X



言葉は無力である
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001考える名無しさん
垢版 |
2018/12/09(日) 12:20:16.680
言葉で飢えは満たされない
言葉で怪我は治せない
言葉で病気は治せない

言葉は満たされた人間たちの
戯言にしか過ぎない
0004考える名無しさん
垢版 |
2018/12/09(日) 16:18:02.640
香山リカのリアリティって病名付けと
造語病名がリアリティの底みたいな
薄い話しかできないわけじゃん
0005考える名無しさん
垢版 |
2018/12/09(日) 17:28:03.920
みんな安全な場所から
もっともらしい言葉を吐くだけだ

神は言葉ばかりと嘆いた人もいた

その人たち飢餓や病気の苦しみは分からない
分からないから中身のない言葉だけを吐く
そして分からない者同士で褒め称え合う
0006考える名無しさん
垢版 |
2018/12/09(日) 17:31:00.120
言葉の届かない場所にいる人たちは
まるで存在しないかのように
自らの言葉に酔うだけだ
0007考える名無しさん
垢版 |
2018/12/09(日) 21:25:32.750
>>1
「言葉は無力である 」という言葉は無力である
0008考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 08:14:39.390
「言葉は無力である 」という言葉に効力を認めることは、「言葉は無力である 」という主張と矛盾する
0009考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 08:16:27.600
言葉が無力であるなら、いくらデマや誹謗中傷を流しても、
デマや誹謗中傷の言葉も無力なのだから、取り消しを求める必要はない
0010考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 08:27:50.010
言葉が効力を発揮するためには、相手がその言葉を理解することができることと、
その理解に反応するようにさせるための手段が必要である。
発せられた言葉の理解に従って振る舞うことを拒否するなら罰を下すことが
できる暴力手段を握るなら、発せられる言葉は命/御言(みこと)となる。
命は、導水路が流れる水の行方を導くように、人々の活動の向かう先を
導く役割をする。そのため、命を発する権限を有する人は、をさ/長/
リーダーと呼ばれる。
0011考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 08:30:13.650
その場合、命を発する権限は、委託されたものであってもいいし、
実際、ほとんどの場合、そのような権限は、委託されたものである
という形式をとる。
0012考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 08:34:34.550
をす - ウィクショナリー日本語版
https://ja.wiktionary.org/wiki/をす
古典日本語[編集]. 動詞[編集]. 上代語. 「治む」の尊敬語。

まをすの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典
https://kobun.weblio.jp/content/まをす

まをすの意味。申し上げる。▽「言ふ」の謙譲語。
0013考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 08:35:40.740
「を」とは呼びかけの声である。
0014考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 10:12:08.100
現代の精神ゾーンを裁定してくださる香山リカ尊師を崇めよ
0015考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 12:30:54.320
>>7-13
言葉に力があると信じる言霊信仰?
いや、社会の上下関係というのは本来的に、言葉を命/御言(みこと)に変える
工作(「工作」と言う表現が嫌いなら「制作活動と言い換えてもいい」)によって
成立し、維持されているのですよ。

だから、言葉を命/御言(みこと)に変えることに失敗したなら、上下関係は
解消されてしまう、つまり、階層性が崩壊してしまうわけです。
0016考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 12:39:23.620
逆に言えば、「平等主義社会」というのは、命/御言/尊(みこと)が存在し得ない
ようにしている社会、命/御言/尊(みこと)を成立させようとする工作(/製作活動)を
無効化してしまうような社会のことなのです。
0017考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 12:57:15.980
階層性を維持しながら命/御言/尊(みこと)によって平等を実現したいという
のはどのような人々なのでしょう?
そのような人々は、どのような名称で呼ばれるのがふさわしいのか。
0019考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 16:46:23.490
ま・をす(申す)
ま・ゐる(参る)
ま・かる(罷る)
0020考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 19:36:15.960
命/御言/尊(みこと)/mandateを無効化するとは、どういうことか?
0021考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 19:45:29.590
もの(不変)/こと(可変)
の綯交ぜになったこの世をば如何にして渡って行くか
0022学術
垢版 |
2018/12/10(月) 19:47:09.000
サミュエルベケット入れといたから、精神科関連もう伏せようね。
0023学術
垢版 |
2018/12/10(月) 19:51:38.110
言葉をつむげど空洞から抜けていって声にならない声がかき消されるなど。
0025考える名無しさん
垢版 |
2018/12/10(月) 20:08:42.750
言葉は無力であるという言葉に対して反論、対応していくスレッド。
0026考える名無しさん
垢版 |
2018/12/11(火) 07:21:33.580
学研全訳古語辞典

きこし−を・す 【聞こし食す】

お治めあそばす。
出典万葉集 四〇八九
「天皇(すめろき)の神の命(みこと)のきこしをす国のまほらに」
[訳] 天皇であり神であられるお方のお治めあそばす国のすぐれたところに。
⇒食(を)す。◆「聞く」の尊敬語「きこす」の連用形に尊敬の
動詞「をす」の付いたもの。上代語。
0027ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/11(火) 07:32:22.760
>>13 >>15-17

「を/Why not?」という誘いかけ/呼びかけは、どのようにして呼びつけになり、
命/御言/尊(みこと)/mandateとなるのか?

「聞こし食(を)す」という字面だけを見るとなぜ、「食(を)す」が
「治(をさ)める」ことになるのか、一瞬、戸惑うだろう。しかし、
「食(を)す」を現代の日本語の「お召し上がりになる」や「およばれになる」
に関連付けて考え、「召し上がる」の文字通りの意味を考えれば、
それが英語にするなら"call up/on to do 〜"という行為を人にさせる
ことを表現していることが分る。
0028ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/11(火) 07:49:42.220
現状とは異なる仮定される状態を示唆すること、Wikipediaによる「接続法」の
説明の言葉を借りるなら、「想定されうる事態として提示する」ことが、
命じることになり得る。それはどのようにしてなのか。

日本の国語教育は、日本語をより深く理解できるような「をしへ(教え)」の
役割をするどころか、表現の解釈を磨く可能性をあらかじめ排除することに
よって日本語の理解を妨げるような隠蔽の役割を果たすことになっていない
だろうか。日本語をより深く理解することは、すなわち、言語表現の用法
をより一般的に理解することであり、そのまま、日本語とは異なる言語の
表現の解釈の可能性にもつながるのである。
0029ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/11(火) 11:21:48.680
「聞し召(め)す」という表現も「お召し上がりになる」と同様に現代語では、
相手が飲食する行為を表すように用いられるが、他方、「お召しになる」は、
相手が着物などを着用する行為を表すように用いられる。このように
「め(召)す」によってまったく別々の行為が表されるのは、いずれにしても、
「め(召)す」が「をす」の場合と同様に、人を呼んで何かをさせることを
表しているからである。ただし、「をす」は、その形からして使役形であり、
本来は、何かをさせる人々を呼ぶ行為自体を付き人にさせることを表して
いたものと推測される。したがって、語源的に見れば、「をす」は、
「呼びかけが生じるようにする」ことであろう。
0030考える名無しさん
垢版 |
2018/12/11(火) 11:25:52.300
したがって、「さあ、召しあがれ」という表現は、かつては自分たちが属して
いなかった階級に今は自分たちが属しているような雰囲気を醸し出すための
典型的にブルジョア的な表現の用法なのである。
0031考える名無しさん
垢版 |
2018/12/11(火) 11:31:44.610
言葉は所詮、時間を持て余す暇な人間たちのお遊び
上にある連投を見ていれば誰も異論はない
0032考える名無しさん
垢版 |
2018/12/11(火) 12:01:06.230
ネットではTwitterなどで盛んに議論をやってるが
人々の心を奮い立たせたり良心を呼び覚ますような生産性ある言葉なんて皆無だものな
いまTwitterで女の愚痴を理屈で返す男をどう思うかというのが盛り上がってると
テレビでやってて呆れた
0033考える名無しさん
垢版 |
2018/12/11(火) 16:46:02.810
ドイツ語の"Ruf"と日本語の「を」は、発音もなんとなく似ているよね。

http://scenariot.tumblr.com/post/1172228416/
”ベルーフ(Beruf)と言う言葉がある。現在では「職業」と訳される
ドイツ語だが、本義的にはなかなか訳しづらい。宗教的に直訳すると
召命。分かり易くいうと、神から与えられた使命、天職というような
意味である。
 では、神はどんな使命を下したのか。そこに世俗的職業においても
行動的禁欲が適用される。いわば職業義務の思想である。”
(小室直樹『日本人のための宗教原論』P194)
0034考える名無しさん
垢版 |
2018/12/11(火) 16:47:23.530
存在論的観念論は倫理学説においては理想主義なのですか?
0035考える名無しさん
垢版 |
2018/12/11(火) 17:00:52.080
学説史研究者にでも尋ねたら?
0036考える名無しさん
垢版 |
2018/12/11(火) 17:11:45.310
その発音においてさえ、日本語の「いぶき」のがギリシャ語の
「プシュケー」を想起させ、日本語の「を」がドイツ語の「Ruf」
やラテン語の「vox」を想起させる。そのことを面白いと思わない
としたなら、日本の国語学者の感覚はどこか狂っているのでは
ないかな。
0037考える名無しさん
垢版 |
2018/12/12(水) 08:32:12.070
言葉が命令となり得るためには、「(そう)なっていない」ことを一方的に処罰の対象
とすることができなければならない。
0038考える名無しさん
垢版 |
2018/12/12(水) 08:51:50.360
声を出すとは、気づかせることである。
何にどのように気づかせるのか、それを記述することが重要だろう。
0039考える名無しさん
垢版 |
2018/12/12(水) 10:49:08.750
声を出すことも、何かに印をつけることも、気づかせることであり、
言語を「記号」として捉えるとは、言語の使用がどのように気づかせる
のかに注意を向けることである。
0040考える名無しさん
垢版 |
2018/12/12(水) 10:51:56.680
>>1
言葉を発することには、気づかせる力がある
0041考える名無しさん
垢版 |
2018/12/12(水) 11:29:24.060
だからこそ、言葉を活かそうとするなら、気づく作用を鈍らせるような
「決り文句」ばかりを並べ立ててはいけないのだ。

記号論とは、約束事として用いられる記号(シンボル)を研究する学ではなく、
気づくことがどのように作用するのかを明らかにしようとする取組みである。
0042心の鬼
垢版 |
2018/12/12(水) 11:37:34.570
誰かが「なっていない」ことを「とが(咎)」める。
その言葉に「とげ(棘)」があり、「とが(咎)」を感じる。
さて、「とが(咎)」めたのは誰だろう?
0043考える名無しさん
垢版 |
2018/12/12(水) 17:56:23.720
「言葉は無力である」という言葉も無力である。

という言葉も無力である。
自己言及のパラドックスだな!
0045考える名無しさん
垢版 |
2018/12/12(水) 20:11:49.690
鬼なのに良心に反することを咎めるんだな。
鬼≒悪魔だったら、絶対にそんなことはしないだろうw

心の鬼(ココロノオニ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/心の鬼-500687
デジタル大辞泉 - 心の鬼の用語解説 - 1 ふと心に思い当たる良心の呵責(かしゃく)。
「かたはらいたく、―出で来て、言ひにくくなり侍りなむ」〈枕・一三五〉
2 心の奥に潜んでいるよこしまな考え。邪心。煩悩(ぼんのう)。
「我はかく思ふとも、さすがなる―そひ」〈浜松・ ...
0046考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 07:41:23.800
鬼を追い出してしまって、心に鬼がいないから、
心を鬼にすることができるのですね
0047ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/13(木) 07:55:09.160
心に鬼が住んでいる人と、心を鬼にすることができる人とでは、
どちらがより良心的なのか?
0048考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 09:23:38.320
Wikipediaの「目的語」の説明には、次のように記載されている。

>行為の直接的な対象を表す直接目的語(主として対格、日本語では「を」等で
示される)

直接目的語を示すのに、日本語では主として「を」が用いられるわけだが、
現代語で考えるなら「水を」という表現で水を求めることや、古語で考える
なら「あたら〜を」という表現で、何かの価値のあるものが不相応に失われ
ることを表すことから見て取れるように、「を」は、目の前(vorhanden)に
ある対象ではなく、むしろ、その不在を示すように用いられる。
対象が現前していないことを示す言葉によって、対象が示されるという
この哲学的にも極めて重要な日本語の表現の特徴に、日本語で哲学をする
人々が関心を示してこなかったとするなら、それは、とても奇妙なこと
であると言わざるを得ないだろう。
0049ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/13(木) 09:54:49.180
ハイデガーの用語を借りて存在の様態が現れる順序を考えるなら、
物事はまず、手頃でない様態(unzuhanden)にあり、それを手頃
な様態(zuhanden)になるように工夫して変えるが、その「手頃な
様態に変えられた物事」が失われることで、それが目の前(vorhanden)
にない不在の様態が現れ、その不在/失われたものを求めることに
よって目の前に(vorhanden)物事がある様態が(再び−)現れること
になるだろう。物事が目の前(vorhanden)にあること、そのような
様態で現前していることは、そのような再−現として在ると
考えられるのではないか。
0050考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 10:23:10.540
元々アイドルなんて存在してなくて
たんなる青年期に陥りがちな精神疾患臨床例のひとつ
なんじゃないの?
0051ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/13(木) 10:36:38.310
目の前(vorhanden)にある/ない物事が、様々に手頃に(zuhanden)にあり得る
可能性として現れる、そのことが、人が世界に感じる豊かさだろう。
人は、人ではない他の生き物が、その豊かさに限定的にしかアクセスできない
と感じているのだ。つまり、人ではない他の生き物にとって、世界は、
手頃に/道具的に(zuhanden)にあるか/そうでない(unzuhanden)かの区別しかなく、
「様々に手頃にあり得る可能性としての『目の前(vorhanden)にある/ない物事
の世界』」が貧しいと人は捉えているのだろう。

「人は道具を使う動物である」という常套句が、すべての生き物が
手頃に/道具的に(zuhanden)にある世界を生きていることを見えにくく
している。
0052ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/13(木) 12:58:53.910
例えば、まだ生まれて間もなく、母乳をもらったこともない幼児が
泣くとき、幼児は何か空腹を満たすのに手頃なものを求めているわけ
ではないだろう。ましてや、まだ母乳を与えられたこともないのだから、
自らが求めているのが母乳であることを知る由もない。そのような
幼児が何かを求めて泣くとすれば、それは何かが「手頃にない様態」
にあるからである。むろん、目の前にある(/ない)何かを求めて泣く
わけではない。泣いている幼児は、母乳をもらって初めて、何かが
「手頃にあり得る」ことを知る。また、手足を動かすことができる
ようになった幼児は、大人から見ると、何でも「目の前にある」物
に触れたがるが、そのように解釈するのは大人の視点であって、
幼児は、物が「目の前にある」とは理解していないだろう。
そうではなく、そこに「手頃にない物」があるから、それが
「手頃にあり得る」ことを確かめようとしていると考える方が
妥当ではないのか。「『手頃にあり得る』何かが確かめようもなく
失われる」こと、それが、目の前からなくなることであり、
その失われたものが再び現れることによって、その失われた
ものが「目の前にある」という様態で現れる。
0053考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 13:27:44.430
これだけ書いても誰にも読まれない
本当に言葉や文字は無力だよな
0054考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 14:01:02.340
筆談、営業しております。
0055考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 14:10:50.140
カネ取るの?
0057考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 15:16:16.700
こう見えても本業の方で結構、忙しいのだ
ちょっと催したときに暇を見つけて便所に来るだけ
0058考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 19:51:55.450
>>53
こういう書き込みをいくら大量にしたところで、誰にも相手にされない
という事実を誰が見ても分るように証拠立てることを目的としている
とすれば、これらの書き込みはとても大きな効力を発揮していると
言えるのではないでしょうか?w
0059考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 20:02:31.210
>>57
底辺、久々に5ch見たおな(о´∀`о)!
うわーぷぴぴ!!!(о´∀`о)
底辺、うんちした。゚(゚´ω`゚)゚ 。
0060考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 20:03:30.330
>>57
底辺には色づいて見えたおな(о´∀`о)!
0061考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 20:10:31.920
底辺、思うおな。
言葉は考えることによって色づくってさ、紅葉のように。
そして、解釈を間違えて散ってゆく。
でも、また時が来たら色付く。
そうやって時間や状況の変化とともに意味合いが変わるのが言葉だおなって思う。
底辺にとって言葉は大事なものだった。
0062考える名無しさん
垢版 |
2018/12/13(木) 20:13:04.460
でも、底辺、言葉だけじゃ足りないお。
0065ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/14(金) 12:50:12.150
>>48
「あたら〜を」の「あたら」には「可惜」という漢字が当てられるので、
「あたら」が「惜(を)し」を表現しているような錯覚を生じるが、
少なくとも語源的には見れば、「あたら」が意味的に担っているのは、
失われた/失われることになる値(あたひ)の方であり、「あたら〜を」の
「を」の方が、失われた/失われる対象を指しており、「惜(を)し」
「を」そのものなのである。
0067考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 14:50:32.010
>>48 >>65
ここで、私は従来の解釈を大きく外れた独自の突飛な解釈を披露している
わけではない。岩波古語辞典を見ても、対象を示すのに用いられる「を」
は、語源的に「(あたら)〜を」のように感嘆詞として用いられた表現で
あると考えられると解説してあったはずである。ただし、従来の国語学
や日本語学の解釈は、その感嘆として用いられる「を」が何を表現して
いるのかまで踏み込むことなく、「あたら〜を」から、本来は「を(惜)し」
という意味を担っていた「を」を省いた形で「あたらし」という表現
を派生させ、省略形の「あたらし」単独で「を(惜)しい」ことが
「暗示される」ことになったにもかかわらず、その表現の由来を
無視して、「あたら」および「あたらし」が、本来的に「惜しい」
という意味を担っていたと解釈してしまったために、「〜を」の
意味を解釈する契機が見失われてしまったのだ。
0068自画自賛
垢版 |
2018/12/14(金) 14:54:03.490
どうですか。
見事なものでしょう、私の便所の落書きは
0070考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 15:00:45.810
どうせなら「能(あた)ふ君」と書いてもらえませんか?
0071考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 15:13:46.660
気づいてしまうと、もう気づかなかったことにはできないのです
それが言葉の力です
0072考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 15:31:57.230
たまたま便所を訪れた人に気づかせることに成功したなら、
便所の落書きはその役割を果たしたことになる

その意味で、言葉を発することや言葉を書きつけることは、
人以外の動物が自分の縄張りを示すために行う様々なマーキング
に似ている。しかし、人の言葉の場合、そのマーキングは自らの存在
を知らせるために行われるより、他者のマーキングに似せた
マーキングを行って、他者の存在に気づかせようとすること
をその大きな特徴とする。いわば、熊が樹木に残す印を真似して、
それを見た者に熊が存在すると意識させるようなマーキングの
仕方である。人の言葉は、他の動植物の場合の擬態に比せられる
ものなのである。
0073考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 22:58:55.070
>>72
あなたが来たなら僕はやめるよ。
そろそろ足の洗いどき。
ここは僕にとってのトラウマだった。
病気を再発する道具の全てが揃った。
0074考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:03:11.800
気づかせることに成功したじゃない。
単なる自己防衛の解釈を誤ったんだよ貴方は。
僕がされた全てはもう分からないだろう。
一生誰にも理解されない苦しみ、トラウマ。
そんな簡単に踏み込むな。
0075考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:06:33.380
>>67
「を(惜)し」にせよ、「をかし」にせよ、日本語の「〜し」という形容詞は、
「〜を生じさせる」を表していると考えることができると以前に私は指摘した。
「もったいない」という意味で用いられた古語の「あたらし」の場合もまったく
同様である。「あたらし」は、語源的には「『あたら〜を(という状況)』
を生じさせる」ことであると考えられ、「『相応しく扱えばいいものを
(という状況)』を生じさせる」という意味で、現代の日本語で表現するなら
「もったいない」に相当するように用いられたのだ。ただし、「あたらし」
という形の表現が成立したのは、「あたら〜を」の「を」を省略して暗示する
ように「あたら」が単独で用いられるようになっていたからである。
0076考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:11:59.620
昨日も今日も自己防衛。
普通にできたが、幻聴が再発して朦朧としそうだったからな。
僕はあんたらがここにくるなら5chをやめる。
もともと2chなんてやりたくもなかったんだよ。
5chは今の掲示板のことだが、すごく楽しかったし勉強になった。

書き込み見つけて、そこから逆上されて死ぬほど誹謗中傷されて、
貴方には分からんだろうな。
必要のないところで、悩まされ精神病に落とされる感覚が。
何がレイプだよ。
0077考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:14:30.060
勝手にやってろ。
おいらをここの住人のような卑怯者に落とすな。
0078考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:18:33.130
言葉は無力。
以上。
全員死ね。
消え失せろ。
俺は俺の夢を叶えるまで死なない。
0079考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:23:57.960
そろそろお別れ。
僕は鉄のように冷たい心で雪のように溶ける。
0080考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:28:23.940
あなたたちに拾われなかったら、
今頃死んでたかもしれない。
ありがとうございました。
0081考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:49:35.670
Twitterでドイツ語と日本語の語呂合わせが流れているけど、
私は、ああいうのは全然おもしろいと思わない。
記述言語学者が、慣れない言葉を勉強するのにあの手の語呂合わせを
使うことを推奨していたが、言葉を学ぶ方法として最低に下らない
としか思わなかった。どうせ語呂合わせするならもっとよほど
おもしろいやり方があるだろうと思う。

例えば、ドイツ語で鞭を意味する"Peitsche"の発音は、そのまま
鞭で「パチッ」と叩く音を想起させるが、Wiktionaryを参照して
みると、スラブ語由来であると記載されている。
https://en.wiktionary.org/wiki/Peitsche
そこでリンク先のポーランド語の"bicz"の発音を聞いてみると、
https://en.wiktionary.org/wiki/bicz#Polish
「ビチュ」というように聞こえ、即座に日本語の「ビシビシしごくぞ」
という表現が想起される。そうやって連想をつなげていくと、
特定の言語の枠を超えてイメージのネットワークを形成する手がかりが得られる。
0082考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:53:29.590
>>81
たしかにそうですね。
あと少しよろしくお願いします。
僕はだが、消えたい。
消えて無くなりたい。
もう修復した精神で自分で歩けるようになった。
僕はここでちゃんと書く気はないです。
書くなら現実で。
0083考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:55:45.210
僕は研究者じゃない。
ただ世界は知りたかった。
世界を記述するには言語じゃ足りないから、ここに来た。
0084考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:58:20.310
僕は記号的、数式的、多言語的になることによって世界を記述する。
抽象度が高くなって世界を知る。
言葉遊びじゃ心は満たせないね。
0085考える名無しさん
垢版 |
2018/12/14(金) 23:59:21.270
手がかりを得るというのは、「手頃(zuhanden)に」するということだ。
0086考える名無しさん
垢版 |
2018/12/15(土) 00:04:33.660
僕はさ、5chはもう必要ないと思う。
僕は、言語をやりたいんじゃないんだよ。
ごめん。

僕は世界を知りたい。
雲をつかむような。

蜘蛛が吐いた糸って、雨が降ると水滴を効率よく落とすために、横糸が消えてゆくんだって。

それが社会だった。
0088考える名無しさん
垢版 |
2018/12/15(土) 00:10:08.940
言葉遊びはさ、どうでも良いんだよ。
それ自体は全く持って無意味。
でも、誰かが笑ってやる気が出るなら、はじめて意味を持ったんだ。
学問的にはゴミ同然。
0089考える名無しさん
垢版 |
2018/12/15(土) 08:22:55.360
古語の「あたらし」によって「(不相応に扱われるのが)もったいない」ことが
暗示されるのは、例えば、現代語の「大事な」で「粗末に扱われるべきでない」
ことが暗示されるのと同じことである。

大辞林 第三版の解説
だいじ【大事】
A [3] 粗末に扱わないよう気をつけるさま。価値を認めて注意深く扱うさま。
大切。 「体を−にする」 「部下を−にする」 〔「お大事に」の形で、
相手の健康を祈る挨拶の言葉として、病床を辞去したり、手紙文の末尾に
書き添えたりする場合に用いる〕
0090学術
垢版 |
2018/12/15(土) 08:27:38.530
語呂合わせというか訳を韻と両立させることだろうな。音声言語系のほうがなじみやすいだろう。表意系より。
0091考える名無しさん
垢版 |
2018/12/15(土) 08:38:48.070
現代語の「新しい」は、「あたら〜を」ではなく、「あらた(改)め」に
語源が求められる。「あらたし」が「あたらし」と混同された結果、
本来の古語の「あたらし」に置き換わったと考えられる。「もったいない」
という意味で用いられる「あたらし」は、「あたら(〜を)」という表現に
支えられているので、「あたら〜」という表現が、「大切な〜を」、
「貴重な〜を」、「大事な〜を」などの表現が代わりに使われることに
よってあまり頻繁に用いられなくなると、本来の意味で「あたらし」を
使っても、ますます、「あらため」と共通する「あらたし/あたらし」と
混同されることになる。混同を避ける明確化のために、「あたら〜」や
「あたらし」の代わりに「もったいない」が用いられることになれば、
「あたら〜」や「あたらし」は、用済みとなり、意図的に古典的な用法
としてのみ使わることになる。
0092考える名無しさん
垢版 |
2018/12/15(土) 10:07:23.440
権威という杖やロープは、それがたの(手置)みになって険しい途を楽に
進むことができる限りでは大いに利用すべきだが、どこに足場があるか
分らないような途を進もうとするとき、または途を切り拓こうとする
とき、それにたよ(手依)ろうとすることは危険であり、それを手にして
いなければならないことが、むしろ、足手まといになることもある。
暗闇のなかで手がかりを得ようとするなら、手探りで進むしかないのだ。
0093考える名無しさん
垢版 |
2018/12/15(土) 12:59:00.260
>>81
暇つぶしにあの手の駄洒落を見つけて喜ぶというのがまさしく、
ハイデガーが記述した典型的な"Das Man"の在り方である。
0094考える名無しさん
垢版 |
2018/12/16(日) 13:10:17.920
人間は言葉を発すれば空腹が満たされるようになればいいのに
そうすれば何の力もない言葉にも価値が生まれる
0095考える名無しさん
垢版 |
2018/12/16(日) 14:32:24.860
>人間は言葉を発すれば空腹が満たされるようになればいいのに

言葉を命/御言/尊に変える手法を身に付ければよいのですよ?
0096考える名無しさん
垢版 |
2018/12/16(日) 14:37:07.520
ご宣託が貢物に変わる。空腹が満たされる。
0097を/Ruf(をす/Beruf)
垢版 |
2018/12/18(火) 21:07:28.270
「をす(≒呼び寄せさせる)」のが「みこと(命/御言/尊)」であり、
その「呼び声(を/Ruf)」を聞くことが「召命/berufung」である。

召命 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/召命
召命(しょうめい)ヘブライ語(カーラー)、ギリシア語(クレーシス)
ラテン語(vocatio religiosa)英語(vocation, calling)
ドイツ語(berufung)の訳語。
聖書の中に多用されている、神の恵みによって神に呼び出されること。
今日のローマ・カトリック教会では、狭義と広義の召命が存在する。
0098を/Ruf(をす/Beruf)
垢版 |
2018/12/18(火) 21:12:49.480
聞こしをす≒統治する

https://kobun.weblio.jp/content/きこしをす
出典万葉集 四〇八九
「天皇(すめろき)の神の命(みこと)のきこしをす国のまほらに」
[訳] 天皇であり神であられるお方のお治めあそばす国の...
0099考える名無しさん
垢版 |
2018/12/18(火) 21:21:22.470
招くように呼ぶ行為が「をく」という動詞によって表され、
その名詞化が「をき(≒呼び寄せ」である。
「をき」は、「をき・とり(鳥)」として「をとり(囮)」の語源と
なったと考えられるとともに、「をかし(≒呼び寄せを生じさせる≒惹かれる)」
の語源である。
0100考える名無しさん
垢版 |
2018/12/18(火) 21:23:37.880
そのうち古文の試験に出題されるようになる(←嘘)から、よく憶えておくように。
0102ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/18(火) 21:58:00.410
いや、呼び声(を/Ruf)こそが、不在に動機づけられているでしょう

https://kotobank.jp/word/ロゴス中心主義-161872
ロゴス中心主義(読み)ロゴスちゅうしんしゅぎ(英語表記)logocentrisme(仏)

プラトン以来,ヨーロッパ形而 (けいじ) 上学は,存在とは現にここにある
恒常不変の実体としての現前であると理解してきた (現前性の形而上学) 。
すなわち,神の言葉,人間の理性,究極的真理,万物の根源であるロゴスこそ,
第一存在である (ロゴス中心主義) とみなしてきた。そして,このロゴスを
自己へと現前せしめる声=音声言語は「意識の始源性」と一致するとみなして
きた (音声中心主義 phonocentrisme) 。
0103考える名無しさん
垢版 |
2018/12/18(火) 22:00:08.800
何と言うか、捻じれた抑圧なんだよね
気づいているのに気づかないふりを続ける

私でさえ気づくのに、先人たちが気づかなかったはずはないと思うのですよ
0105考える名無しさん
垢版 |
2018/12/18(火) 22:10:07.340
政治的に右だとか左だとか関係なく、言語化することがはばかられている
イデオロギーこそが、最も強固に守られているイデオロギーである。
いわゆる「恐れ多くも」というやつだ。私のような馬鹿には何が恐れ多い
のかよく分らないが。
0106考える名無しさん
垢版 |
2018/12/18(火) 23:31:28.620
>>103
妬みを感じるのは大人として育っていないから
0107をとり(囮)としての言語
垢版 |
2018/12/19(水) 10:21:58.320
>>99
>「をき」は、「をき・とり(鳥)」として「をとり(囮)」の語源と
>なったと考えられる

その一方で「をとり(囮)」はまた、「を(呼)と(獲/取)り」、つまり、
「を(呼)び(引)き寄せてと(獲/取)る」こととして解釈することもできる。

猿が「をめく」場合も、人が声を上げる場合も同様に、何かが手頃でないこと、
すなわち、「手頃(zuhanden)にあることの『不在』」が呼び声を動機づけて
いるだろう。だが、獲物を「を(呼)び(引)き寄せる」ことを考えてみると、
その場合、「手頃(zuhanden)にある」ことが「不在」であるのは、獲物を
呼び寄せる声そのものであり、「呼び声の不在」こそが呼び声を動機づけて
いるのである。人の言語の使用の際だった特徴は、人が声を上げることが
本来的に囮(をとり)として使われることだ。
0108考える名無しさん
垢版 |
2018/12/19(水) 19:47:03.290
>何かが手頃でないこと、すなわち、「手頃(zuhanden)にあることの
>『不在』」が呼び声を動機づけている

ここは微妙だな。猿の場合も、人の場合も「手頃でないこと」が声を上げる
ことを動機づけているが、「手頃にあることの『不在』」が声を上げる
動機となるのは、人の場合に特徴的なのだろう。つまり、「手頃でないこと」
と「手頃にあることの『不在』」を「すなわち」で結ぶべきではない。
0109考える名無しさん
垢版 |
2018/12/20(木) 00:52:48.420
自然の事象が「をかし(「をき」を生じさせる)」と感じられたり、
猿が「をめく」ことをするように、「をく(呼び寄せる)」、
「をめく(呼び声を上げる)」という作用や動作は、人以外の動植物
にも認められる。その一方で、「をす(呼び寄せさせる)」ことは、
人の行為に極めて特徴的なのだ。人は単に「声を出すことによって
呼び寄せる」のではなく、「声に呼び寄せさせる」のである。
0110考える名無しさん
垢版 |
2018/12/20(木) 00:59:28.100
「声に呼び寄せさせる」からこそ、言葉が命/御言/尊、すなわち、"mandate"
として機能する。
0111考える名無しさん
垢版 |
2018/12/20(木) 07:53:30.100
統治が「をす」ことであり、「声に呼び寄せさせる」ことであることは、
例えば、民主主義という制度が国民の投票(=声)によって政治家(=祭り
ごとを司る者)に命/御言/尊、すなわち、"mandate"を委託し、公務員/
官僚(=公僕)をつか(使/仕)ふという「形式」をとっていることにも見て
取れる。「(人々の)声に呼び寄せさせる」こと、つまり、人々の投票に
よって「をす」ことと、「(人々が)声を上げる」こと、つまり、人々が
デモなどで「をめく」ことは、似て非なることである。
0112考える名無しさん
垢版 |
2018/12/20(木) 07:56:35.930
民主主義が「形骸化する」とはどういうことか?
そもそも、民主主義は実現されたことがあったのか?
0113考える名無しさん
垢版 |
2018/12/20(木) 09:43:11.070
デリダの議論は考え方が複雑すぎて分りづらいのではない。
むしろ、考え方が単純化されすぎているために議論が無用に捻じれてしまうのだ。
0114考える名無しさん
垢版 |
2018/12/20(木) 09:44:48.290
要するに、デリダの哲学的な議論は、記述に対する取組みが極めて不十分なのである。
0117考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 09:25:34.970
「あたら〜を」の「あた(る)」にそのまま対応する意味で「あた(る)」を
用いた古語の表現に「あてなり」がある。「あて」は、そのまま素直に
英語にするなら「valuable」である。

>>65
学研全訳古語辞典

あて・なり 【貴なり】

@高貴だ。身分・家柄が高い。
出典竹取物語 貴公子たちの求婚
「世界の男(をのこ)、あてなるもいやしきも、いかでこのかぐや姫を、
得てしがな、見てしがなと」
[訳] 世の中の男は、身分が高い者も低い者も、どうにかしてこのかぐや姫を、
手に入れたいものだなあ、結婚したいものだなあと。

A上品だ。優美だ。
出典枕草子 ふと心おとりとかするものは
「ただ文字一つに、あやしう、あてにもいやしうもなるは、いかなるにかあらむ」
[訳] ほんの言葉遣い一つで、上品にも下品にもなるというのは、どういうわけであろうか。
0118考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 09:29:19.780
枕草子 あてなるもの(四二段)

あてなるもの、
うす色に白がさねの汗袗。
かりのこ。
削った氷にあまずら入れて、あたらしき金鋺に入れたる。
水晶の数珠。
藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。
いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる。
0119ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/23(日) 09:41:41.840
「あてなるもの」として「梅の花に雪の降りかかりたる」が挙げられる一方で、
「すさまじきもの」として「三、四月の紅梅の衣」が記されていることは、
極めて示唆的である。「すさまじきもの」とは何かと言えば、それは、
列挙される例を見渡せばすぐに分るとおり、「(残念に)不在を感じさせるもの」
だろう。翻って見るなら、「紅梅の衣」は、梅の花(≒春の訪れ)を「をく(呼び
寄せる)」ものとして着られるべきものとされていたことが分る。
「梅の花に雪の降りかかりたる」が「あて(=valuable)」に感じられるのは、
梅の花と雪の対比が春の訪れを鮮やかに告げているからだろう。

枕草子『すさまじきもの』

すさまじきもの、
昼吠ゆる犬。春の網代。
三、四月の紅梅の衣。
牛死にたる牛飼ひ。
乳児亡くなりたる産屋。
火おこさぬ炭櫃、地火炉。
博士のうち続き女児産ませたる。
方違へに行きたるに、あるじせぬ所。まいて節分などは、いとすさまじ。
0120ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/23(日) 09:48:01.480
「あたら〜を」の「あた」と「あてなり」の「あて」が同じように用いられて
いることは、表現の用法を検討してみるなら容易に明らかになるが、その対応
関係が忘れられているのは、漢字を当てることによる表現の解釈の限定によって
理解が「自動化され」、感性が働かなくなっているからである。
0121考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 09:59:18.420
「三、四月の紅梅の衣」が「すさまじきもの」であるのは、「紅梅の衣」が
「をく(呼び寄せる)」べき梅の花/春の訪れが既に過ぎ去ってしまっており、
呼び寄せられるべき対象が不在なので、空虚さだけを意識させることになる
からである。
0122考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:43:35.970
古語の用法における「すさまじ」は、現代語の「すさ(凄)まじい」とは異なり、
「ものすごい」ことを意味するように用いられているわけではない。
「すさまじ」という形を見ればすぐに気づくとおり、「『すさ(荒)み』を
生じさせる」ことがその語源的な意味であり、「すさまじ」の「すさみ」は、
「手すさび」の「すさ(荒/遊)び」と共通であるが、インデックス性の
利用において異なっている。
0123考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:48:19.730
枕草子における「すさまじきもの」とは、現代語に訳すなら「すさ(荒)みを感じさせる
こと」となるだろう。「すさみ」とは、いわば、「(期待を裏切るような)不在による失望」
である。
0124考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:51:49.130
すさんでいますね、このスレも、この板も
0125考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:56:56.470
「昼吠ゆる犬」がなぜ「すさまじ」いのか?
昼間からシャッター街を犬が吠えながらほっつき歩いている様子を
イメージすれば、容易に理解できるはずである。
0126考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:58:22.750
言語や国文学チックことを考えたくなって
酒井直樹の本を読むことにしたわ。
0127考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:11:40.260
「すさまじ」という表現を「おもしろくない」、「興ざめだ」、
「しらけている」などと解釈するように教える国語教育や国語研究が
いかに「すさまじきもの」であるか、そろそろ自覚する必要があるのではないか?
0128考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:16:25.300
今は「すさまじい」は「とてつもない」といった感じで使われていると思うけど、
昔は全然違ったのかなあと、国語の時間に思っていた。
0129考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:24:51.400
「すさぶ」という動詞の用法も「(作用を遮るものの)不在」を表現の
インデックス性として利用している。「吹きすさぶ風」⇒「すさまじい風」
のような用法から、現代語の「すさまじい」は派生したのだろうと思う。
0130考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:57:18.790
日本語では、「す」が「作用を遮るものの不在」を示すように使われている
ようだね。「すす(進)む」とか、「す(過)ぎる」とか、「す(澄)む」とか、
「す(透)ける」とか、「すっかり」とか、...
0135考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:15:43.760
「すずしい」は暑さがない状態か。
0136学術
垢版 |
2018/12/23(日) 14:16:59.750
言葉は兵糧になるし戦術にもなる。グルメにもなるし、武器防具にも詳しい。
〜初めに言ありき〜。
0137考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:27:38.220
す(好)きといえば、普通は、情熱がある(passionate)とされるわけだけど、
「すき」も、もともとは、抑制がない状態、引きとどめがまったく効かない
状態を表していたのではないのかな?「すきにしろ」みたいに。

そう考えると、「すきずきし」のような表現の解釈も変わってくるんじゃ
ないかな。
0138考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:30:15.240
>「すずしい」は暑さがない状態か。

「スースーする」からじゃない?
0140考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:35:35.040
表現の理解において用いられている音のイメージを軽視してはいけない。
0141考える名無しさん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:44:58.750
Twitterでドイツ語と日本語の音を重ね合わせるダジャレが流れていたが、
そういうものを面白がることが無益なだけにとどまらず、むしろ、有害
である理由もそこにある。表現においてどのように音のイメージが用い
られているかを積極的に無視することで、無神経に表現の理解に雑音
を大量に導入して、表現の理解の感度を高めることを妨げるのだ。
0142考える名無しさん
垢版 |
2018/12/24(月) 07:33:44.070
>>130
「す」がこのようなイメージで用いられていることを考えると、
「する」という動詞も「go through with 〜」に対応するような
イメージで用いられていたのではないだろうか。
0144考える名無しさん
垢版 |
2018/12/24(月) 07:43:48.680
そんな言葉遊びをして何の役に立つのかと思うかもしれない。
しかし、例えば、私がよく知りもしない外国語で書かれた本を読むとき、
何が書かれているのかを推測するために用いる手法は、まさにこの種の
類推を逆方向(外国語⇒日本語)で行うことである。

むろん、まったく間違った推測をしてしまうことも頻繁にあるが、
ぴったり解釈が合うこともある。間違った推測は、そのうち解釈の
矛盾が生じるので、長期的には修正される。正しい推測はそのまま
解釈を広げるためのリソースとしてさらに利用できるようになる。
間違いを犯す方が、何も手がかりがないことよりもはるかに有益
なのである。
0145考える名無しさん
垢版 |
2018/12/24(月) 08:55:33.910
「『す』きに『す』る」
する
す(好)く⇔favor
すく→すこ
「すくすくとすこやかに育つ」
すこ(/すく)やか(/よか)⇔favorably
0146考える名無しさん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:00:34.000
「好適に生育する」⇒「すこやかに育つ」

「To grow plants.」に関連した英語例文の一覧と使い方 - Weblio辞書
https://ejje.weblio.jp/sentence/content/To+grow+plants.

匍匐性植物は匍匐伸長して不織布上で根づき、不織布面を覆う。 - 特許庁.
To provide a pot free from root rotten and making plants favorably grow.
根腐れを発生させることなく、植物が好適に生育することができる鉢を提供することにある。
0147考える名無しさん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:02:30.830
いけしゃあしゃあと、いけすかない奴

いけ(意気?)す(好)かない
気に入らない
0149考える名無しさん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:09:20.670
いけしゃあしゃあ
しゃあしゃあ?
しやしや?
すやすや眠る
0150考える名無しさん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:13:47.440
>日本語では、「す」が「作用を遮るものの不在」を示すように使われている

店がす(空)いている。「『す』ぐ」に座れる。
0151考える名無しさん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:38:58.580
>よく知りもしない外国語で書かれた本を読むとき、
>何が書かれているのかを推測する

こういう読み方に対して、間違った読みをして危険だとか、
読んだことにならないとか警告する人が世の中には沢山いる。
確かに私は、最後のページまで一字一句すべて眺めてみたところで、
それらの本をどの程度、読んだことになるのか自分でもよく分らない。
だが、間違った読みをすることに警告を発する人々に対しては、
こう問い返すことができるだろう。

「すさまじ」という表現に「おもしろくない」、「興ざめだ」、
「しらけている」などという辞書や解説書に書いてある解釈を当てはめて
日本の古典文学作品を読むような読み方をしたとすれば、その作品を
「読んだ」ことになるのだろうか?辞書や解説書に書いてある解釈
をそのまま当てはめて読むことは害悪をもたらさないのか?
0152考える名無しさん
垢版 |
2018/12/24(月) 14:22:47.760
マルクススレッドで勧められたフーコーの『言葉と物』が
ようやく第三章の半分まで進められた。
言葉についてよく注意して考えようと思った。
0153ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/25(火) 12:35:57.780
「あたら〜を」という表現の理解は、日本語で哲学をするうえで一つの
重要な鍵となるだろうと思う。
0154ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/25(火) 13:09:45.180
「あたら〜を」という表現に用いられる「あた・る」の再帰形が「あたふ」
であり、その名詞化が「あたひ(値)」であり、「あたら〜を」は、何か
価値のあるものが不相応に損なはれることに対する感嘆の表現であるが、
その場合、「あたら」によって表現されている価値は、か(交/替)えの
きく価値、つまり、取引における交換価値のようなものではない。
「あたら〜を」の「を」が「を(惜)し」の「を」であり、「をし」が
「『を』≒"Why not (anymore)?"という呼びかけを生じる」ことを
表していることから分るとおり、損なはれる/失はれるのは、「か(欠)け
が(交/替)えのない」≒"irreplaceable when lost"とされる価値なの
である。つまり、「あたら〜を」において「をし」まれる価値は、
「ゆく春ををしむ」場合のように一度きりの「とき」において在る
時間的なものなのである。だからこそ、その「とき」が過ぎてしまえば、
春の訪れを「をく」ものとして着られるべき「梅の花の衣」を三月、
四月に着ているように、「をく」こと自体が「かひ(甲斐/交ひ)」
(すなわち、交換価値)のないこと(、例えば、「すさまじきもの」)と
して捉えられることになる。
0155ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/25(火) 13:42:19.330
「あたら〜を」という表現において、「あたら」が表す価値は、ハイデガー用語
を借りるなら、「zuhanden(手頃な)」価値である。それが損なはれる/失はれる
ことに対する感嘆が「を」という呼び声であるが、損なはれた/失はれたものは、
もはや戻ってくることはない。英語で表現するなら、"irrevocably lost"という
状態となる。

赤ん坊がなぜ「いないないばぁ」を喜ぶのか考えてみるといい。赤ん坊にとって
呼び声を上げることで現れる母親などは、単に目の前に(vorhanden)いるので
はなく、手が届くように手頃に(zuhanden)にいる。「いないないばぁ」に
よってその姿が突然消えることは、その相手が「手頃でなくなる」というより、
むしろ、「手頃にできる可能性が消える」のである。そのことが、赤ん坊に
(赤ん坊がそのように表現することができないにしても)「をし」という感覚を
生じさせるのだろう。「手頃にできる可能性が消える」ことが、「目の前に
(vorhanden)ない」ことであり、その姿が再び現れることは、「再び手頃に
(zuhanden)できる可能性」として相手が「目の前に(vorhanden)いる」こと
である。赤ん坊にとって、「いないないばぁ」によって相手の姿が再び
現れることは、言はば、「惜しまれながら過ぎ去っていった春」が再び
戻ってきたようなものであり、その再帰は、「呼び戻し不可能に失われた
/無くなったはずのものが再び生じる」という意味での「再生」なのである。
その再生が、ビデオの再生のように単に「目の前にあるか/ないか」という
区別による「replay」としての再生として捉えられるようになれば、
「いないないばぁ」はもはや、「子供騙し」に過ぎないものとなる。
0156ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2018/12/25(火) 17:26:20.760
「あたら〜を」において「呼び戻し不可能に失われた/無くなった」はずのものが
「再び生じる」という意味での「再生」は、春に若い命が甦るように祝福されるが、
その「祝福」は、再生する者にとっては「のろ(呪)ひ」ともなり得る。

例えば、せっかく大切に育てた子供が幼いうちに亡くなる。両親はそれを嘆き
悲しむが、そのうちまた子供を授かったとする。新たに生まれた子供が、両親
には、亡くなった子供の生まれ変わり(再生)であるかのように感じられること
がある。「あたら『若い命』を」という感嘆に応えるように生まれた新たな
命は、その両親によって心から祝福されるが、その子供にとって「自ら」が
生まれたときから「か(交)ひ」、すなわち、「身代わり」として、「交換価値」
として扱われることになり、やがて、そのことを意識せざるを得なくなる。
両親にとって「唯一のもの」である貴重な命が、「再生したとされる者自身」に
とっては、替えのきく価値として扱われていることになる。
0157考える名無しさん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:31:07.420
そのような認識のすれ違いは、性的なパートナーシップの関係においても生じ得る。
失ったパートナーの代わりを別のパートナーに求めているように相手には受けとめ
られるが、求める本人には、失われた関係性の再生を求めていることしか意識され
ないというすれ違いである。
0158考える名無しさん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:45:35.450
une épée aiguisée⇔と(砥)がれた剣

「と(砥)ぐ」は、「とが(尖)る」や「とが(咎/科)」や「とげ(棘)」
と語源を共有する同様のインデックス性の利用から派生した表現であるが、
日本語とはまったく別系統のラテン語に由来するフランス語でも同じよう
に共通のインデックス性から派生していることは面白い。

言葉に興味のない人には、なぜそれを面白いと感じるのか分らないのだろう
が、これは、ちょうど、まったくの他人がまるで双子のように似ているのを
見て面白いと感じるのと同じような感覚である。異国の言葉を聞いているのに、
急に日本語を聞いているかのような錯覚に陥る。
0159考える名無しさん
垢版 |
2018/12/26(水) 08:21:14.030
このような類似性を認識することは、すぐに解釈の応用につながる。
例えば、以下は、同じラテン語に由来するが、別言語で同様の表現が
用いられているスペイン語の例である。

>Ayer, Jesús afino mi guitarra y agudizo mis sentidos, me inspiro

日本語には「感覚を研ぎ澄ます」という表現があるが、この場合は、
イエス・キリストがシンガーソング・ライターの感覚を「研いだ」のである。
0160考える名無しさん
垢版 |
2018/12/26(水) 08:51:47.970
事物は「手頃(zuhanden)にできる『可能性』」として「目の前(vorhanden)に」
現れ、幼児は「手『あたり』次第に」世界を知る。
0161考える名無しさん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:03:07.460
「贖(あがな)ひ」として祝福される者は、誰でもない者によってのろ(呪)はれている。
0162考える名無しさん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:35:18.880
祝福と呪ひのどちらかだけであるはずだという思い込みが不幸をもつれさせる
0163考える名無しさん
垢版 |
2018/12/27(木) 09:24:49.760
試行錯誤とは、ある程度、「あたり」をつけたうえで、「手『あたり』」次第に
「手ごた(応)へ」を探って「手がかり」を得ることにより、
事象を「手頃(zuhanden)に」しようとする試みである。
0164考える名無しさん
垢版 |
2018/12/27(木) 09:33:05.680
事象をよく把握するために必要なことは、確立された手法による手順を厳密に
守ろうとすることなどではない。既存の手順が大切なのは、それが「あたり」
をつけるに至るまでに、まるで見当外れの方向に逸れてしまわなようにする
ためであり、あまりよく分っていない事象を把握するのに「あたり」をつける
ためには、既存の手順を遵守することは、多く場合、たいして役に立たない
ばかりか、「あたり」をつけようとする探究の妨げにすらなるのである。
0165考える名無しさん
垢版 |
2018/12/28(金) 07:58:43.540
学研全訳古語辞典

と・し

(一)【利し・鋭し】よく切れる。するどい。鋭利だ。
出典万葉集 二四九八
「剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)のときに足踏みて」
[訳] 剣の両刃のよく切れるのを足で踏んで。

(二)【疾し】
@時期が早い。
出典古今集 春上
「春やとき花や遅きと聞き分かむ鶯(うぐひす)だにも鳴かずもあるかな」
[訳] 春が来るのが早いのか、花の咲くのが遅いのかとその声を聞いて判断しようと思うそのうぐいすさえも鳴かないでいることよ。

A速度が速い。速く激しい。
出典万葉集 一一〇一
「巻向(まきむく)の川音(かはと)高しも嵐かもとき」
[訳] 巻向の川の流れの音が大きいなあ。嵐が激しいのか。

(三)【敏し】
@すばしこい。機敏だ。
出典徒然草 一八八
「とき時は則(すなはち)功あり」
[訳] (行動が)機敏なときは、必ず効果がある。

A鋭い。鋭敏だ。
出典枕草子 大蔵卿ばかり
「大蔵卿(おほくらきやう)ばかり耳とき人はなし」
[訳] 大蔵卿ほど耳の鋭敏な人はいない。
0166考える名無しさん
垢版 |
2018/12/28(金) 08:53:41.360
>>163-164
試行錯誤は、あたりをつけて、手あたり次第に手ごた(応)へを
手依(たよ)/頼りに先に進もうとすることなので、そのような手法で得られる
結果は、雑学の集積にしかならないと主張する人が学問の世界には多くいる。
そのような人々にとって、手応えを得るとは、確立されている手法を遵守
して歩を進めたことを、ピア・レビューによって評価してもらうことなのである。
「ピア」レビューと言っても、高い評価を得たと認知されるために必要なの
は、権威と見なされている人に歩を進めたことを承認してもらうことなの
だから、実際には、権威によるお墨付きをもらうことこそが、「交ひ/甲斐
(≒交換価値)」のある研究の成果として認められていることになる。
0167考える名無しさん
垢版 |
2018/12/28(金) 09:13:11.260
では、本当に試行錯誤は、行き当たりばったりの体系性を欠いた雑学の集積しか
結果として生まないのだろうか?
そんなことはないだろうと私は思う。

例えば、>>158で急に思いついたように「une épée aiguisée⇔と(砥)がれた剣 」
という表現を取り上げたのはなぜだろうか。それは、直接的には、そのとき
たまたま聞いていたラジオ番組の言葉が「耳に止まった」からに過ぎないが、
なぜそれが「耳に止まった」のかを振り返ってみると、それは、"aiguiser"が
「するど(鋭)くする」ことを意味しており、やはり、たまたま、その直前に
このスレで、日本語において「す」や「す・る」がどのようなイメージで
用いられているのかを考察していたからだろう。つまり私は、「une épée
aiguisée」というフランス語の言葉を聞いたとき、「『する・ど(鋭)−く』
された剣」を想起し、「「『する・ど(鋭)−く』された」⇒「する・ど−し」
⇒「する+と(砥)し」⇒「砥がれた剣」という関係を連想し、何か「手ごたえ」
を感じたのだ。
0168考える名無しさん
垢版 |
2018/12/28(金) 09:46:22.410
「une épée aiguisée⇔と(砥)がれた剣 」は、「するどい剣」であり、
「よく斬れる剣⇔une épée tranchante」でもある。

ここで、「するど(鋭)い」という表現を考えてみると、>>130
提案した、日本語において「す」は「作用を遮るものの不在」を表現する
ようなイメージで用いられているという仮定は、この場合も当てはまり、
さらに、「する」が、「するする」のような擬態語と共通するとしても、
「す・る」という動詞を英語の「go through (with 〜)」や
ドイツ語の"(etw) durchführen"に比せられるとする仮定と考え合せる
なら、「するど(鋭)し」⇒「する・と−し」⇒「『する(go through/
durchführen)』という様態+『と・し』」という解釈が生じ、
「と・し」は、既に繰り返し指摘するとおり、「〜し」が「『〜』の
様態を生じさせる」ことを表していると考えられるのだから、「『と』
の様態を生じさせる」ことと理解され、「するど(鋭)し」全体で、
「作用を遮るものなく通るように『とがっている/するどい』」を
表現していると理解できることになる。無論、ここまでくると、
「とがっている/するどい」という表現を再利用せざるを得なくなる
ので、説明の自己参照が生じてしまうが、このことは、むしろ、
言葉を使用することのブートストラップ的な性質をよく表している
と考えることもできるだろう。
0169考える名無しさん
垢版 |
2018/12/28(金) 10:03:37.760
確かにいくらこのようなことをやっても、誰にも評価されず、成果としても
認められないのだから、まったく「交ひ/甲斐(≒交換価値)」のないことを
していることになるだろう。だが、それによって得られるのは、単なる
ばらばらな知識の集積ではなく、その都度、解釈の可能性を探るために
適用してみることができる仮説のネットワークの発展である。構築される
その仮説のネットワークが絶対的に正しいものであるなどと主張するつもり
はさらさらない。しかし、事象を解釈する手がかりとして、権威として
認められている人による承認を「手ごたえ」とするのか、それとも
仮説のネットワークを通して自らが感じられるものを「手ごたえ」と
するのか二者択一を迫られるとするなら、私は、後者の手法の方を
選ぶだろう。なぜなら、それによって「交ひ/甲斐(≒交換価値)」の
ある研究の成果、つまり、業績がまったく得られないとしても、
それが私にか(欠)けが(交/替)えのない遭遇をもたらすように感じられる
からである。
0170考える名無しさん
垢版 |
2018/12/28(金) 10:07:04.850
記号論が「権威による方法」に手依(たよ)って探究を進めようとするなら、
それはもはや記号論ではない。
0171考える名無しさん
垢版 |
2018/12/28(金) 10:22:00.520
パースを見れば分るとおり、記号論をやるような人間に甲斐性はない
0172考える名無しさん
垢版 |
2018/12/28(金) 10:39:40.030
誰かによって祝福されることが、誰でもない者によって呪われることになり
得るのとまったく同様に、誰かによって呪われることが、誰でもない者に
よって祝福されることにもなり得るのではないか?
0173考える名無しさん
垢版 |
2018/12/28(金) 12:45:57.320
無力な言葉ほどダラダラとした長文で
その文書の力はゼロに等しいな
0175考える名無しさん
垢版 |
2018/12/29(土) 09:12:29.320
言葉を使用することは、ブートストラップ的な行為であることに注目すること
は重要だろう。どこかに端緒をとらえて、そこから言葉が組織化されるように
立ち上げられる。ブートストラップという表現は、日本語としてあまり通用
しているとは言えず、思想として語られる場合には、オートポイエシスという
表現が用いられることも多いが、「オートポイエシス」という表現は、それを
使う人々の間でいろいろと立ち位置の違いがあるにせよ、思想的に囲い込まれ
てしまっている感が強い。また、オートポイエシスは、自己組織化と訳される
場合が多いが、「オートメーション」など他の既に日本語としてより一般化
した表現との類比から、何かスムーズに自動的に組織化されることを表現して
いるような印象を与えてしまう。言葉の使用がブートストラップ的であると
言うとき、私が伝えようとしているのは、それが自動生成的であるというより
もむしろ、暫定的な試みの繰り返しによる自己制作の活動であるということ
である。その活動の成果物が「言語」と呼ばれるので、「言語」から言葉
の使用を見ると、自己制作の活動が見えにくくなる。
0176考える名無しさん
垢版 |
2018/12/29(土) 09:31:17.400
言葉をブートストラップ的に使用するとはどういうことだろうか。
例えば、私は、
>日本語では、「す」が「作用を遮るものの不在」を示すように使われている
と指摘した。しかし同時に、日本語という「言語」において「〜す」が使役
に用いられていたことも知られている。では、ブートストラップとして見た
とき、「す」が「作用を遮るものの不在」を示すように使わることと、
「〜す」が使役に用いられることはどちらが先なのだろうか?
このように問うことは、言語学や国語学/日本語学の取組みであるよりも、
むしろ、哲学の取組みである。なぜなら、言語学や国語学/日本語学に
おいて通常、守られるべき手法が、そのような問いを発すること自体を
正当なものとして許さない/承認しないからである。
0177考える名無しさん
垢版 |
2018/12/29(土) 09:42:30.530
その検討を書き込むことを後回しにして、乱暴に結論から先に言ってしまえば、
「さ、し、す、せ、そ」のさ行が「作用を遮るものの不在」、すなわち、
「作用の直接性(immediacy)」を表すのに活用されることの方が、言葉の
使用の自己制作活動において、 論理的に先だろうと私は考える。

さ行が「作用の直接性(immediacy)」を表すのに用いられている例として、
例えば、「いちじる(著)しい」という表現を挙げることができる。
「いちじるしい」は、本来、「いと・しろし」であり、「しろし」の
「しろ」は、「白(しろ)」と語源的に共通している。
0178考える名無しさん
垢版 |
2018/12/29(土) 09:47:20.240
しる・し 【著し】
学研全訳古語辞典

しるし
@はっきりわかる。明白である。
出典源氏物語 若紫
「いといたうやつれ給(たま)へれど、しるき御さまなれば」
[訳] たいそうひどく目立たなくなっていらっしゃるが、
(普通の人ではないことは)はっきりわかるごようすなので。
0179考える名無しさん
垢版 |
2018/12/29(土) 10:00:12.510
同じくさ行で「〜せよ」の「せ」は命令として用いられているが、
「せ」が表現しているのは、「切迫性」だろう。切迫性とは、
作用がすぐそこまで(/直接に)「せ」ま(迫/狭)っていることであり、
「せ」もやはり「作用の直接性(immediacy)」を表すのに用いら
れていると考えられる。

「さ」については、「さらす」、「さむい」、「さめ」など、
作用に直接に「晒されている(exposed)」ことに関係しており、
そのことが「(覆っているものを取り)さ(去)る」という動詞と
インデックス的に関連していることも以前に指摘した。
0180考える名無しさん
垢版 |
2018/12/29(土) 15:08:08.910
>>178
「しる(著)し」、「しろ(白)」に共通する「し・る/ら)」は、英語で表現する
なら"(as) clear (as a day)"ということだろう。すると、「し(知)る」は、
"become clear"ということだろうか?「し(知)らしむ」とは、"make 〜
clear (to someone)"ということだろうか?

