日本人の自己肯定感の低さの原因
日本人の自己肯定感の低さの原因は宗教が無かったり、周りのみんなとほとんど同じ肌色、体格でみんなと同じを求められたりしているなどがあると思う。 宗教が無いので何を信じれば良いのか分からなくて結果的に自己肯定感の低さになったりもするんではないだろうか? ■自分で考えることをやめてしまう 子ども教育のプロフェッショナル養成に携わる白梅学園大学教授の増田修治先生によると、 子どもの自由を尊重している “つもり” の親は、ダブルバインドによって子どもの心を縛りつける傾向があるそうです。 とくに自身が高学歴であり、子どもにも学歴の高さや良い就職先を望んでいるような親に、その傾向がよく見られるといいます。 たとえば、「自分が行きたい高校を選びなさい」と寛容なフリをしていても、いざ子どもが選んだ高校が気に入らないと 「ちょっと偏差値が低すぎるんじゃない?」と否定してしまう親は、無意識のうちに親の価値観を刷り込ませようとしているそう。 ―――――――――――― 「今の子は、空気の読めないKYなヤツと思われたくない気持ちが強いため、ヒドゥン(隠された)メッセージの影響を色濃く受ける。 ダブルバインド親に育てられた子どもは、親に反抗できず、自分の気持ちや意思がわからなくなる傾向がある」 (引用元:AERA dot.|「教育毒親」ダブルバインドで子どもの思考停止も) https://dot.asahi.com/aera/2014091600051.html ―――――――――――― 親が思っている以上に、子どもは親の言葉に隠されたメッセージに気づいています。 そして “空気を読んで”、自分の意思よりも親の願いを優先してしまうというわけです。 ■自己肯定感が低下する 増田先生は、「ダブルバインド親は、じつは条件付きの愛情を提示している」とも指摘しています。 「勉強ができるあなたが好きよ」や「運動が得意なあなたが好きよ」といったメッセージを無意識に送っていることが多く、 それに気づいた子どもは「勉強(運動)ができなくなったら見捨てられちゃうかも……」と思い、健全な自己肯定感を持てなくなってしまうのです。 勉強や運動ができなくても、ありのままのわが子が愛おしいということは、 あまりにも当たり前すぎてわざわざ伝える必要がないと考えていませんか? 子どもの自己肯定感を伸ばすためにも、親だからこそ気づいてあげられる わが子のすばらしいところを、子ども自身にちゃんと伝えてあげましょう。 子どもの自己肯定感が低下する「ダブルバインド」。“条件付きの愛” は危険です https://kodomo-manabi-labo.net/double-bind ダブルバインドになってしまうのは、子どもが自分の思った通りに動かないことや、 「わが子はこうあってほしい」という理想の姿からかけ離れてしまったことによる失望も関係しています。 しかし、そもそも子どもは予想外の選択をするもの。 自分が求めていた答えを返してくれなくても、まずは受け入れてあげることが大切です。 お分かりいただけるだろうか? 子どもをコントロールしようとするがゆえに条件付き承認を利用して、子どもをカテゴライズする。 親の親としてのポジション、そして他人からの承認を得ることが目的と化してしまっている。その典型が”ママ友カースト”だ。 https://assets.st-note.com/img/1638195940990-iy8uTj9BoJ.png 子どものために育児をするのではなく、自分のポジションのために育児をしているようなものである。 そして子どもを「勝ち組」にできなければ、親としての自分は「負け組」になる、という不安が、この傾向を駆動する。 このような状況で子どもに自尊心が芽生えることはないだろうが、現実はこのようにして「負け組」を自認する人間が量産されていく。 福田恒存著『日本および日本人』より「距離感の欠如」 −−−−−− 私は前章で、西欧思想の根本をなすものが絶対者の観念であることをいひました。 しかし、これは多くのひとに誤解をいだかせるにちがひない。 絶対主義といふのは、むしろ日本のお家芸ではないかと反問するひとがでてくるでせう。 江戸時代における忠孝の観念、明治以後における皇室中心主義、それにともなふ、 あるいはその根底をなす狂熱的な超国家主義、そして戦後の占領下における共産主義においてさへ、 日本人の態度は、あまりに一辺倒であって、それこそ絶対主義のにほいがするといへないことはない。 なるほど、これこそ絶対主義であります。が、それは、いわば絶対主義者のいない絶対主義にほかなりません。 たんなる相対的な存在を、いひかえれば、私たち個人と同列にあるものを、強いて絶対者と見なさうとしているにすぎない。 もつとも、相対的なものを絶対的なものと混同し、絶対者の欠けているところに もちだされる絶対主義こそ、ことばの真の意味における絶対主義でありませう。 さういう点からいへば、西欧の生活態度を支える絶対者の思想は、 むしろ真の意味において徹底せる相対主義というべきものでありませう。 相対的な現実の世界の上に絶対者を設定して、その両者を操り、生活を推進せしめるといふわけです。 別のことばでいへば、理想と現実との使ひわけであります。 かれらは単純な理想主義者として現実を遊離することもなく、また単純な現実主義者に堕することもない。 かういふ二元論的人生態度は、中世のカソリシズムによって完成されたものでせう。 その源であるユダヤ教にはもちろん無かつたものですし、イエスの思想そのものにも 十分に現れていたとはいへない、それはあくまで、ゲルマン民族のよつて完成された世界観であります。 さて、ここにひとつの平面を仮定してみます。それが相対的な現実の世界です。 この平面を離れた、そしてこの平面とは直接につながらぬはるか上空に、ひとつの点を想像してみます。 それが絶対者です。幾何学的にいへば、前者の平面と後者の点と、両者を含むことによつて三次元の立体的な世界ができあがります。 この点と平面とを結びつける梯子(はしご)があるかないかで、人間の生き方は、ずいぶん変わつてくるでせう。 すでに十分でありますが、相対的な、あまりに相対的な私たち日本人の生きかたは、 私たちがこの梯子をもっていないということに、あるいはそれが脆弱すぎるということに帰せられます。 その結果、どういふことになるか。 一口にいえば、立体感、距離感、分離感の喪失です。 そのことは私たちの文化のあらゆる領域についていへるし、容易に立証できませう。 極端にいふと、日本人は空間の一点に結びつく梯子をもつていないどころか、大地から両手を離して立ち上がることさへおぼつかない。 四足獣なみに四本の足で歩いているとさへいへます。 なるほど物質文明はすぐ輸入できるし、ジェット機を乗りまはし、ロケットを設計して、この大地から絶縁することは容易でせう。 しかし私たちの人間関係はどうか。飛行機のやうにかんたんにはまいりません。 人間関係に関するかぎり、私たちは依然として大地を這いずりまはつております。 友情も恋愛も母性愛も、すべての人間的交流が大地に密着したままで行なわれているし、また、さうあらねば気がすまないのです。 二人の人間がそれぞれ独立した個体として、大地のうへに立ちあがり、向ひあつた両者間に 一定の距離をおいて、相手におたがひの領域を侵すことなくつきあふのではなく、両者の壁を とりのぞき、液体のように溶融して窪地によどんでいるような友情を欲するのであります。 恋愛の初期におけるやうに、相手との間に距離を見出すと、不安と焦燥を感じて、これを埋めようとする。 ひとびとは、この衝動ないしは操作を「理解」と呼んで、近代的かつ知的な意匠をほどこしますが、 結局のところ、個人相互間の距離といふものにたいする恐怖感にほかなりません。 平たくいへば、日本人は「さびしがりや」だといふことになりませう。 ひとびとは自分がひとりの人間として孤立することを恐れているのです。 この自衛本能をクリスト教倫理における「愛」と混同してすますわけにはいきますまい。 ここで問題になるのは、つぎの問題です。 相手を突き放し、自分と他人との間にあくまで距離を置かうとする西欧の冷酷な個人主義が、 なぜ「愛」の思想と道を通じているのか、その反対に、距離と孤立とを恐れ、自他の未分状態のままに とどまらうとする穏和な仲間うちの道徳観が、なぜ自衛本能にしか道を通じていないのか。 さつきの点と平面との幾何学はかういふことを教えてくれます。 上空の点を欠いた平面だけの世界では、あたかも、森に入つて森を見ざるごとく、遠見がききません。 私たちにとって、他人といふのは、すぐそばにいる隣人といふことにすぎない。 他人とつながるといへば、その隣人とつながるといふことしか意味しません。 他人との縁が切れれば、その向うにいる多数者である赤の他人とは、どうにもつながりやうがないのです。 さうなれば、個人はそれぞれ孤立します。さびしくてたまらない。 それに反して、もし上空の一点とのつながりを得さえすれば、各個人は、 それぞれの隣人を飛び越えて、遠く広く、他の多くの人間とつながることができるのです。 