仏教の空を解説する寺子屋
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
こんにちは。
今から色即是空とか、般若心経などで有名な空について、簡潔に解説していきます。
巷でよく言われる、「すべては関わり合っているから空」。
じつは、これは厳密に言うと嘘、もしくは浅いんです。
空は、仕組みは簡単?なんです。では、まずざっくりと本当の空の解説をしてみましょう。
空を解説するには、先に脳の認識の仕組みをすこし説明しておかねばなりません。今から、カメラと写真で例えて解説してみましょう。
えー、被写体と写真が全く同じものだと言う人は、おそらくいないと思います。
モデルと絵が別であるように、被写体そのものと、写真が別であるのは、わざわざ言う必要もなく当然ですね。
被写体≠(ノットイコール)写真。
ここをまず覚えておいてください。
では次に、、、
あなたの脳内の映像や感覚と、認識の対象である物事は一緒でしょうか?
いいえ、違います。一緒ではないですよね?
それは、写真と被写体が一緒ではないのと同じように、脳内のものと認識の対象は≠(ノットイコール)なんです。
そして、≠なのに、私たちは脳内のものの快楽性に中毒になったり、または、憎み、嫌悪します。
空とは、自分を不幸にする嫌悪や中毒の特効薬です。
空とは、さきほどの、≠(ノットイコール)をひとことであらわした言葉です。
写真の中には被写体そのものは入っていません。写真は空っぽだし、
脳内の認識は対象とはちがうのです。そこには対象の存在は空っぽなことを、空だと言っているのです。
なので、空の教えが説かれた目的は、自分が中毒や嫌悪をやめて、ものごとと適切な関わり方を身につけましょうと言うことです。 >>2
そうです。お釈迦さんの中道は、中毒を離れることを説いたので。 面白い考察ですが、それだと、認識=空という事になってしまいます。
認識を説明しているに過ぎない、という事ですね。 なるほど。唯識論、認識論との違いを説明する必要があるな。 皆さま、ありがとうございます。
唯識論、認識論、順にいいますが、
私の例えで行くと、
脳内の写真を主軸に説明するのが唯識です。
脳内の写真と被写体の断絶について説くのが中観の空です。
空は、そもそもが仏教における認識論がたどり着いた、
認識には限界があるということを一言で表した言葉です。
その限界の意味は、現代の我々が例をあげるなら、写真と被写体が=になることはない、
その≠の断絶を、思考や概念、言語に向けて、真実は何もとらえていない。
ゆえに言葉や思考、概念は空だ、つまりからっぽだと言っています。
これで、認識論、唯識論との関連を説明できたかな? 皆さま、ありがとうございます。
唯識論、認識論、順にいいますが、
私の例えで行くと、
脳内の写真を主軸に説明するのが唯識です。
脳内の写真と被写体の断絶について説くのが中観の空です。
空は、そもそもが仏教における認識論がたどり着いた、
認識には限界があるということを一言で表した言葉です。
その限界の意味は、現代の我々が例をあげるなら、写真と被写体が=になることはない、
その≠の断絶を、思考や概念、言語に向けて、真実は何もとらえていない。
ゆえに言葉や思考、概念は空だ、つまりからっぽだと言っています。
これで、認識論、唯識論との関連を説明できたかな? 空について
書き込みましたがエラーのため二回投稿してしまいました。 9>脳内の写真を主軸に説明するのが唯識です。
9>脳内の写真と被写体の断絶について説くのが中観の空です。
唯識は、そもそも、識以外に実在するものはないということですから、中観の空=唯識ということになってしまいます。 9>脳内の写真と被写体の断絶について説くのが中観の空です。
断絶しているとなると、色即是空、空即是色をどう説明するのか? 13>
そのリンクの方は、対象を厳密に正確に知りえない事を空と考えているようです。
その考えでは、色(しき)が説明できないでしょう。
色即是空、空即是色を解決しなければ、覚えたとはいえません。 >>14
うーん、そうは読めませんね。
『自性(svabhāva)としての「実体」がない〛ことが空で、
だから色は縁起すると書いていると思いますよ。 >>15
自性としての実体は、色(しき)です。
色がないことを空だとは、仏教では教えていません。
色即是空、空即是色です。 >>16
>自性としての実体は、色(しき)です。
仏教では自性(スヴァバーバ)は実体がないものと教えます。
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%A9%BA
基本的な用語ですから嘘はいけません。 >>16
般若心経における「色」は「物質的存在」を意味している。
決して「自性」(=実体)を意味してはいない。
したがって「自性としての実体は色である」という認識は明らかな誤りだ。
「色即是空」は「色は空である」という教えだ。
そして「空」は「実体性の欠如」を意味する。
だから「色即是空」は「物質的存在には実体性がない」という意味になるだろう。
このことの説明としては>>13の記事も>>15の解釈も正しいと思う。 >>17
や、「自性」という用語自体は「実体」の意味だ。
もちろんそれがない(色即是空)というのが仏教の教えだけど。 >>20
正確にはその通りですね。
ただ日常使っている現代用語の「実体」と、仏教哲学で問題にされてきた「実体(自性)」の意味が
ごっちゃになって誤解が広がっているというのが本当のところだと思うわけです。
日常、普通に使う「実体」という言葉は、外的世界の実在という意味で使われていると思います。
それだと「実体がない=外的世界(色としての現象世界)が幻想」という誤解が生まれるわけです。
でも、ここで
「はたして「実体」として存在しないのは、僕らの頭の中にある観念としての「コップの中の水の温度」だろうか? それとも目の前の現実の側にある「コップの中の水やその温度」のことだろうか?」
https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/4545
https://haruaki.shunjusha.co.jp/categories/684
と書かれてる通り、存在しない「実体」は頭の中の観念のほうなんですね。 >>22
まあ実際「空即是色」(実体性がないということが物質的存在なのである)のほうが忘れられやすいという傾向はあると思う。
そして「空即是色」の説明としてもその記事は適切だと思う。
しかし、「実体」という言葉を「外的世界の実在」という意味で用いるのは、そんなに一般的だろうか?
日常的にも「ものごとのほんとうの姿」という辞書的な意味で用いられていることのほうが多い気がするが… >>17
実体がないことを無といいます。
無は空ではありません。 >>24
>>25
「実体がない」ことは「無」ではなく「無自性」だ。
そして「物質的存在は無自性である」というのが「色即是空」の教え。
だから「実体がないことは無」というのも「物質的存在は自性を持つ」というのも仏教(般若経)的には明確な誤り。
確かに「無は空ではない」のだが、そもそも「空」が理解できていないようだな。 >>26
無とは、実体がないことであり、無自性です。
物質的存在には、自性があります。
↑これらは、言葉の意味です。
色即是空とは、「物質的存在は無自性である」という事ではなく、「物質的存在は空である」、という教えです。
空を無自性と理解したところに誤りがあります。
空を覚えた人は稀です。 >>27
ふーん…
まあ、君がそう思うのなら、そうなのかもしれないね。
私はまったくそうは思わないし、思いたいとも感じないけれど。 無自性を無と同一視するなら虚無主義になるから仏教としてはおかしいし、
物質的存在が自性を持つなら縁起を説明できなくなるからやっぱり仏教としてはおかしいんだよなあ…(呆れ) >>28
問答は修行の一つです。
答えられなければ、修行の放棄です。 >>29
無には限定がある?
今話しているのは限定のない無です。 >>30
自性というのはモノの性質ですから、無ならば自性はありません。
これは、虚無主義などではなくモノの道理です。
自性は縁起によっても変ります。 >>31
仏語の意味を自分勝手に定義している君こそ、問答を破壊しているのではないかな? >>33
確かに「無(なにもない)ならば無自性(実体がない)」とは言えるだろう。
それはまあ自明だ。
しかしそれだけでは「無は無自性」という君の主張(>>27)を示したことにはならない。
「無自性(実体がない)ならば無(なにもない)」も示さなければ、「無は無自性」とは言えないな。
さてそれを君はどう説明するんだ?
ちなみに、「色即是空空即是色」というのは、「あらゆるものごとは、現象であって、実体性をもたない」という教えだ。
これはつまり、「実体はなくても現象はある」と言っているわけだから、「無自性ならば無」とはまったく相容れないな。 >>33
あと、ここで問題になっている「自性」という言葉は、空思想において用いられるものだ。
だからその意味は「実体」であって「性質」ではない。
そこを混同しないでほしい。
(なんか意図的に混同しているような気もするが…) >>35
自性というのは、モノに備わった本来の性質なのだから、自性だけで存在できません。
つまり、無自性ならば無です。
>「あらゆるものごとは、現象であって、実体性をもたない」
これ↑は間違いです。現象ならば、実体があります。 >>36
自性が実体ならば、なおのこと、無自性は無だということになります。 >>37
>>38
モノに備わった"本来の"性質というものこそ、そのモノの実体にほかならない。
もしそうでないというのなら、君は実体という哲学用語の意味を理解していないことになる。
そして、現象にそうした"本来の"性質(もしくは実体)があるかどうかは、究極的には分からないことだ。
モノの"本来の"性質(あるいはモノの実体)と呼びうるものがあるとすれば、それは「他の影響を一切受けず、生成変化しない、そのモノに固有のもの」だということになるが、それをわれわれが観測することは不可能だからな(それこそ>>13の記事にある思考実験の通りだ)。
だから君の指摘はまったく的外れだな。 つまり、現象に実体があるとは限らないし、仮にあるとしても、それが現象とは無関係に存在できるものなのかどうかは、やはり究極的には分からない、ということだ。
そしてそう言える理由は、いま書いたように、現象の実体は観測不可能だから、だな。
で、「色即是空、空即是色」というのは、「一切は現象であり実体ではないが、現象は虚無ではなく存在する」という教えだ。
もちろんこの教えも、究極的には正しいかどうか、何とも言えない。
ただ、それが真理かどうかはともかくとして、その意味の解釈としてはこれで合っているはずだ、と私は思う。 >>39
>モノに備わった"本来の"性質というものこそ、そのモノの実体にほかならない。
実体はそのモノ、性質はそのモノの特徴だから違います。
>現象にそうした"本来の"性質(もしくは実体)があるかどうかは、究極的には分からないことだ。
モノには、必ず性質があります。
>モノの"本来の"性質(あるいはモノの実体)と呼びうるものがあるとすれば、それは「他の影響を一切受けず、生成変化しない、そのモノに固有のもの」だということになるが、
性質は、(例外を除いて)変化します。 >>40
現象があれば実体があります。
実体があれば、原則として観測できます。
ですから、これは↓間違いです。
>「色即是空、空即是色」というのは、「一切は現象であり実体ではないが、現象は虚無ではなく存在する」という教えだ。 >>41
>>42
「現象の実体は観測不可能」ということに関する反論を、具体的な根拠を挙げてどうぞ。 あとついでに、モノの性質とモノの"本来の"性質を、君がどう区別しているのか、もね。
あるモノのある性質が変化するなら、どうしてその性質がそのモノの"本来の"性質だと言えるんだい? >>44
あなたは太陽を見ることができますが、それは太陽が光を出すという現象を観測しているのです。
その現象によって太陽という実体が分ります。
間違い↓に気づきましたか?
>「一切は現象であり実体ではない
>どうしてその性質がそのモノの"本来の"性質だと言えるんだい?
太陽は、あと54億年ほどすると、性質を変え、地球を呑み込みます。
それでも太陽です。 >>45
何の説明にもなっていないな。
その何十億年かするとなくなるという「光を出す」というのがなぜ太陽の”本来の”性質なのかを聞いているのだが。 うわあ…これ絶対坊さん(?)のほうが説法してる気になってるやつだわ…実際は逆に坊さんのほうが説法されてる構図なのに… >>17私の例に話を戻しますが,
写真は時間が止まった止め絵ですので、それこそが実体のことです。
ところが被写体のほうは無常なるもので、常に停滞なく時が流れています。ゆえに被写体のほうには実体がありません。
被写体(無常なる経験以前の世界、認識の素因)は実体を欠いている。つまり空だというわけです。 有も無も観念です。そういう観念どおりの実体が対象世界にあるわけではありません。
私は観念を写真に例えました。
人は脳内から出たことなど一度もないのです。
人は脳内の写真を被写体だと勘違いしているから、その人に仏は空だと言い、被写体は言葉で表せないといいます。 >>12
あなたが撮った色の写真は色の被写体ではないから空だ。
空だけど、 >>50
色の写真は空だけど、われわれは被写体を写真に撮り色を認識する。
写真は被写体ではなく空。
そのように写真は断絶してる故空だけどその写真を使って認識する。
これで色即是空空即是色を説明しました。 有も無も観念(写真)。実体も自性も観念。
世界は私たちが思ってしまうように没時間的な観念どおりには存在してない。
無常なる一瞬の停滞もない経験以前の世界を示し、観念への執着を離れさすために、
観念に対し、空という。 >>48-52
あ、>>1氏が帰ってきたか。
じゃあ一応言っておくけど、君の「空」の説明は、それはそれで間違っているからね?
というのも、それは「空」(中観)ではなく、「識」(唯識)の説明だから。
こればかりは>>11が正しいと思う。 >>46
>「光を出す」というのがなぜ太陽の”本来の”性質なのかを聞いているのだが。
本来の性質というものは、変化するのです。
無常といいます。 >>48
>写真は時間が止まった止め絵ですので、それこそが実体のことです。
写真は、実体を写したものです。
被写体が実体です。
こんなこと、小学生に聞いてごらんなさい♪ >>54
"本来の"性質と呼べるものがあるのなら、それは変化しない。
変化するのなら、それは"本来の"性質とは呼びえない。
そして「無常」とは、「そのような"本来の"性質などありえない(あらゆるものごとの性質は常に既に変化している)」という教えのことだ。
君はたぶん上座部系の人なんだろうが、「無常」くらいきちんと説明できないと、子供にも笑われてしまうぞ。 >>51
>写真は被写体ではなく空。
写真は、写真という実体です。
被写体も、実体です。
写真に写ったモノを被写体そのものだと思わない。
色即是空空即是色は、色も空もそのものです。 >>52
>有も無も観念(写真)。実体も自性も観念。
>観念に対し、空という。
色(しき)も観念だ、という事になりますね。
それは、色即是空ではなく、一切観念教ですね♪ >>55
「写真ないし被写体は実体であるか?」と問われれば、「そうではない」と答えざるをえない。
写真も被写体も現象なのであって、実体ではないのだから。
だから「被写体は実体」というのは、「捨身は実体」というのと同様、明らかな誤りだ。
(もちろん、「写真ないし被写体という現象に実体はあるか?」と問われれば、「あるともないとも言えない」という答えになるのだが…) >>57
写真も被写体も実体ではなく現象だ。
これは現象に実体があるかどうか以前の問題で、まったく自明なことだ。
君の立場(おそらく有部)でさえ、まったく抵抗なく受け入れられることだと思うが?
で、その後の、「色即是空空即是色は色も空もそのものだ」という主張は、これはもうまったく意味不明、単なる宗教的言説だと言わざるをえないな。
仏教は世界哲学じゃなかったのか? >>59
まあそれは仰るとおりだな。
少なくともそれは「空」の教えではない。
ただ、君は「一切観念教」と揶揄しているが、実際、彼の主張(西洋哲学でいうところの「観念実在論」、仏教では「唯識」)が真理である可能性は、依然として残されている。
だから決して馬鹿にしていい考え方でもないな。 「だな」氏は、観念の実在性への執着から、唯識的な考え方と「空」を混同してしまっている。
「空基」氏は、物質の実在性への執着から、有部的な考え方と「空」を混同してしまっている。
どちらも修行が足りないな。 >>56
>あらゆるものごとの性質は常に既に変化している
「あらゆるものごとの性質」が有り、それが変化しているという事です。
無いものは、変化のしようがないでしょう。 >>61
>写真も被写体も実体ではなく現象だ。
現象というのは、実体の性質なりが発現したものです。
現象があれば、実体があります。
実体のない現象などというものは、例がありません。 >>62
唯識というのは、間違いです。
現代では、機械だけでいろいろなことを成し遂げられます。 仏教の本質は結局
正しく生きる
ということだし
機械とか数学とかそもそも関係ない
仏教的なゴールで言えば
機械とか数式とか言ってる連中は
1番遠いだろうし
大抵悪いことするしな
むしろ懲役行って欲しいお(^o^) いつも思うんだけど
なんで悟りと数学が関係あんのかがよくわからない(笑) >>53
捉える仕組みを解説すれば、唯識となる。
捉えられないと言えば中観になる。
なので唯識の説明もしているが、
写真と被写体の間の断絶を説くところで中観の説明をしました。
なぜなら捉えたものは実体的観念だから。
観念どおりの実体など、時の停滞のない現象界には無く、観念つまり脳内にしか存在しないのだから。 全然関係ないと思うんだよなぁ
数学はどちらかというと単なる
コミニケーションツール
というか >>1
>脳内の認識は対象とはちがうのです。そこには対象の存在は空っぽなことを、空だと言っているのです。
全然「空」を分かってない
それなら「すべては関わり合っているから空」の方がまだ正解に近いな >>55
ですので、被写体を実体と一般には思ってしまうのです。
しかし、実体と思っている時点で、その思いは観念な訳です。
観念は実体ではもちろんありませんし、
それは写真のように、時間が止まっています。
現象の方に観念通り時間の止まった「実体」などありません。
実体と思った時点でそれは観念です。
あなたがおもったことはもちろん観念です。
観念で現象を捉えられないことを空と言います。 >>55
>>写真は、実体を写したものです。
この考えが実体ありきの考え方なのです。
実体という言葉どおりのものは外界になく、
無常なる世界は捉えられないという空の教えを紹介しました。
ご理解、ご清聴ありがとうございました。 >>62
>>彼の主張(西洋哲学でいうところの「観念実在論」、仏教では「唯識」)
私のいうことは観念実在論ではありませんよ。
あなたが実在が「有る」とおもっているとそう聞こえるのかもしれません。
繰り返しになりますが、私は観念が実在とか言っておりません。
私がいうのは、観念は外界とイコールじゃない、ゆえに認識、観念では外界は捉えられない。
この捉えられないということを中観で空と言われている、と申しております。
これで私が唯識を説いているわけではなく、空を説いているということの説明を終わりにします。
つぎに、実体は写真と申しましたのは、皆さんのおっしゃる実体が、じつは言葉上、観念上のものでしかないことを言いました。
被写体が実体というのは世間では通るでしょう。
しかし、空の話の上では、実体という観念で被写体は捉えられないと表現されます。 実体とは変化しないものですよね。
A 〘哲〙〔ラテン•substantiaギリシャousia〕変化しやすい多様なものの根底にある持続的・自己同一的なもの。
アリストテレスでは具体的個物(主語となって述語とならないもの)が,またデカルトではそれ自身で存在し他物を必要としないものが実体とされた。
↔属性。〔「哲学字彙」(1881年)に英語 substance の訳語として載る。その後哲学用語として定着〕 →実態(補説欄)
哲学や、一般人は実体があるという前提で考えます。ですが、空は世界に実体はありえないと説きました。
諸行無常とは、変化すら捉えられない世界です 執着ですかね。実体を想定して世界の説明ができるとしても、苦が解かれないかもしれない。宗教の導きに差し障るなら問題かもしれないけど。 >>64
「あらゆるものごとの性質」なるものこそ、あるともないとも究極的には分からない、実体(あるいは"本来の"性質)と呼ぶべきものだ。
だから反論になっていないな。 >>65
まあこれも、今までと同じように、「現象の実体は観測不可能」の一言で斬って落とせるのだが…
それを言うと、結局また「現象があれば実体がある」とか言い出されて、堂々巡りになるだろうな。
だから斬り口を変えよう。
君の議論は、「現象があれば実体がある」ということを、何の根拠もなく、自明の前提としてまず置いている。
そして、その前提から論理的に導き出される帰結をもって、相手を論駁しにかかる、というスタイルを取っているわけだ。
しかし、なぜわざわざ「現象があれば実体がある」ことを自明視しなければならないのだろうか?
言い換えれば、なぜ「実体がないと考えてはいけない」のか?
今までの君の議論には、この問いに対する答えがない。
というよりは、「「現象があれば実体がある」からそう言わなければならないのだ」というトートロジーしか語っていないな。
しかし、哲学というものは、その問いに対して、トートロジーを与えて済ませるのではなく、何らかの根拠をもって答えようとする営みのはずだ。
だから今のところ、君の議論は「神学」の域を脱していないと言わざるをえないな。
(まあ、「神学」として見るにしても、「現象があれば実体がある」という主張は、「無自性ならば無である」と言っているに等しいから、トンデモだと言うほかないが…) 陰湿で足を引っ張ることばかり考えてる連中は
何を学んでんだ?
仏教を学んでんのか?
何十年も >>66
で、これについては、機械云々がどう関係するのか、そもそもよく分からん。
>>67の言うことがもっともらしく聞こえるのだが、君はそれにどう答えるんだ? 悪いことをしない
とかだろ
仏教の本質は
そもそも産業革命以前に機械が存在していない >>79
端的に言えば、「脳内の観念("写真")と認識の対象("被写体")の断絶」が「空」である、というのが君の解釈だな。
そして君は、そのことをもって、「世界に実体はありえない」ということを言おうとしているわけだ。
しかし、「"写真"と"被写体"が断絶している」と言うことは、実は「"写真"は実体である」と言うことに等しい。
そのことに君は気づけているだろうか?
"写真"というものが、"被写体"というものから「断絶」しているということは、つまり"写真"は"被写体"とはまったく無関係に、独立して存在することができる、ということだ。
そして、ここでいうところの"被写体"というのは、認識の対象、すなわち生成変化する現象のことを指す。
とすると、"写真"というものは、現象とはまったく無関係に、独立して存在することができる、ということになるな。
しかし、「現象とはまったく無関係に、独立して存在することができる」というのは、まさしく実体の特徴そのものなのではないか?
確かに「空」は「世界に実体はありえない」とする教えだ。
しかし、私が言いたいのは、「空」とはそういう教えであるのにもかかわらず、君が、「空」を説明するときに、観念という実体を密輸入してしまっている、ということなのだ。
実際、君は>>48や>>71で、「"写真"は実体である」という主旨のことを言ってしまっているな。
まあそれが君の意図に基づく行為なのかどうかは分からないが(おそらく「知らず知らず」なのだろう)。
何にしろ、やはり君は、>>73の言うとおり、全然「空」を分かっていないな。
…というか君のは、ありがちな勘違いの一つなんだよ。 あるとも言えるしないとも言える
という想定が足りないから
いけないと思う 記憶自体には実体がないが
四六時中それで発狂している 記憶(過去のこと)だけでなく、予期(未来のこと)もそうですね。
〆切なるものにも実体はないわけですが、みんなそれでいっつも右往左往しているw 実体のないもので脅迫してくんのが 1番達が悪い
形のないものさえ奪いあう
逆に何をあげればいいのかもよくわかんねえ(笑) 逆にそんなに実体として見えるなら
てめぇで実現すればよくね? >>86
>>実は「"写真"は実体である」と言うことに等しい。
それはちがうんですよ。
私が言っているのは、
あなたがおっしゃる”実体”は観念のため、あなたは脳内を抜け出せていないことに気づかれておらず、
観念である以上、あなたのおっしゃる実体は、”実体という名の写真”でしかないのだ」という指摘をさせていただきました。
そのことがうまくあなたには伝わらず、
私が”実体(結局写真)”は”写真”であるというのを、
あなたに、”写真”は実体であると聞こえさせてしまっていて、残念に思いました。
>>"写真"は実体である」という主旨のことを言ってしまっているな。
上記のとおり、あなたの言われている、ここのところは、私の申したことを誤解されていますので、
「私が観念を実体」とは言っていないということをお分かりいただけたことと思います。
>>とすると、"写真"というものは、現象とはまったく無関係に、独立して存在することができる、ということになるな。
断絶の意味をもう一度申し上げれば、私が無関係に写真が生まれ、独立して存在していると申し上げていないことをご理解いただけようかと思います。
私のいう断絶は≠のいみであり、無関係とは申し上げていないことにご注意いただければ幸いです。 命令口調のやつって
金出してる風なんだけど
別に何も出してないんだよな(笑)
こんなにしてやってるんだ感は
どこから出てくるのか気になる(笑) 給料払った分は働け
ならわかるけど
何も出してないやつが
なんで命令口調なの?(笑) こんなにしてやってるんだ感
がどこから出てくるのか気になる(笑)
世話になった記憶も特にないのに こんだけしてやってるんだ感が
次の時代のビジネスチャンスだろ
もう実体かなさすぎて(笑) もっと最上級の敬語を使って喋りましょう
足りねえーんだよなぁ 注意いただければ幸いです。→☓
私のようなカスでも、話を聞いて下さって
感無量です→○ 仏教とかどうでもいいよ
この国のカスは
どうせ上下関係にしか興味ないんだから お前が解説しなくてよくね?
お前が辿りついてないんだから(笑) 最終的にマウントポジションを取る為だけの
知識のツールとしてしか興味ないだろ
どいつもこいつも
そもそもがお前らの世代は一回全部捨てなきゃならない
全員センスがないから
多分今の10歳以下の子ども達が
地球を明るくしてくれる 自分の命が1番大事
ってのは多分どの分野においても
センスないと思う
大事なのはいいけど
それに一生こだわって人を貶めたりしてる時点で
もうゴミ 私のようなカスでも
日々精進しようと一生懸命切磋琢磨しております
どうか私のようなカスでも
未来に1篇の光が抱けるように
少しでも情報を頂けたら
本当に助かります
どうか
無理なら 構いません→○ そもそも情報を手に入れる=成仏できる
みたいな意味不明な思考回路を
一回捨てなきゃならない
ストーカーと変わらないから
UFOと遭遇したら
人生ハッピーになるのか?
それと似ている 出発点からゴミだし
ゴールもゴミだし
そもそもが全てがお前の妄想の産物だし
人に迷惑をかけるな 荒らすも何も
建設的な議論をしてると思い込んでる豚が
俺が空気入れないと
何も稼働しないのがウケるんだよな 豚はプライベートでも俺を監視して
ネットでも俺を監視して
寝たきりの無職で
ずっと俺をみてんの
気持ち悪い 何やってんの?(笑) 文字どおり
ずっと張り付いてずっと俺を見てる豚
キモすぎてやばい【隣の部屋から】 世間には「空」と「無」の区別がつかない人が多い
だが、この2つの違いは実は単純だ
入れ物はあるけど中身がないのが「空」
入れ物すらないのが「無」だ >>94
>あなたのおっしゃる実体は、”実体という名の写真”でしかないのだ
どうやら君は、私が「「実体」という名の"写真"(脳内の観念)は実体である」と主張していると思っているようだ。
しかしもちろん、私は一度もそんな主張はしていない。
この論点について、私が今まで言ってきたのは、「"写真"も"被写体"(認識の対象)も現象であり、実体ではない」ということだけだ。
つまり、「「実体」という名の"写真"は実体ではない」という、君が思っている私の主張とは真逆のことしか、私は主張していないのだ。
だから君のその指摘は、>>86の私の主張(「「"写真"と"被写体"が断絶している」と言うことは「"写真"は実体である」と言うことに等しい」)に対する反論には、まったくなっていないな。
>”実体(結局写真)”は”写真”である
おそらく、ここで君が言いたいのは、「「実体」という名の"写真"は実体ではない」ということなのだろう。
しかしこの書き方では、「実体は"写真"である」(もしくは「"写真"は実体である」)という主旨の発言だと解釈されても、日本語的には仕方がない。
というかむしろ、そういう主旨の発言だと解釈するほうが無理がないな(だから私はそう解釈した)。
このような書き方のまずさこそ、君自身でも君の言いたいことがまだうまく整理できていないということ、すなわち「空」がよく分かっていないことのあらわれではないかな? >>94(続)
>「私が観念を実体」とは言っていないということをお分かりいただけたことと思います
君がほんとうに言いたかったことが、「"写真"は実体である」ということではなく、「「実体」という名の"写真"は実体ではない」ということであったとして、そのことは、さっきも書いたとおり、>>86の私の主張に対する反論にはなっていない。
そして、>>86の私の主張に従えば、君は実際に「"写真"と"被写体"が断絶している」と言っているのだから、君は「"写真"は実体である」と言っていると考えざるをえない。
したがって私には、「観念を実体とは君は言っていない」だなんて、分かってあげることはできないな。
>私のいう断絶は≠のいみであり、無関係とは申し上げていない
それでは、なぜ"写真"と"被写体"は、どちらも現象であり、実体ではないのにもかかわらず、「等しくない」(≠)と言えるのだろうか?
むしろ、"被写体"(あらゆるものごと)の中に、"写真"(あらゆる観念)が含まれる、と考えるほうが、「空」の考え方に即しているのではないか?
なぜわざわざその両者を「類と種」の関係ではなく「類同士」の関係にあると考えなければならない?
