ベネルクス三国の歴史
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オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの歴史について語るスレです
中世からヨーロッパの先進地域だったこの三国の歴史について語りましょう 神聖ローマ皇帝のカール5世はブルゴーニュの生まれだけど、
フランス語が母語で、ドイツ語は生涯ものにできなかった人なんだよな カール5世自身は自分がフランドル人だという意識持ってたんかね? >>3
この時代のヨーロッパの王侯貴族ならキリスト教徒とか、
ハプスブルク家の人間という意識のほうが強かったのでは
最後は生まれ故郷のフランドルではなく、スペイン南部の
ユステの修道院で生涯を終えたし フランドルは、イングランドだけでなく、カスティーリャからも羊毛を輸入していた
なかでもカスティーリャ北部の都市ブルゴスは、フランドルをはじめとする
北ヨーロッパとの貿易によって大きな利益を上げていた ネーデルラント独立戦争で途中から離脱した南部、
以降はスペイン側に立って北部と戦う事になったんかな
そういえばその後の三十年戦争で皇帝軍の総大将を務めた
ティリーは南部の出身だったか 南部からプロテスタントが北部に逃げだしたけど、
逆に北部から南部に逃げだしたカトリック系住民もいたんだよな アントウェルペンは1585年にスペイン軍に制圧され、プロテスタント勢力は
完全に鎮圧されてしまう
住民はカトリック信仰の遵守か2年以内の退去かの選択を迫られたため、
全市民の40%がこの街を去り、その多くはオランダに移住する
とくに裕福な貿易商の大半を受け入れたアムステルダムは、早々と
アントウェルペンに代わる国際的貿易港としての地位を固めた スペイン領ネーデルラント総督になったアルブレヒト大公とイサベラ大公妃夫妻が、
地元の貴族や有力市民を政治・軍事の重要なポストに登用し、経済復興に
力を入れたんだよな 南部はずっと北部憎しプロテスタント憎しの感情が強かったんかね(今でも?) >>10
最初は南部のほうがカルヴァン派が流入したのは早かった
北部にカルヴァン派が根付くのは10年余り遅い
むしろ先進地帯の南部のほうが宗教対立が先鋭化していた フェリペ2世は父親のカール5世から借金だらけの王国を受け継いだんだが、
ある意味気の毒な気がする
カール5世はフランドルの人々から「地元出身の君主」と思われていたが、
息子のフェリペは完全なスペイン人だしな ベルギーでは、WWU後10年近くもの間、戦争の影をひきずった特異な制度が
存続していた。それは、国民は各種の免許や資格を取得するにあたって、
必ず「公民証」を提示しなければならない、という制度だった。
この公民証とは、その保持者が戦争中「対独協力者」ではなかったことを
証明するために国家が発行した書類のことで、それなしでは、
市民は銀行で小切手帳を作成してもらうことすらできなかったのである。 なぜそんな証明書を、国民一人一人に求める必要があったかというと、
そうした制度を必要とせざるを得ないくらい、ベルギーでは
ドイツに協力した人間が多かったということなのである。
WWU中、ベルギーはドイツに占領されたが、フラマン系の人たちの中には、
これを自分たちの勢力拡大のための好機と捉え、それを歓迎する人たちも存在していた。
しかしワロン系の住民はドイツ支配に対して強い反発の姿勢を示していた。 戦後、ドイツに協力したとして死刑の宣告を受けた人は、ベルギー全土で実に
2940人にものぼっている(実際に刑を執行されたのは242人)。
しかも、これらの判決を下した軍事法廷に対して、フラマン系の住民たちは、
「裁判とは名ばかりで、実態はワロンによるフラマンへの報復の場にすぎなかった」と
非難し続けている。 オランダのロッテルダム港はヨーロッパにおける石油貿易の中心地
オランダは石油情報に関しては大国
ベルギーのアントウェルペンはダイヤモンド取引の中心地
ルクセンブルクはユーロ圏を代表する国際金融センター ルクセンブルクは今でこそ小さな目立たない国だけど
中世は神聖ローマ皇帝も輩出したそこそこの大国だったんだよなあ
全然イメージがわかない 17世紀のオランダで、レイデンの毛織物業とハールレムの亜麻織物工業が
急成長したが、これは南部からの多数の移住者のおかげ ベルギーが一早く産業革命に漕ぎつけられたのも
、ネーデルラントで亜麻織物の問屋制家内工業が活発だったおかげ
単に資源が豊かだったっていうのもあるけどね 実は、西洋美術のリアルな絵画の起源もこの地域なんだよな
