春秋戦国時代2
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
最近、「キングダム」という漫画を読んでいる
吉川英治や横山光輝ほどじゃないが、かなり有名 スレ立ちてときにこれを荒らす
また悦ばしからずや
スレあり初っ端より荒らす
また愉しからずや 君子はスレ立てて荒らさず
小人は荒らしてスレ立てず >>7
宋ですら和食みたいだとか
古代は生魚を食べない村をおかしいと書いた記録があったり
孔子がナマスは細ければ細いほどいいとか
羊とか牛とか豚の生肉?
君主は行使に子供が生まれた時に鯉を贈ったとか 陸の民なので、川魚ですな
川魚といっても、日本の川とはスケールが異なり、イルカも棲んでるくらいだが 宋の時代に石炭の火力が利用されるようになって、中華料理は激変した 酒池肉林の頃は、茹で肉を馬鹿食いして燗酒をガブ飲みすればそれで贅沢だったのかな?殷の青銅器って基本、肉を茹でる容器と酒を燗する容器だよね。
まだ繊細な料理文化がないから量で贅沢さを誇示する路線で。 殷の紂王が、はじめて象牙の箸を作った。それを知った家臣の箕子が恐れを抱いた。
象牙の箸を何故そこまで恐れるのか分からない周囲の者たちに、箕子が語った。
「象牙の箸を使うとなれば、(今まで用いていた)素焼の器などではなく玉の器や犀の角の杯を用いたくなるだろう。
象牙の箸に玉の器で食事をするとなれば、(今まで食していた)豆の葉や藜の汁などではなく水牛や象や豹の肉が盛られるだろう。
豪華な食器に豪華な食事をするとなれば、粗末な衣服と粗末な家屋では満足できずに錦の衣服と豪華な宮殿が欲しくなるだろう。
象牙の箸に釣り合うものを集めていけば、いずれ国中の財物を集めても足りなくなる。私が怖いのはその行きつく先だ。だから象牙の箸を恐れるのだ」 >>18
このエピソードだと王族でも普段の食事は大したこと無かったのかも このエピソードはどう見ても後世の中国の価値観を反映したものだからなあ
ディテールまでは信用しないほうが
考古資料の裏打ちとかあれば別だが。 >>21
後世といっても韓非子が出典だから戦国時代末期よ 殷周交代は中国文化の一つの画期だからね。君主が天の代理人であり、もしその意志を忠実に執行しないならば罰せられる、という思想は周が持ち込んだものだから。
このエピソードがもろにこういう思想に裏付けられてるのを見ると、どうも起源をあまり遡らせるのは難しいんじゃないか、という気がする。 解決済の質問
春秋戦国時代の中国の食事はどのようなものだったのでしょうか? ベストアンサーに選ばれた回答
かなりあっさり系の食事です。
羹(スープ系)や膾(肉と野菜をスライスしたのを和えたもの)が中心で今日のような食事になったのは元以降です。中華料理の原型は北宋の時代に完成しました。
また、穀物も北と南で大きく異なります。雨の少ない華北は雨が少なくても育つ麦がメインで、雨の多い江南は米がメインです。なので酒も麦から作るのと米から作るので別れました。
調味料も今と違い塩と梅のみで「塩梅」という言葉は春秋戦国時代の味加減の調節から生まれました。
一般的な料理の形態としては「煮る」「焼く」「蒸す」がありますが春秋戦国時代は「煮る」が大半で「焼く」と「蒸す」は殆どありませんでした。
これは漢の時代まで強く火を起こすと家の構造上あっさりと火事になるので低火力の料理が中心にならざるを得ず、自然と「煮る」がメインになりました。
酒の度数も今と比べるとかなり低く、糖のアルコール転嫁の技術が今よりもかなり低かったので度数はかなり低く酒の中に糖質がかなり残っていました。一説には当時は2〜3%が一般的だといわれました。 古代(始皇帝の秦の時代、紀元前3世紀ころまでを指す)の主要な料理は、細切れにした肉や野菜を、多めの汁の中で煮た羹(あつもの)であり、王侯も庶民も毎日食べたといわれる。
具の多いスープのようなもので、日本で言えば豚汁などである。
また、肉や野菜を細切れにしたものを酢につける膾(なます)もよく食べられた。
また古代には、野菜や野草は塩漬けかひたしで食べたとされる。
油脂は古代から宋代(10〜13世紀)までの料理ではあまり使われず、さっぱりした料理が主流であった。 「羹(あつもの)にこりて膾(なます)をふく」という言葉があるが、この2つこそは、古代中華料理のメインディッシュ 古代中華料理では、調味料としては、塩と梅しかなかった。
「塩梅」という言葉は、ここから生まれた。
もっとも、膾は酢の物だから、酢の味がする。
羮は、肉野菜を煮込むのだから、ダシが出て旨くなる。 >>23
エピソード内の料理の記述は当時の反映では? これ面白かった
美味求真 周代の八珍
http://bimikyushin.com/chapter_5/05_ref/hatsuchin.html
@淳熬(肉醬油澆飯)
A淳母(肉醬油澆黄米飯)
B炮豚(煨烤炸炖乳猪)
C炮羊(煨烤炸炖羔羊)
D擣珍(燒牛、羊、鹿里脊)
E漬珍(酒糖牛羊肉)
F熬珍(類似五香牛肉乾)
G和肝遼(網油烤狗肝)
@ 淳熬じゅんごう
淳熬という料理は、肉醤(醢)に火を通してご飯の上に乗せ、その上から動物の脂肪を加えて混ぜ合わせた料理である。肉醤というのは肉から作る発酵食品で「醢」という字が当てられている。淳熬は肉と脂をまぜたご飯を想像すると分かりやすいだろう。 これなんか、オーブンがないのでアースオーブン式調理なんだろうな。石蒸し調理とかにも近い
B 炮豚
豚の腹を割き、内臓を取り出して、腹腔内を洗って汚物を取り除き、その中に棗を詰め込んで腹を縫い合わせ、萑すいと呼ばれている茅に似た草で編まれたもので、その豚を丸ごと巻き、その上から粘土に香草を混ぜたもので全体を塗り包み、火で蒸し焼きにする。
その全体を包んだ粘土が、十分に焦げた時を見計らって、火から取り出し、その土を取り除き、手を水に浸しながら豚の身体を擦って、毛の焦げ付いた上皮をすり落して、
完全に丸むきにして、上皮が綺麗に取れたものに、米の粉をかけて葛かけのようにして、牛の脂を入れてヒタヒタになるまで煎り、これに香物を入れる。
別に大鍋に熱湯を入れ、先の丸豚を浸した鍋そのままをこの熱湯の中にいれ、小鍋を覆さないように注意しつつ、三日三夜の間、絶え間なくこれを煮る。
そして後、醯と醢で味を調えるものとする。醯と醢などの肉醤の製法は前ですでに述べたとおりである(王の饋食参照) これも面白い
http://bimikyushin.com/chapter_5/05_01.html#section_ref_05_01
「朝事の籩」に麷とあるのは麦のことである。蕡とは麻の事である。白とは米、黒とは黍の事である。形鹽とは虎の形に作った塩のことである。膴とは生魚の切身、鮑とは燻製魚、
鱐とは干した魚の事である。以上八種を籩に供えて、豆(肉皿)の方には韮のおひたしに、動物の血液と糀と酒で作った肉醤。昌本つまり菖蒲の根の和え物に、麋肉の肉醤、
菁(かぶら菜)のおひたしに鹿の肉醤、茆つまり茅の若芽のおひたしに麋肉の肉醤を添えたもの八品が供えられた。
「饋食の籩」には棗、栗、桃、乾橑(干し梅)、榛の五種が供えられ、皿には葵のおひたしに蠃(カタツムリやサザエの類)の肉醤、
脾析(牛の脇肉)と蠃の肉醤、蜃(大蛤の類)の和え物に蚳(白蟻)の肉醤、豚拍(豚の肩肉)の和え物に魚の肉醤の八品が供えられた。
「加籩の實」は菱、芡、栗、脯、菱、芡、栗、脯と同じものを二重に、都合八品を供え、皿には芹のおひたしに兎の肉醤、
蒲の若芽の和え物に血汁の肉醤、箈(シノブ竹の子)のおひたしに、雁の肉醤、筍のおひたしに魚の肉醤を添えて八品が供えられた。
「羞籩の實」に糗餌、粉栥とあるのはすべて米と黍の粉で作られたものである。捏ねて混ぜた団子を餌と言い、餅にしたものを栥と言う。
これらはいわゆる現在の餅菓子の類のことである。食皿に酏食とあるのは犬の肝と、狼の脂肪と、米で作った一種の炊き込みご飯のようなものである。
八珍の中に肝膋とあるのはこの料理である。糝食さんしょくとあるのは牛羊豚の肉をそれそれ等分にして、細く刻んで米二、肉一の割合で混ぜて煮た雑炊に似たものである。 一般庶民は竪穴式住居に住んでいた
日本でいえば、「弥生時代」のイメージ 日本の一般庶民は平安時代まで竪穴式住居に住んでただろ。 中国といっても広いからな
春秋時代には呉で鉄器文明が始まったが、華北では漢代になっても青銅器が広く使われていた
それと同じで、家屋もあったけど、漢までは、一般人は基本的に竪穴式住居 紀元前というと、中国にはすでに高度な文明があったが、日本には原始人が住んでいたというイメージが強い。
でも実際のところ、本当はそこまでの違いがないんだな。
しょせん、同じ古代人のレベルだ。
土器や石器、竪穴式住居が広く使われていた。 それは第三者からみたら負け惜しみにしか見えないんじゃないかなあ・・・ 日本の中卒とアフリカの中卒の学力が同じなので
日本とアフリカにそこまでの差がない
しょせん中卒レベル、割り算もできない 古公→末っ子溺愛して息子二人が家出
李歴→商王文丁に殺される
文王→長男殺された上に自分も監禁され怨みから反乱起こすも途中で死亡(監禁時に殺されていた説もある)
武王→商の残党や各地の勢力に睨まれたまま即位2年で病死
成王→叔父達から反乱を受け、母親や周公の傀儡が長く続く
康王→比較的安定していたらしいが外征繰り返さなきゃならないなど平和には程遠い
昭王→楚の反乱鎮圧中に殺される
穆王→各地の反乱鎮圧のために外征しっぱなし。刑法を厳しくして恨まれる
共王→美人の娘達をくれなかった腹いせに従った密国を滅ぼす
懿王→風刺されるぐらい民に舐められる。
考王→懿王の叔父で王位簒奪?結局懿王の息子が後を継ぐ
夷王→讒言を信じて斉の哀公を殺す。遠方の国が従わなくなる
レイ王→民衆に殺されかけて亡命、そのまま復位出来ずに死去
宣王→処刑した部下の呪いで流れ矢に当たって殺される
幽王→嫁を笑わせるために狼少年になり殺される
王莽は周王の何を理想と見ていたのか? 文王も武王も悪いことしてないやん
私怨から反乱起こしたなんてのは器の小さい下衆の勘繰りだ >>38
「竪穴式住居」といっても偃師商城の時点ですでに磚(レンガ)の使用が確認されていて
日本人が連想する「竪穴式住居」とは外観が大分ことなっている
また鋳鉄制の農具も春秋時代には華北を中心に広まっていて日本で普及したのはようやく平安時代になってのことだから約2000年ぐらいの開きがある https://www.y-history.net/appendix/wh0101-024.html
古代中国では春秋時代中期以降に製鉄が始まり、戦国時代に普及した。
中国の製鉄は、春秋時代に始まったが注目されるのはそれが「鋳造」であったことである。西アジアで最初に現れた鉄器は鍛鉄(原鉄を叩いて形にする)であったが、
中国の鉄器が鋳造であることは、それが西方から伝わったものではなく、中国独自に開発されたと考えられるからである。
鋳造を可能にするには高い温度を出すための送風装置、つまり鞴(ふいご)が必要であり、中国では早くそれが発明された。
また、鋳鉄は鋳型に入れてつくるため形は自由に作れるが、鍛鉄に比べてもろいため、中国の鉄は農耕具として利用され、武器は依然として青銅器が用いられた。
「だから、鉄は悪金とよばれ、武器には青銅が使用され、それは美金とよばれていた。」<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』2000 講談社学術文庫 p.367>
戦国時代の鉄器の普及 鉄製の農具は、それまでの磨製石器に代わって普及し鍬や鎌が農耕だけでなく、牛耕農法を可能にし、開墾、水利土木工事にも使われ、
農業生産力を飛躍的に増大させた。
戦国時代にになると鍛造の技術も開発され、武器にも利用されるようになった。
農業生産力の向上は、手工業をも発展させ、さらに貨幣経済へと社会を導いていく。戦国時代には各国で青銅貨幣が鋳造されるようになる。 >>39
ローマだけは別格。街道に上下水道に住居も紀元前に完備
蒸気機関に似たものすら紀元後には表れている
彼らから見ればアジアは土人にしか見えないだろう ローマとか秦の商鞅の時代の頃は四国の半分程度の面積しかない
しがない都市国家レベル
楚漢戦争の頃でようやく現代日本と同レベルの領土面積
古代帝国の中では後発もいいとこだぞ 唐がペルシャやインド・中央アジアから受けた文化的な影響の大きさは、日本が唐から受けた影響と大差ないほどのレベル
中国大陸の文化をガラリと変えた >>45
陝西省あたりのコチコチに固まった黄土は、ほとんど天然の干乾し煉瓦だ
現代でも、穴を掘って地下に住居を作って住んでいる人たちもいる
毛沢東も習近平も、不遇な時期はそこで暮らしていた >>48
それは言える
古代帝国といったって、ペルシャ帝国やローマ帝国との差は大きい
宋や元あたりになると、中国のほうが西方より文明度が高いと思うんだが、古代だと西高東低だねえ >>49
唐って言うより五胡十六国の北朝政権が正しいんじゃね。
仏教が儒教とフュージョンしたのが典型 >>52
まあ、そうでしょうな
唐の文化には中華風な要素も多いが、北朝は思いっきり西域っぽい
やっぱり、南朝が中国文化を受け継いでいたんだねえ しかし、その北朝でさえも、北斉の優美な仏像などを見れば、かなり中国化している
そもそも、仏様の顔つきが、インド風の濃い顔とは違いすぎるというのもあるが 日本は唐よりも朝鮮半島三国から受けた文化的な影響のほうがよほど大きい
竈や須恵器や字形鋤先や無床犂といった日常生活レベルのものから文字の使用に至るまですべて朝鮮半島を通して伝わった
建築においても7世紀半ばである皇極天皇の治世ですら屋根を精々板で葺いたぐらいで「板葺宮」と名付けて尊んでいたぐらい原始的な段階でとどまっていた倭国に
瓦、土壁、礎石や中国南朝の寺院建築を伝えたのも百済である
まぁ建築学的には日本の伝統建築はあくまで中国建築のマイナーチェンジで「日本建築」というものは厳密に言うと存在しないらしいがな 粟が主食(と呼んでいいかはともかく)だったみたいだけど、あの小さな粒で腹を膨らませるにはどのぐらい生産量が必要だったんだろう?
ネコジャラシ並に放っておいても勝手に生えてきたんだろうか?
飯よりは上に書いてる人のいるように羮に入れて腹を膨らませる具材扱いだったのかな? >>57
百済は、倭の属国だよ
形式的な中国への朝貢とは異なり、実質的な支配を及ぼしていた >>52
唐はその北朝政権の流れを汲んでるから唐も同じだけどね >>57
倭国と中国南朝は、古来から盛んに直接交流していた
倭は、その通り道である朝鮮半島南部の諸国を支配し、彼らが反抗の動きを見せたときは軍隊を送りこんで鎮圧した >>59
水分を吸収して、それなりに膨らむ
粥にしたりして食べていた >>49
それ、元はローマ帝国の文化
ヨーロッパが東ローマ帝国の支配領域を別にして暗黒の中世へと移行すると
その文化はササン朝やイスラム帝国に受け継がれることになる >>60
そうその属国よりはるかに文明が劣っていた
だから技術者を連行してくるために支配したわけだ
契丹、女真、モンゴルのように元々未開人だった部族が自分より武力の劣る文明国を支配して
文明化することは世界的にはよくあること 敏達天皇や舒明天皇が自らの皇居を百済宮と名付けたり
高松塚古墳の壁画の女官がチマチョゴリ着てたり古代の大王は半島かぶれが多かった 古代の日帝による強制連行だから韓国人はこれにも謝罪と賠償を求めていいぞ >>65
契丹は、中央アジアやペルシャの文化とダイレクトにつながっていた
もちろん、陶磁器や絹織物などの工芸技術で中国にかなうはずもないが、文化的に劣っていたわけではない >>68
その時代にチマチョゴリがあったと思ってる時点で韓流時代劇かぶれのオバチャン以下 それはともかく、春秋戦国時代の歴史というのは、どこまで信用できるのか?
「史記」を初めとする、後世の伝聞による記述に依存するところが大きい 世界大百科事典 第2版
チマ【ch’ima】
朝鮮語で女子の服装に用いる裳(も)の義で,洋装のスカートにあたる。
元来は漢制として伝来し,三国時代に定着した。その実物は正倉院御物にもみられる。
チョゴリ【chŏgori】
朝鮮の上衣で,男女とも同形である。三国時代から形は変わらず,李朝の初めまでは1mくらいの長いチョゴリを着て,
腰を布か革のバンドでしめたが,16世紀末の壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)以降はこの長さが短くなり,腰のバンドもなくなった。 司馬遷にとっての管仲は、現代人にとっての足利義満くらい大昔の人
どこまで本当に分かっていたのか >>73
チマチョゴリは、和服の影響を受けて20世紀から始まった創作民族衣装
現代の化学繊維と染料なしでは語れない
「百済の壁画に描いてあったニダ」というのは、あの国ではお約束 >>72
>>74
清末民初の擬古派の学者たちもそう考えて「ほとんど後世の作りごと」「孔子も本当はいなかったんじゃね?」と主張し、日本でもそれを受けて「西周なんか無かった」と唱えた学者もいたくらい。
ところが甲骨文の解読が進んで殷の王系が判明すると、それが司馬遷の記録したものとほぼ同じであることがわかって、みんなひっくり返って驚いたわけだ。
司馬遷からみて千年以上前の史実をそれだけ正確に記録し得たのは、口承のみに依拠したのではなくて、何らかの記録や史料が存在して、それを参照したのだと考えられる。六国の史官が編纂した記録も当然あったろうし。
もちろん、たとえばツキジデスの「戦史」の登場人物がしばしば行う大演説みたいな、ディテールを盛った部分までは信用する必要はないけど。古代の歴史家はこういうディテールを盛ることを職業的義務と感じていたようでもあるし。 古代のチマチョゴリと現在のものとは全く違うから
誇張して言えばそうとも言えるという話じゃない? >>77
逆に司馬遷の間違いや嘘も出土史料から明らかになったりしてるから
全く疑わないわけにもいかないし、かといって全部嘘ってわけにもいかないのが悩ましいところ >>76
どうせちょっとの史実を斜め上に捻じ曲げてぜんぜん違う話にしている
いつもそうだ
伝言ゲームが失敗したやつみたいになってる 長平での白起の生き埋め大虐殺も、ただの伝説なのではと思われていたが、掘ってみたら大量の人骨が出てきた >>77
清代は、客観的な研究が進んだ時代だな
まあ、18世紀や19世紀だから、ほぼ近代国家なわけで >>38
鉄の利用は燕と斉が最も早い、それに次ぐのが楚
鉄器と青銅器わ用途が別、青銅器が農機具に使われた時代なんて無い
住居も北部は土間の平屋木造建築、南部が高床建築
既に陶器が広く使われ土器の利用は終わってる >>47>>49
街道も上下水道も春秋期から既にある、抑々街道に技術は不要
大都市の遺跡からわ大抵上水道が見付かってるし下水道の無い都市なんぞ無い
影響を受けたのわ仏教位で他に西方ガラスとマニ教が入って来た程度 >>58
木骨泥牆は江南の建築様式だと何度も教えてやっただろ無知無知ガイジ 春秋時代の燕については、史書に記述が極めて乏しい。 戦国時代に入り、紀元前334年の段階で『史記』蘇秦列伝によると「東に朝鮮・遼東、北に林胡・楼煩、西に雲中・九原、南に呼沱・易水がある」といわれており、すでに広大な領域を支配していたことがわかる。
紀元前323年に王(左飛)を名乗るようになった。第2代の王の噲(檜の偏を口に変えた字)は宰相の子之を盲信し、堯舜に倣うと言って禅譲を行い、これにより国内は騒乱状態となった(紀元前315年)。
翌年ここに斉(田斉)が付けこみ、兵を出して侵攻し、全土を併合したため一時的に滅亡状態となった。
紀元前313年、公子職が子之を倒して、斉軍も撤退したので、公子職は即位して昭王となった 昭王は、一時とはいえ燕を亡国に追い込んだ斉を深く憎み、いつか復讐したいと願っていた。
しかし当時の斉は秦と並んで最強国であり、燕の国力では非常に難しい問題であった。
昭王は人材を集めることを願い、どうしたら人材が来てくれるかを郭隗に尋ねた。
郭隗は「死んだ馬の骨を買う」の故事を喩えとして話し「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答えた。 >>85
殷墟からも「木骨泥牆」の民居は見つかっているよ
ソースは楊寶成「殷墟文化硏究」65頁
というか「木骨泥牆」って江南からも見つかってるんだね
東南アジアの伝統住居みたいな網代壁かと思ってた >>91
江南でも木骨泥牆は主流の建築じゃ無いが発見されてる大半は江南
抑々商代の木骨泥牆は一般住宅用途じゃ無いし宮殿建築としてわ周代に廃れた >>90
この時に斉(と楚)の力を削いだ楽毅って秦のスパイなんだろうか? 魏出身の一族で中山に仕えて燕に行くってなるとさすがにどこに国、っていう帰属意識すらなさそうだな 秦だって、趙の李牧に敗れたり、簡単にはいかなかったけどな
やはり、辺境に位置していたのが最終的に有利だった 韓はワンランク落ちる
もっとも、それは国力の話であり、文化水準は最高だったが <丶`∀´>全世界の若者が、韓流カルチャーに熱狂しているニダ >>95
趙の李牧の子孫は何百年も続き、唐の長安でも屈指の貴族の家柄になった 「キングダム」では、趙の李牧はスーパーマンそのものだ
あれは人間といえるようなものではない ていうか、趙と魏がなんであんなに強いんだよ?
秦は、あれでよく中華を統一できたな? キングダムは知らんけど戦国中期までの趙は軍事大国だよ
終盤に入って趙が長平の戦いで戦力を喪失した事で秦の統一をかなり早めたし >>106
その見方って逆だと思うよ
魏は有能な人を逃がしてるんじゃなくて仕官できない野賢が出る程に
文化程度が高かったり、教育関連の整備が進んでたって見るべき
魏の問題は、そこで生まれる高度な教育を受けた人々のポストが用意できなかった事
でも教育機構未整備でヘッドハンティングでいいやって思ってる田舎の国が
千金出して招聘するのって止められようもないけど
四方に行けるのも痛い >>107
どの人材もメチャクチャな目に合って魏から追い出されてるけどな
まあ、後世の脚色というか伝説かもしれんけど 魏さんが逃したメンバーはゴキ、ハンショ、ガクキ、ショウオウ、あとはまあソンピンもか
オールスターすぎる 商鞅が内政を担当し、孫濱が外交と戦争を担当していたら、魏は途方もなく強い国になっただろうな。 戦国末期には秦の一強時代となったが、その前には、東の斉、西の秦の二強時代もあった。
紀元前288年、斉の湣王が東帝を称し、秦の昭襄王が西帝を称した。
しかし、そんな斉を滅亡寸前まで追い込んだのが、燕の将軍・楽毅だ。
「秦が中華統一できたのは、楽毅のおかげ」とまで言われる。 >>108
どの人材も、という程じゃないでしょ
酷い目にあった人も居れば、自分が出世できないと思って他国で仕官した人も居たよ 楽毅は、「隗より始めよ」の厚待遇に釣られて燕軍団に入団したフリーエージェント 「隗より始めよ」の故事も、楽毅ほどの大物FAをとれなかったら、あれほど有名にはならなかったであろう >>107
逆の意味がわからん
酷い目にあって出て行くにしろ仕官は難しいと思って出て行くにしろ結局逃がしてるという意味では同じだぞ >>117
考え方が逆
それだけ人材が育ち易い素地があるって話をしてる
人材が育ち易いから逆に育った人材がポスト求めて諸国に出てってしまう、というそういう話 魏というか厳密には衛だよね
殷を二分した国の一つ
滅亡は秦の二世皇帝の時 >>112
商鞅の政策が短期間で上手く普及しその後の秦の覇権に繋がったったの一言で済まされてるけど何で上手くいったんだろ?
考公がただの傀儡だったから? >>122
秦の法制度が未熟かつ後進的だったところに
当時最先端の法理論を学んだ商鞅の制度が持ち込まれたのが成功要因の一つ
後進的故に逆に最先端の理論を1から導入出来たのが効いてる
孝公の全面バックアップも効いた
このお陰で一気に制度面で各国を引き離す事に成功した
商鞅処刑後に上手く行った理由はマジ不明
商鞅を嫌って処刑した筈の恵文王なのに商鞅の整備した法体系は維持したから
個人、権臣としての商鞅は粛正対象だったけど、能力は買ってたのかな
とか思うけど想像に過ぎないんだよなぁ >>119
別に逆じゃないな
人材が育ちやすいからポスト求めて他国に出て行きやすいってのも人材逃してることに変わりないから >>123
理由は多分、もうどう変えていいのか分からなくなっていたのと
手形がないと宿屋に泊めないとか法治主義に慣れてきたこと
これを全部元に戻すと混乱するし修正できる人材もいなかったからだと >>123
革命を起こした中心人物が粛清されたが、そのあとも革命がさらに進行する・・・というのは、歴史ではよくあることではないかな。
フランス革命のロベスピエールもそうだし。
織田信長だって、そうだろう。
典型的なのがソビエト連邦の末期に大改革を始めたゴルバチョフ書記長。
大改革を開始したのはゴルバチョフだったが、ソビエト連邦を解体してロシアを独立させようという、もっと急進派の連中から見れば、ゴルバチョフは守旧派そのもの。
いつの間にか、本人が振り落とされてしまった。 小泉純一郎政権の改革の後に登場した、反動的な民主党政権も、
郵便局民営化を少し後退させることはできたが、元に戻すことまではできなかった。 小泉純一郎政権の改革の後に登場した、反動的な民主党政権も、
郵便局民営化を少し後退させることはできたが、元に戻すことまではできなかった。 そりゃ近代以降の法律や国会運営だからだろ
小泉改革云々言ってる奴何なの? そもそも>>107と同じ見解の上で>>106の発言をしたとしてもなんの矛盾もないな
>>106は結果の話をしてるのに>>107は原因の話をしだしてしかもなぜか>>106が自分と逆の見解を持ってると思い込んでるという事だな キングダム読んでる人はいるみたいだけど達人伝はどう?
蒼天航路は面白かったんだけど達人伝はいまいちなんだよなぁ
時代としては後漢三国より戦国の方が好きなんだが 蒼天航路は面白すぎた
キングダムは子供向け
達人伝はつまらん 蒼天航路が一番ガキっぽいじゃん
顔芸ばっかで腐媚び丸出し 蒼天航路は漫画界のエポックメイキングというべき名作だったな
それ以前の歴史マンガは少なくとも主人公陣営は現代的な道徳観の持ち主として描写するのが普通だったが
この作品が出て以降はその影響を受けてあえて現代との価値観との断絶を強調する手法が普遍的なものとなった感がある
シグルイ、ヒストリエ、センゴクなんかがそうだな
達人伝はその点かなりマイルドな作風になってるけど
これは作者自身が動乱の時代を描くことに内心まいってたこともあると思う いままで日本人(もちろん、歴史マニアを除く一般の)にとっての中国史といったら、
99%が三国志で、それ以外は付け足しといっても過言ではない状況だったが、
最近は春秋戦国時代の認知度も上がってきたのではなかろうか。
隋唐演義なんかも、普及する可能性はあると思う。
まあ、普通の日本人が明清あたりに興味を持つことは、今後もまずないとは思うが キングダムや達人伝もよいが、やはり、宮城谷昌光の小説が基本でしょう 思うに、やはり、日本人にとって中国の古代史は、日本の「前史」という位置づけだ。
倭国の歴史が本格的にスタートすると、途端に中国には興味をなくす。
欧米人も、ペルシャ帝国やネブカドネザル大王は大好きだが、ローマ帝国が東西に分裂した辺りからは、中東史にまったく興味なし。 キングダムは、敵との戦闘を通じて主人公が経験値を上げて強くなる、ロールプレイングゲームの世界 宮城谷さんの小説とキングダムはゴミ、春秋戦国は安能務オススメ
隋唐演義面白かったし高陽の西太后もオススメ、南北朝なら陳舜臣 >>136
三国志の後は人種が入れ替わっているからね
だからつまんない
野蛮な北方民族に乗っ取られた >>141
それはある
実際のところ、春秋戦国時代の中国人と、現代の中国人はあまり関係ない >>141
三国志以前から漢土に大量に移住してるんですがそれは まさか曾祖父の時代でほぼ覇権確定してて、実の父親とも揶揄されてた豪商の傀儡だったのに野心丸出しの法家二人と宦官に担ぎ出されてその豪商と有能な長男と歴代有能な将軍家皆殺しにして
各地の従来の制度全てぶっ壊して厳格すぎる法制で賦役と重税と大虐殺行いながらも
おもねる振りをした連中に毒を飲まされたとも知らず死んだ始皇帝と
他の将軍に付いていって何度か負けてる記述はあるけど特にこれと言ったエピソードは無いものの、先祖は老子、末裔は李淵や李白に繋がるらしいと言われてるだけの李信を主人公にした漫画が春秋戦国楚漢時代のスタンダードになるとはなあ 殷は遼河流域の出だからな
長江文明の集団も盛期にわ黄河中下流域の南岸まで分布してた
縄文人も長江文明人に征服され今の日本人に成った >>144
始皇帝の治世わ賦役も税も重く無いよ、漢代と大差無い、勿論片っ端から処刑の様な事も無い
二世皇帝時期に確認されてる暴政大量処刑を漢朝の儒家が始皇帝にも被せた 秦sageは司馬遷や班固が誇張してる節があるからなぁ。
万里の長城だって秦時代より武帝のし時代の方が規模大きいのに「秦が滅んだのは長城の労役が過酷だったか」とかDISってるし 秦の滅亡ってそんなもんじゃなくて勤勉な始皇帝から
無能で怠惰な二世皇帝になったことで施策そのものが滞ったからだと思うわ あと無能な皇帝が上に立つと統治機構の構造上の問題が浮き彫りになったな >>141
人種が入れ替わったらつまらなくなる根拠は? 文化が衰退した原因が人種の入れ替わりという事でしょ >>141-143
春秋戦国までは中原だけが中国でしょ
中国の領域が拡がって蛮族が同化されて変質したってのもある >>153
少なくとも華北ではそうじゃないか
文献記録の激減ぶりからしても、文章を書く人が減ったのは確実だし こいつは文化が衰退したって言いたいだけのネトウヨだろ 北方異民族に武力で蹂躙されてしまうぐらい貧弱な文化だったから、衰退するのも当然だった >>154
文献記録は後漢魏晋→南北朝隋唐で爆発的に増えてる
史実に反する願望は妄想 >>148
無能って言うか胡亥20歳行ってないんじゃ >>154
人種が変わったこととは関係なくないそれ? >>157
米の生産量が増えたの?
呂后が30歳以上の未婚女性に税金を課す(から家族が嫁ぎ先を用意して子供を産ませて人口増やす)法を作ったってのは、楚漢戦争直後で男が減ってたとはいえそれだけ結婚しない女性が多かったって事なんだろうか? >>160
江南の生産力と人口増大が大きいんじゃないかね? 楚出身の李耳(老子)が武王の時代から周の書庫の役人で4代昭王が殺される直前に周の衰えを感じて函谷関を通って西へ行ったって逸話は
昭王が出身地である楚と争って老子の立場が悪くなって亡命する必要があった
周から函谷関を西に行ったら後の秦の領地
だから秦の将軍である李信は同じ李姓の老子の子孫だ
同じ甘粛省の五代十六国の西涼とその末裔である唐の李氏もその子孫だ
みたいな後付けであったとしてもエピソードがあるのかな?
何で楚出身の老子が亡命先として正反対の函谷関の西に行ったのかがわからないけど >>157
上に書いたのは「五胡十六国時代」の話だよ
南朝や隋唐は関係ない 人種が入れ替わったら衰退したというのなら
隋唐以降もずっと衰退するんじゃねえの >>160
未婚女子を有する父母に贖金を出させる制度は春秋時代の「国語」にも出てくるから
あくまであれは慣習法だろう
そもそも近代戦でも男女比が偏る例は珍しいし
女子にも兵役があった秦代なら猶更男女比の変動は少なかったと思う 五胡時代や北魏時代の華北とか洛陽やギョウは人口増えすぎて羅城部分を増築してることがわかっているからな
人種が入れ替わった論がいかに空論かよくわかる >>166
20歳以上の未婚女性なら古い慣習法というかありえそうだなと思うけど
30歳以上の未婚女性って法が前漢時代にあったのが意外と言えば意外
あの時代に戸籍を持つ女性に30歳以上で未婚者が(見逃せない数)いたってのが
未亡人への救済を兼ねた法なのかもしれないが >>168
バカか、お前は
「北魏時代に人口が回復した」というのが、人種入れ替わり論の根拠だろ 馬鹿はお前じゃね?
漢人が絶滅して五胡と入れ替わったのなら五胡十六国以前にあった漢人の都市は一旦廃絶してないとおかしいわな
それが途絶えた痕跡がまったくなく逆に拡張してるのは何故? 胡人の移住なんて楚漢戦争の頃からやっとるわw陳キや韓王信の乱も土着化した胡人の商人が援助してたって記述もあるし 抑々中山が胡人国家だしなというか周初わ未だ華北に点在してたしな胡人 そもそも漢人は自分から羌胡の領域であった河西走廊に侵略して乗っ取っているというのに異民族がどーのこーのとか片腹痛いわ >>176
そりゃ、長い間にはそんな時期もあるだろ 秦王国は巴蜀も征服してるでしょ
彼処らも別の文明圏 原住民族の漢族は「借体形成の術」によって五胡に肉体ごと乗っ取られてしまった
遺構からは乗っ取りの痕跡がみつからないのはそのためだよ 身体ごと乗っ取って漢語喋って漢字使って漢文明の担い手を自認するってそれもう漢族じゃん 斉の黄金期は2度あった
春秋の覇者・桓公と、戦国の「東帝」こと湣王のときだ 違う、ビン王は孟嘗君を追い出したので有名だが、追い出すまでは協力してたのだな 戦国時代は、当初は魏が覇権国だったが、その後、東の斉・西の秦の両雄が並び立ち、ともに「東帝・西帝」を称するまでになった
燕の楽毅により、斉が滅亡寸前まで追い込まれると、秦の一強時代となる
しかし、南の超大国・楚は健在であった 十分に力をつけた燕は、斉包囲網を形成し、紀元前285年/紀元前284年に楽毅率いる5ヶ国連合軍50万が斉軍20万を撃破し、
更に楽毅は斉の首都臨淄を陥落させ、莒(きょ)と即墨を除く斉の都市を尽く占領した
(この頃、燕は「朝鮮」を更に討って朝鮮半島北部も領有した。また、南部の「真番」を略属させ、所々に要塞を築き官吏を派遣して治めていた)。
以後約5年間、燕は現在の河北省・遼寧省のみならず朝鮮半島と山東半島のほとんどを併合していたことになり、
『山海経』の「鉅燕」(巨大なる燕)、『史記』の「全燕」(完全なる燕)とはこの時の燕の状態をさすとの説もある。 燕といえぱ北京の辺境国だが、朝鮮半島と山東半島を領有していた時期はデカかった
楽毅を疑って追い出したりしなければ、歴史はどうなったか分からない >>185
「超大国」は「他の国を圧倒する大国、主に覇権国家」って意味の政治用語だけど
楚って春秋中期くらいまでは地域覇権国家だったし、
戦国期だと地域覇権すら危ぶまれる状況もしばしばだったような
まあ越食ってもっかい地域覇権は確保したけどもさ 春秋のときは呉越だったのにいきなり楚が成り上がった感じ >>190
春秋の覇者が生まれて諸侯と同盟組んで誰と対峙してたかと言うと楚だから
成り上がりとは思わないけどな
むしろ呉がいきなり出て来てさらに越が出て来て、そしてまた楚に食われて消えてった感 春秋戦国時代って意外と南北朝時代と共通点あるな
北側 遊牧騎馬民の都市化と交雑 変化し易い制度、文化
南側 前代王朝の制度等の残存、比較的少ない交雑
って感じで >>194
面白い事に楚は北側ではとうに廃れた殷代の官位なんかが
戦国まで保存されてたりする 斉は七十余城の内、二つを除いて全部落とされたのに何で抵抗出来ているんだ? 中国の史書の数字は十分の一で読むと良い
10万人は1万人
70城は7城 でもまあ、臨淄が落ちてるのは一大事ではある
多分あの時代の最大都城だったわけで >>197
中国の史書わ極めて正確
欧州の史的な書と一緒にしちゃ行けない
况てや捏造改竄民族の日本の歴史書と比べる等以ての外 >>199
勝手に、お前の脳内で10倍に水増ししてろw まあ、日本の古代史がまったくの神話レベルなのと比べて、中国の古代史がかなりマトモなのは事実だけどな 日本人にとっても、中国の古代史は自分たちの前史として受け入れられている >>201
最古の史書で800年の差があるのになお神話レベルだからな 一目でわかる支那の歴史
(小国乱立)
古代・・・匈奴の属国
(小国乱立)
中世・・・鮮卑の属国
(小国乱立)
近世・・・満蒙の属領
(日米欧に連敗)
近代・・・日本のパクり国
(軍閥乱立)
現代・・・ソ連のパクり国 >>165
日本が中国に追い付くのがどれほど大変で時間がかかったかを考えれば、
人口が激減してそこに入った民族が漢以上の文化を築くとかいかに難しいかがわかる >>196
当時の城は総構えのように田畑等の生活基盤まで取り込んで構築されるから 下の方の農民の田畑だと城外だから収穫より貯蓄された穀物のが大事じゃね >>205
実際に、何百年もかかった
最終的に、南朝を併合することによって実現した 半年で?70ぐらいの城を落としているのに
2城に5年かかると確かに怪しいよね >>210
山東省は広大な華北平原のまっただ中にあるので、騎馬軍団で攻め込まれたら意外に脆い
でも、即墨などの山東半島は別
ここは、春秋の覇者と言われた大国・斉ですら、征服するのに何百年もかかったほど難攻不落の地であり、最後の砦としてここが残っても不思議ではない 「斉の人なのに、山東半島の人と会話ができた」とわざわざ史書に書かれた人もいるほどの異文化
おそらく、斉と魏の違いより、斉と山東半島のほうが異質だったであろう >>211
山東半島って後の三国時代でも地雷原と化してて
曹操とか袁紹も直轄化諦めてる土地だしなぁ >>212
山東半島の先住民族の莱族の言語は、
今のどの言語とも違う語族に属してる? >>205
じゃあ漢族の激減はなかったということだな
洛陽もギョウも五胡時代に後漢以上の規模に成長してるんだから >>217
さすがに、語族が違うってことはないだろうけどな 山東半島と朝鮮半島は、100kmほどしか離れておらず、古代の船でも渡航は比較的容易だった
倭が新羅と百済の支配にこだわったのも、ここの海峡ルートを確保するのが主目的だったと言われている >>223
かといって中国語と同系統とも思えない
朝鮮語と同系統だったりして >>222
華北だと晋方言だけ方言扱いだけど匈奴わ漢土に入って無いよ >>224
隋唐の高句麗遠征の時も重要ルートだったしな >>224
元の主人を支配下に置きたいってだけじゃないのか >>231
新羅や百済の方から、倭王を敬仰して朝貢してきたんだが? >>232
イングランド王がフランスよりも上位になりたいと思うような物でしょ 蛮族が貢物を納めさせてコンプレックスを解消させる図 菩薩天子から「書式デタラメだから書き直してきてね」って窘められた倭国さん…… >>233
いや、それとはまったく異なる
むしろ逆だ
日本は温暖で湿潤な魚米の郷であり、貧困な風土の朝鮮にとっては憧れの地だった もっとも、イギリスは極北の地にある島国だけど、山らしい山もない大平原の国で、温暖な北大西洋海流が雨を降らせるおかげで、農耕牧畜に適している
朝鮮とは違って、昔から国力があった >>228
山西省は、太行山脈と黄土高原にはさまれた細長い谷間のような地域で、現代でも独特な方言で知られている
それが晋 1989年の天安門事件で、トウ小平は、山西省の兵隊を北京に動員した
山西省の兵隊たちは、北京の学生たちとは言葉が通じず、同じ民族という意識がなかったから、存分に大虐殺できたと言われている 秦の白起が、趙兵を大量に生き埋めにしたときも同様であっただろう その後の話だぞ無知無知くん、何の歴史知識も無いのな >>239
自国民なんて殺しても何とも思わないのが支配階級でしょ
日本もアメリカも >>238
あの辺りの住民は古代には漢民族ではなく東羌だった筈 漢民族という名称自体漢以後だろ
春秋戦国には漢民族なんていない 「漢土」を受けてのレスに的外れな事を言われても困るニダ >>243
晋が在った辺りだよ、牧畜民は居たが後世程多く無い 延安のあたりは秦漢時代に一度郡県が置かれたが相変わらず東羌の居住域であり、度々反乱を起こして魏は手放している
西夏が滅亡するまで羌が分布していたが以後一掃されて完全に漢土になった様だ 抑々東羌なる部族が存在して無いし、魏晉が手放した時期も無い
無知無知くんは相変わらず酷いなwww
何処か他の場所と勘違いしてるのか何時もと同じく全くの妄想なのか知らんが >>250
東羌は部族名ではないぞ
そもそも羌の部族は何十とあり、その全ての名前や居住地は明らかにされていない
羌が河西走廊の西と東にそれぞれ分布していて東側(南匈奴と漢土に挟まれた土地)に分布するものを総称して東羌と呼ぶ
後漢書西羌伝にも東羌という語が出てくる
>、魏晉が手放した時期も無い
曹魏は漢に比べると雲中、定襄、朔方、五原の4郡を喪失し北地郡は郡治を南方に移転させている
ムチムチくんが誰かは知らんが多分俺じゃねーぞガイジ 曹魏って言うか後漢安帝のあたりから関西ちほーや関中ちほーって実効支配が難しくなってるイメージ >>242
天安門大虐殺みたいな事件が、明治以降の日本で起きたことは無い
江戸時代でさえ、地方では一揆の鎮圧もあったが、首都のど真ん中であんな虐殺ができるわけがない >>250
また始まったな
「中国は、四千年前から一貫して漢民族の単一国家だったアル」という、お前の妄想史観は見苦しい >>254
そんな主張は中共ですらしてないけどな
「中華民族」なる謎なタームは産んだが >>254
満州人はそんな事言わないと思うんだけど >>251
それ黄河北岸や河套で今話してるのが西河
秦の征服後で再び遊牧民の領域に成るのわ十六国時代以降
俺も山西の話をしてたからその積もりで書いちゃったけど >>254
無知無知くんは歴史が苦手で国語(日本語読解)も苦手
何でこの板に在るのか意味が解ら無い、頭アベだろ コイツはわ君といって中国史オタのアスペだから構っても無駄
オマケに自分の大好きな中国史すらろくに知識がないのでしょっちゅう色んなスレを荒らしてはフルボッコにさてる
元々現在の山西省は春秋時代は潞氏、皋落氏、甲氏、留吁、鐸辰、廧咎如といった狄系諸部族の土地で
晋も当初は精々現在の運城市と臨汾市の一部を領有する程度の小国家に過ぎなかった
これが荀林父が前594年に潞氏を滅ぼしたのを皮切りに徐々に晋に征服されていくのだが
この潞氏の割拠していた地にしてもすぐお隣の長治市潞城区だったりする >>263
西河わ黄河の西岸の事な無知無知くん
春秋戦国好きなら誰でも知ってる基礎知識
それを何処ぞ?などと書いてしまう愚かさ >>264
河西のほうが普通だろ
河西より河東のほうがメジャーな気がするが 昔みた「唐の太宗・李世民」のドラマでは、大原で挙兵して長安へと行軍する李淵・李世民父子の前に立ちはだかるのが、河東の屈突通だったな。
晋(唐)と秦のちょうど中間に当たるのが、河東。 >>263
ようするに斉と同じように異民族征服のためにおくりこまれたか 黄河は、洪水が多くて流路がしょっちゅう変わる上に、河岸は侵食されて切り立った崖になっている。
このため、黄河の両岸は、人が住むのには適していない。
咸陽は渭水、洛陽は洛水、晋陽は汾水と、みんな黄河本流ではなく、支流にある。
いずれも盆地で、天然の要害だ。 >>264
西河って修飾と被修飾の順番間違ってるだろ
それじゃ河の西じゃなくて西の河という意味にしかなんねーよ
間違った知識をドヤ顔で語るのもいい加減に汁! >>266-267>>271-272
無知無知くんは相変わらず何の進歩も無く無知だなwww
春秋戦国時代にわ西河という行政区画が在ったの、それも極めて著名な
ここ春秋戦国スレなのに何為に来てんの? >>273
おめぇゲェジだな
その「西河」ならまさに河套の東縁にあるだろが
とっとと勉強しなおしてこい! 河套の場所も知ら無いし字の意味も解らんのな、西河わ以っと南まで含む縦長の地域 そんなことはどうでもいい
シナ語群でなさそうな言語を話す異民族がいたらしい場所であることには変わりない 燕、斉、晋は異民族の侵入を防ぐためにもうけられた辺境伯か。 >>277
斉は協力的だった東夷でしょ
太公望の先祖の出身は山東だし >>293
燕周辺は秦や晋と反対に元々夏華族農耕民の土地だったのが気候変動で時と伴に段々遊牧民が入り込んで来た いやいやあのあたりもほとんどは遊牧民の土地だし
天津市薊州区は古名を無終というのだが西戎の一部族である無終に由来している
もともと燕そのものが燕侯克が羌などの遊牧民を率いて建国したというのだから
本来は遊牧民の国だろう >>297
全然違う
燕は周の王族が燕侯に封建され建てられた国
まあ燕が建てられた頃にわ既に遊牧民の多い土地に成ってたが
商代以前は以っと温暖で降水量が多く農耕で暮らして居た地域 周自体がもともとは遊牧民だったしな
伝説だと古公亶父の頃に定住したことになってるが実際は文王か武王あたりだろう 周は落下傘組で農耕民が周辺の牧畜民を征服したパターン
北京とか遼西の辺りわ逆で気候が変わって遊牧民が南下して来たパターン >>287
いくら古代文明があったといっても、先進都市国家を除けば、基本的に原始人の世界だからな
中原にも狩猟採集民が少なくない 周がフランク王国みたいなもんだな
自身は異民族系でありながら
他の異民族を征服したり自国の伯を入植させて文明化させている >>289-291
意味不明だな
文字も記録も無かった、大倭国を簒奪した日本国と違い
燕は周の王族が侯に封建され建てられた方谷だと記録されてる
狩猟採集民などという非効率な存在わ
不毛な山岳地等を除けば歴史以前に消滅してる、相変わらず無知蒙昧だな >>292
えーと?燕は召公セキの長男の封じられた土地で
召公セキって後の関中、今の西安周辺の有力者で周の王族ではないよ?
