時間は論理的象限であり物理現象ではない
【衝撃】 物理学者が証明した 「時間の定義」 に世界が震えた!(現在主義が正しいと思われる)
http://youtu.be/uEZ428Tm2t8?list=RDuEZ428Tm2t8 自然の一部を此処と指示する点、静止
此処、今とは認識の在り方に結ぶ自然の像
うーん、やはり認識の在り方の問題だな
徹底しなきゃな
もう27年以上経過しているが
困難だが出来るところまでやりたい
基本に還ることにより新展開がある 時間は運動量に還元できる
運動量は認識の在り方を媒介にしている
運動という有を静止という無で規定する
0に限りなく近いが0ではないという決定不能の定義
現在は直接には理解できないから量、時間で規定するしかない
今は運動を静止で規定するということ
時間は運動量、つまり認識を媒介にした自然の在り方を媒介にした観念的存在
0次元、出発点が存在しないのだから 時間で普遍なのは運動量
地球が太陽の周りを一周→一年間
それが実在すると主張する人はいるのだろうか
今には幅が無いが存在する
それは有を無で規定するということ
運動は静止で
物理状態の遷移を生死で
有は無で
認識の在り方は考察されなければならない
自然科学は自然認識なのだから
見たものがそのままの自然なら科学は要らないとある十九世紀の学者が言った 今というのは運動のこと
運動が自然の存在形態
今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとある哲学者は指摘する
生物にしても、物理状態として同一であることは無い
地球というか自然はそういう存在 次元も諸力も最小単位も実在しない
自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反発してまた差異の濃淡を生成していく過程 次元は一である自然を多で規定するから必要
認識器官には多として像を結ぶがそれはそのままの自然ではない 自然は運動するエネルギーの濃淡の親和反発でまた違う差異を生成していく過程でしかない
次元も諸力も実在しない
最小単位から成らない
素粒子、生物、金属、地球、銀河系、大構造等に成る
認識器官の在り方に自然は像を結ぶ
一は多として像を結ぶ
静止、生死、無は実在しない
自然科学は認識の在り方の相対化という側面がある
時間は運動量に還元できる
運動は直接理解できないために多、つまり量が必要となる
時間は実在しない
今とは運動
現在、現に在る どんだけ 同じこと書いたら気がすむねんw死ぬまでやってそうw 辿れば初期とは違うことが解かるんだが
精読すれば、だけど期待していない w 目の前の自然は目、つまり認識器官の在り方に結んだ像でありそのままの自然ではない
一を多で規定する、規定は否定
時間もまた一を多で規定するから必要になるということ
ここから全ては演繹可能 時間は基本運動量に還元できそうだな
・・・まあ自然の存在形態が運動だから当たり前か
認識の在り方で一は多で規定する
今だけが存在する、有は無で規定され、一である運動は多、量で規定するしかない
時間は認識の在り方が要請する観念的存在
運動は静止で規定されるから
0に限りなく近いが0ではないという規定の根拠
不確定性原理の原因
それで規定するがそれは実在しない
静止、生死、無は実在しないがそれで規定する 纏めるのは苦手だな
詰めがなあ
清水幾太郎の論文の書き方が図書館にあるが参考に成るか
読んでみるか いや演繹可能とか、辿れば初期と違うとか言ってるけど、それは君の主観であって、現実に演繹プロセスを論理的に記述する能力が壊滅的すぎやろw 某スレに
次元も実在しないだろう
今、此処と指示すると今、此処は飛び去るとヘーゲルは指摘する
今、此処とは運動する自然を静止で規定する言葉
現在主義とか唱える科学者たちが居るとか
有を無で規定するから、四次元、時間が必要となる
四次元が実在したら無限の静止する自然と観測者が実在することになる
一は多で規定されるということ
一ではあるが濃淡である自然を認識器官はその在り方から多として像を結ぶ
物理状態の差異を否定関係、つまり生物非生物、有無、生死と規定する
それらは認識の在り方であり、自然に否定関係は存在しない
一は多、つまり数で規定されるが多は実在しない
一は多となり、多は一となり
認識の在り方は考えられなければならない
カントの二律背反、へーゲルの運動定義などは対象と規定の関係の話
不確定性原理、観測問題、不完全性定理などなどもまた
クレタ人の逆説は否定で規定するから決定不能に
対象である自然は無矛盾だが、規定は否定
規定が自然には存在しないことで自然は無矛盾であることになる
ウイルスは生物非生物と分類するから分類困難に
同様に規定するからいろいろ困難なことになる
素粒子、生物非生物に成るということ
最小単位から成らない
紐に成るのであり、紐からは出来ていない
条件が生成可能ならいくらでも小さくなるということ
そして粒子は認識器官の在り方に結ぶ波の渦の状態 対象と規定の関係の問題です
認識器官に結ぶ自然の像はそのままではないわけです
静止、生死、無、終始で規定するがそれらは実在しない
次元もまた規定であり実在しません 科学でさえまだまだの段階でしょう
だから楽しいような気がします >>517
ははぁっ、論証なき神の如きご託宣、有り難く承りました
ってかっ? www 時間は一を多で規定するから必要
運動量に還元できる
つまり観念的存在
静止、生死、無、終始同様実在しない観念的存在
それで規定するがそれは実在しない 規定するから必要なだけ
物理として時間が存在するはずも無い 自然は運動変化している
運藤変化すること自体は恒常、つまり変化していない
物理としてのわたしは運動変化している
わたしという規定は静止
対象として物理は運動変化していているが静止で規定する
此処、今、とは運動変している対象を静止で規定するということ
一秒、一年とかは運動量であり実在しない
此処、今と指示するが此処、今という規定は静止
運動を静止、有を無で規定する
だから量、時間で運動を規定する
時間で規定する時間は実在しない
静止、終始、生死、無で規定する
規定は否定であり、これらは実在しない
時間は実在しない
とりあえず素描してみた
後ほどきちんと書きたい 対象ー認識ー表現
表現は認識の在り方に拠る
自然科学は自然認識であり自己言及でもある
理系は認識論を軽んじているので不確定性原理、不完全性定理の理解に苦しんでいる
それは対象が無矛盾、理解出来るからこそなのだということ
何故定理なのか、原理なのか
真理はとても単純なのだとある認識論の大学者は語る
対象は無矛盾で単純だが認識の在り方で複雑になっている
一が多と成り、多が一と成り
多は認識が媒介するから。
科学はその認識を相対化して一に辿りついた
科学の諸成果はその証拠を示している
「十の証拠からは十の理論が
正しいのは一つだ」
チェスタトン ブラウン神父の純智 「イザエル・ガウの厳正さ」 運動量を運動量で規定する
運動という有を静止という無で規定する
だから量で規定する
時間は存在しない 規定は否定
一を多で
一は対象、無矛盾
多は規定、決定不能 過去の姿を光は運ぶ
光自体は現存在
認識に結ぶ像は過去
過去は存在しない
未来もまた 次元は存在しない
座標原点は存在しない
三次元は静止 存在しない
静止を無限に゙集めても静止
時間は直接扱えないから必要なだけ
有は無で規定される
規定は否定 >>531
それは一部の哲学的な考え方であり、一般的には受け入れられていない見解です。次元や座標原点、三次元空間などは、数学的な理論や物理学の法則において重要な役割を持っています。また、時間も物理学や哲学の分野において、重要な概念の1つであり、直接扱えないということはありません。
また、「有は無で規定される」という考え方も、哲学的な議論においては重要なテーマの1つですが、これも一概に正しいとは言い切れません。有と無は相対的なものであり、存在するものがあるからこそ、存在しないものがあると言えます。また、規定と否定も相対的なものであり、それぞれが存在することで、世界が成り立つと言えます。
哲学的な考え方は、議論の余地があるものであり、異なる見解が存在することもあるため、自分自身の考え方を深めるためにも、様々な立場を理解することが大切です。 存在するしないは認識主体の問題で自然の問題じゃない
存在というのは規定
対象は運動している
認識主体は静止で規定
認識主体は自然の一部で自然の自己言及
自己を他、否定で規定する
それは認識するから
なんら自然の問題ではない 認識するから次元が必要になる
自己言及だから自己を他、否定で規定
認識主体の問題
客体 主体 否定関係
客体=主体 矛盾
認識主体が無きゃ問題無し
物理として否定関係は認識主体があっても無い
認識は非物理、非自然
無で有を認識する
無は〈無〉い フラットアースとこのスレではわたしなりの自然と認識の関係理解が深化発展した
THANKS! 自然は一
認識は多
運動は静止で
0に限り無く近いが0ではない→0次元の正体
運動を静止で
今、現在には幅がない
自然はそのままでは理解不可能
運動は量、多、四次元で規定する
一を多で規定するから次元が必要 地球は静止して見える
物理は生滅して見える
終始は存在して見える
自然にこれらは存在しないことを科学は明らかにした 対象の抽象である次元で対象を規定するだけ
自然をそのまま認識できない
みたものがそのままの自然ではない
地動説の教えること 自然は運動するエネルギーの濃淡
自然をそのまま認識できない
形として像を結ぶが形は無い
無はエネルギーの基底状態、ディラックの海
二律背反 対象を認識の在り方で規定する
つまり認識=対象ではない
地動説、エネルギー保存則、光速度一定の原理が語ること
不確定性原理もまた
そのまま認識できない
次元もまた認識に必要だが存在しない
時間もまた 自然は理解可能だが理由不能でもある
対象は無矛盾だがそれは規定が対象に存在しないということで示された
静止、生死、終始という否定関係は存在しない
これらは物理としては差異
無限は有限で規定される
有は無で規定される >>548
訂正
自然は理解可能だが理解不能でもある ていうか
対象
自然
認識
論理
人間とは何か
学問というか知とは何か人間とは?