何故ローマは蛮族ゲルマンの前に滅び去ったのか? [転載禁止]©2ch.net
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同じ蛮族のヴァンダルとかフランクの前には破られなかったのにね 日本人に乗っ取られて日本人に見捨てられた悲しいチョン半島 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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K9U バーバリアン・ライジングなんて番組でゲルマン民族の反乱を観た。ゲルマンの子供を掠ってローマ人仕立てで支配するけど結局、反乱されてた 「ローマ帝国」を滅亡させたのはゲルマンではなく
フン王のアッティラがこれらの諸部族を手下にしてローマの攻撃に動員させ、
東西両帝国に対して公然と侮辱し貢納を貢がせ、各地を攻撃して略奪したことで
諸部族がローマの威光に対する畏怖を抱かなくなったことに起因する。 「ローマ帝国」を滅亡させたのはゲルマンではなくササン朝
ローマはオリエントでのササン朝との戦争を優先して
ササン朝との戦争にヨーロッパ国境の軍も動員したので
手薄になった国境をゲルマンは何度も突破する事が出来た
多く場合ゲルマンが侵入するとローマはササン朝と講和して
ヨーロッパ国境に軍を戻してゲルマンを追い出したけど
ウァレンス帝はササン朝と講和せずに侵入してきたゴート族を
ローマ軍に編入して対ササン朝の増援にする事を閃いた いつもはゲルマンが侵入するとローマはササン朝と講和して
ヨーロッパ国境に軍を戻してゲルマンを追い返していたけど
ウァレンス帝はササン朝と講和せずにゴート族を招き入れて
ローマ軍に編入して対ササン朝戦の増援にする事を閃いた >>37
「遊牧」とは「狩猟」の進化した一種(動物の群の制御を覚えた狩猟)
・狩猟民 不猟時には縄張り争いや略奪するし、武力を背景に交易しつつ弱い相手は狙う
→・遊牧民 毎日が軍事訓練を兼ね、日常的に略奪+戦争が日常的
工業社会で銃器が発達するまで、力関係では、狩猟・遊牧≧農耕だった
チンギス・カン(狩猟民の一形態である遊牧民)
> 「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、
> その所有する財物を奪い、
> その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」
狩猟民(女真族など)が武力で略奪→奴隷に農作業させ半農半猟
北方へ漂流した日本人も、現地人(千島アイヌなど)に捕まって奴隷にされてたし
アイヌ同士でも奴隷制はあったが
奴隷制の広まった主因は遊牧、という話だな
> ■『家畜文化』の蓄積
> メソポタミアなどの小アジアで、10,000年前にヒツジ・ヤギの家畜化が始まり、
> 9,000〜8,000年前頃に「搾乳」、少なくとも6000年前までに「去勢」の家畜技術が開発されている。
> それ以来3,300年前の本格的な“騎馬遊牧民”に至るまで、
★> 『どのように家畜の群れを意のままに管理するか』という【家畜文化】が遊牧民には蓄積されている。
★> (※後にこれを人間に当てはめ、遊牧民は奴隷管理に長けていくことになる) 前漢の武王が匈奴を征伐したから
東からの玉突き事故でゲルマンが難民としてきたからですよね
ローマの内部問題としては
経済格差が広がりすぎて貧困層のインフレもひどかったから(使う貨幣が上流と違う種類)
貧乏な連中はゲルマン人侵入にそれほど反対しなかった
むしろゲルマン支配後の方が生活はだいぶマシになったくらい
経済格差が拡大しすぎると結束力が乱れるというのが基本パターンに嵌っちゃった
そういう意味でジニ係数の高い現代アメリカやチャイナは危うさがある アメリカは州で独自にやってるから崩壊はない
極端な中央集権な支那はやばいだろう 超約 ヨーロッパの歴史っていう本ががあるけど、ゲルマンに対する解釈は
あれが一番近いんじゃないかっていう個人的感想 もともとローマ軍にさまざまなかたちでゲルマン人が浸透していたな
西方帝コンスタンスを倒した簒奪帝マグネンティウスも、ゲルマン人の
血をひく地区総司令官だった ササン朝からオリエントを防衛する事がローマの国是となった
ヨーロッパからオリエントへローマ軍が移動すると
その隙をついてゲルマンがローマ領に侵入する
ローマがササン朝と講和してヨーロッパに軍を戻すと
ゲルマンはローマ領から撤退する
ローマ軍がササン朝に苦戦するとゲルマン民族大移動 やっぱり西ローマ帝国の経済力が落ちていたのが一番の原因じゃないですかね 技術面で世界の最先端をいってた古代ローマだが近世以降はそのローマを滅ぼした
ゲルマンがかつてのローマの役割を担うようになったのが皮肉
>>125
エルギン卿遣日使節録のエルギン卿はスチュアート朝以前にスコットランド王を輩出した
ブルース家(ノルマン系)の人間だったな >>172
トイトブルクでローマ軍を打ち破ったアルミニウスもエクィテスに叙されてたのよな 近代の上下水道の普及はラテン側が先だった?それともゲルマン側?
