この世の誰も悪くないさきっと
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だって誰も生まれたくて生まれたわけではないもの
みんな頑張ってるんだよ
そして多かれ少なかれ苦しんでもいる
ぽまいらの意見を聞きたい この世界が間違っているという認識は、人によっては自分のアイデンティティを崩壊させるかもしれないからかもしれませんね。 全存在が祝福され、限りない幸福が与えられますように 私もこの世に悪がなくなって、全ての存在に幸福が与えられんことを祈ります わかりにくいかもしれませんが、悪人の存在が悪いのではなく、悪そのものが悪いのです 悪そのものは、この世の自然法則によって起こります。
例えば、交通事故も悪です。
交通事故は人間の体のもろさ、車という物理的実体、速度、運動量など、さまざまな条件によって起こります。本を辿れば全て自然法則に帰着します。
人間の体が完全無欠で完璧であれば、このようなことは起こりません。
「完全無欠で完璧」という言葉に引っかかるかもしれませんが、ここでは、厳密ではない、大体の概念として捉えてください。
そして、自然法則はどうあれば良いかというと、簡単な話です。人間含め全生物がその完全無欠な体を持つようなものであれば良いわけです。 355の続き
何を言っているのか想像しにくいかもしれませんが、漫画などを思い浮かべてみれば良いでしょう。
トムとジェリーはどうでしょうか?
ネコのトムはジェリーのイタズラによって随分致命的なダメージを負うような場面を経験していますが、いつも死なないじゃないですか。
そのように考えてもらって結構です。
あれは、この世の物理法則に照らし合わせればかなり破綻していますが、物語は成り立っています。
いいですか、この世界の物理法則が人間にとって、しいてはこ世界の生物にとって悪なのです。人間が愚かだとか生物が愚かだという話はこの世界の物理法則ありきです。
とてもじゃありませんが、「人間に特別な超能力があって自らの悪性を止めることができる。それを選ばないものが悪人なのだ」という考えはめちゃくちゃです。
非常に自滅的な、排他的な理論です。「自滅的な」というのは、もし当人が悪事を行なった場合、自分のことが許せないので自分を責めることになるからです。ひどい場合自殺してしまいます。
もうお気づきでしょうか?この世界の物理法則が悪いのですよ。 子の超管理社会ってたんに との権力争いにすぎないんだよなぁ~ >>313
人間は誰しも自分の心を守っています
「防衛機制」と呼ばれるものです 社会的地位の高低に関わらず一人の人間の力など知れたもの。
それは安倍だろうが宮崎駿だろうが引きこもりの無職だろうが同じこと。
という認識に立って初めて自らの立場に応じた責任を自覚できる。
そういうことだ。 何かを否定する時だけやたら能力を発揮するのが今の日本人。
あらゆるモチベーションをそこにしか注げない。
もったいないよなあ。 どんな強い人間も最初から強いわけではない。
まずは自分の弱さを受け入れないと、先には進めない。 予定調和っすなあ。
気持ちに揺らぎやムラ、それとの葛藤が全くないのは人として信用できん。 喜怒哀(苦)楽の感情が湧き起こるのは当たり前だが、後味を残さないこと。
クールとか冷静とかいう問題ではなく、感情に振り回されないとはそういうこと。 ざっくり噛み砕いて言うと、あらゆることに意味があるっちゅうこっちゃな。 人間には無限の可能性が眠っていると言った世迷い事を信じる程能天気ではない。
そんなものを心の支えにしなければ成り立たないモチベーションなどろくなもんじゃない。
まあそんなことを本気で信じ込んでいるのは一部の勝ち組だけだろうが、
なんとなくそういうものとして受け入れることで、容易く人生に絶望する凡人を量産しているのも事実。 自他の線引きをきっちりつけること。
自分の立場ですべきこと、する必要のないこと、すべきでないことのラインを明確に。 人間は理屈で動く生き物ではないってこと。
人の心を動かすのは内に秘めた情理のみ。
上っ面の計算を超えるから人を巻き込むことができる。 自分の行く先を固定化させないこと。
現在を起点として、未来・過去にも手に届く距離というものがある。
自分の中にないものはないものとして、あるもので進むしかない。 いくら自分を厳しく律したつもりでも人間間違う時は間違うし、
むしろガチガチに管理するから失敗に歯止めがかからなくなることもある。
人間の限界を弁えた上で、根をつめ過ぎないこと。 負けた時に負けた理由なんかいくら考えてもしゃーないよ。
負けた事実だけを噛みしめればそれでいい。当座はね。 何かをすればそこには必ず批判・反発・抵抗は湧き起こる。
それはそういうものと諦めるしかない。 過ぎたるは猶及ばざるが如し。不足があるのなら補えばいい。
人間、足るを知ることも必要。 一つの考えに留まり続けないことも大切。
自分や他人を責めることが悪いのではなく、心がこわばって抜き差しならなくなるのが問題。 昨今嫌われる勇気なんてのが取りざたされているが、
勇気なんて力こぶを入れている時点でまだまだ甘ちゃんやね。
嫌われるのがデフォルトになってしまえば、何を思い悩むことも企むこともない。
無理して嫌われる必要はないが、好かれる必要もないわけでな。 言うまでもなく人生は無駄の積み重ねの上に成り立っている。
ある程度の目星をつけて進む必要があるにせよ、全てを管理できるというのは思い上がりというもの。
効率的な目標の為に生活の全てを犠牲にしないこと。 悪い事だらけだろ、人間はそれ以外の全てのものにどんだけダメージを与えながら生きてると思ってるんだ
くだらない自己実現や目標なんぞ好きにやれば良いが地球的に見ればそんなものにはクソの価値もない 世の中そういうものだと前向きに諦めるということ。
自分の限界が分かれば無駄なものをしょい込んだり、人に押し付けることもない。
自然体で通すものは通すということ。 ま、人の生き方なんて人それぞれで外野が口を出すことではないのかもしれんね。
自分で自分を追い立てて生きるのはしんどいだろうなあ。
自分が納得しているのなら誰も文句は言えない。 できひんことはできひんけど、少なくとも生きることに本気にはならなあかんにゃろな。
それで駄目ならしゃーない。 嫌われる勇気って、読んでないけどさ
結局、他人に好かれるために他人に迎合すると、後でしんどくなったり、感謝されなかったら腹が立ち、人間関係の不満の元になる
あるいは、信念が無い人として軽蔑されたりもする
結局、嫌われる勇気を持って、自分の信念を貫けば、ついてくる他人もいる、そういう他人から好かれましょう
という話でしょ、たぶん
市場原理的には好かれなかったら、自分の信念が間違ってるんだよ
自分のニーズはどこにあるか、誰から嫌われるか、それを知り、前者を取り、後者は切り捨て、
前者に沿った目標を編み、実行しながら計画を洗練させていく、そのプロセスが幸福の源なのだ 傷つくことを恐れる気持ちは誰にでもあるが、受けた心の傷の痛みを薄めようとしないこと。
痛みを痛みとして感じることができるのは人間にとって幸せなこと。 心が高揚しそうな時ほど手元に引き付けておく必要性。肌感覚を手放さないという問題。 生きている意味はないかもしれない
自分の価値はどこにもないかもしれない
そういう状況の時、君たちはどう生きていくのか? 苦しみない世界
悪人までも浄化される世界
全てが喜びに満ちている世界
私たちはそういう世界を目指すんだ 時の流れを自分のものにするためには、まず自分の空虚さを受け入れること。
欠点は克服するものではなく受け入れるものだと分かれば、さらに生きる意志につながる。 信頼とは共に積み上げ共有したものの高さによって決まる。
自分を守るのは人との距離感のみ。 「そこの幼女よ」
「何の話なの?」
「行動とは目的と結果によって成り立っているのだよ」
「では貴方は何故殺すの?」
「自分がそれを望むからだよ」
「では私は何故生きるの?」
「自分がそれを望むからだよ」
「殺す事でどうなるの?」
「その事を望んでいた者が喜ぶのだよ」
「生きる事でどうなるの?」
「その事を望んでいた者が喜ぶのだよ」
「じゃあ殺す事と生きる事は同じなの?」
「そうだ陥れる事にも救う事にも善悪はないのだよ」
「じゃあ善悪はどこにあるの?」
「個人の中にしかないのだよ」
「自分にとって都合のいい事を善と呼べばいいのだよ」
「だから今から君を犯す事も善なのだよ」
「少なくとも私にとっては」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています