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思考を投下する
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0001平安
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2018/07/24(火) 14:39:53.700
立ったら書く
0002平安
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2018/07/24(火) 14:41:53.270
自由意志はあるだろうか。
最近は脳の仕組みの解明が進んできたが、このまま解明が進むと、人間というものは、恐ろしいほど精巧なだけで、言ってしまえばただ単に「機械」であるという事実まで解明されてしまうかもしれない。
何しろ我々は、仕組みはどうあれ電気信号で動いているわけである。
しかし、少なくとも私は、あるか否かの議論にかかわらず、自由意志はあってほしいと願う。
そして、あることを祈る。
0003平安
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2018/07/24(火) 14:44:37.400
自由意志がないということは、すべての行動が論理に基づいているか、偶然に基づいているかのどちらかである。
自由意志がないときの行動を考えやすくするための簡単な例として、人生ゲームを挙げよう。
ルーレットの目は、理想的なものであれば、ほぼ確率にそってランダムな値をとり、それぞれの目はほぼ同様に確からしい。
つまり、(本当はもっと複雑なパラメータが関与しているのだが、)ほぼ偶然だと言ってよい。
そして、それぞれのマス目にあるコマンド(命令)は、先述の論理に当てはまる。
「このマスに止まったら、何マス後ろに下がらなければならない」、などといったコマンドがあらゆるマスに書かれており、我々はそれに従う。
自由意志がなかったら我々はこのように行動する。
それでもやはり、自分が生きている感触としては、自分の行動は自分で決定しているように感じるし、そうあってほしいと私は願う。
「論理でも確率でもない」行動が存在してほしいと願う。
0004平安
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2018/07/24(火) 14:45:45.140
行動が論理か確率かあるいは、それが混ざったものだけで構成されていたら、
私の行動は、簡単に言えばはじめから決まっているものとでたらめなものが合わさったもののみになってしまう。
純粋にそんなのはいやだ。私は私の「意志」で行動したい。
0005平安
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2018/07/24(火) 14:48:10.230
また一つ、問題がある。それは、他人に意識があるかどうか根本的には知ることができないということである。
「哲学的ゾンビ」という言葉を知っているだろうか。それは、普通の人間とまったく同じように行動するし、人間と区別できないが、「意識」が存在していないものである。
私は、もしかすれば、他人すべてが哲学的ゾンビなのではないかと疑う。
この世界は、言ってしまえば、私の脳が決定した世界である。
その意味で、この世界には、「真の意味で」客観的なものは存在していないと考えられる。
自分ではないもの(ここでは人も物も含む)が、自分とは独立に行動していると、言い切ることはできないだろう。
ということは、この世界を、自分に従属した世界、言いかえれば、自分が決定した世界と言ってしまっても、間違いだと証明できない。
したがって、この世界は、外部の機関が人間でいうところの夢を見ているために生じたものだと考えることもできなくはない。
0006平安
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2018/07/24(火) 14:51:12.680
夢は、決定要因は無意識であれ、意識的であれ、脳が決定づけた、「自分に縛られた世界」だからである。
この現実は夢と本質的には区別できない。
眠っているとき、その夢に人が出てきたことはないだろうか。
そしてその人の行動にまったく違和感を覚えなかったときはなかっただろうか。
私はある。
そして思うのである。夢に出てきた他人の行動と、現実での他人の行動は何が違うのだろうか、と。
たとえ違うとしても、見分けられない場合は、夢に出てきた他人も、現実の他人と変わらないものだと認識する。
もっと簡単な例を挙げよう。
我々は、映画や、ドラマなどを見る。
そこで考えてみてほしい。登場人物たちに意識はあるだろうか。
役者に意識はあるかもしれないが、その登場人物自体は、自ら自分の行動を決定したわけではない。
したがって、登場人物それ自体には意識があると言えない。
つまり、登場人物それ自体は選んで行動しているわけではない。
しかし、映画の中で、あるいはドラマの中で、その演者が、現実の自分と役を区別できなくなるような「憑依型」の凄腕演者だったらどうだろう。
それがまさに私だったらどうだろう。
そう仮定しても、この現実は説明がつかないわけではない。
バカみたいな話だが、他人はみな「演者」であり、
私はこの現実という舞台で、「本当の自分」と、「舞台上の自分」との区別を失った者なのかもしれない。
0007平安
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2018/07/24(火) 14:56:06.720
以上、私の中にある二つの不安についてお話しした。

次に、私の中の「希望」についてお話ししたい。
0008平安
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2018/07/24(火) 14:57:26.780
アニメ、ゲーム、映画なと、楽しいことはある一方で、この世には問題も多い。
戦争、紛争から家庭内不和までいろいろとある。
やはりこの世界は不完全であると思う。
生まれてきたいと言った覚えはないのに、このゲーム(生きること)は強制スタートでリセットボタンなし。
自分で終わらせるには自殺しかないが、相当な覚悟、あるいは自殺する方が生きているよりもましだと思えるような壊れた精神状態が必要である。
もちろん、他人に殺されるのも、苦しみを伴う。
もっとスッと楽にいかないものだろうか。
死んだ後はどうなるかわからないし、生きていても苦しみは多い。
生まれてきたことは良いとしても、よりによって生まれてきた世界がこれである。
年端もいかない幼い頃は、物心もついておらず、そんなことはかけらも考えちゃいないから幸せなものである。
これから先、生きている間多かれ少なかれは苦しみというものをずっと経験しなければならないと考えるとゾッとする。
0009平安
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2018/07/24(火) 15:01:06.860
だからこそこの世界を変えたいのである。いや、変えてほしい。
誰もが生まれてきて良かったと思えるような世の中を望む。
人間の想像力、あらゆる価値観、愛、文化、文明など、すべての良いところを残しつつ、
正義と公正が実現し、誰もが一秒たりとも不快だとは思わない世界を望む。
人類の叡智の然るべき収束点は、いわゆる「ユートピア」である。
どんな科学技術も、人類は自らの意思でその終結点に向かわねばならない。
その世界では、新しく生まれる者、あるいは新しく生み出される存在は、
生まれた直後からその世界の仕組みを知り、感動と感慨にふけり、生きていくことのすばらしさを知り、
我々とともに、幸福の観測者、そして創造者となるのである。
0010平安
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2018/07/24(火) 15:02:16.250
次に、「怒り」について思考の断片を紹介する。
0011平安
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2018/07/24(火) 15:04:07.080
何かに怒りたくて仕方がない。
生まれたいと思って生まれたわけでもないのに何で生まれたら様々な面倒ごとに巻き込まれなければならないのか。
別に、生まれたその事実に対して、怒るつもりはない。
しかしながら、なぜ、人類の体はこんなにももろくはかないのか、それに対して大変不満がある。
私は完全な体が欲しかった。
「完全な体」とここで言っているのは、変幻自在で、寿命などなく、ゆえに苦しんで死ぬことはなく、
瞬間で消えることもできれば、急に現れることもできる体のことである。
(明らかに物理法則に矛盾しているが、まず、この世界が物理法則に支配されていること自体私には不満がある。
論理を超えた、かといって混沌、カオスであふれているわけでもない、論理において中間的な世界があったとして、
その世界が我々の言うところでのユートピアであったとしても、その存在自体を否定することはできない。
例えば、漫画だったりアニメだったりの世界を思い浮かべてみればわかるだろう。
その世界は、我々が支配されている物理法則の側面から見れば、時として深刻な論理矛盾が発生していたりするが、
我々は嫌悪するどころか、その世界観や設定を受け入れているではないか。)
そして、自分の体をどうとでも扱える体。
どこへでも思ったところへいけるうえに、自分で不自由を作りたければ、作れるし(自分で自分を不自由な体にすることもできる)、
それが嫌であればすぐに解除できる体。私は、そんな体がほしかったのである。
0012平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:06:57.400
しかし現実では何が起きているか。
もちろんそんな完璧な体はどこにも存在していないし、面倒事は尽きないどころか、増えていくことのほうが多い。
面倒ごとを減らすために皆努力して、或いは途中で脱落し、或いは更なる努力するが、彼らの面倒ごとがつきることは一生ない。
ここで言う「面倒ごと」とは、その人が不快だと思うことである。
まず一つ面倒ごとについて具体的に言えば、嫌なことを努力しなければならないこと自体が面倒である。
無論、好きなことだったら努力できるだろう。
しかし、それで生きて食っていけるのは、ごく一部の天才である。
(そういう人たちからすれば、今言った「努力」は、その人にとっての「遊び」だったりするかもしれない。)
天才ミュージシャンであれば、自分の好きな音楽を続けることがそのまま努力となり、お金にもなる。
天才作家であったら、お金を稼ごうという意識もなく、ひたすら自分の作品の完成を追い続けていけば、その行為は、努力にもなるし、お金にもなる。
(もちろんその人たちも、人生に対する不安や、苦しみ、面倒ごとなどもあっただろう。)
それでもやはり、普通の人(大多数の人々)はそうはいかない。
普通の人が好きでやっていることはただの趣味、娯楽であって、才能がない限り、それがお金になることはない。
やはり生きていくためにはある程度、不本意ながら「働く」(それも、やりたくない仕事をする)必要がある。
やりがいのある仕事を自分のペースでできるのならば、それはすばらしいことである。
しかし、たいていの人はあまりやりたくないことを自分のペースではなく、我慢したりして長時間こなし、生計を立てる。
0013平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:09:28.330
このように、面倒事というのは挙げていけばきりがないものである。
しかし、面倒事だけでなく、他にも問題がある。
それは、非常に大勢の人がこの「面倒事」に対する見方をゆがめているということである。
これはマスコミなんかを見ていれば大体わかる。
「面倒事」は「面倒事」であってそれ以上でもそれ以下でもないのだが、「幸福のため」だとか「生きていくため」だとかいって多くの人はそれを簡単に無きに等しいものとして扱ったり、
「みんなも同じく苦しんでいるから」ということを自分に言い聞かせて何とかやり過ごそうとしたりする。
また、非常に大勢の人は「責任」という言葉を「自由意志」の概念も理解せずに簡単に使う。
「お前の自己責任でこうなった」だとか、「無責任だからそんなことが起きた」だとかを簡単に人に言うわけである。
大抵そういった類の人は他人が苦しんでいるとそういった「似非哲学」を言い聞かせて何とかその人がやり過ごせるようにする。
そしてもっとたちが悪いのはそういった「似非哲学」は、「正義」の名のもとに、「排除」の構造に使われてしまうということである。
0014平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:11:02.830
しかし私はそのような「哲学」の方向性が間違っていることがよくわかる。
私はここで言いたいのである。
本当にそれは人類の幸福や、いわゆる「ユートピア」を考えて言っていますか、と。
というのも、たいていそういった類の人は、「犯罪者」だとか「社会不適合者」だとかがいたら「排除」する以外の方向性を考えられないからである。
また、「失脚した」人に対しても同様に「排除」する。
この「排除」の構造は、まさに「いじめ」である。
このことに関して、脳科学者中野信子さんの「人は『いじめ』をやめられない」という本をまとめた次のウェブ記事の一部を参照していただきたい。
0015平安
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2018/07/24(火) 15:14:36.330
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「いじめ撲滅」といった標語に違和感を覚える人は少なくないはず。いじめという行為を完全になくすことは果たして可能なのか。
テレビ番組やラジオ、講演会で引っ張りだこの脳科学者・中野信子先生の最新著書『ヒトは「いじめ」をやめられない(小学館新書)』ではいじめについて「ヒトにとっていじめという行為は、種を保存するための本能に組み込まれている」とショッキングな事実を明かし、
その回避術が脳科学的にわかりやすく説明されている。
簡単にいじめを引き起こすヒトのメカニズムを本書にならって紹介したい。
0016平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:15:25.650
■いじめは正義の名の元もとに行われる快楽行為
本書ではまず、「いじめ」について考察する上で人類がなぜ他動物との生存競争に勝利し繁栄したのかその経緯を辿り、
ヒトについて「共同体を作るという戦略に頼って生き延びてきた生物種」とひもとく。
ヒトにとって共同体を崩壊させる存在こそが脅威であるため、
その脅威に制裁行動「サンクション」を起こす機能が発達したそう。
脅威(敵)は共同体の外にあると思われがちだが、外敵は共同体の結束を強める効果があるため、実のところ内からグループを破壊する存在こそが最大の脅威になるらしい。
そのため、共同体の結束が強くなればなるほど、共同体を破壊しうるリスクのあるものに対しての排除活動が高まり、排除対象を検知する能力(裏切り者モジュール)が敏感に反応して、
スタンダードと少し違う人を対象にした制裁感情が発動。こういったヒトの本能がいじめの根本にあるメカニズムであるようだ。
しかし、このメカニズムを理解した上でひとつ疑問がわく。
サンクションはリベンジの恐れがあり、かつ、労力のかかる行動である。
極端なサンクションはあまり生産的な活動ではないように感じられる。
にもかかわらずなぜサンクションが行われるのか? それはサンクションによって「快感 」が得られるからであると、中野先生は説く。
0017平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:15:56.800
■「いじめ」は食欲・性欲より快感
サンクション、つまり制裁行動で快楽を得られる。
サンクションに伴う快楽には、食事やセックスをしているときに放出されるドーパミンのほか、
ルールに従わないものに罰を与える正義達成欲求や所属集団からの承認欲求が満たされるため、
食事やセックスより強い快楽を感じられるそう。
つまり、相手を攻撃することが良くないことだと理性でわかっていても、そのブレーキを上回るほどの快楽を得られるようヒトはプログラムされているそうだ。
なんとも恐ろしい話だが、正義の名のもとに行われる制裁がどれほど人に興奮を与えるかは、SNSの炎上騒ぎやワイドショーで取り沙汰される不倫問題を見ていればわかるような気がする。
また、共同体を守るという意味で行われるサンクションに正義としての意義を感じるなら、
「いじめは悪いことだ」とモラルに訴えたところで真に効果があるとは思えない。・・・(ttps://ddnavi.com/review/418437/a/)

//////////
0018平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:17:32.510
このように、我々はともすると動物的な生存本能によって「排除」の構造を作り出してしまうという嫌いがある。
そして、マスコミというのはこの「排除」の構造が非常によく現れている例だと言ってよい。
そのようなマスコミ、ひいては大きな共同体と一体になって「排除」の構造を作り出している者は自分という存在の不完全さ、汚さを知らない。
人間がすぐに狂ってしまうことを知らないのである。
「自分だけは正常だ」と、この世の誰が言えるだろうか。
0019平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:18:38.340
次に、将来世代への思いを投下する。
0020平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:24:01.630
我々は将来世代のための、ある意味で犠牲者である。
善人も悪人も、誰一人として程度の差こそあれ苦しみ(苦しみとまでは言わなくても、煩わしさ、面倒ごと)を味わったことのないものはいないからである。
そして今我々は、なぜかわからないが、少しずつよりよい未来へ向かっている。
市民革命では、多くの人々の血が流れ、犠牲者も出た。
しかし、「自由」というものを完全な形ではないが、ある程度勝ち取った。
それが今の社会に反映されている。
その人たちの犠牲があってこそ民主主義があるのであり、いくらかの修正を経て現在の社会にいたる。
正義の実現をしようとする努力の裏には多大な犠牲があった。
当たり前だが、犠牲自体を正当化するつもりも、崇拝するつもりもない。
ただ、事実は事実として認めるわけである。
ここで正義が実現した後の世界を定義したい。
簡潔に言えば、正義実現後の世界は、誰一人として不快感、苦しみを、生きる上で一寸一秒たりとも感じることのない、いわゆる「ユートピア」である。
もちろん、死ぬことはない。
そして、死にたいと思うようなことが一切ない。
それに対し現在の世界は、まだまだ不完全である。
これからの発展でおそらく文明レベルも向上し、戦争などによる世界滅亡が危惧される局面もあると思われる。
(キューバ危機はまさに核による世界滅亡が危惧された。)
しかし、それでもなるべくめげずにがんばって頂きたい。
0021平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:29:47.710
あなたが悪人になってしまうのならば、それはそれで仕方がないと思う。
この世界は、「悪人」が存在してしまうほど不完全なのだから、「悪人」自体を責めるのはナンセンスである。
悪人だろうが、善人であろうが、何であろうが、この世界に生きていること自体が厳しい試練である。
どんな人も、生きている以上、例外なく、つらい中がんばっていると思う。
善人、悪人、なんであろうが、皆苦しみから、そして不快なものから避けたいのである。
それだけは変わらない。
この世界で生きていくのだから、すぐめげてしまうこともあるかと思う。
しかし、それでもあなた達はある意味未来世代のために戦っているということを忘れないでほしい。
勇敢な戦士である。どんな人でも同じである。
あなた達が生きている世界では十分に幸福が享受できなくても、
あなた達が偶然生まれてきたように、死んだ後もきっとどこかで意識が発生するかもしれない(※)。
それがこの世界かもしれない。
また、将来世代のがんばりによって、過去改変などといった技術も高度に発達した倫理に基づいて適切に行われるかもしれない。
その際に、人間のおぞましいグロテスクな歴史が適切に(あたかも家のリフォームのように)塗り替えられるだろう。
そのときのために今生きているだけで価値は十分にあると思う。そしてそう思いたい。

※ 
簡潔にいえば、人間は意識がない状態を知覚できないのだから、この世界が存在しているならば(この仮定は非常に重要である)、
意識は必ず発生すると言うことである。
いまのところはこの程度の説明しかできないが、この思考は後でより複雑に発展するかもしれない。
また、これは差し当たっての説明であり、議論の余地は存在する。
そして、「この世界は存在する」という仮定が成立しない可能性も厳密には否定できない。
0022平安
垢版 |
2018/07/24(火) 15:32:36.510
少し疲れたので休む。
続きは明日ぐらいに書き込みたい。
0023考える名無しさん
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2018/07/24(火) 15:44:56.030
松本人志
0025考える名無しさん
垢版 |
2018/07/24(火) 17:11:14.620
平均以下のヤシをいかに組織から追い出しつつも
遠隔でマンセーするかという
エアプ介護みたいなの

そこに造語の意味がある
0026考える名無しさん
垢版 |
2018/07/24(火) 18:02:02.750
ネット国境線上につねにフェイスしているといえる
植民地の統治法のすべてェ
0027大川☆万券 ◆No1.....hQ
垢版 |
2018/07/24(火) 20:46:52.260
経験した事がない思考は、ただの空想や妄想に過ぎない。
だから行動を大事にするべき。
行動から生まれる思考は、経験に基づく物で、それは現実で役に立つ。

だから思考より行動を優先して実行して行く必要がある。
思考も行動する事によって後からついてくるからね。
だから物事で何をやるにしても、あまりやる前にゴチャゴチャ考えるのは意味がない。
やりながら改善したり修正して行くべき。

その方が、圧倒的により速く前に進む事が出来るからな。
0028考える名無しさん
垢版 |
2018/07/24(火) 21:00:27.440
>>2
そうじゃない
説明する言葉が大事だ
人間は動物だと説明すれば、動物な所が随所に見つかる。奴隷であるとかね。
人間は天使だと説明すれば、神の子である所が随所に見つかる。英雄であるとかね。
同様に、人間は機械だと説明すれば、機械の部分が幾つも見つかる。解剖するとかね。
人間を機械で説明してはならない
それは人間には辛いことだからだ
人間は人間で説明することだ
0029考える名無しさん
垢版 |
2018/07/24(火) 23:57:11.250
自由意志って何?
0030平安
垢版 |
2018/07/25(水) 20:47:16.400
コメントありがたい。
それでは続ける。
自由意志について質問があったが、簡単に言えば、自由意志とは「自ら選択する能力」のことである。
0031平安
垢版 |
2018/07/25(水) 20:57:24.270
ある友人の言葉について。

「幸せは『微分係数』によって決まると聞いたことがある」と、私の友人が言った。幸福について、ちょっとした話をしていた時である。
彼は、コンピューター関連に少し詳しく、考え方が嫌に現実的で、大胆な発想に優れていた。
そういった素質は、夢想家で大胆さに乏しい私にはないものでもあった。
 私は一瞬彼が何を言っているのかわからなかったので、説明してくれと頼んだ。彼はこう答えた。
 「その人の幸せの度合いは、快楽の度合いの傾きによる。縦軸に快楽、横軸に時間をとると、幸せの度合いは、そのグラフの傾きで定義できる。
常に高い快楽をその人が味わっていたとしたら、その人は幸せとは言えないだろう。」と。
 私はいよいよわからなくなった。
私が目指していたのは、「苦しみ」が存在していないユートピア、つまり、誰も苦しむこともなければ、面倒なことに巻き込まれることのない世界であった。
しかし、彼の言うところによれば、(私自身の解釈を加えてしまえば、)ユートピアにも、ある程度の「苦しみ」、正確に言えば、「不快感」が必要であるということである。
事はより複雑であるのかもしれない。
「苦しみ」をわざと加えればいいのだろうか。結局わからない。
ただし、はっきりしていることが一つある。
「あってはならない過去」は存在したという事実である。
戦争、紛争、虐殺、拷問、犯罪・・・。これらは、あってはならない。
「苦しみ」とひとくくりに言っても、その深刻さと程度が違う。
つまり、その人たちは「恐怖」、「苦しみ」の、人間が耐えられる閾値を超えたものに苛まれ、
むごたらしい現実、そして報われない現実に直面し、最終的には死んだということである。
これはあってはならない。
たとえ過去のことでも、正当化してはならない。
0032平安
垢版 |
2018/07/25(水) 20:58:58.160
僕は、「面倒なこと」がいくら小さくても、それがない世界を、ユートピアだと、思っていた。
まあ、今でも少しは思っている。
しかし、いくら「苦しみ」が「幸せ」と表裏一体の関係にあったとしても、
一線を越えてはならない「苦しみ」は存在するだろう。
やはり、人類は、少なくとも次のことだけは実現できるならばしなければなるまい。
「適切に」過去改変すること。
これだけは何があっても貫き通さなければならない。「面倒事」も許そう、家族に看取られて幸せに「死」を遂げたのなら、まだ許そう。
ただし、やはりそれでも許せないのは先に挙げた凄惨で悲惨な結末である。
確かに、先が予測できないからこそ現実は面白いのかもしれない。
友人の言ったように、ある程度の不快感がないと、快楽を感じることができないのかもしれない。
完璧な体は、私に関しては、もらえるならばほしいが、それを得たところで、幸せになるかどうか、友人の話を聞いてもうわからなくなってしまった。
結局私は完璧な体を手にしたところで、また自ら選択して不自由な体に戻るかもしれないし、
ついには自ら「死」を選ぶかもしれない。
いずれにせよ、繰り返すようだがそういった過去を「適切に」改変する事だけは、もしできるならばやっておくべきである。
ここで「適切に」と、言っているのは、タイムパラドクスなどをきちんと処理するということである。
この世の存在すべてが報われるには、過去現在未来に存在するあらゆるアノマリーを整えてやらねばならない。
「しょうがない」という言葉で済ませられるほど、この問題は簡単ではない。
0033平安
垢版 |
2018/07/25(水) 21:00:20.470
次に、「欲望」について語らせていただく。
0034平安
垢版 |
2018/07/25(水) 21:02:46.300
自分は何がしたいのか、わからない。
本当に自分がやりたいことなどあるのかどうか、わからない。
たとえ自分が完璧な体を手にしたところで、やりたいことが見つかるかどうかわからないかもしれない。
自分が自分の意志で行動しているかどうかも、わからない。
それを厳密に証明することは不可能である。
自分以外の人に、自分と同じように意識があるのかわからない。
それを証明するのも現段階では不可能である。
つまり、ほとんど何もわかっていない。本当によくわからない。
でも、争いや、犯罪がなくなるべきであるのは、事実と言えるほどのことであると信じている。
しかし、自然に訪れる死に対しては私は反対なのだが、周りの話を聞いていると、
受け入れている人や、死後の世界を信じている人、人生が有限だから美しいと言う人などがいることがわかり、
その是非については、私からは何とも言うことはできない。
しかし、私は今のところは、死にたくないのであって、これは是非を超えて、他人は関係のない、私の願望、欲望に属するものである。
(あくまでも、不慮の事故ではない、天寿全うによる死についての話である。事故死や、犯罪など人間の手による死であれば、認めない、あるいはあってほしくないと願う人のほうが圧倒的だろう。)
いずれにせよ、私が不死になったところで、誰からも咎められないし、私が他人に迷惑をかけなければそれで済む話である。
0035平安
垢版 |
2018/07/25(水) 21:07:07.410
先述の通り、私は自分が何をやりたいのかよく分からないといったが、
もっと正確に言えば、自分の思い描いていることがもし実現したとして、それが本当に自分のやりたいことであるかということに不安があるのである。
本当に心の奥底がどうなのか自分でもわからないのである。
今の私にも少しだけ思い描いている、ユートピアでの様子というか、
「こうだったらいいなあ」というイメージというものがある。
それは、たくさんの物語をみたいということである。
言い換えれば、様々な価値観をみてみたい。
物語は一つ一つに、その作者の価値観、人生観などがたくさんに含まれている。
私は物語に含まれる様々な考え、アイディアにとても強い感動と、一種の憧憬を覚えた。
物語は、寝ているときに見ている夢のようでありながら、意識ははっきりしている中で展開される順序だったストーリーのようなものである。
また、私には、ノスタルジーというか、夢で見たのか、強く感情を掻き立てられるのだが、もろくてはかないイメージもある。
つかんだようで、消えてしまう。
それは言葉にしにくいものだ。アニメなどを見ているときに、よくそれが想起される。
心が満たされる感覚である。
現実を見て現実に生きていると、心が乾いて仕方がないのだが、そのノスタルジーは砂漠で野垂れ死んだような乾いた心をも潤す。
私はそれがずっと続くような世界をつくりたい。そして、みんなに味わってほしい。
私はどうもこの現実に対して、心が枯渇して仕方がないようである。
本当に満たされない。
根本的にいろいろなものが欠けているこの現実世界。
私は何を求めて生きていくのか。
また、何をあきらめて生きていくのか。
0036平安
垢版 |
2018/07/25(水) 21:08:23.970
次に、「犯罪について」
0037平安
垢版 |
2018/07/25(水) 21:09:25.700
人に自由意志がなかったとしたら、もちろん犯罪者には、その行為に対する責任はない。
人に自由意志があったとしても、私は犯罪者の責任を追及する以前に、この世界の不完全性を指摘したい。
以下、人に自由意志があるとして話を進める。
不完全性について、その一つに、人間の体がもろすぎることがあげられる。
もし人間の体が、変幻自在であり、どんな形にもなれる上に、
どこへでも思ったところへ一瞬で移動することができ、絶対に死なず、絶対に傷つかず、何もしなくても、つまり何かを食べたりしなくとも、
体を完璧な状態で維持することができ、
苦しみを味わうような体の機能が存在していなければ、人間が人間に対して犯罪行為を行うことは不可能である。
しかしながら、この世界は、人間にとって都合の良い物理法則が成り立っているわけでもないし、そのような体を存在させることは、現段階では不可能である。
0038平安
垢版 |
2018/07/25(水) 21:10:43.350
ここで指摘したいのは、犯罪者がいくら自分の出来損ないの自由意志によって人に対して犯罪を起こしたとしても、本当に悪いのは、犯罪者の内面に存在する自由意志ではなく、
犯罪行為を成り立たしめるこの世界、この環境だということである。
より正確に言えば、環境の不完全性により犯罪行為が成り立つのであって、犯罪行為が蔓延るがゆえに人間社会の不完全性が存在してしまうのではないということである。
このことは、この世界にいる多くの人が、ともすれば勘違いしてしまうことだ。
というのも、いわゆる「悪い人」が、いわゆる「良い人」に駆逐、排除、ひいては殺戮されるといった、物語でよく描かれるような勧善懲悪の構図は、この社会によく認められるところであり、その構図がわかりやすいため、今日にかけて万人に受け入れられてきた。
少し話がそれるかもしれないが、この構図には、犯罪者を真の意味で「更生」するのではなく、「排除」しない限り成り立たないような人間社会の「不完全性」が浮かび上がってくる。
「真の意味で」といったが、「更生」という処置はこの世界でも存在しなくはないが、それは形式的なものであって、その犯罪者を取り巻く様々な問題の根本的解決に至るものでは決してないのであるがゆえにその言葉を用いさせてもらった。
0039平安
垢版 |
2018/07/25(水) 21:22:26.840
人間は動物であるから、また、高度に発達した霊長類であるがゆえに、
共同体の安全を脅かすような存在は、同じ種であったとしても、その存在がたとえ同じコミュニティ内にいたとしても、
「排除」してきた。
そのような経緯からみれば、「犯罪者」が「排除」され、軽蔑と嫌悪の目で見られるのは生物学上至極当然かもしれない。
人間はまだライオンや豚と同じである。
人間獣に過ぎない。
人間の動物性はいつしか美しき神経の世界へと昇華されることを願う。
0040考える名無しさん
垢版 |
2018/07/25(水) 21:36:14.420
>>30
お母さんが知らない人について言っちゃいけない
って言ってたからついていかない
というのは自由意志なの?
0041平安
垢版 |
2018/07/25(水) 23:19:23.280
>>40
先に答えを言えば、厳密に言って自由意志かどうかはわからない。
自由意志は高度に抽象化された概念であって現実世界で具体的なそれを探そうとしても見つからないだろう。
純粋な自由意志を見つけようとしても困難を極める。
現実の行動というのは様々な原因が混ざっている。
あなたの言う「お母さんが知らない人について行っちゃダメと言った」というのは一つの原因であり、
それが原因であなたは知らない人について行かないのかもしれない。
しかし、お母さんがそれについて何も言わなかったとしても知らない人について行かないかもしれないし、
逆にお母さんがあなたにそれをしつこく言い聞かせていたのにあなたは知らない人について行くかもしれない。
前者の原因はただ単に「その人が怖そうだったから」かもしれないし、
後者の原因は「母親が嫌いだった」からかもしれない。
このように、人間の行動には多種多様で様々な因果が付きまとっている。
機械のように、これこれがあったからこうなったと簡単に言うことができない。

自由意志を現実のコンテクストで理解したいなら、人間が「葛藤」しているときを思い浮かべればよいだろう。
個人的恨みによる「殺人」に関してはどうだろうか。
殺人は法律では禁止されており、やってしまったことがばれたら重い罰が付きまとうという重荷を抱えなければならないと考える一方で、
絶対に許せないし自分が死刑になってでも殺したいという欲望があってどちらもせめぎ合っている。
そこでその人が殺人を犯したとする。
彼は禁忌を犯したわけである。
その人は一歩手前でやめられなかったのだろうか。
その「一歩手前でやめる」というのはどういうことだろうか。
そう、その疑問が「自由意志」の概念の萌芽である。
0042考える名無しさん
垢版 |
2018/07/26(木) 20:08:57.860
自由意志が何かを定義できてないのに
なんであるとかないとか言ってるの?
0043平安
垢版 |
2018/07/26(木) 21:44:48.890
なんかもう飽きたわ
0044平安
垢版 |
2018/07/27(金) 00:50:00.400
>>42
自由意志の定義は通念的なものとしてもしっかりと存在するし、私の議論でもそれとなく定義したつもりだが。
さらに、自由意志があるともないとも私は言っていない。
「あってほしい」と願っているまでだ。
よく読みたまえ。

また>>43はなりすましである。
0045学術
垢版 |
2018/07/27(金) 08:26:25.500
殺人などめったに起こりえないし、一県取り返しがつかなくて皆が遅れるよ。
傷害なんかからさらってみるといいと思う。
0046学術
垢版 |
2018/07/27(金) 08:26:43.010
一見
0047考える名無しさん
垢版 |
2018/07/27(金) 09:12:46.390
それとなく定義ってなんだよ
あって欲しいとか、それって哲学と言えるのか
0048平安
垢版 |
2018/07/27(金) 10:08:47.350
>>47
それとなく定義したというのは、「自由意志」という概念があまりにも常識的なので説明がそこまで必要ないと考えたため、簡単な説明をしたということだ。

また、哲学というものの定義は広義に人生観なども含む。
哲学は、数学的なものではないよ。
偉人が書いたものも「思想」が大部分であってそれにガチガチに理論ずけた定義を求めるのはあまり意味のないことだ。
それとも、あなたはヴィトゲンシュタインしか哲学者として認めないのかね?
もしそうなら、あなたの言っている意味も理解できなくはないが。
0049平安
垢版 |
2018/07/27(金) 10:22:08.420
>>47
それに、科学的手法をとってもいないのに何かを断定することはまさに宗教に近い。
昔の思想家でもデカルトはかなり宗教的である。
理性に対する絶対的な自信は何があっても崩さなかった上に、その理由ずけは「自明」であるとのことで、一切の科学的手法をとってはいない。
それこそただの宗教家ではないか?
私はそういう事態を避けるために「あえて」断定を避ける言い回しをしている上に、人に理解できるような「思想」としての形を崩さないように注意した。
また、(定義の話になるとどうでも良いところでつまずく輩が多いのだが)哲学は広義に言えば人生観も含むと言ったが「人生哲学」などという言葉に使われるようなそれを指しているわけではないので勘違いしないでほしい。
私の言っていることはある意味思想を含んでいる。

長いので一旦切る。
0050平安
垢版 |
2018/07/27(金) 16:37:04.500
確かに、思想というのは宗教も哲学も含む広い意味で使われる言葉だ。
板違いといえば厳密には板違いかもしれない。
しかし、「思想板」という板を聞いたことがなくてな…
仕方がないので「哲学」というのを広義での「思想」と捉えてこの板で書き込ませてもらった。
「哲学ではないのではないか」ということに対しては、哲学の定義によるのではっきりとは答えかねるが、この哲学板の趣旨に沿えば、この板ではっきりと言語化された明確な「思想」というものを語っても差し支えないと思った。
「思想板」があれば教えてほしい。
しかし、宗教板ではない。
0051平安
垢版 |
2018/08/06(月) 21:17:14.120
>>50は私のなりすましである。
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