パスカルの賭けvsオッカムの剃刀
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パスカルの賭け
神の存在を人間の理性では証明することができないが、
神が存在することに賭けることはできて、むしろ神が存在することに賭けた方が生きる意味が増す。
オッカムの剃刀
ある事柄を説明するためには、必要以上におおくの仮定をするべきではない。
つまるところ、実在が確かめられないものの実在を予想することと、
そもそも予想すること自体が誤りであるということのバトル? 行動しないという行動を取るのであって、
仮定しないことは仮定しないという仮定をしているのでは…?? オッカムの剃刀を極めれば「神」という語がある以上神は存在する オッカムの剃刀というより、ウィトゲンシュタインを極めた感じがするけど、
極めるということは、仮定しないことの仮定みたいな発言に関して、回答になっているので、
良しというお気持ち 仮定しないことが正しいと仮定しているのでは?と問えるけど、
仮定しないことが正しいという信念を持つことは、
仮定しないことを正しいと仮定しているのでは?という問いに対して、NOという回答になる 一方で、パスカルの賭けは、神が存在すると賭けること、
神が存在するという信念を持つことだから、
つまるところイーブンであるってこと? おまえひとりの独壇場にするならチラシの裏にかいてろ、ハゲ パスカルの必勝法は誤謬の一種なんだからオッカムの剃刀の圧勝だぞこんなもん
名前だけ聞いて中身を調べなかったのか?
中学生レベルだな パスカルの賭け
・論理学的には誤謬の一種である
・宗教的見地から言っても不信心だという批判も
・別名をパスカルのかつあげとも、理由はバカがカルトに壺を買わされる仕組みそのものだから
・はっきり言って科学者パスカルの汚点 パスカルの賭けは発表当時から様々な批判にさらされてきた。ヴォルテールは「無作法で子供っぽい… 信じることで利益が得られることが実在の証明にはならない」と書いた[9]。しかしパスカルはこの賭けが神の実在の証明だとは言っていない[10]。それは単に、確実性に対する彼の論証の帰結であり、理性が信用できないという観念と炯眼な神の実在が「コイントス」で決まるという観念によるものである。神が存在するかどうかという問題において理性が信頼できるなら、賭けはそもそも不要である。
なっげぇw 主観確率を知らんのか
客観確率とは、世界の中に存在する頻度や傾向性など、われわれの主観とは独立に存在するものとしての確率を指す。客観確率は実験または理論的考察(思考実験)から求められ、客観的な観測結果と比較できるランダムな事象についての確率である。
主観確率とは、人間が考える主観的な信念あるいは信頼の度合(客観的には求められない)をいう。たとえば「かつて火星に生命が存在した確率」という言葉は、主観確率の考え方からは、「かつて火星に生命が存在したと信じる信念の度合い」と同値である。
主観確率は、ベイズの定理、そのアナロジーとしてのベイズ統計として、現代において見直されている
だが、はっきりいって、主観確率でいうところの信念とは何か?というのは、哲学的に答えが出ていない
信念というのはある種の限界や実存の淵であり、
パスカルの賭けを簡単に一蹴することはできない >>16
主観確率は主体の介入する余地のある確率
客観確率はコインの表裏は同様に確からしいなど、モデルを仮定した上での確率
だからまさにスレタイのvsと根本は同じ >>17
介入した時点で確率じゃないけどww
池沼かな? >>18
例えば、モンティ・ホール問題
<モンティ・ホール問題>
プレーヤーの前に閉じた3つのドアがあって、1つのドアの後ろには景品の新車が、2つのドアの後ろには、はずれを意味するヤギがいる。プレーヤーは新車のドアを当てると新車がもらえる。プレーヤーが1つのドアを選択した後、司会のモンティが残りのドアのうちヤギがいるドアを開けてヤギを見せる。
ここでプレーヤーは、最初に選んだドアを、残っている開けられていないドアに変更してもよいと言われる。
ここでプレーヤーはドアを変更すべきだろうか?
プレイヤーは、ヤギのいないドアの情報を与えられ、最初に選んだドアを変更するという、ゲームに介入する余地を与えられる 半角見づらいな
まあ、これはベイズの定理を知っていれば解ける。
結論から言うと、プレイヤーがドアを変更するほうが得であると知っている、あるいは推論する能力があるのであれば、新車を当てる確率は2/3だが、
そうでなければ、ドアを無作為に選んでしまって、確率は1/2になる。
自分は最初、どちらのドアを選んでも確率は1/2になると思った。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/モンティ・ホール問題 >>20
それ結局主観確率の考え方は間違いって証明しとるだけやん >>22
そうともいえない
例えば、モンティ・ホール問題の設定の一部を変えて、
プレイヤーはドアを変えるか変えないかを無作為に選ぶとして、
客観確率のモデルを作れば、新車を当てる確率は1/2になるが、
それがプレイヤーにとっては最善ではないのだから、
主観確率で考えるべき問題だということになる 主観確率と客観確率は相容れないが、
どちらが正しいかということを、
決めることはできないのではないだろうか、 >>21
主観確率的には、神が存在すると信じる信念の度合いが主観確率になるから、
パスカルの賭けはまさに主観確率の問題と言い換えることができる 麻雀のアナログ派vsデジタル派みたいな話なんだろうな
ベイズの定理の変数はあくまでもただの変数だと考えることも出来そうだけど、
自分の信念が変数になってるというところで、語弊を恐れず言えば観測問題みたいなことが起きてんのかなって、 パスカル「神を信じた方が得じゃん?」
って話なのに必死に誤謬だのなんだ言ってるには滑稽だな >言ってるには滑稽だな
まず日本語をお勉強しましょうね。自分が滑稽ですよ。 余談。
三木清はパスカル研究とデカルトの翻訳を行った。
野田又夫はパスカルとデカルトの新書をそれぞれ出し、比較も行なっている。 折々のことばでの鷲田清一のパスカル引用率はまあまあ高いと思う。 「駿河(するが)なる富士の高嶺」⇒「『する』=『なる』不死の高嶺」⇒
「『(欲)する』=『なる』神の高み」⇒「神が『(欲)する』ならば、
そう『なる』」⇒「神の思し召しがあれば(そうなる)」⇒
「インシャ・アッラー(إِنْ شَاءَ ٱللَّٰهُ)」
「駿河なる富士の高嶺」≒「インシャ・アッラー(إِنْ شَاءَ ٱللَّٰهُ)」 残念ながら、オッカムの剃刀で髭を剃ることはできない。 運命論者は、決定論者とはどこかなにかが「決定的に」異なるように思えます。
さて、一体、どこがどのように違うのでしょう。
ところで、「パスカルの賭け」というのは、運命論に基づく議論なのでしょうか、
それとも決定論に基づく議論なのでしょうか。 なんでオッカムなん?
ウィリアムだろ
オッカムはただの町名 >>40
そんなもん常識だろ
分かった上で使ってんだよ阿呆 ウィリアムは神の存在証明は不可能だとした
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