史記だと姫姓としてるけど史記以外の資料で姫姓でないことが確認されてるし 召公奭って神話上の人物だろ?と思ったら当時の金石文が出土してて実在が確定してるんだな
ただし姓は姞で周王と同姓ってのは権威付けのための後の創作だろう >>290
北狄や西戎は狩猟採集民ではなく遊牧民だし
決して原始人ではなく都市国家を持たない以外は夏華族と同じかもしくはそれ以上ともいえる
例えば西戎の甘粛省磨溝遺跡や新疆の盆地洋海遺跡から少なくても紀元前14〜11世紀には鉄器文化に移行していて中原よりずっと早い
北狄もスキタイの影響を受けて紀元前11世紀には綏遠青銅器と呼ばれる青銅器文化を形成している 紀元前11世紀にわ未だスキタイわ存在すらしてないww
綏遠文化の方が成立が早い上に墓制も東から西へ伝播している >>296
そりゃ、中央アジアや北アジアは、西アジアとつながってるからな
ペルシャやアッシリアの文明を取り入れた彼らのレベルは、中華より進んでた 紀元前14世紀だったら、ペルシャもアッシリアもまだ無いけどな
メソポタミア文明か >>296
そもそも華夏族という存在が学術的じゃないんだがな アッカドもバビロニアも北と西の蛮族に滅ぼされてるんだけどなw
而もスキタイわ北アジアのトルコ人に追われたマサゲタイに追われて玉突きで西へやって来た
当該時期の進んだ技術と文明の伝播は東から西 >>301
インドとペルシャ辺りが文明一番高くて
後はその東西の文明圏に流れてるんだけどね >>302
メソポタミアがダントツに進んでたんじゃねーの?
インドなんか自分たちの歴史を記録しておく慣習がなくて研究が大変らしいじゃん >>303
インドは研究大変だけど少なくとも他地域に先駆けて
思想哲学の発展が早かったのはわかってるのよ
あとはメソポタミアはペルシャに含んで考えてたよ インダス文明の遺物は大体メソポタミアの影響受けている アッシリアとバビロニアがペルシャに含まれるとか相変わらず無知が激しいなwww
エラムもシュメルやアッカドより後だしペルシャわ尚更後、シンドわ度々征服されてるし
東インドの文明わ物産豊富でもギリシャ程度に遅れた後発 >>306
単に地理の話しとるからねぇ
「インド」には突っ込まないのにそっちだけ突っ込んでる辺り
ためにするしょーもない話だということがわかるね 地図で見ると分かるけど、インドの西海岸とアラビア半島の先端は、めちゃめちゃ近いぞ 少なくとも隋唐あたりまでは、どうみても文明度では西高東低だな >>307
バビロニアから見てアッシリアもエラムもペルシアも塞外だったんだよ
シンドわペルシアの国家が度々征服してるから含んでも間違いじゃ無いが >>309
隋唐で無く周までな
秦漢に成ると東アジア>オリエント>欧州 >>309
西から見た東すなわちユーラシア大陸の中央であるオリエントを西って言っちゃうとかプププwwwwww 中央アジアをオリエントって言うか?
オリエントは狭義には豊饒な三日月地帯、広義でもペルシャまでじゃないの? >>313はユーラシアとアジアの区別もつかないメクラか? >>303
「歴史記録」の豊富さを文明レベルの証とする発想自体が儒教的な発想だけどな
例えばアケメネス朝ペルシャは体系的な歴史書がまったくと言って存在しない
ペルシャから見て後進未開部族に過ぎなかった古代ギリシャや属州の一つでしかないイスラエル王国のほうがまだ史料の残りが良い
考古学の三時代区分法によれば古代インドは後期ヴェーダ時代に鉄器時代に移行してるのに対して
一方中国における鉄器時代は紀元前7世紀の春秋時代中期にあたるのだから400年ぐらい文明レベルはインドのほうが先行していたことになる 考古学に由ってもインドの農耕開始わ中国やイラクより数千年遅い ちなみにヨーロッパで鉄器時代に移行するのがもっとも遅かったゲルマン人の鉄器時代がヤストルフ文化ロシアがアナニノ文化と何れも紀元前7世紀頃なので
春秋時代とそれほど変わらなかったりする >>315
だから、イラン人にさえ忘れ去られ¥ていた、、、、、、、、、、、、、、 >>333
ちなみにフランク王国の後裔諸王国が鋳鉄器を造れる様に成ったのわ春秋末期に始まった中華文明から遅れる事2000年な >>113
斉が燕を属国にしなければ恨みをかうこともなく7国(最弱)の韓は滅びたかもしれんが
中国は分裂状態のまま現在に至ることはありえたと思う
後世いくら分裂しても統一を目指すのが当然と思われたからな
魏晋南北朝でも五代十国でも いやー中国が分裂状態のまま行くのは地理的に無理だろ
中原はあまりにも守るに難しな地形でどこかが必ず統一してしまうし
豊かな中原を取ってしまえばいずれ江南も巴蜀も統一されてしまう >>321
平原が広がっているヨーロッパですら完全統一されたことは一度もない
割と山岳地帯の多い中国だと統一されないこともありえた >>322
いやそれは違う
ヨーロッパはアルプスやピレネーやライン川に分断されてどこか一強と言える様な地理的まとまりに欠けた
それに対して中国は黄河流域さえ押さえれば他を圧倒できる 加えて隋の南北を繋げた大運河が統一病を決定的にしたな
とは言え南宋がモンゴル軍を凌いだように襄樊さえ確保してると南も相当持ちこたえられるけど 南船北馬という言葉も中華帝国統一の過程から生まれた経験則なんだろうな >>323
本当の意味で統一されたことがないのはライン川を越えてからのみ
ヨーロッパで本格的統一国家がローマ以来現れなかったのが不思議な気はする
中国の場合とっくに江南が魏晋南北朝時代には経済的には華北を超えていたが
統一王朝は明だけだったのは基本的には豊かでない方が富の強奪をするから
征服王朝の原理もコレ >>327
クレフェルトの補給戦読めば欧州の補給情勢が良くわかるよ
中華王朝が統一し易い理由もこれを援用すると簡単に説明できる
まあ河川交通です ヨーロッパはローマ法王を皇帝、各国の王侯貴族を諸侯と考えればずっと統一されていたともいえるけどな
イスラムやモンゴルといった「異民族」に関しては実質一つの文化圏として対応していたし >>329
教会自体が東西分裂したし、その後宗教改革も起こったからそれはあんまりない なんだっけ「ヨーロッパ王族という民族」だっけか
前スレのトンデモ君でしょ >>328
古代には河川交通という概念はほとんどなく隋代に入ってからではないのか
始皇帝が表れても斉が健在ならば韓を征服した時点でヤバいと思い
たちまち5か国連合で秦を僻地へ追い返すが天然の要害で滅ぼすには能わず
とにかく統一したとしても大幅に遅れたのは間違いないだろう
斉も燕を属国にするのではなく完全に併合すべきだった >>332
勘違いしてる人が多いけど水経注なんかを見てもわかるように
古代から中原は黄河やその支流とか色々あって河川交通が発展してる
始皇帝は戦国の統一後に各地に道路通すだけでなく運河を掘ったりもしてるように
昔から運河って重要視されてるよ 古代の重要都市で陸上交通の要衝ってどこだろ
水上交通の要衝が大半だよな? 東西の秦と斉の国力が拮抗したままなら統一がそもそもされず
河川交通も趙魏がほぼ寡占状態だったのでは? 古代からの農耕文明地で河川水運利用してない地域なんてなかろ
鉄道の発明まで、物流の基本は水運やで >>338
中央ユーラシアは水運よりは陸運メインだけど
交易路の中途や終端で水運に接続はしてるね >>329
春秋戦国期わ周王に因る統一帝国時代だからなww >>322
西欧は華北と違って丘陵が散在してる上に
文明も未発達で行政技術が先行文明より数千年遅れてた
それだけの話 欧州は海岸線が複雑であることも統一を妨げた要因だと「銃、病原菌、鉄」で取り上げてたな 長江下流域の国が滅ぼされる時わ大抵長江中流域からの侵攻
中流域の国わ結構北から落とされてるけど >>337
歴オタにありがちな何でもかんでも一つのタームやテンプレに押し込んで解決的な人じゃね?
マルサスの罠とか地政学とか好きな人たちのことね
夏県にあった魏の首都の安邑、斉の臨シとか一体どことどこを結ぶ「水上交通の要衝」という設定なのか聞いてみたい
あと仇由、庸、英、代、肥、苴みたいな山奥にポツンとある都市国家をどう説明するのかもね 長江三峡、三門峡、剣閣とか統一したい病を患ってない限りこんなとこ通ろうとは普通は思わんで 塩と鉄を始めとする、産地の限られた生活必需品
これらを内陸部を含む全土に流通させる、全国的な安定した商業ネットワークが必要だ
ゆえに、統一に対するニーズは常に高かった 古代の華北は森林に覆われていたが、自然破壊が進んで草原や砂漠に変わった
平坦な草原地帯ほど、統一しやすい地形風土は他にない >>345
内陸に向かうための交通の要衝だろ
抑えて関所作って通行料取れる >>344
臨シは名前の如くシ水に面した水上交通を扼する城だったんよ
水経注に引く地理風俗記でも城の命名由来も「シ水に臨してるから臨シ」と載ってる
安邑は解の塩、ソク水を睨んだ土地だしここ水上交易路と無関係にしちゃうと
黄河文明の内陸部の塩どうしてたんだって話になっちゃうね
庸は後の上庸でここ抜きに漢水の支流ベン水のルート考えられない程の重要拠点
あとはちょっとすぐに地図が思い浮かばないんで時間掛けて調べるけど
基本的には臨シのように河川に沿ったところか、安邑のように重要地点と河川を両睨みしてるはず >>346
全土に流通させるニーズは存在してないというか「全土」という概念がない
特に周には参加してなかった地域まで含んで統一という形にしたの始皇帝以降でしょ
秦からしたら本来関中で完結できるだけの産物も生産力もあったし
ニーズが統一を生んだのではなく統一がニーズを生んだという方が正しい 華北というか関中ね、華北平原は古代の時点で既にかなり森林消失してる
関中は古代から隋唐に掛けてゴソット消失した >>346
鉄は東西南北何処でも産出してた
塩わ偏ってるけど蜀や梁が大産地だし
ちょっと前に話題出たオルドスも塩の産地だからそこ迄でも 地図を見て、黄河や長江から離れているからといって「川沿いの地ではない」と判断してはいけない。
黄河の沿岸は、洪水が多くて流路がよく変わる上に、侵食で切り立った崖になっている。
このため、人が住むのに適した土地ではない。
都市はたいてい、黄河ではなく、支流の沿岸にある。 古今東西の侵略はたいてい、北から南へ、高地から低地へと行われる。
古代中国の場合は、西の黄土高原から東の華北平原へという、高いところから低いところへの侵攻が基本パターンとして続いた。
この2つの間には、長大で峻険な太行山脈がある。
太行山脈と黄土高原の間には細長い盆地があり、それが山西省の晋。 古代の黄河は、太行山脈に沿って北上していたという話もある。
だとすれば、太行山脈の東側の山麓に並ぶ都市国家は、黄河の沿岸にあったということになる。
黄河の流れは時代によって大きく異なる。
明代には、下流で大きく南下し、長江と合流していた。
当時、江南が史上最高の繁栄をしていたのは、これと無関係じゃないだろう。 岡田英弘によると、
「古くは黄河の下流は、
開封市の北方で多くの支流にわかれて、
北は北京市から南は徐州市に至る河北省、山東省の平原に網の目の
ごとく、ひろがっていた。
これを九河という。
そしてこうした多数の分流の形成するデルタを九州と呼んだ。」
だそうな。 >>355
秦の統一は西進してるけど逆に秦末漢初で秦楚の争いは楚が秦に攻め込んでる
楚漢抗争に入ると関中から侵攻してる
後漢は中原を制した光武帝が関中に攻め込んでるね
三国魏の制圧も中原から関中に向かってる
それ別に基本パターンじゃないんじゃないの? >>349
そのシ水は北はすぐ渤海に抜ける上に南は牟国に通じるのだが大きな山脈に阻まれ蛇行を繰り返す難所で流通には向かない
流通の便を考えるならばもっと黄河よりに作られていたはず
安邑も黄河から数十キロも離れた中条山脈の北嶺に築かれているのだから水運云々で説明するのは苦しい
庸はその首都である方城は山頂に築かれていたというのだから防備一辺倒で猶更水運のことは考えてないな
水上交通の要衝となる地には「邑」が形成されることが多かった程度のことは言えるかもしれんが
全部が全部そうと言うのは言い過ぎ すぐに言うても100キロ以上あるし元々渤海方向目指して春秋斉は勢力伸ばしてたから
そっち方向に川が通じてるのって滅茶苦茶利便性あるよね
国力が増してからは他の方面に顔出しててそっちの強国時代が印象強いけど
斉の国のスタートは東方を目指してたから何もおかしな話ではないよね
あと海から臨シまでは繋がってるわけだから沿岸部とも同時に接続出来てて
製塩業で利益を上げていたという記述にも合致するよ >>358
周が殷を滅ぼす
秦が他国を滅ぼして統一
漢が他国を滅ぼして統一
曹操が袁紹を滅ぼして華北統一
北周が北斉を滅ぼして北朝統一
唐の李世民が王世充を滅ぼして華北統一
・・・と、大きな歴史の節目で、西から東というパターンが繰り返されている
例外がないとは言ってない 低地から、山を登って高地に攻め込み、地形がデコボコで寒くて空気が薄いアウェーの地で戦って勝利するのは、逆よりずっと難しい >>361
曹操が袁紹を滅ぼして華北統一したのって西から東じゃないぞ
南から北だぞ、適当な事言い過ぎ
北から元が来て南から明が来たりもするし北から南に攻めた清は
次に西に攻め上って最大版図を実現したり
北から南、西から東というのは、全然基本じゃないんだよ おっと、曹操は袁紹は滅ぼしてなかったな
引っ掛かってしまった >>363
隋唐までは西高東低のパターンが繰り返されてきたが、元・明・清あたりでは西の存在感が薄れ、侵略は「北から南へ」というのが基本パターンとなる >>363
曹操の本拠地は太行山脈の西側で、袁紹の本拠地は太行山脈の東側だからねえ 西の内陸部が衰退して、東の沿海部が興隆する
それが中国の長期的なトレンド >>365
逆のパターンも何度も起こってるので「繰り返された」って強調できるもんでもないでしょ
>>366
曹操の本拠地は後漢の行政区分で言うとエン州陳留から始まって
許を拠点にして後に皇帝推戴後は都にしてるが
袁氏を滅ぼした後、曹操自身は政庁をギョウに置いて死ぬまでそのまま
太行山脈の西側に本拠地を移動させたという事実はないけど? >>368
だから、あくまでも「基本パターン」なんであって、「例外なく全部そうだ」とまでは言ってないじゃないの(笑)
周、秦、漢、北周、隋、唐と、唐宋変革期以前の主要な王朝は、どれも基本的に「西」の勢力なんだから、そこに無理なくパターンを見出だせる 華北平原は、面積も人口も、ちょうど関東平野を十倍にしたイメージ
ここが統一されるのは時間の問題
南は山岳地帯が多くて、なかなか統一しにくい 華北平原は、黄河が作り出した巨大な扇状地。
扇のカナメあたりに位置するのが洛陽や開封で、開いた扇の両端あたりに北京と上海がある。
華北平原の面積は、日本より少し広くて、フランスよりは狭い。
ここに、4億人の人口が集中する。
インドのガンジス川流域に次いで、世界で2番目に極端な人口過密地域だ。 広大で平坦で、森林も乏しい。
内陸部と比べたら緑は多いが、日本人の目から見ると、上海ですら、ちょっと郊外に行ったら赤茶けた乾燥地だ。
これほど騎馬軍団にとって征服しやすい地形・風土もない。
ただし、日本と違って河川がバカでかいから、騎馬で越えるのは難しい。 今の環境をそのまま当時に投影しても意味ないで
殷代の頃は黄土高原も象や犀が生息していたようなジャングル地帯だし
統万城の発掘調査から紀元5世紀に入っても内モンゴル付近まで森林地帯だったことがわかってる 言語も今でいうベトナム語やタイ語に似ていた
タイムマシンで3千年前の中国に行ったら、東南アジアだと思うだろうな
それは日本も同じだけど 水郷の上海が赤茶けた乾燥地とかエアプ過ぎて草生えるはww あと華北でも東へ行く程
南朝だったり楚呉越だったり東夷だったり長江文明だったりの領域に成ってたよ ってか上海が黄河扇状地の端ってどんな地理的概念やねん、と
黄河よりはるかに大きな大河長江はどこ消えた >>370
だから基本パターンと呼べるほど基本的な動きじゃないって言ってるんだが
基本だと言うなら秦が西から攻めて統一した割とすぐ後の時代に
楚が東から西へ秦を攻めて滅ぼすなんておかしいし
次の戦乱からの統一王朝樹立も中原から西へ関中、蜀に攻め込んで統一
後漢末の魏も東から西の動きで勢力拡大してるだろう
西からは遊牧系のユーラシアの民族が雪崩れ込む場所だから
晋以降の時代に西から、北からって形が目立つけど
それ以前の歴史は基本ではないとでもいうの? >>378
それは、地形図を見るしかない
黄河は長い間に流路を大きく変えており、下流で長江に合流していたこともあった >>379
いやいや、西から、北からってのは、それ以前から目立つ形だよ
なにせ、周・秦・漢・北周・隋・唐と、主要な王朝がそのパターンだからねえ
あくまでも「基本パターン」であって、全部がそうだと言ってるわけじゃない 光武帝・劉秀と、魏の曹操は、河南省のど真ん中から東西に勢力を広げたって感じだな 斉や魏が天下統一しても不思議はなかった
でも、函谷関や潼関を突破して秦を滅ぼすのは至難 遥か後の時代にも、西の北周の国力は、東の北斉に大きく見劣りした
しかし、最後は天然の要害に守られ、北斉の攻撃を凌ぎきっている 函谷関の高さは66メートルで、「赤坂ツインタワー」くらいの高さ
古代人にとって、見ただけで圧倒されるシロモノだったのは確実
http://www.blue-style.com/img/10/20bcd738ad-m.jpg このビルの壁にハシゴをかけて、屋上から矢が雨のように降ってくる中をよじ登るとか、もはや人間の根性でできることではない >>382
周 西→東
秦始 西→東 後に南→北
項羽 東→西
前漢 西→東
後漢 東→西
曹魏 東→西 後に北→南
上古までを東西の形で見るとこんな感じで別に目立ってないよね
春秋の強国で見ていくと南北対立の形を取ってるからそこまで東西関係ないし
むしろ楚の侵攻を中原の勢力がどう対抗していくかという歴史だから
形の上では南から北へ侵攻していた時代と言える
統一王朝で見てくと傾向としては
晋 北→南
隋 北→南
唐 北→南 統一後は南から北 東から西へ勢力伸長
宋 北→南
元 北→南
明 南→北
清 東→西かつ北→南
統一王朝の大半を占める北から攻めて統一するパターンの内、漢人の国は宋だけ
要するに「遊牧民は強い」って話で西から東は基本ではない >>381
だから、上海は長江三角州の都市であって、黄河の影響じゃねえ
黄河の流路は度々変わっているけど、その影響を受けるよりはるかに新しい土地なんだよ
黄河の影響はそれよりはるかに北の地形(淮河の北)までやねん >>384
今の話で言う西は黄土高原、東は華北平原だから
曹操は東の方で勢力広げてたってことだよ >>391の漢人の国云々は晋もそうだね
色々書き足してったら何故か晋が落ちてしまったので追記しとくね 函谷関は漢代の祁山堡と同様、山をそのまま削り取って城壁としたもの
現在復元されている函谷関の後ろに見える開墾されて段々になった山こそが本来の函谷関の残骸 >>374
古代の黄土高原は熱帯か亜熱帯だったのか
だとすると日本も暑かったんだろうな
夏王朝って昔は暑かったから「夏」って名前だったのかな? 縄文の海進ってホンマかね?
今より温暖だったから極地の氷が解けて海岸線が何メートルか高かったとか 江蘇省や安徽省の北部、合肥あたりまでが華北平原の範囲だな
そこから南は長江平原
長江平原は、華北平原ほど広大でも平坦でもない 華北平原も、昔は海で、山東省の泰山あたりが島になってたらしい
そこに黄土高原の土砂が流れ込んで蓄積された >>391
唐の李淵が旗揚げしたのは太原だけど、長安を急襲して乗っ取ってからが本当のスタート
西に長安の李淵・李世民、東に洛陽の王世充や、北京・南京の勢力というのが、隋末唐初の群雄割拠図
やはり、その数十年前の北周と同様、天然の要害を活かして国力の劣勢を凌ぎ、東の諸勢力を滅ぼした >>391
いやいや、そういうことじゃないんだな
西の周と、東の殷
西の秦と、東の六国
西の漢と、東の楚を始めとする復活六国
西の北周と、東の北斉
西の唐と、東の王世充を始めとする群雄
・・・という具合に、何百年も続いた群雄割拠が終わるときや、何百年も続く長期王朝が登場するといった歴史の節目には、なぜか上記のような東西対決の構図となり、西の勢力が勝つというパターンを繰り返してきた。
たいてい、国力は東のほうがもともと上なのに、劣勢な西が最後に勝利するというのが多い。
全部がそうだっていうわけじゃないんだが、ここぞというときは、いつもそうなんだよねえ。 曹操も確かに、陳留の出身だし、初期には山東省で力をつけたっていう面もあるんだけど、やっぱり、「西に許昌の曹操、東に業の袁紹」ってのは、東西対決の構図なんだよねえ。
まあ確かに、曹操は中央の勢力であり、西にいたのは馬超とか張魯だけどな。
前秦の符堅も、長安を拠点に華北を統一した。 >>402
補足しとくと、ここに挙げた「東西対決」の例は、どれも、中国の時代劇には欠かせない大人気テーマばかり。
当方は中国の時代劇が好きなので、周の武王の東征とか、隋末の群雄割拠とか、北周・北斉の東西対決とか・・・を見慣れている。
いつも東西対決の緊迫した状況で、地力に勝る東側を、最終的には西側が逆転勝利するパターン。
マジメに歴史を勉強してきた人ほど反例を出したくなるのも分かるけど、こればっかりは、感性の問題でしょうな(笑) はっきり言って、西の黄土高原は貧しい。東の華北平原に、国力ではかなわない。
しかし、東から西に攻め込んでも、なかなか勝てない。
西の地形は山あり谷あり、デコボコで、最終的な勝利をおさめるのが難しいからだ。
そうこうしているうちに、西が逆転勝利する。
いつも、そのパターン。 曹操は東だから、西の勢力は董卓、韓遂馬超とか劉焉劉備
どっちが多いって事も無いと思うけど
商→東
周→西
秦→西
西漢
東漢
晋→東
隋→西
唐→西
宋→東
明→東
清→東 中国人は、華北の覇権をめぐる東西対決の話が大好きだ。
隋末唐初がいい例で、たいてい、西の長安の李世民と、東の洛陽の王世充の対立が、群雄割拠ストーリーのメイン。
実際には、復活した南朝の蕭銑を倒すほうがよほど大変だったと思われるのだが、そこは省略されることが多い。 >>406
周・漢・唐だけで、古代から中世までの統一王朝の大半を占めている >>409
唐を中世扱いするのは東京・京都の論戦を招く気がする 斉は東帝、秦は西帝を称して並び立つほど、二強だった時期もあった
斉は、燕の楽毅が率いる6カ国連合軍によって、滅亡寸前まで潰れかけた。
秦も、魏の信陵君の5ヵ国連合軍に攻められたが、なんとか凌いだ
ここで生き残った秦が天下を取った 楚の領土は、他の6カ国を合わせたより広かった
単独でヨーロッパ全土、インド全土に匹敵した 後には中国経済の心臓部となる長江下流の三角洲が、この頃はまだ開発途上
それでも、楚の国力は大きかった そこまで広くは無いよ、秦を除いた五国と比べてどうか あの時代の兵隊は小作農だろうが、、、あんなバカスカ徴兵して生産性落ちなかったんかね魏とかは >>415
そうなのか
やはり、キングダムの読みすぎは良くないな(笑) キングダムでの、楚の超大国ぶりは異常
しょせん、マンガだからな >>448
自作農な、土地持って無い小作なんて徴兵しても逃亡するから >>403
曹操は自身の軍事拠点は当時許じゃなくて官渡に置いてたし
本人は黄河超えて攻め込んだら袁紹に逆襲食らって
東とか西じゃなくてほぼ真っ直ぐ南に押し込まれてるから
これを東西対決かつ曹操を西としてる観念が全く信用ならんって話がよくわかった >>418
所詮マンガだし上で中国人が好きな構図ってのも所詮お話の構図に過ぎないから
ちっとも歴史的じゃないんだよなぁ
東西対立の形を好むのって南北の形になってしかも毎度のように北が勝って
しかも北方民族系が大半で被支配民族として漢民族が暮らしてきた事を思い出したくないんだろうなぁ >>422
そういうのはあると思うけどな
西の内陸部は、いまじゃ良いところのないお荷物地域だし 西高東低から、東高西低へ
これが、中国文明史の最も大きなトレンド そりゃ南わ海だからな、襲って来るとしたら魚人か暴力二男しかいない 中国南部は山がちな地形
これから分裂するとしたら南だろう >>424
元から東高西低
北高南低が南高北低に変わったのが中世 春秋時代も、事実上、晋と楚による南北朝時代であった 春秋・戦国時代
西周第12代幽王の時、西北より侵入した犬戎(チベット系)によって都の鎬京が侵略され、周は都を東の洛邑に移した(紀元前770)。
以後の周を東周(紀元前770〜紀元前256)と呼び、以降秦によって中国が統一されるまで、550年におよぶ戦乱の時代が春秋・戦国時代であり、
その前半を春秋時代(紀元前770〜紀元前403)、後半を戦国時代(戦国時代(中国)紀元前403〜紀元前221)と呼ぶ。 発端が犬戎だったということは、しばしば忘れられている 春秋時代の形勢は、斉・宋・晋など中原の諸侯と、南方の強国楚との対立が基調であった。
楚の立地した長江流域は、当時、漢族と南方系民族が入り交じる境界地帯となっており、風俗なども中原とは異質な点があったらしい。
もともと王の称号は周王だけが名乗るものであり、中原の諸侯が公と称して王とは名乗らなかったのに対し、楚では早くから王号を用いていた。
しかし、長江の下流に呉や越が勃興すると、楚もかつての勢力を失っていった。 >>422
宇文や段、赫連、呼延、慕容、独孤も今では漢族だし
日本人が隼人や蝦夷をあくまで自国民の歴史として見做すのと同様
あちらの人は鮮卑や匈奴とかもあくまで異民族じゃなくて先祖の一つ程度に思ってるみたいよ >>416
大土地所有がそんなに進んでたとは思えん
そもそも農地の貨幣売買が行われてたんだろうか? 自分たちが黄河文明の民の子孫というより、北から移住してきた民の子孫であるということは、彼らも分かっている いまじゃ、チンギス・ハーンも「祖国の英雄」になってるくらいだ 中国語掲示板翻訳サイトで「完顔さん、耶律さん集まれ!歴史的珍名字スレ」みたいなの読んだことあるけど、
彼らも完全に漢化して久しく、北方系文化の影響は名残りすらない、という感じだった。 康熙帝・雍正帝・乾隆帝あたりだって、祖国の英雄として大人気だ >>432
そりゃ漢字で記録残ってて近くに居たら大体お仲間漢族認定してるだけの
ひっじょーに政治的な話で学術的な判定じゃないからな
そんなの基準になるわけないでしょうに >>438
中国の民族認定は基本自己申告じゃなかった?それらの人々が自分を漢族とみなしてるんでしょ。
ていうかさ、中原に入って1000年以上経過してるような人たちが未だに同化していないと思える感覚が分からん。
ノルマン・コンクエストでイギリスに入ってきたノルマンフレンチ貴族の子孫で今でも「ド・○○」って家名の貴族はいるけど、そいつらが今もフランス語で話してると思うか? 唐李氏が鮮卑系の家系だ→唐は征服王朝だ!
と「翻訳」しちゃう人も多いしなあ・・・ >>439
うん?そういう民族意識がどうこう言ってるんじゃなくて
本来違っていた民族を政治的に同じ漢族認定してる政治的な認定って話なんだけどなぁ
フランス民族は存在しないのと本来同じようなもんだよ
漢族なんてなくて複数の民族的ルーツを持った人々が漢字文化を共有して漢人と呼ばれて来たのを
民族扱いしちゃってるのがまたね >>440
そいつはさすがにどうかと思うぞ
普通は浸透王朝っていうじゃん >>435
え? チンギス・ハーンは韓国人だって韓国の人が言ってたよ >>441
いや、現代において民族意識が共有されてれば、普通に民族と言って間違いないでしょ?それは多様なルーツの存在を否定するものじゃないよ。
民族は超歴史的概念じゃないんだから。
あと、唐は浸透王朝にも入らないんじゃないかな。遠祖が北方系というだけで文化的二元性の要素がほとんどみとめられないし。岡田さんみたいに異を唱える人もいたけど、定説にはなってない。 現代の彼らがどういう民族意識を持っていようが歴史の話には何の関係もありませんね
東西対立の構造も同じく歴史ではなくただの創作 北方民族による長期間の支配かつその部族的な社会制度の持続を定義として考えてたみたいだけど
隋は普通に北朝から出てきたし、唐は隋から出て来て別にその性質が変容していたとかじゃないから
提唱したウィットフォーゲル自身は隋唐を浸透王朝としなかったけど
ウィットフォーゲルの定義で考えると普通に浸透王朝なのよね すぐ、魏晋南北朝時代の民族大移動の話になるな
春秋戦国時代とは、特に関係ないはずだが? 北魏の時点で後ろの方の皇帝わもう鮮卑の血筋1/50とか1/100とかだし
部族社会解体してるからね、貴族制わ遊牧民に顕著な政治制度だけど南朝も同様だし 欧州では各国とも、中世前期の民族大移動の話を、冷静かつ客観的に捉えているが、中国の場合は社会主義国に特有のイデオロギーがあるから、それは無理だ
あの国も、いつかは普通の国になるだろ >>449
>あの国も、いつかは普通の国になるだろ
(・x・)<ムリダナ 後世の南朝は、ずっと長江下流の三角洲を本拠地としてきたが、春秋戦国時代の楚はそうではなく、長江中流の王朝だ
当時はまだ、長江下流は開発途上地域
広大な湿地帯で、人が住むようなところではなかった >>451
春秋楚の勢力って南陽盆地が中核でそこから中原や淮南方向に伸長してるのが目立つ
長江まで勢力が届くのって春秋でもかなり後の方 >>418
推定人口200~250万で45万の兵を長平の戦いで失って秦を恨んでいることは書いているのに
国軍の大半というか男子のかなりの割合を失ってまともに戦えない趙が強国過ぎる >>452
東漢の光武帝・劉秀も、そのあたりが本拠地なんだな
劉秀は、春秋の楚が天下統一したようなものだってことか >>454
光武帝の出発点は更始帝傘下で粛王として河北に遠征してからで
南陽で旗揚げした時は兄の劉エンが指導者だったし、その兄もすぐ緑林軍に参加しちゃってるし
南陽が本拠地ってのはちょっと違う
光武帝にとっての南陽は出身地であって本拠地ではない >>457
南陽盆地は東に桐柏山っていうドでかい山があって
そこから北西に向かってアーチ状に山が点在してて
中原とはまた別という扱いを受けてる
というか南陽を中原扱いする奴が出て来るとは思わなかった >>453
「商君書」とか「墨子」読むと分るけど古代中国の軍隊はガリアとゲルマン同様
女、子供、老人などの非戦闘員を多数含んでいて戦闘員率は多分低い
それと45万ってのは誇張だと思うぞ >>459
本コレ
無知無知くんは無知なのに歴史知識を全く知ろうとも為無い
>>492
「商君書」とか「墨子」でも兵書でも子書でも女子供を含む記述なんて何処にも無いし
春秋期でも一般に兵士3対輜重兵1な無知無知くん
自分の願望を史実に優先しちゃ駄目 南陽盆地は、中原とは言えないな
でも、河南省だし、武漢より鄭州のほうが近い
後世の「楚」というイメージからすると、非常に中原寄りにある つまり、楚は「中原諸国より少し南」というあたりからスタートして、南に領域を広げたってわけだな 秦はむしろ、陝西省よりさらに遠い、甘粛省からスタートとした >>466
秦の行政区分では南陽郡として現代の河南省とは全く違うくくりだったし
漢の行政区分では南陽は河南尹や司州、豫州とは違う荊州に編入されてる
河南省なんてざっくりした行政区画で河南に入れちゃったのって遊牧民出身の王朝で
まあ彼らは馬の機動力あるからあの辺の山の隙間抜けてくのも苦じゃなかったんだろうね てか秦以前や西漢だと沛とか淮南でももう南の田舎な感じじゃん? 実際そこで平地が終わって山岳部の南蛮の領域になってたからなあ 楚の首都は、今では湖北省の「荊州市荊州区」になっている >>461
墨子 卷十五 號令
女子到大軍,令行者男子行左,女子行右,無並行,皆就其守,不從令者斬。
商君書 兵守
三軍:壯男為一軍,壯女為一軍,男女之老弱者為一軍,此之謂三軍也。
具体的に何やってたかまではほとんど書いてないな
墨子は女には矛を持たせろと書いてるので戦闘力も期待されてたのかもしれないが >>475
史記の記述で平原君が邯鄲で包囲されてる時に小役人の李同から
正室から側室から下女まで編成して戦わせろって言ってるし
平原君も女を戦わせるなんて、という反応はしないのよね
横山光輝の史記だと炊き出しさせた、という描写だったけど
史記の原文だと割と戦闘員扱い >>475
ちゃんと書いてあるだろ
城の防衛の際わ、壮丁の6割弩弓4割白兵、爺さん男児成人女性が槍
守城之道,盛力也。故曰客,治簿檄,三軍之多,分以客之候車之數。三軍:壯男為一軍,壯女為一軍,男女之老弱者為一軍,此之謂三軍也。
壯男之軍,使盛食歯コ,陳而待敵。
守城之道、成人男子わ兵士と成り果敢に敵兵と戦う
壯女之軍,使盛食負壘,陳而待令。
守城之道、成人女子わ城を守る
老弱之軍,使牧牛馬羊斃;草水之可食者,收而食之,以獲其壯男女之食。
守城之道、老人子供わ食料調達 >>476
史記の原文でも非戦闘員扱い
勿論兵書でも非戦闘員扱い
籠城という危急存亡の総力戦に限り、成人女子男児爺さんも動員された 冷静、勇猛果敢な女って
だいたい子孫残せないから
自然と従順なやつしか残ってない
この進化の淘汰圧は凄まじいものがある
やぎが羊になったようなもの
戦闘はまずしないよ
女に何夢見てるのか知らんが 美人女騎士なんていないよ
勝ったほうの権力者におもねるのみ >>478
今君誠能令夫人以下編於士卒之
屋敷で美味いもん食って遊んでる女どもを編成して
士卒の隙間埋めさせろって意味でしょう
間じゃなくて閧セから隙間って意味が強いはず
漢代でも間と閧フ使い分けはもう大分怪しくなってるけど一応辞書上は、ね
李同の提言って守備兵が損耗してるから女を動員しろってことだと推察できるけど
この場合は戦闘員扱い
孫武の史記の逸話でもわかるように女性軍の存在って結構否定できない
匈奴でも女戦士の存在は確認されてるし北方系の遊牧の軍隊は女が普通に従軍するし
遊牧騎馬民の軍を真似た趙は影響が0だったとも言えないわな 逆に秦の軍制は商君の変法の内容から窺えるけど男の軍なのよね >>481
漢文読め無くても史記ならちくまから日本語訳版出てるから買いなよ
包囲されて困窮してんのに平原君は相変わらず大勢の美女囲って
そいつ等わ何の役も為無いのに着飾って贅沢な食事を余らせてるから
物資を兵卒へ分け与え、役立たずの美女連中に仕事させろと諫言したの。
邯鄲之民,炊骨易子而食,可謂急矣,
而君之後宮以百數,婢妾被綺綾,餘粱肉,
而民褐衣不完,糟糠不厭。民困兵盡,或削木為矛矢,
而君器物鐘磬自若。使秦破趙,君安得有此?使趙得全,君何患無有?
今君誠能令夫人以下編於士卒之閨C分功而作,
家之所有盡散以饗士,士方其危苦之時,易コ耳。 >>483
なるほどなるほど
平原君は自分だけ上手いもの食って屋敷の中にいる女は飢えさせてる
わけねーだろ 総力戦だし普通に戦闘員扱いだろな
この辺は墨子の記述にも合致するし >>485
前からそうなのだが、お前は100%、字面で考える傾向があるな。
世間の常識とか、そういうのが一切ない。 兵卒や市民が困窮を極めてるのに平原君の侍女妻妾は豪勢な衣装を着て豪華な御馳走を食べ切れぬ程食ってる
それを諌めたんだよ。暇人女共を士卒の小間使いとして仕事させろってね
そう漢文で書いてある、日本語訳でも同じ、真っ当な社会常識としても当然の諫言 趙は推定人口200~250万で長平で45万の兵を失いました 滅亡寸前 近代だけどどの時代か忘れたが軍の半数は支援部隊だとか >>488
小間使いとは原文のどこにも書いてないよ
田単も籠城中に老人から女子供まで動員してるし
追い詰められた時はそうなるんだわ >>495
君誠能令夫人以下編於士卒之閨C分功而作
兵卒の間に配置して作業を分担させろ
つまり人夫役 >>496
えっとな、「分功而作」は夫人達には関係ないのよ
綺麗に民衆や一般兵と特権階級である平原君の対比構造の綺麗な形式なのね
邯鄲の民衆は飢えている:平原君や高級の美人は食料を余らせてる
士卒は武器がなくなって木を削ってる:平原君の屋敷には金属の器やら鐘やら一杯ある
もし趙が滅べばそんなもの持ってられない:趙を維持すれば患いはない
夫人を部隊に編入、器とか鐘から武器を作る、家にある食事は皆に振舞う、皆ハッピー
ざっくり訳するとこういう文章で、「夫人をどうこうする」、と「武器作れ」を
「夫人に作業を分担させろ」と読んだら「武器がない」という話どこいった?ということになるのよ
さすがにこれは間違えるとちょっとどうかと 漢文も読め無いし本も読ま無い上に妄想の激しい無知無知くん
>>496はちくまの日本語訳な >>498
「武器ない」って訴えはどこで解消されるの?
あ、ちなみにちくま史記は細かい誤訳が結構あると評判だね
俺は読んだことないけど ちくまに限らず膨大な文章の翻訳ってどっかどっかで小さくは破綻するからしょうがない
三国志にも誤訳あったし、後世だと常識的な事が後漢末晋初辺りだと通用しなかったし
むしろ誤訳の全くない和訳なんてないんじゃないかとも思うけど 作の字が見え無いんだろうな
抑々兵器が欠乏して木の槍を作ってるのわ兵卒で無く市民 >>501
民は困窮して兵士の死傷は激しく、続いて木で武器を作ってるって表現になるから
木で武器を作ってるのは市民に限った話じゃなくて
邯鄲全体だと読まないとおかしなことになっちゃうけどね 結局、斉は東夷制圧のために送り込まれた羌族か、
東夷自身なのかどっちだ >>504
史記の記述通りなら山東出身の一族だから東夷の可能性がある
姜姓と羌という部族の呼称は音も字形も似てるから関連はあるかもしれないけど一応別物だ 兵に死傷者が多いから平原君の妻女を編成して戦わせろって話になるわけだ 姜水周辺に住んでたから姜氏なのに何を言ってんだww
>>502
この文の兵わ兵器の事、勝手に話を創っちゃ駄目だよ >>507
姜の字形が羌の字に似てるからその両者には関連性があるかもしれない
という学説を紹介してるだけだからなぁ
別に太公望が羌だったとか関連してると言ってるわけじゃなくて
語源に関連はあるかもしれないという話だぞー 結局兵器が足りないって話はあるんだから
分功而作って夫人たちどうこうじゃなくて兵器の話やん >>507
姜水あたりは、チベット系が多い地域
そもそも、姜水という地名が羌族に由来するという説もある 「周は異民族」というような話が出てくると、すぐ感情的になるバカがいるけど、シナ人の愛国者なのか、それとも単にバカなのか? >>509
令夫人以下編於士卒之閨C分功而作
夫人侍女にも兵卒の作成する仕事を分担させよ >>518
それ間違いだから
武器足りない言うてるのに武器作る話出てこないのおかしい 意味不明
分功而作とあるのに何故兵器作製だけ含まれ無いと思い込んじやったのか 木を削って武器を作っているのに屋敷には銅製品があふれていると批判したんだから
銅を溶かして武器を作ったんだろうね >>520
それだったら田単列伝同様に與士卒とかちゃんと一語くらいは入るでしょ 兵卒の仕事を分担させろ、に該当する語がないってことね >>525
取り敢えず漢文読める様に成るか史記日本語訳買えよ
令夫人以下編於士卒之閨C分功而作 そのどの文字が夫人たちに兵士の仕事を分担と言う意味が表されてるの? >>526
同じ史記の田単の列伝ではちゃんと田単の行動を「與兵卒分功」という用法で使われてるように
分功だけでは対象が限定出来る言葉ではないよね
「此亦秦之分功之時也」という文章があるように「仕事を分ける」という意味ではないんだな >>529は漢文読めんからなw
田單知士卒之可用,乃身操版插,與士卒分功,妻妾編於行伍之閨C盡散飲食饗士。
田単は兵卒の用い方を知る、乃ち自ら版插を操って兵卒の仕事を分担し、妻妾を隊伍へ入れある限りの飲食を士卒に振舞わせた。 >>528
兵卒の仕事を分担しではなく
與とあるから「一緒に」とかそういう意味になるんだけどなぁ 妻妾が兵舎に来て兵士達に炊き出しして元気付けたって直球の解釈か
妻妾達を娼婦として…って悪い大人の解釈してしまいそう >>530
令夫人以下編於士卒之
人に対して「編」するってのは「部隊として編制する」という意味だよ
炊き出しでもなく戦闘配備だよん
だから上で比較になってる田単の列伝でも「妻妾編於行伍之閨vの一文が見える
この時は燕軍が女や老人が城壁の上で守ってるのを見て油断してることからもわかるよね
編於士卒之閨@
編於行伍之
つまり平原君も屋敷の女性を部隊に編制したってことであって
女性を雑用にしたとか、小間使いさせたとか炊き出しさせたとかそういう意味じゃない >>532
だから兵卒の仕事を分担するんだよ兵卒と共に
分担の意味も正しく理解して無いとか漢文以前に日本語読解からかよwww
>>534
編む。読めるか?編む
無知無知くんは大変だな、漢文も日本語もまともに読め無くてwww >>532
田単の場合、分功に関わるという意味で與という語句が入ってる
平原君の場合、平原君に命令を出せと李同が提案してるけど
分功するのは夫人たちではない、それを示す語句がない
あと編の対象を人間にした場合に、編成以外の意味で史記で使われてる実例でも出したらどうかな
それしか反論ないと思うのだけど >>533
編って知ってるか?w意味とか読みとか、編むとも読む
分担って知ってるか?w日本語でも漢語と同じ意味だ
あと現にオマエの妄想と違う日本語訳がされてるから >>534
では実際貴方の言う使い方の用例を別の文章から提示してみてください 無知無知連呼くんはちょっとみっともないね。
>>533が言うように、用例を出せば済む話だよ。
2000年前の漢文を釈するのに、現代日本語ではどうだこうだ言っても始まらんだろ? >>535-536
日本語訳史記を読め
はい、完全論破 春秋戦国時代というクッソ知的なスレでクッソレベルの低い争いいいぞ〜これ >>538
言い合いそのものはレベル低いの自覚してるけど
この言い争いで今まで割と軽く流してた邯鄲包囲時の平原君の話とか
結構しっかり把握できたから俺としては収穫あったわ
俺の脳内イメージでも当初は女衆は日本語訳のイメージだったけど
ちゃんと読んだら割と奥方たちに体張らせてたりして平原君の評価ちょっとだけ上がった
あと、この話の裏取りしようと思って史記と説苑以外何かないかと漁ったけど
戦国時代のこの辺を記述した史書で平原君の名前がやたら出て来て
重要なプレイヤーの一人だってこと再確認できたのも良かった 分担や編の字義を誤解してたのが全ての発端
平原君はそりゃ列伝に載る位だから大人物に決まってるけど他の三君と比べたら見劣るは >>540
「分功」で一つの熟語なんやけど
まあいいや 平原君の名前が頻出するってのはそれだけ、趙が重要な国だったことだと思うわ
個人としてはではなく軍事大国の趙の主導的な政治家だから 中原の最強国、西カクを滅ぼした晋で四卿時代に他の三卿に攻められて持ちこたえたからね 無知って名前にも使われるから悪い意味じゃないんだろうな 趙は総兵力は数十万と曖昧だけど
長平で四十五万の兵を失ったんだから
もう女の徴兵ぐらいしているだろうな 失ったっても一時的に所在を把握できずってのが大半でしょ
んで落ち着けば復帰するだろうし、元の数字も盛ってるだろうし 文禄の役で明軍は100万を号していたのに
碧蹄館で敗れると4万余り(内2万は朝鮮人)と実数を公表 20万人しかいなかった南京で30万人虐殺された
と言うくらいだからな 春秋戦国を圧倒する生産力を誇るであろう近世中国の統一帝国ですら正味50万の遠征軍を維持するのはとても無理
趙軍45万、つまり白起の戦果は白髪三千丈の類だろうね キングダムだと、趙はむしろ、その事件をバネに戦国最強国に変身するんだが >>555
秦に対する恨みのパワーで、怨念の軍団と化した 10万でも兵士を生き埋めにされたら、その影響で人口比バランスがムチャクチャになるから弱体化するよ
こと軍事の1点に限れば一時的には強いこともあるかもしれないが、
国力は下がって、経済は停滞して、農民が居なくなって…その影響で軍の維持も難しくなる
強行すれば敵が増えて内紛が起こりやすくなって、
それを防ぐために妥協的なことしかできなくなったり、見切り発車政治になる 趙は戦国の大国とはいえ、最盛期でもその規模は律令体制を確立しつつあった頃の本邦朝廷未満でしょう
本当に10万消えたら瓦解待ったなし、だな >>560
言ってるニダ
チョッパリが嘘だと証拠を出してもウリの体が覚えてるニダ どうでもいいけど
魏は
孟子では梁と呼ばれ
恵王は晋国と言っていた >>563
どれも地名だからな
首都を開封に移したから梁と呼ばれることになった >>554 >>556
ちょっと何言ってるかわからない。
そもそも554が場違いなキングダムという西洋語の概念を持ち出す意味は何? >>566
春秋戦国時代をテーマとする大人気少年マンガ >>563
孟子の、この一節のことを言ってるのかな?
>梁の恵王曰く、晋国は天下に焉(これ)より強きは莫きこと、叟の知れる所なり。
寡人の身に及び、東の斉に敗れて長子焉(これ)に死し、西地(にしのかたのち)を秦に失うこと七百里、南(みなみのかた)楚に辱めらる。
寡人これを恥じ、死者の比(ため)に壱たびこれを洒がん(すすがん)と願う。
↑ここでいう晋国というのは、韓魏趙にわかれる前の「いにしえの晋国」という意味でしょうな >>568
どうもです
しかし、魏と呼ばないのは悪い意味なのかな
梁って晋に滅ぼされた国じゃなかったっけ 屋敷に銅が溢れているとかは
今の政治家も庶民の貧しさが分からないからな …何を言いたいのかイマイチ分からんが
一般的に潰した国に封建していく封建制の世の中で滅んだ国は悪い意味ってのはどうかと
ちなみに唐晋魏は比較的近所だが、梁(大梁や秦に併合された梁は距離がある) >>571
唐と晋はほぼ同じ地域。今でいう山西省中部の盆地で太原あたり
魏は安邑で、今でいう山西省と河南省の境界あたり
梁というのは、開封の別名で、魏よりもちょっと東にある 普の大元は唐だっけ
分家が乗っ取った時点でどうでもいい話になってる気もするけどね >>574
>>唐と晋はほぼ同じ地域。今でいう山西省中部の盆地で太原あたり
黄河支流の汾水流域の盆地だね! >>573
なるほど、それは孟子の中の人に聞くしかないね
もっとも逆に言えば「魏と呼ばなければならない」理由はないのではないかな?