もちろん、その一点が万人共有のもので、ひとりひとりがその点に結びつけられているといふ前提のもとにおいてであります。 さうすれば、めいめいの個人の間に直接の線が引けなくとも、上空の一点を経て、どこにでもつながる可能性が出てきます。 個人は平面上では孤立していても、間接には孤立していないといふことになります。 個人主義が発生しうるわけであり、また個人主義にたへうるわけでもあります。 遠見をきかすといふこと、対象と間接につながるといふこと、この二つの生き方が、 私たち日本人にもつとも欠けているものですが、すでに何度もいつたように、 それは私たちの「前近代性」とか「封建制」とかいふもので説明できるものではありません。 西欧においては、近代以前において、封建時代において、すでに個人主義を成立させる素地ができていたのです。 彼我のちがひは、先進国と後進国とのそれのみに帰しがたい。 あへて較べるなら、西欧と日本とでは、封建時代そのものが、中世そのものが、内容を異にしていたといふべきでせう。 中世の西欧においては、すでに全体を意識し、全体を把握しようといふこころみが完成してをりました。 そのためには、遠見をきかす必要があり、対象に間接に結びつく必要があつたのです。 梯子にのぼらなければ、全体は見とおせませんし、上空の一点から対象を間接に位置づけしなければ、全体像は形づくれません。 いちいち対象と直接交渉をしていたのでは、遠近感も立体感も消滅し、私たちは その対象とともに、たんなる部分として地中に埋もれていなけれがならぬでせう。 さういふことが、私たち日本人にとつては、愛情であつたのです。 おのれを空しうして自然や対象のうちに埋没すること、それが私たちの理想でした。 だが、私は、さういふいひかたにも疑問をもつのです。 「おのれを空しうして」といふことばには、激しい意思がひめられています。 そして、それはクリスト教の自己放棄や自己犠牲と通じるひびきをもつています。 しかし、大部分の日本人に、はたして空しうせねばならぬほど強いおのれがあつたかどうか。 考へてみると、上代仏教の無常感や禅宗の没我思想は、一部の知識階級が海のかなたから 輸入したもので、かれらの必然性に沿つて日本化されたとはいふものの、結局は 自他未分状態の神道的生活態度にうまく包みこまれてしまつたものにほかならないのではないか。 さうひふ疑問が湧きます。 知識階級においても、滅却しなければならぬほど強い自我といふものが、はたして意識されていたかどうか。 大いに疑わしいとおもひます。意識されていたにしても、それはたんに観念的なものにすぎなかつたのではないでせうか。 明治以来の日本の知識階級が、西欧思想のまへに頭をさげたのとおなじことではないでせうか。 自己を超える人類愛とか、ヒューマニズムとか、国家や、階級にたいする愛とか、さらには世界連邦などといふ 観念を信奉する気もちとか、そべて容易に自我を棄てる道に突き走る心理とおなじだつたのではないでせうか。 その良し悪しは別として、そこには棄てるべき自我は、まだ確立されていないやうにおもはれます。 個人にせよ国家にせよ、そこには一度確立された自我の孤立感といふものが見られない。 他の民族や他の階級にたいして、それと自分とを隔てる距離が見えぬままに、べたべたと吸ひついていく。 さういふ感じがします。時の流れにたいしても同様です。 時流と自分との間の距離が見えない。ですから、じつに安易に時流に乗ります。 この時流とともに動く浮薄さは、ずるいとか無節操とかいつて責められるのですが、私は、さういふことこそ日本人的だとおもひます。 かれらには、べつに悪いことをしている意識はないのです。 他人や自分をいつはつているともおもつていないのです。もつとすなほな気もちではないでせうか。 かれらは人をだましているのではなく、むしろ時流にだまされているのです。 つまり時流と自分との間の距離が見えないのです。 思想についても同様のことがいへます。 洋の東西を問はず、この小さな島国に流入してくる思想をかたはしから消化していく。 といふとていさいがいいが、それぞれの思想がいかに自分と遠い距離があるか 見わけがつかず、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。 それらを、自分が考えていたもの、あるいは自分が欲していたものとおなじものだともひこんでしまふ。 自分とのちがひに気づき、自分との間に一線を引き、それが自分の肌にべたりと 貼りついてくるのを避けながら、しかも、それを操るといふことを知らない。 もちろん、相手が思想であろうと生きた人間であらうと、こちらから入れて あげなければ、ほんたうには身につかないことは、いまさらいふまでもありません。 それを承知のうへで、私は、対象との距離感の喪失を、私たち日本人の弱点と見なさざるをえないのです。 私小説といふものも、その芸術的価値を不問に附していふなら、やはり同様の弱点から生じたものであります。 私たち日本人は、芸術と生活との間に距離をつくる生き方を知らないのです。 芸術は生活のうちに、あるいはその逆に、生活が芸術のうちに含まれてしまなけれが気がすまない。 両者を自分から離して、それぞれ相対的な価値として位置づけるためには、その上に絶対者がなければならず、 それが無い以上、自分と芸術と生活とのうちいづれかを絶対者としなければとても白々しくて生き切れない。 そこで三者一体の三昧境といふものを絶対的境地とせざるをえなくなるのです。 さうなれば、作者は作品を自分の皮膚から分離して造りえないでせうし、 読者もまた作品を自分の生活から離して楽しく読むことができないでせう。 いたるところに距離の消滅、というよりは、積極的な絶滅作用が働くのみです。 禅がさうであるように、私小説も野狐禅に堕さねばならぬ必然性をもつているのです。 野狐禅においては、最初から有りもしない自我を扼殺したような疑似操作を大仰にやって見せる。 あるいは最初からの生臭坊主が悟りを通過して融通無碍(むげ)の大市井人になつたような身ぶりを見せる。 私小説も同様な道を辿らざるをえないものなのです。 文学ばかりではありません。 もつと根本的には、私たちの用いる日本語が、これはことばの洒落ではないが、言語学上でいふ「謬着語」であります。 謬着語とはなにか、わざわざ説明するまでもありませんが、話の筋道として必要なことだけ申しませう。 まづ日本語では分ち書きがむづかしい。 たとへば英語では一語一語が独立していて、しかもその間になんのつなぎもなく一文を構成します。 ”I hate you"のごときです。 これを日本語でいへば、「私は君を憎む」「私は君が嫌いだ」となり、 「私」「君」「憎む」といふ言葉のあひだに「てにをは」を挿入しなければなりません。 さういふ日本語を英語のように分ち書きをしようとしてごらんなさい。 どこでどう切つていいか、わからなくなるでせう、「私は 君を 憎む」とすべきか、「私 は 君 を 憎む」とすべきか。 この程度なら、まだかんたんですが、「別れを惜しみて飲みにけり」となると、 「別れ を 惜しみ て 飲み に けり」と書いて、はじめて品詞を分かちうるのですが、これでは読みにくくてしかたありません。 日本語自体が分離のききにくいことばなのです。 そこで、私たちの祖先は漢語を借りて、なんとか分離をきかさうと試みたのです。 明治以後の作家でも同様で、西欧的な分離のきいた思考法を身に つけようとすると、漢語を借りねばならぬ必然性があつたといえませう。 なぜなら日本語は名詞を造りにくい。動詞を名詞化することがむづかしい。 連用形か「……すること」とやるしか方法がない。 それを避けるために、漢語を用いるのです。 なぜそれを避けるかといえば、動詞の連用形は独立したことばとしての強い枠をもちえないからです。 「……すること」も冗漫で、独立性がありません。 そもそも、動作や作用、さらに人間の抽象的な営みを名詞化しようといふ働き そのものが、主体である自分を対象から分離し、距離を作ろうとする衝動なのです。 日本語にさういう性格が乏しいことは、日本人にさういふ心理が欠けていることの現れといえませう。 日本語の分離がきかぬ性格は、またその文章構成法にもうかがふことができます。 主部と述部、主文と従属文の関係が立体的に組み立てられず、低く地を這うやうに延々と伸びつづくのです。 西欧の言語では、だいたい最初に根幹たる主文をだし、枝葉になる副次的なことを附加していきます。 最初に主文が設定されているので、いくら伸ばさうとしても限度がある。 それが日本語ですと、動詞の終止形が最後にくるまで、どこへでも寄り道していけます。 話しことばですと、この特徴がことにはなはだしく、ラジオの座談会など、主語と述語の関係がわからなくなり、 文脈が乱れ、曲がりくねつて、文章が途中でとぎれたり、途中から新しくはじまつたり、主文だの 従属文だのと、さうはつきりしたことはいへない状態です。それでいて、いつていることはわかる。 しかし、それは音声や表情をともなつた、耳で聴くことばとしてわかるので、それをそのまま 文字に書き表してみると、たいていは酔漢がくだを巻いているやうな文章にしかなりません。 一定の場と、話し手から独立しにくいことばなのです。 同時に、それは地を這うやうに部分部分の真実性を伝へても、それらの部分を 位置づけする全体の見とほしに達することが出来ない性質のものであります。 以上、私は「日本および日本人」の生きかたを欧米のそれと対照して語つてまいりました。 おそらく読者のうちには、私が最初は日本の長所を語りながら、あとになるにしたがって、 その短所を指摘しているという印象を、しかもその長所と短所とが結局はひとつことの 表裏をなすもので、どうも割り切れないという感じをいだいたひとが多いとおもひます。 が、はじめからお断りしているやうに、私は西欧と背くらべをしているのではない。 どこの民族でも、長所がそのまま短所になります。 「では、どうすればいいんだ」と諸君はいふかもしれません。 もちろん、私はどうすればいいかをお教えしようとおもつて、この文章を書きはじめたのではありません。 ただ彼我の差をはつきり認めることを、諸君に求めているだけです。 同時に、ああすれがいい、かうすればいい、と言った式の、ここ何十年来、 ことに戦後に流行をきはめた、一切の指導的言説を信じるなと申しあげたいのです。 さういふ景気のいい理想主義的な合言葉からはなにも生まれはしません。 そのまへに、まづ自己の現実を見ること、それからさきは、ひとりひとりの道があるだけです。 いや、ひとりひとりの道しかないといふことに気づくことが、なによりも大事だとおもふのです。 私がいひたいのはそれだけです。 そのために、私たちは、ほんたうの意味の個人主義を身につけなければなりません。 しかし、これは誤解をまねきやすいいいかたです。 まはりくどくいへば、その個人主義を身につけるといふことも、あくまで個人主義的にしなけれがならない。 なぜなら、戦前においても西欧にまなぶといふことは、いやになるほど説かれましたし、 戦後も「自我の確立」とか「主体性の確立」とか、さんざんいひつくされてきました。 私は、それとおなじことをいふつもりではありません。 西欧を先進国として、それに追ひつかうといふ立場から、 「アジアの前近代的な非人格性」を否定し、西欧の近代精神たる個人主義を身につけろといふのではない。 それこそ、私のいふ距離感の喪失にほかなりません。 私はあくまで西欧の生きかたと私たちとの間の距離を認識しろといつているのです。 眼前にある西欧を、それに追ひつかねばならぬもの、あるひは追ひつけるものとして眺めることはまちがっています。 まづ異質のものとしてとらへ、位置づけするすること、さうすることによって、「日本および日本人」の独立が可能になるでせう。 それを私は日本人の個人主義の成立と見なすのです。 いまさら私たちは西欧の個人主義をまねることはない。 そんな猿まねなら、戦前、戦中、戦後を問はず、いたるところに見うけられました。 それが私たちの歴史的悲喜劇だったのです。 いや、今日においても同様、見るもの聴くもの、さういうばかばかしいことばかりです。 5.日本人にとっての自我の設計図 プロ・アマを問わず、演奏家がよりよき人生の姿を構想し追及しようとするとき、 「良い自我のスタイルとは何か」という問題は避けて通れないように思います。 そこでこの問題を考えるに必要な、現在の時点で私が気が付いているポイントを4,5点列挙してみたいと思います。 第1のポイントは、日本人のこれまでの自我観は全く幼稚でお粗末なものであったと言わざるを得ないということです。 「自我」といえば「わがまま」のことと同一視している人すらいる有様です。 この同一視観によれば、「自我が強い」ということは「わがままだ」、「エゴイストだ」ということになってしまうのです。 また、文学批評家の福田恒存は、『日本および日本人』というエッセイの中で、 「私たちの祖先は、死や病と同様に、我を、エゴイズムをこのうえない醜いものとして退けてきた」と指摘しています。 だが、このような薄っぺらな思想は教育上も非常に良くないと思う。 というのは、文部科学省等日本の教育行政の関係当局が、例えば日本の教育方針を策定するにあたって、 「子供に生きる力を付けさせることが必要だ」というようなテーゼを唱えています。 日本の子供や若者に、自律的主体的に自分の生き方を模索し行動していく能力が ひ弱であるように感じられるため、そのようなテーゼが唱えられているのでしょう。 しかし自我が欠如した「生きる力」というものを我々は本当に想定することができるのでありましょうか。 むしろ、「生きる力」とはある意味において「自我」そのものなのではないでしょうか。 このため、「自我」を否定するところに「生きる力」の育成はとうてい考えられないのではないでしょうか。 第2のポイントは、第1のポイントとも関連することですが、 自我を否定したり嫌悪したりすることが、欲望の否定にもつながっているということです。 欲望を否定するところに人間の成長は無く、人生におけるのびやかなエネルルギーの発揮もありません。 現在の日本の産業経済の停滞や株式市場における低迷の背後には、 現在の日本人のこういった本質が関係しているのではないでしょうか。 また、加藤典洋氏は、自身の著書『日本の無思想』の中で、 「公共性は私利私欲の上に築かれうるばかりでなく、近代にあっては公共性が私利私欲の上にしか築かれない」 ということを指摘しています。 そうだとすると、私たち日本人は真の公共性をこの日本の社会の上に樹立するためにも、 私利私欲と自我の望ましいあり方を真正面から探究しなければならないのではないでしょうか。 第3のポイントは、その人間がその社会の中でどんな自我を形成しうるかは、その社会の中で個体としての人間が、 社会とどんな関わり方が可能となっているかということと深く関連しているということです。 平たく言えば、「人間は自分一人で自我を形成することはできない」ということです。 だから、人間のより良い自我のあり方を設計するということは、社会のより良い あり方、公共性のより良いあり方を構想することも相伴う必要があるのです。 第4のポイントは、人間のより良い自我のあり方を設計するということは、 「善」をどういうものとしてとらえるかということと無関係ではありえないということです。 なぜかというと、「善」とはひとつの状態を指すのではなく、能動的な行動力によって支えられるものだからです。 実際、能動的な行動力が何も無い人間が善人であるということは考えられないことです。 確かに日本語の世界では「善人」というと、「人畜無害な穏やかな人」というような意味に 使われることもありますが、本来の「善」とは、能動的な行動力によって支えられるものです。 そして、人間がどんな形にせよ能動的な行動力を持つということは、自我なしにはあり得ないことなのです。 ということは、人間が「善」を探究するときには、自我は不可欠の要件であるということが言えるのです。 第5のポイントは、人間のより良い自我のあり方の設計と、 「演技」あるいは「表現」という概念との関係をきちんと考察しなければならないということです。 日本人にとっては、「演技」という言葉は残念ながら取って付けたような外来語の域をいくらも出ていないのですね。 日本語の「表現」という言葉も、日本語の体系の中ではしっくりとした落ち着きを持っていないような気がするのです。 私の考えでは、「演技」することも「表現」することも、 人間が人間らしく人格をもって生きるということと密接に関係しているのです。 そしてこのポイントは、音楽家の才能とは何かという問題を考察するときにも関係していきます。 音楽家の才能とは、自己の音楽家としての人格を自律的に育てていく力のことであるといってもよいでしょう。 従って、もし日本において「自我」が否定されるべきものであるとすると、 日本は音楽家の才能をつぶすような社会であるということになりかねないのです。 >>34 >>39 なぜ日本人はSNSで他者をバッシングし続けるのか...「日本人が世界一イジワルな理由」“強い不安遺伝子”と“正義中毒に弱い”という特徴がヤバすぎる https://gendai.media/articles/-/114365 ■「不安遺伝子」が悪意に 日本人は社会を維持するために悪意ある行動や意地悪な考え方を培ってきた。 前近代の村社会において最大の正義は「共同体の維持」だ。 手を取り合わなければ生きていけないからこそ、秩序を乱すものには罰を下してきたし、はじき出されれば生きていけない。 とすると、日本人の礼儀正しさや親切さは社会から村八分にあわないための同調圧力に起因するものであると言えるのではないか。 「人間の脳は社会の規律を乱す人を罰することを奨励するようにできています。 実際、人を罰するとき、脳内ではコカイン中毒者と同じような反応を示すことが分かっています。 この状態のことを『正義中毒』と呼びます。同時に脳が罰の対象者を人間以下の存在であると錯覚させる 『知覚的非人間化』を行い、人間をより悪意ある行動、罰へと向かわせるのです」(ジョーンズ氏) そして、日本人はこの『正義中毒』に陥りやすいことが医学的にも分かっている。 日本人は「不安遺伝子」と呼ばれるセロトニントランスポーターSS型を持つ人の比率が、他の国に比べて圧倒的に高いのだ。 早稲田大学スポーツ科学学術院教授で、精神科医の西多昌規氏が解説する。 >>34 >>39 ■他人の不幸は「薬物の味 「セロトニントランスポーターとは、精神の安定に作用する神経伝達物質、セロトニンの濃度調節を行っているタンパク質です。 セロトニントランスポーターの少ない人はセロトニン不足に陥りやすく、 抑うつや、満足感を得られず不安行動をとるといった症状に結び付く傾向があります。 セロトニントランスポーターを持つ数が最も少ない遺伝子はSS型と呼ばれ、日本人は国際的にも高い割合でSS型だとされています。 SS型は不安を感じやすいだけではなく、他人に対して言葉による攻撃をしやすい傾向にあることも分かっています。 つまり、遺伝子的にも日本人は他人に与える罰が過激になりやすいと言えるのです」 そして、この日本人の悪意を暴走させるのが、ツイッター(現X)やフェイスブックなどのSNSである。 近年の著名人への誹謗中傷、炎上騒ぎはほとんどすべてがSNSを舞台に行われていると言っていいだろう。 「SNSの大きな特徴の一つに発信者の匿名性があります。基本的に発信者を特定するのが難しく、 報復を受ける恐れが少ないことで誹謗中傷が過激になりやすくなります。また、視覚的匿名性も担保されています。 これは相手が見えないということです。日常的なコミュニケーションでは、相手の表情や言葉による反応があるので 攻撃的な言葉は抑制的になる。しかし、SNSでは相手がその場にいないので、心理的に叩きやすくなるのです」 (『悪意の心理学』の著書がある心理学者の岡本真一郎氏) SNSでは自分と似た意見を持つ人とばかり交流することで、自らの意見の正当性が担保されたように感じ、より攻撃的になる。 さらに、悪意ある書き込みが散見される状態だと、そのなかで目立ちたいという欲求も助長されてしまう。 生物学者からみた日本人の生きづらさの正体 https://sdgs.media/blog/16399/ 日本では生きづらさを感じる人が増えていると言われています。 その原因について、社会学や経済学の視点からすでに多くの検討が行われています。 一方で、社会や経済を駆動しているのは人(ホモサピエンス)という生物種のひとつにすぎません。 本稿では、生物学者が生物学的な視点から日本人の生きづらさについて考察します。 とくに日本人は不安遺伝子の保有者が世界でも群を抜いて多いことから、その意味について解説し、解決策について言及します。 不安遺伝子からみる日本人 生物学的にみた日本人の特徴のひとつに、不安遺伝子を保持する割合が多いことが挙げられます。 不安遺伝子は、不安の感じやすさを決める遺伝子です。 人は不安遺伝子の多い「S型」と少ない「L型」の組み合わせで、SS型、SL型、LL型の3種に分類できます。*3 図5はS型の不安遺伝子を持つSS型とSL型の人の割合を表しています。 S型の不安遺伝子を持つ人の割合は、人種により大きく異なり、アジア人>アメリカ人>アフリカ人の順で多く、 日本人の8割が不安遺伝子を保有するのに対して、アフリカ人は3割しか不安遺伝子を保有しません。 多民族国家であるアメリカはその中間の5割です。 ドイツ人「ジャップはコミュ力低すぎ、見知らぬ人が挨拶や雑談をしてこなくて恐怖で震えた、経済が破綻するわけだわ」 [125197727] https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1706835036/ 日本人の「コミュニケーション能力」はますます低下 ドイツ人がコンビニで「震えるほど怖かった」瞬間とは https://www.dailyshincho.jp/article/2023/08231100/?all=1 日本人が購買力と同程度に失っているのではないか、と危惧する事柄がほかにもある。 コミュニケーション能力である。 「国際的に見て普通ではない」 今年前半に2度ほどイタリアに行ったが、その際に見かけたり、 自分が体験したりしたさり気ないコミュニケーションを、まずは思い出すままに記してみたい。 小さな商店で食料品を購入するときも、店員と買い手のあいだに会話があり、たがいに目を見て話し合っている。 ホテルの廊下でほかの客とすれ違った際に、あいさつされることが多い。 エレベーターにだれかと乗り合わせると、相手から先に降りるように促されることが多い。 電車内で棚に荷物を載せる際に苦労していると、何人もの人に助けられる――。 上記は一例にすぎないが、帰国後に感じたのは、日本では同じような場面での コミュニケーションのありようが、おおむね正反対だということだった。 コンビニエンスストアでもスーパーマーケットでも、多くの客がほとんど言葉を発しないまま買い物を終える。 店員になにかを問われたとき相手の目を見て話すと、目を逸らされてしまうことが多い。 ホテルの廊下で客同士があいさつし合うことなど、ほとんどない。 エレベーターにあとから乗ってきた人たちは、後ろを一切振り向くことなく自分たちが先に降りる。 新幹線などの車内では、客同士はできるだけ関わり合わないようにしており、 棚に荷物を載せるのに苦労している人を、大抵の人は見て見ぬふりをしている。 日本人男性と結婚し、5年ほど前から日本に住むドイツ人女性も言う。 「日本のコンビニで買い物をするとき、相手の目を見てなにかを聞いても、 目を逸らされたり怪訝な顔をされたりするのには、慣れるのに時間がかかりました。 電車内やカフェなどで知らない人に話しかけても、ほとんど変な人あつかいされます。 日本人はシャイだと感じますが、こうした応対はシャイである以前に 国際的に見て普通ではなく、日本人にとって損だと思います」 「やまびこあいさつ」をご存じだろうか。 コンビニや小売店などで、一人の店員が「いらっしゃいませ、こんにちは」とあいさつすると、 ほかの店員も一斉に同じあいさつをするもので、集客力と売上げアップのために推奨されているという。 しかし、これが実践されている店舗では、ほとんどの店員が客の顔を見ておらず、 このドイツ人女性ははじめて「やまびこあいさつ」をされたとき、「震えるほど怖いものを感じた」と語る。 人間と人間のコミュニケーションの崩壊が感じられたというのだ。 自尊心なき日本人|クソえもん@総研ひとり https://note.com/yajiumafighter/n/n4f34d120149f ■不安から自己保身化へ 反対に不安を抱えていると他人と繋がれない。例えばこんな例がある。 信田さよ子氏:従来の家族観を変えなければ児童虐待はなくならない https://ch.nicovideo.jp/videonews/blomaga/ar1838168 ―――――― 信田: そして、自分が不安だと言うことに気づいていません。 あるいは、不安な自分を認められないんです。不安と言えないから、繋がれません。 私たちがグループカウンセリングをやっているのは、同じように不安な人がいることがわかると、不安は減少するからです。 言葉の外で繋がる、というのは、非常に限られた場所ではありますが、逆説的に重要視されつつあることも事実ですね。 ―――――― 宮台: 僕は関西で育ちましたが、社会学者も文学者もよく言うのは、東京とそれ以外の地方の違いは、 東京は田舎者集まりなのに、足元を見られたくなくてみんなが自分を粉飾決算するということです。 つまり不安に陥っていて、自分が基準をクリアしているということで一生懸命、安心しようとするんです。 寺山修司も言っているように、東京にいるやつはほとんどみんな田舎者なんだから、 それをただ認めれば不安ゆえの言葉の粉飾決算からは逃れられます。 しかし、その状況はもっとひどくなっています。 子どもの自己肯定感が低下する「ダブルバインド」。“条件付きの愛” は危険です https://kodomo-manabi-labo.net/double-bind 親が無意識に子どもを脅して言うことをきかせる『ダブルバインド』。 「子どもを脅すなんて!」と思うかもしれませんが、じつは日常の何気ない会話の中でも、 知らないうちにダブルバインドになっている可能性があるのです。 今回は、ダブルバインドが子どもに及ぼすさまざまな影響について、詳しく解説していきます。 □無意識のうちに子どもを脅すしつけ「ダブルバインド」の恐ろしさ 公園で遊ぶ子どもに「そろそろ帰るよ」と声をかけたとします。 しかし、なかなか帰りたがらない子どもに次第にイライラが募り、 「もういいかげんにして! お母さん先に帰っちゃうからね!」 と言ったものの、当然置いて帰るわけにもいかず、立ち去る “ふり” をするーー。 スーパーに買い物に行きました。 「お菓子をひとつだけ買ってあげる。自分で好きなのを選んでね」 と子どもに言ったところ、500円もするおもちゃ付きのラムネ菓子を選んできたので、 「これじゃなくて違うお菓子にして」と突き返すーー。 みなさんも一度は経験があるのではないでしょうか? じつはこれらは、親が無意識に子どもを脅して言うことをきかせようとする『ダブルバインド』の典型的な例なのです。 ―――――――――――― ダブルバインドとは 日本語で “二重拘束” の意味を持つ『ダブルバインド』とは、1956年に米国の 文化人類学者・精神医学研究者のグレゴリー・ベイトソン氏によって生み出された造語。 同時に送られるふたつの矛盾したメッセージの間で板挟みになってしまった相手が、 最終的には従わざるをえなくなることで、ストレスを溜め込むコミュニケーションパターンを指す。 ―――――――――――― この『ダブルバインド』、私たちが考える以上に子どもに与える影響が大きいようです。 □ダブルバインドによって引き起こされる悪影響の数々 ダブルバインドが子どもに与える影響とは、いったいどのようなものなのでしょうか。 『1人でできる子になる「テキトー母さん」流 子育てのコツ』(日本実業出版社)など多数の子育て本を 執筆している立石美津子さんによると、一番の悪影響は「間違ったコミュニケーションの方法を学んでしまうこと」だといいます。 ■弟や妹、友だちを脅すようになる ダブルバインドによってしつけられた子どもは、自分よりも立場が弱い弟や妹、友だちに対して 「おもちゃ貸してくれなかったら、もう一緒に遊んであげない」などと脅しのような発言をするようになります。 立石さんによると、子どもは親の背中を見て育つので、 「相手を自分の思い通りにコントロールするには脅せばいいんだ」と学んでいるに過ぎないそう。 本人には悪気はなく、コミュニケーションの取り方を間違って学んでしまっているのです。 ■親を信用しなくなる 子どもはいずれ成長し、知恵がついてくるもの。 幼いうちは親は絶対的な存在であり、生きていくためには従わなくてはならないと本能的に感じています。 しかし、いずれ大きくなると 「お母さんは嘘を言っている」「お父さんは口ではこういうけど、結局いつも実行しない」 と、親を信用しなくなるのです。 すると、立場が逆転したかのように「ゲームを買ってくれたら勉強するよ」 「帰りにお菓子を買ってくれないと、ピアノのレッスンに行かないからね」などと 親に対して脅すような発言が増えてくるのです。 ■自己主張できなくなる 『ママも子どもも悪くない! しからずにすむ子育てのヒント』(学研プラス)の著者であり臨床心理士の高山恵子先生は、 「自分の選択を否定されたり、変更を余儀なくされたりするダブルバインドの状態が続くと、子どもは自己主張をしなくなる」と述べています。 「自分の意見を言っても、どうせまた否定される」 「結局はお母さん(お父さん)の思い通りに物事が進む」 と思い、自分で選択することを諦めてしまうのです。 ■自分で考えることをやめてしまう 子ども教育のプロフェッショナル養成に携わる白梅学園大学教授の増田修治先生によると、 子どもの自由を尊重している “つもり” の親は、ダブルバインドによって子どもの心を縛りつける傾向があるそうです。 とくに自身が高学歴であり、子どもにも学歴の高さや良い就職先を望んでいるような親に、その傾向がよく見られるといいます。 たとえば、「自分が行きたい高校を選びなさい」と寛容なフリをしていても、いざ子どもが選んだ高校が気に入らないと 「ちょっと偏差値が低すぎるんじゃない?」と否定してしまう親は、無意識のうちに親の価値観を刷り込ませようとしているそう。 ―――――――――――― 「今の子は、空気の読めないKYなヤツと思われたくない気持ちが強いため、ヒドゥン(隠された)メッセージの影響を色濃く受ける。 ダブルバインド親に育てられた子どもは、親に反抗できず、自分の気持ちや意思がわからなくなる傾向がある」 (引用元:AERA dot.|「教育毒親」ダブルバインドで子どもの思考停止も) https://dot.asahi.com/aera/2014091600051.html ―――――――――――― 親が思っている以上に、子どもは親の言葉に隠されたメッセージに気づいています。 そして “空気を読んで”、自分の意思よりも親の願いを優先してしまうというわけです。 ■自己肯定感が低下する 増田先生は、「ダブルバインド親は、じつは条件付きの愛情を提示している」とも指摘しています。 「勉強ができるあなたが好きよ」や「運動が得意なあなたが好きよ」といったメッセージを無意識に送っていることが多く、 それに気づいた子どもは「勉強(運動)ができなくなったら見捨てられちゃうかも……」と思い、健全な自己肯定感を持てなくなってしまうのです。 勉強や運動ができなくても、ありのままのわが子が愛おしいということは、 あまりにも当たり前すぎてわざわざ伝える必要がないと考えていませんか? 子どもの自己肯定感を伸ばすためにも、親だからこそ気づいてあげられる わが子のすばらしいところを、子ども自身にちゃんと伝えてあげましょう。 「自己肯定感の低い人」が結構している陰湿な攻撃 https://toyokeizai.net/articles/-/469184 自己肯定感の低い人は、意識的、あるいは無意識的に自分が傷つかないために、 さまざまな自己防衛策を講じますが、これが人間関係を難しくしていることが少なくありません。 本稿では、自己肯定感が低いゆえに権力志向や、コントロール志向のある人がしている「受動的攻撃」について、 心理療法士として長い経験を持つシュテファニー・シュタール著『「本当の自分」がわかる心理学』より紹介します。 ■自信がない時、人は守りに入る 子どもの頃に抱いた「信念」から、人は自分がこれ以上傷つかないように 「防衛戦略」をとるようになるということは、前回の記事でもお伝えしたと思います。 今回は、その防衛戦略のうち、「コントロール志向」と「権力志向」がある人について掘り下げてみたいと思います。 「権力志向」と聞くと、強い上昇志向のある人間を思い浮かべるかもしれませんが、実は、そんなことはありません。 権力で自己防衛しようとする人は、自分の立場が相手よりも下になると、 自分は攻撃されて傷つけられてしまうという、行き過ぎた不安を抱えている人なのです。 このような人たちは、子どものころに「親の言いなりになるしかない」と何度も感じた経験から、 いつでも「相手は自分よりも権限を持っていて、自分を支配する存在」だと認識しています。 決して、自分がすぐれていると思って威張ろうとしているわけではありません。 ただ、支配的だと感じられる相手に対して引き下がるのではなく抵抗しているだけで、 抵抗することで相手よりも優位に立って、自分を守ろうとしているのです。 その際、戦略として「能動的抵抗」か、あるいは「受動的抵抗」の いずれかを選んでおり、たいていの人はケースに応じてどちらも使っています。 これらの抵抗は、権力志向者だけではなく、誰もが自分の安全領域を守るために必要に応じて使っているのですが、 権力欲求やコントロール欲求が強い人の抵抗には、特別な意味合いがあります。 「能動的攻撃」とは、自分の権利を主張するために争い、 相手を抑え込むような行動であるため、この攻撃が起こっていることは誰にでもすぐにわかります。 それに比べて「受動的攻撃」もしくは「受動的抵抗」が起こっていることは、周囲の人からはわかりません。 「受動的攻撃」とは、相手に自分の意志をはっきりと伝えずに、大なり小なりのサボタージュをすることで、 相手に身を任せるのを拒むことをいいます。要は、期待されていることをきちんと行わないのです。 約束してもその約束を覚えておかないようにしたり、簡単に破ったり、あるいはじれったいほどゆっくりと実行したりします。 また、典型的な「受動的攻撃」として、いわゆる「壁をつくる」という行動をしめすこともあります。 相手をその壁にぶつからせることで、相手の懇願や嘆願を受けつけないようにするのです。 こうした人は、自分が相手にそのような障害を作っているにもかかわらず、 心の中では「私が妥協しなければいけないことが多過ぎる」と思っています。 そのため、相手が多少苦労することは当然だと思っています。 受動的攻撃性(パッシブ・アグレッシブ)とは? 「受動的攻撃性」とは、本人が感じている「怒り」「不平不満」などに代表される否定的な感情を 相手にぶつけず、消極的かつ否定的な態度・行動を取ることで、相手を攻撃しようとする心理。 「受動的攻撃性」は、英語でパッシブ・アグレッシブ(passive aggressive)と言います。 「パッシブ」(passive)は「受動的」で、「アグレッシブ」は「攻撃的」です。 攻撃的ではない「受け身」の状態だけど、相手を攻撃をしている心理状態です。 受動的攻撃性を伴った行動を「受動的攻撃行動」(パッシブ・アグレッシブ・ビヘイビア:passive aggressive behavior)と呼びます。 「受動的攻撃行動」は、意識して、あるいは無意識のうちに取られる行動です。 受動的攻撃行動の代表例 「緘黙/無視」「緘黙」とは黙り喋らないこと。黙り、相手を無視することで攻撃する 「サボタージュ」仕事を意図的に遅らせたり、怠けたりして攻撃する 「抑うつ状態」気分的に落ち込んだ状態になることで攻撃する ●受動的攻撃性ってなに? 自分が好きでないことに対して、直接「嫌だ!」というのではなく、行動や態度でその気持ちを 示す受動的攻撃性という言葉をご存知でしょうか。 恋愛関係において、多くの男性が受動的攻撃性の行動に困惑してしまうようです。さっそく、具体的にを挙げてみましょう。 ・意見をはっきり言わない 実は、日本人女性にはこの「受動的攻撃性」の方がとても多いのです。 嫌だと思っても、自分の意見をはっきり言わず、不機嫌になるなどの行動や表情に出てしまう人は要注意。 特に欧米では自分の意見をはっきり言う習慣が浸透しているため、男女間でも主張ははっきりさせなければいけません。 もし意見を言えない場合は「了承した」ということですから、自分の好きでないことでも 楽しむ努力をして、相手に不快な思いをさせないように気をつけましょう。 ・嘘をつく 自分がしたくないことや嫌いなことに対しては、嘘をついたりして避けてしまう人もいるようです。 たとえば、彼から映画に誘われても、「その映画は見たくないから違う映画にしよう」とは言わず、 「体調が悪いから今日はいけない」などとドタキャンしてしまうので、男性は本気で心配してしまいます。 また、数回続くと男性も嘘に気づき、幻滅してしまうケースが多いようです。 ・遅刻が増える 自分でも気づかないうちに、嫌なことに対しての作業が遅れたり、そもそも その場に行くのがおっくうなため遅刻してしまったりします。 そんな彼女の性格に気がついて、彼女の好きなことを優先してくれる彼氏もいるかもしれませんが、 甘え過ぎると最終的には彼を困らせたり、「面倒くさい」と思われたりしてしまいます。 ・消極的である 気が進まない作業に対して積極的に取り込むことができないため、一緒に作業をする人の足を引っ張ってしまいます。 せっかく恋人と一緒にいろいろなことをしたいという彼も、彼女があまりにも消極的だと、がっかりしてしまいます。 異国への旅や未知の料理への挑戦など、彼が提案してくれた時点で 嫌なことは明確に断ったほうが、次ぐにプランを練りやすくて喜ばれるようです。 ●受け身のまま主張することを怖がらない! 相手を嫌な気持ちにさせたり我慢させてしまったりすることを心配して、自分の意見を隠してしまう人も多いもの。 それが「優しさ」ともいえるでしょう。 しかし、自分の意見を言わずに行動で示してしまうと、相手に余計な迷惑をかけてしまいます。 嫌なことは「嫌だ」と最初に言うことで、お互いに楽しい時間を過ごすことが できるので、主張をすることを怖がらないように気をつけましょう。 「奥ゆかしい女性」と「自分の気持ちを言葉で伝えない女性」は意味が違うのです。 奥ゆかしい女性が好きな男性も、必要なときには意見をはっきり言ってほしいものです。 信頼できる相手には、自分の意見をしっかり表現すると、より分かり合える深い関係になれるでしょう。 受動的攻撃行動(じゅどうてきこうげきこうどう、英語: Passive-aggressive behavior)は、 怒りを直接的には表現せず、緘黙や義務のサボタージュ、あるいは抑うつを呈して相手を困らせるなど、 意識的無意識的にかかわらず後ろに引くことで他者に反抗する(攻撃する)行動である。 受動攻撃性パーソナリティ障害とは、『精神障害の診断と統計マニュアル』第4版の 付録において提案される研究用案であり、これらの対人様式が固定化され、適切な要求に対して、 拒否的な態度や受身的な反抗をとるという様式を伴っていると説明している。 概要 受動攻撃性パーソナリティ障害は、いやなこと、やりたくないことに対して、 「いやだ」「やりたくない」と言うかわりに、わざとゆっくりやったり、忘れたふりをしたり、いわば後ろに引くことで反抗する。 不機嫌な気持ちになると受け身的なやりかたで攻撃感情を表現し、 あてつけや抵抗を示すために、対人関係に広く支障をきたしてしまう。 しかしこうした態度は通常両価的であることが多く、反抗的な態度を とる一方で、時には謝ったりなだめたりと動揺を示すことがある。 他人への依存と自己主張の願望との間で葛藤に陥り、自信を失うことも多い。 受身でいながら、ひそかに他人を攻撃する 本当はしたくない仕事をすると承諾していながら、わざとぐずぐずしたりする。 他人からの評価に愚痴や不満を持ち、 相手の欠点やマイナス要素を探したりして、 人知れず反抗を繰り返す。 屈折していて、否定的感情や不機嫌さなどの要求を素直に表現しない。 敵意や怒りを直接的にではなく、 間接的に表現するという方法をとる。 1.引き伸ばし、すなわち、しなければならないことを延期し、期限に間に合わない。 2.やりたくないことをするよう言われた時、不機嫌、易怒的または理屈っぽくなる。 3.「忘れていた」と主張することで義務をまのがれる。 4.自分の仕事の分担をやらないことで、他の人達の功績の邪魔をする。 5.権威ある地位の人々に対して、理由なく批判的または軽蔑的である。 6.人からの攻撃は受けたくないが、敵意は隠せないのであくまで 匿名でネットなどを使い他人への誹謗中傷行為を行う。 7.直接敵意を相手に向けることができないので、 人目につくようなSNS内では努めて好意的な振る舞いをする。 相手に対する敵意は人目のつかない所で、 例えば二人きりになった際に 存在さえも完全無視するかのような態度をとる。 「パッシブ・アグレッシブ(受動的攻撃性)」という言葉を耳にしたことはあるでしょうか? Passive(消極性)と、Aggressive(攻撃的)という、正反対の言葉がひとつになった複雑な言葉ですが、 意味としては「相手に対して、消極的かつ間接的に不満や怒りなどを伝え、攻撃してくること」を言います。 アメリカなどではわりと日常的に使われている言葉です。 通常私達は怒ったり嫌な事があると攻撃的になったりします。 怒りを爆発させることが必ずしも良いこととは限りませんが、表現するだけ健全です。 しかし、中には怒りや鬱憤を内面に溜め込んで、受動的に攻撃性を発するパッシブ・アグレッシブな人もいるのではないでしょうか? 消極的に攻撃的 (受動的攻撃性、Passive Aggressive) https://blog.goo.ne.jp/smf405/e/ada810ca4975db536d7193b12a929794 2014-04-15 | プチ臨床心理学 よくアメリカ人の日常会話で使われる面白い表現に"Passive aggressive"(消極的に攻撃的)というものがあります。 Passive(消極的)と、Aggressive(攻撃的)という、ほとんど正反対の言葉がひとつに 結び付いた、一見ありえないような形容詞ですが、これは会社でも学校でも、良く聞く言葉です。 たとえば、「うちの上司は本当にPassive aggressiveなのよ」(My boss is so passive aggressive)とか、 「彼女は今Passive aggressiveになっている」(She is being passive aggressive now)という感じです(脚注1)。 それで、Passive aggressive (パッシブ アグレッシブ) とはいったい何でしょうか。 パッシブアグレッシブとは、「消極的」に、また、間接的に、不満や怒り、「攻撃性」を表現することです。 ダイレクトでオープンなコミュニケーションが社会的に美徳とされるアメリカ社会において、 間接的で、まっすぐでない(Indirective、インディレクティブ)コミュニケーションは、 特にアメリカ人の間では不快感を感じるもので、彼らの普段のコミュニケーションのあり方にはそぐわない異質なものです。 このため、その現象が起こっているとき、彼らは敏感にそれを察知します。 しかし、この言葉が良く使われることからもわかるように、この現象は、アメリカ社会のあらゆるところで、よく起こります。 しかし、スタンダードなアグレッションとは性質が異なるため、それと区別するために、このような面白い言葉があるのです。 日本語には、これに該当する言葉がありません。 なぜでしょう。日本人はダイレクトなコミュニケーションが大好きで、曲がったことをする人はどこにもいないからでしょうか。 残念ながら、それは違います。周りとの調和、礼儀を重んじる日本社会では、ダイレクトな表現がなかなか難しく、敬遠されるため、 怒りや不満を消極的、間接的に表現する人が多すぎて、この現象が、あまり人々の間で異質に映らないのです(脚注2)。 それでは、パッシブアグレッシブ、消極的攻撃性は、日本人の あいだでは、問題にならないのかというと、そんなことはありません。 消極的攻撃性は、人間関係においてとても有害なもので、実際、日本人にも、 これを常套手段とするひともいれば、これを滅多に使わないひとも多いです。 社会において、これを使う人の割合が、日本ではアメリカと比べてずっと高い、 ということであり、これを普段使わない日本人は、たくさんいます。 嫌煙家のひとが、無作法に喫煙する人の横で、その人に注意するかわりに、ゴホゴホと大きな咳をし始めます。 遅刻の多い部下に不満のある上司が、その部下に注意する代わりに、その人の前で、他の皆を褒めはじめます。 などなど、枚挙に暇がありませんが、このように、消極的攻撃性は、日本社会に溢れています。 気になった方も多いかと思いますが、消極的攻撃性は、必ずしも悪いわけではなく、 特に後者の例(間接的に言葉にして伝える)などは、場合によっては、その問題の相手を 直接責めることを避けつつ、その問題について汲み取ってもらう、という良い意図が存在することもあるからです。 上司は、部下を傷つけることなく、間接的に、フィードバックを与えているのかもしれません。 喫煙家の前でゴホゴホと咳をしはじめる嫌煙家においても、ダイレクトに注意するのが 現実的に困難であったり、危険であったりする場合、このようにでも表現することで、 相手に自分の意図が伝わり、ストレスがたまることもなく、これが最善の選択、ということもありえます (ところで、この例は、消極的攻撃性のなかでも、一番消極的でない、 直接的な攻撃性に近いもので、割とダイレクトなコミュニケーションともいえます)。 つまり、消極的攻撃性は、場合によっては、必要悪であったり、 ある種の好ましくない状況下で最善の選択であったりもするわけです。 どんなに健全な人格の持ち主で、公平でオープンなコミュニケーションを好むひとでも、 たまにこうした手段を使わざるを得ない事態は存在します。 問題は、先にも述べたように、消極的攻撃性を、その人の人間関係の常套手段として使う人たちです。 消極的攻撃性は、本人はそのようにして怒りを出しているので良いですが、それをされた相手は とても嫌な気持ちになるし、傷つきます。それはフェアでなく、気分の悪いものだからです。 そして、この最大の問題点は、消極的攻撃的である人は、他者とのきちんとしたコンタクトを取れないひとである、ということです。 どんな人間関係においても、気まずい局面、難しい対峙、というのは存在します。 しかし私たちは、こうした難しい局面において、自分の気持ちに向き合い、相手ときちんと向き合って、 互いに正直に話し合うことで、衝突はあるかもしれませんが、その結果、さらなる相互理解ができて、人間関係が深まります。 ダイレクトなコンタクトは、相手と親密になることです。 つまり、消極的攻撃的なひとは、他者と親密になることができません。 きちんと他者と繋がれないのです。何しろ、他者とのコンタクトを回避しているわけですから。 また、周りは、自分のことを相手が避けながら、悪意のあることをしているのが 良く分かるので、とても嫌な気持ちになり、周りもその人を避けるようになります。 また、周りは、その人が何かで怒っていたり、不満があるところまでは分かるものの、コミュニケーションを 回避されているため、その人が実際に何を考えているのか分かりません。相互理解の断絶、悪循環です。 お分かりのように、消極的攻撃性は、ある意味非常に効果的です。 怒りや不満を表現し、相手をコントロールしたり、自分の思い通りにしつつ、口論や話し合いといった、 面倒くさいことを避けられるわけですから、当人は、たいしてストレスもたまりません。 実際、社会的にとても成功していて、消極的攻撃的なひとはたくさんいます。 しかし、こういう人たちは、多くの人にとって、まず一緒に働きたくない人たちです。 まとめますと、消極的攻撃性は、その程度問題であり、使用頻度の問題です。 また、これは対人関係における癖のようなものです。それがゴールを達成することにおいて効果的であれば、 その行動パターンは、強化されます。そのため、なかなか見えにくくなっているかもしれません。 しかし、今のあなたの人間関係を見つめてみて、なんだかよく分からないけどこじれているところがある、 何かが気持ち悪い、と思ったら、この消極的攻撃性の存在の可能性について考えてみてください。 あなたがしているかもしれないし、相手がしているかもしれないし、お互いにしているかもしれません。 それに気づいたら、どのようにして、より素直に、自分の気持ちを 相手に伝えられるか、その方法を模索して、試していきましょう。 また、相手が、あなたに直接気持ちを伝えることに難しさを感じているかもしれません。 思い当たるふしがあれば、少し踏み込んで、その人と話してみましょう。 何か気になっていることはないか、実は困っていることはないか、上手に、でもストレートに、聞いてみましょう。 そのような試行錯誤のなかで、その人間関係は、少しずつ、良くなっていくことでしょう。 我々の社会では起こることは悪いことだと教えており、 攻撃性を抑圧するように仕向けるのが「しつけ」の目的になっている。 怒りや敵意を丸出しにしたら家族も社会も形成することはできないので、 いい子は起こらない、いい人は怒らないと教え込むわけである。 なかには、敵対的行動はもちろん、敵意をいだくこともしてはならない と戒めている親もいるのだが、筆者の経験ではそんなことは不可能だ。 欲望がすべて満たされることなどありえない以上、誰でも欲求不満を感じるし、 欲望の断念を強制した人物に敵意を抱くものである。 こうした負の感情を抑圧し、あたかも存在しないようにふるまうことは、 しばらくの間はできるかもしれない。 だが、完全に消え去ってしまうわけではないので、 それをあいまいな形で放出するために受動的攻撃の多種多様な方法が 発達することになる。 当然、おこってはならなというタブーが強い集団ほど、 受動的攻撃の技術が磨かれる。一般に、ママ友や有閑マダムなど、 女性だけの集団に受動的攻撃の「達人」が多いのは、 怒りをタブー視する傾向が男性よりも強いためである。 怒りをタブー視するのは、恐怖ゆえである。 他の人から見たイメージが悪くなる。つまり「温厚な人」 「優しい人」と言った評判を維持できなくなることへの怖れ、 あるいは復讐されることへの恐れなどがあるから、 「怒り」を直接だすなんて野蛮なことをせず、受動的攻撃でチクチク刺す という「洗練された」やり方を選ぶわけである。 責任をとりたがらない日本人 比較的最近、『中島義道』というコミュニティを発見し、そこに加入して掲示板などをみていましたところ、 この人の著作で『対話のない社会』(PHP新書)という本が紹介されているのを発見しました。 紹介者は、当コミュニティにも在籍されているエコロさんです。 で、これを読んでみたところ、その中に、日本人は自分の「選択と決断」についてふりかかる個人責任を 回避するために、独特の行動パターンを取っているということを指摘している部分があるのを発見しました。 それは、まず自分から自発的能動的に行動するということはほとんどなく、 相手や周囲の人間の出かたをうかがい、「様子を見る」ことを出発点とします。 状況が流動的なうちは、行動の選択肢は複数あることになります。 そのような状況下でそこでなんらかの選択や決断をした場合は、その選択や決断をしたことの責任が自己にふりかかる。 日本人はそれを避けたがるというのです。 そこで状況が流動的なうちは、選択や決断はせずに様子を伺い、無為無策を決め込み、 選択の余地がなくなり「こうするよりほかに仕方がない」状況になってようやく行動に出る。 そうすることによって責任の追及をのがれようとする。 「あのときはああするより仕方がなかったのだ」という弁解の文句の切り札を残しておこうとするわけです。 これが、日本人の「選択、決断、行動」に対する基本的態度であるとしています。 竹内(竹内靖雄)が最後に指摘しているように、10代な案件であればあるほど 「こうするよりほかに仕方がない」状況へとみんなで追い込み、あとで非難されたときも、 各人が「こうするよりほかに仕方がなかった」と言い逃れることのできる黄金の抜け道をつくっておく。 状況功利主義は、何よりも個人責任を回避する方法を教えてくれるのだ。 (174ページ) -- 上の記述を読んで2つほど思い出すことがあります。 ひとつが、西部邁の『正気の保ち方』という本に出てくる日本人の「受動的攻撃性」という性質です。 この「受動的攻撃性」とは何を意味しているかは、分かりにくいかもしれませんが、 このちょうど反対の概念が「能動的受容性」だというのです。 では「能動的受容性」とは何かというと、他者に対して、批判を交えつつ 積極的に話しかけながら、相手の反応にも耳を傾ける態度のことです。 すると「受動的攻撃性」はこの「能動的受容性」の逆の性質ですから、 「相手に対して批判を交えつつ積極的に話しかける」 ということを「しない」態度のことであるということがわかります。 つまり、相手がどう出てくるか、どんな行動をしてくるか、どんな発言をするか、そういう出かたを見ようと言うわけです。 そして「攻撃性」というのは、「相手の反応にも耳を傾ける態度」をとらないことです。 つまり、そこには、自己の見解の押し付けの意味合いが含まれているのです。 このように日本人の責任回避の行動パターンと、西部が指摘する 「受動的攻撃性」とは非常に似通っているということを感じたのでした。 もう一つ私が連想的に考えたことは、日本の戦争時代の国家指導者の行動です。 日本はなぜあのような愚かしい、勝ち目のない悲惨な戦争に突入していったのか、私には非常に謎でした。 無論、当時の日本が国際社会の中で追いつめられていたこと、当時の国家指導者がいわば 「世間知らず」で世界に向けて広い視野を持っていなかったことは原因の一つとして挙げられるでしょう。 だが、これらの理由だけではいまいち説得力が不足しているような気がしていました。 しかし、この『対話のない社会』に出てくる、 「日本人は、状況が流動的なうちは、選択や決断はせずに様子をうかがい、無為無策を決め込み、 選択の余地がなくなり『こうするよりほかに仕方がない』状況になってようやく行動に出る。 そうすることによって『あのときはああするよりしかたがなかったのだ』という 言い逃れの切り札を用意しておいて責任の追及をのがれようとする」、 という指摘をうけて、戦争開始にいたった経緯を説明するにあたってピンとくるものがあったのです。 当時、日本の国家指導者は、「開戦やむなし」という雰囲気が日本国内に醸成されるのを待っていたに過ぎないと思う。 「今世界に起っている状況は何なのか」「いまなぜ日本は追い詰められているのか」 「この状況を打開して開戦を防ぐにはどういう行動が必要なのか」 そういったことを自発的創造的に考えようとはしなかったのではないでしょうか。 なぜか。それは、戦争がある程度予見できる国際情勢の段階では、まだ状況が 流動的な状況であり、様々な判断と行動の選択肢がありうるわけです。 それだけに、その国家指導者がなんらかの判断と選択と行動とをした場合には、 その結果が良く出れば手柄としてアピールできますが、逆に結果が悪くでると、 その判断と選択と行動をしたことについての責任を負わなければならなくなります。 当時の器量の小さい日本の国家指導者はそれがいやだったのではないでしょうか。 自分の責任はできるだけ回避したい、そういった思惑から、状況任せで推移を見守り、 「開戦する以外にどうしようもない」という状況が発生するのを待って、また国民全体からも「戦争やれやれ!」の 雰囲気が醸成されるのを待って、あたかも国家全体がキレたかのように開戦に及んだのではないでしょうか。 つまり、開戦に至る行動の中には、すでに、国家指導者らにより、開戦に至る決断を したことに対する責任逃れのシナリオが織り込まれていたのではないでしょうか。 また、終戦間際、ポツダム宣言が発せられたときも、これに対しては自発的には対応しようとはせず、黙殺を決め込みました。 ここにも、実は最初にお話しした日本人の「受動的攻撃性」と、 中島氏が指摘する「責任回避行動」の2つの性質の発現が見て取れます。 すなわち、ポツダム宣言に対してなんら応答せず、黙殺した、という選択と行動自体の中に 「相手の出かたを見る」「能動的には行動せずに様子を見る」という「受動的攻撃性」を見ることができます。 またこのシチュエーションで、誰かがなんらかの判断、行動、応答をすれば、 そのその人がその判断、行動、応答をしたことの結果責任を問われることになる。 それを回避したいという心理が「ポツダム宣言の黙殺」という無為に至ったのではないでしょうか。 あらゆるところにはびこる理不尽な村社会から変えていかないとねー 自己肯定感という言葉は自分が苦手なやつの1つかな twitterユーザにはそれを好む人は多い気がしてたが 幸いにも5chにはそれを好む人はほぼいないようなのは良かった なにかしらの道で成功し続けていてこの言葉を使ってる人は自分は見たこと無いな と思ったら、イチローもこの言葉には疑問を持っていたのか>>40 >>40 の関連記事に『イチロー「人の真剣な思いをへらへら聞いてんじゃねえ」』 とあったのでここに書くが、おそらくこれは厳密にはへらへらしてるわけじゃないんだと思う。 自分の中で照れる、恥ずかしい等が原因で言いづらいときにそういう風に なることもあるが、おそらく相手はそういうタイプだったんじゃないかな。 前に別のイチロー宛の恋愛相談を見ているときも思ったが、この人は 庶民の恋愛相談には向かない気がするな。 まあ上の関連記事の場合は「イチローさんならどうしますか?」という質問だから それで良いんだろうけど 【画像】東南アジア、日本が一生追いつけないような近未来都市に発展していた…東京の古臭い街並みと違いすぎる [389296376] https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1713016794/ 1 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 警備員[Lv.1][新][苗] (ワッチョイW 5f92-RshY) 2024/04/13(土) 22:59:54.63 ID:slcBkORX0 シンガポール https://i.imgur.com/ErKwj9j.jpg ジャカルタ https://i.imgur.com/QVeeRoN.jpg クアラルンプール https://i.imgur.com/nizTyfS.jpg バンコク https://i.imgur.com/GIRGtf3.jpg ホーチミン https://i.imgur.com/gqBjYKH.jpg 8 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 警備員[Lv.2][新][苗] (ワッチョイW 5f92-RshY) 2024/04/13(土) 23:01:55.11 ID:slcBkORX0 インドネシア(2.7億人)の平均年齢:30歳←😟 9 顔デカ🏺 ◆SOUkaSpfTo 警備員[Lv.15][苗] (ワッチョイW 4207-t3co) 2024/04/13(土) 23:02:18.88 ID:78n0ip120 日本は東の最果てにあるクソ田舎の島国になっちまったな 25 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 警備員[Lv.2][新][苗] (ワッチョイW 5f92-RshY) 2024/04/13(土) 23:08:44.90 ID:slcBkORX0 東京w https://i.imgur.com/Jfmx14C.jpg 35 警備員[Lv.12(前10)][苗] (ワッチョイW af33-wLy8) 2024/04/13(土) 23:11:01.80 ID:m2U3b/lH0 >>25 中国人が15年くらい前の中国と同じような懐かしい風景だとか言ってんだよな… 「運転しかできないくせに」 タクシードライバーを平気で“職業差別”する人たちに欠けた現状認識力 [おっさん友の会★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1712982563/ 1 @おっさん友の会 ★ 警備員[Lv.2][新][苗] 2024/04/13(土) 13:29:23.52 ID:uvAF7pBa9 タクシー運転手は過酷な労働環境で働いている。長時間労働と低賃金。十分な休日もない。にもかかわらず、彼らの社会的地位は決して高いとはいえない。インターネット上では、この職業を軽蔑する声さえ見受けられる。 そうした差別意識を端的に表す言葉のひとつが 「雲助(くもすけ)」 である。最近ではあまり聞かなくなったが、かつてタクシー運転手をさげすむ意味で使われていた。いわずもがなテレビでは「放送禁止用語」である。東京の40代タクシー運転手は、こう振り返る。 タクシーに乗り始めたばかりで、東京をどう回ればいいのかわからない新人の頃でした。六本木で乗せたブランド物に身を包んだ成り上がり風の若者、銀座で乗せた定年を迎えたであろう老人。若者は意味もなく不機嫌で、タメ口。老人は、道を知らない私に対して、やたらと命令口調で、上から目線でした。ふたりとも「運転しかできないからタクシー運転手になったんだろ。道くらい知っておけよ、雲助のくせに」的なことを言っていましたね。あと、私の職歴や過去を知りたがっていたのも印象的でした」 もともと雲助とは、江戸時代に街道で駕籠(かご)を担いだり荷物を運搬したりする人足(労働者)を指す言葉だった。歴史家・田村栄太郎の著作『一揆・雲助・博徒』(1972年)から引用する。 続きはYahooニュース 4/13(土) 6:11配信 Merkmal https://news.yahoo.co.jp/articles/38436f16af2b3eaad31c702ea40a4ca08e71191c 33 アフターコロナの名無しさん 2024/04/13(土) 13:36:25.18 ID:Jhgd+I780 もうレイシストがDNAとして組み込まれてるんだろうな 他人を卑下しないと自我を保てないんだろ read.cgi ver 07.4.7 2024/03/31 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる