次世代の哲学(共産主義以外)
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似たようなスレがすでにありますが、こちらでは共産主義以外の哲学について
考えていきたいと思います やはり、物事の本質をわかってないと、良い生き方はできない
そのために哲学は非常に大事 >>77
まず、他人の脳移植が成功したときに、科学的実在論を認めるかどうか
次に、自分の脳移植が成功したときに、科学的実在論を認めるかどうか
この二段階ありそう
後者でも認めないということもあり得るんだろうか
また、前者で認めないとすれば、それは哲学的にどのような意味があるのか?
もちろん、後者で認めない場合にその哲学的意味はあり得るのかというのもある 古代ローマ帝国には、コンクリートで舗装した道路があり、アーチ構造の壮麗な橋があった、
しかし、中世ヨーロッパでは土木技術が失われ、土の道路に、木造の橋へと退化した。
交通インフラ技術が衰退した根本的な原因として、「人の往来が少なくなった」ということが挙げられる。
ローマ帝国の時代に、グローバル化の反動で伝染病が蔓延したことと無関係ではない。 哲学者は、ユングの類型でいえば「内向的思考型」の人が多い。
宗教哲人みたいなタイプなら、「内向的直観型」だろう。
一方、現代社会で花形とされてきた人間像は、「外向的思考型」だった。
でも今は、むやみに外に出たがったり、人と話したがったりする人間が、困った人とされつつある。
この状態が長引けば、社会が求める人間像が変わる可能性がある。 外に出るっていうのは刺激を求めているってことだからね
外に刺激を求めるのは、コロナがあってもなくても、いずれ行き詰まっていくと思う
それは偶然に頼った他人任せのやり方でもある
まず自身の精神のあり方を自身でコントロールして、何が良い状態であるのかを自分で
方向付けていくことが、閉塞していく世の中において堕落せず、狂わずに生きていくために不可欠なんだろうね
それはまた本当の楽しさというのは、どこにあるのかということをわかることでもある 哲学を求めるというのは、結局この偶然に頼った方法を嫌っているってこと
何が良い生き方なのか、自分で理解し、自分の力でそれを実現していきたいという想い
それが哲学を求めることの根底にある
本質的に、偶然と知性はまったく両立しない
知性は偶然とまったく相容れない
したがって、知性的である人ほど、哲学を求めることになる ガラクタって単語使ってるやつは気違い
自分で思考ができないやつ どうも、知的な人たちは下方向の合理がおろそかになりがちなんだね
これは理想なんかの上方向の合理と同じ程度に重要
この下方向の合理を頭の悪い奴に取られると、社会が大幅に劣化する
これがポストモダンで起きて、社会が大きく劣化した
知的な人たちは、上方向の合理と同じように下方向の合理にも目を配らないといけない 下方向っていうのは、意識の再帰を積み上げる土台方向ってことかな
つまり、意識の有りようでは動かせず、甘受するしかない部分
そして、非常にきめが細かく、それぞれが異なるので注意して見ないといけない
上方向は意識の再帰を積み上げる方向なので、ある意味意識の持ちようでどうにでもなり、またそれは宙ぶらりんなので
多くの人が共有できる
しかし下方向はそうではない
それは多くの人で異なり、意識の持ちようで動かすことはできない んまあ、
こうやって哲学徒らは議論しながら、無駄な時間を過ごしているんだよ。
人生って、ホント短いですよ。
難しい過去の論文を、自分がいかにも知ったか論文作成したとしても、もう誰も参考文献にも興味を示さない時代。
あんな難関な文章を、いくら簡単英語翻訳から知ったように解釈しても誰も興味ない。
てか、もう翻訳依頼も来ないでしょ?
来たとしても、あんな意味不明な文章を日本語訳するの厳しすぎます。 既存の哲学の世界観が不毛すぎる
そしてそこに膨大に積み重なったコンテキストを理解するのがまさに時間の無駄
世界観なんていくらでもあるのに、なぜ既存の哲学の世界観に限定される必要があるのか?
科学的実在論が正解となった時点で既存の哲学はいったん白紙に戻った方が良い 科学的実在論が正解になれば、
アナログ-デジタル認識論でほぼ間違いないから、
そこから、自由とか合理とか、そのあたりのことを非常にうまく説明できるんだね
それが新しい哲学の出発点になれば一気に哲学は進歩するだろう 説明のための哲学なんてのが古臭い
ここから生成変化するための概念、視点とは何か
哲学が新しい出発点そのもの 科学的実在論が正解になれば、概念、視点はある程度定まるでしょう
概念、視点が定まらないと、新実在論みたいにトンデモと紙一重な感じになる
これでは、結局何の役にも立たない
まず、科学的実在論が正解と決まらないと先には進めないと想う まあ、新実在論と科学的実在論の両方に対してうまく適合するのが、アナログ-デジタル認識論なんだね
まずこれが正解で間違いない 哲学に正解はないでしょ
数学と違って過去のものを否定して成り立ってんだから
ただ今この時に使えるか使えないか
それも将来は否定される運命にある そうだ
すでにこの世にいない、過去の哲学者に向かって「反論」する
それが哲学者というもの 哲学の時制は現在しかありえない
過去を説明するためでも未来において通用するものでもない 古代ギリシアからの哲学全史を人工知能に詰め込んでからランダムに命題を提示してもらう
人間はそれを解くだけ >>102
そんなの、とっくにやってる
「現代の哲学研究は、コンピュータのデータベースを抜きにしては考えられない」という話を聞いたのは、20年前 過去から未来に一直線に伸びてる線
を現在という点において斜めに曲げてしまうの力が哲学だろうか
そうなると哲学は時間との対抗になる
斜めに伸びる線とは夢中になると時間を忘れるそんな状態か 時間の無い世界に広がるのは
幾何の世界、パターン、曼荼羅みたいなもんだろうか
過去⇔未来を光に例えるなら哲学は斜めに設置した鏡
それにより形の世界に光が満ちる
裏を返せば光の世界に形が満ちる
逆に光と形を先に選べば鏡が決まる 科学的実在論が確定すれば、哲学も自由に議論できるようになる
絶対的な視点が確立されるので、そこから議論を自由広げることができる
現状では視点を定めることすらできないので、伝統的な哲学の文脈に従うしかなく、それが正しいのか、いや
それに意味があるのかどうかすら不明という状況だからね
科学的実在論の確定は、例えば脳移植なんかが成功すればそれで実現するでしょう 科学的実在論が確定しても形而上学は議論できる
というよりも、何かが確定しなければ形而上学は議論できない
何も確定していなければ、何も議論できない 想像力足りないのでは?
脳が意識を規定するという意見が科学的に妥当性を持つだけで、それで実際にそれが意識を規定していることは確かめられない領域だよ。分からないかなぁ? 例えば、脳移植が成功した後も、それは確かめられない領域なのかな?
例えばの話で悪いけど それに成功したとしても、もともと"おそらく脳が意識を規定しているというのだろう"という仮説性に基づいている。というより、もとより確かめられない領域だからこそ仮説と検証を行うわけ。
だから、世の中に遺伝や言語、社会が我々の意識を規定するなんて変奏形もある。大昔には神が意識の根拠だった。脳はそれの現代版。 結局はすべてが再帰だから、根源に進むほどすべてが解体されてしまう
犬の知能レベルまで解体した段階では、何が正しいとか絶対とかそんなものはもう意味をなさない
この再帰のレベルとそこで認識される基準をよりダイナミックに連関させることが必要なのかもな
固定的な基準では、これに対応できそうもない しかし、このダイナミックな連関の中で、科学的実在論が付け入る隙はありそうな気がするな 自意識が成り立つレベルでの認識において、その意識が脳に付随しているということは
脳移植が成功したときに、確認されるんじゃないだろうか 自分の、自分だけの意識から確認すればいいのに。君に足りないのは知恵でも思考力でもなく忍耐力だよ さらに、コンピューターのユーザーインターフェースで、意識下で直接やりとりできるようになればどうだろう?
意識に直接映像を送り込むインターフェースや、意識の思考を読み取って命令できるインターフェース
これなんかも、かなり強力な科学的実在論の根拠になりそうだが 堀江貴文「僕にとって絶対的に"悪い人"の基準」
https://toyokeizai.net/articles/-/348398
時間を奪う人が悪い人か
この人にとっては、それが核なわけだな
まあその核を自分で認識しているのは、良いことなんだろうけど
しかし非常に極端だな まず、外で刺激を最大限に求めたいのがホリエモンなんだろうね
だから、あれだけ自粛に反対する
その貪欲さを邪魔するのが、自粛であったり時間を奪う人であったりする
しかし、そういう生き方をするには、他人のリソースを獲得できる力が必要なんだろうと思う
やはり、持続可能な方法ではないと思う >>112
分析命題と総合命題の区別の有無も、そうした再帰の解体の程度によって決まるのかもな
意識の再帰を解体していけば、やがて分析命題と総合命題の区別は付かなくなる
しかし、これはすべてのことに当てはまるということになるな しかし、まず分析命題と総合命題の区別が付かなくなり、さらに意識の再帰を解体していくと
分析命題そのもの、総合命題そのものも意味をなさなくなる
その失われていく順序には意味があるだろうと思う 分析なんちゃらとか科学的なんちゃらとか
言葉遊びでないことを証明したいなら
今もう既に何かに影響してるか
今ある問題に対してそれでアプローチできるはずなんだよね
そへんの具体的な話が無い時点で胡散臭い 見えてくるものもいろいろあるけどね
例えば、純粋なデジタル系での疑似乱数の危険性とか
これはAI開発においては非常に留意すべき点だと思う 純粋哲学としての(純粋)数学を超えるものはない。
次世代の哲学として「応用哲学」を薦/奨/進めたい
純粋哲学(純粋数学)と応用哲学の二本立て。
応用哲学(応用倫理学ではない)は、すでに応用哲学会が存在する。
「文句あっか」。これが応用哲学の態度であるw
参考文献
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/46/1/46_69/_pdf/-char/ja 論理系内においては、そういうことになるね
ただ、分析哲学がそのままではうまくいかなかったわけで、論理系外との関係についても
考えていかないといけない 哲学村での勢力争いの話はいいから
具体的に例えばコロナ関連でその何たら哲学からして
何か言えることはないの? >>126
コロナによる自粛によって、外からの刺激がますます少なくなることが予想される
ホリエモンはこれに大反対してるが、IT業界の人は概ねそちらに行くことに抵抗はないんじゃないだろうか
アナログ-デジタル認識論では、外からの刺激、つまり外からの乱数が少なくなるほど、自己決定性が高まり
したがって、デジタル系内の疑似乱数、つまり疑似不合理を排除していかないと、純度の高まったデジタル系が発散してしまうということを予想している
つまり、合理への収束が一段と進み、非合理に対する風当たりはますます厳しくなるという今の方向性がさらに進むでしょうね しかし、乱数、不合理は人間に多大な苦痛をもたらすので、人類のこれまでの文明においては
たえず、この乱数、不合理を減少させる方向に進んできた
乱数、不合理は人間に喜びとモチベーション、エネルギーも提供してくれるが(ホリエモンが求めているのはこれでしょう)、しかしそれを差し引いても、
人間にとってはそれがもたらす苦痛に耐えることはできないんだね
したがって、コロナの有無にかかわらず、この合理への収束の流れは数千年続いてるわけで、それが変わることはないですね コロナが破壊したものこそ合理への収束では
とすれば非合理な自己へ収束するのでは 外側からの不合理が小さくなっても
人間には、アナログ器官としての肉体が付随してるから
その不合理に対して人間のデジタル系の疑似不合理はバランスするでしょうね
このバランスが重要で、ここが崩れると良くないですね
ただし、全体としてバランスを維持しながら、意識の内外の乱数、不合理を小さくしていくのが、人間の苦痛を軽減していく望ましい方向ですね 結婚が無意味かな
この結節点みたいな部分が現代においては無理すぎる
結局、生殖を私的にやることで、格差が世代間に積み上がるというプレッシャーが膨大になるんだよ
自分のことだけなら我慢できても、それが子孫にまで連鎖していくわけで、そうなると
格差の上位にいることが至上命題のようになってしまう
しかもそこに至るのが性欲というどうしようもない部分なので、かなりめちゃくちゃに破綻してると思う 最悪の予想が形成されている時期に安く買い
良い事実を見てから買うものに高く売りつけていく
株の良い所は在庫費用かからず腐りにくいところであるからそれを味方にしたい
これが真に熟練したトレーダーや販売者の仕入れ力と行動原理である
小さくとも安定的な利益を得ることを極めなければならない
それが正しくできれば、そのアプローチは時に大きな利益をもたらしてくれるはず ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています