>「池には楲(いひ)といふものを立てて、打樋(うちひ)を構えて水を出せば こそ、池はたもつ事にてはある」(今昔三一ノ二二) 0392考える名無しさん垢版2021/02/13(土) 13:36:13.740 日本語における「い」と「ゐ」の関係を、言語学がしばしば、そうするように、 それぞれが異なる作用/動作/様態を想起させる発音上の弁別性の存在、および 混同によるその弁別性の喪失と理解することは不十分である。また、 私自身が既にそうしたように、ロマーン・ヤコブソン流に「い」と「ゐ」を 「パラディグマティックな選択肢」の問題として提示するだけでも十分ではない。 というのも、「い」と「ゐ」のそれぞれが想起させる互いに異なる作用/動作/様態は、 「い」と「ゐ」の適用上の混乱を経て、その発音上の区別が失われ、「い」に まとめられた後になってさえ、そのいずれかの作用/動作/様態を想起させる ように「い」が発音されるとき、「い/ゐ」として、互いに影のように付きまとって いるからだ。「い」と「ゐ」の発音上の区別がされなくなり、単に「い」と 発音されても、それが「外に出ていく様態」を想起させる場合には、その 影として(「ゐ」によって想起されていた)「外に出るようとする動きを抑える様態」 の想起が伴い、逆に、「外に出るようとする動きを抑える様態」を想起させる 文脈で用いられる場合には、その影として(「ゐ」と区別される「い」によって 想起されていた)「外に出ていく様態」の想起が伴うからである。 つまり、単に弁別性による区別によって言葉の表現を明確に規定しようと することは、喩えるなら、風景をそこに認識される家、木、道などの要素 のCG画像の合成に変換してしまうようなものである。 0393考える名無しさん垢版2021/02/13(土) 18:13:14.160 Philosophisch gesinnt sein. – Gewöhnlich strebt man darnach, für alle Lebenslagen und Ereignisse eine Haltung des Gemüts, eine Gattung von Ansichten zu erwerben, – das nennt man vornehmlich philosophisch gesinnt sein. Aber für die Bereicherung der Erkenntnis mag es höheren Wert haben, nicht in dieser Weise sich zu uniformieren, sondern auf die leise Stimme der verschiedenen Lebenslagen zu hören; diese bringen ihre eigenen Ansichten mit sich. So nimmt man erkennenden Anteil am Leben und Wesen vieler, indem man sich selber nicht als starres beständiges eines Individuum behandelt.
Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 1, S. 719. http://www.zeno.org/nid/200092361550394考える名無しさん垢版2021/02/14(日) 10:57:33.920>>392 それがどのような「もの/こと」であれ、「どのようにか現れ(≒"being around")る こと」によって識別される「もの/こと」の、その「どのようであるか」を指示する 弁別性は、そこに現れない不在の弁別性を常に「アウラ」として纏って知覚される。 0395考える名無しさん垢版2021/02/14(日) 11:02:25.650 明確に定義されていない表現を用いてはならないとする命令は、 その「アウラ」を切り捨てること、つまり、「解釈の次元」が 広がる可能性をあらかじめ排除することを目的としている。 0396考える名無しさん垢版2021/02/14(日) 14:23:38.400 いかなる弁別性も、そこに現れない不在の弁別性を常に「アウラ」として 纏って知覚されるので、哲学的な省察は、それをメタ言語的に記述しよう とする試みを不断に繰り返すことになるが、そのような記述の試みに対して、 しばしば向けられる、「物事はそんなに単純ではない」という常套句に よる批判は、大抵の場合、より洗練された記述の試みの要請ではなく、 そのような記述の試みを拒絶する慣用的な言葉遣いへの差し戻し命令として 意図されている。 0397考える名無しさん垢版2021/02/15(月) 12:01:01.260 北海道の、かつては胆振(いぶり)支庁と呼ばれた胆振(いぶり)総合振興局の 「胆振(いぶり)」という名称は、Wikipediaによると、 >斉明天皇のころ阿倍臣が胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷(えみし)たちを饗応したという故事にちなむ とされ、デジタル大辞泉の解説によると、 >[補説]アイヌ語の地名を、明治時代に「胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人」〈斉明紀〉によってあてたもの。 と説明されている。 私は、「胆振鉏(いふりさへ)」と呼ばれることになったアイヌ語の地名がどのような発音であり、 何を表現していたのか知らないが、「胆振鉏」は、万葉仮名流に読めば、「いふそ」である。 さらに、「鉏」が「さへ」と読まれることから、この「鉏(さへ)」は、日本語としては、 平安時代に「道祖」という言葉に当てられた、「さへのかみ(塞の神)」という読みにおける 「祖(そ)」≒「塞(さへ)」、すなわち、「遮(さへぎ)るように高く積みあがっている」様態 を表すものとして解釈されたものと理解することができる。「胆振」を「いふ」と 読めば、既に見てきたとおり、沖積土の堆積した場所と解釈することができ、それが 高く積みあがった様子を表現しているのが、「胆振鉏(「いふ」の『さへ/そ』)」である という解釈が成立する。この地域の風景がそのようなものに見えたであろうことは、 この地域で起きた土砂崩れに関する災害についての報告書を見ても裏付けられる。 https://jsaf.info/jishin/items/docs/20190320114657.pdf0398考える名無しさん垢版2021/02/15(月) 12:08:59.910>>384 私は古典ギリシア語はまったく読めないので、原文を参照して表現を検討する ことはできないが、ホメーロス、呉茂一訳、『イーリアス』、p.116に 出てくる次のような表現が伝えようとする感覚も、中国語でウニが「海膽」と 呼ばれるときに表現されるものと意外と似通っているのではないか、 という気がする。 >先だってこの誓約を犯し、攻めかけた者は、ちょうどこの酒さながら、 自分の脳味噌を、地面(じべた)に流せよ< 0399考える名無しさん垢版2021/02/15(月) 13:39:57.620 「なが(流)れ」の「な」が、中国語の「羅」に対応して、 フランス語にするなら、《entrelacement》を表現し、「かれ」は、 日本語の古語の「か(離)れ」に対応して、《désinvolture》を表現するように、 「いか(怒)り」も、「『い/ゐ』+か(離)り(≒《lasser aller》)」を表現しているように思える。「いか(怒)り」は、「込み上げてくる」ものであるが、 岩波古語辞典には、「B水面が盛り上がる。あふれ出る」を表現するように 用いられる場合の例として、次のような例文も記載されている。 >「少しの水にも国中へ怒るなり」(川角太閤記 三)
「脳味噌」と日本語に訳された表現に対応するようにホメーロスが用いている 古典ギリシア語の表現はどのようなものだろう。残念ながら、教養不足の私には、 ホメーロスの原典を検索する能力がないので分からない。そこで仕方なく、 ネットの辞典で英語の"brain"に相当する現代ギリシア語の表現を引いてみた。 https://www.wordreference.com/engr/brain すると、"εγκέφαλος"と"μυαλό"という表現が記載されているが、 "εγκέφαλος"の方の語源は、 >ἐν- (en-, “in”) + κεφᾰλή (kephalḗ, “head”) + -ος (-os). であり、特に興味を引かれない。それに対して、"μυαλό"の方はどうも、 英語の"brain"や日本語の「脳」にそのまま対応するというよりも、英語であれば、 "marrow"に対応する表現に由来するようで、古典ギリシア語であれば、"μυελός" に対応するようだ。そこで、"Iliad"と"μυελός"で検索してみると、日本語で引用した 箇所に対応するわけではないものの、次の興味深い記述が見つかる。 file:///C:/Users/01264/AppData/Local/Temp/229-Article%20Text-796-2-10-20190310.pdf >Deucalion’s head and helmet fly off together, and, Homer says, “marrow (μυελὸς) spurted/splashed out from the vertebrae (σφονδυλίων).” Commenters have noted that neither the cerebrospinal fluid nor the marrow of an axially sliced vertebra, nor the spinal cord, can “spurt” out.< 0403考える名無しさん垢版2021/02/16(火) 11:05:47.040 こちらのTwitterのコメントも興味深い https://twitter.com/greeketymology/status/1046211704261169153 Stuart Pace @StuusPax 2018年10月1日 @GreekEtymology ...and as a metaphor for deeper meaning in Rabelais’ preface to his Gargantua, one must « sucer la substantifique moelle » i.e. “suck out the substantial marrow” https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 0404考える名無しさん垢版2021/02/16(火) 11:07:29.470>>400 誤:思われる理由を明示してみよう 正:思われるのか、その理由を明示してみよう 0405考える名無しさん垢版2021/02/16(火) 11:21:42.660 >無論、このような関連付けは、通常、英語で表現するなら"wanton imagination"とされ、 >まともに相手にされることはない。
「不合理/理不尽」についてニーチェも次のように言っている。 Aus der Erfahrung. – Die Unvernunft einer Sache ist kein Grund gegen ihr Dasein, vielmehr eine Bedingung desselben. http://www.zeno.org/nid/20009235124