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インドの起源は古代ギリシャ文明
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0001世界@名無史さん垢版2012/10/02(火) 15:03:33.390
仏教はオルペウスとピュタゴラスが起源
輪廻転生の概念も彼らが起源
0002世界@名無史さん垢版2012/10/02(火) 15:07:23.930
ヴェーダ
0003世界@名無史さん垢版2012/10/02(火) 15:08:49.660
バラモン教
0004世界@名無史さん垢版2012/10/02(火) 15:28:22.320
>>1
妄想オツ
0005世界@名無史さん垢版2012/10/02(火) 21:07:31.370
インダス文明はいずこ?
0007世界@名無史さん垢版2012/10/02(火) 21:22:37.27O
>>1はこの板に居ついて白人、特に古代ギリシャに敵愾心を燃やす気違いです
本人としては多分「白人は何でも起源を主張するんだから古代インド文明だってギリシャのパクりとか言い出すだろw」
的な皮肉を言ってるつもりだと思います
0008世界@名無史さん垢版2012/10/02(火) 21:45:28.870
ギリシャではなかろうが、根は同じだろ。
恐らく現在のアフガニスタンとイランの間らへんが大本の出身地だろうな。
0009世界@名無史さん垢版2012/10/02(火) 22:06:20.85O
ヨーロッパじゃアーリア人の発生地が
ヤマタイ国論争並みに定期的に賑わうと聞いたことあるけれど本当だろうか
0010世界@名無史さん垢版2012/10/02(火) 23:15:41.670
アフラ・マズダーが東洋で盧遮那仏に、西洋でヤハウェになったんでしょ?
古代史ならばどんなことでも起こりうるよ
0012世界@名無史さん垢版2012/10/05(金) 03:29:18.160
阿弥陀仏もアフラ・マズダーの影響があるんじゃなかったっけ
西方浄土ってインドから見たペルシャだろう
0013世界@名無史さん垢版2012/10/05(金) 07:48:23.920
ペルシャはキュロスの覇権が成立するまで僅かな地域でしかなかったから
それは違うと思う。エジプトじゃないの、常識的に考えて。そして
ピュタゴラス教団の戒律ってエジプトの神官の禁忌と似てねえか?
ピュタゴラスってもしかしてエジプト人かね。
0014名無シネマさん垢版2012/10/05(金) 13:20:30.280
大黒様も、吉祥天も、弁天様も、お釈迦様(ネパール)も。。。全部南インドが起源。
0015名無シネマさん垢版2012/10/05(金) 13:22:46.600
ついでに、観音様の起源は、シヴァ神の奥さんなのだ。
0016世界@名無史さん垢版2012/10/05(金) 19:40:48.370
エジプトやギリシャがゾロアスターを知るのはペルシャの勢力が及んだ後
0018世界@名無史さん垢版2012/10/17(水) 22:20:15.140
基本的な流れな。
前22〜20世紀頃 エジプトで冥界神オシリスへの信仰が大衆化、再生と復活が様式化される
前20〜前15世紀頃 古アーリアの対立する部族が北インドとイラン東北部に分かれて侵攻・入植の拡大
→ 古アーリア信仰における神アスラが、イランではアフラとして善神に、インドではアスラとして一介の悪神に
前12世紀頃 インドでリグ・ヴェーダ(神話・賛歌)が編纂され、以後、前8世紀にかけ祭儀書なども発展
前10世紀頃 イラン東北部でザラスシュトラがアフラ・マズダーを最高神としてゾロアスター教を創始
→ 終末論が史上初登場。善神と悪神の最終闘争が行われ、善神の勝利で世界が終わる
前8〜前5世紀頃 古散文ウパニシャッド(奥義書)が登場したのち、ヴェーダンタ哲学が発展へ
前6世紀 キュロス大王がイラン・メソポタミア・シリア・アナトリアを征服、次王カンビュセスがエジプトを征服
前6〜5世紀頃 イオニアで哲学・数学などが振興(タレース、アナクシマンドロス、ピュタゴラスなど)
前6〜5世紀頃 オルペウス教団成立、ピュタゴラス教団もその影響を受け成立
前5世紀 ダレイオス1世がイオニア諸都市を征服、彼の時代より遺物からアフラ・マズダーが登場するように
前5世紀 インドにおいて仏教、ジャイナ教、ローカーヤタ(順世派)などのナースティカ(異端)が登場
0019世界@名無史さん垢版2012/10/18(木) 17:24:01.710
黒人がいたエジプトに科学はないだろうね
0020世界@名無史さん垢版2012/10/18(木) 17:28:05.660
文明とは・・

新石器時代から鉄器時代を牽引した三種類の白人が欧州からペロポンネソス一帯に
降ってきた。そして古代ギリシャ人が紀元前7西紀あたりに
イオニアで科学的思想を生み出す。
それ以前は経験則と迷信に囚われた、エジプトに代表されるような
「現象」であった。これを白人の古代ギリシャ人が人類史上初めて
体系的に類型的に科学として現象世界を塗り替えた。
その後白人のタレスから始まる科学者が古代ギリシャに生まれ、
純粋白人のアレクサンドロス三世が世界に科学と文明と民主主義を
伝える。

0021世界@名無史さん垢版2012/10/18(木) 17:30:23.680
イスラム教徒は今もアレクサンドロス三世に征服されて混血したことを
喜び、一ヶ月くらい祭りを行う(ヘレニズム祭り)。この遠征で仏教も
生まれたからすごい。ヘレニズムは遠い中国まで始皇帝や兵馬俑、仏像などとしても
影響を及ぼし、運慶や快慶もヘレニズム都市から来訪したギリシャ人だったという。
0022世界@名無史さん垢版2012/10/18(木) 17:32:07.530
その唯一の直系の子孫である英国人は19西紀に新しいヘレニズム、
つまり近代化を世界中に押し広め、改めて白人のすごさを思い知らさせることになる。
0024世界@名無史さん垢版2012/10/18(木) 20:12:42.360
古代ギリシャはスキタイ系遊牧民とはガチで対峙していた。
そしてお釈迦さまはこの「サカ」族の系列でギリシャ系とは寧ろ仇関係の流れなんだが。
0025世界@名無史さん垢版2012/10/18(木) 21:43:38.780
途中ちょっとレベル高くなりそうな感じだったが、やっぱりお約束どおりの流れになったなw
0026世界@名無史さん垢版2012/10/20(土) 20:55:02.170
ウルク文明→ウバイド文明→シュメル文明→アッカド文明
→ペルシア文明→ギリシア文明→アラビア文明(現代)
この順序で推移する
0027世界@名無史さん垢版2012/10/20(土) 21:07:18.740
やっぱりペルシア帝国がキーでしょ
領土内に右にゾロアスター教、左にユダヤ教を抱え、
隣国では左にギリシア哲学、右にインド哲学が成立する
ペルシア帝国こそが世界の思想を開花させたグレートマザーだろう
0028世界@名無史さん垢版2012/10/22(月) 20:14:41.310
>>18
>前8〜前5世紀頃 古散文ウパニシャッド(奥義書)が登場したのち、ヴェーダンタ哲学が発展へ

これ何によってんの?

「のち」って書いてあるけど、以下のように随分のちなんだけど
http://en.wikipedia.org/wiki/Vedanta#History
0029世界@名無史さん垢版2012/10/24(水) 15:51:42.700
>>27その時代(紀元前8〜4世紀)ってギリシャしか文献がなくね?他のとこって
文字記述さえない気がする
0030世界@名無史さん垢版2012/10/24(水) 16:15:32.420
>>29
オイオイ、文字の起源ってどこだと思うんよ

ギリシャってエジプトとか西アジアの文化を受けてやっと野蛮から抜け出すとこでしょ
0031世界@名無史さん垢版2013/02/15(金) 23:05:16.80O
★実は怪しい人だったピタゴラス
「直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗に等しい」というのがピタゴラスの定理であるが、
この定理は、前6世紀の数学者ピタゴラスが発見されたといわれている。
だが、有名な作家ヘロドトスは、エジプト人はこの定理を使って、ピラミッドを築き、無名の大工たちも家を建てている。と記している。どうやら、この定理はエジプトではすでに普及していたものらしい。
ピタゴラスが発見したとされる定理は、ピタゴラスのものではなかったという説が有力だが、では一体彼はどんな人物だったのだろうか?
ピタゴラスは、小アジアのサモス島に生まれ、イタリア南部のギリシア人植民地クロトネに移住した。
そして彼は、この地で小さな秘密教団を組織して、弟子たちに自らをアポロ神としてあがめさせた。
0032世界@名無史さん垢版2013/02/15(金) 23:07:36.44O
インド人は現世を基本的には苦しみの多い世界と考え、以下の6つの世界(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)に分類し、
死後はこの六道を輪廻・転生すると考えたのです。
六道輪廻では永遠に苦しみから逃れることができないと考え、

極楽世界(輪廻を超越した世界)である浄土を考えたのです。
地獄の恐怖が浄土を生み出したと言っても過言ではないでしょう。
故人は浄土に往生し阿弥陀仏のもとで仏に成るべく修行をし続けておられるのです。

仏教の真の目的は浄土においても仏に成ることです。
0034世界@名無史さん垢版2013/06/15(土) 23:38:11.080
釈迦は地獄や極楽があると言わなかったと思っていましたが?
0035世界@名無史さん垢版2013/06/16(日) 06:55:54.840
>>34
少なくとも地獄は言ってる
大乗を認めるなら、もちろん浄土も言ってる
0036世界@名無史さん垢版2013/06/16(日) 12:01:05.710
あるともないとも言ってなかったとか
0037世界@名無史さん垢版2013/06/16(日) 22:08:33.280
>>36
そういうこという学者は信用できない
0038世界@名無史さん垢版2013/06/17(月) 00:37:15.46O
輪廻を認めないなら苦しい思いをして修行する必要も、
仏教を信ずる必要も全くないことになる。
死ねば終わってしまうんだから。
そういう馬鹿は釈迦も仏教も全て否定する馬鹿だよ。
輪廻があってそこからの解脱の必要性がなければ仏教は成り立ちようがない。
輪廻や地獄、六道を否定するならそれは仏教じゃない。
最終的には克服し解脱するにしても、それは地獄その他システムを前提にする。
地獄や輪廻を否定する奴は自分は合理的なつもりだが半可通の屑。
釈迦が苦心惨憺、積み上げてきたものを否定する馬鹿。
0039世界@名無史さん垢版2013/12/21(土) 07:14:49.440
仏は道を行うものは正しい言葉を使えと言っている
むやみに罵倒するのは仏の道ではないよ
0040世界@名無史さん垢版2013/12/22(日) 18:31:11.460
なんであれ、先ずは『西洋古典学事典』を読むことだ。
議論はそれからにしろ。

よいな。
0041世界@名無史さん垢版2014/05/20(火) 19:56:58.760
世界史好きの必須世界地図帳はベルテルスマンに限る
これも承知しておいてくれ
0042世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 10:20:41.320
このスレは約束の地に認定されました
0043世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 22:53:41.340
メシャ碑文
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%83%A3%E7%A2%91%E6%96%87

メシャ碑文(メシャひぶん、19世紀には「モアブ碑」として知られた)は黒い玄武岩の石碑で、紀元前9世紀のモアブのメシャ王によって作成され、1868年に発見された。
34行から成るこの碑文は、古ヘブライ文字(en:Paleo-Hebrew alphabet)で記述されたものとしては、古代イスラエルから回収されたもののうち最大のものである。
それはメシャによって、紀元前850年ごろ、彼のイスラエルに対する反乱における勝利とモアブの独立を記録し記念するものとして、彼の元主君であったアハブの死後に作成された。

碑文の記述
神ケモシュの怒りの故に、いかにしてモアブがイスラエル王オムリに征服されたか。メシャの勝利はオムリの息子(名前への言及は無い)に臨み、ガドのアタロト、ネボ、ヤハツの人々に臨む。
彼の公共事業。要衝の地にある要塞を修復し、宮殿と貯水池を造営する。そして、
彼のホロナイムに対する戦争。



テル・ダン石碑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E7%9F%B3%E7%A2%91

テル・ダン石碑は、1933年から1934年のイスラエル北部、テル・ダンでの発掘調査で発見された石碑である。
壊れているが、発見された複数の石片を組み立てたところ、アラム文字で書かれた、祝勝の碑文が彫られていることが分かった。
この石碑はアラム・ダマスカスのハザエル王によって紀元前9世紀後半に残されたものとされている。
また、この石碑はダビデが聖書以外で初めて文献として確認されたものでもある。[1]
この石碑の発見は数多くの論議を醸したが(中には模造品か否かについての論議も)、現在は広く「正銘の石碑である」とされており、
また「ダビデ王朝とダマスカスのアラム王国を参照している」とされている[2]。現在はイスラエル博物館にて展示されている[3]。
0044世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 22:59:38.310
http://www.tmba-museum.jp/page/page_02.html

聖書考古学ニュース

テル・ハツォルのエジプト王のスフィンクス
ダビデ王時代のユダの都市の発見
エルサレム近郊で青銅器時代の住居跡が発見された
死海写本がオンラインで公開された
2本の角のあるペリシテ人の祭壇
大祭司カヤパの孫娘ミリアムの骨壺と判定
エルサレムの地下深くを流れる川あり
紀元1世紀のエルサレムの排水路と道路
乳と蜜の流れる地で発見された養蜂場
エラの谷の遺丘で発見された数十枚の硬貨
0045世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 23:03:01.230
これは「ガト」だね
http://en.wikipedia.org/wiki/Gath_(city)


>>44

聖書考古学ニュース
「2本の角のあるペリシテ人の祭壇」

バル・イラン大学のA.メイアー教授は、テル・ツァフィー(ガテ)で「一本の石で造られた、二本の角(突起)のある祭壇」(前9世紀)が発掘されたと報告した。
これまでにイスラエルで発掘されたのは、「四本の角」のある祭壇だけであり、これは非常に珍しい。
この祭壇は、高さ・幅・奥行きが100センチ、50センチ、50センチであり、旧約聖書から知られる祭壇とほとんど同じ大きさである(出エジプト30:2)。
ペリシテ人の祭壇は、横の三面に帯状の飾りがある。

発掘者の中には、この祭壇はペリシテ人の起源を示すのではないかという見方もあり、祭壇の一つの側面と最上面とが未完成であること、
イスラエルの祭壇との関係など今後の研究が期待される。(提供:Jack Sasson氏)。
0046世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 23:11:20.290
>>43
http://en.wikipedia.org/wiki/Mesha_Stele
http://en.wikipedia.org/wiki/Tel_Dan_Stele


神ケモシュ
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200000936

モアブ人の主神。モアブ人は「ケモシュの民」と呼ばれています。(民 21:29; エレ 48:46)一部の学者たちはこの神をペオルのバアルと同一視していますが,
それはペオルのバアルがモアブ人と関連しているからです。(民 25:1‐3)
普通に行なわれていたわけではないにしても,少なくとも極度の重圧を受けた場合には,子供たちがケモシュに犠牲としてささげられたようです。―王二 3:26,27。

モアブのメシャ王がイスラエルに対する自分の反逆を記念するために立てた,一般にモアブ碑石として知られる黒玄武岩の石碑を見ると,
モアブ人が自分たちの神ケモシュをどう見ていたかをさらに洞察することができます。
0047世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 23:12:39.370
>>46

この記念碑によれば,ケモシュは戦いの勝利を与え,戦争はケモシュの命令で行なわれました。
メシャ王は,イスラエル人による圧制から救出されたのはケモシュのおかげであるとし,
イスラエルの王オムリの手で現に受けた苦しみは,ケモシュが自分の地に対して怒ったためであると考えました。

エフタはケモシュをアンモン人の神として言及しています。(裁 11:24)他の箇所ではケモシュが常にモアブ人と関連づけられているため,
エフタの言葉が正確かどうかを疑問視する学者たちもいます。しかし,アンモン人が多くの神々を崇拝したことを忘れてはなりません。(裁 10:6)
さらに,アンモン人とモアブ人はアブラハムのおいロトを共通の祖先とする,隣り合う民族でしたから,両方の国民がケモシュを崇拝したとしても少しもおかしくありません。

ケモシュの崇拝はソロモンの治世中にイスラエルへ持ち込まれたようです。モアブ人の妻たちの影響によるものと思われますが,
ソロモンは「エルサレムの前にある山の上に」ケモシュのための高き所を築きました。
(王一 11:1,7,8,33)3世紀余り後のヨシヤの大規模な宗教改革の際に,この高き所は礼拝のために用いられないようにされました。―王二 23:13。


預言者エレミヤはモアブに臨む災いを予告した際,モアブの主神ケモシュとその祭司ならびに君たちが流刑の身となることを示しました。
十部族王国のイスラエル人がベテルのことで,恐らくその子牛崇拝との関連ゆえに恥を被ったように,
モアブ人も自分たちの神のことでその無能さのゆえに恥をかかされることになりました。―エレ 48:7,13,46。
0048世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 23:25:09.660
神ケモシュ

http://en.wikipedia.org/wiki/Chemosh_(Biblical)

In the Hebrew Bible, Chemosh (/?ki?m??/; from Hebrew: ????????? [ke?mo?]), was the god of the Moabites (Num. 21:29; Jer. 48:7, 13, 46).
The etymology of "Chemosh" is unknown. He is also known from Ebla as Kamish.

Chemosh was the national deity of the Moabites whose name most likely meant "destroyer," "subduer," or "fish god."
While he is most readily associated with the Moabites, according to Judges 11:24 he seems to have been the national deity of the Ammonites as well.
His presence in the Old Testament world was well known, as his cult was imported to Jerusalem by King Solomon (1 Kings 11:7).
The Hebrew scorn for his worship was evident in a curse from the scriptures: "the abomination of Moab." King Josiah destroyed the Israelite branch of the cult (2 Kings 23).


According to the Hebrew Bible, the worship of this god, "the abomination of Moab," was introduced at Jerusalem by Solomon (1 Kings 11:7),
but was abolished by Josiah (2 Kings 23:13). (Note: The Talmud quoted by Rashi says that his wives built the temples and he is considered responsible for not stopping them.)
On the Moabite stone, Mesha (2 Kings 3:5) ascribed his victories over the king of Israel to this god, "And Chemosh drove him before my sight."
0049世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 23:39:42.830
王の道 (パレスチナ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E3%81%AE%E9%81%93_(%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ed/Ancient_Levant_routes.png/800px-Ancient_Levant_routes.png

王の道(おうのみち)はヨルダン川の谷と死海の東を南北に走り、エジプトとメソポタミアを結ぶ幹線道路で、
アカバ湾岸のエラテからディボン、ヘシュボン、ラバテ・アンモン、ラモテ・ギルアデ、アシュタロテなどの町をへてダマスコに至る道。旧約聖書にも登場する。

王の道の周辺には、青銅器時代からすでに住居や要塞が発見されているので、この道路は前23世紀から20世紀の間には使用されていたと考えられる。

創世記14章でケドルラオメルと彼にくみした5人の王と戦った時に、王の道を通ってきたと考えられる。
モーセを指導者としてエジプトを出たイスラエル民族は、エドムの王とエモリ人の王シホンに彼らの領土を通ることを申請して拒絶された。
この時、イスラエル民族はシホンと戦い、その地を占領した。

ソロモン王の治世においては、アカバ湾岸のエツヨン・ゲベル(エラテ)とユダとアラム(シリヤ)を結ぶ重要な交易道路であった。
0050世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 23:49:50.800
モアブ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%83%96

モアブとは、古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名であり、
死海の東岸、アルノン川(現ヨルダン・ハシェミット王国のワディ・アル・ムジブ)以南からゼレド川以北(現ヨルダンのワディ・アル・ハサ)の高原地帯に広がる地域を指す。
この地域は、現在のヨルダン・ハシェミット王国のカラク高原地域(カラク県)にほぼ等しい。

なおモアブと呼ばれた地域は、中世イスラム期にはマアブ(Ma?b)と呼ばれていたことが、9世紀のアラブ人地理学者ヤクービ(al-Yaqubi)の記述から分かる。
旧約聖書によれば、ロトとロトの長女との間に生まれた息子モアブ(???? ヘブライ語で「父によって」の意)に由来し、
その子孫がモアブ人となってエミム人を打ち払ってその地域に定住したとされている[1]。


考古学による検証[編集]

モアブ人の存在は多数の考古学調査の結果によって証明されている。
モアブ人は鉄器時代にはカラク地域に王国を築いており、同地域がイスラム教の影響下に置かれる前には「モアブ」と呼ばれていたことも突き止められている。
カラク高原地域に存在するBalu'a等の鉄器時代の集落遺跡が、モアブ王国の集落であったと考えられている。
また、ヨルダン川東岸の地域、つまりアルノン川より北の地域のうちヨルダン川を西の境界としヤボク川を東の境界とする地域については、「モアブの野」「モアブの平野」[2]などと表現される。
この地域はかつてアンモン人の支配下にあり[3]、後にアモリ人の支配下に移ったとされる。

モアブ人の実在を証明する最大の証拠は、メシャ王の時代に作成されたとされるメシャ碑文で、
紀元前850年の「イスラエルの王オムリ」に対するモアブ人の勝利が記され、モアブの主神ケモシュが称えられている。
メシャ碑文に加えて、1958年にはヨルダン南部の都市カラクでモアブ文字で書かれた碑文の断片が発見されている(カラク碑文)。
この碑文にもモアブの主神ケモシュの神殿に関する言及がある。
カラクは聖書のキル・ヘレス(Kir Heres)であるとされるが、ここがモアブの首府であったとする説もある。
カラク碑文は現在、カラク考古博物館(カラク城内)に展示されている。
0051世界@名無史さん垢版2014/05/28(水) 23:53:26.360
http://en.wikipedia.org/wiki/Ammon
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/Kingdoms_around_Israel_830_map.svg/502px-Kingdoms_around_Israel_830_map.svg.png


Ammon (Hebrew: ???????, Modern Ammon Tiberian ?Ammon ; "People"; Arabic: ?????, translit.: ?Amm?n; Greek: Αμμονιοι),
also referred to as the Ammonites and children of Ammon, was an ancient nation best known from the Old Testament,
which describes Ammon as located east of the Jordan River, Gilead, and the Dead Sea, in present-day Jordan.[1][2][3]

The chief city of the country was Rabbah or Rabbath Ammon, site of the modern city of Amman, Jordan's capital.
Milcom and Molech (who may be one and the same) are named in the Bible as the gods of Ammon.[4]


うーん、ミルコムか
0052世界@名無史さん垢版2014/05/29(木) 00:04:23.540
カラク (ヨルダン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AF_(%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3)

カラクには少なくとも鉄器時代から人が住んでおり、イスラエル人とは隣人ながら対立もしていたモアブ人の重要都市(モアブの首都でもあったとされる)・キル(Qir)があった。
1958年には、カラクからモアブ文字で書かれた碑文(カラク碑文)の断片が発見されており、モアブの主神ケモシュの神殿に関する言及などがある。

キルは旧約聖書ではキル・ハラセテ(キル・ヘレス、Qer Harreseth, Kir Heres)と呼ばれていた。
イザヤ書15章から16章はモアブの行く末に関する預言が語られており、その中でモアブが敵に攻め滅ぼされるさまが語られ、
16章11節では「わがはらわたはモアブのためにわが胸はキル・ヘレスのために竪琴のように嘆く」とある。
キルはシリア地方に攻め込んだアッシリア帝国の侵略にさらされた。

アモス書1章5節・9章7節では、キルはシリア人(アラム人)がパレスチナの北に住む前に住まわされていた地であるとされ、
列王記下の16章9節ではティグラト・ピレセル王がダマスコ(ダマスカス)を征服した後、その住民をキルに強制移住させたことが記されている。

またこの時期には、古代エジプトからアカバ、マアーン、アンマン、ダマスカスを経てメソポタミアに至る「王の道」(King's Highway)と呼ばれる街道がキルを通っていた(民数記20章17節-20説)。



カラク城[編集]

カラクの十字軍の城は、シリアにあるクラック・デ・シュヴァリエなどと並び保存状態が非常に良い。
ケラク城は1142年、エルサレム王フールクの部下ペイヤン・ル・ボーテイエ(Payen le Bouteiller)の手によって建設が始まった。
十字軍の間ではこの城はクラック・デ・モアビテ(Crac des Moabites、モアブの城)またはモアブのケラク(Kerak in Moab)などと呼ばれていた。
城は古くからこの地にあった高名な教会・ナザレ教会の周囲に築かれている。

カラク城からの眺め。死海のみならずヨルダン川西岸まで見渡せる
0054世界@名無史さん垢版2014/06/03(火) 18:11:52.140
ラクダの家畜化は紀元前10世紀
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140212004

Mairav Zonszein for National Geographic News
February 12, 2014


 イスラエル、テルアビブ大学の2名の考古学者が発表した最新の研究結果によると、
地中海東岸部では、ラクダが最初に家畜化された時期は紀元前10世紀ごろまで遡ることがわかったという。
旧約聖書に記述された推定時期より数世紀遅いことになる。

 聖書が編纂された年代についてはさまざまな説があるが、今回の調査によると、通説よりもかなり後という可能性が高いという。
以前から歴史的資料としての信憑性に乏しいという研究結果が発表されていた旧約聖書だが、それを改めて裏付ける結果となった。

 今回の研究では、イスラエル南部、アラバ渓谷の銅精錬所でラクダが家畜化されていたという記述に言及している。

 聖書には、ヒトコブラクダが47回登場する。また、ユダヤ人の始祖アブラハム、ヨセフ、ヤコブといった人々が登場する物語には、家畜のラクダに関する記述がある。
例えば創世記24章11節は、「彼はラクダを町の外の、水の井戸のそばに伏させた。時は夕暮で、女たちが水をくみに出る時刻であった」となっている。

 専門家はその時期について、創世記の内容や、シュメール人の都市ウル(現在のイラク)の遺跡で見つかった考古学的情報、
または都市国家マリ(現在のシリア)の遺跡で出土した粘土板の記録などに基づいて、紀元前2000?1500年の出来事と判断している。


 しかし、研究を主導したイスラエルの考古学者エレズ・ベン・ヨセフ(Erez Ben-Yosef)氏とリダー・サピル・ヘン(Lidar Sapir-Hen)氏は、
放射性炭素年代測定法と発掘物の調査から、この地域(地中海東側の沿岸国)でラクダが家畜化された正確な年代を特定。
聖書の記述は、想定よりさらに後の時期に書かれたという事実を突き止めた。

 ベン・ヨセフ氏は、「アラバ渓谷の銅精錬所跡で見つかった考古学的な証拠から、
家畜化された時期を世紀単位ではなく数十年単位の精度で特定した」と、テルアビブ大学が先週発表した声明で述べている。

 サピル・ヘン氏は、「紀元前930?900年の30年に絞ることができた」と語る。
0055世界@名無史さん垢版2014/06/03(火) 18:12:26.740
>>54
◆銅とラクダの関係

 アラバ渓谷は、死海から紅海のアカバ湾まで伸び、イスラエルとヨルダンの国境を成す。
紀元前14世紀?9世紀後期ごろまで、同地域では銅の精錬が盛んだった。

 研究チームは、渓谷の遺跡で見つかる動物の遺骸に興味深い傾向があることを発見。
大量のラクダの骨が、ほぼすべて紀元前930?900年代のものだったのだ。

 紀元前925年、古代エジプト王シェションク1世が同地域を侵略した時期とも重なっている。

 研究チームは現在、この史実とラクダの関係性について調査中だ。
エジプトがユダ王国とイスラエル王国を征服した後、銅精錬事業を再編、
その過程でそれまで利用されていたロバやラバよりも効率的な輸送手段として、ラクダが導入された可能性がある。

 地中海東側の地域では、ラクダの家畜化によって経済的、社会的に大きな変化が訪れたはずだ。
活動範囲も、広大な砂漠地帯を越えてかつてないほどに広がったとみられる。

 アラバ渓谷の発掘現場からは、新石器時代(紀元前9700年ごろ)の骨もみつかっている。
しかし野生種と推定されており、銅の塊を背負っていた痕跡はないという。

 今回の研究結果は、「Tel Aviv: Journal of the Institute of Archaeology of Tel Aviv University」誌で昨年末に発表されている。
0056世界@名無史さん垢版2014/06/03(火) 18:23:32.640
>>54
http://en.wikipedia.org/wiki/Arabah


History[edit]

Wadi Arabah. Sunset.

In Biblical times, the Arava was a center of copper production; King Solomon is believed to have had mines here.
The Arabah was home to the Edomites (Edom was called "Idumea" in Roman times).
East of the Arabah was the domain of the Nabateans, the builders of the city of Petra.

Kibbutz Yotvata founded in 1957, was named for an ancient town in the area mentioned in the Bible. Kibbutz Lotan has a bird-watching center.
The oldest moshav in the central Arava area is Ein Yahav.

The Israel?Jordan Peace Treaty was signed in the Arava on October 26, 1994. The governments of Jordan and Israel are promoting development of the region.
There is a plan to bring sea water from the Red Sea to the Dead Sea through a canal (Red?Dead Seas Canal), which follows along the Arabah.
This (long envisioned) project was once an issue of dispute between Jordan and Israel, but it was recently agreed that the project shall be constructed on and by the Jordanian side.

http://en.wikipedia.org/wiki/Petra
0058世界@名無史さん垢版2014/06/05(木) 02:37:18.530
http://en.wikipedia.org/wiki/Category:Lists_of_monarchs


http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_rulers_of_Pre-Achaemenid_kingdoms_of_Iran
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_rulers_of_Elam

http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Jewish_monarchs

http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_kings_of_Ancient_Epirus
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_kings_of_Athens
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_kings_of_Pontus

http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_kings_of_Macedonia
0059世界@名無史さん垢版2014/06/05(木) 02:44:56.870
http://en.wikipedia.org/wiki/Districts_of_the_Achaemenid_Empire

Herodotus divided the Achaemenid Empire into 20 districts.
The following is a description of the ethnic makeup of the districts and the amount they paid in taxes, translated from Herodotus' Histories.


うーん、確かティルスの税金が最高額だったとあった気がしたんだけど
もしかしてアッシリアだったかなぁ。
0060世界@名無史さん垢版2014/06/06(金) 02:44:00.980
http://en.wikipedia.org/wiki/City_of_David

1 Archaeology
1.1 Chalcolithic (4500?3500 BCE)
1.2 Early Bronze Age (3500?2350 BCE)
1.3 Middle Bronze Age (2000?1550 BCE)
1.4 Late Bronze Age (1550?1200 BCE)
1.5 Iron Age I (1200?980/70 BCE)
1.6 Iron Age IIa (1000?900 BCE)
1.6.1 Necropolis
1.7 Iron Age IIIb (8th century ? 586 BCE)
1.8 Babylonian and Persian periods (586?322 BCE)
1.9 Hasmonean and Herodian periods (167 BCE ? 70 CE)
1.10 New Testament references for the City of David being Bethlehem
1.11 Byzantine and early Islamic Periods (324?1099 CE)
0064世界@名無史さん垢版2014/06/27(金) 22:01:25.430
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%A4
にある、読み替えに関して調べてみることにする。


宗教[編集]
スキタイが祀る神として最も重んずるのがヘスティアー(かまどの女神)で、
ついでゼウスとゲー(大地の女神)で、スキタイはゲーをゼウスの妻としている。
さらにアポローン、ウーラニアー・アプロディーテー(天上のアプロディーテー)、ヘーラクレース、アレースがある。
これらはスキタイ全民族が祀る神であるが、王族スキタイはさらにポセイドーン(海の神)にも犠牲を供える。
これは王族スキタイがアゾフ海沿岸に住んでいるためだと思われる。
以上の神々はギリシア風に訳したものであり、スキタイ語にすれば以下のようになる。


ヘスティアー→タビティ
ゼウス→パパイオス
ゲー→アピ
アポローン→ゴイトシュロス
ウーラニアー・アプロディーテー→アルギンパサ
ポセイドーン→タギマサダス

基本的にスキタイでは神像や祭壇や社は造らないのであるが、アレースだけには神像や祭壇を設ける。
0068世界@名無史さん垢版2014/06/29(日) 22:17:39.120
エツヨン・ゲベル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%84%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%99%E3%83%AB

エツヨン・ゲベルは旧約聖書に登場するパレスチナの町の名前である。「男の背骨」という意味で地形から出た呼び名であると推定される。
1934年F・フランクによりテル・エル・ケレーフェがエツヨン・ゲベルであると同定された。
また、1938年にN・グリュックは、エラテが南ユダ王国時代にエツヨン・ゲベルになったと推定している。
出エジプト後のイスラエル人がカナンに向かう途中で宿営した場所として、民数記に登場する。エラテの次に宿営した場所である考えられる。

エイラト湾(アカバ湾)に面した都市で、ソロモン時代には港町として栄えた。

エツヨン・ゲベルとエラテは、前1200年頃後期青銅器時代の終わり頃に、エドム人かミデヤン人によって開発された。
ヨシャパテ王時代に、オフィルに行こうとした船団が難破した。
また、ウジヤ王の時に、エラテが再建されたが、ヨタムの子アハズの時代に、エドム人に奪い取られた。
0069世界@名無史さん垢版2014/07/12(土) 13:22:05.340
http://www.kanko-miyazaki.jp/kaido/50story/


「神話と伝説のふるさと」といわれる宮崎は、古事記や日本書紀に記されている日向神話をはじめ、
歴史ロマンをほうふつさせる数多くの伝説や史跡にあふれ、歴史資源の宝庫となっています。

これらの神話や伝説とともに、地域の人々によって、さまざまな暮らしが営まれ、その土地の風土をかたちづくってきました。
 晩秋の山里に響く神楽(かぐら)の音、祭、踊り、唄…。これらは営々と続く地域の生活の中から、生み出されてきたものであり、宮崎の文化そのものです。

ひむか神話街道は、神話や伝説に彩られたまちや村をつなぐ道として平成十五年六月に誕生しました。
沿線には、天孫降臨、海幸彦・山幸彦などの神話や、平家落人、百済王などの伝説が数多く残され、その魅力を今日に生き生きと伝えています。

「ひむか神話街道五十の物語集」では、沿線に語り継がれる神話や伝説五十話と、物語に関連する伝承地百ヶ所を紹介しています。
 五十の物語は、「神話編」と「伝説編」に分け、関連する逸話などは「こぼれ話」として紹介しています。

これらの物語は、時代を超えて私たちの心にそっと舞い降り、悠久の歴史とロマンをささやいています。
 この物語集を手にされた方が、宮崎の神話と伝説に触れ、そのロマンを少しでも感じていただければ幸いです。
0070世界@名無史さん垢版2014/07/16(水) 23:47:11.080
書けなくなったかも
0071世界@名無史さん垢版2014/09/04(木) 23:26:20.020
ヤズィーディー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC

ヤズィーディー(Yazidi、ヤジーディー、ヤズィード、ヤジディ)は、中東のイラク北部などに住むクルド人の間で信じられている民族宗教。
Mishefa Re?やKiteba Cilweといった独自の聖典を持つ。ミスラ信仰等のイスラーム化する以前の諸宗教の系譜を引く、クルド人の宗教と言われるが、
元来山岳部が信仰の中心ということもあり、未だ明らかにされていない部分も多い。

イラクの他に、周辺のシリア、ロシア、アルメニア等にも見られる。イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教の影響を受けており、
七大天使、就中、孔雀天使マラク・ターウースを信じる。

歴史的に見ればスーフィズムの影響から始まったように見られるが、輪廻転生を教義の根幹に持つなど、イスラムの教義体系からは逸脱が目立つ。
そのため、多数派のムスリム(イスラム教徒)から邪教扱いされている。
啓典の民から除外されるのでジズヤを支払って見逃されることはなく、コーランか剣かの対象となる[1]。
近年、イラクの治安悪化と長年の迫害から、ドイツ等欧州諸国へ大規模に移住している。
0072世界@名無史さん垢版2014/09/04(木) 23:30:56.440
イラクで迫る危機、ヤジディ教徒とは
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140811002


ヤジディ教徒はイラク北西部の山岳地帯に何世紀にもわたり居住してきた。
また、この地域はヤジディ教徒にとって聖地や神殿、先祖が住む村などが存在する場所でもある。
シンジャル以外では、モスル北部の地区や、クルド人が支配するドホーク県に固まって住んでいる。
ヤジディ教徒にとって、この地は宗教的に大きな意味を持っている。

ヤジディ教はトルコやドイツなどに小さな信徒のコミュニティーが残っており、世界中から信奉者が巡礼のためイラクにある聖都ラリッシュを訪れる。
だが今では、ISISの前線がこの聖なる町から65キロ足らずのところに迫っている。



◆絶え間ない誤解にさらされてきたヤジディ教

 ヤジディ教は、多様な宗派がモザイク状に入り交じるイラクでも、その図式にうまく収まらないため、誤解されることが多い宗教だ。
ヤジディ教徒の大半はクルド語を話し、民族的には自らをクルド人と考える者が多いが、ヤジディ教徒は宗教の面で、スンニ派が多数を占める一般のクルド人とは異なっている。

 ヤジディ教は長く続く信仰で、イスラム教の教えにゾロアスター教や古代ペルシャの宗教、さらには地中海東部に起源を持つ謎の多い宗教のミトラ教が入り交じり、口伝えによる豊かな伝統を持つ。
このようにさまざまな信仰体系が混合された宗教はシンクレティズム(混交主義)と呼ばれるが、この点もイスラム教徒から異端の烙印を押される理由の1つとなっている。
その正確な起源については依然として議論があるものの、一部の研究者の説によれば、ヤジディ教は12世紀に形成されたという。
この時期にはスーフィー(イスラム教神秘主義)の指導者、アディ・イブン・ムサフィル(Adi ibn Musafir)がクルディスタン地域に居を構え、
イスラム教徒と地元に残るゾロアスター教の信仰の要素を合わせたコミュニティーを創設している。
0073世界@名無史さん垢版2014/09/05(金) 00:29:35.410
聖都ラリッシュ build 1986 BCE
District Shekhan
http://en.wikipedia.org/wiki/Lalish
http://en.wikipedia.org/wiki/Shekhan_District

Lalish (Kurdish: Lali?, also called Lali?a Nurani), is a small mountain valley village situated in the Shekhan District of Nineveh Province in northern Iraq.
It is the location of the tomb of Sheikh Adi ibn Musafir (?ex Adi), the main figure of the Yazidi faith.[1]
The village is above the town of Shekhan, the town with the second largest population of Yazidi Kurds.[2]
The village is about thirty-six miles north-east of Mosul.[3]

At least once in their lifetime, Yazidis are expected to make a six-day pilgrimage to Lalish to visit the tomb of ?ex Adi and other sacred places.[1]
These other sacred places are shrines dedicated to other holy beings.
There are two sacred springs called Zamzam, which is in a cave below Skeikh Adi's sanctuary, and K?niy?.
Lalish is also the location of pirr? sel?t (?er?? Bridge) and a mountain called Mt. ?Araf?t sites significant in other faiths.
Yazidis living in the region are also expected to make a yearly pilgrimage to attend the autumn seven day Feast of the Assembly,[3] which is celebrated from 23 Ayl?l to 1 Ta?r?n I.
0074世界@名無史さん垢版2014/09/05(金) 00:39:18.380
イラク、聖地を追われるヤジディ教徒
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20140904001


 ヤジディ教徒にとって、イラク北部クルド山岳地帯にある町ラリッシュは、イスラム教にとってのメッカ、
あるいは3大一神教であるイスラム教、キリスト教、ユダヤ教にとってのエルサレムのような存在だ。
そこはいにしえより続くクルド少数民族の信仰にとって、最も神聖なる地である。


◆信仰の中心地

 ラリッシュは、緩やかに波打つ丘陵地帯に取り囲まれた緑豊かな谷の奥深くに隠され、今のところは安全である。
ほとんど目立たないので、そばを通る主要道路からは簡単に見逃してしまいそうだ。

 しかしここに点在する宗教的神殿の数々が、少なくとも6700年の歴史を持つと言われるヤジディ教徒たちの最大の懸念対象となっている。

 イスラム教徒がメッカへ巡礼するように、ヤジディ教徒もできるなら一生に少なくとも一度はラリッシュへ巡礼することが求められている。
イラクに住んでいれば、少なくとも年に一度は巡礼しなければならない。

 ヤジディ教へ対する迫害は今に始まったことではない。彼らによると、長い歴史の中で少なくとも72回はそのような迫害を経験しており、今回で73回目となる。
信者の数は、100万とも70万とも、あるいは30万人とも見積もられている。
ドイツには、ヤジディ教徒の住む大きなコミュニティがあり、そのほか北アメリカ、トルコ、シリアなどにも在住している。
しかし、ほとんどのヤジディ教徒はラリッシュを中心とするイラク北部に居住している。
0075世界@名無史さん垢版2014/09/05(金) 00:40:49.980
>>74

◆厳しい信仰体系

 ヤジディ教は誰でも受け入れる宗教ではない。改宗を禁じ、輪廻転生を信じ、厳しいカースト制度を守っている。
これは、ヤジディ教のルーツが数千年前のインドにも関わりがあったことの名残である。ヤジディ教徒以外との結婚や、カーストを超えた結婚も認められていない。

 ゾロアスター教とメソポタミアの伝統儀式が入り混じり、キリスト教、ユダヤ教、スーフィー教(イスラム教神秘主義)の影響を受け、その信仰の中心にはターウース・マラクを頂点とする7人の大天使が存在する。
ターウース・マラクはまたの名を孔雀天使、もう少し聞こえが悪い名前でシャイターン(悪魔)とも呼ばれている。

 しかし、悪魔を堕天使であるとみなす3大一神教とは違い、ヤジディ教では悪魔は罪を赦され、その大量に流された悔恨の涙が地獄の火をかき消してしまったと信じられている。

 そしてイスラム教徒がメッカに向かって祈るように、ヤジディ教徒は太陽に向かって祈りを捧げる。

 これらのことから、ISをはじめ他の宗教は、ヤジディ教を悪魔崇拝、太陽崇拝の背教者とみなしている。


◆土地に強く根ざした信仰

 ヤジディ教の深遠な信仰は土地に複雑に根ざしているため、その土地を集団で追われるということは、単に自分の家を失う以上に深い痛みを伴うものである。
避難生活によって、彼らの信仰を支えてきたいにしえの生活習慣や伝統が姿を消してしまう可能性がある。

 例えば、信者が洗礼を受けるには必ず、たとえ外国に居住していたとしても、2つの聖なる泉のどちらかへやってこなければならない。

 その泉から汲んだ水は、ラリッシュから採れる土と混ぜ合わせて泥団子を作り、結婚式や葬式などの儀式で欠かせない重要な祭事品として用いられる。葬式では、この泥が死者の目、耳、口に塗布される。

 他にも、春に行われる新年の祝いなど、主に祭事にまつわる多くの儀式が、ラリッシュとその周辺の土地に深く関係している。
0076世界@名無史さん垢版2014/10/03(金) 06:42:22.740
ここもダメなら諦める
0077世界@名無史さん垢版2014/10/04(土) 23:41:43.550
78万〜56万年前頃のウマのゲノム解読
http://sicambre.at.webry.info/201311/article_10.html

この研究では、
カナダのユーコン準州で78万〜56万年前頃の永久凍土層から発掘されたウマの骨から得られた低カバー率の概要ゲノム配列と、
更新世後期のウマ、
現代の家畜ウマ5品種、
モウコノウマ(モンゴルのステップ原産で絶滅が危惧されている亜種)および
ロバ
の概要ゲノム配列とが比較されました。


http://www.nature.com/nature/journal/v499/n7456/fig_tab/nature12323_F3.html

進化: 古代のウマのDNAからウマ属系統を解明
カナダのユーコン準州で約78万〜56万年前の永久凍土層から発掘されたウマの骨から、低カバー率の概要ゲノム配列が得られた。
これは、解読された全ゲノム塩基配列としては、これまでで最も年代が古い。

得られたデータは、更新世後期のウマ、現代の家畜ウマ5品種、モウコノウマ(モンゴルのステップ原産で絶滅が危惧されている亜種)およびロバの概要ゲノム配列と比較された。
比較ゲノミクスにより、現代のウマ、シマウマおよびロバの全ての起源となるウマ属系統が生じたのは、
約450万〜400万年前であることが示唆された。この年代は従来の想定よりもはるかに古い。

またこのデータは、モウコノウマが最後の現存する野生ウマ集団であるという説を裏付けている。
0078世界@名無史さん垢版2014/10/05(日) 00:35:43.160
>>77

https://trace.ddbj.nig.ac.jp/DRASearch/sample?acc=SRS438345

Title
Ancient Sample for Equus caballus, CGG10022 (43 Ky BP)

Description
from Krasnoyarsk, Taymyr Peninsula, Russia calibrated date:
42,012-40,094 BP Radiocarbon accession UBA-16478


Taymyr Peninsula
http://en.wikipedia.org/wiki/Taymyr_Peninsula

タイミル半島

タイミル半島(タイミルはんとう)はシベリア北部に位置する北極海に突き出た半島。
西はカラ海に注ぐエニセイ川が河口で形成するエニセイ湾、東はラプテフ海に注ぐハタンガ川とハタンガ湾で限られる。
半島全域がロシア連邦、クラスノヤルスク地方に属するタイミル自治管区に含まれる。

半島の最北端はチェリュスキン岬(北緯77度43分、北極点から約1,300km)。
チェリュスキン岬はユーラシア大陸の最北端でもある。その北にヴィリキツキー海峡を隔ててセヴェルナヤ・ゼムリャ諸島がある。
半島の中央部を高さ1,000mほどのビルランガ山脈が走り、山脈の南麓にタイミル湖がある。

住民の数はわずかであり、ロシア人のほかに、ドルガン人、ネネツ人、ガナサン人などがいる。
2012年、このあたりに住む11歳の少年により、永久凍土のなかからマンモスの死骸が発見された。
非常に保存状態が良く、知らせを受けた専門家によると約3万年前に死んだ15-6歳程度の雄のマンモスと推定されている。[1]

Russian Arctic showing Fridtjof Nansen's route
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ef/Nansen_Fram_Map.png
0079世界@名無史さん垢版2014/10/05(日) 09:53:26.950
アシュケナージ系ユダヤ人の起源
http://sicambre.at.webry.info/201409/article_13.html

 アシュケナージ系ユダヤ人の起源についての研究(Carmi et al., 2014)が公表されました。
この研究によると、アシュケナージ系ユダヤ人集団は800〜600年前頃にヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団が融合して出現したそうです。
そのさいの遺伝子プールに占める両祖先集団の割合はほぼ同程度だった、と推測されています。
アシュケナージ系ユダヤ人集団が形成された時期と近い頃に、集団ボトルネックが起きたようです。
また、ヨーロッパ系祖先集団が最終氷期極大期の頃の22100〜20400年前に中東系祖先集団から分岐した時に、
創始者集団のボトルネックが起きた、と推測されているようです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。
0080世界@名無史さん垢版2014/10/05(日) 09:57:26.700
>>79

【遺伝】アシュケナージ系ユダヤ人のルーツ

 現代のアシュケナージ系ユダヤ人集団については、最近のいくつかの遺伝学的研究によって、特徴が明らかにされているが、
今週掲載される論文によれば、この集団の出現は、約600〜800年前のことであり、ヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団の融合の結果であった可能性が非常に高いとされる。

 過去の研究で、アシュケナージ系ユダヤ人は、他のユダヤ人集団と現代の中東系、ヨーロッパ系の人々に近縁な遺伝的に独立した集団とされていた。
独立した集団には、独特な遺伝的特徴が見られることが多く、アシュケナージ系ユダヤ人の独特な遺伝的特徴の1つは、パーキンソン病、乳がん、卵巣がんなどの遺伝性疾患の罹患率が高いことだ。

 今回、Itsik Pe’erたちは、アシュケナージ系ユダヤ人の128件の完全ゲノムの高深度配列解読を行い、
その結果を用いて、過去の研究によって報告されていた集団ボトルネック(集団内個体数の激減)があったことを確認し、
それが25〜32世代前だったことを明らかにした。

 また、Pe’erたちは、現代のアシュケナージ系ユダヤ人が形成されたのが600〜800年前(集団ボトルネックが起こった時期に近い)で、
ヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団の融合によるものだったことを示すモデルを作成した。
また、ヨーロッパ系祖先集団が20400〜22100年前(最終氷期極大期の頃)に中東系祖先集団から分岐した時に、創始者集団のボトルネックが起こったことも明らかになった。
ヨーロッパ系祖先集団と中東系祖先集団のそれぞれの祖先も独自のボトルネックを起こしたことも判明し、それが「出アフリカ」事象に対応している可能性が非常に高いと考えられている。

 今回の研究は、ヨーロッパ人と中東人の歴史に関する手掛かりをもたらしているだけでなく、
アシュケナージ系ユダヤ人集団の基準ゲノムを明らかにしており、これまでより容易に有害な遺伝的変異を同定できるようになった。


Sequencing an Ashkenazi reference panel supports population-targeted personal genomics and illuminates Jewish and European origins
http://www.nature.com/ncomms/2014/140909/ncomms5835/full/ncomms5835.html

元にはたいした情報は無さそう
0081世界@名無史さん垢版2014/10/05(日) 10:00:32.040
こっちのは結構おもしろかったはず


ユダヤ人のゲノムと他集団との比較
http://sicambre.at.webry.info/201007/article_14.html

 ユダヤ人の全ゲノム構造についての研究(Behar et al., 2010)が公表されました。
この研究では、14のユダヤ人共同体から得られたゲノムのデータが、アフリカ・ユーラシアの69の非ユダヤ人集団のそれと比較されていますが、
この69の非ユダヤ人集団のうち25集団は、この研究以前には報告されたことがありません。
この比較の結果、現代のユダヤ人の大半とレヴァントの非ユダヤ人集団とが近い関係にあることが明らかになりました。
この結果は、現在のユダヤ人の大半が、レヴァントにいた古代ヘブライ人およびイスラエル人の子孫である、とする歴史学の見解と整合的です。

 対照的に、エチオピアおよびインドのユダヤ人共同体は、後者とレヴァント人との父系での明確な関連にも関わらず、
それぞれエチオピアおよびインド西部の隣接する非ユダヤ人集団と密接な遺伝的関係が認められました。
この説明として、エチオピアやインドにユダヤ人共同体が確立されたときに、かなり大規模な遺伝的・宗教的・文化的な交差が起こった可能性が指摘されています。
インドやエチオピアでは、移住してきたユダヤ人の数が少なかった、ということでもあるのかもしれません。


参考文献:
Behar DM. et al.(2010): The genome-wide structure of the Jewish people. Nature, 466, 238-242.
http://dx.doi.org/10.1038/nature09103
0082世界@名無史さん垢版2014/10/05(日) 10:56:58.090
ここにはまだ載ってないね


「アシュケナジム・ハザール起源説」について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB#.E9.81.BA.E4.BC.9D.E5.AD.A6.E7.9A.84.E7.A0.94.E7.A9.B6


また、アシュケナジムの使用言語であるイディッシュ語の系統が西ゲルマン語群に属する高地ドイツ語(標準ドイツ語)の一つである点もハザール起源説に無理がある理由である。
ハザールはテュルク系と考えられているが、イディッシュ語にはテュルク諸語との類縁関係が全くない。
アシュケナジムがハザール起源なら当然イディッシュ語にはテュルク系言語の特徴が残っているはずである。
ハザールがユダヤ教に改宗したのは(それがどの程度の規模であったかはともかく)確かであるが、それまで母語としてきたテュルク系言語まで捨てたとは到底考えにくい。
しかもハザールの故地にはカライ派ユダヤ教徒がいるが、彼らの使用言語であるカライム語はテュルク諸語の一つである。
このようにカライム人のカライム語はテュルク系言語として残っている一方で、アシュケナジムのイディッシュ語にはテュルク系言語的特長が全く残らずゲルマン系言語になっている。
この理由についてハザール起源説は何ら説明がない。
0083世界@名無史さん垢版2014/10/07(火) 01:18:10.430
「0」と「無限」はアレクサンドロス三世がインドを征服した際にもたらせたと
アメリカの数学者が言ってたよ
0084世界@名無史さん垢版2014/10/08(水) 00:52:25.750
>>83
ごめんな
リサイクルしたものを廃品回収したんだ
0085世界@名無史さん垢版2014/10/09(木) 20:22:20.380
正しく知りたかったら、
『西洋古典学事典』を読め。


よいな。
0087世界@名無史さん垢版2014/10/13(月) 08:53:41.660
歴史なんてロバの学問だと
ユークリッド精神がずっと受け継がれていた欧州人はすでに見破っていた。
0088世界@名無史さん垢版2014/10/17(金) 02:53:08.260
最古の洞窟壁画か? インドネシア
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20141009005

October 9, 2014

 人類最初の壁画アーティストが現れたのは先史時代のヨーロッパと長年考えられてきたが、スラウェシ島の壁画が年代測定されたことで、その範囲が大きく広がりつつある。
今回測定された壁画には、手形のステンシルとバビルサ(インドネシア語で“豚鹿”を意味する)が含まれる。

「ヨーロッパやスラウェシ島では、獰猛な大型哺乳動物が圧倒的な迫力で描かれました。おそらく当時の人々の信仰に重要な役割を果たしていたのでしょう」と、
研究を率いたオーストラリア、クイーンズランド州にあるグリフィス大学の考古学者マキシム・オーベール(Maxime Aubert)氏は述べる。

 人類の祖先がアフリカ大陸から世界中へ伝播したのは6万年以上前とされるが、スラウェシ島にあるマロス洞窟遺跡の壁画はそれより古い可能性がある。

◆最古の芸術

 1950年代以降、スラウェシ島の洞窟から数百もの手形のステンシルや動物の壁画が見つかっている。
描かれた年代は先史時代、島に狩猟採集民が渡って来た1万2000年前以降と推測されていた。

 今回の研究で、研究者らは7つの洞窟にある壁画を覆っていた1センチメートルに満たない鉱物の層を調査した。
鉱物層のウラン含有量を測定することで、鉱物が水によって壁面に運ばれた年代が明らかになる。これら堆積物の年代から、壁画の描かれた年代が絞り込めるというわけだ。

 最も古い手形のステンシルは3万9900年と測定されたが、あくまでも壁画を覆っていた鉱物の最小年代に過ぎない。つまり、その壁画はそれより数千年古い可能性がある。

 スペインのエル・カスティージョ洞窟にある赤い円は、同じ年代測定法で少なくとも4万800年とされ、現在知られている洞窟壁画としては最古のものだ。
また、同じ洞窟にある手形のステンシルは3万3700年前のもので、スラウェシ島の壁画と同時期にあたる。

「洞窟壁画の起源に関して、これまで“ヨーロッパ中心”の見方であったことをこの研究は示しました」と、イギリス、サウスハンプトン大学の考古学者アリステア・パイク(Alistair Pike)は語る。

◆アフリカから?
0089世界@名無史さん垢版2014/10/29(水) 00:21:18.970
そろそろやろう


西シベリアの45000年前頃の現生人類のゲノム
http://sicambre.at.webry.info/201410/article_26.html
より


遺伝学:シベリア西部で発掘された4万5000年前の現生人類のゲノム塩基配列
遺伝学:4万5000年前の現生人類のゲノム
 2008年に、シベリア西部のウスチイシム近郊にあるイルティシ川の土手で現生人類の大腿骨化石が見つかり、約4万5000年前のものと推定された。
J Kelsoたちは今回、この標本から得たゲノムの塩基配列を解読し、
この個体が、ユーラシアに移動した現生人類が西部集団と東部集団に分かれる前か、分かれたのと同じ時期に生きていた男性であることを明らかにした。
解析から、この個体が、ネアンデルタール人由来のゲノム塩基配列を現代ユーラシア人に見られるのと同程度の量保有していることが分かった。
ネアンデルタール人由来のゲノムセグメントの長さに基づき、この男性の祖先にネアンデルタール人の遺伝子が流入したのは、彼が生きていた時期の1万3000〜7000年前だと見られる。
現生人類とネアンデルタール人の交雑時期は、従来の見積もりでは8万6000〜3万7000年前とされていたが、今回の研究で、交雑はおよそ6万〜5万年前に起こったことが示唆された。
この年代は、現生人類のヨーロッパ(そしておそらくアジア)への拡散時期と一致する。


参考文献:
Callaway E.(2014D): Oldest-known human genome sequenced. Nature, 514, 7523, 413.
http://dx.doi.org/10.1038/514413a
0090世界@名無史さん垢版2014/11/08(土) 12:29:53.500
36000年以上前のヨーロッパロシアの現生人類のゲノム
http://sicambre.at.webry.info/201411/article_9.html
より


この研究は、ヨーロッパロシアにあるコステンキ−ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で
1954年に発見された若い男性(以下、コステンキ人と省略)の人骨(尺骨)からDNAを抽出し、ゲノム配列を確定することに成功しました。
この男性の年代は38700〜36200年前とされており、肌や目の色は濃いことが明らかになりました。
解析された現生人類のゲノムとしては、現時点では2番目に古いものとなります。
ちなみに、現生人類のゲノム配列として現時点で最古のものは、西シベリアの45000年前頃の人骨から得られています(関連記事)。


 ゲノム解析の結果、コステンキ人と遺伝的に近縁なのは、
・中央シベリアの24000年前のマリタ(Mal’ta)遺跡の少年(関連記事)
・ヨーロッパの中石器時代の狩猟採集民・一部の現代西シベリア人
・多くの現代ヨーロッパ人であり、
現代東アジア人とはこれらの系統よりも遺伝的に疎遠であることが明らかになりました。

このことから、西ユーラシア人と東アジア人とは36200年以上前に分岐したのではないか、と推測されています。
また、コステンキ人のゲノムには、後のヨーロッパ新石器時代の中東起源の農耕民とも関連する領域も確認されました。
この研究は、上部旧石器時代にヨーロッパから中央アジアまで局所的集団が多数存在し、
それぞれの局所的集団が拡大と消滅を繰り返しながらも存続しているという状況を想定し、
そうした中でヨーロッパ人が形成されていったのではないか、との見通しを提示しています。
0091世界@名無史さん垢版2014/11/08(土) 12:40:17.130
>>90

 この研究に関して注目されているのは、今年(2014年)9月に公表された現代ヨーロッパ人の起源に関する研究です(関連記事)。
その研究では、現代ヨーロッパ人は遺伝的にはおもに、
全ヨーロッパ古代人の祖先である西ヨーロッパの狩猟採集民・上部旧石器時代シベリア人と遺伝的に近縁な
古代北部ユーラシア人・中東起源の初期ヨーロッパ農耕民の3系統に由来している、と主張されています。
これらの系統は個別にヨーロッパに進出し、新石器時代になってこの3系統が融合した、とされています。

しかし、コステンキ人はこの3系統の遺伝子を全て有しており、この研究を率いたウィラースレヴ(Eske Willerslev)博士は、コステンキ人を「純粋なヨーロッパ人」と述べています。
ヨーロッパ人の遺伝的形成は、じゅうらい想定されていたよりもずっと早かったのではないか、というわけです。


 上記報道や解説で強調されているのが、コステンキ人の系統は遺伝的に未知だった系統と交雑した、ということです。
この遺伝的に未知の系統は、36000年以上前のコステンキ人の系統との少ない遺伝的交流を除いて、
おそらく上部旧石器時代の中東で3万年以上ヨーロッパの現生人類集団とはほぼ交流なく生き延び、
氷期が終わった後に農耕を始めて、ヨーロッパに進出したのではないか、と推測されています。

上記報道では、ヨーロッパと中東は地理的に近いように見えるが、ある種の地理的障壁があったのではないか、と指摘されています。
また、この遺伝的に未知の系統は、上部旧石器時代の間、たとえばザグロス山脈のような退避所で過ごしたのではないか、と推測されています。
0093世界@名無史さん垢版2014/11/10(月) 21:05:26.950
しかし、安定の一品です
貼るだけの簡単なお仕事


Genome of Kostenki-14, an Upper Paleolithic European (Seguin-Orlando, Korneliussen, Sikora, et al. 2014)
http://dienekes.blogspot.jp/2014_11_01_archive.html

http://1.bp.blogspot.com/-jlF6eSOWmnk/VFwpvCk9MjI/AAAAAAAAJ1o/lkmfDp204OU/s1600/F2.large.jpg
http://2.bp.blogspot.com/-YECMQQMgnlk/VFw0eBTGjRI/AAAAAAAAJ14/itneofdPteI/s1600/F1.large.jpg

But there is a slight kink in the story, as K14 also belonged to Y-haplogroup C which is predominantly East Asian/Ocenian/Native American today.
So, maybe there is some distant link to these populations in its ancestry.

But, there is definitely a link to much more recent Europeans:
the tiny percentage of living Europeans who have preserved K14's Y-chromosomal type (some of which were doubtlessly told a few years back that they were descendants of Genghis Khan, before the phylogenetic structure of C was known),
the La Brana hunter-gatherer from Mesolithic Spain, as well as Neolithic Europeans from Hungary.


と思ったが、mtDNAがない
0094世界@名無史さん垢版2014/11/10(月) 21:15:11.090
>>93

S3: Samples and laboratory methodologies applied

Samples

The K14 sample used in this study was obtained from the left tibia (dorsal side of
the shaft). Note that the tibia was washed before sampling. As described in S1, the
skeleton has been directly dated to 38,684 - 36,262 cal BP. According to the complete
mitochondrial sequence of the tibia that has been characterized in previous ancient DNA
analyses,

the K14 individual belonged to mitochondrial haplogroup U2 (131).

Two other
samples, K1 and K15, were also analyzed but endogenous DNA contents and levels of
contamination by modern humans were found incompatible with the characterization of
the whole genome sequence by shotgun sequencing.
0096世界@名無史さん垢版2014/11/22(土) 20:13:09.190
>>93

MA-1からアメリカ要素を大きく減らしたものがK14か。
そんでK14はMA1にはない東アジアと中東を持ってると。

この地理上の矛盾はオーパーツか、、、
0097世界@名無史さん垢版2014/11/22(土) 20:57:43.860
>>93

K14とMA-1とも南アジアを持っているということは
中東人の形成っていうのはかなり後ってことなんだろうね。

結局、農耕の開始にともなって自然選択されるんだろうけど
K14が持ってる中東ぶんを除く必要があるんらろうなぁ。
0098世界@名無史さん垢版2014/11/25(火) 19:41:57.860
ギリシャ文明のピークはアレキサンダーからプトレマイオス朝滅亡までだろうな
ポリス時代のギリシャはフェニキアと違ってポリス間の抗争も凄まじく、
領域が限られているし、ヘレニズム時代が一番充実している感じがある
その後のローマ時代になるとギリシャ人もコプト人もアラム人も弱兵化して
衰退化していってる感満載だ もうギリシャには新しいものは作れなくなり、次は中世イタリア
0099世界@名無史さん垢版2014/11/25(火) 20:14:29.230
違うよ。ギリシャ文明はヘレニズム後にイスラムで開化する。
イスラム文明の起源はギリシャ白人。
0100世界@名無史さん垢版2015/01/04(日) 12:02:01.280
これまたウキウキするやつ
http://dienekes.blogspot.jp/2015/01/ancient-dna-from-di-qiang-populations.html


Ancient DNA from Di-qiang populations in the Xinjiang
American Journal of Physical Anthropology DOI: 10.1002/ajpa.22690

Ancient DNA reveals a migration of the ancient Di-qiang populations into Xinjiang as early as the early Bronze Age

Tianshanbeilu
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/From_Neolithic_to_Bronze_Age_in_China.jpg/550px-From_Neolithic_to_Bronze_Age_in_China.jpg

Hexi Corridor
(Chinese: 河西走廊; pinyin: Hexi Zoulang; Wade?Giles: Ho-hsi Tsou-lang) or Gansu Corridor
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4e/China_Gansu.svg/220px-China_Gansu.svg.png
0101世界@名無史さん垢版2015/01/09(金) 20:37:16.010
>>100


ワハーン回廊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%9B%9E%E5%BB%8A
http://en.wikipedia.org/wiki/Wakhan_Corridor

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/Wakhan.png

ワハーン回廊(ペルシア語:????)とは、アフガニスタン北東のバダフシャーン州に位置する東西に細長く伸びた回廊地帯。ワハーン渓谷、ワハン回廊とも。

歴史[編集]
かつてはタクラマカン砂漠を通って東西を結ぶシルクロード、いわゆる「オアシスの道」の一部をなす重要なルートであった。
19世紀にはグレート・ゲームの主要な舞台となる。

地理[編集]
パミール高原を東西に連なるこの地域は、西を本土とわずかに連絡する他は
北をタジキスタン、東を中華人民共和国、南をパキスタン(カシミールの一部を含む)に囲まれた東西200km、南北15kmの狭隘な高原である。
ヒンドゥークシュ山脈を越える南部のパキスタン国境(デュアランド・ライン)には、ブロゴル峠(英語版)、カランダル峠(英語版)、イルシャード峠(英語版)、Dilisang Passがある。


ここに住んでる人はたしか極少数語派だったよ。
と思ったが、7〜10万人だったらけっこういるな
0102世界@名無史さん垢版2015/01/11(日) 16:33:33.020
アルテミス(!ArtemiV)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/artemis.html

 アルテミスはまた熊と特別の関係にあったらしく、女神の怒りをかって牝熊に変じられたカッリストーは、本来アルテミス自身(アルテミス・カリステーKalliste《もっとも美しい》)であったと思われる。
オレステースが姉のイーピゲネイアとともにタウリスTaurisのケルソネーソスCbersonesos(クリミア)からハライHalaiにもたらしたアルテミス像は、人身御供を要求する恐ろしい女神で、
これはブラウローンBrauronで祭られて、ブラウローニアーBrauroniaと呼ばれ、アテーナイのアクロポリス山上にも神域をもち、少女たちが熊をまねて、黄色い衣を着て踊った。

女神に対する人身御供の風習の名残りは他のところにも見いだされる。
アルテミスはアポッローンが太陽と同一視されたと同じように、月の女神セレーネーおよび月と関係があるヘカテーとしばしば同一視あるいは混同されているが、
これはこれらの女神の支配の範囲や性格がたがいに重なりあっている部分があるからである。

さらにアルテミスはスパルタのオルティアOrtheiaとも同一視されているが、
オルティアは明らかにドーリス人が北方からもたらした印欧語源を有する女神で、もとはまったく異るものである。


Ortheia, Goddess of Sparta
in the Archaic Period, 600s bce
http://www.sourcememory.net/art/greece/oldgreek.html

鳥女神だけど蛇もいるよ

http://www.sourcememory.net/art/greece/ortheia.jpg
http://www.sourcememory.net/art/greece/sparta.png
http://www.sourcememory.net/art/greece/hekate_artemistmpl.png
0103世界@名無史さん垢版2015/01/12(月) 04:47:22.970
>>101
中国側のワハン人はサリコール人と並んで中国の少数民族「タジク族」として知られているが
彼らは実際にはイラン語派とはいえパミール諸語のワハン語・サリコール語を話す別民族
隣国タジキスタンのタジク語(実質ペルシャ語)は地域共通語としてたしなみ程度に話せるというだけ
つまり本当のタジク族は中国にはいない
0107世界@名無史さん垢版2015/01/18(日) 00:37:16.220
ウィリアム・テル
http://en.wikipedia.org/wiki/Palnatoke

ヴィルヘルム・テル/ウィリアム・テル(ドイツ語:Wilhelm Tell 、フランス語:Guillaume Tell〔ギヨーム・テル〕、
イタリア語:Guglielmo Tell〔グリエルモ・テル〕、英語:William Tell)は、
14世紀初頭にスイス中央部のウーリ州のアルトドルフに住んだとされる伝説の英雄。

彼の名が記された史料が見つかっていないため実在性は証明されていないが、スイス人の6割はテルが実在の人物であると信じている[1]。
彼はスイスのみならず世界的に有名で、日本でも弓の名手として知られている。
日本では長らく英語名に基づいた表記「ウィリアム・テル」が使われており、他にドイツ語名に即した表記「ヴィルヘルム・テル」も用いられている。

当時ハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝アドルフの時代に強い自治権を獲得していたウーリの支配を強めようとしていた。
ヘルマン・ゲスラー(ウーリのアルトドルフにやってきたオーストリア人の代官)は、その中央広場にポールを立てて自身の帽子を掛け、その前を通る者は帽子に頭を下げてお辞儀するように強制した。
しかし、テルは帽子に頭を下げなかったために逮捕され、罰を受ける事になった。
ゲスラーは、クロスボウの名手であるテルが、テルの息子の頭の上に置いた林檎を見事に射抜く事ができれば彼を自由の身にすると約束した。
テルは、息子の頭の上の林檎を矢で射るか、それとも死ぬかを、選択することになった。
1307年11月18日、テルはクロスボウから矢を放ち、一発で見事に林檎を射抜いた。
0110世界@名無史さん垢版2015/01/18(日) 21:58:02.480
遺伝学: サハラ以南のアフリカにおける遺伝的多様性
Nature 517, 7534
2015年1月15日

http://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/60002

アフリカゲノム多様性プロジェクト(AGVP)では、アフリカの遺伝的疾患研究に重要な情報を提供すべく、アフリカ人のゲノム構造についてのデータを収集している。
現在、サハラ以南アフリカ全域からの1481人の高密度遺伝子型と320人の全ゲノム塩基配列が得られている。
これらのデータを用いてM Sandhuたちは、マラリアや高血圧に関係する遺伝子座など、現在選択を受けている遺伝子座を新たに明らかにした。
彼らは、最新のインピュテーションパネル(参照用遺伝子型群で、研究で観察されない、あるいは欠失した遺伝子型を推測するのに使う)によって、
サハラ以南アフリカのヒト集団間で高度に分化した遺伝子座についても、関連シグナルが明らかにできることを示した。

また、全ゲノム塩基配列解読を使えば、インピュテーションの精度がより改善されることも実証した。
さらに著者たちは、アフリカに広く見られる遺伝的変動を捉えられる、効率の良い遺伝子型アレイを初めて設計した。
0111世界@名無史さん垢版2015/01/18(日) 22:15:09.22ID:40AoiHAA0
ゴッドファーザー?

Y chromosome super-fathers

http://dienekes.blogspot.jp/2015/01/y-chromosome-super-fathers.html

This is a very exciting paper. Most of these lineages are so young that there are good chances that their founders were figures from history or mythology.

The most interesting one is DC2 which was also found in south Siberian Kurgans,
belongs to haplogroup R1a1 and is given an age of 3,284 years by the authors (with some almost impossibly wide confidence intervals).

Based on its distribution, and if a Bronze Age date is right,
it is difficult to see in it anything other than a patrilineage that was present in Proto-Indo-Iranians.


http://3.bp.blogspot.com/-jmZRvSt1kaU/VLaeIe2CDvI/AAAAAAAAJ38/8inWntfBShQ/s1600/Figure4.jpg
http://1.bp.blogspot.com/-w7ny-VqU2Fw/VLaeNlk440I/AAAAAAAAJ4E/T1FYBQu7Rcs/s1600/Table1.jpg
0113世界@名無史さん垢版2015/01/21(水) 01:22:32.970
>>111
ふっふーん


DC5(700BC) 新アッシリア時代

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2
http://en.wikipedia.org/wiki/Neo-Assyrian_Empire

いわゆるアッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのはティグラト・ピレセル3世の時代である。
彼はバビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた(シリア・エフライム戦争(英語版)、バビロニア遠征(フランス語版))。

被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称で記録されたとされる。
アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが大量捕囚政策としてしられる被征服民の強制移住である。
強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。
特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた。

3 Tiglath-Pileser III, 744?727 BC
3.1 Invasion of Israel (738 BC)
4 Sargonid dynasty
4.1 Sargon II, 721?705 BC
4.2 Sennacherib, 705?681 BC
4.3 Esarhaddon, 681?669 BC
4.4 Ashurbanipal, 669?627 BC
4.4.1 Legacy of Ashurbanipal
0114世界@名無史さん垢版2015/01/21(水) 02:05:35.660
>>111
はっはーん

DC11(300BC) マウリヤ朝

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/4/43/Maurya_MAP.png

成立[編集]

いわゆる十六大国の中でも最も有力であったマガダ国ではナンダ朝が支配を確立していた。
しかしナンダ朝はシュードラ(カーストの中で最下位)出身であったことからバラモン教の知識人たちによって忌避されていた。
こうした状況下にあって、マガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。

これに対しナンダ朝は将軍バッサダーラ(Bhadrasala)を鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、
紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領してナンダ朝の王ダナナンダ(英語版)を殺し(ナンダ朝の滅亡(英語版))、新王朝を成立させた。
これがマウリヤ朝である。

こうしてガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。
インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前にマケドニアのアレクサンドロス大王によって制圧されていたが、
アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。

ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。
チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し(セレウコス・マウリヤ戦争(英語版))、
セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。
これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。
0115世界@名無史さん垢版2015/01/21(水) 02:08:11.880
>>114続き

紀元前293年頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子ビンドゥサーラが王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は記録が乏しい。
彼はデカン高原方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。
ビンドゥサーラの息子に史上名高いアショーカがいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、
タクシラーで発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。


アショーカ王[編集]

紀元前268年頃ビンドゥサーラ王が病死すると、アショーカは急遽派遣先から首都パータリプトラに帰還し、長兄(スシーマ?)を初めとする兄弟を全て(仏典によれば99人)殺害して王となったと伝えられる。
しかしこれは王位継承の争いが後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカ王治世に各地の都市に彼の兄弟が駐留していたことが分かっている。
とはいえ、彼の即位が穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式を行ったのが即位の4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠を拒否するものが続出したという伝説などからも窺われる。

アショーカ王は国内での反乱の鎮圧や粛清を繰り返しながら統治体制を固め、紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征を行った。
カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。

ギリシア人メガステネスの記録によればカリンガ国は歩兵6万・騎兵1千・戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、
マウリヤ朝の中央インド統治にとって最大の障害であった。

激戦の末カリンガを征服したが、この時の戦争で多数の人命が失われた(当時の記録によれば多数の徳のあるバラモンが死に、
捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。)。
カリンガ国の征服によってマウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、
アショーカ王はカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、
それまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教を深く信奉するようになり、ダルマ(法)による統治を目指すようになったという。
0116世界@名無史さん垢版2015/01/21(水) 02:12:32.450
>>115まだ続く

滅亡[編集]

アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があるが記録が乏しくその最後はよくわかっていない。
チベットの伝説によればタクシラで没した。アショーカ王には数多くの王子がいた。

彼らは総督や将軍として各地に派遣されていたがその多くは名前もはっきりとしない。
そして王位継承の争いがあったことが知られているが、その経緯についても知られていない。
いくつかの伝説や仏典などの記録があるが、アショーカ王以後の王名はそれらの諸記録で一致せず、その代数も一致しないことから王朝が分裂していたことが想定されている。

いくつかのプラーナ文献によればアショーカ王の次の王は王子クナーラであったが、彼はアショーカ王の妃の1人ティシャヤラクシターの計略によって目をえぐられたという伝説がある。
クナーラ以後の王統をどのように再構築するかは研究者間でも相違があって容易に結論が出ない問題である。
しかし分裂・縮小を続けたマウリヤ朝はやがて北西インドで勢力を拡張するヤヴァナ(インド・ギリシア人)の圧力を受けるようになった。
『ガールギー・サムヒター』という天文書には、予言の形でギリシア人の脅威を記録している。


マウリヤ朝最後の王は仏典によれば沸沙蜜多羅[1](プシャヤミトラ)、プラーナ聖典によればブリハドラタ(英語版)であった。
これはブリハドラタとする説が正しいことがわかっている。

プシャヤミトラはブリハドラタに仕えるマウリヤ朝の将軍であり、北西から侵入していたギリシア人との戦いで頭角を現していった。
そして遂にはブリハドラタを殺害してパータリプトラに新王朝シュンガ朝を建て、マウリヤ朝は滅亡した。その時期は紀元前180年頃であったと考えられている。
0117世界@名無史さん垢版2015/01/24(土) 18:53:05.310
未盗掘の首長級墓から大量の副葬品 宮崎県えびの市・島内地下式横穴墓群 [宮崎県]
2015年01月19日(最終更新 2015年01月20日 01時13分)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/miyazaki/article/140283

 宮崎県えびの市教育委員会は19日、同市島内(しまうち)の島内地下式横穴墓群から、
2体の人骨と武具や装飾付き馬具など大量の副葬品を納めた
古墳時代中期末−後期初頭(5世紀末〜6世紀初頭)の未盗掘の墓が見つかったと発表した。

副葬品が土に埋もれずほぼ完全な状態で見つかるのは極めて珍しい。

朝鮮半島製とみられる大刀(たち)や、大和政権との関係を示す甲冑(かっちゅう)一式も出土しており、首長級の有力者が埋葬されたとみられる。

 遺体を安置する墓の玄室(奥行き2・25メートル、高さ0・94メートル、幅3・1メートル)には、
女性の遺骨1体と男性とみられる遺骨1体とともに、矢羽根周辺に黒漆を塗ったものを含む約300本の矢や、
箱に入った状態の鏡など計400点を超える副葬品があった。

 銀メッキでさやなどを装飾した銀装円頭大刀が出土したのは九州で初めて。
朝鮮半島=百済(くだら)ないしは伽耶(かや)=で作られたものと様式が酷似しており、半島製と判断できるという。

また、衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と短甲(たんこう)、肩甲(かたよろい)などが完全にそろって出土した甲冑は、
他の国内遺跡から出土した大和政権下で作られたものと様式が似ており、大和政権との政治的関係を示している。

 玄室が土に埋まらなかったため、馬具や大刀のつかに繊維や革など有機物も残っており、当時の製法や使用法の解明についても期待できる。
 調査に当たった鹿児島大総合研究博物館の橋本達也准教授(考古学)は「武器や馬具の特徴から、
埋葬された人物は朝鮮半島で軍事や交易の交渉に関わるなど、大和政権と政治的関係を持っていた可能性がある」と話している。

=2015/01/20付 西日本新聞朝刊=
0118世界@名無史さん垢版2015/01/29(木) 17:48:14.020
>>114
カンボージャってカンボジアと同じ?
0120世界@名無史さん垢版2015/01/29(木) 20:35:25.160
>>118
らしい

【同じ語源の世界史用語】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1408804414/89

89 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 00:47:58.62 0
東南アジアのカンボジア王国は、バラモン僧のカンブー(Kambu)が建国者とされることからその名があるが、
ヴェーダや仏典によれば現アフガニスタン南部にカンボージャという蛮族がおり、
インド西部のキャンベイ(カンバート)湾もカンボージャ族に由来するといわれる。
またアケメネス朝ペルシアの大王カンビュセス(ペルシア語名カンブージヤ)も同じ語源ともいう。
0121世界@名無史さん垢版2015/01/29(木) 21:45:48.390
中国の新石器文化の一覧

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%96%B0%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

すっきり
0122世界@名無史さん垢版2015/01/29(木) 23:07:28.370
>>111
ほんまかいなww

DC6(900BC)


呂尚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%B0%9A

呂尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。
姓は姜、氏は呂、字は子牙[2]もしくは牙[3]、諱は尚とされる[4]。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる[3]

在位期間 前1021年頃? - 前1000年頃


西戎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E

西戎(せいじゅう)あるいは戎(じゅう)および犬戎(けんじゅう)は、四夷の一つ。
中国西部に住んでいた牧畜民族で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。

周代には現在の陝西省・四川省から甘粛省・チベット自治区の付近にいた。
周の十二代王幽王は暴政を布いたので諸侯の恨みを買い、諸侯の一人申公の誘いを受けた犬戎(けんじゅう)は紀元前770年に周の首都鎬京を陥落させて西周時代の終わりを告げた。
これ以降は春秋時代に入る。
0123世界@名無史さん垢版2015/01/30(金) 18:52:19.710
>>120
しかし矢印のさす向きは
アフガンに向いてるんだよね
0124世界@名無史さん垢版2015/01/31(土) 17:56:30.090
>>109
加藤九祚によれば

ペルセポリスの彫刻では全部の23の従属民族代表団のうち
8つの代表が馬、5つの代表がラクダを献上している。

13番目がパルティア
15番目がバクトリアの住民とされている
20番目はヒトコブラクダでアラブからの代表団であった。

ラクダは、メソポタミアに「ヒトコブ」と「フタコブ」として現れた。
シュメルのテキストには、タムムズ神がラクダの乳を飲んだことが書かれている。
前2000年紀の印章にはフタコブラクダに乗った人物像が見える。

ヒトコブラクダが記録に登場するのはサルマナサル3世(前858-824)の銘文で
イビリ(ibili、アラブ語のイズル、イビリンに由来)という名前で登場している。
フタコブラクダの名称はイドゥル(idulu)で、サロネン(A.Salonen)によればバクトリア方面んに由来するという。
0125世界@名無史さん垢版2015/01/31(土) 18:08:49.360
>>124

中央アジアには金石併用時代にヒトコブ、フタコブラクダが出現している。
トルクメニスタンのアナウ遺跡では前5000年紀の層からラクダの粘土模型や彫刻がみつかっている。

フタコブラクダが家畜化されたあきらかな証拠としてトルクメンのコペトダーク山麓平野で
前3000-2000年紀の初めの層から発見された4輪車を引くラクダの多数の粘土模型あげられる。
マルギアナでもこの時期の資料からラクダが見つかっている。

サパリテパで発見された前2000年紀中ごろの首飾りにもフタコブラクダがあった。

リトヴィンスキーは、タフティ-サンギンの飾板のラクダがヒトコブとフタコブのラクダの交雑種であり、
七宝の技法はアケネメス朝の時代に属し、
描かれているのはオスク神殿に捧げるためにラクダを連行している光景だろうと考えている。
作成もバクトリアであろうとしている。
0126世界@名無史さん垢版2015/01/31(土) 18:22:27.160
>>124

青銅器時代の遺跡サパリテパ、ジャルクタン、
編むダリや中流部左岸(アフガン)ティリャ-テペ、ダシュリ1号と3号

マルギアナの青銅器文化と、はるか北東方にある
前3000年紀末の古代ソグドにおける青銅器文化の大中心サラズム(約100ヘクタール)
とのつながりも指摘されている。
サラズムは古代ペシケントの西15km、ゼラフシャン川の岸辺にある。

発掘者イサコフ(A.Isakov)は、この文化をマルギアナからの移住者によるものとしている。
0129世界@名無史さん垢版2015/02/01(日) 00:36:02.540
ばれましたwっつっても加藤九祚って書いてるやん
たまたま俺の手元にある二冊のうち一つにヒットしただけで・・・
そんで、ちょっと上に同じサイトのリンクあったのなスマソ
自分でググった気になってたが、それ踏んで見ただけなのか自信がなくなってきた
0131世界@名無史さん垢版2015/02/07(土) 00:54:48.670
失蝋法の最古の記録がパレスチナにあると見かけたが
おそらくこれだね。


デッドシーは、ナハール ミシュマルといった観光スポットでその名を知られています。
場所は死海の西岸


ナハル・ミシュマ(ナハール ミシュマル)の宝物庫
http://en.wikipedia.org/wiki/Nahal_Mishmar

In 1961, Israeli archaeologist Pessah Bar-Adon discovered a hoard of Chalcolithic artifacts in a cave on the northern side of Nahal Mishmar.[1]
The hoard included 432 copper, bronze, ivory and stone decorated objects; 240 mace heads, about 100 scepters, 5 crowns, powder horns, tools and weapons.[2][3]
Archaeologist David Ussishkin has suggested the hoard was the cultic furniture of the abandoned Chalcolithic Temple of Ein Gedi.[4][5]
Prominent finds from the hoard are currently on display in the archaeology wing of the Israel Museum in Jerusalem.


Dating; use of lost-wax process[edit]

Many of these copper objects were made using the lost-wax process, the earliest known use of this complex technique.

"Carbon-14 dating of the reed mat in which the objects were wrapped suggests that it dates to at least 3500 B.C.
It was in this period that the use of copper became widespread throughout the Levant,
attesting to considerable technological developments that parallel major social advances in the region."[6]

Some of the tools in the hoard were made of arsenical bronze, or perhaps arsenical copper.
Since they contain a rather high percentage of arsenic (4?12%),
they should technically be described as arsenical bronze; also such objects have a bright, silvery appearance.
Arsenic in copper makes is harder than pure copper and more easily cast.
0132世界@名無史さん垢版2015/02/07(土) 21:29:11.930
インドは中東やエジプトと同じくヘレニズム地域でしょ。古代ギリシアが起源なのは本当じゃん。
世界史の教科書にもアレキサンダー大王によるヘレニズムによって現在のそれらの地域のモデルが形成されたと書かれてる。
0133世界@名無史さん垢版2015/02/08(日) 12:23:01.860
>>132
現在のそれらの地域のモデルが形成されたのは
少なくともイスラム以後
普通に考えたら大英帝国とその後
になると思います。
0134世界@名無史さん垢版2015/02/09(月) 13:01:49.930
イスラムはアレクサンドロス三世の遠征が起源だから当然じゃん
0135世界@名無史さん垢版2015/02/10(火) 00:01:42.770
 
お世話になります。
私、責任者の加茂と申します。以後、宜しくお願い致します。
http://www.apamanshop.com/membersite/27009206/images/kamo.jpg
浪速建設様の見解と致しましては、メールによる対応に関しましては
受付しないということで、当初より返信を行っていないようで、今後につい
てもメールや書面での対応は致しかねるというお答えでした。
http://www.o-naniwa.com/index.html 事務員 東条 南野
http://www.o-naniwa.com/company/ 岡田常路
このように現在まで6通のメールを送られたとのことですが、結果一度も
返信がないとう状況になっています。
http://www.apamanshop-hd.co.jp/ 加茂正樹 舟橋大介
http://s-at-e.net/scurl/nibn-apaman.html 大村浩次
私どものほうでも現在までのメール履歴は随時削除を致しております
ので実際に11通のメールを頂戴しているか不明なところであります。
  
 ・ハンガー・ゲーム   http://s-at-e.net/scurl/TheHungerGames-Aircraft.html
 ・スタートレック     http://s-at-e.net/scurl/StarTrek-Aircraft.html
 ・アバター        http://s-at-e.net/scurl/Avatar-Shuttle.html
 
 ・T   http://s-at-e.net/scurl/ia-T.html
 ・Zle  http://s-at-e.net/scurl/ia-Zle.html
 
  http://s-at-e.net/scurl/Batman.html
 
大阪府八尾市上之島町南 4-11 クリスタル通り2番館203
に入居の引きこもりニートから長期にわたる執拗な嫌がらせを受けています。
この入居者かその家族、親類などについてご存知の方はお知らせ下さい。
hnps203@gmail.com
0136世界@名無史さん垢版2015/02/11(水) 09:45:22.260
アレキサンダー、バクトリア、大月氏、クシャーナ朝と、特に北西部は西方のイラン・ギリシャの影響がでかいな
0137パピルス垢版2015/02/18(水) 21:51:12.200
パ・エン・ペアルルで「ファラオのもの」しかしこれは俗説

結局のとこ古代エジプトでは
メヒトmehyt→湿地に生える植物の総称
あるいは以下のようによばれたようだ
チュウフィイtjufy→特定の植物
0138世界@名無史さん垢版2015/02/19(木) 13:34:04.040
まずシュメールがあってインダス文明もフェニキアもギリシャも起こる これが凄い 
ギリシャの前にはフェニキアがあるが、シュメールの前には素朴な農耕文化しかない
メソポタミア:好戦的シュメール都市国家成立→以降は遊牧民侵入の繰り返し→最初から他地域より好戦的
エジプト:温和なエジプト王国成立→ヒクソス以降は遊牧民侵入の繰り返しで好戦的文化に 
インダス:好戦的なシュメール都市国家の影響→温和なインダス都市文明成立→遊牧民侵入の繰り返しで好戦的文化に
中原:長江に農耕文明成立→遊牧民侵入による黄河王国成立で好戦的文化に→以降は遊牧民侵入の繰り返し 
0139世界@名無史さん垢版2015/02/19(木) 22:35:15.630
>>138

シュメールはなんで最初から好戦的なの?
0141世界@名無史さん垢版2015/02/20(金) 01:34:07.020
http://en.wikipedia.org/wiki/Sistan_and_Baluchestan_Province

イランの州(オスターン)。イラン南東部にあってパキスタンおよびアフガニスタンと国境を接する。
州都は人口42万のザーヘダーン。面積は181,600km2でイラン第二位。人口は210万。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6e/Major_ethnic_groups_of_Pakistan_in_1980.jpg/620px-Major_ethnic_groups_of_Pakistan_in_1980.jpg

名称[編集]

「バルーチェスターン」とはペルシア語でバルーチの地という意味であり、パキスタンにはバローチスターン州がある。
またスィースターンは古くは「スィジスターン」 Sijist?n ?????? と呼ばれていたもので、これは中世ペルシア語の「サカスターナ」すなわちサカの地に由来する。


スィースターン[編集]

ビーストゥーンおよびペルセポリスに碑文では、スィースターンはダーラヤワウ大王の東方領域であると記されている。
先述のようにスィースターンの名はサカ族に由来する。サカ族はアーリア人の支族で、紀元前128年にこの地域の支配権を握った。
現在のスィースターンはサカ族支配地域の極西部であった。スィースターンに住んだサカ族はアルシャク朝期(紀元前63年 - 220年)にパンジャーブへと放逐された。
サーサーン朝から初期イスラーム期まで、スィースターンは相当に繁栄したようである。スィースターンがサーサーン朝の統治下に入ったのはアルダシール1世の時である。

スィースターンの地はゾロアスター教との関わりが非常に強い地であり、サーサーン朝期にはハームーン湖(英語版)(Dary?cheh-ye S?stan)はゾロアスター教徒の二大巡礼地の一つであった。
ゾロアスター教伝承において、ハームーン湖はゾロアスターの種の保持者である。
これは世界の最終的刷新の直前に三人の処女が湖に入り、それぞれが世界の最終的刷新において人類の救世主となるサオシュヤントを生むというものである。
スィースターンにおける最も著名な考古学遺跡にクーヘ・ハージェフ(英語版)(ペルシア語: ??? ?????? - Kuh-e Khv?jeh)があるが、これはハームーン湖の中央に島となっている丘である。
その後644年、サーサーン朝は最終的に崩壊し、アラブ・イスラーム勢力下に入った。
0143世界@名無史さん垢版2015/02/22(日) 01:31:00.560
http://www.mikeo410.5com.info/cms/~otherhistoryphoenicia
より


15フェニキアとカナン

フェニキアはギリシア語・ギリシア文字の文献で地域の名称として使用されました。カナンと領域に区別はないようです。フェニキアは自称でも近隣の呼称でもなくギリシア語です。
カナンはBC3000頃のシュメール語・楔形文字の粘土板にも見られると言うことです。アマルナ文書(前14世紀)には、フェニキア人の都市王国ティルスからファラオに宛てた書簡が10通(EA146-155)残されました。
このうち、EA151 は、ファラオのカナン情勢に関する問いに答えるものです。
少なくとも軍事上のカナンは、ヒッタイト、ミタンニと接するところまでで、ウガリットも含まれていました。また、ガデシュなどの内陸も含まれていました。

ダヌナ(Da-nu-na)はエジプトのラムセス3世(BC1185-BC1155)が海の民として記録した Denye のこととされています。
後には、ギリシャ語でDanaoi、ホメロスのDanaans と同じでアカイア人を指しました。また、Denye はキプロス島の住人でもあります。
さらに、キリキア(ウガリットより北のアナトリア半島南東部沿岸)の人々でもあります。キリキアはルウィ語を話すキリキア人がいました。いずれにしても、印欧語族の人々の地でした。
ガデシュにはエタッカマ王がいました。ダマスカスにはブリヤワザ王がいました。

EA151

a-bi-LUGALは、名前と見て、AbiMilki王であるらしい。
アビメレク(Abimelech)は聖書の人名にある。abi abiはアッカド語の祖父だがここでは名前の一部。
カナン語の王の語根はMLKでLUGALをMilkiの音に使用していると解釈したもののよう。



とすると、シュメールの起源
0145世界@名無史さん垢版2015/03/14(土) 00:17:46.030
>>126

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%A0

サラズム (ラテン文字: Sarazm, タジク語: Саразм) はタジキスタン北西部の古代都市である。
サラズムはソグド州のパンジャケント地区(英語版)に位置する[1]。

サラズムの原始都市はソグド州とウズベキスタンとの国境付近、ザラフシャン渓谷内に位置する街ドゥルマン(英語版)の付近に位置する。

サラズムの位置はザラフシャン渓谷の初期のステップの存在を示している。
約5000年前、サラズムは中央アジアにおける金属製品生産の中心地となり、周辺地域に輸出を行なっていた[2]。
インド・イラン語派の民族が侵入した紀元前2000年頃に都市としての役割を終えたと考えられている[3]。

その後、サラズムは付近にあるトルコ石の産出地から集積を行う鉱山地域として復活したと考えられている[4]。
紀元前1500年以前に建設されたサラズムは周辺地域の農業、銅生産の中心地として重要な役割を果たしていた[5]。

サラズムは1976年、地元の農家アシュラリ・タイロノフが考古遺跡の付近から突き出ている銅の短剣を見つけたことで発見された[6]。
アブドゥロ・イサコフ (Abdullo Isakov) により発掘調査が行われ、フランスの考古学者による調査隊が1977年に調査を行った。
0146世界@名無史さん垢版2015/03/14(土) 00:35:32.980
>>125


アナウ (ラテン文字:Anau, Annau, トルクメン語: Anew) はトルクメニスタンの都市であり、アハル州の州都である。
1989年時点の人口は9,332人[2]、2012年時点の人口は30,865人となっている[1]。

概要

アナウは首都アシガバートの約8km南東にあり、街にはアシガバートへと続く高速道路M37(英語版)が通っている。
アナウ付近にあるアナウ遺跡は紀元前3000年にまでその歴史を遡り、人類最古の農耕集落の一つとされている[3][4]
他、青銅器時代から初期鉄器時代にかけた時期の彩文土器が見つかっている[5]。

アナウという都市名はペルシア語で「新しい水」を意味するアビナウ (ペルシア語: ?? ???) に由来している[6]。

http://4travel.jp/travelogue/10838482

http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/500/31/62/78/500_31627823.jpg?1386601473
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/500/31/62/78/500_31627824.jpg?1386601473
0147世界@名無史さん垢版2015/03/14(土) 00:44:42.900
>>126>>125

トルクメニスタンのマルグッシュ遺跡(テペ・ゴヌール)
http://blog.livedoor.jp/saiyutravel-silkroad/tag/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%96

現在も発掘が続く、トルクメニスタンのマルグッシュ遺跡(テペ・ゴヌール)。
新しい発見が続き、まだ資料なども十分に出版されておらず、現場で考古学者の説明を聞きながら遺跡をめぐります。
遺跡では、トルクメニスタン考古学の権威ヴィクトール・サリアディニ先生とそのチームが発掘を続けています。

考古学者ヴィクトール・サリアディニ
ロシアの考古学者でトルクメニスタンの考古学の権威。1972年よりマルグッシュ遺跡を発掘を指揮しています。
遺跡に到着して先生がいらっしゃると、ごあいさつ。
「私はこの紀元前3,000年にもさかのぼる遺跡を40年発掘してきていますが、何にもわかっていません」、という謙虚な言葉は印象的でした。
「今言えるのは、四大文明に匹敵する高度な文明を持ち、ゾロアスター教の前身となる、
火・水・空・大地を崇拝した宗教を持った人々、独特の埋葬方法を発達させた人々が暮らしていた、ということです」と。


テペ・ゴヌール復元想像図
アシガバードの博物館に展示されていたテペ・ゴヌールの最盛期の神殿・王宮エリアを復元した想像図。
http://livedoor.blogimg.jp/saiyutravel-silkroad/imgs/6/7/67695161.jpg

ロバ、青銅製の瓶、車輪、王杓などが発券された墳墓(人7人、 犬7匹、ロバ2頭、ラクダ2頭の埋葬)
http://livedoor.blogimg.jp/saiyutravel-silkroad/imgs/3/b/3b717672.jpg


骨で作られた羊です。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/31/62/77/src_31627713.jpg

4輪馬車用の車輪です。同時期の他の文明ではまだ2輪車だったという。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/31/62/77/src_31627714.jpg
0148世界@名無史さん垢版2015/03/14(土) 02:28:36.530
>>140
もっとも好戦的だったのはフン・匈奴じゃないか
直接的に侵略されていないにもかかわらず、フーナの名はインドにも轟いていた
0149世界@名無史さん垢版2015/03/14(土) 09:57:15.780
匈奴はインドにも攻め込んだべ。「彼らは崖の上から象を落とし、
落ちるとき面白い鳴き声を上げたなどといって、何匹も象を落とした」なんて
すごい話があった。

つうかヒッタイトといい5000年前の文明といい、どうやって金属を
取り出せるほどの高火力をだせたんだろ。レバノン杉か。
0150世界@名無史さん垢版2015/03/14(土) 12:07:55.190
>>149
それってエフタル(白匈奴)じゃなくて?いつくらいのことかな
インドにも攻め込んだのか
0151世界@名無史さん垢版2015/03/14(土) 14:08:26.250
>>149

レバノン杉は高価すぎてそんな用途には使えないよ

やっぱパオーンって泣くのかな
0152世界@名無史さん垢版2015/03/15(日) 16:41:24.430
http://rcwasia.hass.tsukuba.ac.jp/kaken/NL/newsletter04/NL.04.pdf
ラニアより


テル・シムシャラ(Tell Shimshara)

1957年から1959年にデンマーク隊とイラク隊によって調査され、
イスラム期、前2千年紀前半の「フリ時代」、そして土器新石器時代の文化層が確認された(Ingholt 1957)。

前2千年紀前半の層位では、宮殿と思われる大型建築遺構が検出され、
粘土板文書が計246点出土している。この文書資料の研究により、テル・シムシャラはクワリなる人物が統治
し、その後アッシリア王国に制服されたシュシャッラ市(?u?arra)であったことが明らかにされている。


サトゥ・カラ(Satu Qala)

ラニア平原を流れる小ザブ川のより下流には、エルビル県になるが、サトゥ・カラ(Satu Qala)が位置している。
この遺跡は2010年から2011年にかけて新規に発掘調査が行われ、
新アッシリア王アッシュルナツィルパル2世銘の釘状彩釉製品や新アッシリアの土器が、
宮殿と思われる建築遺構から出土している(van Soldt et al.2013)。

この遺跡はアッシリアの支配下に入る前は、古代イドゥ国(Idu)の中心地であったことが明らかとなっている。
0153世界@名無史さん垢版2015/03/16(月) 02:37:57.350
>>152

アンナクムが、イラン高原やその向こうのアフガンから持ってこられていたことを
推測させる記述が粘土板にあったとあるが見つからず。


http://en.wikipedia.org/wiki/Tell_Shemshara

The texts were written in Akkadian.
These texts revealed that during this period the site was called Shusharra, that it was the capital of a polity called m?t Utem or "land of the gatekeeper" and that it was ruled by a man named Kuwari.[17]

Chronologically, the archive can be divided in two parts,
one covering the period during which Shemshara was the capital of a small semi-independent kingdom,
and one covering the period after Kuwari became a vassal of Shamshi-Adad, who at that time had already conquered Mari and Shubat-Enlil and was now campaigning in the Zagros Mountains.
Together, these two periods do not last longer than 3 years.

The letters in the Shemshara archive show that during this period, Kuwari had to deal with Turukkean refugees coming from the east and fleeing a war with Guteans;
events which are also mentioned in the much larger archives found in Mari on the Syrian Euphrates.
0154世界@名無史さん垢版2015/03/16(月) 02:59:06.160
>>143
>とすると、シュメールの起源

何が?その時代にはシュメール人なんてとっくに影も形もないよ
文字だけを置き土産に言語もろとも消え失せている

バビロニア人アッシリア人その他のセム人はシュメール文字のLUGALを
milkiとかmelekとかmalikとかのそれぞれのセム語の
MLKという3子音語根の単語に「訓読み」してたんだよ
それに更にmlkという子音文字を追加したり(振り仮名)
abi-のような前後の派生接辞などを書き足して単語の識別に役立てたり(送り仮名)していた
シュメール文字・訓読み・振り仮名・送り仮名の原則はヒッタイト語など他の系統の言語でも行なわれていた
0155世界@名無史さん垢版2015/03/16(月) 18:22:40.930
>>154
詳しい人キタァああああ!!
色々と聞きたいことがwww

LUGAL以外の他尊称はどうだったのか、とか
アッカド語(共通語?)だとどうなのか、とか
MLKとメルカルトに関係があるのか、とか

他にも色々と気になう
0156世界@名無史さん垢版2015/03/17(火) 21:47:41.720
インド世界のヴァルナとジャーティーが分業制度から階級制度に移行してしまったのは
いつ頃からでしょうか
0157世界@名無史さん垢版2015/03/24(火) 00:14:14.580
>>145

さて、状況的にR1a第二の故郷っていうのは間違いなさそうなんだが、、、
0158世界@名無史さん垢版2015/03/24(火) 00:17:24.330
>>156
まぁ、おいらも似たようなエジプトのスレで質問したから
気持ちはわからんでもないが

ここで質問しても無駄なんじゃww
0159世界@名無史さん垢版2015/03/25(水) 06:32:36.760
インドの制度はカーストとあるように、分業である。これは英語のクラスでは「ない」。
彼らはいつからシュードラやバイシャを下賤だからと言う理由で殺し始めたんだろ?
0160世界@名無史さん垢版2015/05/03(日) 23:11:34.240
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%96%97%E9%95%B7%E5%9E%A3%E5%86%85%E9%81%BA%E8%B7%A1

兵庫県淡路市黒谷にある弥生時代後期の国内最大規模の鉄器製造群落遺跡である。
本遺跡は2001年(平成13年)に発見され、2007年(平成19年)から発掘調査が実施された。

遺跡は淡路島の西側海岸線から三キロの丘陵地にあり、東西五百メートル、南北百メートル。
弥生時代後期・1世紀ごろのおよそ100年間にわたり存在したと考えられる。
遺跡には竪穴式住居や鍛冶工房などが復元されている。

弥生時代後期の鉄器製造施設跡が23棟から成っており、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。
遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。
また石槌や鉄床石(かなとこいし)、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。
1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては、最大規模であった。
住居は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡である事が分かった。

淡路島のような人口の少ない小規模の島で、生活のためにこれほど大量の鉄器は必要ない。
魏志に記された倭国大乱邪馬台国の時期に重なり、大和王権成立にいたる戦乱期の中でこの施設が軍事利用されていた可能性もある。
古事記・日本書紀にも国生み神話は淡路島から始まっており、今上天皇にいたる大和王権成立との関係が窺える。
0161世界@名無史さん垢版2015/05/04(月) 14:35:10.160
>>121

紅山文化
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96

中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、
遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃[1])に存在した新石器時代の文化。

万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、
竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。

玉石と精神文化、牛河梁遺跡

ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。
ブタ、トラ、鳥のほか、龍を刻んだものも見つかっている。
工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。
「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる紅山文化の玉龍(龍を彫った玉)の造形は単純であり
龍が円形になっているものが多いが、後期になると盤龍・紋龍などの区別がはっきりとしてくる。

遼河文明

2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang、
合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による
内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、
従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は
12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、
約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[10]。
このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている[11]。

なお遼河文明時代の古人骨のY染色体ハプログループ分析によると、
ウラル系諸族やヤクート人に高頻度で観察されるハプログループNが約70%という結果が出ており[17]、
遼河文明の担い手がウラル系民族やヤクート族と関連する可能性も考えられる。
0162世界@名無史さん垢版2015/05/09(土) 21:25:52.180
さて、Y染色体ハプログループN
おいらはあんまり知らなかったせいもあるのか
かなりおもしろかった

ちなみにこの>>161の地域もけっこうホット

Structure of Y-haplogroup N
arXiv:1504.06463 [q-bio.PE]

http://dienekes.blogspot.jp/2015/05/structure-of-y-haplogroup-n.html


The dichotomy structure of Y chromosome Haplogroup N

Haplogroup N-M231 of human Y chromosome is a common clade from Eastern Asia to Northern Europe, being one of the most frequent haplogroups in Altaic and Uralic-speaking populations.
Using newly discovered bi-allelic markers from high-throughput DNA sequencing, we largely improved the phylogeny of Haplogroup N
, in which 16 subclades could be identified by 33 SNPs.

More than 400 males belonging to Haplogroup N in 34 populations in China were successfully genotyped,
and populations in Northern Asia and Eastern Europe were also compared together.

We found that all the N samples were typed as inside either clade
N1-F1206 (including former N1a-M128, N1b-P43 and N1c-M46 clades), most of which were found in Altaic, Uralic, Russian and Chinese-speaking populations,
or N2-F2930, common in Tibeto-Burman and Chinese-speaking populations.

Our detailed results suggest that Haplogroup N developed in the region of China since the final stage of late Paleolithic Era.
0164世界@名無史さん垢版2015/05/18(月) 23:06:01.860
これどうなんだろう

>>54

イスラエルにおけるソロモン王の鉱山の新発見
September 3, 2013.
http://jp.sciencenewsline.com/articles/2013090319450001.html

Tel Aviv UniversityのDr. Erez Ben-Yosefによってリードされた考古学発掘チームは、
紀元前13世紀の古代エジプト人によって作られたとされてきたイスラエルの銅鉱山の起源は、
実際にはそれよりも3世紀後のものでソロモン王の治世期のものである証拠を発見した。

この新しい事実は、イスラエルのAravah DesertのTimna Valleyにある
新しい発掘現場から採取された試料を放射性同位体分析で解析することにより判明したもので、
これまで数十年間に渡って信じられてきたこれまでの考古学的見解を覆すこととなる。

発掘現場から採取された試料の学術調査により、
この鉱山はエドム人(Edomites)によって運営されていた可能性が示唆された。
聖書の記述では、エドム人は、半遊牧民の部族連合体であり、イスラエルと交戦状態にあったとされている。

「この鉱山は疑いようもなくソロモン王の時代のものとなる」と Dr. Ben-Yosefは述べる。
「この鉱山の調査を通じて、私たちは、当時の地方社会について理解を深めることができるようになるでしょう。」

現在、Timna Valleyは国立公園に指定されているが、古代においてはここは、
鉱山や製錬所などが立ち並ぶ銅生産の拠点だった。
2013年2月にDr. Ben-Yosefを中心とする考古学発掘チームは、
この谷における「奴隷の丘(Slaves' Hill)」として知られてきた未発掘の場所の発掘に着手した。
この場所には、銅精錬の過程で生じた銅スラグや廃棄物などの他に、何百もの古代人の遺骨が散乱している場所だった。
0167世界@名無史さん垢版2015/05/29(金) 21:34:29.620
【考古学】スキタイの黄金の埋葬品を発掘、「世紀の大発見」 服の縫い目までわかる装飾に、麻薬の儀式の痕跡も。ロシア南部 [転載禁止](c)2ch.net
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1432768677/1


ハオマは大麻じゃない説があった気がするんだけど
これはアヘンと大麻だったそうだ
0168世界@名無史さん垢版2015/05/30(土) 08:30:44.930
>>167

ロシア南部のカフカス山脈にあるクルガン
「シンギリェフスコエ-2(Sengileevskoe-2)」と名付けられたクルガン
2400年前にこの墓に安置された黄金の宝物

バケツ型の黄金の器が2つ、逆さまに伏せられていた。
その中には、黄金の杯が3つ、ずしりと重たい指輪が1つ、首輪2つ、腕輪1つが入っていた。
保存状態の良い黄金の埋葬品の数々は、合わせて3.2キロもの重量があった。

黄金の器に残された黒い物質の分析、そこにはアヘンと大麻が含まれていることが判明

これは古代ギリシャの歴史学者ヘロドトスが記録に残した内容と一致する。
ヘロドトスは、スキタイ人が植物を燃やして発生させる煙が
「ギリシャの蒸し風呂とは比べ物にならないほど強烈なもので
……その煙で興奮した人々は、大きな叫び声を上げる」と書いている。
0169世界@名無史さん垢版2015/05/30(土) 12:44:16.920
>>159
アーリア人がカイバル峠超えた時から。つまり最初から。
征服したら子供以外の男は全員殺すのが基本。
0170世界@名無史さん垢版2015/05/31(日) 03:59:42.670
ギリシャ人ってお前らが考えるほどヨーロッパ的ではなく
むしろ昔からアジア的だよ
0171世界@名無史さん垢版2015/05/31(日) 22:15:35.580
>>170
エジプトやペルシアの影響は強く受けてるけど、
中身はコテコテのインド・ヨーロッパ語族。対立してたと言われるスキタイの方が西アジア系よりずっと近い。
0172世界@名無史さん垢版2015/06/01(月) 07:46:16.340
ペルシアもスキタイもインド・ヨーロッパ語族なんだが
それに西アジアも印欧語族の領域
0174世界@名無史さん垢版2015/10/28(水) 22:57:56.870
古代エチオピア人のゲノム解析
http://sicambre.at.webry.info/201510/article_11.html

この研究は、エチオピア高地のモタ(Mota)と呼ばれる洞窟で発見された4500年前頃の男性のゲノムの解析に成功しました。

 4500年前頃のモタ人のゲノムは、現代のアフリカ人とも比較されました。
その結果、じゅうらいより想定されていた、
3000年前頃のユーラシア西部からアフリカへの人間の移住(ユーラシアに進出したアフリカ起源の人間がアフリカに進出したということで、
「逆流」と呼ばれています)の規模が、じゅうらいの推定よりも大規模で広範なものだったのではないか、との見解が提示されています。

西ユーラシアからアフリカへと「逆流」した集団は、小麦や大麦のような西アジアの穀物がアフリカ東部にもたらされていることから、
新石器時代農耕民と密接に関連する集団だろう、と推測されています。

西ユーラシアからアフリカへの「逆流」は、「アフリカの角」と呼ばれるアフリカ東部から始まったと考えられています。
3000年前頃の「逆流」により、現代のアフリカ東部集団の遺伝子プールの25%ほどは西ユーラシア集団に由来するのではないか、と推測されました。
さらに、アフリカ東部だけではなく、アフリカ西部・中央部・南部の現代人集団にも、この「逆流」の遺伝的影響が及んでいることが明らかになりました。
比較的交雑が少なかったと以前には考えられていた、ヨルバ(Yoruba)やムブティ(Mbuti)のような集団も、
その遺伝子プールの6〜7%は「逆流」してきたユーラシア人に由来する、と推定されています。


参考文献:
Llorente MG. et al.(2015): Ancient Ethiopian genome reveals extensive Eurasian admixture throughout the African continent. Science.
http://dx.doi.org/10.1126/science.aad2879
0175世界@名無史さん垢版2015/12/13(日) 13:40:46.590
バイオ一口話:日本人がお酒に弱いわけ
http://www.life-bio.or.jp/school/oneshot_02.html

ALDH2の場合は、ヒトの第12染色体にその遺伝子があり、
この遺伝子に基づいて作られたALDH2酵素タンパク質は細胞中のミトコンドリアという場所に運ばれて働きます。

 遺伝子は両親から受け継ぎます。ですから、
日本人の中には両親から共に*1の遺伝子を貰った*1/*1の人と
両親から共に*2の遺伝子を貰った人(*2/*2)、
それからそれぞれ*1と*2の遺伝子を貰った人(*1/*2)がいるわけです。

 *2/*2の人はALDH2の活性が全くありません。
*1/*2の人は*1/*1の人の半分の活性を持つと思われるでしょうが、
ALDH2という酵素はこの遺伝子からできてくるものが4個集まって作られています。

この中に1つでも*2の遺伝子から作られるものが混じっていると活性がないため
両親から*1と*2をそれぞれ貰った*1/*2の人のALDH2の活性はALDH2*1の活性の1/16すなわち約6%になってしまいます。
0177世界@名無史さん垢版2016/01/25(月) 23:45:30.950
農耕の開始により変化した人間のゲノム

http://sicambre.at.webry.info/201512/article_27.html
続きはウェブで


集団遺伝学:230人の古代ユーラシア人に見られるゲノム規模の選択パターン

集団遺伝学:古代DNAから推定される選択圧

 約8500年前のヨーロッパにおける農耕文化の到来は人類進化の極めて重要な事象の1つである。
今回その経緯を探る手掛かりとして、古代DNAを用いた研究が行われた。
紀元前6500〜300年の西ユーラシア人230人からゲノム規模のスキャンデータが得られ、
その中に含まれる、新石器時代のアナトリアの新石器時代農耕民26人の標本は、
地中海東部地域の人々に由来するものとしては最初のゲノム規模の古代DNAである。

著者たちは、食餌、体色および免疫に関連する座位に選択がかかったことを示す証拠を見いだした。
最も強い選択シグナルは、乳糖分解酵素の活性持続(乳糖耐性)を担う対立遺伝子に存在し、
ヨーロッパで乳糖耐性の頻度が大幅に増えたのはわずか4000年前のことだとする見方が裏付けられた。


参考文献:
I. et al.(2015): Genome-wide patterns of selection in 230 ancient Eurasians. Nature, 528, 7583, 499?503.
http://dx.doi.org/10.1038/nature16152
0178世界@名無史さん垢版2016/01/25(月) 23:53:48.770
>>177
これちょっと前に見たときに気になってたんだけど
シンタシュタ/アンドロノブォ載ってるんだよね

http://www.nature.com/nature/journal/v528/n7583/images/nature16152-f1.jpg

a, Locations colour-coded by date, with a random jitter added for visibility (8 Afanasievo and Andronovo samples lie further east and are not shown).

b, Principal component analysis of 777 modern West Eurasian samples (grey),
with 221 ancient samples projected onto the first two principal component axes and labelled by culture.

E/M/LN, Early/Middle/Late Neolithic;
LBK, Linearbandkeramik;
E/WHG, Eastern/Western hunter-gatherer;
EBA, Early Bronze Age;
IA, Iron Age;
LNBA, Late Neolithic and Bronze Age.
0179世界@名無史さん垢版2016/04/18(月) 20:00:23.050
仏陀がヨガ修行者になる前の応じ時代にペルシャからバビロンまで拠点にしていたという
主張をする英語圏の学者がいる模様
0181世界@名無史さん垢版2016/08/20(土) 22:06:15.370
さて、久しぶりに確認してみようか
ブランクが長すぎていろいろと怪しいが
0182世界@名無史さん垢版2016/08/20(土) 22:27:53.040
前にちらっと見てたときにこれが気になっていたのだが、、、

December 29, 2015
Bronze Age people from Ireland had steppe ancestry and R1b
http://dienekes.blogspot.jp/2015/12/bronze-age-people-from-ireland-had.html
http://4.bp.blogspot.com/-JfgKsVo0O5M/VoG4-5v6wcI/AAAAAAAAKN8/rT-ik1ORFDA/s1600/cassidy.png


Neolithic and Bronze Age migration to Ireland and establishment of the insular Atlantic genome
http://www.pnas.org/content/113/2/368.abstract
http://www.pnas.org/content/113/2/368.full

Fig. 3.
http://www.pnas.org/content/113/2/368/F3.medium.gif

Comparison of Irish and Central European ancient genomes for haplotype-based affinity to modern populations.
Interpolated heatmaps comparing relative haplotype donations by two Irish (Ballynahatty, Rathlin1) and two Hungarian (NE1, BR2) ancient genomes.
0184世界@名無史さん垢版2016/08/20(土) 23:36:43.790
>>182

(1). The two most transformative are the arrival of agriculture (?3750 BC) followed by the onset of metallurgy (?2300 BC).
The Neolithic package characterized by animal husbandry, cereal crops, ceramics, and timber houses reached the shores of Ireland some 5,000 years after its beginnings in the Near East.
The second great wave of change starts with the appearance of copper mines, associated with Bell Beaker pottery,
which are quickly followed by Bronze tool-making, weaponry, and gold-working, with distinct Food Vessel pottery succeeding from the earlier beakers

(2). This period coincides with the end of the large passage graves of Neolithic Ireland in favor of single burials and smaller wedge tombs.

To address this controversy, we present here the first, to our knowledge, genome-wide data from four ancient Irish individuals,
a Neolithic woman (3343?3020 cal BC) from Ballynahatty, Co. Down, found in the context of an early megalithic passage-like grave,
and three Early Bronze Age men from a cist burial in Rathlin Island, Co. Antrim (2026?1534 cal BC) with associated Food Vessel pottery (16) (SI Appendix, Section S1).


ラスリン島
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2d/Wfm_rathlin.jpg/250px-Wfm_rathlin.jpg


中世の年代記アンナルズ・オブ・アルスター(en)によれば、ラスリン島はアイルランド島で初めてヴァイキングの略奪に遭った地である。
795年、ヴァイキングは島の教会を略奪し、建物に火を放ったという。

1575年、悪名高い虐殺事件が起きた。初代エセックス伯ウォルター・デヴルーはアイルランド攻略を命じ、
命を受けたフランシス・ドレークとジョン・ノリーズが島へ上陸した。
イングランド軍は、マクドナルド氏族が避難していた島を襲い、数百人の女性と子供を殺害した。

ラスリン島のアイルランド語方言は現在絶えてしまったが、かつては、アイルランドのどこよりもスコットランド・ゲール語に近いとされていた。
0185世界@名無史さん垢版2016/08/21(日) 00:29:47.160
R1b1a2a1a2c (R1b-L21)/M529ぽいのだが
イマイチ該当しているのか正確なところがわからない

>>182

Molecular sex determination agreed with archaeological results (SI Appendix, Section S7),
and whole mitochondrial chromosome haplogroups were assigned (Table 1 and SI Appendix, Section S7).

The Neolithic individual, Ballynahatty, belongs to HV0,
a clade with highest frequencies seen in Early and Middle Neolithic (MN) groups from Germany and France (9, 17, 18)
and which has not been identified in any Mesolithic Europeans.

The Bronze Age individuals belonged to the haplogroups U5 and J2b. Notably,
the three Bronze Age males each belong to the Y chromosome haplogroup R1b1a2a1a2c (SI Appendix, Section S8).
This lineage is characterized by a modern east?west frequency gradient in the British Isles, and is almost fixed (94%) in the West of Ireland (19, 20).

R1b haplotypes have been argued as first appearing with steppe incursion in the central European Bronze Age (9).
0186世界@名無史さん垢版2016/11/21(月) 19:50:19.690
私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組みの官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。

別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。

それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心から起きたことで、どこに訴えると言うわけにもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切って新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。
0187世界@名無史さん垢版2017/06/02(金) 08:41:01.020
ギリシャ文明はエジプト文明のパクリである
0188世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 13:15:25.160
【遺伝】古代エジプト人のミイラのゲノム解析ブックマーク
http://www.natureasia.com/ja-jp/ncomms/pr-highlights/11918


この論文の中で、Johannes Krauseたちの研究グループは、
エジプト中部のアブシール・エル・メレク遺跡から出土した3体のミイラ(それぞれプトレミー時代以前、プトレミー時代、ローマ時代のものとされる)に由来する
ゲノムワイドのデータセットだけでなく、ミトコンドリアゲノム(90件)を新たに調べた結果を示している。

そこで分かったのは、古代エジプト人と近東人(西アジアと中東に居住する人々)との遺伝的類似性が高いということで、
現代のエジプト人に見られるサハラ以南の人々の遺伝的要素は、最近加わったものであることも明らかになった。

ただし、この遺伝的データがエジプト中部の単一の遺跡から得られたものであり、
古代エジプト全体を代表していない可能性のあることをKrauseたちは指摘している。
0189世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 13:18:57.950
これは見れる
しっかりかかれてます

>>188

Figure 3: Analysis of 90 ancient Egyptian mitochondrial genomes.
https://www.nature.com/article-assets/npg/ncomms/2017/170530/ncomms15694/images/w926/ncomms15694-f3.jpg

(a) Mitochondrial DNA haplogroup frequencies of three ancient and two modern-day populations,

(b) Principal Component Analysis based on haplogroup frequencies:
(sub-Saharan Africa (green),
North Africa (light green),
Near East (orange), Europe (yellow),
ancient (blue),

(c) MDS of HVR-I sequence data: colour scheme as above; note that ancient groups were pooled,

(d) Skygrid plot depicting effective population size estimates over the last 5,000 years in Egypt.
Vertical bars indicate the ages of the analysed 90 mitochondrial genomes (three samples with genome-wide data highlighted in red).
Note that the values on y axis are given in female effective population size times generation time and were rescaled by 1:14.5 for the estimation of the studied population size
(assuming 29-year generation time and equal male and female effective population sizes) (images by Kerttu Majander).
0190世界@名無史さん垢版2017/06/03(土) 13:23:33.040
>>188

Figure 4: Principal component analysis and genetic clustering of genome-wide DNA from three ancient Egyptians.
https://www.nature.com/article-assets/npg/ncomms/2017/170530/ncomms15694/images/w926/ncomms15694-f4.jpg

(a) Principal Component Analysis-based genome-wide SNP data of three ancient Egyptians,
2,367 modern individuals and 294 previously published ancient genomes,

(b) subset of the full ADMIXTURE analysis (Supplementary Fig. 4).



Figure 5: Shared drift and mixture analysis of three ancient Egyptians with other modern and ancient populations.
https://www.nature.com/article-assets/npg/ncomms/2017/170530/ncomms15694/images/w926/ncomms15694-f5.jpg

(a) Outgroup f3-statistics measuring shared drift of the three ancient Egyptian samples and other modern and ancient populations,
(b) The data shown in a, compared with the same estimates for modern Egyptians, ordered by shared drift with modern Egyptians,
(c) Admixture f3-statistics, testing whether modern Egyptians are mixed from ancient Egyptians and some other source.
The most negative Z-scores indicate the most likely source populations.
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