オスマン朝・オスマン帝国(06) [無断転載禁止]©2ch.net
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・永田雄三編『西アジア史U―イラン・トルコ』(新版世界各国史9) 山川出版社、2002年
・佐藤次高編『西アジア史T―アラブ』(新版世界各国史8) 山川出版社、2002年
・柴宜弘編『バルカン史』(新版世界各国史18) 山川出版社、1998年
・鈴木董『オスマン帝国―イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社、1992年
・鈴木董『オスマン帝国の解体―文化世界と国民国家』 筑摩書房、2000年
・鈴木董『オスマン帝国の権力とエリート』 東京大学出版会、1993年
・鈴木董『オスマン帝国とイスラム世界』 東京大学出版会、1997年
・鈴木董『イスラムの家からバベルの塔へ―オスマン帝国における諸民族の統合と共存』 リブロポート、1993年
・新井政美『トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ』 みすず書房、2001年
・新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』(講談社選書メチエ) 講談社、2002年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』 青土社、2009年
・永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15) 中央公論社、1998年
・永田雄三・加藤博『西アジア』(地域からの世界史8) 朝日新聞社、1993年
・林佳世子『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット19) 山川出版社、1997年
・林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10) 講談社、2008年
・『イスラーム・環インド洋世界 16-18世紀』(岩波講座世界歴史14) 岩波書店、2000年
・『イスラーム世界とアフリカ 18世紀末―20世紀初』(岩波講座世界歴史21) 岩波書店、1998年
・歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ : 18世紀まで』 岩波書店、2009年
・歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗T』 岩波書店、2009年
・大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』 岩波書店、2002年
・日本イスラム協会編『新イスラム事典』 平凡社、2002年
・伊東孝之他監修『新訂増補 東欧を知る事典』 平凡社、2001年
・三浦徹・東長靖・黒木英充編
『イスラーム研究ハンドブック』(講座イスラーム世界別巻) 栄光教育文化研究所、1995年
・小杉泰・林佳世子・東長靖編
『イスラーム世界研究マニュアル』 名古屋大学出版会、2008年
・羽田正・三浦徹編『イスラム都市研究―歴史と展望』 東京大学出版会、1991年 銃の発達については完全にヨーロッパのほうが上だよ。
イェニチェリもヨーロッパから銃を導入している。
ウルバンの巨砲もハンガリーの技術者が作ったものだし。
オスマン帝国って人口がかなり少なかったんだが。
ローマ帝国よりも少なかったんじゃないかっていうぐらい。
技術で劣るイスラム側が少数精鋭のヨーロッパ諸国に対して数でごり押ししていただだけ。
キリスト教徒の子弟を洗脳してイスラムに改宗させイェニチェリにして、ヨーロッパからパクった銃の技術で武装させ、ヨーロッパを侵略していたのがオスマン帝国だ。 少ないの人口の内で更に少数派出身の兵なのに数でごり押しとかなにかおかしいと思わなかったのだろうか 人口少ないから数でごり惜し
なに言ってんだキチガイか 人口とは別次元の問題として
銃を持った部隊の数を増やしていたなら何もおかしくないと思うが
実際に人口低いのかは知らんが 1600年頃のオスマン領域の推定人口(万人)
アナトリア700+シリアパレスチナ200+エジプト500+北アフリカ400+イラク100+アラビア紅海側200+東南ヨーロッパ1000
合計だとおよそ3千万人となる
これは同時代の仏英伊の合計人口に匹敵し、広範囲から引っかき集めた数字でしかないものの必ずしも少なくはない
もっともこのあと200年で西欧諸国は人口倍増するのに対しオスマンは遅々たる歩みで、一気にジリ貧になる >>12
17世紀以降の西欧諸国の人口増加は新大陸からもたらせれた
ジャガイモやとうもろこしのおかげなのかな。 いつも思うけど、中東って近代に入るまでアウグストゥスの国税調査時とあんまし人口変わっとらんのよね
古代の時点ですでに出涸らし状態になっとったん? >>14
ジャガイモもとうもろこしも17世紀じゃ無理。 オスマン帝国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%B8%9D%E5%9B%BD
1520年 1169万人
1566年 1500万人
1683年 3000万人
1856年 3535万人
1906年 2088万人
ほら人口が少ないのは事実だろ。 バルカン半島にあったのはヨーロッパのなかでも強い国じゃないしな。
ルーマニアとかセルビアとかに勝ったからって何だって言うんだ?
イェニチェリの銃の技術だってヨーロッパからパクリだしな。 バルカン諸国には数でごり押しが効いたんだよ。個別撃破すればいいし。
でもオーストリアには止められた。 バルカン半島からアナトリア半島、北アフリカの交易路抑えてたのがでかいと思うな
オスマン史あんまり詳しくないんだがオススメの本とかある? >>12
オスマン支配時代にバルカンの人口が減ってんだよな。
どれだけ過酷な支配だったんだ? >>22
メフメト2世の征服から100年間は人口が急激に増えてるっぽい
150万人ほど増えて1.3倍くらいになってるけど、ムスリムが移住してきたのかな ロシアは近代化に成功したのに
清やオスマンは失敗したのはなんでだろうな? 近代化はした、ビザンツの建築技術の取り込み・大砲や鉄砲の導入、新軍隊の創設。
19世紀にはお雇い外国人作戦と戦艦なの兵器購入。
お雇い外国人の給料は同じ階級でも1.5−2倍の破格対応。
しかし、イスラム教の影響で限界があった。アタチュルクはその限界を引き上げた。 東ローマの美少年はオスマン兵の餌食になったようだ
まさにケツマン帝国 ロシアは1700年頃だけど、オスマンは19世紀、清朝はアヘン戦争後で遅すぎる。
最近はトルコもヨーロッパの下請けとして頑張っている。 やっぱりオスマンの偉大な君主はスレイマン一世?
それともメフメト?
はたまたムスタファ? スレイマンが一番すごそうだけど、領土の拡大はメフメトだよね。
ビザンツ滅ぼしたのは許せんが セリムも調べてみたら中々偉大だね。
スレイマンの父さんか 少々マンガで、オスマンのハレム扱ってるやつ読んでるやついる?
スレイマンがイケメン優男で燃える笑 領土の拡大No.1はセリム、勝った相手も同時代トップクラスの戦争の天才 同時代の天才に負けたバヤズィット
同時代の天才に勝ったセリム >>36
バヤズィットの相手は、同時代にとどまらず史上トップクラスの天才
セリムといえど対抗するのは厳しかったろう バャズイトってメフメトより前の、ティムールと戦ってた人か?
ティムールは確かに化け物だな なんでこんな過疎になったんだこのスレ...マムルークで蹂躙されてえのか間抜けども ジェッディディンはイェニチェリとメフテルハーネ廃止後に西洋音楽の要素を取り入れて作られた曲らしい もうこのスレ死んでるかと思いきや、まだ生きていたか。
ジェッディディンって14世紀じゃないの? >>42
ジェッディディンは名曲だけど、なんで軍隊音楽ばかりなんだろうね。
バッハのG線上のアリアやビバルディの四季みたいな
穏やかなマインドミュージックはなかったんだろうか? ぶったけオスマン帝国が東南欧を席巻しヨーロッパを物理的にも精神的にも圧迫しなかったら
大航海時代なかったよな >>46
作曲者がはっきりしていてイェニチェリが廃止された後に生まれてる
14世紀とかありえない ジェッディンは19世紀の曲だったか。
この曲が19世紀に作られたと考えると切ないな。だってその頃のオスマンはもう衰退して列強の玩具にされてる頃だろうし...嘗ての強きオスマンを思い出してるんだろうなあ なんで日本はまともなオスマン帝国の書籍がないの?
簡単な概説書程度しかないよな 大した事をやっていないから概説書で十分ということだよ。 ヨーロッパ最大の脅威だったんだが...。
日本から遠いだけでその発言はあんまりだな ヨーロッパで出版すればいい、日本で出版する必要がない。 >>58
専門的に知りたいんじゃないの?
日本の概説書程度じゃ足りないと言いたいのだろう
ならトルコ語を習得してトルコに行けよって話だけどなw
従って>>52は無能
でも専門知識を求めている人に簡単な概説書でわかるだろと言っちゃうお前も無能 >>56
価値のない人間がそんなことを言っていいものでもない 概説書で十分な国なので不要
専門的に知りたいなら英語かトルコ語で読め
ゴミ文化しかなかったのをうらめ こういうよその国の文化をゴミとかなんとかって評価する連中ってどういう脳みそしてんだろ とりあえずカウントダウン前後のレスでは罵りあいやめないか
哀しくなる あけましておめでとう!
しかし変なのが湧いてるな〜。
オスマン帝国の偉大さがわからない連中は、ムスリムやイスラム教を野蛮なクズだと言ってる連中と同じぐらい価値のない連中だな。
オスマン帝国が世界史に与えた影響はゴミ文化などとほざいてるゴミの数億倍はある。
その時点でゴミなどとは到底言えないだろうよ そもそも専門書が無いとか言ってる奴はグーグルもアマゾンも検索できない馬鹿なのか
偉そうな割に鈴木薫とか専門家の名前が一人も出ないあたり程度が知れる 鈴木董を鈴木薫と記してるあたりお前の程度も知れてるぞw >>65
ムスリムマンセーではない。
俺はキリスト教、ユダヤ教の良いところもちゃんと評価してる。
だがこの中ではイスラムがもっとも寛容な宗教だ。初期及び黄金期のイスラムの話だけどな。現代のイスラムは腐敗を感じる。人々の信仰心がいくら純粋であろうとも腐敗はしてるだろう >>67
鈴木薫を見抜けないで同意しているおまえもアホ オスマン帝国が音楽に与えた影響ってどんなものなんだろう。
軍楽隊は確実にオスマンが原型だろうし ローマ帝国以降、ちゃんとした風呂の概念持ってたのもオスマンだけじゃね?
俺も当時のハマムに行ってみたいな〜。 >>24
ロシアはビザンツから受け継いだキリスト教と専制、
モンゴルから受け継いだ獰猛さと専制を残しつつ西欧化したが正しいな。
日本も文化は残しつつ、政治・社会の構造を一気に変革した。
清朝は政治体制そのままで、西欧の技術だけ導入しようとしたが、
日清戦争での敗北で限界が露呈した。
オスマン帝国は一部の皇帝や官僚には危機感があってやる気もあったが、
守旧派の抵抗が激しくて近代化が遅れた。 >>24
ロシアも清もオスマンもとっくに滅びたんだからどこも失敗してるだろ
ロシアが成功したならなぜいま現存しないの? >>74
ロシアとかフィンランドとか蒸し風呂があっただろうよ >>79
じゃあなぜ滅びたの?
三帝国全て革命で滅びてるぞ 全盛期の国々、ロシアもブリテンもフランスもスペインもイタリアも、全盛期の大帝国たちと比べるとかなり見劣りするんじゃないかな。
何度も他国を脅かす強国オスマン。軍事力だけでなく文化も独特であらゆるものに影響を与えた。そして虫の息になってしまった東ローマを滅ぼした。
アラビア帝国の全盛期はローマの技術を吸収し、文明の保護者、当時の世界の先進国として君臨していた。
モンゴル帝国は正直ゴミ。
ムガルはモンゴル帝国と同一だけど、タージ・マハルや赤の城を作った功績はでかい。
ローマ帝国はいわずもがな。ギリシャの文化を引き継いで、独特の文化も作り上げた。 コンスタンチノープルの建築技術に度肝を抜かれるオスマン土人 ティムールやチンギスは征服者としては偉大かもしれないが、モンゴル帝国はただ破壊していっただけだ。
あいつらがイスラムの遺産を破壊してなければ... >>85
> あいつらがイスラムの遺産を破壊してなければ...
それ間違いだから。モンゴルを没落の口実に使うのは甘え。
イラク・シリアはモンゴルが中東に侵入するより百年以上前から十字軍との戦いによって荒廃していた。
なによりもモンゴルは、知識人の避難先だったマディーナ、マッカ、カイロに到達していない。 >>86
意味を履き違えておられるな。
俺がいってるのはそのまんまだよ。イスラムの都市とか略奪してったじゃん?そのことを言ってるんだよ。
まだ残ってればなあ... イスラーム帝国が何ら希少価値のない「知恵の館」を破壊したぐらいで没落する社会だったとでも? 知恵の館が希少じゃない?いや希少だろアホか。
イスラームの没落は内乱によるもの。
内乱で疲弊したイスラームにモンゴルの野蛮なゴミどもが追い打ちをかけた 数百年前の行政文書の写しに何の価値があると思ってるのか知らんが、過大評価だな。 くれぐれも史学的損失と政治経済的損失を混同しないことだ。
正倉院宝物が破壊されたら日本が没落するなんて言ったらただのオカルト扱いだぞ。 希少に決まってるだろ。史学的遺産なのに。
アレクサンドリア図書館に次いで貴重 幕末明治初期の日本には欧米に追い付け追い越せみたいなのがあったけどオスマン帝国にはそんなの出てこなかったな >>24
清とオスマンを挙げたのにムガルは挙げないのか? プロイセンもな
プロイセンが一番の近代化成功者だろ
西欧でドイツだけ近代から取り残されて中世が続いてたのに
近代化に乗り出したらみるみるうちに近代化して
当時の世界でトップクラスの工業力と軍事力を手に入れた
それで調子に乗りすぎてやっぱり第一次大戦で滅びたけど >>95
ムガル末期はさておき、直近ではインドは急速に近代化してる希ガス 清とムガール帝国には何億もの人口があったのに、
オスマン帝国の人口は三千万とされていて、ケタ違いに少ない。 >>94
ずっと隣り合っていたし軍事的に長い間拮抗していたから西洋の衝撃をまともに経験しなかったんだろうな >>96
ビスマルクは偉大な愚か者だったな。結果からみると >>97
イギリス様のおかげやな、エリートは英語も使えるし 日本を欧米に並ぶ国にするんだ!
こんなことを思っていたアジアやアフリカの国は日本だけだろ
朝ドラの五代様みたいなのは清にもオスマンにもいない 日本の発展意欲はすごいよな。
明治のまま進んでいけばもっと良い国になっていただろう。有能な政治家も多かったし そういえば、今日1月10日のEテレ「知恵泉」は五代友厚だ。 軍事変体国家で崩壊したけどな。戦前の輸出産業の花形は生糸。 父も祖父も〜!
父も祖父も〜!
歌詞だけ見るとなんかマヌケ バルカン諸国はザコだったから、オスマン帝国でも勝てた。
でも神聖ローマ帝国みたいなそこそこ強い国には勝てなかった。 単純に遠いから戦いづらいだろ。
そんで神聖フランクはでかいからな ティムールとの戦いで滅亡寸前になってからのリカバリーして東南欧、東地中海制覇したからなー
ティムールなしでのオスマンvs神聖ローマ見たかったな
普通に勝ってただろう
ウィーン攻囲戦ちょっと前からオワコン臭してたし モンゴミとかいう邪魔者が来なければオスマンがオーストリア辺りまで支配してたかもしれない >>117
オーストリアなんてケチくさいこと言ってないで
どうせならオーストラリアまで支配しろや 日本人からしたらモンゴルもオスマン迷惑者でしかない
やつらいなければ大航海時代、西欧の勃興、ロシアの勃興、そして近代世界秩序の原型英露グレートゲームもなし 他国を侵略したりするだけで、大した文化的科学的貢献もないからな。 >>120
世界支配してるじゃねえかそれ...w
>>122
遊牧民族は総じてそれだからな オスマンの頃はさすがに遊牧騎馬民族視はされなくなってきてたんじゃないのか モンゴミは野蛮な遊牧民族のイメージが強いが、オスマンはイェニチェリをはじめとした歩兵が主力のイメージ >>113
ニコポリスで皇帝ジギスムントに勝っているんだが… >>127
そりゃ出てきたばかりの頃はモンゴミ色の強いキプチャク系とかだもんな? 遊牧民族ってほんとクソだよな。
壊すだけ壊すゴミ。文化もしょぼい 遊牧民の時代は終わった
しかしロシアという遊牧国家の集大成ともいえる落とし子を残していった オスマンは領邦であるクリム汗国やドナウ両公国(ワラキアとモルダヴィアつまり今のルーマニア)を
ロシアに奪われたのが痛かった。あとはアブハジアなどのザカフカスを盗られたのも痛かった。
ちなみにクリム汗国のギレイ朝は、チンギス・ハーンの長男ジュチの息子バトゥーが建てた
ジュチ・ウルスつまりキプチャク汗国の後継国家。ギレイ家は、ジュチの直系が代々ハーンの家系。
ギレイ家は、クリミア戦争直前に英国に亡命して子孫が残っているらしい。タタール人は混血を
重ねてるから、モンゴル帝国の末裔とは言えども、見た目はコーカソイドと変わらないな。 ロシアを東ローマの後継・継承国家とみれば、
東ローマの逆襲というかレコンキスタ東欧版ともみえなくもない >>134
ロシアがクリミアに拘ったのは、ギリシアの植民都市ケルソネソス(東ローマ帝国時代のケルソン)の
存在だね。かの地がロシアにキリスト教が最初にもたらされた土地だという伝説がロシアにあるから。
いわばロシア正教の聖地というべき土地がケルソネソスであり、クリミア半島だったわけだよ。
同時にクリミアはクリム汗国の版図でもあったわけで、帝都バフチサライ中心にタタール(モンゴル)人が
住んでいた土地だ。ロシアはクリミア戦争後にタタール人を虐殺・移住させて彼らを追い出した。
現在も残るクリミア・タタールは、生き残りの末裔だ。ロシアにとってはクリム汗国つまりタタールの軛の
恨みの土地であり、タタール人にとっては、ジュチ・ウルス(キプチャク汗国)から続くモンゴル帝国の
土地だったわけだ。 ロシアはモンゴル帝国の後継者ともいえ正教の守護者(国家的には一時放棄するが)として東ローマ帝国の後継者ともいえる
わいヒャッハーなところがあるのは承知しとるけど同時にわい一応ヨーロッパ人やし(←ヨーロッパ人「え?白いモンゴル人だろ・・・」)上品に振舞わないと。。。という性格 >>130
突厥は中国語のチュルクの表記。
ちなみにウイグル族は、自らをチュルク(トルコ)と呼ぶ。 >>137
ロマノフ1世が望んだのがローマ(ビザンチン)の都コンスタンチノープルの異教徒からの奪還で、
実現したらサンクトペテルブルクから遷都するつもりだったんだよね。ロシアにとってクリミア戦争の
大義は、ローマ(ビザンチン)帝国の復活のための戦いだったわけだ。 >>131
でも、日本人のルーツの1つである夫余族の骨品制(骨つまり王と
品つまり貴族の合議制)を古代政権は実行していたよ。夫余は北方から侵入し、
高句麗・新羅・百済そして弁辰または弁韓(任那)を建てた。そのうち弁辰の一族が
海を渡って植民したのが古代大和朝廷だからね。任那の日本府という表現は
今では逆で日本の任那府と言った方が的確なんだよね。 エカチェリーナ二世は息子だか孫だか生まれた時、オスマンのスルターンに名付け親になって貰おうと思ったけどイスラム教徒だから止めになったみたいな話あったな
国同士は戦争してても王室皇室は付き合い続けますみたいな関係不思議だわな >>140
んなわけねーだろ寝言もいーかげんにしろwwwwwwwwwwwwwwww
弁辰のあった時代・地域に馬はいないし扶余は遊牧民族ではなく農耕民族
大和朝廷と遊牧民とは無関係
神功皇后は自分の父祖の地に正当な権利を主張して取り戻し、その時に新羅から馬をいただいただけだ しらけたことしか言えないゴミのせいでまたレス止まったね まあオスマンはモンゴルとは関係ないし敵だよな。
じゃあオスマンはスキタイみたいな遊牧民族で、そいつらが作った国家ってだけ >>157
モンゴロイドとコーカソイドの混血が基本だから、
ハーフ美女的な感じなのが多い。 メフメト2世とスレイマン一世以外にこの二人と同格かそれ以上のオスマン指導者っているの?
ムスタファぐらい? >>161
ドルジって太っていたからああだけど
痩せている普通体型だとどんな顔なのだろう
さんまみたいな感じか >>163
>>164
どっちも知らないけどセリムって聞いたことあるな。スレイマンの後継者だっけ オスマン帝国ではルムと呼ばれるアナトリアのギリシャ人と今の本土のギリシャ人は区別されてるけど
ホメロスみたいな古代アナトリアのギリシャ人もルムに区分されるの?
というか独立戦争時のルムはどういう態度だったんだろう
日本語のオスマン帝国史の本やネットの記事や英語版wikipediaを見る限りギリシャ独立戦争時のルムは独立戦争で蜂起したって記述は特に無かった
(キオスはルムに入るのかな?それならそれくらいか)
希土戦争になるとルムも協力したようだが
WW1前後になってようやくルムも俺達もギリシャ人なんだという意識が生まれたのかな あ、オスマン帝国では、というよりトルコ人が
の方が良いか トルコ・スペイン・ポルトガル
↓
フランス・イギリス
↓
イギリス・ロシア・ドイツ
↓
アメリカ・ソ連・ドイツ・日本
↓
アメリカ・ソ連
↓
アメリカ
アメリカの覇権が続くのか、それとも・・・ >>174
ならんならん
トルコ・スペイン・ポルトガル
↓
フランス・イギリス
↓
イギリス・ロシア・ドイツ
↓
アメリカ・ソ連・ドイツ・日本
↓
アメリカ・ソ連
↓
アメリカ
↓
イスラム共同体 ローマとカルタゴ
ビザンツとササン朝
武田信玄と上杉謙信
宮本武蔵と佐々木小次郎
早稲田と慶應義塾
ヒトラーとスターリン
日本航空と全日空
ドラクエとFF
アムロとシャア
イチローと松井秀喜
小倉唯と水瀬いのり 源氏と平家
蒋介石と毛沢東
AKB とモー娘。
・・・
まだまだあるだろw オスマン帝国からみて東ローマは西洋のリンゴらしいけど、こういう面白い?例え他にもないかな。 唯一帝国が復活出来る可能性があったのはWW1時だな
WW1で中央同盟軍が勝ってたらカフカースとエーゲ海諸島を手に入れて大国へ復活した可能性もある
実際史実でもカルスを取り戻した
逆に中立を貫いてからバルカン戦争のように勝手にブルガリアに宣戦布告してトラキア地方に攻め込んでも良かったかも >>183
オスマンが衰退してなかったらケマルがオスマン帝国の将軍として大活躍
ケマルの活躍で帝国ますます強固に >>176,178,179,182
そういうのは専用スレあって寂れてるからそっちでやってくれ
歴史上にライバルについて語ろう
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/whis/1356314960/ >>184
ムスタファらの活躍でww1に勝利して、先進国入りしてたかもしれんな。
もし全盛期からほとんど衰えなく現代まで来れば、今のイランなどをとうに越す大国になってたのだろうか。
アラビア半島の領土も敵の手にわたらなかったらシオニストどもも発生せず...素晴らしいな アホらしい妄想だ。単に西洋の技術を導入するだけならオスマンは何度もやってるし殆どの非西洋国家もやってたが結局失敗した
近代国家に生まれ変われたのは主要民族の確定と頭にカビの生えた旧支配層をリストラできた所だけ もしもにアホらしいもなにもあるか。
アホはお前じゃね オスマンセーは自信満々に何一つ反論の根拠を挙げてなくてワロタ
だから妄想なんだよ >> 12
1600年頃のイタリアは1300万、フランスは2000万だから
イギリスは含めなくてもよい >>96
プロイセンは田舎だけどドイツはもともと識字率も高く発展してた
特にライン地域は今と同じで工場地帯だったし
それが統一されたらそりゃ強い 今考えるとトルコが祖国解放戦争でギリシャから
イズミル取り戻してマルマラと西部沿岸を失わなかったのは
不幸中の幸いだったよね
歴史的に先進地帯であるマルマラと西部沿岸をトルコが失っていたら
今のような台頭も無く
トルコには山岳部の多いアナトリアしか残されなかったから
3流国家に落ちぶれていたはず >>196
一応現在でも中東の地域大国としてそれなりの存在感はかろうじて保ち続けているから……
最近じゃエルドアン大統領のおかげで中東情勢の渦中の一国になってるし 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ 単純にエジプトイランと並んで人口多いからな
あとは中東で大国といえるのはオイルマネーのあるサウジくらい
しかし少し前まではアルメニアくらいしか敵がいなかったのに、ほぼ全方位敵に回した最近のトルコ外交の迷走ぶりはもう何がやりたいのか意味不明レベル オスマンにしろビザンチンにしろ
マルマラ海(イスタンブール)に本拠地を置く勢力が自然障壁で国境を安定させたいなら
最低限ドナウ川以南の大部分とアナトリア半島(東部は荒地と山岳地帯)の
両方を支配しているのが望ましいのだろうか
一応上記の領域を達成したのが
ビザンチンがバシレイオス2世の時代、オスマンがメフメト2世の時代
でもそうなると多民族抱え込む事になるんだよな。 >>201
トルコの友好国はアゼルバイジャン、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、クルド自治政府
特にアゼルバイジャンとボスニアは兄弟国レベル
マケドニア、グルジア、ブルガリアとも悪くない
全方位って程じゃないしギリシャとはずっと紛争してるしイラクシリアとは最初から仲良くない
シリアはPKKを支援してたしな
周辺国が敵だらけというのはバルカン、中東の国家はほぼ全てそうだ サウジは面積広いしオイルマネーあるけど人口が少なすぎて大国とは呼べん
人口2000万で大国と呼べるなら台湾だって大国だ
人口も経済規模もサウジとほぼ互角 ササン朝とバトルアンドバトル
終わりなき戦い
ユスティニアヌスが西ローマの旧領を大征服するが
その後がランゴバルド、アヴァール、イスラムに領土を取られまくって
停滞の時代が続き、しばらくするとようやく安定して
バシレイオスの活躍で再び大国になるが、その後は暗君が続き
トルコ人にアナトリアを奪われる
更に十字軍によって一回滅ぼされる
なんとか復活するが、ふるわずオスマン帝国に滅ぼされる
色々あったけどよく1000年も続いたもんだよ ISも結局一発屋で終わってしまったな
トルコ・サウジ・イラン等の大国があるからあれ以上の拡大は無理だったし
クウェートに手を出すとアメリカが本格参戦するからこれもまた厳しい トルコが対シリアで本格的にイランと開戦とかになったら可能性はあった
イランだけじゃなくてロシアがシリアのバックについてたから無理だったがこれがイランだけだったら… >>206
せめて預言者ムハンマド時代のように相互の尊重と善意に基づく多神教社会であれば、ジハードし放題だったのに。
憲法9条で武力行使が禁止された非武装で多神教社会の今の日本は、理想的なジハード対象。 >>206
もう終わってしまったって断言できるのか? オスマン帝国で最も男色好きで有名だった人物は
誰と誰でしょうか?
教えて下され。 エルドアンってカリフになる事以外にも
イスタンブールに首都を戻すのを検討している事って現状何割位あるんだろ? へ?カリフになりたいとかイスタンブール遷都とか言っているの? 百歩譲ってスルタンならまだしもウラマーですらないのにカリフとかISかよw マルタ島を征服できなかった司令官に対してスレイマン大帝は彼らを
処刑なんかの厳罰に処さなかったんですね。
その中の一人ララ・ムスタファ・パシャはスレイマン死後のキプロス島
遠征で総大将を務め,最後は大宰相にまでのぼりつめてる。 マルタ騎士団は、戦争のたびにムスリムの捕虜を戦利品として連れ帰り、
ガレー船の漕ぎ手などに使役していた。
こうしたムスリムをキリスト教に改宗させる運動も行われていた。
これらの膨大な数の奴隷はヴァレッタの北東部にあった収容所に監禁されていたらしい。
オスマン帝国の側では、キリスト教徒の奴隷になったムスリムを救出する運動
というのは行われていなかったのだろうか? 帝国の勢力図を見るとアラビア半島の内陸部は
空白だが余り統治に力を入れなかったのかね? >>218
大砂漠だからね
飛行機で下をみると砂の大波が続いている
google earthをみよう 半島内陸部なんて本当に何も無いぞ
そんなところ領有したって何の意味も無い
現代じゃ砂漠だろうがツンドラだろうが「領土がある」だけで価値があるが
昔は何も無い無人の地なんて領有する意義は無かった アラビア半島だけではなく、リビアの大半もベドウィンが跋扈しているだけで
何もない土地だったらしい 油田だって湾岸に集中してて内陸には油田なんか無いし イスラムの興隆はビザンツ帝国とササン朝の抗争という絶妙なタイミングも大きい
これが全盛期のローマなら返り討ちにされ、ムハンマドが磔刑にされ第二のキリストになっていただろう アラビア半島には近代まで非セム系の先住民族がいたとか聞いたことがあるがガセだろうか >>221
ベドウィンって遊牧民だけど、モンゴルや突厥みたいに強大にはならなかったのかな バルカン諸国やアラブ諸国では、自国の近代化の遅れをオスマン帝国のせいにしているらしい 実際、オスマンの搾取だから当然の結論だろ。
国の税収の半分以上を上納させていれば軍事的保護程度では割に合わない。 オスマンと清ってあんまり使者の往来とか無かったの? オスマンとムガールってあんまり使者の往来とか無かったの? >>231
しかもオスマン時代は虐殺や飢饉がしばしば起こってるからな。
度重なる大虐殺でアナトリアのキリスト教徒は絶滅したし >>217
オスマンは大虐殺で答えてるわな
1570年だかのキプロス占領時は住民5万人が虐殺された 帝位に付けなかった皇子に死を賜る兄弟殺しを法定制度化しちゃうところ、
かなりの非人間性を感じる。
ハーレムの妊娠中の女ですら生きたまま袋詰めにして海に沈めちゃうし。
でもハーレム自体はちょっち羨しい。 >>195
青年トルコが同地のギリシャ人を虐殺して絶滅させてたから成功したんだぞそれ
あまり誉められたものじゃない >>240
近世の巨大イスラム専制国家でもずいぶんと違うな オスマントルコ人の男色好きは「図説・ホモセクシャルの世界史」にも
いろいろと書いてあるなぁ >>229
それ以前の統治がクソでオスマン統治下のほうが実際はよかった説もあるがな… >>229
そりゃそうだ。職人とか連れ去って、搾取しまくりだもの。 ヨーロッパよりマシってムスリムマンセーの定番だよね。 オスマンセーやってのはサヨだろ
お仲間のアラブ・イスラム研究業界が研究先とズブズブで反米何でも差別認定にあらずんば人にあらず状態だし >>248
ヨーロッパ(エウロッパ)のエウって、芳しい・素晴らしいなんて意味の接頭語なんだぜ セム語のエレブ(西、日没する方角)が語源だろ、ちなみにマグレブもほぼ同じ
ギリシャ語エウロパから後の説明は後付け >>252
ネトブヨのアンチ白人=オスマンセーだろ。
ムスリムの女性差別万歳のサヨなどいない。 日本人なのにアジア蔑視の白人厨とか下痢便レベルのクソバカだろ
例えるなら私大卒なのに国立信者で私大叩きやってるようなもん
自分の立ち位置が分かってない単なるクソバカ >>223
当時のアラビア半島は思想的にも行き詰まった退廃状態にあり、イスラムの出現は旱天の慈雨だった >>256
韓国では、トルコは世界一の親韓国ってことになってる 中国とインドは、崩壊の危機にさらされながらも、一応は安定している。
中近東の大混乱がひどい。
イラン、イラク、シリア、サウジ、レバノン、イスラエル、トルコ、エジプト。
バルカン半島も、最近まで大戦乱だった。
オスマン統治下にあった国ばかり。 トルコ以外でオスマン帝国のおかげでとくをしたことってあるの? 今は、イランとサウジの対立が深刻だ。
もう、「アラブ対イスラエル」なんて時代ではない。 オスマン帝国は、まずバルカン半島を征服し、それからイラクやエジプトにホコ先を向けた。
優先順位としては、そちらの方が高かったわけだ。 黒海に面しているだけに、テンの毛皮とか、寒い地方の特産品も入ってきた 18世紀の初め頃のピョートル大帝の時代には、まだトルコは
ロシアにとって容易ならぬ強敵だった。
19世紀ともなると、まったくのカモになってくる。 いま、トルコでは家電産業が盛んだ。
「東の韓国、西のトルコ」というくらい、家電の国の国になった。 >>266
トルコはヨーロッパ様の下請け
韓国は自社製品
ちがいますね トルコは、ロシアとの関係を改善中
EUとの関係は悪化している ロシアのプーチン大統領は3日、露南部ソチでトルコのエルドアン大統領と会談した。
会談後の共同記者会見でプーチン氏は、2015年11月のトルコによる
ロシア軍機撃墜事件以降に導入された露側の対トルコ経済制裁をめぐり、
トマトの輸入制限など一部を除き、全面的に解除することで合意したと明らかにした。 ドイツとトルコの罵り合いが、欧州に「最悪の結末」をもたらす可能性
また一つ、世界に新たな火種が出現した
川口 マーン 惠美
メルケル氏をナチ呼ばわり
ここ1ヵ月、トルコがEUを相手に大暴れだ。とくに、
ドイツとオランダの対トルコ関係が急激に悪化している。
つい最近まで、毎日、トランプ氏の動向を非難がましく
報道することに明け暮れていたドイツメディアも、今ではトルコ非難ばかり。
この騒動には、3月15日に実施されたオランダ総選挙と、
4月16日に予定されているトルコの国民投票が深く関係している
(いた)のだが、日本ではそこらへんがほとんど報道されない。 オスマン帝国を滅ぼしたムスタファ・ケマル以来、トルコは議院内閣制だった。
80年代の終わり頃には、オザル大統領が独裁者になりかけたが、
憲法の制約もあり、議院内閣制は維持された。
いま、ついにエルドアンが憲法改正に成功し、強力な独裁者型の大統領になった。 大日本帝国憲法より早かった、アジアで最初の憲法(ウィキペディアより)
オスマン帝国憲法は、1876年に発布されたオスマン帝国における成文憲法。
当時は「基本法」と呼ばれており、憲法作成に中心的役割を果たした
ミドハト・パシャの名にちなみ、ミドハト憲法とも呼ばれる。
1861年に公布されたフサイン朝チュニジアの憲法に次いで
イスラーム世界二番目の憲法典である。
一説にはベルギーの憲法を参考にしたといわれる。
ただし1年後の1877年に憲法停止となり、
1908年まで30年間専制政治に復することになった。 憲法制定は日本より早かったトルコだが、その後、すぐに停止されてしまった。
日露戦争での日本の勝利や、急速な日本の近代化を見て、
「憲法が機能しているからだ」と思ったトルコ人。
このため、「憲法を護れ」という護憲運動(?)が、
トルコ革命の重要な原動力になった。 >>271
EUの下請け国家なのにロシアと仲良くしてどうするの? >>277
独裁者同士、プーチンと意気投合したようだ イランでも、日露戦争に刺激され、1905年にイラン立憲革命が起き、議会政治が始まった。
これも、2年ともたなかった。 >>253
エウ(ユー)レカ、ユーフォリア(幸福感)、ユーグレナ(緑虫)なんかも同語源? >>280
らしいね
語源は古代ギリシア語のευみたい
人命のエウゲニウスとかも同語源 >>253
枕言葉みたいなもんなんだ
もう少し使われれば定冠詞になったか
アラビア語のアル、日本語の御 >>284
アルアンダルス時代にスペイン語に借用されたアラビア語単語の一つだから似てて当然
コーランのアラビア語だと「アル」になるけどエジプトとかの方言だと「エル」になる アルジェリアのサハラ砂漠に、エル・ゴレアっていう都市があるね ごめん>>285だけど一部訂正
エルはラテン語のilleが元々の由来(イタリア語のilも同語源)で13世紀ごろのアラビア語のアル(≒エル)の影響を受けてiがeに変化したっぽい トルコのエルドアンってオスマン家の事についてどう思ってるんだろうな 「オスマン帝国の復興」などとトルコの首相が言おうものなら、かなりカドが立つと思われる
「大日本帝国の復興」と、日本の首相が言いにくいのと同じ イラクの大統領が「ネブカドネザルの再来」といっても、別に文句は出なかった オスマン家は700年くらい君臨した。
日本の天皇家の半分くらいの長さだ。
これだけ続いたものを廃止するのは大変。 第一次大戦でグダグダになったんで、割とあっさりケマルによって廃止された
スルタン=カリフ制廃止に反対したのは、一部の神学者とクルド人ぐらいか オスマン家はイスタンブールとカリフ位だけ残してパチカンみたいになってたら面白かったのになあ イスタンブルに正教の世界総主教が現存するんだから
同じイスタンブルにカリフが現存したっていいじゃないか アッバース朝のカリフだって、サラセン帝国が実質的に崩壊してからも、
かなり後まで宗教権威として存続していた。
それこそ、ローマ教皇や、京都の天皇みたいな存在になりかけていたんだが。 カリフの歴史(ウィキペディアより)
西暦632年にムハンマドが死去した後、イスラーム共同体の指導者として
アブー・バクルが選出され「神の使徒の代理人」
(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)を称したことに始まる。
2代目のカリフとなったウマルは「信徒たちの長」(アミール・アル=ムウミニーン)
という称号を採用し、カリフの称号とともに用いられるようになった。
その後、ウスマーン、アリーに受け継がれ、ウマイヤ朝、アッバース朝に世襲されてゆく過程でハワーリジュ派、
シーア派などがカリフの権威を否定して分派し、従うのはスンナ派のみになった。 その後10世紀にアッバース朝のカリフがアミールに政権を委ねるようになるとカリフは実権を失った。
アミールやスルタンの支配権を承認し、代わりに庇護を受け入れるだけの権威に失墜した。
さらにファーティマ朝、後ウマイヤ朝もカリフを称するようになって、スンナ派全体に影響力を及ぼすことさえ出来なくなった。 1258年にはモンゴル帝国によってアッバース朝のカリフが見せしめとして処刑され、
アッバース朝は滅亡したものの、マムルーク朝は生き残ったアッバース家の者を
首都カイロに迎え新たにカリフとして擁立し、外来者である
マムルーク出身のスルタンに支配の正当性を与える存在として存続させた。
1517年、マムルーク朝がオスマン帝国に滅ぼされると、カリフは廃位された。 オスマン朝は当初、カリフ位の権威に頼らずとも実力をもってスンナ派イスラム世界の盟主として振舞うことができた。
しかし、18世紀の末頃から19世紀にかけて、ロシアなどの周辺諸国に対する軍事的劣勢が明らかになると、
オスマン帝国内外のスンナ派ムスリムに影響を及ぼすために、カリフの権威が必要とされるようになった。
そこで、16世紀初頭にオスマン帝国のスルタンはアッバース家最後のカリフからカリフ権の禅譲を受け、
スルタンとカリフを兼ね備えた君主であるという伝説が生まれた(スルタン=カリフ制)。 正統カリフから、アッバース朝の最後のカリフが処刑されるまでだけでも、600年余り。
そこからマムルーク朝に引き継がれ、さらに300年近く。
マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国によって、さらに引き継がれた。 アッバース朝のカリフを処刑し、バクダッドを破壊して、イル汗国を建てたモンゴル人。
だが、彼らも宗教の魅力には勝てず、後にはイスラムに改宗してしまった。 スルタンとカリフを兼任するのは無理があった。
やはり、世俗と宗教は分離しなければならない。 しかし、オスマン帝国のスルタンがカリフを自称するようになったのは、
かなり国力が衰退してきた18世紀のこと。
マムルーク朝を滅ぼしたのは自分たちだってのに、さすがに無理があった。 スルタンを廃位されてからも、何年かはカリフとして存続した。
ケマルは、それも許してくれなかったが。 ケマルはやり過ぎた
スルタン廃止はトルコ共和国としては致し方なかったが、
カリフ位だけを継いだのも結局国外追放にしてしまった
トルコ共和国の首都はアンカラなのだから、カリフはイスタンブールの宮殿に住まわせとけばよかった しかし、イスタンブールのカリフをアラブ人が認めるかどうか 現在では、「メッカとメディナの守護者」としての
サウジアラビア国王の権威が、それを上回っていると思われる ;・ ▀ ▪ ▂▄▅▆▇■▀▀〓◣▬ ▪ ■ … .
:;; ;■ ◥◣ ◢▇█▀ ¨▂▄▅▆▇██■■〓◥◣
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::....三晋晋晋晋晋ミ:;;;・ ▪ ■ ∴‥ ∵▃
...晋三 晋晋晋晋三.':;;;・ ▪ ■ ∴‥ ∵▃
晋晋 三晋晋晋
I晋 ◆/)||(\◆晋
/ヾ 丶,I◆∠○I I ○ゝ◆ソ ハァハァ…
//;;> I│ . ││´ .│I
//γ . `.| ノ(__)ヽ .|´
ソ_ソ>'´.-! I │ I .I
τソ −! i .├─┤ ./
ノ 二! \ /  ̄ J_ ノ ポーランドのフサリアが居なかったら西欧は
オスマントルコに征服されていたのかだが
プリンツ・オイゲン等も単独でトルコ軍には勝利はしているから
果たしてどうなのかだが
ニコポリス等での杭での騎兵阻止は
フサリアには役に立たなかったのかだが 指揮官が優秀ならスランカメンの様な攻撃はトルコも受けたのかだろうし
西欧軍もヤン三世やプリンツ・オイゲンが優秀で無ければ
第二次ウイーン包囲でのトルコ軍本陣奇襲や
ゼンタでの奇襲攻撃は出来たのかだが ポーランドマンセー
ポーランド最強
ポーランドホルホル ゼンタではティサ川の東岸に大半居たと言うトルコ騎兵は
何をしていたのかだが
トルコ軍の3万やられた大半は西岸の歩兵なのかだが
騎兵だけでも一旦戦場を離れ迂回しオーストリア軍の背後を突けば
大敗北迄は無かった可能性も有るのかだが そういえば、モンゴルを撃退したのもポーランドだったな >>327
アルカイダからは「偽カリフ」よばわりされてるけどな しかし、ケマルによってカリフが廃位されて以来、100年近くにわたってカリフが空位であること。
これは、イスラム世界の歴史にとって、決して小さな問題ではない。 モンゴル人やトルコ人の侵略さえなければ、カリフも続いただろう
そこが、欧州とちがって中央アジアと地理的に直結している中東のつらいところ オスマン家のカリフは確かに後世の捏造だが帝国の範囲外でも認められていた
一方サウド家に倒されたハーシム家も実はカリフを称していたが完全無視された
ムハンマドの血統の条件など実はあってないようなもの O
o と
。 ,. -ー冖'⌒'ー-、 思
,ノ \ う
/ ,r‐へへく⌒'¬、 ヽ キ
{ノ へ.._、 ,,/~` 〉 } ,r=-、 モ
/プ ̄`y'¨Y´ ̄ヽ―}j=く /,ミ=/ オ
ノ /レ'>-〈_ュ`ー‐' リ,イ} 〃 / タ
/ _勺 イ;;∵r;==、、∴'∵; シ 〃 / で
,/ └' ノ \ こ¨` ノ{ー--、〃__/ あ
人__/ー┬ 个-、__,,.. ‐'´ 〃`ァーァー\ っ
. / |/ |::::::|、 〃 /:::::/ ヽ た
/ | |::::::|\、_________/' /:::::/〃 日本料理 なんにでも醤油をかける
フランス料理 なんにでもホワイトソースをかける
トルコ料理は・・・? 世界三大料理
世界三大ナントカの常として、3つのうち2つは決まり(中華とフレンチ)、
後の1つが人によって異なる。
トルコ料理は、タイ料理とならんでよく出てくる Q.世界三大料理はフランス、中国、トルコみたいですが、
なぜトルコなんですか?
トルコ料理のレストランなんて少ないですよね? ベストアンサーに選ばれた回答
オスマン帝国の宮廷料理だからです。
中東(トルコは中近東)最大のオスマン帝国の宮廷料理であるトルコ料理。
歴史的に交易の中心地でもあるトルコ料理は外せません。
日本では有名じゃなくても、トルコ料理は種類豊富ですよ。
魚介類、ピラフ、羊肉、牛肉、豆とどんな食材も使います。(豚肉以外)
シルクロードの中心地でもあったトルコは東西(アジア〜ヨーロッパ)の
食物、香辛料、砂糖などが集まりやすく、また調理法も東西の調理法を
取り入れて発達しました。 どうせ言い出しっぺの西欧にとって最も身近にあった域外エキゾチック文化がオスマンだったからだろ
東地中海文明(ギリシア・レバント・エジプト)を包括する末流という意味ではアリとは思うけどな >>347
イスラム世界の料理の代表として入ってるんだ
西洋料理の代表としてフランス料理が入ってるのと同じ
中華料理だけ代表を決めず文明圏全体一括りで「中華料理」になってるのはアンバランス オスマン帝国の文化は、19世紀や20世紀初頭あたりになっても、
まだまだ西欧人にとって憧れの対象だった
オリエント急行なんか、その典型 口の悪い西欧の政治家は19世紀後半以降のオスマン帝国を「瀕死の病人」と揶揄してたけど、
西欧の一般観光客にとってイスタンブールは異国情緒ある魅力的な観光地だったんだろうなぁ 1887年に書かれた中江兆民の「三酔人経倫問答」には、
オスマン帝国が「東洋の希望の星」と書かれている。
かなり衰退していたが、中国・インドとは違って、まだ脱落していなかった。 オスマン帝国が東洋かい
西方のアブラハム教で人種もコーカソイドだし
位置的にもユーラシア大陸の西なのに 東洋の訳語オリエントは、もともとアナトリア以東パキスタンあたりまでを指す言葉
時代が下ってその概念が拡張されて、現代じゃむしろ東アジアがその語の中心イメージに
元々のほうは中東(ミドルイースト)という言葉で代替可となり対象外に向かいつつあるのだろう トルコは、いっそのことキリスト教を国境にすればいいのにな?
名実ともに欧州の仲間入りだ >>353
馬鹿すぎるwww
オスマンこそ未開なアジアの没落国の代名詞だった
アジアの病人って言葉も元々はオスマンを指す言葉だったしな
病人の国が病人のオスマンを崇敬する オスマンってはっきりいってあれはあれで中華なんだよ
違いは人口が少ないから社会混乱が少ないこと
軍事力が一時期巨大であったこと
それでも未開すぎてオスマン帝国とかいいつつ反映期間短かかった
やられ期間の長い未開な覇権国
欧米におけるヘゲモニズムってモンゴル、オスマンが貯めたヘイトをキリスト教が刺激して成立したんだよなww
野蛮な未開国がオスマン、モンゴルで脱亜入欧決め込んだのは正しかったな
あきらかに未開なアジアと組むことはありえない。あれは日本へあてつけで、裏切りと避難してだきこもうとしてるだけの屁理屈だ
そもそも歴史的経緯で日本は脱あ入王して当たり前 >>356
位置を見ろ
ユーラシア大陸の中央からやや西なんだから中西だろ >>357
トルコは、キリスト教国のアルメニアと国境を接してるぞ アルメニア人は、「トルコの侵略でひどい目に合わされた」という
反トルコ活動をアメリカで展開しているので、評判が悪い。
「移民は、本国での民族対立を持ち込むな」というのが、アメリカの不文律。 清・ムガール帝国・オスマン帝国で、前近代の文明は、それぞれ完成形に到達した
違うのは、清とムガールの人口が数億人だったのに対して、オスマンだけヒトケタ少ない
清とオスマンは20世紀まで生き延びたが、ムガールは18世紀の初めにさっさと崩壊し、19世紀に滅亡
清とムガールは、現代の国家に領土の大半が受け継がれたが、オスマンはバラバラになった ムガールとオスマンは16世紀が最盛期だったが、清は18世紀が国力のピーク
清とムガールは、当時の支配民族の存在感が今はないが、オスマンはトルコとして残った オスマン、サファビー、ムガルは
イスラム、トルコ系が支配層、支配層がペルシア文化を愛好というふうに共通点が多い >>364
アルメニアは東アジアでいう韓国的な立ち位置らしいね
とにかく周辺から嫌われてるみたい >>368
ただし、「ユダヤ人をも凌ぐ、世界一の商業民族」との評価もある >>367
17世紀の三帝国鼎立時代は、イスラム勢力の最盛期 >>370
でも科学ではヨーロッパに完全に抜かれていた 確かに、17世紀ともなると、ガリレオやデカルト・パスカルの時代
ヨーロッパの優位は明らかだ >>365
ムガールの支配地域は一瞬だった南インドよりパキスタン・アフガン方面の方がよほど長い 中近東の人は商業民族なせいか、技術に弱いねえ。
かつて、ロシアからエジプトにミサイルの設計図が流出したときも、
エジプト人は製作できず、北朝鮮の手に渡った。
「詩と宗教はアラブ、技術は中国」とマホメットも言ってた。 単純にイスラムが教育や科学を軽視(敵視)してるからでは 中世のイスラム圏じゃ暦法や医学や薬学・数学等は結構発展してたのになあ。 イスラム医学
金の水差しで水を飲めば病気が治る
美人が入れた水を飲めば病気が治る >>381
医学や数学に強かったのは、隣にインドがあったおかげだが >>380
現代のイメージから来る先入観は、歴史をやるのには邪魔になる >>381,385
ムスリムは自分の手柄のようにイスラーム科学をたたえるが、
当時の最先端科学を研究していた学者はイスラーム社会で厚遇されていたわけではない。
彼らもキリスト教社会と同じく、宗教裁判の危険にさらされていたのだ。
同調圧力をはねのける意志の強い人がたまたま出現・活躍できた時期があったというだけで、イスラーム社会が科学を推奨したことなどない。
イスラーム科学は、権力者が世俗主義を推し進めていた時代にもたらされたものである事実を忘れてはいけない。 現代のイメージから来る先入観=イスラムマンセー史観はやめるべき。 さすがに現在のイスラムは、持ち上げようったって無理だが 両隣のインドとギリシャから、強力な科学と哲学が流れこんできたから、
中世のイスラムは本当に水準が高かった イスラム教に足を引っ張られたのも事実だが、
もともとアラビア人の民族性が、およそ科学技術に不向き
ペルシャ人やユダヤ人のおかげで、どうにか支えられていたが 一神教社会では、「神がこの世に定めた法が何なのかを実際に調べ、神の存在を確認する」という宗教的動機を掲げなければ研究を続けることさえできなかった。
社会事業への寄付を募りつつ実際にはジハード・テロをやる今のサラフィー・ジハード主義者と同じ世渡りの才能が科学者にも必要だったのだ。 しかし、そういう宗教的動機がなかった中国で、科学が発達しなかったのも事実 哲学も、「神の存在を証明する」というのが強力な動機になって発展した
近代哲学の祖・デカルトは、17世紀のフランスに流行した
唯物論に危機感をもち、反論するつもりで「方法序説」を書いた 紙と羅針盤と火薬を発明したのは中国人だったわけで、科学が発達しなかったと言い切ってよいか、ためらわれる。
科学者が宗教界の圧力に対する言い訳を常に用意しながら探求しなければならなかった状況は19世紀まで続いていた。
科学者が宗教的な言い訳をせずにすむようになったのは病原菌の発見がきっかけだろう。 >紙と羅針盤と火薬
それは技術であって、科学ではない
「こうすれば、こんなものが作れる」というのを中国人は発見したが、原理は分からなかった 一神教がなかった古代ギリシャ・ローマで、哲学と科学(とりわけ土木技術)がなぜ発展できたかを考える必要がある。
さらにさかのぼれば同じく一神教がなかった古代四大文明はなぜ成立しえたのかという疑問も生じる。
一神教を含め宗教全般は、ある水準のガイドラインを科学に対して提供してくれるが、科学知識がその水準を超えたとき邪魔にさえなってしまうのだろう。 明治時代に日本に来たモースが、「人間はサルから進化した」
という話を恐る恐る切り出したところ、日本人の聴衆が
「ふんふん、なるほどなるほど」というような調子で聞いてたので
拍子抜けしたというエピソードは有名
日本に限らず東アジアでは、こうしたことに宗教的な反発が起きない 再現性のあるもの全般を科学と呼んでよいとするなら、紙と羅針盤と火薬も十分に科学だろう。
他人が天才的才能なしに理論によって模倣できてこそ科学であり、
タラス河畔の戦いで唐帝国に勝ったアッバース朝に紙がまたたくまに広まったことは極めて大きい。 「なぜそうなるか分からないが、そうなっている現実をまず受け入れる」ところから科学は始まる。
誰もがその現象を知っているにもかかわらず、「なぜ」その現象が起きるのかいまだに理由がわかっていない事柄はまだまだたくさんあるのだ。 >「神がこの世に定めた法が何なのかを実際に調べ、神の存在を確認する」という宗教的動機
近代初期のデカルトやパスカルたちにとっては、
これが科学と哲学を探究する上での強力な動機になっていた
こういう、「神の存在を証明して無神論者を論破しよう」
と燃えていた人たちによって近代の科学と哲学の基礎が
作られたことは、無視できない事実
しかし、最大の障害は、皮肉にもカトリック教会だった 最新の科学知識を一神教に還元した場合、唯一神や絶対神は「人間にとって都合の悪い存在」になるとさえいえる。
科学を絶対神と同一視しようとすると、「人間など別にこの世界にいなくてもよい」という冷徹な科学の結論と折り合いをつける方法を見出せないからだ。 神への愛を証明しようと、自然科学を探求すればするほど、
「どうやら神は人間を愛していない」という人間が初めて失恋する時の傷心に似た感情と達観を体験することになる。 科学の発達は、一神教と科学の完全分離をもたらす。
一神教はかつては夾雑物とされていた多神教的な要素を大切にする方向に発達する。
イスラームはあまりに一神教的でありすぎるゆえに、科学によって奪い取られる一神教的な要素が多すぎて、
ムスリムは科学の発展による精神的苦痛が大きなものとなる。 ブッダは、舟で岸にたどり着いたなら舟を担いで陸を進むのではなく、舟を置き去りにするよう求めた。
ムハンマドが自らの言行(スンナ)に従い続けるよう求めたことと対照的である。 世間の一般人はともかく、哲学者にとっての神とは、
一神教とプラトン哲学を折衷したような、抽象化された「存在」だった。
イスラム世界で神は「アッラー」だけど、哲学者は
こういう「存在」としての神を「ハック」と呼び、
この両者を区別していた。 >>405
ひょっとして、「幸福の科学」の信者さんかな? >>407
違うけど?
時代に合わせて変化していくことをその宗教の開祖が良しとしているか悪しとしているか。
これが今後も大きな問題であり続ける。 イジュティハードの門を開けたり閉じたりする門番に権威を与えることは、イスラムの平等の理念に反する。
イジュティハードの門を開いたままにすることでイスラム世界が合意できれば未来は明るいだろうが、ま無理だろう。 仏教は、「汝もまた信仰を捨てるがよい」という世界。
固定観念にハマることを嫌い、「信念からの脱却」を目指す傾向がある。
イスラム教は逆で、信仰を極限まで強めることを目指す。
そして、「神との合一」という究極の境地に至るとされている。
進む方向は逆だけど、結局のところ、自我の滅却というか、
自己放棄を目指してることに変わりない。
「見た目は逆だけど、実は意外と似ているな」というのは、
古来から指摘されてきた事実。 よくわからないから、ア・バオア・クーで初代ガンダムを乗り捨てたアムロで説明してくれ。 >>411
ガンダムが壊れたから乗れなくなったんかい? >>410
スーフィズム全開か。
人生最後となる不治の病で体調崩した直後にアーイシャの浮気の心配するような俗物ムハンマドに自我の滅却なんて概念あるわけないだろ。 死の間際に啓典の民を呪う預言者ムハンマドのような人に自我の滅却は無理な気がするよ。 スーフィズムは、普通のイスラム教とはちょっと違う
「イスラム教は嫌いだがスーフィズムは認める」という人は欧米にも多い >>407
「マホメットの霊」が出てきて、「こんなテロリスト宗教を作ってしまって、
正直スマンカッタ」と皆さんに謝っていた >>404
イスラム教は近代科学とはそんなに相性悪くないでしょ。
創世記からしてユダヤ教徒が伝えたという理由で話半分にしか信じていない。
イスラム教と対立するのは近代の社会制度の方。 >>410
なにいってんだ
イスラムで神と合一したなんて言った奴は処刑だぞ >>420
これは、イスラム教というよりスーフィズムの話 トルコは、欧州と中東の間にあって、バランサー外交が可能な国 イスラームは世の理についてあまりに詳細に語りすぎなので、科学の発展によって
それら世の理に言及する教義がいちいち否定される悲惨な状況が続いている。
せっかくアッラーやジブリールに接したのに、なぜ人類が知らない科学知識をクルアーンに書かなかったのか。
アッラーやジブリールは科学知識を持たない無知な存在なのか。 >>423
人類がいずれイスラム教を乗り越えていくように、わざとそうしたのだ
アッラーの深い慈悲と叡智は、汝ら人間の想像を遥かに超えている イスラムやオスマンを叩いてる奴って学歴低いんだろうな
自国や白人を盲目的に賛美しているカルト集団w 現代のイスラム圏のイメージでオスマン帝国やイスラム帝国を見るんだったら、歴史をやる意味がないだろ。
欧州が辺境だった頃が想像できないようじゃ、世界史は無理。 日本でイスラム教を叩いてどうするんだ
信者がほとんどいないのに、意味がないような気がするんだが? >>367
イスラムもペルシア文化もトルコ人共通のものだから、
その三つの帝国の共通点は「トルコ系遊牧民族が作った」ということかなと ペルシャ語を公用語とする、トルコ系遊牧民によるイスラム征服王朝 ということは、バルカン半島からミャンマーまで、ペルシャ語が公用語だった? ミャンマーは違う
それを言うならバングラデシュまで ミャンマーがインドの傘下に入ったのは英領のときだけ ロシアの黒海艦隊は、首都イスタンブールを直撃できる
すさまじい脅威 18世紀、ピョートル大帝によるロシア海軍の創設で、オスマン帝国はかつてない危機を迎えた プーチンにとって、黒海艦隊はロシアの生命線
世界じゅうから非難を浴びても、クリミア半島の海軍基地を取りにいった ふと現在のソウルの状況って帝政末期のイスタンブールに似てる気がする
(首都に近い場所に独立国が成立したため、首都が最前線になってしまった)
他に似たような事例として
サンクトペテルブルク、ベルリンなんかもそうだよね。 帝政ロシアはフィンランド全体とポーランドの東半分、ドイツ帝国はポーランドの西半分を領土にしてたから、
サンクトペテルブルグとベルリンは現在ほど国境沿いには近くなかった 川向うがウルグアイの、アルゼンチンのブエノスアイレスとか
植民地のうちにウルグアイがイギリスの差し金で分離させられたから、独立前に既に国境の街だったw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%82%A8%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%82%B9#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
ちなみにウルグアイの首都のモンテビデオも川向うがアルゼンチンだけど、ラプラタ川の更に下流で川幅が広がってるから、対岸への距離はそれなりにある
良港っぽい入江状になってるところの都市を見たら、ずっと南西にバイアブランカという町があるけど、安全保障上こっちを首都にしようとは思わなかったのかな
まあウルグアイに対して脅威は感じてなかったってことかな そりゃものすごい小国とか都市国家だったら自然とそうなるなw 明の首都・北京がそうだな
ていうか、現代の中国も、満州と南モンゴルが独立したらそうなる >>439
マーガレット・サッチャー < アルゼンチンの首都はポートスタンリーでいいよ >>447
「エルドアンは、いずれカリフになる人物」
とは明言してないね 悲しいオスマンゴミ帝国
価値のない土地ばっかりのゴミ こんなに長く続いた帝国を終わらせた
ケマル・アタテュルクは偉大な革命家だ >>455
もっと早くつぶれていれば、経済発展できた。 >>454
価値のある土地ばかりつまみ食いしているように見えるけどなぁ。
つまみ食い許すまじで各地の部族有力者が反旗を翻した感。 バルカン半島にイスラム教を広められなかったのは残念 ボスニアやアルバニアはかなりイスラム化した
ギリシャ、ブルガリアなどでも、
非イスラム教徒への重税避けるためイスラム教への改宗は大規模ではないがあった イスラム教徒になるとバカになるんだろな
アルバニアはヨーロッパの最貧国だし、ボスニアは内戦でグダグダだし トルコ料理の特徴
中央アジアの食文化である羊を中心とした肉料理
ヨーグルトやナッツ類を料理に使う
黒海、地中海などの海産物を利用する
冷菜には地中海周辺で取れるオリーブ・オイルを使用する(温菜にはバターが好まれる)
アラビア周辺から広がった小麦粉とアジアの主食である米の両方を使う トルコ料理に使われる代表的な野菜としてはナス、タマネギ、豆類、トマト、キュウリなどがあげられる。
ブドウ、アンズ、サクランボ、メロン、イチジク、レモンなどの果物、ピスタチオ、松の実、アーモンド、クルミ、ヘーゼルナッツなどの種実類もよく使われる。 香辛料はコショウ、コリアンダー、クミン、パプリカなどであるが、それほど多くは使われない。
ミント、イノンド、イタリアンパセリなどのハーブも好まれる。
その他、オリーブ・オイルやヨーグルトなども調味料のように用いる。 ロシアが台頭するまでは黒海の北まで支配していたから、
寒いところの食材もあったのが強み
服飾文化も同じで、「テンの毛皮」なんて高級品もあった >>426
欧州がダメだった時期は7から10世紀の400年間だな。
12世紀以後は常にイスラム圏より文化的に上 >>467
イスラムになると科学技術が一切発展しなくなるのがね
19世紀初めには旧態依然としたイスラム神学校とキリスト教徒の教育の差が歴然として、イスタンブールの750社のうち650社がキリスト教徒になった。
それに嫉妬したイスラム土人がキリスト教徒を虐殺しまくった。
最後に青年トルコ党が数百万人の虐殺をしてアナトリアからキリスト教徒を絶滅させてできたのが今のトルコ いまだにアルメニアが悪いとか国をあげてプロパガンダしてるのがな
どう見てもホロコースト並みの大虐殺やったオスマン帝国が悪い。
イスラム史観から逃れられないんだな >>477
まあ、そんなもんだろうな。
まだ全面的に追い越したわけではないが、トータルな実力ではなあ。 日本と中国の関係と同じで、経済や産業に関しては、
近世にいたるまでオスマンが一枚上だっただろう 日本と朝鮮の関係と同じで、経済や産業に関しては、
近世にいたるまでオスマンが一枚上だっただろうね 北朝鮮と下朝鮮の関係と同じで、経済や産業に関しては、
近世にいたるまでエベンキが一枚上だっただろうね 清朝と李氏朝鮮の関係と同じで、経済や産業に関しては、
近世にいたるまでエベンキが一枚上だった >>477
12世紀はまだイスラム文献の翻訳やってた段階だから、
上といいきれるかどうか 15世紀のマゼランやコロンブス達による大航海時代で、ヨーロッパがイスラム世界を追い越した感ある 12世紀といったら、西欧諸国がコルドバに留学生を送り、イスラム文化を学んでた時期だ
日本でいえば、遣唐使を送って唐の文化を学んでた8−9世紀頃に相当する 中国の製紙技術がイスラム圏を通じてヨーロッパに伝わったのはいつごろだっけ? 18世紀くらいになっても、まだイスタンブールの文化は憧れのマトだ
今のフランスやイタリアと同じで、経済や産業では日本が一枚上だが、相変わらず日本人の憧れを集めている 20世紀くらいになっても、まだ中華の文化は憧れのマトだ
経済や産業では日本が一枚上だが、相変わらず日本人の憧れを集めている ヨーロッパからの紙の輸入が頼りだった。無かったら滅んでいただろう。 近世のヨーロッパではトルコは憧れよりも恐怖の対象だろ ギリシャ マケドニア、ビザンツ
イタリア ローマ帝国
アラビア イスラム帝国
スペイン 太陽の沈まぬ国
ポルトガル ルゾフォニア
朝鮮 千年属国 >>491
( ^ω^) y─┛~~いやいや。日本にとって中国が「孔孟の国」として
憧憬を持っていたのは江戸時代迄だよ。何故なら歴史上
日中の交流は書籍や絹織物などの文物の往来のみ。一般人が
中国へ行くようになった明治初期の早い段階で「支那は
乞食と泥棒の国である」との報告が出ている。「孔子孟子」
の国と思って行ったらどいつもコイツも嘘つき泥棒ばかり
だったら、そりゃ驚くだろうw >>496
いやいや、江戸時代の日本人は、そこまで無知ではない。
「俺たちは、昔の中国が好きなんだ。今のシナなんかじゃない」
というような議論は、当時からあった。 アヘン戦争で夷狄と思っていたイギリスにボロ負けしてから、
「あれ?清国、大したことないんじゃね?」
と言う認識が日本の国学者や儒学者の間に広まった
ペリー来航の10年ほど前の話し >>475
それは
「エルドアンは、いずれカリフになる人物」
ってソースじゃないだろ >>496-498
既に、平安時代には唐の惨状が日本に伝わってるよ >>501
契丹女真の侵略にびびって逃げた南宋スゲエ惨め >>490
ダヴィド・ベン=グリオン
イツハク・ベンツビ 「今の中国は、夷狄の満州人に支配されている上に、国民の道徳性も低い」
というような認識が江戸時代にはすでにあった
鎖国だ海禁だといっても、実際には交流があり、情報もあったので 江戸時代の儒者の中でも、荻生徂徠は中国崇拝の傾向が強かった。
漢文の訓読を邪道とし、中国語を勉強して中国式に読んでいたくらいだ。
でも、そんな荻生徂徠にしたって、崇拝する対象はあくまでも古代中国。
当時の清でないことはハッキリしていた。
清は、夷狄の満州人に支配される国。
「中華」とは言えない。
そういう認識が、江戸時代の日本人にはあった。 アラブ人やインド人はどうかしらないが、イラン人には、
「イランこそが中華である」というような意識がかなりあるように思われる
インドでも、アーリア系の人は、普通のアジア人を微妙にバカにしている アーリア系は、顔つきからして明らかに違うからな
仕方ない >>509
アーリア系と土人系の場合は、外見の違いによるものが大きいので、それとはちょっと違う
北京人や朝鮮人が東南アジアのマレー系を見るような感じかな >>515
粗大ゴミどころか、中近東五千年の歴史の完成形だよ 欧州列強に侵略されなかったら、まだオスマン帝国は続いていただろう
中国やインドと同様、中近東もひとつの国になったであろう 現代の地図を見慣れた目には、昔から中国とインドはデカい国で、中近東はバラバラだったように思える
でも、それはまったくの結果論
オスマン帝国の時代は中近東がひとつになっていた 膨大な地下資源があったばかりに、欧米に分割支配されてしまった >>477
>12世紀以後は常にイスラム圏より文化的に上
15、16世紀以後だろう
ペルシャやオスマンの全盛期には欧州より栄えていた
オスマンにアラブ、アジアとの陸上交易を邪魔されて海上ルートを探検し、
たなぼたで発見した南米の膨大な金銀獲得が欧州発展のきっかけ 中世ヨーロッパのレベルがイスラム圏を上回っていたというのは、まったくの誤りだ。
現代の世界地図による先入観を捨てないと、歴史は見えてこない。 オイルマネーはともかく、かなり前から石油を使ってた まあ、ヨーロッパとイスラム圏というより、中世までは
地中海沿岸のレベルが高く、アルプス以北のレベルが低かった。
ギリシャ・イタリア・スペインのレベルは、十分に高い。
中世においては、スペインはイスラム王朝、ギリシャはビザンチン帝国だったが。 15世紀の後半からは、ギリシャはオスマン帝国となり、スペインはカトリック国になった。
キリスト教圏とイスラム教圏は、ギリシャとスペインを交換した。 オスマン帝国とは、古代ギリシャの地に栄えた帝国であり、
東ローマ帝国の地を受け継いだ帝国であるということ
ここを忘れちゃいけない
現代のアラブ諸国と同一視するのは論外 オスマン帝国は、自分たちが東ローマ帝国の後継者だということを
強く意識していたし、周囲の国々もそれを認めていた ローマ帝国500年
ビザンチン帝国1000年
オスマン帝国500年
ギリシャは、この三帝国だけで2000年のときを過ごした オスマンコ
ビザンチンコ
暑くて脳みそとけてる
いってみただけ オスマンが東ローマの後継者なんて出鱈目もいいところ
認めていた他国なんて存在しないしカリフ継承伝説と同じで近代以降のでっち上げ ギリシャ マケドニア、ビザンツ
イタリア ローマ帝国
アラビア イスラム帝国
スペイン 太陽の沈まぬ国
ポルトガル ルゾフォニア
朝鮮 千年属国 >>518
インドの歴史は長いけど
統一王朝はマウリヤ朝とムガール帝国の2つだけだったりする
後はずっと分裂状態 東ローマ帝国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD
なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、
メフメト2世やスレイマン1世などオスマン帝国の一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った。
また1467年にイヴァン3世がコンスタンティノス11世の姪ゾイ・パレオロギナを妻とし、
ローマ帝国の継承者(「第3のローマ」)であることを宣言したことから、
モスクワ大公国のイヴァン4世などや歴代のロシア(ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国)指導者はローマ帝国の継承性を主張している。 今でいうトルコは、当時の地名としては「ルーム」と呼ばれてた。
有名なトルコの神秘詩人ジャラールッディーン・ルーミーも、
「ルーミー」(ローマ人)という名前 善いとか悪いとか
そんな観念を超えた場所がある
そこであなたと出会う
その芝生に魂が横たわるとき
世界は言葉では語り尽くせない
観念も言葉もどんな名言も
何の意味もなさない
この瞬間
この愛が
私のもとへ安らぎに来る
ひとつの
存在のなかに
多くの存在が訪れる
ひと粒の麦のなかに
千束の干草
針の目の内側に星々が輝く夜
ルーミー >>542
ルーミーはバルフ(アフガニスタン)出身のペルシャ人
アナトリアに移住してルーミーと名乗った バルフは、かつてヘレニズム国家のバクトリア王国が栄えた地 エジプトのナイル川三角洲はものすごく緑豊かで大穀倉地帯だけど、
同じ4大河文明でも、イラクのチグリス・ユーフラテス川はたいしたことないな。
まあ、イラクは30年以上も前から危険地帯なので、
行ったことのある人など滅多にいないから情報不足なのだが、
衛星写真を見ても風景写真を見ても、なんだか茶色っぽくて
荒涼としている。 「ペルシャ帝国の末裔」という、イラン人の民族的プライドは凄まじい。
周辺諸国、とくにアラビア人を明らかに下に見ている。
まあ、どこかの半島国家の半万年の栄光の歴史と違って、妄想ではなく事実なのだが。
イラン人は、失われた40年を取り戻し、経済発展路線をばく進しようとしている。 サウジアラビアとかアラブ首長国連合とかは、国家というより、
単なる大金持ちの大地主の所有地でしかない。 チグリス・ユーフラテス川って短時間で結構川の流れが変わってるので
農地や農業の対応が追いついていないって話は聞いたことがある 洪水は無秩序な氾濫とたんなる増水との両方の意味がある
ナイル川の洪水は増水だが、排水のための治水は必要
チグリス・ユーフラテスは無秩序な氾濫になることが多いので、
そのための治水が必要 ムハンマド・アリー・パシャ(1769年? - 1849年8月2日)は、
オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、
ムハンマド・アリー朝の初代君主(在位:1805年 - 1849年)。
メフメト・アリーともいう。 エジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、
熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。
国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、
アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至る。 最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、
エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、
その後のエジプト発展の基礎を築いた。
近代エジプトの父、エル・キビール(大王)と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。 19世紀の初頭、モハメドアリは、事実上のエジプト独立を達成した。
その後、ギリシャも独立戦争を経て独立した。
オスマン帝国は、また百年くらい続くのだが、ギリシャとエジプトという最重要地域を失い、かつての国力を失った。 エジプト・トルコ戦争(エジプト・トルコせんそう)は、1831年〜1833年と1839年〜1840年の2度に渡り、エジプトとオスマン帝国(トルコ)との間で行われた戦争のこと。エジプト事件(エジプトじけん)ともいう。
不凍港を求めて南下政策を進めるニコライ1世支配下のロシア帝国とそれに対抗するイギリスなど、当時のヨーロッパ列強諸国が介入した国際紛争でもあり、東方問題の事件の一つとして位置づけられる。 1798年にナポレオンの遠征フランス軍によりエジプトが占領されたが、イギリスとオスマン帝国の連合軍により撃退され、オスマン帝国の主権が回復した。
しかしこの混乱に乗じてオスマン帝国軍アルバニア人傭兵のムハンマド・アリーが実力によりエジプトを支配し、翌1806年にオスマン帝国よりエジプト太守(パシャ)の地位を獲得した。
彼はフランスの援助の下に「上からの改革」によってエジプトの近代化を強力に推し進めた。彼はオスマン帝国からの要請に基づいてアラビア半島へ遠征し、ワッハーブ王国を滅ぼした(1818年)ほか、
ギリシア独立戦争(1821年〜1829年)ではオスマン帝国海軍とともにヨーロッパ連合軍と戦ったが敗北した。 ギリシア独立戦争が終結した頃、エジプト太守のムハンマド・アリーがギリシア独立戦争の際の出兵支援の代償としてシリア領有権を宗主国であるオスマン帝国に要求し侵攻、シリアを占領した。
近代的でよく訓練されていたエジプト軍は、オスマン帝国軍を圧倒し、オスマン帝国全域を制圧するかに見えた。
ロシアはオスマン帝国を支援したが、ロシア勢力の地中海への拡大を警戒したイギリス・フランス・オーストリアがオスマン帝国に干渉し、翌年、エジプト=オスマン帝国を和解させた (キュタヒヤ条約)。
この戦争でムハンマド=アリーはエジプト・シリアの終身統治権を獲得した。 ロシア帝国はオスマン帝国を支援した代償に1833年に両国間に ウンキャル・スケレッシ条約が結ばれ、
ロシアはオスマン帝国を外敵から保護する
ロシアが交戦中の場合、オスマン帝国はダーダネルス海峡において全軍艦の通航を封鎖する
ことが締結された。 ルターが宗教改革を始めた1517年、中東はもっと激動していた。
なんと、オスマン帝国のスルタン・セリム一世がマムルーク朝を滅ぼし、エジプトを併合したのだ。
ついでに、セリムはアッバース朝のカリフのなれのハテをも捕獲し、カリフの伝統をも断絶させた。
それから、300年。
再びエジプトが台頭するときがやってきた。
エジプトの英雄(といっても、アルバニア人の傭兵だが)、モハメドアリの登場だ。 モハメドアリは、イギリス・フランスの力をバックに、事実上のエジプト独立をなしとげ、アリー朝と呼ばれる王朝を開始した。
近代的に組織されたエジプト軍は、旧式なオスマン軍を圧倒した。
エジプト軍は、ついでにイギリス軍との戦いでも壊滅的な打撃を加えた。
いまいち注目されないけど、これはイギリスがアジア・アフリカで喫した珍しい敗北で、稀有の事例。 >>537
印度を統一したのは英領印度帝国だけ
マウリア朝もムガルも半島南端を領有してない 乾燥したデカン高原から突き出た南端は、湿潤な熱帯雨林
先っぽだけ濡れている状態 騎馬民族は、草原や砂漠には強いが、熱帯のジャングルが苦手
南端を支配するなど無理だった 同じように、イラク南部の海岸に近い地域も、騎馬民族の国家にとっては難しかった
ここを統治したどの王朝も、反乱に悩まされた なぜか、古来からエジプトは統治しやすく、イラクは反乱が多くて統治しにくいことで知られている。
一説には、それはナイル川とチグリス・ユーフラテス川の違いだとか。
ナイル川は、いつも決まった季節に、静かに増水して豊かな実りをもたらす。
これが、エジプト人の穏やかな気性につながった。
それに比べてチグリス・ユーフラテス川は、暴れ川で流れが読めない。
これが、イラク人の気性の荒さと、常に反抗的な政治姿勢につながったという。 流れが変わるたびに川沿いの良い土地の奪い合いだからなあ 1914年、第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がイギリスと敵対するドイツ・オーストリアら中央同盟国の側に参戦すると、イギリスはエジプトにおける権益を守るためにエジプトの保護国化を宣言、オスマン帝国の名目的主権からエジプトを離脱させた。
これによりエジプトは正式にイギリスの植民地となったが、大戦後の1919年には民族主義者による大規模な独立運動が起こった。独立は失敗に終わるが、保護国支配の限界を理解したイギリスは方針を転換し、1922年にエジプトの独立を認め、エジプト王国を成立させた。
しかしエジプトは独立を達成したとはいえ、イギリス人の保護や軍事、通信、運輸などの分野でイギリスの特別な権利が保留され、またエジプト経済のイギリスへの依存は依然として深く、独立はほとんど名目的なものに過ぎなかった。 ギリシャ独立戦争は、オスマン帝国からのギリシャの独立を巡り争われた戦争である。
ギリシャは1821年に独立宣言をして戦闘を開始し、1822年に憲法を発布して暫定政府を設立した。
1827年のナヴァリノの海戦で優位を確定し、1829年のアドリアノープル条約によって自治国としての独立が承認され、
1830年のロンドン議定書によって列強間でギリシャの完全な独立が合意され、
最終的には1832年6月のコンスタンティノープル条約でギリシャの独立は正式に承認された。
ギリシャでは1821年3月25日を独立記念日としている。 南欧3兄弟の、国民国家形成への流れ
1492年スペイン統一
1821年ギリシャ独立
1861年イタリア統一 希土戦争(きとせんそう、1919年 - 1922年)は、第一次世界大戦後にギリシャ王国とトルコの間に生じた戦争。
大ギリシャ主義を標榜し小アジアに侵攻したギリシャ軍は、ムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ軍に敗北し、セーヴル条約で得た領土を失い、現在のギリシャ領がほぼ確定した。 ムハンマド・アリー朝のもとで事実上の独立をはたしたエジプトは、シリアに攻めこんだ。
ギリシャ独立戦争で独立したギリシャは、「コンスタンチノープルはもともとギリシャの地だ」
と主張して、オスマン帝国の本拠地に攻めこんだ。
それにしても、中東にバルカンと、オスマン帝国の領域は問題が多い紛争地域ばかり。 19世紀の前半に、オスマン帝国はエジプト・ギリシャと、相次いで重要地域を失った。
残ったのはトルコ本土にイラクとシリア、あとはユーゴスラビアくらい。 18世紀に、ロシアにクリミア半島および黒海北岸を奪われたのも痛かった >>581
1492年はまだ国民国家統一ではないんじゃないかな
スペインでの国民国家的概念統一意識が目ばれるのはナポレオン戦争
特に1821年のカディス憲法じゃないか >>587
>特に1821年のカディス憲法
1812年ね カトリック両王のスペインは、ハブスブルク王朝に乗っ取られた そのハブスブルク朝も、ブルボン朝に乗っ取られた
ここまでは、とても国民国家とは言えない流れ それ言い出したらフランスかて革命までは国民国家じゃないだろ フランス革命前も「フランス万歳!」という言葉はあったのかな?
スペインの場合は、ナポレオン戦争前は確実に「カスティーリャ万歳」
「カタルーニャ万歳」あるいは個別の国王名でカルロス万歳とかであって、
「スペイン万歳」という言葉は例外もあったかも知れないが、一般に用いられていなかった。 >>592
中世でも、ジャンヌダルクあたりが言ってそうだが イギリスとフランスは、中世までは王家の相続のたびに国境が変わり、
混在している状況にあったが、百年戦争を通じて、割りとハッキリ分かれた
この2国は、国民国家形成のトップランナーになった ドイツ・オーストリア・イタリアは、その後も混沌としていた
はっきりと3つの国家に分かれたのは、19世紀の後半 >>593
ジャンヌ・ダルクの頃はまだ「フランス国王万歳!」の時代
まあジャンヌなら言ってたかも知れないが スペインも古くはAve maria !だったのにな ギリシャは、「現在はスラブ系の移民の国であり、
先住民である古代ギリシャ人とは人種が入れ替わった」とよく言われる。
これはもともと、「あの偉大なるギリシャ・ローマ文明の末裔たる
ギリシャ人とイタリア人が、なんでこんなにショボくなっちまったんだよ?」
という、ドイツ人に特有の苛立ちから出てきた説。
しかし、現代のギリシャ人も、「慣れれば古代ギリシャの古典をそのまま読める」と言われている。
2000年を超える歳月が流れたにもかかわらず、驚くほど言語の変化は小さい。 1821年に独立戦争を始めたギリシャだったが、まだギリシャ人としての国民意識はなかった。
実際、独立戦争に参加したギリシャ人は、ひとつの政府のもとに一致団結して、死を賭してでも民族の独立のために戦おうという強い意志を持って戦争を遂行したわけではない。
欧米から馳せ参じた親ギリシャ主義者たちが、しばしば呆れ、嘆き、そしてしまいには憤ったように、独立戦争は、統一した指揮系統を欠いた、ギリシャ人同士の絶え間ない内戦の連続でもあった。 1820年代の欧州というのは、ナポレオン戦争が終わった後のウィーン体制のもと「なるだけ大きい争いごと避けましょうや」的なムードにあったわけです。
ゲリラ的活動の粋を出ないギリシャの独立運動に関しても、当時の大国イギリス、フランス、ロシアはそろって中立的に静観。そうこうするうち独立軍は、オスマン軍との戦いでぼ壊滅しかけるんですが、そんなときにロシアの皇帝が亡くなって状況が変わります。
変わって即位したニコライ1世さんが、がわりと好戦的な方でして、ウィーン体制の打破を目論み、地中海への足がかりの欲を見せはじめるんですね。
それを見たイギリスは「黙ってロシアに地中海の利権取られてたまるか」と介入。結局この2国の話合いの結果、1826年「ギリシャはオスマン帝国の中の自治国、ってとこで手打ちましょうや」となります。
今度はそれを聞いたフランスが「ちょ、お前らだけで決めんなや」と口出し、この3国によって翌年改めて「ギリシャ和平条約」が締結され、ギリシャのオスマン領内の自治国化が決まります。 >>598
俺は現代ギリシャ=スラブというのは支持しないが・・・
> 現代のギリシャ人も、「慣れれば古代ギリシャの古典をそのまま読める」と言われている。
これに関しては近代になってからのギリシャ語純化運動を無視するべきではないと思う >>548
匈奴に敗走させられた月氏も一時期バルフあたりにいなかったか >>601
ま、それ言い出したら日本人かて万葉仮名をなんとかすれば奈良時代の古典結構そのまま読めたりするし 江戸時代あたりのグニャグニャしたミミズみたいな字はとても読めない
却って奈良時代の字のほうが読める 中華民国はともかく中華人民共和国は四書五経をはじめとする古典が
殆ど読めなくなってるらしいからなあ。 普通の中国人にとっての漢文は、字面を見れば部分的には
何となく意味が伝わってこなくもないが、音読だとほぼ完全に意味不明 なんで移民は同じイスラムで豊かなサウジやトルコではなく
異教徒の欧米に行くんや? 清やオスマンは長きにわたる平和ですっかり文弱になったけど
日本が泰平の世を経ても尚武の心意気を保てたのは武士道があったから? 鎖国で文化が停滞したから野蛮なままでいるしかなかった >>610
強かったのは地方武士
江戸幕府は、清やオスマンの朝廷と同じように文弱だった 幕府を護るべき主力の旗本が全く役立たずのニート集団になってたのは、オスマンのイェニチェリや清の八旗と同じだな 江戸時代は武士階級は3%ほど
今武士道と言ってるのはコサック対策で意識的に広めたもの
当初ロシア軍のコサック部隊は勇猛で
それに対し日本の平民兵はコサックに突撃されると
蜘蛛の子を散らすように逃げる有様
そこで対策として「武士道」を広めた
97%は武士の祖先持ってないのに全部武士道
こんなへんてこな思想が今も残ってる コサックは旗本や八旗やイェニチェリと違ってエリートでもなんでもなく身分は低かった
精鋭部隊を精鋭のまま維持したければ高い身分を与えてはダメだな >>609
貧しいトルコやサウジには行きたくない。
土耳古やサウジで豊かなのは一部だけ。 幕藩体制のエリート武士は、藩校その他で儒学を学んだ知識人。
日本には科挙こそなかったが、科挙官僚と似たようなものだ。 >>612
八王子千人同心は幕末でも高い忠誠心と戦意をキープしてたが。
土方歳三も豪農出身と言うが、千人同心の縁者だし。
それから、清は満州八旗、漢軍八旗と緑営は弱体化したが、
蒙古八旗は尚武のモチベーションキープしてた。
如何せん、人口が少なくて戦力不足に陥っていたが。 まったく戦争のない時代が長く続いていたが、武士階級には
「我々は武家なのだ」という意識が脈々と継承され、武芸の修練は廃れなかった >>615
ポーランドのリプカタタール人の騎兵のウーランは、
元々権力闘争で負けて亡命してきたジュチウルスのタタール人だが、
ポーランドでは貴族に取り立てられたが、
ナチスドイツのポーランド侵攻でも、最後まで抵抗を続けたぞ。
実に亡命して来てから500年もモチベーション保ってた。 武士道つっても武士は全人口で7%くらいに過ぎなかったんだよな
江戸時代の人口比率
公家・神官・僧侶:1.5%
武士:7%
百姓:84%
町人:6%
穢多・非人:1.5% >>614
江戸時代の武士だけが武士だと思ってんのか
戦国時代が終わって帰農した連中は? 薩摩藩の人口の約30%は武士だったそうですね。
普通の藩は人口の7%が武士なので薩摩藩は普通の藩に換算すると、77万石×約4倍=約300万石の戦闘力があったんですか? ベストアンサーに選ばれた回答
薩摩藩の3割は武士階級と準武士階級(足軽・与力)でした。
宝暦年間では薩摩藩(琉球の16万人を除いて)の人口は約71万人でした。
90ヶ所の外城(麓)に4万5千名、21ヶ所の私領に2万人、鹿児島城下に5千名の城下士と準武士階級2万人が、いわれる戦闘要員で、派兵できるのは、この2割の1万8千名でしょう(21万人の武士階級には妻子が含まれ、俸禄で働くのは9万人)。
他藩は7%ぐらいの武士階級でしたので、
割合で9万名もの武士をそろえるのには、幕府の軍役規定で約300万石なら7万5百名。4百万石で9万4千名となるので、戦闘力の基礎力は質問者の言われるとうりです。 19世紀半ばには、「瀕死の病人」とたとえられるほどオスマン帝国は衰退してしいました。
しかし、オスマン帝国も近代化憲法(ミドハト憲法)を制定するなど改革に乗り出します。
2院政議会や責任内閣制を定めるなどした近代的な憲法です。
アジアで初めての近代的憲法というと日本の大日本帝国憲法と思われがちですが、
実は悔しいことにミドハト憲法の方が13年早いのですね。
(オスマンがアジアといえるかどうか微妙ですが・・・)
しかし、そんな改革中のオスマン帝国に宿敵ロシアが1877年攻めてきます。
せっかく、憲法制定して、これからだっていうのに戦時下であった為、憲法はいったん停止。
しかも、このロシアとの戦争に敗北し、東ヨーロッパの領土を失うことになります。 トルコのロシア機撃墜により緊張の高まる2国間ですが、過去にはしばしば苛烈な戦いを繰り広げていました。
そんな両国で起きた戦い露土戦争 過去12戦をまとめてみました。 1.露土戦争 (1568年-1570年)
ロシアの勝利。コンスタンティノープル条約で講和。
オスマン帝国側資料では「アストラハン遠征」(トルコ語: Astrahan Seferi)と呼ばれる
アストラハン・ハン国の首都であったアストラハンを巡ってロシア・ツァーリ国とオスマン帝国が対立した。
1556年、ロシア・ツァーリ国のイヴァン4世はアストラハン・ハン国を征服し、ヴォルガ川を見下ろす急傾斜な丘の上に新しい砦を建築した。
一方、オスマン帝国のスルターン・セリム2世はバルカン半島の大部分を支配下としていた。 2露土戦争 (1676年-1681年)
引き分け。バフチサライ条約 (1681年)で講和し、ロシアによる左岸ウクライナの所有及びオスマンによる右岸ウクライナの所有を認め合った。
ロシア・ツァーリ国とオスマン帝国の間で行われた戦争である。17世紀後半のオスマン帝国の拡張政策に起因して起こった 3露土戦争 (1686年-1700年)
ロシアの勝利。実質的には大トルコ戦争のアゾフ戦線。コンスタンティノープル条約で講和。
オーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアのヨーロッパキリスト教諸国から成る神聖同盟とオスマン帝国との大トルコ戦争(1683年 - 1699年)の一部をなす。 4露土戦争 (1710年-1711年)
オスマン帝国の勝利。プルト条約で講和。通常、プルート川の戦いと呼ばれ、大北方戦争の戦闘の一つ。
モルダヴィアのプルト川河岸において行われたオスマン帝国とロシア・ツァーリ国との戦い。
大北方戦争の一部である露土戦争中に起こり、オスマン帝国軍とピョートル1世率いるロシア軍が交戦し、オスマン帝国軍が勝利した。 5露土戦争 (1735年-1739年)
引き分け。オーストリアもロシア側に立ち参戦。通常、オーストリア・ロシア・トルコ戦争と呼ばれる。 6露土戦争 (1768年-1774年)
ロシアの勝利。キュチュク・カイナルジ条約で講和。
コリーイの乱の反乱軍の一部はオスマン帝国が支配したバルタ町にも攻め入ったため、オスマン帝国はロシア帝国に宣戦。 7露土戦争 (1787年-1791年)
ロシアの勝利。ヤシ条約(ヤッシー条約)で講和。
一般的には「第二次露土戦争」と称されることが多いが、ロシア・トルコ間では何度も戦争が起こっており、17世紀以前のものも含めて「第六次」が冠されることもある。 8露土戦争 (1806年-1812年)
ロシアの勝利。ブカレスト条約で講和。
1804年、バルカン半島において、「カラジョルジェ(黒いジョルジェ)」の異名をもつジョルジェ・ペトロヴィチが1804年よりオスマン帝国への反乱(セルビア蜂起)を指導しており、
かれらセルビア人たちはロシアからの支援を当てにしていた。
また、ボスニアやブルガリアでも反乱が起こったが、これらの鎮圧をめぐってロシアが介入した 。 9露土戦争 (1828年-1829年)
ロシアの勝利。アドリアノープル条約(エディルネ条約)で講和。ギリシャ独立戦争から派生した。
ギリシャ独立戦争に起因して、1828年から1829年にかけて起こったロシア帝国とオスマン帝国の間の戦争。 10クリミア戦争 (1853年-1856年)
通常、クリミア戦争と呼ばれる。英仏の支援を受けたオスマン帝国の勝利。パリ条約 (1856年)で講和。 11露土戦争 (1877年-1878年)
ロシアの勝利。バルカン諸国が独立を回復。サン・ステファノ条約で講和後、ベルリン条約で変更。
(単に「露土戦争」というときは、たいていこれを指す) 12第一次世界対戦のカフカース戦線 (1914年-1918年) 英仏関係や独伊関係も長い南北対立の歴史だが、露土関係の戦争の歴史はそれ以上
世界最悪の2国間関係のひとつ ムガール帝国の暴君アウランゼーブに抵抗したマラーター王国のシヴァージーは、
歴史ドラマネタの宝庫みたいな人生をリアルで生きている
日本での知名度があまりにも低すぎるのが難点だが 19世紀最大の戦争のひとつであるクリミア戦争は、ロシア帝国にとって手痛い挫折だった
あまり知られていないが、英仏の艦隊は極東ロシアを攻撃しようと、
開国直前の日本近海まで来ていた 18世紀のピョートル大帝も、トルコを攻めて大苦戦し、敗北している。
この頃は、今じゃ考えられないことだが、スウェーデンが今のロシアみたいな軍事大国で、
当時のロシアにとっては越えられない壁みたいなものだった。
スウェーデンに苦戦したピョートル大帝は、まず南方から安定させようとトルコに宣戦したのだが・・・。 最後は、第一次世界大戦でロシア帝国とオスマン帝国が闘い、
なかよく両方とも革命が起きて滅亡した。
まさに、宿命のライバルにふさわしい最期。 >>616
今、アゼルバイジャンがバブルに沸いてるの知ってる? 「バクー油田」っていったら、ソ連の頃から有名だったけどなあ
なんでいまさら? >>657
それは
「エルドアンは、いずれカリフになる人物」
ってソースじゃないだろ馬鹿たれ >>656
チリの授業で習ったな 中国のターチン油田なんかと一緒に 「ジョージア」って国名、なんとかならんのかいな
「グルジア」のほうが良かった オスマントルコ帝国は、コーカサス地方で唯一、ロシア帝国と陸続きになっていた。
コーカサスは、黒海とカスピ海に挟まれた地域で、その中央部には峻険な山脈が東西に聳え立ち、北のロシアと南の中東を地理的に隔てている。
ここに住むのは、主としてアゼルバイジャン人やグルジア人といったアジア系民族であった。
この地域の重要性は、交通路や連絡路というより、むしろその豊富な鉱物資源、中でも石油にあると言える。
第一次大戦の勃発によって、この地は再び戦場となった。
オスマントルコ帝国は、同盟国のドイツと仇敵ロシアを挟み撃ちにすることで、この重要地域を奪還できると踏んだのである。 1914年冬、イスマイル・エンヴェル陸相率いるトルコ軍10万は、一気呵成にコーカサス山脈を北に越えてロシアに攻め込んだ。
「サルカムシュ作戦」である。これは奇襲となり、準備不足のロシアを苦しめた。
しかし、峻険なコーカサス山脈越しでは補給が続かない。
敵地深く疲労困憊したトルコ軍は、1915年春からのロシアの反撃によって大敗を喫し、壊滅状態となってしまった。
遠征軍10万人のうち、生還したのは1万人に過ぎない。
そしてこの年が暮れるころには、この山脈を大きく南に越えたロシア軍によって、トルコの東部領土はむしろ400キロも蚕食されていたのだった。
ガリポリの英雄ケマル・パシャの困難な新任務は、このロシア軍をトルコ領から駆逐することであった。
朝鮮人と並ぶ、世界の二大クレーマー民族・アルメニア人
アルメニア人は、「オスマン帝国によるアルメニア人虐殺」を
いまだにアメリカで主張し、露骨な反トルコ活動を繰り広げるので、
普通のアメリカ人からはウザがられている そしてアメリカは反トルコアルメニア人と反日朝鮮人を使ってトルコと日本をコントロールするというわけですね。 >>665
民族浄化はあったことは事実なんだがな
ドイツ作成の1941年当時のアルメニア人の居住分布
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Ethnic_map_of_Asia_Minor_and_Caucasus_in_1914.jpg
現トルコ東部の、現在クルド人居住地帯とされているところは当時はアルメニア人地帯
150−200万人くらいいたと推定されている
ところが、現在トルコの公式発表では、アルメニア人は10万以下でその多くはイスタンブール住まい
1914年当時のアルメニア人はどこにいったのか?
民族浄化=虐殺ではかならずしもなく、虐殺、移住の他、実は現在のトルコ政府にもアルメニア人で
あることを隠して生きている隠れアルメニア人がトルコ東部に結構いるという >>661
確かに、コーヒーのジョージアとか想起してしまうな だから現地語でサカルトヴェロと呼べば何も問題無い
現地人だってそう呼ばれるのが一番いいんだろうが
サカルトヴェロが受け入れられる自信が無いから
次善として英語でジョージアと呼べと言ってるんだ
とにかくロシア語で呼ばれたくないというのが第一だから
英語で呼ばれるほうがロシア語で呼ばれるよりは千倍マシというわけ >>661
そりゃ、ジョージア民は強烈な反露だから、
ロシア語風に発音されるのが嫌だったんだろ >>669
国名表記変更の件は、先方から日本に要望があったとのことだが、
ジョージアは多くの日本人にとってコーヒーを連想するからやめましょう、
と誰か日本側関係者で忠告するやついなかったのだろうか >>667
>隠れアルメニア人がトルコ東部に結構いるという
それ20世紀の話な
今のトルコでは隠さなくってもよくなってるのよ
現在のトルコ民族分布↓アルメニア人がいかに徹底的に”浄化”されたかよくわかる
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/Ethnolinguistic_map_of_Turkey.jpg エジプトって古代エジプト文明と違う民族になってしまっているが
文化や言語は変わっても人種自体は継続しているのだろうかという初心者の疑問 絶滅したわけでもないしアラブ人より元々コプト人の方が多かったはずだから混血してるんでしょ エジプトは、古代から定住農耕民族で人口も多いのに、先住民が絶滅するのは不自然 >>679
混血&改宗していったけど絶滅したわけじゃないんよ
生粋の古代エジプト人なんてのは一人も残っていないだろうけど 別名アメンホテプ四世と呼ばれてる西村博之は古代エジプト人ではないのか?
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嘘は嘘であると見抜ける人でないと
(エジプトを統治するのは)難しい アラブ人名乗って生粋のアラブ人ってのもアラビア半島以外にはいないよな ローマ帝国もビザンツ帝国もオスマン帝国もロシア帝国も多民族国家 >>676
おそらくラムセス王の頃から人種構成は変わってない
というのもラムセスのミイラから検出されたハプロは現在エジプトで主流のE1b1だから 現在のトルコ人も文化的や言語はアジア由来だが中央アジアや北アジアに住んでるトルコ系民族とはほとんど関係ないからな
むしろアラブ人のほうが近い 値段高いから購入厳しい人は刊行後に図書館リクでも
http://www.hakusuisha.co.jp/book/b307881.html
オスマン帝国の崩壊
中東における第一次世界大戦
欧州側の史料のみならずトルコ語、アラビア語の文献を渉猟し、
斯界の権威が中東混迷の遠因となった大戦と戦後処理の過程を描いた大作
著者 ユージン・ローガン 著
白須 英子 訳
出版年月日 2017/09/26
ISBN 9784560095669
判型・ページ数 4-6・600ページ
定価 本体4,500円+税 聖母マリア・聖マルコ日本コプト正教会
http://www.japancopticchurch.org/jp.html
来る2017年8月27日(日)、第118代コプト正教会教皇(Pope)タワドロス2世聖下が
京都府木津川市の聖母マリア・聖マルコ・コプト正教会にお越しになり、教会の聖別式を行われます。 へえ、いつの間にやら木津川市みたいなとこにコプト正教会が出来てたのか
別宗派からの譲渡でたまたま来たみたいだけど、国内唯一の拠点がそんな場所でいいんかいな コプト正教会が大阪西成で炊き出しボランティア
http://www.christiantoday.co.jp/articles/22871/20161224/coptic-orthodox-church-kizugawa-kyoto.htm
今年7月に京都の木津川市に日本で初めて正式な教会を構えた聖マリア・聖マルコ・コプト正教会が14日、
大阪市西成区で生活困窮者の人のための炊き出しボランティア活動を行い、夕方からは同教会で交流会も行われた。
この日午後3時からJR新今宮駅前の釜ヶ崎福祉センターの1階に、同教会のエジプト人の信徒や、
オーストラリア管区から来日したアルセニアス神父たちが計70食のカレーライスを振るまった。
京都の聖マルコ・聖母マリア・コプト正教会で初の成人洗礼式
http://www.christiantoday.co.jp/articles/23019/20170114/coptic-orthodox-church-kizugawa-kyoto.htm
8日午後5時から、同教会では初めてとなる成人洗礼式が、
来日したジョシュア・タドロス神父によって行われ、大阪府に住む日本人の女性が洗礼を受けた。
洗礼に当たって、旧約聖書サムエル記に登場するサムエルの母「ハンナ」という名が洗礼名として選ばれ、
信仰を受け入れる証しとして初めに「信仰の油」が頭に塗られた。
異教の隣人:コプト正教会編 日本初、京都・木津の教会堂で 信徒待望「家族と神様の家」
http://mainichi.jp/articles/20161025/ddn/013/040/043000c?inb=ra
儀式に生きる2000年もの歴史
参加者は主に近畿在住の約10人。留学生や日本で就職したエジプト人がほとんどだ。
午前10時前、奥の部屋では手のひら大の平たいパンが5枚焼かれている。
表面には古代エジプト語を継承するコプト語で「聖なる神」を表す文字の刻印。
「この中から一番美しい1枚がイエス様のご聖体として選ばれます」とカイロ出身の大阪大留学生、イーハブ・サラホ・エシャクさん(39)。
市販品ではなく手作りを用意するのは、原始キリスト教の典礼様式を受け継ぐコプト教ならではという。 大物来るなぁ
殆ど在日エジプト人くらいしか信者居なさそうなのに訪日するのか ケマル・パシャはもう古い
これからは、エルドアン・パシャの時代 オスマン帝国のドラマの初回が無料で見れるよ
BSスカパー241CHで11:40~12:40であるよ
愛と欲望のハーレムって書いてあるけどね それhuluでもやるね
スレイマンのハレムと皇后になったヒュッレムの話みたいだ >>336
×・エルドアンはいずれカリフになる人物
○・エルドアンはいずれポルポトや晩年の毛沢東のようになる人物
ソース?その後の歴史が証明してくれるw エルドアンが宗教警察や直属軍を作るのもそう遠くはないかな >>709
陰謀論満載とんでもブログ
オカルト板向き >>671
そのうち、ウクライナも英語風にユークレインって呼んでくれってなるのかね?(´・ω・`) 押忍マン帝国がwikiの選り抜き記事になっててワロタ カリフはトルコ人じゃなくアラブ人に限るってアラブ人は思ってないかい? 【特別対談】イスラーム法学者・中田考/哲学者、作家・東浩紀――民主主義はこれからどうなるのか?【前編】
http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2016/10/post_7052/
東 半分に近いトルコ人がイスラーム国支持というのは、かなり衝撃的な数字です。
ただ、その場合の「支持」とは何を支持しているのかが気になります。
イスラーム国の思想に共感しているのか、それともさまざまな戦闘行為や破壊行為も含めて支持しているのか、どちらなんでしょうか?
中田 お答えする前に、この数字は少し誇張があるように感じることは言っておきます。
おそらく半分ぐらいで見ておくのが妥当じゃないでしょうか。
トルコという国は、いまエルドアン政権の支持者、すなわちトルコのイスラーム化を支持する人々と、
イスラーム化を歓迎しない世俗主義者とで二分されているんです。
もし先ほどの40%という数字が本当だとすると50%のうちの40%ですから、
エルドアン政権支持者の8割がイスラーム国を支持していることになりますが、それはあり得ません。
東 中田さんの感覚だと、トルコ人のおよそ20%がなんらかの形でイスラーム国を支持しているということですね。
それでも、驚くべき数字です。エルドアン自身はどういうスタンスなんですか?
中田 エルドアンは当然、イスラーム国に反対しています。
でもそれは、ISが首を切ったり、遺跡を破壊したりしているからではなく、彼自身がカリフになりたがっており、
ありていにいえば、エルドアンや彼の熱狂的支持者は、かつてのオスマン・トルコ帝国復活を願っているわけです。
東 じゃあ、カリフ制を標榜するイスラーム国はライバルになるということですね。
中田 その通りです。ISがカリフにいただくバグダーディーは、自分がカリフになるための目の上のたんこぶだからです。
ただ、エルドアン支持者はイスラーム主義者なので、その点ではISに多少の共感が持てる。
むしろ彼らにとっては、今回クーデターを起こしたような世俗主義者やイスラーム主義者のリベラル派のほうがよっぽど脅威であり、
憎むべき敵になっている。だから、クーデター後には大変な粛清も行われたんです。 ☪常岡浩介容疑者 ☪認証済みアカウント @shamilsh
「テロ組織とその支持者の目的は、私たちの国の結束を脅かすフロントをカットし、トルコの2023年の目標を妨害します」(Google翻訳)
2023年の目的って、まさかエルドアンのカリフ即位と「シン・イスラム国」の建国???
https://twitter.com/shamilsh/status/821403162342871040 >ありていにいえば、エルドアンや彼の熱狂的支持者は、かつてのオスマン・トルコ帝国復活を願っているわけです
プーチンはロシア帝国を復活させたぞ ありていという言葉の使い方がおかしい。シナ工作員だろう。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
http://yh649490005.xsrv.jp/public_html/ >>727 >>732
https://hbol.jp/113049
× プーチンはロシア帝国を復活させた
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
〇 プーチンはロシア帝国復活を狙うのか? >>736
ソースは去年の記事
つまり、まだロシア帝国が復活する前だった トルコは地域覇権国なることも世界の大国になることはもうないだろう
まだアメリカがアジア海洋から撤退したあとのインド、日本のほうが可能性あるわ
アメリカとて永遠にアジアの海いるわけじゃないしな
トルコはグレートゲームの過程で海の王者になったイギリスと陸の王者になったロシアの世界二大覇権国の完成でオワコンだろう
まあ可能性としてはモスクワに遷都するくらいかなw そんなこと100年以上前からわかっていることだろう ロシア人が覇権とか言ってる点でただのロシアシンパだろ もともとがオワコン帝国だし、素直に分裂して崩壊しておけばよかった。 >>741
地政学的にはイランに対するカウンターパワーとして重要 英露が二大覇権国になった要因はオスマン
オスマンは東地中海の覇権をガッチリ抑えていたから欧州諸国は喜望峰周りから東方に出るしかなった
その過程で海洋覇権は主にポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどで行われ結果はイギリスが初代王者になる(第二次大戦を持って王座から陥落)
そしてユーラシアの大陸覇権は最初にモンゴルの勃興から始まりオスマン、ロシアも勃興して結果はロシアが初代王者になる(現在も王座を防衛中)
ユーラシア南海から制覇したのがイギリスで
ユーラシア大陸の北部から制覇したのがロシア
その南北の狭間のリムランドで数多の戦争、動乱をグレートゲームという
海洋覇権国と大陸覇権国は核心的競合相手でありながら持ちつ持たれつつの依存関係でもある
その中でトルコは第一次大戦を持ってプレイヤーから脱落
日本は二次大戦を持ってプレイヤーから脱落
そして二次大戦後はイギリスからアメリカに王座が移行しグレートゲームは米露によってなおも継続中である ロシアなんてもうオワコンだろ
ソ連時代の威勢はもうない
いつの時代も中国が返り咲く 2ちゃんって 「第」の一文字をすっとばして「二次大戦」って書いてる奴見るな。
バカ丸出し >>746
いまは英が米にとってかわり米露というか米露中の三巨頭だな ロシアは、昔のモンゴル帝国にますます似てきたな
ていうか、モンゴルの歴史的な役割を引き継いだ国といって良さそう てか、東ローマ帝国の正統後継国家としても相応しい気がする
もちろん、皇帝はプーチン閣下w コズミック フロント☆NEXT「知られざるイスラム天文学」
http://www4.nhk.or.jp/cosmic/x/2017-08-24/10/12647/2120192/
BSプレミアム
8月24日(木) 午後10時00分〜午後11時00分
占星術とともに発展しコペルニクスの地動説誕生に大きく貢献した「イスラム天文学」の知られざる栄光に迫る。
中世のイスラム世界では人々が礼拝に必要な時間と方角を知るため天文学を学んだ。
また航海や砂漠での旅に必要な情報を得るためにアストロラーベという精密な観測機器を発明した。
今から600年前、ウズベキスタンの天文台では1年の長さを「365日5時間49分15秒」とほぼ正確に観測から割り出した。 >>751
世界の覇権国家は↓この画像の青い地域辺りの国に軍事的にプレッシャー与えることができたり干渉できる国のことだよ
http://livedoor.blogimg.jp/tetsuzu/imgs/7/b/7b54b8aa.jpg
その要件を満たした国は
イギリス(第二次大戦後地域大国)、ロシア、そして第二次大戦後のアメリカの三ヶ国だけ
中国は当然欧州まで軍隊派遣できないね
だから地域大国 >>756
スペインとポルトガルが近世にかなりなりかけた オランダは微妙
フランスはかなり覇権国家に近い ドイツも短期間だがなりかけた
中国もソマリア、スーダンまで勢力圏にしているから準覇権国家と言える
日本で日報隠し問題が起きてまで南スーダン駐留にこだわった理由はそこだろう
今の防衛省は中国のインド洋進出を重視しているからな >>758
準覇権国ってのよくわからんがソフトパワーだけじゃん
ハード面(軍事)でアフリカにすら軍隊派遣できないのに アフリカは基本シーパワーの縄張り
ユーラシアの内陸国が覇権取れるような立地じゃない >>760
まだインド洋に進出したばかりだ
結論を出すのは早すぎる 日本ではあまり一般向けに報道されていないが、中国の海軍は驚くほど遠くまで進出している。
太平洋なんか特にそうで、サイパン・ラバウル・ガダルカナル・ミッドウェーとか、
どこかで聞いたことがあるような懐かしい名前のとこには、たいてい出没してる。 シナの空母は日本の空母とは違ってゴミ空母で役に立たない 日本に空母なんかないが……またネトウヨの妄想か
太平洋戦争で脳みそ止まってんじゃないの >>766
764は空母といってヘリ空母とは言ってない ヘリは滑走路や発進キャタピラを必要としないので、飛行機とは同列に論じられない 世界最高の一発屋は第三帝国だろう
ISも頑張ったけど、戦力がしょぼい上に周りをトルコ・イラン・サウジ等の大国に囲まれているから
あれ以上の拡大は無理だったろうな
クウェートに手を出すとアメリカが出てくるし ナポレオンも第三帝国もかなり似たような感じではなあ >>772
世界最高の一発屋はISだろう
第三帝国も頑張ったけど、戦力がしょぼい上に周りをイギリス・フランス・ロシア等の大国に囲まれているから
あれ以上の拡大は無理だったろうな
チェコスロバキアに手を出すとアメリカが出てくるし ポルトガル・スペインは一発屋
オスマン帝国は600年繁栄 スペイン・ポルトガルは南米に拡大して今も一定の影響力を持ってるでしょ。 >>779
そうだ。
ロシアがシベリアや極東に拡大し、アメリカが西部やハワイに拡大したように、スペイン・ポルトガルは中南米に拡大した。
ブラジルは、ポルトガルよりも遥かに大きい。 スペインは一発屋ではない。
イスラム王朝に支配されていたおかげで黒歴史扱いされてるだけで、
中世には全欧州から留学生が集まる最先進国だった。 古代からずっと先進国だったギリシャ・イタリア・トルコ・スペインの南欧諸国は、17世紀あたりから一斉に衰退した。
なんでやねんという感じだけど、事実だから仕方ない。 気候要因かも知れないが、単純に17世紀から、それまで地中海が果たしていた役割を
大西洋が担うようになったからでは >>782
ビザンツ中枢は首都周辺でギリシャは中世以降先進地帯ではないし、一貫して属州の古代スペインも先進地帯ではない イスラムが攻めてこなければ
西ゴートやビザンツは現代まで続いていたのだろうか? ギリシャ「アテネ・スパルタ、アレクサンドロス大王、ビザンツ帝国(キリッ」
イラン「アケメネス朝、ササン朝(キリッ」
ローマ「ローマ帝国(キリッ」
トルコ「オスマン帝国(キリッ」
イギリス「大英帝国(キリッ」
アメリカ「ふーん(鼻ほじ」 日本には武士道があったから泰平の世を経ても
奢侈文弱になった清朝・オスマン帝国と違って尚武の気風を保てた >>789
清も蒙古八旗だけは尚武の気風を保っていたが、
如何せん人口が少なすぎた。
モンゴル人やモンゴル族は清朝にいいように捨て鉢にされたと、
被害者意識持ってて、モンゴルの時代劇は満州族と漢族が悪役。 >>790
尚武の気風、あったのかな?
三藩の乱の時でさえ緑営が主力になってたっていうけど >>791
アロー戦争の時はモンゴル族のセンゲリンチン率いる蒙古八旗を主力とする清軍は、
英仏連合軍を緒戦では撃退している。三藩の乱では、主戦場がモンゴル騎兵が苦手とする江南だったから、
漢族の緑営が投入された。元と南宋の攻防の時も主力は漢人兵や南宋の降兵だったのと同じ。 清朝は質実剛健で奢侈におぼれず、暗君も出なかった。 清朝は李氏朝鮮から妃を迎えたころから法則が発動したのか
だんだんおかしくなったような(妃に付いてきた宦官のせいらしいが) 元も、最後の皇帝の妃は高麗の貢女だった
韓国時代劇の元ネタにもなってる そういや奴隷からスルタンの妃にまでのぼりつめた女がいたな アラブ諸国と同じレベルの土人国家に落ちぶれるだろうな
経典主義は発展できない トルコはケマルが革命をしなければ
今でもアラブみたいなガチガチのイスラム世界だったかも アラブ圏以外は緩かったけど交通の改善と通信の発達で他の地域も厳しくなった ぶっちゃけイラン系・アラブ系・トルコ系の容姿的違いが分からん
ラテン系・ゲルマン系・スラブ系は分かりやすいけど ・アルメノイド(アナトリア人種): 西南アジアに居住し、アルプス人種に似ているが、短頭で肉厚な鼻をもつ。ハプログループJ2と関連。
・南東人種: アラビア半島に居住し、浅黒い皮膚と濃色の虹彩と毛髪をもち、体つきはほっそりしている。ハプログループJ1と関連。
・インド・アフガン人種: イラン、アフガニスタン、インド北部に居住し、体表の色素が濃く、やや幅広い鼻をもつ。
骨格的にはコーカソイドだが、皮膚色が濃いため、「黒い白人」とよばれることもある。ハプログループR1aと関連。 >>782
古代のトルコって狄だぞ
先進国だったとは思えないが >>809
モノクロじゃねえかw
でもこれがカブールの写真かと思うと感慨深いな セレコウス朝・ローマ帝国・ビザンツ帝国と長きにわたり
ギリシャやローマに支配されたシリアだが、ムハンマド登場後一瞬でイスラム化したな
様々な民族に支配されても
トラヤヌスによる征服から今日までずっとアイデンティティーが「ローマ人」のルーマニアとは非常に対照的 >>811
バルカン半島全体が一旦はローマ化し、
そのあとスラブ化されて、残った地域がルーマニアということらしい >>808
アナトリアのことか
あそこってトルコ化される前はほとんどアルメニア人? アルメニアとか少数派でほとんどはルムだろルム(ギリシャ系)
元をたどればギリシャ化したキリキア人とかカリア人とかヘト人だろうけど ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
文明が終わるということ
識字率そこそこ → 神父以外文盲
上下水道完備 → 糞尿垂れ流し
食器と食事道具 → テーブルのくぼみに盛り付けて鷲掴み
街道は安全 → 野盗・山賊だらけ
地中海貿易 → サラセン海賊跋扈
巨大建造物 → アーチすら作れなくなった
各地の特産物からなる豊かな食生活 → 雑穀雑穀雑穀、ちょっと小麦
地中海の覇者 → フン族、アヴァール、マジャール、ヴァイキング、イスラム、モンゴル、オスマンにボコボコ
人類史上最も幸福な時代 →重税、蛮族の侵入、疫病、餓死、王侯貴族による圧政、教会による支配 >>816
なんか錯覚している
ローマ時代の支配層と中世の庶民下層を比べても
ローマ時代市民(=貴族)の下には10倍の征服地属国住民や奴隷がいた 自営農や小規模手工業者がほとんどだったローマ市民が貴族ねぇ??
属州の王侯貴族のほうがよっぽど豊かな暮らししてたんじゃないの
そもそもカラカラ帝以降は帝国民は全員市民権保持者だし ローマ帝国は皇帝から奴隷まで誰もがローマ人という意識があったみたいだけど
オスマン帝国はオスマン人の意識は芽生えなかったね
トルコ人の支配下でアラブ人はアラブ人、ギリシャ人はギリシャ人のまま >>819
そもそも皇帝とかは自分のことをトルコ人と思ってたのかペルシア人とおもっていたのか オスマン人(オスマンル)ってのは宮廷人という意識だったらしいな
トルコ人と言うとアナトリアで農業やってるような田舎モンみたいな感覚で >>823
ムガール帝国がペルシャ語を公用語にした程にはオスマン帝国は染まらなかったな
ペルシャ系の書体に対抗して独自のディーワーニー書体を採用したり
他にも「ペルシャ語は甘い、しかしトルコ語は芸術だ」みたいに自分達の言語に誇りも持ってたし まあ、オスマン帝国にとって、イランはロシアと並ぶ最大の敵だからな 世界帝国
アメリカ
欧州の地域大国
イギリス・フランス・ドイツ・ロシア
極東の地域大国
日本・中国
中東の地域大国
トルコ・イラン・サウジアラビア 南アジア
インド
アフリカの地域大国
ナイジェリア
南ア
中東の地域大国
エジプト
北欧の地域大国
スウェーデン オスマン語またはオスマンル語とは、オスマン帝国時代に公用語として使われた言語。
テュルク系言語であることを強調して、現代トルコ語などで、オスマン・トルコ語と呼ばれる場合もある。 現在の共和国トルコ語と連続する言語を基礎にしているが、語彙、語法の面で現代トルコ語をもはるかにしのぐほどアラビア語、ペルシア語の要素が大きい。
またその他にはギリシア語などの言語からの借用語も多く存在している。
文章によってはトルコ語固有の語がほとんど出てこないものすら存在し、現代トルコ語とは大きな断絶がある。
文字はアラビア文字で書かれる。 オスマン帝国の公用語として、帝国領内のバルカンやアナトリア、シリア、アラビア半島、北アフリカ等で行政言語として広く用いられた。
また、帝国の支配エリートが共有すべき教養の1つとしても機能したため、オスマン帝国が支配下の諸民族を統合する上で大きな役割を果たした。 トルコ共和国の成立と、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの言語改革によりオスマン語は公用語の地位を外れた。
現在では実質死語となっているが、オスマン帝国の研究者を中心に今でも学ばれている。
トルコ国内にも、保守派知識人の一部にオスマン語復活論者が存在している。 >>828
古代文明発祥の地でかなり栄えたエジプトだが
ペルシャに占領されて以降外来政権ばかりでパッとせんね
マケドニア、プトレマイオス朝、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝他、オスマン帝国、イギリス領・・・
ムハンマド・アリー朝は革命でぶった押されるし、民主化を目指したアラブの春も失敗 スウェーデンは移民を入れたせいか犯罪率がすごいことになってる 解決済の質問
オスマン語は書かれたときはアラビア文字で表記されていたとおもうのですが、オスマン語の辞書は現代トルコ語のアルファベットで表記されているのですか?
また、オスマン語というのは、オスマン王朝の主に宮廷でつかわれていたものかとおもいますが、会話ででも使われていたんですか?
また、ペルシャ語起源の単語なんかもたくさんまじっていたんですか?
トルコのTVドラマや映画などで、トルコの宮廷はオスマン語まじりの会話だったりするんですか?
たとえば日本の時代劇だと、「拙者は○○でござる」みたいな言い方が使われたりしますが、トルコの時代劇ではどうなんでしょうか? ドイツにはトルコ系、フランスにはアフリカ系の移民が多い ベストアンサーに選ばれた回答
まず一言
「現代のトルコ人にとってのオスマン語学習とは、日本史における文書解読(手書きの書簡を読む…右衛門か左衛門か撥ねの向きで読む…みたいな)技術を専門的に学ぶことに似ています」 アラビア文字でトルコ語は書けるか?
率直に言えば…いまのトルコ語の単語でもアラビア文字に置き換えれば理論上は可能です。
但し、それを「オスマン語」だといえるかと言うと、多分実際に使っていた時代の人に見せても「こりゃオスマン語かね?」と聞き返されると思いますが。 要は、トルコ語とオスマン語を分けるのは、アラビア文字かラテン文字か?ではなくて、ペルシャ語やアラビア語の語彙や修辞表現を如何にふんだんに使うか…で決まります。
つまりオスマン語の習得というのは、単にアラビア文字で書かれたトルコ語を読めることで済むのではなく、
現代トルコ語では使われなくなったアラビア語やペルシャ語起源の表現方法を読めるようにし、
手書きの文書(ぱっと見は本当にミミズにしか見えない)の読み方をも身につける。
そこまで行ってそれらしい「オスマン語」なわけです。
トルコ語的な表現ばかりであれば「無教養で粗野な奴め」と思われたはずです。 つまり、日本で言えば宮中コトバとか、女房コトバとかと似たイメージでしょうか
機微を効かしたやり取りが出来てこそオスマン宮廷にふさわしいオスマン語を操るオスマン人だ、となった訳です。 トルコの言語純化運動とは、ムスタファ・ケマル・アタテュルクによって開始されたトルコ語の固有語復活と、
アラビア語、ペルシア語からの借用語の除去によってトルコ語の純化をおこなおうとする言語改革運動。
広義には文字改革によるアラビア文字の禁止とラテン文字の採用も含まれる。
これによってオスマン語は完全に廃棄され死語となり、現在みるような共和国トルコ語が成立した。 ケマルの強力なリーダーシップにより、かなりのアラビア語、ペルシア語由来の要素が除去され、オスマン語にみられる不規則性、複雑さは多くの程度取り除かれた。
先におこなわれた文字改革とあわせ、オスマン語にかわる平易な共和国トルコ語が普及し、識字率の急激な上昇と教育水準の向上を実現した。 かんこくがかんじをはいししはんぐるのみにしたのはしっぱいだったな
にほんごにたとえるとすべてかなでひょうきするようなものだしね
はんぐるだけだとよみにくいうえにどうおんいぎごにまったくたいおうできない
こうしてかんじごにゆらいするじこくごをどんどんうしなっていった
ゆえにかんこくじんはにちじょうをはなれたこうどなぎろんや
ちゅうしょうてきなぎろんをするのがむずかしくなった >>833
「ウマイヤ朝他」と「オスマン帝国」の間に、ファーティマ朝やマムルーク朝がある。
イスラム帝国ができて、当初はシリアやイラクに主導権を取られたが、
やがてエジプトに自然と中心地が戻った。
やはり、ナイル川三角洲は世界的な大穀倉地帯で、そもそもの国力が異なる。 >>843
トルコもそうだが、そういうことを無理にやると、伝統文化を喪失して知的水準が低下する。 >>843
ハングルは、もともと文字というより、漢字の読み方を覚えるための発音記号だからな。
漢字と併用する意味はあまり無い。 オスマン帝国にとって、イランは中東の覇権を争ってきた旧敵。
ペルシア語を公用語にするほどイラン化するわけにもいかなかっただろう。
ムガール帝国とはそこが違う。 アラビア文字を使い、アラビア語やペルシア語の語彙を大幅に取り入れた、教養と機知に富む会話。
それがオスマン帝国の宮廷言語。
ケマルは、それをローマ字化した上に、アラビア語やペルシア語の語彙を排除する運動を進めた。 イランやパキスタンは、今でもアラビア文字を使っている >>846
いやいや漢文が読めない庶民向けの文字として作ったって制定した世宗王本人が言ってるんだが
ハングルだけだと同音異義語の判別とか難しいだろ >>850
漢字がかいと、哲学とかは無理だな
「ジュンスイリセーヒハン」とか言われても、なんのことやら 韓国人があんなにアメリカに留学したがるのは、そのせいなんだろうな
日常生活は韓国語でもいいが、難しいことを考えるためには英語じゃないと 流れに関係なくてスマンが
オスマン帝国のトルコドラマ見てここ来た
ヒュッレムのやりように毎回胸糞
現代トルコ語とオスマン語の乖離の話は
トルコが伝統回帰に傾いてる現状を理解しやすいと思った
識字率が上がっても、自国の古典が読めない
高度な思考が出来ないのでは意味がない >>853
日本の統治時代に教育を受けた世代は日上生活は朝鮮語でも大丈夫だが
難しいことや抽象的・概念的なことを論じるためには日本語で考えると言ってたな 漢字廃止なんかやらなきゃ良かったのに
日本語だって漢字廃止したら碌な思考ができなくなるのは誰でも分かるよな どんどん漢字を減らそう
南カリフォルニダ大卒でも「でんでん」がよめない >>855
アフリカ人もそうだ
日常生活は現地語ですごし、難しいことはフランス語で考える >>861
あれは民間で使われていた書式じゃないの 拙ブログ2011年2月16日分「初めて行ったネットカフェで韓国産オンラインゲームを見て思った事」より引用
ハングルは基本文字が24文字なので、日本語入力より打ち込みが簡単な分マシンガントークしてくるヤツも若干いるけど、
ハングルには同音異義語が多く、分かち書きしないと正しく翻訳されないという大欠点を抱えている。
翻訳掲示板におおよそ相応しくない言語なのは、実はハングルの方なのだ。 童貞 同情 同志 冬至 史記 詐欺
紳士 神社 郵政 友情 首相 受賞
火傷 画像 市長 市場 風速 風俗
映画 栄華 戦死 戦士 歩道 報道
犬喰 見識 日傘 量産 数値 羞恥
お腹 お船 烈火 劣化 主義 注意
読者 独自 団扇 負債 停電 停戦
大使 台詞 諸国 帝国 諸島 制度
声明 姓名 無力 武力 全員 田園
定木 定規 全力 電力 代弁 大便
捕鯨 包茎 地図 指導 素数 小数
対局 大国 誇張 課長 インド 引導
初代 招待 朝鮮 造船 駅舎 歴史
発光 発狂 定額 精液 火傷 画像
反戦 反転 反日 半日 武士 無事
大便 代弁 無力 武力 電車 戦車
連覇 連敗 恨国 韓国 祈願 起源
競技 景気 放火 防火
ハングルでは全部同じ。
同音異義語というのみならず表記も全く同じ。
前後の文脈で区別するしかない。
例:
釣船の操船で有名な朝鮮人たちの祖先が造船した商船に率先して乗船し商戦に挑戦
↓
チョスンのチョスンで有名なチョスン人たちのチョスンがチョスンしたチョスンにチョスンしてチョスンしチョスンにチョスン >>864
ウェ とか ウォとか、複合母音みたいのがザラにあるぞ
フランス語そっくりのリエゾンも多発する
しかも、パッチムが変化したりと、フランス語より解り辛い >>865
「放火」と「防火」の区別がつかないのは痛い >>865
「連覇」と「連敗」もなにげに痛いな
スポーツ新聞の見出しがヤバそう 「諸国」なのか、「帝国」なのか、字面だけじゃ分からないってことだな
世界史をやるのには不便 トルコの国語浄化運動では、そんな問題は起きなかったんじゃないかな? アザーンをトルコ語するようにしたけど評判悪くてアラビア語に戻したってな ケマルは、トルコの民族主義を前面に出して、イスラム教社会からの脱却を図ろうとした。
いまのイスラム原理主義なんかを見る限りでは、ナショナリズムのほうが遥かにマシなのは事実 そもそもイスラム原理主義自体がここ数十年の歴史しかないなんだが
>>809の写真とか見てみ
お前の両親がまだ子供だった頃のアフガンだぞ ローマはイタリアガリアヒスパニアバルカンをロードローラーのようにローマ化したのに
オスマンは全然他の地域を「オスマン化」できなかったのはなぜか モンゴルが他地域をモンゴル化できなかったのと同じ。
先進的なものが馬術と弓術だけだから仕方ない。 ローマとイスラム帝国は世界の多様性をめっちゃ減らした憎むべき存在
まあその前から中東はセム化してたが >>875
バルカン半島は、なんだかんだ言いつつ、かなりオスマン化された オスマン帝国にとって、エジプトやイラクは単なる植民地 むしろ、トルコの側が「アラビア語やペルシア語の影響を排除して、真の民族言語を取り戻そう」という側
逆ではない
文化的な力関係は歴然としている 古代ローマ帝国だって、エジプトやシリアをローマ化できたわけではない
むしろ逆だ >>881
なんで?
エジプトの在来信仰や美術は途絶えたよ >>882
ローマ帝国の前に、かなりの長期にわたって、ギリシャとペルシャに支配された >>883
プトレマイオス朝時代まではエジプトの伝統もまだのこってた キリスト教という救済宗教の魅力の前に、在来信仰は無力だった エジプトやエチオピアのコプト教美術の本みたけど、
ギリシア辺りのキリスト教美術の超絶劣化コピーになりはてていて、
何のオリジナル要素もなかった 日本んの壁の落書きが
全部ヒップホップになったのと同じだな >>865
人名シリーズ
正男 と 正南
正恩 と 正銀 も同じだな >>882
滅んでねえよ
ヒエログリフも宗教も全部残ってるしローマ皇帝の像もすべてエジプト化した姿で描かれた
ファラオとして描かれたトラヤヌス
http://livedoor.blogimg.jp/angelofcairo/imgs/e/a/ea7fb2fd.jpg >>891
じゃあキリスト教(コプト教)に滅ぼされたのか >>891
じゃあキリスト教(コプト教)に滅ぼされたのか 竪穴式住居に住まなくなって土偶作らなくなったからって縄文人絶滅したんかって話だな イメージの問題は大きい。
ギリシャもエジプトも、ローマ帝国期からは古代と別モノとして扱われるので、
激変したかのような印象を受けるのだが、実際はそこまで変わっていない。 知識階級や職能集団がいかにして弱体化されていったかが重要だよな。 ローマ帝国の文化は、ギリシャ文化のコピー
オリジナルなものは特にない >>762
残念ながらチャイナは北京・華北・東北を捨てない限り海洋国家になれないよ
あの地域を捨てれば海洋国家になれる可能性が高くなる >>900
その辺は、中国の指導者層も国民も自覚無い 辮髪もモンゴル系と満州系があるのね
日本の月代もそうだが尚武の民族は頭を剃りたがるのかな アラブ人は頭に変な頭巾かぶってる
インド人と昔のトルコ人はターバンかぶってる 髪延びたまま兜装着するとあつっ苦しいからな
髪を剃ることが一つの美意識になるのもおかしくない ゲルマンやガリアや中世は男性は髪伸ばすのが一般的だったけどな
まぁコーカソイドは日本人男性ほど剛毛じゃないからそんなに気にならなかっただろうけど >>909
現代の工事現場でも取り入れるべき習慣だな 乗馬と髪型が関係するわけないし百歩譲って兜が相性が良くても騎馬民族限定なわけない
そしてそもそも満州族は騎馬民族ではない ところで満洲人ってなんで最後自分たちが満洲人であることを忘れてしまったの?
オスマンはちゃんと民族意識あるのに オスマン朝歴代スルタンで最も男色好きだったのは誰ですか?
作品社から出てる『図説・ホモセクシャルの世界史』には色々と詳しく書かれているけど
誰が一番「男好き」かということは明記されてなかったので >>916
清朝の後期で既に満州語は死語
1930年代の満州国でも満州族は漢族の中に埋没してる
戦後の毛沢東なんて関係ない 皇帝からして漢文化マニアなんだからどうしようもない 後金と名乗った時点で漢族地域侵略宣言&チャイナと合体ってことだからな
でも創業者のヌルハチは中央ユーラシア騎馬民族あるあるのハンと名乗っていた スルタン=皇帝、国王
カリフ=教皇
アミール=将軍
で合ってる? 征服民が被征服民を同化するなんて世界中どこでもあるけど、
漢族の恐ろしさは逆に自らを征服してきた民族を逆に同化してしまうところ。
(もちろん、漢族が征服した民族を同化してしまうのはいうまでもない)
豊臣秀吉が思惑通りに明朝を征服していたら(すぐ後の時代に女真族が征服しているので
決して秀吉の誇大妄想とは言えない)今頃日本列島は中国の端っこの辺境と化していたな。
同化されなかったモンゴル族は例外中の例外か。 >>922
北清事変で征服した側は漢族に同化していない >>921
スルタンが将軍でしょ
皇帝は「バードシャー」 スルタンは皇帝であってるんじゃない?
カリフはもう少し宗教色の強い意味合いでの君主で、アミールは地方政権(なので軍事力を持ってる)のトップってイメージ
バードシャーって初めて聞いた
「シャー」だけなら君主だよね ちなみに、サウジアラビアの「国王」はマリク
「アラブ首長国連邦」の「首長」はアミール >>925
ムガール帝国もオスマン帝国も、皇帝の正式称号は「バードシャー」 皇帝 インビラートゥール
アラブ圏最高主権者 スルターン
ペルシャ圏最高主権者 パードシャー ロシアの皇帝にも、似たような問題がある。
「ツァーリ」は通常、「皇帝」と訳されてるけど、ロシア人の感覚ではちょっと違う。
実際、18世紀にツァーリのピョートルが、「これからは、インペラートルの称号を名乗る」と宣言したとき、
「そんな大それたことを言い出せば、西欧諸国が黙っていませんぞ」
と重臣たちがこぞって反対した。
つまり、ロシアでも皇帝は「インペラートル」であり、「ツァーリ」はロシアの君主 あ、誤植してた
バードシャーじゃなくて、パードシャー
(まあ、見分けがつかないほど似ているが) >>928
まあ、「シャー」という時点でペルシャだわな
オスマン帝国もムガール帝国も、ペルシャ系ではなかったが、文化的にはペルシャに染まってた 今までのデリーの君主たちは「スルタン」だったけど、わがムガール帝国はワンランク上なのだ
というような調子で「パードシャー」に決まったんじゃなかったか? パーディシャーあるいはパードシャー(トルコ語 : padişah; ペルシア語 : پادشاه' pādshāh)は、
ペルシア語で「皇帝」もしくは「君主」一般を意味する語。 オスマン帝国では君主の最も一般的な呼称であり、末期には「パーディシャー」(トルコ語:padişah)は世俗権力であるスルタン権と宗教権威であるカリフ権を兼ね備えていると規定された。
オスマン帝国の君主はスルタンの称号で呼ばれることが多いが、帝国の中ではスルタンの称号は君主の后妃や娘の称号などにまで広く用いられ、むしろ君主の称号はパーディシャーの方であった、 トルコ共和国成立後、言語純化運動でペルシア語由来のパーディシャーは、ラテン語のimperator(皇帝)に由来するimparatorに置き換えられた。 どうも納得いかないのは、この言語浄化運動だ。
「皇帝」を意味するオスマン語の「パーディシャー」を、民族語としてのトルコ語に変えるため、ラテン語に由来する「インペラートル」に変えた。
日本でいえば、「天皇」を「エンペラー」にするようなものだ。 日本でも中国にルーツを持つ文化を西洋風に置き換えるということは見られたと思う >>938
それは、むしろ逆じゃないか
明治の日本人が西洋語を翻訳した漢語を、中国人も使っている >>940
天皇が即位するときの袞衣というのも、衣冠束帯に変えられた(後者は“日本風”と見なされたため) >>941
それは、国語浄化というより、単に意味不明だからでは? >>940
別に日本で訳されたものすべてを中国で使ってるわけではないが >>922
満州族が同化されたのは圧倒的少数なのに移住したからで(移住しなかったのは清が滅んでも細々残った)、2000万近い人口がいた日本本土にそれを上回る漢族を強制移住でもさせない限り、日本本土を漢族化なんて出来るわけない
>>924
パードシャーはペルシャ系の称号
>>925
カリフは元々ムハンマド直系の宗教指導者 パーディシャーあるいはパードシャーは、
シャーという称号からわかるようにペルシア語由来の称号。
日本語でより近い意味は『皇帝』。
単なる王や地方の支配者より一段高い地位にいる支配者に対して用いられる。
主にオスマン帝国やムガル帝国で上記のような使われ方をした。
(ちなみにペルシア人の地イランでは”諸王の王”を意味する『シャーハンシャー』の方が最高位の王号として用いられ、
パードシャーは地方領主の方で用いられていた)
スルターンはアラビア語で”(世俗の)支配者”という意味。
イスラム化以前から使われているペルシア語のシャーとは違い、こちらは宗教的な意味合いが含まれている。
由来が違うので混同しないように。
イスラム教とは関係なく、単純に王の事はアラビア語で『マリク』と呼ばれる。
そういえばスルターンを最初に名乗ったのはセルジューク朝の初代君主トゥグリル・ベグで、
その子孫でスルターンとなった者にはマリク・シャーというのもいる。
不思議な縁かつ、凄い名前だw
モンゴルと争ったケレイト部族の族長にもオン・カン(ワン・ハンとも言う。王にして汗ってw)並に無茶苦茶な名前w やっぱ統治者、支配者の名称は現地名と同じように呼んだほうがいいね
Shogunは定着してるけどTennouも定着してほしい
スルタンとかハンも定着してんだから Tennoってどういう意味って外国人に訊かれたら、The heaven shining beingだよって答えるのか
カルト集団だと思われるな ヨーロッパの言語で日本の「天皇」の訳語には、中国の「皇帝」と同じ訳語(英語の Emperor やドイツ語の Kaiser など)が用いられる。 皇帝も天皇もシャーもスルタンもみんなEmperor オクタウィアヌスが独裁権握ったときローマ市民と元老院はREX(王)と名乗らないか戦々兢々としたが「おれはただのインペラートル(軍最高指令官)」と言って、安堵した元老院は代わりにアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えた
今じゃrex系統の称号よりもimperator系統の方が格上扱いだもんな >>951
大宝律令では、国外向け称号が皇帝と規定している。 >>958
清朝の皇帝の、満州族の長としての称号は「ホンタイジ」じゃないの? >>964
ホンタイジまではカーンだよ。順治帝以降はフンディ。
まぁ、支那語の皇帝そのままなんだが。 ホンタイジ 皇太子 フアンタイツ
フンディ 皇帝 フアンディ オスマン帝国はもともと、バルカン半島の帝国
アラブ諸国を征服したのは、かなり後の話 新オスマン人と青年トルコ人が活躍したのは時期が異なります。運動の内容も異なりますね。
オスマン帝国=トルコ族の一首長オスマン1世を始祖とするオスマン朝から発展して成立したイスラム帝国 (1299〜1922) 。第1次世界大戦でドイツ側について惨敗し、戦後の混乱の中で滅亡。
新オスマン人=オスマン帝国末期,1860年代にヨーロッパに留学して西欧文化を吸収した知識人により展開された自由主義運動とそのにない手たち。
青年トルコ人=19世紀末から20世紀初頭のオスマン帝国において、アブデュルハミト2世の専制政治を打倒し、オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)に基づく憲政の復活を目指して運動した活動家たち。 新オスマン人
オスマン帝国末期,1860年代にヨーロッパに留学して西欧文化を吸収した知識人により展開された自由主義運動とそのにない手たちを呼ぶ。
彼らは 1860年に民間新聞"Tercümân-i Ahvâl" (諸情勢の翻訳者) ,62年に"Tasvîr-i Efkâr" (世論の注釈) を発刊して運動の口火を切り,
さらに 67年にはイブラヒム・シナースィ,ナムク・ケマル,ズィヤ・パシャらを中心に「新オスマン人協会」をつくり,文化・政治活動を通じて,アブドゥル・アジーズの専制を批判し,体制の改革を訴えた。
彼らの運動はミトハト・パシャの開明政治と結びつき,76年にトルコ最初の憲法『ミトハト憲法』と議会とを生み出した。 青年トルコ人
19世紀末から20世紀初頭のオスマン帝国において、アブデュルハミト2世の専制政治を打倒し、
オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)に基づく憲政の復活を目指して運動した活動家たちのことをいう。
彼らの多くはオスマン帝国の近代化改革によって誕生し、アブデュルハミト2世期の国策によって
拡充されていた西洋式の近代学校で学んだり、官僚、将校、医師など近代化によって誕生した
新しい階層に属した青年たちであった。
1908年の青年トルコ人革命によってアブデュルハミト2世の専制政治が打倒されてからは、
かつての青年トルコ人の活動家たちがオスマン帝国の政治活動の表舞台で活躍した。
1908年に始まるオスマン帝国史のこの時期のことを青年トルコ時代と呼ぶ。
また、1923年にトルコ共和国が成立した後も、初代大統領ケマル・アタテュルクを初めとして
トルコの政治を主導したエリートの多くはかつての青年トルコ人活動家であった。 1860年代のオスマン帝国では、新オスマン人が活躍して、ミトハト憲法が成立した。
しかし、ミトハト憲法は成立したけど、機能しなかった。
そこに、日露戦争で日本が勝利したというニュース。
「日本は、われわれより後で憲法を作ったのに、
立憲政治が機能している」ということが分かって、護憲運動が活発になった。
そこで活躍したのが、青年トルコ人。
新オスマン人と似ているので紛らわしいが、20世紀初頭の話なので半世紀ほど隔たっている。
ナポレオン、ビスマルク、カヴール、レーニン、ケマル トルコは、「オスマン帝国を続けて立憲君主制」という選択肢もあったんじゃないかなあ それをいったら、ハプスブルク王朝やロマノフ王朝も同じだが
第一次大戦で、オスマン帝国・ロシア帝国・オーストリア帝国・ドイツ帝国が一斉に消えた
ついでに、大英帝国も崩壊した
>>978
それじゃ話にならないからトルコ共和国になった ケマルは、オスマン語を言語改革して、トルコ語に変換しようとした。
アラビア文字を廃止してローマ字に変更し、アラビア語やペルシア語に由来する語彙が追放された。
コーランの聖なる言語であるアラビア語を排除するとは、神をも恐れぬ行為だった。 インドでは、同じようにアラビア文字表記でアラビア語とペルシア語の語彙が存分に入った
ムガール帝国の言語、ウルドゥー語を廃止した。
パキスタンではウルドゥー語を使い続けたおかげで、もとは同じ言語だった北インドとパキスタンは、
いまや別の言語を使う国となった。
元は同じ言語とはいえ、長いこと別々に運用されていれば、だんだん通じなくなる。
宗教が、言語と民族まで分けてしまった。 革命さえなかったら、今でも「トルコ共和国」ではなく、「オスマン帝国」だったか 江戸の子は江戸っ子
では、オスマンの子は?
というネタにされただろうな >>982
新約聖書も初めて書かれたのはギリシャ語 かんこくがかんじをはいししはんぐるのみにしたのはしっぱいだったな
にほんごにたとえるとすべてかなでひょうきするようなものだしね
はんぐるだけだとよみにくいうえにどうおんいぎごにまったくたいおうできない
こうしてかんじごにゆらいするじこくごをどんどんうしなっていった
ゆえにかんこくじんはにちじょうをはなれたこうどなぎろんや
ちゅうしょうてきなぎろんをするのがむずかしくなった 日本や中国・台湾にノーベル賞受賞者がいるのに
韓国には皆無なのはやはり漢字の有無がでかいのかな ハングルでは専門的な授業が出来ないから大学で英語を使ってるくらいだし
当然付いて来れない学生が出るからその分ふるい落とされる
文字や言語が未発達の国というのはそれだけでデメリットがある 自国語で科学をやれる国など、アジア・アフリカには滅多にない
韓国はその域に達せず >>990
漢字が公用文字じゃないアメリカやイギリスにもノーベル賞受賞者はいるのだから
漢字が無くても問題ない
単にハングル文字が欠陥文字だというだけ ハングルはもともと、漢字の発音記号だからな
本気で漢字を捨てるなら、漢字に由来する語彙をもっと削減しなければ
「ある範囲の座標系がすべて物理的に同等であって,これらのどの座標系でも物理法則はまったく同形でなければならないという要請を相対性原理という」
「あるはんいのざひょうけいがすべてぶつりてきにどうとうであって、これらのどのざひょうけいでもぶつりほうそくはまったくどうけいでなければならないというようせいをそうたいせいげんりという」
前者は読めるが、後者は意味不明
漢字がなければ科学など無理だ ケマルのやった言語改革は、「オスマン語」を、「トルコ語」に変革するという徹底したものだった。
朝鮮人も本気でやるなら、朝鮮語を捨てて、新たな言語を構築するくらいの覚悟が必要だ。 しかし、ハングルでは無理
もともと漢字の発音記号として作られたものだけに、漢字語をそのまま表記するのに最も適している
これじゃ漢字語が廃止されるわけもなく、言語改革は進まない そもそも朝鮮人は、「朝鮮語から日本語の影響を排除する」ということに必死になるあまり、
中国語や西洋外来語にまでは気が回らなくなっている。
漢字を廃止したこと自体、「漢字ハングル交じり文だと、日本語の漢字カナ交じり文からの
影響を隠し切れないから」というのが最大の理由。
中国文明圏から自立することなど、まったく考えていない。
だから、言語改革としては、あまりにも中途半端。 東の韓国、西のトルコ。
言語を捨てた国は、伝統文化と断絶することにより、文化が浅くなる。 このスレッドは1000を超えました。
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