仏教の空を解説する寺子屋 2
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こんにちは。
今から色即是空とか、般若心経などで有名な空について、簡潔に解説していきます。
巷でよく言われる、「すべては関わり合っているから空」。
じつは、これは厳密に言うと嘘、もしくは浅いんです。
空は、仕組みは簡単?なんです。では、まずざっくりと本当の空の解説をしてみましょう。
空を解説するには、先に脳の認識の仕組みをすこし説明しておかねばなりません。今から、カメラと写真で例えて解説してみましょう。
えー、被写体と写真が全く同じものだと言う人は、おそらくいないと思います。
モデルと絵が別であるように、被写体そのものと、写真が別であるのは、わざわざ言う必要もなく当然ですね。
被写体≠(ノットイコール)写真。
ここをまず覚えておいてください。
では次に、、、
あなたの脳内の映像や感覚と、認識の対象である物事は一緒でしょうか?
いいえ、違います。一緒ではないですよね?
それは、写真と被写体が一緒ではないのと同じように、脳内のものと認識の対象は≠(ノットイコール)なんです。
そして、≠なのに、私たちは脳内のものの快楽性に中毒になったり、または、憎み、嫌悪します。
仏教の空を解説する寺子屋
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1652798514/ 苦の一つの根源が言語です。
言語体系は我を中心にしている面があります。
まさに我は苦の根源です。
だから言語で説明する、理解することは苦のそのものです。
苦から解脱を目指す空を言語で説明することは矛盾です。
空は言語の外を目指します。
わかりやすいのが公案、禅問答
あの意味不明なやりとりは言葉を破ること、
苦から解脱する練習の一つです。 公案や禅問答は空の考え方に心から納得できる特殊な意識状態に至るための修行である
これを会得できれば空を言葉で正確に理解し説明できるようになり解脱に一歩近づく
空の言語的理解の欠如は無明すなわち苦の根源である
また空の言語的説明を執着と看做すことは釈尊の成道を否定することにあたる(釈尊は空を言葉で説いた) 空とかなにかの初歩的なものに、空とは無であると言うものがある
空は無ではない
無とは有で無いこと、有と無の二項対立は言語の基本だ
生と死
そして我と他
空とはこのような言語の基礎である二項対立の向こうを目指す試みだ
禅問答の意味不明はまさに二項対立を解体する練習である
空を言語です表すとは
言語の向こうを言語で表すという滑稽でしかない たとえば人間以外の生物には言語はない
しかし高度な秩序の元に生きている
高度の秩序に言語は必要ない
だから空は動物を目指せと言う単純なことではない
我と他我の向こうが空である
言語なくても到達できる
あるとできない 公案や禅問答によって解体されるのは言語ではなく認識である
何らかの意味で矛盾を許容しなければ解決できない課題と格闘してゆくことで認識の基礎である主客関係が対象化され次第に放棄されてゆく
すなわち「認識の認識による否定」が成されてゆくのである
これが成された状態こそが空の考え方に心から納得できる特殊な意識状態である
そして認識は言語と同一ではない
言語は認識に依存する
言語なくして認識はあるが認識なくして言語はない
これは言語を持たないが高度な秩序のもとに生きている生物の存在から明らかである
また言語は認識を制約はするがあくまで認識の表象に過ぎない
二項対立というものもまた認識のほうの基礎である
言語はそれを表象しているだけである
したがって二項対立を基礎としない言語は認識不可能だが存在は可能である
以上のことから空を言語で表すことは認識以前を言語で表すことである
ゆえにまったく滑稽ではない 認識と言語は同一出ないにしても言語は認識を根本的に規定する
仏教は我を滅することを目指す
我と他の二項対立の向こうだ
もし言語で空に近づくとするならば
公案においてだ
言語には論理ロジックと修辞レトリックがあるが、
公案は論理ロジックを超えて、さらに修辞レトリックをも超える
通常の言語を超えたところにある
論理ロジックとは、言語によるより正確な言語意味の伝達であり、
修辞レトリックは言語意味を超えた読み手に解釈するという行為を呼び込む
そして公案はさらに言語意味を超えて読み手の解釈する行為をも挫く混乱を生み出す
そこに空はある
言語で解釈するとは論理ロジックであり、空とはほど遠い。 もし言語の二項対立性が認識の二項対立性を規定しているならば二項対立を基礎としない言語は存在不可能である
しかし実際はそのような言語は存在不可能ではない
というのもそのような言語の存在は認識の二項対立性ゆえに認識不可能(存在するともしないともいえない)だからである
したがって「言語は認識を根本的に規定する」とは言えない
どんな公案も禅問答も論理的推論だけで解けるように作られている
修辞の解釈は問われない
むしろ文意の解釈の余地を出来るだけ狭める工夫が施されている
ただ何らかの矛盾許容論理を採用しなければ解けないように出来ているだけだ
それにもかかわらず多くの人々は修辞の解釈が問われているかのように錯覚する
この錯覚こそ空の無理解の証左なのだ
空それ自体は論理であり修辞は関係ない
もし関係があると思うならそれこそが無明である(おそらく言語を実体視してしまっているのだろう) >>9
> もし言語の二項対立性が認識の二項対立性を規定しているならば二項対立を基礎としない言語は存在不可能である
> しかし実際はそのような言語は存在不可能ではない
まあ確かに、中観派の思想を哲学的に難しく言えば、そういうことになるけど いい感じですねぇ。
用語問答が続いた明けに、語自体の問答という、、 修辞レトリックは広くは詩、俳句、短歌など、
そして公案とは言わば究極の修辞レトリックだ。
公案までいかなくとも修辞レトリックは論理ロジックに閉じることは決してない。
古池や蛙飛びこむ水の音
禅の影響も受けたと言われる芭蕉の有名な一句。
この短い修辞レトリックかいかに多くの人を魅了して無数の読解を生んだか。
コンスタティブな意味には、古い池にカエルが飛び込んで 水の音がした。それだけのことだが、
修辞レトリックはパフォーマティブな意味に開かれて、人のかず、読解のかずだけ意味があり、そしてくま尽くされることがないし、
そもそも言語意味に閉じない。
それが修辞レトリックの力だ。
公案はこの修辞レトリックの力を究極的に利用する。
言語意味の読解そのものを解体する。
言語意味を考えることの無意味さを示す。
禅問答例
Q 「仏陀とは誰か、また何か」
A 「たわごとを言うな」 言語意味に閉じない故にその空いた底なしの穴を閉じようと人は懸命に運動する。
修辞レトリックとは人を動かす力を持つ。
公案はこれを活用する。
当たり前の日常、当たり前の言語意味、あまり前の我と他の二項対立に、底なしの穴を開き、人を動かす。 >>9
> もし言語の二項対立性が認識の二項対立性を規定しているならば二項対立を基礎としない言語は存在不可能である
> しかし実際はそのような言語は存在不可能ではない
ブッダの教えを、龍樹が定式化したのが、「不常不断の中道」だ
「人は生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する実体である」
↑このような見方を「常見」という
「人は死ねば終わりだ。消滅して何もなくなる」
↑このような見方を「断見」という
この両極端から離れよというのが、不常不断の中道
これこそ、「二項対立」の中でも、最も重要なものだろう その言い方でいくと、「空」の教えは「非有非無の中道」ということになる
これまた、中観派のコアとなる理論 公案って一人で取り組めるものではないですよね
師家と問答されたのですかね まあ言語は何も問題ないですけどね
修行において集中力を高め禅定状態なり
高度で高速な観察状態を作るのに役立つなら
存分に使えば良いし
逆にいつまでも論理で理解できないだろうかと
こねくり回して一向に集中力も深まらないままなら
百害あって一利なしってところかと
言語を使うのが良いところは
人間は既に色々な価値観や意味を言語に紐づけていて
ブサイクとか貧乏など 唯の記号なのに
心が容易に反応するので優秀な先生にとっては
簡単に生徒を追い込むことができるってことです
教えを説く立場に立ってみると
絶対に外せない道具の一つ
ある生徒には殆ど言葉は要らず
ある生徒にはくどくどウンザリするほど言葉が必要
なんてこともあるので
困った生徒をいかにして追い込む(沈黙)かが
先生の腕の見せ所なんでしょうけど 言葉はパソコンのOSのようなもので
そしてそのOSである以上苦でしかない
空はこのような問題意識の元にある
いかにこのOSを超えるか
空とは言うものをこのような次元でとらえないと意味がない
空を言葉で論理的に表すとか 空は認識以前の論理を示す言語である
また公案や禅問答は空の言語的理解を促す言語である
そして公案や禅問答はその定義からして空なしには考えられない
したがって公案や禅問答は認識以前の論理を示す言語でもあると考えられる(ただし空と同一ではない)
空のような何らかの論理を直接的に示す言語は理論と呼ばれる
公案や禅問答のような何らかの論理を間接的に示す言語は知識もしくは方法と呼ばれる(もっとも公案や禅問答は知識とは呼ばれないだろうが)
ところで修辞なき言語は不可能である
ゆえに空も公案も禅問答も必ず何らかの修辞を纏う
しかし一方でそれらは纏う修辞の如何にかかわらず認識以前の論理を示す
それゆえそれらは論理的修辞であると言える
学問と呼びうる言説は論理的修辞でありそしてそれのみに限られる
したがって非論理的修辞を学問と呼ぶことは学問の破壊である(もちろん空や公案や禅問答のような論理的修辞を非論理的修辞だと誤解することもこれに該当する) 認識以前の論理を示す言語?
もはや言単なる葉遊び
STAP細胞はあります!だな 禅問答例
Q 「仏陀とは誰か、また何か」
A 「たわごとを言うな」 知を語るときに言語に、論理にこだわる必要はない
知には言語化された知と言語化されない知がある
たとえば自転車に乗るとき、どのような身体を動かし自転車を操り乗っているか言葉で説明することはできない
たとえば日本語を話すとき、言語化された日本語のルール、法則を理解して話しているわけではない
これらの言語化されない知は繰り返しの訓練、経験により身体が身につけた知だ
暗黙知などと呼ばれる
現代の言語論においてはいかなる知も、論理的に基礎付けされず、最終的には言語化されない身体知を基礎としていることが知られている
空は言語化された知の向こう、さらには経験による身体知をも、作り替えることを求める
空とは、我があり他があると言う知を越えていかなければならない
空の一つの形、大慈悲に達するため 慈悲心に三種あり。(すなわち)衆生縁(衆生を縁とするもの)と法縁(法を縁とするもの)と無縁となり。
凡夫人は、衆生縁なり。声聞・辟支仏及び菩薩は、初めは衆生縁にして、後には法縁なり。
諸仏は、善く畢竟(ひっきょう)空を修行するが故に、名づけて無縁となす。
大智度論 もちろん認識以前の論理を肯定的に「語る」ことは不可能である
それを可能とすることは認識以前の論理を実体視することに他ならない
しかしそれを否定的に「示す」ことは可能である
それを可能としたところで認識以前の論理の存在が仮定されるだけなのだから 空は言語だが、
言語は分別だという、またここでは二項対立と定義した方がいる。全てがそうだという根拠は?
どのような用法を用いてもそうなのだろうか? >>24
否定的にも肯定的にも何らかの取っかかりがなければ
形而上学でさえない神話 >>25
言語のすべてではないが、言語認識の特徴の一つとして形而上学的二項対立があげられる
有と無、生と死、白と黒、我と他
たとえばちかいものに有名なソシュールの言語論に差異の体系がある
ものそのものよりも、他との違いとして、認識することに言語認識の特徴がある。
仏教の基本が無我、すなわに我と他の対立を取り払うことあるときに、言語認識が元凶と考えることは当然だ。
言語学的なアプローチとして、公案が編み出される。 >>27
すこし整理したらいいと思って問いを重ねるのですが、
空の対立項は何ですか? >>28
空に対立項はないです
言語の二項対立を超えた向こう側なので 歴史的言うと、
中国に仏教が伝わったころ、
中国には高度な知として、老子思想、無の思想があって
空と無は同じものと理解されたそうですが、
無は有との対立ですが、
空はそのような対立を越えることをときます。 >>29
それならば、二項対立でない言語(少なくともその可能性)が在り、そこに疑念や問答が起きない言語的アプローチが可能で、禅宗はそこへ向けて分別しまくるんじゃないですか? スプーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。
すなわち、スプーティよ、およそ生きもののなかまに含まれているかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれたもの、みずから生まれ出たもの、
形のあるもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでもなくないのでないもの、そのほかの生きものもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、
それらのありとあらゆるものを、わたしは、<悩みのない永遠の平安>という境地に導き入れなければならない。
しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実はだれひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはないと。
それはなぜかというと、スプーティよ、もし求道者が、<生きているものという思い>をおこすとすれば、もはやかれは求道者とはいわれないからだ。
それはなぜかというと、スプーティよ、だれでも<自我という思い>をおこしたり、<生きているものという思い>や、
<個体という思い>や、<個人という思い>などをおこしたりするものは、もはや求道者とはいわれないからだ。
金剛般若経 >>31
公案を見ればわかるように
論理破綻してるし
そもそも言語破綻しています
空をいたるためには言語を破綻させる必要がある
それが公案の目指す方法論です。 >>32
それはなぜかというと、スプーティよ、もし求道者が、<生きているものという思い>をおこすとすれば、もはやかれは求道者とはいわれないからだ。
それはなぜかというと、スプーティよ、だれでも<自我という思い>をおこしたり、<生きているものという思い>や、<個体という思い>や、<個人という思い>などをおこしたりするものは、
もはや求道者とはいわれないからだ。
金剛般若経 >>32
もはや求道者とはいわれないからだ。
金剛般若経 また言うまでもなく論理は万能ではない
倫理は論理で割り切れるものではありえない
もし倫理が語られるとすればそれは修辞によるはずだ
しかしやはりその修辞は論理的修辞でなければならない
それも認識以前の論理を示す修辞でなければならないのである
そうでなければその語りは倫理ではなく宗教になってしまうのだから >>36
論理的修辞とは?
空は倫理でも宗教でもありません。
技術です。
仏教とは救済の技術です。 論理と宗教の、近代西洋哲学的な二項対立に陥っているようですね。 >>26
もっと精密に語ってくれないと意味分からん。 >>33
破綻して目指せるのは、それが閉じた言語空間に属するからじゃないですか?
(ちと用事で離席) 空は倫理でも宗教でもなく理論である
はじめから倫理だとも宗教だとも言ってはいない 言語を苦の根源とすることこそ近代言語学の盲信だろう
釈尊が苦の根源としているのは無明であって言語ではない >>41
>>22に書いたように知は、言語化できるものに限りません。
空は知であり技術ですが、言語の向こうの、言語と言う稚拙な技術では表せない知です。
それに近づくために、言語知には凝り固まった頭を、混乱させることが公案の目的です。
言語に囚われるな
その向こうへ >>43
近代言語学は苦について語っていません
釈迦は空について直接語っていません >>46
反論になっていませんのでもう少し精確に。 >>47
空がいつ成立したかは難しい問題です
釈迦の教えにそれに近いことはありましたが
空を明確に突き詰めたのはずっと後のことかと >>48
ですから、反論はもっと精確に。
どうしてそれが言語が苦の根源である(あるいは言語の二項対立性が認識の二項対立性を規定している)ことの論拠になるのですか? >>48
ですから、反論はもっと精確に。
どうしてそれが言語が苦の根源である(あるいは言語の二項対立性が認識の二項対立性を規定している)ことの論拠になるのですか? >>50
これだけ書いて、もう一回同じことを書きますか、 >>51
いや、ご自分に対する反論に未だに的確に再反論出来ていないのは、あなたですよね?
今まであなたが書いてきたことのどこにちゃんとした再反論があったんですか?
なんか独断的かつ魔術的な見解を散布されているようにしか見えなかったのですが。 混乱してきましたね
整理してみます。
では質問をもう一度お願いします。 というか、言語で説明するのが苦なら、まずお前が一番最初に黙ってろという話だよな。 こちらの質問を繰り返すと
認識以前の論理を示す言語がある根拠は?
論理的修辞とは?
空は倫理でも宗教でもなく理論である、と理論とは? >>54
仏教における苦とは卑近な苦ではなく、
生き物として存在することそのものの苦です >>55
すべて過去のレスに定義ないし説明があるかと思いますが。
あといい加減、なぜ言語が苦の根源だと言い切れるのか、すでに述べられている反論に答えられる仕方で説明してもらえますか? >>57
こちらも説明したと思っていますが、
混乱をさしているようですね
お互い再度質問してそれに答えましょう >>56
別に何も語らなくても生物として存在は出来ますよね。
それなのになぜそれが仏教的な意味での苦(思い通りにならないということ)に該当するのですか? >>58
では、私はあなたからの的確な回答がない限り、一切回答しません。
というのも、あなたの主張はすべて、私の質問にきちんと回答できなければ、瓦解するものだからです。 え…なんですか?
もしかして「対話」ではなく「勝負」を目的に議論していたんですか?
それだけでかなりドン引きなのですが… 折伏や破邪顕正でしょう
そもそも中論は論破の教えと中村元博士の龍樹に書いてある いやいや、明らかに中論(空)とはかけ離れた考え方(言語の実体視)をブチ上げて、痛い反論を喰らって再反論も出来ていないのに、折伏したって…意味分からん。 しかしなかなかひどいな
言語、論理、修辞、論理
それぞれの知識ないんだろうな
めちゃくちゃ
認識以前の論理を示す言語がある
論理的修辞
空は倫理でも宗教でもなく理論である 言語の二項対立と公案
言語のすべてではないが、言語認識の特徴の一つとして形而上学的二項対立があげられる
有と無、生と死、白と黒、我と他
たとえばちかいものに有名なソシュールの言語論に差異の体系がある
ものそのものよりも、他との違いとして、認識することに言語認識の特徴がある。
仏教の基本が無我、すなわに我と他の対立を取り払うことあるときに、言語認識が元凶と考えることは当然だ。
言語学的なアプローチとして、公案が編み出される。
公案を見ればわかるように
論理破綻してるし
そもそも言語破綻しています
空をいたるためには言語を破綻させる必要がある
それが公案の目指す方法論です。 知は言語を必要としない
知を語るときに言語に、論理にこだわる必要はない
知には言語化された知と言語化されない知がある
たとえば自転車に乗るとき、どのような身体を動かし自転車を操り乗っているか言葉で説明することはできない
たとえば日本語を話すとき、言語化された日本語のルール、法則を理解して話しているわけではない
これらの言語化されない知は繰り返しの訓練、経験により身体が身につけた知だ
暗黙知などと呼ばれる
現代の言語論においてはいかなる知も、論理的に基礎付けされず、最終的には言語化されない身体知を基礎としていることが知られている
空は言語化された知の向こう、さらには経験による身体知をも、作り替えることを求める、 空は倫理でも宗教でもありません。
技術です。
仏教とは救済の技術です。 修辞レトリックは広くは詩、俳句、短歌など、
そして公案とは言わば究極の修辞レトリックだ。
公案までいかなくとも修辞レトリックは論理ロジックに閉じることは決してない。
古池や蛙飛びこむ水の音
禅の影響も受けたと言われる芭蕉の有名な一句。
この短い修辞レトリックかいかに多くの人を魅了して無数の読解を生んだか。
コンスタティブな意味には、古い池にカエルが飛び込んで 水の音がした。それだけのことだが、
修辞レトリックはパフォーマティブな意味に開かれて、人のかず、読解のかずだけ意味があり、そしてくま尽くされることがないし、
そもそも言語意味に閉じない。
それが修辞レトリックの力だ。
公案はこの修辞レトリックの力を究極的に利用する。
言語意味の読解そのものを解体する。
言語意味を考えることの無意味さを示す。
禅問答例
Q 「仏陀とは誰か、また何か」
A 「たわごとを言うな」
言語意味に閉じない故にその空いた底なしの穴を閉じようと人は懸命に運動する。
修辞レトリックとは人を動かす力を持つ。
公案はこれを活用する。
当たり前の日常、当たり前の言語意味、あまり前の我と他の二項対立に、底なしの穴を開き、人を動かす。 空とかなにかの初歩的なものに、空とは無であると言うものがある
空は無ではない
無とは有で無いこと、有と無の二項対立は言語の基本だ
生と死
そして我と他
空とはこのような言語の基礎である二項対立の向こうを目指す試みだ
禅問答の意味不明はまさに二項対立を解体する練習である
空を言語です表すとは
言語の向こうを言語で表すという滑稽でしかない スプーティよ、ここに、求道者の道に向かう者は、次のような心をおこさなければならない。
すなわち、スプーティよ、およそ生きもののなかまに含まれているかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれたもの、みずから生まれ出たもの、
形のあるもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでもなくないのでないもの、そのほかの生きものもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、
それらのありとあらゆるものを、わたしは、<悩みのない永遠の平安>という境地に導き入れなければならない。
しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実はだれひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはないと。
それはなぜかというと、スプーティよ、もし求道者が、<生きているものという思い>をおこすとすれば、もはやかれは求道者とはいわれないからだ。
それはなぜかというと、スプーティよ、だれでも<自我という思い>をおこしたり、<生きているものという思い>や、
<個体という思い>や、<個人という思い>などをおこしたりするものは、
もはや求道者とはいわれないからだ。
金剛般若経 愚痴は吐き終わりましたかね?
そろそろ笑い疲れてきましたので、いい加減、>>9や>>31への反論を、精確にお願いしたいのですが。 >>74
私はあなたからの的確な回答がない限り、一切回答しません。
というのも、あなたの主張はすべて、私の質問にきちんと回答できなければ、瓦解するものだからです。 >>75
そうですか。
私の主張のほうは、あなたの質問に回答しなくても、瓦解することはないと思いますけどね。
なぜなら、あなたの私に対する質問は、すべて用語の意味の確認であって、反論ではないですからね。
おまけに、すべてレスから読み取れるものですし。 どこの所属なの?
居士禅なのか出家僧侶なのか
禅は座らなきゃ学問にしかならないし他人を納得させることも出来ない >>77
>>2はたぶんその道の人ではないでしょうね。
おおかた、ソシュールみたいな言語学特有の考え方を、そのまま世界の真理だと思い込んじゃったタイプの、哲学的に浅い人なんだろうな、とは思いますが。 >>76
では
こちらの質問を繰り返すと
認識以前の論理を示す言語がある根拠は?
論理的修辞とは?
空は倫理でも宗教でもなく理論である、と理論とは? >>79
すべてレスに書いてあります。
先ほどと同様の理由で、指示はしません。 …というか、そんなのは本質的論点ではありません。
すごく簡単に言ってしまえば、肝心なのは、「言語が先か認識が先か」というところであり、そしてそれだけです。
そしてその点について私は質問しているのです。
だから、あなたが答えない限り、対話が前に進むことはないと思います。 なぜしつこく聞くかといえば、
ようするに、言語、論理、修辞、理論とはなにかの
これがわかってないから
言ってることがおかしいし
説明してもわからないし
話がズレるわけです 「言語による二項対立を克服」というのは、確かにその通り。それが中観派の言語哲学なのは確か
でも、もっとシンプルに考えたって大丈夫
たとえば、「不常不断の中道」だ >>83
そういうことです
言語とはなにか?認識とはなにか? おおむね一般的な意味ですし、そうでないものはきちんと定義してありますし…
もうちょっとよく読んでください、としか。 >>87
いや、ですから、それは別に、一般的な哲学用語ですが… >>88
一般的な意味だとすれば、とても曖昧なもの
そこを盾にとって逃げ込んでも仕方ないですよ
まずはそこから出てきなさい 「ボクには永遠の魂がある。善いことをすれば天国に往ける。永遠の魂修行を通じて、霊的に進化していくんだ」(常見)
↑在家の凡人ならそれで良いが、修行者の考えることではない。
「ボクは長生きしたいなあ」もダメだが、「死んでも永遠に生きていきたいなあ」はもっとダメ
かといって、「人間は死ねば無になるんだ。あの世は無いし、生まれ変わりもない」(断見)ならいいかといえば、これもダメ。これも修行者の取るべき見方ではない >>86
言語の二項対立性は認識の二項対立性によって規定されるので、「言語による二項対立を克服」とは言えないでしょう(>>9参照)。 >>90
いやいや、ですから、辞書的な意味だ、ということなのですが…
むしろ言葉の定義を曖昧にしてきたのはあなたの方だと思うのですが(質問していないだけで意味不明な用法いっぱいありますよ)。 でもって、常見でも断見でもない、「不常不断の中道」が正しい見方なわけだが
ここで見落としてはならないのは、「常見と断見のどっちも同じくらい間違っていて、足して2で割ったくらいの中間が正しいのだ」・・・というわけでは、必ずしもないということだ
常見と断見のうち、どちらがまだマシなのかはハッキリしている。どちらかといえば、常見のほうがまだマシだ
断見は、話にならない。常見より断見のほうが、間違ってる度合いが甚だしいと位置づけられている >>92
だから言語の定義も、認識の定義も、一般的な意味でしかなく曖昧なのに
そんな哲学的な限界議論は不毛です そもそも公案の話をつらつらと語る位なのだから初関は透過しているの? >>93
辞書的な意味は漠然とした曖昧な意味でしかないですよね 「人は、死ねば無になる。だから、生きてる間は精一杯に生きよう」
・・・実存主義哲学の人生観だ
こういうのが、断見だ では話を元に戻して
空は言語で解説することはできるか? >>95
?????
「哲学的な限界議論」ってどういう意味ですか?
私はただ、「私のそのレスに出てくる「認識」や「言語」という語は、普通の国語辞典に載っているような、世間一般に広く受け入れられた意味で解釈してください」と言っているだけなのですが… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています