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なぜソ連軍は占領した満洲から撤退したか [無断転載禁止]©2ch.net
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0001世界@名無史さん2015/12/17(木) 15:47:57.500
おかげで現在の中露蜜月がある訳だが、
ソ連は大きな過ちを犯したのではないか。
あのスターリンがなぜ満洲から軍を引揚げさせたのか。
日本よりも中国を友好のパートナーに選ぶにしても、
あまりに大きすぎる獲物をわざわざ手放したのはおかしい。
なぜなんだろうか。
0046世界@名無史さん2016/01/25(月) 16:04:09.020
>>42-45
話をすりかえても空しいだけだよ。
スターリンが頭がもっと良かったら、
歴史が変わっていたな。
0049世界@名無史さん2016/01/26(火) 12:00:57.540
ソ連も新生ロシア
も金一族のせいで
いろいろ苦労しているな
0051世界@名無史さん2016/01/27(水) 11:13:27.820
>>1
日本降伏の直前に、ソ連と中華民国の間で締結された
中ソ友好同盟条約のせいだろ
その中ではソ連は対日戦のために国民党政府に協力する一方で
満洲エリアでは中国共産党に一切協力せず
(これは共産党軍が看板をすげ替えることで破られる)
その見返りに南満州鉄道を共同管理とし旅順・大連を租借する権利を得た
逆にいうとこの時局までにもうソ連は鉄道と港だけで満足するようになり、
満洲全体を領有しようなんて野心は無くしていたのではないか

1950年に中国共産党政権との間で改めて中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれ
旧条約が破棄されたのでそれに基いて5年後に旅順大連は返還
この条約改正交渉に中共側は必死で、ソ連側はしぶしぶの同意だった
0052世界@名無史さん2016/01/27(水) 17:22:50.540
>1
そもそも日ソ中立条約の段階で、ソ連は満州の領有意思を放棄しているよ
あとは中国の領土か否かってだけの話
0053世界@名無史さん2016/01/27(水) 17:39:38.940
満州国でクーデター起こさせて東欧型支配に
移行させるって手もあったのにな
0054世界@名無史さん2016/01/27(水) 18:49:42.530
1945年の国民党とソ連の友好条約ではソ連の満州の権益を国民党はあっさり認めた。
日本の満州権益を「清が勝手に結んだ条約で我々は関係ない」と革命外交に基づいて実力で奪回しようとした代償を踏まえたのかもしれない。
0055世界@名無史さん2016/01/27(水) 18:58:14.480
連ソ容共の頃から国民党はソ連を頼りに日本と戦おうとしてたから
それに日本を倒した暁には共産党との内戦が待っていることは必至だったから
少しでもソ連相手に点を稼いでおきたかった
というかソ連が国民党の弱い立場につけこんで南満州利権をまんまと取り返した形
0056世界@名無史さん2016/01/27(水) 19:02:39.480
それまで主権を満州同様に主張していた外蒙古のソ連管轄も国民党はこの時点では受け入れた。

ソ連が満州における国民党の主権を認める代償として外蒙古を諦め、満鉄と旅順のソ連権益の承認と
名も実もソ連の要求を受け入れた。
0057世界@名無史さん2016/01/27(水) 19:24:48.290
大連・旅順も60年代に返還しちゃうんだよね
あの時代はスターリン同志全盛期だったから
大量の大連・旅順市民も収容所送りにされたんだろうな
0058世界@名無史さん2016/01/27(水) 20:18:00.370
スターリンが生存中は満州は高岡とかいう代理人が介在していて
毛沢東でも勝手には出来なかったという。
スターリン死去後に粛清されたようだが。
0059世界@名無史さん2016/01/29(金) 11:47:46.330
>>56
そもそも外蒙古の奪還はソ連が崩壊しない限り無理筋なのは
蒋介石も毛沢東も分かっていただろう。
他方、新疆や西蔵の制圧に結局、成功したのは、
実のところ、第二次大戦の戦勝の利得だな。
0060世界@名無史さん2016/01/30(土) 00:38:51.870
毛沢東はフルシチョフに外蒙古の「返還」を要求したし、
外蒙古の承認は1961年と新中国発足から10年以上たっている。
中共も新中国建国後しばらくは外蒙古の併合を目論んでいた。
0061世界@名無史さん2016/01/30(土) 15:45:14.250
>>60
何の成算もないのに竹島だって日本政府は返還を要求しているが、
もし返還要求を取り下げたら、野党の徹底的追及を受けるだろう。
逆をいえば、外蒙古の独立を承認したところで、
竹島とも満州とも違って、中国政府にとり体制の正当性は揺るがない。
だいいち、併合をもくろむもなにもソ連軍との差は圧倒的で、
「建国後しばらく」は原爆すら持っていなかった。
またソ連政府にとっても、外蒙古と満州との違いは明白だったことが、
今日に至るまで、一度は制圧した満州の放棄を悔やむ形跡が残されていない
ことから理解できる。
0062世界@名無史さん2016/01/30(土) 17:46:15.410
ソ連としては外蒙古の正式承認と旧ロシア権益の回復で十分だったんだろう。
欧州でもオーストリアやギリシャ、ユーゴからは撤退しているし
0064世界@名無史さん2016/01/30(土) 19:22:07.140
うんこ
0066世界@名無史さん2016/02/04(木) 21:28:11.440
あの貪欲なスターリンなら満州を手放さずにソ連に併合して16番目の共和国にしてもおかしくないのに
0067世界@名無史さん2016/02/05(金) 06:15:19.980
外蒙古すら衛星国家化にとどまった(一部トゥヴァを併合したけど)のに、
満州を併合するわけないだろ。
しかも満州はスターリン存命中は実質的に傀儡化されていて、毛沢東も好き勝手は出来なかった。
0068世界@名無史さん2016/02/05(金) 21:31:40.650
子分の中共を信頼してた。
後の中ソ対立を予見していたなら、別の方法をとったと思う。
0069世界@名無史さん2016/02/05(金) 22:12:11.070
WW2のダメージでかすぎて直轄統治出来るわけが
0070世界@名無史さん2016/02/06(土) 15:14:27.910
満州に注力してたら国共内戦に巻き込まれて
肝心の東欧がおろそかになってた
0071世界@名無史さん2016/02/08(月) 06:56:15.220
実際に満州を中共に渡したのはフルシチョフになってから。
0072世界@名無史さん2016/02/08(月) 15:27:43.910
旅順大連以外は中共に渡っていたし、
旅大もスターリン時代に返還交渉が済んでいたからすんなり渡った
でないとフルシチョフ時代に起こったスターリン批判→中ソ論争の流れで
租借地をめぐり珍宝島とは別の紛争になっていたかもしれない
0073世界@名無史さん2016/02/08(月) 16:51:22.630
中途半端に租借継承せず、そのまま変換すりゃよかったのに
0075世界@名無史さん2016/02/08(月) 19:46:20.700
>旅順大連以外は中共に渡っていたし、
中共といっても高岡?とか言う満州には毛沢東とは別の代表が居て、
スターリンの代理人として実権を握っていた。
スターリン没後にすかさず毛沢東に粛清されたようだが。
0076世界@名無史さん2016/02/08(月) 19:49:14.450
フルシチョフはスターリンが中共に課した不平等な条項をほぼ撤廃した。
逆に考えればこの融和姿勢が中共がソ連くみし易しと侮るようになって中ソ対立に至ったのかもしれない。
0077世界@名無史さん2016/02/09(火) 01:29:32.350
>>75
スターリンの代理人というのは言い過ぎで、高崗は単に東北の「王」になっただけ
あるいは周恩来との闘争の過程で親ソ派としてソ連に利することをしたと批判されたかもしれないが、
実際の問題はそこではなく、中央政府つまりは毛沢東の言うことを聞かず独自に地方政治を行なっていたこと
中央に呼ばれてからもそのノリを続けて高官特権を振りかざしたから粛清された
東北では生産業績も挙げていたやり手だったので勿体ない気もする

で、ソ連・東北人民政府貿易協定というのを独自に結んでいたが、これは
ソ連と満州国との間の協定を引き継ぐ枠だったのかもしれない
0078世界@名無史さん2016/02/09(火) 09:54:03.790
満州で親ソ政権ができてたら許哥誼→代々木と、
極東が赤化されてたろうな
0079世界@名無史さん2016/02/11(木) 00:05:41.890
ソ連軍による旧満州鉄道施設の解体・ 搬出問題について
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31927/1/42%284%29_P86-96.pdfより
王強 著 - ?1993
経済学研究 42-4. 北海道大学 1993.3. <研究ノート>. ソ連軍による旧満州鉄道施設の解体・搬出問題について.
王. はじめに. 本稿の目的は,これ ... 2)ソ連軍が中国東北占領期間に行った鉄道施設や鉱工業 ...... 建国后, 1950年通化分局配属机車81台,全.




>>58
高崗 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/高崗より
Gao Gang
高 崗(こう こう、1905年10月25日 - 1954年8月17日)は、中華人民共和国の政治家。
もとの名は高崇コで、字は碩卿。中華人民共和国中央人民政府副主席や国家計画委員会主席、
中国共産党中央政治局委員などの要職を務めたが、毛沢東や劉少奇、周恩来との権力闘争に敗れて自殺した。

目次

1953年1月より、高崗率いる国家計画委員会の主導で第一次五カ年計画が発動された。中央人民政府主席兼中国共産党中央委員会主席として
中華人民共和国の最高指導者の地位にあった毛沢東は「向ソ一辺倒」を標榜し、8月には「過渡期の総路線」を提唱して段階的社会主義化を提示した。
毛沢東の方針の下、ソ連との結びつきの強い高崗が中心となって、ソ連型社会主義をモデルに中華人民共和国の国家建設が進められた。

しかし、早くもこの年、後の脱ソ連・反ソ連につながる権力闘争が始まった。すなわち、高崗が党のナンバー2である劉少奇や政務院総理(首相)の周恩来の中央指導に反対し、
自らそれに取って代わろうとして、この年の6月から12月にかけて様々な陰謀を仕掛けたというのである[7]。高崗が劉少奇や周恩来から奪権を謀ったのか、真偽は不明だが、
日本の現代中国政治学者である天児慧の指摘によれば、1952年12月に毛沢東が病気療養のために党務から離れ、劉少奇が党主席代理として党務を取り仕切った際に高崗が劉を批判し、
同月24日に党務に復帰した毛が中央政治局会議において「北京には二つの司令部がある。私の司令部と別の人物の司令部だ」と発言して、暗に高崗とその仲間の饒漱石を非難したという[8]。
0080世界@名無史さん2016/02/11(木) 00:07:02.980
1954年2月、第7期4中全会が開かれた。この会議は毛沢東の提案によって劉少奇が主宰することになった。そして高崗と饒漱石は、この会議において朱徳・周恩来・ケ小平・陳雲らによって「反党分裂活動を起こした」と厳しく批判され、
失脚に追い込まれた。いわゆる「高崗・饒漱石事件」である。1953年3月にはスターリンが死去しており、さらにスターリンと緊密だった高崗が失脚すると、毛沢東の経済政策は脱スターリン化が進んでいった[9]。

高崗は第7期4中全会の最中に自殺未遂を起こし一命を取り留めたが、結局1954年8月17日に服毒自殺した。そして翌年3月31日、党全国代表者会議においてケ小平主導の下に「高崗・饒漱石反党連盟に関する決議」が採択され、
高崗は東北を「独立王国たらしめようとした」[10]と批判されて党籍を剥奪された。

10^ 中嶋嶺雄、前掲書、146・154・158ページ。
0081世界@名無史さん2016/02/12(金) 18:05:21.070
高崗がスターリンのために利益供与を図っていたというのは濡れ衣の可能性がある
あくまで闘争の過程で出てきた周恩来らの言いがかりだったとしてもおかしくない

まず旧満州国に残ったインフラが、絵に描いたような国家社会主義経済開発の実験場だった
交通機関・都市・農業から重工業に至るまで、最も効率よく社会主義国家建設を
進めるのに都合の良い環境がすでにそこにあった
満鉄関係者にはソ連通や社会主義経済への理解がある者が多かった
(「実験」の成果は戦後日本でコンビナートほか太平洋ベルト地帯の建設に生かされた)
そんな土地をまるまる手に入れたら、スターリンモデルの五カ年計画で生産を進めるしかないだろう
ならば効率良い運営のために友好国でもあるソ連から技術者を呼ぶことにもなるだろう
そうしたからと言って親ソ派だということになるのだろうか
0082世界@名無史さん2016/03/01(火) 21:43:54.780
満洲建国記念日age
0083世界@名無史さん2016/10/22(土) 10:19:30.180
満州から撤退してなければソ連が核保有国と二正面作戦
戦うはめになってたろうな
0084世界@名無史さん2016/11/19(土) 08:15:14.610
ソ連にとって、独ソ戦と日ソ戦では全く重みが違う!

スターリン元帥は、これらの条件が満たされない場合、自分とモロトフにとり、なぜロシアが対日戦争に参加しなければ
ならないのかソヴィエト国民に説明するのが困難となるのは明らかである旨述べた。彼らは、ソ連邦の存在そのものを
脅かしたドイツに対する戦争は明確に理解したが、何ら大きな問題を抱えている訳でもない国を相手になぜロシアが
戦争に入るのか理解しないであろう。他方、彼は、もし政治的諸条件が満たされれば、国民は右に関わる国益を理解し、
かかる決定を最高会議に説明することも格段に容易となろう、と述べた 」。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf
0087世界@名無史さん2017/09/20(水) 22:24:25.460
>>1
簡単な話だと俺は思う。
満州国には5000万人の人口を擁しておりその大部分が中国人。
対して広大なロシア極東の人口はその10分の1にも満たない。
この状況で巨大な人口圧力を押しとどめる防壁(国境)を
自ら取り払ってロシアが満州国を自国領に取り込んだら、
いったい何が起こると思う?
早晩ロシア極東は中国系に乗っ取られる形になるだろう。
1を得て10を失うような莫迦な真似を誰がするだろうか。

この旧満州の領域、今では1億を超ええる人口が犇めいている。
100個師団が攻め込んで来たと言われてもプーチン大統領は
動じないかもしれないが、旧満州をそっくりプレゼントします
なんて言われたら、さしものプーチンも青ざめるだろう。
0088世界@名無史さん2017/09/21(木) 05:07:40.850
なぜって余裕ないから

あ、ごめん
ぶった切りすぎたか
0089世界@名無史さん2017/09/21(木) 18:29:32.180
人口4千万のポーランドには暴動起きても軍隊送って鎮圧して居座ったが。
0090世界@名無史さん2017/09/24(日) 10:13:00.240
>>89
ヨーロッパ側は、人口密度に大差が無いのでモーマンタイだろう。
0091世界@名無史さん2017/09/24(日) 11:58:18.990
カイロ会談やヤルタ会談などで満州は蒋介石の国民政府に引き渡すと取り決めなされていたから
スターリンはそれを忠実に履行したまで
0093世界@名無史さん2017/10/23(月) 14:38:08.740
>>87
別に本国領土に編入しなくても、
分離独立工作を仕掛けてもよいし。
それこそ「満州国」のごとく。
ほかにも、利権獲得など交渉材料として
保障占領する手もあるし。
そのまま手放すには、あまりにも惜しすぎる。
かのヒトラーでさえ、三国軍事同盟の趣旨を尊重して、
法的な義務規定はないのに、対米参戦を決定した如く、
スターリンもまた、国際連盟が決定した中国の主権領土という、
「満州」の大義名分には、逆らえなかったのか?
0095世界@名無史さん2017/12/21(木) 02:24:55.880
575 :名無し三等兵:2011/12/17(土) 13:05:52.66 ID:???
1.3. 1946年春の反ソ運動
ソ連は,中国東北出兵後,経済協力及び東北地域接収などの問題をめぐり,国民党政府と度重なる交
渉を展開したが,いずれも期待したほどの成果を得ることができなかった。それが原園となって,東北
撤兵の日程も延期されることになった。その間,東北駐屯のソ連軍隊が駐屯地域の工業設備を略奪して,
ソ連に持ち去った事実がマスコミに報道されると,中国国民の問に大きな不満と憂慮を引き起こした0
1946年2月11日に, 「ヤルタ協定」の内容がソ連・イギリス。アメリカ三国によって公開された。近
代において,列強による主権侵害の長い歴史を経験してきた中国が,ようやく日本軍を中国国土から追
い出し,国家統一の実現が間近に見えた時,ソ連が大国間の秘密外交を通して,中国の主権を極度に侵
害することになっても,あくまでも自国利益の確保を図ろうとした姿勢は,中国国民の反ソ感情を強く
刺激したのである。 2月22日の重慶大学生の反ソデモを契機に, 「ヤルタ協定」反対の反ソデモが全国
各地で急速に広まり,社会各界がこの運動に参加した。このように,日増しに職烈化してきた反ソ運動
によって,ソ連は外交上,受身の立場に立たされ,撤兵を加速せざるを得ない状況に追い込まれた20。旅
大地域において,いかに自国のイメージダウンを止めて回復させるかは,無視できないほど重要な課題となった。
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/13083/1/AjiaTaiheiyo_08_00_007_Zheng.pdf
0096世界@名無史さん2018/01/30(火) 10:21:56.340
世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

MQALU
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