X



歴史とは何か?【歴史を哲学する】【歴史哲学】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001考える名無しさん垢版2020/11/11(水) 18:54:43.870
マルクス、三木清、渡邊二郎、ヴィンデンバルト、E. H. カー、野家啓一らを意識しつつ、
色々みんなで考えて行こう。
0390考える名無しさん垢版2021/02/12(金) 11:16:09.580
ところで、岩波古語辞典では、「いひ(飯)」と「いひ(言ひ)」の項目に
挟まれて、現代の日本語では死語となっていると思われる「いひ(楲)」
という表現についての項目がある。「いひ(楲)」は、「地中に埋めた
板の箱。池の水を流すのに用いる」と説明されるが、当てられている
漢字、中国語としての想定される中古音、およびこの表現の用法から
見て、「いひ(楲)」の本来の日本語としての発音は、「ゐひ」だった
のだろうと私には思われる。というのも、「歌で『言ひ』とかけていう
ことが多い」とされるが、この表現の用法は、明らかに「外に出るよう
とする動きを抑える様態」と関連しているからだ。同辞典に引用される
用例を参照してみると、以下のとおりである。
0391考える名無しさん垢版2021/02/12(金) 11:22:19.910
>「否(いな)と言ひ放ちてよと言ひはべりければ。小山田の苗代水は絶えぬ
とも心の池の楲(いひ)は放たじ」(後撰七九二)

>「池には楲(いひ)といふものを立てて、打樋(うちひ)を構えて水を出せば
こそ、池はたもつ事にてはある」(今昔三一ノ二二)
0392考える名無しさん垢版2021/02/13(土) 13:36:13.740
日本語における「い」と「ゐ」の関係を、言語学がしばしば、そうするように、
それぞれが異なる作用/動作/様態を想起させる発音上の弁別性の存在、および
混同によるその弁別性の喪失と理解することは不十分である。また、
私自身が既にそうしたように、ロマーン・ヤコブソン流に「い」と「ゐ」を
「パラディグマティックな選択肢」の問題として提示するだけでも十分ではない。
というのも、「い」と「ゐ」のそれぞれが想起させる互いに異なる作用/動作/様態は、
「い」と「ゐ」の適用上の混乱を経て、その発音上の区別が失われ、「い」に
まとめられた後になってさえ、そのいずれかの作用/動作/様態を想起させる
ように「い」が発音されるとき、「い/ゐ」として、互いに影のように付きまとって
いるからだ。「い」と「ゐ」の発音上の区別がされなくなり、単に「い」と
発音されても、それが「外に出ていく様態」を想起させる場合には、その
影として(「ゐ」によって想起されていた)「外に出るようとする動きを抑える様態」
の想起が伴い、逆に、「外に出るようとする動きを抑える様態」を想起させる
文脈で用いられる場合には、その影として(「ゐ」と区別される「い」によって
想起されていた)「外に出ていく様態」の想起が伴うからである。
つまり、単に弁別性による区別によって言葉の表現を明確に規定しようと
することは、喩えるなら、風景をそこに認識される家、木、道などの要素
のCG画像の合成に変換してしまうようなものである。
0393考える名無しさん垢版2021/02/13(土) 18:13:14.160
Philosophisch gesinnt sein. – Gewöhnlich strebt man darnach, für alle
Lebenslagen und Ereignisse eine Haltung des Gemüts, eine Gattung von
Ansichten zu erwerben, – das nennt man vornehmlich philosophisch gesinnt
sein. Aber für die Bereicherung der Erkenntnis mag es höheren Wert haben,
nicht in dieser Weise sich zu uniformieren, sondern auf die leise Stimme der
verschiedenen Lebenslagen zu hören; diese bringen ihre eigenen Ansichten
mit sich. So nimmt man erkennenden Anteil am Leben und Wesen vieler,
indem man sich selber nicht als starres beständiges eines Individuum
behandelt.

Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 1, S. 719.
http://www.zeno.org/nid/20009236155
0394考える名無しさん垢版2021/02/14(日) 10:57:33.920
>>392
それがどのような「もの/こと」であれ、「どのようにか現れ(≒"being around")る
こと」によって識別される「もの/こと」の、その「どのようであるか」を指示する
弁別性は、そこに現れない不在の弁別性を常に「アウラ」として纏って知覚される。
0395考える名無しさん垢版2021/02/14(日) 11:02:25.650
明確に定義されていない表現を用いてはならないとする命令は、
その「アウラ」を切り捨てること、つまり、「解釈の次元」が
広がる可能性をあらかじめ排除することを目的としている。
0396考える名無しさん垢版2021/02/14(日) 14:23:38.400
いかなる弁別性も、そこに現れない不在の弁別性を常に「アウラ」として
纏って知覚されるので、哲学的な省察は、それをメタ言語的に記述しよう
とする試みを不断に繰り返すことになるが、そのような記述の試みに対して、
しばしば向けられる、「物事はそんなに単純ではない」という常套句に
よる批判は、大抵の場合、より洗練された記述の試みの要請ではなく、
そのような記述の試みを拒絶する慣用的な言葉遣いへの差し戻し命令として
意図されている。
0397考える名無しさん垢版2021/02/15(月) 12:01:01.260
北海道の、かつては胆振(いぶり)支庁と呼ばれた胆振(いぶり)総合振興局の
「胆振(いぶり)」という名称は、Wikipediaによると、
>斉明天皇のころ阿倍臣が胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷(えみし)たちを饗応したという故事にちなむ
とされ、デジタル大辞泉の解説によると、
>[補説]アイヌ語の地名を、明治時代に「胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人」〈斉明紀〉によってあてたもの。
と説明されている。
私は、「胆振鉏(いふりさへ)」と呼ばれることになったアイヌ語の地名がどのような発音であり、
何を表現していたのか知らないが、「胆振鉏」は、万葉仮名流に読めば、「いふそ」である。
さらに、「鉏」が「さへ」と読まれることから、この「鉏(さへ)」は、日本語としては、
平安時代に「道祖」という言葉に当てられた、「さへのかみ(塞の神)」という読みにおける
「祖(そ)」≒「塞(さへ)」、すなわち、「遮(さへぎ)るように高く積みあがっている」様態
を表すものとして解釈されたものと理解することができる。「胆振」を「いふ」と
読めば、既に見てきたとおり、沖積土の堆積した場所と解釈することができ、それが
高く積みあがった様子を表現しているのが、「胆振鉏(「いふ」の『さへ/そ』)」である
という解釈が成立する。この地域の風景がそのようなものに見えたであろうことは、
この地域で起きた土砂崩れに関する災害についての報告書を見ても裏付けられる。
https://jsaf.info/jishin/items/docs/20190320114657.pdf
0398考える名無しさん垢版2021/02/15(月) 12:08:59.910
>>384
私は古典ギリシア語はまったく読めないので、原文を参照して表現を検討する
ことはできないが、ホメーロス、呉茂一訳、『イーリアス』、p.116に
出てくる次のような表現が伝えようとする感覚も、中国語でウニが「海膽」と
呼ばれるときに表現されるものと意外と似通っているのではないか、
という気がする。
>先だってこの誓約を犯し、攻めかけた者は、ちょうどこの酒さながら、
自分の脳味噌を、地面(じべた)に流せよ<
0399考える名無しさん垢版2021/02/15(月) 13:39:57.620
「なが(流)れ」の「な」が、中国語の「羅」に対応して、
フランス語にするなら、《entrelacement》を表現し、「かれ」は、
日本語の古語の「か(離)れ」に対応して、《désinvolture》を表現するように、
「いか(怒)り」も、「『い/ゐ』+か(離)り(≒《lasser aller》)」を表現しているように思える。「いか(怒)り」は、「込み上げてくる」ものであるが、
岩波古語辞典には、「B水面が盛り上がる。あふれ出る」を表現するように
用いられる場合の例として、次のような例文も記載されている。
>「少しの水にも国中へ怒るなり」(川角太閤記 三)

ただし、「かる」、「かり」を言い換えるためにメタ言語として利用した
フランス語の《désinvolture》、《lasser aller》は、この文脈での
説明の便宜のために選択したものであり、日本語の「か」の発音の
反射的なイメージをうまく伝えるものではない。
0400考える名無しさん垢版2021/02/16(火) 09:55:40.410
>>398
単に「海膽/ウニ」と「脳味噌」から私が受ける印象が似通っていると指摘して
いるだけではないか、と思われる可能性があるので、どのように「意外に」
似通っている可能性があるのではないかと思われる理由を明示してみよう。
0401考える名無しさん垢版2021/02/16(火) 10:17:31.560
>ちょうどこの酒さながら、自分の脳味噌を、地面(じべた)に流せよ

私は古典ギリシア語は知らないが、この表現が示しているのは、
「脳味噌」は、ちょうど「酒」と同様に「流される」ものであり、
であるとすると、地面に流される以前に、「脳味噌」は、ちょうど
「酒」が杯もしくは他の何らかの容器に注がれて満たされるように、
頭蓋骨という「容器に注がれて満たされている」という捉え方が
示唆されているのではないか、と類推することができる。
これに対して、「ウニ」を表現する「海膽」の「胆/膽」(中古音:"/tɑmX/")は、
"inner container"を意味するように用いられるともされる。日本語において
「胆」という漢字が「い/ゐ」に当てられるように取り入れらたことから
考えれば、「胆/膽」("/tɑmX/")は、「注ぎ込まれる流動体を保持するもの/
容器」のようにイメージされている可能性が考えられ、すると、日本語の
「ため(為/溜/貯)」も「胆/膽」("/tɑmX/")が日本語として開音節に移されて
"tɑme(ため)"となったのではないか、という疑いが生じる。仮にそうである
とすれば、一見したところ、何のつながりもないホメーロスの『イーリアス』
における「脳」に関する表現と、中国語の「海膽」と、「胆沢」や「胆振」の
ような日本の地名と、「阿弖流為(あてるい)」と、さらには、「ため(為/溜/貯)」
という日常的に使われる現代の日本語の表現までが互いに関連すると言える
ことになるだろう。無論、このような関連付けは、通常、英語で表現するなら
"wanton imagination"とされ、まともに相手にされることはない。
0402考える名無しさん垢版2021/02/16(火) 10:59:57.640
>ちょうどこの酒さながら、自分の脳味噌を、地面(じべた)に流せよ

「脳味噌」と日本語に訳された表現に対応するようにホメーロスが用いている
古典ギリシア語の表現はどのようなものだろう。残念ながら、教養不足の私には、
ホメーロスの原典を検索する能力がないので分からない。そこで仕方なく、
ネットの辞典で英語の"brain"に相当する現代ギリシア語の表現を引いてみた。
https://www.wordreference.com/engr/brain
すると、"εγκέφαλος"と"μυαλό"という表現が記載されているが、
"εγκέφαλος"の方の語源は、
>ἐν- (en-, “in”) +‎ κεφᾰλή (kephalḗ, “head”) +‎ -ος (-os).
であり、特に興味を引かれない。それに対して、"μυαλό"の方はどうも、
英語の"brain"や日本語の「脳」にそのまま対応するというよりも、英語であれば、
"marrow"に対応する表現に由来するようで、古典ギリシア語であれば、"μυελός"
に対応するようだ。そこで、"Iliad"と"μυελός"で検索してみると、日本語で引用した
箇所に対応するわけではないものの、次の興味深い記述が見つかる。
file:///C:/Users/01264/AppData/Local/Temp/229-Article%20Text-796-2-10-20190310.pdf
>Deucalion’s head and helmet fly off together, and, Homer says,
“marrow (μυελὸς) spurted/splashed out from the vertebrae (σφονδυλίων).”
Commenters have noted that neither the cerebrospinal fluid nor the marrow
of an axially sliced vertebra, nor the spinal cord, can “spurt” out.<
0404考える名無しさん垢版2021/02/16(火) 11:07:29.470
>>400
誤:思われる理由を明示してみよう
正:思われるのか、その理由を明示してみよう
0405考える名無しさん垢版2021/02/16(火) 11:21:42.660
>無論、このような関連付けは、通常、英語で表現するなら"wanton imagination"とされ、
>まともに相手にされることはない。

組織(「羅/entrelacement」に喩えることができる)は、思考の「縺(もつれ)れ」に対して
は極めて寛容であるが(「もつれ」は、面倒になればいつでも切り捨てることができるので)、
勝手に連鎖する思考の「ほつれ」に対しては、それを容認することができない。
0406考える名無しさん垢版2021/02/17(水) 08:10:48.770
「か(交)ふ」、「交(か)ひ」においては、「ふ」は、「か」によって表現される
反射性が、相互的に働くことを示すが、「かほ(顔)」の場合の「ふ」の活用
である「ほ」によって示されるのは、「か」の反射性が自ずと作用した状態だろう。
0407考える名無しさん垢版2021/02/17(水) 08:21:42.690
>>401
中国語では、「胆力がある」ことを「有膽量」、「胆力がない」ことを「冇膽量」
と表現することがあるようだが、古典において日本語に訳された表現として、
「胆斗の如し(読み)タントノゴトシ」という表現があるとのことである。
https://kotobank.jp/word/胆斗の如し-563553
デジタル大辞泉の解説
《「蜀志」姜維伝から》きもが一斗升のようである。非常に大胆であることのたとえ。
精選版 日本国語大辞典の解説
(「斗」は一〇升はいる枡(ます)) きもの非常に大きいこと。
また、胆力のきわめて大きいこと、きもったまのすわっていることのたとえ。
大胆。〔蜀志注‐姜維伝〕
0408考える名無しさん垢版2021/02/17(水) 10:48:27.480
>>406
ドイツ語の場合、日本語のこのような「〜ふ」の用法とある程度、
対応するような機能を示し、参考になるのは、"wiederum"だろう。
0409考える名無しさん垢版2021/02/17(水) 22:22:02.980
>>408
例えば、"wiederum"をWiktionaryで参照すると、英語では、"again", "in turn"
に対応するとされるが、日本語サイトがないので中国語サイトを参照すると、
「重新」、「再次」、「另一方面」、「反之」に対応する副詞であると記載され、
日本語の「〜ふ」の働きにうまく合致することが見て取れるはずである。
さらに、「另一方面」の「另」は日本語では使われない漢字だが、「別の」、
「他の」、「異なる」といった意味で用いられ、したがって、「另一方面」は、
「もう一方の側(かは)では」を意味することになる。ここで、中国語の表現
において「面」が現れ、対応する日本語の表現に「側(かは)」が現れることに
注目すると、「側(かは)」と「顔(かほ)」が互いに関係していることに気づく
はずである。

現代語の「かわいい」は、古語の「かはゆし」に由来し、「かはゆし」は、
検索してみると、「かほ(顔)は(映)ゆし」(「おも(面)は(映)ゆし」とも
言い換えられる)の短縮形として説明されることが多いようであり、
岩波古語辞典でも「カハハユシの転」としているが、これらの説明の
いずれにも、表現は、名詞から派生するものであるという偏見が働いている。
「かほ」にせよ、「かは」にせよ、いずれも「か・ふ」という表現の活用
と見ることができるので、「かはゆし」そのもので、メタ言語的に
説明するなら、「『か』の反射性が自ずと自由に作用することを生じさせる」
ことを表現しているものと理解することができる。
0410考える名無しさん垢版2021/02/17(水) 22:27:58.360
レヴィナスが「顔(visage)」についてどのような思想を展開したのかを
日本語で論じるなら、まずは少なくとも日本語の「顔(かほ)」という表現
について省察すべきではないのか。
0411考える名無しさん垢版2021/02/18(木) 21:35:10.310
ドイツ語の"wiederum"が、日本語の「〜ふ」と類似した働きをするのは、
"wiederum"が語源的に"wieder(反)um(転)"であることによって、
繰り返す様態や翻る様態を表すのに対して、日本語の「〜ふ」も
中国語の「复/復/覆」となった表現の流用であるからだ。ただし、
"wiederum"と「〜ふ」は、文法的な適用のされ方が異なっているので、
「〜ふ」という形態の日本語の表現の「ふ」に"wiederum"を当てはめて
ドイツ語にしようとしてもうまくはいかない。"wiederum"が普通に
副詞的に用いられるのに対して、「〜ふ」における「ふ」は、以前から
指摘するとおりメタ言語的である。数学の記号表現を隠喩として用いる
なら、x/y^-1=y/xにおいて"^-1"が反転の作用を働かせるように
「ふ」は、反転させる作用を表現する。ただし、「『〜』を反転させる」
と言っても、その反転がどのように行われるべきかが一意に定まるわけ
ではない。そのために、「〜ふ」の形態の表現は、「〜」の作用が
自らに向けられることを表す場合、「〜」の作用が相互に働くことを
表す場合、「〜」の作用が繰り返し働くことを表す場合、「〜」の
作用とは裏返しの作用が働くことを表す場合など、様々な用いられ方を
するのである。
0413考える名無しさん垢版2021/02/19(金) 10:02:47.500
>>409
「顔(かほ)」がまずあって、それが光(ひかり)に照らし出されることを
イメージするのは偏見である。というのも、光に照らし出されるのが、
「かほ(顔)」だからだ。「裏(うら)の顔(かほ)がある」という表現がある
が、普段、光の当たらない面が照らし出されるから、それが「裏の顔」
とされるのであって、単に光が当たらないのであれば、それは「うら」
(古語において「こころ」と互換的に用いられる)であって、「かほ(顔)」
ではない。

このことは、「かほ(顔)」が、「かふ」の活用形であることを考えれば
はっきりする。「かふ」は、「か」を反転させることを指示する表現
であるが、メタ言語として「〜ふ」にドイツ語の"wiederum"を当てても、
"wiederum"は活用できないので、代わりにフランス語の《renverser》
を当ててみよう。「か」は反射的な作用を表すので、「かふ」、「かひ」、
「かは」、「かほ」は、暫定的な試みとして、例えば、
「か・ふ」≒「か・《renverser》」、「か(交/買)ひ」≒「か・《à renverser》」、
「かは(側)」≒「か・《renversant》」、「かほ(顔)」≒「か・《renversé》」の
ような活用として眺めてみると、このフランス語の当てはめが必ずしも
うまく適合していないとしても、「顔(かほ)」の存在をまず前提とする表現の
理解が一般性を欠いたものであることが分かるはずである。
0414考える名無しさん垢版2021/02/19(金) 23:22:51.270
日本語に、しばしば、印欧諸語と似通った発音とイメージの関連付けが見られるのは、
日本語が中国語の表現を流用している一方で、中国語と印欧諸語の間に案外、
共通性が見られるからだろう。例えば、日本語の「な」の発音を用いた表現が、
中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」を流用している場合が多くみられることを
指摘したが、それらの表現をフランス語の《entrelacement》をメタ言語として
利用して説明したとおり、対応する印欧諸語に対応する表現も共通性を感じさせる
発音となっている。
https://www.etymonline.com/search?q=lace
lace (n.)
early 13c., laz, "cord made of braided or interwoven strands of silk, etc.,
" from Old French laz "a net, noose, string, cord, tie, ribbon, or snare"
(Modern French lacs), from Vulgar Latin *lacium, from Latin laqueum
(nominative laqueus) "a noose, a snare" (source also of Italian laccio,
Spanish lazo, English lasso), a trapping and hunting term, probably from
Italic base *laq- "to ensnare" (compare Latin lacere "to entice").
0415考える名無しさん垢版2021/02/19(金) 23:24:47.560
誤:対応する印欧諸語に対応する表現
正:印欧諸語の対応する表現
0416考える名無しさん垢版2021/02/20(土) 00:37:56.550
日本語の「しぶ(渋)い」という表現と、それに対応する中国語の表現の
中古音を比べて見ると、明らかに対応していて、それだけを見れば、
日本語の「しぶ(渋)」は、中国語の「澀(Middle Chinese: /ʃˠiɪp̚/)」の
語末を単に開音節に移しただけであるようにも見える。
しかし、日本語として見た「しぶ(渋)い」という表現は、「『しば(縛)』り」、
「『しび(痺)』れ」、「『しぼ(搾)』り」と関連していると考えることができる
のに対して、中国語の「澀(/ʃˠiɪp̚/)」がそのように活用されることはない。
したがって、日本語の「しぶ(渋)」がそのまま中国語の「澀(/ʃˠiɪp̚/)」の
借用であったとしても、やはり、そこには、「し」をフランス語で表現する
なら《laissant》のようなイメージを想起させるものとして捉え、
その作用/様態を「〜ふ」によって反転させている、すなわち、
「《lasssant》の反転」⇒「しぶ《restreint》」という解釈が行われて
いるように私には思える。
0418考える名無しさん垢版2021/02/20(土) 21:34:43.810
ところで、日本語の古語で「漁をする」、「魚貝をとる」という意味で
用いられる「漁(すなど)る」は、中国語の「搜羅(sōu luó)」という表現をそのまま
利用して「と(獲/取)る」を足しただけの「捜(す)羅(な)どる」ではないのか?
https://www.chinesewords.org/dict/137596-387.html
近義詞: 征采,搜尋,搜求,搜索,搜集,收羅,收集,網羅,采集,包羅
1. trawling、2. rake up
0419考える名無しさん垢版2021/02/21(日) 00:04:18.600
今現在に限らず、戦前、戦後にわたって、あるいはそれよりずっと
長期にわたって、何か暗黙の緘口令が敷かれているかのように
誰もが沈黙を守っているところを見ると、何かがどのようにか
よほど都合が悪いのだろうと思うが、それが具体的にどのような
ことであるのか、私には謎だ。
0420考える名無しさん垢版2021/02/21(日) 13:39:18.660
「すな(砂)」という表現は、互いに関連する(私の考えでは、日本語の用法
としての「沃(い)」を介して)「いし(石)」、「いそ(磯)」、「いは(岩)」、
「いさご(沙子)」の系統には属さない。

その一方で、現代では死語となっていると思われる「すなど(漁)る」と
いう表現においても、この表現は、魚介類を集めて獲ることを意味する
ように用いられるのであって、「『砂(すな)』を取る」ことを表現して
いるわけではない。しかし、だから「すなど(漁)る」の「すな」は、
「砂(すな)」とは無関係である、と結論付けてしまうとすれば、
そこにこそ、「表現は名詞から派生するものである」ことを暗黙の
前提とする根強い偏見(学者によっても、一般の話者によっても共有される)
が反映されている。「すなど(漁)る」がそのまま利用していることを
指摘した中国語の「搜羅」という表現の用法を、今度は逆に、それに当てられた
英訳の"rake up"を手掛かりに中国語辞典で確認してみよう。
https://cjjc.weblio.jp/content/かきあつめる
掻集める
中国語訳 搜集,搜罗 (「罗」は「羅」の簡略化)
英語での説明 scrape, to gather by pushing with something sharp

海辺で貝を「搔き集める」活動のことを指して「『すな(捜羅)』どる」という
表現が頻繁に用いられたとすれば、「すな(捜羅)」が、潮干狩りにおける
遠浅の砂浜の「砂(すな)」を指すものとする理解が派生することは、容易に
推測することができる。しかし、すると、今度は、本来は活動の様態を表して
いたはずの「すな(捜羅)」と「砂(すな)」という名詞化された用法の間で
もつれが生じ、「すな(捜羅)どる」という表現の方が「砂(すな)どる」で
あったかのようなイメージが想起されることになる。ところが、
「砂(すな)どる」という解釈では、「魚介類を集めて獲る」ことを表現する
のには不適切なので、その由来が不明となった「砂(すな)」が「化石化して」
残る一方で、「すなど(漁)る」の方は死語となったのだろう。
0421考える名無しさん垢版2021/02/21(日) 17:42:55.530
スナドリネコという魚を取って食べる野生のネコ科動物の名前に生き残っている。
0422考える名無しさん垢版2021/02/22(月) 09:06:19.770
さて、ここで論理国語の問題です。

https://kotobank.jp/word/撫切-2069762
撫切(読み)なでぎり
※今昔(1120頃か)二六「此の暑預(やまのいも)を削つつ撫切に切る」
@ 撫でるようにして刃物で斬ること。刃物を物におしつけておいてすっと切ること。

暑預(やまのいも)(大和いもを含むツクネイモ群は、大陸から渡来したナガイモ
(学名: Dioscorea opposita Thunb. 英: Chinese yam)の一種 by Wikipedia)
は、別の食材とは異なり、特に「撫(な)でるように」切る必要のある食材なのでしょうか?
0423考える名無しさん垢版2021/02/22(月) 13:02:37.980
A 大勢の敵を、あまさず切り倒すこと。多くの相手を残らず切りすてること。
皆殺しにすること。
※最上義光宛伊達政宗書状‐天正一三年(1585)閏八月二七日「五百余人討捕、
其外女、童申におよはつ犬訖なて切に為レ成候条」

※東京の三十年(1917)〈田山花袋〉山の手の空気「縦横無尽に文壇に
なで斬(ギリ)を試みたのは」

こちらの用法の方は、「縦横に切る」こと、「網羅するように切る」ことを
表現しているのだから、日本語として発音される「羅(な)」の応用として
難なく理解できる。「暑預(やまのいも」も「縦横に切って」刻んだ海苔と
醤油をかけて食べたらおいしそうに私には思え、「撫でるように切る」と
いう説明は不合理/理不尽にも感じられるのだが、だからと言って、
そのように説明されることがあり得ないわけではない。

「不合理/理不尽」についてニーチェも次のように言っている。
Aus der Erfahrung. – Die Unvernunft einer Sache ist kein Grund gegen
ihr Dasein, vielmehr eine Bedingung desselben.
http://www.zeno.org/nid/20009235124

つまり、説明が不合理/理不尽であることは、それがあり得ない根拠ではなく、
その説明が存在する条件ですらあることが考えられるわけだ。
0424考える名無しさん垢版2021/02/25(木) 12:09:36.230
>>373-374
まさしくその折、ポセイダーオーンとアポローンとは、諸河の力を
導き込んで、かの囲い壁を壊すたくみを、めぐらしていた。
およそイーデーの山々から出て、海へと流れ込む川々の、[...]
— そこで多くの牛皮の楯、また兜が、
さらには神にもたぐう武夫たちが、塵泥の中に倒れふしたもの —
これらの川の水口をみな一緒にして、ポイボス・アポローンは、
九日の間囲壁に向けて流れを放てば、固よりゼウスも
絶え間なく雨を降り継がせた、寸時も早く囲壁を海に流そうとて。

ホメーロス、呉茂一訳、『イーリアス 中巻』、p.204
0425考える名無しさん垢版2021/02/25(木) 12:13:59.170
また大地を揺る(御神)も、自ら両手に三叉の鉾を執って
先導に立ち、アカイア人らが、苦労してこしらえあげた
材木や石でつくった土台をそっくり、波に渡してやって、
流れの強いへレースポントス沿いのところを、平かにした。
こうして再び、広い浜辺に、囲い壁をとり毀ってから
砂土を覆いかぶせ、川々はまた、きよらかな水を
馳らせていた。その昔の河床へと向け、旧に復した。

ホメーロス、呉茂一訳、『イーリアス 中巻』、pp.204-205
0426考える名無しさん垢版2021/02/25(木) 12:20:06.480
>朝廷軍は巣伏の戦いで1061人もの戦死者を出した

朝廷軍も夥しい数の戦死者を出したとはいえ、戦いの相手がポセイドーンや
アポローンではなく、蝦夷の阿弖流為/悪路王であったことは、
不幸中の幸いであったと言えるのではないか。
0427考える名無しさん垢版2021/03/02(火) 21:35:23.400
子安宣邦の「近代の超克」とは何かを読んで
高山岩男の世界史の哲学にも興味が湧いてきた。
でも、高いんだよな。
0428考える名無しさん垢版2021/04/15(木) 05:23:13.620
高かったけど買っちゃった。
0430◆OXsdnjx68E 垢版2021/04/15(木) 06:27:32.120
ジョック クインビー

対極は、

ギグス ナード
0431考える名無しさん垢版2021/04/15(木) 06:35:49.610
               __
              /:::::\
            /::❍ 🐽 ❍\
           /:: | ` `👄´' |:)
           ,.゙-‐- 、  `⌒  /
        ┌、. /     ヽ ー‐ <.  プこぴゃプコぴゃぷこピャプこピャぷこぴゃプコぴゃぷこピャプコぴゃぷこピャってるようじゃな?
         ヽ.X、- 、   ,ノi      ハ
      ⊂>'">┐ヽノ〃     / ヘ
       入 ´// ノ        } ,..,.._',.-ァ
      /   `ー''"´      ,'  c〈〈〈っ<
     /          __,,..ノ ,ノヽー'"ノ
      {          ´    /  ``¨´
    /´¨`'''‐、._        ,'\
     ∨´     `ヽ、     ノ   ゙ヽ
      ∨      ヽ _,,..-'"    `ヽ
     ∨       〈-=、.__       }
0432◆OXsdnjx68E 垢版2021/04/15(木) 07:08:55.050
>>431 連絡とれよ
0433考える名無しさん垢版2021/04/15(木) 10:29:18.740
【盗聴盗撮犯罪者・色川高志がしつこく嫌がらせを継続】
色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)
●色川高志「清水婆婆の息子の金属バット集団殴打撲殺を熱望します」
龍神連合五代目総長・清水婆婆の息子(葛飾区青戸6−23−19)の挑発
●清水婆婆の息子「糞関東連合文句があったらいつでも俺様を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 糞関東連合の見立・石元・伊藤リオンの糞野郎どもは
龍神連合五代目総長の俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」(挑戦状)

492盗聴盗撮犯罪者色川高志(青戸6−23−21ハイツニュー青戸1032021/02/03(水) 13:53:22.55ID:QtP78E4Z
●青戸六丁目被害者住民一同「盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父の逮捕を要請します」
色川高志(盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父を逮捕に追い込む会&被害者の会会長)住所=東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室
●盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父
高添沼田ハゲエロ老義父の住所=東京都葛飾区青戸6−26−6
【通報先】亀有警察署=東京都葛飾区新宿4ー22ー19 рO3ー3607ー0110

盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父の盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/愛人変態メス豚家畜清水婆婆(青戸6−23−19)の
五十路後半強制脱糞
http://img.erogazou-pinkline.com/img/2169/scatology_anal_injection-2169-027.jpg
アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父によりバスタブで清水婆婆の巨尻の肛門にシャワーのキャップをはずしてずっぽり挿入。
0434考える名無しさん垢版2021/05/22(土) 12:47:49.430
唯物史観も哲学しないと。
0435考える名無しさん垢版2021/06/24(木) 19:31:11.320
やっぱりレーニンとかも読まないといけないのかなあ
0436考える名無しさん垢版2021/08/02(月) 03:07:41.330
歴史哲学といえばヘーゲル
0437考える名無しさん垢版2021/10/15(金) 17:14:26.260
ヘーゲルの著した哲学の歴史と歴史の哲学は、
併せ読んだら物凄い力を得られるだろうな。
0438考える名無しさん垢版2021/11/01(月) 15:02:13.080
どっちの著作もアジアが低く見られがちなのが共通している。
0439考える名無しさん垢版2021/11/15(月) 08:06:17.590
カント的純粋理性批判に見られるような、
一直線型に時間に沿って物事は継起して行くという、
一種の直線的歴史観に近い考え方がヘーゲルに影響したのかなと最近思うようになった。
0440考える名無しさん垢版2022/03/10(木) 02:09:37.220
ビデオに残すと言ったのは誰なのかが問題だ。歴史上の人物との会話が成立するから。
何故、会話が成立するのかも考えられていない。
調査員の厳しい手続きを請求することは、何か落ち度があったら、認めないことだ。
世界中に10万人規模で調査結果を待ってる人がいる。
優先すべきことはどこから来るのかという発生源を突き止めることだ。
電波なら総務省がやれるのだがね。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況