言葉は無力である
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言葉で飢えは満たされない
言葉で怪我は治せない
言葉で病気は治せない
言葉は満たされた人間たちの
戯言にしか過ぎない 香山リカのリアリティって病名付けと
造語病名がリアリティの底みたいな
薄い話しかできないわけじゃん みんな安全な場所から
もっともらしい言葉を吐くだけだ
神は言葉ばかりと嘆いた人もいた
その人たち飢餓や病気の苦しみは分からない
分からないから中身のない言葉だけを吐く
そして分からない者同士で褒め称え合う 言葉の届かない場所にいる人たちは
まるで存在しないかのように
自らの言葉に酔うだけだ >>1
「言葉は無力である 」という言葉は無力である 「言葉は無力である 」という言葉に効力を認めることは、「言葉は無力である 」という主張と矛盾する 言葉が無力であるなら、いくらデマや誹謗中傷を流しても、
デマや誹謗中傷の言葉も無力なのだから、取り消しを求める必要はない 言葉が効力を発揮するためには、相手がその言葉を理解することができることと、
その理解に反応するようにさせるための手段が必要である。
発せられた言葉の理解に従って振る舞うことを拒否するなら罰を下すことが
できる暴力手段を握るなら、発せられる言葉は命/御言(みこと)となる。
命は、導水路が流れる水の行方を導くように、人々の活動の向かう先を
導く役割をする。そのため、命を発する権限を有する人は、をさ/長/
リーダーと呼ばれる。 その場合、命を発する権限は、委託されたものであってもいいし、
実際、ほとんどの場合、そのような権限は、委託されたものである
という形式をとる。 をす - ウィクショナリー日本語版
https://ja.wiktionary.org/wiki/をす
古典日本語[編集]. 動詞[編集]. 上代語. 「治む」の尊敬語。
まをすの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典
https://kobun.weblio.jp/content/まをす
まをすの意味。申し上げる。▽「言ふ」の謙譲語。 現代の精神ゾーンを裁定してくださる香山リカ尊師を崇めよ >>7-13
言葉に力があると信じる言霊信仰?
いや、社会の上下関係というのは本来的に、言葉を命/御言(みこと)に変える
工作(「工作」と言う表現が嫌いなら「制作活動と言い換えてもいい」)によって
成立し、維持されているのですよ。
だから、言葉を命/御言(みこと)に変えることに失敗したなら、上下関係は
解消されてしまう、つまり、階層性が崩壊してしまうわけです。 逆に言えば、「平等主義社会」というのは、命/御言/尊(みこと)が存在し得ない
ようにしている社会、命/御言/尊(みこと)を成立させようとする工作(/製作活動)を
無効化してしまうような社会のことなのです。 階層性を維持しながら命/御言/尊(みこと)によって平等を実現したいという
のはどのような人々なのでしょう?
そのような人々は、どのような名称で呼ばれるのがふさわしいのか。 ま・をす(申す)
ま・ゐる(参る)
ま・かる(罷る) 命/御言/尊(みこと)/mandateを無効化するとは、どういうことか? もの(不変)/こと(可変)
の綯交ぜになったこの世をば如何にして渡って行くか サミュエルベケット入れといたから、精神科関連もう伏せようね。 言葉をつむげど空洞から抜けていって声にならない声がかき消されるなど。 言葉は無力であるという言葉に対して反論、対応していくスレッド。 学研全訳古語辞典
きこし−を・す 【聞こし食す】
お治めあそばす。
出典万葉集 四〇八九
「天皇(すめろき)の神の命(みこと)のきこしをす国のまほらに」
[訳] 天皇であり神であられるお方のお治めあそばす国のすぐれたところに。
⇒食(を)す。◆「聞く」の尊敬語「きこす」の連用形に尊敬の
動詞「をす」の付いたもの。上代語。 >>13 >>15-17
「を/Why not?」という誘いかけ/呼びかけは、どのようにして呼びつけになり、
命/御言/尊(みこと)/mandateとなるのか?
「聞こし食(を)す」という字面だけを見るとなぜ、「食(を)す」が
「治(をさ)める」ことになるのか、一瞬、戸惑うだろう。しかし、
「食(を)す」を現代の日本語の「お召し上がりになる」や「およばれになる」
に関連付けて考え、「召し上がる」の文字通りの意味を考えれば、
それが英語にするなら"call up/on to do 〜"という行為を人にさせる
ことを表現していることが分る。 現状とは異なる仮定される状態を示唆すること、Wikipediaによる「接続法」の
説明の言葉を借りるなら、「想定されうる事態として提示する」ことが、
命じることになり得る。それはどのようにしてなのか。
日本の国語教育は、日本語をより深く理解できるような「をしへ(教え)」の
役割をするどころか、表現の解釈を磨く可能性をあらかじめ排除することに
よって日本語の理解を妨げるような隠蔽の役割を果たすことになっていない
だろうか。日本語をより深く理解することは、すなわち、言語表現の用法
をより一般的に理解することであり、そのまま、日本語とは異なる言語の
表現の解釈の可能性にもつながるのである。 「聞し召(め)す」という表現も「お召し上がりになる」と同様に現代語では、
相手が飲食する行為を表すように用いられるが、他方、「お召しになる」は、
相手が着物などを着用する行為を表すように用いられる。このように
「め(召)す」によってまったく別々の行為が表されるのは、いずれにしても、
「め(召)す」が「をす」の場合と同様に、人を呼んで何かをさせることを
表しているからである。ただし、「をす」は、その形からして使役形であり、
本来は、何かをさせる人々を呼ぶ行為自体を付き人にさせることを表して
いたものと推測される。したがって、語源的に見れば、「をす」は、
「呼びかけが生じるようにする」ことであろう。 したがって、「さあ、召しあがれ」という表現は、かつては自分たちが属して
いなかった階級に今は自分たちが属しているような雰囲気を醸し出すための
典型的にブルジョア的な表現の用法なのである。 言葉は所詮、時間を持て余す暇な人間たちのお遊び
上にある連投を見ていれば誰も異論はない ネットではTwitterなどで盛んに議論をやってるが
人々の心を奮い立たせたり良心を呼び覚ますような生産性ある言葉なんて皆無だものな
いまTwitterで女の愚痴を理屈で返す男をどう思うかというのが盛り上がってると
テレビでやってて呆れた ドイツ語の"Ruf"と日本語の「を」は、発音もなんとなく似ているよね。
http://scenariot.tumblr.com/post/1172228416/
”ベルーフ(Beruf)と言う言葉がある。現在では「職業」と訳される
ドイツ語だが、本義的にはなかなか訳しづらい。宗教的に直訳すると
召命。分かり易くいうと、神から与えられた使命、天職というような
意味である。
では、神はどんな使命を下したのか。そこに世俗的職業においても
行動的禁欲が適用される。いわば職業義務の思想である。”
(小室直樹『日本人のための宗教原論』P194) 存在論的観念論は倫理学説においては理想主義なのですか? その発音においてさえ、日本語の「いぶき」のがギリシャ語の
「プシュケー」を想起させ、日本語の「を」がドイツ語の「Ruf」
やラテン語の「vox」を想起させる。そのことを面白いと思わない
としたなら、日本の国語学者の感覚はどこか狂っているのでは
ないかな。 言葉が命令となり得るためには、「(そう)なっていない」ことを一方的に処罰の対象
とすることができなければならない。 声を出すとは、気づかせることである。
何にどのように気づかせるのか、それを記述することが重要だろう。 声を出すことも、何かに印をつけることも、気づかせることであり、
言語を「記号」として捉えるとは、言語の使用がどのように気づかせる
のかに注意を向けることである。 だからこそ、言葉を活かそうとするなら、気づく作用を鈍らせるような
「決り文句」ばかりを並べ立ててはいけないのだ。
記号論とは、約束事として用いられる記号(シンボル)を研究する学ではなく、
気づくことがどのように作用するのかを明らかにしようとする取組みである。 誰かが「なっていない」ことを「とが(咎)」める。
その言葉に「とげ(棘)」があり、「とが(咎)」を感じる。
さて、「とが(咎)」めたのは誰だろう? 「言葉は無力である」という言葉も無力である。
という言葉も無力である。
自己言及のパラドックスだな! 鬼なのに良心に反することを咎めるんだな。
鬼≒悪魔だったら、絶対にそんなことはしないだろうw
心の鬼(ココロノオニ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/心の鬼-500687
デジタル大辞泉 - 心の鬼の用語解説 - 1 ふと心に思い当たる良心の呵責(かしゃく)。
「かたはらいたく、―出で来て、言ひにくくなり侍りなむ」〈枕・一三五〉
2 心の奥に潜んでいるよこしまな考え。邪心。煩悩(ぼんのう)。
「我はかく思ふとも、さすがなる―そひ」〈浜松・ ... 鬼を追い出してしまって、心に鬼がいないから、
心を鬼にすることができるのですね 心に鬼が住んでいる人と、心を鬼にすることができる人とでは、
どちらがより良心的なのか? Wikipediaの「目的語」の説明には、次のように記載されている。
>行為の直接的な対象を表す直接目的語(主として対格、日本語では「を」等で
示される)
直接目的語を示すのに、日本語では主として「を」が用いられるわけだが、
現代語で考えるなら「水を」という表現で水を求めることや、古語で考える
なら「あたら〜を」という表現で、何かの価値のあるものが不相応に失われ
ることを表すことから見て取れるように、「を」は、目の前(vorhanden)に
ある対象ではなく、むしろ、その不在を示すように用いられる。
対象が現前していないことを示す言葉によって、対象が示されるという
この哲学的にも極めて重要な日本語の表現の特徴に、日本語で哲学をする
人々が関心を示してこなかったとするなら、それは、とても奇妙なこと
であると言わざるを得ないだろう。 ハイデガーの用語を借りて存在の様態が現れる順序を考えるなら、
物事はまず、手頃でない様態(unzuhanden)にあり、それを手頃
な様態(zuhanden)になるように工夫して変えるが、その「手頃な
様態に変えられた物事」が失われることで、それが目の前(vorhanden)
にない不在の様態が現れ、その不在/失われたものを求めることに
よって目の前に(vorhanden)物事がある様態が(再び−)現れること
になるだろう。物事が目の前(vorhanden)にあること、そのような
様態で現前していることは、そのような再−現として在ると
考えられるのではないか。 元々アイドルなんて存在してなくて
たんなる青年期に陥りがちな精神疾患臨床例のひとつ
なんじゃないの? 目の前(vorhanden)にある/ない物事が、様々に手頃に(zuhanden)にあり得る
可能性として現れる、そのことが、人が世界に感じる豊かさだろう。
人は、人ではない他の生き物が、その豊かさに限定的にしかアクセスできない
と感じているのだ。つまり、人ではない他の生き物にとって、世界は、
手頃に/道具的に(zuhanden)にあるか/そうでない(unzuhanden)かの区別しかなく、
「様々に手頃にあり得る可能性としての『目の前(vorhanden)にある/ない物事
の世界』」が貧しいと人は捉えているのだろう。
「人は道具を使う動物である」という常套句が、すべての生き物が
手頃に/道具的に(zuhanden)にある世界を生きていることを見えにくく
している。 例えば、まだ生まれて間もなく、母乳をもらったこともない幼児が
泣くとき、幼児は何か空腹を満たすのに手頃なものを求めているわけ
ではないだろう。ましてや、まだ母乳を与えられたこともないのだから、
自らが求めているのが母乳であることを知る由もない。そのような
幼児が何かを求めて泣くとすれば、それは何かが「手頃にない様態」
にあるからである。むろん、目の前にある(/ない)何かを求めて泣く
わけではない。泣いている幼児は、母乳をもらって初めて、何かが
「手頃にあり得る」ことを知る。また、手足を動かすことができる
ようになった幼児は、大人から見ると、何でも「目の前にある」物
に触れたがるが、そのように解釈するのは大人の視点であって、
幼児は、物が「目の前にある」とは理解していないだろう。
そうではなく、そこに「手頃にない物」があるから、それが
「手頃にあり得る」ことを確かめようとしていると考える方が
妥当ではないのか。「『手頃にあり得る』何かが確かめようもなく
失われる」こと、それが、目の前からなくなることであり、
その失われたものが再び現れることによって、その失われた
ものが「目の前にある」という様態で現れる。 これだけ書いても誰にも読まれない
本当に言葉や文字は無力だよな こう見えても本業の方で結構、忙しいのだ
ちょっと催したときに暇を見つけて便所に来るだけ >>53
こういう書き込みをいくら大量にしたところで、誰にも相手にされない
という事実を誰が見ても分るように証拠立てることを目的としている
とすれば、これらの書き込みはとても大きな効力を発揮していると
言えるのではないでしょうか?w >>57
底辺、久々に5ch見たおな(о´∀`о)!
うわーぷぴぴ!!!(о´∀`о)
底辺、うんちした。゚(゚´ω`゚)゚ 。 >>57
底辺には色づいて見えたおな(о´∀`о)! 底辺、思うおな。
言葉は考えることによって色づくってさ、紅葉のように。
そして、解釈を間違えて散ってゆく。
でも、また時が来たら色付く。
そうやって時間や状況の変化とともに意味合いが変わるのが言葉だおなって思う。
底辺にとって言葉は大事なものだった。 >>48
「あたら〜を」の「あたら」には「可惜」という漢字が当てられるので、
「あたら」が「惜(を)し」を表現しているような錯覚を生じるが、
少なくとも語源的には見れば、「あたら」が意味的に担っているのは、
失われた/失われることになる値(あたひ)の方であり、「あたら〜を」の
「を」の方が、失われた/失われる対象を指しており、「惜(を)し」
「を」そのものなのである。 誤:「惜(を)し」「を」
正:「惜(を)し」の「を」 >>48 >>65
ここで、私は従来の解釈を大きく外れた独自の突飛な解釈を披露している
わけではない。岩波古語辞典を見ても、対象を示すのに用いられる「を」
は、語源的に「(あたら)〜を」のように感嘆詞として用いられた表現で
あると考えられると解説してあったはずである。ただし、従来の国語学
や日本語学の解釈は、その感嘆として用いられる「を」が何を表現して
いるのかまで踏み込むことなく、「あたら〜を」から、本来は「を(惜)し」
という意味を担っていた「を」を省いた形で「あたらし」という表現
を派生させ、省略形の「あたらし」単独で「を(惜)しい」ことが
「暗示される」ことになったにもかかわらず、その表現の由来を
無視して、「あたら」および「あたらし」が、本来的に「惜しい」
という意味を担っていたと解釈してしまったために、「〜を」の
意味を解釈する契機が見失われてしまったのだ。 どうですか。
見事なものでしょう、私の便所の落書きは どうせなら「能(あた)ふ君」と書いてもらえませんか? 気づいてしまうと、もう気づかなかったことにはできないのです
それが言葉の力です たまたま便所を訪れた人に気づかせることに成功したなら、
便所の落書きはその役割を果たしたことになる
その意味で、言葉を発することや言葉を書きつけることは、
人以外の動物が自分の縄張りを示すために行う様々なマーキング
に似ている。しかし、人の言葉の場合、そのマーキングは自らの存在
を知らせるために行われるより、他者のマーキングに似せた
マーキングを行って、他者の存在に気づかせようとすること
をその大きな特徴とする。いわば、熊が樹木に残す印を真似して、
それを見た者に熊が存在すると意識させるようなマーキングの
仕方である。人の言葉は、他の動植物の場合の擬態に比せられる
ものなのである。 >>72
あなたが来たなら僕はやめるよ。
そろそろ足の洗いどき。
ここは僕にとってのトラウマだった。
病気を再発する道具の全てが揃った。 気づかせることに成功したじゃない。
単なる自己防衛の解釈を誤ったんだよ貴方は。
僕がされた全てはもう分からないだろう。
一生誰にも理解されない苦しみ、トラウマ。
そんな簡単に踏み込むな。 >>67
「を(惜)し」にせよ、「をかし」にせよ、日本語の「〜し」という形容詞は、
「〜を生じさせる」を表していると考えることができると以前に私は指摘した。
「もったいない」という意味で用いられた古語の「あたらし」の場合もまったく
同様である。「あたらし」は、語源的には「『あたら〜を(という状況)』
を生じさせる」ことであると考えられ、「『相応しく扱えばいいものを
(という状況)』を生じさせる」という意味で、現代の日本語で表現するなら
「もったいない」に相当するように用いられたのだ。ただし、「あたらし」
という形の表現が成立したのは、「あたら〜を」の「を」を省略して暗示する
ように「あたら」が単独で用いられるようになっていたからである。 昨日も今日も自己防衛。
普通にできたが、幻聴が再発して朦朧としそうだったからな。
僕はあんたらがここにくるなら5chをやめる。
もともと2chなんてやりたくもなかったんだよ。
5chは今の掲示板のことだが、すごく楽しかったし勉強になった。
書き込み見つけて、そこから逆上されて死ぬほど誹謗中傷されて、
貴方には分からんだろうな。
必要のないところで、悩まされ精神病に落とされる感覚が。
何がレイプだよ。 勝手にやってろ。
おいらをここの住人のような卑怯者に落とすな。 言葉は無力。
以上。
全員死ね。
消え失せろ。
俺は俺の夢を叶えるまで死なない。 そろそろお別れ。
僕は鉄のように冷たい心で雪のように溶ける。 あなたたちに拾われなかったら、
今頃死んでたかもしれない。
ありがとうございました。 Twitterでドイツ語と日本語の語呂合わせが流れているけど、
私は、ああいうのは全然おもしろいと思わない。
記述言語学者が、慣れない言葉を勉強するのにあの手の語呂合わせを
使うことを推奨していたが、言葉を学ぶ方法として最低に下らない
としか思わなかった。どうせ語呂合わせするならもっとよほど
おもしろいやり方があるだろうと思う。
例えば、ドイツ語で鞭を意味する"Peitsche"の発音は、そのまま
鞭で「パチッ」と叩く音を想起させるが、Wiktionaryを参照して
みると、スラブ語由来であると記載されている。
https://en.wiktionary.org/wiki/Peitsche
そこでリンク先のポーランド語の"bicz"の発音を聞いてみると、
https://en.wiktionary.org/wiki/bicz#Polish
「ビチュ」というように聞こえ、即座に日本語の「ビシビシしごくぞ」
という表現が想起される。そうやって連想をつなげていくと、
特定の言語の枠を超えてイメージのネットワークを形成する手がかりが得られる。 >>81
たしかにそうですね。
あと少しよろしくお願いします。
僕はだが、消えたい。
消えて無くなりたい。
もう修復した精神で自分で歩けるようになった。
僕はここでちゃんと書く気はないです。
書くなら現実で。 僕は研究者じゃない。
ただ世界は知りたかった。
世界を記述するには言語じゃ足りないから、ここに来た。 僕は記号的、数式的、多言語的になることによって世界を記述する。
抽象度が高くなって世界を知る。
言葉遊びじゃ心は満たせないね。 手がかりを得るというのは、「手頃(zuhanden)に」するということだ。 僕はさ、5chはもう必要ないと思う。
僕は、言語をやりたいんじゃないんだよ。
ごめん。
僕は世界を知りたい。
雲をつかむような。
蜘蛛が吐いた糸って、雨が降ると水滴を効率よく落とすために、横糸が消えてゆくんだって。
それが社会だった。 言葉遊びはさ、どうでも良いんだよ。
それ自体は全く持って無意味。
でも、誰かが笑ってやる気が出るなら、はじめて意味を持ったんだ。
学問的にはゴミ同然。 古語の「あたらし」によって「(不相応に扱われるのが)もったいない」ことが
暗示されるのは、例えば、現代語の「大事な」で「粗末に扱われるべきでない」
ことが暗示されるのと同じことである。
大辞林 第三版の解説
だいじ【大事】
A [3] 粗末に扱わないよう気をつけるさま。価値を認めて注意深く扱うさま。
大切。 「体を−にする」 「部下を−にする」 〔「お大事に」の形で、
相手の健康を祈る挨拶の言葉として、病床を辞去したり、手紙文の末尾に
書き添えたりする場合に用いる〕 語呂合わせというか訳を韻と両立させることだろうな。音声言語系のほうがなじみやすいだろう。表意系より。 現代語の「新しい」は、「あたら〜を」ではなく、「あらた(改)め」に
語源が求められる。「あらたし」が「あたらし」と混同された結果、
本来の古語の「あたらし」に置き換わったと考えられる。「もったいない」
という意味で用いられる「あたらし」は、「あたら(〜を)」という表現に
支えられているので、「あたら〜」という表現が、「大切な〜を」、
「貴重な〜を」、「大事な〜を」などの表現が代わりに使われることに
よってあまり頻繁に用いられなくなると、本来の意味で「あたらし」を
使っても、ますます、「あらため」と共通する「あらたし/あたらし」と
混同されることになる。混同を避ける明確化のために、「あたら〜」や
「あたらし」の代わりに「もったいない」が用いられることになれば、
「あたら〜」や「あたらし」は、用済みとなり、意図的に古典的な用法
としてのみ使わることになる。 権威という杖やロープは、それがたの(手置)みになって険しい途を楽に
進むことができる限りでは大いに利用すべきだが、どこに足場があるか
分らないような途を進もうとするとき、または途を切り拓こうとする
とき、それにたよ(手依)ろうとすることは危険であり、それを手にして
いなければならないことが、むしろ、足手まといになることもある。
暗闇のなかで手がかりを得ようとするなら、手探りで進むしかないのだ。 >>81
暇つぶしにあの手の駄洒落を見つけて喜ぶというのがまさしく、
ハイデガーが記述した典型的な"Das Man"の在り方である。 人間は言葉を発すれば空腹が満たされるようになればいいのに
そうすれば何の力もない言葉にも価値が生まれる >人間は言葉を発すれば空腹が満たされるようになればいいのに
言葉を命/御言/尊に変える手法を身に付ければよいのですよ? 「をす(≒呼び寄せさせる)」のが「みこと(命/御言/尊)」であり、
その「呼び声(を/Ruf)」を聞くことが「召命/berufung」である。
召命 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/召命
召命(しょうめい)ヘブライ語(カーラー)、ギリシア語(クレーシス)
ラテン語(vocatio religiosa)英語(vocation, calling)
ドイツ語(berufung)の訳語。
聖書の中に多用されている、神の恵みによって神に呼び出されること。
今日のローマ・カトリック教会では、狭義と広義の召命が存在する。 聞こしをす≒統治する
https://kobun.weblio.jp/content/きこしをす
出典万葉集 四〇八九
「天皇(すめろき)の神の命(みこと)のきこしをす国のまほらに」
[訳] 天皇であり神であられるお方のお治めあそばす国の... 招くように呼ぶ行為が「をく」という動詞によって表され、
その名詞化が「をき(≒呼び寄せ」である。
「をき」は、「をき・とり(鳥)」として「をとり(囮)」の語源と
なったと考えられるとともに、「をかし(≒呼び寄せを生じさせる≒惹かれる)」
の語源である。 そのうち古文の試験に出題されるようになる(←嘘)から、よく憶えておくように。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています