良いとしている人間のほうが
どう考えても立憲主義じゃないでしょ、変態ですか? ポスト (笑) ビョーク が 当たらんか?音楽の欠け落ち思想芸術は激情家である証だ。 ポスト (笑) ビョーク が 当たらんか?音楽の駆け落ち思想芸術は激情家である証だ。
ダット落ちみたいでした
。 下半身爆発事故と酔っ払い転落事故ぐらいだ。後は垂直落下事故。ビョークもそれ系。
/ ______ / ̄ヽヽ
/ /, -‐―――‐/-ミ、,,ノ }
| //::.::.::.::.::.::.::.:::/::ヽ.::.\/
/! //::.::.::.::.::.::.::::.::.::.::.::.::}::.::.::.ヽ
/ ///.::.::.::.:::.::.:: /!.::.::i.::.::/::.::.::.::.:'. _ -, -──‐-、
{ //.::.i.::.::/.::.::.://メ、.::::|:::/l:::ハ::.::.:::ト、 / /: : : : : : : : : \
∠∨/.::.::|::::::|.::.:j/仗≧ミ/|/ イ∧l .::|. / ' ___: : : : : : : : : ヽ
|/¨|.::.:::|::::::ハ.::.:| 込_ソ / ,f仞゙Y.::.リ/ /:::::::::::::, '´ ゙̄ヽ: : : : : '.
|.:::(|.::/.::.\| ,、,、 、ー' / '´ |::::::::::::::{:::::::::::::::}: : : : : :| 学術に告ぐー
|/|.::|∧.::.::.| _r‐'了 |:::::::::::::: 、::::::::::ノ: : : : : :| 放火をするなー
|ハ.::.:ヘ.::.:l、 / |::::::| ∨:::::::: '´ ̄: : : : : : : :/
|∧::ヘ::| 丶、 `ー‐ヘ_::::\__ \'´ : : : : : : : : : : /
∨ 8へ >r‐'´.8 ̄¨>ヘ、 ̄¨''¬ー- 、 _____, '´
__,.-イ |:ゝ∧ ,へ 川:ゝ / .二\
/⌒\\ lノ ∨.△∨lノ / -‐、∨
/ ヽ ヽ \=/ { ィヽソ|
>>795
自主憲法でやりたいのはこういうことだよね?
天皇を国家元首にする。
国民主権ではなく国家が主権を持つ。
政権の判断で選挙を延期または中止することができることにする。
軍事力を強化する。
つまり、政権が自由にふるまえるようにするための自主憲法だ。
国民より国家(政権)、天皇に対する個人崇拝、強大な軍事力・・・etc.
あれ?
中国、北朝鮮、ナチス、そのままじゃないか?
なんだ、日本会議が目指してる自主憲法制定というのは、日本のナチス化、北朝鮮化、中国化かw 立憲君主制も国家法人説も天皇機関説も知らない高卒は議論以前だから黙っとけ >>804
学歴コンプのお爺さんかw
よくこんなスレに来るね。 イギリス、スペイン、デンマーク、スゥエーデン等々はナチスと同じだったのか…
知らなかった恐ろしい枢軸国だな 英国王室はレプティリアンであることをアイクが明言してます
帝国主義国家は爬虫類人に支配されてます。 >>806
専制王政ではないまでも、王室制度は消滅させるべきだね。
差別の根源という精神的な面からも、余計な税金がかかるという経済的な面からも。 現代思想の課題は、まず、昨今の愛国キチガイをどう分析するかだね。
宗教的感性を基盤にする日本会議などのカルト集団が、組織的に脅迫することによって安倍政権批判を封じている。
愛国などというものが悪であることは言うまでもないが、それすら指摘することもできずに民主主義の危機を語っても、たしかに、現実からの逃避になるだけだ。 「日本会議が批判を封じている」
さんざ好き勝手なこと書き込んでおいて何言ってんだコイツw >>810
愛知の企画展は、ヘイトテロそのものだ。
アメリカの移民ヘイトテロが、日本では韓国ヘイトテロになっているだけ。
トランプも安倍も、ヘイト対象を設定しては自分の安泰を図る。
安倍の支持基盤は日本会議だ。 >>811
企画展の中止、とはっきり書いたほうがいいな。 >>811
ヘイトテロだから中止にしたんだろ
合ってるじゃん
安倍やめろ!日本会議の陰謀!
中国、韓国で日本贔屓だとボイコットされる、疎外される、乱暴を受ける
好き放題なこと書き込める日本ってほんと良い国だよな〜 >>813
ポスト現代思想というのは、政治に関わらないのか?
なんのための思想だ?
安倍政権擁護が一番の眼目か?w >>814
企画展の中止がヘイトテロだといってるんだぞ?w
安倍政権=日本会議の勧告ヘイトに呼応した、バカな国民を愛国キチガイにするための嫌韓ヘイト。
嫌韓ヘイトで政権の醜さを隠し、それに騙されるバカな国民もいる。
企画展はできなくても、5chでは書き込める。
たしかに、日本は北朝鮮よりはマシだ。
北朝鮮よりは、だがw >>816
一般的な日本の人はいくら相手が悪くてもそんなことは言わないんじゃないかな
日本人のふりしてこういうことを書き込むのは利のためにヘイトを煽る職業運動家 >>816
これは悪質だな
いくら日本人が憎くてもここまでやることはないだろう
侮辱を受けても日本人は他国の国旗を破ったりはしない
国旗というものはその国を象徴するものだから むこうは平気で国旗を破ったり民間企業を侮辱したりするからな
ドイツとのサッカーの試合でナチスの子孫は帰れと横断幕に書いてたりさ
スポーツにまでそういうことを持ち込むメンタリティが理解できない 「日本人のふりして」と決めつけるのは
国民性の差を前提としてしかものを考えられない
最低のレイシスト ふりをしないで普通に侮辱するやつは良いのか(笑)(笑)(笑)
ほんと思想テロリストはああ言えば上祐だな 国旗なんかどうでもいいよw
日本の名誉だの国旗だのに拘泥する奴は、やっぱり愛国キチガイなんだよな。 太極旗を便所のマットにしてるけど国旗がどうでも良いとか
そんな国際感覚はさすがにないわー
変態運動家び特殊な性癖を他人に押し付けるのはやめろ 韓国人に名誉はないので国旗も名誉も侮辱して構わないらしい
いま言質が取れました、どんどんやろう
でも日本人にはしないでね☆ >>824>>825
愛国キチガイ君は考えることが下品だねw 下品どころかお前の言う通りにしたらそうなるしかないわな
愛国キチガイって反日デモとかやってる朝鮮人のこと?
他人の事情に首を突っ込む前に支持率確保のために
ナショナリズム煽ってる自分の国の事情を先に嘆けよ(笑) なんで思想の欠片もないネトウヨが
このスレで暴れているの? 保守的な色彩があるというだけでネトウヨとか偏見だよなほんと
差別主義者は己がネトサヨと言われても良いのか じゃあきもいなんて言葉もやめろよ
きもいけど実際にきもいいう言葉を使うのはルール違反だ ここみてて確信したわ、日本人は韓国人に嫉妬している チョンが現代思想を論じるのは普通だが
ネトウヨ(「保守的な色彩」だってw)が現代思想を論じられる訳がない >>830
保守的な色彩というのは、個人としての自分を見失った精神ということだよ。
支配者としての意図でなければ、被支配者としての自分の無能さに対する補償として、つまりイワシの頭としての国家を崇めている。 いまどきアナーキストとか典型的馬鹿だな
国家に属さないでどうやって生きていくつもりだオッサン >>835
人はどこかで生活する。
そのどこかが特定の国家に属する場所であれば、否応なくその国の法に縛られ、その国の行政に金を払ったり、行政サービスを要求したりする。
他国に住所を持てば、それぞれの国に対して同様だ。
国家とは、金を集めて要求されたサービス(のごく一部)を実行する権力組織だ。
個人のほとんどがそうした組織機構の支配下に置かれてしまうのは仕方がないが、そうした組織がない方が生きやすいという地域もある。
国家が個人を生かすのではなく、個人(の集合体)が国家を形成しているという当たり前のことを忘れてはいけない。 『現代思想2019年6月号 特集=加速主義 -資本主義の疾走、未来への〈脱出〉-』
【討議】
加速主義の政治的可能性と哲学的射程 / 千葉雅也+河南瑠莉+S・ブロイ+仲山ひふみ
【加速主義の源流】
暗黒啓蒙(抄) / N・ランド/五井健太郎訳・解題
【資本主義のはざまで生きる】
転形期の未来――新反動主義かアシッド共産主義か / 水嶋一憲
気をつけろ、外は砂漠が広がっている――マーク・フィッシャー私論 / 木澤佐登志
【継承と共鳴】
さまよえる抽象 / R・ブラシエ/星野太訳・解題
加速主義から思弁的実在論へ――ブラシエとグラント / 浅沼光樹
死の向こう側 / 小倉拓也
【解放への道程】
『加速主義読本』序論(抄) / R・マッカイ+A・アヴァネシアン/小泉空訳
加速主義の系譜学――『加速主義読本』序論解題 / 小泉空
ポスト労働社会の想像と四つの要求 / 川村覚文 【幻視される特異点】
ゲーデル・シンギュラリティ・加速主義――近代以降の世界像の変容とその揺り戻し / 丸山善宏
The System of Hyper-Hype Theory-Fictions / 樋口恭介
【複数化する未来線】
啓蒙の終わりの後に、何が始まろうとするのか? / Y・ホイ/河南瑠莉訳・解題
ブロメテアニズム / A・ギャロウェイ/増田展大訳・解題
【フェミニズムによる応答】
プロメテアン労働とドメスティック・リアリズム / H・へスター/三浦尚仁+依田富子訳
【ここにある〈出口〉】
「大きな思想」と「小さな日常」が乖離するとき――ダークな思想を持った人たちの演出について / C・ローウィー
スティーヴ・グッドマン諸作における人類消滅後の全自動ホテルが示すもの / 橋勇人
ほか 毎月7日は文芸誌の日!『新潮』9月号は、千葉雅也の初小説「デッドライン」=21世紀の『仮面の告白』!!!
特集は「江藤淳 没後二〇年」。
上野千鶴子、高橋源一郎、福田和也、苅部直、平山周吉。他に、津村記久子、黒川創、古井由吉も。(本部N)
毎月7日は文芸誌の日!『文學界』9月号は、村上春樹ロング・インタビュー「暗闇の中のランタンのように」。
特集は、「文学なき国語教育」が危うい!紅野謙介、齋藤孝、前川喜平、
千葉雅也、伊藤氏貴、北村薫、俵万智 他。そして高尾長良、久々の新作「音に聞く」も。(本部N) 中沢新一 『レンマ学』 講談社 (2019/8/8)
“レンマ的知性は、ロゴス的知性の真に外部にある実在に触れている”
“荒海や 佐渡に横たふ 天の川(芭蕉)”
大乗仏教、哲学、量子論、言語学、精神分析、数学、生命科学、脳科学……を超えて、
東洋知の結晶した華厳経の潜在力を大展開する未来のサピエンス学へ!
『チベットのモーツァルト』に始まった心と脳をめぐる探究の頂。文芸誌『群像』の連載「レンマ学」がついに単行本化!
「レンマ」とは何か? 哲学者山内得立が著書『ロゴスとレンマ』で提出した概念によっています。
「ロゴス」は「自分の前に集められた事物を並べて整理する」ことを意味しています。
その本質は時間軸にしたがう線形性にあります。
それに対し、「レンマ」は「直観によって事物をまるごと把握する」という意味です。 たけのこを発酵熟成したものでラーメンに載せると彩りが増す >>835
ピーター・ティールに目の前で言ってやれ 第4回 京都大学 - 稲盛財団合同京都賞シンポジウム [映画・演劇分野]
中沢新一 「芸術のロゴスとレンマ」 2017年7月1日
https://www.youtube.com/watch?time_continue=2085&v=R-805Nr-LTQ
人間が「科学」を発達させた能力と、「宗教・芸術」を発達させた能力はそれぞれ異なる。
科学…ロゴス
宗教・芸術…レンマ 実存主義の文学作品はありますが、構造主義の文学作品はありますか?
おすすめをお願いします 「構造主義の文学作品」をどういう意味で使っているのかわからない
どういう要素を持っていれば「構造主義の文学作品」と言えると考えているのだろう 社会構造を文学で貫けばいい作品ができるし、テクストの公かもなみならないだろう。 社会構造を文学で貫けばいい作品ができるし、テクストの効果もなみならないだろう。 勝手にそうなっている構造が後からでてくる、原因と結果が逆 レンマ論的把握というのは、東洋思想にはよく出てくるもので、
これはこれで具体的な状態を指し示している。
仏教における三昧の境地「非想非非想(ひそうひひそうしょ)」とは
非想…想い(表象)があるでもない
非非想…想い(表象)がないでもない
状態。
イスラムのタウヒード(一性)は、言語や民族の差異や多様さをそのまま認めながら、全体として一つにまとまろうとする。
中論の「不一不異」も似ていて、同一でもなければ差異もない、というもの。 井筒はこうした範囲のものを東洋哲学と呼んで構造化した。
中沢は、それをレンマ論として整理している。 >>163
Disputatio Heidelbergae habita. 1518
"19. Non ille digne Theologus dicitur, qui invisibilia Dei per ea, quae facta sunt, intellecta conspicit,
20. Sed qui visibilia et posteriora Dei per passiones et crucem conspecta intelligit."
D. Martin Luthers Werke : kritische Gesamtausgabe (Weimarer Ausgabe) Bd1, Weimar, H. Bohlaus Nachfolger, 1964-1997, p354. >>773
この中で中沢がやっていたように、「ハイデガーを人類学的に読む」ということには一理あるかもしれない。
古い自然哲学に繋がるものでもあるわけだから。 中沢が最近よく口にする「レンマ論」を通して読むと、
難解とされてきたハイデガーやデリダの哲学が、極めて分かりやすいものとなる。 レンマ論の定義
(a)
ロゴスは「自分の前に集められた事物を並べて整理する」ことを意味。
レンマは「直観によって事物をまるごと把握する」という意味。
(b)※中沢の説明
人間が「科学」を発達させた能力と、「宗教・芸術」を発達させた能力はそれぞれ異なる。
科学…ロゴス
宗教・芸術…レンマ
(c)
1-2は排中律。1-4はテトラレンマ(四句分別)
1 Aである (肯定)
2 非Aである (否定)
3 Aでも非Aでもある (肯定かつ否定)(両是)
4 Aでも非Aでもない (肯定でも否定でもない)(両否) デリダや廣松は二項対立の克服に腐心した。
ハイデガー以降の現象学には、ハイデガーが語り、記者が記録した「顕現せざるものの現象学」という課題が残された。
これらは今、どのように理解されるべきか。 例えば、ハイデガーの「抹消記号」やデリダの「痕跡」は共に、
「書くことと」と「消すこと」の両義性を併せ持つ第3レンマ(>>854のc)的なものだということができる。 ハイデガーの「解体(Destruktion)」のルーツは、ルターの「解体(destructio)」
ルター「ハイデルベルク討論」の「十字架の神学」部分
> (19)神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない[ローマ 1:20]。
> (20)だが神の見える本質と神のうしろ[出エジプト 33:23]とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。
ハイデガーが掘り起こした古代ギリシャの「真理(アレーテイア)」概念
> “既にこの太古の神性Ἀφαία(アパイア)
> - 現われざるもの、現われることから身を引くもの、逃れつつ現われ出でるもの -
> それがアレーテイアの謂うところを名指している。”
このどちらもが、「現われるもの」と「現れざるもの」を問題にしている。 排中律に慣れた我々の思考は、これを「現われるもの」と「現れざるもの」に分けてそれぞれ一方を問題にしてきた。
・「現われるもの」は色眼鏡を通して見られている、とか
・「現れざるもの」を待ち続けるのは降霊術、だとか
そうではなく、レンマ的に同時に把握をすれば、「現われるものと現れざるもの」の現象学ということになる。
「現れざるもの」を意識しつつ「現われるもの」を見るという風に。 >>843で、中沢はレンマ的把握を複素数に例えている。
・「現われるもの」…顕在的なもの、実数a
・「現れざるもの」…潜在的なもの、虚数bi
それを合わせた「a+bi」が複素数的、レンマ的把握。 >>861
で、なんか役に立つの?
オウムは正しかったって言いたいのかな? >>863
求めてるのは説明じゃなくて、効果なんだが? 前々から思ってるんだけど中沢って人も結局絶対的馬鹿じゃないかと
オウム正しいぜ−っ体→絶対的思考停止→ オウムの次に知識人が試されるのはN国か
今の所乗っかってる奴は知らんけど 日本ではまだチベット密教の解説書がまだあまりない時期に、
中沢は解像度の高い体験記『虹の階梯』(1981)を書いた。
オウムが出てくるのはそれよりも後。 つまりオウム真理教の普及に多大なる貢献をしたということ 中沢は先駆者。
それ以降も何度も仏教論をやり直している。 デリダやレヴィナスは、他者を絶対の彼方に置いた。
その上で、レヴィナスは他者の顔の現れと向き合うものであったし、デリダは現れ(現前性)の哲学を非難した。
しかし、レンマ論に照らせば、「現れる他者」も「現れざる他者」もそれぞれ他者の一面でしかない。
では、「現れつつ現れざる他者」、「現れもせず現れなくもない他者」とはどういうものか? 西洋哲学は「現れるもの」と「現れざるもの」に分けて整理をするのが得意。
東洋哲学は「現れるもの」と「現れざるもの」とそれらの分別から漏れ落ちたものも併せて把握することが得意。 >>872
そんなこと言ってるから、大学の補助金がどんどん減らされるんだよ。
高校では文学を切り捨てるそうだが、哲学ではデカルトもカントも名前すら消えるんだろうな。 >>873
近現代哲学の死角と弊害の克服のために、主著で象形文字にまで遡ったのがデリダだろ。 『Derrida and Indian Philosophy』 Harold Coward (1990) こういう話は30年も前からある。
“メリルによれば、ポスト構造主義における解釈の無限の可能性という概念は、最高の秩序と最高の混沌は同時に存在し、相互に否定しあう心理が全体として仏教の言う「一」となる、という考えに類似しているという。
メリルは、サンスクリット・スンヤタのモノニアラザルモノとしての「思い浮かべることすら不可能な」無に言及し、これを近代物理学とデリダの著作の両者に比較している。
ロバート・マグノリア(『快方に向かうデリダ』〔一九八四年〕)もまたデリダの思想と仏教の無という概念とのあいだにひとつの類似性を見出している。
空無への帰着は「中心」とされる「超越的シニフィエ」の無益な追及についてのデリダの分析によるものである。
マグノリアがとくに関心を向けているのはナーガジュナ派の仏教である。
「ナーガジュナは同一性原理の脱構築を自分の明確な使命と心得て」おり、「デリダと……同じ論理的戦略を用いている」とマグノリアは述べている。”
― アート・バーマン 『ニュー・クリティシズムから脱構築へ:アメリカにおける構造主義とポスト構造主義の受容』 未来社 (1993) 10章 >>877
> 「思い浮かべることすら不可能な」
とは、「語でも概念でもない」とされるデリダの差延や痕跡のこと。
> ナーガジュナ
は龍樹。中論(>>850)やテトラレンマ(>>855)の人。 >>877
とにかく目新しいことを言いたいだけのニッチ哲学しかないんだな。
それなら哲学なんてやめればいいのにw その上で、中沢は『レンマ学』で、レンマ的論理は(デリダも取り組んだ)否定神学とは違うということを言っている。 >>879
デリダの思い付きを真に受けてどうするんだよw デリダは、西洋哲学のピークにおいて、その脱構築ということをやったわけだから、その問題意識が東洋哲学に近くなってもおかしくはない。
デリダ自身は東洋哲学への言及には慎重であったし、ユダヤ哲学的性格は、西洋哲学と東洋哲学の間にあるが。 >>885
違いは彼らの頭の中だけにある。
もともと成立できない概念。 >>886
テトラレンマも否定神学も1700〜1800年ぐらい前からあるもので、
どちらも辞書やwikiに記載がある。
個人的な理解や好みの話ではない。 >>887
辞書やwikiに記載があれば、概念が成立する、と?
君の頭は、カツラの台か? カントよろしく認識論を経験可能なものに限定してしまう必要性もないわけだが「独断論のまどろみ」やアンチノミーのような気がするな
それはともかく
「現れるもの」と「現れざるもの」という構図自体が二項対立であって
「レンマ的把握を複素数に例え」ることもまた二項対立じゃないか
複素数を支えるものが実数と虚数の区別なんだからそれによって二項対立の克服は不可能だろうし
東洋哲学については無知同然だが
「現われるもの」と「現れざるもの」の同一性や一体性を説くのが東洋哲学じゃないか
観念論的に言えば概念として持っているもの以上の認識は不可能なわけだから
潜在か顕在かという区別もまた両者の認識可能性を前提にしており
「現れざるもの」が認識可能だということは結局のところ「現れるもの」だということであって
つまり潜在的なものを認識してしまう時点でそれは顕在的なものであって
「現われるもの」と「現れざるもの」との区別自体が成り立たなくなる
「現われるもの」と「現れざるもの」との区別自体が成り立たなくなる(脱構築)というのは
AとBの同一性を主張するときAとBとの区別を前提としている(三位一体を想起してほしい)以上
「現われるもの」と「現れざるもの」の同一性(東洋哲学)とは異なるものということになる 中沢の複素数モデルは>>843の31:47〜で説明をしていて、
・世界は、実数(顕在的なもの)と虚数(潜在的なもの)の組み合わせ「a+bi」で出来ている
・その実数と虚数は時に入れ替わる
といっている。 デリダやレヴィナスの他者モデルでは、自己と他者は交わることがない。
中沢のモデルだと、実数(自己)と虚数(他者)が時に入れ替わりもする。 主人公の男女二人が入れ替わる『君の名は。』もこのモデルだ。 このような構造は、チベット仏教にも、その他の仏教にもよく見られる。
一即多、一即一切の華厳的記号学モデル(井筒『コスモスとアンチコスモス』より)
A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)
[ ]は強調
顕在的な花Aは、潜在的には花aでも石bでも川cでも鳥dでも空eでもあり、それらとの差異からAが顕在化される。 複素数モデルとやらを整理してみると
・実数…顕在的なもの、「現われるもの」、自己
・虚数…潜在的なもの、「現れざるもの」、他者
・世界は実数と虚数の組み合わせ「a+bi」で出来ている
・その実数と虚数は時に入れ替わる
こういうことになるようだが
ここで気を付けないといけないのは「実数と虚数は時に入れ替わる」のではなく
aとbに「代入されるもの」が時に入れ替わるということだ(aもbも代数である以上「a+bi」の入れ替わりを「b+ai」としたところで数式の表す意味には何の変化もない)
つまり
自己そのものと他者そのものが入れ替わるのではなく
ある時には自己とみなされるものが別の時には他者とみなされるものであることもあり
ある時には他者とみなされるものが別の時には自己とみなされるものであることもある
ということだ(これは>>894にも一致するだろう)
このような理解は自己と他者の区別を前提としており二項対立の解消にとって何ら益するものがない
二項対立的区別は「代入されるもの」の入れ替えによっては解消されない
東洋哲学の二項対立的区別は複素数モデルでは否定できない
そうなると西洋哲学との差異は何なんだ?
少なくとも両者の差異は二項対立にはないわけだ
二項対立を前提とする東洋哲学はどのように二項対立を克服するというのだろうか? >>894
サルトルの『嘔吐』は、マロニエの根Aを顕在化させる意味作用を忘れて、存在のヴェールの下にあるabcde…のままの塊を覗いてしまった。 数学そのものは道具であってそこに自己とか他者とかのような意味はないよ。
ただただそのような考え方するもんだと思っておらえればよい。 西洋と東洋の世界の違いは前スレでもやった。
・一神教世界(非対称性、外在的超越、西洋的二元論)
・仏教世界、アニミズム世界(対称性、内在的超越、東洋的一元論) サルトルは医者の家系で✕。工学やっても医療機器といううれん業界だ >>898
いくらなんでも、単純化し過ぎというか、俗っぽ過ぎるんじゃない? >>900
単純でも俗でもない整理をやってみせて? 西洋と東洋
一神教と多神教
非対称性と対対称性
外在的超越と内在的超越
二元論と一元論
これらこそが二元論だろw 東大で宗教学をやっていた人の話。
その人のところに訪ねてきたオ〇ムの中でも高い地位にあるという人に、
「そんな本を読んでいる暇があったら、ちゃんとした仏典と中沢の本を読みなさい。」
と諭していた。 >>905
>ちゃんとした仏典と中沢の本
これは感心するところ?
それとも笑うところ?
もしかすると、オウムの高い地位にある人が読んでる本を、この学者が読んでなかっただけ、ということ? 中沢は、現代数学におけるレンマ論の位相を以下のように説明している。
“量子力学が見いだした非可換空間の考えからは、アラン・コンヌ(一九四七-)による非可換幾何学が生まれている。
この新しい幾何学は人類の空間概念を本質的に変化させようとさえしている。
どのような数学モデルにも、標準的(standard)な部分の外に
超準的(non-standard)な領域が存在していることが、数学基礎論によって示されている。
この超準的な領域の存在を認めると、長いこと実在ではないと考えられてきた無限小や無限大のような概念が実在するようになる。
レンマ的知性は、ロゴス的知性の真に外部にある実在に触れている。”
― 中沢新一 『レンマ学』 講談社 (2019/8/8) 虚数は"imaginary number"だが、空想上のものの実在性を認めるといって話題になっていたのは誰>>270だったか? 最近のメイヤスーのもので決定的なのは>>683。
この中でメイヤスーは、数学的形式主義における空記号のあり方に注目している。
“私が関心を抱いていてなおかつ議論するつもりのタイプ、すなわち純粋形式の下にあるタイプ、つまりは意味の空虚な記号のタイプを識別するために、新語を提起しておく。
空虚な記号のこうしたタイプを ―「空虚」を意味するギリシャ語の形容詞kenosに基づいて― ケノタイプと呼ぼう。”
― カンタン・メイヤスー、立花史 訳「反復・重復・再演 意味を欠いた記号の思弁的分析」『現代思想2019年1月号 特集=現代思想の総展望2019 ポスト・ヒューマニティーズ』 仏教の空は経験的な空だが、ケノタイプはそうではない空ということ。 その他、メイヤスーが扱っているものは、ソシュール記号学ともパース記号論とも違うとしている。 >>914
大学といえば東大のことだろ?
このスレは大卒限定だから、東大か東大院に決まってる。 ちなみに、文系はどこであろうと、もちろん東大院であろうと学校として認められない、というか廃止になる。
それが安倍政権の教育改革w ポスト現代思想の愛好者は、少しは危機感を持った方がいいと思う。
それとも、いま学校で食ってる連中は、逃げ切りだけを目指してるのかもしれないね。
うっかり政権批判や教育政策批判をすると、来年から講座が消えるとかねw だから加速主義とか新反動主義とか流行ってるんでしょ。
それこそリアルに就職を控えた院生のあがきとしてw >>919
哲学専攻がいくら政権に阿っても、就職戦線では無意味だよね。
経済学なら多少の効果はあるかもしれないが。
そんな連中を雇う企業はないし、学部学科の廃止が止まることもないしw
資本主義社会では、すべてをなげうつ奴隷でさえ、醜いというだけで足蹴にされるんだから。 まあ哲学は趣味として残るしかないと言っていた人もいたしね。
だからこそサブカルに接近していると言えなくもない。 中間層はどうなるのか
その他に選択肢はないのか
どちらか一方に偏らないのか 二項対立を積み重ねればいいじゃないか
AとB、BとC、CとD、DとE、・・・というふうに 二項対立というのは、ヘーゲル(とマルクス)の弁証法で終了してるんだよね。 あらゆる物事がデジタルで処理できるということが
わかって二項対立が森羅万象の説明原理になった >>925
アドルノの否定弁証法は?
>>927
排中律というのは文字通り中間を排除したもの >>926
二項対立というのは視点の問題であるということが一つ。
そして、どの視点から得られた二項対立も、そのままとどまることはなく、新たな構造(関係)に移り変わるということが一つ。 >>927
残念ながら、あらゆる物事がデジタルで処理できないということが分かってきたのが、現代というべきだろう。 >>928
アドルノの否定弁証法というのは、いわば普通の弁証法。
視点をどこに置くのかを強調した言い方。 >>931
弁証法が止揚によって一元化されてしまうことに異義を唱えたんだろ >>932
ヘーゲル(とマルクス)の弁証法というのは、一元化などされない。
常に新たな否定項が内部から生まれ続ける。
図式化すれば、螺旋階段のようなものだ。 >>934
止揚という過程などない。
常に動き続けている。
だから、螺旋状であって、同じ地点にはない。 止揚=矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること >>936
それだと、ヘーゲル(とマルクス)の弁証法の理解になっていない。
エンゲルスの『自然の弁証法』が理解の手助けになると思う。 >>938
ロマン主義ってなんだよw
負け惜しみもたいがいにするべき。 カント以降の哲学が主体と客体を分け、
その間が相関主義(言語や感覚など身体性による感得)による
曖昧な解釈で埋められてきた。
メイヤスーはこのことを乗り越えるべく、
解釈の幅のない、科学的・数学的アプローチのみによって実在にアクセスする
思弁的実在論によって脱却しようとした。 ただこうなると、今度は
・身体性を介すもの/介さないもの
・人間性/非人間性
・人文学/非人文学
という対立が生まれる。 そこで出てきたのが、
科学も空想もその他のものも同レベルに認めるという多元論的な
ガブリエルの新実在論>>137。 哲学を通して見ても、それは世界の一面でしかない。
科学を通して見ても、それは世界の一面でしかない。 >>941
科学的・数学的アプローチは解釈の幅がない?
面白い冗談だ。
吉本芸人とどっちが面白いかは知らないが。 >>943
くだらないこと考える暇があったら、学生たちの就職先探しに奔走しろよ。 カント以降の哲学でもう一つ大きい問題が
構造主義の祖でもあるソシュールのモデルで、
シニフィアンとシニフィエの二元論(>>205-206)になる。
ポスト構造主義以降の哲学者は、このソシュールモデルの乗り越えを課題としてきた。
デリダ、ドゥルーズ=ガタリ、エーコは、
その死角と限界を克服するために、パースの三元論モデル(>>205-206)を引き合いに出した。
それに対して、メイヤスーは解釈が一元的な数学モデル(>>911,913)で乗り越えを図った。 6世紀に発展した天台宗の「一心三観」では、以下三つの観方を一思いの心に観る。
(1)一切の存在には実体がないとする聖なる空観
(2)一切の存在は仮に現象しているとする俗なる仮観
(3)空観も仮観も別々のものとしない中観
どのような観方であれ、世界を切り取る際には死角が生じる。
空観といえども例外ではなく、その死角を埋めて相対的思惟を超えようとするもの。 空というのはemptyということだが、
その運用のされ方によって複雑に構造化してきた。
ブッダの「縁起」
・空
・一元的な空
↓
龍樹の「空亦復空」
・空もまた空ぜられねばならない
・二元的な空
↓
「一心三観」
・空と非空を合わせる空
・三元的な空 意図をどう扱うかという問題でしょう
意図が扱いにくいからといって、「恣意性の排除」によって、
あらかじめ意図を排除してしまうなら、
すべては、既に与えられている分類の構造に還元されることになる 構造主義が意図を排除しようとすること自体が、恣意性によって構造が
乱されることが意識されている証拠でしょう。機械的/自動的/無意識の
構造を見出そうとするのに、意図によって構造が改変されてしまうことを
認めるのは都合が悪い。それを認めると、分析する側が、コントロールする
手立てを失ってしまうことになる。だから、意図はなかったことにしましょう、
意図は、実は、裏から、意図しない与えられた構造によって規定されている
ことにしましょう、ということになる。しかし、意図は、構造的でも、
非構造的でもなく、構造化そのものなのです。 そこで、哲学は、いつでも「遅れてやって来て」、メタ言語的に表現の
妥当性を問い直すことになる。そこで問題にされているのは、意図が
どのように経験を構造化しているかでしょう。哲学的な言説によって
であれ、経験が、既存の表現によってうまく記述され尽くしていると
感じられる限り、哲学は必要ないが、そのような記述には、新たな経験
は、まったくかかわっていない。 《Que sais-je? 〔Que sçay-je?〕》「私に何が分るのか?」
そう自問することを忘れるべきではない。 ブラシエやメイヤスーの「絶滅」論も、
人間存在を超えるものや、世界に対する絶対的な畏怖という、
西洋の伝統の延長線上にあるものなんだろうと思う。 別に一人で延々書くのもいいんだけど、ひとりごと調じゃなくて連続性のある講義調とかメモとかにしてほしい
断片的に考察が並んでるのが謎すぎる 中沢大好きおじさんはもう中沢には言及しないの?
東洋も二元論だって論破されたから話題逸らししてるの? 二項対立については、いつでも「思想」に落とし込まれてしまい、哲学的に
十分に考察されないから混乱している。 >>955は、誤爆だが、構造主義の重要な問題の核心に触れることになっている。
構造主義やポスト構造主義が流行したとき、「言語には差異しかない」という
ソシュールの引用が流行ったが、それにより、哲学的に考察することなしに、
つまり、メタ言語のレベルにおいて十分に表現の妥当性を検討することなしに、
二項対立の存在について語ることが構造主義やポスト構造主義を論じることに
なるという一般的な認識が定着してしまった。 だが、実のところ、問題は簡単だ。ここで言う「差異」とは、弁別的特徴の
ことであり、例えば、フランス語を知っているというのは、フランス語と
される言葉の表現において用いられる弁別的特徴が分り、使うことができる
ことである。それができなければ、たとえフランス語の辞書を丸暗記して
いて、発音や文法の記述を詳しく述べることができたとしても、フランス語
について豊富な知識を暗記していることにはなり、フランス語について
よく知っていることにはなるが、フランス語を知っていること、つまり、
フランス語が分ることにはならない。これは、ちょうど、或る人が、
いくらワインについて博識になっても、ブルゴーニュ産のワインと
オーストラリア産のワインを試飲して、その違いを判別することが
できないなら、その人はワインについてよく知っている人ではあっても、
「ワインを知る人(connaisseur)」であることにはならないのと同じ
ことだ。 「言葉の意味とはその用法である」と一般に言われるが、「言葉を使う」とは、
「弁別的特徴を構造化することができる」ことである。それができなければ、
いくら大きな声で盛んに音声を発していたとしても、その声は「意味を成さない」
のである。だから、日本の古典文学においても、下衆の発する音声は、
しばしば、「言葉」としてではなく、「さえづり」として認識されている。 構造主義やポスト構造主義として「二項対立の存在について語ること」は、
「意味を成している」のか? 「違いが分る」ようになるために必要なのは、「身をもって知る」ことであり、
つまりは、経験することである。経験するとは、自らの振舞ひの効果が感じられる
ような状況に自らを置くことだ。それなしに、いくら知識を蓄積したところで、
「違いが分る」ようにはならない。 学校教育は、豊かな経験の可能性を提供する場となっているのか。
むしろ、家畜として生きることを「身をもって知る」場となっているのではないか。 >>963
> >>955は、誤爆だが
『エセー』なんて手に取ったことあるのかい? “わたしはなにを知っているのか?(ク・セ・ジュ)”
“もっとも知られていないものこそが、神々の列に加えられるのにはもっとも適している”
― モンテーニュ 『エセー』 検索してみた
http://new.gisc.org/gestaltreview/documents/MontaigneKnowingandGestalt.pdf
In 1576, the French essayist, Michel de Montaigne chose as his
maxim of skepticism1 the question “Que sçay-je?” [What do I know?],
which he had set on a personal medallion together with the Greek word
epokhe [I hold back, or I reserve judgment], How does he [Man] know, by the force of his intelligence,
the secret internal stirrings of animals? By what comparison between
them and us does he infer the stupidity that he attributes
to them? When I play with my cat who knows if I am not a pastime
to her more than she is to me? We entertain each other with
reciprocal monkey tricks. If I have my time to begin or to refuse,
so has she hers. (Book II, chap. 12, p. 401) >『エセー』なんて手に取ったことあるのかい?
手に取ってみて、適当に開いてみました。なにか関係しそうなことが
書いてあるようです。何を言おうとしているのでしょうか?
Tout ce qui se cognoist, il se cognoist sans doubte par la faculte du
cognoissant: [...] Or toute cognoissance s'achemine en nous par
les sens, ce sont nos maitres: [...] La science commence par eux,
et resout en eux. p.624 誤:et resout en eux
正:et se resout en eux 社会で真っ当な人物として暮らしたかったら、作中の登場人物に対しては、
終始違和感しか感じない筈だが、これが常人から並外れて論理的な向きである場合は、
それほど間違っていないというようなことなのかな? あなたの言葉を聞いていると、脳がすっきりときれいに洗われる気がします >>971
こう問い直してみてもいいのではないでしょうか。
モンテーニュは、 “Que sçay-je?”という言葉を、自分の知識の量が
不足していると感じていたので、《Je demeure incertain.》という意味の
ギリシア語と一緒に記して、座右の銘としたのでしょうか。 懐疑主義とは、実際には疑ってもいないことを疑っているふりをして
みせることではない。「不確かさに留まる」ことは、分っているのに
分らないふりをすることではない。
分ろうとする意志が働くためには、まずは、現状で自分には分って
いないことに気付くことができなければならないのである。
ところが、いくら思いを巡らせてみても、自分にどのようなことが
分っていないのか気付くことはできない。分っていないことに
気付かせてくれるのは、経験だけなのである。 経験によって、現状では自分には分っていないことに気付き、その状況
を受け入れることによって初めて、分ろうとすることになる。
しかし、乏しい知識に劣等感を抱いている人々も、逆に自らの豊富な知識
を誇りに思っている人々も、その多くは、分らないという状況を受け入れる
ことができない。なぜなら、それらの人々にとって、世界は、知っている
ことと、知らないことだけから成立しており、分らないことは、たとえ、
他人には関係している可能性があるとしても、自分には無関係のことである
と即断するからである。自分に知らないことがあることは、自らの知識
の量を誇りに思っている人々でも知っているが、分らないという状況を
受け入れたままでいることは、それが自分の知性が劣っていることを
示しているように感じられて、耐えることができないのである。
だが、愚かさとは、まさに、そのように、自分には分らない状況に
耐えることができず、分らないものは自分には無関係であるとする即断
にある。知性は、分らない現状を自覚して判断を保留しながら、
分ろうとして手がかりを求めることを続けることによって磨かれる。
それが「不確かさに留まりつづけること」であり、そうすること
によってしか、知性を磨く機会は得られないのだ。 技能を身に付けさせる訓練をするのに、訓練を受ける側は、「まだ何も分らない
のだから黙って言われたことに従え」というのは、それが、既に技能を身に付けた
指導者のまねをするように導かれる限りで正しい。訓練を受ける側は、まねを
しようとしてもうまくいかない経験を繰り返し、なぜうまく行かないのか、
うまく行く人のやり方とどこに違いがあり、どうすればうまく行くようになる
のかを自ら探究することになるからだ。しかし、指導する側が、模倣されるべき
技能の実践的な効果を示すことができず、ただ単に指示に忠実に従うことが
評価され、指示に従わないことが罰せられるだけなら、それは、それが
どのような名目/建前で行われるにせよ、技能を身に付けさせるための訓練
ではなく、服従のための訓練となる。 階層化した社会においてのみ成立し、運営されてきた学校という教育制度
で実際に行われているのは、生きるのに必要な技能を身に付けさせるための
教育なのか?「教(をし)ふ」という表現が意味するのは、声によって導く
ことであるはずだが、命令と禁止と褒美と罰によって服従する習慣を身に
付けさせることは、躾(しつけ)であって、技能を教えることではない。
調教された馬や犬やイルカなどの動物は芸をやってみせるが、芸を仕込ま
れた動物は、調教する人によって技能を教えてもらっているわけではなく、
自ら発達させることのできる技能を服従において発揮しているだけである。
ヒト以外の動物を見ても、生きる技能は、取り残されないように親について
いこうとすること、親が餌を獲るのを真似すること、子供同士で遊ぶこと
などで身に付けている。生殖のパートナーを獲得しようとする競い合いで
技能を磨き、高める場合もあるだろう。しかし、命令や禁止に服従すること
で自らが生きるための技能を磨くような動物種が存在するだろうか?
従順に服従する習慣を身に付けることが、人と人に飼われる動物の場合
においてのみ、生きる技能を身に付けるための「教育」と見なされると
するなら、これはとても奇妙なことではないだろうか。 『モンテーニュとエセー(文庫クセジュ)』 ロベール・オーロット (1992) どこらか読んでもいい随筆集なのだから、どの巻からでも(または1巻本の
場合には、どのページからでも)直接に読めばいいのでは。前提として
何か専門知識を要求するような本ではない。 意味は既にあってそれを解読するという作者中心の読み方から意味が主体の中で生成されていく読み方(作者の死)に変わっていく
文化を言語的構造とパラレルに捉え文化を言語学的方法によって分析する
そうすることで文化はロゴスとして順序立てられたものとして秩序立ったものとして捉えられる
そこでは主体は秩序を再生産する一部品に成り下がり主体としての地位を失う
しかし文化も言語もロゴスではないし秩序立てることはできない
つまり文化や言語それ自体がそして文化や言語に隷属していると思われる主体がロゴスを秩序を破壊し新たなものを生み出していく力を内包している
では文化を言語的に捉えることができないのであればいかに捉えるべきか
そこで身体性が出てくる
しかし身体性は概念である
そして身体性の痕跡を表すには言語を用いなければならない
身体性によっては言語から逃れることができない
言語は順序立てられていなければつまりロゴスでなければ理解ができない 宗教
過去(創造と歴史)と未来(終末や来世)とのつながりから現在を理解しようとする
科学
過去(原因)とのつながりから現在(結果)を理解しようとする
科学に未来を組み込むことは可能だろうか >>989
とりあえず、ハイデガーでも読んでみればいいんじゃない? 言語以外の記号の分析というのもあるよ。
身体性ということであれば、
ロラン・バルトのファッションや、内田樹の武道とか。 (1)言語の意味作用を中心としたソシュールの記号学
(2)言語以外の意味作用も対象にしたパースの記号論
ドゥルーズ=ガタリからメイヤスーにかけての流れの中で注力されているのは、1から2への転換だね(>>225)。 >>272の中で分けられている「自然と文化(脳内過程、象徴過程)」というのは、
人類学というより記号論的な問題系。
言語以前の動物の生命過程や生物過程にも、記号過程(動物の体の模様や>>544のようなこと)はある。
敷衍して、生物記号論や地球環境記号論という話にまで発展した。 スマホのインターフェイスなんかはアフォーダンス(生態心理学と情報科学)の具体的な成功例。 >>733は、
デジタルメディアを通して展開される東のデリダ論と、石田のメディオロジー論。
心理学、現象学、記号論などに残された課題をアップデートし切っている。 メディオロジー関連
・レジス・ドブレ 『レジス・ドブレ著作選 1-3』 NTT出版 (1999-2001)
・ダニエル・ブーニュー 『コミュニケーション学講義 メディオロジーから情報社会』 書籍工房早山 (2010)
解説
・『現代思想2000年7月号 特集=メディオロジー』
・『フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ』 岡本裕一朗、中公新書 (2015) メディオロジーは、キリスト教やマルクス主義の言説分析なども対象にしている。
“私はつまり、高度な社会的機能を伝達作用の技術的構造とのかかわりにおいて扱う学問を「メディオロジー」と呼んでいるのだ。
人間集団(宗教、イデオロギー、文学、芸術など)の象徴活動と、その組織形態、そして痕跡を捉え、保管し、流通させるその様態との間に、できるならば検証可能な相関関係をケース・バイ・ケースで論証すること、それを私は「メディオロジー的方法」と呼んでいる。”
― レジス・ドブレ 『レジス・ドブレ著作選 1 メディオロジー宣言』 NTT出版 (1999) この辺りが、ポスト構造主義からポスト・ポスト構造主義への過渡期。 せっかく目を閉じていてあげたのに
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