これらの疑問に対し、適切な回答がないのなら、君のその主張もまた、某氏の主張と同様、「トンデモ神学」と言わざるをえないな。 認識出来るけど実現出来ない
って逆にどういう状態なのか
教えて欲しいな 「人間の認識には限界がある」こと(あるいは「現象の実体は観測できない」こと)を説明しようとする考え方である、という点では、「空」も「識」も同じ。
しかし、その説明の仕方は、それぞれまったく異なる。
「識」は、「人間は感覚器官を通じなければ対象を認識できない」ということを根拠に、認識の限界を論じる。
つまり、もし現象の実体があるとしても、それは身体を介して"しか"把握できないのだから、現象の実体は観測できない、と考える。
これに対して、「空」は、「現象の実体があるとすれば、それは一定不変だが、一定不変なものは感覚しようがないのだから、仮にそれがあったとしても、それは認識されようがない」ということを根拠に、認識の限界を論じている。
すなわち、もし現象の実体があるとしても、それは身体を介して"さえ"把握できないのだから、現象の実体は観測できない、と考えるわけだ。
ポイントは、「識」で前提とされている「主観と客観の関係」が、「空」では前提とされていない、というところにある。
つまり、「識」の考え方は、「あらゆるものごとは主観に対する客観である」という関係性の存在を認めなければ成り立たないが、「空」の考え方は、それを認めなくても成り立つ、というわけだ。
そして、「空」の教えに従うならば、そのような「主観と客観の関係」は、認める必要がないばかりか、認めることさえできない。
というのも、「あらゆるものごとは主観に対する客観である」という関係性が存在を認めるなら、客観とは無関係に独立できる主観の存在を認めなければならなくなるのだが、しかしそのような主観というものは、「空」においてはありえない、実体にほかならないからな。
したがって、「空」の説明においては、「主観と客観の関係」にあたるものが登場できる余地は、どこにもない。
それにもかかわらず、「だな」氏による「空」の説明では、「"写真"と"被写体"の関係」として、それが登場してしまっている。
だから彼の「空」の説明はおかしいと言わざるをえないんだよな。 そもそも疑問に適切な回答とか
言ってる時点でトンデモ神学との
差異性が認められない
少なくとも自分は悩みを手放せた
という独立性が担保されなければ
少なくとも私の考えはあなたとは違うんですよ
という考えにどこに中心 光る点が
あるのかがわからない
それこそが ゛写真゛ と゛被写体゛の
意味不明な対比だ >>76
>観念で現象を捉えられないことを空と言います。
現象を捉えた結果が、例えば、人工衛星です。
現象は捉えられるという事です。 >>77
>実体という言葉どおりのものは外界になく、
空即是色は、実体だということです。 識の悩みは以前より
軽減された
なら相対的にも絶対的にはわかるよ
病気が完治した
とかな
私は写真であなたは被写体です
なんてやってるうちは
何も完治してないよ
空でもない
ただ相対性を作り上げてるだけで >>78
>被写体が実体というのは世間では通るでしょう。
>しかし、空の話の上では、実体という観念で被写体は捉えられないと表現されます。
空即是色とは、実体だという事ですね。 >>81
空即是色の色(しき)は、実体だという事です。 相対性を一個追加した
もしくは強引にデザインした
だけの話を
それはおそらく自我の特性だろうな
資本主義社会においての >>82
>言い換えれば、なぜ「実体がないと考えてはいけない」のか?
間違いだからです。
実体は、我々の世界です。
色即是空とは、実体がないという主張ではないと述べています。 >>121
>入れ物はあるけど中身がないのが「空」
それだと、空即是色が、中身が何か分らなくなります♪ 自我をワンデザインしたら
実体っぽくなるのか
ならねえだろ
いや ラピュタの飛行石みたいなやつか
なるかもな
永遠を保存出来る石があればな
それがdnaなのか この世界にそもそも中身のあるものがあるのか論
楽しいこととかほとんど覚えてないしな >>133
"なぜ"間違いだと言えるのか、その根拠を述べて欲しい、と言っているのだが。
確かに、間違いだと言えるなら、そのことから、「実体は世界だ」とか「色即是空は実体がないという主張ではない」とかいった帰結は、論理的には出てくる。
ただ、そもそも間違いだと言えなければ、前提が正しいとは言えないのだから、そこからの帰結もまた、正しいとは言えなくなる。
だからその前提を正当化してほしい、と再三言っているのだ。
まだ理解できないのか? 実体がないと思われる世界の中で
相対的に実体っぽいもの【苦しみとか】
それらを寄せ集めて
総合的に判断した所
空 というものが推論によって導き出される
だが自我が消えたわけではない >>134
確かに機械に「識」はない。
機械は「設計」に基づいて組み立てられ、「人間の操作」あるいは「プログラム」に従って動作する。
そして、「設計」も「人間の操作」も「プログラム」も、すべて人間の理性のはたらきなしには不可能だ。
したがって、人間の「識」なしには機械はそもそも成り立たない、だから機械化は「識」を否定する根拠とはなりえない。
唯識の人ならたぶんこんな感じで反論するだろうな。
この反論自体は、「空」の立場からしても妥当だと思う(「空」からすればそもそも「識」の実在が受け入れられないのだが)。 実体がないとは
自分のものに出来ないと考えるとか?
捉えられないとはどういう状態だ?
同化出来ないという意味か?
人口衛生は捉えられるけど
同化は出来ない
認識は出来るけど
記憶には大して残らない
そういう意味において
あるけどどうでもいい
空【くう】においては
これだけ何千年も議題に上がるのだから
実体があるのだろう >>122
>君がほんとうに言いたかったことが、「"写真"は実体である」ということではなく、「「実体」という名の"写真"は実体ではない」ということであったとして、そのことは、さっきも書いたとおり、>>86の私の主張に対する反論にはなっていない。
あのう、実体視 割といる いらないで判断したら
ほとんどの物が実体がない
猫ぐらいだろ
実体があるのは >>131
結局これも、「現象があるなら実体もある」ということを自明視したときに論理的に出てくる、一つの帰結でしかないな。
しかしその前提がそもそも自明ではないわけだ。 人によって重要度にばらつきがなければ
多種多様な生態系が生まれなくなるのではないか
空【くう】一点集中でいいだろもはや 病気があるなら回復もある
と自明視しない理由は逆に何なのだろう 昼があるなら夜もある
の前提を崩した状態がそもそもわからない >>143
実体という観念から離れないと、空はわかりません。
私は写真を実体とも言ったことがありませんし、
写真が実体でないとも考えません。
およそ何についても観念通りの実体などないと思うしあげればお分かりいただけるでしょうか。
実体とは没時間的な観念です。観念上にしかない、現象の方には対応するものがないのです。
それゆえに、わたしは観念と現象は≠と言い、
現象を掴んだ、という観念は、"現象を掴んだという現象"を掴めていないことを明らかにしました。
ここの違いを区別できていると、私の話が分かってくると思います。
私は完全に現象の話をしているのですが、皆さんは実体という観念にこだわり、私の現象の話も観念で掴んでしまいわからなくなってしまったのだと拝察されます。
これがお分かり頂ければ、みなさんが観念の中で議論されているという大事なところが初めてお話できるわけなのです。 認識できるはずもないのに
認識出来るというラッキーゴールもたまにあるからなぁ なので、観念論をいくら続けても、空の意味はわかりません。
観念は現象と≠。これが空だということです。私からの説明は以上となります。
ご清聴ありがとうございました。 理論物理上肉体は完全に死んでるのに
蘇生する人だっているだろ >>157
結局わからなかったんですね。残念なことでしたね。
それでは失礼致します。 むしろわかるほうが残念だと思うわね
わからなくてよかった 出来ない
とか
わからない
とかの人をピラミッドの頂点に置く文明
いい加減やめるべきだ
この有様を見てみろよ 急に仕切り始める新人
どこまでもついてくるな
人が嫌がってんのに
ママさんキャラですか?(笑)
てか誰お前(笑) 別にこいつが人格的に優れたことやってるか
って別にやってねえし
ただ出来ないことをひたすら叫んでるだけで
情熱的に 声高に どこまでもついて来るストーカー邪魔くせえなぁ
お前とは関わりを持ちたくない
って言ったらそれで終わりなんだけどなぁ
人間社会って
まあそのうち社会の厳しさ教えてやるよ >>150
>写真が実体でないとも考えません
「空」に従えば、「"写真"も"被写体"も実体ではない」のだから、「"写真"が実体でないということはない」と言っている時点で、「空」が分かっていないと判断せざるをえない。
考え方としてはまあアリかもしれないが、「空」の説明としては明らかにダメだ。
>実体とは没時間的な観念です
やはりこれも、「観念のうち没時間的なものが実体である」と、すなわち「(ある種の)観念は実体である」と言っていると、文法上は解釈できるな。
で、最大限好意的に、「「実体」という名の観念は没時間的な認識対象を指示する(がそのような認識対象は存在しない)」という意味だと、ここでは解釈してみるとしよう。
そのこと自体は概ね正しいと私も思う(「実体」は「没時間的」であるだけでなく「没空間的」でもあるので、「没時間的」の文言は「一定不変」に書き換えるべきだ、とは思うが)。
ただ、やはり「空」の説明としては、「主観と客観の関係」の存在を前提としている以上、明確な誤りだと言わざるをえない。
「識」の説明としては理解できるが、「空」の説明として出されている以上、やはり君の主張は、理解してあげたくても理解することはできないな。 他人の身体性に負荷をかけて得る
空と
自力で獲得する
空の違いなんじゃないか?
前者はまがいもんのコピーのデタラメで
後者は本物 大体人から強奪して得る仏教の悟り
とかがもうそもそもの理論上
意味がわからないから Aという人が死にます
その人に感情移入は出来るけど
その人の意識は体験出来ません
同調は出来るけど
どんな機械使っても無理だよそもそもが
それをやった気になってるのが
そもそもが気持ち悪い >>168
私はあなたが使う実体という言葉が、没時間的観念と言いましたよね。
観念は全て没時間的であるため、没時間的ではない観念などない。まずここをよくよく噛み締め、間違わないようにしなければ、とうてい空の理解まで到達できません。
そして、わたしは、あなたの使う実体という観念の否定のために、唯識を持ち出したわけです。
あなたの言われていることは観念なんですよと。
没空間的というのは言わなくていいんです。
空間などいうまでもなく観念です。認識した途端にその空間は観念なわけですから。
空間も時間も観念です。
わたしは観念をわたしのメインの主張にはしていません。ただあなたの観念を対治するために、唯識というパッチを当てたわけですよね。
ここまではご理解いただけると思います。
わたしは主観も客観も観念でしかないと断じますので、結局観念を持ち出してるのは私ではなく、いつもあなたなわけなんですね。
それゆえ、毎回あなたの観念を
では私のメインの主張はというと、空の理解とは、 >>176
それゆえ、毎回あなたの観念を唯識によって対治するわけです。それは私のメインの主張ではありません。ただあなたが観念の世界のなかにいながらそれに気づいていない(どうか気を悪くされないでくださいね💦)ことについて語りました。
では私のメインの主張はというと、空の理解とは、実体など主観にも客観にもどこにもない。
主観も客観も認めるなら、それは実体視。 >>176
それゆえ、毎回あなたの観念を唯識によって対治するわけです。それは私のメインの主張ではありません。ただあなたが観念の世界のなかにいながらそれに気づいていない(どうか気を悪くされないでくださいね💦)ことについて語りました。
では私のメインの主張はというと、空の理解とは、実体など主観にも客観にもどこにもない。
主観も客観も認めるなら、それは実体視。 >>178
主観と客観を観念で考えているなら、それは両者を実体視しているわけです。
しかし、あなたはわたしをそう理解されたようですが、それはわたしの空の説明ではなく、主観と客観を出している部分は当初から唯識だと申し上げているわけなのですが、
どうもそれをわたしの空が説いている部分だと勘違いされるようですね。
繰り返しになりますが、それは唯識を説いている部分です。空はその先の捉えられないところ、つまり、≠のことだと申し上げたわけでした。 >>178
主観と客観を観念で考えているなら、それは両者を実体視しているわけです。
しかし、あなたはわたしをそう理解されたようですが、それはわたしの空の説明ではなく、主観と客観を出している部分は当初から唯識だと申し上げているわけなのですが、
どうもそれをわたしの空が説いている部分だと勘違いされるようですね。
繰り返しになりますが、それは唯識を説いている部分です。空はその先の捉えられないところ、つまり、≠のことだと申し上げたわけでした。 >>180
不可得と言うこともできます。そのほうがわかり良いでしょうか?
龍樹は、観念、言語はすべて、実体視が前提としてあるがゆえに迷妄と断じたわけです。
現象は"それ"ではないと。 長くなってしまいました。
実体など迷妄上にしかない。
そうですよね。 基本的に悩みは自分で解決するものである
その辺がまず
【センスねーな】
って思う所存である
そういう奴は仏教目指さなくていいだろ
そもそもが(笑) なんで自分でできねーこと語り始めるのかも
よくわかんねーし >>176
>観念は全て没時間的
はて…そんな主張、今まで君がしたことあったかな?
少なくとも私の記憶にはないし、君の発言を読み返しても見当たらないな。
「実体は没時間的な観念だ」とは言っていたが、それは「すべての観念は没時間的だ」とは読めないものだし(仮に読めるとするなら、それこそ「観念は実体だ」という前提を立てた場合だけだ)。
自分の発言内容くらい、きちんと覚えておいてほしいものだな。
まあそれはともかく、「観念はすべて没時間的だ」というのは、それ自体、果たしてほんとうだろうか?
実際、観念というものは、各人の内心で好きな時に思い浮かべることができるものではある。
しかし、何かを思い浮かべるということは、それ以前に経験した
>空間も時間も観念です
そりゃもちろん、君に言われるまでもなく、「空間」も「時間」も、「主観」も「客観」も「実体」も、みんな観念、すなわち現象だ。
で、それがどうした?
そのことを前提としたところで(いや実際にはすでに前提とされているわけだが)、君の主張に関する私の見解の正当性は、まったく揺らがないとしか、私には思えない。
例のごとく、反論としてはまったく的外れだな。
>わたしは、あなたの使う実体という観念の否定のために、唯識を持ち出した
「唯識」は「中観」(空)ではないのだから、それを持ちだした時点で、「空」の説明としてはやはりダメだな。
あと、「実体という観念の否定」とか、「あなたの観念を退治する」とか、そもそもどういう意味だ?
私は一貫して、「「実体」という名の観念の意味するところは「一定不変のもの」だ」という、それこそ君が>>79で言ったことと、「観念もまた現象であって実体(=「実体」という名の観念の意味内容に合致するもの)ではない」という、「空」の教えに基づくことしか、「実体」という名の観念については主張していない。
したがって、君が「唯識」をもって私の「実体」という名の観念の使い方を否定することは、「実体」概念の無理解と、「唯識」と「空」の混同の、どちらかにしかならないな。 >>179
>主観と客観を観念で考えているなら、それは両者を実体視しているわけです
「主観」と「客観」は、もともとどちらも観念、すなわち現象だ。
だから私はそこは別に問題視していないし、そう考えることがそれぞれを実体視することだとも思っていない。
私が言っているのは、「君の「空」の説明は、「主観と客観の関係」の存在を前提としているから、明らかに誤っている」ということだ。
なぜそう言えるのかについては、>>125で詳解したとおり。
>主観と客観を出している部分は当初から唯識だ
それじゃダメじゃん(笑)。
「空」は「唯識」とは根本的に異なる考え方なんだから。
君の「空」の無理解を露呈しているだけだ。
>空はその先の捉えられないところ、つまり、≠のことだと申し上げたわけでした
だから、それこそが「唯識」の考え方だと言っている(説明略)。
…龍樹の言うとおり、「観念や言語はすべて実体視が前提としてあるがゆえに迷妄」だ。
だからこそ私は、君が迷妄に陥っていると、すなわち観念や言語にとらわれていると、再三指摘しているのだが、まだ理解できないのか? 現実が凝縮されたのが空だろ
オレンジ1%とオレンジ100%の違いに過ぎない
観念上はそうなる なぜそこから先は誰も語れないかというと
死というものを割と通過しなきゃならないし
あとまあ喋るの語るの面倒臭いみたいのもあるだろ
これから死ぬのに
地球人に空の説明して行くのも面倒臭いだろ >>186
一つ目の「>観念は全て没時間的」というところ、少し書き落としてしまったので、追記。
…「観念はすべて没時間的だ」というのは、それ自体、果たしてほんとうだろうか?
実際、観念というものは、各人の内心で好きな時に思い浮かべることができるものではある。
その点で(そしてその点においてのみ)時間的制約に服していないと言えるだろう。
しかし、何かを思い浮かべるということは、それ以前に経験した心的表象を、想像力によって自由に再現する、ということだろう。
とすれば、観念というものは、現象なしにはありえず、また現象によって影響を受け、さらに身体を介して現象に影響を与える、と考えられる。
こう考えると、観念は没時間的とは限らないのではないのではないか、つまりそれは現象の一種でしかないのではないか、と思えてくるが、どうだろうか? 観念は物質的だ
割とこっからここまで生物とか物質と
定義してるのも人間かもしれない
石も生物の可能性はある 時間も生き物説は最近よくある
だからこんなに嫌がらせしてくんのかなって 概念→?
観念→?
意識→○
思考→○
概念と観念が何を指しているのかが?
概念と観念で記憶に近いのは概念?
観念はイメージに近いのかな? 概念と観念を考え始めたら
わけわかんなくなった(笑)
思考とは違うみたいだね
思考は言葉に近くて
記憶はイメージに近い
で概念と観念って何だっけ?(笑) 記憶とは独立して飛んでくるものが
概念かな
恐怖が生み出す概念
とか
観念は何か今考え中 観念は
おまじない
みたいな感じなのかな
意図的にイメージを作り上げるもの >>125
> 「人間の認識には限界がある」こと(あるいは「現象の実体は観測できない」こと)を説明しようとする考え方である、という点では、「空」も「識」も同じ。
それはカント哲学だよ。西洋近代の認識論だ ショーペンハウアーがカント哲学の用語を用いて古代インド思想を語ったくらいだから、この2つに通じるものがあるのも事実だけど、さすがに「同じことを言っている」というわけではない
カント的な解釈が行きすぎると誤解を生む 仏教思想でいう「モノには実体がない」(空即是色)というのは、たとえば「家」を例にとってみると、「家」は柱とか壁とか床とかから成り立っている。木とかセメントとか鉄骨とかから成り立っている。「家」という実体があるわけではなく、そういう組み合わせから成り立っている観念上の存在である・・・というような意味
つまり、これは存在論
「人間の認識には限界があり、モノの本質を知ることはできない」・・・これはカント哲学であり、近代西洋の認識論だ
この2つは似て非なるものであり、区別しておく必要がある 仏教思想とカント哲学は、いろんな面で通じるものはあるけど、言わんとしていることが異なる
仏教思想は、この世の虚しさや自我の虚しさを強調し、無我を説こうとしている
一方、カント哲学の主題は「人間の認識の限界」だ 同じことはヒュームにも言える
ヒュームは、「自我とは、ものすごい速さで生起す無数の想念の束にすぎず、実体として存在するわけではない」という、かの有名な自我否定論を唱えた
これは一見、仏教思想の「五蘊仮和合」と似ている。でも、言ってる内容が似てるだけで、目指しているものが違う
ヒュームの主旨は、「我思う、ゆえに我あり。あらゆるモノの存在を疑ってみても、その疑っている自分自身が存在すること。これだけは否定できない」というデカルト哲学に異議を唱えるところにある
ヒュームの場合、「解脱しよう」と言ってるわけではない こういう、ヒュームやカントのような近代西洋哲学と、古代インド思想には確かに通じるものがある
この2つを結びつけたのが、ショーペンハウアー
ショーペンハウアーの「意志と表象の世界」は、ヒュームやカントのように哲学を語っているが、その主たるテーマは「この世という幻影から解脱しよう」という古代インドそのものの思想 話が脱線したけど、このスレの議論を見ると、仏教でいう「色即是空」を「物自体は認識されない」という意味に捉えているようだ
それはカント哲学であり、近代西洋の認識論。仏教とは似て非なる思想だ >>125
おおむね、賛同するが、やはり、一番肝心なところであらっとなりました。
あなたの反論は、どうも私の言うところが曲解されたり、わたしの言葉を早とちりして始まっています。それはなぜか?
実体が現象側にあるが、観測できないと思っていると受けとれるのですが、合ってますか?
もうずっと同じポイントについて申してきましたが、
>たとえば現象という実体があるとしても…
>現象の実体は観測できない…
実体など現象側にはないと、私は申し上げてきたわけです。
観念のなかでしか実体などないんです。
ゆえに空を説くなら、実体などない。
こういう意味になりますよね。
実体があるかもとか、
あるでもなくないでもなくとか、
有耶無耶 >>207
実体があるかもとか、
あるでもなくないでもなくとか、
有耶無耶とか、
あり得ません。 >>139
実体が存在することは、自明だからです。
あなたは、そこにいて投稿しているでしょう。 >>141
識のない機械が存在するというだけで、唯識は間違いだと分る。 >>145
色即是空 空即是色 というのは、空も色もあるという前提で、その関係を述べています。 偉くないからあくまで頑張らなきゃいけない
という
それがお前らのイライラの原因だろ
謎の意味不明な優越感の自信はどこから来るのか かわいそうとか言える立場にそもそもいないから
お前がかわいそうなんだから(笑) >>125
> 「人間の認識には限界がある」こと(あるいは「現象の実体は観測できない」こと)を説明しようとする考え方である、という点では、「空」も「識」も同じ。
上にも書いたけど、それはカント哲学だよ。近代ヨーロッパの哲学だ
空でも識でもない。「物自体と現象」の話になっている
いくら仏教思想が古代にしては斬新とはいえ、さすがに18世紀の近代を先取りしていた、なんてことはない
その解釈は無理があるな! >「識」は、「人間は感覚器官を通じなければ対象を認識できない」ということを根拠に、認識の限界を論じる。
つまり、もし現象の実体があるとしても、それは身体を介して"しか"把握できないのだから、現象の実体は観測できない、と考える。
その辺りが、古代インドと近代ヨーロッパにおける、似て非なるテーマなんだな。
「人間の認識の限界」は、近代ヨーロッパ人の関心だ。それはニュートン力学という、あまりにも完璧な理論体系が生まれ、かつてない科学技術文明が出現しつつあったことと無縁ではない。
似た話をしているように見えても、古代インド人の関心はそこには無かった。古代インド人の関心は、「この世は幻影である。この幻影から目を覚ませば解脱できる」というようなところにあった。 >>200-206
「「空」は存在論であって認識論ではない、だからカント哲学とは(相通じる部分は多々あるものの)別物だ」、という主旨のご指摘だと思うが…
その指摘自体はまあもっともだと思う。
そして、その観点からみると、>>125における私の説明が、存在論と認識論を混同しているかのように見えても、致し方ないだろうなとも思う。
ただ、私は>>125においては、「だな」氏(唯識の人)にも私の主張の主旨が伝わるようにするために、敢えて彼の観点(「人間の認識の限界はどこにあるのか?」という認識論的な問い方)を取り入れて、私の主張を説明しようと試みたのだ。
できればその文脈を汲み取って解釈して欲しい。
つまり、私が言っているのは、結局は「一切は現象であり実体ではないが、しかし現象は虚無ではなく存在する」ということ(そしてそれこそが「色即是空空即是色」の教えであるということ)だけだ。
これだけなら存在論であって、認識論ではないだろう?
だから、「人間の認識の限界」なんて、私は初めから主題化していない(それを主題として論じているのはこのスレだと「だな」氏だけだろう)。
ただ、>>125では、情報伝達の便宜上、一時的に取り入れてみた、というだけなのだ。
その点は分かってもらえると助かる。
要は、「色即是空」を「物自体は認識されない」という意味だと捉えているのは、このスレでは「だな」氏だけ、ということだ。
…ところで私には、ショーペンハウアーの哲学は、古代インド思想(だがその内実は「空」にかなり近い)を、近代西洋哲学(とりわけカントとプラトン)の文脈で説明することに、かなり成功しているように思えるのだが、君は彼の哲学をどう評価している?
よかったら聞かせてくれると嬉しい。 >>207
>>208
そもそも私の主張の解釈からして、君は間違っている。
まず、「実体が現象側にある」だなんて、一言も言っていない。
一貫して述べているのは、「一切(観念を含む)は現象で実体ではないが、しかし現象は虚無ではなく存在する」ということだけだ。
「実体がある」とも言っていなければ、そもそも「現象"側"」なる言葉遣いもしていない(=「主観と客観の関係」の区別の存在を認めていない)。
次に、私は「現象の実体はあるとしても…」とは書いたものの、「現象"という"実体があるとしても…」などとは書いていない。
「現象という実体がある」(=現象は実体である)などというのは、「有」(有部)の考え方であって、「空」(中観)の考え方ではないからな。
せめて引用くらいは正確にやってくれ。
再三言っていることだが、君は、「観念のなかでしか実体などない」という君の言葉から窺えるように、観念の実在性に固執している。
だからこそ、私の主張を歪めて理解することしかできないのではないか、と私は繰り返し指摘しているのだ。
さて、曲解や早とちりをしているのは、私と君のどちらだろうか?
なお、「有耶無耶」については、私が何をどう有耶無耶にしているのか、まったくもって分からないので、ここでは無視しておく。 >>210-212
で、君に対してはもう、「"なぜ"そうなのか?」、この一言だけで十分だろう。
あとはもう、今まで私が書いてきたレスを参照してくれ、としか言えん。
君の言い分は、まあ道徳的には正しいんだろうが、哲学的にはまったく無意味だ。
おまけに、「空」の教えの説明としても明らかに間違ってるんだから、仏僧(?)としても頼りないな。 >>216
果たして、そう言い切れるかな?
「識」とカント哲学は対応しているとも、「空」とショーペンハウアー哲学は対応しているとも、私には思えるけどね。
もちろんそれぞれ言語ゲームが違うし、背景にあった時代的要請も違う(だからこそ「使われ方」も違う)から、片方をもう片方に還元することはできない。
しかし、言語化される以前の根本的な思考の流れは同じだと考える余地は、十分にあるのではないか?
その可能性を全否定できる根拠はあるのだろうか?
哲学史は科学史とは違って、単純な進歩の歴史(後のものが前のものを完全に塗り替えてゆく歴史)である必要はないだろう。
それなら、古代の思想には近代の思想と対応する発想が見られる(が時代状況の違いから近代の思想とは異なる「使われ方」をした)と考えてもよいのではないか? というか、ある時代で重宝された思想が、それから相当後の時代になって初めて支配的になった思想のアイデアを既に含んでいた、なんてことは、そう珍しくもないと思うがな。
アウグスティヌスの哲学なんかいい例だ。
彼の哲学は、キリスト教正統教義の確立と、ローマ=カトリック教会によるヨーロッパ支配に役立ったので、彼が生きていた時代に重宝されたわけだが、まさにその哲学に含まれていた、信仰の個人主義的な側面を強調したり、教会さえも世俗的なものと看做したりする考え方は、それから相当後の時代に力を持った、教会批判や宗教改革などという、教会支配に対抗する様々な運動の、有力な論拠ともなったわけだからな。
だからこそ、古代の思想が近代の思想を先取りしていると考えたって、それほどおかしくはないはずだ。 >>219
実体はない、現象はない、自性はない・・・?
実体も現象も自性も・・・、存在する。
そのうえで、色即是空 色即是空なのだ。
皆さんの論は、色即是空を説明しようとしているが、空即是色が説明できない。
ちなみに、実体も現象も自性も・・・、存在することを諸法実相という。 >>224
>そのうえで、色即是空 色即是空なのだ。
↓訂正
そのうえで、色即是空 空即是色なのだ。 なぜ人は戦うのか
それは戦ってる時が1番楽しいからだ >>224
実体も現象も自性も「純然たる客観事実」としては存在しない
ある特定のものの見方や考え方によって「成立し得る解釈」としてなら存在する
空即是色の説明も簡単で、空(=実体なんてない)なのだけれど何らかの識(=ある視点や観点による認識)があれば即ち是は色(解釈としての存在)として立ち現れる
存在とは、認識により結べば色(解釈としての存在)として生起し、認識を解けば色(解釈としての存在)は空となって消失しいくものだ
>>210
>あなたは、そこにいて投稿しているでしょう。
これも(成立し得る)解釈なのであって純然たる客観事実ではない
「あなた(彼)は、そこにいる」という色(しき)にしてみても
彼がいるというのは(成立し得る)解釈であって実際には約37兆個の細胞が結合し作用し機能した集塊があるのであって、それを私達が「彼がそこにいる」と解釈しているんだ
実体としての彼は存在しない、解釈としての彼が存在している
それなら「細胞の塊がある」のは解釈ではなく事実では?と思うかもしれないが
実体としての細胞の塊は存在しない、諸々の原子や分子の集合がありそれを私達が細胞の塊があると解釈し得るだけなんだ
それなら「原子や分子の集合がある」のは解釈ではなく事実なのでは?と思うかもしれないが
実体としての原子や分子の集合など存在しない、素粒子の集合を私達が原子や分子だと解釈している
それなら「(実体として)素粒子がある」のは事実なのでは?と思うかもしれないが素粒子は観測されるまでは(つまり識により結ばれるまでは)存在が確定しない
実体が存在することは自明ではないよ >>227
>素粒子は観測されるまでは(つまり識により結ばれるまでは)存在が確定しない
観測者というのは観測される前からの進化によって生まれました。
観測を認めるという事は、観測が存在する前の状態を認めることになる。
そういう実体はあったとね。 >>228
観測が存在する前の状態を認めることになっても、それが実体であるということにはならない
なぜなら「観測が存在する前の状態」は他の存在を必要とせずにそれ自体で成立している存在(つまり実体)ではなく
「観測が存在する前の状態」もまた、それが存在するためにはその状態を観測(解釈)されることを必要とする
つまり「観測が存在する前の状態=識によって結ばれた解釈としての存在」であってこれは「実体」ではないからね
ある存在(状態)
↑
を成立させる他の存在(状態)
↑
を成立させる他の存在(状態)
↑
を成立させる他の存在(状態)
・
・
・
・
・
・
と無限後退していき永遠に根源にはたどり着けない、つまり実体はない
別の言い方をするなら
観測者(人でなくてもよい)もまた観測されることによって存在が成立するので
観測者←の観測者←の観測者←の観測者←の観測者……と無限にさかのぼるだけで実体には行きつかない(行き止まりはない)
存在を成立させるためには識の作用を必要とするから
存在は原理上、即自的(実体的)なものではなく共起的(関係的)なものでしかありえない
思惟の論理形式を実体論的パラダイムから関係論的パラダイムへシフトさせないと「空」を理解することはできないよ >>217
> 「「空」は存在論であって認識論ではない、だからカント哲学とは(相通じる部分は多々あるものの)別物だ」、という主旨のご指摘だと思うが…
「人間の認識の限界」というのは、近代ヨーロッパ以降の近現代人に特有のテーマ
仏教思想では、悟りを開いて解脱すれば観自在力を得て、認識の限界など軽々と超えてしまうんで、そこには興味ないから
そんな目的がほとんど真逆といっていい思想が、妙に通じあってるところが面白い >>224
「諸法実相」は「空観」によって顕現する、というのが大乗仏教の教えだ。
そしてその「空観」というのは、それこそ「一切は現象であり実体ではないが、しかし現象は虚無ではなく存在する、と見ること」だ。
だから、「諸法実相」を「実体(自性)は存在する」という教えだとする君の理解は、明らかな誤りだな。
こんな根本教理さえ理解できていないとは…
あと言っておくが、別に私は「現象がない」とは言っていないからな。
「一切は現象であり実体ではないが、しかし現象は虚無ではなく存在する」。
再三言っているが、これこそが「色即是空空即是色」の教えだな。
君みたいに、「現象があれば実体もある」ことを自明視していなければ、十分理解出来る説明だと思うぞ。 >>224
> 皆さんの論は、色即是空を説明しようとしているが、空即是色が説明できない。
色即是空と空即是色は、同じことを言い換えただけ
この世の事物 = 実体がない存在
実体がない存在 = この世の事物
等式と同じで、等号の左辺と右辺を入れ替えても意味は変わらない。「逆もまた真なり」というようなものじゃないんで >>229
「空基」氏の主張に対する反論としては、それで十分だろうとは思う。
しかし一点だけ、その議論によって示されたのは根源への"到達不可能性"であって、根源の"不在"ではないのではないか?
つまり、その議論からは、「実体があるかどうかは究極的には分からない」ことは導き出せても、「実体がない」ことは導き出せないのではないか? 空即是色に、「実体はないけど、やっぱり存在する」というような意味があるわけではない
色即是空も空即是色も、「この世の事物には実体がない」というのを言い換えただけで意味は同じ >>234
まあ、「空即是色」のほうは、「戒め」みたいなものだとも言えるな。
ほんとうは「色即是空」(一切は現象であり実体ではない)だけでも足りるんだけど、それだけだと「現象もないんだ」って勘違いして、虚無主義に陥る輩がいるからな。
そういう輩を戒めるために「空即是色」を付け加えた、という風に見ることは可能だろう。 仏教はよく虚無主義だと思われがちだが、実は仏教的には虚無主義は容認できない。
もしそれを容認してしまったら、仏を敬ったり、仏の教えを従ったりすることもまた、無意味になってしまうからな。 >>236
×仏の教え「を」従ったり
○仏の教え「に」従ったり
誤字失礼。 >>229
>それが存在するためにはその状態を観測(解釈)されることを必要とする
例えば、サイコロの出目の存在は、サイコロを振る前から分かります。
観測とは無関係に、サイコロの出目が存在するという事ですね。 >>210
> 実体が存在することは、自明だからです。
> あなたは、そこにいて投稿しているでしょう。
「ここ色即是空のことを考えたり、5chに書き込んでいる自分がいる。それだけは疑う余地がない」
・・・というのは、デカルト哲学だ。これまた近代ヨーロッパの思想
古代インド人は、そんなややこしいこと考えてないよ。いくら理屈っぽい国民性とはいえ、しょせん古代人だ >>239
たぶん彼の思想は仏教的には「有」(有部)になるんだろうけど、それはデカルトよりは、アリストテレスに近いものだと思うぞ。
しかし>>238の彼の発言は、今までにも増して意味不明だな… ましてや、「古代インド人はアインシュタインの相対性理論を知っていた」とか、そういうのからは離れたほうが良いと思われ >>241
哲学に進歩史観を無理矢理当てはめるよりはマシだと思うけどね。
というかそんなこと誰も言ってないし。 ショーペンハウアーは、「この世は幻影だ。目を覚まして解脱せよ」と説いた。まさしく、古代インド思想そのものだった
それでいて、「自分ほどカント哲学を深く理解してる者はいない」として、カントの正統な後継者を自認していた(確かにそうなのかもしれない)
つまり、それくらいこの両者には合い通じるものがある
それでいて、カントの場合は「神とか霊界のこととか、人間に分かるわけがない。そんな話をするだけムダだ」という結論になるところが面白い そもそも論理的に矛盾がないから何なのって話
それをお財布にでも入れとくのか? だが、じつは釈迦もそうだった
弟子が「死後の世界について語ってくれませんか」というようなリクエストをすると、「そんな話はするだけムダだ。ヤメとけ」と断った >>243
ショーペンハウアーの問題意識は、「超越的領域を前提とせずに超越するにはどうすればよいか?」というものだった。
つまり彼もまた、カントと同じく、「人間理性は超越的領域に到達できない(だから神だの霊界だのはよく分からん)」としているわけだ。
だから彼とカントの違いは「神とか霊界のこととか〜」にはないな。 >>230
あとこれについてだが、少なくとも「観自在」っていうのは、「あらゆるものごとを自由自在に"正しく"見極められる」ことだからな。
別に何でもかんでも、認識の限界を超えて、好きなように見られる、って境地ではない。
大○隆法氏の言う「観自在力」(何もかも手に取るように見通す力)とは全く違う(あれはそもそも仏語じゃない)。
だからそもそも言うほど発想は違わないと見ることもできるのさ。 >>233
とりあえず「観測が存在する前の状態」が実体なのか実体ではないのかが論点だったのであのような説明になってしまったけど
「実体がない」ことを一般理論として導き出すには別の説明が必要ってことだね、確かにその通りだ
どうやって説明しようかな、ちゃんとした説明には時間かかりそう
申し訳ないが今は一先ず手抜きの説明をさせてもらう
存在の根源とは何か?→存在を成立させる根本原理つまりは空だ
なら空こそが実体(真の存在)ではないのか?→空は存在するとかしないとかいうよりも正確には「存在するのか?しないのか?」を問うこと自体が論理的に不可能
なぜ問えないのか?→まず存在の「問えなさ」には2種類あって@存在論的な審級の次元が異なるときとA存在論的な審級をそもそも持っていないときで「空」はAだからだ 仏道をならふことは自己をならふこと
自分の幼い頃の思い出の地を巡るだけでも
いいんじゃないか? 適当なことを喋るとまた
プロ弱者に存在を狙われる可能性があるからな 日本を終わらしてんのが割とこの
プロ弱者集団なんじゃないかって説がある
自分はわかんないです
自分は出来ないです
だから自分は偉いんです
みたいな このプロ弱者って普通に会話成立しねーからな
励ましてる横から情報抜き取ることしか
もう頭にないから
いかにこう立場を逆転させるかしか
頭にない だからなんかもう会話も成立しなければ
善意で勇気づけてる横からもう
手の平返してくる >>229
>それが存在するためにはその状態を観測(解釈)されることを必要とする
例えば、サイコロの出目の存在は、サイコロを振る前から分かります。
観測とは無関係に、サイコロの出目が存在するという事ですね。
※名前を入れて再投稿です。 >>231
諸法実相とは、諸法(事物)の実相という事です。
>「現象があれば実体もある」ことを自明視していなければ、
現象、実体という言葉は、ほとんどの人は知っています。自明だからですね。 >>232
>この世の事物 = 実体がない存在
事物とは、実体がないことではない。
言論に矛盾があれば、間違えているという事です。 そもそもプロ弱者がなんで仏道の空に興味あるのかが
チンプンカンプンだわ
どうせ変な神通力でも手に入れて
いっちょ金儲け
みたいな感じだろ
その辺がまずもう上にいけない理由だろ(笑) プロ弱者と空【くう】
が全然頭に結びつかないんだよな
そもそもがまず
なぜそれをチョイスした(笑) 実体がどうこう以前に
お前の実体が1番意味不明だわ
プロ弱者(笑) プロ弱者も一応何かしらの仏教っぽいものは
観測出来るのか?
どのように見えてるか気になる そもそもてめぇに信仰心なんてねーだろ
ハナからよ(笑)
あるなら思春期ぐらいからやってるわ 自分の理論ひけらかしてるように見えて
魚釣ってんのがクソだりぃ(笑)
何の情報が欲しんだよ?プロ弱者www なんでその情報の先に答えがあるのか
それはどういう思考回路なんだ?
成功事例を教えてくれよ
いつそれがあった? いつその情報を得たことによって成功した
パターンを教えてくれよ
いつそれで成功したのかを 解説するって
お前がお前の肉体を使って解説しろよ
何で他人をモルモットにしてんだよハナクソ(笑)
てめぇが実験台になれよ?www >>48
遅レスだけど
>写真は時間が止まった止め絵ですので、それこそが実体のことです。
>ところが被写体のほうは無常なるもので、常に停滞なく時が流れています。ゆえに被写体のほうには実体がありません。
>被写体(無常なる経験以前の世界、認識の素因)は実体を欠いている。つまり空だというわけです。
この部分だけ切り取って「空」と説明するのは、まあ、厳密には問題あってもそれほど大きく間違ってるというわけでもないと思う。
問題は被写体のほうの説明が足りない点かな。
世間では、中途半端な解釈だと、たとえば
「Aという実体と、Bという実体があって、その両者の間に関係性が生まれる、それが縁起だ」
という具合に解釈されていると思う。
これに対して
「Aという実体は存在しないし、Bという実体も存在しない。実体があったら観測自体が不可能だから。ゆえに縁起(相互関係性)が存在しえるし、その中にAという現象やBという現象を(写真として)垣間見ることができる」
となる。
このあたりの事情まで説明してるのが>>22 >>274
いや、問題なのは、「"被写体"のほうの説明が足りない」という点ではなくて、「"写真"を"被写体"の一種として扱えていない("写真"を結果的に実体として扱ってしまっている)」という点だと思うけどね。
これは「厳密に言えば問題がある」というレベルの話には留まらない、致命的な問題だろう。
ちょっと評価が甘すぎると思うな。
まあ「世間では〜」以下の内容については概ね同意するが。 >>260
サイコロの出目の存在もまた観測(解釈)されることを必要とする。
だから「観測とは無関係にサイコロの出目が存在する」などという主張は成り立たないな。
>>261
確かに、「諸法実相」という言葉のもとの意味は、諸法の実相、すなわち「現象として存在するあらゆるものごとの真実の姿」だ。
しかしその意味からは、「現象に実体はある」という帰結は、必ずしも導き出せない。
その「真実の姿」というものは、別に「実体がない」ことだと解釈しても、問題ないわけだからな。
だからその指摘は反論になっていないな。
>>262
あらためて聞くが、"なぜ"事物とは実体がないことではないのか?
それが説明できないのなら、前提が正しくないのだから、君の議論は矛盾がなくても間違いだということになるな。 空は縁起とはちがって、縁起や中道を一般化したようなもので
宇宙のビックバン以前の真空や対称性や保存則みたいなことだろう 佐藤勝彦(物理学専攻 教授)
宇宙が急速に膨張したのは真空にもエネルギーがあったから
「ビッグバン理論」は、いくつかの問題が指摘されていた。その問題に科学的根拠を持って回答を与えたのが、81年に佐藤が提唱した「指数関数的宇宙膨張モデル」、いわゆるインフレーション理論である。
インフレーション理論とは、宇宙創生の10のマイナス36乗秒後から10のマイナス34乗秒後までの間に、
エネルギーの高い高温の真空の状態から低温の真空に相転移し、保持されていた真空のエネルギーが熱(転移熱)となって火の玉となり、ビッグバンを引き起こしたというものである。
我々が通常理解する真空とは、エネルギーや質量が存在しない状態である。
しかし、実際には真空中では物質と反物質が生まれてはぶつかって消えていくことを繰り返し、エネルギーが変化することで「真空が揺らぐ」現象が起こるのである。
この説は「真空の相転移」と言われ、佐藤はこの「真空の相転移」論をビッグバンに応用することで、「ビッグバン理論」の矛盾を説明することができるのではないかと考えたのである。
佐藤がこのアイデアに着想したのが79年の34歳の時である。その直後にコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所へ留学に旅だち、そこで彼のインフレーション理論は形づくられていく。
インフレーション理論はその後、NASA(米航空宇宙局)が打ち上げたCOBE衛星やWMAP衛星による宇宙背景放射の観測で、宇宙に揺らぎのあることが証明され、インフレーション時の真空の揺らぎが裏付けされている。
また宇宙には、真空のエネルギーが残っていると言われている。
今、もしかしたら第2のインフレーションが起こっているのかもしれないという。
そのことを追求していくと、目に見えない物質=ダークマターやダークエネルギーなどの解明が求められている。
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/rigakuru/nbp/research/11.html 諸法実相とは、「この世のあらゆる事物には実体がない。それが諸法の実相なのである」という意味 そもそもプロ弱者がなんで仏道の空に興味あるのかが
チンプンカンプンだわ俺には
どうせ変な神通力でも手に入れて
いっちょ金儲け
みたいな感じだろそれには
その辺がまずもう上にいけない理由だろ(笑)ドレミファ
ソラシドでも数えてろよそれには >>276
>サイコロの出目の存在もまた観測(解釈)されることを必要とする。
これから振るサイコロの出目は、まだ観測されていませんが、あります。
人類誕生前の宇宙は、存在したという事です。
>その「真実の姿」というものは、別に「実体がない」ことだと解釈しても、問題ないわけだからな。
書いてある通りに読まなければ、何も学習できません。
諸法実相は真実です。
そして、空も真実なのです。
>あらためて聞くが、"なぜ"事物とは実体がないことではないのか?
事物がなければ、それを「事物」と呼べません。
何かがあるから、それを事物と呼ぶのです。
こういう↓言動を、矛盾といいます。矛盾は間違いのことです。
>この世の事物 = 実体がない存在 >>281
> 事物がなければ、それを「事物」と呼べません。
> 何かがあるから、それを事物と呼ぶのです。
> こういう↓言動を、矛盾といいます。矛盾は間違いのことです。
> >この世の事物 = 実体がない存在
「実体がない存在」ってのは、例えばこういうことだ↓
立体映像
https://japan.cnet.com/storage/2021/03/08/f146ee5127d930eeff3578f26ea5d7dc/t/584/438/d/ricoh210308_1280x960.jpg つまり、「この世の事物には実体がない」ってのは、「立体映像みたいなものだ」ってことですな
確かに、立体映像が有るんだから、「何も無い」とまでは言えんわな
何かは有るけど、実体は無い つまり、物質とは立体映像にすぎない
それはどういうことかというと、「単なる情報でしかない」ということだ
観測している当人にとっては存在しているが、実体をもって存在しているわけではなく、幻影にすぎない存在 しかし、まったく何もないわけではない
情報としては存在している 例えてみれば、「3Dメガネ」みたいなものだな
3Dの映画は、3Dメガネをかけて見るとリアルな立体映像に見える
でも3Dメガネをかけずに見ると、意味不明な混沌にしか見えない
この世の物質世界もそういうものだ。人間が見るからこんな世界に見えるんであって、本当にこんな世界なわけではない。それは人間が見ることにより、初めて意味を持って存在し始める 人間は、感覚器官と脳によって情報を編集することにより、自分自身の目の前にリアルな立体映像を映し出している
それだけでなく、それぞれの事物に意味を付与している
木の板に4本の脚をつけたものは、人間にとっては「テーブル」だ。だが、それ自体に意味はない。人間がそれに意味を付与することにより、初めて意味を持って存在し始める 「存在するけど実体はない」っていうのは、そんな感じだな >>282
それはグラフィックですね。
実体ではありません。
事物は、グラフィックだけを意味しません。
グラフィック≠実体であることに注意してください。
グラフィックは、グラフィックという実体、だと表現しなければなりません。
実体(グラフィック以外)をグラフィックととらえることは、端的な間違いです。 いや、物質には本当に実体がないよ
原子は、原子核の周囲を電子が回ることでできている
原子の大きさを東京ドームとするなら、原子核は野球のボールで、電子はビーズ玉くらいの大きさだ
あとはスカスカの虚無 でもって、原子核は陽子と中性子でできてるが、これまた原子核の大きさを東京ドームとするなら陽子は野球のボールくらいで、あとはスカスカの虚無だ
原子と原子が結合して、物質ができている
原子核を野球のボールに例えると、虚空に野球のボールが1個、浮かんでいる。その数百メートル先に、別のボールが浮かんでいる。さらに数百メートル先に、また別のボールが浮かんでいる
そんなにスカスカでも、電磁気を帯びているから、電磁波を反射する。反射された電磁波が、人間の目に入る。人間には、それが物体に見えるというわけだ だから古代インドの哲学は、「物質には実体がない」という点に関しては、意外に正しかったと言える
もちろん、彼らが21世紀の素粒子理論を知ってたわけではない。別の観点からその結論に到達したんだが
あとは、それをどう解釈するかの問題 この世は幻影である → 幻影から目を覚ます
これが仏教に限らず、古代インド思想では決定的に重要
近代ヨーロッパの哲学者の中でも、ショーペンハウアーはこれを主題に「意志と表象の世界」を書いて主著とした
でも、それはショーペンハウアーの話。通常、近代ヨーロッパの哲学者の関心はそこにはない 人間に見えているのは現象である → 物自体を知ることはできない
近代ヨーロッパの哲学、とくにカントの場合はこれだ
この世の事物は幻影ではなく、存在している。 ただし、人間に見えている世界は、この世の事物によって生起された現象でしかない >>293
仏教は、色即是空 空即是色と教えています。
空も色も認識です。
色とは実体です。 古代インドの本とか読んでると
定期的にウルトラマンの敵みたいなやつが
現れて神々に撃退されるというのが
パターン化されてるが
長すぎて読むの面倒臭いんたけど
要約すると
幸せの絶頂の後に毎回敵が現れる
ウルトラマンというのは人間のDNAに
組み込まれてるのではないか
アンパンマンとかも
子どもが好きなのはそういう理由かもしれない 「空」というのは、「存在しない」ってことではないんだよなあ
存在しないんだったら、「無」ということになる
「空」とは、「存在してはいるけど、実体はない」という意味 「実体はない」とは、どういうことかというと、「一時的な仮の状態にすぎず、永遠不変ではない」ということ
たとえば、木が生えている。木が伐られて木材になる。木材が組み合わされて家具になる・・・
という感じで、常住不変のものはない。すべては一時的な状態
この世の物体は、どれも原子が集まってできている。原子は集まったり離れたりして、物体を形成している。いまは原子が集まってブタの肉体になっているが、ブタはやがて豚肉になり、人間がそれを食べて血肉となる。かつては集まってブタの肉体になってた原子たちは、いまは人間の肉体に集まっている
古代インド人は原子の存在を知らなかったが、「空」の思想を端的に表現すればそういうこと
存在とは、仮の状態にすぎない。「今はこうだ」ってだけ。そこが「実体」とは異なる。実体は永遠不変のコアな存在だ。仏教では、そういう存在を認めていない 今までのスレの流れでは、「色」つまり物質とか肉体に話が集中しているが
重要なのは、「受・想・行・識」つまり、精神もまた空であるということ 「色即是空」というのは、「諸行無常」と同じような意味だ
「空」(実体がない)というのは、「無常である」(常住不変ではない)ということ
つまり、「実体」というのは「常住不変なもの」を意味する。仏教では、そういう存在を認めない ここで重要なのは、「物質とか肉体が常住不変ではない」というのは分かる
でも、「受想行識」(つまり、人間の精神)までがそうだと言ってるところが問題
それは、はたして何を意味するか? >>297
存在していれば実体はあります。
矛盾すれば間違いです。 >>302
「存在していれば実体はある」は、そもそも自明でしょうか?
あるいは、仮に自明だとして、真だといえるでしょうか?
論証に矛盾がなくても、前提が真だといえなければ、結論も真だとはいえません。
また、自明だからといって、真であるとは限りません。 一定不変な実体は、現象しようがないので、自明ではありません。
それを自明だと仮定すると、それが現象している理由を説明できなくなるため、それが真であるとはいえなくなります。
現象しようがない存在は、われわれにとって事実ではないので、自明視できません。
そして、存在理由が説明できない現象は、われわれにとって事実であるとしても、真であるとは限りません。 >>303
では、存在していて実体がないモノの例を挙げてください。
そんなモノはありません。 >>304
例えば、太陽は存在していて、光を出すという現象があります。
これは自明です。 説一切有部は、「永遠不変の実体は有る」という立場だった
でも、ここでいう「永遠不変の実体」というのはダルマ(法)、つまり世界を成り立たせる原理のこと
この世の事物に実体がないという点に関しては、説一切有部も異論はない。それは当たり前で、そうでなければ仏教思想ではなくなってしまう >>306
> 例えば、太陽は存在していて、光を出すという現象があります。
> これは自明です。
「太陽には、太陽のイデアがある」
それはプラトン哲学だな。それも1つの考え方だけど、仏教思想には発想は無い プラトンの弟子のアリストテレスは、師の「イデア」という思想が受け入れられなかった
代わりに持ち出したのが「エイドス」(形相)だった
イデア界なんてものはない。個物のエイドスは、個物に付属している プラトン的な発想だと、イデア界には太陽のイデアかある。それは永遠不変の実体だ。この世の太陽は、それの映し絵のような仮の存在にすぎない
仏教的な発想では、太陽はたまたま水素原子やヘリウム原子が集まって、核融合反応を起こしているにすぎない。いつかはバラバラになって消滅する(だいぶ先だが) 「水素原子やヘリウム原子がたまたま集まってるだけだ。太陽という実体があるわけではない」
こういう考え方が、仏教思想の「空」 水素原子やヘリウム原子がたまたま集まってるだけだ。そのうちバラバラになって消滅する
こういうのが仏教の「空」なんであって、「永遠不変ではない」というのがポイント
つまり「色即是空」というのは、「諸行無常」と表裏一体の関係にある 「相対性理論によれば、物質は真空から生まれたエネルギーのカタマリなのである」
・・・というようなのが、「色即是空」の解釈として語られることがよくある
これはもちろん現代人がつけた後付けの理屈で、古代インド人がそんなこと考えてたわけではない
でも、これが不思議なほどシックリくるのも事実だ(笑) >>307
仏教は、諸法実相です。
実体があるということですね。 >>313
空と無常を混同してはいけません。
仏教は、量子力学を説いていませんよ。 >>305
一切のモノは、存在していますが、実体がありません。
なぜそういえるのかは、論理的に説明できます。
実体は非現象ゆえに実体の存在は自明ではないです。
実体の存在の仮定は実体の自明性ゆえに矛盾します。
したがって実体は存在しないのです。
現象は依然として存在していますが。 このようなテーマでは、どうしても「物質」が関心の中心になりやすい
というのも、「色即是空」という仏教思想と、近代のロックやカントの認識論、現代の相対性理論や量子論が妙に符合しているように感じられるからだ
でも、問題は物質だけではない
「五蘊皆空」というのが重要だ 五蘊とは、色受想行識の5つ
最初な色が物質/肉体で、あとの4つが精神作用だ 五蘊を分かりやすく解説しているサイトがあった
https://www.mitsuzoin.com/nanda_hannya03.html
仏さまにあげられたロウソク(色)があります。それを私たちは目で見ますよね。この「見るということ」が「受」です。まず眼球の網膜でロウソクの形を受けるからです。
つぎに網膜で受けた(受じゅ)ロウソクという形(色しき)は、脳に信号として送られます。この脳に送られることを「想」といいます。だからロウソクの像を脳に思うことを「想像」といいます。
しかしこれは、私たちが「こうしよう」と思ってやっていることではなく、目と脳が機械的に勝手にしてくれている作業です。
たとえば、赤ちゃんにロウソクを見せても、それがロウソクだとは思いません。ロウソクの形は脳に届いているはずですが、それをロウソクだとは思いません。
それをロウソクだと思うことを「行」といいます。「心の行為」なので「行」です。ですから色は白であると判断するのも「行」なのです。この時点では、ロウソクは単なる物体としてのロウソクです。熱いとか、仏さまにあげるものということは考えません。
色受想行識の最後の「識」は、ロウソクに関して私たちがいろいろと思うことです。
「これはロウソクというものだ」「ふつうは白い」「火をつけて使うもの」「溶けるもの」「停電の時に役立つもの」「仏さまにあげる」「誕生日のケーキに仏壇で使うロウソクを使うと怒られる」などと思うのはすべて「識しき」です。過去の経験から蓄積された知識から出てくるから「識」です。
ですから、最初から仏さまにあげる火をつけるロウソクがあるわけではないのです。
ロウソクという形(色)があり、それを目で見て眼球の奥にある網膜が像を受けて(受)、それが脳に送られます(想)。脳が勝手に認識したロウソクを、ロウソクだと思い(行)、これは仏さまにあげるものだ(識)と分かるのです。 般若心経にも
照見五蘊皆空 度一切苦厄
とある
「古代インド人は相対性理論を知っていた!」もいいが、それだと物質(色)しか見ていない
「五蘊皆空」というのが重要だ こうしてみると、やはり、カントに代表される近代ヨーロッパの哲学に通じるものがあるのがよく分かる
ただし、カントの場合は、「人間が見ているモノは、その本当の姿ではない。人間には物自体を知ることはできない」というところに重点がある
これに対して仏教では、「モノには実体がない」というところに重点がある 「モノには実体がない」
↑正確には「人間が見ているモノには実体がない」というべきでしょうな しかし、人間にとっては、人間に見えているモノがすべてだ
それ以外のモノなど存在しないか、もし存在していたとしても知るよしもない
だから結局のところ、「モノには実体がない」ということになる スレ読んだけど
「空」がカントと符合するとはこのスレでは誰も言ってないね
「識」がカントと符合すると言ってる人はいるけど
連投してる人は誰と戦っているんだろうかw >>316
実体が非現象というのは、自明ではないので説明が必要です。
太陽は光を出すという現象があります。 ここは哲学板なので西洋哲学のマニアが多いから、どうしても「カントの物自体」との関連に関心が集まることになるが
でも仏教思想の場合、「色即是空」もさることながら、もっと重要なのは「五蘊皆空」 五蘊とは色受想行識
色というのは、肉体だ。受想行識は精神を構成する要素。要するに、五蘊というのは人間のこと(世界と解釈することも可能だが)
つまり、「人間には実体がない」というのが重要 「五蘊仮和合」ともいう
われわれ人間は、五蘊が組み合わさってできた仮の姿 >>325
実体が非現象というのは、実体という概念の「定義」に過ぎないので、説明を必要としません。
もちろん、実体を現象として定義してみることも、可能ではあります。
しかしそうしてみると、最終的に、実体を非現象として定義しなおさざるをえなくなる。
そのことを>>316では指摘しているのです。 >>314
> 仏教は、諸法実相です。
> 実体があるということですね。
「諸法実相」に、やけにこだわるね
創価学会の信者さんなのかな? 「諸法実相」にこだわるのは創価学会に限らず、日蓮宗系・正宗系の人にアリガチな傾向
(だからどうだってわけじゃないけど) >>330
実体というのは、モノの根底にあって持続的なものです。
非現象ではありません。 >>333
ですから、そのようなものの存在を仮定すると、結果として、その仮定を放棄せざるをえなくなる、と指摘しています。 お釈迦様は、我の代わりに、実際在るものは、五蘊(ごうん)でありそれが仮和合している(仮に結び付いている)と説いた。
五蘊とは、
色…肉体
受…感受作用
想…表象作用
行…意思作用
識…認識作用
を表す。それらが、その時一瞬一瞬に、仮に(一時的に)和合して生まれては消えている。それが仮の自分を作っているとおっしゃった。常に五蘊は変化し、消えては生まれを繰り返している。ただ人間は大雑把で、五蘊の細かい変化を無視する傾向があり、変わらない我(自分)が存在すると錯覚するということだ。要は細かい差は無視するという条件の下では、我が存在するということになる。 仏教では、この肉体と4つの精神作用が仮に一緒になったものが人間だと認識します。
相応部経典では、
「人の肉体は渦巻のごとくである、
その感覚は泡沫のごとくである。
その表象はかげろうのごとくである、
その意志は芭蕉のごとくである、
その意識はまぼろしのごとくである。」としています。
肉体も心の動きもすべて 仏教は、無我の思想
「物自体と現象」はカント哲学であり、仏教ではない
仏教で重要なのは、「自分には実体が無い」ということ デカルトは、「この世のすべては夢なのかもしれない」と疑った。「これは悪霊が自分に見せている夢なのかもしれない」とまで疑った。(正確には、デカルトがそう疑ったというより、17世紀の欧州とくに先進国のフランスでは懐疑論や無神論が盛んになり、デカルトはむしろそれに反論しようとしていた)
しかし、デカルトは考えた。「この疑っている自分。これだけは確実に存在する。自分が存在しないのなら、疑うことすらできないではないか。だから、それには疑う余地がない」
でも仏教では、そうではない。この自分こそが「五薀仮和合」であり、今はたまたま条件つきで存在しているだけの仮の姿だ。それは「実体」ではなく、「状態」にすぎない
この仏教的な自我否定論を展開した西洋哲学者といえば、デイビッド・ヒュームだ コピペ
デヴィッド・ヒューム David Hume (1711-1776) は、ロックが始めた経験論的なアプローチを究極まで突き詰めることによって、そこから奇妙な帰結を引き出した。彼は、形而上学者たちがいう実体なるものの虚構性を改めて証明したばかりか、人間の精神活動を支えているもう一つの実体、つまり自我の存在まで否定したのである。
ロックは実体の概念そのものを否定したわけではなかった。ただ彼はそれを、我々が対象を認識する際に、さまざまな現象の背後にあって、その基体となっていると考えられるものに、人間が便宜上与えた名称であって、それ自体が客観的なものとして存在するかどうかは、知ることができないとした。
バークリーは一歩進んで、認識の対象となっているものが客観的で独立した存在であることを否定して、すべては人間の心の中で起きているに過ぎないとし、したがって存在するのは人間の心のみであると主張した。この限りでバークリーは、心の実体性を信じていたわけである。
だがヒュームは人間の心からも実体性を剥奪した。というより、そもそも心というものの存在を否定したといったほうが正確かもしれない。この点で彼の主張は、デカルト流哲学への強烈なアンチテーゼである。 ヒュームの自我否定論は、基本的に仏教の無我論と同じだ
つまり、人間の心の中では、ものすごい速さで思考や感情が生気している。だから、それは連続した実体のように感じられてくる
パラパラアニメと同じだ。本当は1枚1枚のバラバラに分かれた絵なんだけど、ものすごい速さで連続して見せられると、つながった動きに見える
ヒュームによると、自我はそれと同じような錯覚の産物だということだ 生気じゃなかった、生起
ていうか、ちと書きすぎた(笑) 改めて見てみると、>>1は正しいな
まさしく、その通りに思えてきた(笑) だが、>>8は違うな
> 空は、そもそもが仏教における認識論がたどり着いた、
> 認識には限界があるということを一言で表した言葉です。
それは18世紀のドイツが生んだカント哲学だ
古代インド人の関心は、そこには無い 古代インド人がそこに関心なかったとまでは言いすぎだけど、「認識の限界」は彼らの関心の中心ではないな
般若心経の「色即是空 空即是色」でいう色というのは、物質存在の中でも、とくに「身体」を指している
観自在菩薩は、「五薀は皆空」と照見することにより、一切の苦厄を度したわけで
五薀とは、色受想行識。つまり、「自分自身の身体も精神も、永遠不変の実体ではなかった。我は無いのだ」と看破することにより、この世の苦しみから脱したということを意味する 「諸法実相」に戻ると、日蓮大聖人は「実相とは妙法蓮華経である」と断言した。だから、日蓮宗系の人にとっては、「諸法実相」は大事な真理とされている
でも、このスレは「色即是空 空即是色」なのだから、般若心経の話だろう
般若心経は、「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄・・・」と続く
つまり、「諸法は空相である」というのが般若心経のテーマ 舎利子よ、是の諸法は空相にして、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。
・・・ここでいう「諸法」というのは、色受想行識の五蘊を指している
つまり、「諸法空相」は「五蘊皆空」と同じ意味で使われている ついつい長い連投になってしまうが、1つや2つのレスで語れるようなことではないから仕方ない(笑) >>349
空即是色 が、皆さんの課題ですね。
実体だということです。
西洋のものは、浅いように感じます。
仏教は、無常、空、諸法実相と奥が深い。 >>351
「空には実体がある。空には自性がある」と言い張るのは無意味だ
なぜなら、「存在するけど実体がない」、「存在するけど自性がない」というのが、仏教用語としての「空」の意味であり定義だからだ
存在しないのは「無」だ。それに対して、存在するけど実体や自性がないのが「空」
他の意味で使うから、「空」ではなくて他の用語を使うべきでしょうな。そうしないと、仏教の話ではなくなる もちろん、「不生不滅 不増不減 不垢不浄」というくらいだから、そこにパルメニデスやプラトンのような永遠不変の普遍存在を見ることは可能だ
でも、それは存在するとしても、あくまで普遍の法則みたいなもの(そういうものが存在するかどうかは、古代から連綿と続く仏教界で最大の論争のひとつ。存在するという立場が説一切有部)
たが、個物に実体や自性を認めることは、どの教派でもあり得ない。それだと、仏教ではなくなる。仏教思想という枠からは外れることになる 個物には実体や自性がない。あらゆるものは条件つきの現存在であり、いつか散り散りになって消滅する。
個物といってもいろいろあるが、ここで最も重要なのは「自分」だ。自分自身。「我思う、ゆえに我あり」のデカルト的な自分だ。
自分自身が、いろんな材料が集まってできた寄せ集めの仮和合(けわごう)であり、いつかは消滅する現存在にすぎない・・・というのが、最大のポイント >>350
あなたが参照したのはおそらくこの定義でしょう:「"さまざまに変化してゆく"物の根底にあって持続的だと考えるもの」(Oxford Languagesより、強調筆者)。
「ここに実体は現象だと書かれているではないか」と、あなたは仰りたいようですが、しかし、「物の根底にあって持続的だと考えるもの」が現象であるということは、この文言からは読み取れません。
むしろ、その文言中の「物」という語に、強調部分(" "内)がかかっている以上、「物の根底にあって持続的だと考えるもの」には、現象と対比されるもの、すなわち非現象であるというニュアンスが含まれると解したほうが、読み方としては自然だと思います。
もちろん、「実体は現象か非現象か」というのは、哲学的論点であり、議論の余地があるのですが、しかしそうであるからこそ、その是非について「辞書を引け」という態度を取ることは、まったく哲学的ではない、「問答の放棄」にあたる蛮行だと言わざるをえません。 >>351
「実体は現象だ」というのは、アリストテレスに典型的に見られる発想ですね。
そういう発想の宗派が仏教にないわけではないですが(説一切有部はこの発想だと考えられるでしょう)、しかし仏教というものは、それ以外にも様々な発想の宗派がある、まことに奥が深いものであるはずです。 アリストテレスの場合は、個物に実体がある
プラトンはこの世の外に「イデア界」という普遍存在を想定したが、アリストテレスはそれを認めなかった
普遍のイデアはない。その代わり、個物にそれぞれのエイドス(形相)があり、実体をもって存在している >>355
仏教は、空即是色とも唱えています。
実体だということです。
この考察が不足しています。 >>357
空のような覚ることが必要な言葉とは違い、
一般に使われる言葉は、辞書通りにつかわなければ、コミニュケーションができません。
あなたも、空即是色の考察が必要ですね。 >>359
> 仏教は、空即是色とも唱えています。
> 実体だということです。
色即是空は、「物質存在には実体がない」という意味
空即是色は、「実体がないのが物質存在だ」という意味
意味は同じだよ 色即是空 空即是色
これは般若心経の句。般若心経は釈迦の入滅後だいぶたってからできたもので、もともとの釈迦のオリジナルな教えより、インド哲学らしさが前面に出てきている
「この世は幻影である。幻影から目を覚ませ」というインド的な思想が、もとの釈迦の教えより、ぐっと強化されている
そういうことも踏まえて見ていくべき
仏教だけでなく、その背景にあるインド哲学に目を向けると分かってくる >>360
>>355の通り、言葉を辞書通りに使っていないのは、あなたのほうです。
そしてもちろん、「空」の教えそのものは、少なくとも仏教徒であれば、「覚る」までもなく、理解可能なものでしょう。 >>358
「空基」氏は、>>33で、「自性は縁起によって変わる」と言っています。
つまり、実体の不変性を認めていませんので、それを認めるプラトンの議論とは相容れないんですね。
しかしながら、実体の基礎性は認めている。
これらを両立させるとなると、アリストテレスの議論に則るくらいしか、整合的に理解できないと思います。 >>361
物質存在=実体がない
これは端的に間違いです。
辞書引いてくださいね。 >>366
それを間違いと断ずる辞書などおそらくないでしょう。
少なくとも、あなたが挙げたOxfordの定義は、そうしていませんね。 >>365
太陽の光を出すという自性は、あと56億年ほどで変わります。
今の話しではありません。 >>368
あなたの自性の定義に従えば、まあそうなるでしょう。
しかし、問題になっているのは、自性をそのように定義することの、哲学的・仏教的な是非なのです。 >>368
あなたの自性の定義に従えば、まあそうなるでしょう。
しかし、問題になっているのは、自性をそのように定義することの、哲学的・仏教的な是非なのです。 >>367
物質というのは実体です。
つまり、実体がある=実体がない、となる。
矛盾とは、間違いのことです。 >>372
なぜ物質は実体なのですか?
>>316に反論できますか?
どの辞書にそのような定義が載っているのですか?
>>356の指摘も無視ですか? というか、太陽の自性が「光を出す」だというのも、浅すぎるんですよ。
「光を出す」という点では、電球も北極星も同じなんですから。 >>372
> 物質というのは実体です。
いったい、何の話をしてるつもりなのかな?
仏教はもちろん、西洋哲学でもそんなことはないよ どう学んだかを知ると判りそうだな。一般的な用語理解を卒業して、自ら深めた見識なのだろうか。
それなら違うだろうけど、反対されるのが想定内の感じがしない。 哲学用語で「実体」といったら、「永遠不変の固定的な存在」を意味する(いわゆる『霊魂』というニュアンスを含んでいることに留意すべき)
どんなに遠い将来(たとえば56億7千万年後)でも、いつかは消滅するのなら、それは実体ではない
仏教ではとくに、「他の存在に影響されることなく、それ自体で自立している存在」という意味が加わる
用語の解釈は使用法は人それぞれだけど、さすがに「物質=実体」は無理だな。それだったら、「実体」でなく別の用語を使うしかない >>377
その批判はその批判で成り立たないんですけどね。
仏教では、説一切有部が、自性を肯定しつつ、その性質を分類列挙する。
また、西洋哲学では、アリストテレスが、物質を具体的個別だとみなしている。
だから「仏教はもちろん、西洋哲学でもそんなことはないよ」は言い過ぎですね。 >>380
訂正:×物質を具体的個物だと→○実体を具体的個物だと 輪廻の基体を元は認めたけど、現実に在るものだというニュアンスかもね。否定するにしても、色の有無と実体の有無については仏教スレでも二分して、物質と対応さす理解もかなりあった。意外と各々の解釈は異なってるかもよ。 >>374
>>377
物質というのは、モノのことです。
実体というのは、存在するモノです。
したがって、物質は実体です。 >>379
霊魂が実体ならば、それは存在しています。 ちなみにこういう用語の是非に哲学と比した深浅をいうのは、土俵が違うとも思うが。 >>387
「空基」氏の用語の定義は、無論、一般的なものではありません。
しかし、もし彼の哲学的立場を支持するのであれば、採用せずにはいられないものではあります。
ですので、彼の定義の特殊性を指摘しただけでは、彼の主張に対する批判としては、十分ではないと思います。
彼の哲学に対しても批判を加えることが、哲学的対話においては必要とされるでしょう。 >>388
自分も宗教スレでは以心伝心に食傷したところもあったので、仏教の核心を哲学することには期待します。 >>387
「空基」氏の用語の定義は、無論、一般的なものではありません。
しかし、もし彼の哲学的立場を支持するのであれば、採用せずにはいられないものではあります。
ですので、彼の定義の特殊性を指摘しただけでは、彼の主張に対する批判としては、十分ではないと思います。
彼の哲学に対しても批判を加えることが、哲学的対話においては必要とされるでしょう。 >>390
私は、実体など辞書に書いてある通りに説明しています。 >>380
> また、西洋哲学では、アリストテレスが、物質を具体的個別だとみなしている。
普遍存在(イデア)でなく、具体的な個物を実体とするのがアリストテレスの特徴。イデアの代わりに、エイドス(形相)がそれぞれの個物に付属しているとした
あとは、デカルトでしょうな。デカルトは、物質も実体だし、精神も実体、それぞれが実体なのだという二元論を唱えた。おかげで、それ以後の哲学は『二元論の解消』が大きなテーマになってしまった スピノザは、神こそが唯一の実体であるとする汎神論的な一元論を唱えて、デカルトの二元論の矛盾を克服しようとした
ライプニッツは、モナドを実体とし、離合集散するモナドが世界の構成要素だとした
説一切有部もこれに近い ちと、物質にハマリ込みすぎている(笑)
くどいけど、『空』なのは『色』だけじゃない
『色受想行識』を語らないと、仏教の空ではない まあ確かに、「精神」についてどう考えるかは、「空基」氏に聞いてみたいところではありますね。
言うまでもなく、「空」においては、実体ではないわけですが。 >>396
同様に、色なのは空だけではなく、受想行識もです。
色の説明で多くの人は矛盾します。 >>398
では、あなたの考えに即して言えば、「精神」(=受想行識)もまた実体であり、しかも実体であるがゆえに変化する、となるわけですね? くどいようだが、般若心経の「色即是空」でいう「色」
これを「物質存在」とするのは、もちろん用語の意味としては正しいんだけど、ここでは物質存在といっても特に人間の身体、それも「自分自身の身体」を指している
これが「空」つまり実体の無い仮の存在であるというのが、この教えの核心部分
ここを誤解していると、般若心経は理解できない 色は身体、受想行識は精神
色受想行識の五薀を寄せ集めた仮和合(けわごう)、それが自分自身
絶えず変化し、老化し、やがて消滅する 色(ルーパ)も空(シューニャ)も、大昔の人がインドの原典を漢訳した言葉
そのように漢訳されるだけあって、もともとその通りの言葉なんだよな
『ルーパ』は英語でいえばカラー、もとはといえば赤・青・黄色・・・といった文字通りの色彩を意味する。要するに、人間の目に見えている存在だ
『シューニャ』は、中身が空っぽだということ。これまた、最初から専門的な哲学用語だったわけではなく、単に『中身がない』という意味だ
「色即是空」は、「目に見えるものは、中身がなく空っぽだ」、つまり、「本当は何もない」という意味 「ゼロを発見したのはインド人」とよく言われるけど、インドでは「零」も「空」も同じシューニャという言葉だった
「空は、何もないというのとは違う。もっと深い意味があるのだ」なんて、もっともらしく解説する人もいるけど、「何もない」というのとほぼ同じと言ってよい
実際のところ、「無」と「空」は、その意味するところにおいて大差ない(笑) 早い話が、「無」というのは、「もともと何もない」という意味
「空」というのは、「一見あるように見えるけど、実は何もない」という意味
違うのは、それくらいだ 横、デカルトの実体は一義的なものではなく精神以外の実体は完全に非依存的で自立的なものは一切ないというね。だから「〜的実体」で分ける。 >>403
>>404
いや、それは普通に誤解。
「空」において、現象は、実体はないが、存在はする、とされる(空即是色)。 >>400
あと、この説明はくどすぎ。
その誤解をしている人は、見たとこ、このスレにはいない。 >>407
要するに、「ゼロ」だってことだな
「ゼロを発見したのはインド人」とよく言われるが、空もその一種
「何も無い」のと、「ゼロが有る」とは、どう違うのか? ・・・という問題(笑) >>408
> あと、この説明はくどすぎ。
> その誤解をしている人は、見たとこ、このスレにはいない。
いや、そんなことはない
「物自体と現象」の話がずっと続いてた 「物自体と現象」も、確かに関係ないこともないんだけど・・・
ここで最も重要なポイントは、そこじゃない(笑) 数学の集合論でいえば、「集合そのものが無い」のと、「空集合が有る」の違いだとも言えるだろう
人は「空集合」を見て、「なんじゃこりゃ。要するに、何も無いんじゃないか」と思いがちだが、そうではない
やはり、「空集合」が有る。何も無いわけではない(笑) う~ん、「席がない」のと、「空席がある」の違いか
「車がない」のと、「空車がある」の違い
そう考えると、やはり「無」と「空」の違いは大きいか(笑) 「空」は、「無」とは違うが、「有」とも違う
「無」との違いにこだわると、「有」に近づきすぎた解釈に陥る恐れがある
歴史的には、「空」を重視する中観派は、「有」を重視する説一切有部への反論として登場した >>357
> 「実体は現象だ」というのは、アリストテレスに典型的に見られる発想ですね。
> そういう発想の宗派が仏教にないわけではないですが(説一切有部はこの発想だと考えられるでしょう)
確かにそうだ
説一切有部は「実体がある」の話が大好きだったが、それでも仏教の教派だ
なので、「実体がある」の話もバッサリ否定するわけにはいかない(笑) いやあ、物自体と現象の話なんて、全然されてないと思うけど。
現象という概念は物自体の対概念とは限らない。
あと、仏教思想はニヒリズムじゃないんで、「無」と「空」は厳密に区別されなきゃならんし、実際にされてる。
そのことがよくわかってないなら、鼻で笑うべきじゃないな。 「実体がない」・「自性がない」を強調するのは、仏教の中でも特に大乗仏教、特に中観派の特徴
「この世は幻影である」は唯識派に特徴的な考えだ
分かっちゃいるけど、それが仏教思想の主流なので(笑) >>416
> あと、仏教思想はニヒリズムじゃないんで、「無」と「空」は厳密に区別されなきゃならんし、実際にされてる。
いや、もちろん、そんなの分かっている
1つや2つのレスで判断されるのを避けるためにコテハンにしてるんだが、「全部を見てくれ」とは言えんわな(笑) >>418
じゃあ一つのレスではっきりわかるように書けばいい。
別にそんなにたくさんレスしなければ説明できないようなことでもない。
もしできないなら、それは単にそっちの要約力が足りないだけだ。
考えがまとまってないのなら、きちんとまとめてから書くべきだな。 >>416
>
> あと、仏教思想はニヒリズムじゃないんで、「無」と「空」は厳密に区別されなきゃならんし、実際にされてる。
> そのことがよくわかってないなら、鼻で笑うべきじゃないな。
確かに「空」は「無」とは違うんだが、「有」とも違うということを忘れてはならない。こちらの方がむしろ、当たり前すぎて盲点になりやすい
その点、このスレにおける「空」の位置付けは、ちょっと「有」に近すぎる >>419
> >>418
> じゃあ一つのレスではっきりわかるように書けばいい。
> 別にそんなにたくさんレスしなければ説明できないようなことでもない。
> もしできないなら、それは単にそっちの要約力が足りないだけだ。
> 考えがまとまってないのなら、きちんとまとめてから書くべきだな。
それについては、ハッキリ言わせてもらう
無理だ >>420
いや、仏教思想における「有」ってのは、「実体がある」って意味だからね?
別に「現象はある」と言ったって、「有」寄りの主張をしたことにはならないよ。 >>421
なるほど、馬鹿なんだな。
これは失礼した。 >>422
> いや、仏教思想における「有」ってのは、「実体がある」って意味だからね?
> 別に「現象はある」と言ったって、「有」寄りの主張をしたことにはならないよ。
いやいや、「このスレにおける空の位置付けが」と言ってるんであって、「お前の考えが」と言ってるわけではない
今のスレの流れからすると、「空即是色とは実体があるということだ」と主張している人がいて、それが話の焦点になってるから、「空と有は違う」という話に重点が移ってきただけ
別にお前を責めてるわけじゃないから、そうイキリ立ちなさんな(笑) 実在度(?)を表にまとめると、こんな感じだ
無<<<空<<<<<<<<<<<<<<有
実際のところ、無と空の違いはそこまで大きくない。空と有の違いのほうが大きい(笑) >>424
じゃあその空は実体とかほざいてる坊主だけが有サイドなだけじゃねえか
このスレの総意がそれとか意味不明だわ >>425
無≠空≠有で済むことだ、実在度なんてのはテメエの主観的感覚でしかねえ
話の焦点がこんな低レベルなとこに移ってきたのもテメエのせいだし少し黙っててくれ >>426
それはそうだが、説一切有部は有サイドで一世を風靡したからな
2000年前の古い教派とはいえ、ムゲに否定はできん(笑) >>427
> 無≠空≠有で済むことだ
いや、そうではない
「空」というのは、「ゼロ」だ。数学の集合論でいえば空集合
「有」よりも「無」に近い概念 >>428
俺が今批判してるのは坊さんの方じゃねえ(そっちはそっちでアレだとは思うが)
アンタの有概念の理解が甘いって言ってんだ >>429
だから近いとか遠いとかオメーの「主観」で「共有不可能」なんだよ
「違う」でいい、それ以上程度について語るのは間違いだとp >>431
> だから近いとか遠いとかオメーの「主観」で「共有不可能」なんだよ
> 「違う」でいい、それ以上程度について語るのは間違いだとp
だから、それが違うって言ってんだよ。わかんねえ奴っちゃなあ(笑)
「空」というのは、「ゼロ」だ。インドの言葉では、「空」もシューニャで、「ゼロ」もシューニャ
確かに仏教哲学の用語としての「空」は、「存在するけど実体はない」という意味だ。でも、なんたって「ゼロという存在」だからな。実質的に、何もないのと大差ない >>424
空と有は違うのではなく、空は即色だということです。 >>434
わかるわけねえだろ、存在するのとしないのとでは大違いだという「感覚」があるやつだっていたっていい(現に俺がそうだ)のに、お前はその存在を全否定している
まあ「オッカムの剃刀」をわかってないアホみたいだから仕方ないな だが、「空」を唱えた代表的な論者、中観派のナーガールジュナからして、「無と有という両極端から離れよ」と説いていた
その意味では確かに、そこはこだわるとこじゃないというのは正しい(笑)
その次の時代の思想、唯識派になると、「この世は幻影である」という虚無感が強くなる(それだって、本当は虚無ではないが) >>435
なるほど、ではあなたの考えは、デカルトよりはアリストテレスに近いものだと言えそうですね。
で、>:374には、いつお答えいただけるのでしょうか? インド哲学でいう0の概念は、
無も有も超越した非二元的(一元的)状態だぞ >>22で紹介した記事だけど、
題名変えて書籍化されてたわ。
旅路の果てに: 人生をゆさぶる〈旅〉をすること
でもって、最近、物理学の世界でも↑と同じような説明の本見かけた。
「世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論」
ということでやっぱ>>274あたりで書いたことが正解みたいだな。 これを見ただけでも、色が絶対不変の実体なんかじゃないのが分かるはず
↓
また比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、このように色を知り、このように色の生起を知り、このように色の滅尽を知り、色の滅尽にいたる道を証知して、色を厭離し、貪りを離れ、滅尽に向う者たち。彼らはよく解脱した者である。よく解脱した者たちは完成した者であり、完成した彼らには、もはや輪廻は設定されていないのである。
...(受・想・行・識について同様に説く)...
—パーリ仏典, 経蔵 相応部蘊相応,取転経(Upādāna parivatta suttaṃ), Sri Lanka Tripitaka Project いつ仏教スレを見ても論争してて悟りには程遠い印象なんだけど、
仏教的に論争もしくは議論ってどういう扱いなの?
>>31が言うみたいに修行の一環なの? >>443
インド人は、世界で最も論争を好む国民性
仏教は、そのインドの思想だ
それを忘れてはいけない 無と空を関連付けるのはデカルトの用いたスコラ的「類比」の把捉ですね。この実体概念においては精神も判明性においては不完全になる。ま、当たり前で、知性には限界があるからですね。よく一元論というのを耳にするが、いい加減に考えれば何でも一元論、というのと、一つの真理に向かって精緻に論証した結果の一元論とは異なるでしょう。イメージ(観念的な表象)として二元論であることが一元論的な論理展開において必須の条件である場合も、当然ある。 >>439
私の考えは仏教です。
西洋のものより仏教は深遠です。
374には、383で返答してますよ。 >>442
それは、無常を説いているように読めますね。 >>446
それが返答になっているというのなら、もうこう問うしかないですね。
なぜ問答を破壊するんですか? >>442
確かに色は絶対不変の実体ではないのですが、それを言っただけでは「空基」氏は論破できないでしょうね。
彼はそもそも実体を変化する(絶対不変でない)ものとして定義しているので、その定義の哲学的な意味でのおかしさを指摘しないと、的確な批判にはならないでしょう。 >>447
> それは、無常を説いているように読めますね。
そう、色即是空と諸行無常は、表裏一体の関係
無常とは、実体がないということ >>448
あの返答が、なぜ、問答の破壊だと思うのですか? >>450
違いますよ。
無常とは、常住(一定のモノ)ではないということです。 >>452
> 常住(一定のモノ)
そう、それが実体 >>451
前述の通りです。
改めて語る必要はありません。 >>453
実体というのは、無常です。
太陽は光を出すというのが実体ですが、やがてその実体は失われます。
かって光を出していた、というのが実体です。
実体は常住ではありません。 >>454
反論がなければ、認めたということです。 >>456
意味が分かりません。
“そちらが”まともな反論をしていない、と言っているのです。 >>455
太陽以外にも光を出すものはたくさんありますけどね。
太陽以外の恒星とか、電球とか、(おそらくは)あなたの頭とか。 まあ、最後のは厳密には反射なんで、光源ではないのですが。
比喩的にそう言われることはありますよね。 日本の禅が崩壊すると
同じ言葉の羅列をただひたすら暗唱するという
言葉の自動機械化する
精神病に多い
流行りのワードみたいのがあって
・働かない‥
・言うこと聞かない‥
・嘘ついてる‥
・何してんの‥
これをもうただひたすら唱えながら&壁蹴ってる知的障害者
多分これは崩壊した禅が生み出した特有の
意識状態だと思われる
しかししつこい それをただ言えばいいと思ってる
その言葉の背景の意味とか関係ない
実際コイツラは無職だし
脳の左脳部分に損傷があるんだと思われる それを特に言う意味はないんだよね
左脳が損傷してるだけだから こいつは
思いの中、頭の中では一応
働いて社会的責任を
果たしてるんだろうよ こいつと地縛霊の違いがわからない
幸せそうな家族見て崩壊させに行くという 永遠不変の自立した固定的な実体はない・・・
ややこしい言い回しだけど、早い話が、「霊魂はない」ってことなんだよ この自分は、五薀仮和合(ごうんげわごう)
雑多な要素の寄せ集めでできた仮の姿だ
「永遠不変の自立した固定的な実体」なんてものではない
その幻想から目を覚ますのが、仏教の悟り >>468
実体は、そこにある。
その実体は、無常であり色です。
そうして、その無常なる実体は、空であり色なのです。 >>469
主旨を読み取れていないようですね(おそらく読む気がないのでしょう)。
「光を出す」ものが太陽以外にもある以上、あなたの自性の定義を採用するとしても、「光を出す」は太陽の自性だとは言えない、ということを言ったのですが。 「プラトンが「人間とは二本足で歩く動物である」と定義すると、ディオゲネスは「ではニワトリも人間か」と言い返した。それを受けてプラトンが「人間とは二本足で歩く毛のない動物である」と再定義すると、ディオゲネスは羽根をむしり取った雄鶏を携えてきて、「これがプラトンのいうところの人間だ」と言った。その後、プラトンは先の定義にさらに「平たい爪をした」という語句を付け加える羽目になった。これが「プラトンの雄鶏」の名で知られる故事である」(Wikipedia「ディオゲネス」より) まあ、哲学用語の使用法は人それぞれだ。「俺はこのように定義する」ってんなら、それでもいい
「直線とは、曲がった線のことだ」という主張は、平面上では誤りだが、曲面上では正しい(笑)
それはともかく、とりあえず、こういうのが仏教の中核教義
↓
かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。
「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」 「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」 そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。 「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」 かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。
「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」
「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」
そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。
「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」 かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。
「大徳よ、世間、世間と称せられるが、一体どのような意味において世間と称せられるのであろうか。」
「比丘よ、破壊するがゆえに世間と称せられるのである。比丘よ、眼は破壊する。鼻は破壊する。舌は破壊する。身は破壊する。意は破壊する。また、それらの触(感官)を縁として生ずるところの感受は、楽なるものも、苦なるものも、あるいは非楽非苦なるものも、すべて破壊するのである。比丘よ、このように、すべてが破壊し遷流するがゆえに、世間と称せられるのである。」
(サンユッタ・ニカーヤ 35:82) アーナンダよ、やめよ。悲しむな、泣くな。アーナンダよ、わたしはかつて説いたではなかったか。すべて愛し親しめる者も、ついに生き別れ、死に別れ、死してはその境界を異にしなければならぬ、と。
アーナンダよ、一切は壊れるものであって、ひとたび生じたるものがいつまでも存することが、どうしてありえようか。
(ディッガ・ニカーヤ 16) 「直線とは、曲がった線のことである」
「いや、それは違うぞ。直線とは、まっすぐな線のことだ」
「いやいや、それは間違っている。直線とは、曲がった線のことだ」
・・・こんなやり取りに意味はない(笑)
用語の定義の話はホドホドにして、教義内容の話をするべきだ >>471
太陽の光の出し方は、地球に対して唯一ですよ。 >>477
それらの仏典の引用は、全て無常を説いているようです。
言葉を正しく使わないのであれば、問答はできません。
私は、辞書通りに言葉を使っています。
直線は、まっすぐな線です。
局面での直線ならば、そのように説明しなければ問答ができません。 >>478
では、その唯一性を、きちんと定義してくれませんか? >>479
明らかに辞書に反する言語使用を、辞書通りの言語使用だと言い張ることは、問答の破壊に他なりません。 >>473
>>477
「空基」氏の議論に従えば、あらゆるものごとにはそれぞれ固有の本質がある、ということになります。
ですので、あるものごとの彼による定義が、そのものごとの本質とは明らかに呼びえないものだ、と指摘することは、彼の議論に対する有力な批判になります。
もちろん「定義は自由」なのですが、しかしそれは現象は実体でないと仮定した場合の話です。
現象は実体だと仮定している「空基」氏の場合は、「定義は自由でない(どの概念にも正しい定義が存在する)」と認めなければならないのです(だからこそ彼の議論はおかしいのです)。 >>480
太陽は人類にとって唯一の存在だというのが、太陽の自性です。 >>481
何がどうなのか、しっかりと反論してください。
反論できなければ認めたという事ですよ。 >>482
空のなど覚ることが必要なことは以外、
私の定義ではなく、辞書に書いてあることです。 >>484
繰り返しになりますが、”あなたが”根拠のある的確な反論をしていない、と言っているのです。
返答したからといって、その返答内容が根拠なきものであったり、そもそも的外れであったりすれば、反論とは認められません。
私は再三、>>374に対する反論を求めていますが、それに対するあなたの返答はすべて、明らかに、無根拠もしくは不的確なものではありませんか。
何の根拠もない思い込みを仏説ないし哲学だと言い張って、問答を破壊するのは、いい加減にしてください。 実際、>>483もまた、的外れな返答ですしね(太陽の本質を述べてみよ、と言っているのに…)。
そして>>485は、もはや日本語の文としても、解読することができません。 >>486
物質というのは、モノのことです。
実体というのは、存在するモノです。
したがって、物質は実体です。
374の返答は、これ↑ですね
辞書の通りです。 >>487
反論がなければ、認めたということですよ。 物質ももちろん重要だ。でも、最大にして最重要の論点はやっぱりこれ。これを抜きにして語れない
↓
アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。
ヒンドゥー教の6つの正統派では、すべての生命体(Jiva)にはアートマンが中に存在しているとの見解を持ち、これは「体と心の複合体」とは異なるものである。この見解は仏教と大きく異なる点であり、仏教では常一主宰じょういつしゅさい(永遠に存続し・自主独立して存在し・中心的な所有主として全てを支配する)な我の存在を否定して無我説を立てた。 有名な話だけど、ヒンドゥー教はアートマンというのがある。永遠不変で自立して存在する固定的な実体。何度、肉体が老化して滅びても、アートマンは永遠に存続して、そのたびに生まれ変わる。要するに「霊魂」だ
仏教では、これを認めない。「アートマンなどというものは無い」とバッサリ否定したわけではないのだが、積極的に認めてもいない。そこが、ヒンドゥー教/バラモン教との大きな違い 仏教では、自分自身は五薀仮和合(ごうんげわごう)であると説明される。それは、色受想行識の五薀の寄せ集めでできた仮の姿
五薀は皆空であるとされる。全体として空なのではなく、色・受・想・行・識という5つの要素がそれぞれに空なのだ。すべてが条件付きの現存在。「今はこうなっている」にすぎない。いずれは老化するか、もしくは病気になって滅びる。「存在」というより、「現在の状態」だ
永遠不変のコアな実体(要するに霊魂)の存在は認めない。「そんなものは無い」とバッサリ否定するわけじゃないのだが、少なくとも認めてはいない ごうんげわごう じゃない
ごうんけわごう だ
仏教界にはこういう読み方にうるさい人がよくいる(笑) 人間(一般的な人間というより、自分自身と考えるべき。他人のことは分からないから、自分自身を観察する。それがインド人の流儀)の心の中では、常に無数の思考や感情が生起している
それぞれの思考や感情はバラバラなのだが、ものすごいスピードで生じたり滅したりしている。だから、パラパラアニメと同じで、連続して一貫性があるように見える
人は、それを「自我である」と錯覚する。つまり、「我思う。ゆえに我あり」というのは錯覚。「我はない」というのが正しい デイビッド・ヒュームもこれと同じ論理で、西洋哲学史に名高い「自我否定論」を唱えた
でも、これは「我思う。ゆえに我あり」というデカルトの合理論に異議を唱えるのが目的
「無我の悟りを開いて解脱しよう」ってわけじゃない。そこが仏教との違い(笑) 仏教は認識論ではない。無我論だ
認識している自分自身が、本当に実在しているかどうかが問題 仏教は認識論ではない。無我論だ
当たり前。神は魂で仏は肉体だから、肉体に我はあるはずない。空っぽ 我は、五蘊、十二処(眼耳鼻舌身意、色声香味触法)、六識(無眼界乃至無意識界)であり、無我です。
この無我も、空であり色であります。 ブッダの教えを、龍樹が定式化したのが、「不常不断の中道」だ
「人は生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する実体である」
↑このような見方を「常見」という
「人は死ねば終わりだ。消滅して何もなくなる」
↑このような見方を「断見」という
この両極端から離れよというのが、不常不断の中道 「ボクは善い人になって、死後は善い処に転生したいなあ」
↑こういうのが常見。在家の俗人ならともかく、これは修行者としては失格な考え。「 我はある」という錯覚にとらわれているうちは解脱できない
「人間、死ねば終わりだ。生きてるうちは楽しく生きようぜ」
↑こういうのが断見。これは常見よりもさらにタチが悪い。これに比べたら、常見のほうがまだマシ
・・・というわけで、常見も良くないし、断見はもっと良くない。修行者はこの両極端から離れて中道をゆかなければならない 我は無い
そこに気づけば、すぐにでも解脱できる
・・・という話だ >>488
>>489
ですから、私はすでに反論してあって(>>374とそのリンク参照)、その反論に対する再反論がないからしてくれ、と言ってるんですよ。
「反論がなければ認めたということ」だというなら、あなたが私の主張を認めたことになるんですが、それでもいいんですね? …まあ、そんなどうでもいい話をするよりは、空と輪廻の関係について話したいんですけどね。
仏教においては、輪廻というものは、解脱されるべきものとして位置づけられてはいるものの、存在は認められている。
しかし、空の教えに従えば、実体がないのだから、輪廻というものがそもそも存在しえないように思える。
そうすると釈尊の教えに反しているようにも思えるが、そこら辺は空サイドの人たちはどう理解しているんでしょうね? >>504
瞑想で至った発見といいますか
そちら側からの意見で宜しければ
そもそもの勘違いというか超えられない感覚の違いは
魂のような自由意志のような意識のような
言ってしまえば頭の中で色々独り言を言うことができる
どう考えてもこれが当たり前 機械ではできないんだから
という感覚です
仮定の話で言いますと
例えばドラえもんやスターウォーズのC3POなど
将来にはかなり近いものが実現されると思います
感情や記憶など活動する度に色々なことを蓄積していきます
もし事故で壊れたら
持ち主なり修理屋が回収して新しいハードにデータを移すんです
どちらかというと回収して再生するこのシステムの方が
理解が難しい それこそ何故そのような仕組みがあるのか
このような例え話なら魂があるといえばあり無いといえば無い
ただのデータという形ですから
ですがそれは作られたものであり変化するものであります
このデータにボディーが組み合わされて初めて
生命なり意識体なりが活動し始める 自分という感覚が生まれる
まあこれまで散々誰かが言っていることだとは思いますけどね >>502
無常、無我の解脱は、現代人はほとんど済んでいます。
空が難しいのです。
阿耨多羅三藐三菩提(無上正等覚)といいます。 >>504
輪廻は空即是色なので、あるということです。 >>507
「リンク先」という文字すら読めませんか? 皆さま、はじめまして。
幸福の科学信者です。
ここは仏教の空について語るスレということで、
幸福の科学も仏教思想を教えていますので、
色々とお話しさせて頂ければ嬉しく思います。(^^)
ちなみに、このスレにおられるJBL氏は
幸福の科学のアンチ氏で批判しかしないので、
彼の思想の一端なりを知りたい、ということもあります。 色即是空、空即是色とは、
色・物質は空(実体はない)
それは、仏の念いによって仮に物質として現れている
と個人的には理解しています。
これは聖書の創世記にある通り、
神は念い、ことばによって天地万物を創造した、
という教えに通じます。
私たち人間の本当の姿は心魂、霊であり、
物質の肉体は乗り舟であり、本質は心すなわち
私たちの念いそのものである、ということも
教えて下さっている、と理解します。 常連さん。tiktokでライブ配信して空を語り合いませんか?いろいろ教えてください 理解の仕方は人それぞれですし、
様々な文献の細かい記述等について、
突っ込んで議論することはあまり意味がないかな、
と思います。
空の教えで大事なのは、この世は仮の世であって、
私が死んだ後、還る世界こそが実在界である、
ということだと思います。
ですので、空の教えで私たちが考えないといけないのは、
死をもって地上を去る際に、この世的なものへの
執着を去れ、ということ、
そして、空の教えとは少し離れますが、
この世では完結しないように見える因果の理法が、
実在界において完結する、ということを知りなさい
ということだと思うのです。 確かに、インチキ宗教のエセ仏教が嫌いなのは事実だ
自称「ブッダの生まれ変わり」の大川隆法が言ってることは、デタラメすぎて耐えられん
まあ、好きにしろや(笑) >>515
いや、JBL氏の仏教知識は幸福の科学で学んだんでしょ?
学びきれていないのは否めませんが、
影響は受けている感じを受けました。 確かに、大川隆法や麻原彰晃の本も昔は読んだけど、大昔の話だよ。いまじゃ、彼らの仏教談義なんか初歩的な誤解や歪曲が多すぎて聞くに耐えない
確かに、若い頃に読んだ本の影響は残るだろうけどな。フロイト先生によれば、まちがいなくそうだ(笑) 空という教えで私たちがまず気がつかなくてはいけないこと。
それは、この世を超えた世界があるということなんですね。
ギリシャ哲学でも、プラトンのイデア論とかも
空の教えに通じますね。
そして空であるこの世の物質が、いかにして現れたのか、
それは仏とか神という、私たちの認識を遥かに超越した
存在が創造されたと考えられます。
創造主というと、哲学板にそぐわないとしたら、
仏教の縁起の理法という大宇宙を貫く法則がそれに
相当すると言えます。 大川隆法ねえ・・・
読んでたのは主に高校生のときだよ。あれは正直、子供向けの読み物だ。とても大人が読むに耐えるものではない 仏教には小乗(上座部)と大乗(大衆部)があるのは
皆さまご存知かと思います。
大乗というのは、苦しむ多くの人々を救っていきたい
という仏の願いが込められています。
というのも、この世を超えたあの世の世界には、
厳然として地獄界が存在している、ということであり、
因果の理法によって、この世で悪を行った報いが
あの世の世界で実現しているということです。
この世では悪が野放しになっているようなことがありますが、
これは人間の自主性、自由を仏は尊重されてあるからでありますが、
それも人間の寿命が有限であり、そこで裁きがあるということです。 >>511
>
> ちなみに、このスレにおられるJBL氏は
>
> 幸福の科学のアンチ氏で批判しかしないので、
おいおい、当方が幸福の科学スレでインチキ宗教を批判してたのは、ほんの2~3ヶ月間くらいの話だろ
既にもうやってないし(笑) 整理しますと
空の教えを学んで、この世を超えた世界がるということを知り
・この世を去る際には執着を去るということ
・この世を超えた世界で裁きが待っている
ということを知ることなのだ、と私は理解します。
これは信仰の出発点です。
人間は不完全ですので、神や仏の御心に反する罪を犯す
可能性がとても高いです。
そして、その結果として地獄で苦しんでいる人が多いから、
仏教には大乗の教えがあって、人々を救っていくための
教えがあるということ。
ですので、次に私たちが知らないといけないのは
どうしたら死後天国に行くのか、地獄で苦しむのかという
価値基準なのです。 ここは哲学板ですので、哲学的に考察すると、
因果の理法に基づき、良いことをしたら良い結果が返ってくる
悪いことをしたら悪いことが返ってくる
ということになります。
ここで善悪の基準が必要になってきます。
簡単に言ってしまえば、神や仏がこの世の世界を
造られたその目的、すなわち御心に合致すれば善、
それに反すれば悪となります。
善で一番重要なのは、私は「愛」であると信じます。
愛の心で人に優しく親切で、相手の立場に立った
思いやりの心で生きてきたなら、これは善であり、
善因善果です。
その逆で、愛の心なく人を苦しめたり、意地悪したり、
人の嫌がることをしたりした場合は、悪因悪果です。 それで、人は不完全なため、自分は正しいと思っていても、
それは客観的にみたら間違い、悪であることも多いです。
人は相手の心が読めませんので、自分のやっていることが
相手にどう映るのかが完全には分かりません。
だから知らないうちに人を傷つけてしまう。
大宇宙を貫く法則は厳粛であり、自分の思いに反して
地獄に堕ちてしまうことがあります。
ですので、大乗の教えでは、神や仏の信仰による救いを
教えます。
信じるという因が、救いという果に繋がるんですね。
だから、なんの因果か、人の信仰を批判して切ろうとする
行為は悪の中でも最も厳しいものになります。
人間の永遠の魂の救いを奪ってしまうからです。 このスレの皆さまは空についてはもう充分に詳しく
ご存知であることを拝察しましたので、
その先にある仏が願われる学びについて語ってみました。
単なる批判でも結構なのですが、
出来ましたら、建設的な議論ができますと嬉しく思います。 >>525
> どういうレベルの話だ
>
> 幼児向けの絵本かよ(笑)
幼児向けの絵本の中には、大人でも到達できない深い真理が
あることも充分考えられませんか?
そうでないとしたらその理由を述べて下さい。(^^) >>526
幸福の科学?
正しい、悪、相手にどう映るのか、人を傷つけて、地獄に堕ちて・・・。
全て空ですよ。
これはよろしいでしょうか? >>529
空基さん、はじめまして。(^^)
全て空なら、色即是空だけでいいはずですよね?
空即是色とは何でしょうか? 私は色即是空に続く空即是色という言葉に、
仏の叡智と慈悲、神の愛を感じずにはいられないのですが。(^^) >>530
観自在菩薩は、まず色即是空、次に空即是色と唱えました。
まず、色即是空です。 670 名前:JBL ◆JBLfMwCXhY :2022/06/20(月) 21:42:29.88 ID:m6qSmy3g
哲学板名物・一行レス連投で対抗だ
こういうのがあるんですか? >>532
色即是空で止まってしまったら、虚無主義、ニヒリズムに
なってしまいますよね?
すべては空なのだ、じゃあこの世は何なんだ?って話です。 >>534
最初に、色即是空と覚るわけです。
あなたの発言から、これが覚られていないことが分ります。 色即是空を悟るのは小乗、
そこから空即是色という大乗の教えがあるわけです。
釈迦も悟りを開かれて解脱された、ここまでは小乗、
そこから50年間も法を説かれた、
これは梵天が大衆布教を願われたからです。
もちろんここは哲学板なので、大乗の精神とは関係ないのかも
しれませんが。 >>535
たしかに空を悟るには一生を費やしても足りないかもしれない。
でも私たちは人と人との間に生きる血の通った人間です。
そこで大切なのは「愛」であるはずです。
空即是色とは、ズバリ、「愛」だと思うのです。 キリスト教は愛の教えと言われていますが、
般若心経にも、ちゃんと「愛」の教えが
入っていると思うのです。(^^) >>536
空は大乗ですよ。
色即是空 空即是色とは大乗仏教です。
※ちなみに、大乗小乗は優劣を意味しません。 >>540
空というのは、色すなわちこの世の物質には実体がない、
という教えであり、「愛」というのは実在です。
なぜなら、愛は永遠であるからです。(^^) >>533
> 哲学板名物・一行レス連投で対抗だ
>
> こういうのがあるんですか?
うん。ある(笑) >>541
仏教では、愛というのは、五蘊「色・受・想・行・識」であり、空だと説かれます。 >>543
そうなんですか?
大乗仏教というのは仏の慈悲と救済だと思っていましたが。
愛が空であり実体がないなら、
救いもまたないですよね。
それでは大乗の精神に反すると思うのですが。 哲学議論は置いといて、
愛なくば人生は不毛だと思いませんか?
確かに悟りを目指す修行の過程では、
一切皆空を徹底的に見つめる修行があるかと思いますが、
大乗の精神では違います。
先ほども、空とは大乗だとおっしゃっていた通り、
空即是色とは愛であり慈悲であり救済なのです。 >>545
愛というのは、五蘊「色・受・想・行・識」であり、空だと説かれます。
観自在菩薩は、一切は空だと覚り、一切の顛倒夢想から離れ、涅槃究竟に至ったと説かれています。
これは、仏教者の究極の目標です。
阿耨多羅三藐三菩提(無上正等覚)といいます。 >>546
> >>545
> 愛というのは、五蘊「色・受・想・行・識」であり、空だと説かれます。
>
> 観自在菩薩は、一切は空だと覚り、一切の顛倒夢想から離れ、涅槃究竟に至ったと説かれています。
> これは、仏教者の究極の目標です。
> 阿耨多羅三藐三菩提(無上正等覚)といいます。
仏教者の究極の目標であることは分かりました。
ではその目標を達成したらどうなるのですか?
苦しみがなくなるのは分かりますが、
苦しみがなくなったら、もうそれで終わりなのでしょうか?
いや、自分が悟って苦しみを克服したら、
今度は悩める数多くの人々を救済していく大乗の道に
入っていくのではありませんか?
釈迦もその通りの道を歩まれましたし、
弟子たちにも修行をしながら伝道せよとおっしゃいました。 >>547
空を覚ったら、空を広めることが修行です。 >>548
ですよね!
それが空即是色だと思うんです。
自分が悟って苦しみを克服したら、
この空の悟りを広げていかないといけない、
人々は苦しみの渦中にあるので悟った者が
救っていかないといけない、
これが愛であり慈悲であり、大乗だと思うのです。 >>541
> 空というのは、色すなわちこの世の物質には実体がない
そうだな。それは確かにその通り
> という教えであり、「愛」というのは実在です。
いや、それは仏教的には誤りだ。
あくまでも、「仏教的には」だが・・・。
というのも仏教では、「愛」は「執着」とほぼ同じ意味なんだよ 今日は遅くなりましたので、続きはまた。
今日は空基さんという素晴らしい方に出会えてよかったです。(^^) >>549
空即是色は、空を覚ったときに解ることです。
覚りにも段階があって、まず無常、無我、ですが、無常は現代人は覚っています。無我もほとんど覚っているように思います。
空まで覚ることが必要な人は、限られるでしょうね。 >>534
> 色即是空で止まってしまったら、虚無主義、ニヒリズムに
> なってしまいますよね?
> すべては空なのだ、じゃあこの世は何なんだ?って話です。
それをニヒリズムと思ううちは、まだよく分かっていないな >>551
>
> 今日は空基さんという素晴らしい方に出会えてよかったです。(^^)
そうだな
お前にとっては良かったかもしれないな >>512
> 色即是空、空即是色とは、
> 色・物質は空(実体はない)
> それは、仏の念いによって仮に物質として現れている
> と個人的には理解しています。
それは、キリスト教の創造論だな。
仏教では、「この世の事物は、因縁によって生じている」と考える
どう違うのかというと、キリスト教では、この世の事物は「被造物」という確固たる存在。
仏教では「存在」というより、「寄せ集めで一時的に成り立っている仮の状態」っていう感じ
> 私たち人間の本当の姿は心魂、霊であり、
> 物質の肉体は乗り舟であり、本質は心すなわち
> 私たちの念いそのものである、ということも
> 教えて下さっている、と理解します。
そこが大きく違う。
それは仏教ではなく、バラモン教/ヒンドゥー教の思想
仏教では、「霊魂」を認めていない。「霊魂など無い」とハッキリ言ったわけではないのだが、積極的に認めてもいない >>514
>
> 空の教えで大事なのは、この世は仮の世であって、
> 私が死んだ後、還る世界こそが実在界である、
> ということだと思います。
「実在界」というのは、プラトン哲学の発想だな。仏教では、そういう考え方をしていない
仮に死後に転生するとしても、そこはやっぱり、仮の世界だ
「死後、あの世に還る」は、日本の新宗教に特有の考え方 仏教では「霊魂」の存在を認めていない。「永遠不変で、それ自体で自立して無条件に存在している固定的な実体」は、仏教の世界観と相容れない。
その一方で、「輪廻」については必ずしも否定していない。そもそも、「解脱」とは、「輪廻転生から卒業する」ということを意味する。
もしも輪廻が無いのなら、輪廻を終わらせようもない。ということは、「仏教は輪廻転生を否定していない」と考えられる
このため、「霊魂が無いのなら、何が輪廻しているのか?」が仏教哲学における最大の論争テーマになってしまった
唯識論の膨大な体系などは、これを説明するために創られたと言っても言いすぎではない どうもお邪魔いたします^_^)
私は空は単純に「エネルギー」だと思っていますが、心と宗教板ではあまり受け入れられません。
実際に複数の僧侶の方にも同じ意見を聞きましたし、↓こういった方も同様の意見なのですが。
https://www.bukkyo-kikaku.com/archive/no_89_11.htm
どう思われるでしょうか?
私に考え方の間違いがあるようでしたら教えていただきたいのですが。 アインシュタインの特殊相対性理論における方程式、E=mc2とは、まさに空即是色のことだと思っています。
Eはエネルギー、空
=は即是(これすなわち)
mは物質(質量)、色
cは光速度(定数)
つまり、
E=mc2
空即是色
c2は定数なので、あってもなくても大意は同じになります。
この考え方に間違いがあれば教えていただきたいのです。
よろしくお願い致します。 まあ、「空」の教えに従えば、「幸福の科学信者」氏が列挙しておられる様々な超越的観念(仏、神、心、霊、大宇宙を貫く法則、この世を超えたあの世の世界、「愛」、etc…)もまた、すべて「空」であり、実体はない、ということになるんですけどね。
実際、そうした超越的観念の存在は、実体の存在と同じく、自明ではありません。 色即是空空即是色は単に方程式の右辺と左辺を入れ替えただけだと思います。
=(即是)で結ばれているのですから、入れ替えても成り立つのは当然です。
「色即是空」で言えば、空は右辺に来ていますが、「エネルギー」は左辺に入るべきものだと主張している方がいらっしゃいます。
私の理解では当然右辺に来るのです。
左辺に来るのであれば、エネルギー、色、受、想、行、識がそれぞれ並列に並ぶことになり、
必然的に、色、受、想、行、識のいずれも「エネルギーではない」、ということになってしまいます。
この宇宙がビッグバンで始まったとしたら、元々は未分化のエネルギー(燃え盛る火の玉)であるわけで、
この宇宙に、時空も含めて、エネルギーに依らないものは一つとしてない、という結論にならざるを得ません。
これが間違いであれば指摘していただきたいです。 >>557
まあ、これについては、だいたい仰る通りでしょうね。
で、その「輪廻の基体は何か」という問いに対して、「識」サイド(唯識学瑜伽行派)の人たちは、「阿頼耶識だ」と答える、と。
結局、認識(「主観と客観の関係」)を肯定しないと、輪廻は説明できないような気がします。
どうにかそれ抜きで説明しようとすると、>>505氏みたいな感じになるのでしょうが、実際上手くいってませんしね(彼の例えで言うなら、「データ」を回収して新しい「ハード」に移してくれる「持ち主」ないし「修理屋」とは一体何者なのか、という疑問がどうしても残ります)。 「空」というのは、「悟る」こと、すなわち「認識を否定する」ことが、もう既に出来ている人にとって、この世界がどう見えるのかを示した教えなのでしょう。
そういう人は、既に輪廻から解脱できているわけなので、その人の目にはそもそも輪廻なんて存在しないように見えるはず。
だからこそ、「空」においては、「輪廻」の存在が否定されている。
こう考えれば、「空」と「輪廻」が相容れないことの、辻褄合わせはできるように思います。 >>559
で、これについては、少なくとも、「空と相対性理論は同じだ」とは言えないでしょうね。
相対性理論はあくまでも物理学の理論なので、物理現象のみを説明対象としますが、空は物理現象のみならず、あらゆる現象を説明対象とするものです。
ですので両者を同一視することはできないと思います。
まあもしかすると発想は似ているのかもしれませんが(その辺は相対性理論のほうをよく知らない私には何とも言えません)。 >>562
この宇宙全てがあなたと考え、その視点に立てば輪廻などないとなります。
無始無終です。
実際は因縁仮和合して輪廻がその中で繰り広げられています。
輪廻があることは様々な経典で説かれていますので。
宇宙の中を生きる主体がない、ということになれば必然的に宇宙全体が主体ということにならないでしょうか。 >>564
結局宇宙がどうやって始まったかという視点に立てば、
その中で展開する物理現象以外の作用も全て「空」、即ちエネルギーということにならないでしょうか?
受、想、行、識のいずれも元はと言えば同様にエネルギーですよ、と般若心経では説かれていると思うのですが。
(受想行識亦復如是) >>565
「空」の立場に従えば、「梵我一如」ということになるでしょう。
つまり、あなたは「主体」と「宇宙」を区別していますが、「空」においてはそもそも、そのような区別(「主観と客観の関係」)が否定されているのです。 >>566
そもそも私は「空はエネルギーだ」という解釈を否定していません。
そういう解釈も可能であるように思います。
ただ、だからといって、「空と相対性理論は同じではない」ということを、先ほどはご説明したのです。
当該投稿をもう一度よくお読みいただければと思います。 >>567
>つまり、あなたは「主体」と「宇宙」を区別していますが、
そのようなことを言ったつもりはありませんが、私の拙い文章からそう思わせてしまったのならお詫びいたします。
空、即ち(根元の)エネルギーを、意識主体とみなすか、そうでもありそうでもないとみなすかの違いが、
ヴェーダと仏教の違いだと思います。
しかしお釈迦様もまた、梵我一如を成し遂げた存在だとみなす論文も目にしています。
その可能性は否定できないと思います。
原始仏典の中で、「この方はブラフマンである」と言われたことに対してお釈迦様が否定しなかったエピソードが入っています。
その辺は仏教においては修行による解脱を第一義としていますので、その妨げとなるような言説を
お釈迦様はあえて避けられたのだと思っています。 >>568
上に相対性理論の方程式を挙げたのは、あくまで色即是空空即是色と内容が同様であるということを言いたかっただけで、
相対性理論と大乗仏教の空が同じだというつもりはありませんし、そう言った覚えもありません。
しかしあなたも言われるように、根本の発想はどちらも同じだと思います。 >>570
その「内容が同様である」という言い方がおかしい(相対性理論と空が同じだと言っているに等しい)と言っているのです。
もし誤解だと言うのであれば、以後、相対性理論の例は一切出さないようにすることをおすすめします。
あと私は、相対性理論の発想と空の発想が「同じ」とまでは断言していません。
同じ”かもしれない”(が本当のところはよく分からない)と言っただけですので、その点ご了承ください。 >>569
「宇宙全体が主体」という言い方は、これもまた、主体と宇宙を区別している(独我論的世界観を開陳している)と解釈されても、仕方のないものです。
この種の議論をするときは、誤解を招かないよう、言葉遣いには十分注意してください。
まあしかし、「空、即ち…」以降のご意見には、概ね同意ですね。
釈尊が直接的な言及を避けた「修行の妨げとなるような言説」こそが「空」である、という解釈はできると思います。 >>571,572
色々とご指導ありがとうございます。
そうですね。私の不勉強ゆえ、言葉の使い方が曖昧なところが、
もっとシビアな領域でお考えの方には違和感を生じさせているのでしょう。
ですが全くのトンチンカンな言説ではなさそうだということ、
エネルギーの解釈でほぼ賛同いただいているのは私にとって収穫でもあります。
お時間取っていただきありがとうございます。
大変参考になりました^_^) >>573
いえ、こちらこそ、お付き合いいただきありがとうございます。
こちらとしても、「空と相対性理論の発想が似ている」という観点は新鮮でしたので、少し相対性理論のほうも勉強してみようかな、と思います。 >>575
知識や理屈として「空」について知ることと
「空」を実践することは別だから >>556
「実在界」なるものは、諸法実相といいます。
>>557
生死を繰り返すのが輪廻です。 >>558
そのリンクの方は、空ではなく、一即一切 一切即一を述べているようです。
>>559
物理学からいえることは、空ではなく、無常、諸法実相ですね。 >>562
輪廻の実体は、有情であり、その業によります。 >>577
> 「実在界」なるものは、諸法実相といいます。
「諸法実相」というのがプラトンのイデアみたいな実在だってのは、古代の「説一切有部」が唱えた考え方
それも有力な解釈の1つではあるからムゲに否定できないけど、千数百年前に廃れた古い解釈なのでは? 特殊相対性理論の方程式は、つまるところ、
エネルギーと物質は相互に転換可能、ということでしょう。
私はこれこそ色即是空空即是色と同じと思います。
私たちは今でこそ目に見えないもの、電気や電波、磁力や重力といったものを
自然に把握していますが、2000年以上前のインドの人たちにはそんなことはわかりません。
なので物質と、目に見えないエネルギーが同じですよ、と言われても全くピンとかなかったでしょう。
だからこ色不異空空不異色色即是空空即是色と、物質に関することが強調されているのだと思います。
そのほかの精神作用などは、元に目に見えない力から出来ている、と言われてもさほどの驚きはなかったと思います。 諸法実相というのは法華経の中心思想の一つで、
この宇宙の全てが仏の現れである、という事実を示しています。
物理学を表しているかどうかは、私にはあまりピンときません。
輪廻するのはあくまで業であり、その主体は輪廻していないと思います。
ですから主体を設定してもしなくても、同じことなのです。
まあ本当は主体はあるんですけどね。
お釈迦様は特に言及しなかっただけのこと、と私は考えています。 業というのは、その主体(もしくはその一部、分け御霊)がこの実相の世界に降りてくるためのいわば重りのようなものです。
この重りがないとリアルにこの世界を味わうことができないので必須アイテムなのです。
主体は阿頼耶識に蓄積されている色々な業を最低108個選んで持っていかないと、性別、性格、容姿、国籍、時代、などの
諸条件を規定することができません。死後は自分自身が新たに作った業とともに、阿頼耶識にその業を下ろします。
それを主体もしくは別の分け御霊が実相世界に持っていくのです。
自分で作った業の中に、この業は自分ですぐに解消したい、というものがあれば、それは下ろさずにそのまま持って再び生まれてきます。
しかしそれが全てではなく、ほとんどの業は阿頼耶識に蓄積されて行くのです。
ちなみに108個というのは適当な数字でネタです。 実際はこのようなものではありませんが、この3次元世界に生きる我々が理解するには
こう言った論調にならざるを得ないのです。
実際はどういうことか、の真実を体感するためには、瞑想や禅の実践を必要とします。 ということらしいです
信じるか信じないかはあなた次第^_^) >>562
ポイントはこれは頭で考えてしっくりきた理論ではない
っていうところです
瞑想の過程である段階に達すると
こういう理論はもはや気にもならなくなり
考えてもしょうがないって感じになります
ですがあえてわかってもらうために何とか普通の人でも
感覚を掴み易いように捻り出した例えなんです
そして普通の人とは瞑想でまだそこまで達していない人
修行途中の人のことです
そして何がターニングポイントかと言いますと
それは涅槃の数瞬での体験です
この時 何でこんな簡単なことがわからなかったんだ
経典に書いてある通りじゃないか
何で書いてある通りに理解出来なかったのか 不思議だ
となります
この原因が生物なんだから自由意志があって意識があって
自分という感覚があって などの
思い込み以前の強固な当たり前の感覚です
私は仏教理論は全然わかりませんが
瞑想修行のある段階でこのような理解に達する地点があります
きっとこの先もあるとは思いますが >>581
諸法実相とは色のことです。
空を覚り色を覚り、諸法実相、久遠実成、密教へとつながっていく。 >>582
物質とエネルギーが同じというのは、空、色ではなく、諸法実相の十如是です。
>>583
輪廻するのは、有情で、業によります。 ほんまにわかってるんかいなこのひと^_^;)
>>588
なんで諸法実相が色に限られるねん
そんなわけないでしょう
五蘊全てですよ もうあんまりツッコまんとこう
なんか言ってることが変だ >>1
ありがたいお話
100億円以上の価値がありますね!✴ 四位一体波平自演シリーズ👴👴👴👴
護衛介護キャラ∶塩なめくじ
誰もまともな会話をしてくれない波平の孤独を補うイマジナリーフレンド💩
波平の自尊心が傷付けられるとよく護衛に現れる
攻撃キャラ∶自称無職名無し
波平の討論用のアバター、というよりただコテハンを外しただけの波平👴
無職であることをひた隠しにしてエアリーマン(笑)ごっこしている波平とは打って変わって、無職を肯定しており無職である己を弁護するキャラ
しかしながら中身は波平なので幼稚な語彙による知能の低さがモロバレである🥺
スレ流しキャラ:学術死廃
波平のキチゲ解放キャラ
無意味に見える言葉を喚き散らしてスレを流して話題を逸らそうとする🚽💩
マゾヒストキャラ:◆rPTyOzZ/LE
波平のメインアバター
日々己のガイジ具合を嘆いているが、その本音は自分の老化をADHDだと思いこんで否認している哀れな老人である🥺
下らないプライドを守るため仏教の話を垂れ流すことがあるが、本人は仏教を信じてるわけでもなんでもなくただ「悟ってるボク」という演出のための中身のない虚飾でしかないので無視してよい🥺
賑やかしキャラ:自問自答おじさん
過疎ってる哲学板でも比較的人が多い東や千葉スレにいるコテを外した波平👴
しかしコテを外したところで自演オナニー癖は抜けきれず、自問自答形式で独りよがりな思考を糞便のように垂れ流して嫌われている🥺 >>590
色とは物質、現象です。
諸法実相とは、色の真実の姿です。
五蘊は人の要素です。
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是。
物質、現象、人は、空であり色だという教えです。 一つ言うときますが、
空は決して「概念」ではありません。
そう言う捉え方をすると「全ての上位概念」と言う観念上だけのものになり、
苫米地やスマナサーラのように、空即是色は間違い、などというトンチンカンな結果になったりします。あいつらアホです。騙されてはいけません。
だから>>1も相当に怪しいです。
もっと素直に捉えましょう♫
空は空です。
そうとだけ思って、瞑想に入りましょう。
そうすればやがて自然とわかってきます。
空が一体何であるかが。
これは決して、空を実体視、絶対視するといった陳腐なものではありません。
そもそも瞑想などの変性意識状態に入らずして、理解などできるはずないのですよ。
よほどの天才でない限りね^_^) >>596
あんた何言うてんのさっきから
お呼びじゃないからもう帰っていいよ 皆さま、こんばんは!(^^)
盛り上がっていますね。
分仏陀 白蓮華さんのおっしゃっていました、
「空とはエネルギー」というはその通りだと私も思います。
物質とエネルギーは等価である、という式の通りですね。
ここからは私の推論なのですが、
エネルギーというのは意志を持っている
ということなのです。
だから私たちが今こうして空について議論している意識も
「個性を持ったエネルギー」
だと思っています。
だから、皆さまが考えておられること、観念も空だと
言えばその通りとも言えます。
そして、神とか仏とか、創造主とか、大宇宙の法則とか、
これらは人間を超えた、人間の認識を超えた
超越的なエネルギーであり、意志であると思うのです。
そして、その超越したエネルギーは、
私たち人間を創造し、愛に生きよと願われた。
そんなふうに感じています。 考える名無しさん、空基さんの投稿も読ませて頂きました。
書かれていることについては特に違和感はなく、
私よりもはるかに詳しい見解をお持ちであると拝察しました。
私は名前の通り、特定の宗教に所属している者ですが、
神や仏というのは、地上に降ろされた特定の宗教の枠内の
存在ではなく、私たちの認識を超えた超越者がまずあって、
その意識が地上世界の人間の口を通じてことばとして
伝えられたのが数多くの宗教である、と考えています。
ここから万教帰一の考えを持っています。 空というのは仏教の教えであり、般若心経が有名ですが、
その教えは仏教というカテゴリに収まるものではなく、
キリスト教やイスラム教、その他、正しい宗教と言えるものは
すべからく、繋がっているものだと考えています。 色即是空、というのは、私たちが目にしているもの、
これらは実体のないもの、
五蘊の仮和合であると言われています。
確かにその通りで、物質を細かく細かく拡大して見ていくと、
分子、原子、素粒子となって、
エネルギーと物質が循環しているような感じになっています。
それはそうだとして、では、私たちの見るこの地上世界は、
明らかに何らかの意志で私たちを育まれているようである、
というのは間違いがないだろうと思うのです。
太陽があって地球があって、水が循環して雨が降って、
植物が光合成をして動物たちの生きる糧になっています。
私たちは様々なものを作り出し、文明を築いていますが、
その原材料となるものは、なぜか用意されている、
そんな感じがしてならないのです。 この神秘を目の当たりのして、
人は神や仏を感じ取るのだと思います。
観念も含めてすべては空である、というのは
その通りでありますが、
この教えが説かれた目的は、
ともすれば私たちは本当は実体のないのに、
目に見えるもの、お金とか家とか車とか地位や名誉、財産など
に執着して苦しみを作っている、
だから空の教えを悟って苦しみから解脱しなさい、
と教えているように思うのです。 ですので色即是空を悟ったら、その先は、
この空の教えを広げること、
悩み苦しんでいる人々に悟りを伝え、救いを与える仏の慈悲
これが空即是色だと思うのです。
イエス・キリストが、
主なる神を愛し、自分を愛するように人を愛しなさい、
と教えたのも、
同じものであると思わずにはいられないのです。 人類は、物質をあらしめるエネルギーを取り出すことに
最近、成功しました。
それが核エネルギーです。
核エネルギーは、原子力発電など、私たちの生活を
便利で豊かなものにすることに使うこともできる反面、
核爆弾で、大量殺戮兵器も作れますし、
地球を破壊することさえできます。
皆さまもご存知の通り、この最悪のシナリオが
今まさに進行中です。
地球がそこにあり、人がそこに住んでいるには、
それをあらしめた超越意識があるはずです。
その超越意識が今の状況を見てどういう判断を下されるか、
幸福の科学はもとより、多くの方々が心配されていることでしょう。
空の教えを考えていくと、今まさに起きようとしていることに
目を向けざるを得ないのです。 神の如きの力を手にした人間が、
それをどう使っていくのか?
それを問われているのであり、
その善悪を教えるのが正しい宗教であると思っています。
善悪を知るには神、仏の御心を知らなくてはなりません。
幸福の科学もその一つであり、
幸福の科学の神は、永遠の仏陀とも天の父とも言われる、
地球神エル・カンターレなのです。(^^) 最後は私の信仰で締めくくってしまいましたが、
どう思われますでしょうか。
ご意見をお聞かせ頂ければ嬉しく思います。(^^)
では皆さま、おやすみなさい。🙏 >>609
仏教と他の宗教の一番の違いは、真理か否かです。
神、隣人を愛せ、超越意識などは信仰です。
仏教の無常、無我、空というのは、真理です。 波平(ぴかぁ)とはなにか
日々己のガイジ具合を嘆いているが、その本音は自分の老化をADHDだと思いこんで否認している哀れな老人である🥺
下らないプライドを守るため仏教の話を垂れ流すことがあるが、本人は仏教を信じてるわけでもなんでもなくただ「悟ってるボク」という演出のための中身のない虚飾でしかないので無視してよい🥺 幸福さんありがとう
おやすみなさい^_^)/
法華経読むとね、最初はこのオッサン何言うてんの?ってなると思うが、
空を理解してからだとすんなり読めます。
ああ、なるほど、なるほど、ってね
つまり創造主は釈尊。
次は我々が創造主になる番です。
そうやって宇宙はたくさんできているのです。
エネルギーが意思を持つ、
その通りです。むしろ、
意思がエネルギーなのです。 >>611
めんどくさいねん
あんた何もわかってないやん
諸法実相が色とか この世界はね
釈尊で出来てるの
だからあなたも釈尊の一部なの
釈尊こそが空なの
わかるかね? それが本当の諸法実相の意味です
理解を修正しといてね もうお分かりの通り
法華経が説いているのは6次元以上の宇宙です >>620
だって真実やからしゃあないやろ
なんとでも名付けなさい コテハン付けてる人、JBL氏以外、全員新興宗教の信者説 おまえら〜的〜論って言いたいだけちゃうん?
おまえらってそれしか能がないやん 新興宗教じゃないなら尚更悪質だな
明らかに仏教的でない教えを仏教の教えだと吹聴してるわけだから じゃあもうええわw
帰る
おまえらの仏教って何やねん一体w せっかく私が般若心経のちゃんとした講義してやろうかと思ってましたのに
残念です^_^)
でもそれは無駄ではありません。回り道も必要なプロセスなのです。
今にわかりますから、大船に乗った気持ちでいてください。
それではまたどこかで^_^)/ >アインシュタインの特殊相対性理論における方程式、E=mc2とは、まさに空即是色のことだと思っています。
Eはエネルギー、空
=は即是(これすなわち)
mは物質(質量)、色
cは光速度(定数)
・・・まあ、「古代インド人が相対性理論の原理を見抜いていた」というのは、さすがに無理のある話なんだけど、この話に不思議な符合を感じてしまうのも事実
実際にはやはり、古代インド人は、>>1からさんざん言われているような
「人間に見えている世界は、知覚を脳内で変換したクオリアでしかない」
というようなところから「色即是空」という結論に達したのだと思われる
それは「無眼耳鼻舌身意無色聲香味触法・・・」という、般若心経の後半部分を見ても明らかだ
でも、それが相対性理論ともビッタリ合っていた。本当に、不思議な説得力のある説なのは確か 結論からすると、現代人にとっては、それでいいと思う
アインシュタインの相対性理論を通して「色即是空/空即是色」を理解するのは間違っているどころか、むしろ、これこそ本来の正しい意味なのかもしれない
ただ、古代インド人は、異なる角度から入って、たまたま同じ結論に達したのだと思われる
ひとつは、上にも書いた「人間に見えている世界は、人間の脳内世界でしかない」ということ
もうひとつには、「形あるモノはすべて滅びる。永遠の実体など何ひとつとして無い」という無常観から来ている それから、新興宗教の信者さんたちについて付け加えると、彼らは住む世界が異なる人たちだ
「余計な口出しするんじゃなかった」と、今は後悔している
もう、新興宗教の批判はやらないことにした 信念の力は、彼らのほうが強い。「信じる」というのも、ひとつのパワーには違いない
いい悪いは別にして、別々の道をゆくしかない
・・・最初から分かっちゃいたけど(笑) >>632
>Eはエネルギー、空
核エネルギーは、諸法実相の如是力です。
E=mc2 とは、如是力=如是性×光の如是作^2 でしょうかね。
そうして、E=mc2 は、空です。 >>636
> 如是力=如是性×光の如是作^2
意味が分からんので、くわしく 「般若心経の真意は、相対性理論だった。古代インド人は、E=mc2を知っていた」というのは、さすがに無理がある
でも、古代インド人がタイムマシンで現代にやってきて相対性理論を知ったら、
「これだ。これこそ、我々が言いたかったことの極意なのだ!」と言いそうだ 相対性理論と量子力学は、物質観を根底から揺るがした
現代人にとって、「色即是空」は古代より遥かに実感しやすい環境になっている >>639
E=mc2 の各々の項を諸法実相に置き換えただけです。
Eは如是力なので、これ↓は間違いです。
>Eはエネルギー、空
E=mc2 という、仕組みまでは至りませんでしたが、モノを見て、
相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等相と看破した仏教は、とてつもない教えです。 言われてみれば、確かにそうだな
物理でいう「エネルギー」を、仏教用語にあえて訳せば「如是力」だ
それは考えたことなかったが、その通り(笑) 「核エネルギー」を仏教的に言い換えるなら、「核の如是力」だなあ。それ以外は考えにくい
「核の空」とは言えない(笑)
「空はエネルギーが充満した状態」というのも間違いとは言わんけど。エネルギーそのものではないな まあ、物理学用語が仏教用語と共約可能だと考えることが、そもそもおかしいと思いますけどね。
「空」は「エネルギー」であるという解釈も可能ではあるけれど、その解釈における「エネルギー」という言葉は、隠喩でしかない。 「空」の発想と、相対性理論の発想が、根本的な部分で非常に似通っている、と考える余地はあるかもしれない。
しかしそれはそれとして、「空」と相対性理論はまったく違うものなのですから、どちらかをどちらかに還元することはできないでしょうね。 たしかに、「空はエネルギーだ」と言われれば、「ああ、そうですか」と言うしかないけど
でも、「空」という仏教用語は、もとはといえば「カラッポ」を意味するインド人の日常用語からきているということを忘れるべきではない
本来、「何かが充満した状態」を意味する言葉ではない それよりはやっぱり、「物体は、本当は存在しないに等しい。人間が、反射された電磁波を脳内で視覚情報に変換しているだけなのである」というような説明のほうが、個人的にはずっとシックリくる(笑)
これを、「ニヒリズムだ、虚無的だ」という人もいるだろうけど、個人的にはそう思わない
「色即是空とは、物質とエネルギーの話なのだ」という話も、嫌いではないし否定はしない
でも、般若心経で言ってる意味は、上のような「物体は本当は存在しない。人間が脳内で生み出したクオリアにすぎないのだ」のほうが、ずっと本来の意味に近いように思う
なぜかというと、「色即是空 空即是色」というのは、般若心経の冒頭に出てくるだけ。あとの大半は「無眼耳鼻舌身意無色聲香味触法無眼界乃至無意識界・・・」と、感覚器官の虚しさを延々と説いてるから なんか「空」と「識」がゴッチャになってますね。
存在論と認識論は違うと以前のレスでご自身が指摘されていたような気がしますが… >>648
> なぜかというと、「色即是空 空即是色」というのは、般若心経の冒頭に出てくるだけ。あとの大半は「無眼耳鼻舌身意無色聲香味触法無眼界乃至無意識界・・・」と、感覚器官の虚しさを延々と説いてるから
「あとの大半」は言いすぎだな(笑)
この世の虚しさを見切った後の、心の平安を語る部分が最も長い >>649
> なんか「空」と「識」がゴッチャになってますね。
> 存在論と認識論は違うと以前のレスでご自身が指摘されていたような気がしますが…
「空」は存在論で、「識」は認識論
表裏一体の関係だよ >>651
いやいや、「空」の発想は存在論ですよ。
実体の非存在を説明するときに「主観と客観の関係」(認識)を想定しないのが特徴です。 それこそ>>125で書かれている通りですね(この説明自体が敢えてやや「識」寄りの表現で書かれているみたいですが)。
そこを厳密に区別しないと、>>1と同じ轍を踏んでしまうことになるでしょう。 >>654
…それは然り。
まあおそらく、JBL氏自身の考え方がかなりデカルト的(「識」的)で、それゆえに「空」をそちら側に引き寄せて理解しようとしてしまっているのかな、と。 個人的には「色即是空」を、「物質は、有るように見えるだけだ。じつは見せかけだけで中身はカラッポの虚しい存在なのである。こんなものに騙されて囚われてはならない」という、ほぼ文字通りの意味に受け取っている
でも、それを言うと、例によって「ニヒリズムだ、虚無的だ」と非難されるのがオチだ(個人的には、これが虚無的だとはまったく思わないんだが・・・)
だから、話の流れを見ながら、なるべく非難されないように適宜調整しているんた(笑) 「物質は、有るように見えるだけだ。じつは見せかけだけで中身はカラッポの虚しい存在なのである。こんなものに騙されて囚われてはならない」
↑日本人は、こういう考え方を「現実逃避だ、虚無主義だ、反社会的だ」といって嫌う傾向がある
だから、違う解釈を一生懸命に考えてしまう
でも、インド人はそうじゃないんだよなあ。上記のようなのが、インドの伝統思想 「空」は虚無主義じゃない、という点には完全に同意ですけどね。
確かに、「空」によると、存在しているものはすべて実体性を持たないので、いっさいは流転していることになる。
でも、流転しているということが、あらゆるものごとの本来のありかたであっても、おかしくはないのではないでしょうか?
まあ実は「そういう考え方は「論理」(「あるものはある」)に反する」という批判はあるんですけど、でも世界のありかたが実際は論理に則していないということも、十分考えられるわけで… ふ〜ん。空も空だと長老批判もあったが、識だな、識。 少なくとも言えるのは、そういう「空」が虚無主義だという批判に、「識」を持ち出す必要はない、ということですね。
というかむしろ、その種の批判を「空」に対してするのが「識」、くらいのイメージですけどね。 「この世は、このようにして流転しているのだ」という法則を論理的に定式化したのが、「諸法実相の十如是」なのでは?
まあ、あんまり十如是・十如是と繰り返すと、創価っぽくなるから嫌なんだが(笑) >>648
空とはクオリアではないか、というのは面白い思索です。
クオリアを調べてみましたが、空ではないようですね。
動物にクオリアがあるか否か、分っていないのが決定的です。 「諸法実相」は、宗派ごとに様々な解釈があるようですね。
「空」によれば、まさに「空」(現象の実体がないこと)こそが「諸法実相」となるはずです。
ですが、天台宗系(法華経重視)だと、「諸法は実相なり」、すなわち「現象こそが真実在のあらわれである」(=現象は実体である)と解釈されるみたいです。
「十如是」というのは天台宗系の仏語ですので、こちらの意味であって、流転の論理的定式化とは言えないでしょうね。 ちなみに周知の通り、創価学会というのは、法華経系の宗教団体です。 なるほど、十如是はもともと天台宗系でしたか
そういえば「一念三千」とかもそうだ
もともとは天台宗の教えなのに、創価がそればっかり言うもんだから、すっかり創価の色がついてしまった(笑) 間違いではないでしょう。方便品第二は毎日お題目で唱えるんだから。ただ日蓮宗にとっては空は識の一つであって、思い入れるものではない。 >天台宗系(法華経重視)だと、「諸法は実相なり」、すなわち「現象こそが真実在のあらわれである」(=現象は実体である)と解釈されるみたいです
確かに、「諸法実相」をそう解釈することも可能でしょうな
この世の事物が、仏教的には「寄せ集めで一時的に成り立っている仮の存在」というのは確かだけど、その奥に「実相」を見ることも不可能ではない などと言いつつまた来てしまいましたが
その辺のことは私に聞いてくださって結構ですが。 法華経がそうですが、天台宗は中論を重視していますので、
空だけを追求するわけではなく、
空仮中という、どれにも偏らない心を重視しています。 >>674はちょっと文章がおかしかったですね
法華経が中論に基づいているのではもちろんありません。
法華経では、空の悟りだけでは完全なる悟り(阿耨多羅三藐三菩提)には至れないことが書いてあり、
そこに至るのは法華経を聞くことだと書いてあります。 臨済宗の悟りの基準は「人みな同じ」という認識だから、信者が悟れないジレンマもそこにあって、仏に逢っては仏を殺すという姿勢を貫く。 >>676
それよく言われるセリフですが、
鎌倉新仏教はどれも基本的に「仏性」というところをベースに据えています。
仏を殺すとなると自殺ですよね >>677
仏性はダルマだから消せない、故に仏性のみ残るという論理ですな。認識の矛盾を抱えるわけです。 >>675
>法華経では、空の悟りだけでは完全なる悟り(阿耨多羅三藐三菩提)には至れないことが書いてあり、
ウソはダメですよ。
そのようなことは書いていません。
引用できないでしょう。 >>676
禅の公案のなかに、空に関するものがいくつかあります。
空の理解になります。
無門関 第4則 胡子無鬚
或庵曰く、「西天の胡子、甚に因ってか鬚無き。」
或庵が云った、「達磨には一体どういうわけで鬚が無いのか?。」 >>679
あなた本当に、嘘はやめてもらえないですか?
何か情報撹乱でもしようとしていますか?工作員ですか?
私は以前、誤った見解にこだわり 諸々のバラモンの師となりました
世尊が私の心を知って 誤った見解を抜き取り煩悩の火が消された状態の安らぎをお説きになりました
私は全て残らず誤った見解を取り去り 諸々の事物は、因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないという空の教えにより確証を得ました
その時に心が自ら言いました 生死の迷いを超越した悟りの境地に至ることができたと
しかし、今すなわち自覚しました これ(空の教え)は真実の生死の迷いを超越した悟りの境地ではないと
もし仏になることができるときには 三十二の仏にのみ現れる人相を持ち
天人や人間や夜叉や 龍神らは恭しく敬うでしょう
妙法蓮華経譬喩品第三より
(現代語訳) 単純に読んだことがないだけですかね
よくあんなこと平気で言える まあでも席を立ってしまった五千人の阿羅漢や弟子たちと同様、
当面は正しい教えに巡り会えない、縁なき衆生もいるわけです。
法華経にもまさにそのように書いてありますし。
もう引用はしませんよ。 正しい教えとかそもそもが求める必要なくね?
豚が(笑) 大谷選手を見て
いつかああなりたいって思っても遅いんだよね
30過ぎのオッサンが それ相応のことをやってきたならまだわかるけど
何もやってねーじゃん
そもそも(笑)
労働とそれは違うよ
どう考えても 誰か特定の人をサポートして
成功に導く
とかいう時間軸でもなくて
よくわからない古代の人を当てにして修行して
本を書き
また何世紀先の誰かがそれをキャッチして
何かが始まる みたいな意味不明な時間軸
の何かである あまり私も「正しい」教え、などという表現は好きではありませんが、
法華経は原典では、Saddharma-puṇḍarīka-sūtra(もっとも正しい白蓮華の教え)
となっていますので、そのような言い方をしました。 人が皆大谷翔平のようになる必要はありません。
それぞれの領分で、その人なりに輝けばいいのです。
それが寄り集まって大きな光となるのです。
https://ichigu.net/person/ >>681
> 私は全て残らず誤った見解を取り去り 諸々の事物は、因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないという空の教えにより確証を得ました
これですな
「空の教えとは何か?」という質問に対する正解が、単純明快に示されている
「諸々の事物は、因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はないという教えです」というのが、ズバリ模範解答 意外と熱心そうなやつって
何十年後もやってるかって
やってないと思うんだよね
今この場のフィールドワークというか
立ち位置をどうこうしか
考えてないと思うよ 何かがそもそもが違うんだよね
言動とその魂の軽さとか重さとかの
落差がもう
やたらこう熱く語って来るけどさ ああいえば上祐というか
どこまでも理論で固めてくる そもそも
学習しない生き物に
正しい教えを足すと
オウム真理教
という構図が出来上がる 大体営利企業が何で仏教と結びつくのかが
よくわからない
普通に頭悪いなと思う
人を追跡してんのとか
仏教の一環なのか?
まだ公務員とかの方が 営利企業と仏教って結びつかなくね?
そもそも
何でもかんでも禅にしたがるけど
金稼ぐ行為と明確に分けた方がいいと思うんだけど
そこは
しまいには
自分は正当な仏教徒で
お前は邪教徒である
みたいな感じだろ
営利企業の一員が(笑) サラリーマンと仏教徒ってそもそもが違うだろ
(笑) そもそも何でこいつらは
自分を正統な仏教徒だと思い込んでいるのか(笑) 自分は正統であいつらは違う
の基準をまず教えてくれ
見た目だろどうせ(笑) >>681
何が現代語訳だ。
妙法蓮華経譬喩品第三のそのようなことは書かれていない。
原文を出してみなさい。
ちなみに、「生死」という言葉は、譬喩品第三に一か所しかない。
「我雖先説 汝等滅度 但尽生死 而実不滅」我先に 汝等滅度すと説くと雖も 但生死を尽くして 而も実には滅せず、という意味だ。
あなたは、ウソツキですね。
仏教者ならば、不妄語戒を守らなければなりません。 他力本願についてはどう思われます?
有史以来最大の邪教ですよね?? 他力本願ってよくよく考えると
1番やばい宗教の気がする そもそもが
仮に悟りを開いたとして
それを他人に教えなかった罪
なんてどの古文書読んでも
存在してないけど
どこをどう解釈するとそうなるのか
ソース付きで教えて頂きたい あとまあそれがどう資本主義と結びつくのか
も教えて頂きたい 開いただけ損だろ
資本主義で1番搾取されるなんて(笑) >>707
んもう、めんどくさいなあ
これっきりですよ?
世尊知我心 邪抜説涅槃 我悉除邪見 於空法得証
爾時心自謂 得至於滅度 而今乃自覚 非是実滅度
世尊我が心を知しめして 邪を抜き涅槃を説きたまいしかば
我悉く邪見を除いて 空法に於て証を得たり
爾の時に心自ら謂いき 滅度に至ることを得たりと
而るに今乃ち自ら覚りぬ 是れ実の滅度に非ず ていうか共通見解でしょうから、
私だけに文句言うのは筋違いというもの。
まあ私も同じ見解というだけのことです。
空基さんは、自分はこういう読み方をしています、と
比叡山でも身延山でも大石寺でも言って訴えてきてくださいな。
たぶん、空気読め」と言われることでしょうが、、
まあ、権威にひるんではいけません^_^) 各々の花を咲かせればいい
とか言いつつ
異常にストーカーしてくる
ほとんど花として成立してねえじゃん(笑) 闘牛のように向かって来る
この乞食の豚は
未だに何の生物かわからねえ
悟りを求めてるのか
社会復帰を望んでるのか
毎日壁に頭打ち付けてるけど
そもそもの経緯が
何でそうなったのかが見えてこねえ
まさか俺のせいでもあるまいし >>718
その先にこう↓あります。
仏告舎利弗。善哉善哉。如汝所言。舎利弗。如来亦復如是。則為一切世間之父。於諸怖畏。衰悩憂患。無明暗蔽。永尽無余。而悉成就。無量知見。力無所畏。有大神力。及智慧力。具足方便。智慧波羅蜜。
仏、舎利弗に告げたまわく、
善哉善哉、汝が所言の如し。舎利弗、如来も亦復是の如し。則ち為れ一切世間の父なり。諸の怖畏・衰悩・憂患・無明・暗蔽に於て永く尽くして余なし。而も悉く無量の知見・力・無所畏を成就し、大神力及び智慧力あって方便・智慧波羅蜜を具足す。
この智慧波羅蜜というのは、般若波羅蜜のことで色即是空 空即是色の教えです。
それを仏は具足していると述べています。
あなたが引用したところは、舎利弗の言です。
あなたは、しっかり読めていないだけで、ウソをついたのではないと分りました。
先にウソツキ扱いしたことは撤回します。m(_ _)m 俺の仮説としては
生きづらいよね
とか
生活苦しいから
とかいう意見をあまりにも共有しすぎたせいで
そのような意識状態を強固に作り上げて
しまった人達 でその
生きづらくない人を
やたらターゲットにしてくる
波動の低い人種
としか思えない 生きづらくないってことが
まるで多大な迷惑をかけてる
という風に洗脳してくるカス そりゃネガティブとボジティブの
端から端まで飛ぶ努力しなきゃ
苦しいのは当たり前で
今スタートしたゲームでもないし
何十年も前から始まってるだろ(笑)
なんで最近スタートしたんだよ まんま呪いのビデオみたいなオーラが
全身から放たれてますが
この人達
こんな汚い物が
体内にあったんですね
という驚きしかない >>723
いや…しっかり読めてないのはあなたの方かと。
確かに「空の悟りだけでは完全なる悟りには至れない」と言っているのはサーリプッタです。
しかし、そのサーリプッタの言に対してブッダは、まさにあなたが引用されたとおり、「汝が所言の如し(その通りだ)」と述べているわけです。
したがって法華経では、「空の悟りだけでは完全なる悟りには至れない」ということが、仏の教えとして説かれている、と言ってよいでしょう。 仏の教えを説かなかった者より
間違った教えを説いてた方が
普通に大罪だと思うんだけどな 最近、有名な物理学者も仏教的な「空」と「縁起」を認め始めてる。
『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』
カルロ・ロヴェッリ
ただ、説明としては下記の記事の方がはるかに分かりやすい。
https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/4545
あと最近、タイトル変えて書籍化されたみたい。
『旅路の果てに 人生をゆさぶる 旅 をすること』 仏教でなきゃいけない理由がそもそもないだろ
そんなに まぁ体験だけの仮想でダルマにならん方便は常識の類い。方便がある限り仏教も誤り得る。 そもそもお前が自分1人の力で生きれないのが
諸悪の根源であって
俺のせいではない
やたらストーカーをそれっぽく正当化してくる
異常者 助けてくれないと警察呼びまちゅか?
赤ちゃん(笑)
シュール過ぎる 大の大人が
自分を救ってくれないと
警察呼ぶ(笑)www 自分の人生を救ってくれないから
警察呼ぶ
ってアホ臭くね?(笑)
知らねえよ(笑) 独りよがりっぽくね?お前も
たまには家族とか友人とか大切にしてやれよ(笑) Q : 「空」の教えとは何ですか?
A : 「諸々の事物は、因縁によって仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体はない」という教えです
仏典にはこのように定義されている。「空」に関するあらゆる論議は、これを前提にして語られなければならない 「固定的な実体はない」といえば、物質のことと思う人が多い
だが、それ以上に重要なのは、人間(とくに自分自身)の精神。要するに「空」の教えの核心は、「霊魂は無い」ということ そもそも自分で悩みの責任負えません的なやつじゃろ?? 霊魂が無いのなら、何が輪廻しているのか。これが仏教哲学界の一大テーマになってしまった
こんなテーマで、古代インドでは最高レベルの頭脳、傑出した知性を集めた最先端の議論が延々と展開された
とりあえず、結論は出た。輪廻の主体とは、「阿頼耶識」だったのだ まず空がそもそもどのようなものか知りたいから
お前を監禁してボコボコにして
どのような生理的反応を示すか
脳波とともに調べる必要がある 最終的に十字架にはりつけて
脇腹から槍で刺す必要性がある
空がどのようなものか知りたいから(笑) では、阿頼耶識とは何なのかというと、一言でいえば「記憶の貯蔵庫」だ。現代風にいえば「データベース」ということになる
データベースであるだけでなく、映写機でもある。阿頼耶識のデータベースには、あらゆる情報がある。動画も大量にストレージされているから、これさえあれば動画の見放題だ
早い話が、この世界や人生は、阿頼耶識がわれわれの心のスクリーンに映している映画のようなものなのだ お前が阿頼耶識出すまでやめないから(笑)
それが解説する寺子屋たろ?
有限実行させてやる >>761
> お前の肉体で実験しようぜ
> 日本の未来の為だ
いや、他人で実験しても分からない。他人の心の中を知るのは不可能だからだ
だから苦行僧は、自分の肉体で実験するんだよ てめぇがまず空がどのようなものか
世間に知らしめる必要がある
お前の肉体に負荷をかけて
逃しはしない
ごまかせるよ思うなよ 実験させてくれよ頼むから
空を知りたいんだよ
世間のみんなもな >>762
やめなされやめなされ…荒らしに構うのはやめなされ… みんな知りたがってんのに
お前はその責任に答えないのか?
乞食みてえな野郎だな 金なら渡してるらしいから
早く空見せろよ
なんか面白いことやれよ え?やらないんだ?
まじでこいつ言うこと聞かないんだけど
逮捕されるよ? 週3でやんねーと
誰も納得しねーからな
乞食野郎
金はもちろん やらん お前がやってるかどうか
お前の横に1人つけるから
やらないなら逮捕します >>731
具足方便。智慧波羅蜜。
和訳:方便、智慧波羅蜜を具足す。
これ↑、読めませんか。
仏は、空を具足しているということです。 >>748
空は言葉にできません。
あらゆる空の説明は、すべて満足しません。
空は、定義できないという事です。 >>757
動画?
阿頼耶識を現代風にいうと、遺伝子ですね。 >>791
だからどうしたと言うのです?
「空の悟りだけでは完全なる悟りには至れない」ことと、「仏は空を具足している(=空の悟りをそなえている)」ことは、矛盾しませんが。 >>794
仏道修行は、仏を目指します。
仏は空を具足しているのならば、空を目指しましょう。
仏の修行は、空で終らないということです。 >>806
>仏の修行は、空で終らない
ということは、あなたは、「空の悟りだけでは完全なる悟りには至れない」ということが、法華経で説かれていると認めるのですね? >>793
> 阿頼耶識を現代風にいうと、遺伝子ですね。
阿頼耶識が遺伝子とな?
また意味わかりませんでしたわ
そのココロは? そりゃ、般若心経でも「五蘊は皆空」と照見したのは観自在菩薩だし、舎利子を初めとする仏弟子たちも、そこまでは行ったわけだ
ブッダの悟りはその上にあるんだから、空の悟りだけじゃ無理ってことでしょ >>813
もちろん、「空の悟りだけじゃ無理」というのが、法華経で説かれている教えです(>>681と>>718の通り)。
というかそれこそが法華経の中心的教義でしょう。
しかし、なぜか「空基」氏は、「法華経にそんなことは書いていない」と勘違いしている(>>679)。
ですのでその誤りを指摘しているのです。 あとちなみに言うと、「阿頼耶識」は、他の七識とは異なり、通常は意識されることがないものなので、少なくとも、何か目に見えるようなものとして表象してくることはありえません。
ですので、>>793のように、「阿頼耶識=遺伝子」とするのは、遺伝子が観察可能なものである以上、明らかな誤りです(「阿頼耶識=遺伝子のようなもの」ならまだわからないではないですが…)。
>>757のような、「阿頼耶識=記憶の貯蔵庫」という理解なら、大きく外してはいないと思います。
しかし>>757では、「阿頼耶識から生じた諸現象もまた阿頼耶識に印象(熏習)をもたらす」という側面が語られていないので、説明としては不十分(半分しか説明できていない)と言わざるをえませんね。 >>811
空は般若心経に書いてある通り、阿耨多羅三藐三菩提(無上正等覚)です。
そうしてその悟りは、一乗だという事が法華経に書かれていることです。 >>812
生命の根本にあり、流転するものですね。 >>821
その文言ではよく分かりませんので「はい」か「いいえ」でお答えください。
あなたは「「空の悟りだけでは完全なる悟りには至れない」ということが法華経で説かれている」と認めるのですね? >>822
「生命の根本にあり、流転するもの」が「阿頼耶識」だという理解は、まったくの間違いではないでしょう。
しかし、だからと言って「阿頼耶識」を「遺伝子」と定義してしまうのは、>>817で書いたとおり、明らかに誤っています。 やっと書けました
パソコンもスマホもずっとアク禁でした。
一体なんでしょうね。。
>>692
その模範解答こそ原文にありません。
訳者が付け加えたものです。
訳文はこちらのサイトからコピペしました。
https://syoubou.wordpress.com/ まあ確かに、こういうのは訳者の言葉使いひとつで大きく印象が変わるのは分かるけど(笑)
でも「空」の定義といったら、基本はそれでしょ >>817
>
> >>757のような、「阿頼耶識=記憶の貯蔵庫」という理解なら、大きく外してはいないと思います。
> しかし>>757では、「阿頼耶識から生じた諸現象もまた阿頼耶識に印象(熏習)をもたらす」という側面が語られていないので、説明としては不十分(半分しか説明できていない)と言わざるをえませんね。
なるほど!
確かに、その方向が抜けてましたわ
フィードバックを取り入れて修正しないと(笑) JBLさん、おはようございます^_^)
一時期ご乱心だったので、基地外とか言ってしまって、ごめんなさいね。
お互い勉強していきましょう♪ 誰かさんの大好きな十如是も、
有力な説では鳩摩羅什の創作だと言われていますからね。
でも彼の舌が燃え残ったことから、
嘘は言っていないということになるのでしょう。 >>823
>「空の悟りだけでは完全なる悟りには至れない」ということが法華経で説かれている
そんなことは書かれていません。
妙法蓮華経譬諭品第三には、智慧波羅蜜(般若波羅蜜、空)を具足している仏が、一仏乗に於て分別して三と説き、衆生を救うのは、教化して阿耨多羅三藐三菩提を得せしめんが為だと説かれています。 >>825
>「阿頼耶識=遺伝子」とするのは、遺伝子が観察可能なものである以上、明らかな誤りです
阿頼耶識は観察できるから、「阿頼耶識」と呼ばれています。 >>835
では、>>806の「仏の修行は、空で終らない」という発言と、あなたの今の発言は、明らかに矛盾していますので、どちらか撤回してください。
あと、いい加減、>>731に反論してください。 >>836
>阿頼耶識は観察できる
それこそ、出典はどこですか? >>834
嘘は言っているかもしれません。
「教団の形成に都合よく作用した」がゆえに、残されたのかもしれません。 >>837
仏も修行し続けます。
お釈迦様は、入滅するまで聖求の道を歩み続けました。
仏も求道者であり、永遠の修行者なのです。
>>731 の回答は、>>723 になります。 >>838
このように観察されています↓
蔵している種子から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。(ウィキ) >>842
回答になっていませんので、誰にでも分かるように説明してください。
あと、>>723への反論が>>731なのですが。 >>753
>霊魂が無いのなら、何が輪廻しているのか。
>輪廻の主体とは、「阿頼耶識」だったのだ
六識の他に末那識(実在しない「我」を実在すると錯覚し、あくまでもこれにしがみつく煩悩)があり
我執より更に奥深い根底にある生命の中枢そのものに執着する心が阿頼耶識であるわけだが
この阿頼耶識は輪廻を支える「場」ではあるので、その意味では「輪廻の主体」と言ってもいいかもしれないけど「何が」に該当するものではない
阿頼耶識は「輪廻する何か」を蓄積する貯蔵庫やデータバンクみないなものであるとは確かに言える
しかし、その「何か」に該当するものは阿頼耶識自体ではなくて種子(しゅうじ)といって、人間がその現行(行為)をすることによって残った痕跡のことだ
現行(げんぎょう)は単なる外面的行動だけでなく、その行動を内面から支える動機や、その結果生じた心の状態も含む
現行が原因となって阿頼耶識にその痕跡(種子)が蓄積される結果となり、この種子(しゅうじ)が原因となってまた新たな現行を生む
現行と種子が代わるがわる原因となり結果となって、生み生まれる連鎖過程が生じ、この過程こそが輪廻であると見做すことができる
種子が阿頼耶識に蓄積されることを「現行の種子は阿頼耶識に熏習(くんじゅう)される」と言ったりする
「現行→種子」が熏習、「種子→現行」が種子生現行、「種子→種子」が種子生種子
これら多数の熏習・種子生現行・種子生種子が複雑に絡み合って相互連関過程をなす現象こそが輪廻と呼ばれるものだと思う
あとそれと(JBL氏にではなく、空基氏のために)少し注意しておかないといけないのは
このような説明をするとまるで種子、現行、熏習、阿頼耶識などの実体が存在するかのように錯覚してしまいやすいことだ
これらも結局は「空(実体・実在するものは何もない)」であり、飽くまで「仮の存在」として生起・生成されたにすぎない >>843
私が言っているのは「遺伝子は観察可能だが阿頼耶識は観察不可能だ」ということなのですが。
そこに述べられているのは、「種子(阿頼耶識)から現象が生じる」ということであって、「種子(阿頼耶識)が観察可能である」ということではありませんよね。 >>845
概ね仰る通りなのではないかと思います。
だからこそ「阿頼耶識」は、輪廻の「主体」ではなく、輪廻の「基体」と呼ばなければならないわけですね。
西洋哲学の概念で「阿頼耶識」に最も近いのは、ショーペンハウアーの「意志」なのではないか、と私は思います。
あれも「阿頼耶識」と同じく、実体ではないですからね(よく実体だと勘違いされがちですが)。 >>844
舎利弗が、於空法得証 爾時心自謂 得至於滅度 而今乃自覚 非是実滅度
(空法に於て証を得たり 爾の時に心自ら謂いき 滅度に至ることを得たりと 而るに今乃ち自ら覚りぬ 是れ実の滅度に非ず)
その後で、仏がこう述べている↓
仏告舎利弗〜具足方便。智慧波羅蜜〜教化令得。阿耨多羅三藐三菩提。
(仏、舎利弗に告げたまわく〜方便・智慧波羅蜜を具足す〜教化して阿耨多羅三藐三菩提を得せしめんが為なり。)
仏は、空を具足し、衆生を教化する、ということです。 >>846
観察というのは、現象の観察ですよ
対象そのものを観察するといっても、それは対象が光や電磁波を反射するという現象を観察しています。
阿頼耶識の現象が観察出来たら、それが阿頼耶識の観察です。 >>851
それは阿頼耶識が観察できたわけではないよ
観察されたのは阿頼耶識でもなく種子でもない、「現行」が観察されただけだ
現行(の一種)=遺伝子(及び遺伝現象)とは言えるけど、阿頼耶識=遺伝子とは言えないね >>850
いや、ですから…それは>>731への再反論にはなっていません、日本語も読めないんですか?
あと、あなたにとって都合が悪いからといって、>>723では書いていた部分を「〜」で省略するのは、愚劣なのでやめましょう。 なるほど、「五蘊=実体=現象」とかいう謎定義のせいで、ここでも「阿頼耶識=実体=現象」だと言わざるをえないわけだ
あ ほ く さ >>845
> >霊魂が無いのなら、何が輪廻しているのか。
> >輪廻の主体とは、「阿頼耶識」だったのだ
> 阿頼耶識は「輪廻する何か」を蓄積する貯蔵庫やデータバンクみないなものであるとは確かに言える
> しかし、その「何か」に該当するものは阿頼耶識自体ではなくて種子(しゅうじ)といって、人間がその現行(行為)をすることによって残った痕跡のことだ
なるほど
阿頼耶識自体じゃなくて、種子が輪廻する主体ですか
唯識論になると、話か難しくなってきますなあ(笑) ということは、種子こそ、空基氏がいう「遺伝子」みたいなものなのでは?
阿頼耶識は「遺伝子データバンク」みたいなものか 阿頼耶識というデータバンクがあって、そこに種子というデータが蓄積される
種子が原因となって、現行という結果を生じる
その現行が原因となって、また種子という結果を生じる
その種子が阿頼耶識というデータバンクに格納される(熏習)・・・というわけか >>859
「遺伝子"みたいなもの"」ならまあそこまでズレてはいませんが。
空基氏はただ単に「遺伝子」と言い切ってしまっていますね。
こういう話は「遺伝子」のような科学の概念を使うと余計分かりにくくなります。
何かに喩えるならそれこそ仏典でそうされているように「種子」に喩えるのが一番分かりやすいでしょう。 確かに、種子なら、芽が出て生長して花が咲き、やがてまた種子を残す
そういう循環するイメージにピッタリ
遺伝子はある意味、生命体のコアとなって固定的に存続するイメージだな >>853
阿頼耶識の現行が観察されたのならば、それが阿頼耶識ですね。
阿頼耶識は観察できないから、遺伝子ではない、とはいえないということです。 >>855
どこがどのように、反論になっていないと思うのですか?
明確に示してください。
反論になっていない、いないと、リピートしていても、何も分りませんよ。 >>863
科学で説明すると、難しく感じる仏教概念が分りやすくなります。
輪廻転生する主体は、遺伝子以外ありません。
阿頼耶識は遺伝子のことだということです。
科学以前に、仏教は遺伝子を知っていたということです。 早く人の闇を吸収する吸音材やれよ
空を体験したんだろ?
早くやろよ率先して >>867
どこがどのように、反論になっていると思うのですか?
明確に示してください。
反論になっている、いると、リピートしていても、何も分りませんよ。 >>866
>>868
結局それも、「現象は実体である」という、あなた独自の定義に由来する論理的帰結ですよね。
もちろん、その正しさは自明ではありませんので、いい加減、”なぜ”現象は実体であると言えるのか、これまであなたが述べられてきた詭弁を一切用いずに、的確にお答えください。 コピペ
仏教の最深層心理ともいえる阿頼耶識は蔵(くら)であってそこに経験したことが印象刻印、植えつけられ(薫習=くんじゅう)種子として形成され一切が貯蔵されていく。
「種子」が阿頼耶識に形成され蓄えられることを薫習(くんじゅう)という。
また逆にこの種子がいずれ発芽し発現、顕現していく。
重要なことは阿頼耶識に既に蓄えられた種子が現行を生み(種子生現行)また逆に現行が阿頼耶識に新たに種子を薫じ蓄えていく(現行薫種子)ということだ。
では、どうすれば最深層心理ともいえる阿頼耶識という蔵(くら、一切種子識)に溜めこんだ種子を、あたかも濁った水のたまった桶にきれいな水を一滴一滴注ぐように、浄化していくことができるのか。 空観に達する最も簡単な方法は、
最も大切なものを最も関係がない人に与えることです
ただし与えたことに恩を着せず、
与えられたことに恩を感じないように 空基ってのは一体何者なんだろうな
さすがにこんな滅茶苦茶な仏教理解でまともに僧職が務まるとは思えん
創価BBA説が最有力だと思っていたがあれは創価の考え方でさえない
いずれにせよ色々と可哀想な奴だなという感情しか俺は抱けんな やっぱり、阿頼耶識がDNAだというのには賛成しかねる
どう違うかというと、DNAは世代を経て受け継がれていくだけ。後天的な人生経験が反映されるわけではない(突然変異とかはあるけど)
「人生で得た経験や記憶が、新たな種子を生む」というのが、この話のミソではなかろうか
転生した次の人生が、その種子から始まるというわけだ 「阿頼耶識が輪廻している」というのでは、単に「霊魂」を「阿頼耶識」と言い換えただけになってしまう
人間を植物に例えるなら、阿頼耶識は植木鉢みたいなものか
植物が芽を出して生長し、また種子となって土に還る。そしてまた、その種子が芽を出して生長する
それが「輪廻」だというわけだ 空に到達したいならば、いくら考えても座禅しても無駄
無駄どころか空から遠のく
空に到達する有効方法は托鉢が一番良い >>877
そういう批判もできるでしょうね。
そもそも阿頼耶識は観察不可能なので、「阿頼耶識=遺伝子(DNA)」とは言えないわけですが、今書いていただいたような理由で、「阿頼耶識=遺伝子(DNA)"のようなもの"」とするのも、まったくダメではないですが、不十分でしょう。 恩にきせる、恩を感じることをなく、
ただ托鉢されるとき空に達する >>878
>
> 人間を植物に例えるなら、阿頼耶識は植木鉢みたいなものか
>
自己レスだけど、ここは「人間」じゃなくて「自我」というべきだったか
自我は観察可能だけど、阿頼耶識は認識できない 自我は、記憶に依存して存在している
自我には自己防衛本能があり、人が無我の悟りを得ようとすると、危機を察知して妨害する >>8
> 皆さま、ありがとうございます。
>
> 私の例えで行くと、
>
> 脳内の写真を主軸に説明するのが唯識です。
>
> 脳内の写真と被写体の断絶について説くのが中観の空です。
>
そういえばスレの冒頭で、大乗の二大思想(中観派と唯識派)を骨太にまとめてあったな
・・・でもそれは、いくらなんでも単純すぎん?(笑) >>872
「現象は実体である」とは、自明ですよ。
辞書引いてごらんなさい。
【現象】1 人間が知覚することのできるすべての物事。
【実体】1 そのものの本当の姿。実質。正体。
出典:デジタル大辞泉(小学館) >>878
仏教には、霊魂というものはありません。
無我です。
科学的にも霊魂は無い。
あるのは、DNAです。
>DNAは世代を経て受け継がれていくだけ。後天的な人生経験が反映されるわけではない
悪行で地獄へ行くというのはつまり、そう認識されるということです。
阿頼耶識=DNAと理解すると、輪廻転生が合理的に説明できます。 >>885
その二つの定義だけから、「現象は実体である」という帰結を、論理的に妥当な仕方で演繹することは、何がしかの詭弁を弄さない限り、不可能でしょうね。
あと、「現象は実体か?」という哲学的な問いに対し、「辞書にこう書いてあるからこうだ」という仕方で答えようとすることは、それこそ哲学の放棄です。
これらのことは、過去にも再三、あなたに申し上げてきていることです。
哲学をする気がないなら、この掲示板から出ていってください。 そこまで絶望する必要ないのに
そういう気分になるのは
横にそういうやつがいるからだよ
こいつは本当何もやらねーからな
豚みてえな体系しやがって >>886
「阿頼耶識」は、一切の「現行」(それ以外の七識、DNAも含む)を生じさせる「種子」の、すべてを保持している識(一切種子識)です。
したがって阿頼耶識は、「輪廻の基体」(生まれ変わりを可能にするもの)であるばかりでなく、「現行の基体」(あらゆる現象を可能にするもの)でもある、と言えます。
そして、阿頼耶識ないし種子は、現行とは異なるものとして位置付けられていますので、観察することはできません(推論の帰結として”想定”されているだけです)。
ですがDNAは、観察可能な物質です。
そのうえDNAは、すべての生物現象の原因であると言える余地はあっても、すべての自然現象の原因であると言える余地はありません(例えばDNAが雨を降らせているわけではありません)。
以上のことから、DNA=阿頼耶識という理解は、これも再三申し上げているとおり、明らかな誤りです。 素朴過ぎる素朴実在論
「DNAはありまぁす!」(笑) >>887
言葉を意味通りに使わなければ、哲学が語れません。
人間が知覚することのできるモノ(現象)は、そのものの本当の姿(実体)である。
これ↑が、違うと思うのならば、しっかりと反論してみなさい。 >>891
反論はだいぶ前、>>316でしてありますね。
あと、先ほどの辞書の定義には、「人間が知覚することのできるモノ(現象)は、そのものの本当の姿(実体)である」なんて、書かれてはいませんね。 ま、仏教徒として、そして哲学徒として、そろそろ恥を知ってほしいところですね。
それが出来ないのなら、新興宗教の教祖にでもなったほうがいいと思いますよ…信者が集まるとは思えませんが。 ・「現象は人間が知覚することのできるすべての物事という意味だと、デジタル大辞泉に書いてある」←うん
・「実体はそのものの本当の姿という意味だと、デジタル大辞泉に書いてある」←うん
・「したがって、現象は実体だと、デジタル大辞泉には書かれている」←!?
Aという項目と、Bという項目が、同じ辞書に掲載されているなら、AはBである、という謎推論
その推論が正しいというのなら、例えばトマトとリンゴは同じだということにもなってしまう
というか、その辞書に載っているすべての物事が、同一だということになってしまう(笑) >>892
>>316 は、言葉を辞書通りに使っていない誤りです。
>>894
現象:人間が知覚することのできるすべての物事
実体:そのものの本当の姿
現象は実体である
例えば、リンゴを見た(現象)とき、(その見えたリンゴが、)そのリンゴの本当の姿(実体)です。
これ↑は、分りますか? やたら奉仕に行動を促すやつが
一生懸命の働きアリのようにみえる すいませんねぇ
俺の為にタダで働いてもらって
貧しいので給料はあげれませんが(笑) 空基さん、名無しさん、皆さま、こんにちは。(^^)
空というのは、この世の現象として現れた物質には
実体がない、ということですね。
ですので、目の前にあるりんごは実体がない。
実体がないものを、りんごと認識するのは
私たちの意識であり、私たちの意識が認識する「りんご」という
理念、イデアが実体なんですね。(^^)
りんごと言ったって、原子の集合体にしか過ぎないのですが、
でも、りんごというものは私たちの意識の中には
たしかに実体として存在するってことなのでしょうね。 もはや企業とか形成する意味ないじゃん(笑)
出会った瞬間法律も守らないで
ストーカーしてくる宇宙人なんだから
法とかルールとか守ってます
とかアピール必要性なしwww ただの無法者(笑)
二度とサラリーマン語るな(笑) DNAも一緒だと思います。
DNAというのは遺伝子ですが、やはり空であり、
原子や分子が集まったものに過ぎず実体がありません。
ただの原子の集まりにしか過ぎないものですが、
私たちの意識は、それが生命体の設計図の役割を
果たしていることを認識するんですね。
ですので理念、イデアとして遺伝子DNAは実体として
存在するわけです。
それが、阿頼耶識の作用なのかどうかはよく分かりませんが、
ググってみたら、阿頼耶識とは万物をあらしめる種子識とも
言われているようですので、理念としてのDNAは
阿頼耶識の働きなのかもしれません。 私たちがりんごだと認識するわけですが、
この世の現象としてのりんごは、諸行無常の教え通り、
時間の経過とともにだんだん腐っていきます。
形が崩れてきて、りんごとしての形を失った時、
それはりんごではなくなります。
でも、私たちが「りんご」と認識するそのりんごという観念、
それは赤くて、丸っこくて、食べると甘くて美味しい、
そういう観念そのものは永遠なんですね。
ですので私たちが知覚するりんごは実体があると言えます。 哲学的な考察は、なんか理屈っぽくて嫌だという人も
いるかもしれません。
でも、人間が死ぬときに成仏(ちゃんと天国に帰ること)
するには、この世のモノへの執着を断つ必要があって、
この世のモノはあの世には持って帰れないんだよ、
実体なんかないんだよ、と教えることが必要なんですね。
お葬式で般若心経を唱えるのは、そういう意味があると言えます。
お金や財産を持っている人はそれに執着して、死んでも
この地上世界から離れられないんですね。
それをちゃんと理屈で説明するのが哲学だと思うのです。
それで死者の魂を納得させるわけです。 半熟のフッサールみてぇだなぁ。その彼岸に行きたいのではないかなぁ、、 >>895
それは>>894の言うとおり、詭弁でしかないので、分かるわけがありません(もし分かるというのなら分かることを恥じるべきです)。
そしてもちろん、言葉を辞書通りに使っていないのは、私(>>316)ではなく、あなた(>>891)です。 さあさあ
今日も俺の為に一生懸命働けよアリ
給料は出ないけど(笑) この暑い中俺をストーカーしてる時点で
もうアリンコみたい
乞食臭がすごい アリみてえだな(笑)
タワーマンションから見てみたいできれば >>899、>>903-905
それはいわゆる「観念実在論」と呼ばれる考え方ですね。
それ自体はプラトン以来の古典的な立場であり、全否定はできないでしょう。
ただ、少なくとも「空」の教えとは、相容れないものです。
したがって、それを仏教の考え方として語るのは、哲学的とは言えないですね。 俺の為に一生懸命働くアリンコどもを
一生懸命働けば
いいことありますよ?(笑) お前らにまだ給料は早いだろ
金受け取ったら逮捕してやる 社長
ゆっくり休んでて下さいとか
気の利いたこと言えねーのかよハナクソは
だからお前はだめなんだよ(笑) >>912
おっしゃる通りかもしれません。
視点が違えば全く別なものに見えることは多いからです。
インドの寓話には、群盲象を評す、というお話しがあります。
でも、象は象であり、一つです。
仏教の空の教えも、古代ギリシャ哲学のイデア論も、
仏の真理という意味では一つなのではないか、
と私は感じます。
違うと言えば違うのかもしれませんが、
議論の中でも共通点を見出せれば、お互いに納得し合えて
いいんじゃないかと思うんですけどね。(^^) 一生懸命努力しなさい
そうすれば
いいことがあるから >>919
>>919
「空」と「イデア論」は、実体の存在を認めるかどうかという点で、まったく異なります。
ですので、その両者を同一視することはできませんし、する必要性も感じません。
むしろ、その両者を無理矢理同一視しようとすることで、共通了解の形成が阻害されてしまうと思います。
議論において、お互いの納得を重視されるのであれば、そうした「盲信」を「真理」として語ろうとすることを、まずやめましょう。
何かを盲信すること自体を止めはしません。
ただ、もしそうするのなら、あなた一人でやってください。 >>895
@表象について
リンゴを見たとき「見えたリンゴ(表象)」はヒトの感覚器官の生理作用によって「規定された見え方」にしか見えないので
本当の姿ではなく「そのように変換されたリンゴ」でしかない
だから実体(本当の姿)ではない
A現象について
「ある人にはリンゴがそういう風に見えた」という現象そのものが「その現象(そういうリンゴに見えた)そのものだ」という意味ならただの同義反復でしかなく無意味だ
何かを語っているようでいて何も語っていない
更に言うと「その現象そのもの」も結局は何らかの原因(縁)によって生じた「仮の姿(仮の存在)」でしかなく
他の存在に依存して成立した存在なので実体(真の存在)ではない
ある現象(リンゴを見た)が存在として成立するためには、ここからここまでが「この現象(リンゴを見た)の範囲領域である」という区切り(分節)が必要になる
しかし分節する行為(=存在として成立させる行為)は「こういう風に“も”分節可能ですよ」ということでしかなく
「ヒトにはこう見えたという現象」としての分節、「虫にはこう見えたという現象」という分節などがあるだけで、それぞれの現象が“仮の姿”として存在しているだけだ
B補足(存在について)
現象も含めてあらゆる存在は恣意的な分節によって成立した仮の姿という形しかとれない
「存在として成立させる」という行為自体がその存在に対し「実体であることを不可能」にしている
これが存在論における「実体の成立についての原理上の不可能性」だ
もしも「真の姿」を求めて分節すること自体を拒むのなら、そこには何も存在することができない
(だからといって「無」というわけではないが、実体論に基づいた「有/無」の二分法では「無ではない」の意味を理解できないから
それを「有」だとか「実体はある」と錯覚したり、あるいは「何もないならやっぱり無だ」と錯覚する)
そして、分節されずにどこまでも繋がった連続体なら「空」と言えるだろうが、「空」は有でもなく無でもないし存在でもないから姿(真の姿)など持ちようもない 俺がちゃんとやらないか見張る時点で
そうとうな重労働だよな これは単なる私自身の想像にしか過ぎないんですが、
頭の良い方々が、空について議論している。
これはこうだから、これは違うんだ
いや、そうではない、こうだからこうなんだ
それはこういうことであって、そうではない
でもこれはこうだろう?
しかしここにはこう書いてある
いやそれはそういう意味ではなく、こうなんだ
・・・・
それを、全てを悟った釈迦が手のひらを眺めるように
ご覧になっている。。。
こんなことを想像するんです。 今んとこ、
実体と思われるものは現象論や実体があれば変化しないから関係ありき論は半知半解。
実体も現象もあって現象も実体論を論理立てたら、漸く哲学スタートするかもしれん。 >>925
まあ実際「空」にも弱点があるんですけどね。
未だに誰一人そこを突いてくれなくて寂しいんですよね。 >>899
>空というのは、この世の現象として現れた物質には 実体がない、ということですね。
違います。
実体はあります。
空即是色 です。
皆さんは、色即是空しか考えないようですが、教えは、色即是空 空即是色 です。 >>907
まだ、ダメですか?
あなたは、リンゴを見て、見たリンゴを食べますよね。
見るというのが現象で、実体だから食べれるのです。
実体がなければ、食べることができません。 >>922
>@表象について
例えば、大人と子供では、リンゴの見え方が違うでしょうが、大人も子供もそのリンゴを食べることができます。
ここで、見え方が現象で、実体だから食べることができます。
見えたリンゴが、厳密にそのリンゴではないとしても、実体はあるわけです。 >>929
もちろんダメです、むしろダメじゃないわけがありません。
「実体がなければ食べることはできない」という、今まで以上に訳の分からないことを言い出されては、どうしようもないですね。 >>928
なぜそれほどまでに実体の存在にこだわるんですか?
実体が存在しなくたって、いいじゃないですか。 たとえば、テレビにりんごの映像が映っている。
人はそれを見て、りんごだ、と思う。
でも空の立場から言うと、りんごと言っても、
光の三原色の組み合わせが映像なのであり、
りんごという実体はないのだ、とも言えるわけです。
でも、テレビを見た人は、ほぼ例外なく、りんごだ、と言う。
このたとえで色即是空、空即是色を当てはめるとすれば、
りんごと言っても、光三原色の組み合わせに過ぎない
→色即是空
しかし、光の組み合わせから私たちはそれをりんごであると認識する🍎
→空即是色
こんな感じでしょうか。 ですので、りんごという実体はどこかにはあるんですよね。🍎 >>933
>>934
そもそもの喩えが不正確だと思いますが、どれほど甘く見ても、「空即是色」の理解は誤りだと言わざるをえないでしょうね。
また、「光の組み合わせから私たちはそれをりんごであると認識する」というのは、「空即是色」の説明としては誤りでも、それ単体では理解できるのですが、しかしそこから「りんごという実体はどこかにはある」としてしまうのは、論理の飛躍ですね。 >>935
難しいんですね。(^^)
詩的に表現すると、
りんごは私たちの心の中にある美しい心象風景
なのかもしれません。🍎 >>930
>実体だから食べることができます。
「リンゴを食べることができる(と見做せる)」からといってそれは「リンゴが実体である」ということの論理的な根拠にはならないよ
常識的な信念(実体があると思える)と論理的整合性(本当に実体がある)を混同しているようだね >>936
ますます意味不明な説明ですね。
あなたに限りませんが、「哲学的」と「神秘的」を混同してしまう人って、結構いますね。 >>938
まあ、そうはおっしゃっても、
この世の全てのものは、神秘で満ち溢れていますからね。🍎
空即是色というのは、実体がない空から、
この世の様々なモノが現象として現れてくる、
そしてそれは美しい。
そう考えると、空即是色というのは、
まさに「神秘」を教えているのかも知れません。
哲学者もまた詩人であると個人的には思っています。 【神秘】
神秘(しんぴ)とは、人間の知恵では計り知れない不思議、
普通の認識や理論を超えたこと。
(ウィキペディアより) >>939
まあ、そう思いたければ、そう思えばいいんじゃないですか?
でもそれならあなた一人だけでそう思ってほしいですね。 >>940
「空」の考え方そのものは、別に神秘ではないですね。
きちんと考えれば、誰にでも分かることです。 🍎りんごが木から落ちるのを見て、
万有引力の法則を発見したと言われているニュートンは、
偉大なる科学者、哲学者でありながら、
また詩人でもあったのです。
🍎🍎🍎
私は海辺で遊んでいる少年のようである。
ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい
貝殻を見つけて夢中になっている。
真理の大海は、すべてが未発見のまま、
目の前に広がっているというのに。
(アイザック・ニュートン) >>943
そりゃあ、そういう人はいるでしょう。
哲学を詩的に語ることが不可能とは言いません。
むしろ両立できるならそれに越したことはないとさえ思います。
ただ、私が言っているのは、あなたの語りはすべて、詩的である(かもしれない)ですが、哲学としては滅茶苦茶だ、ということなのです。 >>943
>偉大なる科学者、哲学者でありながら、また詩人でもあったのです。
ついでに言えば錬金術師でもあったし神学者でもあったけど「だから何?」としか言えない
ある人が科学者や哲学者や詩人としての顔を同時に持ち合わせていたからといって科学や哲学や詩を同じものとして扱えるわけではないし
一流の科学者が何らかの宗教や神秘主義に傾倒していたからといって、その宗教や神秘主義が科学的な支持を得たことにはならない
「ニュートンが詩人でもあった」ということを持ち出した意図はなに? >>899
> 空というのは、この世の現象として現れた物質には
>
> 実体がない、ということですね。
それが違うんだよ
「空」というのは、物質のことだけを言ってるのではない。それは「精神」をも含んでいる
人間の精神には、永遠不変の固定的な実体など無い
要するに、「霊魂は無い」 それがお釈迦様の教え では、霊魂が無いのなら、何が輪廻しているのか?
それが唯識論のテーマ >>899
> 実体がないものを、りんごと認識するのは
> 私たちの意識であり、私たちの意識が認識する「りんご」という
> 理念、イデアが実体なんですね。(^^)
> りんごと言ったって、原子の集合体にしか過ぎないのですが、
> でも、りんごというものは私たちの意識の中には
> たしかに実体として存在するってことなのでしょうね。
それはイデアというより、記憶表象だな
後天的な経験としてリンゴを食べたことにより、その記憶をもとにリンゴを想像することができる
リンゴという観念が、生まれる前からあったわけではない(生得観念)
この「生得観念があるかないか」というのは、イギリス経験論とフランス合理論の最大の相違点だ。「私には生まれつきの理性があり、神という観念が備わっている」とするのが、デカルト。「人間は白紙の状態(タブララサ)で生まれてくる。すべては後天的な経験で身につけたもの」とするのが、ジョン・ロック >>930
> 例えば、大人と子供では、リンゴの見え方が違うでしょうが、大人も子供もそのリンゴを食べることができます。
> ここで、見え方が現象で、実体だから食べることができます。
> 見えたリンゴが、厳密にそのリンゴではないとしても、実体はあるわけです。
それは、イカガなものか?
大人と子供で異なるのは、視覚だけではない。大人にとっては美味しいビールやコーヒーが、子供には苦いだけだったりする。つまり、味覚も異なる
歯ごたえや舌触りといった、触覚だって違うし
般若心経は、無眼耳鼻舌身意/無色声香味触法。五感のすべてが「本当は無い」と言ってるんで
「赤くて、丸っこくて、甘くて美味しいモノを食べている」というのは、本人にとってはそう思えるだけであり、実際には原子や分子が集まったカタマリを体内に取り入れて、分解して栄養素として活用しているにすぎない 笹の葉やユーカリの葉は、地球上で最も不味い食べ物の代表格と言えるだろう
でも、それをパンダやコアラは、じつに美味しそうに食べている
それは彼らの舌や味覚が、そう感じるように出来ているから
すべては受け手の側の初期設定の問題 >>943
ついでに「科学界の詩人」と呼ばれた湯川秀樹も加えたらいいけど、科学は神秘を解明するのに、なぜ詩と思うんだろう。 牛肉やオレンジを食べる人間。笹を食べるパンダ。アリをたべるアリクイ
どれも幻想だ
実際には、原子と分子が集まったカタマリを摂取して、分解して栄養素にしてるだけ
感覚的な刺激と脳内変換によって、「見た目もキレイな美味しいモノを食べている」という演出効果が付与される 最初から読んでたら何だか混乱してきました
そもそも空理論ってお釈迦様は関係ないし
説いた龍樹?名無しの僧侶?も一番簡単な悟りにも
達していないんだから
そんな神秘的なものでもなくて
言語で十分に表現できる唯の理論?定義?ってこと?
でもそうだとしたら見解がそう大きく異なるわけないし
他宗派を口喧嘩でやり込めるために発達したんですよね
確かそんな説明を読んだことある
まあどっちみち仏道修行には役に立たないのは最初から
解ってはいるけれど
何故か空に関心ある人が多いんですね
大乗ではキモとされているんですよね たぶん >>951
> ついでに「科学界の詩人」と呼ばれた湯川秀樹も加えたらいいけど、科学は神秘を解明するのに、なぜ詩と思うんだろう。
昔から、数学や物理が専門の人には、神秘主義に走る人が少なくない。プラトンがその代表格
それに対して、生物が専門の人は唯物主義/現実主義になりやすい。生命が機械に見えてくるからだろう。アリストテレスがその代表格 >>951
科学や哲学では神秘を解明できないので、
それを深く知った時、人は詩人にならざるを得ないのです。(^^)
「竹」萩原朔太郎 より
ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。 >>953
> そもそも空理論ってお釈迦様は関係ないし
> 説いた龍樹?名無しの僧侶?も一番簡単な悟りにも
> 達していないんだから
そんなことないよ
空理論は、お釈迦様が説いた「無我」や「縁起」の教えをもとに、龍樹が理論的に整備して定式化したものだ
仏教思想である以上、「お釈迦様は関係ない」はあり得ない。中観派も唯識派も、「お釈迦様の教えを突き詰めて解釈したら、こういうことになりますぜ」という研究成果 >>955
> 「竹」萩原朔太郎 より
>
> ますぐなるもの地面に生え、
> するどき青きもの地面に生え、
> 凍れる冬をつらぬきて、
> そのみどり葉光る朝の空路に、
> なみだたれ、
> なみだをたれ、
> いまはや懺悔をはれる肩の上より、
> けぶれる竹の根はひろごり、
> するどき青きもの地面に生え。
「青い色」なんてものは、本当は存在しない。可視光線の中で波長の短いものが、眼の網膜を通って脳に至ると、それが「青い色」というクオリアに変換されるだけだ
「凍れる冬」というのも、本当は存在しない。水分子の運動量が落ちて固体になるときに、人間がそれを「寒さ」と感じるだけ
「するどい竹」というのも幻想だ。原子と分子が集まってできたカタマリが、人間にはそう見えるにすぎない >>953
実際、仏教徒の間では、ほとんど見解の相違はない教えですよ(どれほど重視するかは個人差がありますが)。
ただこのスレでは、単に分かっていない人や、何かを盲信してしまっている人が、たまたまたくさん集まっているので、百家争鳴に見えるだけです。
あと、「仏道修行の役には立たない」というのは、 どうしてそう思うようになったのですか?
大抵の宗派では、(これも程度差はあるものの、)根本教義の一つとして扱われているはずですが。 >>955
では、「科学や哲学では神秘を解明できない」ことを、科学的ないし哲学的に説明してください。
あともう一つ言っておくならば、仮に真理に関する不可知論の立場に立ったとしても、詩人にならないでいる(哲学者や科学者として振る舞う)ことは、依然として可能ですよね。 >>954
プラトンは神秘主義とは言えないでしょうね。
新プラトン主義は神秘主義ですが。 >>957
> 「青い色」なんてものは、本当は存在しない。可視光線の中で波長の短いものが、眼の網膜を通って脳に至ると、それが「青い色」というクオリアに変換されるだけだ
これは違いますね。
なぜかというと、光の波長の長さのどこからどこまでが青なのか
という識別はできないからです。
明らかに「青」という理念、イデアが実在する。
> 「凍れる冬」というのも、本当は存在しない。水分子の運動量が落ちて固体になるときに、人間がそれを「寒さ」と感じるだけ
>
これも違います。
「寒さ」を感じるのは温度帯に関係ない。
凍える、という理念、イデアは実在する。
> 「するどい竹」というのも幻想だ。原子と分子が集まってできたカタマリが、人間にはそう見えるにすぎない
まあ、そうかも知れないが詩情のないことはよくわかりました。 >>961
イデアが「実在」する、というのは自明ではないですね。
どうしてそんなことが分かるのですか? あと、どちらかというと詩情がないのは、幸福の科学信者氏のほうかと。
詩くらい学問的な正しさとは無関係に評価させてください。 >>959
> >>955
> では、「科学や哲学では神秘を解明できない」ことを、科学的ないし哲学的に説明してください。
無から有となる天地創造は科学や哲学では説けない、
ということです。(^^) >>964
まず「天地創造」なるものを証明するところからですね。 あと、なぜそれを「解けない」と言い切れるのかにも、説明が必要ですね。
ついでに言えば、それが解けないからといって、なぜ神秘主義に走らなければならないのか、も判然としないですね。 >>962
たとえば、ニワトリと卵、どちらが先か、
という議論がありますよね。
この場合、ニワトリという完成形がイデア、
卵→ひよこ→ニワトリ→卵→
というのは、神の芸術なのでしょう。 >>966
> あと、なぜそれを「解けない」と言い切れるのかにも、説明が必要ですね。
説明は不要だと思います。
なぜなら無から有を生じる因は、創造主の意志であり、
それは信じるより他にないからです。
> ついでに言えば、それが解けないからといって、なぜ神秘主義に走らなければならないのか、も判然としないですね。
神秘主義に走らなければいけない、
というより、神秘主義にならざるを得ない、というのが
正直なところだと思います。(^^) >>967
申し訳ないですが、仰っていることの意味が分かりません。
ついでに言えば、詩としても面白くありませんね。 >>967
> この場合、ニワトリという完成形がイデア、
それは哲学的には、「イデア」というより「エイドス」(形相)だな。アリストテレス的な概念だ
> 卵→ひよこ→ニワトリ→卵→というのは、神の芸術なのでしょう。
「神の芸術」かどうかは知らんが、可能態から現実態への移行はアリストテレスの形而上学 >>968
いや、ですから、なぜ真理が分からないからといって、神秘主義に走らざるをえないのか、と聞いているのですが…
「無神論」「不可知論」「懐疑主義」といった哲学的立場は無視ですか?
あと、創造主の意志なるものは、信じるより他ないものとは限りません。
それを信じろというのなら、あなたの主張は宗教的言説、それもかなり粗悪なものでしかありません。 >>968
> 説明は不要だと思います。
> なぜなら無から有を生じる因は、創造主の意志であり、
> それは信じるより他にないからです。
だったら、哲学はやめとけ ネタで幸福の科学信者を名乗ってるのかと思ったがどうやらマジっぽいな
まあ信者なら哲学するより参院選をせいぜい頑張ってくれ お釈迦様の目的は空を理解させることでも
縁起を理解させることでも
無かったと思うんですよね
たとえ実際はギリギリ言葉で表現できそうでも
これを言ったとて
こいつら(弟子)混乱するだけだろうな....
苦と絡めて実際に実体験し易く自分で納得できる方が
絶対効果的だ
だって目的は解脱して楽になることなんだから
って感じだったと思うんですよね
実際の修行も簡単なフレーズを繰り返して
無常なり苦なり無我なりを浸透させて
実際に自分を見つめてその通りだと納得していく
瞑想が極限に達して解脱する
こ の あ と に
縁起なり空なりがハッキリと認識されて
言葉で整理する必要がないほど自分の中では
当たり前になる
例えが適切かどうかは置いといて
スピリチャルの非二元の人達が
これがあるだけ 全てが自然に起こっているだけ
うんぬんかんぬんと(その人にとって)信実を語っても
弟子が同じところに行くまでは本当の意味で理解できず
何を言ってるかチンプンカンプン みたいな
チベット密教とか天台宗とかわからないけど
空の知的な理解と絡めて修行方法が確立されていて
数年に一人とかのペースでお釈迦様並みの人が
着実に出ている場合はごめんなさい
その辺は本当に不勉強で事情通でないので >>973
> ネタで幸福の科学信者を名乗ってるのかと思ったがどうやらマジっぽいな
> まあ信者なら哲学するより参院選をせいぜい頑張ってくれ
当方が縁となって、アフォを引き寄せてしまった
申し訳ない >>974
釈尊の目的は「ただ単に瞑想させること」でもなかったと思いますけどね。
縁起とか空とかの考え方をまずは理解したうえで、それを心から納得できるようにするために瞑想をするのでしょう。 まあ、結局、
色即是空、空即是色
の、空即是色とは何なのか、というところなのでしょうね。(^^)
それが大宇宙の根本仏の意志なのだ、と信じるのが
幸福の科学の信者の基本的な考え方なのですが、
押し付けるつもりは全くないです。
参院選、幸福実現党、チェックしておいて下さいね。(^^) >>975
いやいや、かえって幸福の科学のヤバさの一端が実感できてよかったわ
教え自体は一神教でキリスト教に近いけど、教義の性質上、仏教その他の諸宗教をひとまとめにして飲み込もうとしてくるんだね >>977
>空即是色とは何なのか
>それが大宇宙の根本仏の意志なのだ、と信じるのが
>幸福の科学の信者の基本的な考え方なのですが、
逆だ
それは万象万物の、盲目的な生きんとする意志だよ >>931
反論がなければ、認めたということになります。
>>932
実体が存在しなければ、あなたも存在しないということなのです。
あなたは、存在していますよね。
>>937
>「リンゴを食べることができる(と見做せる)」からといってそれは「リンゴが実体である」ということの論理的な根拠にはならないよ
「リンゴが実体である」というのは、論理ではなく自明です。
>>949
>般若心経は、無眼耳鼻舌身意/無色声香味触法。五感のすべてが「本当は無い」と言ってるんで
ですから、空即是色 だから、本当にあると教えているのです。
●皆さんへの宿題
禅の公案のなかに、空に関するものがいくつかあります。
空の理解になります。
無門関 第4則 胡子無鬚
或庵曰く、「西天の胡子、甚に因ってか鬚無き。」
或庵が云った、「達磨には一体どういうわけで鬚が無いのか?。 >>980
反論がなければ、認めたということになります。 ピカぁのネトサポ板とかしとるようだな
哲学を政局に利用する愚かな愚民が 盲目的生存意志という観念を実体と位置づけることで、新プラトン主義(世界は一者の段階的流出である)とショーペンハウアー(世界は盲目的生存意志の表象である)の融合を図ったのが、幸福の科学なのだろう。
そう考えれば、大方の教義は説明できる(本尊エル・カンターレは大毘盧遮那仏である、大川隆法はエル・カンターレの本体が地上に下生した存在である、エル・カンターレの一部が過去にブッダらとして地上に下生している、神は一人だけではないためシンプルな一神教ではない、神々の間には序列が存在するためフラットな多神教ではない、など)。
他のあらゆる宗教の信者に対して受容的態度を取りうるという点で、新興宗教としてかなりよく出来ているとは言えるだろう。
しかし一方で、観念の実在を自明視している以上、神秘思想であり、支持するには盲信を必要とするとも言わざるをえないだろう。
「多様な価値観を包摂しながらも、融合させ調和させてゆく」というのが、彼らの立場であるという。
だが、この教義では、彼らの側が、盲信をしたくない者、すなわち無宗教者であり続けたい者に対して、真に宥和的だと言える態度を取ることは、国家権力などの外圧が掛からない限り、不可能なのではなかろうか… お釈迦様の説かれたのは人間が幸せになる方法
それが大乗仏教です。
空や縁起や三法印や四法印もそのための手段です。
となると幸せな人には必要ありませんね。 >>984
> お釈迦様の説かれたのは人間が幸せになる方法
> それが大乗仏教です。
> 空や縁起や三法印や四法印もそのための手段です。
> となると幸せな人には必要ありませんね。
そういう人には、まず「一切皆苦」の勉強が必要
仏教では、人生が嫌になることこそ、解脱への第一歩とされている。「ボクは幸せいっぱい、夢いっぱいだ。人生が楽しくて仕方ない」というような人には、美味しい食べ物が腐っていくところを見せたり、墓場に連れていって美女が腐乱死体になってくのを見せたり。解脱するためにはまず、人生が嫌になることから始める必要があった
好むと好まざるとにかかわらず、仏教とはそういう教え。目標は「幸せになること」ではなく、「解脱すること」にあるから といっても、世の中の全員が解脱を目指すわけではない。解脱を目指すのは、出家したプロの修行者がやること
ブッダは、在家の人には違う教えを説いていた(対機説法)。在家の村人たちには、「善いことをすれば善い処に生まれ変わる。悪いことをすれば悪い処に生まれ変わる」という教えを説いた。プロの修行者には、「解脱した人はどこにも生まれ変わらない」と説いた。
人によって目標が異なるので、おのずと学ぶべきことも変わる >>983
> 他のあらゆる宗教の信者に対して受容的態度を取りうるという点で、新興宗教としてかなりよく出来ているとは言えるだろう。
日本の新宗教というのもまた、長い歴史を持つ独特な世界なんでして
金光教の信者・出口なおが大本教を創始し、出口王仁三郎が「万教帰一」(世界の宗教はひとつ)を説き始めた。でもって、大本教の幹部の谷口雅春と岡田茂吉が、それぞれ「生長の家」と「世界救世教」として分離独立。さらに生長の家の元幹部をブレーンとして、高橋信次がGLA 教団を立ち上げ。高橋信次が早死にした後、GLA 教団は分裂
初期の幸福の科学にはGLA の元信者が多く(今は違うけど)、教義はGLA から継承されたものが大半だった・・・というような系譜があって、各宗派の影響が複雑にからんでるんですわ
神道・仏教・儒教その他が混淆した日本の民俗信仰をベースに、主に仏教とキリスト教の要素を取り入れ、「世界の宗教を統一した」と称する。それが共通する特徴
後になるほど、だんだん理論的に整備されてきたのは事実でしょうな JBLさんおはようございます^_^)
ではJBLさんにお尋ねします。
「一切皆苦」とはどういう意味で、具体的な例を示してください。
本当に世の中には「苦」しかないのでしょうか? もう一つお尋ねします。
「ほんとうのしあわせ」
とは何でしょうか? >>988
一切皆苦は、生老病死です。
>>989
幸せ?
生老病死から解脱することでしょうね。 >>990
あなたはお話にならないので横槍しないでください
迷惑です。 >>991
私の目に触れた以上、批判には耐えていただきます。
問答を拒否するということは、あなたは仏教者ではありませんね。
信仰宗教の勧誘者でしょうか。
観世音菩薩を騙るんじゃない! >>988
一切皆苦とは卑近な人生の苦しみではなく
存在することで我にとらわれる煩悩の苦
輪廻の中に取り込まれて終わることのない苦
本当の幸せとは
終わりない我の輪廻の苦から解脱し涅槃へいくこと
生きとし生けるものすべてとともに
それ、すなわち空
空を言語解説するとは矛盾
言語解説そのものが我の苦で
そこから解脱することが空なのに
全くの意味不明 言葉も心の現れ、標。
知毒で以て無知毒を制す。
無、言葉は実体?即是空也。 >>988
> 「一切皆苦」とはどういう意味で、具体的な例を示してください。
「一切皆苦」も、お釈迦様がみずから定義されてますがな
「この世では、何事も思い通りにならない」という意味
具体的な例としては、「これから用事があるってのに、暑くて身体がダルくて動けねえ」とか
> 本当に世の中には「苦」しかないのでしょうか?
お釈迦様は、「ボクは人生がつらくて苦しくてたまらない。もう死にたい」とか、そういうことが言いたいわけじゃないんでして
むしろ逆で、「幸せいっぱい、夢いっぱい。ボクは長生きしたいなあ」というような人に、「いや、じつは一切皆苦なのだ。早く、そこに気づけ」という感じ
なぜかというと、この世が嫌になること。それが解脱へと向かう第一歩だから >>989
> もう一つお尋ねします。
> 「ほんとうのしあわせ」
> とは何でしょうか?
それは解脱すること、つまり、輪廻を終わらせることですな >>988
>>989
「空」の教えに従えば、「世の中には「苦」しかない」(一切皆苦)という帰結を、論理的に導き出すことができるでしょう。
「あらゆるものごとは実体ではなく(諸法無我)、現象としてのみ存在する(諸行無常)」というのが空ですが、これによれば、「一切は移ろいゆき、しかも自己ではない」ということ、すなわち「何もかも自分の思い通りにならない」ということが言えます。
そして、そこで言うところの「思い通りにならない」ということが、仏教では苦とされます。
それゆえ仏教では、「何もかもが苦である」と、すなわち「世の中には苦しかない」と説かれるわけです。
だからこそ、仏教における「ほんとうのしあわせ」とは、「そのような最悪の世界から抜け出すこと」、すなわち「解脱」だということになりますね(涅槃寂静)。
実際この世は、「生老病死」に代表されるような、誰にとっても避けようがないことばかりです。
というか、突き詰めて考えてみれば、自分の思い通りにできると断言できることなんて、どこにも見つけられないでしょう。
そして結局、われわれの苦しみというのは、そうした思うようにならない人生を、思うようにしようとすることで、生じてくるものなのではないでしょうか。
ちなみに、これ自体は、仏教において最も根本的な教え(四法印)の通りです。
空はそれを理論化したものですね(したがって当然それは言語で説明できます…空の理解は解脱に必要とされますが、しかし空は解脱とは異なるのです)。 ただ、実は、「空」の考え方からは、「では具体的に何をすれば解脱できるのか?」という問いの答えを、論理的には出せません。
しかし仏教では、抽象的な理論だけでなく、具体的な実践の方法も説かれている。
したがって、【実践を明確に語れない】ということが、「空」の弱点だと言えるでしょう(このスレでは誰も指摘してくれませんでしたが)。
そしてこれを、「空」と実践を理論的に両立させるという方向で乗り越えようとしたのが、「法華経」なのだと思います(まあ失敗していると思いますが)。 苦の一つの根源が言語です。
言語で説明する、理解することは苦のそのものです。
苦から解脱を目指す空を言語です。説明することなどできません。
わかりやすいのが公案、禅問答
あの意味不明なやりとりは言葉を破ること、
苦から解脱する練習の一つです。
苦から逃れて空を得るには、とにかく托鉢です。
死ぬまで托鉢し続けましょう。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 40日 12時間 42分 50秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。