こういう手探りは、暫定的な手ごたえを求めながら、いくらでも繰り返す
ことができる。言葉の使用がブートストラップ的であると言うとき、それは、
ブートストラップが一回限り生じて、そこから用法が次々に発展してきた
という意味ではない。表現として言葉を使うことそのものがそのような
手ごたえを求める手探りによる暫定的な自己制作の繰り返しなのである。
0181考える名無しさん
垢版 |
2018/12/30(日) 08:12:00.880
辞書などにおいて「〜す」は、使役の助動詞として使われることが説明されて
いる。確かにそのように考えることは、多くの事例において、都合がよく、
私自身、「をく」が「呼び寄せる」ことを表すのに対して、「をす」は、
「呼び寄せ『させる』」という使役を表していると説明した。さらに、
それ以前にも、「〜し」という形容表現は、「〜の態様を生じ『させる』」、
英語で表現するなら"causing 〜"を表しており、「〜し」は、使役の助動詞の
「〜す」と語源的に共通なのではないかということを示唆した。

しかし、このような説明は、好都合ではあるものの、哲学的により一般的に
考察するなら、落とし穴にはまっている。
0182考える名無しさん
垢版 |
2018/12/30(日) 08:42:43.960
「〜す」という動詞表現は、「〜る」と対比した場合、用法によりはっきり
と使役のニュアンスを帯びる。例えば、「かえ(帰)る」に対して「かえ(帰)す」
が「かえ(帰)ら『せる』」を、「さと(悟)る」に対して「さと(諭)す」が
「さとら『せる』」を、「ゆ(揺)れる」に対して「ゆ(揺)らす」が「ゆ(揺)れ
『させる』」をそれぞれ意味するように用いられていると解釈することができる。

しかし、実際には、「〜す」という表現の用法は「〜させる」よりも広く、
使役のニュアンスは、文脈によって生じているに過ぎないことは、例えば、
「す(過)ぎる」に対して「す(過)ごす」を「す(過)ぎ『させる』」と解釈
することに無理が感じられ、「み(見)る」に対して「み(見)す(見)す」の
「み(見)す」を「み(見)『させる』」と解釈することができないことから
明らかになる。「〜す」の使役のニュアンスはむしろ、それを「さ『せ』る」
と言い換えた場合の「せ」(独語の"Drang/dringen"に比せられる)から
生じていると考えられるのである。
0183考える名無しさん
垢版 |
2018/12/30(日) 08:52:26.340
「〜す」という動詞表現において、「す」が実際に担っているのは、「無為」
である。「〜す」という形で動詞を形成しているのに、「す」が「無為」を
表しているとするのは奇妙であると思われるかもしれない。しかし、「す」
は、この場合もやはり、>>130で指摘したとおり、「『作用を遮るものの不在』
を示すように使われている」と考えることができ、「『〜』の作用が働くのを
そのまま遮らない」行為、つまり、無為としての行為として、英語で表現
するなら、「let」に相当するのである。
0184考える名無しさん
垢版 |
2018/12/30(日) 08:55:52.610
学研全訳古語辞典

みす−みす 【見す見す】
〔「目にみすみす」の形で〕目の前に見ているうちに。

出典源氏物語 浮舟
「目にみすみす消え入り給(たま)ひにしことなど」
[訳] 目の前に見ているうちにお亡くなりになってしまったことなどを。
◆動詞「見す(=見せる)」を重ねたものが一語化したもの。
0185考える名無しさん
垢版 |
2018/12/30(日) 09:08:04.500
>>184
この説明において「見す」は、「=見せる」であると説明されているが、
「見す」に「み『せ』る」または「み『させ』る」という使役のニュアンスはない。
そのように言い換えざるを得ないことに、同じ言語内で説明しなければならない
場合の限界が露呈しているだけである。

さらに、現代の日本語の「見す見す」という表現は、古語の用法から変化している。
「〜を見ているうちに/〜を目の当たりにしながら」という用法から、
「何もできない(無為の)残念な様子」を表す表現に変化したのであり、
この変化自体が、「見す見す」という表現において繰り返される「〜す〜す」
が「『す(=無為)』を強調することになる」ことに引きずられて生じた
ものと考えることができる。

見す見す(みすみす)の意味 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp › 国語辞書 › 品詞 › 副詞

みすみす【見す見す】とは。意味や解説、類語。[副]《動詞「見す」を
重ねた語》1 見ていながら、また事情がわかっていながら、それにふさわしい
対応をしないさま。また、条件に恵まれながら、何もできずに終わってしまう
さま。むざむざと。
0186考える名無しさん
垢版 |
2018/12/30(日) 09:17:11.250
「をす」(≒統治する)ことが「無為」によって為されている、つまり、「為され
ているが、為されていない」こととして表現されていることに留意することは、
哲学的に極めて重要だろう。
0188考える名無しさん
垢版 |
2018/12/31(月) 09:00:59.210
「うすうす」勘づく≒それとなしに(無為でいるままに)気づく
"become vaguely aware of 〜"、"have an inlking of a doubt"

「ますます」という表現は、「積極的」な印象を与えるが、
「(〜を促進するようなことは何もしていないのに、つまり、
〜を促進することに関して無為でいるのに)増長/増大する」ことだろう。
「ますます」やる気が出る、「ますます」分らなくなる
0189考える名無しさん
垢版 |
2018/12/31(月) 09:05:56.190
「くすくす」笑うとは、「思わず(≒無為に)」笑が漏れること、つまり、
"inadvertent letting out"である。
0191考える名無しさん
垢版 |
2018/12/31(月) 11:27:14.620
す(澄)む/す(済)む⇔"be through"
す(住)む←す(住)まふ=すむ+(あ)ふ (「すむ」の再帰形)⇔"settle down"
濁った水が透明になるように落ち着く
0192考える名無しさん
垢版 |
2018/12/31(月) 11:32:21.700
言葉の表現は体系的であろうとするからこそ、体系化された「言語」から、
同一言語内の表現を説明しようとすることは、パラドックス的に困難になる。
説明するためには表現を置き換える必要があるが、なにがどのように表現
されているかがほとんど変わらずに表現の置換えが可能なら、そもそも
その説明対象とされる表現がその言語内で用いられる必要性は低く、
体系化された「言語」から排除される傾向にあるからである。
0194考える名無しさん
垢版 |
2018/12/31(月) 11:56:25.430
ブートストラップ的な絶えざる自己制作としての言葉の表現を、あらかじめ
与えられた規則からの生成として説明しようとすることは馬鹿げている。
0195考える名無しさん
垢版 |
2018/12/31(月) 12:02:56.670
日本語の表現を説明するのに英語を参照するのは、英語さえ勉強すれば、
他の言語にも共通する普遍的な規則を見出すことができるなどという主張
をするためではない。自らの用いる言語における表現を説明しようとする
なら、必然的に他者の言語を参照する必要があるのだ。
0196考える名無しさん
垢版 |
2018/12/31(月) 15:56:20.910
I semplici hanno qualcosa in piu dei dottori, che spesso si perdono
alla ricerca di leggi generalissime. Essi hanno l'intuizione dell'indiuiduale.
Ma questa intuizione, da sola, non basta. I semplici avvertono una loro
verita, forse piu vera di quella dei dottori della chiesa, ma poi la
consumano in gesti su cui non riflettono. Cosa bisogna fare?
Dare la scienza ai semplici5? Troppo facile, o troppo difficile.
E poi quale scienza? Quella della biblioteca di Abbone? I maestri
francescani si sono posti questo problema. Il grande Bonaventura
diceva che i saggi devono portare a chiarezza concettuale la verita
implicita nei gesti dei semplici...

ー Umberto Eco, "IL NOME DELLA ROSA", pp.240-41
0198考える名無しさん
垢版 |
2019/01/02(水) 10:24:31.520
言葉の表現は、アマルガム(混成体)として目の前にあるものをどのように
手頃に扱うか、その可能性を探ることを常に課題としている。
語源的な解釈は、厳格(言い換えれば、純粋に系統主義的)であろうと
すればするほど、そのことを見逃す。
0199考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 07:49:14.570
アマルガム(混成体)として目の前にあるとは、多様な解釈の可能性
として扱い得る("zuhanden"であり得る)ということである。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
石川啄木『一握の砂』
0200考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 07:58:11.990
意外に思われるかもしれないが、私は掛詞が好きではない。
掛詞が「掛詞」として認識されるとは、由来のまったく異なる表現が
偶然の音の重なりを利用して二重の意図を伝えるように、1つの言葉
に込められていると理解されることであり、その伝え方が下らない
と感じられるなら、「駄洒落」と評価されることになる。
0201考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 08:22:27.280
つまり、掛詞は、それが二重の表現として解かれてしまったなら、
単に異なる2つの言葉の意図的な重ね合わせであり、その技巧が優れて
いるとしても、「機転の利いた」表現方法に過ぎず、誰でもすぐに
思いつくような平凡なものなら駄洒落とされ、それを聞かされることは、
むしろ、毎度決まったお約束に従わされる「退屈さ」をもたらす。
0202考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 08:38:36.680
詩的表現の豊かさは、それが「掛詞」として二重の意図に解かれたとしても、
単に1つの言葉が別々の2つの意味に分かれることにとどまらず、さらに
広がりを見せる多様な解釈の可能性が目の前に現れることにある。
0203考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 09:00:07.190
>>199
>われ泣きぬれて
>蟹とたはむる

ここで、「蟹(かに)」とたはむるとは、自らの「かな(悲)しみ」と
戯れることだろう。ところで、「かに」という言葉に「かな(悲)しみ」を
響かせていることは、偶然の音の重なり合いを利用した単なる「洒落」に
過ぎないのだろうか。「かなし」は、以前から繰り返し指摘してきたとおり、
「『かね(兼)』を生じさせる」ことであり、現代語の「か(兼)ねる」という
表現に引き継がれているとおり、「かぬ」という動詞は、英語で表現する
なら"reach over for 〜"または"stretch over for 〜"に相当するような
意味を表している。ところで、「蟹(かに)」はなぜ「かに」と呼ばれる
のかを考えてみると、その歩く動作が、"reach over for 〜"または
"stretch over for 〜"と表現され得ることにすぐに気づく。つまり、
「蟹(かに」は、「かぬ」という動詞の名詞化、"stretching over for 〜"
を意味しているのではないかという解釈の可能性が生じる。
いはば、ここで詩に歌われている「蟹(かに」が、さらなる解釈の可能性
を開くアマルガム(混成体)のイメージとして目の前に現れるのである。
0205考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 09:18:38.270
砂浜を歩く蟹の足取りのように、また握った手からこぼれ落ちて
風に飛ばされる砂のように軽い自らの悲しみと戯れる、
そんなイメージが私には浮かんでくる
0206考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 09:24:20.050
一握の砂
"L'Insoutenable Légèreté de l'être"
0207考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 10:13:38.060
「かる(軽)さ」が、「か」の音で始まるのは偶然ではないだろう。
日本語の表現は、「か」という音を、一時的に、または局所的に接触して
再び離れることを表すイメージとして使っていると推測することができる。

「軽(かる)い」、「蚊(か)」、「香(か)」「狩/駆/刈(か)る」、「噛(か)む」、
「掻/書(か)く」、「借/仮(か)り」、「か(貸)す」、「輝(かがや/かかや)く」、
「掠(かす)る」
0208考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 10:31:45.680
「かぜ(風)」、「か+せ」と解釈するなら、「一時的に、または局所的に接触して
再び離れる」様態と「せ(≒Drang/dringen[独語])」を組み合わせていると考える
こともできる。歴史語源的に実際にそうでなかったとしても、そのように仮定
してイメージしてみることは、よく知らない外国語を理解しようとしている
ときでも、解釈の可能性を探るのに役立つのである。
0209考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 10:40:54.310
目の前にある表現の多様な解釈の可能性を探ることに役立たないような
指導の手法は、「論理国語」と呼ばれるべきではない。それが許される
としたなら、その場合、「論理」とは何を意味しているのだろうか?
0210考える名無しさん
垢版 |
2019/01/04(金) 11:28:17.720
Capii che, quando non aveva una risposta, Guglielmo se ne proponeva
molte e diversissime tra loro. Rimasi perplesso.
– Ma allora – ardii commentare – siete ancora lontano dalla soluzione… –
– Ci sono vicinissimo – disse Guglielmo – ma non so a quale –
– Quindi non avete una sola risposta alle vostre domande? –
– Adso, se l’avessi insegnerei teologia a Parigi –
– A Parigi hanno sempre la risposta vera? –
– Mai – disse Guglielmo – ma sono molto sicuri dei loro errori –
– E voi – dissi con infantile impertinenza – non commettete mai errori? –
– Spesso – rispose – ma invece di concepirne uno solo ne immagino molti,
così non divento schiavo di nessuno -.

IL NOME DELLA ROSA − Umberto Eco
0211学術
垢版 |
2019/01/04(金) 14:24:24.020
言葉が裂けて構えている。
0212学術
垢版 |
2019/01/04(金) 14:24:56.130
フィロソフィーと ポエジー の相性は時たま悪くない。
0213考える名無しさん
垢版 |
2019/01/06(日) 13:17:45.210
科学哲学や数学の哲学、(様相)論理の研究(分析哲学)とハイデガー研究の
相性も悪くないようですよ?というか、この場合、そもそも分析哲学と
現象学などのそれ以外の哲学の間に境界があると想定すべき理由はどこに
あるのでしょう?w

Il problema della verità: Heidegger vs Aristotele
https://books.google.co.jp/books?isbn=8834307151

Alessandro Giordani - 2001 - ‎Philosophy
I termini Zuhandenheit e Vorhandenheit indicano normalmente l'essere
a portata di mano e l'essere presente o pronto di qualcosa. Heidegger
gioca sul significato di questi termini e sui prefissi Zu e Vor per definire
due modalità d'essere in ...
0214考える名無しさん
垢版 |
2019/01/06(日) 13:58:47.470
私はこの著作自体を読んでいないし、著者も著作も知らないけれど、
こういう記述をどうやって検索して拾ってくるか、その手法は簡単で、
「IL NOME DELLA ROSA」を読んでいると、殺害された死体が発見
されて、なぜこれを凶器(殺害するための道具)として使ったのか...
という疑問が生じ、それに対して"Era a portata di mano."と答えて
いる場面が出てくる。日本語版を読んでいないので、どう訳されている
かは知らないけれど、普通に訳せば、「手頃にあったから」という
ことでしょう。すると直ちに、「これはハイデガーの"Zuhandenheit"
だな」と連想される。そこで"a portata di mano"&"Zuhandenheit"
で検索すると、探すまでもなくこういう記述がヒットすることになる。

自らのコモンセンスというのは、それがそれなりの妥当性を有するなら、
このように役に立つわけです。いくら「用具性」とか「手許にある在り方」
とかを、権威のある日本の哲学研究者によって認められた正式なハイデガー
用語として身に付けたところで、そんなものは、そのような用語法を
規範とする人々の書いた日本語論文を探すのにしか役立たない。
0215考える名無しさん
垢版 |
2019/01/07(月) 10:31:09.920
>>200
>意外に思われるかもしれないが、私は掛詞が好きではない。

これは不正確だったな。私は、「詩的だと思われる表現をしようとして
哲学や詩作において意図的に用いられる掛詞が好きではない」と言うべき
だっただろう。なぜなら、私は、掛詞ばかりからなるひと昔前の米国の
コメディが好きだった。掛詞という言語表現は、米国のコメディにおいても、
日本の古典においても、本来的に機転を利かせた相手に対する応答として
用いられる。その応答としての用法から切り離されてしまうと、掛詞
は「空転する」。
0216考える名無しさん
垢版 |
2019/01/07(月) 10:58:40.470
掛詞は本来的に、機転を利かせて相手を牽制する表現として用いられる。
掛詞を聞いた相手は、表向きの言葉が表すのとは別の心を自ら聞き取る
ように仕向けられる。
0217考える名無しさん
垢版 |
2019/01/07(月) 11:18:39.940
Guglielmo sostenne il suo sguardo: “Ne trasse abbaglio, appunto.
Parlavamo di una copia del trattato sull’idrofobia canina di Ayyub al Ruhawi,
libro mirabile di dottrina che voi certo conoscete per fama e che vi sarà
stato spesso di molta utilità… L’idrofobia, dice Ayyub, si riconosce per
venticinque segni evidenti…”

IL NOME DELLA ROSA − Umberto Eco
0218考える名無しさん
垢版 |
2019/01/07(月) 11:21:00.470
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドミニコ会

また神学の研究に励み、学者を多く輩出したドミニコ会は異端審問の審問官に
任命されることが多かったため、「ドミニコ会士 (Dominicanis)」をもじって
「主の犬 (Domini canis)」とも呼ばれた。この呼び名は反対者にとっては
畏怖と揶揄であり、ドミニコ会員たちにとっては誇りであった。
0220考える名無しさん
垢版 |
2019/01/07(月) 11:42:19.410
「薔薇の名前」+「恐水病」または「狂犬病」で検索しても1件もヒットしない

これがいわゆる「ポリコレ」というやつですかね
いや、私自身、別にドミニコ会を侮辱したいとか、そういう動機は
まったくないわけですが、作品の解説には必要でしょう
0221考える名無しさん
垢版 |
2019/01/07(月) 12:30:40.250
問題は、掛詞のようは表現がもたらす「笑い」が善であるか、悪であるか
ではないでしょう。真実を追求しようとするなら、おべっか笑を強要する
ことになるような上下関係において掛詞を用いるべきではなく、哲学が
自省を促すものであるとするなら、その言説において用いられる掛詞は
道化的な(/再帰的な)「笑ひ」をもたらさなければならない。
0222考える名無しさん
垢版 |
2019/01/07(月) 16:13:22.570
誤:掛詞のようは表現
正:掛詞のような表現

誤:おべっか笑
正:おべっか笑い
0223考える名無しさん
垢版 |
2019/01/10(木) 09:44:57.430
今までの慣行を惰性で繰り返すのではなく、新たな可能性を切り開いて、
今までとは異なる何かを身に付けようとするなら、手探りで手あたり次第に
手がかりをつかむ必要がある。そのために必要なのは、「ひま」では
なく、「あそび(="room for maneuver")」である。「あそび」が
なければ、自ら働くことすらできず、使われて消費されるだけの存在
となる。
0224考える名無しさん
垢版 |
2019/01/10(木) 09:50:48.900
学ぶことができる可能性を広く追求することと、入出力の効率を高めることの
間にはトレードオフの関係がある。だから、効率よく他人を使おうとする人々
は、学ぶことができる可能性を極端に狭く限定し、広く学ぶ機会を排除しようと
する。「広く学ぶ機会を提供する」という名目で多くの教科を学ぶことを
強制しようとすることも、「あそび(="room for maneuver")」を排除する
ための巧妙な手段として一般的に用いられる。
0225考える名無しさん
垢版 |
2019/01/10(木) 10:05:16.330
当たり前のことだが、鳥に幼少時から地面を走ることを強制するなら、
飛ぶ技能は低くなる。実のところ、学校の教育が、「広く学ばせる」
という一見学びの自由を尊重するような名目で意図的にやっている
のは、空を飛ぶ潜在的な能力の高い鳥に地面を走ることを強制して、
鳥の群れを管理することのより容易な鶏に品種改良することである。
0226考える名無しさん
垢版 |
2019/01/10(木) 10:18:08.280
活動における「あそび(="room for maneuver")」を徹底的に排除し、
「あそびのない活動」と「活動のないひま(暇)」に二分された世界
として生を管理する制度にうまく適応するように人々を訓化すること
こそが学校教育の真の目的である。
0227考える名無しさん
垢版 |
2019/01/10(木) 10:20:26.960
「あそびのない活動」を強制されることに不満を訴える人々には、
「活動のないひま」を強制し、「活動のないひま」を強制されることに
不満を訴える人々には、「あそびのない活動」を強制する。
これが管理の基本である。
0228考える名無しさん
垢版 |
2019/01/10(木) 12:41:28.730
「〜を学ぶことは無益だ」と煽る人々と、「いや、〜を学ぶことは役に立つので、
すべての人がそれを義務付けられるべきだ」と論じている人々は同じ穴の貉であり、
そのことを自覚したうえで意図的にそれぞれの役柄を演じている。
0229考える名無しさん
垢版 |
2019/01/10(木) 12:49:22.480
自ら学ぶ力を養うのに重要なのは、目の前に(vorhanden)あるものを多様に
手頃に(zuhanden)扱う能力を磨くことができる環境を整えることであって、
個別の特定の扱いを要求されるものを目の前に多くそろえて、扱いの効率の
高さを競わせることではない。
0230考える名無しさん
垢版 |
2019/01/10(木) 13:28:30.030
>>228
こういう演技による操作を仕掛けるのは本当に簡単なんだよ。
ほとんどの人はみな自分のやっていることの意義が十分に認められていない、
自分は不遇な境遇に置かれていると感じていて、自分が特権的な立場に
あるとは思っていない。それで、自分の利害の関係することで不当に
中傷を受けたなら、それに強く反発する意見を公に表明する人を
支持する気持ちになる。

実際、自分から見れば何も役に立つことをやっていない私利私欲で動いて
いるとしか思えない人々に日々、虐げられていると感じているわけだしね。
でも、そういう人々が本当はどういう動機で動いていて、何を目的と
しているのか、自分がよく理解できていない可能性もよく整理して
考えてみる必要がある。重要なのは、実際に何が行われて、どういう
効果が生じているのかを、「べき論」抜きに記述しようとしてみることだ。
0231考える名無しさん
垢版 |
2019/01/11(金) 10:19:52.570
一見、互いに似ているようで、その実、全く異なることを混同すべきではない。
それを身に付けることが大多数/すべての人々に役立つ何かが存在するとして、
「〜を学ぶことのできる機会がすべての人々に確保されるべきだ」と主張する
のと、「〜を学ぶことがすべての人々に義務付けられるべきだ」と主張する
のとでは、主張されている内容が全く違う。

このような一見、似通って見える主張の内容のすり替えは、常に意図的に、
巧妙に行われることに注意する必要がある。
0232考える名無しさん
垢版 |
2019/01/11(金) 10:30:52.880
学校教育は、活動における「あそび(="room for maneuver")」を削る
ことを制度的に暗黙の目的としている。「〜を学ぶことの義務化」は、
その目的を実現するための手段に過ぎず、義務化される「〜」が何で
あるか、そのような「〜」の数がいくつであるかは重要ではない。
入試改革も、そのための名目に過ぎない。だからこそ、「〜を学ぶ
ことの義務化」と逆行するような「推薦入学」などの、入学許可を
与える側の裁量権を無制限にするような改革も同時並行で進められる。
0234考える名無しさん
垢版 |
2019/01/13(日) 12:49:02.700
当たり前のことだが、人々がひまを求める場合、人々は、「〜することができるひま」
を求めているのであって、「何もすることがない状態」を求めているわけではない。
「何もせずに寝そべっているひま」を求める場合でさえ、「何もすることがない状態」
を求めているわけではなく、「『何もせずに気や心や体を休める』ことができるひま」
を求めている。実際、人々は「何もすることがない状態」におかれると、それに
耐えることができず、必ず「ひまつぶし」を見つけようとするのである。
0235考える名無しさん
垢版 |
2019/01/13(日) 13:00:13.930
人々を使う側の管理層にとって、人々を「つか(仕/使)へる」状態か、さもなければ
「何もすることがない」状態に置くことが理想なのである。「何もすることがない」
人々は、金銭的に余裕があれば「ひまつぶし」のために消費活動に励む。金銭的
に余裕がないなら、「何もすることがない」状態にある人々は、無為徒食(≒
"good for nothing")であるとして一般に蔑まれることになり、そのような状態
から抜け出そうとするなら、自ら「つか(仕/使)へる」状態にしてもらうこと、
仕事を与えてもらうことを希求するようになる。かくして、人々を管理して
仕事を与える側と、仕事を与えてもらう側の一方向的な贈与関係が確保される
ことになる。したがって、「経済原理」に照らして賃金と労働の等価交換が
成立しているという「建前」の下に、贈与に基づく上下関係が確立され、
維持される。
0236考える名無しさん
垢版 |
2019/01/13(日) 13:08:57.050
学校教育という人々の管理を円滑にするための装置が、世の中の仕組み
を理解できるように子供に教えてくれると思うのは幻想である。
0237学術
垢版 |
2019/01/13(日) 13:25:52.940
無私公平。使うとなると人間づくではね。使われる主体として使う方が義理にかなうだろう。
0238学術
垢版 |
2019/01/13(日) 13:30:28.250
学校教育では年次序列だから、全年代がうまく事を運びうまく坐陣移動することは不得手だ、学校じゃなく修道院僧院病院じゃない、全年代に向けて人員を絞った公務員庁舎施設のような管理塔を新機軸をうち立てるべきではないか。
0239考える名無しさん
垢版 |
2019/01/13(日) 19:12:07.450
>>1
聖書の言葉は神です。
0240考える名無しさん
垢版 |
2019/01/14(月) 08:51:57.140
>人々は「何もすることがない状態」におかれると、それに耐えることができず、
>必ず「ひまつぶし」を見つけようとするのである。

人はなぜ「ひまつぶし」をするのか?それは、「他にできることがない」状況に
置かれているからである。人は、「できることをする」ことによって自己を保って
いるので、「他にできることがない」状況に置かれれば、たとえそれが有用性の
ない単純な反復行為であるとしても、「できることがある」ことを模擬する
疑似体験を求めるのであり、「なにもできることがない」状況を回避しようと
するのだ。なぜなら、「なにもできることがない」状況を受け入れることは、
自己の死に身を任せることと同じだからである。
0241考える名無しさん
垢版 |
2019/01/14(月) 10:06:09.780
「ひまつぶし」は悪であり、排除されるべきだなどという原理主義を聞き入れる
必要はないだろう。「できることがない」と感じられるなら、たとえ疑似的に
でも「できる」ことを見つけて、「ひまつぶし」で気を紛らわせながら、徐々に
新たにできることを探ることが健全な心身の保ち方だろう。「できない」こと
は心に痛みを生じる。大切にしていたものが呼び戻し不可能に失われることが、
それを呼び戻すことが「できない」こととして心に大きな痛みを残すように。
「できない」ことにこだわりつづけること、その痛みの補償を求めつづける
ことが「我が身」をさいな(苛)むことになり、失われた自己への過剰な執着が
心身を自ら損なう悪循環につながる。
0242考える名無しさん
垢版 |
2019/01/14(月) 10:21:57.960
毎日、パチンコばかりして過ごす人々も存在するだろう。
パチンコ店経営が商売として成立している以上、パチンコの出玉は確率によって
管理されており、長期的には客は損しかしないはずである。
では、日々パチンコをすることに対してベーシック・インカムを支払い、
その代わりに出玉の多寡とは無関係に毎月、極めて低い金額で同額を
支給しつづけたとしたら、それでも人々はパチンコに通い続けるだろうか?
いくら支払い金額が低く抑えられていても、経済的な収支としては
プラスになるはずだが。
0243考える名無しさん
垢版 |
2019/01/14(月) 14:01:23.100
魂の抜けた身体は、身(み)ではなく、体(から・だ)である。
寝ている間に魂が勝手に抜けて、辺りをほっつき歩くという話は、
どこにでもあるが、魂の抜けた体(から・だ)は、既になきがら(亡骸/殻/空)
であるか、またはそのまま魂が戻らなければ、なきがら(亡骸/殻/空)と
なる危険な状態にある。

http://www.treccani.it/vocabolario/esanime/
eṡànime
eṡànime agg. [dal lat. exanĭmis, comp. di ex- e anĭma «anima, vita»].
– Senz’anima, senza vita, quindi morto, o svenuto; cadde e. al suolo;
si abbatté e. sulla poltrona; giaceva e.; fig., poet., solitario, deserto,
silenzioso, detto di luoghi: Su l’orlo d’e. abissi (Pascoli).
0244考える名無しさん
垢版 |
2019/01/14(月) 14:16:32.780
人々の用いる表現を的確に把握するためには、その表現が暗黙にどのような
モデルによってイメージされているのかを推測する必要がある。
0245考える名無しさん
垢版 |
2019/01/14(月) 17:27:00.150
私が哲学研究者の好んで使う「肉(にく)」という表現が好きではないのは、
まずなによりも、それが肉屋の店頭やスーパーに並べられている「肉」を
想起させるからであり、「にく」という表現がどう見ても「にこにこ」や
「和毛(にこげ)」などの「柔らかいこと」を表す、つまり、「soft tissue」
を表す表現であり、「死肉をあさる」という表現に見て取れるように、
生きているか死んでいるかに無関係であるからである。むろん、「身(み)」
も「刺身」や「切り身」のように明らかに生き物の一部を切り取ったもの
であることを表す表現として使われるものの、「刺身」や「切り身」の
場合でさえ、「活きのいい」ことが重要とされている。「血肉」として
「肉」は身体の一部とされ、「肉親」のような表現において、「身内」を
表すようにも用いられるが、「身/実(み)」と比べてその概念の一般性が
低いように感じられる。
0246考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 00:57:48.450
心と身の関係は、魂と肉体の関係とは異なる。
心と魂はまったく別の捉え方をされている。
そのことは、心を込めることと、魂を込めることがまるで別のことであり、
心奪われることが必ずしも悪いことではないのに対して、魂を奪われる
ことは必然的に悪いことであることを考えてみても分る。
魂は体を脱するものと信じられており、個別の体に縛られてはいない
ものの、いずれかの体を媒体として現れる「活動の個性」のようなもの
と考えられている。心は伝わるが、個体として魂は乗り移る。
「魂は体のない『個体』」として「魂のない体」と相補的なペアになっている。
多くの哲学的な議論において、心身問題は、意図的に、または意図せずに
魂と肉体の関係の問題と混同されている。
0247考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 01:01:28.420
言い換えると、肉体は、魂を宿していない限りにおいて、欠損状態にある
と考えられており、その一方で、魂は、肉体に宿っていない限りで、
さまよっていると考えられている。
0248考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 01:11:21.420
自称科学者が論じる心身問題というのは、大抵は、偽装された俗流の
「魂と肉体の関係」の問題である。
0249考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 03:27:43.500
魂などない
0250美魔女 ◆pFEO6hs5XI
垢版 |
2019/01/16(水) 04:49:53.920
言葉は存在の家です❗
0251考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:00:18.050
魂こそが個性のある真の「個体」であると考えられているので、
魂を失った肉体は、個性を失った「(魂の)な(亡/無)き・から(骸/殻/空)」
に過ぎず、魂を具現化していた材料(マテリアル)としての肉体は、
魂を失うことによってやがて、「個体」として区別することのできない
灰/塵/土くれに帰す。
0252考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:02:31.820
肉体を失った魂は、具現化するためには憑代を必要とする。
0253考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:09:24.400
>言葉は存在の家です❗

心は、その都度、表現に宿り、表現を介して伝わる心は個体としての
性質を有さない。
0254考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:18:59.080
魂や心について論じるのに重要なのは、それに照らして魂や心の概念が解釈
されるべき「理論」を確立することなどではなく、実際に魂や心がどのよう
に人々に感じられ、捉えられているのかを丁寧に記述することである。
その記述は当然、人々が感じる迷いも対象としなければならない、
というよりむしろ、迷いや戸惑いこそが記述され、表現される価値がある。
0255考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 10:26:29.460
心を落ち着ける
魂を鎮める
0256考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 12:41:02.310
アントニオ・タブッキによる小説、「供述によるとペレイラは ...」に
おける語り手として登場するペレイラは、キリスト教信者として死後の
魂の復活/救済は求めているが、死後の世界における肉体の復活は望んで
いない。魂についての理論として参照される教義がどのようなもの
であれ、その理論に心が従うとは限らないのだ。
0257考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:39:46.610
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B4%E6%AF%98%E9%9C%8A-107532
直毘霊(なおびのみたま)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
本居宣長 42歳のときの著。1巻。明和8 (1771) 年成稿。初め『古事記伝』
第1巻総説に収められたが,のち単行本として刊行 (1825) 。表題は,
直毘神のみたまにより,漢意 (からごころ) を祓い清めるの意。

百科事典マイペディアの解説
漢意(からごころ)を排し,日本の古代にあった〈惟神(かんながら)〉の道
を説く宣長の〈古道論〉の精髄が展開される。
0258考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:43:23.540
https://ja.wikipedia.org/wiki/直毘神

>穢れを払い、禍(まが)を直す神とする説がある。
>日本神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って
>黄泉の穢れを祓ったときに、その穢れから禍津日神が生まれた。
>この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。
0259考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 13:54:12.140
>>256-257
直毘神(なおびのかみ)の「なおび」とは何かと問ふなら、
直毘神は、「禍(まが)を直す」、つまり、曲がっているものを真っ直ぐに
するのだから、「なお・ぶ」という「真っ直ぐになる」ことを意味するように
用いられていた再帰形の動詞の名詞化だろうと推定することができる。
フランス語で表すなら、"se mettre droit"という意味での"se dresser"だろう。

したがって、この場合、心は、直毘神(なおびのかみ)の霊(みたま/御魂)に
導かれて「〈惟神(かんながら)〉の道」 を真っ直ぐに進むことが理想と
されていることになる。「惟神(かんながら」は、素直に解釈するなら
「かみ・ながら」であり、「ながら」は、英語に直訳するなら"along"
である。
0260考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 14:02:46.150
「禍(まが)を直す」直毘神(なおびのかみ)は、掛詞として用いられている
と考えることができる。「なおび」とは、「真っ直ぐになる」ことを意味
する再帰形の動詞としての「なお・ぶ」の名詞化であるとともに、真っ直ぐな
日の光、「直日」でもあるのだろう。その作用により、「禍(まが)」が
直されて、作物が真っ直ぐに成長する("se mettre droit")。
0261考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 21:55:12.760
https://ja.wikipedia.org/wiki/霊魂論
『霊魂論』(希: Περὶ Ψυχῆς (Perì Psychês) ペリ・プシューケース、
羅: De Anima デー・アニマー、英: On the Soul)とは、命、心、霊魂に
関するアリストテレスの著作である。 英語では「Of Life」(生命論)と
訳されることもある。日本語では今までラテン語をそのままカタカナにし
『デ・アニマ』としたり、あるいは『霊魂論』『心とは何か』
『魂について』等と訳されたことがある。

希: Περὶ は「〜について」という意味の語で、原題「Περὶ Ψυχῆς」は
直訳で「プシュケーについて」である。

https://en.wikipedia.org/wiki/On_the_Soul
Aristotle holds that the soul (psyche, ψυχή) is the form, or essence of
any living thing; it is not a distinct substance from the body that it is in.
It is the possession of a soul (of a specific kind) that makes an organism
an organism at all, and thus that the notion of a body without a soul,
or of a soul in the wrong kind of body, is simply unintelligible.
[...]
Some commentators[who?] have suggested that Aristotle's term soul
is better translated as life-force.
0262考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:03:34.710
アリストテレスの論じた"ψυχή"は、魂、霊魂、命、心などとさまざまに
訳されているが、日本語においては、魂/霊魂、命、心はそれぞれ異なるもの
として捉えられており、そのいずれとも合致しない。

日本語で考えた場合に"ψυχή"に最も近い表現は、その表現の形式から考えて
も、以前に指摘したとおり「いぶき(息吹)」だろうと思う。

https://en.wiktionary.org/wiki/ψυχή#Ancient_Greek
Etymology
From ψῡ́χω (psū́khō, “I blow”) +‎ -η (-ē),
but never had the meaning "breath", even in Homer.
0263考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:14:52.340
言葉による表現を反省することなしに哲学することなどできないのである。
0264考える名無しさん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:30:22.540
日本語の表現において、送り迎えをしたり、鎮めたり、調伏したりする
対象とならないものは「霊魂/魂」ではない。
0265考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 08:03:03.100
「それ」を一時的に失うことによって感覚/意識が失われ、「それ」を
決定的に失うことによって身体が「身(み)」から「体(から[骸/殻/空]・だ)」
に変わるので、ラテン語で"anima"と訳されて「霊魂/魂」と混同され、
身体の行為を可能にするために「命」を表すものと解釈され、人が「それ」
を「知性」としても備えているために、知性を伴う感覚として「心」とも
混同され、その語源において"ψυχή"≒「いぶき(息吹)」として指し示され
得る「もの」とは、日本語で何に相当するのかと問ふなら、それは、
「いぶき(息吹)」≒「生気」ということにならざるを得ないのではないか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/霊魂論
本書はアリストテレスによる自然哲学の研究の一部に属する著作であり、
プシュケー(命、心、魂)について研究したものである。アリストテレスは
プシュケーを生命を持つ有機的物体の現実性として扱う。ただしこの
プシュケーは肉体から分離するものではなく、身体と不可分の何か、
ある種の機能として考察している。
0266考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:25:53.920
学研全訳古語辞典

ますら−を 【益荒男・丈夫】

心身ともに人並みすぐれた強い男子。りっぱな男子。
出典万葉集 三九七三

「天離(あまざか)る(=枕詞(まくらことば))鄙(ひな)も治むる
ますらをや何かもの思(も)ふ」
[訳] 地方も治めるりっぱな男子が、どうしてもの思いにふけるのか。

上代では、武人や役人をさして用いることが多い。後には、単に「男」の
意で用いる。
0267考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:38:08.430
「ますらを」は、益荒男と当て字をされることによって、「ます(益)ら(荒)
+を(男)」と分解されるような印象を与えるが、その本来の用法から見て、
「『ま(真)・すら』+を」であり、「丈夫」という当て字の方がその意味を
よく反映している。「ま(真)・すら」の「すら」は、現代日本語の「すらすら」
という擬態語にもそのまま反映されるように、英語で表現するなら、
"without hinrance"だろう。つまり、「天離る鄙も治むるますらを」とは、
「中央の統治権力から離れた地方で権力を何の制約もなく発揮できている男」
であり、その権力をのびのびと支障なく発揮することができるのだ。
0268考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:48:10.980
むろん、ここで、「ま・すら+を」に対する「ます(益)ら(荒)+を(男)」という
当て字は、掛詞として機能している。制約がなく力を発揮することができること
によって「『ます(益)="more/increasingly"に』に荒々しくある」ことが可能
となる。
0269考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 10:03:42.800
>上代では、武人や役人をさして用いることが多い。後には、単に「男」の
意で用いる。<という事情は、本来は、身分の違いを指し示すように使われて
いたものの、後に単なる敬称として用いられ、失礼に当たらないように
成人男性を指し示すのに使われる、例えば、スペイン語の"señor"と比べて
みれば分りやすいだろう。
0271考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:06:52.890
>[訳] 地方も治めるりっぱな男子が、どうしてもの思いにふけるのか。

逆に振り返って、このような現代語訳を眺めるなら、その解釈にどのような
意図が働いているのかが理解できるはずである。まず、「天離(あまざか)る」
が、意味を解釈する必要のない決り文句である「枕詞」として「鄙(ひな)」
から切り離されて消去され、註釈において、「ますらを」が「武人や役人」
を指す名詞句として、「鄙を治むる」統治権力を行使する行為とは無関係に
「りっぱな男子」として一般化され、その「りっぱな男子」が「どうして
もの思いにふけるのか」と反語的に問われていることになるだろう。
すると、結局は、「りっぱな男子は、もの思いにふけるようなものではない」
という思想だけが抽出されて、解釈において理解されるべき歌の趣旨という
ことになるのではないか。そのような手続きにおいて「分析」されて導かれ
た歌の解釈は、歌を詠んだ心をどれだけ反映しているだろうか。また、
そのような「分析」による解釈を正当なもの/正解とすることは、だれに
とってどのように都合がいいのか。
0272考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:11:34.490
国語教育における表現の解釈に「いぶき(息吹)」は感じられるのか?
0273考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:17:17.580
表現の解釈に「いぶき(息吹)」の感じられないなら、古典の教育を義務化すべきか
否かを議論することにどのような意味があるのか。むろん、古典の教育の義務化
には意味があるが、それは人文学を大切にすることとは無関係である。
0274考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:19:14.100
誤:「いぶき(息吹)」の感じられないなら
正:「いぶき(息吹)」が感じられないなら
0275考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:19:16.760
言葉は吐き出せば吐き出すほど無力になる
それはこのスレですでに証明されている
0276考える名無しさん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:23:29.100
無いことの証明w
0278考える名無しさん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:15:52.450
「アリストテレスが、当時のギリシャで「"ψυχή"であるとされているもの」
についてどのように捉えていたか」を厳密に理解しようとすることには、
どのような意味があるのか?
0279ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/01/18(金) 10:32:20.430
日本語において「ね」は、「持続的に密着している様態」を表現するように
用いられる。このことは、「ね(練)る」、「ねば(粘)る」、「ねちねちと」
などの表現を見ればすぐに分り、また「根(ね)」が「地に持続的に密着し
ているもの」であり、「ね(寝)」が「体を持続的に地に着ける(ように
横たわる)」行為であることにも見て取れる。

では、「ねが(願)ふ」はどうだろうか。一見したところ、「ねが(願)ふ」
行為は、「持続的に密着している様態」とは何の関係もないように見える。
だが、本当に無関係なのだろうか。
0280ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/01/18(金) 11:07:03.740
「ねが(願)ふ」 は、以前から指摘しているとおり、「ねぎ(禰宜)」を名詞形
とする「ねぐ(≒"appease")」という動詞の再帰形であると推定することが
でき、その意味で「ねぎら(労)ふ」とも類縁関係にある。

では、「ねぎ(禰宜)(≒"appeasement")」とは具体的に何をする行為なのか
を問ふなら、まず何よりも、それは荒ぶる(またはそのような潜在性のある)
「みたま(御霊/魂)」を鎮(しず)めることだろう。鎮(しず)めるとは、現代的
な言い方をするなら「沈静化させる」と言い換えることもできるが、では、
その鎮(しず)められる「みたま(御霊/魂)」は、どのような「みたま(御霊/魂)」
であり、どこに坐していると考えられているのだろうか。古事記には、
異界として「根の国」が出てくるが、それが「黄泉の国」と同一であるか
どうかは不明であるものの、いずれも黄泉比良坂(よもつひらさか)を
入口とするものとされており、その関係がどうであれ、「根の国」も
「黄泉の国」も地(または海)の底にあるものと考えられてきた。
そのように考えると、「みたま(御霊/魂)」を鎮(しず)めるために
「ねぎ(禰宜)」をすることは、「みたま(御霊/魂)」が地(または海)の
底で安らっている状態を保つことを「ねが(願)ふ」ことではないか
という可能性も考えられ、あながち、「根(ね)」や「寝(ね)」とも
無関係であるとも言えず、結局は、「持続的に密着している様態」
に関係している可能性も見えてくる。

無論、これは、そのような解釈が確定的に正しいなどという主張ではなく、
そのように解釈できる可能性があるという指摘に過ぎない。
0281ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/01/18(金) 11:20:58.960
相撲(すもう)を奉納するとはどういうことなのか?
相撲(すもう)を表す古語が「すまひ」であるとすると、「すまひ」は、
一方で「住(す)まひ」に分化した「すま・ふ」という動詞の名詞化
ではないのか。「すま・ふ」は、「す(澄/住/済)む」という動詞の
再帰形であり、英語で表すなら「settle down」であり、「沈静化する」
ことである。相撲(すもう)を奉納するとは、地を力強く踏んで、荒ぶる
(またはそのような潜在性のある)「みたま(御霊/魂)」を「沈静化する」
ことではないのか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/相撲
>「すもう」の呼び方は、古代の「すまひ」が「すもう」に変化した。
0282考える名無しさん
垢版 |
2019/01/18(金) 11:29:52.590
国技館の便所の壁にこういう落書きがあったら面白いのになw
0283考える名無しさん
垢版 |
2019/01/18(金) 11:31:32.860
犯罪教唆ではありませんので、くれぐれも誤解のないようお願いいたします。
0284考える名無しさん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:42:57.750
これはいつからの慣習だろう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/神体
もともと大相撲は神へ奉納される神事であり、そのことから力士の最高位である
大関の中で特別に選ばれた者だけが神の神体であり、自身が生き神である証と
しての注連縄である横綱を張ることができる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b3/Futabayama_Sadaji.jpg
0285考える名無しさん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:52:39.210
「ゆゆし」という感覚の両義性、それが人と身体から遊離した魂の本来的な
関係の様態ではないのだろうか。身体から遊離した魂は、憑代に乗り移る
ことがあるが、それは暫定的な状態であって、安定状態ではないだろう。
0286考える名無しさん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:09:03.230
「しこ(四股)」は、以前から指摘しているとおり、「し(敷)く」や「し(如)く」
と語源的に同じであると推測することができ、「平定(≒"even"に)された状態」
を表しているものと考えることができる。そう考えると、横綱の身体が神の
みたま(御霊/魂)の憑代とされる相撲(すまひ≒"settling down")を奉納すること
の隠喩的意味を解釈することは容易であるように思われる。

https://kotobank.jp/word/四股-176942
百科事典マイペディアの解説
力士が土俵の上で片足を高くあげ,強く地を踏む所作。相撲稽古(けいこ)の
重要な一方法だが,他方で地を踏み鎮めるという宗教的意味をもつ。
日本各地の祭礼で行う民俗相撲では,力士の四股によって大地の邪悪な
霊を踏み鎮め,あるいは踏むことで春先の大地を目ざめさせて豊作を約束
させると伝えるものが多い。
0287考える名無しさん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:16:07.790
オナニーをしこる、というのは動物的な欲求から解き放たれて精神が平定(賢者化)するってことを現していたのか
0288考える名無しさん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:26:45.100
>>287
https://kotobank.jp/word/負け博打のしこり打ち-633912
>《「しこり打ち」は、熱中して打つこと》博打というものは、
>負ければ負けるほどますます熱中して打つものだ。

「しこる」は、「しこ・る」ではなく、「し・こる」だろうね。
「し(=〜することに)『こ(凝)る』」ことだろう。
0289考える名無しさん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:30:27.310
どうせなら、もう少し熟慮を要するような問ひを立ててくれないかな?
0290ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/01/19(土) 08:56:15.960
>>280
「子供をね(寝)かせつける」、「金を普通預金にね(寝)かせたままにしている」、
「ワインをね(寝)かす」といった表現において用いられる「ね(寝)・か・す」」
の「か」は、どこから来たのだろうか?
0291考える名無しさん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:16:44.960
ネコだらけなんだが?

(七代)大日本根子彦太瓊尊、 (八代)大日本根子彦国牽尊、(九代)稚日本根子彦大日日尊、
(二十二代)白髪武広国押稚日本根子天皇、(四十一代)大倭根子天之広野日女尊、
(四十三代)日本根子天津御代豊国成姫天皇、(四十四代)日本根子高端浄足姫天皇、
(五十代)日本根子皇統弥照尊、(五十一代)日本根子天推国高彦尊、
(五十三代)日本根子天高譲弥遠尊、(五十四代)日本根子天璽豊聡慧尊
0292考える名無しさん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:47:35.930
き(聞)く、き(聞)かせる、き(聞)こふ、き(聞)こへる、き(聞)こゆ、
き(聞)こしめ(召)す=き(聞)こす+め(召)す、
「き(聞)こ(≒heard)・す(≒let)」≒"let 〜 heard"
0293考える名無しさん
垢版 |
2019/01/22(火) 17:02:23.150
天つ神(アマテラス)と国つ神ですか?

「このようにゼウスが多数存在するということは文献学者にとって驚異の間とだったが、
わたしたちの原理によって解決される。なぜなら、すべての異教諸国民のもとでは、
天で雷鳴を轟かせる神性が存在すると等しく想像されていたからである。同時に、
これらの多数存在するゼウスは世界大洪水が起きたことを自然学的に確認し、
異教文明全体の共通の起源を確認する。ゼウスは不敬虔な巨人たちを文字どおり
《アッテラーレ(atterrare)する》、すなわち《地下に追いやる》のである。」
ヴィーコ、「新しい学の諸原理」、pp.124-125
0297考える名無しさん
垢版 |
2019/01/24(木) 17:18:03.470
ヴィーコの「新しい学の諸原理」なんかは、今であれ、昔であれ、「同時代的に
評価」したらトンデモにしかならないわけで、にもかかわらず、それが重要な
価値を帯びるのは、隔たりこそが気づかせてくれる認識の様態の類似性の
ためだ。
0298考える名無しさん
垢版 |
2019/01/25(金) 09:55:00.390
「命『からがら』」という表現がある。
「危うく命を失うところで、かろうじて」といった意味で用いられるが、
この「から」を重ねた「からがら」という表現には、日本語において
「か」が「一時的に、または局所的に触れて再び離れる」様態を表すように
用いられていることがよく見て取れる代表例のように思われる。

この「からがら」は、「から(辛)くも(命を失わずに)」と言い換えること
もできるが、その場合、「から(辛)くも」が味覚を表現する「から(辛)い」
と重なり、より頻繁に用いられる「から(辛)い」という表現のイメージを
解釈に反映させるような動機が暗黙に働き、「から(辛)くも」という様態
がなぜ「から(辛)い」味覚と関係しているのか少し不可解な感じが生じる
ことになる。しかし、表現の生成した論理的な順序を考えるなら、味覚を
表すように用いられる「から(辛)い」もまた、本来、「刺激の強いものに
『一時的に、または局所的に触れて(それを忌避して)再び離れる』」
様態を表す表現として用いられていたのだろうと私には思われる。
そのように見た場合、「から(辛)い」は、「かる(軽)い」という表現に
おいても見られる「か」によって表される同様のインデックス性を別様に
用いているだけであることになる。
0299考える名無しさん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:07:20.840
このようなことを指摘すると、同様に「か」で始まる「から(絡/搦)む」や
「から(絡/搦)げ」は、「一時的に、または局所的に触れて再び離れる」様態
どころか、「まといついて離れにくい/離れない様態を表しているではないか」
と思われるかもしれない。しかし、私は、「からむ」や「からげ」は、
「から(≒"contour")む」や「から(≒"contour")げ」を表しているのだろう
と思う。すると、その場合、「から」はやはり、「からだ(体)」、「から(殻)」、
、「柄(から)」、「から(空)」のように外表面(="outer surface")に関係する
表現であり、やはり、「一時的に、または局所的に触れて再び離れる」様態
としての「か」が表すインデックス性を利用したものだろうと思われるのである。
0300考える名無しさん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:17:49.950
ところで、
スペイン語の"cáscara"は、「殻」や「貝」など「外被」一般を表すのに
用いられ、日本語の表現の場合と音のイメージがぴったり重なっているのが
おもしろい。

wiktionaryで調べてみると、以下のように説明されている。
https://en.wiktionary.org/wiki/cá;scara
From Vulgar Latin reconstructed as *quassicāre (“to strike repeatedly”),
from Latin quassare (“to tremor; to cause to tremor by repeated strikes”) +
-icō (“indicating frequent or repetitive action”), from quatiō (“to shake”) +
-tō (“indicating frequent or repetitive action”). First applied to bark and
peels from the manner of their removal.
0301考える名無しさん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:41:15.060
>>285
>「ゆゆし」という感覚の両義性

「ゆゆし」とはどのような感覚なのだろうか。英語で考えた場合、
それを(禁忌の対象とされるものに触れることによって)
「leading to serious consequences」などと訳しても誤りでは
ないだろう。だが、そのように訳すことは解釈による「説明」
であって、「ゆゆし」という表現そのものを反映させようとする
ことではない。では、「ゆゆし」を英語に直訳すると、どうなる
のだろうか。私には、今のところ暫定的に「causing a state of
commotion」がそれなりに妥当なのではないかと思える。
0302考える名無しさん
垢版 |
2019/01/26(土) 08:22:23.100
https://kotobank.jp/word/word/から-467143
かれ【▽故】
[接]《代名詞「か」に動詞「あり」の已然形「あれ」の付いた「かあれ」
の音変化。「かあれば」の意から》
1 前述の事柄を受けて、当然の結果としてあとの事柄が起きることを表す。
ゆえに。だから。
「あづまはやと詔云(の)り給ひき。―、その国を号(なづ)けてあづまと謂(い)ふ」
〈記・中〉
2 段落などの初めにおいて、事柄を説き起こすことを表す。さて。それで。
「大国主神…并(あは)せて五つの名あり。―、此の大国主神の兄弟(あにおと)
八十神(やそがみ)坐(ま)しき」〈記・上〉
0303考える名無しさん
垢版 |
2019/01/26(土) 08:24:30.850
https://kotobank.jp/word/から-467143
から[格助・接助・準体助]
[補説]「から」は本来「故」の意の体言であったとみられ、
上代において助詞「が」「の」に付くのも、その要素が強いからという。
0304考える名無しさん
垢版 |
2019/01/26(土) 08:50:21.260
「か」がいわば「反射」を表すようなインデックス性において用いられている
のは、表現対象の様態が、「か」という音声が発音される様態と類似している
と感じられているからだろう。
0305考える名無しさん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:15:13.580
https://kotobank.jp/word/%E6%B2%96-451423
沖/澳(読み)オキ
デジタル大辞泉の解説
おき【沖/×澳】
1 海または湖などで、岸から遠く離れた所。「―に出る」
2 広々とした田畑や野原の遠い所。
ちゅう【沖】[漢字項目]
[常用漢字] [音]チュウ(漢) [訓]おき
〈チュウ〉まっすぐに高く上がる。「沖天」
〈おき〉「沖合・沖魚」
[補説]「冲」は異体字。
[名のり]なか・ふかし
0306考える名無しさん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:33:48.110
沖(おき)は、この表現が「岸から遠く離れた所」や「田畑や野原の遠い所」
を指していると解釈するなら、「『奥(おく)』に進んだところ」という
解釈が可能であり、実際、そのような解釈が暗黙に成立していたのだろう。
しかし、「田畑や野原の遠い所」など、広い場所の「『奥(おく)』に進ん
だところ」を「沖(おき)」と呼ぶことは一般的ではない。

その一方で、「沖(おき)」は、海や広い湖(規模の小さい池や沼などに対比
される)などの水域に関して一般に用いられるとともに、波や浜辺のイメージ
と結びついている。沖(おき)という表現のもう一つの可能な解釈が、
「沖(おき)」は、「燠(おき)」や「起(お)き」と語源的に共通していて、
英語で表すなら"arising"を表しているのではないか、という推測である。
何の"arising"を表しているのかと言えば、「なみ(波)の作用が起きること」
であり、その場合、波(なみ)は、「『並/無(な)み』する作用」であると
見ることができ、その作用が収まっている状態が「凪(なぎ)」であり
(風が吹かなくても波が高い状態は凪ではない)、「渚(なぎさ)」は、
「なぎ(≒"calming")+さ(≒"exposure")」を表しているという解釈が
可能であるように思われる。
0307考える名無しさん
垢版 |
2019/01/28(月) 08:38:27.180
まあ、寝ている間に思いついたことを書きつけただけで、注意深く検討
したわけではないのだが。
0308考える名無しさん
垢版 |
2019/01/29(火) 02:36:34.270
具体的であればあるほど、それは明晰で判り易い例で自己満足や
他人からの認知がしやすいはずだ。

だがそれは具体的であるほど何の役にもたたない。
0309考える名無しさん
垢版 |
2019/01/29(火) 08:02:30.170
>>306-307
この解釈が妥当であるにせよ、そうでないにせよ、なぜ睡眠中にいつも
このようなことを思いつくのかを考えてみると、というより、これも
睡眠中に思いついたことであるのだが、
睡眠とは、おそらく、認識の機能を低下させることによって、目が覚め
ている間の雑多な認識を表象("representation")として整理して互いに
辻褄合わせをするシミュレーションの活動であり、個別の身体の自律性
を保つために不可欠なのだろう。
0310考える名無しさん
垢版 |
2019/01/29(火) 08:18:19.080
だから、睡眠中に思いついたというのは、何も認識がないところから
考えが湧いてきたというようなことではなく、目が覚めている間に
得られた認識や知識をいろいろと流動的に組み合わせることを
試みて、辻褄が合うと感じられる連想を記憶に残すようにしている
ということなのだろう。
0311考える名無しさん
垢版 |
2019/01/30(水) 17:41:30.840
ため(貯/溜/溜)る≒《retenir》
ためらふ=ためる+あふ/ふ≒《se retenir》
0312考える名無しさん
垢版 |
2019/01/30(水) 17:58:18.740
少し前にTwitterで言及されているのを見かけて、小山修一という人の訳で
ニーチェの「黄金の星(ツァラトゥストラ)はこう語った」を読んでいるんだ
けど、原文の解釈の妥当性は別にして(私には、それをきちんと評価するような
ドイツ語能力はないので)、これだけ日本語が活かされている翻訳というのは
滅多に見ないね。ただ、訳注を見てもすぐに感じることだが、この訳者は、
哲学の人というより思想や詩作の人であり、ニーチェの思想を自らのもの
とするように果敢に訳している。哲学的に見れば問題があるとしても、
ニーチェ本人には最も気に入られるような果敢さではないかなと思う
(ただし、そのことこそが哲学的に見れば、躓きとなるだろう)。
0313考える名無しさん
垢版 |
2019/01/30(水) 19:45:22.670
>>311
たま(堪)らず≒《 ne pouvant se retenir》

「ためる」、「たまる」、「ためらふ」、「たへ」などの表現における
「た」には、いずれの場合にも「手(た)」が響いている。

"L'insoutenable legerete de l'etre (存在の耐えられない軽さ)"
「一握の砂」
0314考える名無しさん
垢版 |
2019/01/31(木) 10:19:04.620
>>312
思想や詩作の人として、ニーチェの思想を自らのものとするように果敢に訳し、
それが振舞いとしてはニーチェ本人の意向に沿うものであったとしても、
まさにそのことが哲学的な躓きとなるとはどういうことだろうか。

そのことは、「万人のための一書なれど 真に読み解く人なからむ」という
副題の解釈にもはっきりと表れているが、その典型的な具体例が「男性は
最も危険な玩具として、女性を求める」という訳文とその訳注である。
実は、この「玩具として」という表現は、この訳者にとって不本意なもの
であったのだが、以前の訳において躓きを指摘されて、その躓きを哲学的に
反省して踏み越える代わりに、ニーチェを思想的にニーチェに成り代わって
自らが弁明しようと努めてしまっていることが、同じ訳者による以前の
翻訳のAmazonレビューを見ると分る。レビューの指摘自体もまったく
哲学的な考察を欠いたものだが、訳者は躓きを認めざるを得ず、譲歩して
いるのであり、それによって「『自らのものとした』ニーチェの思想」との
関係を踏み越えるせっかくの機会を逸している。
0315考える名無しさん
垢版 |
2019/01/31(木) 10:38:34.240
以前の訳書において訳者が、当該の原文箇所において他の訳者が一様に
「玩具」と訳している「Spielzeug」を「勝負」と訳したことが、まるで
フェミニストに配慮したかのような臆病な訳に見えると指摘されている。

無論、ドイツ語の「Spielzeug」は一般に日本語の「玩具」に対応する
ように用いられるのだから、「...玩具として、女性を求める」と
訳すことは必ずしも誤訳とは言えない。しかし、それを「玩具」と
訳すことは、その前後の内容に照らしても、明らかにニーチェの表現の
意図を反映しておらず、「不適切」である。だからこそ、訳者は、
以前の訳において、訳語としては外れていることを承知の上で「勝負」
と訳したのではなかったのか。しかし、躓きを指摘されて、なぜ
「玩具」という訳が不適切であるのかを十分に哲学的に反省する
ことなく、譲歩と弁明という道を選択してしまったのである。
0316考える名無しさん
垢版 |
2019/01/31(木) 10:51:30.670
この文脈においてニーチェの用いた「Spielzeug」という表現を日本語の
「玩具」に置き換えることがなぜ不適切なのか。それは哲学的に考える
なら簡単なことである。ニーチェが表現しようとしているのは、「男性が
女性を『玩具=もてあそ(玩)ぶもの/おもちゃ』として求める」などという
ことではまったくない。「Spielzeug」を「玩具」で置き換えることを
何が不適切にしているかと言えば、まずなによりも、「玩」が「もて
あそぶ」という意味を担っていることであり、「もて・あそぶ」の
「もて」が、原文のニーチェの表現にはない様態で男性と女性の間の
関係性を規定してしまっているのである。
0317考える名無しさん
垢版 |
2019/01/31(木) 11:07:37.650
ニーチェは、「Spielzeug」を「遊び道具/仕掛け」と見なしているのであり、
そこに男性が女性を「『もの』として『もて・あそぶ』」などは含意されて
いない。男性は、女性を「遊びを可能にする道具/仕掛け」として求めると
表現しているのであり、その「道具/仕掛け」を介して遊ぶことによって
男性が競い合わされることを表現しているのである。
0318考える名無しさん
垢版 |
2019/01/31(木) 11:13:56.610
ニーチェは、女性から見て男性がどのようなものであるかを述べた後に、
男性から見て女性がどのようなものであるかを記述しているのであり、
男女の対比として表現されているのだから、そこに女性から見た視点を
導入すべきではない。
0319考える名無しさん
垢版 |
2019/01/31(木) 17:46:00.070
ニーチェがどんだけだめだったかを理解する
0320考える名無しさん
垢版 |
2019/02/01(金) 08:16:39.490
>>314-317
以前の訳書で「Spielzeug」に当てられていた「勝負」という表現は、たとえ
訳者が譲歩しないことを決めたとした場合でも、乗り越えられるべきもの
である。なぜなら、ここで重要なのは、「あそ(遊)び」の「勝敗」などでは
ないからである。そうではなく、「あそ(遊)び」という日本語の表現において
も聴き取ることができるとおり、「あ・そぶ=あ・そ(添)ふ」に重要なのは、
勝敗を決着することではなく、「き・そ(添)いあひ」をもたらすこと、
フランス語の表現を用いるなら《enjeu》を介した《surenchère》だからである。
詩歌のやりとりや曲を奏でることなどが「あそび=あ・そ(添)ひ」の代表と
されるのもまさにそのためである。
0321考える名無しさん
垢版 |
2019/02/01(金) 08:23:58.060
他の動物に喩えるなら、オスがメスを求めることによって求愛行動が
競ひ合ひによって高められるのであり、メスはその競ひ合ひ/あそび
をもたらす「あそびの仕掛け」である。
0323考える名無しさん
垢版 |
2019/02/01(金) 09:22:24.330
「勝負」への拘りがあそびを殺してしまうことがあるのは、
スポーツの試合などにおいてもよく見られることだろう。
0324考える名無しさん
垢版 |
2019/02/03(日) 09:53:16.180
「こた(答/応)・ふ」が「こ・た(手)・ふ」だったとすると、
「て(手)ごたへ」は、「て(手)・こ・た(手)・へ」であることになるw
0326考える名無しさん
垢版 |
2019/02/03(日) 10:03:14.940
「こた(堪)へる≒こ・た(手)・へ・る」ことと、「こた(答/応)へる≒
こ・た(手)・へ・る」ことを介して、「た(耐)へる」ことにも「た(手)」が
響いていることが聴き取られる。
0327考える名無しさん
垢版 |
2019/02/03(日) 10:35:16.720
言葉による表現が心に響くとき、その響きがいかに心に「じか(直)に感じら
れる」としても、それは絶えず張り巡らされる蜘蛛の巣のような仮設/説の
ネットワークを伝わる響きなのである。
0329ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/02/04(月) 08:06:05.360
「た」に便宜上、「手」という漢字を当てているが、日本語の表現において
多くの場合に「た」がまずなによりも表しているのは、「た・た・く」や
「た・た・む」のようにそうであると考え得るように「手があ『た』る様態」
なのだろう。そのように考えると、日本語の「た」は、印欧祖語の場合に
想定される「*tag」に類比される。
https://www.etymonline.com/word/*tag-?ref=etymonline_crossreference
*tag-
Proto-Indo-European root meaning "to touch, handle," with figurative
extensions ("border on; taste, partake of; strike, hit; affect, impress;
trick, cheat; mention, speak of").
0330考える名無しさん
垢版 |
2019/02/04(月) 08:28:48.730
異なる言語の間でこのような類似性が表現においてどのように現れているか
を意識することは、他者の言語を身に付ける効率を高めるのに具体的に
役立つだけでなく、自らの母語における表現の反省的な理解を深めるための
道標ともなる。
0332考える名無しさん
垢版 |
2019/02/04(月) 18:29:37.590
>>207で日本語の表現は、「か」という音を、「一時的に、または局所的に
接触して再び離れることを表すイメージとして使っている」ことが多いこと
を指摘した。同様に「た」は、「手があたる様態」を表すように頻繁に用い
られてきたと考えることができる。

すると、「た」と「か」を組み合わせた「たか(高)」は、ハイタッチのように
高いところを「一時的に、または局所的に手で触れて再び離れる」様態を表し
ていたのだろうか?このように問ふと、「なにを馬鹿な幼稚なことを」という
のが普通の反応である。「たけ(丈)」や「た(長)ける」という表現から考え
れば、「た(高/長)く」⇒「たか(高)」という関係が容易に類推され、動詞の
「たく」から「たか(高)・し/き」という表現が生じたと推定することもできる。
0333考える名無しさん
垢版 |
2019/02/04(月) 18:40:42.030
しかし、「たけ(丈)」や「た(長)ける」という表現や、「た(高/長)く」と
いう動詞自体を考えてみると、なぜ、「たけ」、「たける」、「たく」
と言うのか不明である。そんなものに理由はない、ただそう言うだけだ、
とするなら、それまでということになる。しかし、逆に動詞の「た・く」が
「た・か」から生じた可能性はないのだろうか?

そのように考えると、「手(た)」に明確に関連する表現として、
「たくしあげる」がすぐに思い浮かぶ。むろん、この場合の「たくし」の
「たく」は、「た(高/長)く」と同じ用法であるとは言えない。それでも、
類似性に注目することによって疑念が生じる。そのような疑念を流動的
に抱きつづけていると、ふとしたことで、総合的に整合性がとれる
ような解釈が生じることがある。その解釈が具体的に歴史的な資料に
よって裏付けられるかどうかは別として、そのようにぴったりとうまく
「はまる」解釈は、「た(手)く(組)み」な解釈であるという印象を
もたらすだろう。
0334考える名無しさん
垢版 |
2019/02/05(火) 08:00:17.780
「『たか』が〜が」というときの「『たか』が」は、「届いてせいぜい≒
"at most"」を意味しているのではないか?
0335考える名無しさん
垢版 |
2019/02/05(火) 08:12:11.340
そのように解釈した場合の「たか(高)」という表現は、高いところを
「一時的に、または局所的に手で触れて再び離れる」様態とよく
合致することになる。
0336考える名無しさん
垢版 |
2019/02/05(火) 08:19:41.980
「たくら(企)む」は、「た(手)・く(繰)り・あ(編)む」と解釈することができる
のだろうか?そのように解釈した場合、日本語の「たくら(企)む」は、
スペイン/ポルトガル語の"tramar"とよく似た表現であることになるだろう。

https://en.wiktionary.org/wiki/tramar
Verb
tramar (first-person singular present indicative tramo,
past participle tramado)
1. to weave
2. to plot
3. to frame (cause a person to appear guilty)
0338考える名無しさん
垢版 |
2019/02/05(火) 23:52:37.620
>>336
>「た(手)・く(繰)り・あ(編)む」と解釈することができるのだろうか?

これはちょっと無理があるな。多分、スペイン/ポルトガル語の"tramar"が
日本語の「たくら(企)む」にちょうど対応していることが意識されて、
"tramar"が「あ(編)む」を意味していることから、それを当てはめて解釈
しようという動機が暗黙に働いたのだろう。

「ふく(膨)らむ」を「ふくる+む」と解釈することができて、「む」が
"increasingly"に相当するようなニュアンスを担っていると考えるなら、
「たくら(企)む」は、「た(手)く(繰)る+む」ということになるように思える。
いずれにしろ、まだまだ流動的な思いつきにすぎず、そのうちまったく別の
解釈が思い浮かぶかもしれない。
0339考える名無しさん
垢版 |
2019/02/06(水) 09:22:14.600
な(凪/和)ぐ≒"calm down/become peaceful"
なご(和)む≒"become more calm/become more peaceful"
なぐさ(慰)む=なぐ・す+む≒"let 〜 become more calm/
let 〜 become more peaceful"
な(凪/和)ぐ⇒なご(和)⇔名護(なご)[地名]≒平安な状態
0340考える名無しさん
垢版 |
2019/02/06(水) 09:40:01.480
通説とはまったく異なる解釈を、単に勘に基づいて、無責任に言わせてもらうと、
おきなは(沖縄)が意味しているのは、従来、語源として提示されている
「沖の漁場」などではないだろうと思う。「おきなは」は、文字通り、
「おこり」の「なは」を表しているのではないかと感じられる。「おこり」
とは、「元となった」ということであり、「なは」は、「なる」の再帰形
である「(例えば、縄を)なふ」から派生している。「なは」≒"form together"
であり、地名の「なは」は、集落を指しているのではないか。すると、
「おきなは(沖縄)」≒「元の集落」、「なは(那覇)」≒「集落」、
「がなは(我那覇)」≒「小集落」という解釈がもたらされる。
0341考える名無しさん
垢版 |
2019/02/06(水) 09:52:47.270
誤:「なは」≒"form together" であり
正:「なは」≒"formed together" であり
0342考える名無しさん
垢版 |
2019/02/06(水) 11:27:56.260
「がなは(我那覇)」の「が(我)」は、「あびこ(我孫子)」の場合の「あ(我)」
と同様の統治の関係性を表している可能性も考えられるだろう。
0344考える名無しさん
垢版 |
2019/02/06(水) 12:06:52.910
言葉は矛盾も道理も
世界さえ覆す力をもっている

使い方を誤れば
牢屋にもあの世にも行ける
0345考える名無しさん
垢版 |
2019/02/07(木) 11:39:16.390
よなは(與/与那覇)、よなくにじま(与那国島)、よろんじま(与論島)など、
奄美・沖縄には「よ(與/与)」で始まる地名が沢山あるが、人を指す場合
の「あがつま(我妻)」が固有名ではないように、そのような「よ(與/与)」で
始まる地名も単に統治の所属関係の主張であって、固有名ではないの
だろうと思う。「倭国」でさえ、「我が国」という意味の表現が、その
まま相手側によって固有名として用いられただけだろう。
0346考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 08:19:29.310
「あそび」ことこそが創造性をもたらす。だからこそ、身分社会においては、
「あそび」は常に貴族の特権とされて、身分の低い者どもには「あそび」
は許されず、代わりに「ひま(暇)」と「(ひまつぶしとしての)娯楽」が与え
られるのである。このことは、統治の権力関係の正当化そのものと結びついて
おり、身分の低い者どもには、創造性はないのだから、身分の低い者ども
に存在する意義があるとすれば、それは、創造性を発揮する貴族に仕(つか)ふ
ことによってであるとされる。身分の低い者どもに仕(つか)ふか、無為に
ひまにしている、つまり、ひまつぶしをしているかの二者択一しか与えない
ことこそが、身分社会の階層性を正当化するための土台である。
0347考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 08:34:07.000
「こ(混)む」、「あ(編)む」、「く(汲)む」、「すす(進)む」、「つ(積)む」、
「ひる(怯)む」、「つるむ」、「よ(読)む」、「あゆ(歩)む」、「なづ(泥)む」
など、思い浮かぶままに「○む」という形態の動詞を列挙してみるだけで、
ある共通性が浮かびあがてくる。すでに、「なご(和)む」という表現に関して、
便宜上、なご(和)む≒"become more calm/become more peaceful"と
直訳して、「む」が英語の"more"や"increasingly" に相当するニュアンスを
担っていると指摘したが、より厳密に記述するなら、「○む」という動詞表現
において「む」が担っているのは、"cumulatively"というニュアンス、つまり、
「累加するように(○という様態の作用/効果がある)」ということである。
0348考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 08:44:22.450
さらに言えば、この「累加するように」という様態を表現するように用いられる
のは、「○む」という動詞における「む」に限定されず、動詞の語尾の活用を介し
て「ま」行全体に及び、さらに、「ま(増)す」という動詞に見られるように、
動詞の語尾としてだけでなく、ま行の発音自体がそのようなニュアンスで
頻繁に用いられる。
0349考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 09:13:08.480
ここで、「○む」という形態の動詞は、「『○』の部分によって表される様態の
作用/効果が累加的に働く」ことを表現しており、さらに、その「む」がま行
の活用として、そのように「累加的に働く」様態を表現していることを指摘した。
すると、日本語の理解のためにさらに重要なことが一般化により類推される
ことになる。それは、「○む」という形態の動詞にとどまらず、「○む」、
「○す」、「○ふ」、さらには「○く」や「○る」まで含めて、本来、
「○▲」という形態の動詞における「▲」は、「○」が「▲の様態で働く」
ことを表していたのではないか、つまり、「○▲」における「▲」は、本来、
副詞的に用いられていたのではないか、ということである。
「○む」において「む」が、英語で表現するなら、"cumulatively"を
表しているとするなら、「○す」の場合には、「す」という発音に関して
既に指摘したとおり、"without hindrance"であり、「○ふ」の場合には、
技術的な表現になってしまうものの、"recursively/reflexively"であること
になるだろう。「○く」に関しては、英語でうまく対応する表現が
ただちには思い浮かばないものの、日本語の「く」という発音からすぐに
想起されるとおり、「来(く)」という動詞と同じニュアンスを帯びている
のだろうと推定することができる。では、動詞として直ちに判別されなく
なった「○」の発音を再動詞化するためにも頻繁に用いられるように
なった「○る」の場合はどうであろうか。

ただちにすべてに関して性急に結論を出そうとするのではなく、以上の
すべての想定に関して、さらに綿密に検討することが必要だろう。
0350考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 09:15:41.710
>>348
「やま(山)」、「ぬま(沼)」、「つま(端)」などの名詞に関しても検討の価値が
あるのではないか。
0351考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 09:25:20.810
>>339 >>345
「名護(なご)市」の「なご」が、漢語の「平安」に相当すること、
「なご」(やまとことば)≒「平安」(漢語)であることを考慮するなら、
「米子(よなご)」という地名に関しても、ただちに「よな・ご」と分解して
解釈しようとするのではなく、「よ・なご」であった可能性も考えてみる
必要があるのではないかな。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca1963/25/1/25_1_20/_pdf
0352考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 09:29:06.230
中米・南米を征服したスペイン人が被征服民の神殿のあった場所に教会を
建てたように、服従させられた側の元の統治者が使っていた地名は、その
痕跡を残しながらも、上書きされる。
0353考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 09:45:42.070
>>346
「あそび」に憧れる「『あそび』のまねごと」が、消費されるべき
娯楽サービスとして庶民に提供される。
0354考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 10:03:09.220
>>349
「○ふ」の「ふ」を"frequentative"と記述することは、"frequentative"を
「反復相」という漢語によって理解しようとするなら、むしろ、混乱を招く。
むしろ、「ふ」が、語源的に見られた「frequent」の発音と類似している
ことに着目すべきだろう。
https://www.etymonline.com/word/frequent
0356考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 11:51:48.050
言葉の表現に用いられる発音は、人々が特定のイメージに合うようにそれを
使ふなら、いくら権威のある偉い学者先生が「そんなバカな」と言ったところで、
表現しようとするイメージに適合するように取捨選択されて用いられることに
なってしまうのだ。
0357考える名無しさん
垢版 |
2019/02/08(金) 11:53:48.710
ただし、自らが取捨選択しながら使っている発音を、どのようなイメージ
を表現するために用いているのかを明示的にメタ言語で説明する技能を
身に付けていはいない。
0360考える名無しさん
垢版 |
2019/02/09(土) 20:21:20.000
>>349
>「○く」に関しては、...「来(く)」という動詞と同じニュアンスを帯びている

「○く」という動詞における「く」が、「来(く)」と同じニュアンスを帯びている
という指摘は、「○く」≒「○来」であると主張することとは似て非なることである。
そのように主張したとすれば、「来(く)」のニュアンスを自明なものとして、
「○く」の「く」を「来(く)」に横ずらししただけということになり、その主張
の妥当性がどうであれ、民間語源説レベルの解釈にとどまることになるだろう。
0361考える名無しさん
垢版 |
2019/02/09(土) 20:34:21.880
「来(く)」という動詞のニュアンスとはどのようなものだろうか。
私には、「く」という発音は、日本語の表現における他の発音において
指摘したのと同様に、やはりかなりの頻度で共通するイメージを表現する
ように用いられていると感じられる。ただし、そのイメージは、まさに
「く」という発音の仕方そのものによって代表されるものであり、
他の言葉に置き換えるとそのイメージを伝えることが困難になる。
説明的に記述するなら、「く」が表してるイメージとは、「求心的に
閉まるような様態」であり、英語に置き換えるなら、"concentrically
constricting"とでも表現することになるだろう。日本語の表現としては、
「くく(括)る」という表現を考えてみると分りやすいかもしれない。
0362考える名無しさん
垢版 |
2019/02/09(土) 21:02:48.610
「くるくる」という擬態語は回転する様子を表すが、「繰(く)る」という
動詞の場合と共通して、「く」は、求心性を表現していると考えることが
できる。それを英語の"concentric"に言い換えてしまうと、単に「同心円状」
という静的なイメージになってしまう。「く」が表すイメージは、声紋が
閉じる感覚と結びついており、閉じることにおいて中心に向かうのである。
例えば、作用が累加的に発揮される様態を表していると指摘した「○む」
という表現と組み合わせると、「くる+む」という表現がもたらされる。

その他、「く」の求心(/芯)性のイメージは、「くろ(黒)」、「く(食)ふ」、
「く(組)む」、「くき(茎)」、さらには「くも(蜘蛛)[の巣]」にも共通して
いるのではないかと私には感じられる。

「来(く)」という動詞のニュアンス自体、「視点の中心とされる場所に
来ることによって行為が閉じる」ことであると理解することができ、
「○く」が自動詞として用いられることも、「『○』という様態の作用/動作
が求心的な様態で働く」ことを表すことによってではないだろうか。
0363考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 00:41:38.780
く(刳)り(抜)く
く(刳)る

https://kotobank.jp/word/刳る-486370
刳る(読み)クル
デジタル大辞泉の解説
[動ラ五(四)]道具を使って、物の内部や内側に穴をあける。
えぐる。くりぬく。「―・って仕上げた木工容器」「襟を大きく―・ったドレス」
0365考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 08:46:16.110
このような議論に対して、言語学者なども含め、大抵の人は、「来(く)る」
と「繰(く)る」は、偶々、同じ発音を用いているだけで、無関係であると
考える。これは目の前に(vorhanden)ある事物に対する判断の仕方として
は正しい。やたらに事物が互いに関係しているように見えると、混乱が
生じるからである。

ところで、「ページを繰(く)る」を英語で表現すれば、"turn a page"
だろう。すると、「繰(く)る」は、英語の"turn"に対応していることに
なる。では、日本語の「戻って来(く)る」に対応する英語の"return"は、
"turn"と無関係だろうか。もしそのようなことを主張したとすれば、
今度は、"re-turn"の"turn"と"turn"は目の前に(vorhanden)あるもの
として全く同じなのだから、そのような主張はナンセンスであると
たちどころに判断されるだろう。

無論、「繰(く)る」と「来(く)」の関係(それがあるとすればの話では
あるが)は、"turn"と"return"の関係と平行ではない。"return"は、
回転における向きを変えること、転向することにおいて再帰を表して
いる。ふたたび、「『こちら』に向きを変える」のである。私が
示唆しているのは、「繰(く)る」と「来(く)」が、回転によって
ではなく、「く」によって表現される「求心性」のイメージにおいて
共通しているのではないかということである。
0366考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:13:10.630
一般に、学者を含め、人々は、言葉の表現の説明を求められると、
それを目の前に(vorhanden)ある別の表現によって置き換えようとする。
しかし、言葉を用いることは、本来的に発音によって表現されるインデックス性
を手頃に(zuhanden)に自在に使おうとすることと切り離せないのである。
そこで、言葉の表現を単に普通に別の言葉に置き換えて説明しようと
した場合に何が生じるかと言えば、「よく分らない表現を、既によく分って
いる表現に単に置き換える」ことや、「よく分らない表現を、別の遠く
離れたところにその起源を求めて、説明の代わりとする」ことなどの、
「説明の横ずらし」である。いずれにしても、手頃に(zuhanden)に自在に
使われているものが、目の前に(vorhanden)あるものに置き換えられる
ことによって、それを学術的な「厳密な定義」と呼んだところで、
生きた表現の解釈は損なわれることになる。
0367考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:23:29.360
「く」という発音によって表現される「求心性」のイメージは、英語に
するなら、"introverted"と表現することができるかもしれない。
0369考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:58:30.670
事象の解釈において、試行錯誤を通して現れてくるものがどのように
感じられ、どのように捉え得るかを丁寧に記述しようとすることの
価値を否定して、明確な定義から敷衍した論証にしか妥当性を認めない
というのは、目の前に(vorhanden)あるとされる以外の存在の様態を
あらかじめ排除することであり、いくら学問的な厳密さを装ったところで、
結局のところ、言葉の表現の解釈の場合であれ、分らない表現を、
よく使われる既に分っている表現によって安易に置き換えようとする、
民間語源説の手法と似たようなものである。
0370考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:01:44.180
誤:言葉の表現の解釈の場合であれ
正:言葉の表現の解釈の場合であれば
0371考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:03:10.760
試行錯誤を潰そうとするのは、従属だけを求めているからに他ならない
0372考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:09:58.330
統治する側が「資料」を管理し、資料へのアクセスの便宜をコントロールする
環境において、新たに公開された資料の調査によって論証を裏付ける「発見」
をするという学問の形態がどのような意味をもつのか、そのような「資料」を
研究する人々は自覚的であるべきだろう。
0373考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 17:30:56.530
く(食)ふ ⇒ eat
く(焼)べる ⇒ feed
くば(配)る ⇒ distribute
0374考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 19:53:42.070
>>361
「く」の発音が表現しているものと想定した"concentrically constricting"
という様態は、「くび(首)」や「くび(縊)れ」という表現にもはっきりと
現れているのではないか。また、そのように考えた場合、「くび(首)」は、
「く(食)ふ」と同様に「く」の再帰的な用法の、ただし、「く(食)ふ」
とは別方向に分岐した動詞の名詞化ではないのか。
0375考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:31:07.510
疑念をそのまま疑念として明示化していくことなしには、試行錯誤は進まない。
どの程度、確信を抱いているかとは別問題である。
0376考える名無しさん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:22:46.630
試行錯誤の結果として得られた「成果」だけを、きれいに整理して正当化するように
提示しようとすることは、努力の結果として得られた「成果」を守るために、
正当性を裏付ける証拠ばかりを強調する意識が働き、試行錯誤を滞りなく進める
ことを妨げるのである。そして、哲学や人文学にとって真に重要なのは、
試行錯誤を滞りなく進めることの方であって、科学技術の場合のように手続き
を機械化/自動化して応用することではない。
0377ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/02/11(月) 09:40:15.660
ところで、「栗(クリ)」は、毬(いが)から「クリ」が「『クリ(刳)』り抜かれる」
から「クリ」と呼ばれるのだろうか?

ps://kotobank.jp/word/毬栗-430904
いが‐ぐり【×毬×栗】
1 いがに包まれているままの栗。《季 秋》
「―の蓑(みの)にとどまる嵐かな/白雄」
0378ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/02/11(月) 10:06:09.000
ハイデガー流に言うなら、
「栗(クリ)」が目の前に(vorhanden)に存在するのか、それとも
「栗(クリ)」が手頃に(zuhanden)に存在するのか、という解釈の違いですね。
0380ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/02/11(月) 10:16:38.920
グロテスクな表現ですみません。
でも、そういう生々しさが感じられなくなっていることが、
目の前に(vorhanden)ある存在者ばかりに囲まれて
"Das Man"として、あたかも既に死んでいるかのように生きていることではないのか?
0381考える名無しさん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:22:19.990
表現に「生気」(アリストテレスであれば、"Ψυχή"と言ったでしょう)が
感じられる状態を取り戻すようにすること、それこそが、哲学や人文学が
担うべき本来の役割でしょう。
0382考える名無しさん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:43:48.100
 
            .;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
          .;;;;彡彡ミミ;;;
          .;;;;彡彡ミミ;;;
          ;;;;彡彡ミミミ;;;
          ;;;;彡彡ミミミ;;;
          ;;;;;;彡彡ミミミ;;;;;
         ;;;;彡ミ彡ミミミミ;;;
        ;;;彡ミ彡;;人;;;ミ彡ミ;;;
        ;;;彡ミ彡ノ ヽ;ミ彡ミ;;;
        ;;;彡ミ;;;;ノ.人 ヽ;彡ミ;;;
        ;;;彡ミ;;;ノ | ..| ;ヽ彡ミ;;;
        ;;;彡ミ;;ノ .| | ヽ彡ミ;;;
        ;;;彡ミ;ヽ |.・.| /彡ミ;;;
        ;;;彡ミ;;ヽ|  .| /;;彡ミ;;;
        .;;;;;;;ミ;;;ヽ|( )|./ミ彡;;;;
         ..;;;彡;;;;ヽ| .|/;;;ミ;;;
          ..;;;;.彡;|.|;;ミ;;;;;....
          ;;;;;彡;彡|;;ミミミ;;;;
          ;;彡彡彡*ミミミミ;;
           ;;;;彡彡ミミミ;;;
            ;;彡彡ミミ;;;
 
0383考える名無しさん
垢版 |
2019/02/12(火) 03:36:36.850
まあ人生なんて浮かれているのは幻みたいなもんで、本当は何一つ良いことなんかないんかもしれん。
それでも生きていれば何かが見えてくることもあるかもしれん。
0384考える名無しさん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:24:39.000
日本の問題は、今俺がアイスクリームを食べたいということ。
0386考える名無しさん
垢版 |
2019/02/13(水) 22:25:53.730
よ(除)く⇒よこ(横)
し(敷/如)く⇒しこ(四股)
む(向)く⇒むこ(婿)
た(長)く⇒たこ(凧)
ね(禰)ぐ⇒ねこ(猫)
などの関係は既に指摘した。

同様に、
あ(当)つ⇒あと(跡/後)
だろうと思う。
「あ(当)つ」≒"drücken"(独語)と考えるなら、「あと(跡)」≒"Abdruck"
であるが、「あと(跡/後)」≒"gedrückt"でもある。
0388考える名無しさん
垢版 |
2019/02/13(水) 22:39:46.190
さらに応用してみよう。

「あ(当)つ」≒"drücken(独語)/press(英語)"という動詞を、
>>347-349で、本来は、「累加するように(○という様態の作用/効果がある)」
ことを表すように副詞的に用いられていたのだろうと推測した「○む」の
○に当てはめてみることにする。すると、「あつむ」という表現が生じる。

「(あつ)む」≒「累加するように("drücken/press"という様態の作用/効果が
ある)」という解釈が生じる。「あつ(集)む」≒「press/put together」である。
0389考える名無しさん
垢版 |
2019/02/13(水) 22:42:04.700
私はなにも、日本語の表現をこのように考えることを規範化すべきだなどと
主張したいわけではない。そうではなく、そのような暗黙の推論が日本語の
表現行為において働いているだろうと指摘しているだけのことだ。それを
意識すること、つまり、自らの言語行為を反省することは、日本語で哲学
をするのに役立つ。
0390考える名無しさん
垢版 |
2019/02/13(水) 23:00:49.510
岡田光玉
0391考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 01:04:16.910
>>389
規範化すべきではないというのは、例えば、「あつ(集)む」という表現は、
指摘したとおり、「あつ・む」であるという推測も、そうではなく、
「あ・(つ・む)」であるという推論も成立する可能性があるからです。
同様のことが多くの表現に関して当てはまり、いずれの解釈が暗黙に
働いているのかは、表現の用法から推測する他なく、複数の異なる
解釈は必ずしも排他的ではなく、意図的な掛詞ではなくても、騙し絵
のように二重に働いたりすることもある。その不確かさを人々が
暗黙に多様に利用する以上、いずれかの解釈を規範的に確定しようとする
ことは、表現の理解を妨げることになる。
0392考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 09:13:13.750
https://kotobank.jp/word/厚い-425415
あつ・い【厚い/▽篤い】
[形][文]あつ・し[ク]
1 (厚い)物の両方の面の隔たりが大きい。厚みがある。
「―・い板」「―・い雲におおわれる」「野球ファンの層が―・い」⇔薄い。
2 心入れの程度が大きい。いたわりの心が強い。「―・いもてなし」
「情に―・い」「信仰に―・い」
3 (篤い)病気が重い。容体が悪い。「師の病の―・いことを知った」
4 (厚い)囲碁で、石の配置が堅固で容易に攻略されないさま。⇔薄い。
5 富んでいる。金持ちだ。
「至って―・き御身上の御方はいかが侍らん」〈仮・東海道名所記・六〉
6 厚かましい。
「鼻もうごかさず、さりとは―・い口上」〈浮・曲三味線・一〉
[派生]あつさ[名]あつみ[名]
0393考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 09:24:42.590
現代の日本語では、「病気が重くなってゆき」と表現されるところで、
源氏物語に見られる古語では、単に「あつしくなりゆき」と表現されている。
この「あつ(篤)しくなる」の「あつ(篤)し」とは、どのような意味合いを
表現しているのだろうか。「あつし」というのは、「重篤である」こと
であり、「重い」ことであるなどとするのは、単に表現を隣接する別の
表現に「横ずらし」にしているだけで、説明になっていない。なぜなら、
「篤し」と「厚し」は、使われる文脈により、別の漢字が当てはめられ
ているものの、同じ意味合いを共有する「あつし」の応用であると認識
されており、「厚し」は、「重い(様態である)」ことを表現していない
(表現として隣接しているとしても)からである。

https://kobun.weblio.jp/content/篤し
源氏物語 桐壺
「恨みを負ふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき」
[訳] (桐壺更衣(きりつぼのこうい)はほかの女御(にようご)や更衣たちの)
恨みを受けることが積み重なった結果であったのだろうか、
ひどく病気が重くなってゆき。
0394考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 09:54:27.960
その一方で、「篤(あつ)し」/「厚(あつ)し」で入れ代り可能であると考えた
場合、「いとあつしくなりゆき」は、「(病が)ひどく『厚く』なってゆき」
という意味合いを表していることになり、やはり、なにか捉えにくい奇妙さ
を感じる。さらに、「志のあつ(篤)い人」という表現にも、「あつし」が
用いられているわけだが、「こころざし(志)」が「あつ(篤)い」ことと、
「やま(病)ひ」が「あつ(篤)い」ことと、「壁」などが「あつ(厚)い」こと
は、現代の日本語の感覚では、別々であるように感じられ、何が共通して
いるのか、分りにくい印象を受ける。

しかし、私の考えるところでは、その答えは、既に>>386および>>388
既に出ている。それは、「あつ(篤/厚)」≒"Druck(独語)/pressing(英語)"
≒「あ(当つ)/あつ(圧)」である。つまり、「あつ(篤/厚)し」とは、
「"pressing(圧し当たって離れない様態)"を生じる」ことを表していると
解釈することができる。
0395考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 10:04:07.410
>「あつ(篤/厚)」≒"Druck(独語)/pressing(英語)"
≒「あ(当つ)/あつ(圧)」である。つまり、「あつ(篤/厚)し」とは、
「"pressing(圧し当たって離れない様態)"を生じる」ことを表している<

ここからさらに興味深い推論が導かれる。それは、日本語における表現の
階層性である。「あつ(篤/厚)い」と「あつ(暑/熱)い」は、音は重なる
ものの、イントネーションも異なり、それぞれ、まったく別々の意味を
表すように用いられている。では、この2つは無関係なのか、というと、
そうではない「可能性」が十分に視野に入ってくる。なぜなら、
「あつ(暑/熱)い」とは反対の意味で用いられる「さむ(寒)い」の
「さむ(寒)」は、既に説明した「○む」という形態をとっており、
「さ・む」における「さ」が表現している作用/動作の様態は、
「さ(寂)び」、「さ(去)る」、「さら(晒)す」などの表現に現れる
「さ」と共通であると推測することができるからだ。
0396考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 10:15:33.410
現代の日本語で「あつ(暑)苦しい」という表現があるが、この場合の「あつ(暑)」
が、「"pressing(圧し当たって離れない様態)"を生じる」ことを表していると
する解釈は十分に可能ではないかと思う。「さむ(寒)」の「さ」が、「さ(寂)び」、
「さ(去)る」、「さら(晒)す」の「さ」と共通していると考えると、「さ」は、
(何かが)「取り『さ(去)』られる」作用/動作や、「『さ』ら(晒)される」作用/
動作の様態を表現しており、

「取り去られた/晒された様態」⇒「さむ(寒)い」
「圧し当たって離れない様態」⇒「あつ(暑/熱)」
というきれいな対比が現れる。すると、さらに、「あつ(暑/熱)い」という表現
は、「あつ(篤/厚)し」がもともと表現していた「圧し当たって離れない様態」
を表す表現から派生して、先に「あつ(暑)い」が生じ、次に「あつ(熱)い」に
発展したのだろうという推測が成立する。
0397考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 10:24:06.350
>>388
>「あつ(集)む」≒「press/put together」である。

すると、「厚(あつ)み」は、"pressed/put together-ness"だな。
0398考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 10:32:16.950
>>396
「あつ(暑/熱)い」がそのように解釈されると、今度は、従来、古典研究者に
よってほとんどの場合、「浮気である」とか、現代の日本語の意味において
「好色」であると解釈されている「すきずきし」という表現の意味もまったく
別の様相で見えてくる(「すきずきし」が古典の文学そのものテキストに
おいて「好色」であると言い換えられることが多いが、その「好色」の
理解そのものが問題だろう)。このことについては、また時間のあるときに
書き込む。

言葉の表現はネットワークを構成しているので、一部の解釈の変更は、
広範囲に影響を及ぼす。
0399考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 11:43:40.860
>それは、「あつ(篤/厚)」≒"Druck(独語)/pressing(英語)"≒
>「あ(当つ)/あつ(圧)」である。

このように考えた場合の「あつ」が、英語の"apply"に対応し得ることは、
「当てる」が普通に"apply"と訳され、"application"が「熱心さ/勤勉さ」
を表すように用いられることを見れば、すぐに分る。
0400考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 11:52:20.970
物事の捉え方は、既に何度も指摘してきたとおり、しばしば、言語の境界を越えて
互いにとてもよく似ている。「すきずきし」という表現の場合も実は事情は
同様ではないのかと疑っている。ただし、この場合、問題は、この表現の
日本語における解釈と、他者の言語(ラテン語系の言語および英語/ドイツ語)
における対応すると考えれる表現の解釈の両方において偏りが生じているの
ではないかという疑念と取り組む必要があることである。
0401考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 15:30:26.680
めんどくさいけど付き合っていかなあかんにゃなあ。やれやれ。
0402考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 17:03:51.380
便所の落書きに付き合う必要はないでしょ。
それを目にすることを誰かに強制されているわけではないんだし。
0403考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 19:49:01.150
たとえ見ることを強制される立場にあるとしても、それは自業自得か
因果応報というもので、私の知ったことではないw
0404考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 20:09:41.940
言葉の表現の意味のネットワークは、表現がどのように使われるかに応じて
常に揺らぎ、変化している。現状における言葉の表現の理解をそのまま過去
にも適用して解釈してしまうと、過去の意味の布置に現在のものを無自覚に
置き換える時代錯誤が自ずと生じ、その解釈を現在の意味の理解に基づいて
正当化しようとすると、歴史修正主義となる。本当の意味での歴史修正主義
は、意図的な改竄によって生じるのではない。現状の理解による無自覚な
正当化によって生じるのである。
0405考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 20:24:54.460
俺はやることはやるよ。どんなに風当たりがきつくてもな。
今の世の中、何かをやったつもりになってる奴ばっかりだ。
0406考える名無しさん
垢版 |
2019/02/14(木) 22:05:48.480
私には何かを成し遂げようなんて気はないんですよ。
徒然に思い浮かんだことを書きつけるだけ。書きつけることによって
自分の思考がどのように働いているのか観察することができる。
問題を考えるという意識はなくて、単に思いつく。
それも寝ている間に思いつくことがほとんど。
自然な思考の流れそのものが辻褄合わせを求めている。
0407考える名無しさん
垢版 |
2019/02/15(金) 09:02:06.280
俺の思うがままwそろそろ終わりが見えてきたな。やってられへんわ。,.
0408考える名無しさん
垢版 |
2019/02/15(金) 11:28:54.560
生きることそのものが辻褄合わせだろう。腹が減ったら飯を食う。
辻褄合わせができなくなると、生命を担う個体を維持することができない。
それで別の個体が生命を担うように辻褄合わせしようとするのが生殖活動ではないのか。
0409考える名無しさん
垢版 |
2019/02/15(金) 11:31:01.790
>やってられへんわ。

なにをやっているの?公衆便所の壁の監視か?
公衆便所の壁監視員という職業
0410考える名無しさん
垢版 |
2019/02/15(金) 12:21:01.680
言葉のイメージには階層性があり、その階層性が表現行為において利用されている。
「あ」の発音、「た」の発音が常に特定のイメージを表現していて、そのイメージ
を当てはめれば言葉の表現を理解できるなどと考えることは確かに愚かだ。
だが、「あ」が「不特定に離れている様態」を表すように用いられ、「た」が
「(特に手が)接触する様態」を表すように用いられる事例が頻繁に見られること
も否定のしようがないだろう。実際、「あた」は、「当(あた)」として、
英語の"hit"や"correspond"に対応するように用いられる。

「た」が「(特に手が)接触する様態」様態を表すとすれば、「つ」は、
その接触する様態が持続的である様態を表すように用いられ、その
ことは、「つ(付)く」や「つづ(続)く」という表現によって代表される。
そこで、「あた」の「た」を「つ」に変化させると、「あつ」に
なり、「あた」⇒「あつ」によって、英語で表現するなら、
"hit”⇒"press"のようなイメージの変化が生じる。その"press"の
イメージに対応するような「あつ」が、「あつ(集)む」、「あつ(厚)み」
(集成材やページを集めた本の厚みをイメージしてみるといい)、
「圧迫感」としての病の「篤しき」こと、志が「篤い」こと、
壁が「厚い」ことの表現において利用され、さらに、そのように
付いて離れないことから換喩的に「暑い」を表すように利用され
(「あたたか」と「あつい」における「た」と「つ」の対比にも
留意すべきだろう)、それが「熱い」を表すように発展して利用
されていると考えられることは、上に見たとおりである。

これは必ずしも、そのようひ表現が発展してきたという語源的な再構成の
モデルを提示しようとしているわけではなく、言葉の表現において
用いられている発音のイメージが相互的に調整されて用いられることに
よって、そのような階層的なネットワークが暗黙に仮説/設的に人々に
よって用いられていると考えられるという指摘である。
0414考える名無しさん
垢版 |
2019/02/15(金) 19:24:42.840
お前は無力であるの間違い
0416考える名無しさん
垢版 |
2019/02/15(金) 22:14:05.790
>>398
なかなか書き込む気にもならないが、「すきずきし」を、現代の日本語の
用法における意味で「好色だ」、「浮気だ」などと解釈することは、
「数寄者」とは、「助兵衛/スケベ」であるという意味であると主張する
ようなものだ。古典文学を解釈する専門家が、平然とそのような解釈
を模範として提示して、それをまともに批判する人間が皆無に等しく、
国語教育がそのような読み方を教え込もうとするのは、驚くべきこと
ではないだろうか。
0417考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 08:37:00.230
コモンセンスを追求するとは、表現における捉え方の共通性を探ることである。
0418考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 09:14:01.870
「すきずきし」について書き込もうと思いながらも、なかなか書き込む気に
ならないのは、問いかけ方を誤ると、容易に民間語源説的に偏った解釈を
強調してしまうことになるからだ。「すきずきし」という表現は、「すき」
を重ねたものであり、この「すき」が一面において現代の日本語の「すき」
と意味合いを共有していることは疑う余地がない。だが、「すき」とは
どのようなことであるかを別の言葉で説明しようとすると直ちに、不用意
に意味を限定しようとしている印象を生じることになる。「すき」は、
「す・く」という動詞から派生して、既にそのイメージを説明した「す」
の発音を用いており、「す」の発音のイメージを多様に利用して多義的な
表現として用いられている。同様に、「すき」を応用した「すきずきし」
もそのことに対応して多義的である。にもかかわらず、「すきずきし」は、
過去に既に指摘したとおり、例えば、英語の"passionate”やドイツ語の
"leidenschaftlich"に対応するものとして容易に翻訳可能である。その
対応を、私は、"readiness to accept sufferings"として説明した。
"passion"や"leidenschaft"は、語源的にギリシャ語の"pathos"や
ラテン語の"passio"を映/移すものとして以下のとおり説明される。

https://www.etymonline.com/word/passion#etymonline_v_7291
from Late Latin passionem (nominative passio) "suffering, enduring,
" from past participle stem of Latin pati "to endure, undergo,
experience," a word of uncertain origin.
0419考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 09:14:41.910
したがって、西洋における表現の側から見ても、また、「すき」である
ことは、「数奇者」、「物好き」のように「(好きなことのためには)
労を厭わない」ことを含意するのだから、日本語の側から見ても、
この説明は妥当だろうと思う。と同時に、まさにこの容易に見いだせる
共通性のために、何がどのように説明されているのかが曖昧となって
しまうのである。この共通性がどのような性質のものであるのかをより
明確にしようとするなら、西洋における"passion"の説明と日本語における
「すきずきし」の説明の両方の側から同時に問題に取り組む必要が
生じる。
0420考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 09:26:19.660
「数奇者」において「すき」に「数奇」という漢字が当てられるのは、
明らかに意図的な掛詞であり、「数奇」が表しているのは、言うまでもなく
"rare and odd"である。「数奇者」の何が"rare and odd"なのかと言えば、
それは、「数奇な物」="what is rare and odd"を愛でることにおいてである。
0421考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 09:46:17.820
「数奇者」とは、突き放した言い方をするなら、"cada loco con su tema"
(スペイン語)であるw
0422考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 10:32:43.650
まず共通の現実が存在して、それが多様な捉え方をされるのではなく、
多様な表現における捉え方の共通性を探ることにより、共通する現実が
暫定的に現れるのだ。
0423考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 10:53:34.370
コモンセンスが追求され、共通する現実が立ち現れることは、
誰にとってどのように都合が悪いのか?
0424学術
垢版 |
2019/02/16(土) 11:58:35.730
五木の無力と合わせてみろよ。
0427考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 14:15:15.510
「すす( 進)む」=「す・す・む」であり、「す」が繰り返されているのだから、
「『す』の作用/動作を継続する様態」が累加的に働くことで、
"go trouguh/forward"を意味している。「素直」と漢字で書くと、
あたかも漢語のような印象を与えるけど、「す・なお」は大和言葉です。
「す(trouguh/forward)・なお(straight)」ということになりますから、
表現を形成する要素の順番こそ違いますが、英語の"straightforward"
とまったく同じですね。
0428考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 14:37:39.190
「すき」というのは、まずなによりも、最も広く解釈された意味での作用≒"affection(英語)/affectio"(ラテン語)"に対する心の"readiness"なの
でしょう。「心の"readiness"」を日本語で表現するならやはり、「心
のすなおさ」と言わざるを得ないのではないでしょうか。
「心がすなお(素直)に、ひたむき(直向き)になる」ことが、
「すき」であることになるのではないでしょうか。
0429考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 21:34:12.320
>>In jener Nacht war mir plötzlich etwas bewußt geworden, nämlich,
daß es zwischen unserer Seele und unserem Körper viele kleine
Fenster gibt, durch die, wenn sie offen sind, die Gefühle hin und
her strömen; sind sie nur angelehnt, dringt kaum etwas durch, und
nur die Liebe kann sie alle auf einmal wie durch einen Windstoß
schlagartig öffen.<< Susanna Tamaro, p. 141

スザンナ・タマーロの小説、《Va' dove ti porta il cuore》のドイツ語訳
からの引用である。本来、イタリア語の原文からでなく、ドイツ語訳から
引用すべき理由はないのだが、あいにく元のイタリア語の本が手元にない
(日本語訳も手許にないが、いずれにしても、以前にどこかに書き込んだ
理由で、個人的にまったくお勧めする気にならない)。この一節を読んだ
ときに直ちに私に思い浮かんだ日本語の表現が「すきずきし」である。
0430考える名無しさん
垢版 |
2019/02/16(土) 21:37:48.730
日本語の表現とどのように相応しているか皆目分らないという人には、
残念ながら、いくら言葉を費やして説明しても無駄だろう。
0432考える名無しさん
垢版 |
2019/02/18(月) 07:53:03.260
>>429
ところで、この小説の題名、《Va' dove ti porta il cuore》は、日本語訳
では『心のおもむくままに』と訳されている。これは、イタリア語のタイトル
を文字通り訳そうとしたものだろう。他の言語の翻訳の場合もほぼ直訳
と言えるタイトルになっている。しかし、著者のタマーロ自らが、この
表現の意図するところが、多くの人々によって完全に誤解されたことを
後に指摘している。というのは、日本語訳の場合もそうであるように、
《Va' dove ti porta il cuore》が『心のおもむくままに』のように理解
され、「気の向くまま、気軽に生きればいい」というように通俗的な
解釈を生んでしまったからである。タマーロ自らは、自分が過去の作品
を見れば、自分がそんなメッセージの作品を書くはずがないだろうと
訴えている。実際のところ、著者の意図に合うように日本語の題名を
変えるとしたら、イタリア語の題名の直訳にならないとしても、
「心にすなおに」の方がずっとその意図に近いだろうと思う。
0434考える名無しさん
垢版 |
2019/02/18(月) 08:17:21.950
作用≒"affection(英語)/affectio"(ラテン語)"に対して心がすなおになり、
その心に「自ら(みずから)」=「み(身)つから(柄)」がすなおになる。
0435心にしたが(従)ふとはどういうことか
垢版 |
2019/02/18(月) 08:23:09.750
数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり
                         ― 紫式部
0436大いなる正午
垢版 |
2019/02/18(月) 08:45:37.720
作用≒"affection(英語)/affectio"(ラテン語)"というのは、つねに何らかの
表現の作用であり、その作用にすなおになるとは、その表現の捉え方に
気付くことだろう。
0437考える名無しさん
垢版 |
2019/02/18(月) 09:07:28.730
心に身を任せることは、(ものの数にも入らない)身分により許されないが
身分に心を従わせることは、不本意であり、心苦しい
0438考える名無しさん
垢版 |
2019/02/18(月) 09:15:00.480
「み(身)つから(柄)」というのは、綱渡りに失敗して地に落ちる影のようなものなのでしょうか?w
0439考える名無しさん
垢版 |
2019/02/18(月) 22:37:12.750
通すべき筋さえ通せば、後は何やってもいいよ。
誰も自分を否定することはできない。.
0441考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 07:57:32.580
>>410
このように「あ」が「不特定に離れている様態」を表すよう、「た」が
「(特に手が)接触する様態」を表すように、さらに、「つ」が「(『た』
によって代表されるような)接触が持続する様態」を表すように用いられて
いることを意識すると、例えば、今では使われなくなり、一見、孤立して
いるように見える古語の「あぢきなし」という表現が、他の表現とどのように
関係しているのか、それがなぜ「手に負えない」という意味に理解される
のかが構造的ネットワーク的に明確になる。
0442考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 08:12:35.670
学研全訳古語辞典
あづき−な・し
@「あぢきなし@」に同じ。
「あづきなく何の狂言(たはごと)」
[訳] 思うようにならず何というたわごと。
A「あぢきなしB」に同じ。
「汝(いまし)、はなはだあづきなし」
[訳] あなたは、たいそう手がつけられないほどひどい。
0443考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 08:26:07.050
「あぢきなし」は、音の類似から現代語の「あじけ(味気)ない」と
混同されやすく、実際、「あぢきなし」と書き写されるようになった
時点で、この表現の本来の用法が他の表現とどのように関係していた
のかが既に見失われていたのだろうと考えられる。

「あぢきなし」は、「あづきなし」とも書かれ、以前にも指摘した
とおり、「あづきなし」の「あづき」は、現代語にすれば「あづ(預)け」
に相当することが、「あぢきなし/あづきなし」という表現の用法から
容易に推測され、したがって、「あづきなし」の方が本来の形である
ことになる。「あづきなし」は、「あ・つき・なし」と分解すること
ができ、「あ(≒不特定に離れている様態)+つき(=『つ(付)く』の
名詞化≒持続的に接触すること)+なし(否定)」という解釈が生じて、
「あ・つき」=「あづ(預)け」であり、「あづ(預)け+なし」=
「手に負えない」という解釈が無理なく導かれる。
0444考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 08:46:38.770
さらに興味深いのは、そのように解釈することで、「あつか(扱)ふ」という
表現が、現代語の「預ける」の元となったと推測される、この「あ・つく」
の再帰形であることが分ることである。現代語では、直接には関係が
意識されなくなった、「預ける」と「扱う」という全く異なる2つの動詞
がどのように互いに関係しているのかが、今では使われなくなった古語の
「あづきなし」という表現を介してはっきりと見えてくる。
0445考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 09:06:09.400
「あ(≒不特定に離れている様態)・つく(=付く)」が、「預(あづ)く」⇒
「あづ(預)け(『預(あづ)く』)+る(=再動詞化の語尾)」⇒「預ける」と
変化するプロセスは容易に理解することができるだろう。だが、その
「あ(≒不特定に離れている様態)・つく(=付く)」を再帰形として用いる、
つまり、「あ・つく+あふ/ふ」という形にすることが、なぜ「扱ふ」
という意味になるのだろうか。

このことは、「あ(或/在/有)る」と「あ(合)ふ」、「そ(反)る」と
「そ(沿)ふ」の関係を考えてみると分る。「あ」が「不特定に離れ
ている様態」を表しているとすれば、「そ」は、「特定的に離れ
ている様態」を表している。ところが、「あ・ふ」という再帰形
にされると、逆に、「(不特定に離れていたものが)合ふ」という
意味になり、同様に、「そ・ふ」という再帰形にされると、
「(特定的に離れていたものが)沿ふ」という意味になるのである。
このことから類推して、「あ・つ(付)く」≒「あづ(預)く」が
再帰形として用いられる、つまり、「あつく+あふ/ふ」≒
「あつく(扱)ふ」になると、「不特定に離れているものに付ける」
という意味から、「(不特定に離れているものを)扱ふ」、
言い換えるなら、「手頃になるようにする」という意味が導かれる
ことになるのである。
0446考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 09:14:14.460
この例を見ただけでも、現代の日本語の表記法がどれだけ日本語で哲学をする
ことを阻害しているか、はっきりと分るはずである。日本語の表現の意図を
すなおに映す表記にすることにより、普段、まったく別々の表現であると
思われている表現の相互関係が直ちに見えてくるだけでなく、英語、
ドイツ語、ラテン語系の諸言語などの他者の言葉における表現との対応
関係も容易に見出すことができるようになるのである。
0447考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 09:17:07.850
この阻害は、偶々そのような結果となっているというのではなく、元々
意図されたものではないかということを疑ってみる必要もあるのではない
だろうか。
0448考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 11:17:57.950
後は分からんことを分かったつもりにならないこと。それだけ。
0449考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 11:25:34.460
違うよ。分ったつもりになって試してみて、その結果を知ることが重要なんだよ
分っていなければ、結果は、思っていたのとはまるで違ったものになる
0450考える名無しさん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:20:58.170
>>347
>「む」が担っているのは、"cumulatively"というニュアンス、つまり、
>「累加するように(○という様態の作用/効果がある)」ということである。

「つ(付)く」+「○む」⇒「つか(掴)む」≒「累加するように『つ(付)く』」
0451考える名無しさん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:57:35.410
「あ(上)ぐ」+「○む」⇒「あが(崇)む」≒「累加するように『あげ(上)る』」
0452考える名無しさん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:11:46.700
「と(砥/研/磨/利)ぐ」+「○む」⇒「とが(咎)む」≒「累加するように『とが(尖)る』」
0453考える名無しさん
垢版 |
2019/02/20(水) 08:16:12.540
「○む」のように「○▲」という形態の動詞において、▲は本来、副詞的に
用いられていたことが分る。
0454考える名無しさん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:18:23.340
言葉の表現を解釈するとき、ハイデガーの導入した(ただし、ハイデガー独自の
考えというより、プラトン以前から行われていた議論に注意を向けさせた
ということだろう)「vorhanden(目の前に)」ある様態と「zuhanden(手頃に)」
ある様態の対比を常に意識していることは重要だろう。それでも、ハイデガー
自らの「Zuhandenheit(手頃にある様態)」の説明の仕方は、道具をその本来
の目的とされるのとは違った用途で使われているのを目にすると、反射的に
怒りだす狭量な職人を思わせるところがあり、「vorhanden(目の前に)」と
「zuhanden(手頃に)」の対比を分りにくくしている。

「ハンマーは、釘を打つのに使うことができる」というのが、ハンマーが
「Zuhandenheit(手頃にある様態)」であるが、ハイデガーの説明とは異なり、
壊れたハンマーは必ずしも手頃でなくなるわけではなく、「釘を打つ道具として」
手頃でなくなるだけである。なぜなら、その壊れたハンマーを重石の代わりに
使うことも、そのハンマーを「手頃に(zuhanden)」に使うことに他ならない
からだ。また、壊れていない状態でそのように流用する場合も同じことである。
「ハンマーは、釘を打つのに使うことができる」というのは、ハンマーが
「手頃にある様態」であるが、「ハンマーは、釘を打つ道具である」という
見方は、むしろ、ハンマーを「(そのような道具として)目の前に(vorhanden)」
ある様態で見ていることになる。
0455考える名無しさん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:43:02.720
なぜこのような議論を持ち出すのかと言うと、言葉の表現において「発音が
特定のイメージを表すように用いられている」と指摘すると、それを「発音
は特定のイメージを表している」という主張と取り違える人々が(好意的に
であれ、反発としてであれ、悪意をもった意図的な混同によってであれ)
大勢出てくるからである。

どのように混乱が生じるのかは、言葉の表現における発音ではなく、むしろ、
本来的には非言語音とされる「咳払い」を例にとってみると分りやすいだろう。
会議などで、誰かの発言中、別の人が意図的に合図として「咳払い」をする
ことがあることは、テレビドラマなどでもよく見かける光景である。
多くの場合、発言者がなにか「支障のある」ことを言い始めたため、それを
牽制してやめさせようと、相手にその発言が「支障がある」と伝える行為
として「咳払い」が使われている。「喉に感じる支障を払う」音を意図的に
相手に伝えることによって、「支障があるからそれを言うのは控えるように」
という意図を伝えようとしていることになるだろう。しかし、そのような
指摘をしたところで、それは、「咳払いが合図として使われる(手頃な様態)」
を説明しているだけで、「咳払いは合図である」という主張にはならない
ことは明白だろう。問題は、言語音、つまり、発音の場合、発音は必然的に
なんらかの意図をもって行われるので、どのような発音をしようと、それは
必ず何かを伝えようとする合図として理解されることである。
0456考える名無しさん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:51:51.270
「あ」が「不特定に離れている様態」を表していて、それが「あ・ふ」という
再帰形にされると、逆に、「(不特定に離れていたものが)合ふ」という意味に
なると上に指摘した。これは、そのようなイメージを表現する発音として、
それぞれ、「あ」と「ふ」が「目の前に(vorhanden)」に存在して、それを
組み合わせると、「あ(合)ふ」という表現のイメージが「目の前に(vorhanden)」
あるものとして現れるという主張ではない。逆に、「あ(合)ふ」という表現
において、それぞれ「あ」と「ふ」のイメージがそのように「手頃に(zuhanden)」
に用いられていると考えることができるという指摘である。
0457考える名無しさん
垢版 |
2019/02/21(木) 14:20:19.700
「あ(合)ふ」から派生させられたと考えられる表現を見ると、発音を
「手頃に(zuhanden)」に扱うとはどのようなことか、さらに明確になるだろう。
例えば、「ゴマを『あ(和)へ』る」という表現における「あへ」と、
「『あ(敢)へ』無く敗れた」という表現における「あへ」は、「同じもの」
だろうか。「あ+へ」の「へ」が、動詞の再帰形を表す「ふ」に由来する
ことは間違いないだろう。さらに「『あ(和)へ』る」における「あふ」は、
料理などの洒落た言い方としてフランス語を借りて「マリアージュ」など
と表現される場合と同じく、「(食材を)合わせる」ことを表しており、
「合(あ)ふ」そのものである。では、「あ(敢)へ」の方の「あふ」は
どうかと言えば、この場合の「あふ」が表しているのは、対向すること、
向かい合うこと、英語で表現するなら"counter"であり、やはり「合(あ)ふ」
そのものである。

では、「ゴマを『あ(和)へ』る」の「あへ」と「『あ(敢)へ』無く敗れた」
の「あへ」は、「同じもの」であると考えていいのだろうか。そうではない
だろう。それぞれの「あへ」は、その「手頃に(zuhanden)」ある様態に
おいて異なっているのである。ここでハンマーの喩えに戻るなら、発音は
ハンマーのように特定の用途において「目の前に」存在しているのではない。
ハンマーの頭として使われている鉄の塊があり、重石として使われている
鉄の塊がある。ハンマーの頭は、場合によっては、柄から外して重石と
して利用することができ、重石として使われている鉄の塊は、都合よく
穴が開いているなら、柄を通してハンマーの頭として利用することができる。
発音は、そのようにまず、その用途において「手頃に」ある存在として
現れるのであり、用途の定まらない鉄の塊のように「目の前に」ある
様態は、抽象化として現れるのである。
0458考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 13:27:07.230
「○む」という形態は、「累加するように」という様態を表現するように
用いられ、動詞の語尾の活用を介して「ま」行全体がそのようなニュアンス
で用いられることを指摘した。

「つ(詰)む」→「つ(詰)め」(名詞化)→「つ(詰)め・る」(再動詞化)
「つま(端)」≒「つ(詰)められた状態」

「さ(冷)む」→「さ(冷)め」(名詞化)→「さ(冷)め・る」(再動詞化)
「『さ(冷)ま』・す」≒「『さ(冷)めた状態』にする」

「せ(攻/責)む」→「せ(攻/責)め」(名詞化)→「せ(攻/責)め・る」(再動詞化)
「『せ(攻/責)ま』・し」≒「『せ(攻/責)められた状態』を生じる」
0459考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 13:43:30.020
日本語の表現の解釈に限らず、この類の推論が提示された場合、自らの
知性を自負している人々の反応は、大抵の場合、2つに分かれる。
1つ目は、「何の根拠にもなしに(=「権威の裏付けがないと言う意味だろう)
何をそんな突拍子もないデタラメを並べ立てるのか」という激高であり、
2つ目は、「何をそんな当たり前のことをわざわざ言いだすのか、下らない
ことで人の時間を無駄にするな」という反発である。ただし、この2つは
相互排他的であるどころか、表裏一体をなしていて、同一人物がその2
つの態度を逐次に示すこともある。
0460考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 13:51:13.610
ところで、そのような反応が返ってくることになる私の推論は、大抵の場合、
そんなところでは終わらない。そのような推論の提示は、私にとっては、
さらに疑念を抱いていることを明示し、検討するための前置きに過ぎないのである。
だから、議論を先に進めようとするなら、激高し、拒絶する、または相手に
する必要がないと判断して、議論に耳を傾けるつもりなどさらさらない相手
は無視する他、選択肢がないということになる。では、さらにトンデモナイ
と思われるであろう推論を示そう。
0461考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 14:01:23.820
>>458に示した推論からさらに類推を進めると、

「かむ」→「かめ(甕/亀)」(名詞化)→(再名詞化された表現は存在しない)
「かま(竈/窯/釜)」≒「『かめ・た/られた』(ただし、そのような表現の存在は
一般に確認されていない)状態」という関係が(私の連想において)導かれる。
0462考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 14:13:51.520
ここで直ちにこの類推が奇妙であることに気付くはずである。

>「かむ」→「かめ(甕/亀)」(名詞化)
において、名詞化されたとされる「かめ(甕/亀」の元となった「かむ」という
動詞があるかのように示されているが、その名詞化が「かめ(甕/亀」になる
ような動詞が存在するのか?という疑念が生じるはずである。しかし、
少なくとも私の連想においては、それは現に存在すると思っている。
それは、一説には、現代の日本語の「かも(醸)す」という表現の語源
となったともされる、古語の酒を造る場合に用いられる「酒を『かむ』」
と表現する場合の「かむ」である。ただし、一般には、語源として、
古代は「口噛み酒」が造られたので、この「かむ」は、「噛む」に
由来すると説明されている。

https://kobun.weblio.jp/content/かむ
学研全訳古語辞典
か・む 【醸む】
酒を造る。醸造する。かもす。
出典古事記 応神
「大御酒(おほみき)をかみて」
0463考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 14:27:46.670
確かに米などのデンプンを含む食物を唾液で糖化させて発酵作用を促進させ
てアルコール飲料を作るという酒の製造方法は世界各地に存在し、古代の
日本にも存在しただろう。しかし、その限定された方法の一工程に過ぎない
行為を表す表現が、酒造り全般を表すように用いられるようになったと解釈
するのは、いかにも無理があり、例えば、そのような説明をする古い記録
が存在していたとしても、民間伝承の類に過ぎないだろうと私には思える。
それは、いくらワイン造りに葡萄の実を踏みつぶす行為が重要であったと
しても、ワインを作ることを、「ワインを踏む」とは表現しないのと同じことだ。
0464考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 14:48:18.320
では、「酒を『かむ』」 の「かむ」が「噛む」ことを表しているのでない
とすると、この「かむ」は何を表現しているのだろうか?無論、もっとも
簡単な答えは、「酒を『甕に仕込む』」ことである、ということになるだろう。
しかし、それでは説明になっていない。なぜなら、私は「甕(かめ)」の動詞化
が「かむ」であると主張したいわけではなく、逆に「かむ」の名詞化が
「甕/亀(かめ)」だろうと類推しているからである。

ここでイメージから考えてみると、「○む」は、累加的に作用する様態を表現
しているわけだが、「かむ」の場合、累加的に作用するのは「か」である。
さらに、「か」は、「一時的/局所的に触れて、再び離れる作用」のイメージ
として用いられることが多いことを以前に指摘した。ところで、上に提示した
類推によれば、「かま(竈/窯/釜)」は、「『かむ」という作用が働いた結果の
状態」を表していることになる。すると、「かま(竈/窯/釜)」がどのような
作用を生じるものであるのかという一般的な知識から逆に、「かむ」は、
「内部空間で作用が反射的に働くことが累加する」ことを表しているのでは
ないかという結論が導かれる。すると、その名詞化である「かめ」は、
「甕」や「亀」を表すように用いられる以前に、そのような作用が働く
こと/ものを表していたと解釈することができる。

「甕」が、「内部空間にこもった状態で作用させる物」であるとするなら、
「亀」とは、いわば、「内部空間にこもった状態で作用している者」を
表現していることになる。
0466考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 17:25:06.810
ところで、「がめつい」(新語)や「がめる」(俗語)という表現はどこから来たのだろう?
0467考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 22:33:44.070
酒に限らず、発酵させる工程における「甕(かめ)」の重要性を考えると、
醸成させること一般に用いられる「かも・す」という表現が、「『かみ』
の作用を生じさせる」ことに由来すると考えた場合、「かみ」と「かめ」
の音の類似を無視して、「醸成する」という意味で用いられた「かむ」
をひたすら「噛む」ことに結び付けようとすることは、著しく馬鹿げた
ことではないかと私には思える。

ww.kamejikomi.com/bottle.html
石川酒造場では『甕』にこだわり続けてきました。
第二次世界大戦後、1度だけ肥前より買い付け、その後廃業する酒屋に
行っては甕を分けてもらい、発酵・貯蔵に足る甕を確保しました。
0468考える名無しさん
垢版 |
2019/02/22(金) 22:37:40.480
ちなみに、甕入りで販売されることの多い ジョージア(旧名、グルジア)の
ワインも、本来は、発酵から貯蔵まで「甕(かめ)」で行われていたとのことである。
0469考える名無しさん
垢版 |
2019/02/23(土) 08:22:27.820
言葉を使ふとは、規範を自己生成する不特定多数の参加者の連想ゲームに
加わって遊ぶことである。
0470考える名無しさん
垢版 |
2019/02/23(土) 08:49:26.730
「こ(込)む」→「つ(込)め」(名詞化)→「つ(込)め・る」(再動詞化)
「こま(困)・る」≒「こ(込)められた状態になる」(窮する)
0471考える名無しさん
垢版 |
2019/02/23(土) 08:54:45.020
「ぶちかます」という表現は、「ぶち噛ます」と転記されているようだが、
この「一発『かます』」という場合の「かま・す」は、本当に「噛ませる」
というニュアンスで使われているだろうか?

確かに、「一発『かます』」行為によって「一発『かまされた』」側は、
「一発『く(食)らふ』」ことになるだろう。だが、「く(食)らふ」ことは
「噛ませられる」ことなのか?
0473考える名無しさん
垢版 |
2019/02/23(土) 09:01:27.390
>>470
誤:「つ(込)め・る」(再動詞化)
正:「こ(込)め・る」(再動詞化)

適当にコピペを書き換えて書き込もうとしたことによって生じた
誤りだが、文字を一部だけ置き換えるだけで同じ形になることの
証左でもある。
0474考える名無しさん
垢版 |
2019/02/23(土) 09:09:25.090
https://hougen.ajima.jp/e1093
>おばあちゃんの家で「かめーかめー(食べなさい)」と次々に
>食べ物をすすめられるのは、よくあること。

この「かめー」は、いくつかのサイトで主張されているとおりに、
本当に「か(噛)め」に由来するのだろうか。むしろ、最初から
「お・たべ」に相当する表現として用いられていたのではないか。
「た(食)べる」は、「た・ぶ」という再帰形の動詞の再名詞化だろう。
「た(足)る」、「た(足)す」、「た(食)ぶ」、つまり、「自らの
[腹の]た(足)し」にするという意味ではないのか。
0475考える名無しさん
垢版 |
2019/02/23(土) 10:20:34.200
連想によって立ち現れる規則性の一般的な(つまり、不特定多数による
使用における)妥当性を確かめることにより、暗黙の規範を可視化しようと
すること、また、公にそうすることが憚られるなら、少なくとも人々が
それに気付いて、その規範に対して自覚的であるように促すことこそが
哲学や人文学の本領だろう。
0476考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 08:00:21.710
それが民間伝承であろうと、学問的な体裁をとっていようと、表現の語源的な
意味解釈がきわめて多くの場合に(少なくとも私には)とてもうさんくさく感じ
られる理由は、その解釈のプロセスが、由来のよく分らない表現に関してまず、
その表現に置き換えるための、意味がよく分っている、よく似た発音の別の
表現を探してきて、由来の分らない表現を、その「意味がよく分っている表現」
で置き換えることを正当化しようとする意図に動機づけられているからである。
そのような動機によって正当化のためのエピソードが求められ、多くの場合、
創作されて民間伝承となり、今度は、その民間伝承が意義解釈の学問的根拠
として古い文献から引用されることになる。
0477考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 08:41:06.700
語源的な意義解釈にの場合に限らず、何かを正当化しようとする意図に動機づけ
られることは、その目的に都合のいいような根拠づけの取捨選択につながり、
その取捨選択に必然性が感じられない場合、それは恣意的なものであるという
印象を生じることになる。その意味でエピソード的な説明はつねにうさんくさい
のであり、逆に、無根拠な連想によるネットワークを仮説(/設)的に発展させる
ことが重要である理由もそこにある。喩えるなら、獲物に狙いを定めて、
それを捉えようと追いかけるのではなく、蜘蛛が巣を張るようにネットワーク
を発展させて、ネットワークを介して伝わってくる振動により、どこかに
何かの獲物がかかったことを知り、どこに何かかかったのかを特定しようと
するのである。
0478考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 08:54:14.190
私が、起きている間に感じた疑念に関して、しばしば、寝ている間にそれを
解消することのできる可能性を思いつくこともそのような仮説のネットワークに
どこに何がかかったのかに気付くプロセスなのだろうと思う。

ただし、連想によって立ち現れる規則性の一般的な妥当性を私自身が
正当化しようとするなら、正当化の動機により、再びそこに取捨選択の
恣意性が強く働くことになる。だからこそ、私がそのような妥当性を
確かめようとするなら、実際の人々の実践において、そのような規則性
が働いているかどうか、その規則性を言語的に明示化して、人々に
「問いとして提示する」他ないのである。
0479考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 09:06:14.650
というわけで、また、寝ている間に思いついたことがあるので、書き込むことにする。

「酒をかむ」という表現において、それを専ら「か(噛)む」という行為に結び付けて
説明しようとすることは馬鹿げていると上に指摘した。新たに思いついたこととは、
むしろ、逆に「か(噛)む」という限定された意味の用法の方が、「内部空間にこもった
状態の作用が累加する」ことを意味するように、本来は、より広い意味で用いられて
いたのではないか、ということだ。それを、「か(噛)めば(噛)むほど味が出る」と
表現したなら、恣意的な印象を与えるエピソード的な説明となってしまうだろう。
私が思いついた、仮説のネットワークにおける獲物の特定のプロセスはそのような
ものではない。
0480考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 09:36:01.070
私が最初に日本語の表現について考え始めた頃にまず生じた疑念は、
「○ふ」という形態の動詞の表現が、辞書による一般的な説明とは異なり、
動詞の再帰用法なのではないかということだった。多くの用法の例を検討
した今となっては、その疑念は少なくとも私にとっては解消され、肯定的
な答えが得られたと感じている。

ところで、その頃、私は、「かま(構)ふ」という表現についても例として
考察し、「か(噛)む+あふ」≒"engage"(英語)のように解釈できるのではない
かという考えを示したように記憶している。しかし、今回、「酒をかむ」と
いう表現を検討し、その「かむ」が「かめ(甕/亀)」や「かま(窯/釜)」を派生
させたのではないかと思いついたことから、別の連想が浮かんできたので
ある。それは、「かま(構)ふ」の「かま」が、「かむ」という動詞が派生
させた(と私には思える)「かま」と同じニュアンスで用いられているのでは
ないかということだ。「かむ」が「○む」という累加的な様態を表す表現
として、「内部空間にこもった(/反響するような)状態の作用が累加する」
ことを意味しているとするなら、「かま」は、そのような作用によって
生じた「状態」を表していると考えられると上に指摘した。すると、
「かま(構)・ふ」という再帰形の動詞は、そのような状態(/様態)を自らに
もたらすことを意味しているという解釈が生じる。「事をかま(構)ふ」、
「家をかま(構)ふ」などの表現における「かまふ」という表現の用法には、
そのような意味合いで解釈できるのではないか、というのが私の問いかけ
であり、すると、「か(噛)む」という、現代の日本語では狭く限定された
意味で用いられる表現も、むしろ、より広い意味での用法から限定が
生じて、そのように用いられるようになったのではないかと思えてくる。
0481考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 09:40:59.860
誤:「かまふ」という表現の用法には
正:「かまふ」という表現の用法には
0483ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/02/24(日) 12:39:37.810
「醸(かも)す」こと、つまり、「『かみ』の効果を発揮させる」ことによって
作られた酒を神(かみ)に供へるというのは、駄洒落としては上出来だろう
0484考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 14:25:47.530
>>464
>「亀」とは、いわば、「内部空間にこもった状態で作用している者」
>を表現していることになる

沖縄で洞窟が「がま」と呼ばれることが、「かま(窯/釜)」と関係している
のか気になったので検索してみたら、関係があるかどうかはよく分らない
ものの、こんな記事がヒットした。

https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1807/24/news116.html
「洞窟に引きこもるアリ」発見、日本初 世界でも2例目

ガマアシナガアリの学名「Aphaenogaster gamagumayaa」
(アファエノギャスター・ガマグマヤア)の種小名ガマグマヤアは、
沖縄方言で「洞窟に引きこもる者」の意味。
0485考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 14:29:09.720
現代語の「やかましい」という表現に引き継がれることになった
古語の「かまし」は、耳の穴という「内部空間に反響するような態様を
生じる」ことを意味していたのだろうか?

学研全訳古語辞典
かま・し 【囂し】

やかましい。
出典栄花物語 月の宴
「耳かましきまでの御祈りども」
[訳] 耳にやかましいほどのお祈りの声々。
0486ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/02/24(日) 15:54:05.420
「かま(窯/釜)」は、カメラに似ているw

https://www.etymonline.com/word/camera?ref=etymonline_crossreference
camera (n.)
1708, "vaulted building; arched roof or ceiling," from Latin camera
"a vault, vaulted room" (source also of Italian camera, Spanish camara,
French chambre), from Greek kamara "vaulted chamber, anything with
an arched cover," which is of uncertain origin.
0487考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 15:58:19.730
おそらく、このような類似の指摘を蓄積していけば、日本語−ラテン語同源説
を容易に構築できるだろう。ただし、私はそのような説を唱えることに意味が
あるとはまったく考えていない。ただし、類似性を指摘することは重要である。
0488考える名無しさん
垢版 |
2019/02/24(日) 19:59:29.570
>>445
>「あ(或/在/有)る」と「あ(合)ふ」、「そ(反)る」と「そ(沿)ふ」の関係

同様に再帰形にされることによって、「○ふ」の「○」の作用の様態が
まったく逆転して現れる面白い例が、「ゆ(結)ふ」だろう。「ゆ」は、
「ゆる(緩)む」や「ゆ(揺)れ」や「ゆ(行)く」、さらには、おそらく
「ゆき(雪)」まで、固定や拘束や縛りが解ける様態を表すように
用いられることが多い。ところが、再帰形の「ゆ(結)ふ」になると、
逆に「結ぶ」という意味になる。
0489考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 12:59:12.430
>>464を書き込んだ時点では知らなかったのだが、「こうじ(麹)」に
ついて検索すると、次のような記述が出てくる。「こうじ(麹)」は、
「かむ・たち」と呼ばれていたのであり、上に示したように「かむ」
を「内部空間にこもった(/反響するような)状態の作用が累加する」
ことと解釈するなら、それを「かむたち(麹)」は、それを言はば
「起動する」のに使われるものであるのだから、何ら特別な語源的
解釈を必要としないことになる。このように推論を無理なく容易に
広げることができることが、特定の説明を正当化しようとする目的
を追求することを排して、蜘蛛が巣を張るように仮説のネットワーク
に推論を任せることの利点である。

https://kotobank.jp/word/こうじ(麴)-1164653
世界大百科事典内のこうじ(麴)の言及
>かむたちをまぜて酒を造ることを〈醸(かすも)〉といった(《古事記伝》
0490考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 13:02:18.390
>>489
引用元の記述が誤っているのだが、無論、
〈醸(かすも)〉(誤)ではなく、〈醸(かもす)〉(正)である。
0491考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 13:06:50.470
「こうじ(麹)」そのものが「かむ・たち」と呼ばれることを知りながら、それでも、
古い文献の記述にそのような解釈が見られるからといって、「酒を『かむ』」の
「かむ」を、口で「噛む」ことに結び付けようとすることは、牽強付会と言わざる
を得ないだろう。

>《大隅国風土記》の記録を引用して醸は〈嚼(かむ)〉に通ずるとする説
>もある(《和訓栞》)。
0492考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 13:19:47.110
>>489
>次のような記述
と書いて、そのまま説明を続けてしまったので紛らわしい書き方
になってしまったが、言うまでもなく、次のような説明とは、
貼り付けたサイトの記述を指している。
0493考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 13:27:57.170
ところで、日本語の「かぶ(被)・す」と英語の"cap"は似ている。

https://www.etymonline.com/word/cap#etymonline_v_44902
cap (n.)
late Old English cæppe "hood, head-covering, cape," a general Germanic
borrowing (compare Old Frisian and Middle Dutch kappe, Old High German
chappa) from Late Latin cappa "a cape, hooded cloak" (source of Spanish
capa, Old North French cape, French chape), a word of uncertain origin.
0494考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 13:41:33.060
>>493
このように日本語と印欧語の間で発音と意味の両方が似通っている表現が
数多く存在することに気付くようになると、安易に日本語の起源は○○語
にあるなどと唱える説は、まったく当てにならないことが分る。
0495考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 17:01:19.930
物事は、「どのようにか捉えられて」何らかの表現として現れる。
そうではなく現れることは不可能である。したがって、表現は、
常に何らかの「捉え方」を伝えている。その「捉え方」が役に立つ、
つまり、有効であるからこそ、その表現が用いられるのだが、
まさにその有効性ゆえに、そのように表現されることは「当たり前」
となり、その表現がどのような「捉え方」を伝えていたのかが
忘れ去られていく。哲学や人文学は、その「捉え方」を言葉として
明示化しようと試みることにより、当たり前に見える物事が、
どのように捉えられているのかを意識するように反省する契機
をもたらすのである。
0496考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 20:07:55.140
いい結果の原因が自分にあるなら、悪い結果の原因も自分にある。
いい結果の原因が自分にないなら、悪い結果の原因も自分にない。
いい結果の原因が皆にあるなら、悪い結果の原因も皆にある。
いい結果の原因が皆にないなら、悪い結果の原因も皆にない。
0497考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 20:28:07.040
>大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば
>国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち立つうまし国そあきづ島大和の国は

この歌には「海原はかまめ立ち立つ」という表現が出てくるが、
「かまめ」とはカモメのことであり、カモメは古くは「かまめ」と
呼ばれていた。カモメはその鳴き声が「や『かま』しい」から
「かま・め」と呼ばれたと考えるのは自然なことであり、カモメと
いう呼び名の語源を検索しても、そのような説明が出てくる。

では、「あなかま」や「かまし」という表現における「かま」は、
英語にすると、どのような表現に対応するだろうか。そう問ふ
ことによって私が求めているのは、「うるさい!」と叱責する行為に
対応する英語の表現ではない。そうではなく、「かま」という
表現が伝えることを意図しているイメージに近いイメージを伝え
る英語の表現はどのようなものかと問ふているのである。
0498考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 20:38:43.390
対応する英語の日常表現は思い浮かばないものの、教養としての英語であれば、
「かま」に対応するものとして、すぐに思い浮かぶ表現がある。それは、
"cacophony"である。ただし、"cacophony"は、英語とは言っても、
教養の英語として古代ギリシャ語をそのまま英語に持ち込んだものである。

https://en.wiktionary.org/wiki/cacophony
Ancient Greek κακοφωνία (kakophōnía), from κακός (kakós, “bad”) +
φωνή (phōnḗ, “sound”).
0499考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 21:02:08.420
私は、ここに引用した"cacophony"を「悪い+音」と解釈する古代ギリシャ語に
おける語源的な説明に異議を唱えるつもりはない。しかし、"cacophony"を
「悪い音」とする理解では、英語においてであれ、古代ギリシャ語において
であれ、この"cacophony"という表現のイメージを十分には捉えられないだろう
と思う。

少なくとも私には、日本語の古語の「かま・し」が「"cacophony"を生じる」
ことをイメージとして表していると解釈することは妥当であるように感じられる。
では、ここで、「かま・し」の「か」と"cacophony"の"ca(またはcac)"が音の
伝えるイメージにおいて重なって感じられることは偶然だろうか。この重なりは、
私がそう感じるだけの個人的な感覚に過ぎないのだろうか。そうではない
だろうと私は思う。日本語の「か」も印欧語の"ca(またはcac)"もともに
多くの表現において「反射的なイメージ」を伝えるように使われていると
考えてよいのではないだろうか。
0500考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 21:32:39.450
ここで、日本語の「か」と英語やラテン語系の言語における"ka"の音について
さらに検討することもできるが、「かまめ/カモメ」について述べたついでに、
「カモ(鴨)」についても、いい加減な私の推論を書いておこう。

「つ(積)む」→「つ(積)もる」という関係を考えると、「つむ」が、
例えば、「石を積む」という他動詞であるのに対して、「つもる」は、
「雪が積もる」という自動詞である。すると、

「かむ」→「かも」であるなら、「カモ(鴨)」は、「かむ」に対応
する自動詞としての「かも」に由来するのではないかという思いが
浮かぶ。

さて、上で「かむ」は、「内部空間にこもった(/反響するような)
状態の作用が累加する」 を表していたのだろうと解釈した。
この時点では、「かむ」が他動詞として使われるか、自動詞として
使われるかに特にこだわっていない。それでも、「かむ」が他動詞
として限定的に使われるようになることにより、自動詞的に「
かも」が用いられ、「かも・(す≒let)」という表現が派生したと
考えることが可能である。すると、「カモ(鴨)」は、「かまめ/
カモメ」の場合と同じく、鳴き声に注目して付けられた名称で
あると考えるなら、「内部空間にこもった/反響するような声を
出す者」であると考えることができる。

ところで、鴨、特に家鴨の仏語/英語の名称は、"canard"だろう。
英語の"canard"の語源を検索すると、以下のとおり説明されている。
https://www.etymonline.com/word/canard#etymonline_v_649
canard (n.)
"absurd or fabricated story intended as an imposition," 1851,
perhaps 1843, from French canard "a hoax," literally "a duck"
(from Old French quanart, probably echoic of a duck's quack)
0501考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 21:43:14.960
>>500
誤解のないように付け加えると、"echoic of a duck's quack"という
説明における"echoic"は、「擬声的な」という意味で用いられており、
私の解釈における「反響するような」に対応しているわけではない。
0502考える名無しさん
垢版 |
2019/02/25(月) 21:55:14.220
エピソード的には、「かみ」は、「かめ(亀)」が自分の甲羅に
引き籠るように、洞窟に引き籠るんだよねw

https://ja.wikipedia.org/wiki/天岩戸
>ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原も葦原中国も
>闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
0504考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 00:13:11.790
「か」について少しだけ書いておくと、
例えば、イタリア語の"cacciare"は、ラテン語の"captō"に由来するとされる。
https://en.wiktionary.org/wiki/cacciare
ラテン語の"captō"から見るなら、"cacciare"は、「とら(捉/捕)える」や
「つか(捕)まえる」ということになるだろう。だが、実際には、日本語の
「か(狩/駆)る」に相当し、日本語の「か(狩/駆)る」がそうであるように、
獲物を狩って手に入れる方向性と、敵を駆逐して追い払う方向性の両方で
使われる(英語の場合の"catch"と"chase"の関係に対応する二重性)。
私には、このことは、「か」の発音の反射的なイメージに寄るものである
ように感じられる。

日本語の場合で考えてみると、「か(借)る」と「か(貸)す」の両方の方向
において「か」が用いられ、「か(買)ふ」は、再帰用法として自らの方向
に向けられる作用を表現するものの、「か(交)ふ」は、再帰用法として
互(た(手)・か(交)ひ)いに交差する方向性を表現する。
0505考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 00:15:54.500
誤:反射的なイメージに寄る
正:反射的なイメージによる
0506考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 00:44:11.070
ちなみに、「か・か・や(輝)く」は、「か」を重ねることによって、
反射するような作用が継続することを表し、「や」が以前から指摘する
とおり、離れる方向性(ドイツ語の"weg"や英語の"(a)way"に相当する)
を表していると考えられるので、イメージ的にとても分かりやすい。
0507考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 09:58:23.790
言葉の表現は、その発音が想起させるイメージを伝えるように用いられる
のだから、表現が何を伝えることを意図しているのかをよく理解しようと
するなら、特定の発音が想起させるイメージを、別の発音が想起させる
まったく別のイメージで置き換えるべきではない。例えば、

>国原は煙立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ
というパラレリズム(平行構造)は、国の土地の平原に煙がつぎつぎに
立ちのぼるように海原にカモメがつぎつぎに立ちのぼる様子を表現して
いると同時に、「かまめ」という呼称によってカモメの「かましさ」
を伝えており、長閑な風景というより、活気づいた雰囲気を描いている。
0508考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 10:05:22.390
意味が近いからといって、ある言葉の発音の伝えるイメージを別の発音の
伝えるイメージで安易に置き換えてしまうと、言葉の表現が伝える意図
はまったく別のものになってしまう。例えば、

「なにをそんなにどな(怒鳴)っているの?」と尋ねるのと、
「なにをそんなにわめ(喚)いているの?」と尋ねるのでは、
その問いが伝える意図は、まるで別のものになってしまうだろう。
ところが、一般に、古文の現代語訳は、そのような置き換えを平然と
やってしまうのである。
0509考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 10:25:03.240
多くの日本語の表現において「の」は、「重圧がかかっている様態」を
イメージとして伝えるように用いられる。このことは、現代の日本語に
おいても、「の(乗)せる」、「(相手を)のす/のめす」、「(前)のめり」、
「の(→ど)く」、「の(→ど)ける」などの表現においてはっきりと見る
ことができ、「の」という発音がそのようなイメージを想起させること
は、「の」を発音するときに舌が口蓋に押し付けられて「圧力がかか
っている状態」をイメージさせることと関係しているのだろうと思う。

古語における「の」が、現代の日本語では、しばしば、「ど」に
よって置き換えられていることは、「の(退)く」→「どく」や
「の(退)ける」→「どける」を見るとよく分る。「のく」は、
場合により、「重圧がかかっている様態」を強調せずに「のぞ(除)く」、
「の(除)ける」のようにも用いられ、「のく」と表現が当たり前に
広く使われるようになることで「の」の重さのイメージが薄れ、
再び重さを強調したいという意図により、「の」が「ど」で
置き換えられたのだろう。
0510考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 10:29:08.390
「ののしる」という表現の以下のような解釈は、「の」という
発音において伝わることが意図されるイメージがまったく無視されている
のではないか?

https://kobun.weblio.jp/content/ののしる
学研全訳古語辞典
ののし・る 【罵る】
@声高(こわだか)に物を言う。わめく。
A高い声・大きい声で鳴く。やかましく音をたてる。
B口々に言い騒ぐ。大騒ぎする。
Cうわさする。評判になる。
Dはぶりをきかす。勢力を持つ。
声を荒くして悪く言う。口やかましく言う。
0511考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 10:36:06.170
この場合、「ののしる」のは、犬どもであるのだから、「どなる」
と表現することはできない。だが、この場合も「ののしる」が
表現しているのは、単に大きい声ではなく、ましてや「高い声」
などではなく、「圧倒するように」吠えていることだろう。

>A高い声・大きい声で鳴く。やかましく音をたてる。
出典源氏物語 浮舟
「里びたる声したる犬どもの出(い)で来てののしるも」
[訳] いなかびた声をしている犬が何匹か出て来てほえたてるのも。
0512考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 10:43:24.660
古語における「重圧がかかっている様態」をイメージ「の」の用法は、
現代の日本語の擬態語における「のっしのっし」という表現によく
表れている。

https://dictionary.goo.ne.jp/jn/172061/meaning/m0u/のっし/
のっし‐のっしの意味
出典:デジタル大辞泉(小学館)
[副]からだの大きくて重いものが、ゆっくりと歩くさま。
「力士がのっしのっし(と)入場する」
0513考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 10:47:58.150
「の(宣)る」という表現も、本来は、重さを感じさせることを意図している
表現である。
0514考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 12:32:28.500
広く用いられるようになった言葉の表現の語源がエピソード的に正確に
辿れる場合でも、エピソード的に説明される語源によって、その表現
を用いることによって伝わるイメージが決まるわけではない。

「のろま」は、動きが鈍重な者を指す表現だろう。では、「ノルマ」は?
「ノルマ」はいつでも「重い」のである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ノルマ
>ノルマ(ロシア語: Норма, ラテン文字転写Norma)とは、半強制的に与え
られた労働の基準量であり<
>第二次大戦後、シベリアに抑留されていた人たちが帰国した際に日本に
広まった言葉<
であるとのことだが、「ノルマ」という表現が普及したのは、その語源が
この表現を使う人々によって広く知られたからというより、日本語に
おいて用いられた場合の「ノルマ」という発音のイメージが、その
用法とぴったりとマッチしていると感じられたからだろう。
0515考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 13:06:24.540
蜘蛛がせっせと巣を張り巡らせる作業をしているのを見て、何を捕えようと
しているのか目的をまず明確に示すことができなければ、リソースの無駄遣い
だから即刻作業を中止するようにと命令するのは、本当に蜘蛛が何かを獲る
ことを助けようと思っているのなら、馬鹿げているだろう。そういう人々は、
蜘蛛がなにかよからぬ陰謀を張り巡らせているのではないかという猜疑に
とりつかれているか、または自分たちがなにかよからぬことをやっている
ので、それが、蜘蛛がそれを目的としていないとしても、その巣にかかって
しまうことを恐れているのだろう。
0516考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 13:59:14.170
>>507
>「かまめ」という呼称によってカモメの「かましさ」を伝えており、
>長閑な風景というより、活気づいた雰囲気を描いている。

ところで、「かまめ」が群れて立ちのぼるように飛ぶのはどういう場所
なんだろうね?
0517考える名無しさん
垢版 |
2019/02/26(火) 23:01:54.290
>>510
http://kobun.weblio.jp/content/ののしる
Cうわさする。評判になる。
出典源氏物語 若紫
「この世にののしり給(たま)ふ光源氏、かかるついでに見奉り給はむや」
Dはぶりをきかす。勢力を持つ。
出典大和物語 一二四
「左の大臣(おとど)の北の方にてののしり給(たま)ひける時に」
[訳] 左大臣の夫人として勢力を持っていらっしゃったときに。

これら(CおよびD)の現代語訳は、それぞれ別様に解釈されているが、
いずれも英語で表現するなら、"carrying weight"に相当すると考える
ことができるだろう。
https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/carry-weight
carry weight
​to be considered serious and important enough to influence other people:
The Senator's opinion carries a lot of weight in Congress.
0518考える名無しさん
垢版 |
2019/02/27(水) 01:02:59.520
ここでさらに面白いことに気付く。
「あ(合)ふ」、「そ(反)る」、「ゆ(結)ふ」などの再帰表現において、
それぞれ、「○ふ」における○が表している様態が逆作用することを
表すことになっていることを指摘した。では、「重圧がかかっている様態」
を表していると考えられる「の」の場合はどうだろう。

「のぶ」を「の」の作用が再帰的に働く様態を表す動詞であると考えると、
その名詞化が「のび」であり、それが再動詞化された形が「のびる」
である。「のびる」ことは確かにどちらの方向に「のびる」のかを
示しておらず、圧倒されて「のびて」いるのであれば、横方向に
「のびて」いることになるだろう。「のぶ」作用によってもたらされた
結果を表すのが「のぼ」であるとするなら、「のぼる」、「のぼせる」
はまさに、「の」が示す重力方向の作用とは逆向きの動作/作用を
表している。つまり、「の」の作用の再帰表現は、必ずしも「の」
が表すのとは逆向きの作用を表現することにはならないものの、
やはり、逆向きの作用を表現するようにも用いられていることになり、
「の(伸)ぶ」という上方向の表現が先に生じて、それが横方向に
「延びる」ことを表すようにも、時間的に「延びる」ことを表す
ようにも拡張して用いられるようになったのではないかと考える
ことも可能である。
0519考える名無しさん
垢版 |
2019/02/27(水) 07:25:55.940
>>507
>国原は煙立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ

「煙立ち立つ」の「煙」とは、「かまど」=《foyer》(仏語)の換喩であり、
「かまど」=《foyer》とは、世帯の換喩である。
したがって、「煙立ち立つ」をレトリックとして常識的に読むなら、
「新しい世帯が次々に築かれている」ことを表している。
0520考える名無しさん
垢版 |
2019/02/27(水) 07:28:22.740
「そ(反)る」、「そ(沿)ふ」≒"go along"→「そば(傍)」≒"along side"
という関係がある。
0522考える名無しさん
垢版 |
2019/02/27(水) 11:55:49.020
「よ(寄)る」における「よ」が再帰形において用いられると、
「よ(呼)ぶ」になり、やはり、自ら近づいていく動作が、
相手の方から近づくようにさせる動作に逆転されることになる。
0523考える名無しさん
垢版 |
2019/02/28(木) 09:57:13.300
「お(置)く」≒"put"、「お(押)す」≒"push"、「お(折)る」≒"bend"、
いずれの場合も「お」は、何らかの「力が加わる様態」のイメージを表す
ように用いられており、「お(負)ふ」という再帰形も何らかの力が
加わるような様態での"put 〜 on onself"に近いイメージを表している
ものと理解できる。

「○ふ」は、作用/動作が再帰的に働く様態を表すのだから、作用/動作
の方向性が逆転して現れるように「○ふ」という表現が使われること自体
は特に驚くべきことではないだろう。面白いのは、日本語におけるこの
「○ふ」という表現の汎用性の高さである。ところが、表現は、日常的な
用法として便利に定着するまさにそのことによって、それが本来、どの
ように用いられていたのかが意識されなくなる。例えば、「お(負)ふ」が
再帰形であるように「を(終)ふ」も再帰形であるが、この表現が本来、
どのような作用を再帰形によって表そうとしていたのか説明を求められ
ても、大抵の日本語話者は、戸惑うだろう。私も、根拠が危うい
(これも、「『あやふ』し」という再帰形である)と他人には思われる
であろう推測によってしか、この問ひに応えることができないが、
その答えは哲学的にもとても面白いものである。
0524考える名無しさん
垢版 |
2019/02/28(木) 10:13:26.010
私の推論の結論から先に述べてしまえば、「を(終)ふ」の「を」は、
今まで繰り返し検討してきた「をす」、「を(招)く」、「を(教)しふ」、
「を(惜)し」や、動作の対象を表すのに用いられる「〜を」と同じ
ものである。私は、この「を」は、本来、呼び声を表しており、
英語にするなら"Why not?"という問ひかけに対応するような意味で
用いられ、そのことによって対象の存在ではなく、むしろ、その
不在を示すように用いられていると指摘してきた。このことは、
「を(終)ふ」という表現においても当てはまるが、「を(招)く」が
不在の対象を呼び寄せることを表すのに対して、再帰形の「を(終)ふ」
は、「『を』によって示される対象が不在となる」ことを表すのである。

https://kobun.weblio.jp/content/をふ
学研全訳古語辞典
を・ふ 【終ふ】

終わる。果てる。
出典万葉集 一七六
「天地(あめつち)と共にをへむと思ひつつ仕へ奉(まつ)りし心違(たが)ひぬ」
[訳] 天地(が終わる)とともに(奉仕も)終わろうと思いつづけてお仕え申し上げた志とは違ってしまった。
0525ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/02/28(木) 10:17:28.370
世界の「をは(終)り」
0527考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 09:32:01.490
発音において「うつつ」と「うたた」は似ているが、その表現するところは
大きく異なる。「うつつ」が現実を表すのに対して、「うたた」は、「事の
成り行きがひどくなっていく様態」を表すように用いられる。
「うたて」および「うたた」について折口信夫も以下のように論じている。
https://books.google.co.jp/books?id=xPhiDwAAQBAJ&;pg=PT666&lpg#v

とはいえ、ここで私に関心があるのは、折口の議論を検討することではなく、
「うつつ」や「うたた」という発音からどのような推論を展開することが
できるかである。より簡単に言えば、私の問ひは、「うつつ」や「うたた」
が他のどのような言葉の表現と似ているのか、どのようなイメージが発音
によって想起されて用いられていると考えることができるのか、ということ
である。一見したところ、まるで別の意味を表現している「うつつ」と
「うたた」は互いに無関係なのだろうか。
0528考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 09:49:09.030
「うたた」には、従来、「転」という漢字が当てられる。
https://kotobank.jp/word/転-440171

これは、以前に既に書き込んだことであるが、私は、「うたた」はその
漢字が表すとおり、「(例えば、手を離れて)転がり落ちる様子」を表して
いるのだろうと思う。「うたた」は、英語にするなら、"tumbling down"
と表現されるような様態であるが、ちょうど、"under control"という
表現によって表される事態とは逆に、「事の成り行きがコントロール不能に
進んでいくことに対する"stupefaction"」とでも言えるような反応を
表している。その意味で、「うたた」は、フランス語の《Oh là là》という
表現や、現代の日本語の「あらら/あれれ」という表現に類似しているが、
「うたた」の方が想起するイメージにおいてより具体的であると考える
ことができる。
https://fr.wiktionary.org/wiki/oh_là;_là
0529考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 10:01:11.890
では、「うたた(転)」がそのようなイメージを表すように用いられていると
考えた場合、それが、「現実」や「現世」を表すように用いられ、従来、
「現」という漢字が当てられる「うつつ」とどのように関係していると
言えるのだろうか。その手がかりの一つとなるのが、上に「あた」と
「あつ」の関係で論じた「た」と「つ」の対比だろうと私は考えるが、
これを検討するには、それと同時に「う」という発音が、より一般的に
どのように用いられているのかも考えることが要求される。
0530考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 10:25:31.140
>>410において
>「あた」の「た」を「つ」に変化させると、「あつ」に
>なり、「あた」⇒「あつ」によって、英語で表現するなら、
>"hit”⇒"press"のようなイメージの変化が生じる。
と指摘した。

このとき、「た」は「(特に手が)接触する様態」を表すとしたが、
この説明は、「転がり落ちる様子」を表すものと解釈した「うたた」
という表現にもそのまま適用することができ、すると、何らかの
物体が坂の表面を「『た・た・き』ながら」転がり落ちていく様子
がイメージとして浮かんでくる。では、「うたた」→「うつつ」は、
「あた」→「あつ」の場合と同様に、「接触する様態」からその
「接触が持続的である様態」への変化を表すことになるのだろうか。
たとえ、そうであるとしても、この場合、「うたた」においても、
「うつつ」においても、「う」という発音がどのようなイメージと
して用いられているかは自明ではなく、「うたた」が「転がり落ちる
様子」を表しているとしても、「う」が「坂道」を表しているわけ
ではないことは、一般にそのような「う」の用法が見られないこと
から明らかである。
0531考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 10:58:05.670
「う」という発音からは、多種多様な日本語の表現が連想される。イメージ
の混乱を避けるために複合的な表現はなるべく除外して、思いつくままに
列挙しても、「う(浮)く」、「う(受)く」「う(倦)む」、「う(生)む」、
「うぶ(産/初)」、「うひうひ(初々)し」、「うみ(海)」、「う(埋)め」、
「うま(旨)し」、「うつ(鬱)」、「う(打)つ」「うつ(映)る」、「うつ(移)る」、
「うつむ(俯)く」、「うへ(上)」、「うす(薄)し」、「う(失)せる」、
「うそ(嘘)」などがすぐに出てくる。このように多種多様な表現において
用いられる「う」の発音にイメージの共通性などあるのだろうか。
大抵の国語学者や言語学者なら、この問ひ自体がナンセンスであるという
判定を下すだろう。だが、少なくとも私には、「う」の発音のイメージを
より明確にするためのヒントが、「うつむ(俯)き≒うつ(向き)」と
「うは(上)向き」の関係に隠されているように感じられる。
0532考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 11:18:49.160
以前の書き込みにおいて、私は、「うみ(海)」が、「う(膿)み」や「う(埋)め」
と共通して、英語にするなら"filling"を表していると指摘したことがある。
無論、「うみ(海)」の場合は、「(水が)一杯になる」ことを表していると
考えるのである。また、「うぶ(産/初)」は、「う(浮)く」という動詞の
再帰用法に当たるような表現であり、「うへ(上)」は、「う+ふ」という
動詞の再帰用法から派生したのだろうという推測も、そのときに示した。
「うぶ(産/初)」=「う+ふ」と「うひうひ(初々)し」の「う+ひ」が
関連していることは明白であり、「う+ふ(産)」、「う+ひ(初)」、
「う+へ(上)」が互いに関係していると見ることにそれほど無理がある
とは、私には感じられない。
0533考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 11:42:14.710
ここで、「うつむ(俯)き≒うつ向き」と「うは(上)向き」の関係から、
「うつ」と「うへ(上)」という表現がそれぞれどのようなイメージとして
用いられているのかを考えてみると、「うつ」は、「うつむ(俯)き」や
「うつ伏せ」から分るとおり、顔が下を向くイメージであり、この
ことは、「うつ(鬱)」という症状のイメージとも合致している。
これに対して、「うは(上)向き」における「うへ」は、顔が上を向く
イメージを表すことになることは言うまでもない。

ところで、「うへ」は、この表現が「うぶ(産/初)」と関連するという
私の推測が正しいとしたなら、再帰形をしている。「○ふ」という
再帰形において、「○」によって表される作用/動作の働きが、
しばしば、逆転して現れることを上で指摘したが、このことは、
「う」の場合にはあまりうまく当てはまるようには見えない。
「う(浮)く」という動詞にしてもやはり、「うへ(上)」に向かって
上がっていく作用を表しているように思え、「うぶ(産)」という
再帰形によってその作用の働きが反転されるようには感じられない
からである。では、「う」はどのようなイメージを想起させている
と考えればよいのだろうか。
0534考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 12:45:03.710
事例の検討があまりにも長くなって、迷路に迷い込むことにならないように
「う」という発音がどのようなイメージを想起させるように用いられている
のか、私の推論の結論から先に述べよう。

「う」は、意外に思えるかもしれないが、「表面(/化)」を、英語を用いる
なら「surface/surfacing」をイメージさせるように用いられている。
「う(浮)く」とは、「to surface」であり、「生む」は、その「表面化(≒
"surfacing")の作用が累加的に働くようにする」ことであり、
「うぶ(産/初)」は、再帰形として、「自らが表面化する」ことを表し、
「『うぶ(≒"naive")』」であるとは、新たな表面化としての様態を
表し、「うひうひ(初々)しさ」とは、"new faces"の新しさである。
「うす(薄)し」とは、"thin"というよりも、「表面的(≒"superficial")」
であることであり、「うそ(嘘)」は、フランス語にするなら、
《supercherie》に対応することになるだろう。《supercherie》
というフランス語は、辞書によれば、イタリア語からの借用である
とされ、もともと、《tromperie》を上回るものとして造語されたよう
であるが、《supercherie》という表現にもやはり、表面的なイメージ
が伴っているように私には感じられる。
0535ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/03/03(日) 13:01:59.590
「うたた」と「うつつ」の関係の話から大分、脱線してしまったように見える
かもしれないが、ここでようやく、「うつ(映/写/移)・す」とはどのような
作用/行為を表しているのかを論じることが可能になる(掲示板管理の連投規制
にかからなければの話だが)。

「映(うつ)す」という表現を聞いてまず思い浮かべるのは、反射作用、
つまり、"reflection"の作用だろう。だが、「う」という発音が用いられて
いる他の表現との関係から考えて、「うつ・す」が本来、表現していた
のは、「像を光として反射する作用」という捉え方ではなく、印刷に
おいて表面に像が「うつ」されるような作用としての捉え方であった
はずである。

天(あめ)

↑「うはむ(上向)き」、↓「うつむき」
う(表面/化)              うつ・す↓  うつそみ(うつされた身)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー うつつ≒現実
地(つち) or 水(みず)
0536考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 13:05:01.990
論文を書いているわけでも、商売をしているわけでもないのに
大分時間をかけてしまったから、説明が不十分だけど、ひとまず
ここらへんで切り上げます。
0537考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 17:15:36.960
「うたた」が「地表を跳ね転がる様態」を表しているとすれば、
「うつつ」は、「地表にしっかりと付いた様態」、仏語にするなら、
《terre à terre》を表しているのではないか。
0538考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 17:36:08.320
>>534
>「うす(薄)し」とは、"thin"というよりも、「表面的(≒"superficial")」
>であることであり
と指摘したが、書き込みとは無関係に、今、『Madame Bovary』を読んで
いる。その中で描かれる演説として次のような言葉が記述されている。
日本語訳を読んでいないのでどのように訳されているか知らないが、
《cette intelligence superficielle》という表現における《superficielle》
は、普通の現代の日本語に訳せば「薄っぺらい」ということになるのでは
ないか?

《Et je n'entends pas, messieurs, cette intelligence superficielle,
vain ornement des esprits oisifs, mais plus de cette intelligence
profonde et modérée, qui s'applique par-dessus toute chose à
poursuivre des buts utiles, contribuant ainsi au bien de chacun,
à l'amélioration commune et au soutien des États, fruit du respect
des lois et de la pratique des devoirs...》
― Flaubert, "Madam Bobary", p.242

根拠があいまいで、まったく無駄なことをやっているように見える
私の推論の取組みも、このように自分がよく理解していない他者の言語の
表現を解釈するのにも実際に役立つのである。
0539考える名無しさん
垢版 |
2019/03/03(日) 19:32:48.140
逆に「薄っぺらい」という現代の日本語の表現の生成を考えてみると、
本来は「薄い」だけで表面的であることを表していたはずであるが、
「薄い」が様々な文脈で多用されることによって、それが「表面的で
ある」ことを十分に表現しているとは感じられなくなり、その様態
を再び強調するために「ぺらぺら」という擬態語に見られる「ぺら」
が付け足されることになったのだろうと考えられる。
0540考える名無しさん
垢版 |
2019/03/04(月) 01:09:46.190
以下は、かつての私自身の書き込みである。

>鵜飼の鵜は、水に潜って「浮(う)かんでくる」から「う」と呼ばれる
>のではないだろうか。すると、古語では「う(兎)」と呼ばれたウサギも
>野原で跳ねて草叢から「浮(う)かんで」姿を見せるために「う」と呼ばれ
>たのではないかという推測が生じる。

このように考えた場合、「鵜(う)」と「兎(う)」はいずれも、英語にする
なら"surfacing"を表していることになるだろう。
0541考える名無しさん
垢版 |
2019/03/04(月) 01:19:10.620
「鵜(う)」は、水面に「浮かんでくる(≒"surfacing")」鳥であるのだから、
「鵜(う)」という呼称をそのような捉え方を表現するものと見ることは
なんら不自然ではないだろう。「兎(う)」に関しても、同様の捉え方を
することがごく自然であることは、少し英語で検索してみると、そのよう
な表現がすぐにヒットすることから分る。

https://francescavarela.wordpress.com/2018/07/08/the-rabbit-kingdom/
>Something brown and close to the earth darted toward the stage.
>A rabbit. White cottontail. Soft brown fur, close-cut and smooth
>like moss. We crept closer. Two more rabbits surfaced from their
>bush kingdom.

すると、根拠のあいまいな私の類推は、英作文をするのにも現実に役立つ
ことになる。
0542考える名無しさん
垢版 |
2019/03/04(月) 07:58:40.090
ところで、ウサギの古語である「兎(う)」が"surfacing"を表すことを意図する
呼称であるとすると、「う・さぎ」の「さぎ」は、英語にするなら
"split second(≒「一瞬」)"を表現すると解釈されることになり、「さぎ」
は、「さ(裂)く」の名詞化としてそのまま英語の"split"に対応することになり、
「う・さぎ」="surfacing split second"≒「一瞬、(草叢から)浮く者」という
解釈がもたらされるわけです。すると、そこから、古語における「見さく」
という表現も同様に"see split second"≒「一瞬、見る/見える」ことを表して
いるという解釈が自然に帰結する。

しかし、実は、この「さく」の解釈は、日本文学の古典の解釈にも、日本の
古代史の研究にも著しい不都合を生じる。万葉集の歌は、それを「あるときに
ある場所においてある人物がある状況において詠んだ」という解釈が崩れ、
それとともに、そのような解釈を支えている日本の古代史の常識が通用しなく
なってしまう。

さて、どうしたものでしょう。私は、日本文学の古典の研究者でもなければ、
日本の古代の研究者でもないので、言葉の表現の解釈の整合性を追求できれば
それでいいのですが。
0543考える名無しさん
垢版 |
2019/03/04(月) 11:20:50.190
425 :恋人は名無しさん :2019/03/04(月) 08:50:52.02 ID:2wRDIMQJ0
SMみたいなことは覚めるけど
ナチュラルなSはたまらなく興奮する。
その代表行為が言葉責めだよなぁ。
でもオタっぽいやつや下手な奴の勘違い責めは覚める。

普段から仕事とかバリバリしてて
色気とセンスがある男性の
気持ちいの?もっとおかしたるね
みたいな言葉責めはほんととろける…
0544ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/03/05(火) 01:03:37.970
「うつ」、「うつ・る」、「うつ・す」の関係を論理的に説明しようとする
なら、>>535の図は下記のように訂正した方がいいかもしれない。

天(あめ)

う(表面(/化))    うつ↓↓↓↓↓↓↓  うつ・そ・み(うつされた身)
ーーーーー[***うつ・る***]--[うつ・す(≒"let")↑]ーー うつつ≒現実
地(つち) or 水(みず) or 心(こころ)
0545考える名無しさん
垢版 |
2019/03/05(火) 07:48:24.890
          天(あめ)
         ↓た(垂)る↓

う(表面(/化))   (↑う○ぶ↑)→→→なが(流)る→→
_________[***うく***]________
地(つち) or 水(みず) ↑↑↑↑↑
          ↑↑うむ[⇒うみ(海)]↑↑
0546考える名無しさん
垢版 |
2019/03/05(火) 07:56:59.670
う(表面(/化))   ←←うごく→→
_________[***うく***]________
地(つち) +++うごめく+++
0547考える名無しさん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:11:09.450
「うつ・そ・み(うつされた身) 」が「うつつ≒現実」を記述するとはどういうことだろうか?

「うつ・そ・み(うつされた身) 」は、「み(身/実)・つ・から(柄/体)」として実体化
されているが、その「うつつ」における(つまり、「地についた」)「す・がた(姿)」
は、「『うつされた』もの」でしかない。「うつ・そ・み(うつされた身) 」には、
「『うつつ≒現実』の事象」は、心(こころ)を「うつ」ものとして、心に「うつる」
ことにより現れる。したがって、「『うつつ≒現実』の事象」は、それが何らかの
姿形を有するなら、それは常に既に心が「うつ・す」ものとしてある。だから、
現実の事象を記述しようとするなら、心を観察することにより、心にうつりゆく
ものを書き留めようとすることになる。ところで、観察される心そのものは、
「うつそ身」として実体化され得ない。なぜなら、「身も心も」と表現される
とおり、身と心は常に別物だからである。
0548考える名無しさん
垢版 |
2019/03/05(火) 09:12:26.070
誤:それは常に既に心が「うつ・す」ものとしてある
正:常に既に心が「うつ・す」ものとしてある
0549考える名無しさん
垢版 |
2019/03/05(火) 10:37:50.130
〜が心を「うつ」
心に〜が「うつる」
心が〜を「うつす」
0550ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/03/05(火) 17:47:10.160
>>534 >>538-539
「うす(薄)し」が、「表面的(≒"superficial")である様態を生じる」ことを
意味しているとするなら、「う(失)す」は、「表面的になることによって、
希薄化して消えてゆく(例えば、布が使用によって摩耗して、『ぺらぺら』に
なって消えてゆくように)」ことを表しているものと理解することができる。
仏語を用いるなら、「う(失)す」≒《exténuer》ということになる。
したがって、「臼(うす)」≒《machine à exténuer》と解釈することが
できる。

私は、このような解釈が絶対に正しいと主張するつもりはない。しかし、
語呂合わせだけでここまで仮説のネットワークを広げることができるなら、
単に記憶を助けるための手段と考えても有用性が認められるはずである。
少なくとも、単なる音の重なりによるまったくナンセンスな語呂合わせ
よりは、記憶術としてもはるかに合理的だろう。後で、仮説が誤りで
あったことが判明したとしても、仮説を立てたことが無駄であったことに
はならないし、そもそも、仮説のネットワークを蜘蛛の巣のようなもの
であると考えるなら、「獲物がかかるかどうか不確かなところに糸を張り
巡らせていることは無駄である」と主張する方が馬鹿げている。
0551考える名無しさん
垢版 |
2019/03/05(火) 19:08:47.870
言葉は無重力である
0552学術
垢版 |
2019/03/05(火) 19:40:58.720
言の葉遊び 言霊 から 乙ダマ。
0553考える名無しさん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:38:08.690
https://ja.wikipedia.org/wiki/阿蘇市
>『日本書紀』には阿蘇国造の祖先でもある阿蘇都彦(あそつひこ)・
>阿蘇都媛(あそつひめ)の2神が登場し、この2神がいたことが
>「阿蘇」の地名の由来であると記される。

これは説明の順序がおかしい。なぜなら、「あそ・つ・ひこ」、
「あそ・つ・ひめ」の「つ」は明らかに、「ま(目)・つ・げ(毛)」の「つ」
と同じ用法であり、「あそ」が場所であることを示しているからだ。
阿蘇(あそ)という場所に特徴的なのは、誰が考えても阿蘇山であり、
「あそ」は、山の枕詞として使われる「あし・ひき・の」の「あし」に
直接に関係していると考えるのが自然だろう。「あし」→「あそ」
であり、山や崖に関する限り、「あし」は「(空高く)離れている」こと
を表すように用いられるので、「あそ」はそのまま、「(空高く)離れた」
を表していると解釈することが可能である。
0554考える名無しさん
垢版 |
2019/03/07(木) 13:12:53.010
「同じ日本語」を使っていると考えられている人々の間でも、事物を表すのに
用いられる表現には違いがあり、「同じ表現」を用いているとされる場合でさえ、
地域により発音が異なる。そのような言葉の違いは、通常、「方言」と呼ばれる。
したがって、ある発音が特定のイメージを想起させるように用いられるとしても、
個々の発音が想起させるイメージは、使われている「方言」により異なること
になる。互いに異なる方言を話す人々が会話しようとする場合、最初、相手の
言っていることがよく聞き取れないとしても、方言の違いが主に発音の違いに
過ぎず、用いている表現や語彙が大部分重なっている場合、次第に相手の発音
の「くせ(癖/曲)」に慣れて、相手の言葉が自分の話す言葉とどのように対応
しているのか自然と分るようになってくる。これは、特定のイメージを想起さ
せるように用いられる発音が互いに異なるとしても、それぞれの方言において、
発音がそれなりに整合的に、つまり、「同じ方言」を話す人々の間での混乱
を回避するように用いられているからである。しかし、「発音がどのような
イメージを想起するように用いられているか」、その対応関係が自らの
言葉における場合に照らして見えてくることは、同一の言語の方言の間
だけでなく、日本語とフランス語、日本語と英語など、互いにまったく異なる
とされる言語の間でも生じる。というより、むしろ、そうでなければ、自ら
の母語を捨てることなく、他者の言語を身に付けることは不可能になるだろう。
0555考える名無しさん
垢版 |
2019/03/07(木) 13:28:21.250
以前、私は、『夜の果てへの旅』という題名で訳されているセリーヌの小説、
"Voyage Au Bout De La Nuit"の"Au Bout De La Nuit"は、「夜の果て」
と訳されているものの、日本語の「あした(明日)」に相当すると指摘した。
これは、「あし(≒離れるように延びている)・た([手が触れるように]接触
する様態)」という解釈である。そのように解釈した場合、フランス語の
"bout"がちょうど、日本語の「た」に対応していることになる。ところで、
フランス語の"debout"という表現は、日本語にすれば、「た(立)っている」
ことだろう。つまり、フランス語の"-bout"に対してやはり、「た」が対応
しているように見える。このことは偶然に過ぎないのだろうか。その
答えは、フランス語の"bout"の語源的な解釈を辞書で調べればすぐに得られる。
0556考える名無しさん
垢版 |
2019/03/07(木) 13:42:44.400
"bout"を派生させたのは、"bouter"という動詞であるとされ、"bouter"は、
「たた(叩)く」ことを意味している。無論、「たた(叩)く」ことは、日本語
でも、「ぶつ」と表現され(「ぶつかる」の「ぶつ」と共通するイメージ
だろう)、音のイメージを保持しようとするなら、「ぶつ」と訳す方が適切
だろう。しかし、いずれにしても、仏語の"bout"が「端」を意味するのは、
「あ『た』る」作用としてであり、仏語の"but"も、何かが「あ『た』る」
ものとしての目標や標的などを表しているのである。

https://fr.wiktionary.org/wiki/bouter#fr
(XIe siècle) Du vieux-francique *bōtan [1] (« frapper, pousser ») →
voir beat en anglais ; plus avant, d’un étymon indo-européen *bhā̆u-,
bhū̆- (« frapper ») qui donne le latin re-futo (« repousser (une accusation),
réfuter ») et fust-igo (« battre, fustiger »).

関連すると考えられている表現として、英語の"butt"があるが、これも
やはり、「あ『た』る」イメージを想起させる発音である。
0557考える名無しさん
垢版 |
2019/03/07(木) 14:08:59.480
さらに別の例をとると、仏語の"plat"、英語の"flat"は、「た・ひら(平)」
であること、「ひら(平)たい」ことを意味しているが、、仏語の"plat"に
しても、英語の"flat"にしても、日本語の「ひら」に発音そのものが似て
いないだろうか。仏語の"plat"について検索すると、その語源は、
ラテン語に求められ、さらにギリシャ語に求められるとされる。

https://fr.wiktionary.org/wiki/plat
Du latin populaire *plattus, issu du grec ancien πλατύς, platus.

そこでさらにリンクをたどると、以下のように説明されている。
https://fr.wiktionary.org/wiki/πλατύς#grc
De l’indo-européen commun *pl̥th₂us. Apparenté au latin planus,
au lituanien platus.

語源的な系統がどのように辿られるにせよ、印欧語において"pla"に近い
発音が、日本語の「ひら」が想起させるのと同様に、「平たい」イメージを
想起させるように広く用いられてきたことが分る。ちなみに、プランは、
外来語として「計画」の意味で日本語に取り入れられているが、英語で
"plan"と言えば、まず想起されるのは平面図だろう。

ところで、印欧語において用いられる"pla"およびそれに近い発音と、
日本語の「ひら」という発音に関して、それぞれが想起させるイメージに
注目することは無意味なのだろうか。ここで、英語の"plan"の語源について
の説明を検索すると、さらに面白いことが分る。
0558考える名無しさん
垢版 |
2019/03/07(木) 14:27:53.920
https://www.etymonline.com/word/plan#etymonline_v_16431
from French plan "ground plan, map," literally "plane surface"
(mid-16c.), from Latin planum "level or flat surface," noun use
of adjective planus "level, flat" (from PIE root *pele- (2) "flat; to spread").

ここで面白いことというのは、 「from PIE root *pele- (2) "flat; to spread"」
という説明における "*pele-"が、日本語の「ぺらぺら」という擬態語における
「ぺら」と、その発音においても、想起させるイメージにおいてもそっくり
であることであり、しかも、 "*pele-"の語源的な説明を参照すると、そこには、
"*pele-"の異なる用法から、"*pele- (1)"および"*pele- (2)"として2つの
別々の語源が求められているが、その(1)と(2)のいずれの用法も、「表面(/化)」
を表すものと上記に解釈した、日本語の「う」(例えば、うみ《海》、う《生》む、
う(倦)む、う《浮》く、うす《薄》し、うす《臼》などにおける)の用法と
ぴったりと合致することである。

https://www.etymonline.com/word/*pele-?ref=etymonline_crossreference#etymonline_v_52599
*pele- (1)
*pelə-, Proto-Indo-European root meaning "to fill," with derivatives referring
to abundance and multitude.
*pele- (2)
*pelə-, Proto-Indo-European root meaning "flat; to spread."
0559考える名無しさん
垢版 |
2019/03/07(木) 14:44:55.940
つまり、印欧諸語とはまったく異なる日本語の「う」という発音の用法の解釈が、
まるで発音も異なる印欧祖語において想定される"*pelə-"という発音の用法を、
それが日本語の「う」と同様に(表面(/化)」をイメージさせるように用いられて
いると理解するなら、総合的に説明してしまうことになるのである。しかも、
それが日本語の「ぺらぺら」という擬態語とそっくりであるという認識を
もたらすというおまけつきで。
0560考える名無しさん
垢版 |
2019/03/07(木) 16:58:33.950
分りやすいように具体的な例を挙げよう。
語源的にどのように説明されようと、英語の"plenitude"は、その発音
から、日本語の「うみ(海)」と重なるイメージを想起させ、同様に、"plaster"は、
日本語の「うは(上)ぬ(塗)り」と重なるイメージを想起させるということだ。
0561ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/03/07(木) 17:04:50.740
人の感性は時代と地域を超えて、それを人々が認めることを潔しとする以上に
互いに似通っているのである。
0562考える名無しさん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:19:52.710
かつては、言語系統論を論じる際、擬態語や擬音語は比較評価の対象から除く
という規範が言語学にはあったはずである。だが、現実には、そのような
規範を遵守することは不可能だ。なぜなら、いずれの表現が、擬態語や擬音語
に由来するのかを判断する明確な基準を持たないからである。
0563考える名無しさん
垢版 |
2019/03/08(金) 08:44:28.370
>英語の"plenitude"は、その発音から、日本語の「うみ(海)」と重なる
>イメージを想起させ

三島由紀夫の『豊饒の海』の英訳のタイトルは、それが月の海に付けられた
名前、"Mare Fecunditatis(豊かの海)"に由来するという三島の明示的な説明
から、"The Sea of Fertility"とされている。しかし、"fertility"は、
「『う(生)む』潜在力」を表すにしても、「担ってもたらすこと」こと、
"bear (fruit)"に関連する表現であり、「月の海の豊饒さ」を伝える
「名前」が想起させるイメージとは異なるだろう。むしろ、「月がみ(満)ちる」
イメージと、「海(うみ)」という発音が呼び起こすイメージと、「豊饒さ」
≒"plenitude"のイメージの重なりを生じる名称が、現実には、「荒涼たる
月世界の水なき海の名」であるという対照性が、強い印象を三島に残した
と考える方が妥当ではないのだろうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/三島由紀夫
『豊饒の海』
この詩集には、荒涼たる月世界の水なき海の名、幻耀の外面と暗黒の実体、
生のかゞやかしい幻影と死の本体とを象徴する名『豊饒の海』といふ名を
与えよう、とまで考へるやうになりました。
0564考える名無しさん
垢版 |
2019/03/08(金) 16:43:54.230
日本語の「はく」は、フランス語の《passer》または《faire passer》
に相当するのだろうか?

は‐く
【吐く】
1. 体内にあるものを口または鼻から外へ出す。「血を―」
2. 中から吹き出す。「煙を―煙突」
3. 口に出して言う。「広言を―」

は‐く
1. 【穿く】 《五他》(足先の方から通して)足・もも・腰にまとう。
「はかまを―」
2. 【履く】 《五他》はき物を足先に着ける。
「長靴を―」
3. 【佩く】 《五他》太刀を腰に、(横に)つるようにして着ける。
「黄金(こがね)造りの太刀を下げ―」

は‐く
【掃く】
1. ほうきでごみなどを払い除く。「庭を―」
2. はけなどを使ってさっと軽く塗る。「眉(まゆ)を―」
0565考える名無しさん
垢版 |
2019/03/08(金) 16:49:48.620
日本語の表現の意味を適切に解釈しようとするなら、国語学は自然に脱構築される。
0566考える名無しさん
垢版 |
2019/03/08(金) 16:53:55.960
国語学のイデオロギー批判などというものは、それ自体がイデオロギー的なイカサマだろう
0567考える名無しさん
垢版 |
2019/03/08(金) 19:32:06.480
フランス語の《passer》は、俗ラテン語の"*passare (« traverser »)"に由来
するとされる。

https://fr.wiktionary.org/wiki/passer
>Du latin vulgaire *passare (« traverser »),
>dérivé de passus (« pas »)

他方、日本語の「は行」の発音については、以下のような定説がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/は行
>ハ行の子音は、遠い上古の時代には [*p] 音であった可能性が高い
>と言われている。

以前、私は、「『はか』ない」、「そこ『はか』となく」の「はか」
は、「歩み」を表しており、フランス語の«pas»に相当するだろうという
考えを書き込んだことがある。「はく」という動詞が、フランス語の
《passer》または《faire passer》に相当するものと解釈することが
できるなら、きれいな対応関係を見て取ることができるだけでなく、
発音にも類似性が認められることになる。
0568考える名無しさん
垢版 |
2019/03/08(金) 19:48:37.880
そのように解釈される「はか」は、「はか(測/計/図/謀)・る」の
「はか」でもある。
0569考える名無しさん
垢版 |
2019/03/08(金) 22:06:40.010
>「はく」という動詞が、フランス語の《passer》または
>《faire passer》に相当するものと解釈することができるなら

「みず『は(捌)け』」の「はけ」は、仏語にするなら《faire passer》を
意味していないだろうか。また、そう解釈することが妥当であるとするなら、
「さば(裁/捌)く」=「さ・はく」の「はく」も、本来は、同様の意味合い
で用いられていたのではないか。
0570考える名無しさん
垢版 |
2019/03/09(土) 07:57:55.960
以下は、私自身による以前の書き込みである。

713 :考える名無しさん:2016/03/16(水) 23:59:22.84 0
では、「しぶ(渋)」は、本来、「味」を表していたのではないとすれば、
何を表していたのだろうか。その答えは、「渋い」や「渋る」の現代の
日本語の用法からも簡単に見出すことができる。

「回転が渋い」と言えば、「滑らかに回らない」ことであり、「金を出し
渋る」と言えば、「金を出すのを嫌がる」ことである。これは、古語の
「しぶし」の用法そのものであり、岩波古語辞典で「しぶし【渋し】」
を引くと、「Aなめらかにゆかないこと。とどこおりがちだ。」と
記載されている。英語を用いるなら、「hard to go through」や
「unwilling to go through (e.g. with the payment)」などの表現が
「しぶ」に相当することになる。食べ物の場合に適用して考えて
みれば、「しぶ」が語源的に表していたのは、なによりもまず、
口や喉を「通りにくい」ことであっただろうと考えることができる。
0571考える名無しさん
垢版 |
2019/03/09(土) 08:34:24.120
これを見て、なにか気づかないだろうか。
そう、「しぶ(渋)」は、再帰形をしているのであり、他の事例でしばしば
見られるとおり、この場合もやはり、「○ふ」という形式において○に
よって表される作用/動作を逆転する表現となっている。

「す」という発音が、無為を表すように用いられ、英語にすれば、
"without hindrance"に相当するような態様を表現するように用いられる
ことを既に繰り返し指摘してきた。また、形容表現における「〜し」の
「し」が、この「す」から派生したものであると推測されることも
以前にしてきした。したがって、「し」も、"without hindrance"、
"letting"、"through"に相当するような意味合いを表すものとして、
しばしば、解釈され得るわけだが、「しぶ(渋)」は、その再帰形として、
ちょうどその逆の作用/動作を表しており、「しぶ(渋)し」と
いう表現は、"with hindrance"、「hard to go through」、
「unwilling to go through (e.g. with the payment)」に相当する
ように解釈されることになる。
0572考える名無しさん
垢版 |
2019/03/09(土) 08:38:06.080
括弧の使用が意味もなく不統一になったので、訂正する。

誤:「hard to go through」、「unwilling to go through (e.g. with the payment)」
正:"hard to go through"、"unwilling to go through (e.g. with the payment)"
0574考える名無しさん
垢版 |
2019/03/09(土) 09:02:30.770
再帰表現そのものは、ラテン語系のフランス語、イタリア語、
スペイン/ポルトガル語でも、ドイツ語などのゲルマン系の言語でも
お馴染みだろう。だが、ここに説明する日本語の表現におけるように、
再帰形によって表現される作用/動作が逆転されるような汎用的な
再帰形の用法は見られない。無論、英語でも、ラテン語に由来
する"turn to 〜"が「〜の方を向く」ことを意味し、"return to
〜"が「〜の方に向き直る」ことを意味するのだから、作用/動作
の逆転を表すような再帰的な表現は存在するが、このような日本語
の表現に特徴的な再帰形の用法を意識することは、日本語で哲学
をするうえで極めて重要だろう。そうでないと、例えば、九鬼
のように、単に「しぶ(渋)」を味覚として「あま(甘)」に対立
させて理解することで満足するような概念の整理を哲学ととり
違えてしまうことになる。
0575考える名無しさん
垢版 |
2019/03/09(土) 09:27:01.940
言語学の根本的な欠陥は、それが、発音を"vorhanden"なものとして扱う
ことを「伝統」としており、言葉の表現において発音が本来的に"zuhanden"
なものとして用いられていることを、その「伝統」を守るために、つまり、
言語学の学としてのアイデンティティを守るために意識的に否定することである。
言語の発音は、表現する人々の恣意によってではなく、法則によって機械的に
変化したということにしないと都合が悪いと考えているのだ。ここには、
恣意性についての哲学的な混乱があり、なおかつ、哲学的な議論に入り込む
ことを回避するために、それを話題にすることすら避けるのである。

「野生の思考」によって「ブリコラージュ」を自らの思想の中心概念に
据えながらも、伝統的な言語学のイデオロギーを人文学全体が見習うべき
科学的なモデルを代表するものとして賞賛したレヴィ=ストロースの構造
主義の流行は、哲学的な混乱を長引かせる結果をもたらしたと言わざるを
得ないだろう。レヴィ=ストロースが直接に手本としたローマン・ヤコブソン
の言語学は、言語学の伝統の枠組みからは大きく外れるものなのだから、
なおさらである。
0576考える名無しさん
垢版 |
2019/03/09(土) 10:31:03.990
哲学的表現は、文学的表現に常に遅れをとる。
これは、別に文学をする者の方が哲学をする者より感性が優れている
という意味ではない。同一の人物が文学的表現と哲学的表現の両方を
用いたとしても、原理的に前者の方が後者に先立つのである。
なぜなら、新たな反省は、決して先に立つことがないからである。

哲学は、表現がどのような捉え方であるのかを言葉によって明らかに
しようとする。文学者は表現することに専念しているので、自らの
用いる表現がどのような捉え方であるのか説明を求められても、
それをすることができない。より適切な捉え方があるなら、
最初から、そのような表現を代わりに用いているからである。
したがって、自分の表現を説明しようとしても、文学者は、哲学
をすることがない限り、説明不能の状態に陥らざるを得ない。

哲学をすることは、文学的な表現を哲学の概念によって説明する
ことではない。哲学がするのは、表現の捉え方を言葉によって
表現することである。だから、文学を哲学的概念で説明しよう
とすることは、文学的表現を説明することにすらならず、哲学の
用語を用いたコメントにしかならない。しかし、多くの人々は、
自称哲学者や、哲学的であるという評価を得ようとする文学者
も含め、こちらの方を哲学と取り違えるのである。
0577考える名無しさん
垢版 |
2019/03/09(土) 11:42:09.510
>>564
私は、辞書的な用法に照らしても、他人が理解に苦しむようななにか独特の
解釈をしているわけではない。素直にコモンセンスを認めればいいだけではないのか。

>【掃く】
>2. はけなどを使ってさっと軽く塗る。「眉(まゆ)を―」

http://beaute-blog.blogspot.com/2009/03/comment-se-maquiller-les-sourcils.html
《On fait passer le pinceau du coin externe du nez au coin interne de l'oeil》
0578考える名無しさん
垢版 |
2019/03/09(土) 12:46:14.740
>>564 >>567-569
ここで、ラテン語系の言語であるフランス語における"passer"または"faire passer"
と、地理的に遠く離れて直接の緊密な関係があったとも考えにく日本の言語に
おける「はく」という表現の間に、なぜその発音と用法の両方においてこれほどの
共通性が認められるのかと問ふなら、その答えとして、ラテン語−日本語同源説
のような神秘的な説を提唱すべき理由はまったくないだろう。

既に指摘したとおり、「○く」、「○る」、「○す」、「○む」、「○ふ」
のような動詞において、「○〜」の「〜」は、副詞的に用いられていたと
考えることができ、○それ自体で作用/動作/様態を表現していたと推定される、
または確認される表現が数多く存在する。では、「はく」の「は」が
どのような作用/動作/様態を表していたと考えられるのかと言えば、それは、
「歩く」作用/動作/様態であると考えるのが自然だろう。さらに、古代の
日本語では、「は」の音は「ぱ」と発音されていたという定説に従うなら、
その「ぱ」は、歩む足音を模した擬音語として「歩く」作用/動作/様態を
換喩的に表すように用いられたと考えることができる。「パ」と発音される
フランス語の《pas》も「歩み」を表すわけだが、そもそもラテン語における
"*passare"の「パ」の音がやはり、擬音語として「歩く」ことを表すように
用いられたと考えるなら、互いに地理的に遠く離れた日本語の表現と
フランス語の表現が、発音においても意味においても似ていることに何ら
不思議はないことになる。
0579考える名無しさん
垢版 |
2019/03/09(土) 12:47:24.850
ただし、特定の発音がどのように「手頃に」用いられるようになるか
あらかじめ予測することはできず、また、逆に特定の表現が擬音語に
由来するとしても、その表現の意味から、それがもともとどのような
擬音語であったのかを直ちに見極めることはできない。フランス語では、
《pas》は否定の表現に用いられ、日本語では、それに対応するような
「は」の発音の用法は見当たらない。また、広がりを表すように用いら
れる日本語の「はら(原/腹)」は、「は」が「歩く」作用/動作/様態を
表していたとするなら、歩いて渡る広さをイメージしたものとして用い
られた可能性が考えられるが、「はら(原/腹)」とという表現から足音の
擬音語を直ちに認知することはできないだろう。
0580考える名無しさん
垢版 |
2019/03/10(日) 03:21:49.950
言葉は主体から意図するそれに無力でも、
意図しない きっかけを与えるには力がありすぎる。
おまえらわかっとらんだろ
0581考える名無しさん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:10:14.180
ズボンを「は(穿)くとは、≒ズボンの穴に脚を通す(=《faire passer》)ことだろう。

>On sous-estime l'utilité des mains lorsqu'il s'agit de passer un pantalon,
>et vous allez vite comprendre pourquoi!
0582考える名無しさん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:36:41.830
>>418 >>427-429
>>564
日本語の「はく」が、フランス語の《passer》または《faire passer》
に相当することが認識されると、それに伴って、「はく」との対比
により、日本語の「すく」、つまり、「す(梳/鋤空/透/好、etc.)く」は、
仏語の《laisser passer》に相当することが分る。ここで、既に
指摘したとおり、日本語の古語の「すきずきし」は、英語の"passionate"
(無論、ラテン語に由来する) に相当することは注目に値する。
"passion"は、それが語源的に説明される場合、「受苦」としての
文脈ばかりが強調されるものの、その発音により、>>429の記述に
明確にみられるとおり、「素直に入ってくる」ことをイメージとして
想起させるのである。
0583考える名無しさん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:46:03.140
日本語の「すく」が仏語の《laisser passer》に相当すると言っても、
「はく」の場合とは異なり、「すく」には、《passer》に近い発音は含まれない。
このことは、日本語の「すく」という表現が、「す」の発音に伴う「息が通る
感覚」によって「通るイメージ」を直接に想起させるのに対して、仏語の
《laisser passer》という表現は、「歩いて通るイメージ」を「通る」ことの
イメージとして汎用化して流用していることによるものである。
0584考える名無しさん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:02:01.490
言葉の表現における発音は、音ではなく、行為である。
日本語の表現における発音がどのようなイメージを生じるように用いられて
いるかを検討してみると、発音をするときに自ら(み・つ・から≒身体)に
どのような状態や感覚が生じているのかをよく観察して、その状態や感覚
をイメージとして巧みに利用していることが分る。
0585考える名無しさん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:18:55.940
誤:「す(梳/鋤空/透/好、etc.)く」
正:「す(梳/鋤/空/透/好、etc.)く」
0586考える名無しさん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:20:07.210
誤:ズボンを「は(穿)くとは
正:ズボンを「は(穿)く」とは
0587考える名無しさん
垢版 |
2019/03/11(月) 11:34:38.270
>>574
作用/動作の逆転を表現することに関して、次のフローベールの文は印象的だ。

《Quelque chose de vertigineux se dégageait pour elle de ces existences
amassées, et son cœur s’en gonflait abondamment, comme si les cent
vingt mille âmes qui palpitaient là lui eussent envoyé toutes à la fois la
vapeur des passions qu’elle leur supposait. Son amour s’agrandissait devant
l’espace, et s’emplissait de tumulte aux bourdonnements vagues qui
montaient. Elle le reversait au dehors, sur les places, sur les promenades,
sur les rues, et la vieille cité normande s’étalait à ses yeux comme une
capitale démesurée, comme une Babylone où elle entrait.》

Flauber, "Madame Bovary", p.394
0588考える名無しさん
垢版 |
2019/03/11(月) 16:23:00.250
>>564
https://kotobank.jp/word/脇差-153950
>鎌倉時代以前の太刀は腰に差すものではなく,刃を下に向け,鞘 (さや) に
>ついている帯取りの緒で腰につるした。これを佩 (は) くといったが

この「は(佩) く」の意味解釈は、「は(穿/履)く」、「は(掃)く」、
「は(吐)く」の用法から見て、明らかにその表現の元の用法の意図が
見失われて、後付け的に生じたものだろう。「刀をは(佩)く」場合の
「はく」も、「鞘についている帯取りの緒で腰につるす」ことではなく、
もともとは、「は(穿/履)く」場合と同様に、刀を「(鞘の穴に)通す」こと
を表していたはずである。
0589考える名無しさん
垢版 |
2019/03/11(月) 16:27:36.880
《Charles, en passant une de ses bottes dans le cabinet noir où l’on
serrait ses habits, sentit une feuille de papier entre le cuir et sa chaussette》

Flauber, "Madame Bovary", p.404
0590考える名無しさん
垢版 |
2019/03/12(火) 08:54:04.810
日本語の多くの表現は、インデックス性を反転させることによって冗長性
を回避している。「袖に腕を通す」と言う代わりに「袖を通す」と表現する
のは、袖に通されるのが首でも脚でもなく、腕であることが自明だから
だろう。ところが、インデックス性が反転されることによって派生した
表現がそれぞれまったく別々の文脈によって用いられることにより、
表現に用いられているインデックス性自体がどのようなものであったのか
が見失われる。このことは、さら(晒)す(="expose")/さ(去)る(="remove")
のような例を見れば分りやすいだろう。うみ(海)や膿(うみ)は、満ちること
によって表面(=う)が上がってくることを表していたと考えられるが、
「うす(薄)っぺらい」という表現と共通で「う」によって表される
インデックス性を利用していることは完全に忘れ去られている。
「はく」の場合、同様に穴を「通る」ことを表現していても、「袖を通す」
と「(袖に)腕を通す」の関係のように、「靴/ズボンをはく」と
「刀をはく」では、前者の表現が「穴がある物」を通す動作の対象として
特定するのに対して、後者は穴に「通す物」の方を動作の対象として特定
しており、それぞれの「はく」は別々の表現であると捉えられるように
なっている。さらに、「は(吐)く」という表現になると、「穴がある物」
も「通す物」も特定する必要性が失われて、「穴を通る」作用だけが
強調されることになり、やはり、「靴/ズボンをはく」と「刀をはく」
のいずれの「はく」とも別の表現であると見なされるようになっている。
とはいえ、これらの「はく」は、「通す/通る」ことがすべて「穴」に
関係するように特化して用いられている。それに対して、より語源的な
用法に近いと思われる「は(掃/刷)く」では、英語で表現すれば、
"sweep"に対応するような意味合いで用いられるようになっており、
「通る」作用/動作に伴う円滑な動きの様態そのものが強調されている。
0591考える名無しさん
垢版 |
2019/03/12(火) 11:43:56.010
日本語の古語の「そぼ(濡)つ」と英語の"soak"は、発音が想起させるイメージが似ている。

https://dictionary.goo.ne.jp/jn/131375/meaning/m0u/
《古くは「そほつ」「そほづ」》
1 雨や涙などにしっとり濡れる。うるおう。
「浅みにや人はおりたつ我がかたは身も―・つまで深きこひぢを」〈源・葵〉

2 雨がしとしと降る。そぼ降る。→降り濡 (そぼ) つ
あけぬとてかへる道にはこきたれて雨も涙もふり―・ちつつ」〈古今・恋三〉
0592考える名無しさん
垢版 |
2019/03/12(火) 11:52:36.750
"soak"の語源となったと想定される「 *seue- (2) "to take liquid"」
という再建された発音は、想起させるイメージが日本語の「す(吸)ふ」に
似ており、外来語として日本語に入った「スープ」という語も、この
語根に関連していると考えられている。

https://www.etymonline.com/word/soak#etymonline_v_23802
soak (v.)
Old English socian (intransitive) "to soak, to lie in liquid," from
Proto-Germanic *sukon (source also of West Flemish soken), possibly
from PIE *sug-, from root *seue- (2) "to take liquid" (see sup (v.2)).
0593考える名無しさん
垢版 |
2019/03/12(火) 11:56:42.170
吸う作用/動作=「すふ」 ⇒ 吸った状態=「そほ」であると類推することができる。
0594考える名無しさん
垢版 |
2019/03/13(水) 10:34:13.740
>>509
>多くの日本語の表現において「の」は、「重圧がかかっている様態」を
>イメージとして伝えるように用いられる。
>>514
「のろま」は、動きが鈍重な者を指す表現だろう。

日本語の「のろま」≒フランス語の《lourdaud》であり、
これは、辞書に記載されるとおりである。
事物の捉え方は、言語が異なっていても、一般に考えられている以上に
共通している場合が多い。
0596ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/03/13(水) 10:40:13.390
>>594
したがって、母語としての日本語の表現をより深く理解しようとすることと、
他者の母語を学んで身に付けようとすることは、決して2つの別々のことではないのだ。
0597考える名無しさん
垢版 |
2019/03/13(水) 18:10:14.880
日本語の多くの表現において、「く」という発音は、「く(来)る」に
代表されるように「中心に向かう作用/動作」の様態を表現するように
用いられ、「こ」は、「ここ」に代表されるように「中心に向かった
状態≒集中した状態」を表現するように用いられているように思える。
0598考える名無しさん
垢版 |
2019/03/13(水) 18:37:21.960
ところで、英語の表現で頻繁に用いられる、「一緒に」、「共同で」を
表現する接頭辞の"co-"は、ラテン語の"com"に由来するが、これは
さらに印欧祖語の"*ḱóm"に由来するとされ、その語根は"*ḱi- ~ *ḱe- ~
*ḱo- or *-ḱe"ではないかとされ、この語根は、「ここ」および
「これ」を意味していたと想定されている。

https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/ḱ;e
*ḱi- ~ *ḱe- ~ *ḱo- or *-ḱe
1. Deictic particle, here
2. Post-positional demonstrative particle, this
0599考える名無しさん
垢版 |
2019/03/13(水) 18:39:50.350
日本語−印欧語同源説を唱えようとするなら、その「根拠」は容易に数多く見出すことが
できるのであるw ただし、既に述べたとおり、私は、そのような説を唱えることに
意味があるとは考えていない。
0600考える名無しさん
垢版 |
2019/03/13(水) 22:15:39.790
59 :こじ ◆jDjYTwtZiI :2019/03/13(水) 22:04:58.12 ID:fPT1EbEv
織田無道に師事しとる大山は

親父がセンズリこいて飛ばした精液がシーツにこびり付いて、たまたま母ちゃんの
割れ目に入ってしまい、予期せずしてできた、要らない子だったようぢゃ

だから「龍樹不悟の公案」も透過できないし、仏教を歴史や伝統の積み重ねだと
勘違いしとる基地ガイジで、臨済宗の恥晒しとして、悟りスレを日々巡回中なのぢゃ

\\\\٩( 'ω' )و ////
0601考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 00:45:37.880
>>564
「はく」がフランス語の《passer》に相当するとするなら、「はこ(運)ぶ」
は、「はく」から派生した再帰形である。「事がうまく運ぶ」というのは、
「事が望ましい様態で経過する」ことであり、フランス語にするなら、
《Ça se passe bien》と表現することができるだろう。ただし、
「はこ・ぶ」の「はこ」は、「『はく』作用が生じた状態」を表している
と考えることができ、特に名詞化された「はこび」や、そこから派生
させられたと推測することが可能な「はこ(箱)」に関しては、そう考えた
方が妥当であるように思える。
0602考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 07:55:58.190
うす(薄) ⇒ うそ
しぶ(渋) ⇒ しぼ(絞/搾)・る
こふ*[→こは(強/恐)] ⇒ こほ(凍)・る
0604考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 08:12:23.980
支障を「きたす」
き(≒"kommen")た(≒"zu")・す(≒"lassen")
「きたす」≒"zukommen lassen"
0605考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 08:25:57.830
イタリア語をよく知らなくても、ラジオの交通情報などで《strada ghiacciata》
と聞くと、その発音から、いかにも「凍結している」という感じがする。
いやむしろ、日本語で「凍結した路面」と聞くより、固く凍った道を直接に
踏みつけているイメージが想起される。それは、《ghiaccio》という発音が
「ぎょうしゅう(凝集)して固まっていること」をすぐに想起させるだけでなく、
氷を踏みつけながら歩くときの「あら(粗)いきし(軋)み」を聞いているような
印象をもたらすからだろう。ただし、イタリア語を母語とする人々が、
この言葉を聞いて、同様のイメージを想起するのかどうかは、イタリア語
をよく知らない私には分らない。
0606考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 09:15:27.290
「みかじめ料」を払うとはどういうことか?
「みかづち(甕槌)」が「"God's hammer"としての落雷」であるように、
「みか(甕)・つち(槌)」とは、「かみ」を逆さにして発音した表現である。
直接の名ざしを避けるために発音を逆転させる表現方法は、隠語を作る
一般的な手法だが、現代ではラップの歌詞によく見られる。
つまり、「みかじめ料」=「かみ(神)・しめ料」であり、この場合、
「しめ」は、言うまでもなく、「注連縄」の「しめ」である。

https://kotobank.jp/word/注連縄-75311
>神聖な空間を区画するための縄。本来シメは占,標,印の意で,
>一種の占有標とも魔よけとも考えられている

注連縄が張られることによって区画されている空間が「なわばり(縄張り)」
であり、「しめ(注連)」の対象として「シマ」と呼ばれる。したがって、
「みかじめ料」とは、「シマ」として守られていることに感謝して
「かみ(御神/お上)」に納められるべきものである。

「島(しま)」が「しま」と呼ばれるのも、おそらく、このような
「しめ(注連)」→「しま(縄張り)」の関係に由来するのだろうと思う。
0607考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 09:17:28.720
誤:「みか(甕)・つち(槌)」とは、「かみ」
正:「みか(甕)・つち(槌)」の「みか」とは、「かみ(神)」
0608考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 09:21:54.170
>>606
逆に言えば、「シマ(縄張り)」の区画が不明になり、自分が活動しているのが
誰の「シマ」であるのかが不分明になればなるほど、「みかじめ料」を払うこと
の意義も分りにくくなる。
0610考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 10:09:41.580
神々がそのジレンマをどのように解消しようとしているのかに
日常生活においても常に注意を払うのを怠らないようにする
ことは、自らが「みかづち(甕槌)」に打たれるような天災を
避けようと思うなら、欠かせないことだろう。
0612考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 11:22:05.940
リベラルな知識人たちは天使の役割を果たしているだろうか?
0614考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 15:49:05.020
英語の"up"と日本語の「うへ(上)」は似ている。ちなみに、語源的に
英語の"up"と関係するドイツ語の"Ufer"は、「海岸」などの「岸」を
意味している。

https://www.etymonline.com/word/up?ref=etymonline_crossreference#etymonline_v_4533

https://www.etymonline.com/word/*upo?ref=etymonline_crossreference
*upo
Proto-Indo-European root meaning "under," also "up from under," hence "over."
0615考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 15:53:03.130
身体性を伴わない言葉の表現は可能だろうか?
可能であるとした場合、言葉の意味が伝わるとはどのようなことを意味しているのだろうか?
0616考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 16:15:53.910
>>614
このように、発音とそれが想起させるイメージの両方が類似している事例を
探すなら、日本語と印欧語のように互いに無関係であると考えられている
言語の間でも容易に数多くの類似例を見出すことができる。比較言語学者が、
言語間の系統関係を明らかにしようとして「音韻法則」に拘る理由もそこ
にある。「音韻法則」を無視するなら「日本語-○○語同源説」は、
いくらでも創作することができるのである。それ故、比較言語学者は、
このような類似は「無意味」であると考えがちである。

しかし、このような類似が「無意味」であるのは、異なる言語間の系統
関係を確立するという目的にとってであることも忘れてはならないだろう。
互いにまったく無関係であるとされる言語の間で、類似した発音が類似した
イメージを呼び起こす表現の事例が見出されるのは事実であり、その
事実は軽視されるべきものではない。
0617考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 16:17:51.900
同時に、古語辞典に記載されているような日本語−〇〇語同源説は、音韻関係
を完全に無視しているので、日本語の系統関係を論じることに関しては、
無意味であると見なして構わないだろう。
0618考える名無しさん
垢版 |
2019/03/14(木) 22:05:35.780
>>606
「しめなは(注連縄)」の「しめ」と「縄張り」として「しま」の表現上の
関係は、「『しめ』る」作用/動作によって「『しま』る」ことを考えれば
分りやすいだろう。

「しめなは(注連縄)」という考え方が特に日本独特のものではないことは、
例えば、英語の"cordon"という語が類似した意味で用いられることを
見れば理解できる。

https://www.etymonline.com/word/cordon#etymonline_v_19071
cordon (n.)
mid-15c., "cord, lace, or ribbon of fine material worn as an ornament
or token of victory," from Old French cordon "ribbon, cord," diminutive
of corde "cord" (see cord). Military sense of "a line of troops or military
posts guarding a place" is by 1758.

「しめなは(注連縄)」≒"cordon"であり、「しま」≒"cordoned off (area)"である。
0619考える名無しさん
垢版 |
2019/03/15(金) 15:36:44.660
>>597
>「く」という発音は、「く(来)る」に代表されるように「中心に
>向かう作用/動作」の様態を表現するように用いられ、「こ」は、
>「ここ」に代表されるように「中心に向かった状態≒集中した状態」
>を表現するように用いられている

その集中した極限の状態を表現するのが「こ(粉)」だろう。
「こま(独楽)」は、「こ(込)め・る」ことによって生じる「累加的に
集中化する作用」がもたらす様態の名詞化である。
0621考える名無しさん
垢版 |
2019/03/15(金) 16:15:13.350
古語の「ここだ」という表現を語源的にどのように解釈すべきか、今の
ところ私にはまだよく分らない。それでも、この表現が伝えようとして
いるのはやはり、数量が多いことや、程度が甚だしいことではなく、
集中している様態だろうと思う。

学研全訳古語辞典

ここ−だ 【幾許】

@こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。
出典万葉集 九二四
「み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも」
[訳] ⇒みよしののきさやまのまの…。

Aたいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。
出典万葉集 三三七三
「多摩川に晒(さら)す手作りさらさらに何そこの児(こ)のここだ愛(かな)しき」
[訳] ⇒たまがはに…。◆上代語。
0622考える名無しさん
垢版 |
2019/03/15(金) 16:42:23.150
>>597
>「く」という発音は、「く(来)る」に代表されるように「中心に
>向かう作用/動作」の様態を表現するように用いられ

例えば、「くさび(楔)」というのは、「く・さぶ」という再帰形の動詞の
名詞化だろうと推測することができる。「く(≒「中心に向かう作用/動作」)
+さぶ(≒自ずと晒されるようになる作用/動作)」と理解することができる
のだから、「くさび」という表現は発音によって想起させられるイメージ
のとおりに用いられているように感じられる。

https://kotobank.jp/word/楔を打ち込む-483136
0623考える名無しさん
垢版 |
2019/03/15(金) 20:42:37.670
「こ(凝)る」という表現は、「こ」の発音に当てられる漢字が意味する
とおり、「凝集する」ことを意味してるが、「こ」がそのような意味を
担うように用いられるのは、「く」が表す「『中心に向かう作用/動作』
のもたらす結果」としてであることは、それぞれ「く」と「こ」の発音
を用いた表現の関係、ならびに「く」を発音するときと「こ」を発音する
ときの身体感覚(声門の動き)を比較観察してみれば、容易に推測できる
はずである。
https://kotobank.jp/word/凝-477662
0624考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 09:42:03.770
「す(捨)つ」という表現を考えてみると、「す」は、英語の"let"や仏語の
"laisser"に相当する様態の作用/動作を表しており、それに対して「つ」
は、1>>410で指摘したとおり、「(特に手が)接触する様態」様態を表す
ように用いられる「た」との関係において、その接触する様態が持続的で
ある様態を表すように頻繁に用いられる発音であり、フランス語の
"tenir"に相当するようなイメージを想起させ、「す(捨)つ」という表現
に関しても、そのようなイメージを想起させる意図で用いられている
と考えることができる。したがって、「す(捨)つ」は、「す」によって
表される作用/動作が持続することを表現していると解釈することができ、
英語にするなら、"lastingly let go"とでも直訳することができるだろう。
0625考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 09:53:13.650
誤:1>>410、正:>>410

ところで、「す(捨)つ」という表現に関して、「す」という発音が想起させる
「手放すようなイメージ」と、「つ」という発音が想起させる「つかんでいる
ようなイメージ」は、明らかに互いに矛盾している。それでも、「すつ」とい
う表現が問題なく成立しているのは、「つ」の発音の方が「す」の発音に対して
副次的に、つまり、副詞的に用いられているものと了解され、より一般的に
言うなら、「す」の発音が想起させるイメージに対して「つ」の発音が想起
させるイメージが文法的に機能しいてると理解されるからだろう。
0627考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 10:10:35.100
「すつ」という表現において、それぞれ、「す」を発音するとき、「つ」を
発音するときにどのような身体的な感覚が生じているかを観察してみれば、
これらの発音が想起させるイメージが、これらをそれぞれ発音するときに
生じる身体感覚と密接に結びついており、「すつ」という言葉を用いるに
あたり、その身体感覚が巧みに組み合わされて「手頃に」利用されている
ことに気づく。「す」に対して「つ」が「文法的」に用いられているという
了解が成立しないなら、「すつ」という言葉を発することの意図は伝わら
ないことになるが、「つ」は、この場合、「す」の想起させるイメージに
対して「文法的」に用いられていても、そのことによって、「つ」の発音
そのものが想起させるイメージが放棄されたわけではない。
0628考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 10:30:40.110
このように言葉の表現において身体感覚がどのように利用されているかに
注目してみると、身体が外部の環境に取り囲まれていて、その環境において
各(/己)々の身体が感知する感覚が生じるという見方は、一般性を欠いている
と言わざるを得ないのではないかと思われる。むしろ、感覚を介して身体
そのものがまずなによりも環境として現れ、感覚を「手頃に」利用しようと
することによって、各(/己)々の身体が「目の前に」ある「もの」として一般化
されて現れ、自らの内側としての「み(身)」と、自らの外側としての「から
(体/殻/空)だ」の区別が現れるのと同時に、「自ら=み(身)・つ・から(体/殻/空)」
と同様に内側と外側を有する生物と、「からだ」を有するものの、身(み)を
有さない無生物とから成る、自らを取り巻く「環境」が現れると考えるべき
ではないだろうか。
0629考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:18:11.360
物事の捉え方の妥当性、つまり、〇〇が××として目の前(vorhanden)に現れる
ことの妥当性は、共通感覚によって検証されるべきものであり、集団主義的な
相互承認によって検証されるべきものではない。妥当性が、無限定な検証に
晒されることと、互いを成員と見なす集団によって承認されることはまるで
異なることであり、特に分業による専門化がもたらす弊害に対して解毒剤の
作用をすべき人文学や哲学においては、この2つを決して混同すべきではない。
ところが、実際には、人文学や哲学を「専門とする」と自認する人々の間
には、むしろ、専門家による相互承認こそが正しさを保証するのだという、
集団主義的な考え方がは(生)びこっ(凝)ているのである。そのような人々
は実のところ、妥当性が検証されることよりも、成員の利害が守られる
ように集団の規範が守られることの方に主要な関心が向いているのである。
0630考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:35:59.250
>>628
感覚を介して身体そのものがまずなによりも環境として現れ、感覚を
手頃に利用しようとすることによって自らを取り巻く環境が現れる
事になるという考えは、身体そのものが環境として現れるという論理が
身体感覚の言語解釈だけですので、そのように考えるべきであると
確定させるには根拠がチト薄いと思われます。
0631考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:07:27.980
>>1
お前の人間力・魅力が無いだけじゃw
0632考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:38:57.750
>>630
なぜ根拠が薄いことが、あしきことであると思われるのか、
薄いとはどのようなことか、あしきこととはどのようなことか、
その逆は、根拠が厚いことなのか、それはよいことなのか、
厚いとはどのようなことか、よいとはどのようなことか、
それをまず論じる必要がありそうですね
0633考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:20:58.100
>>630
「根拠が『たし(確)か』」であると言う場合、「たしか」とはどういうことだろう?
「たしか」という表現が「た・しか」と分解され、「しか」が「し(如)く」や
「しこ(四股)」と同様の表現であると考えた場合、「しか」は、ドイツ語の《eben》
に相当するような意味合いであると考えられ、以下のような解釈が生じることになる。

733 名前:考える名無しさん 2018/01/24(水) 16:49:19.61 0
>「確(たし)かに」という表現について考えてみると、「手(た)しか」にという
>語源的解釈がすぐに思い浮かぶ。つまり、「たしかに」とは、「手に面一に」、
>「ぴったりと」という意味となる。
0634考える名無しさん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:04:25.210
>>633
考えるべきであると確かに思うのであればピッタリであり
考えるべきであるとは思わないのであれば確かではなく
ピッタリしないということになりますね。
0635ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/03/17(日) 22:09:57.170
>>574 >>587
日本語の場合、再帰形の動詞は、「○ふ」という形態をとるわけだが、日本語に
おいて、この「ふ」という発音がどのようなイメージを想起させるように使われ
ているものとして記述されるべきなのかが、私にはずっと気にかかっている。

ところで、日本語で「雨が『ふ(降)る』」という場合の「ふ(降)る」という
表現は、フランス語の「pleuvoir(雨が降る)」や「pluie(雨)」と発音も意味
も似ている。この場合も語源的な説明を検索してみると、興味深いことが分る。
0636考える名無しさん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:36:10.630
フランス語で雨を意味する《pluie》をWiktionnaireで検索してみると、
ラテン語でやはり雨を意味する"pluvia"が語源であると記載されている。
そこでさらに検索してみると、同じくラテン語で「雨が降る」ことを
意味する動詞として"pluit"、"pluō"、"pluere"などの形態に行き当たり、
印欧語における語源として"*plew-"という形が想定されていることが分る。

https://en.wiktionary.org/wiki/pluit
From Proto-Indo-European *plew- (“to wash”); see also Latin linter
(“bath, trough, boat”), Ancient Greek πλύνω (plúnō, “to wash”),
Lithuanian pìlti (“to pour”) and German fließen (“to flow”).

https://www.etymonline.com/word/*pleu-?ref=etymonline_crossreference
*pleu-
Proto-Indo-European root meaning "to flow."
0637考える名無しさん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:56:45.800
>>636
これらの説明において、想定される印欧語の"*plew-"という語源は、"to wash"
や"to flow"などを意味するとされるわけだが、以下のような説明も見られる。

It is the hypothetical source of/evidence for its existence is provided by:
Sanskrit plavate "navigates, swims;" Greek plynein "to wash," plein "to
navigate," ploein "to float, swim," plotos "floating, navigable," pyelos
"trough, basin;" Latin plovere "to rain," pluvius "rainy;"

これを読むとすぐに、私には、日本語の「ふね(船)」という表現が想起され、
日本語の「ふ」が想起させるイメージも、印欧語の"*plew-"が想起させるもの
に近いのではないかと思えてくる。その一方で、英語において"to flow"に
極めて近いイメージでありながら、全く別語源であるものとして説明される
"fluent"から辿られる印欧語の語源、"*bhel- (2)"が想起させるイメージ
も、日本語の「ふ」が想起させるものにとても近いように感じられる。

https://www.etymonline.com/word/*bhel-?ref=etymonline_crossreference#etymonline_v_52653
*bhel- (2)
Proto-Indo-European root meaning "to blow, swell," "with derivatives
referring to various round objects and to the notion of tumescent masculinity" [Watkins].
0638考える名無しさん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:09:20.970
見てのとおり、私は、表現が伝えるイメージを探るためにいつも語源的な説明
を利用させてもらっているが、本当のところ、私は、語源の「系統的」な
説明には、原理的に信頼を置いていない。なぜなら、「のろま」と「ノルマ」
の事例で示したとおり、語源がどうであれ、発音は特定のイメージを想起
させるように「体系的」に利用されるからである。したがって、本当に重視
されるべきは、表現の使用において、特定の発音がどのようなイメージを
想起させるように用いられているのか、その用法を暗黙に規範化するような
体系化が生じていると考えてよいのかどうかを記述することだろうと私は
考える。
0639考える名無しさん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:17:02.860
さて、日本語の「ふ」は、どのようのイメージを想起させるように用いられて
いるだろうか、その用法に体系性は認められるだろうか、また、日本語の
再帰表現において、「○ふ」はどのように用いられていると考えられるべき
なのだろうか、といったことについて、また後で書き込むことにする。
0640ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/03/17(日) 23:29:07.110
詳しい検討は、また明日以降にするが、忘れないように「ふ」を用いた
表現を思いつくままに書き込んでおこう。

「ふ(吹)く」、「ふく(膨)らみ」、「ふ(蒸)かす」、「ふか(深)し」、
「ふ(降)る」、「ふ(伏)す」、「ふ(踏)む」「ふ(振)る」、「ふた(蓋)」、
「ふさ(塞)ぐ」、「ふさ(房)」、「ふね(船)」、「ふたた(再)び/ふた・たび」
0641考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:29:26.730
日本語の「ふ」という発音を聞いて、まず最初に私に思い浮かぶイメージは、
「ふ(吹)く」という動詞が表す作用/動作によって代表されるようなイメージ
である。しかし、「『ふ(吹)』く」における「ふ」のイメージは、「ふ(降)る」、
「ふ(伏)す」、「ふ(踏)む」、「ふた(蓋)」、「ふさ(塞)ぐ」、「ふね(船)」、
「ふたた(再)び/ふた・たび」における「ふ」が想起させるイメージ(それら
に共通性があるにせよ、ないにせよ)とそのまま重なっているようには、
直ちには感じられない。
0642考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:45:52.430
その一方で、「ふ(降)る」、「ふ(伏)す」、「ふ(踏)む」、「ふた(蓋)」、
「ふさ(塞)ぐ」、「ふね(船)」については、少なくとも私には、共通性が
感じられる。その共通性を英語で分りやすく表現しようとするなら、
"covering the surface"とでも言うことができるような様態である。
さらに、その様態の感覚を日本語で反省してみると直ちに、「かぶる/
かぶす」という表現が思い浮かぶ。

ところで、言うまでもなく、「ふた(蓋)」は「かぶる/かぶす」ように
使われるものであり、古語においては、「ふた(塞)ぐ」という動詞が、
現代の日本語における「ふさ(塞)ぐ」という動詞の意味も兼ねるように
(そのような意味にかぶ(被)るように)、英語の"cover"に対応するような
広い意味で使われていたと考えられる。実際、「ふた(蓋)」も素直に
英語に直訳するなら、"a cover"になるだろうと思われる。
0643考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:09:01.140
ここで、私に思い浮かぶイメージを伝えるために用いた「かぶる/かぶす」
という表現は、どのような構成の言葉であると解釈され得るだろうか。
言い換えると、「か・ぶ・る」および「か・ぶ・す」は、どのように
構成されているものとして分解され得るだろうか。

「○る」や「○す」という形態において、「る」が再動詞化のために、
つまり、動詞として使われているという感覚が薄れた発音を再び動詞
として使うために用いられ、「す」は、「○」によって表現される
作用/動作が妨げなく働くようにすることを表すように用いられること
を考えると、「かぶる」は、「かぶ・る」として、「かぶす」は、
「かぶ・す」と分解されるようにも思えるが、そのような分解で
もたらされる「かぶ」は、意味不明に思え、それに近い発音の表現
である「か(買)ふ」や「か(交)ふ」などとの共通性も感じられない。
他方、「かぶる」を「か・ふる」に、また「かぶす」を「か・ふす」
に分解した場合、「か」は、以前に指摘したとおり、表面に反射
するようなイメージを想起させるので、この場合、そのような態様
をイメージさせるような接頭辞として用いられていると考えること
ができ、「かぶる/かぶす」という表現も、そのような態様のイメージ
を伴う表現として理解することができる。しかしながら、そもそも、
「ふ(降)る」や「ふ(伏)す」という表現における「ふ」が想起させる
イメージを記述するために「かぶる/かぶす」という表現を持ち出して
きたのだから、それが再び「か+ふる」、「か+ふす」という表現
として理解されるなら、再び、「ふる」と「ふす」が再(ふたた)び現れ
ただけということになり、「ふ」のイメージの共通性の理解がそれほど
深(ふか)まったとは言えないだろう。
0644考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:21:22.140
そこで、そのような方向での探究を一旦諦めて、「ふ(降)る」、「ふ(伏)す」、
「ふ(踏)む」、「ふた(蓋)」、「ふさ(塞)ぐ」、「ふね(船)」については、
(「か」という接頭辞によって強調される態様のニュアンスが差し引かれるべき
ものではあるが、)「かぶる/かぶす」と言い換えることができるようなイメージ
を想起させるように「ふ」という発音が用いられていると暫定的に理解する
ことにしよう。

すると、そのように理解された「ふ」のイメージは、「ふ(吹)く」、「ふく(膨)らみ」、
「ふ(蒸)かす」、「ふか(深)し」、「ふ(振)る」、「ふさ(房)」、「ふたた(再)び/
ふた・たび」などにおいて用いられている「ふ」の想起させるイメージ(それら
に共通性があるにせよ、ないにせよ)とどのような整合性を有するのだろうか、
という問ひが浮かんでくる。
0645考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:26:09.900
参考までに、英語の"cover"の語源的な説明を引用しておく。

https://www.etymonline.com/word/cover#etymonline_v_19193
cover (v.)
mid-12c., "protect or defend from harm," from Old French covrir
"to cover, protect, conceal, dissemble" (12c., Modern French couvrir),
from Late Latin coperire, from Latin cooperire "to cover over, overwhelm,
bury," from assimilated form of com-, here probably an intensive prefix
(see com-), + operire "to close, cover," from PIE compound *op-wer-yo-,
from *op- "over" (see epi-) + root *wer- (4) "to cover."

https://www.etymonline.com/word/*wer-?ref=etymonline_crossreference#etymonline_v_52560
*wer- (1)
Proto-Indo-European root meaning "to raise, lift, hold suspended."
0646考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 11:15:19.540
この問ひに適切に答えるためのヒントは、この辺り(現代の日本語において、
「ふ」が用いられている表現における「ふ」の、現在とは異なる、かつての
発音が想起させたイメージ)にあるだろうと見ている。言葉遊びをするなら、
糸を強く引き伸ばすと「「ふ/ぷつり」と「ふたつ」に切れる」のである。
このことについて、また後で時間のとれるときに書き込む。

https://kotobank.jp/word/ふつり-2080121
ふつり
精選版 日本国語大辞典の解説
〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
@ =ぷつり@
※今昔(1120頃か)二九「ふつりと咋(くひ)切つ」
A =ぷつりA
※落語・写真の指傷(1900)〈初代三遊亭円左〉
「洋小刀(ナイフ)を取って、フツリと突き立てまする」
0648考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:41:46.970
>>646
日本の古典に現れる「ふつり」という表現は、そのまま現代の日本語の「ぷつり」
という表現に対応している。張りつめた糸が切れる場合、それを擬態語/擬音語
によって言い表すのに、現代の感覚では、「ふつり」より「ぷつり」の方が合って
いると感じられるのではないだろうか。また、少なくとも私には、「ま『ふ』たつ
に切れる」という表現より、「まっ『ぷ』たつに切れる」という表現の方が、
イメージが彷彿とするように感じられる。

ところで、>>567で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/は行
>ハ行の子音は、遠い上古の時代には [*p] 音であった可能性が高い
>と言われている。
という説をうっかり「定説」と書いてしまったが、私は、国語学、日本語学、
言語学などには疎いので、この説が、それらの分野の専門家にどの程度、
受け入れられているのか知らない。それでも、古語の「ふつり」と現代の
擬音語/擬態語の「ぷつり」の関係から見て取れるとおり、「ふ」と「ぷ」
はそのような入れ代りが生じるほど近い関係にあることは確かである。
そこで、「ハ行の子音は、[...] [*p] 音であった」という説を暫定的に
受け入れて、思いつくままに列挙した「ふ」で始まる表現の「ふ」の
子音を[*p] 音に置き換えてみることにしよう。
0649考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:53:27.350
>>640
「ぷ(吹)く」、「ぷく(膨)らみ」、「ぷ(蒸)かす」、「ぷか(深)し」、
「ぷ(降)る」、「ぷ(伏)す」、「ぷ(踏)む」、「ぷ(振)る」、「ぷた(蓋)」、
「ぷさ(塞)ぐ」、「ぷさ(房)」、「ぷね(船)」、「ぷたた(再)び/ぷた・たび」

「ふ」の子音を破裂音の [*p] 音の発音に置き換えただけだが、そのこと
によって、これらの表現によって想起されるイメージはどのように変わった
だろうか。また、その変化によって、想起されるイメージの間の共通性にも
変化が生じただろうか。これら2つの問ひに応えることは、私には比較的
容易であるように思える。
0650考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:13:56.020
[*p] 音の発音を含む「破裂音」についてのWikipediaの記載を参照すると、
以下のように説明されている。つまり、「閉鎖音」という用語を使うこと
がより適切であるか否かにかかわらず、「破裂音」の[*p] 音を発音する
ことには、必然的に閉鎖する作用/動作が伴うのであり、通気を「ふさ(塞)ぐ」
(「ふ」の子音を破裂音の[*p] 音で置き換えるなら、「ぷさぐ」)様態を
伴うのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/破裂音
破裂音(はれつおん、英語: plosive)とは、鼻腔と口腔の双方の通気を同時に
完全閉鎖するように、喉頭部または声門を閉鎖するか、あるいは口蓋帆を上げて
鼻腔内を通る声道を閉鎖した上、口腔内の上下の調音器官を密着させて口腔内の
声道も閉鎖することによって、閉鎖位置までの気圧を高め、その閉鎖を開放する
ことによって発生する音(子音)を指す。
0651考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:30:53.800
擬音語/擬態語について考えてみると、
「ふ(吹)く」⇔「ぷくぷく/ぶくぶく」と泡を吹く
「ふく(膨)らみ」⇔「ぷくっ/ぶくっ」と膨らんだ
「ふ(振)る」⇔「ぷるぷる/ぶるぶる」震える(=「ふ(振)る・ふ」という
「ふ(振)る」の再帰形の再動詞化)
「ふね(船)」⇔「ぷかぷか」浮かんだ船
「ふた(二)つ」⇔「ぷつり」と二つに切れる(「ぷつ」によって表される
作用/動作の結果の状態が「ふた」である可能性が考えられる)
などがすぐに思い浮かぶ。
0652考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:01:51.080
現代の日本語の「ふ」で始まる表現の多くがもともとは「ぷ」で始まる表現
であったと想定し、その「ぷ」の発音によって想起されるインデックス性を
様々に手頃に扱うことによってもたらされた意味合いを今も引き継いでいる
と考えるなら、「ふ(吹)く」によってイメージされる通気と、「ふた(蓋)」
や「ふさ(塞)ぐ」によってイメージされる閉鎖感、「ふ(降)る」や「ふ(伏)す」、
「ふ(踏)む」などのよってイメージされる上から被さるイメージ、
「ふく(膨)らむ」によってイメージされる、表面を破裂させずに保ちながら
空間が広がるイメージなどは、「ぷ」を発音することに伴う抑え込むような
閉鎖と破裂の作用/動作から説明できることになり、「ふたた(再)び」の
「ふた」も、「ぷつ」と切れる(唇が分れる)ことの結果として何かが
「『ふ』たつ」に分れることをイメージされるものと解釈することが
できる。
0653考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:01:33.910
では、日本語の再帰表現における「○ふ」はどのように用いられていると
考えられるべきなのだろうか。この「○ふ」の文法的な働きそのものは、
既に指摘したとおり、"turn"に対する"return"の"re-"に類似していると
考えられ("action"に対する"reaction"の"re-"を考えてもよい)、ドイツ語の
場合であれば、"wieder"の用法に、また、それに関連した英語の表現要素
について考えるなら、"with-"の用法に似ていると言うことができるだろう。
実際、>>587にFlauberの"Madame Bovary"引用したフランス語の一節
における《Elle le reversait au dehors》という表現は、ドイツ語の翻訳
では、"Sie goss diese Liebe wieder aus sich hinaus"(Elisabeth Edl訳、
p.344)と訳され、仏語の原文の《re-》は、ドイツ語の"wieder"に反映
されている。"wieder"は、日本語にすれば、「ふたたび」という意味
であり、「反復」を表していると言うこともできるが、この場合、
「反復」という表現より、「反転」と表現した方が適切ではないかと
思う。「あふ」、「そふ」などの日本語の「○ふ」という形態の表現に
おいて、「○」によって表される作用/動作の作用が逆転される事例が
よく見られることは既に指摘したとおりであり、ドイツ語の"wieder"
や英語の"with-"は、それに対応するような表現として用いられている
と解釈することができる。ところで、"wieder"の語源的な説明を
検索してリンクをたどると印欧祖語として想定される"*wi(“apart”)"
という形態に行き着く。
https://en.wiktionary.org/wiki/wieder
>From Middle High German wider
https://en.wiktionary.org/wiki/wider#Middle_High_German
>Middle High German wider, Old High German widar, from Proto-Germanic *wiþrą (“against, toward”).
https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/wi
*wi
>apart, asunder
>away from, against
0654考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:03:10.690
>>652
誤:「『ふ』たつ」に分れることをイメージされる
正:「『ふ』たつ」に分れることをイメージさせる
0655考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:07:46.990
>>653
ただし、表現の語源的な説明は、「系統的」に遡れば遡るほど、いずれの表現が
互いに似ていると言えるのかかなり怪しくなってくる。似ていると思い込む
なら、あまりにも広い範囲で互いに似ている表現が見つかることになるだろう。
0656考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:15:07.530
英語の"with"の語源的な説明を参考までに引用しておく。

https://www.etymonline.com/word/with#etymonline_v_10800
with (prep.)
Old English wið "against, opposite, from, toward, by, near," a shortened
form related to wiðer, from Proto-Germanic *withro- "against" (source
also of Old Saxon withar "against," Old Norse viðr "against, with, toward,
at," Middle Dutch, Dutch weder, Dutch weer "again," Gothic wiþra "against,
opposite"), from PIE *wi-tero-, literally "more apart," suffixed form of
*wi- "separation" (source also of Sanskrit vi "apart," Avestan vi- "asunder,"
Sanskrit vitaram "further, farther," Old Church Slavonic vutoru "other,
second"). Compare widow (n.).
0658考える名無しさん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:19:48.680
>>636
ところで、印欧祖語の"*plew-"は、 “to wash”を意味していたとされるが、
英語で"to wash"を副詞に変えて"awash"にしただけで「あら(洗)ふ」イメージ
から「あら(洗 はれている」≒「水をかぶ(被)っている」イメージに変わって
しまう。だからこそ、恣意的に類似性に注目するなら、このような操作に
よって望む通りの類似性を恣意的に見出すことが容易になってしまうのである。
0659ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/03/19(火) 08:12:16.790
発音が想起させるイメージから考えた場合、日本語の表現における「ふ」に
近いと感じられるのが、英語の"bubble"という表現における"b"の発音だろう。
さまざまな表現において「ふ」の発音が手頃に用いられている様態を統一的に
説明するのに好都合なのも英語のふくらんではじける"bubble"のイメージで
はないかと思う。
0660考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:27:28.350
さらに、日本語の再帰用法における「○ふ」の「ふ」が想起させることを
意図していたイメージも、「ふ」の発音がもとは[*p] で始まる破裂音で
あったとしたなら、破裂によって「ふたば(双葉)」のように「『ふ』たつ」
に分れるイメージから「ふ」によって「双対性」(≒"binary")を表し、
そこから「あひ対(相対)する」(≒"again/against")イメージを派生させて、
ドイツ語の"wieder"や英語の"with-"に相当するような仕方で作用の反転
を表現するのに用いられるようになったのではないかと私には思える。
0661考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:49:46.120
英語の"bubble"は、日本語で「泡(あは)」と訳されることが多いが、
日本語の「泡(あは)」は、英語の"bubble"と比べるとはるかに「あは(淡)い」
イメージを想起させ、"bubblegum"の場合には合わないので、"bubblegum"
は「風船ガム」とされる。しかし、「風船」という言葉は、紙風船か
ゴム風船をイメージさせるので、少し頑丈すぎる素材のイメージを伴って
しまう。だからこそ、「バブル経済」のように、いつはじけるか分らない
が膨張をつづける"bubble"の様態を表現するためには、「バブル」という
外来語をそのまま用いるのだろう。私は、英語の"bubble"に最も近い
日本語の表現は、「あぶく」だろうと思う。
0662考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:02:17.520
ここで、"bubble"≒「あぶく」と考えた場合、>>651に列挙したような
「ぷ」を用いた擬音語/擬態語がほとんどすべて"bubble"≒「あぶく」
の様態を記述する表現としてうまく当てはまるのではないか、というのが
日本語の「ふ」の発音の用法を説明するものとして私が抱いているイメージ
である。実際、「あぶく」は、明らかに「あ+ふく」であるが、この
場合の「ふく」には、「ふ(吹)く」イメージ、「ふく(膨)らむイメージ」、
「ぷかぷかした」イメージ、「破裂する」イメージなどが重なっている
ように思われる。

さらに、日本語では、対応する表現がすぐに思い浮かばないものの、
英語でよく使われる"bubble"の用法に"live in a bubble"という表現が
あり、これは、「"bubble"に覆われた内部空間にいる」というイメージ
であり、日本語の「ふた」、「ふさぐ」などの「ふ」のイメージに
対応するものであるように感じられる。
0664考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:20:50.170
日本語の「ふ(振)る」や「ふる(震)へ」という表現における「ふ」の発音に
よって想起されるイメージは、例えば、ドイツ語の"beben"という表現に
おける"b"の発音にもそのまま聴き取ることができるように私には感じられる。
0665考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:35:19.030
というより、ドイツ語を学んでいる日本語を母語とする人で、ドイツ語の
"beben"という言葉を聞いて、その発音から日本語の「ふ(振)れ」や「ふる(震)へ」
を直接に感じない人はいるのだろうかとさえ私は思う。
0666考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:14:04.100
ドイツ語の"blühen"や英語の"bloom"、ドイツ語の"Blut"や英語の"blood"
という表現において"bl"の発音が、日本語の「ふ(吹)く」の「ふ」に対応
するようなイメージを想起させると指摘しても、「なにをそんな当たり前の
ことを」というのが普通の反応だろう。実際、語源辞典を調べても、
これらの表現は、「ふ(吹)く」ようなイメージに関連付けられて説明され
ているのだから、何ら驚くべきことではない。学者や研究者と呼ばれる
人々の含めて、そのような「知識」を得てそこで満足してしまうのである。
しかし、私にとって推論の働きが面白いと感じられるのは、その先から
なのである。

ドイツ語の"Blut"や英語の"blood"は、日本語の「ち(血)」に対応するが、
ドイツ語や英語で「ち(血)」に相当する表現が、吹き出すようなイメージ
と結びついているのなら、日本語の「ち(血)」も似たような捉え方を表現
しているのではないか、と考えてみるのである。実は、これは、日本語の
「ち」の発音がどのように用いられているかについて、既に以前に指摘
したことでもある。ところが、大概の人々は、このような想定をすること
事態を「トンデモない」ことであると考えるようだ。なぜなら、ドイツ語
や英語の"bl"という発音とも、日本語の「ふ」という発音とも、「ち(血)」
は少しも似ていないからだ。したがって、その時点で自らが思考停止して
しまうだけでなく、その先まで推論を進めようとする他人を戒めよう、
懲らしめてやろうとするような人々が少なからずいる。
0667考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:29:30.810
ドイツ語や英語の表現の場合と同様に、日本語の「ち(血)」の場合にも、
「血(ち)」が「ふきだす」ようなイメージで捉えられているのではないか
と想定してみても、「ち」という発音は、「ふく」という表現とは似て
いない。そこで働かせる推論は、「ち(血)がどのようにふきだす場合で
あれば、その様態が「ち」と表現されるのだろうか」と問ふことである。
既に以前に答えを出して示しているとおり、それは、「狭い通り道を
通って、勢いよく出る」場合である。そこで、同じような様態を表す
表現において「ち」という発音が同様に用いられていないかどうかを
探すと、すぐに「ちち(乳)」や「こち(東風)」といった表現が思い浮かぶ。
「ちち(乳)」の場合であれば、その「ふきだす」様態は、「ち(血)」の
場合とそれほど大きな違いはない捉え方がされていると主張しても
それほど無理は感じられないだろう。しかし、さらに「こち(東風)」
の「ち」まで同様の「ち」の用法であるとするのは、単なるこじつけ
ではないか、というのが一般的な反応だろう。では、「こち(東風)」
という表現はどのように解釈され得るのだろうか。
0668考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:38:05.520
しかし、「こち(東風)」の「ち」も「ち(血)」と同様に「狭い通り道を通って
ふく」ような作用/動作を表していると想定するなら、答えは既に出ている。

>>597において、日本語の多くの表現において、「こ」は、「中心に向かった
状態≒集中した状態」を表現するように用いられているように思える、と
指摘した。したがって、「こち(東風)」によって表現されるイメージを説明する
なら、「集中した様態で、狭い通り道を通って吹く」ような風ということに
なるだろう。「こち」には、慣習的に「東風」という漢字が当てられるが、
本来、「こ」が東という方向を示していたわけではないだろうと私は考える。
0669考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:47:24.790
このような推論によって導かれる答えが不確実なものであったとしても、
私には、それが権威によって提案されている「こち(東風)」の解釈と
比べて、特に酷いものであるとは思わない。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412550939
小学館「日本国語大辞典」によると・・・

1.コチ(小風)の義。春風のやわらかなところから(大言海・音幻論=幸田露伴)。
コは小の義、チはシと通じ、シは、古く風神をいうシナツ彦・シナ戸辺のシナの略。シナはシナフ(靡)の略(名言通)。
2.チはハヤチ(疾風)のチと同じ(和訓の栞)。
3.ヒカチ(東風)の約転(言元梯)。
4.日の方から吹くチ(風)の意(日本語源=賀茂百樹)。
5.コはコホリ(氷)、チはチラス(散)の意(和句解・日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解)。
6.コチカゼ(来雨知風)の義(紫門和語類集)。
7.コチ(此地)へ来よと春風を招く心から名づけたものか(本朝辞源=宇田甘冥)。
8.キオキタチ(気起立)の義(日本語原学・林甕臣)。
9.コフキの反コヒの転。コは木の精で、虎のこと、虎がウソブイて風を成すといったか(名語記)。
10.ヒガシの原型ヒムカチの上略形カチがコチとなり、東風をコチカゼというようになったものの略(語源を探る=田井信之)。
11.「風+兌」(Ti)の上に「谷」の別音Koを冠らせたもの。「谷」は東風の称(日本語原考=与謝野寛)。
0670考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:49:35.190
誤:このような想定をすること事態を
正:このような想定をすること自体を
0671考える名無しさん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:58:31.410
>「ち(血)がどのようにふきだす場合であれば、その様態が「ち」と
>表現されるのだろうか」と問ふことである

このような問ひを考えることは、私にとってはごく普通のことなのだが、
なぜか世の中には、このような問いかけの方向を何か異常なもの、許し難いもの
と感じる人々が少なからずいるようである。
0672考える名無しさん
垢版 |
2019/03/21(木) 22:16:06.240
ドイツ語の"handfest"と日本語の「たし(確)か(=た・しか)」は、用法に違い
があり、意味は同じではないものの、表現の形態としてとてもよく似ている。
0673考える名無しさん
垢版 |
2019/03/21(木) 22:41:46.140
日本語の「あすか(飛鳥/明日香)」という地名や「あしかが(足利)」という
名前が想起させることを意図していたのは、まさに以下のようなイメージ
ではないかという気がする。

《Mais le cercle dont il était le centre peu à peu s'élargit autour de lui,
et cette auréole qu'il avait, s'écartant de sa figure, s'étala plus au loin,
pour illuminer d'autres rêves. 》 Flaubert, "Madame Bovary", p.129
0674考える名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 13:03:49.430
「悲喜こもごも」という表現がある。「こもごも」には、「交交」という
漢字が当てられるらしく、
https://kotobank.jp/word/悲喜交交-608927
>悲しいこととうれしいことを、代わる代わる味わうこと。
などと説明されている。しかし、実際には、「悲喜こもごも」は、
「悲しいことと、嬉しいことが入り混じった状況」を表すように使われており、
「悲しいことと、嬉しいことが交互にやってくること」を表しているわけでは
ないだろう。また、語源的に考えても、なぜ「こもごも」の「こも」に「交」
という漢字を当てることが妥当であるのかまったく不明である。

意味から考えても、発音から考えても、「こもごも」という表現において
繰り返されている「こも」は、「こ(込)む(/め)」という作用がもたらす結果の
状態を表しており、「こむ(/め)」⇒「こも」の関係は、「しく」⇒「しこ」、
「たく」⇒「たこ」、「ねぐ(く)」⇒「ねこ」、「よく」⇒「よこ」、
「そく」⇒「そこ」、「むく」⇒「むこ」、「く」⇒「こ」などの関係と
同様だろうと思われる。つまり、「悲喜こもごも」とは、「悲しいことと、
嬉しいことがともに込められている状況」という解釈になる。
0676考える名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 15:01:08.220
印欧語族の場合には、共通で使用されていた言葉がどのようにか伝わった
ために類似したイメージを想起させるのに類似した発音が用いられ、
それらの発音の関係が系統的に発音の変化の規則に基づいて関係付けられ
得ると想定されているわけだが、日本語のように印欧諸語とは無関係である
と考えられている言語においても、同様のイメージを想起させるのに極めて
近い発音が用いられているという事実は、印欧諸語の間の関係を考える
際にも決して無視することのできない重要性を帯びるはずである。
0677考える名無しさん
垢版 |
2019/03/22(金) 23:51:35.380
心をこ(込)めた贈り物をする⇒心のこもった贈り物をもらう
0678考える名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 00:13:43.780
日本語における再帰表現の認識は、それがどのような理由によるものか
私にはよく分らないが、意図的に抑圧されている可能性が極めて高い。
この抑圧は、そのうち歴史的な研究の対象になるのではないかと思う。
外国語に馴染みのない国語学者には再帰表現が意識されなかった、または
国語学者には、それを適切に記述するメタ言語の持ち合わせがなかった
という可能性が考えられないわけではない。それでも、再帰表現が
広く用いられている欧州の言語に必然的に通じている言語学や日本学
の研究者が、日本語においても対応するように、またはそれ以上に
広く用いられている再帰表現に気付かなかったはずはないだろうと思う。
それがどういうわけか私にはよく分らない理由で、「反復継続」という
奇妙な括りでのみ扱われている。
0679考える名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 00:16:23.490
それを認めることに何らかの不都合がある限りで、研究の対象とされることはないのである。
0680考える名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 05:35:39.640
ガンダム行きます!
0681学術
垢版 |
2019/03/23(土) 07:33:16.220
言葉は無の世界に通じていてそのイメージは、まるで果実のようだ。
0682考える名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 09:10:07.370
>>678-679
学問的にきちんと研究をまとめて妥当な根拠を示したなら、普通に議論が
行われるはずで、そんな抑圧など存在しない。現に、国語学や日本語学など
で扱われることのなかった中動態について最近、書かれた本が話題になり、
賞を授与されたりしているではないか、というかもしれない。しかし、
私には、中動態について語ることが日本語の表現の理解になにか核心的な
変化をもたらすかのように話題にすること自体が、本当に重要なことから
目を逸らすための誘導のようにしか見えない。なぜなら、文法的な
カテゴリーとしての中動態について語ったところで、日本語の表現の意味
解釈になんらの変化も生じないからである。例えば、

日本語の「すまふ」という表現に「すむ」という動詞が含まれていること
を認識することは容易であり、さらに、「すく」、「すつ」などの他の
動詞との関係や、他の動詞の事例との比較を行うなら、「す」単独で
何らかの作用/動作/様態を表していた/いることを見て取ることは、
それほど難しいことではない。それが「す」ではなく、「し」や
「さ」や、他の一音節の発音であっても同じことである。動作/作用/
様態を表す発音は、様々に手頃に用いられるので、その動作/作用/様態が
能動態でも、受動態でもなく、中動態を表していたなどと言ってみた
ところで、そこから派生させられる表現の意味解釈になんら変化を
もたらさない。

ところが、再帰表現の認識の場合にはまったく事情が異なる。
再帰表現においては、それをメタ・レベルで文法的に記述することが
阻止されているだけでなく、再帰的な意味の解釈そのものが抑圧されて
いるのである。「すまふ」の名詞形が「すまひ」であり、「すまふ」
の「○ふ」を再帰表現と見るなら、「すまふ」≒「沈静化」を表現
していることを見て取るのは容易なことであるが、日本語の研究の
「常識」では、「○ふ」は、本来的に「反復継続」を表す助詞で
あるとされているので、そのような意味解釈は生じないように、
または、少なくとも極めて生じにくいように抑圧されている。
この抑圧によって何が生じるだろうか。
0683考える名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 09:15:36.290
例えば、「すまふ(相撲)」は、もともと「すまひ」と呼ばれていたことが知られ
ている。「すまふ」という動詞が再帰表現であることが認識され、「すまふ」≒
「沈静化する」であると解釈されるなら、その名詞化である「すまひ(相撲)」は、
「沈静化」を意味していることが分かり、現代の日本語では、互いに無関係で
あると思われている「相撲」と「住まい」が、同じ1つの「すまふ」という表現
からの派生であることが分る。同様の例は数多く挙げることができ、再帰表現
の認識が抑圧されていることは、日本語の表現をネットワークとして体系的に
理解することを妨げ、中動態の議論などの場合とは異なり、日本語の意味解釈
自体を抑圧することになっているのである。
0684考える名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 10:12:41.360
>>677
>心のこもった贈り物をもらう

「もらふ」という表現は、国語学や日本語学の「常識」が教えるとおりに、
「もる+ふ」として、「もる」ことの「反復継続」を表しているだろうか。
0685考える名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 13:17:45.140
言葉の表現は、それがどれほど短くても、常に既にレトリックである。
例えば、ドイツ語の"hallen"という動詞は、「反響する」ことを意味している。
"hallen"がどのようにしてそのような意味を表現することになったのかを
推測することは、この動詞の由来を>>675に引用した印欧祖語の"*kel-"に
辿ることができ、コンサート・ホールなどの外来語として日本語にもなって
いる英語の"hall"と語源を同じくすることを考えてみれば容易である。
"*kel-"は、"to cover, conceal, save"のような作用/動作/様態を意味
していたと解釈されるのだから、まずこの語根を用いて「から(殻)に覆わ
れたような空間」をイメージする表現が用いられ、そのような空間において
は音が「反響する」ので、そのような空間のイメージが「反響する」作用/
動作/態様を表現するように換喩的に用いられるようになったと考える
ことができるだろう。このようなプロセスは何ら特別なものではなく、
あらゆる表現において、自在に働くように利用されている。

ところで、同じく"*kel-"からは、英語の"hell"も表現として派生している。
日本語でも「地獄の釜の蓋が開く」という言い方がされるが、この場合の
「かま(釜)」という発音は、印欧祖語における"*kel-"と類似したイメージ
を想起させていると言うことができるだろう。
0686考える名無しさん
垢版 |
2019/03/23(土) 15:07:57.770
日本語の「かま(釜)」と古代ギリシャ語の"κάμῑνος (kámīnos)"は似ている。

https://www.etymonline.com/word/chimney#etymonline_v_11267
chimney (n.)
late 13c., "furnace;" late 14c., "smoke vent of a fireplace, vertical structure
raised above a house for smoke to escape to the open air;" from Old French
cheminee "fireplace; room with a fireplace; hearth; chimney stack" (12c.,
Modern French cheminée), from Medieval Latin caminata "a fireplace," from
Late Latin (camera) caminata "fireplace; room with a fireplace," from Latin
caminatus, adjective of caminus "furnace, forge; hearth, oven; flue," from
Greek kaminos "furnace, oven, brick kiln," which is of uncertain origin.
0687ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/03/24(日) 09:58:22.050
>ドイツ語の"hallen"という動詞は、「反響する」ことを意味している。

このように説明し、これは誤りではないが、ここで「ひび(響)く」という
日本語の表現に注目した場合、「ひびく」という表現は、"hallen"のように
「から(殻)に覆われたような空間」をイメージさせるわけではない。
「ひびく」という発音がイメージさせるのはむしろ、「『ひび』が入る」
場合の「ひび」と共通して、「『ふる(震)へ』が伝わるような作用」だろう。

逆に日本語からドイツ語への方向で考えるなら、「ひび(響)く」という表現は、
ドイツ語の名詞の"Beben"や動詞の"beben"に、その発音も、それが想起
させるイメージもよく似ているのである。ドイツ語で"Erdbeben"と言えば
「地震」のことであり、「地震で建物に『ひび』が入る」ことをイメージして
みれば、この対応関係がよく分るのではないだろうか。

http://www.wordreference.com/deen/Beben
Beben n; -s, - trembling; vibration(s pl); GEOL tremor; stärker: (earth)quake;
ein leichtes Beben in seiner Stimme a slight tremor (oder tremble) in his voice
beben v/i shake, tremble, quake; Knie: shake, wobble; Stimme: tremble,
quiver; (vibrieren) vibrate;

そこで、ドイツ語の"beben"の語源を遡ると、印欧祖語として"*bʰeyh"という
形態が想定されていることが分り、これは、"to fear, be afraid"を意味していた
とされる。
https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/b%CA%B0eyh%E2%82%82-
つまり、「恐れる」ことは、「ふる(震)へ」が生じることとして表現されていた
と推定することができる。
0688考える名無しさん
垢版 |
2019/03/24(日) 10:09:52.900
このように適当に言葉遊びをしていると、自分のよく知らない外国の言葉の
表現でも、その発音と、それが想起させるイメージから、とても身近に感じら
れたりするのである。そして、まさにその感覚を手応えとして利用しながら、
よく知りもしない外国語の言葉で書かれた本に目を通していても、なにか
それなりに読めたような気分に浸ることができる。現に私は、そうやって、
教わったことも、真面目に学習したこともないドイツ語で書かれた本に目を
通していて、それなりに自分にとって役に立つ理解を得ている。
0689考える名無しさん
垢版 |
2019/03/24(日) 10:21:40.920
>>687
さらに、このように日本語とドイツ語の間の言葉遊びに英語を介在させる
ことにより、日本語の「びびる」という表現が想起させるイメージが、
英語の"trepidation"という表現に対応していることにもすぐに気づく。
0690考える名無しさん
垢版 |
2019/03/24(日) 10:23:40.030
「国語」における表現の理解と、外国語の学習は別々の2つのことではないのだ。
0691考える名無しさん
垢版 |
2019/03/26(火) 07:48:28.450
ひひ・く【×疼く】
「垣下に植ゑし椒 (はじかみ) 口―・く」〈記・中・歌謡〉

「ひひく」という古語は、しび(痺)れが伝わる/広がるようなイメージを
表しているのだろうか?
0692考える名無しさん
垢版 |
2019/03/26(火) 07:55:32.960
体系性は互いに交錯し、互いにうまく折り合いがつけられる場合も、
矛盾を保ったままである場合もある。表現の解釈の可能性は常に多重である。
0693考える名無しさん
垢版 |
2019/03/26(火) 08:00:57.450
"in broad daylight"、ひる(昼)ひなか(日中)に
「ひ」という発音のひ(広)がるイメージとひかり(光)のイメージの組合せが
英語の表現と日本語の表現でうまく重なっている。ただし、「ひ」の
広がるようなイメージと、「ぴかっ」と光るようなイメージは別の体系性
として利用されているはずである。
0694考える名無しさん
垢版 |
2019/03/26(火) 08:20:37.560
「ひ」が想起させるイメージは複合的である。

https://kotobank.jp/word/%E6%80%AF%E3%82%80-614240
ひる・む【×怯む】
1 おじけづいてしりごみする。気後れする。「相手の剣幕に―・む」
2 手足がなえる。しびれる。
「心痛く背悶(いた)むで骨―・み」〈大慈恩寺三蔵法師伝院政期点・九〉
0695考える名無しさん
垢版 |
2019/03/26(火) 08:26:05.500
現代では、専ら「気おくれして尻込みする」ような文脈で用いられるように
なった「ひるむ」という表現が、かつて想起させていたイメージは、現代語の
「びびる」という発音が想起させるイメージに近いのだろうか。
0696考える名無しさん
垢版 |
2019/03/26(火) 13:29:05.530
>>653 >>660
日本語の再帰表現における「○ふ」の「ふ」が、「反復」を表す助詞である
とすることは、この「ふ」が、「ふたたび」の「ふ」と同じイメージを伝える
ように用いられ、ドイツ語の"wieder"や英語の"again"に相当するとしても
妥当ではない。なぜ妥当でないかと言えば、それは、「それでも/そうは言っても」
という意味で用いられる場合のドイツ語の"wiederum"という表現や、英語の
"then again"という表現における"wieder"や"again"を「反復」として説明
するようなものだからだ。これらの場合、"wieder"や"again"は、明らかに
「反復」ではなく、前言で表された意図を「ひるがえす(翻)す」という意味で
「反転」を表している。
0698考える名無しさん
垢版 |
2019/03/27(水) 11:58:28.250
45 :名無しさん@ピンキー :2019/03/26(火) 16:29:25.55 ID:CPLgJyEs
本当は言葉責めされるのが好きなんだけど口下手な旦那なのでなかなか難しく…
シチュエーションCDなる物を見つけてそれ聞きながら一人エッチしてる事


46 :名無しさん@ピンキー :2019/03/27(水) 06:21:28.46 ID:fi4IysjO
言葉責めの上手いAV見ると、良いなあってなるよね
気に入った奴をイヤフォンで声だけ聴くのもなかなか良い
0699考える名無しさん
垢版 |
2019/03/27(水) 19:42:22.860
https://kobun.weblio.jp/content/てらふ
学研全訳古語辞典
てら−・ふ 【衒ふ】

誇示する。自慢する。ひけらかす。
出典日本書紀 雄略
「山の辺の小島子ゆゑに人てらふ馬の八匹(やつぎ)は惜しけくもなし」
[訳] 山の辺の小島子(=女性の名)のためには、人が自慢する馬の八頭
ぐらいは惜しいことはない。
◆動詞「て(照)る」の未然形に、反復継続の古い助動詞「ふ」がついて、
一語化したもの。
0700考える名無しさん
垢版 |
2019/03/27(水) 19:56:22.270
>>699
言語が異なっていても、表現において用いられる隠喩は、しばしば、
とても似通っていたり、共通であったりする。以下の"Madame Bovary"
のドイツ語訳に見られる表現に用いられる隠喩は、日本語の古語における
「てらふ」にそのまま対応していることに気づくはずであり(元の
フランス語原文では、似ているものの、異なる隠喩が用いられている)、
「反復継続の古い助動詞「ふ」がついて」という説明が奇妙である
ことに気づくはずである。

>der Apotheker sprach nämlich das Wort Doktor besonders gerne
aus, so als würde, wenn er einen andern damit titulierte, ein wenig
von dem Glanze, den es besaß auf ihn selbst zurückfallen<
― Flaubert, "Madame Bovary", p.221 (Elisabeth Edl訳)
0701考える名無しさん
垢版 |
2019/03/27(水) 20:04:40.890
>言語が異なっていても、表現において用いられる隠喩は、しばしば、
>とても似通っていたり、共通であったりする。

だからこそ、私も習ったこともないドイツ語で書かれた表現を辞書を
引くこともなしに読みながら、きちんと理解できているような気に
なれるのだ。もちろん、それで勘違いをして誤って理解している
こともしばしば生じるが、誤った理解はそのうちすぐに解釈に矛盾を
生じるので、それによって自分の過ちに気付くことができる。
0702考える名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 11:17:19.760
>>672
>Sie wollte sich ja nur auf etwas Handfesteres stützen als Liebes.<
― Flaubert, "Madame Bovary", p.230 (Elisabeth Edl訳)

私は「ボバリー夫人」の日本語訳を読んだことがないので、この箇所に
相当する仏語の原文がどのように訳されているのか知らないが、ドイツ語
をまともに勉強したことのない私が、ドイツ語訳を読むと、以下のような
「直訳」が生じることになる。

「エマは、そうそのとおり、ただ愛よりも『た(手)・しかな(=しっかり
した)もの』を『ささ(支)へ』にしたかった」

この場合、"etwas Handfesteres als(〜より「た・しかなもの」)"
という表現だけでなく、「『ささ(支)へ』にする」という表現に名詞化
されて現れる「ささ・ふ」という再帰表現も、ドイツ語の訳文
における"sich [...] auf [...] stützen"にそのままその形態においても
対応しているように感じられる。さらに、"sich auf etwas Handfestes
stützen"という表現はそのまま、「たよ(頼)る=た(手)よ(依)る」という
日本語の動詞を想起させる。
0703考える名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 11:24:46.170
「私の理解は間違っているかもしれないが、私は間違えたいと思っているわけ
ではない」というような趣旨のことを、フィヒテも述べていたように記憶して
いる。私の訳も解釈も誤っているかもしれないが、そうであったとしても、
不特定多数の誰もがその誤りを検証できるのだから、何の問題もないだろう。
私はなんら権威に基づいて自らの正しさを主張しているわけではないのだから。
0704考える名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 11:29:42.270
誤:ボバリー夫人
正:ボヴァリー夫人

たんなる誤記で、私は「ヴ」の使用を日本語から排除すべきだとは考えていない
ので念のため。
0705考える名無しさん
垢版 |
2019/03/29(金) 17:15:26.290
『ボヴァリー夫人』という小説が巧みに描写しているように私に感じられるのは、
「エマ」という女性の性格でも、世間の「凡庸さ」でもなく、「甲斐性なし」の
構造である。
0706考える名無しさん
垢版 |
2019/04/08(月) 09:00:19.070
580 :名無しさん@1周年 :2019/04/08(月) 07:11:53.30 ID:mmWz7ZKP0
片思い→ストーカー
告白→セクハラ
デートで積極的→デートDV
それを恐れて消極的→草食
男女平等だけど男が奢るの当たり前

この状態なれよほど本気になった相手以外手を出す気になるわけないだろ。
0707考える名無しさん
垢版 |
2019/04/13(土) 10:13:26.290
英語の"when the dust settles"という表現は、日本語における「す(澄/済)む」
ことと、「す(住)む」ことと、「す(住)まひ(/相撲)」≒"settlement"の関係を
説明するのに好適な隠喩となっている。
0708考える名無しさん
垢版 |
2019/04/13(土) 17:21:12.530
「すむ」という動詞自体は、「○む」という形が示すとおり、「累加する
ように(「す」の様態の作用/効果がある)」ことを表現しており、「す」
はやはりこの場合も、「見す見す」などの場合の「す」と同様に「無為」
を表しており、英語の「let」に相当する。つまり、「す(澄/済)む」は、
舞っていた埃が落ち着くと光を通すようになるように、澄/済むことを
表しており、沈静化≒"settlement"の指標となっている。借金返済が
"settlement of a debt"であるように、相撲(古語において「すまひ」)
は、互いの争いの沈静化≒"settlement"であり、住まいは、自らの
落ち着き先≒"settlement"である。日本語を母語とする人々でも、
「澄む」と「済む」と「住む/住まい」と「相撲」の関係に
ついて尋ねられても、それを説明できるどころか、これらの表現
が互いに意味的に関係しているのか、それとも同じ発音が単に偶々
重なっているだけなのかうまく答えられないことが普通だろうと
思われるが、このように英語の隠喩表現を介することによって、
その意味的な重なり合いがはっきりと見えてくるののである。
0709考える名無しさん
垢版 |
2019/04/15(月) 19:09:47.280
>>708
ところで、ドイツ語で"dichtmachen"と言えば、「閉鎖する」ことや、
「封鎖する」ことを意味しているだろう。ここで、「dicht」とは「密(みつ)」
であることを表現しており、"dichtmachen"≒「密(みつ)にする」ことが、
「閉鎖する」ことや「封鎖する」ことを意味するのは、「密(みつ)」である
性質が「通さない状態」のインデックス性として捉えられているからである。
このことは、ちょうど、日本語において「す(澄/済)む」ことが「(光を)通す」
こととして、「沈静化した状態」のインデックス性として捉えられているの
を逆にしたようなものであると考えることができる。言葉が違っても、
表現に用いられる手法が、しばしば、互いによく似ていることは、このような
例にも見て取ることができる。
0710考える名無しさん
垢版 |
2019/04/16(火) 08:09:09.880
日本語では謝るとき、よく「すみません」と表現する。
これは、お礼をするときに用いられる「それでは私の気がすみません」
という表現の短縮形であり、ここに否定形で現れる「すむ」も英語の
"settle"に対応するのだから、「すみません」とは、英語に言い換える
なら"being unsettled"ということになり、「自らの気が沈静化して
いない状態にある」ことを伝えるので、「すみまんせん」は、
「済みません」であると同時に「澄みません」でもある。

このように見ると、日本語の「気がすむ」という表現は、英語の
"have a clear conscience"という表現に相当していることが分る。
0711考える名無しさん
垢版 |
2019/04/16(火) 08:40:48.250
「文化の違い」や「異なる文化」について説明するとき、同じような状況でも
文化によって用いられる言葉の表現が大きく異なるというような説明の仕方が
されることがよくある。しかし、そのような説明は誤解を招きやすい、という
よりむしろ、その理路が混乱している。言語が異なっていても、互いによく
似た表現が用いられているのを見出すことは難しくない。また、異なる表現
が用いられていても、互いの理解が困難になるような大きな違いが表現方法
そのものにあるわけではない。
0712考える名無しさん
垢版 |
2019/04/16(火) 09:16:25.480
言語が異なる場合にそのまま直訳しても意味が通りにくいと感じられるのは、
暗黙に成立しているものと一般的に了解される関係性が、互いに異なるから
であり、その違いが表現に反映されて現れるからである。つまり、表現に
反映されて現れる、暗黙に成立しているものとして了解されている社会関係
や、さらに広く言うなら、存在の様態が反省的に捉えられたものが、
それぞれに互いに異なる「文化」とされるのである。

そのようなものとして、「文化」は、力関係から中立したものとしてある
わけではない。社会関係において適切な丁寧語や敬語を用いなければ、
表現の意図に誤解が生じるように、表現に反映される力関係は、本来的に
「文化」を形成しているのである。
0713考える名無しさん
垢版 |
2019/04/16(火) 15:46:15.800
人は、表現を変えることによって暗黙の了解を変えようとする。
暗黙の了解が変わったなら、現実の関係も変わる。
そうでなければ、就職活動をしている学生が企業の面接で
言葉遣いに細心の注意を払う必要もないはずであり、
面接官に対して企業を「御社」と呼ぼうと「あんたの会社」
と呼ぼうと同じことになるはずである。また、人と親密に
なろうとするとき、丁寧語や敬語を使わないように表現を
変えることによって、現実の関係を変えようとする。その
場合に相手が、表現の変更に不快感を示すとすれば、それは
暗黙の了解が変更されることに同意したくないという意志
を示すためである。
0714考える名無しさん
垢版 |
2019/04/16(火) 17:07:15.730
使う表現によって現実は変わる。
タメ口を使っているなら、相手と対等の権利を主張することを相手に
暗黙に認めさせていることになる。
0715ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/04/17(水) 08:37:59.160
言葉は、暗黙の了解を好都合に持続可能にするために用いられる。
相手が言葉を発するのを禁じて、既定の言葉を繰り返すことを絶えず
要求するのは、相手が暗黙の了解を変えようとするのを未然に防いで、
それを自らに好都合に持続可能に保つためである。
0716考える名無しさん
垢版 |
2019/04/17(水) 09:09:04.910
猥談で現実は変わる。
下ネタを語れば私はあなたとおなじ下品で猥雑な人間だと共感を訴えられる
ただし、相手によっては侮辱になるのでご用心。
0717ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/04/19(金) 08:46:13.090
「生/活き(息)」ることは、どのようにか自律性を保つことであるのだから、
事の成り行きが、どのようにか自律性が保たれるようになることは、
「よ(良/善/寄)き」ことであり、どのようにか自律性が失われていく
ことは、「あ(悪)しき」ことであり、事の成り行きにより、物事が
「無為」のうちに自律性を保つことと合致するようになることが、
「美しい」とされる。
0718考える名無しさん
垢版 |
2019/04/19(金) 09:23:21.210
人は、働くこと自体を嫌な負担であると感じるわけではない。
働くことが自律性を失わせることに向かうとき、にもかかわらず、
それをしなければならないことが、「あ(悪)しき」ことであると感じられ、
働くことにより自律性が保たれるようになるなら、活動の負担は
むしろ「やり甲斐」として、「よ(良/善/寄)き」ことであると感じられるのである。
0719考える名無しさん
垢版 |
2019/04/20(土) 08:32:45.600
人(ひと)は、「『される』ことを『する』」ことによって人/一(ひと)であろうとする。
「超人」であろうとする場合でさえ、その試みは、反省によって、「されることをする」
ことをしないようにすることによってしか可能ではない。ルサンチマンとは、
機会が訪れたなら、それに乗じて「されたことをしよう」とする感覚に他ならない。
人の日常的な倫理の基本とされる互酬性も、「されることをすべき」であると
いう規範に他ならず、「むく(向/酬)ふ」ことができるかどうかにより、
自らの「真価(ドイツ語で『貨幣』を意味するように用いられる"Geld"の
意味を考えてみるべきだろう)」が問われていることになり、「される」
ことが自らに望ましくないのであれば、それに対する「むく(酬)ひ」
(やはりドイツ語を用いるなら"Vergeltung"も同様の性質のものとなる。
世の中では、人が人であろうとする以上、そのことを無視して、「するでも
されるでもない」などと言ってみたところで、世間並みの人であることを
超えようとすることになるどころか、何の反省にもつながらないだろう。
0721学術
垢版 |
2019/04/20(土) 08:39:52.180
言葉は違う外国語同士の方が相性が悪くないだろう。
0722学術
垢版 |
2019/04/20(土) 08:40:29.350
方言も違う地方の人と話す方がお互い変化して面白い。
0723学術
垢版 |
2019/04/20(土) 08:41:08.100
訳すときは韻の表現をアレンジ。
0724考える名無しさん
垢版 |
2019/04/20(土) 08:41:39.900
人は、無反省において、「されることをしようとする」。
0725考える名無しさん
垢版 |
2019/04/20(土) 08:46:23.300
統治権力による誘導は、人のそのような無反省を最大限に活用するために
だれにでも身近な感情を煽ることを主な手法としている。
0726考える名無しさん
垢版 |
2019/04/27(土) 10:28:15.480
>>709
ところで、「み(身/実)」という表現において「み」の発音が想起させる
イメージは、ドイツ語で言うなら"dicht"に対応しているのではないか。
「み」の発音が想起させるこのイメージは、「ま」行が累加的なイメージ
を想起させるように用いられることにも関連しているだろう。
0727考える名無しさん
垢版 |
2019/04/29(月) 20:38:33.790
私は、「〜の発音が想起させるイメージ」というような表現を繰り返し用いて
いるが、言葉の表現におけるあらゆる発音は、常に既にレトリックとして
用いられており、特定の発音がどのようなレトリックとして用いられている
のかを無視して、その発音が想起させるイメージがどのようなものであるのか
を問ふことはできないことに留意しなければならない。それを無視するために、
「発音が想起させるイメージは、異なる言語において大きく異なり、発音と
それが想起させるイメージの間の関係にはほとんど例外的にしか共通性がない」
と思い込む「言語の恣意性」に対する信仰とでも呼べるような強い思い込みや、
逆に、言語が多様であるとは言っても、所詮、生物として同じ種に属する人間
が話す言葉なのだから、同様の発音は同様のイメージを想起させるはずだと
いう、あまりにも単純化された生物学的/心理学的な先入観が生まれる。
0728考える名無しさん
垢版 |
2019/04/30(火) 09:24:10.780
例えば、日常的に日本語を使う人々が、「くるくる」という発音を聞いたとき、
それによって想起されるイメージは、回転する様態であるはずであり、
「くるくる」という発音によってそのようなイメージが想起されることは
自然なことに感じられる。しかし、英語でそのような様態の動きを表現する
ために用いられる動詞は、"revolve"であり、「くるくる」における「くる」
の繰り返しが、この動詞の"re-"という要素に反映されていると考えても、
「くる」という発音と、"-volve"の語源であり、回転することを意味する
"volvere"の発音はまるで似ていない。同様に、日本語の「くるむ(/み)」
という表現が、英語の"envelop"やドイツ語の"einwickeln"に相当すると
考えた場合でも、日本語の「くる」が想起させるイメージに対応する
イメージを想起させていると考えられる英語やドイツ語の表現における
発音は、"v"の発音で始まっており(ドイツ語では"w"と記されるが)、
この場合、異なる言語において「同様のイメージを想起させる発音」に
共通性は見られないと結論づけることができそうに思える。しかし、
本当にそうだろうか。日本語の「くる」とそれに対応するイメージ
を想起させるように思える英語やドイツ語において"v"の発音で始まる
表現は、本当に「同様のイメージ」を想起させているのだろうか。

あまり書き込む時間がとれないので、私の推論の結論だけ先に
述べておこう。同じように回転する様態を想起させるように感じ
られるとしても、ここには、それをどちらの方から見るかという
見方の違いがあり、その違いが発音にも反映されているように
私には思える。日本語の「くる」が「く」という発音において、
回転をその求(/中)心性によって表現しようとしているとするなら、
英語(その語源であるラテン語系の言語)やドイツ語の"v"で始まる、
日本語の「くる」に対応するイメージを想起させるように感じら
れる表現は、回転をその遠心性(/力)によって表現しようとしている
と考えることができるのではないか。
0729考える名無しさん
垢版 |
2019/05/10(金) 22:45:08.210
サルトル的に言うと「言葉」という「記号」がまず先に存在してて本質は後からついてくるわけだから、「記号」自体には明確な「力」はなくて受け手の「言葉」が分かるかどうか等々の受取準備体制と「言葉」を送る側のその時の心情ないし受け手への感情等々で質が変わるんだと思ってる
0730考える名無しさん
垢版 |
2019/05/10(金) 23:11:13.700
サインはV?
0731考える名無しさん
垢版 |
2019/05/10(金) 23:13:13.100
時間差攻撃のサインかもしれないしな
0732考える名無しさん
垢版 |
2019/05/15(水) 23:53:35.870
無力ではない、力はある
どんな形であれ自分の言葉に力を感じるからそう確信する

腕力より言葉の力になってるなら最低限人間社会に生きてると思える
俺は貧相な小男だから腕力勝負になればあっさり倒される

獣の世界なら肉体的な強さがすべてだ
筋肉で強さが決まるわけではないところに人間の矜持があるんじゃないかね
0733考える名無しさん
垢版 |
2019/05/15(水) 23:56:41.320
もし明日死刑執行なら
ちんちんが役に立つか?
ちんちんも無力である
音楽もな
0734考える名無しさん
垢版 |
2019/05/16(木) 00:04:54.890
人間とは
死刑執行された瞬間の
感想を言う為に生まれて来たわけではない
言葉とはその程度のものだ
人間とは
死刑執行されたその瞬間を
見極めるものだ
集中力でな
それが人間だ
0735考える名無しさん
垢版 |
2019/05/16(木) 00:05:44.540
人間とは
死刑執行された瞬間の
感想を言う為に生まれて来たわけではない
言葉とはその程度のものだ
人間とは
死刑執行されたその瞬間を
見極めるものだ
集中力でな
それが人間だ
0736考える名無しさん
垢版 |
2019/05/16(木) 00:55:07.000
馬耳東風
0737考える名無しさん
垢版 |
2019/05/16(木) 00:56:08.240
1:  こ こ 無 職 し か い な い ね  (135)

2: 言葉は無力である (736)

3:    無 職 と 哲 学    (387)

4:   禊健太郎(波平)、来年で40歳職歴無し   (258)

5:    無 職 は 哲 学    (149)

6: 愛とはなんぞや シーズン42 (612)

7:    無 職 の 哲 学    (477)

8:  引 き 篭 も り お じ さ ん 板  (82)

9: ものすごい勢いで誰かが質問に答えるスレ@哲学 (818)

10: ■■■■■■■■■■■苧饅湖■■■■■■■■■■ (59)

11: ★☆★  THE お ま ん こ  ★☆★ (400)
0738考える名無しさん
垢版 |
2019/05/16(木) 03:19:35.750
サティはキリスト
0739考える名無しさん
垢版 |
2019/05/17(金) 19:02:29.770
なんか、なかなかやる気が出ないな。
日本語の「くるくる」という発音が想起される求心的なイメージと、
「くるくる」に対応するように回転を表す印欧諸語の遠心的なイメージの
対比について書き込もうと思っていんだけどね。

「くるくる」という発音が「求心的」なイメージを想起することが、日本語に
限定されるわけではないだろうことは、例えば、英語の"cramp"やドイツ語の
"krümmen"という表現を見れば感じ取ることができるのではないだろうか。
ただし、これらの表現の場合、「回転」のイメージがともなっているわけでは
ない。

言葉のイメージにおいて、何がより一般的であるのかを探ることは重要だろう。
「くるくる」の場合でも、日本語の場合、「回転」が専ら「求心性」に引き
寄せられて表現されるようになったと考えることができ、そのため、
「くり出す」や「くり広げる」のような、明らかに「遠心的」な表現に
おいても、日本語の場合、「求心的」な回転を表す「く(繰)る」という表現
が流用されているのである。これに対して、印欧諸語の場合、「求心性」
をイメージさせる発音が回転と結び付けられるのではなく、収縮すること
や、曲がることなどと結び付けられており、回転は、むしろ、遠心性/
遠心力のイメージと関連して表現されていると考えられる。
0740考える名無しさん
垢版 |
2019/05/17(金) 19:14:34.700
日本語で「『グッ』とくる」とか「『ギュッ』と詰める」と表現した場合、
収縮性がイメージされるが、印欧諸語では、「求心性」は、回転よりも、
そのようなイメージに結び付けられる傾向が強いと言えるだろう。
このことは、例えば、英語の"cram"が"gather"と同じく印欧祖語の
"*ger-"から解釈されることにも見て取れる。
https://www.etymonline.com/search?q=cram

であるにしても、「言葉の発音が想起させるイメージは、恣意的であり、
言語によってまったく異なる」と言って済ませられるわけではない
ことは、日本語を母語とする人にも、印欧祖語の"*ger-"が想起させる
凝集のイメージが容易に理解できることを考えれば、明らかだろう。
0741考える名無しさん
垢版 |
2019/05/19(日) 09:47:01.700
回転が遠心的に捉えられているからこそ、回転をイメージさせる発音が
そのまま開閉する様態と結びつく。

https://www.etymonline.com/search?q=valve
valve (n.)
late 14c., "one of the halves of a folding door," from Latin valva (plural valvae)
"section of a folding or revolving door," literally "that which turns," related to
volvere "to roll," from PIE root *wel- (3) "to turn, revolve." Sense extended
1610s to "membranous fold regulating flow of bodily fluids;" 1650s to
"mechanical device that works like an anatomical valve;" and 1660s in
zoology to "halves of a hinged shell." Related: Valved.
0743考える名無しさん
垢版 |
2019/05/20(月) 07:57:20.290
まるい地球が太陽のまはりをまはる。

「くるくる」と"volvere"を対比させて回転について論じたが、そのような
対比は恣意的であり、回転することは、日本語で一般に「回(まは)る」と
表現され、「まは(回)る」と「まは(周)り」は明白に関連する表現なのだから、
日本語の場合にもやはり、回転は遠心的に捉えられているではないか、
という指摘が当然、生じるだろう。確かに、私は、上の議論で、
求/中心性と遠心性/力の対比を強調するために、「まはる」という
表現について論じることを避けている。実際、"v"の発音で始まる回転
にかかわる表現の例としてあげたドイツ語の"einwickeln"の"-wickeln"
にしても、「くるむ」と解釈する必要はなく、「ま(巻)く」と理解した
方が妥当だろう。

しかし、ここで問題が生じる。「ま(巻)く」は「まはる」とどのように
関連しているのか?「まはる」ことや「まはり」は遠心性を表現して
いるのだろうか。
0744考える名無しさん
垢版 |
2019/05/20(月) 08:16:22.270
時間もなく、面倒なので、私の推論の結論だけ述べよう。

「まはる」という表現は、「ま(舞)ふ」という再帰形の動詞表現に由来して
いるだろう。「まふ」とは、「丸い円を描くように自ずと動く」ことであり、
そのように動くように「させる」≒"let"ことが、「まふ+す」→「まはす」
ことであり、「まはす」ように自らが動くことが「まはる」ことである。

したがって、「ま(舞)ふ」という表現において「ま」の発音は「丸いこと/
円」のイメージを想起させることを担っていると考えることができる。
では、「ま(巻)く」とは、どのような表現だろうか。容易に類推できる
とおり、「ま(巻)く」が意味しているのは、英語で表現するなら"surround"
である。このことからさらに、アクセントは異なるが、「ま(巻)く」と
「ま(撒)く」も関連した表現であることが分る。「ま(巻)く」が、
「丸いこと/円」を外側から見た表現であるのに対して、「ま(撒)く」は、
やはり「丸いこと/円」のイメージに関連するものの、それを内側から
見た表現であり、英語で表現するなら、"throw/hurl around"に相当する
と考えることができる。

つまり、「まはる」という表現は、求心的でもなく、遠心的でもなく、
動作が「丸いこと/円」と結びついていることを伝えるものである。
0745考える名無しさん
垢版 |
2019/05/20(月) 08:51:09.630
「すわ」って、本当に「すわ」とか「すは」とか発音されたことが
あるのだろうか?

すわ(スワ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/すわ-544181

デジタル大辞泉 - すわの用語解説 - [感]1 突然の出来事に驚いて発する語。
そら。さあ。あっ。「すわ一大事」2 相手が気づかずにいるときに注意を喚起
するために発する語。そら。ほら。「―稲荷より賜るしるしの杉よ」〈更級〉
0747考える名無しさん
垢版 |
2019/05/20(月) 19:13:31.990
負(ま)け犬は尻尾を巻(ま)く
0748考える名無しさん
垢版 |
2019/05/21(火) 09:01:23.420
丸(まる)い毬(まり)
丸(まる)い眼(まなこ)
満(み)ちる、丸(まる)くなる
0750考える名無しさん
垢版 |
2019/05/21(火) 10:03:34.920
ま(放)る、なにが円を描くのかw
0751考える名無しさん
垢版 |
2019/05/21(火) 20:02:43.830
「まは(回)る」が、「まは(回)す」を介して「ま(舞)ふ」から
派生させられた動詞であるとすれば、「ま(放)る」から派生
させられた再帰形の動詞が「まろぶ」だろう。

https://kobun.weblio.jp/content/まろぶ
@ころがる。
出典万葉集 四七五
「こいまろび泥(ひづち)泣けども」
[訳] 横になりころげ回って泥にまみれ泣いてみても。

Aころぶ。倒れる。
出典愚管抄 五
「なのめならぬ大地震ありき。古き堂のまろばぬなし」
[訳] 並々でない大地震があった。古い堂で倒れないのはなかった。
0752考える名無しさん
垢版 |
2019/05/21(火) 20:14:30.120
ところで、「薪(まき)割り」をして、割った焚木(たきぎ)も「薪(まき)」
と呼ばれるが、「薪(まき)割り」で割られるのが「薪(まき)」でなかった
とすると、割られる前の状態は何と呼ばれていたのだろうか?
0754考える名無しさん
垢版 |
2019/05/22(水) 10:43:46.710
>まつり縫いの仕方(手縫い)

「まつる」、円を描くように釣る?
「待(ま)ち針」
0756考える名無しさん
垢版 |
2019/05/23(木) 08:01:10.090
粉を「かぶ(被)す」ことと、
粉を「まぶす」ことはどう違うのか。
0757考える名無しさん
垢版 |
2019/05/23(木) 08:12:59.760
「ま」が「丸い」イメージを想起させるように多用されていることと考え
合せると、「真(ま)心」、「真(ま)水」、「真(ま)東」のような表現に
おいて「ま」が想起させるイメージも、本来的には、英語で表現するなら、
"complete"、"entirety"、"whole"などに相当するのだろう。
0758考える名無しさん
垢版 |
2019/05/23(木) 09:02:14.800
「まと・める」が"round up"であるとすると、
「まと・(纏/絡)ふ)は、再帰形の動詞として"wrap oneself around"である。

「足手まとひ」という表現に「まとふ」の本来のイメージがはっきりと表れている。
0759考える名無しさん
垢版 |
2019/05/23(木) 09:13:29.810
ま行の発音の発音が、累加するイメージを表すように用いられていることは、
既に繰り返し指摘した。「ま」が「丸い」イメージを想起させるものとして、
累加が完成した状態、いわば、"fullness"を表すように用いられるとすれば、
「み」は、それに対して"filling"の作用を表すように用いられる。

「みの(稔/実)る」
「の」が重さが加わった様態を表すように用いられることも以前に指摘した。
すると、「みの(稔/実)る」とは、「み」≒"filling"の作用によって重くなる
ことを表していることになる。では、
「みず(水)」は、どうだろう。
「す」が無為を表しているとすると、「無為のうちにみ(満)ちるもの」が
「みず(水)」なのだろうか。固定して考える必要はない。想像力を働かせて、
整合性が見られるかどうか気にかけていれば、そのうち仮説のネットワーク
が形成される。
0760考える名無しさん
垢版 |
2019/05/23(木) 11:32:33.430
「みかづき(三日月)」は、"waxing moon"であって、"waning moon"ではない。

https://www.etymonline.com/search?q=crescent
Applied in Latin to the waxing moon, luna crescens, but subsequently
in Latin mistaken to refer to the shape, not the stage. The original
Latin sense is preserved in crescendo.
0761考える名無しさん
垢版 |
2019/05/23(木) 18:17:26.550
「ま」が「丸い」ことをイメージさせるように多様されていることから
考えると、めだま(目玉)や、眼球(がんきゅう)という表現は、目が「め」
と一般に呼ばれるようになったこと切り離せないだろう。

「ま(目)の当たりにする」、「まなこ(眼)」、「ま(目)つ毛」、
「まなじり(眦)」のように目が「ま」と呼ばれていた限りで、目が
丸いことは「ま(目)」という発音そのものが直ちに想起させていた
はずである。
0762学術
垢版 |
2019/05/23(木) 19:52:37.850
分数月と 月の呼び名と 月の数 を暦学的に天文計算だ。
0763考える名無しさん
垢版 |
2019/05/24(金) 08:56:29.950
諸般の事情があって、ずっと紙媒体の古語辞典へのアクセスができなかったが、
今朝、久しぶりに紙の辞書を眺めてみると、やはり、インターネットの辞書
などと違って、連想を働かせて、手応えを得るのにはるかに役立つ。何が違う
かといえば、発音の順に表現が無関係に並べられていて、その説明が隣り合って
目に入ってくることだ。辞書に記載される説明そのものは、確定的な記述に
よって連想にむしろストップをかけるものだが、連想の方は勝手に働いて
整合性を見出す。
0764考える名無しさん
垢版 |
2019/05/24(金) 09:08:00.960
「まと(的)」は、元々、「まと(円)」であり、「まど(円)か」である
形に由来するとされる。しかし、上に見たように、多くの表現に
おいて「ま」そのものが「丸いこと/円」をイメージさせるように
用いられている。すると、「ま・と(円)」の「と」はどのような
役割を果たしていたのだろうか。

私の推測では、「まと」は、「まつり縫い」という表現に見られる
「まつ」に対応し、この場合、「まつ・る」は、再動詞化によって
(再帰形ではない)もたらされた形であり、本来は、「まつ」自体が
動詞として用いられていたのだ。その「まつ」という動詞の動作/
作用の結果としてもたらされる状態が「まと(円)」であり、この
「まと」は、「まと・める」、「まと・ふ」の「まと」と同一である。
この場合の「まつ」が「円を描くようにくくる/くるむ」ことで
あるとすると、「まと・む」は、「〜む」から理解できるとおり、
そのような状態を累加的にもたらすことであり、再帰形の「まと・ふ」
は、自ずからそのような状態になることである。

さらに、「まち(町)」は、本来、区画を表しており、フランス語の
"arrondissement"に相当することが分る。
0765考える名無しさん
垢版 |
2019/05/24(金) 09:22:55.540
ところで、「待(ま)つ」とは、ぐるぐると円を描きながらとどまっていることだろうか?
0766考える名無しさん
垢版 |
2019/05/24(金) 14:30:55.760
「まつはる」という表現は、「まつふ」という再帰形の動詞
の再動詞化として派生したと推測することができるだろう。

https://kobun.weblio.jp/content/まつはる
学研全訳古語辞典

学研教育出版学研教育出版
まつは・る 【纏はる】
@からみ付く。巻き付く。
出典源氏物語 若菜上
「物にひきかけ、まつはれけるを」
[訳] (猫は綱を)物にひっかけ、(綱が)からみ付いてしまったので。

Aいつもそばに付いている。付きまとう。
出典源氏物語 帚木
「いづくにてもまつはれきこえたまふほどに」
[訳] (頭(とう)の中将は源氏に)どこでもいつもそばに付き申し上げなさっているうちに。

B執着する。とらわれる。
出典源氏物語 常夏
「をかしき事のすぢにのみ、まつはれて侍(はべ)めれば」
[訳] 風流な事柄にばかり執着しておりますので。

@に同じ。
出典万葉集 三二四八
「藤波(ふぢなみ)の(=枕詞(まくらことば))思ひまつはり」
[訳] 思いがからみ付き。
0767考える名無しさん
垢版 |
2019/05/24(金) 14:37:32.810
つまり、「まつ」という、「からみつくように留まる」様態を表す表現から、
「待(ま)つ」、「まつり[縫ひ]」の「まつる」、「纏(まと)ふ」、「纏(まと)める」、
「的(まと)」、「まど(円)か」、「まつ(纏)はる」などがすべて派生したことになる。
0769考える名無しさん
垢版 |
2019/05/24(金) 14:50:30.350
「まつ」という表現をこのように解釈した場合、「奉/祭/祀(まつ)る」、
「服/順(まつろ)ふ」という表現には、「ま」が目を連想させることと、
「まつ」が「巻きつく」を連想させることから来る、複合したイメージ
が生じることになるだろう。
0771考える名無しさん
垢版 |
2019/05/25(土) 08:59:49.880
表現のエコノミーを考慮することなしに発音のイメージについて論じる
ことはできない。例えば、「ふ(吹)く」と「ふく(含)む」は、同じ
「ふく」という発音を用いながら、まるで逆のイメージを表現している。
この場合、「ふく」は、いずれの場合も「ふ」によって表現される様態
のイメージによる動作/作用を表現しているが、「吹く」が、英語の
"blow"に相当するように、動作/作用を加える側から見た様態を表現
するように「ふく」を用いているのに対して、「ふく(含)む」の方は、
「ふく(膨)らむ」や「ふくろ(袋)」、さらには「ふか「深」し」と同様に、
その視点を反転させて、つまり、「ふく」によって表されるインデックス性
を反転させて、英語の"balloon"に相当するように「ふく」のイメージ
を用いている。これは、少ない発音を用いることによって、冗長な印象を
与えることなく、関連するイメージを簡潔に表現しようとする言葉の
エコノミーに配慮した工夫であり、どのような言語でも同様の手法を見る
ことができるだろうが、「ゆる(緩)む」⇔「ゆ(結)ふ」などの、「〜ふ」
という再帰形を用いた、作用/動作を反転させる表現のエコノミーととも
に、日本語の表現において顕著に用いられている手法である。
0773考える名無しさん
垢版 |
2019/05/25(土) 09:15:20.480
ところで、再帰表現において用いられる「〜ふ」は、ドイツの"wieder-"
や英語の"re-"に似ていることを既に指摘したが、作用/動作の反復
/反転を表現するのに用いられることにおいて、「ふ」は、日本で用い
られる漢字の「複」によって表される動作/作用とある程度、重なって
いるように見える。「〜ふ」は、中国語の「复(fu)」と関係している
のだろうか。私には中国語の知識が全くないので、これについては、
残念ながら、現状では全く論じることができない。
https://cjjc.weblio.jp/content/%E5%A4%8D
0774考える名無しさん
垢版 |
2019/05/25(土) 10:28:13.940
中国語の知識がゼロでも、少し検索してみるだけで中国語との対応関係も
なかなか面白い。ドイツ語で"dicht"が「密(みつ)」であることを表す
とともに、そのインデックス性によって「通さない」ことを表すこと、
さらに、日本語の「み(身/実)」が想起させるイメージ(作用/動作として
英語の"filling"に相当するだろうことも指摘した)が"dicht"に対応するだろ
うことを指摘した。そのちょうど逆のインデックス性を考えてみると、
「密(みつ)」⇔「疎(そ)」という漢字が想起されるが、「疎」という
漢字について検索してみると、「疎(そ)す」という表現が出てきて、
これは、まさに、ドイツ語の"dicht"とは逆に「通す」ことを意味して
おり、「疏(しょ)」という漢字の用法に由来するようだ。
https://kotobank.jp/word/疏-530218

とすると、日本語の「〜す」という動詞の「す」は、中国語の
「疏(shū)」と何らかの関係があるのだろうか。
https://cjjc.weblio.jp/content/%E7%96%8F
直接の関係があるにせよ、ないにせよ発音とそれが想起させる
イメージに類似性があることは確かである。
0776考える名無しさん
垢版 |
2019/05/25(土) 11:16:38.330
「疏/疎(す)か疏/疎(す)か」?
0777考える名無しさん
垢版 |
2019/05/25(土) 11:27:40.240
「み」の場合も、発音とそれが想起させるイメージは日本語と
中国語で類似している。日本語が漢字とその発音を輸入して
多様していることから、それを当たり前と考えるべきなのだろうか。
今のところ、私にはよく分らない。

https://cjjc.weblio.jp/content/%E5%BC%A5
白水社 中国語辞典
白水社白水社
弥(彌)
ピンインmí

1. 付属形態素 満ちる,あふれる,いっぱいに広がる.
2. 付属形態素 満たす,補う,覆い隠す.
3. 付属形態素 更に,いっそう.⇒欲盖弥彰 yù gài mí zhāng.
0778考える名無しさん
垢版 |
2019/05/25(土) 23:12:40.610
悪とは、精神に屈することだ。身体に屈することではない。
0779考える名無しさん
垢版 |
2019/05/25(土) 23:13:34.800
精神に屈することではなく身体に屈することを悪だと思い込むこと、これが原罪だ。
0780考える名無しさん
垢版 |
2019/05/25(土) 23:14:36.410
悪意に従い、善意に従わないこと。これが、思いの罪だ。
0781考える名無しさん
垢版 |
2019/05/25(土) 23:15:34.090
間違い、行いの罪だ。
0782考える名無しさん
垢版 |
2019/05/26(日) 00:09:14.360
身体に屈することではなく、精神に屈することが悪。
精神に屈することではなく、身体に屈することが損。
0783考える名無しさん
垢版 |
2019/05/29(水) 02:39:10.270
「また」の「た」は、「あ(当)たる」の「た」がそうであるように、
「接触」を表している。「また」≒「ま(rounding[ly])・た(touch)」である。
0784考える名無しさん
垢版 |
2019/05/29(水) 07:43:36.660
ふたまた(二股)、みつまた(三又)における「また」が表しているのは、
そのように接触するものとしての分岐≒"alternatives"であり、
接続詞としての「また・は」が"alternatively/as an alternative"
という意味になるのもそのためである。

では、また(≒"some other time")
0788考える名無しさん
垢版 |
2019/05/29(水) 11:34:13.770
c'est un argument incontournable, n'est-ce pas?
0791考える名無しさん
垢版 |
2019/05/29(水) 19:23:09.300
no need to beat "around" the bush!
0792ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/05/29(水) 19:25:03.060
表向きの言葉が違っても、人の発想はそう大きく違わないことが多い
0793考える名無しさん
垢版 |
2019/05/29(水) 19:27:54.250
「まったく」が、一体全体を表すのも、まるっと包括的に触れるからだろうw
0794考える名無しさん
垢版 |
2019/05/29(水) 19:31:07.600
「地獄に落ちろ!」とは思うが、地獄の存在はまったく信じていない。
存在するとすれば、「地獄で待っている」、"I'll wait you in hell."
0795学術
垢版 |
2019/05/29(水) 19:34:06.730
五木寛之 無力
0799考える名無しさん
垢版 |
2019/06/01(土) 09:38:42.710
以前、「つ」という発音によって表されるイメージについて以下のように
指摘したことがある。

>「た」が「(特に手が)接触する様態」様態を表すとすれば、「つ」は、
>その接触が持続的である様態を表すように用いられ、その
>ことは、「つ(付)く」や「つづ(続)く」という表現によって代表される。

私は中国語を知らないので、日本で使われる漢字から推測して、
中国語で似たような発音を検索してみると、接触や持続を表すように
用いられる「着」に行き当たる。この場合も、日本語の「つ」の発音と
それが想起させるイメージ、中国語の「着」の発音と、それが想起させる
イメージは類似している。日本語の「〜つ」という動詞には、中国から
もたらされた言語表現が影響しているのだろうか。

https://cjjc.weblio.jp/content/
http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/zh/gmod/contents/explanation/046.html
0800考える名無しさん
垢版 |
2019/06/02(日) 10:32:43.440
日本語の「お」の発音が想起させるイメージが気になっている。
英語の「awe」の発音と意味は、「おそ(恐/怖)れ」などの日本語の「お」
の用法との類似性を感じさせるものの、全般的に見ると、日本語の「お」
の発音とそれが想起させるイメージは、印欧諸語の類似した発音において
対応するような関係を見出すのが難しいように思える。

日本語における「お」の発音が私に想起させるイメージは、検索してみる
と、中国語では「压/壓」に相当する(英語では、"impose"や"imposing"
などが想起される)ように思えるが、発音は「お」とは大きく異なっている。
そのうち時間のとれるときに、日本語の「お」の用法について想起される
ことについて書き込むことにする。
0801心の鬼
垢版 |
2019/06/02(日) 11:12:02.930
私が「おそ(遅)い」から、「お(押)せお(押)せ」になるのか、
それとも、「お(押)せお(押)せ」になるから「おそ(遅)く」なるのか?
0802考える名無しさん
垢版 |
2019/06/02(日) 11:16:03.140
「おびや(脅)かされている(ドイツ語を用いるなら"bedroht")」と感じさせる
もの、それが心の鬼(おに)ではないか?
0804考える名無しさん
垢版 |
2019/06/02(日) 13:01:05.480
「お(落)つ」を英語で言い表すなら"fall"だろう。
ところで、「おそ(襲)ふ」を英語で表現すると、"come down on 〜"
と言うことができ、ドイツ語では、"befallen"という表現が用いられる。
フランス語を用いるなら"surprendre"、つまり、「上から押さえる」
ことになる。

https://kobun.weblio.jp/content/おそふ
学研全訳古語辞典

おそ・ふ
(一)【圧そふ】押さえつける。圧迫する。
出典土佐日記 一・一七
「船はおそふ海のうちの天(そら)を」
[訳] 船は押さえつける、海面に映る空を。

(二)【襲ふ】
@不意に攻めかかる。襲いかかる。
A(地位・家督などを)受け継ぐ。
0805考える名無しさん
垢版 |
2019/06/02(日) 13:09:47.200
では、「落つ」と「おこる」の関係はどうなっているのか?
また、「お(落)つ」も「お(置)く」も下向きの動きであるのに対して、
「お(興/起/熾)く」、「おこ(興/起/熾)す」、「おこ(興/起/熾)」は
上向きの動きだろう。この関係はどう考えるべきなのか、というより、
この下向きの「お」と上向きの「お」は互いに無関係であると考える
べきなのか?しかし、以下の表現では、その逆方向の動きを表す「お」
にも暗黙に関係が意識されているのではないか?

https://kobun.weblio.jp/content/おつ
F治る。(つきものが)去る。
出典十訓抄 一〇
「おこり時過ぎておちにける」
[訳] 熱病が、時間が経過して治った。
0807考える名無しさん
垢版 |
2019/06/02(日) 13:25:37.300
病(やまひ)が篤(あつ)しい/重篤である状態、つまり、「おこり」が
続いている状態は、それがどのようなもと考えられるにせよ、
病(やまひ)の原因が重く圧(の)しかかっている(仏語の動詞を用いる
なら"peser")状態だろう。

では、その逆に、病(やまひ)が「治る」ことが「お(落)つ」こと
であるとすると、その「お(落)つ」ことは、病(やまひ)の原因が
取り除かれる(やはり仏語の動詞を用いるなら"lever")ことによって
もたらされるのではないか?
0808考える名無しさん
垢版 |
2019/06/02(日) 13:32:47.430
おずおずとそんなことを問ひながら、おめおめ生きている
0809考える名無しさん
垢版 |
2019/06/02(日) 14:11:13.780
「お(怖)ず/お(怖)じる」とは、何かが"imposing(圧倒的/威圧的)"である
と感じることだろう。「おお(/ほ)[多/大]い」もやはり、何かの量や規模が
"imposing(圧倒的/威圧的)"であることを意味しているものと考えられる。
すると、「おそ(恐)る」も、そのように「お(気圧)される」ことを表現して、
「压(お)す」作用の結果である「压(お)そ」がもたらされることとして
理解できるのではないか。
0810考える名無しさん
垢版 |
2019/06/02(日) 14:39:19.390
ところで、「磤馭慮(おのごろ)島」の「磤馭慮」は、どのような考えに基づいて
選ばれた漢字なのだろう。どうみても、発音を写そうとして選ばれた漢字には
見えない。
0811考える名無しさん
垢版 |
2019/06/03(月) 13:08:11.110
「お」についてさらに考えてみた。

>>800
>日本語における「お」の発音が私に想起させるイメージは、[...]
>中国語では「压/壓」に相当する[...]ように思えるが、発音は「お」と
>は大きく異なっている。

と述べたが、日本語の「お」のイメージを、中国語において発音の
大きく異なる「圧」や「压/壓」からイメージしようとするのは、
日本語の意味に、発音が全く異なりながら、用法に重なりの認められる
漢字を応用した先人達の轍にはまってしまっているのかもしれない。
日本語の「お」という発音と、それが想起させるイメージの両方
との重なりを考えるなら、むしろ、それに似ているのは、意外に
思えるかもしれないが、「凹凸(おうとつ)」という表現において
用いられる「凹」かもしれない。

https://cjjc.weblio.jp/content/
凹 ピンインāo ⇒ [異読音] wā
中がくぼむ,落ち込む.↔凸
0812考える名無しさん
垢版 |
2019/06/03(月) 13:23:20.660
中国語の「凹(āo)」は、「落ち込む」というイメージを想起させるように
用いられるのだから、それが日本語の「お(落)つ」という発音、およびそれ
が想起させるイメージと重なることには異論がないだろう。

では、「お(押)す」はどうだろうか。実は、「お(押)す」は、「お」を
「圧」や「压/壓」から考えた場合、「〜す」を"let"や"have X 〜"
と見なしてきた考え方では、うまく解釈することができない。ところが、
日本語の「お」が漢字の「凹」に相当するイメージを想起させるものと
想定して、「凹」が英語を用いるなら"depressed"に相当すると考える
なら、例えば、「ボタンをお(押)す」という表現は、"have the button
depressed"のように解釈できることになる。むろん、その場合、
「お(起)く」や「おこ(起)す」という表現の解釈について問題が残る
が、梃の原理が適用されていると想定するなら、「お(置)く」ことに
よって生じる「押下げられた状態」を「おこ」と考え、それによって
「おこ(起)す」ことになると考えることは可能であり、さらに、
「おこ(起)す」から自動詞としての「お(起)く」が派生したと考える
ことはできるだろう。
0813考える名無しさん
垢版 |
2019/06/03(月) 13:43:46.020
>桶狭間の地形が、谷間が入り組む窪地であったことが、今川軍を苦しめた。

「桶(おけ)」という表現も、漢字の「凹」に相当するイメージから解釈できる
のではないか。
0814考える名無しさん
垢版 |
2019/06/03(月) 20:37:24.050
ところで、有名な「たごのうらゆ…」の歌だが、私は無知でまったく
知らなかったのだが、この「ゆ」の用法(日本語の表現一般における
「ゆ」ではなく)は、今回、中国語に関連して検索してみたら、
中国語の「由(yóu)」そのものじゃないか。専門家がこんな基本的な
ことに気づかないことはあり得ないのに、なぜ誰もきちんと説明しない
のだろう。

学研全訳古語辞典
たごのうらゆ…
「田子(たご)の浦ゆうち出(い)でて見れば真白(ましろ)にそ富士の高嶺
(たかね)に雪は降りける」
出典万葉集 三一八・山部赤人(やまべのあかひと)
[訳] 田子の浦を通って視界の開けた場所に出て見ると、富士の高嶺に真っ白に
雪が降り積もっているよ。

https://cjjc.weblio.jp/content/
前置詞 (多く書き言葉で,「行く」「来る」「通る」「送る」など移動を表わす
動詞と共に用い,動作が経由・通過する場を示し)…を,…を経て,…から.
0815考える名無しさん
垢版 |
2019/06/04(火) 08:54:03.180
日本語の「お」の発音とそれが想起させるイメージが、中国語
の「凹(āo」の発音とそれが想起させるイメージに似ていると考えた
場合、「凹」のイメージ、それに相当すると考えることができる
英語の"depress/depressed"、より語源的に表現するなら
"down-press/down-pressed"、日本語の「お(怖)ず」、
「おそ(怖/畏/恐)れ」などからすぐに連想される詩がある。
それは、Paul Celanの「Tenebrae」である。
https://harpers.org/blog/2008/03/celans-tenebrae/
0818考える名無しさん
垢版 |
2019/06/04(火) 12:06:57.550
ギリシア語で"ὄνομα"とは名前のことである。

https://kobun.weblio.jp/content/負ふ
〔「名に負ふ」の形で〕(名として)持っている。
出典古今集 羇旅・伊勢物語九
「名にしおはばいざ言問(ことと)はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
[訳] ⇒なにしおはばいざこととはむ…。
0819考える名無しさん
垢版 |
2019/06/05(水) 07:23:55.300
>>804
おそ・ふ
(一)【圧そふ】押さえつける。圧迫する。
出典土佐日記 一・一七
「船はおそふ海のうちの天(そら)を」
[訳] 船は押さえつける、海面に映る空を。

(二)【襲ふ】
@不意に攻めかかる。襲いかかる。
A(地位・家督などを)受け継ぐ。

この分け方は不適切だろう。
(二)の「おそふ」には、同じ「襲」という感じが当てはめられているが、
この「襲ふ」は、おそらく、@(一)と同じく「お(押/圧)す」の再帰形、
「お(押/圧)す+ふ」≒"impose onself on ~"と、A「お(負)ふ」⇒
「お(負)そ(添)う」≒"assume~ on onself"が重なった騙し絵である。
0820考える名無しさん
垢版 |
2019/06/05(水) 07:40:05.400
>>815
>Windschief gingen wir hin,
>gingen wir hin, uns zu bücken
>nach Mulde und Maar.

"Mulde"は、地形としての「凹地」であるとともに、
用具としての「桶(おけ)」でもある。

https://en.wiktionary.org/wiki/Mulde
1. hollow (lowered area on a surface)
2. (geography) hollow; depression
3. (dated) shallow container; trough
0821考える名無しさん
垢版 |
2019/06/05(水) 07:47:00.630
詩的であると感じられる言葉の表現が伝えるイメージは、
しばしば、言語の境界を越えている。
0822考える名無しさん
垢版 |
2019/06/05(水) 09:09:23.610
日本語の「お」の発音が、"down-pressing"に相当するようなイメージを
想起させるように用いられているとすると、その再帰用法である「お(負)ふ」
は、自らに対する"down-pressing"の作用としてそのまま解釈できる。
では、「お(生)ひ茂る」の「お(生)ふ」はどうだろうか。
岩波古語辞典を引くと「お(生)ひ」は、「オホ(大)を活用させた語。
植物などが、大きく育つ意」と説明されている。

私は、この説明にはある程度の妥当性が認められるものの、理路が
間違っているだろうと思う。なぜなら、「お(生)ひ」を「オホ(大)
を活用させた語」とすることは、「オホ(大)」という表現を、解釈
を必要としない自明のものと見なして、問題をずらすことにしかなら
ないからである。私は、むしろ、「おふ」という作用を表す表現
から「オホ(大)」が派生したと考えるべきだろうと思う。
その場合、この「おふ」は、「お(負)ふ」が自らに対する
"down-pressing"の作用を表現しているのに対して、やはり
再帰形であるものの、自らが"down-pressing"の作用を働かせる
こと、つまり、"imposing"の作用を表しているものと考えること
ができるだろう。ちょうど、フランス語の"s'mposer"という表現
が、「自らに〜を課す」ことを表す一方で、その逆に「自ら
を《imposer》する」ことを表すようにも用いられるのと同様
である。

ところで、英語には、"grow on 〜"という隠喩表現がある。
https://ejje.weblio.jp/content/grow+on
(1) 〈習慣などが〉〈人〉にだんだん募って[高じて]くる.
The habit grew on him. 彼はその癖がだんだんひどくなった.
(2) だんだん〈人〉に気に入るようになる.
That picture is growing on me. あの絵がだんだん好きになってきた.
0823考える名無しさん
垢版 |
2019/06/05(水) 09:34:24.100
私は、日本語に主語があったかどうかという議論は、いずれの立場を
とるにせよ、徹底的に下らないと思う。私がそれを、極めて稚拙な
見え透いた工作だと信じていないとすれば、論じている人々の知性を
疑うレベルだ。
0824考える名無しさん
垢版 |
2019/06/05(水) 15:36:33.360
>>818-819
https://kotobank.jp/word/襲名-162211
デジタル大辞泉の解説
しゅう‐めい〔シフ‐〕【襲名】
[名](スル)親や師匠などの名前を受け継いで自分の名とすること。
「六代目菊五郎を襲名する」「襲名披露」
0826考える名無しさん
垢版 |
2019/06/06(木) 09:00:09.430
中国語の「吹(chuī)」の方は、以前に「狭い通り道を通る勢い(いきほひ)」
のようなイメージを想起させるものとして解釈した日本語の「ち」と、
発音もイメージも重なっている。特に、「こち(東風)」という表現など
は、「こ+吹(chuī)」と解釈してもまったく問題ないことになるだろう。
https://cjjc.weblio.jp/content/
0827考える名無しさん
垢版 |
2019/06/06(木) 09:31:57.250
日本には漢字、漢文、中国語の研究の長い歴史があるのだから、
このような対応関係について体系的に探究した研究書は存在するはずだが、
代表的なものには誰の、どのような著作があるのだろう。
0830考える名無しさん
垢版 |
2019/06/07(金) 09:27:26.360
>>825
>「ふ(伏)す」の「ふ」は、明白に中国語由来のようですね。

なぜそのように断定的に判断するのか、といえば、それは、単に
日本語においても「ふす」という表現の「ふ」を表すのに「伏」という
漢字が用いられて、発音が共通しているというだけのことではない。
発音とそれが想起させるイメージが共通しているということなら、
「喷」という漢字も「pēn」と発音されて、吹き出すことをイメージ
させ、日本語の「は、ひ、ふ、へ、ほ」はかつて、「ぱ、ぴ、ぷ、
ぺ、ぽ」と発音されたとも考えられているのだから、やはり共通性
が見られ、「ふ(吹)く」の「ふ」の発音も中国由来であると主張
することになるだろう。ところが、「吹き出す」作用/動作のイメージ
を伝えるのにに類似した発音を用いることは印欧諸語にも広く
見られ、例えば、フランス語で中国語の「「喷(pēn)」に相当する
動詞にどのようなものがあるかを考えるなら、直ちに"péter"を
思い浮かべるだろう。したがって、この場合、似たような発音が
似たようなイメージを想起させるために、日本語でも中国語でも
発音とイメージの関係性に類似が見られるのか、日本語の表現
が中国から伝わったものであるのかを明確に判断することはできない。
これとは対照的に、「伏す」動作を「ふ」の発音で表現することは、
多くの言語において広く見られるとは言えず、言わば、特異であり、
この発音がなぜ「伏す」動作のイメージを想起させることになるのか
まったく自明ではない。したがって、「伏」という漢字と「ふ」と
いう発音がともに、中国語の場合と同じように日本語においても
用いられているのだから、これは、中国由来の表現だろうと判断して
もほぼ間違いないだろうということになる。
0831考える名無しさん
垢版 |
2019/06/07(金) 09:32:43.400
>>826
日本語の「ち」の用法についても、中国語と「発音もイメージも重なっている」
と表現し、中国からもたらされたものであるとは判断しなかったのも同じ理由
による。「ち」に類似した発音が「狭い通り道を通る」ことをイメージさせる
のは、言わば、自明であり、日本語の表現に中国語がどの程度影響を与えた
か(あるいは、この場合、まったく与えなかったのか)は不明である。
0832考える名無しさん
垢版 |
2019/06/07(金) 16:06:24.290
ところで、「ふ(踏)む」の「ふ」は、将棋の駒の「ふ(歩)」と共通なの
だろうか?つまり、この「ふ」は、中国語の「歩(bù)」に由来するの
だろうか?また、中国語では、「歩(bù)」と否定を表す「不(bù)」が
同じ発音だが、この「不(bù)」は、フランス語において"pas"が
「歩」と同時に「不」を意味するように、「歩(bù)」と元は同じ
表現なのだろうか?中国語の研究者に聞いてみたいところである。
https://cjjc.weblio.jp/content/
https://cjjc.weblio.jp/content/bù;
0833考える名無しさん
垢版 |
2019/06/07(金) 16:24:12.640
>>832
>「○む」という動詞表現において「む」が担っているのは、"cumulatively"
>というニュアンス、つまり、「累加するように(○という様態の作用/効果が
>ある)」ということである
と以前から指摘している。これを「ふ(踏)む」に適用してみて、どのような
作用/動作が累加するのかを考えてみるなら、この「ふ」はやはり、英語で
言い表すなら"step"、つまり、漢字で表現するなら「歩」を表していると
言わざるを得ないだろう。
https://kobun.weblio.jp/content/踏む
0834考える名無しさん
垢版 |
2019/06/07(金) 16:57:45.040
私は中国語や中国語研究にも、漢文研究にもまったく疎いので、単に私が
無知であるだけだという可能性は十分にあるが、一般向けに広く流通して
いる日本語論関係の書物においても、このような基本的な問題が、肯定的
にであれ、否定的にであれ、一切議論されているように見えないことは、
とても奇妙なことではないだろうか。
0835考える名無しさん
垢版 |
2019/06/07(金) 18:19:11.360
漢字や漢語の輸入を含め、日本語の表現に対する中国大陸からの言語的影響
は古代から続いているだろう。日本語の研究という点から見れば、逆説的
にさえ思えるが、日本語において日常的に漢字が用いられることがなければ、
中国大陸からの言語的な影響は、はるかに可視化しやすかったのではない
だろうか。例えば、仮に「ふ(踏)む」の「ふ」が、中国語の「歩(bù)」に
由来していたとしても、「ふ」に「踏」という漢字が割り当てられること
によって、そのことが覆い隠されることになっているのだから。
0836考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 09:35:46.940
「ふ(葺)く」が、何かで面を覆うことを意味しているのに対して、「ふ(拭)く」
の方は、面を覆っている何かをその面に沿って除去するように力を加えること
を表しているのは面白い。「ふ(葺)く」と「ふ(拭)く」の関係をどのように
考えるべきなのか、今のところ私にはよく分らない。

ところで、1.「はたく」、2.「表面を)そっとなでる,かすめる」を意味する
中国語の「拂(fú)」は、少なくとも現代の中国語では「伏(fú)」と同じ発音
のようである。
https://cjjc.weblio.jp/content/
日本語にも「払拭(ふっしょく)する」という表現が輸入されているのだから、
「ふ(拭)く」の「ふ」もやはり、「ふ(伏)す」の「ふ」と同様に中国由来の
表現だろう。
0837考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 09:48:26.770
「ふ(葺)く」の方は、こちらに由来するのだろうか。
中国語では、「おお(覆)ふ」ことを表すようにも用いられていた「覆(fù)」
の発声は、拂(fú)」や「伏(fú)」とは区別されており、「覆(fù)」は
「くつがへ(覆)る」ことを意味するようにも用いられており、
日本語の再帰表現に関連して言及した「复(fù)」と同じ発声のようだ。
https://cjjc.weblio.jp/content/
0839考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 09:55:44.000
専門家が少しでも掘り返せば、すぐに見出すことができるような日本語と
中国語の関係が、少なくとも一般に流通する知識としては覆い隠されている
という印象を受ける。
0840考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 10:55:24.860
実質的に中国語の知識ゼロの私が、場当たり的に辞書を引いただけで
指摘できるような関係に、日本語や中国語の歴史を専門的に研究して
きた人々が気付いていないはずはないのである。
0841考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 12:46:08.560
いくらデリダを有り難がったり、国学を自国中心主義的であると
批判してみたところで、日本の哲学は、音声中心主義どころか、
抜き差しならないほど文字中心主義だ。そして、そのことが
むしろ、自らの言葉の表現を反省的に捉えることの妨げとなっている。
0842考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 14:18:05.950
文字中心主義が自らの言葉の表現を反省的に捉えるのを妨げるとは
どういうことか、具体例を挙げよう。

例えば、「雨が降(ふ)る」という場合の「降(ふ)る」とはどのような
意味だろうか。そのように問はれた場合、大抵の人は、「雨が降(ふ)る」
とは、「雨が空から落(お)ちてくる」ことだと言い換えて、「降(ふ)る」
という表現を説明したつもりになってしまうだろう。実際、「ふる」
という表現の「ふ」には「降(こう)」という漢字が当てられている。
「こう」という発音は、「高」、「光」、「航」、「口」、「孝」、
「公」その他、多数の漢字の読みと共通するので、その発音だけから
何が意図されているのかを特定することはできない。しかし、「降雨」
を「降参」や「降臨」などの表現と並べて見れば、「雨が降(お)りる」
という表現は変であるにしても、「降(お)りる」と似通った意味なの
だろうと判断され、「降(ふ)る」とは、「お(落)ちてくる」ことを
意味しているのだろうと考え、それで説明がついたことにしてしまう
のである。
0843考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 14:28:09.950
しかし、では、「お(落)ちる」という表現は普通に多用されているのに、
なぜ「雨がお(落)ちる」と表現せず、「雨がふ(降)る」という表現が
用いられるのだろう。

日本語の「お」という発音が想起させるイメージについて既に説明した
とおり、「お」が"down-pressing"に相当するような意味合いを表す
ように用いられているとすれば、そのような説明がなくても大多数の
人には自然にそう感じられるであろうとおり、「お(降)りる」の「お」
と「お(落)ちる」の「お」は共通だろう。しかし、「お(降)りる」も
「お(落)ちる」もその発音は、「ふ(降)る」にまったく似ていない。
つまり、「雨がふ(降)る」とは、「雨がお(落)ちる」ことであると
言い換えることによって、「ふ(降)る」という表現を説明する代わりに、
それを、単に別のイメージを想起させる表現で置き換えてしまっている
のである。
0844考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 14:50:54.010
ここで、「雨が降(ふ)る」という表現を、文字中心主義を捨てて考えて
見るなら、「ふ(降)る」がどのようなイメージを想起させるように用いられて
いるのかを類推することはいとも容易である。

「ふ(降)る」は、「ふ(振)る」と発音が似ているが、意味は異なっている。
意味が異なっていて、発音の仕方にも違いがあるのだから、この2つの表現
は無関係であると断定してしまうのではなく、どのようにか互いに関係
しているはずだと想定してみよう。すると、直ちにこの2つを結び付ける
関係が思い浮かぶはずである。「ふ(振)る」を再帰形にした動詞が
「ふる(篩/奮/震)ふ」であるが、その名詞化が「ふるひ(篩)」である。
「ふるひ(篩)」に粉を入れて「ふ(振)る」と「『ふるひ(篩)』にかけられた」
粉が「ふ(降)って」くる。つまり、「雨がふ(降)る」とは、単に空から
雨粒が落ちてくることではなく、「『ふるひ(篩)』にかけられた」
粉が「ふ(降)る」ように落ちてくることをイメージさせる表現である
と考えることができ、「ふ(降)る」という表現は、「ふ(振)る」という
動詞から派生させられた再帰表現の「ふる(篩/奮/震)ふ」が自動詞化
されることによって生じたと推測することができるのである。
実際、現代の日本語の「塩をふ(振)る」や「霜降(ふ)り肉」という
表現の「ふる/ふり」にも、その発音から、「雨がふ(降)る」の「ふる」
と共通したイメージが感じられるはずである。
0847考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 17:56:04.690
>>844-846
このように見てくると、
>「雨がふ(降)る」とは、[...]「『ふるひ(篩)』にかけられた」粉が
>「ふ(降)る」ように落ちてくることをイメージさせる
としたのは、少しイメージを限定し過ぎで、
むしろ、「『ふる(震/篩/奮)ひ』にかけられた」ようにと考える
べきなのだろう。
0848考える名無しさん
垢版 |
2019/06/08(土) 17:59:44.920
人が想起するイメージの共通性は、前提とされるべきものではなく、
絶えず探究されるべきものである。
0849雨を「『ふるひ』落とす」
垢版 |
2019/06/08(土) 18:07:24.160
アクセントが違うから語源は全く別だとするような辞書の説明は、
「しようにん(使用人)」≒"servant"と「しようにん(使用人)」≒"manager"
は、アクセントが違うから無関係であると主張するようなトンデモである
可能性を考えた方がいい。
0850考える名無しさん
垢版 |
2019/06/10(月) 08:45:25.910
「『ふる(震/篩/奮)ひ』にかけられた」ように「雨が降る」という
ことで思い出したが、とても不思議に思える現象がある。

「地震があると雨が降る」、初めてそう聞いたとき、「そんな馬鹿な!」
というのが嘘偽りのない私の反応だった。「なんて馬鹿な迷信を信じて
いるのだろう」とさえ思った。ところが、南米の西海岸の砂漠地帯
では、経験的にそれが常識となっていて、実際に地震があると、雨
が降る。普段、まったく雨が降らないのに、地震があると決まったように
その直後に雨が降る。そのメカニズムは解明されているのだろうか。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180620/k10011488071000.html
「地震後の雨」ネットの不安に答えます
2018年6月20日 19時19分

>「地震の後には風が吹き雨が降る」
>「天気予知ことわざ辞典」には、そんなことわざが載っています。
0851考える名無しさん
垢版 |
2019/06/11(火) 17:53:56.350
中国語と日本語の対応を考えていたら、変な妄想が湧いてきたので、
書き留めておこう。最初から断っておくが、私の中国語の知識はゼロである。
単に日本語の発音と、それが想起させるイメージ、ならびに日本で知られている
漢字の読みから連想を働かせて、ウェブ上の辞書などを参照しているだけだ。
0852考える名無しさん
垢版 |
2019/06/11(火) 18:19:52.990
日本語の動詞には、「○く」の他に「○つ」、「○す」、「○む」、「○ふ」、
「○ぬ」などの形があるが、「つ」、「す」、「ふ」の発音と、それが想起
させるイメージが、それぞれ、「着」、「疏」、「复」などの漢字によって
表現される中国語の発音と、それが想起させるイメージに似ているように見える
ことを指摘した。「○む」についても、例えば、「りき(力) む」が「りき(力)み」
の変化形であることを考えると、「み」の発音と、それが想起させるイメージ
は、中国語の「弥(彌)」と、それが想起させるイメージと似ているように見える。
0853考える名無しさん
垢版 |
2019/06/11(火) 18:36:45.110
ところで、日本語の動詞で最も一般的な形は、「○る」だろう。
「○る」という形は、例えば、「み(見)る」などのように、
本来、一音節で動詞として用いられていた表現を、それが動詞
として用いられていることを明確にするために、つまり、再動詞化
するために多用されており、表現が動詞であることを示す印のような
役割をしている。

「○つ」、「○む」、「○ふ」などの表現において、「つ」、「む」、
「ふ」が、○の作用/動作の働く様態を表すように、つまり、副詞的に
用いられていることは既に指摘した。では、「○る」は、どうだろうか。
本来、「○」が動詞として用いられていることを示すこと以外の役割を
果たしていたのだろうか。「み(見)る」の「み」がそれ自体、動詞として
用いられていたことからも分るとおり、「○」そのものが動詞として
認識されていた以上、それに付け加えられた「る」は、動詞の印として
文法的な機能を果たすだけでなく、それ自体、何らかの表現に由来する
はずである。とすると、「る」は何を表現していたのか。「つ」、
「す」、「ふ」などに対して、漢字を頼りにして、類似した発音と
イメージの中国語を見出すことができるとすれば、「○る」の「る」
は、どのような漢字に対応すると考えることができるだろうか。
これが私の妄想を喚起した問ひである。
0854考える名無しさん
垢版 |
2019/06/11(火) 18:50:53.390
議論が錯綜しないように、まずは私の妄想の結論から書き留めておこう。

「み(見)る」という動詞において、「る」に、文法的な機能以外の何らかの
表現上の意味があるとは認めがたい。しかし、例えば、「かげ(陰)る」と
いう表現を考えてみると、「かげ(陰)り」は、「かげ(陰)る」作用の
名詞化として認識され、単なる名詞としての「かげ(影)」との表現上の
対比をもたらす。とすると、「○る」の「る」は、本来、そのような表現
として生じたのではないか。つまり、「○」の作用の名詞化する「○り」、
英語を用いるなら、"○-doing"という接尾辞として「○り」が用いられ、
それが再び動詞化されて、「○る」という動詞となったのではないか。
そのように考えた場合、その「り/る」に対応する発音およびイメージの
漢字/中国語にはどのようなものがあるだろうか。
0855考える名無しさん
垢版 |
2019/06/11(火) 18:54:53.670
そこで私が最初に思いついたのが、日本語の「履行(りこう)」の「履」である。
これは、まさに中国語の知識がゼロで、漢字についてもあまり知らない私が
最初に想起したというだけのことで、それ以上に確固たる根拠があるわけではない。
しかし、妄想というのは、中途半端に追求をやめてしまうと面白くない。

https://cjjc.weblio.jp/content/
0857考える名無しさん
垢版 |
2019/06/11(火) 23:18:31.110
日本で用いられる漢字としての「履(リ)」については、「 はく 、くつ、
ふむ、おこなふ」などの意味であるとされ、この説明はそのまま、
リンクを貼った中国語辞書の「履(lǚ)」の用法の説明に対応してはいる
ものの、日本語としては、「 はく」 、「くつ」、「ふむ」、「おこなふ」
は、当然、それぞれ互いに別の表現であり、中国語を知らない私には、
中国語の表現としての「履(lǚ)」のニュアンスをうまくとらえることも、
より詳しく理解するために中国語サイトで調べることもできない。
0858考える名無しさん
垢版 |
2019/06/11(火) 23:48:55.770
全体的に見て、「履(lǚ」が「歩み」に関連する表現であることが分り、
日本語の「手続きをふ(踏)む」という場合の「ふむ」に近い感じがするが、
「ふ(踏)む」の「ふ」を「歩(ふ)」であると考えた場合、「ふ(踏)む」
と言い換えてしまうと、やはりニュアンスがずれてしまうようにも思える。
実際、中国語の「步履(bùlǚ)」という表現は、「((文語文[昔の書き言葉]))
歩く,歩行する」を意味すると説明されているのだから、「歩」が「ふ」
≒"step"に対応すると考えるなら、「履(lǚ」の方は、ほとんど似たような
表現ではあるものの、"tread"に似ていると考えることができるのだろうか。
現時点で、私にはあまりうまく判断がつかない。
0859考える名無しさん
垢版 |
2019/06/12(水) 00:10:44.700
ところで、日本語の「○る」という動詞表現は、本来、それ自体で作用/動作
を表すように用いられていた「○」に"○-doing"を表す接尾辞として「り」
を付けて名詞化したものが、再び動詞として用いられるようになったもの
ではないかという憶測を述べた。つまるところ、「○る」は、単に英語の
"do"に相当すると考えることになる。

ここで、"do"の語源を検索してみると、"from PIE root *dhe- "to set,
put, place"とされる。
https://www.etymonline.com/search?q=do
さらにリンクをたどると、*dhe-を語根とすると考えられる多くの表現
の例が示されるが、私が関心をもったのは、そちらの方ではなく、
むしろ、英語の"do"に語源的に関連するドイツ語の"tun"や"tat"の
方である。
0860考える名無しさん
垢版 |
2019/06/12(水) 00:27:29.840
英語の"do"もドイツ語の"tun"や"tat"も同じ印欧祖語の語源に遡ると考えられ
ているので、結局、同じ説明に辿りつくのだが、同じ語源を共有するとされる
古代ギリシャ語の表現の例が、はからずも、中国語の「「步履(bùlǚ)」という
表現とそっくりであるように思えて、とても興味深い。
https://en.wiktionary.org/wiki/τίθημι#Ancient_Greek
τίθημι
Etymology
From Proto-Indo-European *dʰé-dʰeh₁-ti, reduplicated present from
*dʰeh₁- (“to put, place”). Cognates include Latin faciō, Sanskrit दधाति
(dadhāti), Old Armenian դնեմ (dnem), Old English dōn (English do).

Verb
τῐ́θημῐ • (títhēmi)
I put, place, set
in phrases
(with πόδα (póda)) I plant the foot, i.e. walk, run
0861考える名無しさん
垢版 |
2019/06/12(水) 08:45:36.610
ギリシア語の"πόδα"というのは英語の"tripod(三脚/鼎)"という表現にも
受け継がれているとおり、「足」のことである。その発音が、「歩(ぽ/ふ)」
とよく似ていることが、おもしろさを感じさせるのだろう。
https://en.wiktionary.org/wiki/πούς#Ancient_Greek
0862考える名無しさん
垢版 |
2019/06/12(水) 09:04:25.930
私の連想はまだ終わらない。ウェブの中国語辞書に記載されていて、
たまたま知った、文語文[昔の書き言葉]として「歩く,歩行する」を
意味すると説明される「步履(bùlǚ)」であるが、履(lǚ)」が日本語の
「○る」に対応すると想定しても、あまりうまくニュアンスがつかめない。
というのも、「歩る」などという表現は、日本語にはないように思える
からである。「步履(bùlǚ)」は、「歩く,歩行する」を意味すると
説明されたところで、「ある(歩)く」は、本来、「ありく」であり、
仮に以前に提示した私の考え方が正しいとしても、「ありく」は、
「あ(有/在/或)り+く」と分解され、不特定に離れた場所を表す「あ」
のイメージは、「歩((bù)」の想起させるイメージとは異なっている。
また、「歩行(ほこう)する」と表現した場合、「歩(ほ)」は、そのまま
中国語の「歩((bù)」を移しているものの、「行(こう)」は、「履(lǚ)」
にうまく対応しているわけではないだろう。このような不一致が
むしろ、止まらない連想を動き出させる。
0863考える名無しさん
垢版 |
2019/06/12(水) 09:17:10.070
では、「步履(bùlǚ)」に似たような表現は、本当に日本語にはないのだろうか。
「步履(bùlǚ)」は、日本におけるその漢字の読みから、単純に音の類似による
連想により、「〜ぶり」という表現を想起させる。私に思い浮かぶのは、
「久しぶり」の「ぶり」である。

無論、この「ぶり」は、連結されていなければ、「ふり」であり、「振り」と
いう漢字が当てられることもよくある。だが、この「ふり」は、「〜のふりを
する」のように「見かけの様子」を表しているのだろうか。つまり、「男ぶり」
という場合の「ふり」と同じ表現なのだろうか。しかし、「男ぶる」とは
言っても、「久ぶる」とは言わない。むしろ、「久しぶり」や「○年ぶり」の
「ふり」は、ある時を「経(へ)て」、つまり、「ふ(古)り」を表していると
考える方が自然ではないのか。
0864考える名無しさん
垢版 |
2019/06/12(水) 09:32:23.640
ここで、岩波古語辞典で「へ【経・歴】」を引いてみると、以下の
ように説明されている。

>(綜)と同根。場所とか月日とかを順次、欠かすことなく経過していく意
@めぐる日・月・年・時を一区切りずつ渡って行く。
A地点を次々に通って行く。
B過程を通る。所要の手続きをふむ。

さらに@の意味で用いられている文例として以下の万葉集からの歌が
引用されている。
>「あらたまの年経(ふ)るまでに白桍の衣も干(ほ)さず」
0865考える名無しさん
垢版 |
2019/06/12(水) 09:44:13.200
用いられている漢字の違いを無視するなら、「ふ(経)る」と、「ふ(旧/古)る」
は、もともと同じ表現だろう。さらに、漢字そのものを無視して、発音だけ
に注目するなら、この「ふる」の「ふ」は、「ふ(踏)む」の「ふ」と同じ
ものではないかと私が提案した「歩(ふ)」と重なっている。さらに、
「順次に手続きを踏む」ことを表しているとされる、この「へ【経・歴】」
の、したがって、「ふる」という動詞の説明は、中国語の「履(lǚ)」が
表現しているイメージとそのまま重なっているように思える。
以上が、私の連想/妄想である。

ところで、例えば、スペイン語で「今から〜前」というように過去の時点
のことを表現するのに、"hace 〜"という言い方をする。この"hacer"は、
ラテン語の"facere"に由来するので、結局、印欧諸語の語源は、英語の"do"
と共通である。
0866考える名無しさん
垢版 |
2019/06/12(水) 10:05:22.930
もし、私が考古学の発掘において、このように妥当であると一般に認められる
手続きを完全に無視して遺跡を掘り返したとしたら、たとえ貴重な考古学的な
財産となるような発見をしたとしても、その過程で遺跡を破壊してしまい、
貴重な文化財となる潜在性のあったものが取り返しのつかない形で失われる
ことになるだろう。しかし、幸い、言葉の表現については、いくら連想や
妄想を書き連ねたところで、それによって過去の言葉の用法が破壊される
恐れはまったくない。妄想がきっかけで、検証されるべき仮説が生まれるなら、
その仮説が否定的に検証される場合でも役に立つ。取り上げるまでもない
妄想であれば、無視されるだけのことだ。
0867考える名無しさん
垢版 |
2019/06/12(水) 10:55:47.860
https://kotobank.jp/word/踏む・履む-375270
「履む」は“ある過程を経る。経験する。手本にならって行う”の意。
「初舞台を履む」「場数を履む」「薄氷を履む思い」「手続を履む」
0868考える名無しさん
垢版 |
2019/06/14(金) 07:20:12.670
やってきた/由来/Herkunftとやって来る/未来/Zukunft、
出来ることが未来である
0869考える名無しさん
垢版 |
2019/06/14(金) 07:31:52.440
経歴、履歴、これまで「ふ(踏/履/歩/経)んできた」ステップとしての過去
0870考える名無しさん
垢版 |
2019/06/14(金) 07:35:15.280
ふ(故/古/経/歩/履/踏)るきを温(たず)ねて新しきを知る
0873考える名無しさん
垢版 |
2019/06/14(金) 07:48:20.510
犬も歩けば棒に当たる
「棒に当たる」は、中動態の表現であり、
棒で叩く主体を現出させることなく、犬が棒で叩かれることになることを表している
するでも、されるでもない中動態の世界
0874考える名無しさん
垢版 |
2019/06/14(金) 07:54:07.650
誰にも責任はない
棒、つまり、罰(ばち)が当たることをするのが、あ(悪)しきことであるという
素晴らしい中動態の論理
責任があるから罰せられるのではなく、
罰せられることになることが、あ(悪)しきおこなひを証明する
0875出来ることのA-venir
垢版 |
2019/06/14(金) 10:28:39.070
"come across"、それは偶然の出会いだろうか
しかし、何かが横切り、その何かが意味をもつとすれば、
それは慣習としての繰り返しにおいての不意の出会ひだろう
それが現実には二度と生じないとしても、
その出会ひは、潜在的な反復の可能性として、
つまり、慣習という反復に対する干渉として現れるのだろう
0876考える名無しさん
垢版 |
2019/06/15(土) 23:11:03.550
>>814
私は中国語をまったく知らないが、辞書で見た用例から
>田子(たご)の浦ゆうち出(い)でて見れば
という有名な万葉集の歌に出てくる「ゆ」の用法は、中国語の「由(yóu)」
の用法そのものではないかと指摘した。
検索してみると、万葉仮名では、「たごのうらゆ」は「田兒之浦従」と
書かれているとのことで、漢字の「従」を中国語の辞書で検索してみると、
以下のように記載されている。

https://cjjc.weblio.jp/content/
从(從)
ピンインcóng
(通過地点・経過コースを示し)…から,…を通って,…越しに
⇒打2 dǎ 2,由 yóu 4
0877考える名無しさん
垢版 |
2019/06/15(土) 23:22:01.680
つまり、「従」という漢字は、中国語では、「ゆ」とは読まれないものの、
「由(yóu)」とある程度、互換的に用いられ、「田兒之浦従」の「従」は、
この歌においても、中国でその漢字が用いられる通りの用法で用いられて
いる通りの用法で、「由(yóu)」と互換性があるような文脈において用い
られていることになる。

このようなあからさまな対応関係にもかかわらず、この「ゆ」を
単に「動作の経由する場所を示す上代の日本語の格助詞」であるとする
ような説明は、あまりにも奇妙ではないだろうか。日本語の表現に
おける一般的な「ゆ」の用法は、「由(yóu)」を含め、中国語の
それに似通った発音の表現の用法とどの程度重なるのだろう。
0878考える名無しさん
垢版 |
2019/06/15(土) 23:31:10.560
https://cjjc.weblio.jp/content/
中国語の「由(yóu)」は、「わけ,いわれ,理由」、
「…に原因する,…による,…のために.」
「経由する,経る,通る.」を意味するように用いられ、さらに
「(多く書き言葉に用い,動作・行為の行なわれる空間・時間・段階・状態
などの起点を示し)…から,…を.⇒从2 cóng .」を表すように用いられる
と説明されている。
私は、中国語を知らないので、「由」のニュアンスはよく分らない。しかし、
日本語の「ゆ」であれば、それがどのようなイメージを想起させるように
用いられているか説明することができる。
0879考える名無しさん
垢版 |
2019/06/15(土) 23:43:05.860
日本語の「ゆ」が想起させるのは、「拘束や固定からの解き放ち」である。
そのイメージは、「ゆるゆる」という擬態語にはっきりと感じ取ることが
でき、「ゆれ」は、固定が働かない状態の動きを表している。
日本語の「ゆ」が想起させるイメージは、例えば、スペイン語であれば、
"suelto"という表現に対応するだろう。
https://en.wiktionary.org/wiki/suelto
"suelto"は、語源的には、ラテン語の"solūtus"に由来し、解き放たれる
ことが、船を繋ぎとめている綱を解き放つ場合など、動きの始まりを
意味することになることは、容易に理解できるはずである。
https://en.wiktionary.org/wiki/solvo#Latin
solvō (present infinitive solvere, perfect active solvī, supine solūtum)
I set sail (ships)
動作の起点を表すように用いられる場合の中国語の「由」の用法は、
そのようなイメージと重なるのだろうか。中国語の専門家に聞いてみたい
ところである。
0880考える名無しさん
垢版 |
2019/06/15(土) 23:47:59.260
例えば、日本語の「ゆゆし」という表現は、既に指摘したとおり、英語で
表現するなら、”causing a commotion"に相当すると考えることができ、
やはり、何か制御不能な動きを解き放ってしまうことを表している。
0881考える名無しさん
垢版 |
2019/06/15(土) 23:50:26.110
誤:漢字が用いられる通りの用法で用いられている通りの用法で、
正:漢字が用いられる通りの用法で、
0882考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 00:57:46.060
「由(yóu)」とは発声の仕方が異なるが、「宥(yòu)」も日本語の「ゆるす」
の「ゆ」と重なっている。

https://cjjc.weblio.jp/content/
宥 ピンインyòu
((文語文[昔の書き言葉])) (罪などを)寛大に許す,大目に見る
⇒宽宥 kuānyòu ,原宥
0883考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 08:30:45.010
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%93-145366
弓(ゆみ)とは - コトバンク
ゆ【弓】
ゆみ。他の語と複合して用いる。 「 −がけ」 「 −はず」 「 −づか」 「 −づる」

「弓(ゆみ)」という語が他の語と複合された用いられる場合に「ゆ」と発音される
ように説明されているが、「弓幹(ゆがら)」という表現(「幹(から)」は体
《から・だ》の「から」である)から判断しても、「ゆみ」は、「ゆみ(弓身)」
であり、「と(解)きはな(放)つ本体」だろう。その「ゆ」が、中国語の「由(yóu」
(多く書き言葉に用い,動作・行為の行なわれる空間・時間・段階・状態
などの起点を示し)の発音およびイメージと重なるのは偶然だろうか?
0884考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 08:42:44.700
以前から私は、日本語の「か」は、音であれ、光であれ、作用が反射するイメージ
を表すように用いられていると指摘している。では、「ゆ・か」はどうだろうか。

岩波古語辞典を引いてみると、当然のことながら「ゆか【床】」についての記載
と、現代語ではおそらくもはや使われていない「ゆか【斎瓮】」という言葉に
ついての記載がある。
0885考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 08:59:42.530
まず、「ゆか【床】」について見てみよう。すると、そこには次の例文が
記載されている。

>「此の宝鏡を見まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。ともに
床(ゆか)を同じくし、殿(おほとの)をひとつにして、斎鏡(いはひのかがみ)
とすべし」<紀 神代下>

ここで、「斎」は「いはひ」と読むものとされるが、「ゆゆし」という
表現において「ゆ」に当てられる漢字であり、明らかに「床(ゆか)」=
「斎鏡(ゆか/いはいのかがみ)」と掛けて読まれることが意図されている。
さらに、宝鏡を見ることを「吾を視るがごとくすべし」、「殿(おほとの)
をひとつにして」、「斎鏡(いはひのかがみ)とすべし」と命じているの
だから、ここで表現されている「ゆか」が、統一された統治権力の作用を
反射するように放つ起点(反射面)の隠喩とされていることを見て取ること
は容易だろう。
0886考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 09:16:32.920
次に、私も辞書を引くまで知らなかった「ゆか【斎瓮】」という表現について
見てみると、次のように記載されている。

>《ユはユユシのユと同根。カは容器類》@大嘗祭に神前に供する雑器。
「雑器、神語に由加(ゆか)の物と曰ふ」A神前に供える種種の贄(にへ)
「神語に雑贄を号(い)ひて同じく由加(ゆか)の物と為す」

私は、以前、日本語の「神(かみ)」という言葉は、「甕(かめ)」がそうで
あるように内部空間で反射するような作用をイメージさせるものである
という推測を述べた。雑器としての「由加(ゆか)」が、内側に閉じるような
構造のものであるかどうかは別にして、この場合もその器は、反射させる
ような作用の起点として用いられる用具/起動器/スターター(例えば、甕が
内部で発酵作用を開始させるように)としてイメージされているのではないか。
0887考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 10:46:21.900
ところで、岩波古語辞典で助詞の「か」について引いてみると、次のように
説明されている。

>か(疑問・詠嘆) 表現者自身の内心の疑問を自分自身に投げかける意と
思われる。

この場合もやはり、「か」は、作用が反射するイメージを表すように用い
られていると考えることができるだろう。では、この「か」は、中国語
の類似した発音や、それが想起させるイメージと似ていないのだろうか。
この助詞として用いられる「か」の発音とイメージから私がすぐに思いつ
く漢字は、「可」である。
https://cjjc.weblio.jp/content/k%C4%9B
可 ピンインkě ⇒ [異読音] kè
接続詞 (逆接を示し)しかし,だが.◆‘可’は主語の前後どちらにも用いる
ことができる.≒可是.
1. 平叙文に用いて「確かに…する」「本当に…なのだ」と強調する.
◆(1)予想に反した,相手に申し開きをするなどの気持ちを含む
場合もある.(2)被修飾語が形容詞句の場合は必ず否定の形で用いる.≒可是.
2. 副詞 (疑問文に用いて疑問の気持ちを,反語文に用いて反問の気持ちを強調し)
いったい(…か),本当に(…か).◆反語文では時に‘可’を文頭に置く.
3. 副詞 感嘆文に用いて程度が高いことを強調し,時には誇張の意味を含む.
◆文末に語気助詞‘啊’‘啦’‘了’‘呢’などを伴う.
4. 副詞 (疑問を示し)…かどうか.

*番号付けは変更してある
0888考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 10:53:04.530
何度も断っているとおり、私は中国語を知らない。しかし、この辞書の説明
を見る限り、日本語の「か」という助詞についても、中国語の「可(kě)」と、
その発音、およびそれが想起させるイメージに関してとてもよく似ている
ように思える。中国語の「可(kě)」の用法は、この辞書の説明から理解すると、
ドイツ語の"aber"に対応しているように見え、いずれにしても反語的に
用いられる日本語の助詞の「か」の用法を想起させる。
0889考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 11:18:11.260
このように日本語の発音と、それが想起させるイメージについて中国語との
類似性や、場合によっては表現が直接に中国大陸に由来するものであろうこと
を指摘しても、別に私は、日本語の起源が中国語に求められると主張しようと
しているわけではない。と同時に、歴史的に中国大陸との交流が長く、多くの
人々が大陸から移住してきたことを考えるなら、日本語の中核を成すような
発音の用法について、中国語とのこのような類似性が見られるのに、中国大陸
からの言語の影響を軽視するのも馬鹿げているだろうと思う。

印欧祖語を構築する比較言語学では、一般に基礎語彙を特定して、比較し、
その類似性を音韻の変化から体系的に説明できるかどうかが、従来、重視
されてきたと言えるだろう。そのような方法によるなら、中国語と日本語
は、例えば、「弓(gōng)」と「弓(ゆみ)」の発音が全く似ていないように、
互いにまるで似ていない。それでも、「ゆみ(弓)」という日本語がどのよう
な表現であるかを考え、それを「ゆ」と「み」の組み合わせであると仮定
するなら、「ゆ」も「み」も、既に見てきたように中国語に類似した発音
とイメージを表現を見出すことができる。

言語系統論を研究するような言語学者なら、そのような「恣意的な操作」を
加えて比較しても無意味であると主張するだろう。だが、操作が単に
辻褄合わせのための恣意的なものであるかどうかは、言葉の表現を解釈する
うえでの発音とそれが想起するイメージの扱い方によるはずである。
私は、新たな事例に出くわすたびに、しばしば、自分の想定を修正するが、
それでも、事例ごとに発音とそれが想起させるイメージについて勝手に
主張を作り上げているわけではなく、以前の自らの想定が該当するかどうか
を確かめるという手順に従っている。
0890考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 11:35:52.980
さらに、発音が想起させるイメージについては、私の独断を主張しているわけ
ではなく、日本語を使う人であれば、不特定の誰でも自らが確かめることの
できるような形で提示しているつもりである。

さて、私自身、中国語と日本語の関係を、現段階でどのように考えているの
だろうか。私は、古代に日本各地に住んでいた人々がその当時の中国語に
近い言語を話していて、それが変化して日本語になったなどとは考えていない。
しかし、中国から多くの人々が渡ってきた以上、日本に住む人々の話す言語には、
漢字の輸入以前から、中国大陸の言語の大きな影響があっただろうと思う。
日本で地域ごとに様々な言語が話されていたと想定することは、歴史的に
何か特殊な事態を前提とすることを何ら要求しない。なぜなら、統一された
統治によって多様な人々の行き交いが「日本」という単位でコントロール
されていたわけではないのだから。と同時に、沖縄から東北まで同系統である
ことが明らかな「日本語」と認められるような言語が生じたことも歴史的な
事実である。中国語と日本語の間の、発音とそれが想起させるイメージの
類似性は、大陸からの中国語が、日本の各地に住む多様な言語を話す人々
の間で意思疎通のためにピジン語的に用いられ、それがクレオール語的に
発展して、共通性の大きい日本語が形成されたのではないか、ということを
思わせる。ただし、無論、これは、現時点で私にそのように想像される
というだけのことでしかない。
0891考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 11:47:04.920
誤:中国語に類似した発音とイメージを表現
正:中国語に類似した発音とイメージの表現
0892考える名無しさん
垢版 |
2019/06/16(日) 12:33:14.500
仮に日本語の起源がそのようなものであったとしても、それが日本語を母語と
する者にとって不名誉なことであると思うような感性を私は持ち合わせていない。
それを自然に不名誉なことであると思うような感性こそが、統治のイデオロギー
に対する自発的従属の表れだろう。
0893考える名無しさん
垢版 |
2019/06/17(月) 09:54:58.940
「おとといきやがれ」は
なんで、おとといきやがれ、というの?
0894考える名無しさん
垢版 |
2019/06/17(月) 13:26:18.830
「もう来るな」と言っても、「いえ、また来させていただきます」と
食い下がられるから、もう来ることができないように「おととい来い」
と、実行不可能な命令をするのでしょう。そう命じられた相手は、
「それは無理です」と答えるなら、「来い」という命令に背くこと
になるので、「また来させてください」とお願いしづらくなる。
0895考える名無しさん
垢版 |
2019/06/17(月) 14:16:23.000
日本語が、中国語をピジン語的に用いることによって形成されたのではないか
と仮定することは、母語として用いられるようになった日本語が、その表現力
において中国語に劣る片言の言葉であるというようなことは全く意味しない。

その一方で、日本語の表現を形成する手法の「経済性」は、ピジン語の話法を
彷彿とさせる。「○ふ」という再帰形の動詞が、「○」によって表現される
動作/作用/様態を反転させることは、既に繰り返し指摘し、この「ふ」が、
ドイツ語の"wieder"や英語の"re-"に相当するような用いられ方をしている
ことも説明してきた。しかし、それと同時に、日本語において、この「ふ」が
ドイツ語や英語などの類似した表現法において見られるより、はるかに
汎用的に用いられていることも指摘した。

中国人を戯画化するのに、しばしば、「ナイ・アル」という表現を日本人が
真似て笑いの種にしてきたが、これは、日本語を母語とする人が使わない
形で日本語の「ナイ」という否定表現を汎用的に用いた、日本語のピジン語
としての利用の例である。日本語の表現の中核を形成する「○ふ」という
再帰表現は、「ふ」が「反」≒"against"を表すものとして、「ナイ・アル」
の場合の「ナイ」のように汎用的に用いられていたことを思わせる。
0896考える名無しさん
垢版 |
2019/06/17(月) 14:32:13.510
「ゆ」が「と(解)き(放)つ」作用/動作/様態を表すとすれば、「ゆ(結)ふ」
は「ゆ+反」であり、付加される接頭/尾辞に関して、ちょうど、英語の
"untie/tie"を逆にしたような関係にある。

「あ」が「不特定に離れる」作用/動作/様態を表すとすれば、「あ(合)ふ」
は、それを反転させた作用/動作/様態を表し、「そ」が「特定的に離れる」
作用/動作/様態を表すとすれば、「そ(添/沿)ふ」は、それを反転させた
作用/動作/様態を表すといった具体である。

この「ふ」が、ドイツ語の"wieder"や英語の"re-"に対応するものとして、
中国語の「复/複(fù)」に似ているように見えることも既に指摘した。
すると、日本語の「ゆ(結)ふ」は、「由(ゆ)+复(ふ)」という表現で
あった可能性が考えられることになるだろう。むろん、この「由(ゆ)+
复(ふ)」は、中国語ではなく、中国語の文法にも則っていないだろう。
それは、ちょうど「ナイ・アル」という表現が、日本語の表現を要素
として用いながら、日本語ではなく、日本語の文法にも則っていない
のと同じことである。日本語の形成には、そのような中国語もしくは
中国大陸からの言葉の表現のピジン語としての用法が深くかかわっている
のではないか、というのが、日本語の表現と中国語の表現の発音と
イメージの重なりについて、現在のところ抱いているイメージである。
0897考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 07:42:28.750
クリ(栗)は、実を毬から「く(刳)り」抜くから、「クリ」と呼ばれるのだろう
と推測されることも既に述べた。

https://cjjc.weblio.jp/content/kū;
刳 ピンインkū
((文語文[昔の書き言葉])) 切り割る,くりぬく,えぐる.
用例 刳木为 wéi 舟=木をくりぬいて舟を造る.
0898考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 09:14:05.790
万葉仮名が、中国語ではなく、日本語を表記するために、漢字によって
表される音を利用する目的で漢字を借用したものであると考えることは
正しい。しかし、さらに、その漢字によって表記される日本語は、
中国語とは無関係であることを暗黙の前提としてしまうなら、そこには
大きな見落としがあると言わざるを得ないだろう。

それは、万葉仮名が、中国における漢字の本来の用法を離れて、音だけ
を表すように流用されているように、万葉仮名によって書き表されて
いる「日本語」が、中国における中国語の本来の用法を離れて、その
音と、それが想起させるイメージを大々的に流用して形成されている
可能性である。そのような可能性を考えることは、中国大陸と日本の
歴史的な関係を考慮するなら、むしろ当然のことであり、それが
トンデモないことであると感じられるなら、その感覚は、そのような
可能性を考えることが、「自らの正統性」を損なうことにつながる
極めて危険なことだと感じさせるイデオロギーに無自覚に染まっている
からだろう。
0900考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 09:32:29.730
例えば、ここで「くし(櫛/串)」という表現を考えてみよう。
中国語では、「kū 」という発音は、上で見たとおり、「く(刳)る」ことを
表すように用いられ、さらに、引用した辞書では、同じ発音が、「穴をうがつ」
意味での「掘」や、洞窟の「窟」を表すのにも用いられることが記載されている。
https://cjjc.weblio.jp/content/kū;

日本語では、「く(繰)る」という動詞や、「くるくる」という擬態語に見られる
とおり、「く」という発音が求心性を想起させるように用いられていることは
既に指摘した。中国語の「kū」が同様に求心性を想起させるかどうかは、私には
分らないが、「『く(刳)』る」ことや「『掘』削する」こと、「洞『窟』」など
のイメージを想起させるこの「kū」が、内部に向かって食い込む動作/作用/様態
をイメージさせることにおいて、日本語の「く」と重なっていることには議論
の余地がないだろう。
0901考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 09:45:45.060
では、「く・し(櫛/串)」の「し」はどうだろうか。
「くし(櫛/串)」という名詞に、それに対応するような動詞形はないものの、
「か(貸)す」の名詞形が「か(貸)し」であるように、さ行の活用において、
「し」と「す」は明白に関連している。

ここで、日本語の「くしけず(梳)る」という表現に当てられる「梳」という
漢字を同じ中国語辞書で検索してみると、この漢字は、中国語では、「shū」
と発音されることが分る。そこで、「shū」のリンクをたどってみると、
既に上で、日本語の「○す」という動詞の「す」に対応するようなイメージ
を表しているだろうと指摘した、隙間を「通る/す」ことを表す
「疏(疎)(shū)」も同じ発音であることが分る。

すると、結局、髪に挿すものである「く・し」は、中国語の発音から
解釈しても、「内部に入り込むように間を通るもの」としてまったく無理
なく解釈できることになる。ただし、ここで、留意すべき点が2つある。
それは、「く・し」の「く」と「し」のいずれもが中国語の発音と、それが
想起させるイメージを利用しているとしても、万葉仮名が中国における
漢字の用法とは全く異なるように、「くし」は、全く中国語ではないと
いうことである。
0902考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 09:46:31.890
誤:留意すべき点が2つある。それは、
正:留意すべき点が2つある。その1つは、
0903考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 09:57:45.110
もう1つは、「く」が求心的なイメージを表すように用いられることは、
これも、既に指摘したとおり、日本語に限定されるわけではないものと
思われ、むしろ、「く」の発音の仕方を自己観察してみるなら、その
身体感覚から自然なことに感じられる。同様に、「す」の場合も、
類似した発音を含むフランス語の《sucer》が「す(吸)ふ」ことを表す
とおり、隙間を通ることをイメージさせることは、無理なく理解すること
ができる。つまり、日本語の「く」は、中国語の「kū」と、日本語の
「す」や「し」は、中国語の「shū」と、それぞれ想起させるイメージ
が重なるものの、それらが中国語の発音に由来しなければならない
「『必然性』はない」ことになる。と同時に、同じ生活のなかで中国語
を話す優位な立場にいる人々がいて、中国語が優位な言語であると認識
されていたとすれば、そのような音とイメージの重なりを、人々が
意思疎通を円滑にするために利用しない手はないことになるだろう。
0904考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 10:03:57.800
ここで想起される"improvisation" & "inauthenticity"という概念で
検索してみたら、ただちに次のような要約の記述がヒットした。

The Oxford Handbook of Critical Improvisation Studies
https://books.google.co.jp/books?isbn=0195370937

George Lewis, ‎Benjamin Piekut - 2016 - ‎Creation (Literary, artistic, etc.)
Improvisation is (in) that relation. But for Heidegger—and a certain tradition
he both finds and founds, and which resounds in breaking away from him—
improvisation bears and enacts an irremedial inauthenticity that is given in
being given to ...
0905考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 10:11:57.210
>>904
中身は読んでいないので、別に議論に賛成するから引用したわけではない。
言葉の表現は、ただちにこのように哲学や思想の問題となって議論される
ことを示そうとしたまでである。

日本語について論じるのに、デリダを引き合いに出して「音声中心主義」
批判のようなことを真似しても、下らない既成の結論しか出てこない
だろうと思う。
0906考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 11:10:00.330
>>897
「クリ(栗)」、「く(刳)る」という表現について、中国語の「刳(kū)」から
私に想像されるのは、次のようなことだ。

まず「クリ(栗)」の実など、「『刳(kū)』る行為」が「刳履(くり)」として
接尾辞によって名詞化されて表現され、その接尾辞によって名詞化された
表現が再び「く(刳)る(履)」として動詞されて用いられるようになり、
それと同時に、「○る(履)」が様態/作用/動作を表す表現一般を再動詞化
するのに汎用的に用いられるようになったのではないか、というような
ことである。
https://cjjc.weblio.jp/content/%E5%B1%A5
履(lǚ)
(人の)行為,活動.
0907考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 16:12:11.280
>それらが中国語の発音に由来しなければならない「『必然性』はない」ことになる。

中国語の「kū」という発音を考えてみよう。引用した中国語辞典では、「kū」
という発音には、少なくとも「刳る」の「刳」、「掘削する」の「掘」、「洞窟」
の「窟」という漢字が当てられていることが分る。ところで、英語で洞窟は、
"cave"だろう。"cave"はラテン語に由来し、その語根が「掘る」という意味でも
用いられることは、英語の"excavate"という表現を見ても分る。ここで、ラテン語
系統のスペイン語における"cavar"という動詞を辞書(小学館、西和辞典)で引いて
みると、1. 「耕す、鋤き返す」、2. 「掘る、掘り起こす」、という意味の他に
自動詞として「深く食い込む[入り込む]」という意味で用いられることも記載
されている。
0908考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 16:17:11.630
さらに、このスペイン語の"cavar"の語源であると考えられるラテン語の
"cavāre"の語源をWiktionaryで辿ってみると、次のような説明に行き当たる。
Etymology
From Proto-Italic *kawos, from Proto-Indo-European *ḱowHós (“hollow”),
from Proto-Indo-European *ḱewH- (“to swell”). Related to Old Irish cúas
(“hollow, cavity”), Tocharian B kor (“throat”), Albanian cup (“odd, uneven”),
Ancient Greek κύαρ (kúar, “eye of needle, earhole”), Old Armenian սոր (sor, “hole”),
Sanskrit शून्य (śūnya, “empty, barren, zero”).
0909考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 16:26:52.600
このように見ると、中国語の「kū」と印欧祖語として想定される"*ḱewH-"
の間にも、それらが派生させる表現において、発音とイメージの或る程度の
類似性が認められるのであり、日本語において中国語の「kū」に近い発音が、
その中国語の発音が想起させるイメージと類似性のあるイメージを想起させた
としても不思議ではないことになる。つまり、中国語がピジン語として利用
されていなかったとしても、中国語とは別の言葉を日本で話していた人々
の間でも「kū」に近い音が、似たようなイメージを想起させるように用いら
れていた可能性は十分に考えられる。だが、その一方で、それらの人々が、
中国語の話者と接触していて、中国語が優位な立場の言語として用いられて
いたなら、発音とイメージの重なりを中国語に合せるように用いる動機が働く
ことは想像に難くない。
0910考える名無しさん
垢版 |
2019/06/18(火) 23:13:07.860
現時点で私が「想像」する日本語の形成のイメージを述べよう。
統一された統治によって人々の行き来がコントロールされていなかった日本列島
には多様な言語を用いる人々が生活していたが、万葉仮名が中国における漢字の
用法と切り離されて、その表音の機能を利用するように用いられたのと同様に、
中国語の発音と、それが想起させるイメージが、中国語の文法とは切り離されて、
中国語の表現を流用したピジン語が、互いに異なる言葉を用いる日本列島の
人々の間でリンガ・フランカとして用いられ、統治権力が拡大するとともに
次第にそのリンガ・フランカが母語としてクレオール語化していった。その
一方で、統治管理において文字の使用が重要性を増すにつれ、中国大陸から
輸入される漢語が格式の高い正式な表現と見なされるようになり、万葉仮名の
使用が廃れたのと同様に、母語としてクレオール語化した「日本語」は、
そのピジン語としての「起源」が忘れ去られ、むしろ、輸入される漢語に
対して日本列島の統治者の「対内的に」独自の正統性を表象する「和語」
と見なされるようになった。漢字が、その中国における発音とともに用い
られるようになるようになることによって、「和語」自体が中国語を
大々的に利用していることが、「正式な」漢字熟語の多用によって覆い
隠されることになった。
0911考える名無しさん
垢版 |
2019/06/19(水) 07:04:26.340
日本語の古層という本来的な非本来性(inauthenticity)
0912考える名無しさん
垢版 |
2019/06/19(水) 07:36:59.290
日本語のクレオール語化は、シマ(注連縄によって境界が示される領域/縄張り)
意識の反映であり、しばしば、「偏狭な」と形容されるナショナリズムの
イデオロギー的な基礎である。
0913考える名無しさん
垢版 |
2019/06/19(水) 07:39:08.180
クレオールに関するリベラル左翼の言説は、無自覚にか、意図的にか、本来的に捻じれている
0914考える名無しさん
垢版 |
2019/06/19(水) 07:44:36.300
>>901
>「くしけず(梳)る」という表現に当てられる「梳」という漢字を
>同じ中国語辞書で検索してみると

「くしけずる」という表現自体、「くし(櫛/串)+け(毛)+す(梳/疏/疎)る」
と分解して解釈されるはずである。
0915考える名無しさん
垢版 |
2019/06/19(水) 13:20:39.870
日本語がそのように形成されたと想像することは、日本語を貶めることに
なると主張する人々には、こう応えることができるだろう。

その「起源」において既に、目の前(vorhanden)にある他者による表現を、
自在に手頃(zuhanden)に利用する表現法の本来的な非本来性こそが、
人が用いる生きている言語の本来性なのである、と。
0916考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 00:44:23.780
>>886
https://kotobank.jp/word/斎瓮-436852
いわい‐べ いはひ‥【斎瓮】
〘名〙 清浄な神饌具。酒を盛って神に供える陶器の壺。いむへ。
※書紀(720)崇神一〇年九月(北野本訓)「爰(ここ)に忌瓫(イハヒヘ)を
以(も)て、和珥(わに)の武坂(たけすきのさか)の上に鎮座(す)えて」
0917ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/06/20(木) 07:04:58.050
言葉の表現は常に騙し絵であるので、言葉は、ネットワークを形成するように
用いられることによってのみ意味の限定を生じる。

かみ(神)、(酒を)かむ、かめ(甕)、かめ(亀)、かも(醸)す、
ゆか(斎瓮)、ゆか(床)、かがみ(鏡)、ゆゆ(斎斎)し
0918ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/06/20(木) 07:08:15.860
「かみ(神)」の発音を反転させた「みか(甕)」も忘れてはいけない。
0919考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 07:16:30.960
「か」が、作用が反射するイメージを表すように用いられていると考える
なら、「かみ(神)」の「み」もやはり、中国語の「mi」という発音と、
それが想起させるイメージを利用していると考えることができるだろう。

https://cjjc.weblio.jp/content/
弥(彌)
ピンインmí
1. 満ちる,あふれる,いっぱいに広がる.
2. 満たす,補う,覆い隠す.
3. 更に,いっそう.⇒欲盖弥彰 yù gài mí zhāng.
0920考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 07:33:53.020
>>919
ここで問題にしているのは、中国語の「mí」という発音と、それが
想起させるイメージの流用であって、中国語においてこの発音に当て
られている「弥」という漢字ではない。したがって、万葉仮名において
「弥」が甲類の「み」の発音を表すのに用いられており、乙類である
神(かみ)の「み」とは異なるというのは、別の問題である。
0921考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 07:43:36.370
万葉仮名について論じるなら(今のところ、私には、それを論じることができる
ような知識も、論じたいという思ひもないが)、違例も決して無視してはならないだろう。

http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/mi_kourui.htm
>「神」の「み」は通例、乙類の万葉仮名が使われる。「美」・「見」は
>甲類の仮名であるから違例となる。
0922考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 08:08:36.720
>>921
万葉仮名の知識なしに、単純に引用したサイトの表を利用させてもらうと、
日本書紀歌謡で用いられている「を」に当てられている漢字、
「 烏、嗚、塢、乎、弘、於」の列挙を見ると、これらが、中国語
の"wū"という発音と、それが想起させるイメージにかなり重なっている
ことが分る。

乌(烏)
ピンインwū ⇒ [異読音] wù
((文語文[昔の書き言葉])) いずくんぞ,どうして…であろうか.≦哪儿.
恶(惡)
ピンインwū ⇒ [異読音] ě,è,wù
((文語文[昔の書き言葉]))
1. いずくんぞ,どうして…であろうか.≡乌2.
2. 感嘆詞 (驚きを示す)ああ.

ピンインwū ⇒ [異読音] Yū,yú(于<sup>1</sup>)
((文語文[昔の書き言葉])) ああ.
0923考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 09:16:18.470
繰り返すが、私は、日本語が中国語起源であると主張しているのではない。
人は、通用するものに便乗する。日本語は、日本語としての統一性の形成に
おいて、中国語の発音と、それが想起させるイメージに大々的に便乗して
いるのではないかと指摘しているだけである。
0924考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 09:30:10.150
通用するものに便乗しようとする日和見主義と縄張り(注連縄によって
境界が示される領域)を確保しようとするシマ意識は、時代や地域を
超えて、人々の活動としての言語の使用においても常に働いている。
0925考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 12:31:37.370
本来性とは、生物の個々の身体がそうであるように常に流用(appropriation)だろう。
0926考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 12:38:25.510
自らに優位な立場を獲得しようとすることが便乗を動機づけ、獲得した
優位な立場においてシマを規定して、優位性を安定させようとすることが、
自らの優位が便乗に由来することを隠蔽しようとする否認を動機づける。

例えば、ラテン語から、どのように正しいイタリア語、正しいフランス語、
正しいスペイン語などが生じることが可能であったのかを考えてみるといい。
ラテン語が規範とされるなら、イタリア語、フランス語、スペイン語は、
すべて間違っているはずだろう。
0927考える名無しさん
垢版 |
2019/06/20(木) 16:54:39.100
万葉仮名の対応リストを眺めれば眺めるほど、従来の日本語起源論の奇妙さ
は、いはゆる"willful negligence"によるものであると感じざるを得ない。
0928考える名無しさん
垢版 |
2019/06/21(金) 09:03:17.760
英語の場合であれば、フランス語由来の表現が、もはやそられをすべて
取り除いてしまうならコミュニケーションが成立しないほど英語に深く
入り込んでいるとしても、それらは多くの場合、複数の音節から成る
要素として用いられているので、外来的な要素として比較的意識され
やすいが、日本語の場合、中国語の表現は、単音節の表現として日本語
の表現の根幹を形成してしまっており、さらに、後に大々的に輸入され
て通用するようになった明確に中国語由来の漢字熟語との対比によって、
それらの外来性がさらに意識されにくくなっていると考えることが
できるのではないか。
0929考える名無しさん
垢版 |
2019/06/21(金) 09:50:23.920
例えば、「しぶ(渋)い」という日本語の表現の発音と意味は、中国語と
関係があるのかと問われたなら、私のように中国語の知識のない人間は
もちろんのこと、中国語をよく知っている人間でも無関係だと答えるだろう。
しかし、この答えが正しいことは確かだろうか?

私は、「しぶ(渋)」という表現について、以前、以下のように指摘した
ことがある。

岩波古語辞典で「しぶし【渋し】」
を引くと、「Aなめらかにゆかないこと。とどこおりがちだ。」と
記載されている。英語を用いるなら、「hard to go through」や
「unwilling to go through (e.g. with the payment)」などの表現が
「しぶ」に相当することになる。食べ物の場合に適用して考えて
みれば、「しぶ」が語源的に表していたのは、なによりもまず、
口や喉を「通りにくい」ことであっただろうと考えることができる。
0930考える名無しさん
垢版 |
2019/06/21(金) 10:03:45.290
ところで、>>901に述べたとおり、日本語の表現における「す/し」が
中国語の「疏(疎)(shū)」に対応し、「ふ」が「反」≒"against"を
表すように、中国語の「复/複(fù)」を流用していると考えるなら、
「しぶ(渋)」は、「し+ぶ」、つまり、「疏(疎)(shū)」≒
「間を容易に通り抜けること」+「复/複(fù)」≒「反」として、「間を
通り抜けにくい」ことを表していることになり、まさに、日本語の
「しぶ(渋)い」の語源的な意味とそのまま対応する解釈が生じること
になる。しかも、私が日本語の「しぶ(渋)」と、「し」と、再帰形に
用いられる「ふ」について書いたことは、互いに独立しており、
「しぶ(渋)」という表現について、中国語の表現から解釈するのに
好都合なように考え出したものではないのである。というのも、
最初に「しぶ(渋)」について書いた時点では、私は、中国語との
関係などまったく念頭になかったからである。
0931ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/06/21(金) 10:08:57.780
私には、このような対応関係に、日本語の歴史を研究してきたこれまでの
国語学者、日本語学者、言語学者が気付かなかったとは到底思えない。
そのような仮説すら提示されてこなかったとすれば、何らかの隠れた動機
に基づく"willful negligence"を疑うほかないのではないか?
0932考える名無しさん
垢版 |
2019/06/21(金) 10:35:04.550
日本では、古代から中国からの渡来人が重要な役割を果たし、集中して
住んでいたと考えられる地域も数多く見られるのに、はっきりと渡来人
のものと分る言語が残っていないことを、私は不思議に思ったことが
あるが、この見方は逆立ちしていたのだろうと思う。むしろ、渡来人
の話していた言葉の表現は、もはや日本語と区別することができない
ほど深く日本語の根幹に入り込んで、日本語の表現そのものを形成
していると想定する方が、妥当なのではないか。
0933考える名無しさん
垢版 |
2019/06/21(金) 10:44:18.670
日本語の「○ふ」が再帰形の表現であることの否認こそ、その何らかの
隠された動機に基づく"willful negligence"の要を成しているのだろう。
0934考える名無しさん
垢版 |
2019/06/21(金) 10:57:45.110
そのような想定をすることが、「誰にとって何がどのように都合が悪い」のか
よく考えてみる必要がある。これについての妥当な答えは、おそらく、従来、
人々に信じられているようなイデオロギー的な線引きに頼っている限り、
まったく見えてこないだろう。
0935考える名無しさん
垢版 |
2019/06/21(金) 15:18:46.710
>>930
「しぶ(渋)」という作用によってもたらされる効果/状態が「しぼ」であり、
そのような効果/状態をもたらす行為や活動が「しぼ(絞/搾)り」と呼ばれ、
その再動詞化として「しぼ(絞/搾)る」という動詞が派生させられたと
考えることができる。
0936考える名無しさん
垢版 |
2019/06/21(金) 15:46:39.580
「○ふ」という動詞における「ふ」の機能が分りにくいと感じるとすれば、
それは、「○ふ」が、中国語の「复/複(fù)」によって表現されるイメージ
の流用した再帰形として、反復を表すようにも、自らに返ってくる様態
を表すようにも、相互的な様態を表すようにも、メタ言語的に「○」に
よって表される作用/動作/様態の反転を表すようにも用いられている
からだろう。
0937国民の顔に泥を塗る国語教育という泥沼
垢版 |
2019/06/23(日) 01:11:03.080
https://kobun.weblio.jp/content/あをに
学研全訳古語辞典
あを−に 【青丹】
@顔料や染料に用いられる、青黒い土。岩緑青(いわろくしよう)。
A染め色の一つ。濃い青色に、黄色の加わった色。
B襲(かさね)の色目の一つ。表裏ともに、濃い青に黄色がかった色。

https://cjjc.weblio.jp/content/
白水社 中国語辞典
泥 ピンインní ⇒ [異読音] nì
1. 名詞 〔‘团・块・堆・坨・摊’+〕泥,壁土.≡坭.
用例 脚踩在泥里头了。=足を泥の中にぐにゃっと突っ込んだ.
用泥抹 mò 墙。=壁土で壁を塗る.
2. ((方言)) 名詞 (体・衣服についた泥の)はね,汚れ.≡坭.
用例 溅了一身泥。=体にははねがいっぱいかかった.
瞧你那一脸泥。=ほら,君は顔じゅう泥だらけだ.
鞋上的泥刷掉了。=靴の泥はブラシをかけて落とした.
3. 名詞 陶器,瀬戸物.≡坭.
用例 这个茶壶是泥的。=このポットは陶器である.
4. 付属形態素 泥状のもの.≡坭.⇒蒜泥 suànní ,印泥 yìnní ,枣泥 zǎoní .
0938考える名無しさん
垢版 |
2019/06/23(日) 01:17:54.920
「鈍(にぶ)い」とは、どういうことか?

https://kotobank.jp/word/青鈍-192611
精選版 日本国語大辞典の解説
あお‐にび あを‥【青鈍】
〘名〙
@ 染色の名。濃い縹(はなだ)色。浅葱(あさぎ)色に、青みが混じった色。尼などが用いる色で、凶事や仏教関係の服飾に多く用いられる。
※源氏(1001‐14頃)初音「経、仏の飾り、はかなくしたる閼伽(あか)の具などもをかしげに〈略〉あをにびの几帳、心ばへをかしきに」
A 襲(かさね)の色目の名。表裏ともに、濃い縹(はなだ)色。
※宇津保(970‐999頃)蔵開上「四の宮、〈略〉あをにびの指貫(さしぬき)、同じ直衣、唐綾の柳襲奉りて」
0939考える名無しさん
垢版 |
2019/06/23(日) 09:06:00.550
https://cjjc.weblio.jp/content/
白水社 中国語辞典
示 ピンインshì
付属形態素 示す,表示する.⇒表示 biǎoshì ,告示 gào・shi ,指示 zhǐshì .
用例 图21所示的就是其中的一个。=図21の示しているものはその中の1つである.

この「示(shì)」が、日本語の「しめ(示)す」の「し」とは異なると主張する人は
いないだろう。では、この「示(shì)」が、日本語の「しめ(示)し」の「し」
であるとすると、境界を示す「しめ(注連)+縄(なは)」の「し」や、「しめ+なは」
によって示される「しま(島)」の「し」と異なると考える理由はあるのか。
さらに、「いちじる(著)しい」は、語源的に「いと+しろし」であると考えられ
ており、一方で「しるし(標/印)」に関連し、他方で「しろ(白)」に関連する。
「しめ(示)す」ことを目的とするのが「しるし(標/印)」であるとするなら、
「しるし(標/印)」や「しろ(白)」の「し」が、「示(shì)」とは異なると
考える理由はあるのか。
0940照応という徴(しるし)の森
垢版 |
2019/06/23(日) 09:14:14.670
"à travers des forêts de signes"

https://www.etymonline.com/search?q=sign

sign (n.)
early 13c., "gesture or motion of the hand," especially one meant to
communicate something, from Old French signe "sign, mark," from
Latin signum "identifying mark, token, indication, symbol; proof;
military standard, ensign; a signal, an omen; sign in the heavens,
constellation."

According to Watkins, literally "standard that one follows," from PIE
*sekw-no-, from root *sekw- (1) "to follow." But de Vaan has it from
PIE *sekh-no- "cut," from PIE root *sek- "to cut" He writes:
"The etymological appurtenance to seco 'to cut' implies a semantic
shift of *sek-no- 'what is cut out', 'carved out' > 'sign'." But he also also
compares Hebrew sakkin, Aramaic sakkin "slaughtering-knife," and
mentions a theory that "both words are probably borrowed from an
unknown third source."
0942考える名無しさん
垢版 |
2019/06/23(日) 14:23:36.300
上代日本語の発音には、後に失われた、甲類/乙類として分類される区別が
あったが、この区別は、岩波古語辞典が基本的にそうしているように、
その弁別性によって区別される表現を、単に異なる語源に由来するものと
して扱うことによって済ませられるような性質のものではないだろう。
無論、語源が異なり、想起されるように意図されるイメージの違いを
表すために甲類/乙類の弁別性が用いられることもあるだろう。しかし、
同じ語源から派生させられた表現の用法を区別するために、その弁別性
が用いられることもあったと考える方が、日本語とは異なる他の諸言語の
例から考えても自然だろうと思う。
0943考える名無しさん
垢版 |
2019/06/23(日) 14:54:12.070
例えば、「と(砥/磨)ぐ」の「と」と、「とげ(棘)」や「とが(咎)」の「と」
は、(どっちがどっちだったか覚えていないが)甲類/乙類で別れているものの、
いずれも「とが(尖)った」イメージを想起させ、「とどめ(留)め」という表現
にしても、そこで使われる「と」が甲類/乙類のいずれに分類されるにせよ、
尖端で留めることをイメージさせることは、「とどめを刺す」という表現にも
見て取れる。

さらに、この尖端をイメージさせる「と」の発音のイメージが、中国語の
「凸(tū)」や「突(tū)」が想起させるイメージと重なるだろうことは、
私のように中国語を知らない人間にも、これらの漢字の用法から理解できる。
また、日本語の「と」も中国語の「凸(tū)」や「突(tū)」もともに、
英語の"top"や"toe"という表現に発音とイメージがある程度、重なっている。
このことは、これらすべての発音が、舌先を上口蓋に接触させることと
関連していると考えるのが自然だろう。そう考えたとき、日本語の「と」
が想起させるのは、例えば、英語の"spear-head"という表現であり、
「と(獲)る」ことが、必ずしも鋭い槍のようなもので獲物を刺すことを
表現していないとしても、「と(飛)ぶ」は、そのような鋭い動きを
イメージさせる「と」の再帰表現として、フランス語の"s'élancer"に
相当するのだろうと思われる。
0944論理国語
垢版 |
2019/06/24(月) 09:21:18.730
「しば(凍)」れる寒さに手足の血管が「しぼ(絞)」られて血の流れが「しぶ(渋)」り、
手足の指が「しび(痺)」れる。
0945考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 11:31:53.010
例えば円周率だけど、航空・宇宙科学理論においては
必要な概念だけど、我々の日常においては、ただの3。
つまり著しい抽象性とか、そのあたりの話題かな。
0946考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 11:46:46.410
道具一式を目の前に並べて、一つ一つの道具の名前を覚えたり、
使い方の説明を暗唱したりしてもダメなんですよ。必要なのは、
実際に道具を使ってみて、それぞれの基本的な使い方と使い分け
を習い、個別の目的を達するのに、道具をどのように組み合わ
せて使ったり、使い分けたりすればいいのか、経験を通じて
身に付けること。そうすると、道具の使い勝手が理解できる
ようになるだけでなく、場合によっては、与えられた目的を
達するのに、道具をどのように改良/改変すればいいのかも
考えることができるようになる。
0947考える名無しさん
垢版 |
2019/06/24(月) 13:01:36.010
「論理国語」を推進したければ、まずは「論理国語」を学ぶことの成果を
示すべきでしょう。成果が素晴らしいものであると認められるなら、
同様の成果が得られるように「論理国語」の教育が形成される。
0948考える名無しさん
垢版 |
2019/06/25(火) 00:07:46.840
日本語で一人称を表すのに使われる「わ(我)」の発音とイメージが、
中国語のどのような発音とイメージに対応するのかが気になっていた。

ネットの中国語辞書で「我」を検索してみると、以下のように記載されている。
>我 ピンインwǒ
>1. 代詞 (単数1人称)私,僕,おれ.
>@(主語・目的語に用いる.)

中国語の「我(wǒ)」は、日本語の「わ」という発音に似ており、
日本語の場合と同様に一人称を表すのだから、一見したところ、
中国語の「我(wǒ)」と日本語の「我(わ)」は重なっているように見える。
しかし、ここには大きな問題がある。というのは、日本語の「わ」は、
人称の「我(わ)」として用いられる場合も含め、以前から指摘してきた
とおり、「わ(侘)ぶ」や「わか(若)い」という表現の場合のように、
縮小的な(英語を用いるなら"diminutive")イメージを想起するように
用いられているからだ。中国語辞書の記載を見る限り、中国語の
「我(wǒ)」および「wǒ」という発音に対応する漢字にそのような
イメージの表現は見当たらない。「窝(窩)ピンインwō」という
漢字には、「縮こまる,縮んで丸くなる」を表す用法があるようだが、
この用法は、巣窟のようなくぼみに閉じこもるイメージを表して
いるように思われ、日本語の「わ」にうまく対応するようには
思えない。
https://cjjc.weblio.jp/content/wǒ;
0949考える名無しさん
垢版 |
2019/06/25(火) 00:17:14.050
ここで、日本が「倭国」と呼ばれていたことを思い起こして、中国語辞書で
「倭」を検索してみるが、「倭(Wō)」は、「窝/窩(wō)」と同じ発音の
ようで、以下のように記載されているだけである。

倭 ピンインWō
名詞 日本(昔の呼び名).
0950考える名無しさん
垢版 |
2019/06/25(火) 00:34:53.660
行き止まりのように見えるが、ここで諦めることなく、「倭」という漢字の
旁(つくり)となっている「委」を検索してみる。すると、「委(wēi ⇒
[異読音] wěi)」という漢字の用法には、日本語の「わ」が想起させる
イメージに対応するようなものは認められないが、「wēi」の発音で
検索すると、この発音に対応する漢字には「微(wēi)」が含まれることが
分る。少なくとも私には、「微(wēi)」が想起させるイメージは、日本語の
「わ」の想起させるイメージにとてもよく似ているように思える。

https://cjjc.weblio.jp/content/
微 ピンインwēi
1. 小さい,わずかである.⇒低微 dīwēi 1,细微 xìwēi .
用例
收效甚微=効果が甚だ小さい.
2. 奥深い,深奥である.⇒精微 jīngwēi ,深微 shēnwēi .
3. 弱々しい,かすかである.⇒轻微 qīngwēi ,幽微 yōuwēi .
4. 地位が低い,卑しい,⇒卑微 bēiwēi ,低微 dīwēi 2,人微言轻 rén wēi yán qīng .
5. 衰える,衰微する.⇒衰微 shuāiwēi ,式微 shìwēi .
6. 副詞 (多く書き言葉に用い;程度が軽い,数量が少ない,時間が短いことを示し)やや,いささか,少々,わずかに.
0951考える名無しさん
垢版 |
2019/06/25(火) 00:45:01.250
>>950
実際、「微(wēi)」と、その意味の説明として記載される「わずか」の
「わ」が重なっているように、つまり、「『わ≒微(wēi)』ずか」である
ように見える。
0952考える名無しさん
垢版 |
2019/06/25(火) 08:11:05.490
「倭」という漢字の発音については、wiktionaryには次のように記載されている。

https://ja.wiktionary.org/wiki/
後漢・説文解字: 「倭」の項
<人部> 順皃従人委声(「順なる貌(すがた)。人に従い、委(ゆだねる)の声」)
なお従偏旁声は説文解字で多くの漢字に使われる定型句。意訳すると人部に属し、
委と発音する。字の意味を説明している訳ではないので注意。説文解字は漢字の
意味を調べるための字書ではない。
0953考える名無しさん
垢版 |
2019/06/25(火) 16:38:57.830
>「『わ≒微(wēi)』ずか」であるように見える。

古語に合せるなら、「『わ≒微(wēi)』づか」となり、私には、
こちらの方がさらにイメージに合っている感じがする。
0954ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/06/25(火) 20:20:18.260
>「微(wēi)」が想起させるイメージは、日本語の「わ」の想起させる
>イメージにとてもよく似ているように思える。

このように指摘したが、日本語の「わづか」という表現の場合であれば、
「微(wēi)」という中国語の表現自体が、日本語で言えば「わづか」
であることを意味するように用いられているのだから、「微(wēi)」
と「わ」が似ているように感じられるのは当然であり、単に錯覚に
よるものかもしれない。では、「微(wēi)」が想起させるイメージは、
日本語で一人称を表すのに用いられる「わ」と似ているだろうか?
私には、これについても明白に肯定的な答えを与えることができる
ように思える。なぜなら、「微力」と表現すれば、それは、必然的に
「『わ』れの力量」を意味することになるのだから。

https://cjjc.weblio.jp/content/微力
微力
名詞
日本語訳微力
対訳の関係完全同義関係
微力の概念の説明
日本語での説明 微力[ビリョク]
自分の力量があまり役にたたないこと
0956考える名無しさん
垢版 |
2019/06/26(水) 10:33:56.300
以上のことから私に想像される国名としての「倭」の由来は以下のとおりだ。

中国語の発音とそれが想起させるイメージを利用したピジン語がクレオール語化
した日本語において、「わ」の発音が、中国語の「微(wēi)」に対応するように
用いられていたため、中国に対して「自国」を指すのに、日本語の「わ」に
対応する類似した発音とイメージの漢字を選択しようとしたが、「微(wēi)」
ではあまりにも自国が「微弱」であることを表象してしまうことになるので、
「微(wēi)」と同じ、もしくは近い発音であった「委(wēi/wěi)」が候補に
上がったが、「ゆだねる」ことを意味する「委(wēi/wěi)」単独では、
単なる権限の放棄か、逆に上から見下ろして委任する権限の主張をイメージ
させる曖昧さを生じる危険があるので、中国に対して従属の意図を明確に
同じ発音の漢字として「倭」を用いることにした。ただし、「倭」を
自称することは、対内的に権威を主張するのにマイナスのイメージが
伴うため、対内的には、「倭」に変えて、日本語としては同じ「わ」の
発音を表すのに用いられ、良いイメージを想起させる「和」を用いる
ことにした。

ただし、中国語はおろか、漢字も、私は日本の歴史も、中国の歴史も
まともに勉強したことはないので、これは、現時点で私にはそのように
想像されるという以上のことではない。
0957考える名無しさん
垢版 |
2019/06/27(木) 07:52:46.250
7. 暗黙の威嚇

たんなる視線での威嚇だけでなく、言葉のナイフを首元に突き立て「少しでも声を出したらどうなるか…」という方法もある。
彼にとって都合の悪いことを相手が行いそうな場合、もし行えば相手にも不都合が生じるだろうと”仄めかす”のだ。
たとえば社内でセクハラやパワハラが発覚したとき、マネージャーのあなたがそれをもみ消したければどうするだろう?
0958考える名無しさん
垢版 |
2019/06/27(木) 07:53:11.500
考慮しておくべき効果
サイコパスは巧みに感情的言動を動員し、対人操作によって自らの欲望を達成する。
そのうえで、いくらかの相乗効果が生じる。
自分の好戦的な意図を隠せる
頻繁に用いることで被害者を守勢に追い込める
常習的に用いることで反社会性が高まる一方、対人様式としては自分が得意とする方法として強化される。
彼らの言動をしっかりと理解できる人などほとんどいないので、他人を搾取したりコントロールする手段として、極めて効果的な手口になる。
サイコパスを見抜くためには、いくらかの行動パターンに気を配る必要がある。
特に重要なことは、「相手の敵意に気づき、それを認めること」である。
特に親しい関係の場合、「あの人が私を騙すはずがない」「自分が騙されるはずがない」と認知を歪めてしまうことが多い。
そして当のサイコパスも、あなたがそう思うように注意を誘導するだろう

http://psycom.hatenadiary.jp/entry/2018/03/28/202850
0960民主制という"Majority rule"
垢版 |
2019/06/27(木) 10:07:52.010
数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり
                         ― 紫式部

「数ならぬ身」≒"someone as insignificant as myself"
0961"Majority rule"という便乗
垢版 |
2019/06/27(木) 11:50:08.450
>>956 >>923-924
https://www.wordreference.com/zhen/微不足道的

自国を「倭」と称することが、「微不足道的我」を想起させるなら、
その自称が、対中国においては都合がよくても、対内的には都合が悪い
ことは明白だろう。「倭/和」という自称にも、中国の権威を利用して
自らの優位な立場を獲得しようとする便乗と、自らの権威がそのような
便乗に由来することを隠蔽しようとする否認を見て取ることができる
のではないか。
0962考える名無しさん
垢版 |
2019/06/28(金) 14:03:01.010
その都度、都合のいい、便乗と否認の反復が歴史に整合性をもたらす。
0964ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/06/28(金) 17:33:56.920
「ねが(願)ふ」、「なぎら(労)ふ」などの表現を派生させた、今では
ほとんど使われなくなった「ねぐ」という動詞が、英語で表現するなら、
"appease"や"placate"に近いと考えられ、動物の「ネコ」という
名称も、語源的には、"appeased"を表現しているだろうことは、
以前から指摘している。では、この「ねぐ」という表現は、
中国語のどのような表現に対応するだろうか。

日本語が、中国語を利用したピジン語がクレオール語化したもの
であると想定した場合、この問ひに答えることは、中国語の
知識のない私にも極めて容易である。なぜなら、似たような
イメージの、類似した発音の中国語を、漢字熟語をヒントに
してネット辞書で探せば、尤もらしい候補がすぐに見つかるから
である。それは、「安寧」や「丁寧」という表現で日本語として
用いられている「寧」であり、さらに、「寧」と同じ発音の
「擰」である。
https://cjjc.weblio.jp/content/ní;ng
0965考える名無しさん
垢版 |
2019/06/28(金) 17:45:55.300
「寧」が「安らかである」こと、「安らかにする」ことを表現する
のは、日本語で用いられているとおりである。私は中国語をまったく
知らないので、"níng"がどのようにしてこのような意味を表すように
なったのかは知らない。しかし、同じ発音の「擰」が、「撚り合わす」
ような動作として「ねじる」ことを意味していることは、注目に
値する。というのは、英語の"wring one's hands"という表現がすぐに
想起されるからである。言うまでもなく、これは、懇願するような
ジェスチャを表している。

宁(寧・ィ)
ピンインníng ⇒ [異読音] nìng
1. 安らかである,静かである.
2. ((文語文[昔の書き言葉])) 安らかにする.⇒息事宁人 xī shì níng rén .

拧(擰)
ピンインníng ⇒ [異読音] nǐng,nìng
1. (タオル・シーツ・衣服などの両端を持って)ねじる,絞る.
用例 使劲儿拧毛巾。〔+目〕=固くタオルを絞る.
把衣服 ・fu 拧干。〔‘把’+目+拧+結補〕=服を絞って水気を取る.
2. (わら・麻・糸などを絡み合わせるように)なう,よる,より合わす.
0966考える名無しさん
垢版 |
2019/06/28(金) 17:48:33.560
さらに、ここで、「ねじる」という日本語の表現の発音の「ね」が、
「ねぎ」の「ね」と重なり、中国語の「níng」の発音に近いことも注目される。
0967ネコだらけ
垢版 |
2019/06/28(金) 17:51:42.650
https://kotobank.jp/word/清寧天皇-86332
デジタル大辞泉の解説
せいねい‐てんのう〔‐テンワウ〕【清寧天皇】
記紀で、第22代天皇。雄略天皇の第3皇子。名は白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ)
0968考える名無しさん
垢版 |
2019/06/28(金) 17:57:10.860
私のように中国語の知識のない人間が「にはか」に中国語の辞書を検索
して気づくような関係に、長年、日本と中国の古典を研究してきた人々が
気付かないはずがないのである。何を、どのような理由で隠蔽しようと
しているのだろうか。
0969考える名無しさん
垢版 |
2019/06/29(土) 08:05:03.180
「ね」については、以前に以下のように指摘した。

>日本語において「ね」は、「持続的に密着している様態」を表現するように
用いられる。このことは、「ね(練)る」、「ねば(粘)る」、「ねちねちと」
などの表現を見ればすぐに分り、また「根(ね)」が「地に持続的に密着し
ているもの」であり、「ね(寝)」が「体を持続的に地に着ける(ように
横たわる)」行為であることにも見て取れる。<

この考えは、今も特に変わらない。ところで、「ねんご(懇)ろ」という
表現があるが、この表現を岩波古語辞典で引いてみると、奇妙なことに
気付く。
0970考える名無しさん
垢版 |
2019/06/29(土) 08:30:59.580
岩波古語辞典を引いてみると、「ねんご(懇)ろ」は、かつては「ねむごろ」
と発音され、これは平安時代以降の形で、本来は、「ねもころ」であった
ことが記載されている。「ねもころ」の説明を読むと、この表現は、
語源的には、「ね(根)」+「もころ」とされ、「モコロは、同じ状態に
ある意」を表すとされる。実際、「もころ」は、「如/若」と書かれ、
「ね」と切り離されても用いられていたことが分る。「もころ」という
表現については、その語源的な説明は記載されていないが、「同様
である」ことを表しているのだから、「もころ」の「も」は、中国語
をそのまま用いた表現である「も(模)す」の「も」と重なっている
のではないかと私には疑われる(「も(若)し」の「も」も同様である)。
つまり、「ねもこ(懇)ろ」は、英語に直訳するなら"roots-like"という
ことになるだろう。

「ねもころ」という表現が用いられている歌を検索してみても、「ね」
が「根」と解釈された(少なくとも「根」の意味と掛けられていた)こと
には、疑いの余地がない。しかし、私は、そこに奇妙さを感じる。
0971考える名無しさん
垢版 |
2019/06/29(土) 08:48:23.430
というのは、「ねもこ(懇)ろ」は、英語で考えるなら、明らかに"roots-like"
と解釈されるのに、「ねもこ(懇)ろ」≒"roots-like"という凡その互換性が
成立するようには、まったく私には感じられないからである。

その理由は、「ね(根)」は、例えば、大根、ニンジン、ゴボウなどの根菜を
表す場合の「根(こん)」としては、「ね(根)」≒"roots"であると感じられる
ものの、「ねもころ」の「ね」は、「根(ね)」と解釈される、または掛け
られているとしても、そのような、つまり、地中の枝のようなイメージを
表していないからであると考えられる。

さらに奇妙なことには、岩波古語辞典の「ねむごろ」の項目の文例では、
「ねむころに」という表現には「固(ねむころ)に」という漢字が当てられて
いる。だが、「固」という漢字は、発音においても、それが表すイメージ
においても、「ねむころ」に全く似ていないではないだろうか。
0972考える名無しさん
垢版 |
2019/06/29(土) 09:21:48.270
実は、岩波古語辞典には、「ねもころ」について、「根」+「もころ」という
語源的な解釈につづけて、「こまかにからみ合って土の中にあるのと同様に
の意」と説明されている。要するに、「ねもころ」≒「ね+同様」という表現
において、「ね」が担っているのは、「細いものが互いに絡み合っている様態」
をイメージさせることであることになる。「ね」をそのようなイメージに
おいて捉えた場合に初めて、「ねもこ(懇)ろ」によって表される親密性がよく
理解されるのであり、より一般的に「ね」→「根(こん)/"roots"」と置き換えて、
「ねもころ」を「根(こん)/"roots"+同様」と解釈したのでは、まったく
そのような親密性が表現されているとは感じられないのである。

だが、すると、「ねもころ」の「ね」は、根(こん)/"roots"を表していると
言うよりも、「細いものが互いに絡み合っている様態」を表していると
言わなければならないのではないか。さらに、その様態は、中国語との
対応を考えるなら、「根(こん)」にではなく、むしろ、>>965に引用
した「拧(擰)ピンインníng」が表現するイメージ、すなわち、
「(わら・麻・糸などを絡み合わせるように)なう,よる,より合わす」
と合致しているのではないか。

ところで、岩波古語辞典の「ねむごろ」の項目の文例では、「ねむころ」
には、「固(ねむころ)」という漢字が当てられていると述べたが、
中国語辞典を引いてみると、「拧(擰) ピンインníng」と同様に発音
される表現に「凝」があることが分る。「ねむころ」に「固」という漢字
が当てられたことは、このことに関係している可能性が考えられるのでは
ないか。

https://cjjc.weblio.jp/content/ní;ng
凝 ピンインníng
1. 気体が液体に,液体が固体に)凝結する,凝固する,変わる.
2.(表情・まなざし・感情・雰囲気などが)固く凍りつく.
0973考える名無しさん
垢版 |
2019/06/29(土) 09:29:02.710
さらに、日本語の「ね」と中国語の表現の関係を調べるために、「ねば(粘)る」
や「ね(捻)じる」について調べてみると、「粘/黏」という漢字は「nián」と
発音され、「捻(撚)」も似たような「niǎn」という発音であることが分る。

https://cjjc.weblio.jp/content/
https://cjjc.weblio.jp/content/

中国語に頻繁に接していたかつての「日本語」の話者に、日本語の
「ね」が用いられる表現と中国語の対応する表現の間の発音の近さが
意識されなかったはずはないだろう。
0975考える名無しさん
垢版 |
2019/06/29(土) 22:47:49.210
>>974
いつも「だらだら」していて「だらしない」

この場合、「〜ない」は、「極まり『ない』」ことを意味する強めだ
0976ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/06/30(日) 10:22:59.220
C'est gentil, mais ça ne vaut rien.

>>956 >>961
対外的には中国の権威に従属する「微不足道的我」であることを明確に
示し、対内的には「和」を重んじる権威であることを示そうとしたもの
であると推測することができる「倭/和」という名称の関係は、フランス語
の"mignon/gentil"の関係に類比するものと考えてみると理解しやすいのでは
ないだろうか。つまり、「倭/和」≒"mignon/gentil"と想定してみるのである。

https://fr.wiktionary.org/wiki/mignon
mignon
1. Qui, dans son apparence menue, offre de la grâce et de la gentillesse.

https://fr.wikipedia.org/wiki/Mignon_(histoire)
Le mot traverse la Manche à la fin du XVe siècle sous la forme minion
(fidèle, subalterne). Au XVIe siècle, les jésuites sont qualifiés de
« mignons de Jésus-Christ. »

https://www.wordreference.com/enzh/minion
下属 xià shǔ、下级 xià jí、手下 shǒu xià
宠臣 chǒng chén、奴才 nú cái、
唯命是从者 wéi mìng shì cóng zhě

https://www.wordreference.com/enzh/gentle
温柔的 wēn róu de、和善的 hé shàn de、平和的 píng hé de、
和缓的 hé huǎn de
0977考える名無しさん
垢版 |
2019/06/30(日) 10:41:38.630
>>976
右であれ、左であれ、自由主義であれ、どのようなイデオロギー的な立場を
表明するものであれ、自らが"mignon"であることを示そうとするアピール
が、他人からはあまり「温柔的」にも、「和善的」にも、「平和的」にも
見られない理由は、案外、自らの姿が他人には、このような関係性において
現れている可能性を反省してみる必要もあるではないか?
0978考える名無しさん
垢版 |
2019/06/30(日) 10:47:10.840
「謙虚」であることを自認する人が陥りやすい罠でしょうか
意図的にやっているなら、サイコパスですよ?
0979ネギ(禰宜)坊主
垢版 |
2019/06/30(日) 12:25:54.970
ところで、源氏物語などを読むとネコが「ねうねう」と鳴いたと記されている。
その当時の人々には、本当にネコの鳴き声が「ねうねう」と聞こえたのだろうか。

しかし、ここで、日本語の「年(ねん)」、「捻(ねん)」、「念(ねん)」などの、
その音読みに「ね」の発音が含まれる漢字を中国語辞典で検索してみると、
これらの「ねん」は、それぞれ、中国語の「nián(年)」、「niǎn(捻)」、
「niàn(念)」にそれぞれ対応していることが分る。つまり、「ね」という表記
によって、中国語の「nia」を書き写しているのである。だとすれば、
ネコの鳴き声として記された「ねうねう」は、ローマ字に転記するなら、
"neu・neu"ではなく、"niau・niau"という聞き成しを書き写そうとしたもの
である可能性が考えられることになる。実際に、ピンインで、「nián(年)」、
「niǎn(捻)」、「niàn(念)」の発音を聞いてみると、そのような可能性は、
さらに尤もらしく感じられる。
https://zh.hatsuon.info/word/
https://zh.hatsuon.info/word/
https://zh.hatsuon.info/word/
0980学術
垢版 |
2019/06/30(日) 14:07:38.840
全治全納。
0981学術
垢版 |
2019/06/30(日) 14:08:13.390
統治 納棺 も大事かな。
0983考える名無しさん
垢版 |
2019/06/30(日) 17:46:35.240
確かに、自然言語の組み合わせを如何に駆使しても、
人類を月に送り込むのは無理だと思うw
0984考える名無しさん
垢版 |
2019/06/30(日) 18:56:45.770
それはアポロ計画の月面着陸成功によって既に反証されている。
0985考える名無しさん
垢版 |
2019/07/01(月) 07:57:39.450
>>979
「ね」という文字によって中国語の「nián(年)」、「niǎn(捻)」、「niàn(念)」
の"nia"をうつ(写/移/映)すことによって中国語において想起されるのと同様の
イメージ(異なる複数のものが含まれるにせよ)を「日本語」においても利用し
ようとするのが便乗であり、「ね」という文字を読む人々に、そのように
中国語の"nia"の発音とイメージが想起されることが忘却され、否定されること
が、便乗の否認である。
0986考える名無しさん
垢版 |
2019/07/01(月) 08:13:13.610
食材を「に(煮)る」ことによって、柔らかくて食べやすい料理になる。
この場合の日本語の「に」の発音は、中国語の「泥 ピンインní ⇒
[異読音] nì」と重なる発音とそれが想起させるイメージを利用して
いないだろうか?

https://cjjc.weblio.jp/content/
泥状のもの.≡坭.⇒蒜泥 suànní ,印泥 yìnní ,枣泥 zǎoní .
用例
萝卜泥=大根おろし.
山药泥=とろろ.
土豆泥=マッシュポテト.
0987考える名無しさん
垢版 |
2019/07/01(月) 14:12:47.840
>>979
引用したピンイン確認のサイトでは、「nián [年]」の発音は、カタカナでは
「ニィェン」と転記されている。ネコとの鳴き声として日本の古典に記載
される「ねうねう」の「ね」が、「nia」に対応する表記であったとするなら、
「ねうねう」は、カタカタで書き写すなら、「ニィェウ・ニィェウ」と
なるだろう。「ねうねう」と書いた人々が、ネコの鳴き声をそのように
認識し、この表記を読む人々も同様に「ニィェウ・ニィェウ」または
それに近い発音を読み取ったと考えるのと、「ねうねう」と書かれている
のだから、確たる証拠がない限り、作者も読者もネコの鳴き声を「ネウネウ」
と認識していたと考えるのは、どちらがコモンセンスに適ふだろうか。
後者、つまり、「ネウネウ」と聞いたと考える方が確実で、賢明であり、
常識的だと自然に感じるようでなければ、学問の世界では通用しない。

「ねうねう」が「ニィェウ・ニィェウ」に近い発音を表していたなどと、
私が説明した程度の証拠で示唆するような不届き者は、厳しく罰して
やらなければならないと心の底から怒りが湧きあがってくるようでなけ
れば、立派な学者として認められるような地位を得ることは難しいだろう。
0988考える名無しさん
垢版 |
2019/07/02(火) 14:23:52.600
>>986
ところで、贄(にへ)は、「『に(煮)』る」作用の再帰形の名詞化として、
"To-be-cooked"を表現しているのだろうか?
0989逆しまな思考
垢版 |
2019/07/02(火) 18:43:31.200
ネットで検索してみると、岩波古語辞典の編者である大野晋は、
日本語の甲類の"e"の発音は、"ia"→"e"の音韻変化によって生じた
という説を提唱し、この説は、少なくとも国語学の一部においては
定説として受け入れられているようである。この説を受け入れて、
"ia"という発音が、甲類の"e"に対応する「え」の発音を写す文字
によって表記されるようになったと考えるなら、逆に、少なくとも
一部の事例において、「ね」という文字表記によって"nia"という
発音が意図されていたと考えても何の不都合もないではないか、
と私のような人間はすぐに考える。こういうのを一般に「逆しまな考え」
と呼ぶのだろうw
0990考える名無しさん
垢版 |
2019/07/03(水) 19:40:38.210
https://zh.hatsuon.info/word/
微のピンイン(発音記号)と読み方
ピンイン(発音記号): wēi (wei1)  音声を再生
カタカナ読み(発音の目安):  ウェイ

https://ja.wikipedia.org/wiki/ワイ
わい - 近畿地方などで用いる一人称。日本語の一人称代名詞#わい、わて、あてを参照
わい - 九州などで用いる二人称。日本語の二人称代名詞#親しい場合(目上の人に使うのは失礼とされる)を参照
0991考える名無しさん
垢版 |
2019/07/03(水) 23:42:15.360
このように見てくると、日本の伝統的な美意識を代表するとされる
「わ(侘)び」は、「わ(微)ぶ(复)」という再帰形の動詞(ただし、この
場合、「〜ふ」は、「反」を意味するのではなく、作用が自らに
返ることを表している)の名詞化として中国語を利用した典型的な
ピジン語であることが分る。

そのような議論が、日本のナショナリストに歓迎されないことは言うまで
もないが、興味深いことに、中国や韓国との友好的な関係を重視し、
国際協調を常にアピールしているような日本の自称左翼やリベラルの
人々も、まず間違いなくそのような主張は黙殺する。中国共産党ですら、
そのような主張は歓迎しないだろう。通常、人々を実際に動かしている
アジェンダは、表向きの言説とはまったく別物である。
0992考える名無しさん
垢版 |
2019/07/05(金) 08:56:58.550
ハンマーの用具性を身近なものとするためには、つまり、ハンマーの
使い方を身に付けるためには、ハンマーが「手許(てもと)」にあるだけ
ではダメで、ハンマーを「手頃(てごろ)≒"zuhanden"」に「あつか(扱)ふ」
ことに慣れる必要がある。

言葉の表現もまったくそれと同じことだ。「あつか(扱)ひづらい」こと、
手に負えないことを、日本語の古語では、「あづきなし」と表現した。
哲学的に考えることが言葉の表現を、その用具性において理解することを
助け、言葉の表現の扱い方を工夫しながら身に付けることが、哲学の歩みを支える。
大切なのは、見よう見まねでも、「自分でやってみる」ことであり、
見ているだけでも、外見をまねるだけでもダメなのだ。
"Zuhandenheit"=「手許にある在り方」のような借り物の用語法を
身に付けて哲学をしているつもりになっても、コスプレをやって喜んでいる
のと似たようなものだ。
0993考える名無しさん
垢版 |
2019/07/09(火) 07:43:53.560
日本語の「の(乗)る」や、古語の用法における「ののしる」という表現に
などに用いられる「の」は、その発音とそれが想起させるイメージにおいて、
中国語の「隆 ピンインlōng」や「垄 ピンインlǒng」や「龙(龍)
ピンインlóng」などの"long"の発音とそれが想起させるイメージと重なって
いるのではないかという気がする。
0994考える名無しさん
垢版 |
2019/07/09(火) 09:03:09.450
ら行音で始まる表現は、外来性のイメージを伴っている。
ら行音で始まる言葉が、古代から「日本語」に取り入れられ、
日常的な言葉づかいおいてに使われてきたにもかかわらずである。
これは、ちょうど、いくらラーメンが日本人の生活に結びついた
日常食になり、日本の食文化として海外に輸出されるまでに
なっても、外来性のイメージと結びついたままであるのと
同じようなものだろう。要するに、ら行音で始まる言葉は、
古代から、連綿と外来性のイメージを伴うようにに用いられて
きたのだ。しかし、ここで別の問いかけをすることができる。
それは、日本語がその形成において中国語の表現をピジン語
として大々的に利用していたとすれば、さらに、その過程に
おいて、多くの表現がその外来性を喪失するように用いられ
るようになったとすれば、ら行で始まる中国語の表現は、
日本語のどのような発音に「吸収」されることになったの
だろうか。そのように問うことは、無駄ではないだろう。
例えば、既に見たとおり、中国語の「nia」の発音は、
日本語の「ね」の発音に吸収されたと考えることができ、
そのように考えることによって、日本の古典にネコの
鳴き声として記載される「ねうねう」という表記が
容易に理解可能なものとなるのだから。
0995考える名無しさん
垢版 |
2019/07/09(火) 20:20:39.690
>>993
なぜ私はそのように感じるのだろうか。ここにはいくつもの連想が重なって
働いている。無論、そこには、「隆」という漢字が「勢いに『の』る」こと
を思わせること、それに関連して「登龍門」という表現が想起され、「龍」
が「『の』ぼる」イメージと切り離し難く結びついていることが含まれるが、
日本語として用いられる漢字としての「隆」と「龍」はともに「りゅう」
と読まれ、「の」という発音とは似ても似つかない。畑の畝を意味すると
される「垄/壟」という漢字に至っては、私自身、日本語として使われて
いるのを見たこともない。さらに、万葉仮名を調べても、これらの漢字
は、甲類であれ、乙類であれ、「の」の発音に当てられた漢字とは無関係
である。では、どのような連想によって、私は、これらの漢字に共通する
"long"という発音と、それが想起させるイメージが、日本語の「の」と、
それが想起させるイメージに似ていると感じるようになったのだろうか。
0996考える名無しさん
垢版 |
2019/07/09(火) 20:40:03.210
中国語自体を知らない私は、実は、逆の方向からスタートしている。
「の」について、私は、以前、以下のように指摘している。

>多くの日本語の表現において「の」は、「重圧がかかっている様態」を
>イメージとして伝えるように用いられる。

このことは、「のしかかる」や「のめりこむ」などの表現を見れば、
すぐに理解できるはずである。では、そのようなイメージで使われる
日本語の「の」に対応する中国語の似たような発音の表現には、
どのようなものがあるのか。それが疑問の発端である。しかし、
「重圧がかかっている様態」を表すように「の」が用いられた
日本語の表現を手がかりに中国語の辞書を検索してみても、
さっぱり候補が見当たらない。というのも、対応するものとして
ヒットする表現は、いずれも”n”の発音で始まってすらいないから
である。万葉仮名を調べると、「の」に当てられている漢字は、
ほぼすべて中国語も"n"の発音で始まっているが、それらの漢字
は、「重圧がかかっている様態」とは無関係である。唯一の
例外は、万葉仮名の読みとしての「荷(の)」であり、この場合、
その漢字は、「重圧がかかっている様態」そのものをイメージ
させるが、「荷」という漢字の中国語の発音は、"ピンインhé
⇒ [異読音] hè"であるとされ、「の」という発音とは似ても
似つかない。
0997考える名無しさん
垢版 |
2019/07/09(火) 21:07:05.110
ここから導かれる結論は、日本語の「の」に対応するように用いられる
中国語の表現が"n"の発音から始まるはずだと考えるのは、私の先入観に
過ぎず、日本語の「の」が想起させるのと同様のイメージを想起させるの
に中国語で用いられる表現は、別の発音を用いているのだろうということ
である。では、さらに探索をつづけるには、どのような手がかりがある
だろうか。

ここですぐに思い起こされるのは、万葉仮名で「の」に当てられている
「怒」や「奴」という漢字は、中国語ではいずれも"nù"と発音されて、
日本語でもやはり、「ぬ」の発音を表すのにも用いられているだけ
でなく、「ど」と読まれるようにもなっていることである。実際、
日本語の古語の「の」の発音は、現代語の「ど」に対応していて、
古語の「ののしる」は、「どたばた」大きな音を出して騒ぐことを
表すのに用いられている。現代語では、「重圧がかかっている様態」
は、例えば、「ドスンドスン」のように「ど」の発音を用いて表現
されるが、この「ど」は、古語の「の」と連続していると見ること
ができる。そこで、「の」に変わって「ど」を手掛かりに、
中国語の辞書を検索してみることができることになる。
0998考える名無しさん
垢版 |
2019/07/09(火) 21:13:40.040
そのようにしてたどり着くのが、「隆 lóng ⇒ [異読音] lōng」
である。私は言語学者ではないので、音声学上の専門的な説明は
できないが、感覚的には、"lo"という発音は、「の」に十分に
近いように感じられる。

https://cjjc.weblio.jp/content/hō;nglōng

轰隆 ピンインhōnglōng
擬声擬態語 (雷・爆発・機械・車両などの発する震動音)ドカン,ゴロゴロ,ゴーゴー.
用例 远处 chù 传来轰隆的雷鸣。=遠くからゴロゴロという雷の音が聞こえて来る.
雷声轰隆轰隆。=雷がゴロゴロと鳴っている.
炮弹在前面土岗子轰隆轰隆地爆炸 zhà 。=砲弾が前の小高い丘でドカンドカンと爆発した.
0999考える名無しさん
垢版 |
2019/07/09(火) 21:35:03.860
ところで、中国語を知らない私は、「隆 ピンインlōng」と「垄 ピンインlǒng」
と「龙(龍)ピンインlóng」が、表現として互いにどのような関係にあるのか
全く知らない。それでも発音に重なりがあり、漢字も一部共通するようなので、
何らかの共通性があるのだろうと自然に思える。それに、「垄」は、畝を意味
していると辞書に記載されているが、畝は隆起しているのだから、やはり、
「隆」と「垄」にはイメージの共通性があるはずだと思える。

そこで、さらに手がかりを得るために中英辞典を引いてみると、
次のように記載されている。その文例からすぐに私が想起するのは、
「乗鞍岳」という山の名前にも見られるような重量が「『の』る」
というイメージそのものである。
https://www.wordreference.com/zhen/垄;
垄 ridge

まさしく、イメージしたとおりである。
そこで、今度は逆に"ridge"に対応する中国語の表現を引いてみる。
https://www.wordreference.com/enzh/ridge
山脊 shān jǐ、山脉 shān mài
The walkers set out along the mountain ridge.
徒步者沿着山脊出发了。
ridge n (raised strip) 脊状突起
jǐ zhuàng tū qǐ
The field was covered in ridges from the passage of the plough.
耕犁所过之处,土地翻起脊状突起。
ridge n (apex of roof) 屋脊
The roofer was sitting straddling the ridge, looking out across the town.
屋顶工骑着屋脊坐着,眺望着镇子。

其他翻译
英语 中文
ridge n (weather: high pressure) (大气压) 高压脊,高压带
1000訂正
垢版 |
2019/07/09(火) 21:38:17.460
コピペで記述の順序が前後してしまったので、訂正

https://www.wordreference.com/zhen/垄;
垄 ridge

まさしく、イメージしたとおりである。

そこで、さらに手がかりを得るために中英辞典を引いてみると、
次のように記載されている。その文例からすぐに私が想起するのは、
「乗鞍岳」という山の名前にも見られるような重量が「『の』る」
というイメージそのものである。
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 212日 9時間 18分 1秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況