地名としては梁が適切、会見相手は晋国の継承者を自任している >>551
正確な実数は明史で解るんだよな、中国の史書って正確だから
盛る所か嘘すら書く日本国の国撰史書や一次史料と違って
>>553
近世の大宋帝国はポンポン数十万の大軍を遠征させてる、武卑のせいで弱いが
>>559
皆兵制、総力戦の時代だから勝兵わ人口の約1/3
これわどの時代どの地域でも大体同じで変わら無い
>>572>>574
梁も近いよ、元々の梁は開封より大分西北に在った >>578
>>皆兵制、総力戦の時代
春秋戦国は、まだ邑制国家の都市国家的氏族共同体が強固に残っている側面があるからね。
統一帝国時代でも、前漢までは里の父老の指導する自治共同体に統治を依存しているから、
まだまだそういう側面が払拭されていない。
後漢になると、豪族の成長と邑の氏族民の豪族への隷属化で、氏族共同体が侵食されて崩壊している。 >>578
中国の史書は、話を盛ることで有名
松本人志のボケトークのレベル 何言ってるのさ「遺書」「松本」を読んで松本人志の人間性勉強してから物申してもらおうか!
松本さんなら「司馬遷よりこの天才の俺様の方が面白いもん書ける」って豪語してくれるわ! >>579で要するに何を言いたいかというと、
前漢までの中国社会の軍隊というのは、実は新石器時代以来の邑共同体の氏族戦士の伝統を
色濃く引きずっている、という事。
それが、後漢〜三国時代になると、邑共同体を蚕食して成長した豪族の庇護民兵に置き換わる。
日本でも、平安前期までの「軍団」兵は、弥生時代以来の「クニ」共同体の氏族戦士の伝統を
色濃く引きずっている。
日本の律令国家の軍団に組み込まれた民衆動員率が非常に高いのはそういう背景から。
10世紀に伝統的な在地共同体が崩壊し、伝統的在地首長層が没落すると、
武士の時代が始まる。 >>581
史書を1つも読んだ事が無い無知無知くんが息する様に嘘を吐き
いつもの光景だなw
>>583
勿論、戦国前漢前期の社会が宗族共同体を色濃く引き摺って居て
特に華北の四国が都市国家の集まった国としての体質を残してたのも理解してる
一方で所属する都市が攻められる防衛戦じゃ遺憾無く総力戦皆兵制が施行され(日本の戦国時代ですら一部の家じゃ総動員を実行しようとした)
秦でわそれが外征に際しても滞り無く発揮された事実も知ってる >>578
なんか文章から触れていけない、釣りっぽい気配を感じないでもないが…
それなら数十万と号す的な、実数不明の曖昧な数字が頻出する中国史書も批判されて当然では?
>近世の大宋帝国はポンポン数十万の大軍を遠征させてる
宋が実数40〜50万規模の遠征軍を繰り出して遼軍(金軍?大夏?ベトナム?)と長期間戦場で対峙した例がポンポンあるのかね?
>皆兵制、総力戦の時代だから勝兵わ人口の約1/3
>これわどの時代どの地域でも大体同じで変わら無い
正気とは思えぬ…
>梁も近いよ、元々の梁は開封より大分西北に在った
近いって他と同じく現・山西省内か? つか陝西の梁でもなく大梁でもない、元々の梁ってなんぞ >秦でわそれが外征に際しても滞り無く発揮された事実も知ってる
数十万外征させてみたら国が崩壊した一般的に人口2000万くらいと推定される秦帝国とは一体・・・ >>586
>なんか文章から触れていけない、釣りっぽい気配を感じないでもないが…
釣りじゃなくてマジだから
そいつは世界史板名物の基地外 >>589
あ、でも、「梁がもっと西北にあった」ってのは本当みたい
百度百科 少梁邑
古邑名。在今陕西韩城南。
春秋时灭于秦,称少梁邑
古邑名。在今陕西韩城南。本西周梁国,春秋时灭于秦,称少梁邑。后属晋。战国属魏,魏文侯筑城于此。屡为秦魏战地。后又入秦。秦惠文王十一年(公元前327年)改名夏阳。 といっても、後の時代には、梁といえば開封の別名なので、陝西省にあったという西周の梁は、別モノと見るべきでしょうな でもって、その開封のほうの梁も、もとはもうちょい西北にあった
多分、そのことを言ってるんだろうな、話の流れからいって(笑) >>590
すると、渭水流域の盆地の勢力(西周・秦)と汾水流域の盆地の勢力(唐・晋)がぶつかる領域にあたるのかな。 梁は現山西省で大梁は安邑
>>586
実数と号すは明確に使い分けられて居る。
原始的な都市国家、例えばアテナイその他のギリシア部族国家でも
兵士わ支配部族構成員の1/3程度、西域諸都市国家や遊牧民国家も同様。
対遼戦や対金戦で20万30万40万の大軍は度々動かしてる
而も大宋帝国時代わ皆兵でも徴兵制でも無く募兵制。
>>587
秦は楚を滅ぼした戦役で60万人を遠征させてる >>592
韓城の梁だと魏氏との接点が見られない
開封近辺の梁だと唐・晋から遠い
勘違いやろな >>594
楚の兵力も最後の王の名も不明なんだよなあ 古代の華北の社会の基本的構造が邑制社会の都市国家ネットワークというのは
儒学とかの古典や青銅器金石銘文なんかですっと理解できるんだけど、
江南の楚、呉、越なんかの背景の在地社会システムってどうなってたんだろう。
「楚辞」なんかを読み込むと見えてくるのかなぁ。 楚だけじゃなく戦国を制した戦国秦の兵力も実質不明に近いでしょう
史記には戦国末に60万とかいう大軍が唐突に出てくるが、これだけではちょっと心細い
既に秦が最強国だった戦国中期に秦(秦将)が動かした(動かそうとした)数を史書から拾っていくと
通常数万(2〜4万ぐらい?)を運用、多くても十万という印象ですが、まあ当てにはならん
ならば統一秦の公文書である秦簡等が頼りだけど、今のとこ常識外れの巨大兵力を示唆する数字は見つかってなさそう そういえば、秦の時代だけじゃなくて、東遷まえの周の時代でも、
陝西の渭水流域盆地って、三晋や中原の領域みたいに、典型的な邑の囲郭都市遺跡が
林立していたって感じじゃないんだよな。
周原遺跡にもそんなのはなさそうだし、宗周の遺跡も王宮の首都機能の部分だけ城壁で囲まれている感じだし、
後世の咸陽とか漢代長安も都市に集住した邑民の存在が希薄。 七雄秦漢の首都クラスの都市遺跡は面積バカでかいけど人口密度は高くなかったのではないか?
という話は聞きますね。
戦国晩期に史書曰く50万を超える嘘みたいな人数で趙を攻めたはずの燕王都などは顕著で、
宮殿や住居の痕跡が存在しない空間が目立つとか 燕の都は薊だっけ。
あの土地柄、まさか後世にすぐ近くに建設されることになる大元ウルス大都みたいに、
都城の中に遊牧民が天幕を張るスペースが用意されていた・・・なんて、まさかね。 薊の遺構とされる遺跡も見つかっていますが、それとは別、中原よりにある都・武陽城ですね。どうやらこちらの方が巨大らしい。
ご近所にある戦国の雄国斉の領域には都市跡が少ないそうなので、山東では邯鄲と並ぶ屈指の大都だったかも? >>598
趙、燕滅亡に際してわ50万動員してるから唐突でも何でも無い
>>599
蜀も巴も呉も越もそんな感じ >>601
城壁内に田地も在ったから人口希薄な燕や楚なら
その割合が大きくても不思議無い (趙、燕滅亡の際の秦軍兵力ってどこに書いてんだよ。。。) >>602
破却されて残って無いのか
他の地域でも破却した筈なのに >>562
人口の半分は女
更に15才未満と老人を省くと更に半分で
壮年の男子が全員で50〜60万
45万がいかに出鱈目な数字か解かる 李信が燕王を捕らえた兵力が千人だか数千人じゃなかったっけ 無知無知くんは相変わらず歴史を全く知ら無いなw
兵士が部族国家構成員の1/3程度というのわ世界中で普遍的に見られる比率 お前さんの部族国家の定義とその具体例を教えて
人や論者によって定義バラバラの用語だからどんな意味で使ってるか全くわからん 内容はともかく「わ」と「は」を使い分けてから偉そうにすべきだと思う >>610
例えば匈奴、鮮卑、高車、靺鞨、アテナイ、焉耆、亀茲 >>609
ワイも滅燕滅趙の戦役に出てくる具体的な兵力はそれしか知らんなぁ
どこから湧いて来たんだろうね50万人 >>613
定義は?
どのような状態を指して部族国家だと論じてるの? 戦力動員率の高さは、部族国家かどうかより、
為政者が傘下の共同体の協力を取り付けられるかどうかにかかっている。
日本史から例を挙げると、律令国家時代には
弥生時代、古墳時代を通じて発展してきた「クニ」共同体からの協力を
在地首長層を通じて取り付けられる構造が維持されていたから、
軍団兵士の動員率は非常に高かったことが指摘されている。
しかし、10世紀に在地共同体が崩壊、在地首長層が没落すると、
軍団維持そのものが不可能になってしまった。
それに替えて、新興の富豪百姓層(のちの名主層)と、
中央で没落して再興のチャンスをうかがう貴族官人層から
少数精鋭のエリート戦士を育てる方式への転換がはかられ、
そこから武士が成長してくる。 >>616承前
さらに、14世紀末ごろから日本社会の在地共同体の復興が始まると、
少数精鋭の騎兵だけではなく、歩兵部隊の増加が認められるようになり、
復興してきた在地共同体が村や町として成熟してくる戦国時代には、
村・町共同体(惣村・郷村)の協力を取り付けることで組織された
足軽の大部隊が出現してくる。 単純に公や政治が社会共同体の中で高い比率を占めれば支配力動員力が高まり逆なら下がる
単純な宗族社会わ最も公や政治が私的空間とイコールに近い政体 戦国期になると、邑制社会の都市国家的共同体としては保たれているが、
「単純な宗族社会」とはもはや言いがたくなっているんじゃないかな。
均質な氏族共同体社会で邑社会が塗りつぶされていた春秋期までには
歩兵の大部隊が出現せずに戦車に乗る貴族戦士に偏った軍編成だったのが、
氏族社会としての均質性の崩壊した戦国期に、むしろ民衆の動員率が上がって
歩兵の大部隊ベースの軍編成に変化している事は、
いろいろと考察を深める必要のある現象なんだと思うよ。 単純な宗族社会ってのわ例えば遊牧部族国家や古代都市国家の様な集団
これらの成員に対する兵士の比率は当然ながら相当高い
要は国と個人が密接な程支配力や動員力は上がるって話 古代都市国家社会でも、たとえばメソポタミアなんかは青銅器時代後期には
純都市民、都市在住の農民、放牧請負の遊牧民なんかが混在する社会に
なっていて、とても「単純な宗族社会」なんて言える代物じゃなくなっている。
古代中国でも、先に述べたように、戦国期には都市国家共同体の構成が、
かなり複雑化している。
複雑化前の春秋期に軍事動員率が低く、複雑化後の戦国期に軍事動員率が高くなっている
現象は、「単純な宗族社会ほど動員率が高くなる」というテーゼに反しているんだよ。 >>619
春秋期の戦車わ貴族3人+平民72人の75人構成+輜重25人 >>622
古代中国の戦車戦の貴族戦士に随行する歩卒って、どう考えても本格的な歩兵戦の戦闘要員じゃないだろ。
おそらく、平安〜鎌倉期の騎馬武者に随行する歩卒と似たようなもの。
つまり、カーレースにおけるレーサーが戦車戦の貴族戦士や平安〜鎌倉期の騎馬武者としたら、ピット要員が歩卒。
古い軍記物の絵巻物なんかでも描かれているように、戦闘の推移にあわせて騎馬武者がさっと手を伸ばすと、
阿吽の呼吸で兜を渡したり、弓と長刀を持ち替えさせたり、射つくした矢を補充したり、
そういう風にエリート戦士の補佐をするのが歩卒の仕事。
つまり、日ごろから主人と起居を共にしていたりして、主人の求める行動が阿吽の呼吸でわかる家臣、下人が
歩卒になる。
中国の戦国期以降、日本の室町期以降に成立してくる本格的な歩兵集団とは根本的に性格が異なる。 >>623
主力じゃ無いから戦車戦時代な訳で当然理解した上での動員力の話
あと日本列島じゃ戦国時代も侍に中間小者が付いてた 単純な宗族社会である山の民やマルトゥは文明化複雑化したシュメルと違い
人口当たりの兵士数が格段に高かった
諸中華帝国やペルシア帝国と比べた匈奴、鮮卑、羌氐、契丹、粛慎やアテナイ、コリントス、テーバイも同様
一方で行政が巨大化して国民へ直接関わる様に成ると当然支配力が増し動員力も上がる
これわ日本列島の戦国時代でも典型的に見られる現象 まず、日本の戦国時代は「行政が巨大化して国民へ直接関わる様に成る」から
動員率が高くなったわけじゃないよ。
まず平安中期に地域共同体が解体してしまったから、行政が民衆を把握できなくなった。
それが14世紀末ごろに地域共同体の再結集が始まって、
戦国時代には村や町という新興の地域共同体が出そろって
再び行政が民衆を把握できるようになった。
そういう背景のもとに地域共同体からのボトムアップで社会を組織化したのが
戦国大名だった。
平安中期〜鎌倉時代のような社会環境下ではいくら行政を肥大させようとも
兵員動員率などアップしようがない。 次に、華北の都市国家社会では春秋期〜戦国期への変遷で、
宗族社会的均質性が崩れていき、
また古代ギリシアのポリスのような非貴族階層の広範な政治参加が達成されたわけでもないのに
民衆の軍事動員率がむしろ高くなって歩兵の大部隊が形成されているんだよ。
ここら辺の社会的な背景をもっと丁寧に分析しないといかんのじゃないかな。 >>626
要するに行政の巨大化、公の空間が広がると言った方が正鵠に近いかもしらんが。
平安中期以降の崩壊局面は天皇朝の暴政に堪えかねた平民が仏教寺院へ土地ごと逃げ込んだからで
北条時代なんて百姓を殺戮で何とか脅し付ける様な状況だし >>627
ギリシア諸部族国家の政治参加権ってのわ
飽く迄も支配部族に限られて付与されたものであって
日本列島で云えば武家と武家奉公人にのみ認められたのと略々同義
中国戦国期の動員力強化わ知識層官吏機構の拡大で、森羅万象の中
水利やら農政やら福祉やら警察やら行政の司る事が増大して
要は公の役割が巨大化し否応無く国民が国家と近く成った故
こっちわ近代国家の総力戦体制に近い >>629
全然、「単純な宗族社会」による高い動員率じゃないじゃん。 >>628
>>天皇朝の暴政に堪えかねた平民が仏教寺院へ土地ごと逃げ込んだから
史料の残りの少ない10世紀の状況を、それでもかろうじて伝わっている史料をもとに
研究している論文とか専門書とかを読むと、
「荘園」より先に国衙ベースの受領支配、さらにはその前提の富豪百姓層による
出挙での負債支配が先行しているんだよね。
つまり、民衆が「クニ」共同体の構成メンバーから、名主に個別支配されるような状況が起きている。
研究者によっては、この民衆支配の主体になっている「富豪百姓」層を零細民衆のように
読み替えているから要注意なんだよな。 >>629
なんじゃそりゃ
明あたりの時代と勘違いしてないか? とりあえず、小学生でも使い分けられる「わ」と「は」に関して勉強してこい >>630
ちゃんと人の書いてる文章をちゃんと順を追って読みちゃんと文面通りに理解してるか?
単純な宗族社会故の高い動員率は原始的な部族国家で典型的に見られる、そう何度も教えた筈だが これまでのレスからして「わ」の人の春秋戦国に対する関心はあまり高くなさそうなのにやたら頑張るな >>628
鎌倉時代の村落共同体を、マルクス的な被収奪対象の集団としてみるとか流石にありえない >>622
>>623
戦国時代の斉の戦力は戦車800両、歩兵70万ってのは嘘かな? >>614
たかが一千の兵力でやられる程度ってことは数十万の兵とか嘘なんだろうね >>636
先ずはまともな日本史と中国史と世界史の知識を得ないとな無知無知くんは
せめて平安時代後半、北条時代の残忍無道な支配くらい知っとかんと
>>637
戦国期まで下ると貴族戦車+徒卒じゃなく歩兵が主力に成る >>637-638
某国某軍は○十万、死者○十万という大雑把な数字が出たかと思えば、常識的な数もある……極端すぎますね。
正直、強国・準強国・中小国くらいの格付けに適当な数字を宛がっているように見える。
斉関係の戦記事を見る限り、斉軍の数は大戦でも10万に満たない。
戦国の強国が現実的に運用可能な兵力はこれくらいが限界じゃないかと思う。 >>641
んだ。
平安中期〜鎌倉中期は日本史上村落共同体不在という点が特筆される時期なんだよね。
つまり、典型的な荘園公領制が施行されている時代。
考古学的にも、古代集落が10世紀に解体して消失。
荘園公領制が確立する11世紀になると、
荘園と国衙領の労働力としての集住が遺跡から確認されるようになり、
14世紀まで存続するが、文献上これはボトムアップの庶民の共同体とはとても言えない代物。
14世紀末から、荘園公領の労働力集住が解消し、
惣的結合に基づく惣村、郷村、町の萌芽が見えてきて、
荘園公領の秩序外で活動する「悪党」という武装集団も活動しだす。
ただ、戦国時代の地方文書から読み取れるのは、
初期の村や町は成員は安定しているが、
頻繁に定住コロニーを移動させたり、内部の家の安定性がないなど、
安定性を欠く。
ようやく、戦国末・織豊政権期・江戸初期ぐらいから
村や町の位置が安定し、これを構成する内部の家の存続が安定してくる。 >>643
戦国策は日本語訳も出てるし分量も少ないからオススメ 腐敗を窮めた落下傘貴族役人&後世の村役人的な階級の暴政で
古代集落が解体というか逃散、横領、寄進されて官衙の色々な施設も打ち捨てられ崩壊したけど
他国との戦乱や激しい内戦も無いのにここまで徹底且つ長期間零落した事例って他地域じゃ無い気がする
西ローマ帝国滅亡後の西欧の衰退に近いけど、あっちわ蛮族の大規模流入があるし >>646
あんまりここで、春秋戦国期の中国との比較以外で日本史の話題を肥大化させるのは気乗りしないんだが、
平安中期の受領なんかの「腐敗」などってのは、それが原因で古代共同体を破壊した、というわけでもなさそうなんだな。
むしろ、8世紀くらいからの複合的要因でじわじわと古代共同体の解体が進行し、それによる中央の地方統治の空洞化に
対応するために受領に大幅な裁量権を任せるとか、のちの名主層に成長する富豪百姓層に事実上の在地統治権を認めるとか、
そういう「現実的対応」をしていくうちに、それに乗じた「腐敗」なんかが肥大化しちゃった、って感じなんだよ。
ただ、10世紀半ばというのは日本史上有数の「一次史料欠如時代」で、なかなか実証的な研究がやりにくいという事みたいなんだが。
ちなみに、地方の官衙、特に国衙なんかは放棄されてなくて、むしろ名主層や彼らを統制する在地領主層(武士)なんかが
「在庁官人」として活動する拠点として整備されていく。
在地の官衙組織の解体は、室町期の守護領国制の発展で守護所が国衙から奪権を進めていってからだ。 >>648
そう。
弥生〜古墳時代以来の地方首長層の流れをくむ郡司層が10世紀に没落。
11世紀になると、新たに成立してきた国衙領(および後期荘園)の現地管理人
として武士が任命されるようになって、郡司職を帯びる武士が在地領主化していく。 東国の官衙わ形式的に放棄されて無くても
実質は技術者が居なく成って只の無意味な寄生体に成り果ててる
地方領主以来の郡司層も没落したんじゃ無く天皇朝廷が積極的に排除して収奪が酷く成った >>650
はいはい、ちゃんと日本の歴史を勉強しなおそうね。
東国どころか、全国の国衙は機能の空洞化どころか新興名主層や在地武士層から成長した「在庁官人」
と呼ばれる層の合議形成の公的場として成長を遂げているんだよ。
後に鎌倉幕府の執権職を独占する北条氏にしてからが、歴史上は「伊豆国在庁」として登場する。
それと旧郡司層というのも地方領主からじゃなくて地方首長からの系譜な。あくまでも弥生〜古墳以来の
在地共同体の中から生まれてきた存在。それに、京都の朝廷は彼らを排除したんじゃなくて、律令制的支配
を実現する上で深く依存している。新任国司が任官するときも、任国で徴税するときも、10世紀までは
実質郡司層へのあいさつ回りが仕事の内容。
で、ここで強引に春秋戦国時代の中国の話に戻す。
10世紀にどちらかとなし崩し的に没落した日本の在地首長層と違って、戦国時代になって中央政府が積極的に排除したのが
大国に併呑された小国の邑の首長層。春秋期までは属国(属邑)の自治的統治者として温存されていたのが、
戦国期になると次々におとりつぶしにあい、中央から派遣されてきた官僚が直接統治する「県」へと
組織替えが進む。それに伴って、戦争の主力も邑制貴族戦士による戦車戦主体から邑民の歩兵大部隊へと変遷を遂げる。 昔から「わ」厨はどのスレでも撃沈喰らってるのが痛々しい。
コテハン代わりに「わ」を用いてるつもりだが、レス読んでる途中に「わ」に出くわしたらそこで読むのをやめて次レスに進むことが
この数年の俺の習わし。
今後とも「わ」を使用し続けてほしい。 >>651
成長なんて事実として存在せず平安後期に下ると官ガの施設や設備が次々と消失してる
炉や鍛冶場が発見され無く成り建築物が貧相で粗雑な物へ逆行する時代
だからその地方首長、豪族、国津神、地方領主、何と呼んでも善いが
そういった古代からの土着層は天皇朝廷に因って次々と排除され
それに伴って苛斂誅求を窮めた暴政が広がって逝くのが平安後期
土着系郡司が次々と天皇朝廷に滅ぼされて逝き
新興落下傘貴族、武家とその眷族に因る無法図な剥搾が平安後期〜鎌倉時代の特色
要は末世、無法地帯。それ故の仏教寺院の隆盛 >>653
まぁ、古代的共同体の解体プロセスの日中比較ってのは非常に興味深い考察テーマなんで
まだしばらくは付き合うけどさ・・・
まず、官衙からの炉や鍛冶場の消失ってのは確かに重要なんだけど、
地方社会への鉄器供給はむしろ潤沢になっている。
つまり、
辰韓からの鉄輸入>地方首長制社会への分配
から6世紀の国内製鉄開始による
官営製鉄>地方首長制社会への分配
へと変遷を遂げてきた古墳時代前方後円墳体制以来の
鉄配布を通じた地方統制システムが崩壊を迎えているってことになるよね。
これは、非官営製鉄の発展によって地域社会へ鉄をもたらす者としての
旧来の在地首長層の君臨の正統性の一角の崩壊を意味している可能性があるんだな。
それと、中央の朝廷は確かに中央集権化を志向することで、
在地首長層の権力の弱体化を図ってきたことは否定しない。
それが、
国造制の整備>国造制から国司・郡司体制への改組
という流れだし、
令制国や郡郷の整備、というのもその流れ。
しかし、地域の民衆統制とか徴税、軍団への徴兵という側面で
在地首長の首長権や、それのよって立つ在地共同体の存在に
深く依存していたのも律令制のひとつの側面なんだな。 >>654承前
つまり、中央の朝廷としては、在地首長や在地共同体を
生かさず殺さずで利用しつくそうとあれこれ手を打っているうちに
在地の首長制共同体の方が予想を超えて瓦解してしまった、
というのが現実の姿。
これが起きた10世紀から天下が統一される16世紀末まで、
事実上600年以上の内乱が常態となる時代がやってくるわけだが、
民衆を暴力的に支配したのはなにも中央からの落下傘組だけでなく、
在地首長層の一族から出挙での負債による民衆支配に切り替えた
連中も、それに加わっている。
つまり、中央からの暴政という一言で単純に片づけられる問題じゃなく、
地域社会の崩壊による荒々しい混乱が地方と中央を貫いて展開した、
というのが実情なんだな。 戦車戦から歩兵部隊へ、と言えば…
戦国最末期〜統一秦の軍隊を反映していると思われる兵馬俑坑って戦車そこそこいるよね
パッと見だから正確な比率は分からないけど、史書にある数字より戦車の割合が高く、兵が少ない印象 >>656
多分、
・大邑による小邑の征服
・小邑の君主のおとりつぶしと中央からの官吏の派遣
・小邑の貴族戦士の没落
っていう単純なコースには必ずしも当てはまらない、複線的な歴史展開が起こっているんだろうね。
それと、関中盆地では華北平原とは異なった歴史プロセスの展開が起きていた可能性もある。
そもそも、関中盆地の地域社会の編成構造は典型的な邑制社会とは言えなかった可能性すらあるし。 >>654
成って無いよ
平安後期〜鎌倉時代の東国は鉄器自体が減ってる
その在地首長層は新興の落下傘暴君や開発領主、要は植民地
そのせいで社会共同体が破壊されたのが日本の暗黒の中世 >>658
在地首長制共同体の崩壊は東国だけではなく列島全土で起きた現象。
あと、中世の東国では全国的に一般的な金銅仏や木彫仏だけじゃなくて、
東国特異的な鋳鉄製の「鉄仏」なんて仏像が盛行してたりする。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfes/69/9/69_767/_pdf >>657
だろうね。それに、史書の戦車1000、兵100万とかいう数がそもそもアレだし
兵の桁を一つ削って10万にすれば兵馬俑の兵種比に大分近づくが… >>653
落ち着け、誤字だらけだぞ。ていうか、「わ」が無いから全部読んじまったじゃねーかwww >>661
あと、秦が発祥して周の東遷後もかなり後世まで秦の本拠地のあった「甘粛」って、
典型的な「華北」とはいいがたい地域だよね。
やはり、邑が高密度で密集していた三晋地域とは根本的に歴史の発展パターンが
異なっていた可能性を考慮しないといかんのだろうなぁ。 >>659
250は随分多いですねぇ。俺は100ぐらいかな?という印象で書きましたが
確か歩卒は推定8000程だから戦車250だと春秋時代のイメージに近い >>661
万乗の国わ楚と秦の2国だけ、そして帯甲100万もその2国だけ
で、戦車1両・士3名と士7名・徒15名だから大体合ってる
>>660
鉄仏は宋が銅像禁止したからそれの真似でしょ
若しくは東国は製鉄も精銅も消失してるから未だ生産量の多い鉄のが入手し易いからとか 歴史を見ると人間は生まれてこない方が幸せだとしか思えない。 歴史なんて平穏なときは記録が少なくなるから
振り返えってみると戦争ばかりやってるイメージになるけど
実際は年がら年中戦争やってたわけでもないだろう youtubeで中国の映画がたくさんアップされてるのを観てるけど
あいつら戦ってばっかだな >>665
つまり戦車1乗で大体25人だから、万乗を誇る超大国秦&楚の戦力は25万人ですか
おKわかった >>665
鉄仏に関して、もう考察にもなってないな。 >>669
周〜春秋初期が一車に25人、春秋晩期に成ると歩兵が増えて
一車に3甲士72歩卒、戦闘兵3に輜重兵が1で万乗は帯甲100万 >>670
現に実用鉄器が減ってて宋で銅仏が禁止されたからな
当時も新技術や思想の大半は伝来品 >>671
なるほど、つまり秦楚は蘇秦曰「車千乗」だから帯甲は多くても10万人だね!アレ!? >>673
日本語もまともに読解出来無いんだよな無知無知くんは漢文だけじゃ無く
春秋初期、春秋晩期、「戦国」策 >>667
英仏百年戦争(休戦期間40年)みたいなもんだな >>674
ん?
私は一貫して戦国(史記蘇秦、張儀列伝)〜統一秦(兵馬俑)の軍隊について論じておりますよ
ところで貴方は滅趙燕の際に動員された秦兵は50万だと断言されていましたが、それはどこに書いてあるのでしょうか?
漢文読めるんだったらきちんと返答してくださいよ>>605-606、>>609 その様な意味で申し上げたのでわ無い。
もし本当に50万だったらどうするんですか? ソース出せって言われてるんだから四の五の言わず文献名と該当箇所抜き書きしろって話だろ
何寝言言ってんだ? もし仮に史記にも戦国策にも十八史略にも東周列国史にも見当たら無いと仮定して
アナタ、50万だったらどうするんですか?責任取れるんですか? そういうのはソース出してから言えって話だね
まあ出せないからゴネてんだろうけど 二日あけてスレに来てみたが、煽ってくるだけか
噂の「わ」さんに絡んだ俺がバカだったな… 上古の記録なんて数少ないんだからソース出せって言われて
すぐ出せないようなのってどうなの、語る資格ないレベルなんじゃないの 仏教研究史における敦煌莫高窟のような、思いもかけぬ大量の上古の文献資料が、突如として出現してきたりしないもんかなぁ… 秦の竹簡木簡はけっこう出土してるようだが。
中国は近年建設ラッシュだしね。 >>683
春秋戦国より前になっちゃうが、期待は「先武丁期商王朝甲骨文」だね。
今の商の甲骨文は武丁期以降のものしか発見されてないが、
実はその最古層の段階で甲骨文の字体がいくつかの卜人系統で既に分化していることがわかっている。
つまり、武丁以前から甲骨文を刻むことが永く行われていた蓋然性が高いんだな。
そもそも殷墟への遷都は武丁期らしいので、それ以前の王都である鄭州商城からごそっと出てこないかな。 甲骨文自体少量だろうし保存性も石版や焼粘土板程わ良く無いからどうだろう 甲骨文の埋まっている土壌が黄土なら望み高。
黄土には炭酸カルシウム粒子が多く含まれているから、
動物の骨(リン酸カルシウム+コラーゲン)が侵食されにくい。 大昔は上海から満洲あたりまでは全部朝鮮だったんだよ。 >>686
武丁は、亀甲占いで「この出兵は不吉」という卦が出たにもかかわらず、「これほどの好機を占いなんかで逃してたまるか」と構わず出兵して勝利した 殷王朝の占いは、事前に決定してから細工して吉と出るようにしていたらしいぞ。
つまり、単なる会議の追認だな。 だから、単なる追認だよ。
幹部は誰も占いなんざ信じてねえが、一応政治の言い訳としてやってんだろ。
みんな神様と言えば従うし、責任も分散できるしな。
まだ政治が神様の名の下に行われていたから、そういう意味の無い事も必要だったんだろう。 中世のカトリック圏で、ローマ教皇の無謬性なんて国王とか貴族とかの政治エリートは誰も信じてないが、
正統性をこじつける根拠として信じているふりをしていたのと同じかな。 合理的近代人が中世人の皮をかぶって政治をしてた、みたいな妄想はナンセンス >>697
でも、本気で教皇の無謬性を信じていたのなら、叙任権闘争なんて起き得ないだろ。 >>699
でも、教皇に破門されると、諸侯が一斉に離れていくので、皇帝の立場はヤバくなった
承久の乱のときの日本だって、京都から皇軍が攻め下ってくると聞いて鎌倉武士は動揺し、戦わずして負ける寸前になった
このように、圧倒的な軍事力があっても、精神的・宗教的な権威の前に敗れ去ることはよくある 現代のアメリカですら、変な新興宗教がはびこるほど民衆は迷信深い
ましてや、科学もなにもなかった大昔など
電灯もないから、夜は真っ暗。怖いなんてもんじゃない。
迷信深くなるのは当たり前 古代ローマでも指揮官は占いは信じてないんだけど
結局占いはするし、いい結果が出るように小細工はしてた
じゃあそれで誰が安心するかというと占いに真実性があると信じる
あまり教育を受けてない人々
あとゲン担ぎ 結局、合理主義の冷めた見方と、藁にも縋る思いのゲン担ぎと、
この二つが一人の人間の内面でも重ね合わせの状態になってるんだよな。
前近代の日本でも、迷信深い庶民が同時に
「鰯の頭も信心から」
なんて冷めた事を言っている。 現代人だって非論理的なオカルト信じてるし、宗教は信じてないけど神やそれに類するものは信じてるしな
情報ソースがたくさんある現代の人でも迷信深いのにみんな同じ事いってる古代・中世の人なんて何をかいわんやって感じするな 春秋戦国時代から戦乱を逃れて寧波や山東半島あたりからちょいちょい小集団が五島列島や九州方面には来ていたのではないか
沖縄は広東省とかもっと南の方から来てたんだろうか 何故か呉の字が好きだったり越(「こし」だけど)の国があった日本と
呉越はどのくらい関係があるんだろうな 日本国の前に存在してた倭国が南朝に朝貢してたからね >>706
なんで朝鮮半島を無視して日本に来るんだ
渡来系日本人ではなくまず渡来系韓人の出自に注目しる 無視って言われても行きたいところに確実に行けるって時代でもないと思うが
なぜにそこまでムキになる? 行きたいところに確実に行けないなら環境のいい日本列島など簡単にはたどり着けないだろう
仮に東に理想郷があるときいて行こうとしても大半は途中で脱落よ 日本に連れて行ってもらえなかった稲作民が住んでたのがかの有名な松菊里遺跡な 確実に行けなくても、日本に着いちゃうことはあるだろうに
何をイキってるんだ?と思ったけど朝鮮半島って書かない時点でお察しだったな 半島も北中部は朝鮮で南部が韓だから
場所に依って使い分けるのか統一するのか NTUY兄貴は「韓」という字を見るとファビョるってはっきりわかんだね
ヘイトスピーチは†悔い改めて† 日本から洛陽や長安なんか遠すぎる
呉越との関係のほうが深いのは当たり前 沖縄を経由した中国南部との交流ってものもある
朝鮮人と違って、沖縄人は「ウリが倭人に文化を伝道してやったニダ、ホルホルホル」とか、そういうことを言わないから目立たないのだが 沖縄人「黄河文明に海を渡って貴重な貝を供給してやったニダ、ホルホルホル」 邪馬台国は公孫氏に使節を送ってたといわれてるし
北東勢力とのつながりは古来あっただろう >>708
越前 越中 越後は流石に越からたどり着かなそうだけど、海流の流れでたどり着くんだろうか? 広島県呉市の人と新潟県古志郡の人が同じ舟に乗ったらどうなるの? 単に中国で蛮族視されてた越の字を敵であるコシに当てただけでしょ 上古音だと
越:*ɢʷat
呉:*ŋʷˁa
なんだそうだ woなら
お が ご に変化しそうだし
wo が うー にも変化しても不思議じゃないな キングダム見てて疑問なんだか
斉は50年前合唱軍に城二つになるまでヤられたのに、どうやって50年で復帰したんだ
普通に考えたら徐って国みたいに細々やってくか、他のとこに吸収されそうなんだが 誰かのブログ読んだら田単とか言うやつが、とられた城ほぼ取り返したって書いてあるんだが...
これが史実だろうっていう根拠はあるんけ? >>734
漫画「キングダム」は連載の初期のしか読んでいないので
どの史実をベースにした部分なのかよくわからないのだが、
もしかすると燕の楽毅の主導による連合軍によって滅亡寸前にまで追いやられ、
その後田単によって襄王が登極して旧領を回復した史実の事かな。
それなら、当時の中華世界の国家や軍事の成り立ちを理解していれば
納得できると思う。
当時、戦国中国の各国は、事実上自前の軍事組織と統治機構を持つ都市国家の
集合体だった。「城ふたつ残して」というのは、その国家を構成する都市国家が
斉王権のもとに2つしか残らなかった、それ以外の他の都市国家は他の諸国の
王権の傘下に入ることを余儀なくさせられた、ということを意味する。
旧領が回復された、というのは、そういう他国の王権に降伏してその統治下に
組み込まれた都市国家が政治工作などの末に寝返って、再び斉王権の
配下へと復帰したとことを意味する。 >>736
その話のことです
当時の国家の成り立ちを説明してもらってありがたいんだけど、質問の答えが分からん
武力だけでなく政治工作でも取り返したから、わずか城二つからでも領地を取り戻せたってことなのか? キングダムに後々項羽が登場したら一体どんな強さになるのやら >>737
つまり、現代国家みたいに中央に巨大な行政機構と強力な中央軍があって、その力で
領域を丸ごと囲い込んでいるってのと当時は程遠い。
現代の国家だと、例えば、日本列島の各県が軍事占領されて、日本国に東京都と埼玉県しか
残っていない状態で、この二県だけの軍事力(警察力)や兵站能力だけで他県を取り戻すのは
他国の大規模な軍事援助を得ない限りまず不可能。
ところが戦国時代の中国だと違う。各国にはそんな大規模な中央軍とか中央行政機構があるわけではない。
例えば、先ほどの「軍事占領された日本国」の状態を、戦国中国の社会システムまで引き戻してみると、
福岡県とか千葉県とか宮城県にも自立性の高い行政機構と本格的な軍事組織がある。そういうのが
温存されていて、離反させないための監視のための少数の占領国の部隊が派遣されて駐留している。
その状態で、例えば「福岡県」が自前の軍隊で「東京都」「埼玉県」の軍隊と呼応して少数でしかない
外国の駐留部隊を追い出せば、「福岡県」は「日本国」へと戻ってくる。それを巧みに繰り返せば、
他の他国に占領された領域も回復できる。
つまり、戦国時代当時の国家の領域の拡大縮小というのは、「領地の陣取り合戦」じゃなくて、
わらべ歌遊びの「はないちもんめ」の仲間の取り合いに近いんだな。 徐なんて左伝の最初の方ではちょこちょこ出てきて何かと活躍してたのに
山の中の小さな村になってるんだもんな
でも徐州のことだろ?斉か三晋の地方都市として普通にやってたんじゃないの? 徐は卵生始祖神話があるから華夏民族ではなくむしろ文化的には朝鮮系に近いのではと思う
元来の東夷でもあることだし 徐州は、三国志でも劉備や呂布が争奪戦を繰り広げた重要地
20世紀になっても、「徐州徐州と人馬は進む」と軍歌に歌われた >>737
斉は、新興の覇者ではない
いにしへの桓公や管仲の頃からみれば、すでに数百年にわたって、この地に君臨してきた大王国だ
侵略者が撤退して、斉王の権威が回復しさえすれば、各地の城(大陸では、城といったら都市を意味する)はまた傘下に集まってくるから、元に戻るのは早い
後に、始皇帝が死んで秦が崩壊したときも、斉はたちまち復活した >>739
都道府県に例える意味が全く無いなw説明が冗長すぎる 最後に残った二城が筥と即墨ってのが面白い
筥も即墨も桓公の時代には支配地域ではなく他国だったんだよなあ
晏弱が莱を降してから百数十年しか経ってないし
楚と隣接していて越や楚との争いに近い筥はともかく晏弱が莱を降してなければ斉の支配地域って結構小さいよね 斉は七十余城と四方数千里の領土に数十万の兵がいたのに
五ヶ国連合軍に敗れ
半年で二城以外を全部燕に落とされたのに
残り二城で五年ももったのがおかしい 日本で言えば
東京と大阪だけ残って
残り45道府県が全部韓国に降伏したような状態か >>747
山東省は、大陸部は広大な華北平原の一部であり、攻めやすく守りにくい地形
それに比べて、山東半島は山がちで、「斉の人なのに、莱人と会話ができた」とわざわざ史書に記された人もいるほど文化が隔絶した要害の地
天下の覇者だった桓公も征服できず、何百年もたって晏弱が奇計を用いてやっと勝ったほど、攻めるのが難しい
ここの2城が残ったというのも、不思議なことではない >>750
いや、関東平野の東京・埼玉にある諸城は続々と降伏し、山梨あたりに抵抗勢力が残ったという状況 >>737
その城を焼いて、住人入れ替えたわけじゃなくて、
形勢不利だから燕の言うことに従って燕側についてただけなので
旧楽毅軍がボロボロになったら手の平返した
日本で言うなら、ソ連に攻められて東京と大阪以外は共産主義者の市長にして帰順を誓ったけど
東京を包囲攻撃してた名将が更迭されて国外逃亡して、日本に新たな名将が生まれて東京の包囲網を打ち破って軍勢をボコボコにしたから
あとは周囲から順番に解放していけばドミノ倒しみたいに共産市長が追放されていくって話 だから浅い知識で比喩で物を言うのはやめろって
人によってイメージのとり方、評価、実態がぜんぜん違うんだから、歴史を歴史でたとえるなよ >>753
綺麗な蛇足
空白行前の説明が分かりやすいだけもったいない >>749
都市国家の戦争という考え方をするとある程度理解可能
まず都市国家の構造が中華圏の文献資料だとまずわからん部分があるしな
都市国家内で実権を握って実務を取り仕切ってる実態的支配者と
文献に残る名目上的支配者の二層構造がそこにある
この辺は中華文化圏だと今なお続いてるんでねーかな
地方の有力者は地方の共産党員って感じで多少形を変えてるけど >>740
信が老子の子孫にして李淵や李白の先祖であることが判明するまで描かないの? >>744
その理屈からいくと、秦も含めた戦国の七雄や周や宋や呉が漢以降復興しても良さそうなもんなのにな
韓が漢の高官として次々殺されながらも一応存続したのと、田斉の傍流が姓をバラバラにされて少し残ったぐらいなんでしょ? >>749
大内対尼子
上杉対北条じゃよく見た光景 始皇帝が死んで秦が崩壊したら、旧・六国がたちまち復活した
楚の項羽が覇王となったが、斉も張り子の虎とはいえ、韓信に滅ぼされるまで表面的には大国に戻った
韓信には、斉王となって独立するという選択肢もあっただろう 唐代の杜甫の詩にも、
・・・就中、雲幕の椒房の親、
名は賜ふ大國・虢と秦と
(中にも、雲のように張った天幕の中には
楊貴妃さまの御親類がいらっしゃる。
彼女たちは大国の名を賜って、
虢国夫人や秦国夫人とおっしゃるのだ)
とある
昔、この詩を見て、「唐の時代になっても、虢と秦は大国だったんだな」と、妙に感心した覚えがある >>761
唐代になっても西周期の大諸侯国の威光ってのは有効だったんだなぁ。 >>757
そのことは「まったくどうでもいい」という姿勢で描かれてると思うよ
最後にそれを言われておおっとなる読者なんてほとんどいないだろ
始皇帝についてはかなり意識してそういう描写をしているのと対照的だ >>744
いや、どっちかというと新興組だよ
秦や三晋とは別の意味でね
何より姜斉が倒されて田斉になった時点で、
「斉」はすでに王朝名というより地域名でしかない
だから『方言』ほかで漢の地域名としても、北朝の山東の領域国家の名としても頻出する >>763
始皇帝の先祖が封神演技の悪来だって描写あった? >>765
キングダムの世界で春秋時代の歴史が意義を持つのって山の民の先祖つまり馬酒兵のくだりぐらいだろ
周でさえまるっきりないがしろだ
秦の統一事業を語る上で、数百あった国が今は7つにまで減った、
という現実に対してマクロ視点で言及するにとどまっている >>759
昔の大河ドラマ「毛利元就」では、毛利は大内と尼子にはさまれた小国で、「いまは尼子に従え」とか「いまこそ、大内につく」とかなんとか、いつも右往左往していた
いまの米中両大国の間で右往左往する韓国を見ると、あの頃の毛利を思い出す >>770
いや、洋の東西を問わず古代世界は厳しい
大虐殺もあるし、それ以上に集団移住が多い、アッシリア帝国のときのユダヤ人がいい例 最初のうちは河南省の小さな都市国家の争いだったが、やがて大国の晋と楚が成長し、小国の
運命を左右するようになった 国際条約とか和平条約がある時代じゃないと凄惨だよね
負けた側は丸ごと奴隷とかそんなんだし ソビエト連邦や中華人民共和国は、20世紀になっても強制集団移住により、民族を丸ごと消していた >>770
屠城なんて言葉があるように住民ぶっ殺して交通の要衝にある土地と都市だけ奪うとかもあったから
変わらないなんてぬるい話はない 屠城は総力戦下の徹底した破壊行為だよ、戦闘員や生産物を産み出す住民その物を絶滅させる為の
ドイツ全土を爆撃で徹底破壊したり日本全土を無差別爆撃で破壊したのと同じ それくらいの大虐殺もあっただろうが、人間は労働力であり貴重な資源だからな
実際には集団強制移住で、民族まるごと配置替えになることが、とくにアッシリア帝国とか古代の中東ではよくあった話 中国史で有名なケースとしては、福建省の閩越が漢武帝によって滅ぼされ、100万に及ぶ閩越人が漢族区域に強制移住させられたことがあった。 当時のビン越は100万人も居ないという無知無知ギャグw 家族連れの軍の場合10万の軍の実質戦闘員は2〜3万になるわけだが
それを理解してない奴が5~10倍くらいに盛り始めたという説 古代中国は普通に何十万単位で総力戦して居たという事実を受け容れられ無い嘘吐き民族 春秋戦国時代は、あの広大な大陸に推定人口2千万人
未開拓地が多くて、どの国も労働力が欲しい。人間は貴重な資源であり、なるべく虐殺するより奴隷にしたいところだ。 十六大国のインドと春秋の中国の軍事力や経済力の差は同程度と考えていいですか? 春秋初期と戦国末期では人口が全然違うだろ
2桁位は違いそう >>774
国際条約とか和平条約なら少なくとも周代からあるぞ
司馬法も兵法書というより現代のハーグ陸戦条約の相当するものだし 戦国獅子伝の影響か中国で王に封じられるなら斉王になりたいと思った 漢代ならともかく春秋時代なら王に封じると言う概念そのものが受け付けない
王と言ったら周王しかいないし封じられるのではなく封じる側
楚王も自称していただけで外交上は楚子 異説は面白いね
孔子の異父弟が季孫氏の子で子貢の父って主張しているサイトがあった
妻は子路の姉だとか 三晋って事実上独立した数十年後に周王から侯に封じられて
名目上の君臣関係ですらなくなったと聞いていたけど
それでも数十年間は正卿という官職に魏侯とか就いていたらしい
だから孟子で恵王が我が晋国とか言っているのか >>774
今も弱者は泣き寝入りだからアメリカとかでテロが多いんじゃん
鯨は哺乳類だと言いながら牛を平気で食べる
奴等は楽しんでいる人が憎いんだとかインセルは女を支配できないからだとか
ふざけたことを言う >>792
孟子で恵王が梁恵王と呼ばれているのは
魏の通称が王都の梁だったからだというね >>774
世界史上初の国際平和条約は1259 BCのカデシュ条約だけど、その後もそんなことばっかりだ 19世紀に行われたアメリカの南北戦争だと死者62万人にのぼる死者を出したがうち50万人は病死や餓死
またゲティスバーグの戦いでは27575丁の銃が回収されたのだが内24000丁には発砲した痕跡がなかった
これはこの戦争に限ったことではなく第一次世界大戦でも兵士の発砲率は15%に留まっている
銃火器が発達した近代でもこの有様なのだから春秋戦国時代とか数万の大軍がぶつかるような戦いでも
実際の戦闘による死者は数十人とかそこらだろうね 近代戦の発砲率が低いから古代の戦争の死者は数十人って、
銃火器が矢に代わるだけで古代も近代も戦闘の形式まで同じだとでもいうんだろうか 春秋時代なんか戦車が戦って歩兵はいるだけなのか?
戦車の数だけで戦力や君主を表現しているし
戦国獅子伝で斉の戦力は戦車八百両、歩兵七十万ってのは嘘だったのか いても戦車を補助する従者的役割じゃないの?それに春秋時代はまだ領域国家じゃなくて氏族制都市国家の連合体、そんな動員力があったとは思えん。 デーヴ・グロスマンによると物理的な距離が近ければ近いほど死傷率は低くなっていく
白兵戦になると死者はほとんどでない
職業軍人と雖も実際に人殺せる度胸がある奴は少ないから
近代以前の戦死者のほとんどは餓死病死
火器普及率にともなって実際の戦闘による戦死者の数は増えてゆくがこれは殺す相手の顔を見なくてすむため >>802
石器時代だか新石器時代だかに子孫を残せた男性は十三人に一人しかいないとか
これは戦争で男性の十三分の十二、日本人で例えれば六千万人ぐらい殺したって
ことじゃないのかな
相手の民族なんて皆殺しにしようと思うもんじゃないのかね 恵王様は魏の支配者であり、夏王を自称し、孟子には梁の恵王と書かれ、
自国のことを晋国と呼んでいた
善徳女王とかいうドラマで新羅の女王なのに自国をシンコクと言っていて
文字を見たら神国と書かれていた
東の野蛮な国はジャパンとかジャポンとかヤーパンと呼ばれているが
自国語でさえニホンとニッポンがあり、昔はヒノモトだヤマトだと言っていた
シュメールではNUN KIと書いてEriduと呼んでいた >>803
本土人のうち縄文時代にまで遡れるのはYハプロだけでミトコンドリアハプロは完全に絶滅してしまっているのだが
これは弥生人の女が戦争で縄文人の女を皆殺しにしたためか?
石器時代何て人口も極めて少なく安定した農耕文化もなかったのだから遺伝的浮動が起こるのは当然のこと
そもそも石器時代の人間に民族なんて概念はないだろう >>805
それが事実ならば縄文人女性を虐殺したか病気が蔓延して死に絶えたか
男は女性を犯して子供を産ませる印象だが
犯した後に殺すこともあるし
犯すのすら嫌がるぐらい毛嫌いしていることもある 最近では中南米は侵略者の男性と原住民の女性の子孫
これはスペインやポルトガルによって原住民の男性は子孫を残せなかった
しかしイギリスはタスマニア人を絶滅させてアボリジニも激減させた
ネイティブアメリカンも少ししか残っていない
恐ろしいことにイギリス男性と原住民女性の子孫ばかりになっていない
ただし黒人奴隷は白人男性を父親とするのがほとんどになっている 古代中国人は白人だった
漢民族は東漢末期と三国時代後の南北朝時代の戦乱等でほとんど死に絶えた
現在の中国人は古代の中国人が野蛮人だと思っていた北方民族の子孫
韓国人や朝鮮人すらも北方民族の子孫
ロシアもハンガリーもフィンランドも北方民族の子孫
ヨーロッパは野蛮なゲルマン人の子孫
インドの高位カーストもアーリア人の侵略者の子孫
エジプトも野蛮なアラブ人の子孫
日本の支配者も北方騎馬民族の子孫
北アメリカは野蛮なゲルマン人やアングロサクソンの子孫
アメリカの黒人も父親を辿れば白人と同じ
中南米も野蛮な侵略者の子孫
カナダやオーストラリアや南アフリカも同様
イスラム諸国もアラブ人の子孫
ああ、この世界はみんな野蛮人の子孫だ
周も内部の争いや残酷なことをやっている
殷を滅ぼしたのも騙し討ちだ
フィリピンもカンボジアもベトナムもマレーシアもシンガポールも残酷だ
ノルウェーもスウェーデンもフィンランドもデンマークも残酷だ
イギリスもオランダもスイスもドイツもフランスも >>806
で縄文人の女は皆殺しにされたけど男だけは見逃されたと
自分がどう思う思わないとかそれはお前自身の価値観の問題でしかないし
>>807
マプチェ族やヤノマミ族とかはなかったとこと扱いか?
そもそもアボリジニやアメリカ先住民も激減したのは天然痘の免疫を持たなかったことが原因だろ 無知無知くんは今日も妄想が酷いなw
アーリア人の原生地わシンド所謂インド北西部
北魏末期北朝でも胡漢半々
ロシア人は東方スキタイと北アジアの征服者モンゴル人の混血、オマケでヴァリャーグ
日本列島に遊牧民は到達して無い
エヂプトわスーダン方面や緑地帯だったサヘルからの移住者に由って形成された黒人の文明
古代中国に白人は存在しない >>811
少なくとも西域まではコーカソイドの印欧語族が来てたんでは? >>811
お前は深いなわガイジだが言ってることは正しい
ぜひ射精エベンキと殴り合って対消滅して、どうぞ 少なくとも歴史が面白いのは三国志まで
それ以降は別の民族だろう
完全に絶滅して子孫が残っていないとは言わない
ただ中南米の男はほとんどが子孫を残せなかった で現代の本土人に縄文人の女の子孫がまったくいないのはどう説明するんだ?
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2019/6431/
>ちなみに、同一検体のミトコンドリアDNA (注5)の系統解析も行ったが、明らかに縄文人由来と想定されるような系統は存在しなかった。 スレタイも読めない上に
国名や地域名もわかっていないガイジが暴れてる >>812
イベリア半島や西域の印欧語族はコーカソイドじゃ無いからな当たり前だけど そもそもコーカソイドじゃない印欧語族っているのか? コーカソイド=ヨーロッパ系と勘違いしてるアホ多いからなこの板 >>793
>>795
例えれば日本国が分割されて
東京都のみが日本国のまま残り
関東国と関西国と九州国が国際社会からも承認されて独立国扱いなのに
関西国王がなぜか日本国の内閣総理大臣に就任し続けているようなもの
それも歴代の関西国王が日本国首相の地位も世襲している
魏の恵王は、韓国の圧力で周が魏侯を方伯として認めずに秦伯を方伯としたから
王を名乗ったらしい 斉は陳国の亡命した第二公子の子孫である田氏に国を奪われて姜姓呂氏は絶えた
晋は六卿で残った韓魏趙の三氏に国が分割された
魯は公室から分かれた三桓氏に実験を奪われた
周は分家の西周君と東周君の領土だけになり王の領土はなくなった
楚は項氏に国を奪われた
秦は一族八百余人と官人五千余人が皆殺しにあい
雍王が破れた時に社稷も取り壊されて完全に滅びた 古代中国人は遺伝子を調べたら白人だったらしいがタイムテレビで見たらインド人みたいのかもしれない 抑々インド人が古アジア系とインド北西部に起源を持つ系統の折衷 形質人類学とか優生学が華やかりし大日本帝国時代は日本人は白色人種と蒙古人種との合いの子で
けだし東亜において我が邦のみが近代化を成し遂げたのは白色種の血を引きたる故であろうか?とかホルホルしてたけど
分子遺伝学が進歩すした現代では東アジアで唯一イラン系遊牧民の影響を受けてない純粋なモンゴロイドであることが判明してる
お隣の韓国にすら中央アジアのイラン系をルーツに持つ人が一定素いるのに
どうやら隔絶された島国である日本には騎馬民族はこなかったようだ >>826
李牧が趙から独立して王になったのに趙の宰相を名乗っている 騎馬民族が馬をおいて船で来たから遺跡に証拠がないって言ってる人がいた >>825
トハラ系等ごくわずか白人がいたというのを勘違いしてるんだろうね 斉の辺りが遺伝子は白人だったらしい
その後に中国人学者が否定する見解を出したけど
政府の意向も感じる
白人かはともかく漢民族は三国時代・晋末の混乱で絶滅した 斉には西域から来た製鉄民がいるから白人の遺伝子も少しは入っていそうだね >>835
数百体か数十体か忘れたがその中に一体有っただけだぞ ジャップも弥生人に縄文人が絶滅させられたんだよなw 臨シの墓地から発見された数百体の遺骨中1体有っただけ
中国の製鉄開始わ斉と楚が一番早く双方は系統が違って斉の方はおそらく独自発展 そもそも弥生人という人種がいわたけじゃなくて弥生文化に属する人々をそう総称してるだけ
だから縄文系弥生人なんてタームがある
現在分ってるのは父親が縄文系で母が渡来系弥生人という組み合わせはあるが逆は全く存在しないこと
九州で半島の影響を受けて作られた支石墓に埋葬されいるのが何れも縄文系なことから初期の渡来系集団は
何らかの理由で現地の縄文系に支配をうけていたことぐらい 中国南東部や半島南部から来た弥生系の大倭大王国が滅ぼされて縄文系の天皇朝日本国に易姓革命かな
初期の弥生人と縄文人は河川下流の湿地帯と中流丘陵地帯で生活空間が違ったからあまり接触無かった 孟嘗君のフウカンの逸話で領民の証文を焼き捨てた話
農民が銭を使うぐらいだったのか
貨幣の起源は紀元前7世紀のリディアだけど
殷では宝貝を貨幣にしていたらしいし
シュメールとかでも銀何シュケルとか通貨みたいな扱いだ 貨幣なんてジュメル、アッカド文明の頃から有るし
ムナとかシェケルとか ゴトランド島の墓にはアジア人の骨があったから、バイキングはアジア人だ
って言ったら馬鹿にされるのに
古代中国人は白人だった
ってのはアメリカやヨーロッパですらたまに見かけるのが怖いとこ キリストを真っ白な白人として描くのにいちゃもん付けない時点でそういう真の反レイシズムにはまだ至ってないよな
実際遺伝学的にキリストの肌の色を特定しようとしたら戦争起こるレベルでヒステリー起こりそう 西欧人はだいぶ世俗化が進んでるし、イエスがアラブ人みたいな顔貌でもそう興奮はしないだろう。これ↓だってbbcが作って放映したんだし。
https://i.imgur.com/JMkevaN.jpg
https://i.imgur.com/iLpJFTk.jpg
問題はアメリカ人だな。 >>851
褐色なのはともかくアラブやレバントならもう少し鼻筋が通ってるんじゃないだろうか
ソクラテスのイメージでも混ざっていそうだ 春秋戦国の話をしろよお前ら
別に古代中国人が白人じゃなくたっていいじゃん 同じ時期のアッシリア帝国やペルシャ帝国と比べたら、かなり遅れた文明だった 食べ物や衣服を贈ったとかかししたとあると貧しいんだなと思う >>859
……産業革命まで、布(生地)やそれを加工した衣服は相当な高級品だし、食べ物は現代でも贈答のお約束だ
お前は何を言っているのかと >>855
春秋戦国の王族公族の中で現在でも続いてる一族ってどのぐらいあるの? >>859
衣と食の問題なのですから、そんなに馬鹿にしたものではないでしょう。
子産と季札の「縞紵の交」は有名ですが、贈答品としては穏当。
紂王が象牙の箸や玉の器を用いるようになって批判されたとか、呉が魯に最大でも十
種類の肉料理を百種類提出させて横暴を非難されたとか、少なくとも『史記』や『春
秋左氏伝』の価値観では、数と希少性に飽かせた行為は嫌われた様ですし。
宰我が「晝寝」をしていて孔子に嫌われたことを「畫寝」で「寝に畫く」、つまり寝
床の設備(当時は床座の時代なので大げさな寝台ではなかったでしょうが)に彫刻し
ていたものとする解釈がありますが、君主の車などへの彫刻でも、それが個人的な好
みに由来するものであれば非難の対象でしたからね。 >>861
唐末にほぼ絶えた
自称「孔子の子孫」とかは今でもいるけど、世界中に300万人だとか >>863
意味不明
アケメネス朝ペルシャ帝国の時代にわ製鉄が普及してる >>863
それならアッシリアやペルシャではなく、
もっとずっと前のヒッタイトや海の民を誇るべきだろう >>866
そりゃ、その時代の中国にも鉄器はあったが、普及の度合いが違う 春秋戦国時代の名門が、唐まで続いたのはいくつかある
滎陽鄭氏は、春秋の鄭の流れを組み、唐でも四大貴族の1つに数えられ、10人の宰相を輩出。
趙郡李氏も、唐の四大貴族の1つで、あの名将・趙の李牧の子孫とされている >>854
チビ胴長短足頭でっかちで黄色の癖に毛深くて足に剛毛生やしてる日本人男性が世界で一番醜いと思う 人種コンプバカは消えてほしいわどっちも
どう見てもブサイクのくせに他人にばっか厳しいとか笑える 曹操の悪人扱いって
孔子の子孫である孔融と司馬遷の子孫である楊修を曖昧な理由で処刑して
荀子の子孫である荀ケを自殺に追いやったのも後世の評価に影響してる? 単純に京劇の影響・・悪役はメイクからして違う
三国志は字を読める人はすくなくても
劇の悪人は文盲でも理解できるし中国全土にひろまった
でも曹操の評価は時代によって異なり
いまの共産党は魏を崇める立場になる
理由は簡単、毛沢東が人民は阿斗になるな、と言ったから
つまり共産中国も。三国志の蜀の後主みたいなるなと じゃぁその京劇というか中国の各地方劇、京劇の元となったいろんな芝居の中での
曹操の悪役イメージはどうやって作られたのか
曹操ではないが諸葛亮孔明の場合、小説の「三国志演義」は芝居の世界では影の薄い
脇役に過ぎない孔明をずいぶんかっこよく描いていて、そこが違うと言う
それは小説版の作者が知識人階級であるためにひいきしているのだという
そこで>>871を見ると、小説の作者が他にも贔屓しそうな人を
バンバン殺している曹操という男は、いかにも悪者に描きたくなる相手に違いない
曹操の場合は小説のイメージが芝居にも影響しているのだろう >>871
そうだ
秦の始皇帝と同じで、儒者を殺したのが良くなかった。
明朝はまったくの儒教社会。評判が悪くなるのは仕方ない 三国志の見方は時代によってことなり宋では魏正統がとなえられ
時代が下がるにつれ朱子学の影響で蜀が優勢になる
モンゴル時代となると三国志は改変が加えられ
蜀は滅亡したが
漢室の血を引く匈奴皇帝・劉淵が主人公になり
漢を再興して、めでたしとなる
つまり劉淵を重ねて、モンゴルが正統であるという >>861
子孫が残っているのはいるけど力はない
ただし、孔子廟の奉仕官だけは万世一系で実は今も残っている
大学入試に失敗しても孔子の子孫だから入学させて批判されたとか
歴史上では宋の時代に周の皇帝の子孫を特別扱いしていたのはある >>875
これ面白いな
劉淵はどうやって漢を復興したんだ 匈奴王族は19氏族のうちレンテイ氏に限られる
遠くの王族や貴族と通婚するのは遊牧民の習慣で
レンテイ氏は劉邦の娘などもらい漢王室と通婚してた
したがって匈奴は血縁の劉氏を名乗れる >>870
一行目だけなら正論なのにくだらん二行目を付け加えるからブーメランになって反ってきてる 戦国初期の覇者・魏の文侯
魏の国は晋が分裂したことがきっかけで建国された国です。
晋が分裂した際に趙・韓そして魏の三国が同時に建国されます。
そして魏には名君と言われる文侯が君主として君臨しておりました。
この国は文侯が名君であったことがきっかけで多くの有能な人材を確保。
また国土も広く国力も充実しておりました。
そのため多くの小国は魏の文侯に付き従っている状態でした。
ある日戦国時代の覇者とも言える魏の文侯へ韓から使者がやってきます。
この使者は文侯へ「趙が生意気なので懲らしめてやりたいのです。
是非兵を貸してくだされ」とお願いしてきます。
しかし文侯は「趙は我が国と兄弟のような国です。
この国を討伐するための兵力をお貸しすることはできません。」と断ります。
数ヵ月後・・・・。
今度は趙の使者が文侯の所へやってきます。
趙の使者は文侯へ「小さい国の癖に色々とやかましいことを言ってくる韓がムカつくので、
兵力を貸してくれないだろうか。」と依頼。
だが文侯は「韓は我が国とは兄弟と同じような関係を保っている国です。
この国を討伐するための兵力をお貸しすることはできません。」と拒否。
趙と韓の要請を断った文侯ですが、この話を聞いた韓と趙の君主は文侯の徳の高さに心服。
両国は文侯の下へ馳せ参じて臣従することになります。 「呉子」と呼ばれる兵法書の作者である呉起(ごき)。
彼は春秋戦国時代の初期に出現した名将で孫子と並んで最高レベルの軍略家でした。
そんな呉起は魯(ろ)という超小さい国の将軍でした。
この国で彼は抜群の武功を立てることに成功するのですが、
魯の群臣からの評判が悪ったので、魯の国を出ていくことにします。
そして彼が仕官先として目をつけたのが文侯率いる魏の国でした。
呉起は早速魏の文侯と謁見する機会を得ることに成功。
そして彼は文侯に兵法や行政など様々な点から自薦していくのですが、
文侯は呉起の話を聞き終わった後に「我が国は戦争を嫌う国なのだ」と
答えて彼を登用しませんでした。
呉起はガックシして宮殿をあとにしていきますが、後に魏の文侯から招集を受けて魏の将軍として
活躍することになります。 いい話っぽく書いてるけど、最後の一文が文侯はアホなのでは?と思わせる
中国の昔話的なそれっぽい逸話ないのか? 魏の文侯といえば、『戦国策』や『韓非子』にある逸話が有名ですね。
文侯が御狩場の管理人と狩猟の約束をしていたが、当日は雨であった。その上飲酒して楽しんでいた。
それでも文侯が宮殿を出て御狩場へ向かうので、近臣は止めた。
「雨な上に、御酒も楽しまれたところです。なんでわざわざ御狩場に出られます。」
「私が約束して決めたのだ。雨だからといって、なんで行かずに済まされよう。」
そう言って、文侯は自ら出向いて狩猟の中止を宣言した。
魏はこれから(君主が約束を守るという信頼を得て)強国となったのである。 一歩まちがえれば魏文帝になりそうな偏屈さ、頑固さを感じる
文帝は光武帝を残忍と非難していたんだよなぁ 覇者には、「信義を守る人物」という自己演出が大事なんだな
魏は、欧米でいえばフランスのようなもので、中央の高度文化国家としての権威はあるけど、力で諸国を抑えるほどの国力があるわけではない >>886
これもいい話っぽく考えてるけど、
狩猟の約束してるのに酒宴開いて酒飲んで酔っぱらってる時点で約束守るのはポーズだろって思ってしまう
「俺は約束守るつもりなんだけどなー )チラッ」って中止にするように圧力かけてるだろ 飲酒・飲み会に現代人は悪いイメージをつけすぎで、当時の扱いも考慮されるべきかと。
しばしば彫刻などの形で後世に伝えられた光景ですからね。
中国では鼎が王権の象徴となり、日本では朱器・台盤が藤氏の長者の証となった。 長らく世界史板を覗いていなかったのですが、春秋戦国スレが継続してあるんですね。
皆さんはどうやって春秋戦国にたどりつかれましたか?
私は吉川英治の「三国志」で諸葛亮が自信を管仲・楽毅になぞらえている、という
記述をみて、これはどんな人たちだろう、と思ったのがはじめですね
もう50年も昔の話ですが・・・ 小室直樹の中国論
紀元前4世紀あたりの戦国時代には、中国の官僚制は現代における近代官僚制と同じような形を取るまでになった。
戦国時代では戦国七雄といわれた7ヶ国がしのぎを削った時代だが、その頃にはもう、近代ヨーロッパ列強並みの人口規模を持ち、製鉄などの技術も開発され、商業も盛んで、経済も発達していた。
戦国七雄は近代列強並の富と力を持ち、また近代列強と同じく、領域国家(領土の確定した国家)になって、そして、戦争専門の兵で組織する常備軍が完成されていった。
王の権力も大きくなり、王の周りには封建的諸勢力に代わって体系的な官僚制度が形作られていった。 (続き)
古来、王の周りの統治階級は、王家親族、有力貴族だった。
ところが、戦国時代に名君と呼ばれた王は、奴隷たちから宰相(総理大臣)を選んでいた。
歴史上有名な、殷の傅説(ふえつ、武帝丁の宰相)、秦の百里奚(ひゃくりけい、穆公の宰相)、は、奴隷だった。
斉の桓公かんこうに仕えた管仲も、捕虜となって死刑を赦された奴隷の身分から宰相に抜擢された。
「宰相」とは、もとは奴隷の一種、という意味だった。
料理人や羊飼い、そういった者たちが総理大臣に抜擢された。
なぜ、奴隷なのか、それは、貴族はときに王に口答えするが、奴隷は無条件で従ったから。
専制君主に従う人間こそが官僚としては有能。
もちろん能力は必要だが、その統治能力さえ認められれば、宰相として就職できた。 殷では宰は奴隷を意味する言葉
大夫で相だと卿と呼ぶ
宰相ではないんだな >>894
修士課程に入ったばかりの時に指導教授から「日本文人史」をやるように言われて、
のめり込んだこともあり、彼らが読んでいた漢籍を読むことになったのが初めです。
かつては普通に読まれていた漢学に関する本が、今の古書肆では本当に安いですね。
得と言えば得ですが、それだけ需要が減ったということで、寂しくもあります。
1980年代までは、まだ水墨画(南画)を通じて知識のある人もいたのですが。 >>898
山野さんもご健在でなによりです
調べてみると、初めに白起さんが「春秋戦国の名将はだれか?」というのを
立てられてのが2002年ですから、もう20年近く前の話なんですね
明治までの知識人は漢籍を白文で読めたんですよね?
春秋戦国時代と言えば、宮城谷昌光氏が小説で取り上げているので、一般の目に
触れる機会も増えたのでしょうが、氏の小説は、初期の夏姫春秋のころは非常に
面白かったのですが、その後は主人公が善人すぎるような気がします
最近のNHK大河ドラマ主人公が、皆平和主義者になって面白くないnのと同じ
感じがします ところで李牧が讒言で殺されなければ、秦の統一はもっと時間がかかったように
思うのですが、どんなもんでしょうか? すでに昭襄王 の時点で秦は蜀も属領とし、楚の大半を占領して植民地化して
中原も領土を深く食い込まれており、
アメリカとソ連を兼ね合わせたような超大国になっていた
秦王政の天下統一に動くか否かはもはや秦国内の貴族の政治問題で
一旦決まれば官僚機構も兵力的にももんだいなくすすんだ
リーボック個人がどうという問題ではない
むしろ秦本国の北半分にすみつく異民族・義渠国の退治が一番手間だった
これは昭襄王の母の宣太后が義渠王を誘惑して風呂で首をはね
義渠の故地に隴西郡・北地郡・上郡を置き、やりとげた 宮城谷昌光の小説は俺には別の不満があって、
資料の少ない時代だから色々と想像に頼らざるを得ないんだろうけど、
姓が某だからこれこれの一族の出で、生き方やものの考え方はこうで、
っていう想定の過程が決めつけすぎてる感がある
フィクションなんだからその辺はもう少し意外性を盛り込んでもいいだろうに >>898
それでもまだ狭い世界では人気ならいいじゃん
>>899
今でもエリートを東大の上位中位に限れば読めるんじゃね
>>900
重臣を全部買収してお金を拒否した人は皆殺しになったんだから無理だけど
秦がこの政策を取らなかったと仮定しても
王せんが秦の全軍に近い兵力で攻めたように
趙も60万の軍で壊滅じゃね
その分楚の滅亡が遅れるかもしれんけど
>>901
アメリカとカナダを併せた程度の国ですよ
圧倒的に強いしどこと戦っても強いけど
アメリカとソ連を併せた国があったらもう天下統一どころじゃないよ
>>902
ただ、姓の数も少ないから遠縁でも同族ではあると思うよ
もっとも晋自体が姫姓じゃなく異民族って話もある >>899
>立てられてのが2002年ですから、もう20年近く前の話なんですね
当時はまだ学部生でした。楽毅や田単は知っている、というレベルでしたね。
>明治までの知識人は漢籍を白文で読めたんですよね?
作家ですと漢学の素養があったのは永井荷風(1879〜1959)、芥川龍之介(1892〜1927)、
中島敦(1909〜1942)まででしょう。
永井は言わずと知れた鷲津毅堂の外孫、芥川は数寄屋坊主の家系、中島も中島撫山の孫で、一族
からは谷文晁系の南画家だった中島杉陰も出ています。
上村松園(1875〜1949)も幼少期を回想して、当時は皆漢学を習っていたと書いています。
しかし、山本夏彦をしてあの世代に生まれたのは奇跡(要約)と言わしめた中島は夭折。
漢学の素養も廃れましたね。芥川の世代には、もう差が出ていたそうです。
志賀直哉(1883〜1971)の弟子である阿川弘之(1920〜2015)が『論語知らずの論語読み』
という本を書いていますが、現代作家の代表があんまり無学なので驚きました。
当時50代の阿川より、不惑を迎えたばかりの私の方がまだこの方面の教養があると思います。 >>900
遅れはするでしょう。ただ結果は変わらないのも、すでに言外におっしゃっておいでの
様に確かなことでしょう。
宮城谷先生の小説はあまり記憶にないのですが、年齢を重ねると
・とにかく理想的な世界を描きたい
・理不尽な悪党が酷い目に遭うのを描きたい
という傾向に陥る人が多いようです。前者はまだしも、後者は話もあまり面白くなく
なります。作者が書きたい展開が優先されて。 個人的に、安能務の小説は好きだけど宮城谷の小説は嫌いだな
世界に浸れんというか春秋戦国っぽさを全く感じられ無い
吉川英治の三国志だと世界観が完全に日本その物でも何故か許せるけどそういう魅力も無いし
>>895
常備兵も多少居たけど皆兵制の時代でしょ、フリードリヒ2世じゃ無くナポレオンの時代 始皇帝の父呂氏のかいた呂氏春秋
「兵士は体格すぐれたものをエリート軍団として弓矢を研ぎ上げても
時の勢いによっては、雑兵・農婦・老人などの農民一揆にも負けるものだ
だからといって、軍の整備が無意味ということはないのだぞ?
王たるものはかならず最高の兵士・よろい・武器を整え、戦にむかうのがつとめである」
ほう。始皇帝は全て呂氏の忠告、そのとおりに実行してるじゃないか・・・ >>906
吉川英治氏の世界観が日本的というのは感じますね
しかし、半世紀前になりますが、中学の定期試験の前になると「三国志」を
読みたくなって困りましたね
完全に現実逃避ですがw
その三国志で、諸葛亮の人物紹介として管仲・樂毅や、太公望あたりの名前が
出てきたわけです
ちょうど徳間書店で「戦国策」「孫子」「史記」などが出版されてたんですよねえ >>903
そうだな、面白いのは姓より氏だ
だがその氏も何代か重なると
出自や元の生業と子孫の生き方が合わなくなり
広い意味での下克上を反映するようになってくるのが面白い 諸葛亮にとっての管仲は、われわれにとっての源義経くらい大昔の人 ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10195621055
管仲の仲って字だったんだな
知らなかった >>912
三国志や隋唐演義の感覚だと、仲が名で、夷吾が字に思えるんだが
どうも、もっと大昔はそうじゃなかったらしいんだな 名を呼ぶのは、主君ぐらいで、目下の者が名を呼ぶのは大変失礼というのは
春秋戦国の頃でもそうだったんでしょうか?
三国志時代はもうはっきりそういう状態になっていますよね
そういえば日本の江戸時代の本だと思うのですが、夢に関羽が出てきて
「劉備殿はお元気ですか?」と問いかけたら、「無礼者!」と一喝されて
切られた、というような話があったような・・・ >>914
戦国時代の斉襄王と田単の関係だと主君でも名前で呼ぶのは良くないって他の人から諫言されてるな
春秋時代の有名な例だと斉桓公が管仲を仲父と呼んで自分の親の如く大事にしてる
さらに言うと斉の始祖呂尚も周武王から太公望という尊称で引き立てられてる
諱で呼ばないというのは相手に対する尊敬、尊重を表す表現だったのは昔から
史記は漢代に書かれたもので司馬遷の漢代の常識で古代の記録を解釈してる可能性もあるけどね あ 補足
斉襄王と田単の例は戦国策からなので史記ではないけど
戦国策も漢代に編集しなおしてるので漢代の感覚で解釈されてる可能性は捨てきれない 仲父って父に継ぐって意味だと思っていたけど
管仲の字でもあるんだよなあ >>914
>そういえば日本の江戸時代の本だと思うのですが、夢に関羽が出てきて
最後に読んだのが20年ほど前なので記憶があいまいですが、『閲微草堂筆記』か
『聊斎志異』、おそらくは後者にあった話だと思います。
異界を訪問した男のところに関羽が訪れたので「劉公はどうしておいでですか」と質問
したところ、関羽が不機嫌になった。
異界の亭主が「早くお帰りなさい」と言うので慌てて席を立ったが、帰宅後死んだと。
諱を呼んだからではなく、敬意を表しながらも皇帝扱いしなかったせいだったかと。
君主と諱といえば、確か『世説新語』にこんな話がありました。
郭璞は博学であったがどもり癖があり、「璞は、璞は」と言っていた。
皇帝がそれをからかって「璞は何人いるのかな」と言ったという。
それに対する返事が「鳳よ、鳳よ」と言うが鳳は一羽という『毛詩』の引用。
『論語』にも出て来ますが。 >君主と諱といえば、確か『世説新
失礼、『世説新語』にあった話です。 ありゃ、さっき見たら一部の文字が消えていたので訂正レスをしたのですが、今見ると出ていますね。
失礼いたしました。 >>921
どもりの人物で大成するとその癖をいじられてる記録結構残りますね
ケ艾なんかも同じく世説新語で「艾艾」とどもった様子を弄られた話が収録されてましたし >>921
「聊斎志異」だったかも知れませんね
百目鬼恭三郎氏の「奇談の時代」で触れられていた記憶があるので、
日本の古い話のように思い込んでいました 劉備の場合、親とか目上の人からは「備」と呼ばれ、謙遜して自称するときも「備」。
通常は「玄徳」と字で呼ばれる。
三国志や隋唐演義だと、名が1文字で、字が2文字というパターンが多い。
それに慣れてると、「夷吾」が名で、「仲」が字というのは、ちょっと意外 日本では、歴史上の人物を劉備とか曹操とか、「姓+名」で呼ぶことが多いけど、
中国では、講談や芝居とかの影響もあって、「姓+字」で呼ぶことが多い
三国志演義の関羽と張飛は、関雲長と張翼徳。
隋唐演義の秦瓊と尉遅恭は、秦叔宝と尉遅敬徳。
きわめて有名 >>928
日本でも柳生十兵衛やら大岡越前やらの官職名呼びや、斎藤道三、上杉謙信、武田信玄みたいな法名が通称に
なってる人おるからな
似たような形ではある 称号で呼ぶのが一番無難で、次悪口じゃないあだ名、字、名ってイメージしてる
日本だと字が名乗りになるんだろうか 松平不味公みたいに号のほうが有名な人は日本にもいるよね とくに任地、封地だな。中国ではこれが大事。
日本だと、羽柴筑前が天下統一して「日本」を「筑前」に国名変更するなど考えられないが、モンゴル帝国以前の中国ならそうなる。 歴史上の人物を名で呼ぶか、字で呼ぶか、それとも号か通称かは、「定着したら、それが呼び名になる」としか言いようがない
孫文を「孫文」と呼ぶ人は中国にはまずおらず、「孫中山」と呼ぶのが普通。
「項羽」は、中国では「項籍」。
「劉基」は、中国では「劉伯温」。
「項羽と劉邦」は、両方とも名で「項籍と劉邦」にするか、両方とも字で「項羽と劉季」じゃないとバランス取れない >>934
「ナントカ公」とか「カントカ丞相」という人を、名前で呼ぶことはまずない
「アベ総理」に「晋三!」と呼びかけるようなものだ >>925
ケ艾は人気があるので、どもりのことは創作物でもたまに拾われていますね。
どうも人づきあいが下手だったようですが、どもりが影響したものか。
>>927
三国時代で複姓だと、司馬、諸葛、皇甫、公孫、夏侯が有名ですね。
司馬勝之、周不疑は諱が二字。
春秋時代だと澹台滅明やら、公山弗擾やら。諱が二字は珍しくもない。
古の陶唐氏(堯もこの姓)は、夏では御竜、商では豕韋、周では唐杜、晋が覇者にな
ると范を名乗ったという。 自分が書き込んだ名前で疑問が生じたのですが、周不疑は享年十七でしたね。
そして、字は元直とも文直とも言われている。
『礼記』では男子が字を持つのは二十歳とされていますが、早まっていたのでしょうか。 なぜ夏侯などという姓があるのか
王とか公とか侯はあっても
国名?付きの侯はこれだけだよな? >>939
基本的には、字とは「一人前になった」ときに自分で名乗るもの。
早熟な神童だから、早く名乗ったのでは? というか世に出て家族以外と交わる様になると必然的に字が必要になる
二十歳以前に字があるってのはそういう面もあるって事だろう >>943
あの時代の孔子の子孫の扱いがあれでしたし、あまり四角四面に重んじられなかったのかもしれませんね。 >>942
夏の滅亡後、禹の後裔は杞に封じられたが、
杞が楚に滅ぼされ、魯に逃れた公族が、
魯の悼公によって夏侯の復姓を与えられた 夏王朝の末裔だった杞では、「天が落ちてきたらどうしよう」と悩む人がいて、「杞憂」の語源になった。
商王朝の末裔だった宋では、「ウサギが走ってきて木に頭をぶつけないか」と期待して待っている人がいて、「待ちぼうけ」のネタになった。
一説には、これらの非現実的な妄想家のエピソードは、旧王朝の移民を嘲るために創作されたものとも言われている。 >>946
曹操が孔融を殺害しているでしょう。
有名な「ただ才のみ求めよ」も儒教的価値観に反したものでした。
>>948
老子は蛮族扱いされた楚の出身、荘子は宋の出身。
周中心のヒエラルキーを肯定してしまうと、元の地位からは永久に抜け出せない。
出身が思想に影響したとも言いますね。
逆に孔子の場合、魯は由緒はあるが力のない国なので尚古思想になる。 >>950
孔融は孔子の子孫と言っても傍流
本家の方は魏でも重用されてまっせ 何言ってんのかわからんけど春秋戦国の世ならともかく
後漢なんて政治家はほぼ全員儒者だぞ >>954
>何言ってんのかわからんけど
頭だいじょうぶか? >>950
>荘子は宋の出身
そういえば、荘子も浮世離れした非現実な話が目立つ。
宋の遺民は、やはり空想的な文化だったか? 「宋の遺民」ってのも変だけど、宮城谷昌光の小説では、「宋」といえば「旧王朝・商の遺民」というのが定番の枕詞なので、何冊も読んでるうちに、そういうイメージがすっかり刷り込まれた(笑) >>955
儒者が嫌いだと言うのであれば何で大学者だった盧植の功績を称えて子供の世話をしたのかな?
荀イクとの対立は儒者かどうかの話ではないのなんて根拠すらない意味不明な言説なのよ
求賢令でも唯才という前の前置きで「儒学は大事だ」と丁寧に書いて
「それでも今は乱世なので儒学から外れる人でも」と前提を置いてるものだよ
それに上でも書いたけど当時の政治家はほぼ全員基本的に儒者だし
曹操自身が儒者で「古文の読解が得意」という理由で出世した事もある
本当に何を言ってるのか意味不明過ぎるんだ 二行目訂正
×荀イクとの対立は儒者かどうかの話ではないのなんて根拠すらない意味不明な言説なのよ
〇荀イクとの対立は儒者かどうかの話ではないし儒者嫌いなんて根拠すらない意味不明な言説なのよ >>958
「儒学の教養がある」ということと、「儒者である」こととは、イコールではない。
孔融や荀イクは「儒者」だが、曹操は「儒者」ではない。
孔融や荀イクらが、儒者としての立場から曹操をたびたび諌めたため、しばしば軋轢を生じたというのは、史実かどうかはともかく、三国志では有名なエピソードだ。
「それは史実ではない」というのなら分かるが、「何を言ってるのか分からない」というのはおかしいだろ(笑) >>960
そういうマイルール持ち出すからまた意味不明になるんだよなぁ
儒学を学んでその研究とかする人が儒者で曹操は古学に明るい事で出世した人ですぜ >>961
何がマイルールだよ。
古来から、曹操は通常、「法家」に分類されている。
三国志演義で曹操が悪役として描かれているのは、荀イク・孔融・崔エンと、高名な儒者と対立して次々に死なせたのが原因・・・というのは有名な話だ。
これが、まったくの儒教社会となった遥か後世の明では、なんとも評判が悪かった。
・・・というのは、あくまでも「三国志」の話であり、史実はそうではないかもしれない。
でも、マイルールってことはないだろ、こんな有名な話(笑) とは言うものの、「曹操は、じつは儒教を篤く尊崇していた」というのも、十分にあり得る。
それは否定しない。
なんといっても、実際に会って話をしたわけじゃないからな、曹操と でも、やっぱり、そうではないんじゃないかなあ。
行動パターンからしても、「法家」のほうがシックリ来る。
儒者を処刑するのは、儒教信者のやることではない。
「孫子の兵法の編纂者」としても名を残しているだけに、「兵家」に分類してもいいくらいだ。 漢代において儒家と法家の政治思想の衝突と融合が試みられ、
塩鉄論でまとめられたという経緯もみんな知らなそう >>965
「知らなそう」とか言ってるより、書いてくれや、その経緯とやらを >>958>>960
曹操の行動や政策に儒家要素全然無えだろ >>967
陶謙に父の曹嵩を殺害されたときは、思いっきり報復した
親孝行を重視する儒教の影響が、こんなところに表れている >>962
分類としての法家って諸子百家の分析だから時代が違う
またもマイルールですね、笑える
>>964
周の文王でありたいとか、周公旦のように人と接したいとか
本人の言動や著作は一貫して儒学者だよ
ちなみに正史三国志では「申商之法術」「韓白之奇策」を使って
「終能總御皇機」つまり尊皇という儒学的な事を成し遂げた人、って書いてあるわけですが
何で思い込みの主張をする人って春秋戦国時代の思想を軽視して
さらに後漢末から三国時代の儒教と政治の関わりも無視して
最後に正史三国志の中身すら読まないの?勘弁してよ >>969
親殺した奴に復讐心を抱くのは儒学以前に人間として当然の心理だろ? >>971
>分類としての法家って諸子百家の分析だから時代が違うまたもマイルールですね、笑える
これはマイルールじゃないよ。
かつて、中国共産党が「批林批孔運動」で儒教排斥してたとき、曹操は「法家を代表する人物」として、なぜか評価が急上昇した
それ以来、曹操といえば「法家思想」という位置づけが定着している >>971
曹操は兵書しか遺して無いから兵家だな、儒家じゃ無い >>973
現代からってことは古来からではないね
>>974
全三國文くらい調べてどうぞ ああ、曹操を法家に分類って共産党の政治運動を歴史として扱うファンタジーな人がいるのか
歴史じゃなくて政治の都合に合わせて分類してるから不思議な事になってるんだな
上でも書いたけど曹操って普通に儒学者
一回失脚した後に古学に明るい事で採用されたりしてるように
当時の後漢では若手の学者として活動してた事もある >>972
その辺の社会形成と価値観の醸成って、古代世界だと「当たり前」ではないよ
そもそも、家族と氏族の連続性とか、地域コミュニティとの相関とか、意外と難しい話 >>973
文革時代の歴史観における「人物」は、
生きている政治家を褒めあげたり批判したりするための比喩の素材でしかない
批林批孔運動における「孔子」とは四人組にとっての政敵・周恩来であり、
それとの整合性のために儒家と対立した法家が優れていると強調する必要が生じた
他方で秦の始皇帝や曹操は、「国家建設のために非情の刃を振った合理主義者」というイメージから
絶大的な権力を握った後の毛沢東を正当化し神格化するために利用された
秦の覇権が李斯などの法家の貢献によるものであるように、
曹操の覇権にも法家の影を見てこじつけただけのこと >>958
>求賢令でも唯才という前の前置きで「儒学は大事だ」と丁寧に書いて
「それでも今は乱世なので儒学から外れる人でも」と前提を置いてるものだよ
「ホントかな?」と思って見てみたけど、どこがだよ(笑)
要するに、「道徳的に問題があっても、使える人間を採用する。道徳的に立派でも、使えない人間は採用しない」という話で、
当時の儒教的な価値観に対する、真っ向からの挑戦状だ。
求賢令 原文(中国語サイト)
https://baike.baidu.com/item/%E6%B1%82%E8%B4%A4%E4%BB%A4/14893532 >>958
>曹操自身が儒者で「古文の読解が得意」という理由で出世した事もある
それは、今でいえば英語・数学・国語・理科・社会を勉強して大学に入り、役所に就職したってことだろ。
今とは違って、民間企業なんかない。就職先は役所しかないんだから当たり前。
そんなことより、権力を握った後でいかなる言動をしたかが問題なんじゃないか。 >>979
ちなみに、この求賢令を布告する2年前には、高名な儒者の孔融を殺害している。
さらに、2年後には荀イクを死に追い込んだ。 >>971
>964
>周の文王でありたいとか、周公旦のように人と接したいとか
本人の言動や著作は一貫して儒学者だよ
「周公は、人材募集に応募があったときは、食事の途中で食べてるものを吐き出してでも、すぐに面会した」
というエピソードをもとに、「自分もそれくらいの勢いで人材を集めたいものだ」という話だ。
それも、曹操が残した詩に、この周公の故事の一節が出てくるだけ。
そもそも、曹操は兵法書と詩集しか残していない。 >>976
>>978
まあ曹操は法家じゃないけど、共産党(または近代中国)の政治運動も立派な中国史ではある
新中国で形成された歴史観の日本人への影響って時代を越えて今なお強く残ってるし
歴史的に評価が低かったけど最近は見直されてますよ、な
キングダムの革新的な名君始皇帝像とか、多分それだろう 儒教道徳では君子は厨房に近寄ってすらダメなのに魏武四時食制とか料理レシピ本作ったりしてるあたり
そこまで儒教に拘っていたようには思えないけどな 何で春秋戦国時代のスレに三国志時代の曹操の話題が出てくるんだ?
春秋戦国時代といえばカイネだろw 笑っちゃいけない
現代日本における知名度では大多数の古代中国(戦国時代)人よりカイネの方が上やからな
さすがに始皇帝や孔子みたいな有名人には劣るけど >>980
「若必廉士而後可用」
「平和になったらかならず廉士を大事にする」ってここで前提を置いてるのよ
それでもって「唯才」と述べるのだけども、ちゃんと中身読んでます?
>>980
違います
古学に明るいってのは要するに儒教の古いテキストが読解できた人だったってこと
当時、今文派と古文派の儒学上の論争があって曹操は古文派として活動してた証拠
>>982
曹操は兵法書と詩集しか残してないのは誤り
そもそも詩集は書いてない、詩賦がそれぞれ独立して残ってる
あとは曹操による文章は様々な令が大量に残ってて
「どこそこの誰某は清廉の士である」と上表して官位に推薦したとか
ちゃんと儒教的な道徳観で曹操も物事を進めてる
>>983
それは共産党の政治史であってそこで語られた内容は歴史学でも歴史的な分析でもなんでもないからなぁ
影響強いのはそうだけどアレを真面目に歴史の話で持ち出す人はあれはさすがに頭毛沢東過ぎるじゃん?
>>984
孔子は論語の郷党編読む限りでは食い物の切り方にすら文句言って食べないし
酒も自家醸造でないと飲まなかったり火加減が悪かったりすると食わないとか
料理について一家言あるのは別に儒者として問題がある態度じゃない
朝鮮半島で後に独自の変化を遂げた朱子学だと飯を自分で食う奴は卑しいとかそんな話になるけど
上古から漢代くらいの時期ではそのような変な話にはなってないよ あ、ちなみに孟子が厨房に行くべきじゃないって言ってるのは
「君子ってのは食材の屠殺を見たら精神的にダメージ受けるし飯食えなくなるから」
ってことで、料理についてあれこれ言うべきではないとかそういう問題ではない
しかもその前段で牛が生贄にされるのを見た斉の宣王が
「牛さん可哀想!」って気持ちになったところを孟子が
「そりゃ現場見ちゃったら君子は基本そうなります」って前置きした後で
だから厨房に行かない方がいい、と上の言葉に繋がってる
君子の精神衛生上、厨房に近寄らない方がいいって話をしてるので
九ウン春酒法とかの料理レシピを楽しんでるのは儒教ではいいも悪いもない >>985
李牧の子孫は千年つづく家柄となり、唐で多くの宰相を輩出した。
「趙郡李氏」は唐朝4大貴族の1つ >>987
歴史の皮をかぶった現代はいつの時代も最強やから頭毛沢東じゃなくても感染する、それは仕方ないな。
かつて一般向け中国史の権威であった陳舜臣氏や蒼天航路や光栄に感銘を受けて
曹操→時代を超越した革新者→法家ノリで世界史スレに書き込む人とかがいても不思議じゃない。 >>895
この手のもうちょっと古い気がする古代中国or(春秋)戦国論、たまに見るけど
戦国の七雄各国が近代列強並みの力と富を持ってたんなら
古代中央集権国家の官僚制度や軍制を更に洗練、拡大した近世中華帝国が列強にボコられて
自己否定、大崩壊、中華ソビエト共和国化するわけないんだ… 唐以降の貴族は鮮卑系でしょ。李牧から血筋引くとか考えにくい
中国人韓国人は姓名をかえるのに抵抗ないから
英語圏に気化するとチャールズ李とかエリザベス朴とか平気で名乗る
古代中国人は小柄で名門貴族の袁紹なんかは、西域人の董卓に女みたいだと
いわれてる。曹操も小柄だった。だいた中世には古代中国人は殺し尽くされて
喰われてしまい、ビルマとか辺境の少数民族にのこってるといわれる。
(テレビでやったが子供みたいに小さい人種)
李牧の子孫がいたとしても打ち続く戦乱、城攻めで飢えて喰われてるでしょう >>992
まあ、そういう面はあるだろうけどねえ。
でも、漢人の論理を主張して鮮卑に抹殺された北魏の宰相・崔浩は、曹操に殺された儒者・崔エンの子孫。
曹操と北魏の太武帝は200年くらいしか離れてない。
この清河崔氏も、唐では名門中の名門、門閥貴族の筆頭とされる家格で、多くの宰相を輩出した。
唐末の混乱の中で滅亡した。 琅邪や太原の王氏なんかも唐代には貴族として生き残っていたんでは無かったか? 李牧個人の血筋は、紀元前だけで
本人の失脚死亡、趙及び戦国時代の終焉、秦末漢初動乱のトリプルパンチくらってるから
三国辺りの名族とは比べ物にならんほどハードル高そう >>960
> 史実かどうかはともかく、三国志では有名なエピソードだ。
> 「それは史実ではない」というのなら分かるが、「何を言ってるのか分からない」というのはおかしいだろ(笑)
『史実かどうかはともかく、三国志では有名なエピソードだ』
噴飯ものの名セリフだなw
ツッコミ入れられて逆ギレ 超ウケルwww >>995
それを言ったら、滎陽鄭氏は李牧の子孫よりさらに古い
春秋の鄭国にさかのぼるとされる最古の家柄 >>996
その「三国志では有名なエピソードだ」とか、「中国共産党の批林批孔運動で定説になった」という話は、「だから正しい」というわけではない。
史実が、それとは異なる可能性はもちろんある。
それは、お前が「曹操は儒家だった」などという素っ頓狂な自説を、いかにも定説というか、世間の常識くらいな調子で言ってるから、
「ちょっと待て。少なくとも、定説ではないだろ」というだけだ(笑) >>994
南朝で全盛を極めた琅邪王氏や陳郡謝氏は、隋唐では、清河崔氏を始めとする北朝系の門閥貴族の家格には及ばなかったようだ。
「王謝」と並び称された南朝2大貴族の栄華は人々の記憶に残ったようで、有名な唐詩にもうたわれている。
朱雀橋邊 野草の花
烏衣巷口 夕陽斜めなり
舊時王謝 堂前の燕
飛んで尋常 百姓の家に入る カイネおねーさんが活躍した春秋戦国時代のスレ、これにて終了。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 431日 3時間 46分 49秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。