フランスはラテンでありながら南欧諸国にくらべればゲルマンっぽくもあるかw しかもケルトの子孫であることもアイデンティティの一部だな
ドイツだって絶対ケルトの血は引いてるはずだし、下手したら半農半猟のゲルマン人より、本格的な農耕の歴史の古いケルト人のほうが古代には人口も多く、今のドイツ人の遺伝子に占める割合はより多いんでは
でもドイツではケルト性はあまり意識されない?
キリスト教を今のドイツの地で最初に定着させたのも、進駐してきたローマ人以外だとケルト人のはずだけど 技術面で世界を牽引した19C後半のフランスには古代ローマの継承者という意識も
強かったりして。偉大なローマ人の精神を受け継いだとかで(都合のいい時だけ
古代ローマを持ちだしてる感じもするが)。
>>178
スペインにはバスクがありフランスにはブルターニュがあるけどドイツでケルト系
少数民族が住む地域って聞いた事ない。大昔にゲルマン化してったんかな
>>1
西ローマ帝国は経済力が落ちていたので、軍事力不足を補うための傭兵を
雇うこともできず、蛮族の侵入を抑えることが難しくなっていった 結局機関銃がないと
古代の技術じゃ蛮族の方が強いんだわ なぜ偉大なローマを継承するフランスは蛮族ゲルマンなプロイセンの前に滅び去ったのか?
普仏戦争なw 軍事面で蛮族ゲルマンから教えを乞うた維新後の日本ェ・・・ >>182
フランスという地名自体”フランクの土地"という意味で王・諸侯・騎士なんかの支配層もフランク人だったわけで・・・
それはそうとフランスはプロイセンと同じ蛮族ゲルマンなハプスブルクの君主の弟を擁して新大陸のとある地域へ干渉してたな サルマタイ人って強かったのかな?いつ頃が全盛期だろ >>182
騎兵でプロイセン陣地に突撃掛けたところに野砲で榴弾バカスカ撃ち込まれて、
ナポレオン3世の精鋭近衛騎兵師団が総崩れ。 378年のアドリアノープルの戦いで、ローマ軍はゴート人に大敗するが、
この後、ドナウ川を渡ってローマ帝国領内に入った人々が、もはや二度と
北へと押し返されることはなくなった
また、移動してきた人々が、それ以前のように帝国に同化・定着することも
なくなった
この戦いが一つの分岐点だったと思う 普墺戦争はローマ文化にかぶれたゲルマンとかぶれなかったゲルマンの戦い
ラテン側は後者と組んだけどなw ガリア北方ではローマ人のシアグリウスが率いる反ローマ勢力と、ゲルマン将軍に率いられたローマ帝国軍が戦っていた 正確にはフランクの族長も一時期やってたシアグリウスの親父だよ 旧来の民族移動説が否定された現在にあって、ヴァンダル族は数少ない本当に移動した民族といえそうだな 実際にはローマがゲルマンを利用して復興してたわけか もはやローマとゲルマンという対立図式はなりたたない アウグストゥスの知られざる一面
アウグストゥス帝が制定した「アウグストゥスの婚姻法」だ。この法律によると、寡婦の場合は1年、離婚した女性は6カ月以内に再婚することが求められていた。
後になると、寡婦が2年、離婚した者が1年6カ月と、多少猶予期間が延ばされたが、これに違反した者は相続財産及び遺贈を取得できないとされ、相当に厳しい法律だった。
こんな法律ができた背景には、古代ローマが深刻な少子化に悩んでいたためだ。
現在の日本も少子化という大問題に直面しているが、古代ローマの少子化は乳幼児死亡率と深い関係があった。
日本のゼロ歳児の死亡率は男女ともに0.3パーセント前後なのに対し、古代ローマ時代の死亡率は30パーセントを超えていた。
もっとわかりやすくいうと、古代ローマ時代には、子供を5人産んでも人口は減少したのである。
ところが生活が豊かになるにつれ、女性は結婚や出産、子育てを敬遠するようになり、子供の数はますます減っていった。
少子化に拍車をかけていたのが、働き手にならない女児を殺害するという、忌まわしい習慣だった。
この少子化の流れを阻止するために「アウグストゥスの婚姻法」が制定されたわけだ。同法によると、
25歳から60歳までの男性と20歳から50歳までの女性に結婚が義務づけられ、
たとえ結婚していても子供がいない夫婦は、配偶者が亡くなった場合も財産の一部を没収されるなど厳しい罰則があった。
逆に自由人で3人以上、被解放自由人で4人以上の子供がいる場合は優先的に官吏になれるほか、後見人(未成年のローマ市民の保護監督役。
古代ローマでは父親の約5割が、子供が15歳になる前に亡くなっていたため、このような制度が重要視された)になる義務を免れることができるなどの特権が与えられた。
こうした法律が制定されても少子化の打開にはつながらず、しかも市民にはたいへん不評だった。
だが、この後も帝国は少子化に不安を持ち続けたから、同様の法律がなくなることはなかった。
https://shuchi.php.co.jp/article/985?p=2#:~:text=%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%82%E5%B0%91%E5%AD%90,%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82 人口減少は国力の衰退
ローマ帝国の衰退と崩壊
皇帝たちは、独立性と独創性において「逆優性」の立場を取り、子孫を作ることに熱心ではなかった。そのため、社会の中で子どもを作るのは、当時の奴隷の人たちが中心となっていった。
そして、ローマ帝国の総人口は、西暦 100年ころから急激に減少し始める。
最終的にローマ帝国が崩壊に向かう時には、出生率の低下を伴った。特に、上流階級の間で出生率が低下した。また、乱交や中絶、あるいは間引きが乱発した。
人口が減少する中で、ローマの兵士にローマ人以外が据えられ、皇帝にさえもローマ人ではない人物があらわれた。また、皇帝たちは性的な倒錯にとりつかれた。
古代ギリシャと古代ローマを研究する現代の歴史家たちは、これらの文明の衰退の始まりには、出生率の低下を伴っていたことを述べる。
多くのギリシャ人やローマ人が、子どもを産み育てるということを望まなくなっていた。
この状況、特に、
> 多くのギリシャ人やローマ人が、子どもを産み育てるということを望まなくなっていた。
というのは、まさに今の地球の主要国の人たちの価値観と一致しています。
https://indeep.jp/roman-empire-ancient-greece-and-neanderthal-extinction-caused-by-declining-fertility-rates/ PHP 教養としての「ローマ史」の読み方 みんなのレビュー
本村凌二 (著)
「ローマ帝国滅亡の原因」をこの本では、いくつもの事象が折り重なって起きたであろうという事から、交響曲の様だとして述べている。
大きくは、3つ。経済の衰退、国家の衰退、文明の変質。
「経済の衰退」では、メインに奴隷を据えて、戦争によって得た時代から、捨て子などによる供給、人口減少から一般人が小作人として使われ農奴となって行ったと。
また、合わせてインフラの劣化、これは過去には貴族による出資で成り立っていたものが、労働力の枯渇で衰退。
「国家の衰退」では、宗教を利用した権威付けから、軍に殺生与奪を握られ、辺境からの圧力への対応としての戦費と増税を繰り返して体力を落とし、
曖昧な国境と異民族の軍への編入、ゲルマン人の大移動を許した。
「文明の変質」では、「ポリス市民の多神教文明」から「コスモポリタンの一神教文明」への移行。ストア派は神は人間社会に介入するという考え方で、この思想がキリスト教との共通点があった。
弱者救済の考え方のこの宗教が広まったのは、ローマ人の多くが弱者へと変質して行ったのかも知れないからだと。
この論を読むと、今の世界、日本と重なってイメージ出来るような気もするが、そもそも筆者のバイアスがかかっている可能性もあるし、国家の滅亡の普遍的な要素の気もする。
ここから、読者はどう考えるべきか?
2019/04/09
https://honto.jp/netstore/pd-review_0628881145.html ローマの衰退
本村凌二
ディオクレティアヌスは50年間続いた軍人皇帝時代に終止符を打った、大変な立役者です。
(略)
それから通貨です。やはり当然ながら、3世紀の危機の1つの大きな経済的な問題というのはインフレです。大変なインフレが起こって、物価がどうしようもなく上昇するという中で、通貨の安定の1つの策で最高価格令を定めました。
この最高価格令の規定によれば、これを破った者は死刑にするということが書いてあるのですが恐らく死刑にされた人は1人もいないのではないでしょうか。規定としてはそれくらい厳密にやるけれども最高価格令を定めるということをしないとなかなか収まりが付かないということだったのでしょう。
次にインフレ状態への方策です。当時は兵士の給料に充てるため、どんどん貨幣を発行しては支払わなければならず、さらに戦費もかさみました。
それらに対して貨幣の質を落として対処するため、次第にインフレーションが進んでいくようになっていました。そうなると、貨幣に一定の価値がなくなり劣化・悪質化が進みます。そこで、財政改革をする必要があると彼は判断したのです。
そこでディオクレティアヌスは徴税システムを刷新します。この徴税請負人の例が典型的に示すように、ローマは基本的にチープ・ガバメントでした。
ローマ帝国というと事務を司る巨大な官僚軍団がいたように想像されがちですが、そうではなかったのです。軍人はたくさんいますが、管理システムは非常に簡略なものでした。
ローマは軍団を維持するために莫大な戦費や軍人の給料が必要だったけれども、事務軍団にはそれほどお金がかからなかったということです。
しかし全体として貨幣が悪化していったためにインフレーションがどんどん進んでいったので、貨幣の改革は急務でした。
また、当時のローマの役人は基本的に軍人でありながら政治家や役人を務めていました。これは、日本の武士階級と同じです。ところが、ディオクレティアヌスは、軍人と役人の間に線引きをします。
軍人は軍人として専業化させ、役人(官僚)団とは分ける。ローマから派遣される官僚は簡素でしたが、管理システムそのものに、大きな改良を加えました。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2917
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=1740 3世紀のインフレ
ローマ帝国の「三世紀の危機」と経済問題
2017/11/30 12:02考察
琴似第二 北海道札幌市
この三世紀に入っての、数多くの外敵の侵入に直面しながらかつてのローマ帝国の繁栄を回復する事。略奪。疫病と飢饉。
これら疫病と飢饉の二つ以外を抑制するために、結局第三の、外敵の略奪が去る事を希望し、更に第四の方法としては、帝国の平和自体を回復する事により、間接的に、経済問題を治療するという事になっただろう。
ガリエヌスの時代は、しばしば「三世紀の危機」という呼称を付けて、呼ばれている。帝国の全く広く繁盛している地方でも、停滞はよりすぐに明らかに勝っていた。
あまりに多くの内部および外部問題が発生していた、その期間のローマ帝国。そして少しの地域も、戦いから免れられるままでは、なかった。
また自動的な皇帝の交替は、頻繁だった。更に失敗した、簒奪者達も。
更にその上、外敵によるローマ皇帝の捕囚はそれまでのローマの歴史の中でもこれまでにない事だった。
しかし、五賢帝の一人でもある、トラヤヌスでさえ、異なる同時期の反乱で、かなりより好ましい時代に、彼の治世の終了を平和の内に、終わらせることを失敗した。そしてその困難は、遅くとも、これも五賢帝の一人である、マルクス・アウレリウスの時代には、明らかに表れ始めていた。
一体どのような方法で、帝国の市民達を守るのか。そしていち早く、蛮族の各属州襲撃に駆けつけるために、ローマ帝国の分遣隊または新しい、機動隊は、常に別の場所から、次から次へと移動しなければならなかったこと。
これは高いコストだった。また、ギリシャの方も、蛮族の侵入に、脅かされた。マケドニア並びに小アジア。
それまでは、どんな都市の城壁も、しばしば建っていなかった所。そして更にイタリア(後にアウレリアヌスによって、ローマヘの蛮族の侵入を阻止するために、広大な城壁が築かれた。)のその他のように、建てられなければならなかった。
また、ほぼアテネ全域で。ゴート族は航海し、小アジアの西と北海岸で場所から、古典的なギリシャ並びに他の豊かな都市を略奪した。小アジア内部でさえ、黒海の上の攻撃の、最終地点だった。
そして小アジアに駐屯している、騎兵部隊の不足が目立つ。
http://gallienusromeemperor.seesaa.net/article/455228190.html 軍事費とインフレ 続き
また、二六〇年にペルシャは、カッパドキアと北シリアに侵入した。帝国の軍隊の力への依存は、明らかに、セプティミウス・セウェルスの時代の間に上昇し、その王朝の終わりの後、頻繁な帝国外部や内部での対立を通して、更にそれ自体を増加させた。
そして更に増やされる、軍隊の力の位置。更にそれは、更に多くの特権を付与され、一部は皇帝の権力さえ、奪われた。
セプティミウス・セウェルスの時代から、兵士の年給の増額が行なわれ、また一兵卒でも、能力や実績により、それまでの百人隊長から、騎兵に昇格できる事が制度化された。
更に他にも、ローマ兵は正式に結婚を許可されるようになり、その兵士のための結婚許可書まで、また各国境地方で独自のものが使用されていた。軍隊の力による、社会層が形成されていった。
そして軍隊のためにかかる経費の、Donativen(皇帝から軍団に贈られた、感謝の寄付金)が、より多くの皇帝の、頻繁な交替によって、ますますその金額が上がっていった。そして他の分野への、投資の防止。
ローマで、それはおそらく、ガリエヌスの単独統治後半頃から新たに発見されるコインの問題。頻繁な蛮族などの外敵の侵入や疫病、自然災害などによる、経済状態の悪化による、コインの質の低下と共により増加した、コインの偽造。
また、文字関連に見られる危機。特に都市での碑文の数は、減少した。
しかし、ローマ帝国の、大部分の地域では碑文は減少傾向だった。更に人口を激減させられた都市。未耕作の野原。減少する人口。古いコインは貯蔵され、ますます新たなお金の利用は減っていった。投資するのを渋る事。物々交換のお返し。
戦争、病気。そしてペルシャでの皇帝ウァレリアヌスの監禁は、これらの現象の中で、最悪のものの、主要因だった。他の原因は、食べさせなければならなかった政府による、戦争の緊急性への反応だった。
兵士に服を着させて、身支度をさせなければならなかった。その提供を求められる商品と部門が報いられなかった証明がないと、デキブスは指摘する。
http://gallienusromeemperor.seesaa.net/article/455228190.html 食料を属州から輸入してイタリアの農地が荒廃→自作農衰退→ローマ軍兵力の蛮族依存高まる
というふうにローマが衰退していったのなら、
むしろ属州からの食糧供給が無くなって逆コースでローマ帝国が活力を取り戻してもよさそうな気がするが
そもそもイタリア半島では五賢帝の時代から産業の空洞化が始まっていたから無理だった。
そもそもイタリア半島の農地の生産性はシチリアや北アフリカよりも劣っていた 簡単な理由としては北方に遠征したためで、国境を維持してほっておけば、
撃退も容易になり、対立構造も深くならなかったでしょう。 オォォーーー!! w(゚ロ゚;w(゚ロ゚)w;゚ロ゚)w オォォーーー!! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています