海外における日本の哲学
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Many philosophers have published books on Continental philosophy and American philosophy after WWII.Among those, Ōmori Shōzō, Wataru Hiromatsu, Yasuo Yuasa and Takaaki Yoshimoto created original works under the influence of Marxism, phenomenology and analytic philosophy.
Ōmori Shōzō created a unique monist epistemology based on his concepts of "representation monism", "double depiction", and "language animism". Wataru Hiromatsu developed his theory of "multi-subjective ontological structure of the world". Yasuo Yuasa advanced a new theory of the body influenced by Merleau-Ponty and the body image found in Chinese medicine.
Takaaki Yoshimoto is famous for his "shared illusion theory" and various philosophical essays on Japanese culture.
Today, such scholars as Kojin Karatani (柄谷行人), Hitoshi Nagai (永井 均), Shigeki Noya (野矢 茂樹), Masahiro Morioka (森岡 正宏), Ryota Matsumoto (松本良多) and Motoyoshi Irifuji (analytic philosophy) are considered to be characteristic philosophers in the Japanese academy.
Japanese Philosophers of 21st century
Kojin Karatani (柄谷行人)
Hitoshi Nagai (永井 均)
Shigeki Noya (野矢 茂樹)
Ryota Matsumoto (松本良多)
Masahiro Morioka (森岡 正宏) 柄谷行人は21世紀という感じがしない。20世紀プラスゼロ年代の人だと思う。
21世紀なら小泉義之とか東浩紀とか千葉雅也だろう。 ちょっと趣向を変えて内山節とかもありかもな。
昨今の環境哲学の走りとして翻訳されても良さげな人としては。 Motoyoshi Irifuji
入不二 基義
なんで抜かす 入不二基義同様、予備校の講師としては山本義隆とか牧野剛なんかの伝記を
クラムスクール・ヒーローとして小説にしたら面白そう。 入不二基義同様、予備校の講師としては山本義隆とか牧野剛なんかの伝記を
クラムスクール・ヒーローとして小説にしたら面白そう。 仏語圏で通用している佐藤嘉幸って地味にすごいと思うんだけど。 三木清の英語版wikipediaは地味に充実している。 Japanese Philosophers of 2channel
Gakujutsu (学術)
Shi ◆P1F.MDbmTg (し=禊健太郎) 人間は寂しさが高じると、内部の人間に認められようとして外部の人間の存在を忘れる。 漏れる本音は糞である。糞をすることに腹を立てるべきか。 漏れる本音は糞である。糞をすることに腹を立てるべきか。他人の尻を拭うべきか。 恋愛感情とは、愛というオブラートに包まれた性欲のことである。 私は人の好き嫌いを仕方がないものとして認めることができるくらいには成長しています 子供が大人になってゴミになるのは社会のせいではない。善意は社会のせいで減り、性欲は社会のせいで減らないなど筋が通らない。 名誉白人は、非白人は元より、白人とも真の友にはなれないだろう。 自分はわかっているが他の人にはわからないだろうと思っていることは、本質的には自分もわかっていないのだ。 人間と人間の綱引きの結果が中庸で、人間そのものが中庸なのではない。 >>23
ちょっとよくわからない。もう少し詳しく。 後になって唯物論も決定論も誤りだったとわかっても大丈夫な生き方をしよう アウシュビッツにいるわけでもなく、イラク・シリアにいるわけでもなく、アフガンにいるわけでもなく、奴隷身分でもなく、捕虜収容所にいるわけでもなく、原爆を浴びたわけでもなく、火炙りにされているわけでもなく、水に沈められているわけでもなく、徹底的に安全地帯にいてそこから賢しらにものを語ることよ。 白人の子供たちにイエロー!と言われたら、怒らずに笑顔でなんだい?と聞き、友達になりなさい。 作り悟り(つくりざとり)
悟っていないのに賢しらに悟ったふりをすること 拙僧は悪人にして僧なり。拙僧は悪僧なり。夜露死苦お願い申す。 自分の好き嫌いだけ考えて相手の好き嫌いを考えない。これは、相手を見下している。
相手の好き嫌いだけ考えて自分の好き嫌いを考えない。これは、自分を卑下している。
自分の好き嫌いも相手の好き嫌いも考えない。これは、自分をも卑下し相手をも見下している。
自分の好き嫌いも相手の好き嫌いも考える。これは、自分をも卑下せず相手のことも見下していない。 あなたが通るために、アッラーが世界を切り開いて道を作る。その道を歩きなさい。 面接落ちた場合→当たり前やろ。
内定取れた場合→会社に人生を捧げる。忠義。 ああしろこうしろああするなこうするなと言うが、全く無駄だ。ああしようがああするまいがどうにもならない。 人は、大切にする価値がないと見做す相手のことを大切にしない。
大切にされないということは、大切にする価値がないと見做されているということだ。 好きな女性が好きな男にだけ媚びるような笑顔を浮かべて自分のことは捨てるゴミのように価値がないものと見なすことは、精神的なものとしてはこれ以上に辛いことはないように思う。
そういう人間の性(さが)を仕方がないものとして受け入れられたら、もはや承認欲求を大幅に捨てられたと言えやしないか。 承認欲求があるとストレスから人に意地悪をしてしまう。だから人に嫌われる。
承認欲求がなくなるとストレスがなくなり、人に意地悪をしなくなる。だから人に嫌われない。 俺は担当のことを嫌っていない。だがな、俺が無能であることを示すような態度を取られると自尊心にグサリと突き刺さる。「俺はどこ行ってもやられるな。俺がこの世にいることは迷惑だな。」と思う。辛いよ。 やるべきことはただ一つ。bestを尽くすことだけだ。 大学生の赤ちゃんたちだって頑張って就活しているのだから、アラサーのおっちゃんは彼らよりよほどしっかりしないとと。 さて、答えはなんでしょう。
全頭個体管理×自己責任主義= 失敗の本質が分かることは、成功の本質が分からないことにまさる。 敗因がわかる敗者は、勝因がわからない勝者にまさる。 考えすぎかも知れないが、部署の人選は先生のご配慮かも知れない。女子についても男についても。おっさんは別だが。まあ、考えすぎか。
この前のディスカッションも、こちらが心が疲れているのを見兼ねて、あの人選にしてくれたのかも知れない。
最近やけに厳しいが、表面では厳しくとも陰では俺のことを思ってわかりにくい優しさを持って助けてくれているのかも知れない。
わかりにくい愛に気づかずに嫌われているなどと思うのは早計かも知れない。
まあ、わからんがな。 女は子供を産む。男は子供を産まない。これで男女平等にしたら、それは公平ではない。
平等かつ公平など世界にあるのか?
正義とは、平等と公平のどちらを言うのか? 怒っていることを理由まで説明するとますますエスカレートする 自分に魂有り
人に魂有り
生きものに魂有り
無生物に魂有り 自分は只の人
人は只の生きもの
生きものは只の無生物 さっさと学校を卒業したい
就職したくない
かといってニートに戻りたくもない
これら三つの欲望がせめぎ合い、三つ巴の様相を呈している。 世捨て人が何を求めようか。生き物並みに生きられれば人並みでなくて充分。 お前が内定一つ取ったくらいで、罰当たりゃしねえよ。取りな。 Introduction à la philosophie - 72 ページ - Google ブック検索結果
Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling
>Cette possibilité est cachée dans l'unité ; car le pouvoir-devenir-
inégal-à-soi-même n'est autre que ce qui est égal à soi même >>67-69
《ce qui est égal à soi même》は、そのまま日本語に移すなら、
特別な解釈を要することなく、表現そのものとして「自我」であるとともに、
「自らにあた(能/価)ふこと/できること」である。
我(われ)が生きようとすることの適合において自我を見出そうとする
ことは、力んで今の自分を変えようとすることでも、あたかも
逸失物であるかのように自分探しをすることでもなく、その都度、
「自らにあた(能/価)ふこと/できること」をしようとすることに
他ならない。 我(われ)の日常が人の倣いに埋没してしまうと、ひと(人/一)に
隠された可能性としての自我を見出そうとすること自体が
忘れ去られてしまうので、ときには「居場所を変えてみること」/
《dépaysement》が、その忘却に気づかせてくれることもある。 ソーシャル・ディスタンシングがニュー・ノーマルとされる環境に
おいて、最も手軽にできる《dépaysement》は、他者の言葉で書かれた
本を読むことだ。 今後は犯さざるを得ない罪を除き、死ぬまで敢えて罪を犯しはしない。本当に、アッラーに誓う。 >>70に誤記があった。正しくは、67-68で、69は何の関係もない。
ところで、>>67に引用したシェリングのフレーズに行き当たった
経緯は面白い。自分で考えた日本語の表現のフランス語訳を
自分で思案して検索すると、ちょうどシェリングの著作の
フランス語訳に現れるフレーズがヒットし、私が表現しようとして
いることを伝えるのに好都合なのでそのまま引用した。
したがって、私は、シェリングのこの著作を読んでいて、
そこから考え方を借りてきたわけではない。すると、私が
日本語で表現しようと模索していることなど、すでに昔の
高名な哲学者たちが論じていて、その著作を読んでいようと、
いまいと、その言説の影響下で物事を考えているという見方も
できることになる。だが、本当にそうだろうか。例えば、
古今和歌集を読んでいると、フローベールが「かなしみ」について
論じたことを、そのままより分かりやすく簡潔に伝える歌の
作品を見出すことができる。だからと言って、フローベールが、
はるか昔に書かれた古今和歌集の影響下にあったというわけ
ではないだろうし、フローベールが「かなしみ」について
論じたことについて考える意義が小さくなるわけでもないだろう。 自分の罪さえ償えばよい。他人の罪を償わせなくてよい。 君を傷付ける権利がある人はいない。君がどれほど罪深い罪人であっても。
君が傷付ける権利がある人はいない。その人がどれほど罪深い罪人であっても。 君が正しいほど、君から不安がなくなる。
君が間違っているほど、君に不安が生じる。 人を攻撃するのは、リビドーの発散だ。どんな理由であれ、リビドーの発散だ。性欲を発散するのと同じだ。 担当のあのBBAは女脳だから嫌われたら怖いとかねてから思っていたが、案の定だ。
無駄な動きは向こうにさせて、こちらは無駄な動きはせぬぞ。無駄な動きは戦において命取り。兵法家だからな俺は。 俺はあのBBAにここまでやられなければならないほどのことを学校でしただろうか?
他のやつならここまでやられなかったのではないか? 自分の心にも共感するな。他人の心にも共感するな。疲れるぞ。 自尊心を叩いて人を動かすのはどんな理由があろうとマインド・コントロールだ。 >>67-70
誤:《ce qui est égal à soi même》は、そのまま日本語に移すなら
正:《ce qui est égal à soi》は、そのまま日本語に移すなら 自尊心を他人に依存しない人は、心理的に他人と距離が取れる。 悪人ほど嫌な目に遭っても「まあ、(俺は悪人だし)仕方がないか。」と思えるが、善人ほど嫌な目に遭うと「何で(善人の)自分がこんな目に!」と思う。 一日で勝利を得た者は一日で勝利を奪われるが、一生かけて勝利を得た者は一生かけなければ勝利を奪われないであろう。
新約アル・クルアーン 勝利章 「我(が)」が強いほど、人の倣いにおいて競い合ふことに「我(われ)」を忘れて
熱中し、ひと(人/一)に隠された可能性としての「みづから(身づ柄/自ら)の我(が)」を
見出そうとすることがない。 「我(が)」が強いことと、「我(が)」を否認できることを理想とする
ニヒリズムは、双極性障害的に表裏一体である。 その双極性障害的なフリップフロップを促進して、昂進状態に保つように
することがマインド・コントロールの典型的な手法である。 Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter soviel
Lidern.
墓碑銘 リルケ 芸女神白衣の地獄天使処刑ライダー魔女 準ラスボス。
LV???
出演場所未来の三宮神戸。
得意技一人ノリヴォケ突っ攻み斬り。
嫁激病院コント
クレイジー魔銃術
HP−777 MP999 開発中。 ゲームにヴォーカルとかお笑い入れてマニアにすると誰が誰に対しているのかカルトマニアみたいになる。 おれは死神鎌魔術銀河道芸人にでもなるよな。といでる? まあ将来的には不可能な話じゃない。人も集まりそうだし。 自己ウケのようで一ファン。女全体主義に。哲学的に言うと。 ゲームのセリフみたいに掛け合って5ch綴るってのもあり。悪魔も書いてな。
軍師も。モンスターも。代筆でもいいし。 ヘラクレスの栄光シリーズだなあ哲学なら。意外にファンだった。世界の構造主義というか。 まあゲーム経験ないほうが笑えたり楽しかったりハマれたりする不思議もあるかも。シンボリック言語哲学。 インターネットでシミュレーションユニットリアルタイム囲碁とか。ガチャポン魔人転生三国志信長の野望。 企画シナリオとかは昔からよくやってたなゲームレコード文学。 コロナ時代の精神病院刑務所警察病院イヴェント。そういういろんな意味でモードはなかった
モード学園どうかな。 まあ哲学科文学部がゲームレコード出版物に引用される回数競っていこう。 アドリブもいいけどねいろいろ考えて。哲学アドリブネットヒットラー。 ポリゴンオペラに戦闘画面ヒップホップBGM エンディングにミュージカルR&Bクラブジャズダンサー。 マザー2のトンズラブラザーズ惜しい。 そうだなチューナーバンド業界も。 神の預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は、彼が25歳の時に40歳のバディージャ・ビント・フワイリドと結婚している。
大卒だとしたらあの人は38歳を超えるが、私は構わない。いやむしろ、女の方が長生きだし病人の私は長生きしないから、丁度いいかも知れんぞ。 自分が犯す行いの罪の分だけ他人が犯す行いの罪を許せ
自分が犯す思いの罪の分だけ他人が犯す思いの罪を許せ もしあの人が俺のこと好きで、告白されるの待ってたらどうする?神様は彼女が内心で何を考えているのか教えてくれないぞ? 会社は俺のことを雇うことをもう決めていて、問題のある人間でないか念のため最終チェックするだけなのかも知れぬぞ。 誘うような仕草が多い上にセクシーな服着て来るし、溜まっててぶっちゃけ誰でもいいけど自分からやりたいとか言うのはさすがに女として恥ずかしいからバカな男が言い寄ってくるの待ってるのかも知れないぜ。そのバカな男になれとアッラーが仰せなのかも知れん。 これだけ判断狂わせられたら勘違いする権利くらいある。いいし、バカにされて話のネタにされても。賢いとして恐れられるよりバカとして安心されるほうがいい。 決定論を忘れた時、貴方は天命を失う。
決定論を思い出した時、貴方は天命を取り戻す。 アラーよ、思わせぶりで気まぐれな神よ。
なんとあなたに翻弄されていることか、私は。 イスラム教とか、「(日本で)流行ってる界隈もあるんだな」としか知らんというか想像がつかん 政教分離がそもそも難しかったり、コーランが原則翻訳禁止だったりするんでしょ? 地頭と対策の掛け合わせが合否だ。足し算ではなく掛け算だ。 アッラー曰く「忠良なる爾ムスリム、人生を楽しめ。」と。 人それぞれ価値観が違うのは、当たり前である。
例えば、子供好きな人が結婚して子供を持ちたいのは当然だし、子供などいらない女とやりまくりたいという人が結婚せず子供を持とうとしないのも当然である。 >地雷を踏まぬ方法は地雷原を歩かぬこと
空を飛び、木の枝に止まって生活すればいいのですね 弱さのために他人に支配されるにしろ、邪悪さのために他人を支配するにしろ、他人と対等な関係を築けぬ者は将来破滅する。 例えば日本とアメリカは、互いに日本の総理がパールハーバーを、アメリカの大統領が広島を、
訪問し合うことができる。意味はどうであれ、政治としてはそういう形にするしかない
日本と韓国は、何一つそういう間柄にはない。左寄りの俺ですらそう思うんだから して後悔するのとしないで後悔するのと、どちらの後悔が大きいかでするかしないか選びなさい。 待てば海路の日和あり、ということわざはあるのかな? 最大限尽力するのは結果が欲しいからではない。
あの時最大限尽力すれば良かったと将来後悔しないためである。 それも逆を聞いたことがあるなあ
倒れるまで頑張ることを美徳とするんじゃなくて最後まで倒れるなって はっはっは、純一は波平
コロットイッチャッテ乗っ取られる >>157
最後まで倒れるなってことは最後は倒れるってことじゃん。なら同じだろ。死んだらくたばる。 >>159
合理的に勝てる算段をするか、初めからやらないかのどっちかにしろってことだよ 若眼鏡殿はもう内定取って入社したのだ。彼でも内定取ったのだから私も内定取らないと。 会社は、誠実で不正をせず仕事をしっかりやる人を求める。 自分自身がpower spotとなる。自分自身をお守りとする。 やましい気持ちを持たなければ、面接で緊張することはない。騙して自分を雇わせようとするからバレる不安から緊張するのだ。そういう人間は落ちるに値する。
至誠は天に通じる。アラーアクバル。インシャラー。 「俺を落とせば損するのは御社ですぜ!w」くらいの気持ちでいよう。 いや、それはもういいw
協調性のなさで割り引けば技能すら半人前だったってことに、
現になったし、もう時効でそうだってことにするしかない 至誠は天に通じる。至誠とは、無私利他のことである。 「上へ上がれる連中というのは普段は全く仕事をしていないのに上司や権力者が相手の仕事の時は全力で頑張り
裏では人の悪口、失敗を言いふらして他人の足を引っ張る事に一生懸命で飲み会などの時に会話するスキルが高く、顔を覚えてもらう事に長けています。
まあ要するに要領よく立ち回れる人間で、それを恥とも思わない人間じゃないと上へは行けません」
「功績立ててもダメなんか?」
「ダメですね、手柄なんか情報を操作されて上の人間に取られます。基本的に上の人間は自分では仕事はせずにアゴで人を使い、手柄は自分の物、いやなら辞めれば? 代わりはいくらでもいるよ、というスタイルです。
自分が何か失敗をすれば部下のせいにしますし、気に入らない人が失敗をすればここぞとばかりに叱りつけますね」
「ぬぐぐぐ・・・」
「前にも汚れ仕事を押し付けられ、服を汚して帰って来た子がみんな同じ様に仕事してるのになんでお前だけ服汚すの? 気をつけろよ!
なんて言われてる事がありましたね。同じ様に仕事してないっつー話ですよ!」
「・・・」 「娘さんを私にください。」と言うつもりで「内定を私にください。」と言え。そういうつもりであれば、どうしてたって不誠実にはなれないはずだし、いい印象を与えたいと思うはずだ。 アホやからね。俺に命令するか俺が命令したことにするか、それだけで済むシステムだもん 電子情報だけを扱って仕事をして、サーバ管理の権限は経営管理者側に
あるのだから、仕事の失敗とか落ち度なんてものはいくらでも
サーバ管理の権限を握っている側がでっち上げられるんだよ。
ペーパーレスの大きな目的もそこにある。 アッラーは貴方に正しく生きることを強要し、貴方が罪を犯せば貴方を罰して貴方の罪を贖う。 調子に乗んなよ?一生。人に対してではなくアッラーに対して。 善人として生きると言うことは、その分だけ人から愛されるという報酬がある。
悪人として生きると言うことは、その分だけ人から嫌われるという罰がある。
どちらを選ぶかは自己責任だ。他人が何と言おうとも。 過去を嘆く暇はあるのに未来を良くする暇は無いとはのう 何年何月何日何時何分何秒に誰がどう思いどう行動するかは決まっている 狡さによって短期的な成功を得ても、成功を維持する忍耐力がなければ成功は続かない。 重複スレばかりあるな
ゴミ5ちゃんは
毎日同じヒキ爺さんしかいないのにw 落ちた会社に固執するのは、振られた女に固執するが如し。 「何であの人は受かったのに私は落ちたのか!」と嫉妬するのは、好きな人を友達に取られて嫉妬するが如し。 他者への愛で自分を責めるならいいが、自己愛で自分を責めてはいけない。 落ちたらそれは会社に合わないということだからむしろ落ちてよかったのだ 5ちゃんねらー語録「面接というものは不採用という答えがあらかじめ決まっていて、それを目に見える形で示す過程だと理解してる。 」 会社に入社して大丈夫なだけ、私は成長しただろうか?
ネガティブな理由でなくポジティブな理由で転職できるようでなければ、そこまで成長したとは言えない。 内定を取れないこととは、プロポーズして振られることに近い。
一見これは悲劇と見えるが、実際には悲劇ではない。
むしろ、自分のことを愛していない女性が仕方なく自分を夫に選ぶ方がきっと不幸な結婚生活になる。
自分のことを愛している女性と結婚した方がいい。きっとそうに違いない。 私が将来どういうろくでもないことをしてどういう風に後悔するかも既に決まっている。インシャラー。 どのparallel worldに行っても大丈夫なように、全ての未来を想定しておけ。 私がディーンフジオカみたく色男だったら、告白するにふさわしいタイミングなど24時間365日だっただろうに。 人に好意を示すのが告白なのか?
好意は表に表すもので、別に告白すべき内容があるとは思えないが。 例えば、鳥は異性に対して、踊って見たり、歌ってみたり、
餌を運んできたりはするが、告白したりはしないだろう。 世捨て人は
遊びをせんとや
生まれけん
戯れせんとや
生まれけん 誰がために鐘は鳴る 其は汝がために鳴るなれば
ジョン・ダン シトシトと
少しばかり降る雨に
混じる我ら戦士の涙かな 闇を経て
闇を越え出る
今この時
いずる命の
為とおもわば 自分が受け取るにふさわしいと思えないなら受け取るな 勝率は20%にも満たぬが、もしOKと言ってくれたらどれだけ幸福なことか。
もしOKと言ってくれたら、きっと心の綺麗な女性だ。私のような者を毛嫌いしないでくれるのだから。
もしNGが出てもきっと心の綺麗な人だ。私にあらぬ期待をさせて利用しようとか考えていないのだから。 神がお望みなら、私は最初の恋人を得ることになる。
遅かれ早かれ振られるだろうがな。
神の御心のままに。 学ばせていただきなさい。相手は女性との関わり方を教える先生で、自分は女性との関わり方を教わる生徒なのだと思いなさい。
素朴で優しいこと。それだけがあなたの強みなのだから、決して素朴さと優しさとを失わないようにしなさい。
アッラーに与えられない限り、決して望んではいけません。 彼女のことは大卒と見積もっておけば年齢においてショック無し 悪人正機説とは?
「どうせ無能だし」と開き直って怠ける奴ではなく、一生懸命やってるのに成果が出ない奴をこそ、阿弥陀仏は手助けしてやりたいと思うもの。
「どうせ阿弥陀仏が助けてくれるんでしょ?」と開き直って善人たろうとしない奴ではなく、善い人間たろうとしても善い人間になりきれない者。そういう者を、阿弥陀仏は助けてやりたいと思う。それが、悪人正機説だ。 過去も未来も受け入れられた人にとっては、現世が極楽浄土なのです。
過去や未来を受け入れられていない人にとっては、現世が無間地獄なのです。 きっと私の未熟さは、善と悪が二人三脚をできていなかったのだと思う。善意がブレーキを踏みつつ悪意がアクセルを踏んで、うまく心の運転ができていなかったのだ。 初めから正しくあろうとしない者を、阿弥陀仏は好まれない。正しくあろうとしても正しくあれない弱き者に、阿弥陀仏は慈悲をかけてくださるのだ。 人を愛する人は菩薩であり、生きものを愛する人は如来である。 日本の全歴史を時計で表す、
5分から15分のところ。
山名氏、京極氏、土岐氏、一色氏、六角氏、赤松氏……
時間の逆行。電撃・電気…… 女性は侵略の対象ではなく、侵略から守ってあげなければならない対象なのだ。 人生なんてものは、どうせなるようにしかならねえ。それが分かっているのが大人だ。 自分にやましいところは一つもないと胸を張って言える人にとって、人間関係の悩みなどあるはずがないのだ。 「かね(予)てわ(侘/詫)ぶ」ことを動物の冬眠に喩えることが
できるとするなら、冬眠中の動物でも「できることをする」こと
に注意を向けることが大切だろう。
リスは、冬眠中に冬眠状態から覚めて睡眠をとる。
妊娠したクマの雌は、冬眠中に分娩して、授乳する。
自分には「何もできることがない」と嘆いている人でも、
大抵の場合、眠ることくらいは「できる」はずである。 わびしらにまし(猿)らな鳴きそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ
古今集 雑体・凡河内躬恒 「わびしらに」という表現は、他に用例が見当たらないらしい
(『古今和歌集 全評釈 下』、pp.600-601)が、逆にこのような
用例から「〜しら」がどのような表現として認識されていたのか
がはっきりして面白い。この「わびしら」の「〜しら」は、
言うまでもなく、「さか(賢)しら」の「〜しら」と重なっており、
前者の例外的な用例から、「〜しら」が「『しる(著)』し」の
「しる」であり、したがって、「しるし(印)」の「しる」、
「しろ(白)」の「しろ」とも共通であることが分かる。
したがって、「わびしらに」とは、「顕著にわ(侘)ぶように」、
「わ(侘)びを際立たせるように」を意味していることになり、
「さか(賢)しらに」が「(賢)しいことを際立たせるように」を
意味しているのと同様である。この相互関係は、英語を
メタ言語として用いて記述するなら、「しる(著)し」が"marked"に、
「しるし(印)」が"a mark"に、「〜しらに」が"makedly"に
対応することからも「明『白』」である。 神は必ず、あなたにふさわしい人間関係をお与えになります。 神アッラーから下された啓示
「もし、対等な関係を築ける相手がいないなら、そのような相手とは関係を築かず、死ぬまで孤独に耐えなさい。」 神アッラーから下された啓示
「もし対等な関係を築ける相手がいないなら、そのような相手とは関係を築かず、一生孤独に耐えなさい。」 全ての出会いには別れがあります。出会う前に、どう出会い、どう過ごし、どう分かれるかまでシュミレーションしてから出会いましょう。 全ての出会いには別れがあります。出会う前に、どう出会い、どう過ごし、どう別れるかまでシュミレーションしてから出会いましょう。 誰かが死ぬ時、その人が貴方のことを思い出して笑顔になれるとしたら、貴方は死にゆく人を笑顔にしたことになるのです。 自分の為に他者があると思うくらいなら、他者の為に自分があると思いなさい。 生きものを幸せにする人を、神は幸せにする。
生きものを不幸にする人を、神は不幸にする。 持つことを望まぬ者が持つ者である
持つことを望む者が持たざる者である >>243
この啓示についてだが、これだけはっきりとわかりやすく真理が示されて、それで真理を受け入れたくないならもう勝手にしろ。 それはなんか「天罰ヤロー」みたいなことが言いたいわけ? >>245
答えろ。ぶっちゃけ全然はっきりしてないしわかりやすくもない >>245
「啓示」というのは「信仰しろ」ということか? 誤:「(賢)しいことを際立たせるように」
正:「さか(賢)しいことを際立たせるように」 徳川家康の遺訓「及ばざるは過ぎたるにまされり。」とは、して後悔するよりはしないで後悔する方がよいということだ。 そういうのは自己責任文化があるか、当事者性を買って出てくれる奴がいるとかでなきゃ意味がない
簡単に言うと中身がなくてつまらない 私が今通学している学校で学んだ最大のことは、敵はわざわざあえてこしらえるべきものではないということだ。それを学ぶために来たと言えるくらいだ。それがわかっただけで充分だ。これ以上学校に対して何も望まない。 ただの選択肢を答えめかして呈示してどや顔
あんたがパックマンでも作ったんならそれでいいんだけどね、と パックマンはただの選択肢だし、答えでもある。フェアだろう? サルトル・ボーヴォワール作戦
先に配偶者に不倫させ、それを口実に不倫権を獲得する。 心から他者の痛みを痛みに思い、他者を意図して傷つける人に対し怒りと軽蔑を覚える。これが愛だ。 自分で自分に嘘をつくようになったら、それは自己洗脳だ。 meritしかない選択もなければdemeritしかない選択もない。あらゆる選択にmeritとdemeritの両方がある。
正しい選択とは、損することをしないことではない。どんな選択にも、何らかの損はある。 過去から逃げる者は、未来からも逃げる。
貴方の過去に対する態度が、貴方の未来に対する態度である。 承認を求める側よりも承認を与える側の方こそ優位であることは忘れるな 承認欲求は利用されるものではない。利用するものだ。 イスラームに改宗した私はムスリムだから、天国で72人のフーリーたちと好きな時に好きなだけ好き放題好きな方法で交尾しまくれるのである。
望外のこと。アラーアクバル! meritがdemeritを上回るならする。下回るならしない。 豊作は善行の報いではない。凶作は悪行の報いではない。 皆したいようにしただけだし、したいようにするだけだ。 「勝って兜の緒を締めよ」という言葉を理解するためには、私は学校で失敗しなければならなかった。失敗したからこそ、この言葉を心から理解できた。
学校を卒業する前にこの言葉が理解できたことがどれだけ幸運なことか私にはわかる。もしそうでなければ、私はスピード転職をしていた可能性が非常に高まる。だから私は本気で言う。「学生のうちに失敗できて本当に良かった。」と。 賢者は歴史から学ぶ。経験から学ぶのは愚者だ。しかし、経験からすら学ばないよりは経験からでも学ぶ方がまだマシだ。 >>276
文官の屁理屈だな。文官間でだけ通用するロジック。 お前はこういう人間だ。自分を受け入れろ。自己受容は天命である。 ニュースで海外の政治家や記者がそういう表現することも稀にあるが、大抵政治的意見に対してだからね
日本人はそれを無条件に真理のように使う人がたくさんいて、DQN発見機の役割をしてる これ以上は教えない
というか信じてるってことはそのレベルにいるってことだろから
lv20の人にレベル40以上要件のウェポン使えないがlv20帯のレアウェポンは重宝する
逆も然り 「歴史からしか学ばない賢者」
「経験からしか学ばない愚者」
「どちらからも学ぶ賢者」
「どちらからも学ばない愚者」
なぜだかわからないが、賢者の方が単にマシでしかない 前提から間違ってるんだよね〜
「歴史からしか学ばない賢者」
「経験からしか学ばない愚者」
逆ですよ〜
だって、覚者への道においては
修道初期は歴史から学ぶ
修道中期以降は経験から学ぶ
ですから 過去を愛することができない者は、未来を愛することもできない。 俺もそろそろ学校を卒業する。俺を罰したければ俺の在学中にやれ。 現実のこととして考えてみてほしい。
人類史において、過去から未来に渡り一度も誤りがなく完全に正しいことしか行われないなどあり得るのか? 愚者同士の目糞鼻糞をなぜか看過できなかった人とか、
平たく4つ並べたのに2つだけ取り上げて逆と宣う人とか 有己無他 自分の罪は許すが他人の罪は許さない
有己有他 自分の罪も他人の罪も許さない
無己有他 自分の罪は許さないが他人の罪は許す
無己無他 自分も罪も他人の罪も許す 一番上は最も原始的なegoismである。
二番目は、他人を許さないなら自分のことも許してはならないというもので、平等を理解している。
三番目は、許しを理解している。
四番目は、許してほしいという望みを捨てている。 過去とは、嘆いて呪って投げやりになって未来を捨てるためにあるものではない。
過去とは、学び未来に役立てるためにある。 愛憎の激しかった私がこのように計算で動くようになりわずかに冷徹さを身につけたのだから、遺伝子のせいにして修行や成長を怠ってはいけないね。 「誰がどうしようと本人の勝手だ。本人の自己責任だ。」最初からこの考え方ができていれば、私はどれだけ楽に幸福に生きて来られたでしょうか。 今気づいたが、私はいつの間にかニート禁止論者でなくなっていた。高校生の頃はニート禁止論者だったが。 貴方がいつも敵を作るtroublemakerなら、もうtroubleに慣れなさいよ。 天災は許すが人災は許さないというのならば、天を許すことはできるが人を許すことはできないということだ。
どうして天のことは許せるのに人のことは許せないのか? 第一に、やってはいけないをやらない。
第二に、やらなければならないことをやる。
この二つさえ守っていれば、一生極楽です。 性欲が悪とされるのは、女性に対して性欲を抱く時、どこか女性を物として見るような気持ちがあるからだろう。
人に限らず生きものを物として見るのは極めて悪質なことだ。
しかし、男たちあるいは人々がその悪の性質を持って生まれたのだとしたら、心の中の悪は努力だけで完全に消し切るのは少し難しいかもしれない。
大事なことは、心には邪悪が隠れていても、行いにおいては絶対に清らかで正しくあることだ。 躁があるかわりに鬱もあるよりは、躁がないかわりに鬱もない方がよい。 行動においても想像においても寝ても覚めても清く正しくあることで得られるものは何か?
私はやましくないという強い自信だ。 衝動によって罪を犯したのならば、貴方は危険人物だ。
合理的判断によって罪を犯したのならば、貴方は最低の最悪だ。 臭いと見た目が、味、歯ごたえ、舌触りなどの食感を代表して
いるように認識されるから食欲をそそる。その認識を消去して、
物に見えたら、口に入れる気にもならない。 男の私は、魅力的な女性に性的に受け入れられれば、自尊心が満たされて劣等感が柔らぎ、自尊心防衛のための攻撃性が柔らぎますでしょう。 >>309
女性を食べ物扱い??!
なんと破廉恥な奴!!! Temptation of Christ
"tempting"とは、"enticing"とは、どのような意味でしょう。 女性と性交する時は、愛することを第一に考えなければなりません。自分の欲求は後回し。 物を欲しがるというのは、物欲に支配されているのですね
男性と女性では物欲にどのような違いがあるのでしょうか 経済力は、物を手に入れる購買力のことですよね
物欲で異性を見てはいけないのですね 以前、高校のスクールカウンセラーさんに紹介されたカウンセリングで、何かを我慢すると問題行動という形で噴出すると聞いた。俺の問題行動も、なにかが噴出していたのだ。 やる気も能力のうち。やる気のなさも能力不足のうち。
善人は、正しく生きることへのやる気がある有能。
悪人は、正しく生きることへのやる気がない無能。 悟りによって、人は損切りする合理的な生き方を身につける。 悟性っていうのが悟りに近く悟りより速い。白鳥弓子ね 人間には、天に求めていいものと天に求めてはならないものがあると思う。
天に求めていいものを求める人が無欲な人、天に求めてはならないものを求める人が強欲者。
天に求めていいのは、天のために使うものだけ。天のために使わないものは、天に求めてはならない。 強い者に平伏すのは恐れですが、赤ちゃんに優しくするのは慈悲です。前者は弱さ、後者は優しさです。 復讐心は善悪を超えるものだから、道徳を持ち出すことで人の復讐心を抑えることはできない。
人に復讐心を抱かせず、もし人に復讐心を抱かせたら速やかにその人の自尊心を宥めることが大事だ。 男たるもの、女性に甘えるようではだめで、女性に甘えられるようでなければならない。 孤独に耐えるには、人に認められるかどうかと自分に価値があるかどうかは別の問題だと理解できるだけの知性が必要だ。 自己犠牲は世界に存在したためしがなく、未来永劫存在しない。 善人でいたければ、無条件で善人でいろ。
悪人でいたければ、無条件で悪人でいろ。 契約社員として内定を貰ったとはいえ、所詮私は統合失調症の引きこもりだった熊澤英一郎の後継者に過ぎないのだ。人並みの人間になりたいなどと思うべきではない。 貴方にとっては貴方は世界でたった一人しかいない自分だろうが、他人にとっては他人に過ぎないし、肉食獣にとってはメシに過ぎないのだ。 男は性欲を満たしてもらう代償として愛を女性に支払うが、支払う愛の価格が高騰すると男が女性に惚れている状態で、女性が男を奴隷化している。逆に支払う愛の価格が暴落すると女性が男に惚れている状態で、男が女性を奴隷化している。
性欲と承認欲求を満たしたいのは人の性だが、性欲と承認欲求を満たすために自分を安売りすることは、天に背く行為なのだ。男も女もやってはならない。 男女の平等は天命である。男女は互いに自分のことも相手のことも奴隷化してはならない。 目の前に悪魔が美女の身体と美女の愛の両方を吊り下げていて、神が罠だと言っているのを無視してしまうのはなぜか?
「性欲と承認欲求を二度と満たされないなら一か八か賭けよう。」と理性的に理性的でない決断をして、そして案の定バカを見るのだ。 人が貴方に対しどういう態度に出ようとも、動物的直感を無視するな。
しかし、無視するなとはいえども動物的直感は心に秘め、態度にも口にも出すな。 惚れることとは、心を奪われることではない。脳を乗っ取られることである。 性欲が満たされるという予感と、実際にそうなるかどうかは別のことだ。
愛されているという感覚と、実際に愛されているかどうかは別のことだ。 人間が自尊心を肥大させる欲は二つ。危険な欲である。
一つは、人並みになりたいという欲。もう一つは、人並みでは満足できないという欲である。 自分一人のことで悩めるのは幸せなことだ。一人分の悩みしかないのだから。 友達が欲しい
恋人が欲しい
家族が欲しい
お金が欲しい
地位が欲しい
権力が欲しい
欲を持てば持つ程、現実が呪わしい惨めな世界となる。「足るを知る者は富めり」だ。 「足るを知る」という表現が呪ひとなる。
「満ちゆく」ことを「足る」と言い換えるべきではない。
なぜなら、己の自戒としてであれ、「足るを知れ」というのは、
「宛てがい扶持(あてがいぶち)で満足しろ」という意味になってしまうからだ。
「よ(良)く生きる」とは、与えられるものや、現状に満足することではない。
そうではなく、みづから(身づ柄/自ら)に何がどのように「かな(適)ふ」のか、
「かな(適)はない」のか、絶えず確かめながら歩むことだ。
本当に大切なのは、足るを知ることではなく、みづから(身づ柄/自ら)が
満ちゆくのを体感すること。 ところで、私にはなぜ「満将行」が「たりゆかむ」と読まれているのか
分からない(別に皮肉を言っているのではなく、その読みを正当化する
基礎知識が欠けているので分からない)。「〜将行」が「〜行(ゆ)か将(む)」
と読まれるのは理解できるが、万葉仮名で「満」は「たる」に当てられた
漢字ではないだろう。「足(た)る」と読まれているが、「足」も
万葉仮名で「た」に当てられた漢字ではないはずだが。 理由が分からない場合、そこには何らかの恣意的な判断が働いている
と私には感じられる。その判断の背景に納得できる理由があるのか
どうかが不明だと、「もやもや」した感じを解消することができない。 作物のみの(稔/実)りとしてであれ、言語表現において、
生物の生殖活動の「結果/結実」が「満ち足りること」/"plenitude"
の感覚のイメージと結び付けられていることは偶然ではないだろう。
生殖活動の結果として、多くの草花は枯れ、昆虫は個体としての
命を終えて「な(亡)きがら(骸)」となるにもかかわらずである。 真に信仰深い決定論者は、口から不平不満が出ないというよりは、そもそも心に不平不満が生じないのである。 腹が減って、食べることができ、満たされることが「し・あは・せ」であって、
最初からまったく腹が減ることもないのは、生きていないからだろう。 性欲を満たしたいなら風俗に行けばよい。
タダマンなどと都合の良いことを考えていれば、天が「こいつは少し懲らしめてやらんとな」と軽く罰してくるだろう。 それは、物欲を満たしたいなら身売りをすればよい、
ということですか? ゆるい人を嫌いになるほどの厳しい性格にはならぬよう より幸せな人がよりアンチニヒリズムに固執するのは道理
より不幸な人がよりニヒリズムに陥るのは道理 膳部王を悲傷(かな)しぶる歌一首
>世間者 空物跡 将有登曽 此照月者 満闕為家流
世間は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける<
「欠ける」ことばかりを嘆くのは片手落ちだろう。
「満ちる」ことがあり、「欠ける」ことがある。 真人間には快楽はわからぬ
サイコパスには幸福はわからぬ 酷く振られるでしょうし、皆で死ぬまで私を笑い者にするかも知れませんが、私には、何事も自分の意思に従って行わなければならないという天命があるのです。 日本語で伝わったものでもなくていいならひけめはないだろう。 運命を呪いたくなる時は、一体どの神が自分を酷い目に遭わせないと約束したか?と自問するべし。 慈悲と信頼に基づく人間関係
冷酷と猜疑に基づく人間関係 貴方が思い考え行う時、貴方に取り憑いているのは神か?悪魔か?貴方に取り憑いているのが神ならば、貴方は最終的に成功する。貴方に取り憑いているのが悪魔ならば、貴方は最終的に失敗する。 優生学的優越感と優生学的劣等感、これら二つの感情を客観視してこれら二つの感情から距離を取れる人たちのことを私は本当に大人だと思いますし、私以外の人たちもこういう人たちのことを大人だと思うと思います。 今の自分があるためには、あの過去が必要だったのだ。と思えるならば大変な幸せだ。 天が望むことを望まぬことは罪である
天が望まぬことを望むことは罪である 性欲自尊心説
性欲は優生学的自尊心を満たすため満たすために生じる欲求であるという説 女性に対して抱く性欲が強ければ強いほど、それを覆い隠すための神聖視の度合いも甚だ大きくなります。
つまり、より強く神聖視しているほど、より激しく欲情しているということです。悪しからず。 優生学的自尊心に基づいて動いてはならないし、優生学的自尊心に基づいて動く人と精神的関わりを持ってはならない。 優生学的自尊心に基づいて動いてはならないし、優生学的自尊心に基づいて動く人と精神的関わりを持ってはならない。
優生学的自尊心とは、優生学的優越感と優生学的劣等感のことである。 新型コロナ・ワクチン接種の義務化とか、ウイルスに対して免疫の弱い
個体は集団に害悪をもたらす可能性があるので排除しましょう、
という優生学の発想そのものじゃないのかね?
免疫学的な裏付けは、どこにもないだろう。 ウイルスに弱い人がいても選択肢を提示できればいいと思う。 善行を行なって天国に行くのが自己責任なのに、悪行を行なって地獄に行くのが自己責任でないとは言わせない。 善行も悪行も、天がしろと命じるならば必ず行え。
善行も悪行も、天がするなと命じるならば決して行うな。 >>365
勇気がなくて外れられないレールが自分の意志か 逆張りと順張りの塩梅はなかなか難しい。
コロナ渦については、コロナ治療薬を製造している製薬会社や
注射器を製造している医療器具メーカーの株を持っているが、
コロナ特需で増収増益なんてことはまったくないんだよねw 生きものに対する罪を忘れぬ者は善人
人に対する罪だけ忘れぬ者は偽善者
人に対する罪すら忘れる者は悪人 恋愛関係の本質は人間関係である。
人間関係がうまくいく人が恋愛関係もうまくいくとは限らないが、人間関係がうまくいない人は必ず恋愛関係もうまくいかない。 神は偉大なり
私は因果応報を信じていました。しかし、中学生の時にその信念を捨てました。今再び、因果応報を嘘と言い切れないと悟らされております。
私は、世界に出るには経験があまりにも不足しており、頭脳もまた極めて不足が大きいです。アラーよ、どうか私に対し、推奨と警告をお示しくださいますように。
推奨されてもするとは限りませんし、警告されてもやめるとは限りません。しかし、アラーに推奨されたことをせず、アラーに警告されたことをやれば、アラーが相応の罰をお与えになるでしょう。その罰により、バカの一つ覚えを一生続けて成長していくものと考えます。
神の御心のままに 弱いくせに悪ぶるとどんな目に遭うか?それを一生忘れるな。 よっぽどろくに教えらしい教えは説かれていないのだねw 他人の自尊心を喰らい、自分の自尊心の血肉とする。これを誇りとするか恥とするかで、人生は180度変わる。 イスラームの神アッラー曰く「あの人は強がっているが根は乙女だから、今から別れの時まで必ず優しくするように。」と。 身内のことを褒められたら、「よく言われます」と言おう。 最もどうでもいい生きもの、最も嫌いな生きものにも、道に外れる扱いをしないように。 風俗に行き、交尾をしてもらえる。オーラルセックスもしてもらえる。笑顔で接客してもらえる。
自分はそれで満足だと自分に言い聞かせて、50代になり60代になり、本当は愛されたかったのだ気付く。
嗚呼、虚しきかな。 人たらんと欲すれば男たらず、男たらんと欲すれば人たらず。 アラーよ、全ての人の全人生をあなたに委ねます。
インシャラー 万事天命と一言唱えれば、たちまち謙虚で澄んだ心が立ち現れる。
至誠とは、万事天命だと悟ることである。 神の御心がわからないのではなく、神の御心から目を背けているのだ。 性悪説は、想像上の悪意に対する復讐につながり、そんなことをする人はただの自尊感情が異常に低い過剰に攻撃的な人にしか見えないからやめよう。
性善説はやめよう、人や世界は期待通りにはならない。 他人に自分を委ねることができるのは、あらゆることを受け入れられるサトラー(悟った人)だけなのだ。 望みが叶わなければ自分の力不足
望みが叶えば運がいいだけ 背徳者 アンドレ・ジイド
狭き門 アンドレ・ジイド
パルムの僧院 スタンダール 心の中を見られても大丈夫ならば、正直に生きていける。
心の中を見られたらまずいのならば、嘘を吐いて生きていくしかない。 肉食獣は肉を食うしか生きる術がない。草食獣みたく草だけ食っていれば生きられるわけではない。
だから阿弥陀仏は、肉食獣を許した。 俺は本当に小規模な罪と小規模な罰のために悩んで来たのだな kiss fm で日本軍連勝記念ミックスやってるよ。 https://www.youtube.com/watch?v=5aq3RJ7Udyw
コロナウイルス ワクチン オール アラウンド ダ ワールド。
ちなみにミックス曲はワンモアタイム生きても死んでもワンモアタイム。
メディアサイコテレパシー文学科心理学科でやるから職員立てるさ。もうつながってるよ。 上の者にとっての下剋上は、下賤の者が調子に乗っているに過ぎない。
下の者にとっての下剋上は、自分たちの尊厳を取り戻すための聖戦である。 723NETDJ学術@死廃狂鬼神舞幻妖呪魔術軍医師悪魔召喚居士2021/09/24(金) 17:27:40.33ID:WxBb58hz
能力を無理に開放しないように。
724NETDJ学術@死廃狂鬼神舞幻妖呪魔術軍医師悪魔召喚居士2021/09/24(金) 17:28:23.13ID:WxBb58hz
体験がならないことないようにの意味。まあノリってのもあるけど。
725NETDJ学術@死廃狂鬼神舞幻妖呪魔術軍医師悪魔召喚居士2021/09/24(金) 17:29:40.77ID:WxBb58hz
体験が萌芽されているものを無理やり開けたり体験があっても盗んだりとったり。
精神病精神障害の官僚官職がいるねえ。精神科心理学科。
上下なら身長が大事。地形が大事。天文が大事。 刑法によっていずれも実刑にしてやればいい。懲役禁固死刑。
執行猶予無し。少年法は厳罰注意。最高法院にかける。最高法官最高(精)神官として。上二枚ね。男性同性愛者は逮捕即処刑。男同士ってことね。刑も。 もしあの人が子供が欲しいとすれば、間違いなく私を選ぶことはありえない。 最も不安のない生き方、それは正しく生きることである。 たどたどしく歩むことなしに、正しく生きようとすることなどできない。 アーナンダなために日本人が先々に色々なことを知ってしまってこうなった。 そして日本史の800年代〜1000年代に公卿の世界で川の殺人が起きて、ヒエラルキーの下層でもルーシーが彼岸にはいってそのことを覚えた。 飛鳥時代といえば、推古天皇の時世に仏教が伝来し鎮護国家の護として日本に広く流布した。奇しくも釈迦牟尼仏も紀元前に彼岸に入っている。
彼岸に入るとは独りになるということ。
彼岸に入ると宇宙の摂理がわかる。 彼岸に入るためには上に上がるか、下に下がること。独りで身体に変調が起きる。それにより変なことが解ってくる。 日本に川の問題が起きたのは仏陀の十大弟子の末裔が入ったことと、下層で彼岸に入ったことで人間が自然に先立ち川のことを知ってしまった。
1997年が先に摂理を理解したことにより世の中に魑魅魍魎が跋扈するように決まってしまっていた年。その前段階として70年代がある。
社会のヒエラルキーの上層部で川を利用する者が現れリバイアサンになっていった。 つまり1000年前に戦後日本がこうなることは決まっていた Ring a Ring o' Roses
Ring-a-ring o' roses,
A pocket full of posies,
A-tishoo! A-tishoo!
We all fall down. 凄く大変な40年であること。
1997年に一気に地獄に堕ちること。
みんなが川のことを知り、心ある者が何も知らぬ者たちを置き去りにして利用すること。それが1950年代から社会の上で起きること。
心が蔑ろにされ日本人は心を無くすこと。
それにより大変な時代を迎えること。
1980年代から2010年代までに全体に川が蔓延すること。それによりおよそ人間の顔をしていない人間が街に溢れること。
全て1000年以上前に決まっていた。 逆転の目が1980年代に生まれたが成功しなかったこと。それにより1990年代後半にみんなが大変な目に会うこと。 2019年に底を突いたが、まだまだ妖怪のような変なこと知ってる人間はたくさんいること。
これら問題の大部分がアーナンダが摂理を知ったことで長い年月を経て今、起きてしまった。 仏陀が晩年、川で弟子たちと沐浴している時に他の成熟した者にではなくアーナンダに川のことを報せたことで後の時代で心より摂理が重んじられることが決まった。
末っ子の若きアーナンダなではなく成熟した心を持った最年長の舎利弗にこのことを報せていれば、このような世界になっていっただろうか。 自分だって他人のことを心の中でバカにしたり見下すのに、他人が自分のことを心の中でバカにしたり見下すのは許さないとは、いかにも自己愛性人格そのものではないか。 「偽善者のくせにこんな欲を持つなんてキモい。罰を当ててやろう笑」とか思うだろうか。 彼に意地悪した分、復讐代行してやろうとか思うだろうかの。 黒人差別して白人に奉仕する黄色人がいたらどう思う?共感性羞恥で正視できんじゃろ。 優生学的優越感は、他者及び他者の一族に対する罪。
優生学的劣等感は、自分及び自分の一族に対する罪。 人間の心は、「合理主義」と「非合理なバグ」の組み合わせでできている。 1+1=2であることは速やかにわかるのであり、人にいつまでも1+1=3だと信じさせておくことはできない。 カッコつけんな。カッコいいやつはカッコつける必要がないだろ。 貴方のライバルになり得る人は、学校内、会社内、国内にしかいないわけではない。世界中にいる。 東大に願書を出してはいけないわけではない。
出しても意味がないだけで。 終わってねえし長いよ
日本の全歴史を時計の針で表す。
51分から57分の間の亀裂を修正しないと 釈迦牟尼仏は彼岸に立ち悟りを開いたが、悟りを開いたらそれで万事がうまくいくわけではない。 悟りを開いたのち、摂理をどのように用いるかによって、その後の世の中が大きく変わる 心の部分や魂の部分まで含めて全部だ。
摂理の中に愛が入らないならそれ相応のことはある。 爬虫類は愛を無くし、捕食だけの世界に至った
それに対して哺乳類の世界なかに愛が生まれて、それとは別に爬虫類の世界も共存することになった。
即ち愛のある世界のなかで食うと食われるの関係ができている。それが今だ。 1993〜1995年に宗像系海人族の不良たちが悪いことは悪い、悪いとこがなければ前に進めるという摂理の元に頑張って勝っていった時代だった。
それが大人たちの作ったねじれにより混乱したのは知っている。頑張ったが駄目だった。俺をはじめ色々な存在やキャストが揃わなかった。 勝っていって途中で頓挫はしたが、今からあっさりと蹴りあげていこう。キャストや役割を外すなよ。 わからねえことはわからねえんだよ。
わかるやつがどこかにいる。 本当に大変な時代を迎えたものだな。
とりあえず地震2025辺りにありそうだな。
総理大臣も危ねえしな。 淡い恋心を抱く彼女いない歴=年齢の乙女童貞を演じる プラトニックなパパ活なら相手してくれる女の子山ほどいる。一生相手に困らないぜ! 「1+1=2」これは正解である
「1+1=3」これは不正解である
「このお店のカレーはおいしい」これは正解でも不正解でもない
「このお店のカレーはおいしくない」これは正解でも不正解でもない 女性は、強くて優しい男を好む。しかし、強いふりをするイキラーと優しいフリをする狡猾な男は最も軽蔑され忌み嫌われる。 男女共に、強くなくていい、優しくなくていい、賢くなくていい。強い方がよく、優しい方がよく、賢い方がいいが。 貴方の罪を知りながらそれでも貴方を認め信じてくれる人に忠義を尽くしなさい 強い方がよいのなら、弱い方にとっては、
強い方は、自分に悪をもたらしている 言い訳は貴方を弱くする。それがもたらすものは改革の不徹底である。
これがために、歴史上大勢の人や王朝や国家や組織や会社が破滅した。 もし何かを正しいと思うなら、貴方は間違っている。
もし何かを間違っていると思うなら、貴方は間違っている。
もし何も正しくないと思うなら、貴方は間違っている。
もし何も間違っていないと思うなら、貴方は間違っている。 何かを間違っていると思うなら、貴方は間違っている。
何かを間違っていないと思うなら、貴方は間違っている。 私は某モデル夫婦と某芸人夫婦を見て、メンタリストの理論の虚しさを感じた。 手っ取り早くお金で心の貧しさを埋めようとしてはいけない 貴方の望み通りになろうが貴方の望み通りになるまいが、天の望み通りにはなっています。
貴方の望み通りになることは、必ずしも貴方にとって最善ではありません。しかし、天の望み通りになることは、必ず貴方にとって最善なのです。 貴方が行う全ての行いは、全て貴方が悟りに至る為に必要な修行なのです。一つとして無駄なことがないので、一つとして疎かに行ってはいけません。 貴方のことを好きな人がいるのに劣等感を持つことは罪です
貴方のことを嫌いな人がいるのに優越感を持つことは罪です 自分の実力を悟っている人は、ブサメンでも残念でない。
自分の実力を悟っていない人は、イケメンでも残念だ。 自尊心の二類型
自尊心I型 ガチで自信がある確信的自尊心
自尊心II型 成功を自尊心の根拠とする実証主義的自尊心 俺は頭が悪い上に人生経験が少な過ぎる。これでは深い精神性に基づく人生の意味を解することができず、人生の虚無を埋めようとして性欲と自尊心を満たそうとすることに明け暮れるのも無理もない。
若いんだよ。原宿の10代20代のガキ共みたく。
精神的成熟をするには、未熟な精神の持ち主がたくさん失敗して愚かなことをして悔しくて泣いて怒ってもがき苦しんで自己嫌悪に陥って自暴自棄になって人生を破滅させそうなところを他人に助けられて自分の弱さと他人の優しさを知り、強く優しい恩人への恩義が他者への愛へと昇華されなければならないのだ。
人生の意味は、ヒッグス粒子のように人生の中に詰まっているのだが、わからない人には人生が真空としか思えない。 >女性は、強くて優しい男を好む。
求職者は、雇用主として自分に有利な雇用条件を提供してくれる企業を好む
と言っているのと変わらない。全体的な構成として考えないから、自分の
発言がいかに無意味であるか理解できない。雇用条件が有利であることが、
雇用主の意志や気質などではなく、その企業と求職者それぞれの市場に
おける比較優位性によって決まるものであるように、男が自分に対して
強くて優しいことも個人の意思や気質などに依存するのではない。 >>515
そういうことを「演出しようとする意図」は、自らを神の立場、もしくは
神の使いの立場にあると思いなす途方もない思い上がりとなり、実際には、
悪の手先として働いて憎悪を蔓延させることになる。 >強く優しい恩人への恩義が他者への愛へと昇華されなければならないのだ。
人々は、その意図に応えて、自らの命と引き換えにでもその恩にきちんと
報いなければ安らかに死ぬこともできないと感じるようになるだろう。 軍の精神科医 と 首切り芸人。魯迅より後発世代だし。
軍医と首切り役人が原著。 森鴎外なんか海外コンプだよね。魯迅のほうが悩みや長い負け無い。
しかし舞姫でもパラノイアとか、嫁だけかよ。異常。どうなんだろう。 >>515
そういう幼稚な物語性を信じていると、"House of Cards"の登場人物、
Peter Russoのように都合よく利用されて、使い捨てにされるだけ。 就職はgoalではなくstartだ。結婚も同じ。
仕事で手を抜けば首になるし、結婚生活で手を抜けば離婚される。
得て終わりではなく、得たものを維持することが必要である。 得することをしないのは、損することをするのと同じだ。 貴方は、この人が家族、友達、恋人、夫であることが誇らしいとまで思われなくとも、せめて恥ずかしくないと思われるようにしなければならない。 私はアラサーである。婚活を始めよう。結婚するか未定だが。 本日、2021年令和3年9月27日月曜日、私は婚活を始める。 >>529
そこで高スペックのDas Manですよ サイコパス刑事 玲司。鎌田玲子ちゃんが現天皇です。 その通り
人物的にはたいしたことのない、プログラミングが得意な奴 一社落ちて就活を止める人は、就職する気がないのだ。
一人の女性に振られて婚活を止める人は、結婚する気がないのだ。 女教皇メーテルでいいじゃんこないだ比叡に来てたよ。浮きがちのトレーン女。
フランス文学首席。人生は自由がないレールの上さ電車男は。 うちの近くに銀河鉄道の駅があってな。コーヒー待ってる間に来るさ。 まあアンドロメダだからディスコクラブに肉入れるよベンツ社長としては。 肉のコンディションと女軍のコンディションは繊細に。 九条安保ってのはち密な難解な策略でな、それを解いていけ。俺は解き終わって連勝。。 ドイツなんておそるに足りないさ、戦争法規になれば。ナンバー9 フランスと手を組めという意味ね同盟。イタリアは援軍養成。人事躾けろ。 世界皇帝ぐらいにはなれてないとな若い諸君は。形而上学という意味での 奇策に走ってる銀河蒸気機関車さ。特に白い人はドイツが合うだろう。帰ってこんでもええよ。 好かれないこと、嫌われることに慣れよ。
振られること、捨てられることに慣れよ。 精神年齢が老人であれば、若い人など孫のようにしか思わないだろう。 子供を持つことに絶対的な価値を置かない事実上の唯物論的な考え方を人類皆が無意識レベルでは持っていることを貴方はご存知ないのか 他人の評価を気にすることは大抵の場合なんの役にも立たないだけでなく、
労力の無駄である。野球の試合で何本ホームランを打ったところで、
クリケットにしか関心のない人々にとっては、そんな記録はどうでも
いいことで、ただの数字に過ぎない。野球で活躍するためには、
そのような人々の批評を気にするだけ無駄である。 敬意を払って欲しければ、敬意を払うに値するだけの人間になれ。 性欲が自尊心を上回る人は積極的な性格になる
自尊心が性欲を上回る人は消極的な性格になる 般若なおめん。
夏祭りの夜店で売っている般若のお面。 南直哉「この世の悪は十中八九、必要なことをしないからではなく余計なことをするから起こります。」 全ての人は一生、天から与えられた権利を行使するのではなく、天によって課せられた義務を果たすのです。 そうする権利があると思うならやめなさい。
そうする義務があると思うならやりなさい。 権利は一つも行使せず、義務は全て遂行する。一生これができれば聖人だ。 どうして日本人は冷たいの?. スキ. 24. 16分析!. (現象学的精神分析) 2020年4月30日
https://note.com/tnv/n/n3d2a4859f9d7
海外「日本という国の外国人コミュニティほど冷たい世界が他にありますか?」海外の反応
https://10000km.com/2017/06/20/taito/
「コロナ感染は自業自得」世界で最も他人に冷たい日本人の異様さ
サンドラ・ヘフェリン 相手への愛よりも相手に愛されたいという欲が上回る者は不幸である 日本では有名人が自分の抱負などを語る際に「健康に注意して頑張ります」というような「宣言」をすることがあります。
自分の健康について「気をつけます」などと人前で宣言するのは、ドイツにはない発想です。そのため筆者が昔ある仕事で通訳をした際、日本人のリーダーが「皆さん、体に気をつけて頑張りましょう」と語った時は、これをドイツ語にどう訳したらよいのか困ってしまいました。
ドイツを含むヨーロッパでは別れ際に「健康でいてね」「元気でね」とあいさつすることはあっても、ミーティングの最中などにこういったことを言って相手に発破をかける習慣はありません。
サンドラ・ヘフェリン それにしても「自分の体は自分でコントロールできるものだ」という日本人の信念にはすごいものがあります。これが宗教なのではないかと思うほどです。
サンドラ・ヘフェリン 筆者が「体調が悪くなるのは、周りにとって迷惑なこと」というニッポン風の価値観と初めて接したのは小学生の時でした。
サンドラ・ヘフェリン 体調管理でも露見する「体育会系の思考」
サンドラ・ヘフェリン 日本では、「風邪は万病の元」という言い回しがある一方で、風邪というものが軽く見られている気がします。ドイツでは風邪をひいた人は「今病気なんです」という言い方をするので、筆者も日本に来たばかりの頃は風邪をひいた時に「病気です」と言ったら、「風邪は病気ではない」「そんな大げさな」と叱られてしまいました。 貴方が上に立つなら慕われなければならないし、貴方が下に立つなら可愛がられなければなりません。 上の者は下の者を可愛がり、下の者は上の者を慕う。これぞ、御恩と奉公。 恋愛論
恋愛市場価値において、男が上の場合はその関係性は「男性」と「少女」になる。
恋愛市場価値において、女が上の場合はその関係性は「女性」と「少年」になる。 上の者を慕い、下の者を可愛がる。これができれば封建社会に適応できる。 原爆開発は日本でもやっていたし、人種差別や征服戦争と植民地支配、現地人の奴隷化も日本もやっていた。どうして日本人の私が自分の民族を棚に上げて白人だけを糾弾できるだろうか?いや、できない。 学校では決して教えてくれないが、若い頃から頭に叩き込んで
おいた方がいいことの一つとして、権力側が突き付ける要求は、
ほとんどまず例外なく"Stop beating your wife!"(「妻に暴力
をふるうのをやめろ!」)のようbネ形式をとる、bニいうことがあb驕B
私もそれなりの経験を重ねる年齢になるまで、そのような要求
は単に、事実認識の誤りや誤解に基づくものだと思い込んで
いたので、どれほどの多大な労力と時間を無駄にしたか知れない。
それは、例えば、そのような要求に対して、「自分は既婚者では
ないので、要求そのものが事実無根で馬鹿げている」といった
態度を貫こうとすることだ。そうやって相手の要求を拒絶すれば、
相手側は、「では要求を拒否して、妻に暴力をふるうのをやめる
つもりはないのだな」とたたみかけてくる。要求を無視すれば、
「応答することを拒絶する不遜な態度を示した」ものと烙印を
押され、応答しないことは要求の拒絶に等しいとされる。
もともと、そのような形式であることが意図されているのだから、
事実関係の認識と正そうとか、誤解を解こうとすることは
完全に無駄である。要求を突きつける側が、そのような「弁明」
に耳を貸そうとすることは決してない。そのために自分が
費やす時間と労力はすべて無駄となり、無力感に苛まれるだけ
である。対抗する権力を握っているのでないかぎり、対処法は
ないし、対抗する権力が示せるなら、そもそも、そのような
要求を突き付けてくることはない。できるのは、自らがその
ような状況に置かれていることを認識して、時間と労力
と気力を浪費しないようにすることだけだ。 なんでこんな奇妙な文字化けをしたのだろう。
bネ形式をとる、bニいうことがあb驕B ×
な形式をとる、ということである。 〇 あれ、表示が文字化けではなく、元に戻っている。
「ことがあb驕B」×は、「ことがある。」〇の方が正しい。 勝手に文字化けしたり、勝手に元に戻ったり、
これだから電子形式の文書は信用できない。 精神年齢が高い人ほど、他人の動きが正確に予測できるだろう。 男は、女性の方から言い寄ってくるようでなければダメだ。 明日の事は運命に委ねる
運命の為すがままに
インシャーアッラー 明日どうなるかは既に決まっている。私は決定論者だからそう信じている。
決まりきったことが予定通り行われるだけなのだから、何も心配いらないし、気に病まなければならないことは微塵もない。
ああつまらない、全員一生予定通りか。 万事貴方の望み通りになるだろう。貴方がそうなることを信じさえすれば。
なんちゃって笑! 日本人の業で、どうしたって2017年が一番早い。
それから4年が経ってからスタートだからまあまあ。
最悪リミットはあった。 日本人が飛鳥時代くらいからやってきた川の問題で1984年から40年間くらい苦しい状況に陥るのは目に見えていた。 もし各存在が1990年代に配置されていたら痛快に逆転の目はあったが、日本人の大部分が1980年に川に巻き込まれて覆っていっただから仕方がない。 それもこれも全部含めて2017年が一番早く、2028年が一番遅い。何から何まで駄目で2028年に情勢が動いていたらほぼ日本人が死滅した恐れがある。 肉体関係がないなら同時に複数人の女性と付き合うことは法的にも社会的にも何の問題もない 肉体関係がないなら同時に複数人の異性と付き合うことは法的にも社会的にも何の問題もない 差別愛を持つ人には差別愛を持つ人が、無差別愛を持つ人には無差別愛を持つ人が集まってくる。 女性の知人との一回目のデートは一次面接だ。そこを突破しなければ二次面接には進めない。二次面接を突破したら三次面接だ。 北伐の念願京都比叡は果たせそうだな。今京都あたりの後方支援。兵庫京。 軍医と首切り役人もやったし能力上がったよ。武力知力魅力政治。 統治するとき下の身分からじゃだめ、ハラスメント治安に不安、女性も男性もピークからつなぐ。実績より即戦力
になりやすい。 恋は熱しやすく冷めやすい
愛は熱しにくく冷めにくい 私にとっては彼女はただ一人の女友達だが、彼女にとっては私は無数にいる知人の一人に過ぎないのだ。 そうなる覚悟があればそうなっても平気だし、そうならない。 恋は希望的観測と抑圧リアリズムの間を揺れ動くが、おそらく後者が正解だろう。 自分の優れている点は素直に認め優越感を持て
他者の優れている点は素直に認め劣等感を持て 何がどう実現され得るのか、期待そのものが見失われているのが現状でしょう 貴方の意志の実現を阻むものが、アッラーの意志に従っているのだということが貴方にはわからないのですか? 貴方の人生が貴方の思い通りになっているのであれば、貴方は賢く有能だ。
貴方の人生が貴方の思い通りになっていないのであれば、貴方は愚かで無能だ。 生きとし生けるもの全てと死ぬまでいい関係を持つことができますように 八坂神社で見つけたエマを家に持ち帰った。
星空が綺麗に輝きますように
というものだった。 地球はイスラム教修道院
男は皆イスラム教修道士
女は皆イスラム教修道女 大学の同窓生が同じ会社で働くことになるかも知れんし、OBOG会で大学の同窓生と会うこともあろう。大学の人間関係を疎かにするべからずだ。 髭長髪以外禁止。神髭生まれつき生えない以外。カット整えはいい。 髭長髪以外禁止。髪髭生まれつき生えない以外。カット整えはいい。 そんなこと裁判か訴訟にするしかないだろう社会的に。 だからワークスタイルとかアクティブなほうがいいよね。 イスラムは髭多いさっていうかどの宗教も髭長髪全部なもんかも。 覗きたかり性暴力が管理されてるのか。それしなきゃそういう風に普通でいられる。 青ざめる話だよな。無視していくしかないね。女性の本質以外。 男性の女性化ということかもしれないけど意図したことだろう。
その割に短髪が多いところが重要か。尼僧化なんて性別歳ごまかしてんじゃねえよ。 完璧な人間には二通りある。
愚かな者は、100点満点を取って人に脅威を感じさせる。
賢い者は、100点満点取れるところをわざと間違えて80点を取ることで、人に安心を与える。 日本の哲学者てどちらかというと歴史家にちかいね。入門書を書いてるぶんにはおもしろい。
いまだにフーコーとか言ってるだけ時代にとりのこされている。 Kojin Karatani (柄谷行人)
Hitoshi Nagai (永井 均)
Shigeki Noya (野矢 茂樹)
Ryota Matsumoto (松本良多)
Masahiro Morioka (森岡 正宏) アジア人嫌いの人に愛される努力をするより、アジア人好きの人に愛される努力をする方がはるかに容易い。
同様に、自分のことを嫌いな人に愛される努力をするより、自分のことを好きな人に愛される努力をする方が容易い。 大人とは、フランクルが言う態度的価値を持つ者だ。ブッダの言う悟りを得ている者だ。 しかし日本の哲学はなんかさびしい。まだ儒教の先生になったほうがよさそう。 世界を征服し世界中の美女を妻にしても、これ以上やることはないという虚しさに襲われるだけだ。 国によってワキガの匂いがちがうからチーズをたのしむかんじか。 まあローザ ルクセンブルクから加速主義にはいったていう思想家もいるから明治維新以来から
西洋のことを系列だてて日本人は学ばないんだよ。 性交というものは男女が互いの身体を使ってオナニーすることでしかない 婚姻届を出した当日に離婚届を出してはならないという法律はあるのか? 邦楽とかジェイポップのように日本で完結してしまう自称哲学のオナニー環境でしょ。 「駿河(するが)なる富士(ふじ)」、
「『する』が『なる』不死」、すなわち、「『する』=『なる』不死」、
多くの人は、この「『する』が『なる』」を、「『な(為)せ』ば『な(成)る』」
と読み違えてしまう。だから、「富士」と「茄子」を夢見ることになるのだ。
しかし、「『する』が『なる』」は、「『なせ』ば『なる』」ではない。
「する」とは、《laisser faire》であり、「なる」とは、《se faire》である。
つまり、「『する』=『なる』」とは、"《laisser faire》=《se faire》"
であり、それが「不死」なのである。それを「『なせ』ば『なる』」
と読み違えると、"《laisser se faire》=《se faire》"という思ひ違いが
生じて、「『な(成)る』ことがないのは『な(為)す」ことをしないからだ」
という無理な考え方をするようになる。 「駿河なる富士の高嶺」に、「なす(為す/茄子)」ことによって「な(成)る」
「富士/不死」の「たか(高/鷹)み(見)」を夢見てしまうのが、大衆である。 いくらワクチン接種をしても、人は不死にはならない。 不死になれずとも彼らは仲良くなれるであろう
同じ傷を負った同志として 深い深層意識下で結ばれるであろう
傷を舐め合いながら 慰め合いながら… バカを免罪符にしてはいけない。しっかり相手を想い遣れ。 甘えることは悪いことではない。しかし、甘えは弱さなのだ。甘えた分だけ対等と見做されなくなる。 神が私をふさわしくないと思えば、私から取り上げて他の男にあげるだろう。
主は与え、そして取り去る。主の御名は誉むべきかな。 哲学もファッションかな。20年ごとにリバイバルがあるきがする。
加速主義もそうかも。 まあ左翼のこころみがただの。理想になったいま、ファンタジーか大学の教授のかねかせぎに
になってるんだろ。 egoは捨てられないし捨てる必要もないが、egoismは捨てられるし捨てる必要がある。 制度的な「人文学」、つまり、人文学を本来的に取り込んでいる
「人文学」を標榜する反人文学が目的としているのは、本来は、
「人間工学」と呼ばれるようなものである。
人の「こころ(心)の動き」には定まった方向性がないため、
それを統治によって直接に支配/制御することは難しい。
そこでまずは「こころ(心)の動き」を人為的に徹底的に抑制する。
すると、力によって抑制された「こころ(心)の動き」は、
表には現れない「うら(恨)み」となる。
その「うら(恨)み」を表出させる「道筋」に暗黙に
お墨付きを与えてやれば、「こころ(心)の動き」は、
方向性を与えられて現れることになる。「道筋」を
与えて表出した「うら(恨)み」を暴走させて、または
それが暴走しているように演出してやれば、
「うら(恨)み」を表出させる人々にとっても、結果として
「あ(悪)しき」状況がもたらされる。すると、今度は、
人々にその「あ(悪)しき」状況を、自らの「つみ(罪)」が
招いた結果として認識させて、「く(悔)ひ」に導くことが
できる。こうやって、本来は方向性の定まらない
「こころ(心)の動き」に具体的な方向を与えてやって、
それを人間工学的に誘導することを可能にしようとするのである。 そのような人間工学の手前に留まっているのが、フローベールの『感情教育』
のような作品であり、それに対して「ポスト」的な諦観を表現しているのが
ランペドゥーザの『山猫』のような作品であると見ることができるだろう。
クンデラの『冗談』などは、その人間工学に巻き込まれたただ中にいる
状況から生まれていると考えることができる。 これに関連して言えば、私はタブッキの初期の『イタリア広場』のような作品も、
後期の『供述によるとペレイラは…』のような作品も評価していない。 私がマーライ・シャーンドルの作品が好きなのは、小説家としての
技巧が優れているからというのではなく、その自伝的な作品や
エッセイが、自らの体験の綿密な観察を通して、そのような
人間工学の働きを仔細に描き出しているからである。 そこまで尽くしてくれなくていいよ。と言われるほど尽くさなければ尽くしているとは言えない。 「みを」とは、舟がが通る「水脈」である。
なぜ「みを(水脈)・つ・くし(串)」を「たの(頼)み」にするかと言えば、
水深が「あさ(浅)」いと、舟が浅瀬に乗り上げてしまうからだろう。
https://manyoshu-japan.com/10149/
万葉集 第14巻 3429番
等保都安布美 伊奈佐保曽江乃 水乎都久思 安礼乎多能米弖 安佐麻之物能乎
遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを
とほつあふみ いなさほそえの みをつくし あれをたのめて あさましものを 「引佐(いなさ)細江」とは、その表記のとおり、舟を引き入れるための細い江/水路(inlet)だろう。 ここで、「みをつくし(澪(/水脈)標)」は、「み(身)をつ(尽)くし」と
重ねられているのだから、当然、「ほそえ(細江)」は、「ほそえ(細枝)」
と重ねられているものと推測することができる。 「枝(え)」に見られる「や行え」の発音は、「支え」るイメージを
想起させたはずであると思われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/や行え
「ye」と発音されていた音節を含む語には、次のようなものがある。
兄(え)
枝(え)
枝(えだ)
楚(すはえ)
机(つくえ) 日本語の表現は、論理性が弱いどころか、その発音によってあまりにも
効率的に/効果的に論理性を表現しているため、その論理性が明示的に
意識されにくいのだ。 私は、基本的に他人のどんな書込みでも歓迎なんですよ。
何か自分の体系的な知識の蓄積があって、それを披露したいということ
ではなくて、そのときどきに思ひついたことを忘れないように書き込んでいる
だけだからね。だから、誰かが何か思ひつきのきっかけを与えてくれる限り、
書き込むネタが尽きる心配はないw 現代語には、「水先案内人(みずさきあんないにん)という言葉があるが、
「みをつくし(澪標)」は、水路を誘導する標識の役割をするように
立てられるものなのだから、「みを」の「を」には、「『を』し(教)ふ」
の場合と同様に「誘導する」イメージを想起させたはずである。 >>705
以前にも書き込んだが、「みをつくし」は、通常、辞書では、「みを
(水脈 )・つ・くし(串)」として語源を説明されているが、「つくし」が
そのとおり、「つ・くし」であったのか、それとも「つくし(標)」で
あったのかははっきりしない。
いずれにしても、「みをつくし」は、辞書にも記載されるとおり、
「航路標識」として用いられたことは確かであるが、「『航路』標識」
と表現することは、その動的な身体性を弱めてしまう。より適切な
現代語としての解釈は、「航行/ナビゲーション標識」であり、舟を
操る者が、舟が浅瀬に乗り上げないようにするための固定された
パイロット信号である。 『萬葉集 四 新潮日本古典集成』、p.111に記載される注釈では、この歌は、
「一旦靡(なびく)くと見せかけて裏切った女を恨む歌」であるとして、
>あれをたのめて あさましものを
を「すっかり私を安心させておきやがって、いっそ干してあげてやれば
よかったものを」と現代語訳している。これに対して、引用したサイトは、
その同じ語句を、「そのみをつくしのように私を頼りにしおって、
なんともあさましいものよ」と訳して、別様に解釈している。
実際、この歌の解釈は、「一筋縄ではいかない」だろうと私には
感じられる。というのは、その言葉の表現には、明らかに男性と女性
の視点が絡み合っているからである。だからこそ、
「あれ(我)をたの(頼)めて」が、引用した2つの訳では解釈が互いに
まったく逆になっているのだ。 『万葉集ナビ』の方は、「みをつくし」自体を、女性に頼みにされる男性自身
の喩へと見ているが、これらいずれの訳も、この歌を、女性を非難するように
詠まれたものと解釈することにおいて共通している。しかし、私には、
この歌には、別の解釈も十分に可能ではないかと思える。それは、
「舟が浅瀬に乗り上げてしまう」ことを専ら否定的には見ない解釈である。
「万葉集ナビ」の、「みをつくし」を「女性に頼みにされる男性自身」と
する解釈は、この歌に表現される「航行の操作」という身体性から見て、
無理があるだろうと感じられるので、『新潮日本古典集成』の註釈の
とおり、「女の譬え」とする方が自然だろうと私も思う。その一方で、
「浅瀬に乗り上げさせる」ことを意味する「あさまし」を、実際の舟
の航行の場合と同様に「望ましからざること」と見る必要はないだろう。
「み(身)をつく(尽)す」女性に誘惑されて、自由に動きがとれなくなること、
それを男性自身が「誘惑」として認識しながらも、自ら望むということは
十分にあり得るのではないか。 そのように解釈した場合、
>みをつくし我れを頼めてあさましものを
は、「身を尽くして/水路の『航行標識』のように私がそれを頼みに
するように誘惑して、浅瀬に乗り上げさせて欲しい」、つまり、
いわば女性に「難破」することの願望の表現となるだろう。 そもそも、それが異性関係についてのものであるかどうかにかかわらず、
歌を詠/読む感性を、善悪二分法によるものとする解釈の暗黙の前提
そのものが疑わしいのではないか。例えば、私はそのTVドラマを
観ていないので内容はまったく知らないが、『愛の不時着』という
題名は、専ら否定的な状況を喩へた表現なのだろうか。 >>715
誤:舟を操る者が、舟が
正:舟を操る者が、舟を >>716
『萬葉集 四 新潮日本古典集成』の
>すっかり私を安心させておきやがって、いっそ干してあげてやればよかったものを
という現代語訳は、「みをつくし」を「女の譬え」としている一方で、
「干してあげてやる」ことを男の行為としているのだから、
解釈に整合性が欠けているだろう。 無論、「みをつくし」は、水路で舟が浅瀬に乗り上げないように安全に
航行を誘導するためのものなのだから、その「みをつくし」に誘導される
ようにして「浅瀬に乗り上げることを望む」という解釈にも整合性が欠けて
いると指摘はあり得るだろう。だが、人の「望み」が必ずしも
「安全に誘導される」ことと合致するわけではないことは、
船の航行の安全を確保するための警笛である「サイレン」と、
その語源とされる「セイレーン」の関係を想起してみても明らかでは
ないだろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/セイレーン
>海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や
難破に遭わせる。歌声に魅惑された挙句セイレーンに喰い殺された
船人たちの骨は、島に山をなしたという。
>その名の語源は「紐で縛る」、「干上がる」という意味の
Seirazein ではないかという説が有力である。
https://www.etymonline.com/search?q=siren 学識は、感性の貧しさを覆い隠すために使われるべきものではない。 妻は持つまい。恋人も持つまい。知人や友人は持ってもいいが、持たなくても罪ではあるまい。 円満に別れることができた。
会って話さなければmismatchに気づくことはできなかっただろう。
会社と労働者はただ条件のみで結ばれるのではない。進むべき方向性が一致して初めて協力して進んで行くことができる。進むべき方向性が異なれば、会社は別の労働者を雇えばいいし、労働者は別の会社に就職すればいい。 自分は相手を愛さないが、相手には自分を愛して欲しい。そういうタイプの人間はいる。 「お前はダメだ」という評価は、それが何であれ「『する』ことが
『なって』いない」ということ、つまり、「『する』≠『なる』」
であるという評価だが、自身が「ひと(他人)」によるそのような
判定に囚われて、それに振り回される必要はない。そのような
判定は、結局のところ、評価する側の都合の表明に過ぎないのだから。
そんなことばかりを気にするより、「みづから(身づ柄/自ら)」は、
「『なる』べく『できる』ことを『する』」ように心がけていれば
よいのである。そうやって自らに「できる」ことを「して」
いれば、何であれ「する」ことは「『なる』べくして『なる』」
ようになり、みづから(身づ柄/自ら)が、いつでも自然と
「駿河なる富士/『する』=『なる』不死」と向き合ふようになるのだ。 "Que Será, Será"というのは、「どうにでもなれ」という
なげやりな姿勢ではなく、「自然のさだ(定)め」である。 「駿河なる富士/『する』=『なる』不死」と向き合ふために大切なのは、
「『なる』べく『できる』ことを『する』」ことであって、
「『する』べきことを『する』」ことではない。
「『なる』べく『できる』ことを『する』」ことを実現するのに
要求されるのは、「『する』べきでないことを『しない』」ように
心がけることである。 「『なる』べく『できる』こと」を「ひと(人)」が「さだ(定)め」ることはできない。
自然において、「ひと(人)」も、「『なる』べく『できる』こと」の
「さだ(定)め」に従っているに過ぎないのだから。 「なるべく『して』なる」とき、その「する」作用は、
人為ではなく、自然の働きである。 「『する』べきことを『した』」から、自然の働きが
みづから(身づ柄/自ら)の思ひどおりになったのだ
などと考えることは、まさしく「をこがましい」。 「するが(駿河)なる」こと/「『する』=『なる』」ことは、
自然がもたらす「『し』あは(合)せ」/《bonheur》であって、
人為ではない。 自民党総裁 安倍晋三
「憲法が国の権力を縛るという考え方は古色蒼然とした考え方」
自民党元法務大臣 長勢甚遠
「国民主権、基本的人権は(憲法から)無くさなければいけない」
自民党副幹事長 西田昌司
「そもそも国民に人権がある事がおかしい」
自民党内閣府特命担当大臣 片山さつき
「(改憲して)天賦人権説をとるのは止めよう、というのが私たち自民党の(改憲に対する)基本的考えです」
自民党憲法改正推進本部長 船田元
「公益のために私有財産を没収できるようにしたい」
「立憲主義を守って国が滅んだらどうする」
自民党元防衛相 稲田朋美
「国民の生活が大事なんて政治は間違い」
日本人「うぉぉぉ!支持!支持!」 妻子を持つのは自尊心であり、性欲ではない。なぜなら、オナニーすれば性欲は満たせるからだ。 自然と「『なす』がままに『なる』」、「『なす』=『なる』」となる
のは、自らが「茄子(なす)」である場合だけだ。 自尊心や性欲を満たすことがいかに虚しいことかわからぬ奴は真の虚無主義者とは言えない 399考える名無しさん2021/10/12(火) 07:44:18.170
>>396
人(ひと)であれ、他の動植物であれ、細菌類であれ、生きていること
そのものが、身の栄養となるものを食う(dévorer)活動であり、
人にあっては、その活動は、我が身を食う(dévorer)ような欲求
が感じられ、我に知られることと表裏一体である。
「いやらしい」の「いや」とは、「きら(嫌)ふ」という意味ではない。
そうではなく、本来的に「いやま(増)し」の「いや」、
「いよいよ(愈々)」の「いよ」と共通する表現であり、「いやらしい」
とは、そのような様態の作用を生じること、ドイツ語を用いるなら、
"hinweg"や"abweg"として形容されるような振舞ひを生じさせる
ということである。何かが生きていて「我が身を食う(dévorer)」
なら、自己のものとしてであれ、他者のものとしてであれ、
それは「いやらしい」作用として現れる。 誤:"hinweg"や"abweg"として形容される
正:"hinweg"や"abweg"のような表現を用いて記述される
まだ十分にうまく記述できていないな
説明としてよりスムーズな表現を見出す必要がある 「いやらしさ」を抑制しようとするなら、それはそのまま
人を支配しようとする「いやらしさ」となって表れる。 ひと(他人)をおのれ(己)の「「『なす(為す/茄子)』がままに『しよう』」」と
することは、「いやらしい」。 誤:「「『なす(為す/茄子)』がままに『しよう』」」
正:「『なす(為す/茄子)』がままに『しよう』」 人の「いやらしさ」の認識は、統治にどのように利用されているのか?
このように誰でもが我が身のこととして考えることができるような
表現で問ふことが、哲学をすることにつながる。 「いやらしい」人間は、矯正して、社会的に更生させましょう、
というような建前で構築される人間関係は、全面的な偽善で覆われる。 「はしたない」とはどのようなことか。
また、それは統治にどのように利用されるのか。 死ぬ時に今日を振り返っていい一日だったと思える一日にしよう >「いやらしい」人間は、矯正して、社会的に更生させましょう、
>というような建前で構築される人間関係は、全面的な偽善で覆われる。
「いやらしい」人の「はしたない」振舞ひを取り締まり、矯正して、
更生させるために、あらゆる人のプライバシーを匿名で「覗き見る
行為」がお墨付きを与えられて、常習化し、常態化する。ところが、
「覗き見」は、「いやらしく」、「はしたない」振舞ひの代表である。 人は、「公共の健全化による安全や安心」のための《vigilance》に
自らが協力する行為を、神の《bienveillance》に寄与することとして
「お墨付き」が与えられたものとして正当化したがるが、その協力は、
それが積極的に行われるものであれ、消極的に行われるものであれ、
全体主義の《malveillance》に対する《collaboration》
と本来的に区別がつかない。 人は、そのことに気づいても協力することをやめようとはしない。
むしろ、そのことに開き直って、いつでも《bienveillance》と
される側にいられるように、変わり身の速さにだけ集中する
ようになる。 山田(やまだ)の中の一本足の案山子、
天気のよいのに蓑笠(みのかさ)着(つ)けて、
朝から晩までただ立ちどおし。
歩けないのか、山田の案山子。
山田の中の一本足の案山子、
弓矢で威(おど)して力(りき)んで居(お)れど、
山では烏(からす)がかあかと笑う。
耳が無いのか、山田の案山子。 人生は運ゲーとか糞ゲーとか言われているが、本気になると宅間守みたくなるから本気になるな。 インシャラー
唯物論と決定論が真理であれば、いずれ人類皆が唯物論者となり決定論者となるだろう。
アラーアクバル 「言語は存在の家である」とは、ハイデガーの言葉だが、
日本語では、「考える」ことそのものが神を宿すとともに、
神が入れ代わることを可能にする。
「考える」とは、「かむ・かへる」ことであり、もともとの形は、
「かむ・か(交)ふ」である。古語には「かむ(神)・ながら」や
「かむ(神)・さぶ」といった表現があるが、「かみ(神)」の語源と
なった「かむ」は、「かめ(甕)」や「かも(醸)す」、「かめ(亀)」と
共通して中国語の「鑒(Middle Chinese:/kˠamH/)」に由来し、
それをエコー・チェンバー("echo chamber"/《chambre de réverbération》)
効果をイメージさせるように流用したものなのだ。
したがって、「かむ・かふ」は、英語で表現すれば、"to reflect"に
対応するが、そは単にエコー・チェンバ―効果における反響作用、つまり、
"inner refletion"のようなものではなく、「か(交)ふ」ことにおいて、
その入れ代わりを可能にする"pondering"、ドイツ語を用いるなら、
〘Abwägung〙でもあるのだ。
学校制度における「をし(教)へ」が、「自分で考える力」をつける
ことを名目としては目標に掲げながら、実際の教育においては、
専ら命令に従順に従ふことと、暗記を重視し、自分で「考え(かむ・かへ)」
ようとする行為は、暗黙に徹底的に潰そうとする理由もそこある。
「かむ(神)・か(交)ふ」ことを許すことは、勝手に神を交代させる
ことを許してしまうことになるのである。 学校制度の「をし(教)へ」においては、「をそ(教)はる」側が、
「それは、ちょっと考えさせてください」と応えることは許されないのである。 https://www.etymonline.com/search?q=reflect
reflect (v.)
late 14c., reflecten, "turn or bend (something) back, reverse;" early 15c.,
"to divert, to turn (something) aside, deflect," from Old French reflecter (14c.),
from Latin reflectere "to bend back, bend backwards, turn away,"
from re- "back" (see re-) + flectere "to bend" (see flexible).
Of mirrors or other bodies or surfaces, "to shine back light rays or images,"
early 15c., later also of heat or sound. The meaning "to turn one's thoughts
back on, resolve matters in the mind" is from c. 1600. 自分で「考え(かむ・かへ)」ることを許さない「反省」は、
制度宗教における《recueillement》と変わらないものとなり、
神学にいそしむのに役に立ったとしても、哲学の歩みには役立たない。 哲学の「考え(かむ・かへ)」方が「不穏」であるとすれば、それは、哲学の
歩みそのものである試行錯誤が、「あ(敢)へて」のこころ(試/こころ)み
であり、みづから(身づ柄/自ら)のいのち(命)が尽きる(≒「たま(魂)
きは(際)る」)のに先立って、いき(生/息)ることをかね(予)てわ(詫/侘)ぶ
ことをいさぎよ(潔)しとはしないからである。 学校制度における「をし(教)へ」が、目標としているのは、「自分で考える力」を
つけることではなく、試験をする側が出す課題の意図を「自発的に忖度する能力」
を磨くことである。 「かむ(神)・か(交)ふ」ことによって「かみ(神)」が「か(還)へ」る。 「考えること」、「『かむ・かふ』こと」は最初から、"turning over of the divine"である
のだから、「ゆゆ(忌々/由々)し」くないはずがないのである。 >>778
「ゆゆ(忌々/由々)し」きことが生じないようにすることが「いは(祝/斎)ふ」
ことなのだから、これを逆に見るなら、人は「いは(祝/斎)ふこと」において
「考えること」、「『かむ・かふ』こと」をやめることが分かる。 388考える名無しさん2021/10/16(土) 11:13:06.750
https://manyoshu-japan.com/9338/
第19巻 4240番
大船尓 真梶繁貫 此吾子乎 韓國邊遣 伊波敝神多智
大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち
おほぶねに まかぢしじぬき このあこを からくにへやる いはへかみたち
389考える名無しさん2021/10/16(土) 11:23:23.920
さて、「いは(斎)ふ」とはどのような意味でしょう。
390考える名無しさん2021/10/16(土) 11:27:13.780
かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれば
ねが(願)ひもみ(満/三)つのやま(山)ならん
(能「俊寛」)
393考える名無しさん2021/10/16(土) 13:15:55.820
「ねが(願)ひ」が「み(満)たされる」ことが、
神に「いは(祝/斎)は」れることの実現にあるとすれば、
それを「まつり(政/祀り)ごと」としてイデオロギー化するなら、
それは「保護主義」/"protectionism"となるだろう。 それでも、「斎(いは)へ神たち」という「かみ(神)」というこの歌の表現には、
「いは(祝/斎)ふ」ことについて、人に「考え(かむ・かへ)」させる契機がある。
ここで、「斎(いは)へ神たち」と呼びかけられているのは、無論、「みづから
(身づ柄/自ら)」が「いは(祝/斎)ふ神たち」でもある。この関係性が人に
意識させるのは、氏神との内向的な互恵関係だろうか、それともより一般化された
互酬的な取引き(ドイツ語にするなら〘Verkehr〙)の関係だろうか、それとも
「いは(祝/斎)ふ」という行為がどのようなものであるのかという、人にとっての
その意味の分有だろうか。 誤:「斎(いは)へ神たち」という「かみ(神)」という
正:「斎(いは)へ神たち」という 私は契約社員であり、雇用契約は半年。使えないと判断されれば雇用契約は更新されない。2022年3月いっぱいでクビだ。 ハンコ一つまともに押せぬゴミの腹に入る飯が可哀想だ。死ね。 朱肉の使っているインクが悪いだけだよw
どうでもいいと思っているからわざわざ買う気がない。 "Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen."
とは、ヴィトゲンシュタインの言葉であり、一般に
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」と訳されることが、
これがどのような意図を伝へようとした表現であるのかについて、
あたかもこれが何か哲学的な考え方の秘儀を伝授するものであるか
のように、日本の哲学関連の言説においても頻繁に論じられてきた。
その一方で、日本語の表現に見て取れる一般的な慣習として、日本
では、「語り得ぬものについては、いは(祝/斎)ふべきである」と
されることについては、誰も表立って議論を展開しようとしている
ようには見えず、まさしくそのまま、「語り得ぬものについては、
いは(祝/斎)ふべきである」という規範に暗黙に従っているように
見える。ただし、ここで留意すべきは、「いは(祝/斎)ふ」ことは、
本来的に両義的であるものと理解されることだ。すなわち、
「いは(祝/斎)ふ」ことは、一見、沈黙することとは真逆である
ように見える「こと(言)祝(ほ)ぐ」ことを意味するとともに、
沈黙を守ることを含め、「い(忌)みつつしむ」ことを表現して
いるものと理解されることである(私は、「い(忌)む」の「い」
は、「諱/忌み名」という表現において「諱」が本来、「韋」
の文字から見て取れるように「ゐ」と発音されるべきものと
推察されるとおり、もともとは、「ゐ」であっただろうと考えて
いる)。 「いは(祝/斎)ふ」べきときにそれをおこた(怠)ることにより、
「ゆゆ(忌々/由々)し」きことが生じるおそ(畏)れがある、というのは、
何も「古代の日本の信仰」に限定された考え方ではなく、
現代の日本で暮らす多くの人々の日常の習慣的な感覚でもあるだろう。 >日本語では、「考える」ことそのものが神を宿すとともに、神が入れ代わる
ことを可能にする。<
「かむ・かふ」ことは、神が入れ代わることを可能にすることにおいて、
本来的に「ゆゆ(忌々/由々)し」き事態を招き入れかねないことであるとしても、
「かむ・かへ」には必然的に神が宿るので、「神の不在」が生じるわけではない。
「かむ・かふ」ことが何をどのように言挙げ/言語化したところで、
最終的に「かむ・かへ」に宿る神の効果、すなわち「かむ」の「かひ(効)
は、「語り得ぬもの」であり、それが神の御(み)心/意(こころ)である。 「かむか(考)へ」は、それが「かむか(考)へ」である限りで反転を繰り返す。
到達した「かむか(考)へ」を、あたかもそれが順次の直線的な進行の結果
であるかのように見なすことは、そこに到達するまでのステップの
正統化のための事後的なフィクションである。 >>785
他人の振舞ひのそんな細かいことにまでこだわって監視して、わざわざ
便所の壁にまで書込みにくる自分の人間性の方を心配した方がいい。
だいたい、ハンコの押し方ひとつがそんなに大切なら、ペーパーレス
を強制的に押し付けるとか完全に矛盾しているのだから、反省しろ。
その矛盾には、本当のところ、ハンコなどどうでもいい、ともかく
どんな細かいことでも他人に指図できる立場の優位を確保し、強化
したいという裏の意図がミエミエだ。 日本語の「い」の発音においては、古代から"i"と"yi"の区別はなかった
ものとされ、「あいうえお」の「い」と「やいゆ𛀁よ」の「い」は
発音上、同一であるとされる。しかし、このことは、「い」が
「や行」の活用として、つまり、"yi"として意識されなかったこと
を意味しているわけではない。実際、「い」の発音が用いられる
表現において、「い」には、「行」、「寝」、「沃」、「伊」、
「鋳」、「鋳」、「忌」、「出」、「入」、その他、様々な漢字
が当てられてきたが、例えば、「行く」が「ゆく」と読まれ、
「ゆめ(夢)」の古語が「い(寝)め(目)」とされ、「忌々し」が
「ゆゆし」と読まれるように、「い」が「ゆ」に変化することは、
それらの「い」が「や行い」の活用としてイメージされていること
を示唆しているだろう。それだけでなく、それらの多くの場合に
おいて、当てられる漢字は異なるものの、そのように「や行い」
としてイメージされる「い」は、流体的な動きを想起させるように、
英語をメタ言語として用いるなら、"to pour"に対応するような
イメージを想起させるように用いられている。このことは、「沃(い)」、
「鋳(い)」、「泉(いづみ)」などの場合には明白であるが、「いづみ」
が「出水」とも解釈されるように、「出(い)づ」や「入(い)る」の
場合にも、それぞれ、"to continually pour out"、"to pour in"に
対応するようなイメージで理解される。このことは、一見、そのような
「い」の用法とは無関係であるように見える「いは(祝/斎)ふ」という
表現の場合にも同様である。 なぜ、「いは(祝/斎)ふ」の「い」もそのように理解できるのかと言えば、
それは、以前に指摘したことのある「い」と「ゐ」の対比が関係している。
「い」が"to pour"に対応するようなイメージを想起させるように用いられる
とするなら、「ゐ」は、「居(ゐ)」、「堰(ゐ)」、「圍/囲(ゐ)」などが
そうであるように、「い」の動きを抑え込むような働きのイメージを想起
させるように用いられる。
では、「いは(祝/斎)ふ」の場合はどうかと言えば、「いは(祝/斎)ふ」は、
「ゆゆしき」ことが生じないようにすることを表現しているので、そこで
用いられているのが、「ゐ」ではなく、「い」が用いられているのは
矛盾であるように見える。その名詞形である「いは(祝/斎)ひ」に英語
で対応するのは、"continence"であり、
https://www.etymonline.com/search?q=continence
「いは(祝/斎)ふ」ことは、"to contain"に対応する作用を働かせること
を表現しており、このことは、語源的に直接につながるフランス語の
表現、例えば、《se donner une contenance》が「内心の動揺を隠す」
(クラウン仏和辞典)ことを参照しても確認できる。というのも、
「ゆゆし」とは、「動揺を生じさせる」ことを意味しているからだ。 にもかかわらず、「いは(祝/斎)ふ」が、「ゐは(祝/斎)ふ」ではあり得ない
のは、この表現がそもそも、「い」を自ずからの作用として表現する
再帰表現である「い・ふ」を、それによって表現される働きをさらに
ひっくり返すようにさらに反転させる「『い・は』・ふ」という二重の
再帰表現として形成されているからである。
「そ(反)る」/「そ(沿)ふ」のような再帰表現で見られる、作用をひっくり
返す「ふ」の用法は、それが二重に用いられる場合にも有効なのである。 https://manyoshu-japan.com/11269/
万葉集 第10巻 2309番
原文 祝部等之 齊經社之 黄葉毛 標縄越而 落云物乎
訓読 祝らが斎ふ社の黄葉も標縄越えて散るといふものを
かな はふりらが いはふやしろの もみちばも しめなはこえて ちるといふものを 誤:"to continually pour out"
正:"to continuously pour out" 誤:形成されているからである。
正:形成しているからである。
訂正しても、あまり分かりやすくならないけど、表現がいとも簡単にやって
いることを、それに沿ってメタ言語で記述しようとするととても複雑になる。 より簡単ではあるが、曖昧/両義的にしか理解されない説明をするなら、
「いは(祝/斎)ふ」は、「『い・ふ』ふ(=「反転させる」指示)」であり、
「いふ(≒"to pour of its own")」によって表現される作用をひっくり返す
ことを表現している。
そのひっくり返し(≒"turning")の指示によって、「『いふ(≒"to pour of
its own")』ふ(≒"turn")」/「いは(祝/斎)ふ」は、「い(忌)みつつしんで
(≒"continence"を働かせて」、「ゆゆしき」ことが生じないようにする
ことを意味するわけだが、「いふ(≒"to pour of its own")」を
「ひっくり返す」という指示は、本来的に曖昧であり、それによって
「どうひっくり返す」べきなのかが明確に理解されるようになるわけではない。
ところが、日本語は、そのようにして生じる理解の「曖昧さ/両義性」を、
「いは(祝/斎)ふ」の用法においてその実例が典型的に見られるとおり、
意図的に十全に活用するのである。 ヴィトゲンシュタインの言葉については、多くの日本の哲学の関係者が長年に
わたって議論を重ねてきたにもかかわらず、「いは(祝/斎)ふ」というような
日本の誰でもが日常的に用いている表現については、それを行為として実践
することしか、つまり、「いは(祝/斎)ふ」ことしかしてこなかったのでは
ないか。このことは、言葉のうえだけでも、みづから(身づ柄/自ら)の実践
についての省察をもたらすように考え(/かむかへ)ることがいかに忘れられ
がちであるかをよく示している。 >かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれば
ねが(願)ひもみ(満/三)つのやま(山)ならん
(能「俊寛」)<
「いは(祝/斎)ふ」という表現を用いることに本来的に伴う「曖昧さ/両義性」
を忘れてしまうと、「いは(祝/斎)ふ」を「硫黄」と掛けたこの歌の技巧の
巧みさも、単に歌に詠まれている土地の特性に合わせた掛詞として解釈
されてしまい、十分に理解されないのではないかと思う。 "Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen."
「えも云われぬことにつきては、これをいは(祝/斎)ふべし。」 誤:「えも云われぬことにつきては、これをいは(祝/斎)ふべし。」
正:「えもい(云)はれぬことにつきては、これをいは(祝/斎)ふべし。」
本当に現代の日本語の仮名遣いは凶悪だ。
「かむがへ」ることを徹底的に阻害するように仕組まれている。 >>801
この歌に見て取れるのは、そこで用いられているそれぞれの言葉の表現に
ついての、詠み手の優れたメタ言語的な洞察であり、この歌は、何らかの
特定のエピソードに還元しなければ理解できないようなものではまったくない。 >かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれば
ねが(願)ひもみ(満/三)つのやま(山)ならん
(能「俊寛」)<
この歌をうまく忠実に英語に訳すことが難しいとしても、その言葉が
なにをどのように表現しているのか、なるべく適切と考えられる英語
の表現を探りながら解釈してみることは、この歌の理解を深めるために
有意義だろう。まず最初に断っておくが、私はこの歌が詠まれている
能の作品についても、その背景についても何も知らない。ただ単に
「かみをいはふ」ことを表現するのに好都合な例文を検索していて
ヒットし、その表現技巧のメタ言語的な巧みさ/効率のよさがとても
印象的だったので利用しているだけである。 まずもっとも明白な形式から入ろう。
この歌は、「〜なれば、〜も〜ならん」という論理形式をとっている。
これを英語に言い換えるなら、"If 〜 then 〜 as well"ということになる。
次に、日本語において「かみ(神)」とは何だろうか。それは、善悪の
観念において、排他的に善に結び付けられたキリスト教の「神」とは
異なる。だからこそ、この歌においても、キリスト教であれば、
>黙示録 20:10 「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」
とされるような「硫黄」が、この歌では「かみ(神)」に関連付けられているのだ。
「硫黄」は、火山活動を想起させるとともに、有機物が分解されることに伴う
腐敗臭を想起させる。日本語において「かみ(神)」は、様々な姿をとって
それぞれ別々の存在者として名前を与えられても、その根本において「働き」
として捉えられており、それは「かむ(神)」の語源からしても、内部反響的な
作用をイメージさせるものである。「醸(か)む」ことも「かむ(神)」と語源を
同じくしていおり、英語では、キリスト教の三位一体の「精霊」は
"the Holy Spirit"と呼ばれ、醸造酒から蒸留して作られる蒸留酒は"spirits"
と呼ばれるので、それを借りて、ここでは、"the divine"や"the divinity"
の代わりに、「かみ(神)」を、"the Holy Spirit"(ただし、キリスト教の教義
とは切り離されたものとして) と訳すことにしよう。 「〜をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)」という表現において、「いは(祝/斎)ふ」の
方は、語源的な解釈を棚上げにして普通に訳せば、"to hold in honor/reverence"
と見なすことができ、特に英語の"reverence"の方は語源的に「畏れ」に対応
する表現に由来するので、イメージ的によく合うが、「『いふ(≒"to pour of
its own")』ふ(≒"turn")」としては、「堰(ゐ)」が流れ出すものを抑え込む
ように、"to hold in check"に相当するような働きを想起させる表現でもある。
「硫黄」という読みは掛詞としての解釈によるものであり、もともとが
語呂合わせで、「〜を硫黄」という表現は、「硫黄」が名詞であるため
成立しない。しかし、つづきの「いはふ(硫黄)がしま(島)」という読みに
おいては、「硫黄のしま(島)」と文法的に解釈され、"sulphuric"という
形容しとして理解される。 「かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれ」をまとめて見ると、
「が」は、発話遂行的に同一性を確立するものであるので、まず
「『かみ(神)をいは(祝/斎)ふ』=「しま(島)」」という解釈が成立し、
「しま(島)」」とは、限定された用法としては水に囲まれた"island"
としての「島(しま)」を意味するように用いられるが、広義には、
「注連縄」によって代表されるように「しめ」る行為によってもたら
される「結界」であり、英語の"territory"、"domain"、"enclosure"
などに対応する。
したがって、「『かみ(神)をいは(祝/斎)ふ』=「しま(島)」」とは、
"to hold in honor/revernce/check the Holy Spirit"=
"the constitution of an island/territory/domain/enclosure"
という同一性を確立する一般論として見ることができる。
その一方で、「いはふ(硫黄)がしま(島)」は、"this sulphuric island/
territory/domain/enclosure"を指していると解釈されるので、
「かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれば」は全体として、
"If this sulphuric island/territory/domain/enclosure consists of
holding in honor/revernce/check the Holy Spirit"のようにも
読むことができることになる。 これで、"If 〜 then 〜 as well."の"If 〜"の方の解釈が暫定的に成立したこと
になるわけだが、それに導かれる"then 〜 as well"の方の解釈は、掛詞の
訳し方を除けば、それほど難しいものではないだろう。
「ねが(願)ひもみ(満/三)つのやま(山)ならん 」の「ねが(願)ひ」は、
そのまま素直に"prayers"と訳すことができる。「〜み(満)つ」は、
"to be fulfilled"であり、「み(三)つ」は、"three"である。
「み(三)つのやま(山)」の方が単純なので先に訳すと、
「ねが(願)ひもみ(三)つのやま(山)ならん 」は、"prayers will become
three pillars of mountains as well"とでも訳すことができるだろう。他方、
「ねが(願)ひもみ(満)つのやま(山)ならん 」は、
「ねが(願)ひがみ(満)たされるやま(山)となろう」と理解する
ことができ、すると、直訳すれば、"also become mountains where
prayers will be fulfilled"ということになる。 "will"の重なりがうるさいので省いてしまったが、正しくは、
"will also become mountains where prayers will be fulfilled"
である。 「かみ(神)をいは(祝/斎)ふ(/硫黄)がしま(島)なれば
ねが(願)ひもみ(満/三)つのやま(山)ならん」
"If this sulphuric island consists of holding in honor the Holy Spirit
then prayers will become three pillars of mountains as well
(/it will also become mountains where prayers will be fulfilled)"
という直訳が結果としてもたらされる。無論、これはあくまでも歌の言葉の
表現の解釈からもたらされる直訳であって、英語の歌として表現が伝わる
ように訳されているということではない。しかし、このように訳を
試みることで、日本語の元の歌の短い言葉の表現にどれだけ豊かな
イメージが巧みに組み込まれているかが理解できるようになるはずである。 >>807
誤:同じくしていおり
正:同じくしており 小事がズレても大局的には間違っていないし、大局的に間違っているのならばバカだから仕方がない。 決定論者は動じない。その動じなさは、人にも生きものにも影響を及ぼす。決定論者と接すれば、傲慢な者は恥じ入って謙虚になり、卑屈な者は自信を取り戻す。 >>815
これだけ一貫して(「一貫して」というのが重要なところです)辞書の記載とも、
国語学や言語学において常識とされる説明とも大きく異なり、矛盾して、
そのような常識では受け入れられない、言葉の表現の発音に基づく、
(それらの常識から見れば)特異な言葉の解釈に依りながら、それでも
最終的に「小事がズレても大局的には間違っていない」訳がもたらされて
いるとすれば、それは何かとても奇妙な状況であると言えるのではないですか。 「いは(祝/斎)ふ」のような表現の用法を見ると、中国語の表現を流用する
ピジン言語を基礎とする日本語が、中国語の表現を利用しつづけながらも、
中国語から「独立した言語」として成立するのに、もともとは、やはり
中国語の表現、「復/覆(Middle Chinese: /bɨuH/, /pʰɨuH/)」の流用に
由来すると思はれる「〜ふ」のメタ言語的な活用がかなり中心的な役割
を果たしたのではないかと考へられる。というのも、「〜ふ」は、
再帰表現を形成すると形容することができるものの、「〜(をひっくり返す)」
という極めて漠然としたメタ言語的な指示であるに過ぎず、その
「ひっくり返す」ことは、場合により、「(〜を)自らの作用と見なす」こと、
「(〜を)繰り返す」こと、「(〜を)裏返す」ことなどの、それぞれ
異なる指示として解釈され、「いは(祝/斎)ふ」の例にみられるとおり、
「〜ふ」の一つの解釈におけるメタ言語的な指示の与えられた表現に、
さらに「〜ふ」の別の解釈におけるメタ言語的な指示が追加されて、
「〜」において同一の発音が特定のイメージを想起させるように用い
られていても、その特定のイメージが「ひっくり返されて」活用される
だけでなく、複合的に「ひっくり返されて」、その「ひっくり返し」の
曖昧さ/両義性を伴いながら使われることになるからだ。
このことにより、日本語の発音が中国語の表現をほとんどそのまま流用
している場合でさえ、中国語の表現において想起されるイメージと、
それを流用する日本語において想起されるイメージの間では、不規則な
反転が複合的に生じる。すると、日本語の発音と流用元の中国語の表現との
間の関係は依然として意識され、中国語の表現に用いられる漢字が
日本語の用法の曖昧さ/両義性のために生じる混乱を整理する補助として
意識的に利用されさえするものの、言葉の発音から特定のイメージを
想起することに関しては、「かむか(考)へ」方の習慣が中国語依存
から強制的に切り離されて、日本語の表現としての思考法が独立した
体系化に向かうことになる。 日本語の「〜ふ」について論じることが暗黙に「忌(い/ゐ)まはしき」ことと
されているように見えるのも、その辺りにその「ゆゑ(故)」があるのでは
ないかと私は思ふ。 それにしても、視覚情報としての漢字を、発音の意図を確定するために
補助的に都合よく利用できることが、中国語の表現を流用しながらも、
中国語の体系的な規範に対して日本語の言語使用の「独立性」を
強化するのを助ける役割をしてきたことは、「自律的」であるとは
どのようなことかを考えるうえで、とても興味深い事例ではない
だろうか。 自律性は、依存/独立の二項対立の見地からでは、うまく説明することのできない現象である。 人は、自由を望むことにおいて、他者に対する自律性を求めているのであって、
他者からの独立性を求めているのではない。 したがって、相手の自律性を妨げるために、相手に独立するように迫る
ことには、論理的に何の矛盾もない。しかし、自律性を求める相手に
対して、だったら独立しろと迫るのは、論理のすり替えである。 ところで、よほどひねくれているのでないかぎり、「忌(い)み名」に当てられて
いる漢字である「諱(Middle Chinese: /hʉiH/)」と、「忌(い)む」、
「いは(斎)ふ」において、「忌」や「斎」の漢字が当てられている「い」が
無関係であると思う人はいないだろう。「諱」の漢字を構成している「韋」
は、万葉仮名では「ゐ」の発音に当てられているが、既に指摘している
ように「ゐ」は、「い」(や行の「yi」のイメージで解釈される)との対比で
「抑制」/"containment"の作用を働かせるイメージを想起させるように
用いられており、その発音のイメージは、和語とされる「堰(ゐ)」や
「居(ゐ)る」/"to stay put"においても利用されていると考えることができる。
日本語で「ゐど(井戸)」の「ゐ」に当てられている「井」は、中国語の
漢字の発音としては「ゐ」と無関係であり、本来は、やはり、「韋」を
構成要素とする漢字である「圍(Middle Chinese: /ɦʉi/, /ɦʉiH/)」を
簡略化して作られた「囲」に由来するはずである。動かないように抑制
するということに関しては、やはり「韋」が構成要素に用いられている
「経緯(けいゐ)」の「緯(ゐ)」は、一見、そのような働きとは関係なさそう
に見えるが、これらの漢字は織物に関係して、「経」が表すのは
「たていと(経糸)」であり、「緯(ゐ)」が表すのは「よこいと(緯糸)」
である。織物の原理において「緯(ゐ)」がどのような役割を果たしている
のかは、次のサイトの図を見るとよく分かる。
http://www.norikaiya.net/koutei.html
>織物の原理 ところで、「いは(祝/斎)ふ」という表現にも含まれる「いふ」は、
「い(言)ふ」としては、思ひを「吐露する」ことを表現するものとして、
やはり「いふ」≒"to pour of its own"と解釈できるが、やはり
「いふ」の「い」に当てられる漢字として「いはゆる(所謂)」という
表現にも用いられる「謂」がある。この漢字は、万葉仮名としては、
「ゐ」の発音に当てられているとともに、中国語の漢字、
「謂Middle Chinese: /ɦʉiH/」としても、"to say; to tell"を意味する
ように用いられる。すると、「いふ」は、もともと、「ゐ(謂)ふ」
として、堰(ゐ)を放つような/"containment"としての抑制を解く
ような反転作用としてイメージされた可能性も考えられるだろう。
実際、「胃(ゐ)」は、熊の「胆(ゐ/い)」と同様に"container"として
イメージされていたのだろうと推察することができる。
興味深いことに、語源的にも、発音としてもそれとは無関係の
英語で「胃(ゐ)」を意味する"stomach"にもそのような二重の
イメージが、つまり口を開くことと、溜め込むことの両方の
イメージが伴っていて、ギリシア語の"stoma"としては、
"mouth; mouthpiece; talk, voice; mouth of a river; any outlet or inlet"
を意味するように用いられたとされている。
https://www.etymonline.com/search?q=stomach
https://www.etymonline.com/word/stoma?ref=etymonline_crossreference
忙しくて、ゆっくりと書き込んでいる暇などないのだが、
一応、このくらいは書き込んでおかないと「はらふくるる心地がする」。 誤:「はらふくるる心地がする」
正:「はらふくるる心地」がする
書き忘れたが、「やいゆ𛀁よ」の発音の用法には、「ゐ」が想起させるような
「抑制」/"containment"の作用が解けるイメージを想起が伴っている。 >「跡呂井(水沢市)の地名を今に残す」
「跡呂(どろ)井(ゐ)」
日本にも「トロイ遺跡」ならぬ「どろゐ遺跡」があったということかな。 現実的には正しいが道徳的には間違っていることがある。
道徳的には正しいが現実的には間違っていることがある。
現実的に間違っていることは不幸を作る。
道徳的に間違っていることは不幸を作る。
現実的にも正しく道徳的にも正しければ、不運以外に貴方に敵はない。
現実的に間違っていたり道徳的に間違っていたりすれば、幸運以外に貴方に味方はない。 「いは(祝/斎)ふ」という表現が想起させるイメージに本来的に伴う
曖昧さ/両義性については、「いは(祝/斎)ひの酒」を思い浮かべてみるといい。
酒は、神(かむ/かみ)の「か(醸)む/かも(醸)す」働きによって造られるもの
であり、神に奉納されるものであるが、その酒は「いは(祝/斎)ひの酒」
振る舞はれることとなり、それが人々に「ゑ(酔)ひ」をもたらすことは
古代からよく知られていた。「ゑ(酔)ひ」とは、「抑制」/"containment"
を働かせようとしているにもかかわらず、自ずと外に出てしまうイメージ
の想起を伝へる表現である(「ゑ(笑)み」が「こぼれる」ものであるように)。
「いは(斎)ふ」は、「忌(い)みつつしむ」ようにすることを意味するのだから、
「いは(祝)ひの酒」が振る舞はれることが人々にもたらす「ゑ(酔)ひ」の
効果は、明らかに「いは(斎)ふ」ことに反するだろう。 しかし、このことは暗黙に了解されている。というのも、「鏡開き/鏡割り」
がいつから行われるものであったにせよ、それは「いは(祝)ひ」の儀式
としてごく自然に受け入れられているからだ。「鏡(かがみ)」は、
その語源においても「神(かみ)」と共通するように、古代からご神体
として扱われてきた。「鏡が割れる」ことは、西洋においても一般に
とても不吉なこととされており、日本でも「鏡割り」という表現は
不適切なものとして避けられる場合もある。それでも、酒樽の上蓋
を木槌で割って開ける「鏡開き」は、それがどう呼ばれようと、
「鏡が割れることは不吉である」と考えて、それを回避するように
上蓋をそっと開けるようにするような行為ではなく、明らかに
「鏡(かがみ)」と呼ばれる上蓋を「やぶ(破)る」/"break"行為として
意図されている。古語であれば、この「やぶ(破)る」/"break"行為は、
「こぼ(毀)つ」と表現されただろう。したがって、「いは(祝)ひの
酒」を振る舞って、そのことにより人々に「ゑ(酔)ひ」が生じること
は、「忌みつつしむこと」としての「いは(斎)ひ」の「抑制」/
"containmet"が破られることを「暗黙に容認している」はずである。
それを喩として代表する儀式が、"container"である「酒樽」を
の「鏡(かがみ)」を破り、結界としての「抑制」/"containmet"を
破る「鏡開き」なのだ。 その実際の効果がどのようなものであれ、コロナ禍における酒類の販売の
自粛の要請にも、そのように酒に人々が「ゑ(酔)ふ」ことにより、
「いは(斎)ひ」/「忌みつつしみ」が破られることになりかねない
という連想による懸念が働いていると見ることも、あながち牽強付会
ではないだろう。 >>837
誤:その酒は「いは(祝/斎)ひの酒」振る舞はれることとなり
正:その酒は「いは(祝/斎)ひの酒」として振る舞はれることとなり 誤:「酒樽」をの「鏡(かがみ)」
正:「酒樽」の「鏡(かがみ)/上蓋」 Als uns das Weisse anfiel, nachts;
わたしたちを、夜、白いものが襲ったとき、
als aus dem Spendekrug mehr
神酒の甕から
kam als Wasser;
水以上のものが溢れたとき、
als das geschundene Knie
すりむいた膝が
der Opferglocke den Wink gab:
奉納の鐘に
Flieg! -
「飛べ!」
と合図したとき ―
Da
そのころ
war ich
まだわたしは
noch ganz.
完全だった。
パウル・ツェラン、飯吉光夫訳、『息のめぐらし』、p.49 >>837-838
ここに記述したような関係性の捉え方と類似した認識は、ニーチェの著作、
"Also sprach Zarathustra"にもはっきりと表現されており、それを
見て取ることができるかどうかが、この著作をどう読むことができるか
に大きく影響するだろう。 「ゆゆ(忌々/由々)しき」ことが《débordement》として生じる、
そのような感覚は、日本語の話者に限定されないだろう。 ちなみに、一般には「氾濫」や「横溢」を意味するように用いられる
フランス語の《débordement》には、軍隊の用語として「包囲」という
意味でも用いられるとのことである(クラウン仏和辞典)。 皆様とこれまで働けて良かったです!
これからもお互いお元気で! 「やしろ(社)」は、神が「『やす(安)ら』ふ」ところだから、「やしろ」と
呼ばれる。「やしろ(社)」で「ねぎ(禰宜)」を執り行ふのは、
神が「『やす(安)ら』か」であることを「『ねが(願)』ふ」ためである。
神が安らかであるように願ひ、神(かむ/かみ)の作用である「か(醸)む」ことに
よって造られた「酒の甕(かめ/みか)」(「かみ(神)」⇔「みか」)である
「みき(神酒)」が神に奉納される。酒は「睡(ねむ)り」をさそ(誘)ふもの
であるとともに、「ゑひ」を生じるものでもあり、抑制が働かなければ、
「ゆゆ(忌々/由々)しき」事態がもたらされる。したがって、「いは(祝)ひ」
として酒が振る舞はれることは、「屠蘇(とそ)」という表現の漢字に明白に
見て取ることができるとおり、本来的に両義的であり、「はふ(祝/屠/葬/溢)
り」は、「いは(斎)ひ」によってあらかじめ封じ込まれるように用意周到な
準備を要求するのである。 人生を完璧にすることが決定論ではない。人生が完璧であることを悟ることが決定論である。 死ぬ時に今日を振り返っていい日だったと思える一日を 「邪魔がなければ成功できる人」と「成功できる人」とは異なる 神(かみ/かむ)の「鏡面性」/"Specularity"を映し出す白玉の露としての魄(たましひ) 無意識に意識を一致させるのである
意識に無意識を一致させるのでなく 「を(緒)」のこときれた魂(たましひ)は自ずと/自然に、神(かみ/かむ)の
「鏡面性」/"Specularity"の中に露と消え去る。 自分のことを棚に上げて人を攻撃していい
人にマウンティングをしていい
人をバカにしていい 何をするにも責任が伴うが、何もしないことにも責任が伴うのだ。 ガルシア・マルケス 百年の孤独
ジョン・アーヴィング ガープの世界 ガルシア・マルケスの著作には、本人がそう言っているとおり、
哲学的なところはどこにもない。 少し読んだけど、どこかの国かわからないところで何世代かの話があっておもしろいけど物語性は強い。 この町っていきなりステーキか駅前かモールしかなくてその点不便だな。国道沿いにあれば行くのだが駅前に車停めたり、モールをウロウロするのも嫌だ。 ガープの世界もどこの国の話かわからんような物語だが、百年の孤独は南米ぽいけどガープの世界は変な世界だ。 うちのお袋の父方が北陸から岐阜に来て引きこもったような家で、お袋の母方は比較的太平洋側から岐阜へ来ている。お袋の母方は織田信長の家臣だったと思う。丹羽長秀よりの家臣。
案外丹羽長秀辺りあるかも。柴田勝家はねえな。お袋の父親の方は越後上杉家臣が多くて、江戸時代から東北の山形の藩に移っている。米沢藩は30万石の小さな藩なので鶴岡藩、山形藩、庄内藩に小さな石高で散ってあとで縁で結婚した感じか。 ウチの母方のじいちゃんは完全に川の人だ。だけど暴力的な方向へは行ってない。ただ般若はある。般若金田が一度持ち上げられたのわかるわ。何でか。 北川景子は別に庄内藩があっても彼女の家柄で上じゃない。もっと上があってせいぜい4番目か5番目ってところか。でも知っている感じ。 自分のような心を他の人も持っていると分からぬのならあまりに鈍感 神アッラーから啓示
二人は今日から夫婦だ。離婚または死別まで共同体であり、個人ではない。自己責任ばかりでなく共同責任を負う。 ポストデジタルからバイオデジタルへ流動する社会学
「バイオデジタル論 (ばいおでじたるろん 英:Biodigital Theory) とはスペキュレイティブ・リアリズムとニューロ・キャピタリズムの理論を思想的基盤に様々に細分化された非物質的本性としてのモナドの生成と相互主観性論の内在性を考察するデジタル以降の社会における概念である。」
「ポストデジタルの解釈を起点としクリティカル・ポストヒューマニズム、トランスヒューマン、非平衡科学の自己組織化 (Self-organization) にもとずくアクターネットワーク論 (ANT) の概念をも視野にいれたマルチレイヤーの理論として展開される。バイオデジタルはデジタル以降の様々な内観的 (Introspektion) な現象学の概念、バイオ・コンピュテーション、インタラクティブ・ネットワーク、生命体の形成過程における複雑系、生成の偶発性をデジタルメディアにとりいれた根源的再考に準拠している。 」
「テネシー州立大学教授のサラ・ヘイズ (Sarah Hayes) とプリマス大学トランスアート・インスティチュートのディレクターの松本良多 (Ryota Matsumoto) がアンソロポセン (Anthropocene) の階層的体系におけるデジタル以降のディスクールとしての思想としてディファインした。松本良多 (Ryota Matsumoto) はバイオテクノロジー、トランスヒューマン、分子生物学、生命体のみならず総合的なアクタントの有機合成の過程との類似性を視野に生命と流動性とその潜在的対象からバイオデジタルを生命の受動的自我のメタ科学として解釈している。」
引用元 https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E8%AB%96 松本良多 (Ryota Matsumoto)は欧米と日本を代表するポストデジタル理論、加速主義の社会学者でありアーティストである。
ロンドンAAスクール、グラスゴー・スクール・オブ・アート、マイアミ大学にて90年代に建築と哲学を学び、2007年ペンシルベニア大学大学院芸術学部建築学科修了する。ニュー・マテリアリズムの思想家、マヌエル・デランダに師事する。
2015年にテネリフェ市立美術館にて加速主義、ポストヒューマニズムについて講演している。2017年にはレバーヒューム・トラスト国際学会の招聘によりコーネル大学とプラット・インシュテチュートにて「ポストヒューマニズムと未来都市」について講演。
社会学者、評論家としては2018年にカリフォルニア大学アーバイン校でエドワード・カック、ロージ・ブライドッティとともにワークショップをオーガナイズしている。
プリマス大学トランスアート・インスティチュート、国立オスロ美術アカデミーの客員講師をへてニュー・センター・オブ・リサーチ・アンド・プラクティスのシアトル校、パーソンズ美術大学の客員教授を務めている。 心を押さえつけ過ぎて歪みが生じたのか、ならば心を押さえつけるのをやめればいいだけだ。 全頭個体管理の人間動物園内でドラマは成立しない。
だから、管理されたゲームの枠内でのドラマの演出が
その代替となるわけだが、そのドラマの演出が
ゲームの運営の都合に沿って管理されていることが
目についてくると、お約束どおりで退屈になる。 薬を一生飲むのはそもそも医学的常識
他の点ではもうどうでもいい 主治医の診立て通りジェノサイドなんだろ
エアでなら実際あったし終了 「松本良多(まつもと りょうた 英:Ryota Matsumoto)は、テクノロジーと文化について研究する社会学者でありメディアアートの美術家である。米国の加速主義の思想における中心人物であり、ジョージオ・アガンベン、キム・カスコーンとともにポストデジタルの主唱者である。」
「我々は既にデジタル技術が特別なものでない時代にいる。」
“I firmly believe the digital technology is nothing special in the age of techno utopianism.”
引用元 https://ja.wikiquote.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E8%89%AF%E5%A4%9A 天が為される事全てに、天の意志を汲み取れ。
天が為される事には、必ず何らかの意味・目的がある。それは貴方にとって不都合かも知れないが、天にとって無意味・無目的なことではない。 全ての人の全ての行いには、絶対に何らかの目的があるのです。 些細なことで悩めるのは、些細なことがどうでもよくなるほど人生経験を積んでいないからだ。 言い訳する必要はない。皆わかっている。お前には無理だったことくらい。 クビになるまで働いていい
フラれるまで交際していい 女など腐る程いる。自己認識のズレた阿呆は放っておけ。 貴方が望むことはアッラーが望むこと。
貴方が望まないことはアッラーが望まないこと。 いずれ気付くことになるだろう。全て正しかったのだという事に。 会社クビになったらどうしようか?また学校行って就活するかな。 私はこの会社に入って良かった。自分の能力がいかほどかわかった。クビになっても受け入れられる。ミスマッチかどうかわからないが、仮にミスマッチだとして、入らなければわからないだろう。入って良かった。 松本良多の思想と美術
社会学者の松本良多は、クリティカルなヒューマニリズムと同様に、分子生命学、複雑系、ナノテクノロジーにより形成されたインターラクティブな社会、具体化されたメディアと複合現実との間の触媒による作用を通してデジタル技術の人間化に取り組む芸術作品としてポストデジタルをとらえている。
https://matomame.jp/user/john/a0358a821574e3360ce9 人は、生産拡大の本能がある。それを抑えて他者のことを考えることが徳である。
その時に、人のことは考えるが人以外の生き物のことは考えないのならば、表面的な徳であり本質的ではない。これは、金メッキをしただけで中身は金でないのと同じである。だから、人以下の生き物のことも考えなければならない。
さらに言えば、生き物でない物は邪険に扱うならば、これは惜しい。物も大切にすれば完璧であると言えよう。 思い上がりとは、自分が他者のことを考えていると思うことだ 各自がそれぞれ、自分は他者のことを考えている一方で、他者は自分のことしか
考えていないと思い上がって、互いに衝突する。 自分は、我が身と身内のことばかりを考えているのだから、
他者が、我が身と身内のことばかりを考えるのも自然なことで、
そのことによって互いに何も被害が生じないなら、他者のことに
干渉することは控えようというのが、相互容認的な態度だ。 Twitterの書込みがその代表であるが、ソーシャル・メディアで
発言する人々の大多数には、自分の「かむか(考)へ」がない。
賛成であれ、反対であれ、自分の「意見」を言うことが
自分の「かむか(考)へ」を述べることだと思っているからである。
それらの人々は、自分の「かむか(考)へ」を述べるように求め
られたとしても、「かむか(考)へ」るとはどういうことか
すら知らないだろう。それに対して、哲学の役割は、「かむか(考)へ」
が柔軟に働くようにすることにこそあり、「意見」を言うこと
は哲学の役割ではない。 >>911 「意見」を言うことは哲学の役割ではない。
という意見w >「意見」を言うことは哲学の役割ではない。という意見w
何の矛盾もないが?
それが「意見」と理解される限りにおいて、その「意見」は哲学ではない。 >>914
だからあなたがバカにするツイートもあなたが
「意見」と理解される限りにおいての話だよってこと 人類の歴史を、理性を持った人の歴史ではなく、霊長類の一種であるヒトの歴史と見る。 2054年に、私は還暦を迎える。その時に私は、若者たちの尊崇を集める立派な長老になっていよう。神がお望みならばな。 思いの罪から次の思いの罪までに行いの罪がなければ罪を犯さずに済む 陰でいいことをした分だけ人を信じられる
陰で悪いことをした分だけ人を疑う 阿弥陀仏は、世界にとってマイナスの存在のための神だ。
認知症の老人、障害があって働けない者、救いようのないダメ人間、そういった者たちのための神だ。 納税するために働いてるんだよ俺は。
俺にでもできることがある。それが納税なんだ。
所得税を納め、消費税を納め、国を助け、世界を助ける。それがひいては地球と人類とを救うことになる。
納税こそ俺の働く目的なんだよ。
納税するために働く、働いて得たお金は一生使わず、死後他人に譲る。
それが俺の人生計画だ! まあ、税収を増やしたかったら、金に成る仕事が回ってくるように
してください。金に成らないなら、それはボランティア活動みたいな
ものだけけど、ボランティア活動なら他人に指図されるのは矛盾
でしょう。他人に指図される活動は、労働の奉仕であって、
労役による現物納税です。 人間もなく、生き物もなく、物もない。ないという判断、感覚、想念もない。
完全に意識を失った死人の状態こそ、悟り。 価値観が違うということは、好きな食べ物が違うということと同じだ。 人を評価する時はその発言のみならず行い全体によって評価しなければならない 人生の全ては本人しか知らない。忘れているとしたら本人すら知らない。 そういう意味だと、近隣で箱型の小型プレハブ集合住宅がかなりの
勢いで増えていっている様子を見るのは、その住宅の各世帯が
テレワークの推進で職場となることと、ウイルス感染防止対策と
しての外出規制と組み合わせると、かなり現実のディストピア感がある。
終の棲家とはなり得ないわけだし、多くの人にはもはや帰っていく
ことができるような地元も存在しないのだから。 で、その集合住宅のオーナーは一般の個人だが、安定した家賃収入で
安心かというと、たいての場合は相続した土地財産を減らさないための
対策として集合住宅のオーナーになることにしたのであろう。
管理する業者を間に挟んで、もちろん利益が大きければ、安泰だが、
そうでなければ負うことになるリスクも相当なものだ。このプロセスは、
実質的な社会主義化の進行であるようにも見える。 あらゆる現象は原子のビリヤードによって引き起こされ、偶然は世界にない。
人の意思決定や行動もまたこのようであるから、人の自由意志はない。
何かをどうにかしようとすることは、自由意志はないとする決定論(完全運命論)に反する。
よって、決定論者の私は「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる。」というような自由意志の存在を認める言説を否定する。 運命論は、そのようなものではない。出来事のすべてが偶然である
とともに、すべてが運命であるのが運命論だ。 思ひもよらず、すべてが自らの思ひどおりになる。それは偶然である。
最初から思いどおりのことは、意識すらされない。
朝になって目が覚めてみると、そこに眠りにつく前に見たのと
同様の世界がある。それも偶然だが、最初から思いどおりなので、
当たり前すぎて、そのように目の前に世界があることに驚くことはない。
それとは対照的に、思ひもよらず思ひどおりになったなら、
それは「夢のよう」な現実だ。だが、いくらそれが「夢のよう」であっても、
思ひは、それが実現されることによって現実をつきつけられる。
というのも、実現され得るような何らかの思ひがあるということの裏に
ぴったりと貼りついているのが、「思ひもしなかったこと」だからだ。
思ひどおりになる思ひだけを、思ひもしなかったことから切り離す
のは、一枚の紙の表だけを切って、裏は切らないようにするのと
同様に不可能なことである。 悟りとは、人間界を出て自然界に移住することである。ただし、それは物理的な意味においてではなく、精神的な意味においてである。 民主政は、為政者を投票によって変えられるわけだから、革命を最も防ぎやすい体制であるが、それ以上のものではない。 天は分解者に分解を命じた
分解者の分解に抗うものこそ天意に背いている 先生は言われた。「自分にだけは悪人たることを許し、他人にだけは善人たることを強要する。こうなればもうお終いだね。」 自分は上司の一人のイラつきについて、自分で頭を使って会話しなければクビになるとの危惧を抱き、なんとかしなければならないのになんとかするやる気が起きない自分の無責任さに没落の凶兆をみたのだ。
学校の先生からも頭を使って会話することを指導されていたのに。 自然法則を受け入れる者は幸せになり、自然法則を受け入れない者は不幸になる。 人間関係は政治ではない。なぜなら、人間関係は政治だと言うのは、政治性という冷酷さを以って人間に報いるという怨念に基づく復讐だからである。 自尊心を以って自尊心を制するのは、血を以って血を洗うようなものだ。 ロジックは正しくてもレトリックは間違っているのは、高級食材を調理せず皿に置いて食えと言うようなもの。いかに失礼なことか。 「やれなかった。やらなかった。どっちかな?」みつお ひろゆき「身体的暴力を恐れない者が言葉の暴力を恐れるはずがないのであります。」
ひろゆき「してみると、言葉の暴力を恐れる人たちというのは、身体的暴力はなおさらおそれるものでしょう。」
ひろゆき「かくいう小生は身体的暴力を恐れたためしは一度もなく、キリシタン狩りの拷問を受けても死ぬまで棄教しないのはたやすいのであります。」 あらゆる存在のあらゆる経験を経験して、それでも運命だから仕方がないと言えるのでない限り、運命だから仕方がないなどと軽々しく言うべきではない。 あなたはまだわからないのか、嫌われたという問題ではなく傷付けたのだと言うことを。 木曜日までにLINEが来なければ最早他人となったと捉えてよい。 世の中には二通りの弱者がいる。
一つは、力における弱者。
もう一つは、倫理的に劣位に立っている道徳的弱者である。 大人が子供時代を忘れることは罪だ
老人が若者時代を忘れることは罪だ 私は天秤にかけて自分を選んだ。
しかしこれは、過去は関係ない。
なぜなら、その過去の時点で自分を選んだのは他ならぬ私であり、今でも自分を選び続けているのだから。
私はこういう人間だ。賢くもなく愚かでもない。極めて普通の只人だ。 赦しとは、一時の謝罪に対して与えられるものではない。一生が悔い改めであることに対し与えられるものである。 強者の論理にも理解を示せる弱者は聖人だ。アフリカ人を差別したオランダ系ブール人にも共感を示した獄中のネルソン・マンデラみたく。 覚悟があれば何でもしていいのか?何もしなくていいのか? 自分の無能さを自覚していると、できること以外何もしなくてもよい
という気楽さがある。 人類を愛することはできても、人を愛することができない。
それでいいのか。 自分の無能さを自覚していると、どうせ自分のような無能な人間に
愛されても、相手には迷惑となるだけであることがはっきりと分かり、
無駄なことに心を悩ませることがなくなり、余計なことに心配り
をする必要性も感じなくなる。 身体障害者に身体健常者並みを求めてはいけない
精神障害者に精神健常者並みを求めてはいけない 自分の気の向くままにできることをできるようにやっているだけでよい。
重要なのは、できないときに、為せば成るというような信念に頼って、
無理をしようとしないことだ。ただし、こうすればできるかもしれない
と何かに気づいたときには、何でも気軽に試してみることで、できない
という思い込みに固執することもなくなる。 気の向くままにできることをできるようにやっているだけで、
できることに関しては集中力が高まる。気の向かないこと
については、どうでもよくなり、それで支障が生じないなら、
どうでもよいことに関して気を配る必要はない。 強くなった者には、まだ弱いこれから強くなる者に配慮する義務がある。 自分の無能さを自覚しているなら、黙って有能な人間に従えとか、
他の大多数がしているとおりにしろ、というような考えを押し付けて
くる人々が多いが、無能だからこそ黙って従っていれば、いつ都合よく
犠牲にされるか分かったものではなく、大多数のまねをしているなら、
自分にとって不利な状況に追い込まれるだけだ。自分にできもしない
ことをまねしてやろうとして労力を無駄に使うより、自分にできる
ことをできるようにすることに専念した方が得策だ。物事は、
しようとすればできるようになるのではなく、できることをできる
ようにしようとするからできるようになるのである。できないもの
はしようとしてもできない。自分に何がどのようにできないのかを
知ることが大切だ。闇雲にできるようになろうと努力しても、
できないことを延々としようとするように誘導されるだけである。 善行には善行が返ってくる
悪行には悪行が返ってくる
善意には善意が返ってくる
悪意には悪意が返ってくる 老人宣言
私は老人を称することとする。なぜなら、もう疲れたのだ。人間関係に疲れた。友達も恋人も妻も要らない。家族は一人一人死んで行くだろうが新たに持とうと思わない。
死を待つ人。死待人となる。
はっきり言って、もう望むことはない。働いて恋人を持つというスタンダードとされる幸せはもう得た。既に失ったが。もうこれ以上恋人は不要。ただ仕事して老人となった私の余生を送るのみ。 無能なわりには、それなりにうまくやっているが、
だからといって、何かをしなければならないとは思はない。
心がけているのは、うまく行っている現状を、できることに
活かすようにすることだけだ。うまくやっているから、
自分には余裕があるなどと思い込むのは、思い上がりでしかない。
そのような思い上がりは、まず間違いなく罰を受ける結果を招く。 >善行には善行が返ってくる
自分が善行だと思ってやるようなことは、ほぼ確実に罰として我が身に返ってくる。
>善意には善意が返ってくる
自分が善意だと思うようなことは、まず間違いなく悪意と解釈されて自分に戻って来る。 他人の善意は、自分にとって必ずしも有益であるわけではなく、
大いに有害である場合すらある。
他人の悪意は、自分にとって必ずしも有害であるわけではなく、
大いに有益である場合すらある。
大切なのは、善意であれ、悪意であれ、自分にとって有益である
ならそれを活かし、有害であるならそれを受け流すことが
できるようにする術(すべ)を身につけることである。 悲惨な状況で善意で助け合っている人もいれば、悪意で牛耳り人を苦しめ蜜を吸う人もいる。社会の上下だ。かとおもうと善意で高い世界に君臨し人を助けてる人もいれば(これは自分の力が儲かるからやるんだろう)悪人で落ちこぼれて和悪さを続けて苦しむ人もいる(救われたくてそうする)。中間層はどっちつかずで善意か悪意か迷っている。上に誘導することもできるし堕落をすすめることもできる。救済をするなら哲学をするならあらゆる人を救済し導かねばならない。適宜救済導きは社会の位置や善悪の価値判断によって、効果が違う。 悲惨な状況で善意で助け合っている人もいれば、悪意で牛耳り人を苦しめ蜜を吸う人もいる。社会の上下だ。かとおもうと善意で高い世界に君臨し人を助けてる人もいれば(これは自分の力が儲かるからやるんだろう)悪人で落ちこぼれて悪さを続けて苦しむ人もいる(救われたくてそうする)。中間層はどっちつかずで善意か悪意か迷っている。上に誘導することもできるし堕落をすすめることもできる。救済をするなら哲学をするならあらゆる人を救済し導かねばならない。適宜救済導きは社会の位置や善悪の価値判断によって、効果が違う。 >>988
Mein Glück
Seit ich des Suchens müde ward,
Erlernte ich das Finden.
Seit mir ein Wind hielt Widerpart,
Segl ich mit allen Winden.
http://www.zeno.org/nid/20009249869 自分自身も悪人なのに悪に対するアレルギーを持つと自己免疫疾患になる 取り敢えず半年働いて、雇い止めになったら転職する。 とりあえず、インフレ懸念が皆無ではないので仕事はするが、
いつ命を落とすことになるか分かったものではないので、
仕事よりは気の向いたことをすることの方が優先度が高い 私がやらなければ他の誰もやらないだろうことをやっている
という自覚はある。実際、他の人々がそれをできたとしても
私のように実際にそれをやってこなかったことは事実であり、
それは、誇大妄想ではなく、数世紀にわたることだ。 やることに意義があるかどうかは、私の知ったことではない。 私がやっていることを可能にしているのは、インフラの変化だが、
それなりの強度の軽量の素材が安価に入手できるようになった
からといって、皆が自分で操縦する飛行機を作ろうとするわけ
ではないように、インフラがそれを可能にするからといって、
誰もがそれをやろうとするわけではない。 過去現在未来の全ての生きとし生けるものが文句をつけない生き方をしよう このスレッドは1000を超えました。
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