フランドル地方のファンエイクの「アルノルフィーニ夫妻像」は油彩画の先駆であり、記念碑的作品 >>24
貴重な北方ルネサンス絵画も、プロテスタントによる聖画像破壊で多くが失われたとか
ファン・エイク兄弟作の《ヘントの祭壇画》は幸運にも破壊を免れた フランダースの犬はベルギーを舞台としたイギリスの児童小説。
日本でアニメ化される以前にアメリカで映画化もされてたのね ネーデルラントの北部だけがスペインから独立できたのは、
複雑に入り組んだライン川とマース川の下流の三角州地帯を越えて、
北に進軍するのが困難だったことが大きく、
多分に偶然の要素がからんでいる レオポルド1世のコンゴ自由国はひどいよな
住民は象牙やゴムの採集を強制され、規定の量に到達できないと
手足を切断するという残虐な刑罰が容赦なく科された 中世フランドルの都市、アントウェルペンに比べるとブリュッセルはあまり目立たない感ある(気のせい?) アントウェルペンが栄える前はブリュージュ(ブルッヘ)が繁栄してなかったっけ オランダから独立した後のベルギーはアフリカのコンゴへ進出したけど
オランダのほう(19C半ば以降)は再び植民地獲得へ乗り出そうとは
しなかったんかな。
17C黄金時代の遺産で事足りてて別に乗り出すまでもなかった? >>31
オランダは世界のあちこちに植民地を持とうとしても、
人口の少なさがネックになった カトリックのベルギーはワッフルやビール煮なんかでプロテスタントの
オランダに比べれば食はマシなイメージ >>33
ベルギー料理はフランス料理と並んで、ヨーロッパでは評判の美味 >>31
オランダ領東インド(インドネシア)は19世紀半ば以降も領土拡大しとるで
アチェなんて20世紀に入ってからだからな、オランダ領になったのは アジアにおけるポルトガルは点と線の支配しかできなかった
これに対してオランダは面の支配に移行した 独仏に挟まれ両者に翻弄されただけあって外交面でしたたかなんかね? オランダ=ルトガー・ハウアー
ベルギー=ジャン・クロード・ヴァン・ダム
ルクセンブルク=orz・・・ >>36
それまでの各島同士の歴史的つながりが薄かったインドネシアが現在一つの国として成立してるのは、
近代になってオランダが面の支配に移行したことで領域内に統一性が生まれたからでもあるしな 19C以降のオランダが再びアフリカ大陸へ進出する事はなかったか。
ベルギーのほうはリヴィングストンを発見したスタンリーがその片棒担いでたな。 >>41
当時コンゴ以外に植民地を持っていなかったベルギーと違ってオランダは一応インドネシアをすでに持ってたからじゃね?
インドネシア方面での領土拡大がオランダにとってはメインであってアフリカに新たに進出する気はなかったんじゃないか? オランダはカリブ海と、オランダ領スリナムにも植民地を持っていた
あと、南アフリカにはボーア人が入植していたな >>43
南アフリカのオランダ支配はまさに19世紀初頭に途絶えたな
ナポレオン戦争でイギリスにケープ植民地を奪われてしまった
ベルギーがコンゴ進出とかしてた頃にはオランダはもうアフリカの植民地を失っていた いうてボーア人共和国はもうオランダから独立してるでしょ スリランカが一時オランダ領セイロンだった時期があるということは
ほとんど知られていないな >>45
ボーア人共和国(オレンジ自由国とかトランスヴぁ―ル共和国とか)の成立は、
ケープ植民地がオランダ領からイギリス領に遷った後の話だな
イギリスの支配を嫌ったボーア人たちが北へ移動して建国したわけで、
オランダ系住民による国ではあったがオランダ本国の支配は確かに受けていないな >>46
セイロン(スリランカ)がオランダ領じゃなくなったのもナポレオン戦争の時だな
オランダはナポレオン戦争でイギリスに植民地を大量に奪われてるんだよな
セイロンもケープ植民地もマラッカも全部この時にオランダ領からイギリス領に変わってしまった カリブ海のオランダ植民地は、1954年に六つの島からなる「オランダ領アンティル」
としてオランダ王国を構成する自治領となった
1986年にアルバ等が単独の自治領となり、「オランダ領アンティル」は2010年に
解体されたが、各島はオランダ王国から独立することなく自治領および準自治領
(基礎自治体)としてオランダ領土の一部にとどまっている オランダの黒人は旧領スリナムからの移民が多そうなイメージあるけど,
スリナム黒人の中にはケープ植民地から連れてこられたコサ族の子孫も
多いん? ベルギーの兵器産業って、日本ではほとんど知られていないよね
FN Herstal 社とか。 ベルギーのフラマン人ってオランダ語と自分達の母語であるフラマン語との違いを
(ナショナリズムの観点から)強調する傾向にある?
「あいつらの言葉と自分達の言葉は別物だ」みたいな感じで オランダは中世以来ずっと主食穀物を自給できず、ドイツ東部やポーランドから
バルト海経由で輸入していたんだよな
17世紀になって突然バルト海貿易が始まったわけではない コンゴ自由国の人口は、当初2〜3000万人と見積もられていたが、
レオポルド2世の治世が終わった段階で800万人にまで人口が減っている
少なく見積もってもその間の20年強で優に1000万人以上の命が奪われたという
ことになり、世界史上最大のジェノサイドだといわれる所以である この地域は独・仏・伊・北欧・ロシアと違って世界的に有名なクラシックの
作曲家が出てこなかったな クラシックの作曲家を輩出した国は後進国が多いよね
たぶんナショナリズムが絡んでいると思う
現在の韓国が、韓流ドラマを外国に輸出して、
海外に自国の文化を認めさせようとしているのと同じ 18C以降の文学だとメグレ警部のジョルジュ・シムノンとか青い鳥のメーテルリンクがいたか 逆に、この地域は世界的に有名な画家には恵まれてるんだよな
フェルメール、レンブラント、ゴッホ、ブリューゲル…・・・・みんなベネルクス地域の画家だ
音楽は不毛でも美術はめちゃくちゃ栄えてた >>60
オランダが栄えた17世紀までは
有名な画家が多かったが以後は衰退
ゴッホは実質的にはフランスの画家だし >>20
あと、変わり種としてはメーヘレンもいるな
フェルメールの贋作で有名になったタイプだからちょっと趣旨からはズレるが >>63
あと、変わり種としてはメーヘレンもいるな
フェルメールの贋作で有名になったタイプだからちょっと趣旨からはズレるが 17世紀のオランダ画家の大半は高邁な理論には縁のない職人たちであって、
旧態依然たる各都市のギルドに所属して日々の活動を送っていた
こうした点から見れば、17世紀のオランダの芸術状況はまた一方では
長い中世の最期の到達点でもあった
この時代のオランダの風俗画や静物画に、写実的な外見にもかかわらず
死の想念や恋愛の諸相などに関する教訓的な寓意や象徴を秘めたものが多く、
しかもそうした寓意や象徴が画家の個人的な連想の産物ではなく共有された
コードに基づいている点も、19世紀後半以降の近代絵画との大きな相違である >>66
見た目は近代絵画っぽいのに中世の絵画の名残もあるってのは面白いな
オランダで絵画が栄えたのがまさに中世から近世への移行期だったからなんだろうな
フェルメールやレンブラントのような有名な画家の絵もそうなんかな? >>67
フェルメールの絵は、その絵の意味を寓意する画中画が描かれた作品が多いね
たとえば女性が秤を持っている絵があるけど、明らかに最後の審判で
大天使ミカエルが持つ秤の寓意 初期フランドル派(北方ルネサンス)はイタリアに先行して、緻密な油彩画を完成させた >>68
なるほどなあ
一見すると非宗教的な絵画のように見えるけど実は宗教的モチーフが存分に使われていたのか 中世のネーデルラント北部には、ホラント伯領、ユトレヒト司教領、ヘレル伯領
などがあったが、南部に比べると影が薄いな 低地ドイツ語の変種(?)であるオランダ語だけど,オランダでもフラクトゥールは
伝統的に使われてきた? 中世のフリースラントは、実質的な領主のいない状態が長く続き、
14、15世紀になると、禁酒法時代のアメリカのギャング団に似た私的権力組織が
住民を支配するようになったとか
自由農の国フリースラントと呼ばれるが、住民は自由を謳歌するというより、
アナーキーな無法状態に呻吟していたとみる人もいる 神聖ローマ帝国の領邦にはそういうところ結構あるよね ユグノー系オランダ人:オランダ語読みの名・フランス語読みの姓
ワロン化したフラマン人:フランス語読みの名・オランダ語読みの姓
オランダ領時代にユグノーが多く移住した南アの場合,現地のアフリカーナの間では
前者の形式が見られる反面,アンドレ・ファン・〜とかフランソワ・ファン・〜みたく
後者の形式も見られるのな オランダは最初、スペイン国王に代わってフランス国王アンリ3世の弟で、
カトリックのアンジュー侯フランソワを君主として戴くことに決めていた
しかし反乱州側の思惑の違いから、これは失敗に終わる
次にフランス国王アンリ3世に主権の提供を申し出るがこれは断られ、
さらにイギリスのエリザベス1世にも同じ申し出をするがこれも断られた
こうして外国から君主を迎える計画がすべて失敗したので、やむなく共和国という
形をとったのであって、最初から共和国をつくることを目指していたわけではない >>77
>イギリスのエリザベス1世にも同じ申し出をするがこれも断られた
その後イギリスは共和制をとったオランダから皮肉にも(?)君主を迎えるハメになってたか 少し前に植民地の話題があがってたけど,ベルギー領アフリカ諸国だと
旧ザイールのほうのコンゴや激しい民族紛争で知られるようになった
ルワンダにくらべるとブルンジは陰薄い感 ブルンジはベルギーがドイツから引き継いだ植民地で、ブルンジ王国を存続させて
間接統治を実施したからな
それでもブルンジ内戦が勃発しているけど、国際社会からはなぜか忘れられている 近世のオランダ共和国はなぜあんなに分権的だったんだろう
州がそれぞれ主権を有していただけでなく、海軍をつかさどる
海事局も五つもあった
やっぱり神聖ローマ帝国の一部だった歴史があるから? >>81
そもそも最初は分権的どころか完全に各州がそれぞれ別々の独立した領邦国家だったからだろ
スペインからの独立戦争を勝ち抜くために同盟を組んでいたに過ぎないわけで、
それ以外の面ではそれぞれ別々の歴史・伝統に基づく社会制度を持った国家だった
アメリカ合衆国の各州みたいなもんだな
イギリスから独立するための同盟としてあくまでも成立しただけで、
本来は別々の歴史を持つ植民地だったから、独立後も州権が強くなった
オランダも似たようなものだろう 日本に対する注文、
スターリンが生まれた国「グルジアゆわんといて。ジョージアと呼んで」はあっても
オランダ「オランダ(ホーラント)ゆわんといて。ネーデルラントと呼んで」は
聞かんね >>83
日本に限らずオランダ(ホラント)という国名で呼んでる国は結構多いからなあ
諦めてるんじゃない? フランス語だとオランダは低地という意味のぺ・バでオランダ人はネエルランデ。
ぺ・バゼかオランデかと思ってた。 17世紀のオランダでは、武器産業も発達した
武器貿易商人は、スウェーデン、デンマーク、イングランド、フランス、
ヴェネツィアに、場合によっては、敵国のスペインにも武器を売った
このためオランダにとって、スウェーデン産の銅は、大砲の製造に
欠かせないものとなった >>87
武器製造についてのオランダとスウェーデンの関係と言えば、
オラニエ公マウリッツ下のオランダにスウェーデン王グスタフ・アドルフが兵器工場見学に来たというエピソードが有名だな
当時のスウェーデンの強国化の一端をオランダは担ったわけだ オランダから分離独立した後のベルギーがサックス・コーブルク・ゴータではなく
かつての支配者であったハプスブルクから君主を迎えてた場合,ハプスブルク系の
君主制国家が本国以外で生き残った形となったんかな
(ブルボン系の君主制国家がフランス本国以外で生き残ってるみたく) >>90
ハプスブルク家から君主を迎える案は、オーストリアの強大化につながるので、
他の列強が反対して潰したんじゃないかな >>89
どちらも17世紀に最盛期を迎え18世紀に衰退したという点では確かに似た者国家だったのかもな
三十年戦争においてはお互いプロテスタントの反ハプスブルクということで協力関係にあったし オランダとスウェーデン、どちらも人口が少ないから
何をしようとも、どこかで限界にぶつかったかも オランダ:ハウステンボス、ゴッホ
ベルギー:フランダースの犬
大昔は↑のイメージ持ってますたorz オランダは、17世紀末には経済大国の地位をイングランドとフランスに譲ったが、
それ以降も、国際金融の中心という地位は保持し、多数の外国政府に巨額の融資を
行って利子所得を得ていた
日本で一般に考えられているように、全盛期を過ぎたあと急激に没落したわけではない 衰退した後も国際金融の中心としての地位は保ち続けてたのってまるで今のイギリスみたいだな オランダが没落したのはナポレオン戦争の後ってイメージ オランダは結局、フランス帝国に併合されてしまうんだが、
これはオランダ経済に壊滅的打撃を与えた
イギリスやその植民地との通商が全面的に禁じられたため
オランダの植民地も大半がイギリスに奪われてしまった >>97
ナポレオン戦争の結果、イギリスに植民地をほとんど奪われたのが決定的だったな
ケープ植民地もマラッカもセイロンも全部イギリスに奪われてしまった
そりゃあ列強から没落するわ トマス・スタンフォード・ラッフルズはオランダ人のことを
ボロクソにけなしているな オランダ東インド会社の兵士にはドイツ人も多くて,このうちケープ植民地へ配属された連中の中には
南アのアフリカーナの先祖となった者もいたんだっけか。
アフリカーナの間でよく見かけるボータ姓の人も先祖はオランダ東インド会社のドイツ人兵士だった
ttp://home.mweb.co.za/el/elijo/eng/history.html >>97
ナポレオン戦争後のウィーン会議で、オランダは南ネーデルランデン(現ベルギー)と
合邦して「ネーデルランデン連合王国」となった
またルクセンブルク大公国も、ウィレム1世が大公として併せ領有することになった
しかし残された植民地は東インドだけだった
イギリスはネーデルランデン連合王国をフランスに対する重石にするつもりだった かつて、オランダがブラジルの一部を支配していた時期があるということは
ほとんど知られていないな >>103
17C頃にペルナンブコあたりを占領してたんだっけ 1624年にオランダ西インド会社軍が北東部のサルヴァドールを占領した
ブラジル人はこれに対してゲリラ的な抵抗を続け、一度はオランダ人を
追い出したものの、1630年には西インド会社の攻撃によってオリンダと
レシーフェが占領された 魔女狩りはカトリックでもプロテスタントでも行われてたイメージあるけど
17Cのオランダでは結構激しかった?
それにはカルヴァン派が大きく影響してたりする? 1621年、バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、自ら2000人の兵を
率いてバンダ島に上陸し、問答無用で片端から住民の殺戮を始めた
1500人の島民はすべて殺されるか奴隷としてジャワ島へ連れ帰られるかしたため、
島には住民がまったくいなくなった
クーンは新たに奴隷を島に送り込むとともに、ヨーロッパ出身者に農園を賃貸する
形でナツメグ生産を始めさせた
クーンの名は、「バンダの殺戮者」として今日まで記憶されている ここまで江戸時代における日本とオランダとの交流ネタなし。
まあ世界史板だからねぇ・・・ オランダは台湾を統治していた時期もあった
台湾には今でもゼーランディア城が残る 19Cにベルギーがオランダから独立しないまま現在に至ったらカタルーニャみたく
分離運動がさかんにおこなわれてたりして そしてワロン語地域はフランスとくっついたりして
それはそれで面白かったかもしれんが 経済史だとオランダのチューリップ・バブルが有名だな
当時チューリップはオスマン帝国から入ってきた珍しい花で、
皆が争って投資した オランダの首都はアムステルダム・・・
と思いきや王宮や政府機関はハーグに置かれてるのか オランダを構成している各州、三十年戦争の頃はみんな反皇帝軍で一致団結してたのか
はたまた利害関係の不一致から皇帝軍側につく州もあったのか ヨーロッパのたいていの国では近世以降、絶対王政に向かうが、
オランダでは逆に身分制議会の力が強くなったんだよな カラーテレビの放送規格、ルクセンブルクがSECAMなのはフランスの影響?
ttps://www.exa-int.co.jp/img/print/convert/pdf/tv_houshiki.pdf ルクセンブルクというと国よりもローザ・ルクセンブルクのほうが思い浮かぶorz >>101
そういえばシーボルトもドイツ出身だったな
日本の文物を収集し、日本地図を持ち出そうとして捕らえらえた
この時代のヨーロッパ人の知的好奇心はものすごいと思う
アジアでもアフリカでも、体系的な情報収集を行っていた ルクセンブルクのLuxは光を意味するラテン語かと思いきや違ったのか フランク人の母語フランク語がオランダ語のご先祖様だった事をつい最近になって知りました。
カール大帝が日常会話としていたであろう言語の末裔がオランダ語だったのか・・・ オランダの植民地支配で有名なのが強制栽培制度
ジャワの農民に耕地の20%、ないしは労働時間の20%を、オランダ政府の指定した
作物(コーヒー、サトウキビ、茶、タバコ、藍など)の栽培に割くように強制したもので
現実にはこの20%という数字は守られず、農民に重い負担としてのしかかり、
かなりの餓死者が出た年もある ケープ植民地がずっとオランダ領のままだったとしても20C後半にはアルジェリアの
コロンみたく白人入植者がオランダ本国へ引き揚げていったのか、はたまたローデシア
同様、白人入植者が独自の政府を築いてアフリカ人の民族運動に対抗していったのか
>>123
レオポルド2世の私有地だった頃のコンゴもアレだけどオランダも負けず劣らずか ベネルクス関係ないがオランダ領ケープ植民地の白人社会がオランダ人だけでなく
ドイツ人やフランス人も混在してたのと同様,アルジェリアのコロン社会もフランス人
だけでなくイタリア人やスペイン人が混在してたか >>122
ほお
ではフランク王国時代は現在のフランス語よりもドイツ語に近い言語で会話されていたわけか 八十年戦争の間、アムステルダムは敵との貿易からも巨大な利益を得ていた
スペインは大量の穀物を必要としていたが、アムステルダムの商人は批判の声を
無視して、敵に食糧を売ることに何の良心の呵責も感じなかったといわれている
オランダの船に破壊されたスペイン艦隊は、アムステルダムが供給する木材で
再建された
スペインの兵士の給与はアムステルダム商人からの融資で支払われた
大砲や銃は、スペイン国王の敵となったアムステルダムから大量に供給された 共産主義という存在があったからこそ食っていけたアメリカの軍産複合体と
どことなく被る感ある>アムス商人 17世紀のレイデンは西欧最大の毛織物工業都市に成長した
しかも原料の羊毛は大部分がスペインのメリノ羊毛だったから、
スペインとは長い戦争中だったにもかかわらず、羊毛の
大量輸入が続いていた
スペインはたびたびこれを止めようとしたが、かえって自国の
首を絞める結果となり、めったに成功しなかった オランダ語、低地ドイツ語の一派だけど結構独特な感じがする。
他のゲルマン系言語ではFで綴る物をオランダ語ではVで綴ったり(Veld,Vlagなど),
ij,ui,aa,uuのような母音アルファベットの綴りがあったり,Gを【x】で発音したりとか。
ついでながらuiはカタカナだとアウで表記されたりオイで表記されたりだけど,発音記号
見てみたらドイツ語のウムラウトOウムラウトUと同じだった。 オランダの吉原ことアムス飾り窓地区
飾り窓地区自体はオランダ各都市にもあるっぽいけど ベルギーを舞台としたイギリスの児童小説「フランダースの犬」。
原作の主人公は15歳だったそうだが,日本でのアニメ化以前にアメリカで実写映画化
された時点で主人公の年齢を下げてたみたいやな(主人公役は当時12歳か)
>>131
>ドイツ語のウムラウトOウムラウトU
ドイツ語でウムラウトOウムラウトUの綴りがあったとしてこれをカタカナ表記にすると
"エユ"となるか 八十年戦争時のオランダ軍には、イングランド人、フランス人、スコットランド人、
ワロン人、ドイツ人も加わっていたんだよな
当時の軍隊は傭兵が大部分を占めていた
もちろん、敵方のスペイン軍も同様だった オランダの人達ってベルギー(フランドル)側の連中が独立戦争時に離脱したのを
現在も根に持ってる?そんなのはさすがに大昔の話なんであんま気にしてない? >>135
南部が離脱したんじゃなくて、北部だけが幸運に恵まれて
独立できたといったほうが正しい
本当は南部もスペイン支配から逃れたかったのだが、
北部のような地理的条件に恵まれていなかった 同じカルヴァン派でもユグノーやピューリタンが信仰に情熱を注いでたのにくらべると
オランダは通商とか交易に情熱注いでる感あった。
もちろん信仰に情熱注いでた狂信者もいたとは思うけど 1618年11月にドルドレヒトで開かれた全国教会会議で、予定説を厳格に解釈する
ドルドレヒト教会規則が採択され、これを主張してきたいわゆるホマルス派の
勝利に終わった
敗れたアルミニウス派の牧師は職を失った
しかしこれによって改革派教会がオランダの国教会になることはなかったし、
教会が国家の上に立つ神政政治が実現することもなかった カルヴァン派・・・手工業や商業・金融業の担い手を輩出してる反面、娯楽や遊興を禁じたりと
窮屈なイメージもある。カトリックのほうもメディチ家失脚後に聖職者サヴォナローラが
似たような事やってた気がするけど オランダではカルヴィニズムは公認のキリスト教とされただけで、
国教にはならなかった
他方カトリックの公然たる礼拝は禁止され、カトリック教徒は
教会を持つこともできなかったが、隠れ教会は許されていた
しかしカトリック教徒は公職に就くことはできず、二流の市民として扱われた
宗教的寛容はかろうじて守られたが、ユダヤ教のシナゴーグは認めながら、
カトリックの教会は許されないという何ともちぐはぐな宗教的寛容だった ベルギーの次期女王様(予定)
永世中立国ベルギーの、悲しき建国物語
https://youtu.be/GHEsoGvaDDQ ベルギーが独立せぬままオランダの一地域になってた場合,旧ザイールのほうのコンゴは
フランスが手を付けてたんかな 植民地独立までのコンゴでのダイヤモンド採掘は、ベルギー政府が権益の過半を
所有するフォルミニエール社によって行われていたな
フォルミニエール社にはアメリカ資本も参画し、1929年にベルギー領コンゴは、
南アフリカに次いで世界第二位のダイヤモンドの生産地になった ウラン鉱石もあるし後々冷戦の争点にもなる重要地域なんだよな オランダ王室(オラニエ・ナッサウ家)とベルギー王室(サクス・コブール・エ・ゴタ家)、
家格としてはどちらが上?その件で両国が意地の張り合いなんかもやってたりする? >>144
モブツが長い間ザイールの大統領でいられたのも、西側諸国が、ザイール情勢が
不安定化し、アンゴラなどの共産主義勢力が拡張することを怖れて、モブツを
間接・直接に支援してきたからなんだよな 旧ベルギーコンゴというと天然資源の宝庫であるカタンガで分離運動がおこってたな コンゴを独立に導いたルムンバは、独立後の混乱の中でベルギー政府と
側近の政治家たちの策略にはまり、道なかばで殺害されてしまう 独立後=独立前(by公安軍司令官)
独立直後のコンゴで白人入植者が凄惨な目に合ったのはある意味この人のせい 植民地ネタぶった切って申し訳ないけど,19Cのオランダってお隣ドイツと同じく,
ゲルマン神話ブームがおこってたんかな?新生児にゲルマン神話ゆかりの
名前が付けられたりでゲルマン神話が持て囃されたりとか 名誉革命後、ウィレム(ウィリアム3世)は、アイルランドでフランスの助けを得て
ジェームズ2世が抵抗を続けたので、ウィレムは陣頭に立ってこれと激しく戦い、
多くのオランダ人の血が流されたが、この点はイギリス史ではなぜかあまり
ふれることがない >>152
日本の世界史の授業でも・・・
名誉革命でジェームズ2世追い出し娘夫婦がイングランド王となってめでたしめでたしだもんなあ・・・ >>152
イギリス史ってのは、事実上イングランド史ってことか イギリス(グレートブリテン=北アイルランド)はイングランドの転訛
オランダ(ネーデルラント)はイングランドの転訛
グレートブリテン=北アイルランドがイングランド王国の延長線として語られるのに対し
ネーデルラントのほうはホーラント州の延長線として語られてるの見た事ない。
ホーラント一州だけでなく他州ひっくるめて語られてるな >ホーラント一州だけでなく他州ひっくるめて語られてるな
この部分取り消しますorz イギリス(グレートブリテン=北アイルランド)はイングランドの転訛
オランダ(ネーデルラント)はホーラントの転訛
グレートブリテン=北アイルランドがイングランド王国の延長線として語られるのに対し
ネーデルラントのほうはホーラント州の延長線として語られてるの見た事ない。
大変スマソ・・・orz アムステルダム市はホラント州財政の約44%(連邦財政の約25%)を担っていたため、
州議会を牛耳り、さらには連邦議会にも絶大な発言力をもつにいたった
ある意味ではアムステルダム市の意向がオランダ共和国の政治全体を動かしていたと
いっても過言ではない >>153
外国に自国の王様攻めてくれるようにお願いして、それが成功したら名誉って日本の感覚では理解不能だよな
ま、権利の章典が誇りってんなら、分からなくもないが イギリスの、クロムウェルをはじめとする共和政期の政治家が、おしなべて露骨な
拡張主義者だったことは、日本ではあまり知られていない
スコットランドとアイルランドの征服は、悪魔を成敗するという名目で、
一気に進められた
また、「悪魔の国」スペインを倒すべく、スペイン領アメリカ植民地に
大艦隊を送り込み、1655年、ジャマイカを奪い取った
そして革命期のイギリスが、最大の敵国とみなしたのはオランダだった
1651年、有名な「航海条例」を出して、オランダ商船の締め出しを狙う >>159
UAEにおけるアブダビみたいな感じがするけど,ホーラントに反感持つ各州が同盟結んで
内戦おこしてそう
>>161
クロムウェル体制下のイングランドVSオランダ,
カルヴァン派勢力同士の抗争なのね(宗教は関係なかろうけど) ルクセンブルク人ってアルザス人みたく”フランス語形の名前・ドイツ風の姓”の名乗りなのね そういえばフラマン姓持ってるベルギー人の中にも名前がフランス語形な人を見かけるけど
フランス語が優勢だった頃に”寄らば大樹の陰”とか“多数派でいたい”みたいな感じで
ワロン化してったフラマン人の系譜なんやろか ネーデンルランデン連合王国のなかで南部は、人口・産業・言語(国際語のフランス語)
などの点で自分たちこそが優位に立つ資格があると自負していたそうで… ベルギーは南部のリエージュ付近が石炭が豊富だったので、
イギリスの次に産業革命が始まった ベルギーのブリュッセルにはEUやNATOの本部があるが,EU本部では
ヨーロッパ統合の象徴としてシャルルマーニュの像も立てられてるんだろうか アフリカで採掘された「紛争ダイヤモンド」は、いったんベルギーのアントワープに
持ち込まれる
アントワープには、紛争地で採掘されたダイヤモンドでも買い取ってくれる
バイヤーが存在する
取引が終了すると、原石はデビアス社の子会社であるダイヤモンド・トレーディング・
カンパニーに集積され、インドの研磨産業が発展している加工地(スーラト)に
直接輸送され、多くの国を経由しながら通常5〜6回もの転売が繰り返される ベルギーでワロン化したフラマン人はいても逆にフラマン化したワロン人はいなかったりして。
姓はワロン風だが母語はフラマン語で名前もフラマン風な人とか 18世紀にロンドンをアムステルダムに代わって世界の金融の中心に
押し上げたのは、ポルトガル経由で流入したブラジルの金だった
もしブラジル産の金がなかったら、金融面におけるアムステルダムの覇権は
もう少し長く続いていたんだろうか? >>140
19C前半にベルギーがオランダから分離独立したのもカトリックへの差別が激しく
教会閉鎖とか資産没収なんかがおこなわれたから? ベルギーやバルカン諸国もそうだが19Cヨーロッパの新興国家ではどの国も君主制をとってるな
(その供給源はセルビアやモンテネグロ除けばドイツの各諸侯家か) >>173
当時はまだヨーロッパでは君主制がデフォルトだった時代だからな
共和制なんてのはフランス革命による負の遺産という認識がまだ強かった時代だ
ヨーロッパの新興独立国が共和制でも無問題になったのは第一次世界大戦後だろうな
この時にできたフィンランドやポーランドとかの新興独立国はみな共和制になってる フィンランドは当初、ドイツから諸侯を招いて国王に据えようとしてたけどドイツ降伏でおじゃんになったのよね 第一次大戦後のハンガリーは君主なき君主制国家となったな オランダは独立当初は共和制を採用し、その後も数百年は君主を戴かず続いてたのに、
ウィーン会議後に、当時の国際世論の影響を受けて君主制国家になった稀有な例だな 欧米では、これまで17世紀のオランダは本質的に平和的だったと描かれてきたが、
東南アジアをはじめ海外の植民地では別に平和的ではなかったよな >>178
そんなこと言ったら、帝国主義時代までのヨーロッパ諸国なんてどこも基本的にそうだがな
あくまでもヨーロッパの本国においては平和だったと言うことだろう
そして、八十年戦争後のオランダ本国に関しては実際そう言っても間違いではない >>51
アニメやFPS/TPSゲームでデザインの関係でFN P90が人気
日本だけじゃなく米国のCODでも登場する
あと陸自も採用のミニミ >>18
オランダの花卉園芸・種苗
ケニアなどアフリカから花を輸入してヨーロッパ各国へ
日本には来ないから日本での知名度はない オランダ人の歴史認識についてだが、彼らはオランダ領東インドにおける
植民地主義は「倫理的政策」を基礎にしており、他のヨーロッパ諸国の
帝国主義とは「違って」いたと思っている >>180
>ミニミ
シャラララ ラララ〜♪
MINIMIではなくMINMIか(汗) 王国が成立した当初の19Cオランダではカトリックへの差別が制度化されてて
その事がベルギー分離独立の背景にもなってた? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています