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中国の王朝で一番好きな王朝 [転載禁止]©2ch.net
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0340世界@名無史さん垢版2017/10/11(水) 20:03:28.750
長安の人口のかなりの部分を、鮮卑とその子孫が占めていたはずだ
0341世界@名無史さん垢版2017/10/11(水) 20:06:07.910
もともと、周や秦は、西の牧畜民族の国家が発展してできた王朝

長安の本質はそこにある
 
0342世界@名無史さん垢版2017/10/11(水) 20:31:45.280
北京語は満州語なのか
0343世界@名無史さん垢版2017/10/11(水) 20:41:13.290
「満州語」とまでは言い過ぎだが、長い清代を通じて、満州人の影響を受けて大きく変わったと言われている。
0344世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 06:18:16.780
朝鮮語も、昔は「テニヲハ」が少なく、今よりずっと中国語に近かったと考えられる。

今でも、たとえば、「日本の東芝」というのを、「日本東芝」というように、「の」を省略する傾向がある。
 
0345世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 06:19:50.850
関西弁にも、そういう傾向はある。

「目が痛い」を、「目ェ〜痛い」というように、助詞の省略が結構多い
 
0346世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 19:54:55.420
明は清に滅ばされたのではなく、李自成により滅ばされました。
清はその李自成を滅ぼしました。
李自成とその残党を滅ぼすことで正当性を主張し、殺された崇禎帝を祀ったり明の制度を活用するなどして明との継続性を示して安心させました。
逆らわない限りは寛容な方針でした。
少数の満洲族が圧倒的に多い漢民族を支配するためには、力で抑えつけることなどできず、漢民族の協力が必要だったのです。
0347世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 19:56:27.740
李自成が明を滅ぼしてくれたのは、清にとっては幸運だった。

正統王朝の明を滅ぼした逆賊・李自成を討つことによって、明の継承者になれた。

李自成には、足を向けて寝られない。
0348世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:01:49.430
唐は貴族

宋は士大夫

元はモンゴル人とトルコ人

明は郷紳

・・・と、中国の上流階級は移り変わっていった
0349世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:03:19.410
士大夫

宋代の支配者階級を形成した階層。その性格は、次の三つの面を併せ持っているとされている。

1. 政治的には科挙に合格して上級官僚となったもの。

2. 経済的には新興地主(形勢戸)であることが多い。

3. 文化的には儒教的教養を身につけた「読書人」。

なお、宋代の士大夫は、明清では郷紳と言われるようになる。
0350世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:04:28.930
宋学の主体は誰であるか。
それは「士大夫」にほかならない。
宋学とは、士大夫の学なのであり、士大夫の思想なのである。

士大夫とは何か。

唐代、科挙制度の確立とともにおこり、宋代にいたって確乎不動の勢力となったところの独特の支配階級である。
経済的には地主であることを例としたが、しかし、それは必ずも必須の条件ではない。

士大夫の特徴は、なによりもまず、知識階級である点に、いいかえれば、儒教経典の教養の保持者たる点に、すなわち「読書人」たる点に求められる。
いま少し周到にいえば、その儒教的教養(それは同時に道徳能力をも意味する)のゆえに、その十全なあり方としては科挙を通過して為政者(官僚)となるべき者と期待されるように、そのような人々の階級である。

<島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書1967 p.14>
0351世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:04:53.840
また、宋代の美術の主流となった文人画を支えたのも、士大夫であった。
右図では、風雅な読書人、文人としての士大夫の生活の理想が描かれている。
0352世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:05:33.130
次の征服王朝である元の時代になると、科挙が停止されたこともあったため、士大夫層は没落した。

かわって明代に農業生産力の向上に伴って成長した地主層が科挙の合格者としての地位もしめるようになり、彼らは郷紳といわれるようになる
0353世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:07:12.510
郷紳(きょうしん)

明、清時代に農村における地主で豊かな財力を持ち、地域での名望家として力を持っていた人を言う。
多くは科挙の合格者として官途につき、引退後は故郷に隠棲した人であり、知識人としても活動し、読書人とも言われ明の文化を担う存在であった。

宋代の士大夫に相当する。
イギリスのジェントリーにも郷紳の訳語をあてるが、たしかににかよった存在である。

明から清にかけて、地方の社会の支配階層となり、また小作農からの小作料で生活していたので、しばしば抗租運動の襲撃の対象となった。
0354世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:09:28.810
郷紳とは読んで字の如く、在郷の搢紳(しんしん)、すなわち地方在住の知識階級にして官位を持ち、同時に大地主、又は資産家を兼ねたものであるが、この階層が社会に及ぼす作用は三つの面に要約することができる。
 
第一は郷曲に武断することであり、これは土地の弱小民衆の上に権力又は財力を以て影響を及ぼし、意のままに動かす作用を言う。
ここで注意しなければならぬのは、この作用は必ずしも常に地方民衆を抑圧するとは限らず、時には民衆の希望を代弁する場合もあったのである。
 
第二は官政を把握することであり、郷紳はその実力によって、地方官庁の政治に圧力を加え、政治方針に干渉したり、その実施に異議を唱えたりすることであった。
これもその結果がいつも害毒を地方に流すとばかりは限ったわけではない。ずいぶん、弱きを助け強気を挫くといった義侠的な行動もあった。
 
第三には更に進んで遥執朝炳、遠方に居ながら中央政府の方針を動かすに至るが、これはどんなことであろうか。
このことばは、先には東林の際に(顧憲成に)、後には復社の張溥(ちょうふ)の場合にも用いられている。

<宮崎市定『中国史の名君と宰相』2011 中公文庫 p.224-225 読みやすいように改行した。>
0355世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:12:21.340
郷紳、それは、古代の豪族と、近世の科挙官僚を兼ねるような地方の有力者だった。

インドのマハラジャ、日本や西欧の封建領主みたいなものだ (ちょっと違うが)。

やがて、清末民国初の激動期には、彼らが中国社会を動かしていく。
 
0356世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:17:46.570
明代ともなると、農業生産力の向上に伴い、地主のパワーが極めて強くなった。
その結果、地主は地方の権力者となった。
ついでに、科挙官僚も彼らが占めた。

それに比べて、宋の士大夫は、地主が多かったとはいうものの、「文人」、「科挙官僚」という側面がより強かった。

宋を高く評価する人が多い理由が、ここにある。
0357世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:21:34.120
周王朝だろ
それ以後の歴史は学ぶ価値無し
0358世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:54:17.050
いや、中国の最盛期は明王朝
0359世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 20:55:11.030
それ以前の歴史も、明へと至るプロセスとしては学ぶ価値がある
0360世界@名無史さん垢版2017/10/12(木) 22:50:03.260
>>339
移動するも何もドイツがゲルマン人の故地だが
>>340
鮮卑族のほとんどは六鎮で防人やらされてただろ
暴走した武川鎮は内陸部に入って来たけど他は脱走するかそのままずっと防人
0361世界@名無史さん垢版2017/10/14(土) 03:06:45.570
郷紳(きょうしん、満州語:tesu ba i sula hafan)とは、1911年までの君主制下の中国の地方社会で、社会的・文化的地位を有する人を指す。紳士・士紳・縉紳ともいう。

一般的に科挙で得られる肩書き(生員以上)を持っている人を指す。
郷紳は君主制中国の地方社会において大きな役割を果たした。
官員と民衆とのパイプ役として、一方では官員の地方統治に協力し、また一方では官員に対して民衆の意見を代弁する役割を果たした。

しかしその地位を利用し、中間の利益を得て、郷里の民衆を食い物にしていた「劣紳」も少なからず存在していた。
郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国でも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。
0362世界@名無史さん垢版2017/10/14(土) 03:08:01.730
ジェントリ(gentry)は、イギリスにおける下級地主層の総称。郷紳(きょうしん)と訳される。
貴族階級である男爵の下に位置し、正式には貴族に含まれないものの、貴族とともに上流階級を構成する。
貴族とジェントリの間には称号(及び貴族院議員資格)以外の特権的な差異はなく、一つの「地主貴族層」として扱われた。
ジェントリは治安判事など地方行政職を無給で引き受け、地方の行政機構の一翼を担うとともに、中央官職へ人材を供給した。
家柄や所領規模に応じて、バロネット、ナイト、エスクワイアに分類される。
0363世界@名無史さん垢版2017/10/14(土) 03:13:31.920
明清は、郷紳の時代。

イギリスのジェントリと同様、地方の地主貴族(そういうのを豪族というんじゃないかと思うが)で、
官僚になる者が多く、教養があってノブレス・オブリージュを自覚していた。

地方で大きな勢力を持っていた。

イギリスも中国も、大陸欧州ほど貴族階級が育たなかったので、そういう連中が代役を務めたということだろう。
0364世界@名無史さん垢版2017/10/14(土) 03:15:31.410
それだけ、明清では農業生産力が向上して余剰が発生し、地方が大きな力を蓄えたことを意味する。 
0365世界@名無史さん垢版2017/10/20(金) 21:58:07.720
>>363
清は、女真族による植民地時代だろ
アヘンに法外な関税を掛けて政府が専売していた
0366世界@名無史さん垢版2017/10/20(金) 22:03:41.830
そこへ、お前たちだけズルいぞと、紳士の国が乱入

はれてシナ人たちは、良心価格でアヘンを購入出来るようになった
0367世界@名無史さん垢版2017/10/20(金) 22:55:29.990
安史の乱で、中国は終わった
0368世界@名無史さん垢版2017/10/20(金) 22:59:46.780
唐は、滅びた先住民による失われた旧文明
0369世界@名無史さん垢版2017/10/20(金) 23:01:10.520
宋はトルコ系王朝
0370世界@名無史さん垢版2017/10/20(金) 23:02:10.560
明も、漢族王朝だったのは最初だけ

永楽帝からはモンゴル系王朝
0371世界@名無史さん垢版2017/10/21(土) 13:03:19.180
本来、中華とは河南省のことだ
0372世界@名無史さん垢版2017/10/21(土) 13:04:39.760
河南省だけが中華と呼ぶに値する
0373世界@名無史さん垢版2017/10/21(土) 13:12:26.620
春秋の鄭・宋・衛・陳

このあたりが中華
0374世界@名無史さん垢版2017/10/21(土) 13:13:47.090
中原情勢の推移

B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年   共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年   鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏  衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋  四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月  鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月  衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月  邾が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年    宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋   宋が長葛を占領
B.C.716年7月   宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春    斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月   宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。
0375世界@名無史さん垢版2017/10/21(土) 13:15:50.730
↑ こんな調子が延々と何百年も続く
0376世界@名無史さん垢版2017/10/21(土) 16:23:34.540
春秋時代は、一応朝廷と諸侯の秩序があって
日本の中世(平安末期〜戦国)に近いんだよ
それ以後ぐちゃぐちゃに成る
0377世界@名無史さん垢版2018/01/30(火) 10:44:10.930
世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
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5DBUP
0379世界@名無史さん垢版2018/07/12(木) 12:39:48.790
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NRY
0381世界@名無史さん垢版2018/12/14(金) 23:04:05.880
このスレでは唐と明が人気のようだが、個人的には中華文明のピークは宋・元の頃であって、
明の中期から以降は全くの斜陽期ではないかと考えている。
現代の中国が成程 経済的軍事的には強大化の過程にあり、21世紀の覇権国になりそうな気配があるが、
それは単に図体がでかいことからくるものであって、文明論からいけば既に終わっている国という認識がある。
明・清の発展も過去の遺産とスケールメリットから来ている、ということである。
0382世界@名無史さん垢版2018/12/15(土) 19:21:19.560
まあ、唐が中国の最盛期じゃないのは間違いないな

そもそも、唐が中国と言えるのかどうかという問題もある
0383世界@名無史さん垢版2018/12/15(土) 22:24:10.110
小室直樹はモンゴルに征服された以降の中国はオワコンと言ってた。80年代前半の著書で。
0384世界@名無史さん垢版2018/12/16(日) 21:46:38.880
>>383
唐の最盛期を、中国のピークと考えていたな

「安史の乱より後、2度と繁栄は戻らなかった。宋の統一は唐に及ばず、元は異民族、明の統一も唐に及ばず、清は異民族」
「これを見れば、楊貴妃に入れ込んで安史の乱を引き起こした、唐の玄宗の罪は万死に値する」とかなんとか、そういう話じゃなかったかな
0385世界@名無史さん垢版2018/12/16(日) 21:48:20.970
小室直樹も、当時としては驚くべき博学だったが、しょせんインターネットがなかった時代の人だけに、情報量に制約があった
0387世界@名無史さん垢版2019/04/03(水) 11:38:58.120
北宋(南宋含む)は領土はともかく経済力と生産力では歴代でもかなり上の方じゃ
0388世界@名無史さん垢版2019/05/12(日) 16:52:08.570
宋が持ち上げられるように成ったのは戦後
専守防衛の宋から学べと東洋学者たちが言い出した
中国では社会の退廃した時代として評価は低い
0389世界@名無史さん垢版2019/05/13(月) 07:49:11.250
>>388
宋が持ち上げられ始めたのは、もっと前

唐の貴族社会が崩壊して、合格すれば誰でも高級官僚になれる科挙と、商売に成功すれば 誰でも金持ちになれる市場経済により、近代的な市民社会が形成されたと言われた

中華民国の近代化が遅れてモタモタしてた頃の話だ
0390世界@名無史さん垢版2019/05/17(金) 23:57:20.050
伯陽に拠れば
中国史で比較的明るい時代は
春秋時代
唐の貞観の治
清の康熙の治
しか無い、それ以外は全て暗黒時代
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