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東洋思想・東洋哲学・アジア思想・アジア哲学
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0001安西大樹垢版2020/03/14(土) 16:21:34.520
どこからどこまでが東洋なのかってことだ。

どこからどこまでがアジアなのかってことだ。
0050安西大樹垢版2020/05/16(土) 22:14:33.890
空海は西洋的要素ももっていた希有な存在ではあるけれども、まあ超人だの天才だのというのは、過大評価だろう。

純アジア的、純東洋的ではないところは、今読んでも価値はあると思うが。
0051安西大樹垢版2020/05/16(土) 22:17:46.670
ヒゾウホウヤクから引用してみよう。

秘密主よ、心は眼界の中に住せず、耳・鼻・舌・身・意界の中にも住せず、
見えるものでもなく、また顕現するものでもありません。
なぜかというに、虚空の相である心というものは、諸々の分別を離れており、
また無分別をも離れています。

ゆえはなぜかというに、性質が虚空と同じであれば、それはすなわち心と同じなのであり、
性質が心と同じであれば、また菩提とも同じなのです。
0052考える名無しさん垢版2020/05/16(土) 22:21:40.390
いかにも、この文言は、第八住心であるところの「一道無為心」にでてくる認識論なのだが、おもしろいのは、
この段階には、ドイツ観念論者は至っていないということだ。

ここに到達するには、ウィトゲンシュタインの登場を待たねばならない。

しかもまだ十のうち第八段階。

東洋哲学おそろしや、ともいえるだろう。
0053安西大樹垢版2020/05/16(土) 22:31:31.680
第9段階、つまりラス前の第九住心にはウィトゲンシュタインその他の分哲ですら、かする程度。

華厳経を密教的に解釈した、極無自性心というものは、巷によくある量子力学と仏教との対比で説明がつく。
不確定性定理、不可能性定理、不完全性定理などもいわば、このレベルにある。

仮名の世界、仮の世界、確かなもの、無矛盾なき世界、事と物とが重々に無礙しあっている世界という名の、かりそめ。
0054安西大樹垢版2020/05/16(土) 22:42:00.780
空海が到達した、第十番目の秘密荘厳心という住心は、いわば即身成仏のマンダラ的展開としてとらえれば、無限の可能世界をおもわせる。
クリプキやルイスなどと相関性があるだろう。
マルチユニバースや、M理論、可能世界論と密教哲学の至高とはリンクするのかもしれない。
0055安西大樹垢版2020/05/16(土) 22:43:53.420
しかし、それらもわたくしにとっては前-最終形真理であって、終わりではない。
そして流行の新実在主義からは何も得るものがない、ということもいっておこう。
0056安西大樹垢版2020/05/17(日) 14:55:08.050
仏語であるところの無礙とは、自由自在な関連交渉であって、いわゆるライプニッツのモナドのようなもの。
0057学術垢版2020/05/17(日) 15:01:29.680
仏教は人生哲学が限界。西洋の伝統のほうが作品としていい。
0058安西大樹垢版2020/05/17(日) 23:40:52.370
西洋哲学は過大評価。
0059考える名無しさん垢版2020/05/18(月) 12:02:34.760
!!!!!!!!!!!!!!!!!インドラ帝釈天パワーをしらんのかーーーーっっっっ
0060安西大樹垢版2020/05/18(月) 19:34:46.960
法然とは、諸法自然に、是の如くなるを顕わす。具足とは成就の義、無欠少の義なり。
薩般若とは梵語なり、古く薩云と云うは誑略なり。
具には薩羅婆枳嬢囊と云う。翻じて一切智智と云う。
一切智智とは、智とは決断簡択の義なり。
一切の仏、各五智・三十七智、乃至刹塵の智を具せり。

『即身成仏義』空海
0062安西大樹垢版2020/05/20(水) 00:25:43.350
非オッカム的世界はいくつまで可能なのか。
単なる物理学的世界に意味はない。
諸可能世界像をどこまで信用するか。

ともかくこういったことを超越しているのがインド哲学でして、ね。
西洋にはないわけです。
0064考える名無しさん垢版2020/05/25(月) 11:23:44.170
「このままが 不足とは どん欲な
このままは 変らぬ
佛ならこそ そのままと
呼んで くださる」(佐々木ちよの・ハワイ島生まれ)


こういのぜったいアジア的
0065考える名無しさん垢版2020/05/25(月) 13:59:16.780
ラーイオスは、子供を作るべきではないとの神託を受けた。もし子供を作れば、その子供がラーイオスを殺すというのである。しかしラーイオスは酔ったおりに妻イオカステーと交わり、男児をもうけた。

神託を恐れたラーイオスは男児を殺そうと考えたが、殺すには忍びなく、男児の踵をブローチで刺し、従
者に男児を渡してキタイローンの山中に置き去りにするよう命じた。

しかし従者もまた殺すには忍びないと考えたため、男児をキタイローンの山中にいた羊飼いに渡し、遠くへ連れ去るように頼んだ。

コリントス王ポリュボスとその妻メロペー(異説ではペリボイア、メドゥーサとも)には、
子供が生まれなくて困っていたため、羊飼いは男児を二人に渡した。

ブローチで刺された男児の踵が腫れていた為

、ポリュボスとメロペーは男児をオイディプース

(腫れた足)と名づけた。
0066安西大樹垢版2020/05/26(火) 14:16:26.330
東洋的アジア的といえば、ラム・ダスなどのヨーギーの書。
0067安西大樹垢版2020/05/26(火) 14:22:23.140
『BE HERE NOW』
それでも
あなたはやるべきことをやる 世界のなかで自分の人生を生きる
水は流れを下りつづける
あなたは薪を切り 水を運ぶ
あなたはやるべきことをやり
心は働き続け 感覚器官もその仕事をこなし続ける
だが あなたはこだわらない
すでにあなたはろうそくの炎の前にすわり
自分とろうそくの炎しかなくなってしまい
最後には 自分の思考や「酔いどれ猿」の独裁から
さらには自分とろうそくの炎というような思考への執着から
わが身を救いだしたのです
0068安西大樹垢版2020/05/26(火) 14:26:38.580
『BE HERE NOW』

DRAMA IS DRAMA IS DRAMA IS DRAMA
DESIRE IS DRAMA
BREATHING IS DRAMA
EMOTIONS ARE DRAMA
THOUGHT IS DRAMA
ALL FORM IS DRAMA
IT'S ALL PART OF THE DRAMA
0069安西大樹垢版2020/05/31(日) 11:46:30.810
なにが東洋的かといえば、道元なんかのいう、大地有情同時成道、そんなかんじ。

さて、ウイルスに仏性はあるかい?

ウイルスは、有情か無情か。

しかし、東洋思想においては、どっちでもよい。

すでに悟り済みじゃ、という究極のイージーエンライトンメントがある。
0070安西大樹垢版2020/06/01(月) 11:21:23.210
そっかむしこ
足下無糸去
そっかうんしょう
足下雲生
これこそアジアじゃ東洋思想じゃ
たつとりあとをにごさず
きんとうんにのる
これは西洋哲学にはない発想じゃろ
ZEN
0071安西大樹垢版2020/06/03(水) 11:49:32.370
西洋的なものをことごとく排した雨宮さん。
ダンテス・ダイジともいうが、どうだろう、ひどく東洋・アジア的でときどき投げ棄てたくなるのだが、それほどにまで愛おしい。


そうはおもわんかね?

西洋かぶれの方々は。
0072安西大樹垢版2020/06/03(水) 11:55:02.640
私はどのようなものの中にもいない
そのものが どれ程激しく
真実となって打つものであっても
それが限りなき愛着であり
私のすべての愛情がそこにそそがれようとも
それは私ではない
むしろ私は歩き続ける
どのようなものの中にも私はいないで
私はただ歩き続けている

『絶対無の戯れ』ダンテス・ダイジ
0073安西大樹垢版2020/06/03(水) 12:00:39.760
やせ衰えた聖者の横を
金色のロールスロイスに乗った
極道息子が通り過ぎる
聖者にはロールスロイスは見えず
極道息子に聖なる光は必要なかった
翌朝聖者の死体が路上にあった
かつては聖者は極道息子であったし
極道息子は遠い未来に
ゴルゴダの丘で十字架にかかって死ぬ


『絶対無の戯れ』ダンテス・ダイジ
0075安西大樹垢版2020/06/03(水) 12:34:51.680
ダイジ「うん、それで、その冥想院の活動っていうのに関わるんだが、もしね、そういうものに
情熱、まだそこに何かあるんじゃないか、それをやったら何かあるんじゃないかと、それがま
だ吹っ切れない人はね、それに向かって進めばいい。ところが進むことさえしなかったらどうし
ようもないじゃないか。え? 一人で妄想かいてるだけじゃないか。それに向かって進むってい
うのは、それをほんとに熱烈に欲望して、そしてそれを何としても達成しようとすることさ。
でも、それも命がけだぜ? 君たちはいつ死んでもいいくらいもうすでに生きてるんだから。な
ぜか?だってそうじゃないか、こんなもん、ハイデガーっていう、あの程度の哲学者だってさ、
明瞭に言ってるじゃないか。人間っていうのは生まれた瞬間すでに死ぬのに十分なだけ生きてい
ると。当たり前の話じゃないか。君たちが生きているそのことが死ぬに十分だってことさ。そ
して、もう一度言おう、永遠に永遠に永遠に永遠にこの宇宙が生まれ変わり死に変わり生まれ変
わり死に変わり生まれ変わり死に変わりしたとしても、君たちがもう一度現れるってことは絶対
にないんだ。ただ一回きりを君たちは生きているんだ。で、君たちは何か実験したいと思う。こ
の世に実験なんかありゃしない。君たちは何かを試したいと思う。この世に試すなんてことは
ありゃしない。みんな真実だ。もしそれに全力をかけなけりゃさ、死んでから閻魔大王に飯代を
請求されるよ。」
0076安西大樹垢版2020/06/03(水) 13:02:59.690
東洋と西洋との境でもあり、純アジアではない、アジアの『コーラン』

それに関しては井筒俊彦の著書がおもしろい。
0077安西大樹垢版2020/06/03(水) 13:07:09.440
『コーラン』における天国と地獄の描写。
根源までさかのぼってみると、前にも申しましたように、巫者的な意識に行き着きます。
初めは鮮烈なイマージュが、礫を投げるように意識にぶつかってくるのですね。
それをそのまま投げ出していく。
ぶつかってくるイマージュの石、そんな感じです。

ムハンマドが預言者になってはじめのころの預言です。
彼の意識は巫者的に緊張しきっている。
強烈なイマージュが渦巻き流れる世界。

『コーランを読む』井筒俊彦
0078安西大樹垢版2020/06/03(水) 13:12:54.910
商人的メンタリティや実学的メンタリティが核にあるのが、アジア的、ということではなかろうか。

損得勘定的思想、功利、反功利が顔をのぞかせる諸子百家的思想。


中国からアラブにかけてのメンタリティって実はひどくビジネスライク、自己啓発的だと思うな。
0079安西大樹垢版2020/06/04(木) 12:41:07.890
菩薩の天冠に五百の宝華あり。一々の宝華に五百の宝台あり。
一々の台のうちに十方諸仏の浄妙の国土の広長の相、みななかにおいて現ず。
頂上の肉けいは鉢頭摩華のごとし。肉けいの上において一つの宝瓶あり。
もろもろの光明を盛れて、あまねく仏事を現ず。
余のもろもろの身相は、観世音のごとく、等しくして異あることなし。

『観無量寿経』
0080安西大樹垢版2020/06/04(木) 23:18:29.190
最高ブラフマンに帰一するという点がインド的。
0081安西大樹垢版2020/06/05(金) 15:23:31.360
ビッグバンと天地創造のジレンマなど東洋思想には通用しない。
最初からわかりきっていて、感じているのだ。
考えるのではなく。
0082安西大樹垢版2020/06/06(土) 23:23:53.010
法華経にはドラゴン少女が悟りに達する話がでてくる。
男尊女卑ばりばりのインドにおいて、このくだりはどうとらえるべきか。
0083安西大樹垢版2020/06/10(水) 20:44:51.620
被(toukiteki)被(被投企的)投企
0084考える名無しさん垢版2020/06/11(木) 12:08:23.040
インドはカースト制度が鉄板なので平等性を謳う仏教が生まれたとか。
中国は下克上が激しかった時期(ある意味チャンスは平等)、一定の秩序による社会の維持を欲して徳を基本にした身分制度を認容した儒教が始まったとか。
0085安西大樹垢版2020/06/11(木) 16:17:38.710
生物㌩=生存機械
0086安西大樹垢版2020/06/13(土) 22:06:37.470
>>84
なるほど。

そこに注目するとおもしろいな。
0087安西大樹垢版2020/06/26(金) 11:15:57.120
時間論に関しては東西においてだいたい同じ。
たとえば、


普通に時ということを過去、現在、未来という風にいうて居るが、それはよくない。
時はすべて現在においてある。過去というても、現在においての過去である。
現在は現在の現在で、未来は現在の未来である。時はすべて現在においてある、ということを
アウグスティヌスはいうて居る。
これは達見であると思う。時というものを過去から未来に流れてつかむことの出来ぬものとのみ考えただけでは時の真相はつかめない。

時は即ち変ぜないことを考えなければ、時というものは捉えられない。
さてそんならば、時は変ぜないか、変ぜないとすれば時というものはないことになる。
今いうた様に、時は過去、現在、未来が何等かの意味において結びついて居なければならん。
しかし、そう考えて来ると時はむずかしくなる。
『西田幾多郎講演集』
0088安西大樹垢版2020/06/26(金) 11:21:48.250
近来の物理学においては、時というものについての考えが私の考える様なものになった様である。
即ちアインスタインの考えなどが私のいうような考えに近づいて来た。

アインスタインでは誰もが一つの時を持つと考えるようになったので、時の概念はその場所その場所によって異なる。
時は場所において変わる。
これが相対性原理の時の考え方である。
『西田幾多郎講演集』


哲学が科学者に示唆を与えることはよくあるが、西田がアインシュタインに影響を与えたわけではないにせよ、西田の哲学の方が先にひとりひとりの時の場所に気づいていたのは確かだろう。

物理学者は簡単にヒーローになれてしまうが、哲学者はそうはいかない。
0089安西大樹垢版2020/06/27(土) 14:00:07.540
いきなりの、コインシデンティア・オポジトールムのことば。

西田幾多郎講演集 岩波文庫

クザーヌスの話だ。

反対の一致。

東洋・アジア哲学ならばあたりまえにこの発想が、のちに微分積分学という方向へ向かう。

東洋ならば、そこにはむかわない。

なぜなら向かえば逆に袋小路行きだということを肌でわかっていたからではないだろうか。

なにもかも細分化してゆくことで、なにもかもを発展させようとする欲望のむなしさ、そんなものは西洋には関係がない。
0090安西大樹垢版2020/06/27(土) 15:03:14.560
西洋歴史の時代は、ギリシア時代、中世キリスト教時代、現代と大きく分けられるがギリシア時代はギリシア時代としてまとまった文化を持ったものであり、ギリシア人はその中で生きていた。
中世ではキリスト教が中心になりその中のに総ての人は生きていた。

中世時代の人は、社会を考えても、現今のヨーロッパ人が考えるようには考えなかった。現代はすべてを現代的に考えるのであるがまたこれは変わって行く。
つまりこれが歴史である。
歴史というものが時代から時代へ変わって、その時代時代で一つの現在が考えられて行く。
例えば東洋の方で考えてもそうである。
日本の昔の社会でもその初めに神話が有り日本の特別の社会があmとまっていた。
それに由って主観客観が統一され其処から総てのものを考えていた。それが変わって歴史が移って行った。
それが他の文化と混るときには我々の生活の足場が動き、違ったものが出て来る。
即ち世代から世代へと変わってゆくのである。

『西田幾多郎講演集

0091考える名無しさん垢版2020/06/27(土) 17:17:06.290
質問させて下さい。私は頭が悪く哲学や現代思想やら言語論理など正確に把握できない大バカ野郎なんですが。

長年、法華系日蓮系の3つの宗教団体がから勧誘されていて、私は宗教には一切関わらないタイプなのですが
彼らの(信者)の言葉に矛盾を感じまくっています。
要約
信者「仏法によって貴方は幸せになりますよ」
私「仏教なら私も好きですよスッタニパータやらマハーパリニッバーナなんかを読むの楽しいですよね」
信者「いえ!末法の時代には(現代らしい)にはお釈迦さんの仏法は意味が無いのです!」
私「え?仏教なのに?それはどういう訳ですか?」
信者「日蓮大聖人は末法においては法華経も含む全ての仏法は意味が無くなる。と言っているんです」
私「でも日蓮さんって法華経を喧伝していたお坊さんですよね?」
信者「そうです!法華経が1番大事なんです!法華経の多宝仏が日蓮大聖人に『法華経を含む全ての仏法は意味が無いと言え』とサジェッションしたのです!」

と、こういうやりとりで、別に信者さんと会話を続けようとか、批判しようとか言う気は無いのですが
こういう状態って哲学的とか言語学的には何と言うのでしょう?
信者さんが熱心で、もしかしたら心の病気かもしれませんが、信者さん自身の事では無く
信者さんの行動原理が惹起した、このシチュエーションって、どう言えばいいんでしょう?
分かりにくい書き方ですみません。知性も教養も低い私ですが
こう言うのを「パラドクス」と言うのでしょうか?ご回答、よろしくお願いします。

ここまで読んで頂いてありがとう、ございます。最後に実際にあったジョークをお送りします
信者「日蓮大聖人への信心を持てば、あなたは幸せになれますよ!」
私「いや、私は既に、このままで十分に暮らしてますよ、、、」

信者『いいえ!あなたは幸せではありません!』

(突然の第三者の介入によって、不幸せ認定された私に、どうか御回答よろしくお願いします。)
0092考える名無しさん垢版2020/06/27(土) 18:05:16.070
人に不安感を与えて自分達の宗教に引き込むのはカルト宗教の手口だと聞いたって言いなさい。
そして二度と来るなと言って相手に喋る間も与えず扉を閉めなさい。
0093安西大樹垢版2020/06/27(土) 18:40:00.900
法華経を含むすべてのお経には意味がない。

それこそが、まさに「空」じゃないか。

見どころあるぞ、その信者。
0094安西大樹垢版2020/06/28(日) 11:48:33.020
相手とのあいだの話題というのは、じつはその人の頭の中の知識から出て来るものではないのですね。
これは自分の中から出て来るものではなくて、むしろ相手とのあいだがかもしだすものなのです。
たとえば、話題の豊富さは、私ひとりではきまらない。
私のほうからどんどん話題を出せる、話しやすい相手と、話題を出しにくい相手とがある。
何か気詰まりな相手というものがある。
その人とのあいだで、何となく話題がでてこないような相手というものがあります。

たまたま二人の「あいだ」が話題を生み出さないような「あいだ」になってしまうということなのです。

あいだというのは意味を生み出す場所だということを申しました。
意味というのは英語でいうとmeaningです。
ところでこのmeaningのmeanは元来、「これこれのことを言いたい」という意味です。

何かをミーンしているというのは、その何かが心の中にある、自分の言いたいのは、そのことだ、ということなのです。
つまりミーンとかミーニングとかいうことは、いわば話題の源泉みたいなことを指しています。

『自分ということ』木村敏
いかにも東洋的。
0095安西大樹垢版2020/07/07(火) 11:23:02.120
境界はどこか――個体と集団

ところで「生きている」といえるのは個々の有機体だけではありません。
すべての生物はさまざまま規模の群れを形成して、共同で、あるいは集団で生きています。
そしてこのことは、鳥類や魚類、あるいは整然とした「社会」を形成するアリやミツバチなどの昆虫だけにいえることではないのです。
自然に生育する植物でも、やはり同種個体が寄り集まって群生しています。
それと同じように人間も、社会・共同体・家族などの集団を形成して生きています。

これらの生物群を観察すると、個々の個体が各自の有機体のそれぞれ特殊な事情に従って、
それぞれの環境とのあいだで個別主体的な行動(たとえば性活動や摂食行動)を営んでいるだけでなく、
群れ全体としても全体的な環境とのあいだでつねに相即を保ち、「集団主体的」ともいえるような統一的な指向性に基づいた行動を営んでいることがわかります。

『からだ・こころ・生命』木村敏 講談社学術文庫
0096安西大樹垢版2020/07/07(火) 11:31:29.030
人間の場合、これはえてして権勢欲と結びついて、ファシズムやナショナリズムのような全体主義への方向をとりやすいし、
もっと無統制な群集心理の暴発の形をとることもありますけれど、一方では今回の大震災で見られたようなうるわしい相互扶助の形を取る場合もあります。
また、個人がそこで集団全体の志向性にすっかり同調し、それに身を任せてしまう場合も、意識的・自覚的に反体制的な行動を選ぶ場合もあるでしょう。

しかしいずれにしても、個人のそのつどの行動を支配している志向性がどの程度までそれぞれの個別的主体性に由来し、
どの程度まで全体の集団的主体性に由来するのか、それを明確に判断するのは大変むつかしいことです。

※これは一九九五年一月七日の阪神・淡路大震災を指していますが、二〇一一年三月一一日の東日本大震災についても同じことが言えます。

『からだ・こころ・生命』木村敏 講談社学術文庫
0097考える名無しさん垢版2020/07/07(火) 14:36:28.930
せきじつはたいめんするもへだたることせんり
にょこんはばんりなるもいよいよあいしたし
いしくきたりえるびたんのちり
むしゅのひときたっておのはじめてしたし
びゃっこりぬ しんすなわちぶつ
りゅうぜいこげん しゅちゅうのひん
みすからへうをたずさえゆきてそんしゅをかい
かえってさんをききたりてしゅじんとなる
ばんりにあいみてつねにたいめんし
ししんりょうりにせいしんあり
0098考える名無しさん垢版2020/11/22(日) 12:12:40.100
>>97
何それ、朝鮮人の脳内ワールド?
0099考える名無しさん垢版2020/11/22(日) 16:28:57.590
日本・中国・朝鮮

「儒教」という共通の精神基盤を持っている
0100完全無???垢版2021/01/03(日) 13:48:39.360
完全無 なんだろうそれは、
安西大樹 なにものだそれは

完全無とはむずかしい。

東洋的でもないだろうよ。

なにものだ、安斎大樹とは。
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