ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ15
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ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
文明が終わるということ
識字率そこそこ → 神父以外文盲
上下水道完備 → 糞尿垂れ流し
食器と食事道具 → テーブルのくぼみに盛り付けて鷲掴み
街道は安全 → 野盗・山賊だらけ
貨幣経済 → 物々交換
地中海貿易 → サラセン海賊跋扈
巨大建造物 → アーチすら作れなくなった
各地の特産物からなる豊かな食生活 → 雑穀雑穀雑穀、ちょっと小麦
地中海の覇者 → フン族、アヴァール、マジャール、ヴァイキング、イスラム、モンゴル、オスマンにボコボコ
人類史上最も幸福な時代 → 重税、蛮族の侵入、疫病、餓死、王侯貴族による圧政、教会による支配
前スレ
ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ14
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1609593330/ ローマ街道を舗装していた頑丈な石は、中世の建設ブームの中で剝がされて
他の用途に転用されてしまい、端っこ以外は歩けない道になってしまった
そして、これとは別に、砂利を石灰で固めただけの、舗装していない土手道が
できていった
この中世の道はくねくねと曲がっていた 当たり前だけど中世初期にはまだ敷石あったからねー
13世紀になって財政的に余裕が出てきてから、石灰撒き始めたんよ 中世初期の建築は木造が多かった
ヘースティングスの城は、12世紀になってもまだ、木造だった
都市の家々も、少なくとも骨組みは木造で、このため頻繁に火災に遭った
農民の住まいにいたっては、いくつかの国では、木の幹や枝を組み合わせただけの
「掘っ立て小屋」ともいうべき代物だった 素人なんで
バカでもチョンでも分かるよう
お願いします 古代ローマの技術って中世ヨーロッパの教会側からすれば魔術で作ったとしか
思われてなさそうなんで残ってたとしても徹底的に破棄・破壊されてそう 教会建築も最初は木造が多かった
今でもノルウェーには木造の教会が残っているけど 建築に関する限り教会に転用された例も多いんだから、「立派な建物だなあ」くらいには思ってたんじゃないの? 11世紀以前は、西欧の大多数の人々にとって、通貨はほとんど無縁の存在だった
もとより貴金属そのものは知られていたし、取引には普通は銀が使用されたことが
わかっている
しかしそれは貨幣という形ではなく、銀そのものとして、商品と同じく重さを
量ってやりとりされた
したがって、すでに貨幣の形になっているものは、細かく切り刻むか地金として
鋳潰すかして使用された
古くからローマ化していた地域の土地所有貴族と、彼らと取引していた商人たちの
間では、ソリドゥス金貨が引き続き使用されていたが、この貨幣もしだいに
小さくなったうえ、金含有量が減って銀の含有量が50%を超えるまでになり、
9世紀初めには西欧から姿を消してしまった 中世がなきゃいまの西欧覇権はないわな
普遍論争とかおもろいし ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』の中でも普遍論争が取り上げられてるな 教皇があれだけ権力を振るった理由がいまだによく分からんのやが
大司教が普通に宰相やってたりそんなに人材不足だったのかゲルマンの末裔どもは そりゃそうだろ
”鎌倉時代室町時代の天皇の権威”プラス”文書や記録を読解、ないし作成する能力の独占”、と考えてみ?
初期中世の王侯のほとんどは文盲だったんだぞ 例えば王が、自分の有するある荘園から何樽のワインが献上されるのか調べる、領地管理人が「この荘園は昔から10樽だけの献上です、それが先祖代々の掟ですぞ」と言ってきたときにそれが過去の記録に照らして本当なのかどうか調べる、そしていま10樽取ってる権利を未来に伝えるために記録を作る、これらすべて聖職者がいないとできないわけだが。 ローマ教皇の力が強くなったのは、叙任権闘争の後だと思うが
それ以前はフランク国王や神聖ローマ皇帝の力のほうが強かった >>14
>大司教が普通に宰相やってたり
フランスでは17Cにはいっても聖職者が宰相やってたな 中世ヨーロッパの司教は、かなりの寄進地をもっていたので、
世俗世界でも大領主だった お前らって歴史本何冊読んでるの?
特に読み漁った年代の歴史ってある? 聖職者の土地資産は、メロヴィング時代から急速に拡大し、
カロリング時代には、全西欧の土地の30〜40%におよび、
しかも、世俗君主の干渉を受けないという特権を持っていた 中世の西欧は、木材・鉄・奴隷・武器・毛皮などをイスラム教徒の売り、
その見返りとして貴金属類を入手し、これでビザンツ帝国から高級な布や
香水、香辛料そのほかの贅沢品を買っていた 旧西ローマ帝国領は、いわば未開の部族社会の上に、ローマ文明が薄く
塗られていただけだったんじゃないのかなあ
だから西ローマ帝国が滅亡すると、カトリック教会以外には
古代文明を伝える組織がなくなった いうほど浸透してないよ
宗教熱高まるのはむしろ近世 西ローマ末期でもキリスト教と同じくらいミトラ信仰が厚かったしね ローマ帝国末期でも、西のラテン語圏より東のギリシア語圏のほうが
神学論争が盛んだった キリスト教って異教徒にはまずは改宗させようとアプローチするスタンスだが
異端に対しては問答無用でぶち殺す!みたいな感じ
カトリックVSプロテスタントや魔女裁判なんてまさにそれ
イスラムやユダヤなどの対異教徒よりも容赦ない気がする
異端は異教より憎しってどういう意味なん? >>27
薄く塗られても無い
要所だけローマ化してあとは宗教や文化も厳しく強制してなく上納金収めてる部族らを庇護してただけ
ローマ化するかどうかは皇帝や元老院が興味示さない限り各部族の判断
そんなもんで統一の言語も無かったし教育機関も各部族別で無い所がほとんど
文明の事もそうだけどあらゆる失敗からの成功記された書物を読みが書き出来、
読み書き出来ない部族らから奇跡のように成功成しえるカトリック教会が重宝されるのは必然の事 要するに今日の西洋文明≠古代ローマ文明
今日の西洋文明はローマ文明滅ぼして成立したゲルマン文明
ただローマ文明の要素をいくらか受け継いだってだけ >>35
ゴート、フランクあたりの国家運営のノウハウとか、ほぼローマからの継承なのに何言ってんだか ゲルマン諸族はオーディンをヴォーダンとして信仰していた
中でもアングロサクソンでは、槍がヴォーダンの武器なので神聖視していた オーディンとヴォーダンて同じじゃないの?訛りの違いかと思ってるんだが。 ローマ飯に続いて中世飯を再現しようと思ってライ麦パンとポトフを食ってみた
おかしい、美味すぎる……あいつらがこんな美味いもの食ってた訳がない
ゲロマズ中世スープはどうやって作るんだ >>41
ポトフにはじゃがいもも胡椒も入れなかっただろうな? 香辛料もそうだけど今は特に日本は食材自体に味付けされてるからな
現代流の調理方法も頭に植え付けられてるし完全な再現は無理だな >>11
ソースはどこ?
ソリドゥスの金含有量は、厳格な規定のあった11世紀前半まで90%を超えていたはず。
これが劇的に低下するのは11世紀後半マンジケルト、ミュリオケファロンの敗戦以後のはずだが?
「中世のドル」ソリドゥスを基軸通貨としていた地中海世界は、これによって通貨供給増大によるインフレに見舞われる。
後の商業国家ジェノヴァ、ヴェネツィアの発展の下地になる。 >>44
商人ならソリドゥスよりデナリウスだよな
中世初期からのヨーロッパの慢性的インフレは、イスラム金貨の流入によるものと考えられてる あれ?
中世ヨーロッパって
デフレだったって聞いたけど 中国もビザンツもササン朝もイスラムもモンゴルも中世の騎士もオスマンも馬に鎧付けるね
日本では馬を狙うのは卑怯とされるが、大陸の戦いでは敵の馬を狙うのはデフォ アーサー王物語でパロミデスがランスロットの馬殺して非難されてたけどなぁ 中世初期の西欧ではビザンツのノミスマ金貨やそれをモデルにした
ソリドゥス金貨、トリエンス貨が使われていた
イスラーム圏ではディナール金貨が使われていた サルマタイ人やアラン人も、馬鎧がかなり普及して重装騎兵になっていた でも絵巻物や合戦図に出てくる騎馬武者で、馬鎧を着せてる例ってほとんど出てこないよな
あったとしてもマイナーなものだったんでは? >>54
文書による記録も現物もちょこちょこ残ってるのに?
「あったとしても」的なマイナーなものがそんなに時代を超えて残ってるわけないだろう カロリング朝時代には、多くのフランク製刀剣がバグダードまで
輸出されているんだが、イスラーム世界の刀剣に比べて、
フランク王国で鍛造された刀剣は品質が良かったんだろうか? ヒスパニアの場合、3世紀後半にはガリア方面から到来したゲルマン人が
イベリア半島の東岸部を襲っている
260年ごろにタラコが襲撃され、他の都市にもこの時期の破壊の痕跡や、
財産を守るために貨幣を地面に埋めた痕跡が残されている
また、インフレも生じ、イベリア半島の諸都市は政治的、経済的に混乱していった 頼朝は義経がいなけりゃ平家を倒せなかった
家康は信長が搗いて、秀吉が捏ねた天下餅をつまみ食いした
征夷大将軍らしいといえばやっぱ尊氏
九州大返しなんてロマンやん ゲルマン人って鎌倉武士から教養を抜いて更にヒャッハー化させたイメージ 中世までは西洋史と東洋史、ブラックアフリカ史、新大陸史は別のカテゴリで直接は関係ない
西洋は東洋やブラックアフリカと交易はしても
直接軍事衝突は起きてない
バイキングの本拠地の北欧、北大西洋やバルト海と地中海、黒海が繋がる事で雪だるま式に
覇権闘争が世界規模になった感じ 東ゲルマン系はより遊牧民的でローマ帝国を
破壊する為だけに暴れまくって動きがアナーキー海の民みたいに消滅した
西ゲルマン系はより農民的でローマやロシア
みたいに普通に近い地域から拡大していく感じ
北ゲルマン系になるとまた海の民みたいに
遠隔地に拠点を作りまくり、イギリスやアメリカみたい アングロサクソンと言っても
彼らはデーンノルマンに征服された
アングルザクセンよりもそっちにより近い文化 アングロサクソン系の特徴ってなんかあるんですか
穏やかなケルトと猛々しいゲルマンの中間? アングロサクソン7王国人と征服ノルマン人に連続性はあるんだろうか イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ >>62
個人名の場合,古高ドイツ語由来なOdないしOtが古英語由来だとEdになるとか
同じく古高ドイツ語由来なAdalないしAdelが古英語由来だとEthelになるくらいの事
しかわかりまへんorz カール大帝の「カール」という名前は、アングロ=サクソン語の
「ケオルルceorl」に由来するという説があるな
「ケオルル」は自由人を意味する身分名称だった 古代ローマ時代は蛮族だったゲルマンが時代をリードする存在になるなんてな
>>68
ゲルマン祖語の時点で同源の単語があってそっから古高独のカールと
古英のケオルルに枝分かれしたのかと思ってた。
ケオルルといえば七王国時代のマーシアにこの名を持つ王様いたな ブリテン諸島においては、現在のウェールズから時計回りに
キリスト教が伝来・普及していったんだよな
ローマ帝国の属州だったイングランドは、異教徒の侵入によって
「脱キリスト教化」したと考えられている
キリスト教は、ウェールズなどブリテン島南西部にとどまり、
そこからアイルランド全土に普及した 聖パトリックが到着するまでドルイド教頑張ってたのかな 先住民のブリトン人は、アングロサクソンに征服された
このときのプリトン人の抵抗が、アーサー王の伝説 しかし、そのアングロサクソン人も、デーン人の侵略に悩まされることとなる
やっとデーン人を撃退したと思ったら、「真打ち登場」とばかりにノルマン人が攻めてきた カエサルがブリテン侵攻する前は全く未知の領域でローマとは何の関係性も民族の繋がりも無いと思ってたけど
人物名もローマ人に近かったりカエサルとカッシウェラウヌスの会話では同じトロイの子孫と言ってたり
同じ神話を共有してたのが不思議 ピクト人にキリスト教を布教したのが、アイオナの修道士たちなんだよな
また、ノーサンブリア王国の王の要請に応じて、アイオナ修道院から
聖エイダンが635年に司教兼修道院長として派遣された
エイダンは、アイオナとよく似たリンディスファーン島に修道院や教会を創建した カール大帝はアングロサクソンの聖職者アルクィンを呼び寄せてたな ケルトの修道士たちは、ヨーロッパ大陸でも精力的な伝統活動を行っている
その代表者、聖コルンバヌスの伝道の軌跡は、ガリアのボージュ山地から
北イタリアのボッビオまでにしるされている
彼らの建てた大陸の修道院では、伝道と典礼のための聖書写本が次々に
つくられていった ブリテン島では5世紀中頃からアングル人、サクソン人の侵略が始まるが、
この場合、民族が入れ替わったと考えるのは早計
これまではブリトン人が西方に追いやられたという見方が主流だったが、
実際にはかなりの数のブリトン人がアングロサクソン人に文化的に同化したらしい オリンピックは悪魔バアル崇拝
ブリタニカ国際大百科事典
https://www.britannica.com/topic/Baal-ancient-deity
Baal=バアル → バビロニア語Bel=ベル → ギリシャ語Belos=Zeus → 日本語ゼウス
末日聖徒イエスキリスト教会 聖句ガイド
https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/gs/baal?lang=jpn
バアルはバビロンのベルやギリシャのゼウスと同じとも考えられる
バール(バアル)について記載された文献あれこれ
http://www5.cncm.ne.jp/~ryuji-t/kenkyu/baal.htm
町の両区域ともその中央に囲いがあり、一方は壮大堅固な壁をめぐらした王宮であり、他方は「ゼウス・ベロス」の青銅の門構えの神殿である。
「ベロス」はバールのギリシア的転訛で、ゼウスと同一視して、「ゼウス・ベロス」となっている。
オリンピックの起源 // 悪魔バアルを祀る人類最大の宗教儀式
https://blog.goo.ne.jp/nasaki78/e/48895b3900d2803866456995e3be643d
悪魔バアルを祀る宗教儀式 | mariaのブログ
https://ameblo.jp/the-snark2/entry-12412725822.html
古代オリンピック 生きた人間の心臓をつかみ出す
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/7a/09fd10fe20481f1c4331a6727eca5da5.png
悪魔バアルとは誰?
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-who-baal.html
バアル礼拝は官能主義に根ざし、神殿での儀式的な売春行為を含んでいました。 神が現れる時、様々な「しるし」「兆し」が示される。その実現例
↓
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1561503978/
このスレに日月神示を調べ続けていた者が色々書きこんでいる
↓
日月神示やアセンションとか
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1606283054/
当人いわく「神様と対面した」「聖書の預言通り、盗人が来るような時間=午前2時に家に来て罰せられた」らしい
そいつは去年の夏頃から、オカルト板やツイッターで延々
「日本の神様の正体は旧約聖書の創造主だ」「五輪とはゼウス崇拝であり、偶像崇拝の神罰が下されている」と警告し続けていた
そいつが立てた別スレ
↓
日月神示を考えるスレッド
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1610162866/
警告通り、神罰が加速している
バアルの祭典まで猶予は少ない
本文を読んだ方々は、バアル崇拝を阻止して、救世に動かねばならない スコットランドがUKから出ていきそうだね
ケルト魂は死なず 従来、アングロサクソン人の侵入は、比較的短期間での大規模な組織的移住と
考えられてきたが、現実はそうではなく、かなり長期にわたる、
独立の小戦士団による来寇だった >>89
大英帝国の時なら栄光ある孤立が成り立ったけど、今はEUに入ってないと厳しかろう 5世紀にヴァンダル人が北アフリカを支配するようになった後、西暦500年までに、
モーリタニアの耕作地は減少し、アルジェリアの多くの耕作地は放棄され、
この地域の海上交易も著しく低下したらしい
コルシカ島は、430年頃、ヴァンダル人の侵入を受け、そのときにアレリアの町が
破壊された >>91
EUの代わりに、日米豪印のクアッドに入る >>81
剣とかの拵えに、明らかなブリトン式の物があったりするからね ナチスにあれだけ苛められたユダヤが今度はアラブを虐めてる
ま、元々ユダヤ王国があった場所に後からアラブ人が住み着いたわけだからどっちもどっちだが ハプロ解析的にもっとも古代ユダヤ人に近いのは当たり前ながら現在のパレスティナ人だけど
もっとも現代のユダヤ人の定義はユダヤ教徒だから遺伝子は関係ないがな
ご先祖様が作った宗教の信者にその子孫が苦しめられるのだから因果なものだ >>96
現代に限らず、ディアスポラ以降のユダヤ人の定義は「ユダヤ教徒の一族であること」だったよ >>32
ファーティマ朝(アラブ人、シーア派)とセルジューク朝(トルコ人、スンニ派)も尋常じゃないくらい仲悪かった
セルジューク朝は10本の矢があれば、1本を異教徒のキリスト教徒に
残り9本を異端派のイスマーイール派(ファーティマ朝)に放つという話があり
ファーティマ朝はというと、十字軍の襲来を知るとウッキウキで
ビザンツ皇帝に十字軍の成功を祈るという手紙を送る有様だったww 人間って、どこか似通ったところのある相手のほうがかえって憎たらしくなるのかな
コーカサス(カフカス)諸国、東アジア諸国、中東諸国、みんな仲が悪いし 元々別より裏切り者の方が憎悪増すからな
何度も改宗しながら聞き乗り越え、ナントの勅令やって国内改革やっていった
ブルボン朝初代アンリ4世なんて凄い人だけど
そのカトリック世界で一度は教皇に異端信仰を認めさせたフス派 ローマは「永遠の都」と呼ばれるが、実際には破壊と再生を繰り返してきた
西ゴート王アラリックのローマ略奪以来、ローマは数多くの略奪の憂き目にあい、
抗争や災害によっても荒廃した
だからシエナやフィレンツェに比べて、ローマにはコムーネの活動に関する
資料がほとんど残っていない >>100
アンリ4世は、歴代フランス王の中でも最大の傑物の一人だわな
政治的怪物と言ってもいい 政治的怪物といえばリシュリュー枢機卿もそうじゃないかな
あの時代に国家理性ということを考えたのはすごい >>103
リシュリューは凄すぎる
国家理性もそうだし、国家統合の要諦は国語の統一と看破したこともそうだし、なんなんだろうねあの先見性
近世から近代への切り替えを加速した大人物だと思う ジャン・ボダンの影響とかあるのではないかな(てきとう 西ローマ帝国ってさ、東に比べて軍事力・経済・人口・人材すべての面で劣っていたし、
経済の低迷で傭兵を雇うこともできなくなっていたし、
かつてのように地中海全域で物が動くのではなく、州単位、あるいは州の中の
もっと狭い範囲でしか経済活動が行われなくなっていたし、
人口減少も進んで都市の富裕層にかけられる税金負担が増えて、都市から富裕層が
逃げ出すし、
いい要素がまったくないよな その代わり、各地の元老院貴族層は脱税で金をしっかりと蓄えてたけどね
金を持つ彼等がいたからこそ、その後のゲルマン諸国は成り立ってた >>102
フランス国王アンリ4世
王妃マリー・ド・メディシス
前王妃マルグリッド・ド・ヴァロア
どいつもこいつも尊敬に値しない連中ばかり 当時のフランスはユグノー戦争が無茶苦茶すぎてなんも言えん 妹が処刑されても、代々ずっと王家に仕えていた、ジャンヌ・ダルクの兄貴一族は偉い まぁねぇ、でも王家絡みで死んでるから複雑な心境やと思うよ
すぐに母親と、ジャンヌ復権運動に取り組んでるバイタリティは凄いわ イタリアのローマ人が地方出身者らをローマ人と認めなかったからビザンツのようにゲルマン人を上手く取り込めなかった 古代末期のローマ人はそれまでと違って寛容でなくなっていたというけど、
やっぱり人間は自分が優位に立っているときでないと寛容なんて発揮できないのかね イタリア以外の地方では帝国民なら誰でもローマ市民として受け入れられていたのに
ローマではガリア系ローマ人やギリシア系ローマ人ですら非ローマ人として差別されていた
そしてその「純粋なローマ人」主義のせいでイタリアは活力を失い地盤沈下していった
そうして自分たちの実力が下がれば下がるほど形のない「純粋なローマ人」というブランドにすがるようになり、よりいっそう偏狭に……
まさに負のスパイラル その割には宗教に関しちゃイタリアの方が東方より格段に寛容だったんよねぇ
ローマが異端弾圧に協力しないせいで皇帝のユスティニアヌスがキレて内戦勃発
そのせいでローマ帝国がバラバラになってしまった
どっちも不寛容が生んだ悲劇よな 末期のローマ帝国って、北方異民族に圧迫されていた北宋・南宋みたいなものかな
あのころから中国人も華夷の別とか、やかましくいうようになったな もともとは中国も
「神話の五帝も蛮人出身、礼法さえ身につければ誰でも華人!」
で周辺から人が集まって帝国になったのにな 西欧的には大戦敗北後のドイツみたいなものか
あれも純粋なゲルマン人とかいう幻想にとらわれてた アメリカも人が集まって大国になった国なのにトランプがでたからね
でもトランプを乗り切ったのは大したもんよ
あのままトランプが長続きしてたらアメリカも没落が止まらなかったかもしれん 受け入れる側が寛容でありさえすれば必ずうまくいく、というものでもないと思うけどな
例えばイスラム教徒の場合、近代社会に同化・適応する気はさらさらなく、
「どんどん子供を産んでヨーロッパを乗っ取ろう」
と主張している
第二次世界大戦後の英領マラヤもあやうく華人に乗っ取られるところだった 日本の「三代住めば江戸っ子」ってハードルすごく高いのな
本人の努力だけじゃどうにもならない >>123本音を誤魔化して綺麗事言ってたのに限界を感じた層からの支持 >>122
> 例えばイスラム教徒の場合、近代社会に同化・適応する気はさらさらなく、
> 「どんどん子供を産んでヨーロッパを乗っ取ろう」
> と主張している
そんな組織的な動きなんて存在せんが >>124
それ誤解してる
「三代住めば江戸っ子」ていうのは
初代が子連れで江戸に出てくるのを想定してるんや
初代と、その子は田舎から江戸に出てきてるから江戸っ子やない
で二代目が江戸で子供作った三代目は江戸生まれやから江戸っ子
つまり「三代住めば江戸っ子」ていうのは
「江戸で生まれた者は江戸っ子」ていうだけの当たり前の話しや
初代が単身で江戸に出てきた場合なら二代目からもう江戸っ子や
チャキチャキの江戸っ子のオレが言うんやから間違いない 江戸っ子的には三代住んでも両祖父母が地方出身者で家庭内で方言が保持された場合江戸っこじゃねえって認識なのかい? >>131
そんなまどろっこしいこと言い出すのは粋じゃねえ
ってのが江戸っ子の心意気ではなかろうか >>127
> つまり「三代住めば江戸っ子」ていうのは
> 「江戸で生まれた者は江戸っ子」ていうだけの当たり前の話しや
どっちにしろ本人の努力だけじゃどうしようもないな
法に従えばローマ人や華人になれるのと比べると縛りが厳しい >>126
西欧からヨーロッパらしさがなくなるのは時間の問題。ダグラスマレーとか言ってる 最盛期のローマ帝国もユダヤ人に対しては寛容策を貫けなかったな
ハドリアヌス帝の治世はバル・コクバの乱が発生し、3年以上をかけてこれを鎮圧
ユダヤ地方は「属州シリア・パレスティナ」と名称が変更され、
ユダヤ人はディアスポラを余儀なくされた >>135
変化を拒む者は滅びるだけ
都市国家から地中海世界帝国を経てビザンチン帝国へと変化したローマのように、融通無碍に変化するものが生き延びる >>135
イスラム教徒自身がいってんじゃなくてイギリス人がいってんのか… >>115
最盛期でも保守派は
前2世紀 ローマ以外の出身者が元老院に入るの反対
前1世紀 内ガリアの出身者が元老院に入るの反対
一世紀 外ガリアの出身者が元老院に入るの反対
と不寛容派はいたのだが、カエサルやクラウディウスといったリーダーが説得できた
帝国末期では、説得すべき立場のリーダー自らが不寛容になってしまってた
説得できる力のあるリーダーの有無は大きいが、そういうリーダーが登場するのは
そういうリーダーを生み出す土壌があってのことなんだろうな >>139
末期状態ならそんな人がいても出世でけへんやろ 帝政末期に「ギリシア人を追い払え」と音頭をとった皇帝プリスクス・アッタルスはギリシア人移民の子だった
しかも権力の後ろ盾は東ローマ帝国の将軍
ローマでの人気取りのために不寛容派に迎合した 北米では移民の遠隔地ナショナリズムが問題になっている
例えばカナダの華人議員の一部に、北京の中国政府と近い人物や、
中国人のナショナリズムを煽り立てる人物が少なからず含まれている 西ローマ帝国滅亡後の地中海は海賊が跋扈する海になったが、
現代ではアフリカから地中海を渡ってヨーロッパに行こうとする難民が絶えない
イタリアに上陸した難民の一部は、陸路でローマ市に入り、市内の老朽化し、
無人のまま放置されいる高層住宅を勝手に占拠したりしている >>122
確かにフランスの文化を受け入れない移民も多いかも知れないが
移民の子孫の世代では出生率はどんどん低下して現在では非移民と変わらないほど低下している
またイスラム移民自身の出生率も昔より低下している
フランスの場合1930年代のマグレブ諸国の移民の出生率は5だったが2014年には3.0と下がっている
このままいけば後二世代でフランス平均の2.0に到達する
よく移民出生像事例で引き合いにだされるフランスは高い方で
オランダでは移民と非移民の出生率の差はない 移民をはじめとする異質な要素による刺激というもののは、
それが適度なものであれば共同体に良い影響をもたらす
しかしそれによる打撃があまりに大きすぎると、社会全体が崩壊したり滅亡したりする
なにごともほどほどがいいってこと >>144
>無人のまま放置されいる高層住宅を勝手に占拠したりしている
そもそもイタリアのスコッターはもともと低所得民がやってる現象で難民はあくまでその一部ということはおさえておきたい >>146
> しかしそれによる打撃があまりに大きすぎると、社会全体が崩壊したり滅亡したりする
現実的にそんな事例って何があるだろう >>142
華人議員はイスラム移民の中でもイスラム原理主義に染まってる奴らを
自分にとって都合のいい存在として利用してる感ある。
現地のポリコレ白人もそうだろうけど 中国共産党的に欧米在住のイスラム原理主義者は現地の既存社会を
破壊させるための尖兵 既に>>138でも指摘されてるけど、どれも移民によって問題が起きてるわけじゃなくて勝手に騒いでるやつの勝手な言い分なだけで草 中世初期は、西フランクより東フランクのほうが王権が強かったんだよな
西フランクでは王の地方役人だった伯たちが独立し、地方君主として立ち現れてくる
それらのうち力のある者たちは支配権を拡大し、公の称号を帯びる者もでてきた
これに対し東フランクではマジャール人との戦いの中で王権が権力を回復し、
高位聖職者たちを支配機構の中枢に組み込んでいった ても東フランク王も都市に雇われた居候守備隊の長って扱いは変わらなかったから契約が切れると都市から追い出されたりもした・・・ >>153
西フランクは在来の元老院貴族や、王家に密接なゲルマン貴族らの自治制度が強かったからね
王家は彼等の神輿にしかならなかった上に監視するため、一年を通じて常に宮廷ごと移動
おまけに税金納めてくれないので、活躍したのが収税官
この収税官が力をつけて地方長官となり、duxとして新たな貴族層になる 基本的に中世初期だと都市行政や住民は王国には属していなかった
王国に属していたのは、王と、王とともにさすらう僅かな取り巻きだけだった
王国が国家的性質を帯びてくるのは12世紀ぐらいになってから 叙任権闘争が無かったら、ドイツ王国があそこまで分裂することはなかったんだろうか? 王国とは行軍を続ける軍隊である、だっけか?
だから首都や宮殿が発展しないで王様は滞在先で教会や領主の邸宅を間借りしてたとか 都市自治は古代ローマからの伝統をフランク経由で引き継いでるから、むしろよく国としてまとまったなと 前期カペー王たちは、王国という領域の君主というよりも、
諸民族集団の首長という自己意識を持っていたのだとか
しかも、ここでいう民族集団には農民や非自由人などは
含まれず、基本的に聖俗の貴族・騎士たちだけ >>158
ハスクブルク家というNHKのドキュメンタリーで、マクシミリアンがつけを払ってないから宿泊断られたというの見たな。そういことなんかな もともと中世期の王と王国はローマ帝国から辺境に派遣されてた辺境守備隊と守備隊長が発展したもので、王や王国は兵役を担うかわりに都市に駐屯することが許された部外者でしかなかった
だから王には都市行政権や参政権が無かったし都市行政官も王の部下ではなかったし都市には王国の所有物件も無かった >>156
>基本的に中世初期だと都市行政や住民は王国には属していなかった
>王国に属していたのは、王と、王とともにさすらう僅かな取り巻きだけだった
>>160
>しかも、ここでいう民族集団には農民や非自由人などは
>含まれず、基本的に聖俗の貴族・騎士たちだけ
なんで軍人ばかりの王国に少数の聖職者がいたのかっていうのにも、
旅先で宿を借りたり行政機関から報酬を受け取ったりするのにラテン語で契約書や領収書を書く必要があるんだが
そのために読み書きできる人が必要だったからっていう、かなり現実的な需要があったりした 中世ヨーロッパは、人が土地ではなく人に属す「属人原理」に基づく社会だった
属人原理では、もし君主がだらしないと思ったら、見限って別の君主に
つくということもある >もし君主がだらしないと思ったら、見限って別の君主につくということもある
それどころか君主と支持者は専属契約ではないので、支持者は敵対する複数の君主を同時に支持することができた
そしてその君主同士の利害が対立したときに、どの君主を優先するのかの選択権は支持者の側にあった
君主の権威は「多くの有力者からの支持」によって成り立っており、君主は各地の有力者たちからの支持を取り付けるために延々と地方を巡行し続けた
ときには訪問先で派手に金銀をばらまいて評判を高める必要もあった 日本の武士も、当初は複数の主君に仕える、
短期間で御恩と奉公の関係性が
解消されるなど、非常にルーズだった そもそも「御恩と奉公」って日本独自の思想だから西欧だと封建時代にすらなかったしな > 中世ヨーロッパは、人が土地ではなく人に属す「属人原理」に基づく社会だった
「属人原理」が働いたのは王と諸侯の関係だけで、ほとんどの人は土地(都市)に属してるよ
これはもう誤解を与える名前が悪いんだが、中世初期の「王国」ってのは領土すら持ってない単なる傭兵団に過ぎない >>171
それも間違ってて、王冠領という王号に付属する領地と、自身の家門に属する領地は持ってる >>171
中世初期の王国って、アフリカ諸国の軍閥みたいなものかな? >>168
その例で代表的なのがフランス王国とブルゴーニュ公の関係だな
フランスの臣下がイングランドと手を組んでフランス王国に宣戦布告すると言う >>174
でもそれ厳密に言えば忠誠義務違反だよね。ブルゴーニュ公領はフランス王の封なんだから。ハインリヒ獅子公みたいに全封土没収処分くらっても文句は言えない。力関係的に無理だっただけで。 あと王権にはやはり古代から引き継いだ国家公権的なものも付随してるから、単なる封建主従制の論理だけでは語れない。 >>175
正統なフランス王をどちらとするかによるわな >>174
それ、ブールゴーニュ側からすると違う論理
正当なフランス王後継者で摂政たるアンリ(イングランド王ヘンリー5世)と狂王シャルル6世を擁しているから、別に忠誠義務違反ではない ヨーロッパの由緒ある大学は教会の付属学校からスタートしてるけど,
キリスト教が生まれなくても,どのみち当時の高等教育機関が大学として
発展したんかね クローヴィスは東ローマ皇帝アナスタシウス1世から「アウグストゥス」の
称号を贈られて、西ローマ帝国の執政官に就任したんだよな >>173
> 中世初期の王国って、アフリカ諸国の軍閥みたいなものかな?
だいだいそんなもん
中世前期の王国は軍隊であって国家的なものではなかったし「王」というのも公的な地位ですらなかった
王国が軍隊から国家へと変貌するのはカール大帝死後の10世紀から13世紀にかけて
上でフランス王とブルゴーニュ公の関係があがってるけど、その時代だと既に王国が国家化してるんで中世前期の理解はそのままだと適用できない
>>181
中世初期だとない 中世前期だけでも500年はあるからねえ
日本だと大化の改新から武家政権誕生ぐらいの幅がある カール大帝以前とカール大帝以降が同じ中世前期なの違和感ある >>183
前期後期で分けるならそりゃ幅広いでしょ
歴史語るならせめて初期中期後期ぐらいで分けないと話が上手くまとまらない 東南アジアの王権も、「領域」ではなくて「人」を支配していた
人類史の中では、属地原理に基づく近代国家という社会のほうが
むしろ特殊なのかもしれない >>185
> > 中世前期だけでも500年はあるからねえ
> 前期後期で分けるならそりゃ幅広いでしょ
> 歴史語るならせめて初期中期後期ぐらいで分けないと話が上手くまとまらない
ヨーロッパ中世史は前期・中期・後期に分けられていて、前期だけで500年あるんですよ……
前期(476〜1000年)
中期(1000〜1300年)
後期(1300〜1500年) 東ゴート王国とオットー大帝の時代を「中世前期」で括るのもかなり乱暴だよなw >>182
>中世前期の王国は軍隊であって国家的なものではなかったし「王」というのも公的な地位ですらなかった
ここいらもちっと解説すると、中世初期の「王」って規定された地位ではなくて個人限定の称号なのよ
今で言うなら「盗塁王」とか「ホームラン王」とかに近い称号で、まだ「イタリア王」みたいない「地名+王」の組み合わせって誕生してない
だから基本的に「王」の称号は王の子供達には自動的には継承されないし、王個人の一生を超えて存続する連続的な「王国」って概念もまだなかった
加えて一人の王が「盗塁王にしてホームラン王」のように同時に複数の称号を帯びることも普通のことだったし、ある集団に優れた人が複数いれば王が複数並立することも自然とあった
あと、歴史教育の都合で特定の地方史を便宜的に王国史と呼んでいるから歴代の後継者も一律で「○○王」と呼んでるけど、実際は彼らの中で「王」と名乗ってた人は意外と少ない
特別に「王」と名乗っていたのは戦争で活躍した人か特に人気のあった人だけで、それも称号は「不敗の王」「栄光の王」「光り輝く王」「我ら○人の王」など人によってまちまち
彼らの大部分は普段は「○○道の軍司令官」「○○属州提督」「○○管区の裁判長」「帝国の主計官」といった地位を継承して名乗っていて、普段はその地位を背景にして活動していた
こういう王権のことを歴史学では「役人王権」って呼んでたりする むしろ区切るなら、バランス的にもカール大帝までだよね 島原の乱のころにキリスト教会が作った歴史認識ひきずってるのが悪い
現代(1500年〜): ここら辺は最近の話題だな
後期(1300〜1500年): 教皇全盛期の昔話だな
中期(1000〜1300年): 教皇が権力を獲得しようと頑張ってた大昔の苦労話だな
前期(476〜1000年): よくわからん暗黒の時代だな
古典(〜476年): みんな大好きローマ帝国! >>186
中国史だと大昔から土地の王って概念もあるから日本人はそれが普通と思っちゃうんよな 西ローマ帝国の「滅亡」という言い方も誤解を招きそうだな
ロムルス・アウグストゥルスが廃位された後も、
イタリア半島や南フランスには
古代的なものが長らく残っていたし >西ローマ帝国の「滅亡」という言い方も誤解を招きそうだな
本来なら「衰退」と訳すべきだったところを「滅亡」と誤訳したことによるせい >>184
> カール大帝以前とカール大帝以降が同じ中世前期なの違和感ある
>>188
> 東ゴート王国とオットー大帝の時代を「中世前期」で括るのもかなり乱暴だよなw
>>190
> むしろ区切るなら、バランス的にもカール大帝までだよね
>>193
> 西ローマ帝国の「滅亡」という言い方も誤解を招きそうだな
> ロムルス・アウグストゥルスが廃位された後も、イタリア半島や南フランスには古代的なものが長らく残っていたし
最近はカール大帝ぐらいまでを古代にして以降を中世って分類もある 古代末期論やな… (大学入りたて知ったかぶりのワイ >>195
>中国も古代は都市国家やん
??? 最初からそういう話だよね?
中国には大昔から都市国家の王もいた
中世ヨーロッパにはいなかった >>195は>>186の「属地原理は東南アジアにもなかった」に対して「でも東アジアの中国には古代からあったよ」と言いたかったのでは、と好意的に解釈 「クロ―ヴィスがフランク王国を建てた」といっても、
実態は土着勢力をフランク王のもとに帰属させただけなんだよな いや土着勢力の帰属化は全世界通じて大半の国がそうだろ
更地からやり直してる国のほうが少数だ 日本人の大半は、西ローマ帝国滅亡後も、行政機構は西ローマ帝国時代のものが
そのまま引き継がれたということを知らない… 他にやり方を知らないんだから
フランクも西ゴートも東ゴートもそれを真似するしかないわな >>202
大きな変更点としてはローマ皇帝は実力者がなったけど
各地の国王は血統で代々王位を引き継がれた点かね >>204
中世初期はローマ皇帝の世襲論理と同程度なもんだったよ >>206
近世の産物です
ただ、王権は聖別された特別なもの(ただの貴族とは別)というのは、塗油式など中世初期からあります >>205
ピピンもユーグ・カペーも、諸侯から推挙されたという形で王位に就いているよな > 大きな変更点としてはローマ皇帝は実力者がなったけど
> 各地の国王は血統で代々王位を引き継がれた点かね
そもそも中世前期には「国王」って概念がないし実は血統原理もなかった
ローマ皇帝も帝政末期は実力者じゃなくて親族に血縁者が引き立てられてたりする > > 日本人の大半は、西ローマ帝国滅亡後も、行政機構は西ローマ帝国時代のものがそのまま引き継がれたということを知らない…
> 他にやり方を知らないんだから フランクも西ゴートも東ゴートもそれを真似するしかないわな
他にやり方を知らないというよりは彼ら自身が西ローマ帝国の役人だから手続き守ってただけだし、それを変更するほどの権限も持ってなかったってだけ >>207
権力と神々との紐付けはキリスト教以前からあるよ
古代ローマなんかでも戦争に勝つのは神々に愛された者って認識があって勝者が正当化されてた
戦争に勝利した者には凱旋式を行う際だけ特例として神々と同じ装いをすることが許されてた
一方で皇帝や凱旋者の後ろには「あなたは神々に選ばれた人間ではあるが、人間であって神ではないことを忘れるな」と注意する役目の奴隷が控えてもいた 原理が選挙制でも権力者の身内が次の選挙でも強いのは今も昔も変わらないのよね
そうやって特定の家系による固定化が進んだ結果として最終的に王朝が誕生するわけで
とくにゲルマン世界では個人の実績がものを言ったから王は子供たちに若いうちから色んな役割を与えて実績を詰ませ、できるだけ自分の存命中に子供を共同権力者に仕立て上げようとした >>202
そこら辺の歴史が好きに人はだいたい知ってるよ
歴史に興味ない人は西ローマ帝国って言葉すら知らないだろうけど >>211
権力者が、という一般化された事象ならそれこそ古代から存在(というかこれこそ権力の源泉の一つ)ってのは、もはや常識の範疇でしょ、そんな一般的な話ではない
ここで話題にしているのは、中世初期の不安定な王権であっても、他の権力(貴族や在地聖職者)とは異なり、宗教的な聖別が行われ、信仰化されていたって事実のこと
ただし、これは近世の王権神授説の由来の一つではあっても、直接的につながってるわけではないことも同時に考えなきゃいけない >とくにゲルマン世界では個人の実績がものを言ったから王は子供たちに若いうちから色んな役割を与えて実績を詰ませ、できるだけ自分の存命中に子供を共同権力者に仕立て上げようとした
場合によっては親は親、子は子で別々の家臣団を組織して別々の行動をとったり別々の陣営についてたりもするから、共同王というより株分けに近いときもあるよね ヨーロッパの辺境伯って、日本でいえば室町幕府の関東管領みたいなもの?
地方長官に大きな権限を与えて辺境の防衛にあたらせた 属州総督をちっちゃくしたようなもんだと思ってる、辺境伯 属州総督や地方長官は任期制だけど、辺境伯は伯爵公爵と同じ様な称号
なので一回任命したら取り消せないし世襲で引き継ぎ権限も弱めることも出来ない
辺境伯一族が政略結婚で他の伯爵領土を相続したら自動的にそこも辺境伯領になる事もある 古代末期から中世初期には、
気温低下による作物の減少→それに伴う人口減少→その少なくなった人々がローカルな
地域社会に籠もることで技術や商業ルートが失われる
こういう負のスパイラルが続いていた
ヨーロッパがこの長い負のスパイラルからようやく抜け出すことができたのが、
紀元1000年ごろの、いわゆる「大開墾時代」
気温の上昇、三圃制など新しい農耕システムの導入によって、収穫率の向上に
拍車がかかった >>218
伯はもともとは部族大公を監視するために皇帝が派遣した役人で、世襲は禁じられていたんだな
それが世襲化したので、今度は世襲のできない司教を政府の役人にした
というのが聖職叙任権闘争の遠因 メロヴィング朝では、王がゲルマン貴族の子息やローマ元老院貴族の子息を出仕させ、一緒に生活することで団結力を強めさせた
彼らは「王と食卓をともにする者たち」と呼ばれ、エリート候補生として育てられた >>205
東ローマ皇帝は世襲と実力主義のハイブリットか
にしても最後の王朝が最長というのは皮肉なもんだな 4〜5世紀は世界規模で低温化が起きた時代だった
気温の低下が農作物に深刻な影響をおよぼし、飢餓による人口の減少が各地で起きた
生産量を測るのによく用いられるのが、一粒の麦から何粒の麦が収穫できたか、
というものだが、当時は一粒からわずか5粒しか収穫できなかった
古代シュメール文明では、一粒の麦から70粒収穫できたというから、
いかに中世前期の農業生産率が低かったかがわかる
中世のうち、最初の500年間は暗黒時代といってもいいんじゃないかな 同じ伯と訳されるコメスと大パグスとグラーフの関係は? ぜんぶ同じ時期のフランク王国の用語なのにどうして同じ伯と訳しちゃうのよ… 現代の爵位や君主号だって相手の認識じゃ全然違うものが同じような訳になってたりするし 第一大蔵卿 連邦宰相 首席大臣 閣僚会議議長 行政院長 総理大臣 そこはまあ、もともと日本に無いものを無理やり日本のものに当てはめてたりするわけだからね ローマ「皇帝」とかローマ「帝国」なんて名前にしちゃったことは今でも史学者らから失敗だったって嘆かれてるな 結局歴史系全て行き着くのはそこ
深く知れば知るほど翻訳の齟齬が生まれそこから先進まなくなる 「あらゆる歴史用語の翻訳はすべて誤訳と言えるし、かといってポリスとかプレブスとか原語をそのまま使ったところで現代の価値観にひきつけて解釈するんだから、歴ヲタのコスプレみたいなもんで無意味なんだぜ。」
E.H.カー”歴史とはなにか” スラブ語のクニャージなんてKingと同語源なのに公と訳されてる
まあ同じ言葉でも実質意味が違うことはよくあることだが 言語論的転回やな… (大学入りたて知ったかぶりのワイ >>223
カエサルとアウグストゥスが領土拡大した時代は温暖期だった
その後アントニヌス・ピウスの治世が終わるまで温暖期が続いた
ローマがゲルマニアを征服出来る可能性があったのは
アントニヌス・ピウスの治世が終わる頃までだった
その600年後に中世温暖期が始まるとすかさず
フランク族のカール大帝がゲルマニアを征服した アントニヌス・ピウスの治世が終わる頃に寒冷期が始まり
バルト海南岸にいたゴート族が黒海北岸に移住した
ゴート族により黒海北岸では農業が盛んになり
ローマに穀物を大量に輸出するようになった
ローマは黒海に面したコンスタンティノープルに遷都する
フン族がゴート族を追い払うと穀物輸出が激減したので
スラブ人は農産物の多くを地元で消費するようになり
スラブ人の人口が増大し始める
一方でエジプトではコンスタンティノープルへの
穀物供給の負担が増大したので反帝国感情が強まった 軍人皇帝時代にキリスト教徒の数がものすごく増えてるんだが、
それだけ人々の絶望が深かったということなんだろうな >>233、244
でも大きな誤解を招きやすい名前と、そうでない名前ってのはあると思うぜ 14世紀に中世温暖期が終わり再び寒冷期になると
黒海北岸にリトワニアが南下してくる
やがてポーランド・リトワニア国は
かつて東ゴート王国のように穀物輸出国に発展する
厳しい穀物の取り立てに農民はしばし反乱を起こした
ユダヤ人は貴族の家臣として穀物を取り立てる側だった
ゴート族もユダヤ人のようにスラブ農民に恨まれたのだろう >>241
> ゴート族もユダヤ人のようにスラブ農民に恨まれたのだろう
東ゴート王国のゴート人は支配者層のローマ人に搾取される側であって、ゴート人が税を取り立てることはないんですわ オドアケル下のイタリア王国、東ゴート王国は
西帝の居ない旧来の共和制ローマの政治体制 オドアケルや東ゴートは共産政ローマじゃなくて普通に帝政ローマそのまんまだよ
もともとローマ帝国のほとんどの地域には皇帝なんていなくてオドアケルやテオドリックのような地方長官が守護ってた
皇帝所在地も昔はもっところころ変わるもんだった そういやイタリアに東ゴート王国を派遣したの東帝ゼノンだったな 旧西ローマ帝国領に残っていた古代的なものを本当に滅ぼしたのは、
ユスティニアヌス1世によるゴート戦争と、カール・マルテルによる
南フランス・地中海地方の遠征と征討 東ローマ帝国がアドリアノープルで崩壊したときは、西の皇帝グラティアヌスがフランク人の将軍たちを派遣して東ローマ帝国を復興した
同じように東の皇帝ゼノンも、自分の養子にしていたゴート人の将軍テオドリクスを派遣することで西ローマ帝国を掌握しようとした >>242
イタリアの東ゴート王国の話ではなくて
375年以前のウクライナの東ゴート王国の話 最近は5世紀以前のは西ゴート・東ゴート言わんのよな >>248
> 旧西ローマ帝国領に残っていた古代的なものを本当に滅ぼしたのは、ユスティニアヌス1世によるゴート戦争
イタリアは衰退してしまったが、ユスティニアヌスの災難を逃れたガリアではまだ古代ローマが継続していた >>249
皇帝ゼノンはイサウリア人の軍人だった
イサウリア人とゴート族は東ローマ軍内で競合しており
イサウリア人のゼノンが皇帝になったという事は
そのうちゴート族出身者も皇帝になるという事であり
ゼノンは自分達のライバルを追い出す為に
ゴート族をイタリアに移住させた >>254
> ゼノンは自分達のライバルを追い出す為に
> ゴート族をイタリアに移住させた
ゴート族はイタリアに移住してないぞ
ゼノンにとっては、テオドリックからゴート族を切り離すのも目的の一つだったから
ほとんどのゴート族は東ローマ帝国に残ったまま 結局イサウリア人てゴート人に滅ぼされちゃうんよな
ゼノンが皇帝になったのは最後の輝きだったか・・・ ゴート戦争のあと、6世紀から7世紀にかけて、
南イタリアでは都市の半分が滅んだといわれている
このときに共和制の伝統も絶えたんだろうか?
一方、北部、とくにトスカーナ地方では都市がよく残り、
その4分の3は近世まで存続する ゴート戦争とランゴバルド族の侵入という最強コンボでイタリアは壊滅した
ルネサンスまでは暗黒 >>258
ルネサンスはそれ以前に集積した北イタリアの富と知識の結実だが 南イタリアやシチリアで滅びるのを免れたのは、
司教をもつ教会のある都市だった
もしキリスト教会がなかったらイタリアはどうなっていたかわからん そもそもユスティニアヌスがローマに攻め込んできたのもキリスト教の宗派争いのせいなんで >>257
その辺のとこ詳述してる本って何があんだろう?
日本語書籍でお願いだけども 東ゴート王国とか西ゴート王国とか分かりにくい
東ゴート人軍閥とか西ゴート人軍閥とかフランク人軍閥とかの方が良さげ >>263
それもっと間違い
特にフランクについては、フランク人だけでなく多言語、多部族の政治的集合体ってのが最近(っても20年くらい)の研究結果だから、「〜人軍閥」じゃ〜王国より間違いが大きくなってる >>263
フランクに限らず東ゴート王国にも東ゴート人いなかったし
あくまで〇〇(個人)の軍閥があっただけで民族の王国や軍閥ではないのよ フランク人ってフランクな性格の連中って意味じゃないの? だから本当はシアグリウスの軍閥とかテオドリックの軍閥って個人名で言った方が適切なんよ
親と子の間でも勢力がそのまま引き継がれてるわけじゃないんで
親が形成した軍閥とその子が形成した軍閥は全く別物って理解がないと、軍閥の数が変わったときに「王国が分裂or統合した」みたいな変な誤解につながる >>266
勇敢な人々とか優秀な軍人とかフランク人の王を支持する人々とか色々な用法があった
優秀な軍人だと出自に関わらずフランク人って呼ばれてたりする ユダヤ人と同じ
潜在的な民族じゃなく何かを支持する層がそう呼ばれる 5世紀だと、宮廷詩人「ローマ人のメロバウデス」とバガウダエ鎮圧した「フランク人のメロバウデス」が同一人物なように、文官してるときと軍人してるときで呼び分けられてたりもする >>263
そこら辺の王権の説明は>>189がよくまとまってる >>271
> だからしょっちゅう〜人の滅亡が起きている
そして勝つと急に〜人を名乗る人が増える 日本人だけあって日本史の方はしっかりしてるんだよね
独自の居城や領土を持ってて分国法があったり年貢の取り立てとかまでしてる戦国大名の方が中世の王国なんかよりはずっと独立国してるのに、それでも王国とは呼ばれてないし 「中世初期国家論」というのがあって、例えば中世の政治体制は権力者個人の
人格や家産機構と密接に結びついており、それに「国家」ではなく「領主支配」
(lordship)という言葉をあてるべきという意見がある 「王国」は「国」ではない、は長らく学会の共通認識だが、なかなか「王国」にかわる用語が定着しないな >>275
日本で分国法があった中世はもう15世紀だけど
いまわだいのゴート人とかは日本でいえば古墳時代から奈良時代だから
史料残存度がおおきく異なる >>278
同時代の日本と一緒にされても・・・
そのゴート人の世界じゃ行政文書とか政治に関する記録が残ってて、
王国に立法権が無かったこととか、
徴税や租税台帳の作成は王国ではなくローマ側の行政機関が行ってたこととか、
王国でもラテン語の文書にローマの印章を用いて決済してたこととか、
国法にはテオドシウス法典が参照されテオドシウス法典の注釈書も作成されてたこととか、
いろいろなことが普通に分かってるから比較されてるんですわ
それこそ日本の奈良時代とは史料残存度が大きく異なるのよ そもそも法学研究とか行政の文書化とかは古代ゲルマンの方が15世紀の日本より進んでるくらいなんよな >>277
「王国」じゃなくて「勢力」とでも表現したほうがいいのかなあ 中世初期については、「国王」ではなくて「指導者」とでも訳したほうがいいかも
「フランク人の指導者」とか >>282
> 中世初期については、「国王」ではなくて「指導者」とでも訳したほうがいいかも
少なくとも「国王」は不適切 東ゴート勢力と言い直したところで、その実態はルギィ人の指導者に率いられたアリウス派のローマ人集団だったりするからなあ 架空の集団名じゃなく、地名と個人名で呼ぶのが間違いがない >>279
>そのゴート人の世界じゃ行政文書とか政治に関する記録が残ってて
これはイタリア半島を統治するようになった東ゴート王国のことをいってると
思うんだが、テオドリックはrexと自称し東ローマ皇帝もrexと呼んだのだから
一般的にはrexで問題ないだろ
これは
>戦国大名の方が中世の王国なんかよりはずっと独立国してるのに、それでも王国とは呼ばれてないし
と同様、中世も日本の戦国も当時の呼び名を現在の学界でも慣習的に
使ってるってだけのことだろ
どちらも学問的厳密さが必要であれば「領主支配」(lordship)とか「指導者」とか
使えばいいのであって
いったいなにが
>日本人だけあって日本史の方はしっかりしてるんだよね
なのかよくわからん rex とは名乗ってるが王とは名乗ってないんだよね メロヴィング朝は、7世紀ごろまでは、租税制度など古代ローマの制度的な
インフラが地域的な差異をともないながら存続していた
カロリング朝では、王権を含めた有力者たちが親族・盟友関係を取り結んだり、
合意を達成したりすることで、政治秩序が構築された
またカロリング王国は王権自身によってもキリスト教共同体として観念されていた > 日本の戦国も当時の呼び名を現在の学界でも慣習的に使ってる
戦国時代の歴史用語とかは大部分が後世に命名された用語で、当時の名称じゃないぞ
幕府とか藩とか藩主とか大名領とかも学問上の歴史用語 >>288
募っているが募集はしてない
みたいな理屈だな
>幕府とか藩とか藩主とか大名領
戦国時代に藩とか藩主という言い方あったの?
戦国なら守護じゃないの >>31
> ローマ「皇帝」とかローマ「帝国」なんて名前にしちゃったことは今でも史学者らから失敗だったって嘆かれてるな
>>288
> rex とは名乗ってるが王とは名乗ってないんだよね
実際、古い専門書だと rex の和訳は大公だったり首領だったりする
同様に augustus も大君だったり尊厳者だったり 古い専門書だと無理に和訳せずローマ字のままのことも多いな 「rex」と「王」が異なる語だと理解したうえで敢えて「rex」を「王」と呼んでいる人と、「rex」と「王」の違いが分からず「王」と呼んでいる人とでは理解に天と地ほどの差がでる… >「中世初期国家論」というのがあって、例えば中世の政治体制は権力者個人の
>人格や家産機構と密接に結びついており、それに「国家」ではなく「領主支配」
>(lordship)という言葉をあてるべきという意見がある
>「王国」は「国」ではない、は長らく学会の共通認識だが、なかなか「王国」にかわる用語が定着しないな
逆に佐藤彰一先生なんかは「現代政治学的な意味での『国家』とは異なる『中世国家』という新概念を作ってはどうか」みたいな提案してたことがある
その講演で御一緒したときに本にサインしてもらったのよ >『中世国家』という新概念
どのような用語を想定してたのか興味がある
まんま「中世国家」にしたら日本史の「中世国家」(佐藤進一)やイスラムの中世国家(佐藤次高)と何が違うと言いう話になる
しかもこれらを用いている学者の名字はみな佐藤だ!何かの陰謀か >>255
そもそもゴート族は重騎兵でイサウリア人は山岳歩兵で兵種が違うような
イサウリア歩兵ではゴート騎兵の代わりにはならない
ゴート族が減ってしまうと騎兵が主力の東ローマ軍は弱体化してしまう >しかもこれらを用いている学者の名字はみな佐藤だ!何かの陰謀か
佐藤一族の陰謀! ゼノンの対立皇帝レオンティウスを討伐したのはゴート人の軍隊った
アナスタシウスがイサウリア戦争に勝利したのもゴート軍のおかげだった
ユスティニアヌスもゴート戦争やペルシア戦争ではゴート軍の活躍に助けられた
もしゴート族がテオドリックに従ってイタリアに移住していたら
東西ローマの歴史は大きく違っていたかもしれない >>292
>ローマ「帝国」なんて名前にしちゃったことは今でも史学者らから失敗だったって嘆かれてるな
empireを帝国と訳したことが失敗って話じゃなかったっけ
Roman empireは明治時代の英語で既に使われてたからempireを帝国と訳した時点で
「ローマ帝国」になるのは避けられなかったろう
>>297
>中世国家」(佐藤進一)やイスラムの中世国家(佐藤次高)と何が違う
掲載論文誌が西洋史なら西洋史の中世国家を意味し、日本史なら日本史の中世国家を意味し
とコンテキストで意味が決まるので専門家にとっては問題なし
それぞれ意味も概念も異なるなんてことは一般読者にはわからず
これら用語をごっちゃに論じた「一冊でわかる世界の中世」みたいな本が
ベストセラーとなるのだ フランク族は多くが鎧を着ないで兜と盾で防御した歩兵だった
ゴート族が騎兵担当でフランク族が歩兵担当だった >>249
> 東ローマ帝国がアドリアノープルで崩壊したときは、西の皇帝グラティアヌスがフランク人の将軍たちを派遣して東ローマ帝国を復興した
このとき派遣された西ローマ軍団って何割ぐらいが何年ごろ西に帰還できたんだろう?
フランクの将軍の中には死ぬまで20年近く東で復興がんばってた人もいるみたいだけど 分かってる人には訳なんて正直どうでもいいんだが、
違いが分からん人には「天皇はエンペラーだから皇帝なので日本は帝国でエンパイア!」みたいな頓珍漢な方が受けがよかったりする 時系列的には後からempireと帝国がくっついてしまった
最初は神聖ローマ帝国(カイザーライヒ)を指して「帝国」という語が作り出され、「帝国」の君主(カイザー)は「総王」と訳されていた
(○○帝国という用法ではなくて「帝国」とだけ書いて神聖ローマ帝国だった。もしかすると『だいこく』と読んでドイツ国の音訳だったのかも?)
しばらくすると「帝国」の意味は君主国(ライヒ)になり英訳はモナルク(monarchy)とされた
さらに時間が経つと今度は「帝国」の英訳が何故かエンパイアになった
そしていつのまにか「帝国は皇帝の国」という誤解が生まれて「帝国の君主は皇帝」とされるようになりエンペラーの定訳も「皇帝」となった
最初に「帝国」なんて名前にしたのが悪かったとも言えるし、こんなのもはや事故だろうとも言える 西ゴート王国で統治の実務を担っていたのは、旧ローマ属州ヒスパニアの住民である
ヒスパノ=ローマ人の官僚だった
人口のわずか3〜4%だったと推測されるごく少数の西ゴート人は、軍事的実権と
王座を保持したが、その権威はそもそもローマ帝国との同盟に由来するものだった
西ゴート人がローマへの「寄生的支配者」と呼ばれるゆえん >>305
もともと江戸時代のオランダ風説書で英仏の王は大名、神聖ローマ君主は将軍に
教皇は天皇に相当するものとされていたそうだから、ドイツに「帝国」をあて
英語でemperorに相当するとわかった時点で帝国の訳語がempireとなったのだろう
江戸幕府が幕末に列強と結んだ条約で既に大日本帝国と自称してたのでこの段階で
帝国がドイツに適用される下地はあった
明治に入り清王朝を日本が帝国と表現しはじめたため、帝国の君主は皇帝ということに
なりemperorは皇帝の訳語になってしまった
今では帝国という事実上和製漢語を中国自身が使うようになってしまい、大秦帝国とか
普通に使われている
全体的には「帝国」自体は幕末までわずかな例外以外中国でも用例がない言葉でほとんど新造語だったから
君主国を越える広域統治国の概念として採用したところまではそれほど問題はなかったはず
清王朝に適用した結果帝国と皇帝が結びついたところおかしくなりはじめた
emperorの訳語も新造語にすればよかったのだろう
しかし中国でももともと皇帝はあまり使われておらず一般的には天子だったから
(天子が治める天下)、「皇帝が治める帝国」という広域統治体の概念を表現する
新用語を日本の学者が作り出したといえなくもない
ローマ史の場合には皇帝が帝国には必須ではないということが理解されるのは
日本でもローマ史研究が進んでからのことだからあまり明治の学者を責められない
いまとなっては困ったことになってはいるが >>307
この辺の説明、長くなるからしたくないのだけど
「皇帝がいないのに帝国www」
「皇帝じゃないのに帝国www」
とかいうのがかなり多くいてめんどくさいことこの上ない 皇帝・帝国ほど多くないが「王がいるから王国!」とか「王がいないのに王国www」みたいな奴もいて本気で信じ込んでるからめんどくさい ユスティニアヌスがローマを征服してフランク王らに西ローマ帝国を委ねて以降、ヒスパニアでは「ローマ人」とはヒスパノ=ローマ人とゴート人だけを意味する語になり、フランク人とギリシャ人は「ローマ人の敵」とされた
一方でフランク人とギリシャ人の側では自分たちこそが「ローマ人」であるとの認識から、彼らに従わないヒスパノ=ローマ人とゴート人とを「ローマ人の敵」とした
結局のところローマ帝国のどの地域においても、自分たちこそが生き残った最後のローマ人であり、その敵対者が反ローマや僭称者と見なされていた のび太「正しい方を助けなくちゃ」
ドラえもん「どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」 >>307
> 明治に入り清王朝を日本が帝国と表現しはじめたため、帝国の君主は皇帝ということに
なりemperorは皇帝の訳語になってしまった
中国をempireと称したのは大航海時代の宣教師たちだから時系列的にはこちらが先 >>312
empireと称してはいるが帝国とは言ってないんですよ ざっくり年表
1790年代 日「帝国=ドイツ国」「(蘭)カイザー=総王」
1800年代 日「帝国=(独)ライヒ、(英)モナルク」 露「征夷大将軍=インペラトル」
1810年代
1820年代 日「帝国=(英)エンパイア」 日本帝国や大清帝国といった日本語の誕生
1830年代
1840年代
1850年代 米「征夷大将軍=(英)エンペラー、(英)アウグスツス」 日「(英)エンペラー=大君」
1860年代
1870年代 日「(英)エンペラー=皇帝、天皇」
1880年代
1890年代 中国に和製漢語「帝国」が伝播(1895年に日清戦争に敗北した清が、外交文書で日本による「大清帝国」の表記を受認) >>313
>>307は
日本語の帝国が成立→帝国は皇帝が治める→Reichは英語でempireだからempireを治めるemperorは皇帝とする訳語が成立した
とある
これに対して>>312は、
中国をempireと称したのは大航海時代の宣教師→よって皇帝又は天子がemperorの訳語として理解されるのは既に西洋において成立していた という話。漢語の皇帝乃至天子に相当する存在がemperorの訳語
として理解されるようになった経路は>>307が書いてるような、日本語の「帝国」を経由したわけではい、ということ
>>313の指摘はまったくの的外れ
もっとも、emperorに対応する漢語は日本語の「皇帝が治める帝国」が成立していなければ天子とか皇上とかになった可能性はある >中国をempireと称したのは大航海時代の宣教師→よって皇帝又は天子がemperorの訳語として理解されるのは既に西洋において成立していた という話。漢語の皇帝乃至天子に相当する存在がemperorの訳語
empireとemperorを混同しているのでやり直し ユーグ・カペーは俗人修道院長でもあったが、
俗人が修道院長を兼ねるというのは
現代人には理解しにくいな そもそも大航海時代だとempireの君主がemperorだとかemperorのいる国がempireだとかいった認識がまだ誕生していないんだよな >>316
では1736年のフランスの『シナ帝国志』でemperorとempireが使われていると訂正しよう 修道院が流行る以前の、教会が国家行政を担当する国家公務員だった時代の感覚も現代人としては理解しにくい 失礼
訂正する
>>316は意味不明。別に混同していない
ただし、大航海時代についてはemperorとempireの結びつきのソースは今のとこ見つけられていないから
>>318に関し、
1736年のフランスの『シナ帝国志』でemperorとempireが使われていると訂正しよう ところがフランスの話するなら1785年にフランス王がラ・ペルーズへの航海訓令のなかで日本の将軍のこともemperorと表記してるんだよねえ
普通に考えて「皇帝又は天子がemperorの訳語として理解されるのは既に西洋において成立」ってのはありえないわけで、
逆に西洋で「emperorが皇帝又は天子の訳語として理解され」ってのならありうるんだけどねえ >>322
実際、>>307と>>312は「皇帝」の訳語にエンペラーが使われるようになった話だけをしてると思う
>>305や>>314とかは日本でエンペラーの訳が「皇帝」になった経緯の話だけど >>322
確かに文章がおかしかった
指摘されたので修正した
意味的には>>323の指摘に沿っていると自任しているが、
まだこれでもおかしいかも知れないので
変だったま指摘してくれ
中国をempire、中華皇帝をemperorと称したのは18世紀の宣教師→emperorが皇帝又は天子の訳語として理解されるのは既に西洋において成立していた という話。漢語の皇帝乃至天子に相当する存在がemperorで、中華王朝の領域に相当する存在がempire。empireとemperorの関係での中華皇帝と王朝領土の関係認識は既に西洋において成立していた
日本語の「帝国」と「皇帝」を経由したわけではい、ということ >>315 > > > 中国をempireと称したのは大航海時代の宣教師→よって皇帝又は天子がemperorの訳語として理解されるのは既に西洋において成立していた
>>316 > > empireとemperorを混同しているのでやり直し
>>321 > 316は意味不明。別に混同していない
>>321 > ただし、大航海時代についてはemperorとempireの結びつきのソースは今のとこ見つけられていないから
>>321 > 1736年のフランスの『シナ帝国志』でemperorとempireが使われていると訂正しよう
ゴールポストが動いてしまったのか… >>325
ゴールポストを動かしたというより最初から>>312が説明不足だった
長文を書くとウザがられるから短文で終わらそうとした
短文にまとめる能力が俺にはなかったので反省している
最初から>>324のスタイルで書けばよかった
ただし、>>322で指摘された部分は誤りだったから、総じて俺の文章が悪かったと思う
謝る ゴート戦争のあと、宦官ナルセスはローマ市民への穀物無料配給を復活させ、
教師・医師の俸給制や都市上層民の公共建築や水道設備の修理義務をも
復活させたが、それでもイタリアの荒廃を食い止めることはできなかったんだよな 落ち着いたようなので簡単にまとめ、+オマケ
1736年のフランスでは、当時の中国と中国の君主を empire と emperor と呼んでいた。
同時代の日本では「帝国」の語は未だ存在せず、中国の君主を「皇帝」と呼んではいたが「皇帝」を emperor の訳としては使用していなかった。
1798年の日本で「帝国」という新語が生まれ、間もなく「日本帝国」や「大清帝国」なる用法も生まれた。
しかし帝国の君主を「皇帝」する認識は未だなく、「帝国」は未だ empire の訳語でもなかった。
この間に日本の洋学の主流は徐々に蘭学から英学へと移行していった。
1820年代の日本では「帝国」が empire の訳語として用いられるようになり、1870年代の日本では「皇帝」が emperor の訳語としても用いられるようになっていた。
少し時代が下って1920年になると、日本では既に論文『Empireの意味に就いて』で「帝国を皇帝の国と理解する素人の誤解」が指摘されている。
1920年〜1940年代の歴史学者は誤解が生じている原因を「"帝"国と皇"帝"の字面が似ているからだろう」と推測している。
ちなみに1940年版の岩波文庫『ローマ人盛衰原因論』では共和政ローマもしっかり「帝国」と翻訳されていた。 >>327
それら全部を復活させだところで、ようやくオドアケルや東ゴート王国時代の政策水準に戻っただけだからね
戦災復興策としては弱すぎる イタリアだけ取っても港湾が破壊されたりヒスパニアと敵対してたりでイタリアの生命線は死んだままだった
加えて対ゴート人として育て上げられたランゴバルド人はゴート人とは違って全くローマ化されていなかった ヨーロッパでいつからemperorとempireが結びついたのか調べてたんだが……
中世イギリスで「マーシア人の王国の統率者にして皇帝」なんて称号がでてきたり
オットー一世の父ハインリヒ1世が勝利した戦でimperatorと呼ばれたりと
いろんなパターンが見つかる見つかる
周辺部にいくほどなんでもありだったんだな
これらに比べれば神聖ローマ帝国を巡る皇帝と諸侯と教会の論争なんて
高度で精緻な概念と定義とさえ思えてくる 帝号を称する国をイムペラルトルスコイといひ、王爵の国をコロレプスツワといふ。彼邦にて他邦の者どもおち合、互に其許の国は何国にて何爵ぞと問うとき、コロレプスツワなりといへばとり合あう者もなし。イムペラルトルスコイなりといへば席中形を端し上座を譲ると也。世界の間四大部洲にして其容る所の諸国千百に下らず、其内帝を称する国僅かに七国にて、皇朝其一に居る。されば光太夫等何方に行きても少しも疎略にせられざりしなり。 ゴート戦争後、イタリアのどの都市でも、古典的なローマ都市の中枢部分
(フォルム・民会議場・都市参事会議場・神殿・闘技場などの市民的な領域)が、
放棄されたり破壊されて一般住宅や商店が建てられたり、多神教神殿が
キリスト教会や高官住宅に流用されている
都市参事会の活動もほとんど停止する そりゃまあ「ヨーロッパではemperorとempireが結びついている」って前提自体が怪しいわけで…
今の英語圏ですら「emperorによる支配をempireと呼ぶのは語源の近縁性によって生まれた後世の用法」って認識だし 共和政ローマの時代には、imperator はローマにおいて imperium(命令権) を与えられた公職者を意味する言葉だったが、ローマ以外の imperium 保持者については imperator ではなく rex(王) と呼ばれていた
帝政ローマの時代になると、imperator は勝利した軍司令官を賞賛する掛け声と理解されており、もはや imperium とは結びついていなかった インペラトル(エンペラー) → 「凱旋将軍」の意味。これだけじゃ「皇帝」の意味はない。
カエサル(カイザー) → 「カエサルの後継者」の意味。これだけじゃ「皇帝」の意味はない。
アウグストゥス → 「尊厳者」と「アウグストゥスの後継者」の意味。これだけじゃ「皇帝」の意味はない。
BC〜1C: 「カエサル」が皇帝。初代はカエサルでアウグストゥスは2代目カエサルの認識。皇帝は「アウグストゥス」や「インペラトル」の称号を用いないことも多い。「インペラトル」は皇帝以外も使用。
1C〜4C: 「インペラトル」「カエサル」「アウグストゥス」がセットで使用される。
4C〜 : 「アウグストゥス」が皇帝。 「インペラトル」もセットで使用される。徐々に「カエサル」は使われなくなる。 16世紀イギリスでもエンパイアの君主はルイ(rui、王)だね。
9〜16世紀の古イングランドの君主はエンペラー、バシレウス、インペラトル、アウグストゥス、シーザーなど様々な呼び方で呼ばれてるけど、逆にエンパイアとは呼ばれてない。 王は印欧語ではrex系(roi、rajaなど)とking系(koenigh、konungr、knyaz'など)だけでシンプルなのにね。性質としても印欧祖語社会から受け継いだ部分が多いし。 王は称号の合成じゃないからシンプルと言えばシンプルだよね
軍事的意味合いの強いrex系と家系的意味合いの強いking系を同じ王と翻訳してる問題とかknyaz'が王ではなく公と翻訳されてる問題とかカエサル由来のツァーが王と訳されてる問題とか考えだすとキリがないけど
まあ、それでも一語で済んでるから話が楽だよね >4C〜 : 「アウグストゥス」が皇帝。 「インペラトル」もセットで使用される。徐々に「カエサル」は使われなくなる。
ブルガリアとかでは「カエサル」が残って「インペラトル」「アウグストゥス」が退場した カエサル系はドイツでもカイザーとして復活した
でもオットーらザクセン朝時代のローマ皇帝はインペラトル・アウグストゥスとは名乗ってるがカエサルとは名乗ってない
いつ頃からカイザーに取って代わられたんだろうか? ロシア皇帝はいつからツァーリになったのか
オスマン皇帝はいつからカイセリになったのか
どっちもローマの後継を自称しはじめた頃からやろ >>341
1211年フリードリヒ二世がドイツ語で「Erwählter Römischer Kaiser」と自称したのが
古い事例の一つで1508年にマクシミリアン1世が皇帝戴冠できず自称したのが
定着のきっかけの一つらしい
ローマ戴冠しなくなってラテン語の称号が必要となくなったからドイツ語で自称しだした
って感じ >>340
ウィキのアウトクラトル見るとブルガリアではインペラトルのギリシア語訳の
アウトクラトルのそのまた訳語の самодържец,が使われたとあるがホントかな >>345
サモヂェルジェツ(専制者)はロシア皇帝/ツァーリも帯びていた称号。
正教圏ではパンクラートル→ウラジーミルみたいにギリシャ語から直訳で作られた言葉は多い。 日本の天皇、中国の皇帝、トルコのスルタン、イランのシャー
英語だと全てemperor アッティラとかアレキサンダー大王とかもemperor >>350
Alexander the GreatをEmperorと表記してる文献あったか? >>343
> プリンケプスも加えてあげて
正式称号に「プリンケプス」を付け加えた皇帝は一人もいないんですわ アレキサンダー大王の正式称号はバシレウス
バシレウスはラテン語でrexにあたり後の中世期の東ローマ帝国emperorがバシレウスを名乗ってemperorと同義になった
日本語で訳すなら単に王だけど、偉大なる功績残した人は当事者限りの大王との表現でもあてはまる
kingでも無いしHigh Kingでも無い マニアックなとこだとトゥピ族のモルビシャーバが英語圏で emperor って訳されてたりする >>354
大王って、Magnus(the Great)の邦訳だろ
「偉大なるポンペイウス」の「偉大な」と「王」で意訳「大王」
それ以外に意味なんてないだろ >>342
> ロシア皇帝はいつからツァーリになったのか
> ローマの後継を自称しはじめた頃からやろ
もともとモンゴル系のハーンをツァーリと呼んでたので伝統的に使われてた
なのでロシアのツァーリ使用はモンゴル原理に基づいたものと理解する研究社も多い
そしてロシアは1721年に「インペラトル」を採用してる >>354
> バシレウスはラテン語でrexにあたり後の中世期の東ローマ帝国emperorがバシレウスを名乗ってemperorと同義になった
ラテン語でrexにあたるのってリフス(??ξ,)じゃないのかな?
そのくせ古代ローマ皇帝のこともリフス(??ξ,)と呼んだりとかしてるからなんだかよく分からないけど >インペラトルのギリシア語訳のアウトクラトルのそのまた訳語の самодържец,
これってどれくらい原形を留めてるのだろうね?
そこまでくると「天皇→emperor→皇帝、つまり天皇は皇帝!」みたいなうさんくささがある ペルシア皇帝のことは同格のバシレウス(皇帝)と認めるけど分裂期の西ローマ皇帝のことは格下扱いするためリフス(王)と呼んじゃうビザンツ人の複雑な心境… >>361
天皇=皇帝 は実際に大日本帝国ではそう自称してた
当時の天皇の署名は「大日本帝国皇帝 裕仁」や
ちなみに今は天皇の署名は称号無しで「徳仁」だけや >>361
само=αὐτό=自己
държец=kratōr=支配者
でほぼ直訳
アウトクラトルとインペラトルの間は当時のギリシア人による意訳 日本だとemperorを王と訳すことはしばしばあるけどkingを皇帝と訳すケースは皆無だね >>364
の「意訳」は不適切な用語だった
言葉の意味的な内容を訳したというわけではなく、同等の存在に相当する
ギリシア語圏での権力と軍事力を持つ役職者を示すギリシア語の呼称を用いた 日本語でemperorを直訳するとどうなるんだろうね
少なくとも皇帝は意訳でしかないけど 中国ではインペラトールは何て訳してんの?
「皇帝」やないんか? >>367
「司令官」でええやろ
もうちょっと意訳するなら征夷大将軍がぴったりや >>367
>日本語でemperorを直訳するとどうなるんだろうね
不可能
例えば「柿」の英訳は persimmon だが、もともとの「柿」と persimmon は別の植物
なんとなく近い概念を流用できるだけ >>368
>中国ではインペラトールは何て訳してんの?
>「皇帝」やないんか?
中国では「?旋將軍」らしい 文字化けした
>>368
>中国ではインペラトールは何て訳してんの?
>「皇帝」やないんか?
中国では「凱旋将軍」らしい ところで、さっきからラテン語のIMPERATORと英語のemperorがごっちゃに出てきてるけど
IMPERATOR=emperor は間違いないんか? EMPEROR は IMPERATOR が 語形変化しただけだから、そこは同じでいいんじゃないの? 翻訳の話してる人たち、
基本的に、日本語、英語、中国語の単語が一対一で対応してる(対応させられる)ってのは幻想だからね >>366
また訂正
今日は調子が悪い
само=αὐτό=自己=単独の=唯一の
държец=kratōr=支配者、司令官
なので、アウトクラトルは「全能の(唯一の)支配者」とも訳せるし
最高司令官とも訳せる。つまりインペラトルの直訳でOKだった
共和政期のギリシア語碑文とかでは、ギリシア諸都市の複数の都市にまたがる一時的な最高司令官
みたいな職務であり、大王とか皇帝的なニュアンスではなかったらしい
各都市の将軍たちをこえる「単独の」司令官だから一応インペラトルに相当する
のちに「全能の」みたいな意味が付加されたのは皇帝支配が強力となり、その結果
「単独の」が「全能の」とのニュアンスを含むようになったのかも >>378
> 各都市の将軍たちをこえる「単独の」司令官だから一応インペラトルに相当する
インペラトルには「単独の」って意味がないし、定員がなくて必要に応じて何人も存在できるけど? >>375
> EMPEROR は IMPERATOR が 語形変化しただけだから、そこは同じでいいんじゃないの?
同じ語ってだけで、時代が違うなら用法もちがうのでは? >>377
誰がいつ頃どういう翻訳したかで、その人らの捉え方が分かるから、そのままの語を使い回してるより文化が分かる。 >>379
確かにそうか。独裁官がアウトクラトルで訳された場合は「唯一の」の
ニュアンスで、インペリウムの場合は「すべてにおいて自決権のある最高司令官」的な
意味での意訳だったということになる感じだろうか もともとインペラトルには「命令権保持者と」と「凱旋将軍」との2つの用法があった
だからオクタウィアヌスの称号一覧の中にも
「インペラトル、カセサル、ディウィ・フィリウス、アウグストゥス、ポンティフェクス・マクシムス、コンスル、インペラトル、トゥリブヌス、パテル・パトリアエ」
とインペラトルは2回でてくる
インペラトルは2回でてくる
大切なことなので2回言いました 同じ古代ローマ帝国時代ですらラテン語圏とギリシア語圏では体制が違うから完全に一致させるのは難しかったろうね
ギリシア語圏は上位の職が下位の職の権利を超越するピラミッド型な「職位」の社会だったけど、
ラテン語圏は最上位のローマ皇帝ですら食糧問題については食糧長官の承認が必要な「職権」の社会だった では中世の話題も
元老院「我らがドミヌス、カエサル・フラウィウス・テオドリクス、栄光ある王、勝利者にしてローマの名を宣揚する永遠なるアウグストゥス」
ウェスタ神殿「ローマのドミヌス、テオドリクス」
↓
現代「テオドリック大王」
テオドリック(解せぬ……) まとめてインペラトルと呼ばれてるだけで
それぞれの権力はそれぞれの役職に付与されてる
インペラトル=軍最高司令官(兵符)
コンスル=執政権 途中で送信してしまった・・
インペラトル=軍最高司令官(兵符)
コンスル=執政権(支配権)
プロコンスル=属州総督に指令する権限(実質封建制度)
トゥリブヌス(護民官)=拒否権(上記の役職と同時に持つと拒否権排除=独裁)
ポンティフェクス・マクシムス=宗教の長
アウグストゥス以降これら全て持ってる事が前提でインペラトルがあらゆる権限持つ役職と同列になってる たとえインペラトルでもアウグストゥスでなければポンティフェクス・マクシムスになれないのでカエサルは副帝どまり 6世紀中盤
ポンティフェクス・マクシムスは? → 教皇
SPQRの第一人者と呼ばれたのは? → 教皇
ローマ市民から国父の称号が贈られたのは? → 教皇
帝国の新年到来を宣言するようになったのは? → 教皇
西側でクルスス・プブリクスを運営していたのは? → 教皇
行列で香と蝋燭の使用が許可されていたのは? → 教皇
大礼服の授与が行えたのは? → 教皇 なので単に軍最高司令官のインペラトルなのか
包括して皇帝相当の権限要するインペラトルなのかの違いによって翻訳も変わってくる >>391
時のインペラトル「教皇の決定はインペラトルの決定と同じ、だから皆従え」
その発言により国民からインペラトル不要論が強まりオドアケルの実力行使が一気に近づいた >アウグストゥス以降これら全て持ってる事が前提でインペラトルがあらゆる権限持つ役職と同列になってる
どっちかと言えば逆
第一人者がインペラトルも持ってるだけ
ティベリウスの頃からカエサルではない人はインペラトルを辞退するようになった >>393
そんな話もあるの?
ウァレンティニアヌス3世の勅令「教皇の言は万民の法」なら知ってるが同じ勅令のことかな? 実際のところ、教皇の強さも時代によりまちまち
カール大帝の時代から12世紀ぐらいまでの教皇は、新皇帝が誕生するごとにSPQR代表として「皇帝に忠誠」を誓ってる
皇帝は軍隊の歓呼によって即位していて、皇帝の側では教皇を必要としていなかった
しかたがないので教皇は、皇帝に「頼み込んで」戴冠式を「させていただだいて」いた
「教皇が皇帝を任命してた」とか「皇帝即位には教皇による戴冠が必要」とかの認識は13世紀以降のキリスト教会が広めたもの >>387
ロムルスではじまりロムルスで終わると物語的に都合がよいので・・・ >>387
テオドリックってカエサル・フラヴィウス・アウグストゥス皇帝称号三つもあったんなら
西ローマ側では皇帝と見られてたってこと? >>396
オットー大帝がローマ教皇と交わした「確認協約」では、
ローマ教皇は新たに選出された後、その受任前に直ちに皇帝に忠誠を
誓わねばならないと規定されていたな
ドイツ国王や神聖ローマ皇帝のほうがローマ教皇よりも力の点で
圧倒的に強く、威信の面でもより高かったからである >>398
東でもだよ
アナスタシウスはオドアケルがゼノンに献上した西の帝章をテオドリックに返却してる 当時の記録はテオドリクスをアウグストゥスと記しているが、テオドリクス自身がアウグストゥスと名乗った記録は見つかっていない(フラウィウスとは名乗っている)
テオドリクスはアナスタシウスより贈られた帝衣と帝章を身につけ皇帝式典でローマ市民からの喝采を浴びたが、テオドリクスの名前で出された勅令は見つかっていない
テオドリクスをドミヌスと印したレンガは見つかっているが、金貨はアナスタシウスの名前で発行されたものしか見つかっていない(クローヴィスの方は「皇帝クローヴィスの勝利」と題したクローヴィスを称える金貨が見つかっている) なんで軍事力のない教皇が皇帝を破門で脅せるほどに成長したの? >>402
そもそも皇帝に対した権力が無かったので
教皇が破門することで諸侯の離反を招くことができた テオドシウス大帝の頃だってアンブロジウスに脅されてた >>401
ということはやっぱ東の正帝に対して副帝ってとこだったのか >>405
皇帝権力が相対的に強くない場合、対抗勢力に大義名分を与え、パワーバランスが敵対方に傾くことになる
皇帝権力が強くとも、足元の権力基盤が蚕食されるおそれがある
破門そのものは決定的なものではないが、当時の政治的には強力な武器ではあった >>405
正当性を失う
法の保護外に置かれる
殺してもOKな存在になる >法の保護外に置かれる
>殺してもOKな存在になる
まじか > 法の保護外に置かれる
教会法とは別に皇帝の法があるはずだが? >>410
破門者や異教徒って時点で世俗法でも迫害される存在 法律の元となる道徳が宗教観から来てるんだから
宗教指導者が破門/異端者と言えば道徳も法律も適用されないよね >>412
皇帝自身も強力な権威だから、破門で必ずしも世俗法の埒外となるわけではない
そこは権威相互の力関係がモノを言う 封建的臣従契約は教会によって聖別されていたので、被破門者への忠誠義務を教会は解除することができる(というのが教会の立場)。
臣従契約は教会による聖別が行われる以前から存在したので、あくまで教会の立場なんだけどね。
まあ皇帝の方も、教会との関係が良かったときは「あいつは聖なる臣従誓約を破ったから、不法であるのみならず神からも呪われた奴だぞ」というレトリックを使っただろうしね。 お互いの権威力次第だけど破門された以上その宗教に戻れない訳だから
付いてきた家族臣下ひっくるめて改宗するか退位するかしか解決しない
指導者をどうこうするという手もあるけど
どっちにしろ元に戻すまでかなりの労力と周囲からの危険的立場から守る労力が必要とされる >>415
他にもあるぞ
教皇取り替えればいい
そのように解決した事例も割とある 破門は解除もできるから、ひたすら謝って(できれば金銭とか領地とかお土産も持って)赦してもらうのも手。 それと、中世中期頃までは、皇帝は教皇からでなく直接神に聖別されている(から教皇からの破門なんぞ関係ない)という思想も当然のようにあった 中世初期には、皇帝はキリストの代理人だったが、ローマ教皇はキリストの使徒である
聖ペトロの代理人にすぎなかったからな
教皇がキリストの代理人を名乗るようになったのはインノケンティウス3世以降の話 > 中世初期には、皇帝はキリストの代理人だったが、ローマ教皇はキリストの使徒である聖ペトロの代理人にすぎなかった
そういやそうだったな ルートヴィヒ1世なんか嫁さんを祝福させるために教皇をフランスに呼びつけてるな オットー大帝の即位後の100年間のうちに、21名が皇帝によってローマ教皇に
任命され、そのうち5人が皇帝によって罷免されている 教皇ですらそんなもんなのに、なんでテオドシウス大帝はアンブロジウスに頭が上がらなかった?
大帝以後の皇帝であそこまでキリスト教に卑屈な皇帝しばらくいないよな 日本のファンタジーに出て来る中世ヨーロッパは何故か上下水道がローマ帝国並みに整備されてる世界 >>425
テオドシウス帝はキリスト教の教義を理解し、本気で信じていたんじゃないのかな
これに対し、中世初期のゲルマン人諸王や皇帝はキリスト教の教義をどこまで正確に
理解していたのかわからん
キリスト教に改宗してからも一夫多妻を続けているし、司教たちも武器を手に取って
戦っているし 【※心霊写真※】【【【 https://blog.goo.ne.jp/nichikon1/e/d9d05d45085c29df2c0e994a4b60d816 】】】【※無料鑑定※】
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心霊写真か?と思われる画像がありましたらどしどし送ってください。
【「指ぱっちん」の天才霊能者八意先生とは?】
日本一の天才霊能者の八意先生は埼玉県八潮市生まれ育ちの推定27〜28歳です。
悩み事があるときや困った事が起きてしまったら、まず八意先生に相談しましょう。
と言いたいところですが、八意先生は事情により数年前に失踪してしまい、現在行方不明です。
しかし、以下のサイトをすべて読み終わったときには、腹を抱えて大笑いしてしまっていることをお約束します。
えむびーまんの日記帳・トップページ
【 https://blog.goo.ne.jp/nichikon1 】
そして、心霊写真鑑定のページはこちら(↓)になります。
【※重要※】【 https://blog.goo.ne.jp/nichikon1/c/9bb4322846693ae17f0b6080edca7dd1 】【※重要※】
お気に入りに追加することをお勧めします。ブログは毎日更新しています。
霊能者のサイトによく、誹謗中傷を書くと、名誉棄損・営業妨害で裁判所に訴えるぞとかいてあることがありますが、
訴えるということ自体が自身がインチキで霊能力がないことを認めていると日本霊能者連盟所属の霊能者たちと大笑いしたことがあります。
誹謗中傷は大歓迎です。 >>419
高校の世界史ってカノッサで終わっているからあたかも教皇グレゴリウス7世がドイツ王ハインリヒ4世に勝ったかのような感じになっているが実はハインリヒはのちにローマ包囲しグレゴリウスは罷免されて1084年に対立教皇クレメンス3世を擁立してローマ皇帝に戴冠されているんだよな
その後もすったもんだがあって1122年ヴォルムス協約で叙任権闘争は一応決着がついた 現代でもアフリカには、キリスト教に改宗しても一夫多妻のままの人たちがいる
いくら言っても一夫多妻を止めないから、白人宣教師の側もあきらめてしまった >>430
キリスト教の教義を理解して本気で信じてる人間が、司教に「破門するぞ」と脅されるようなことするんか? 大帝ならアンブロシウスの反対を押し切ってアリウス派の少女と再婚したよ イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ハンガリー、ロシア、ギリシャ、ブルガリア
かつて皇帝がいた国って結構多いな
デンマーク、スウェーデン、ポーランド、リトアニアも強い時期はあったけど皇帝になるまでには至らなかった イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、オーストリア、ハンガリー、ロシア、ギリシャ、ブルガリア
かつて皇帝がいた国って結構多いな
デンマーク、スウェーデン、ポーランド、リトアニア、ポルトガルも強い時期はあったけど皇帝になるまでには至らなかった 中世初期、ローマ司教の権威は東ローマ皇帝に対しては決して強いものとはいえず、
6世紀、異端の単性説の扱いをめぐり、これを容認するユスティニアヌスに対し、
司教ウィギリウスは抵抗を貫けず、譲歩せざるを得なかった 昨日のフジテレビ 何だこれミステリー
千葉県だったか、ケーキの火の明かりの時に出てきたもの。
あれは角、複雑な歪みで千葉の土地も関係があるからだろう。
今までにない妖怪達だと言っている。
それを辿ると出てきた事は、オーストリアの蛮行。 1620年〜1680年頃、オーストリアのウィーンに来たイギリス軍にフランス人がいて激昂したオーストリア人が、フランスのパリまで出向いてあらゆるものを盗んで持ち帰っている。フランス人をヒ素で殺し放題をしながら、それは何十万人に及ぶ。
放送の中のブルガリアの黄金の仮面もオーストリア人が盗んだものを隠したから出て来た。 その角は、B.C6世紀頃にイギリスで生まれたもので、パトヤという。
その角は千葉には出て来ただけだと言っている。 その角は、ピンク色の塊で同じものがある。
村上市の奥の山で中国人から残酷で酷い扱いを受け続けた人々の怒りと同じだ。
ロンドンの古い建物の中で生まれたそれは強い憤りで復讐を誓っている。 日本が滅べば終わりだと軽く見ているヨーロッパ人。
ヨーロッパは見ても仕方ないなw >>438
> デンマーク、スウェーデン、ポーランド、リトアニア、ポルトガルも強い時期はあったけど皇帝になるまでには至らなかった
そこらへんは昭和戦前の外交文書だと「皇帝陛下」だな スペイン国王は神聖ローマ皇帝を
イギリス国王はインド皇帝を兼任していた時期があったからね
あとウロシュ4世は
「セルビア人とローマ人の皇帝」と称している
これはあくまで自称だから
ローマ教皇はもとより、ビザンツ皇帝からも認められてないだろうね そもそも皇帝になるには教皇に認められる必要もなければビザンツ皇帝に認められる必要もないもの
特にイギリス領インド皇帝なんてイギリスがかってに作った地位だし ルーマニアがローマを意識しだしたのって近代からだよな?
トランシルヴァニアやワラキアの時なんて自分らがローマ人の末裔であることなんてすっかり忘れてそう ダキア人とローマ人が混血し、そこにゲルマンやらスラブやらフン族やらが混血したのが
今のルーマニア人 スラブ系に囲まれてるけどあそこだけラテン系
やはりローマ人の末裔やね 言語的にはローマ支配から直結してるわけじゃなく
中世初期あたりのダコ・ローマン系文化の断絶でいったん消えたはず
んで現代に続くロマンス語化はその後に中世でのバルカン半島からの移住による影響が強いとのこと
遺伝的には古代ダキア人をベースにいろんな移住者の混ざってちゃんと連綿と続いてるようだけど そもそもローマ本体のことはルーマニア(ローマニア)言わない
ローマの外に広がるローマ人に従った土地をローマニア言う ローマ軍が271年にダキアから撤退した後、ダキア・ローマ人はカルパチア山脈の
山間部に逃げ込み、10世紀ごろには彼らはヴラフと呼ばれるようになる
いずれにせよ、4世紀から10世紀にかけてのカルパチア=ドナウ地域に関する
史料は欠落している >>428
一応中世でも
Цѣра Рꙋмѫнѣскъ
という言葉はあったらしい
意味はローマ人の土地
単にそのあたりの名称として使ってたってだけで
ローマ人の子孫という自意識があったとは限らないが
ワラキアはウェールズと同語源でゲルマン語によるケルト人の他称らしい
てことはワラキアに住んでた人は少なくともスラブ語やゲルマン語ではない
言葉を話していたと認識されてたってことなんだろうな ワラキアはウェールズと同語源で
ゲルマン語を話さない地域という意味で
ゲルマン人側に由来する他称だから
ワラキアと名付けたのはゴート族なのだろう
ワラキアは古代にはゲタイと呼ばれていた
偶然にもゲタイとゴートは似ている名だけど
ゲタイはトラキア系民族だといわれる 言葉の意味は時代と地域と階級によって大きく違うからなんとも・・・ ゴートというのもローマ人側からの他称だろうか?
東ゴート=グルツンギ
西ゴート=テルビンゲンという別の呼び名もあった
ならば同じ場所だからゴートはゲタイに由来するのかも ゴート族は4世紀に12の勢力があった
南下してきたゴート族や周辺の勢力部族等々で分かれて最終的に2つにまとまった
東ゴートとグルツンギは別物だと言う史料もあるし
まとまった時に黒海周辺の文化の名で呼び出したと考えるのが妥当 トラキア人をはじめとするバルカン半島の先住民族は、
スラヴ人の南下の後、山岳地帯へ逃げ込んだのかな
とすればバルカンのヴラフは彼らの末裔? >>460
> 東ゴート=グルツンギ
> 西ゴート=テルビンゲン
今ではイコールどころか前身や合流した集団ってことすら疑われてるぞ ほとんどの部族名はローマ人の命名で、しかも同じ部族名が異なる部族にも使い回しされていた バルカン半島北部・ドナウ帯のこの件は学者でも言語畑・遺伝畑・考古畑でそれぞれ違うこと言うし
それぞれの分野でも国ごとに違ったこと言うし同じ国でも意見いくつにも割れてるし
そのうえナショナリズムの負の遺産で歪みまくってるしでグチャグチャでほんとわけわかめ
そもそもが古代から色んな民族流入しまくりグチャグチャ地帯だから仕方ないっちゃ仕方ないけど 分からんことは分からん
知りたいことなんでも分かるとか期待しちゃう子は陰謀論とかに騙されるぞ あのへんは所謂ヨーロッパ大陸の玄関だからな
来るヤツ出るヤツみんなあそこ通るから混沌の極み 世界最強国家イギリス様の功績
・世界初の憲法マグナカルタによって租税法律主義や罪刑法定主義を規定、他国に先駆け専制政治から脱却し議会制民主主義を確立した
・近代科学の父ニュートン、電磁気学の祖マクスウェル、世界初の抗生物質の発見者フレミング、進化論を説いたダーウィン、
他にキャヴェンディッシュ、ファラデー、ドルトン、ラザフォード、ホーキング等優れた科学者を輩出
・他国に先んじて市民革命を成し遂げ、また人権思想を確立したロックやホッブズ等の思想家による自由精神が海を越えて波及しアメリカ独立革命やフランス革命を惹起した
・産業革命を起こし資本主義社会に移行、近代化の先陣を切って従来の価値観を一変させ今日の社会の礎を築いた
・鉄道、テレビ、電話、地下鉄、掃除機、ATM、インターネット(Web)等現代の生活に欠かせぬ発明を多数やり遂げた
・無敵の海軍力と鋭利な外交力によって時の強国スペイン、オランダ、フランス、ロシア等と覇権をかけて連戦連勝
史上最大の帝国を築き、軍事力だけでなく科学力、影響力、文化力でも他国を優越し
また鉄道を敷き学校を建てるなど率先して第三世界の文明化に貢献した
・トラファルガーの海戦、バトルオブブリテンによって欧州の支配と独裁を企てるナポレオン、ヒトラーの野望を打ち砕き、欧州の守護者となった
・シェイクスピア、スウィフト、クリスティ、ドイル、トールキン、ウェルズ、オーウェル等優れた文学者を輩出し続け、またSF、ミステリー、ファンタジー等のジャンルを確立した
・ゴルフ、サッカー、ラグビー、競馬、卓球、カーリング等ほぼ全ての近代スポーツの発祥地である
・英語やスーツ等の英国文化が21世紀現在もグローバルカルチャーであり、またロンドンを基点にしたグリニッジ子午線が世界で採用され、英国を中心とした世界地図が国際的に使用されている
https://i.imgur.com/KUt5ge0.png
・20世紀に入りビートルズ、ストーンズ、ピストルズ、クラッシュ、スミス、オアシス等下層階級を中心とした文化であるロックが栄え、既存権力に対抗するカウンターカルチャーの中心地となり
国際都市ロンドンの街並みが象徴するように、優れた歴史とモダン文化が交錯する英国は今も世界中の若者の憧憬の地としてその存在を示している >>469
> 世界地図は日本が中心
クソ笑ったwww
……もちろんギャグで言ってるんだよな? >>465
ヘロドトス(BC5)からアンミアヌス(AD4)ぐらいまで何度も繰り返された記述
「彼らは集団ごとに法も容貌も全く異なっており、同族同士でも言葉が通じない
そのため彼らは集団ごとに異なる王を担いで同族同士で果てのない殺し合いを続けている」
こんなバラバラのやつらを自分たちから見て同じ方角に住んでるってだけで、同じ○○人と名付けて同族あつかいすることに無理があった 南フランスって、なぜ西ローマ帝国滅亡後も
長い間ローマ的な市民文化が保持されていたのかな? >>477
そりゃまあ、「西ローマ帝国滅亡」って後世に生み出された物語上の出来事であって、当時まだ存在してない出来事だから… >>477
えっそうなの?西ローマ滅亡後っていうとメロヴィング朝の頃? >>477
簡単に言えば、ユスティニアスによる攻撃の被害に遭わなかったから
6世紀前半まではイタリアやイベリア半島の方がガリアよりも高い水準で古代ローマを継続していた
しかしイタリアとイベリア半島がゴート戦争で衰退し、結果としてガリアが最後の古代ローマの地として残った
その後は東ローマも西ローマに(特にガリアの方までは)干渉する余裕がなくなったため、惰性で7〜8世紀ぐらいまでは古代ローマが継続された アングロ・サクソン七「王国」といわれているけど、
あれらも実は「豪族」といったほうが実態に近いんだよな
あと、七王国以外にも小国群が存在した 同時代の近隣諸国に比べれば実態が豪族や公爵的立場でも
今の王国の定義に一番近い体制 >>480
ええっそうなん?
ローマ帝国の崩壊: 文明が終わるということ 単行本 – 2014/6/20
ブライアン ウォード=パーキンズ (著)
って本によると衰亡論と変容論というのがあって、古代ローマが継続したとする立場を
変容論、ゲルマン民族侵入によってほろんだとするのが衰亡論ってあって
変容論というのは実はビザンツ帝国とかの方の話で西は滅亡したんだよ、という説だとあったけど
もしかして
>惰性で7〜8世紀ぐらいまでは古代ローマが継続された
というのは変容論の一部ってこと?西も変容してる地方があったっていうことなのだろうか イングランドのEarl(伯)は、9世紀にスカンジナビアのデーン人が
非王族軍指揮官として任命したのが始まりなんだよな
大陸諸国のコメス(伯)とは起源が違う >>483
>変容論というのは実はビザンツ帝国とかの方の話で西は滅亡したんだよ、という説
パーキンズは滅亡論者なんで従来の変容論を否定する立場で書いてるのでそうなってるんだろうね
普通の変容論は西の滅亡なんてないよ、って説
EUの歴史教科書とか日本の西洋史の教科書とかでもそういう扱いになってる 変容論って、ピレンヌとかピーター・ブラウンとかビュアリとかの、主に西側での連続性を説いた学説のことだと思うんだが…
ビザンツ帝国での変容論とか聞いたことないな
ビザンツで連続説・断絶説が話題になるのって7世紀の話(↓みたいな議論)だろうし…
http://www.ritsumei.ac.jp/~ohayashi/ohafile/26tokko.pdf ごめん
誤解してた
変容論がビザンツという話は、バーキンスの本のあとがきで南雲泰輔という訳者の人が書いてたんだと思ってたんだけど
今読み返したら違くて同じ南雲泰輔の「英米学界における「古代末期」研究の展開」というpdfの方だったみたい
このpdfでは変容論は、ブラウン、Bowersock、Cameronが中心で、CameronとBowersockは
東地中海のギリシア語圏の研究者で、ブラウンも東方キリスト教の研究があるらしいから
変容論はビザンツ方面の連続性の研究だと誤解してた
西ローマ滅亡はローマの滅亡である(ビザンツ?関係ないよ)→ いやビザンツは普通にローマ帝国の続きだよ
っていうのが変容論だと思ってた
はずい‥
ビザンツというより、キリスト教や文化や社会の連続性を強調してる説ということんだな
ガリアが
>惰性で7〜8世紀ぐらいまでは古代ローマが継続された
も普通に変容論と考えていいということなんだね むしろ滅亡論って滅亡前後で何か断絶したものってあるの?ってレベルなんだよな ローマにあった元老院が消滅したゴート戦争のときかな、本当の意味での滅亡 メロヴィング朝の場合、ロワール川から南の司教座都市では、
司教職はしばしばローマのセナトール貴族の系譜をひく一族が世襲的にひきついだ
司教は都市伯より制度としては古く、またはるかに強い権威をそなえており、
国王支配も当初は司教の支配に依存するところが大きかった >>489
>ローマにあった元老院が消滅したゴート戦争のときかな、本当の意味での滅亡
ゴート戦争中に消滅したのは執政官(帝国の名目上の元首)
ローマの元老院が事実上消滅するのはフォカス帝の時代で、ゴート戦争よりも半世紀ほど後 専制君主制によるキリスト教国家の成立を目指したユスティニアヌス1世は、既にコンスタンティノープルにおいて執政官の任命と元老院への特権付与とを廃止していた
ユスティニアヌス1世がローマを占領すると、ローマにおいても彼の改革が適用され、554年にはローマ元老院の行政特権が停止された
行政は司教区ごとに分割されて都市護民官が司教の兼任となり、都市行政の人事権や裁判権が教皇と総主教の手に委ねられた
たしかに以後もローマの元老院は存在していたかもしれないが、それは既に有名無実な存在だった
この554年をもって古代ローマの終焉とする場合もある 日本の天皇家みたいに、西ローマ皇帝が権力を失っても続いていたら、
西ヨーロッパの歴史はどうなっていたかな 天皇家と違って皇帝は家系じゃないんで…
実質的に西の皇帝の地位を引き継いだ教皇なら今でも続いてるけど >>493
ほとんど何の影響もない
カール以降は実際に西側にローマ皇帝が居続けたし、カール大帝以前も当時の西側の認識ではコンスタンティノープルにローマ皇帝がいた 中世中期までは、東の皇帝の権威は西まではっきり及んでいたからな
ヴェネツィアが典型例だが それ以前から東の皇帝の権威ってとっくの昔に西側に届かなくなってるけどね・・・ >>499
届いてなければヴェネツィアの西側における中立性とか、第三回十字軍までの東の皇帝の宗主権論争とかになってないんだなこれが
何事も画一的でないのだよ
それが決定的に破綻するのが第四回十字軍 変容論について誤解してたんで図書館で少し調べてみた
「古代末期研究」と「変容論」って同じだと思ってたけど、微妙に違うことがわかった
南雲泰輔の「英米学界における「古代末期」研究の展開」というpdfにも
「Brown以後の研究が考察の中心としたのも,のちにピザンツ帝国となるローマ帝国東部である」と書いてあって
古代末期の提唱者たちがメインで研究してたのは東方だったことは誤解ではなかった。
しかし彼らは、ローマ帝国は崩壊したのではなく変容したのだ、崩壊史観はメロドラマ、衰亡に代わって古代末期をもちいるべき、と主張した。
この結果、古代末期=変容論 という理解が広まった
古代末期は西は西欧から東はイランまで含む地域を対象としているので、西ローマも変容だということになってしまった
しかしその後Brownは、驚くべき発言をした
「古代末期概念には,ローマ帝国の存在が含まれていなかった」
「古代末期の決定的な特徴は,ローマ帝国滅亡後にも引き続き存続したローマ風の生活様式の包括性にあると考えていた」
文化史や社会史レベルだけ考えていたので政治行政史を軽視していた、とのこと
古代末期提唱者が西部の研究や政治行政史をあまり意識していなかったことから90年代に
ヨーロッパ科学財団によるプロジェクト「ローマ世界の変容」が立ち上がり、
主としてローマ帝国西部に関する研究が多国籍学際的になされた。現在変容論といえば
この研究プロジェクトの枠組みを継承するものをいう
一方もともとBrownらがメインに研究していたローマ帝国東部の研究では変容論とはあまりいわれず
現在はビザンツ研究の枠内で連続性や断絶が研究されている 古代末期から中世初期の旧西ローマ帝国領は、古代文化がよく残っているところや
ゲルマン・ケルト文化の影響が強いところなど、いわばまだら状になっていたのかな? 仏学会だと昔から政治歴・行政史偏重や文化史・社会史軽視を正すって目的意識が強かったけど、英米学会だとまた違うんね
英米ではどういう経緯で古代末期論が流行したんだろう EU統合と多文化共存のふいんきとマッチしたからじゃね?歴史学者も社会の一員だから、そういう社会的価値観の変動に影響されるでしょ。 1947年に仏ピガニオルがゲルマン大侵入を強調した史観を著した時はゲルマン=第三帝国
という下地があってのことだというし
しかしBrownの古代末期論は
「I後期ローマ帝国史JI初期ピザンツ帝国史JI西欧初期中世史Jといったごとき従来のカテゴリを,おしなべて「古代末期Jのもとに集約しうるという包括性」
があり、実際彼の著作はそうなんだけど
彼以外の研究者の著作は結局「I後期ローマ帝国史JI初期ピザンツ帝国史JI西欧初期中世史Jという
三区分を乗り越えられてない気がする
特にラテン語研究者とギリシア語研究者の壁は大きいように見える それ以前からフランスにはアナル学派の下地があったからね >>503 よく話題になるローマ史研究といえば英米学会、仏学会、独学会の3つの気がする
あとは、かろうじてビザンツ絡みでロシア
肝心のイタリア勢の影が薄いような気がするのは日本の事情?
それとも世界的にもそうなの? そりゃ千年続いた帝国と短命の小国、統一も歴史が浅い国とじゃ出てくる史料にも差が出るだろ >>507
日本だけの現象
実際日本の研究者の国際学会や海外出張報告を読むと、米英仏独学会では仏独語に加えて
イタリア語が飛び交ってる描写は結構出てくる
塩野本の参考文献みてもイタリア学者の成果が多数掲載されてる 日本がドイツや英米の影響下にあるんは昔からやが、フランスはどこからでてきたんや 陸軍システム。フランスから輸入しようとしたが、やっぱドイツの方が強いだろとなった。
文化予算。現在でも西欧の中では金額がトップ。 ドイツのことは同盟国とかやたら持ち上げる人がいて世界一ヒトラー好きな国とまで言われてるのに同じ同盟国だったイタリアには冷たいのよね 岩倉使節団のころからイタリアに対する評価は低かったような ヒトラーと比べたらムッソリーニなんて空気みたいなもんだからな
ふだん意識することはないが、なくては生きていけない スペインやポルトガルなんかもローマ史研究では実績があるらしいけど日本にはほとんど入ってきてないな 200年前までは日本で洋学と言えば蘭学のことだった >>511
フランスのローマ史学も日本の歴史学にはほとんど入ってきていない
最近の大清水裕ぐらいであとは美術史くらいじゃないか
ピガニオルは翻訳がないしピエール・グリマルの翻訳者は文学者やフランス語に堪能な実業家で
歴史学者ではない
歴史学者が訳した近代研究書は20世紀まではだいたい英語とドイツ語のものばかりだった たしかにフランスからの歴史書はがっつり古代ローマ史ってよりは古代末期/中世初期やキリスト教史や西欧全体史やフランク史って側面が強いけど、
それでも白水社のクセジュ文庫シリーズだけでも久野浩とか石川勝二とか土岐正策とか高田邦彦とかがローマ史を訳してるよね
邦訳書がないって言うならA.キャメロンやE.シュテインやP.ヘザーだって邦訳書ないし、A.H.M.ジョーンズのもロクに出てないし 恐らくこのスレの住人の関心事であろう後期ローマ帝国(LRE)とか西欧におけるローマ世界の存続とかってローマ史では端っこの端っこにすぎないんで…
そこらへんを指して大雑把に「ローマ史」と呼んじゃうのには違和感を感じます… >>521
> お前が邦訳しろ
金はオマエが出してくれるんか? >>524
> 出す訳ないだろ自力でやれ
お前が自分で出せwww >>522
時代的にはローマ史のはしっこだけど、近年学問的論争の対象になっていたホットな分野じゃないの?この分野って 学生時代、教授の翻訳を手伝ってたときは科研費から月2マンもらえてたけど、今の大学は本当に金銭的に苦しいらしいな 古代末期論争ってローマ史の範疇なの? ローマ史の隣接分野なの? >>522
後期ローマ帝国が端っこの端っこということはないだろ
せいぜい端っこ
西欧におけるローマ世界の存続は端っこの端っこだが 中国人は若い女でも道端で野糞するんだろ?
日本人は底辺DQNですら流石に野糞まではせんぞ
日本人=ローマ人
中国人=ゲルマン人
って感じかね >>520
書き方が悪かった
20世紀の研究者だと
長谷川博隆と吉村忠典はドイツに留学してて
長谷川先生はゲルツァーの弟子だったりするし
ローマ法の船田亭二や社会経済史の弓削達はドイツ語文献の訳書を出してて
いずれもドイツのローマ史学が体系的に業績に反映してる
英語文献だと秀村欣二がトインビーを二冊訳してるしドイツ語の訳書もある
弓削もドイツ語や英語文献の翻訳がある
ローマ史 学説史 で検索するとドイツと英語圏の学説史や主にこれら地域の研究者
が登場している学説史はすぐ出てくるがフランスのローマ史学を体系的に解説した
学説史は出てこない
確かにアンリ・イレーネ・マルーやポール・ヴェーヌなど20世紀のフランスの研究者の
翻訳はあるにはあるがフランスのローマ史学が体系的に日本に紹介されている感じがしない
(20世紀の著名研究者でフランス留学のあるローマ史学者って誰がいるのだろう?)
クセジュのフランスの著作家の翻訳も、文学者や実業家の翻訳だとあとがき読んでも
大系的な研究紹介があった記憶がない
でも紹介してもらった(土岐正策はキリスト教史だから別枠として)
久野浩とか石川勝二とか高田邦彦とかの訳書だと書いてあるのかも知れないから
今度確認してみるよ ちなみにマルーの『古代教育史』の翻訳者は教育学者で
ポール・ヴェーヌの古代ローマの恋愛詩とパンと競技場の訳者はフランス文学者、
「私たちの世界」がキリスト教になったときの訳者もフランス文学者とフランス哲学専攻の人
史学史にのっとった大系的な解説が他分野の訳者にはできないので翻訳はでててもいまいち
「フランスのローマ史学」がイメージしずらい原因のひとつじゃなかろうか 法政史や社会経済史をローマ史学と認めてキリスト教史を別枠とするのはどうなんだろう
政治史や法政史への偏重を正して思想史・文化史・芸術史・建築史などから歴史を見つめ直そうとするのがフランス史学の特徴だと思ってるんで、そこにこそフランスのローマ史学があるんじゃないんだろうか? >>532
> 20世紀の著名研究者でフランス留学のあるローマ史学者って誰がいるのだろう?
それこそ>>520の言う「古代末期/中世初期やキリスト教史や西欧全体史やフランク史」であって直接的にはローマ史じゃないけど佐藤彰一とか そういうフランスのローマ史学の特徴は、なるほどと思うけど、
20世紀の日本におけるキリスト教史の歴史学の著作というと松本宣郎先生も
高い評価をしている弓削達のローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害 や松本先生のイメージがある
松本先生の業績一覧を見ると洋書の書評のほとんど全部が英語文献
古代末期だとガリアに詳しい後藤篤子先生がいるけどブラウンの著作を訳していてフランス書籍の訳書は見られない
土岐正策氏がフランス語の人というのははじめて知ったのでありがたいけれど
歴史学ではなく宗教学の中の文献学の人というイメージがあったので別枠と書いてしまった
土岐氏の業績はよく知らないので勘違いかも知れない
>フランスのローマ史学も日本の歴史学にはほとんど入ってきていない
というのは言い過ぎたと思っているけれどフランスのローマ史学が体系的に
紹介されているようには思えないし、20世紀に紹介する活動をして顔になってる
ような研究者も思い浮かばない
このへんが結構な数の著作が翻訳されててもフランスのローマ史学の印象が薄い背景なのではないか
なお、ここではフランスのローマ史学の印象が日本であまり知られていなさそう、その理由は何>
という話をしているのであって、
>そこにこそフランスのローマ史学がある
というフランスのローマ史学の特徴みたいな話をしているのではないのでここは誤解しないで欲しい フランスのローマ史学の特徴という話もこれはこれで大変興味深いので助かるのだけれど >>534
>思想史・文化史・芸術史・建築史などから歴史を見つめ直そうとする
これってそのまんまブラウンの提唱した古代末期学のように見える
末期ガリアの研究してた後藤篤子先生がブラウンの著作を翻訳したりしてるのはそうした共通点があるからかも
というより共通点があるがゆえにブラウンの古代末期論の後ろでフランスのローマ史学が霞んでしまったというべきか
それじゃ困るということで大清水裕先生がフランスの「古代末期」本を出版した、と考えるとつながって来る
佐藤先生も古代末期研究だし、フランスのローマ研究は古代末期なのです
みたいなイメージになってしまった‥‥
今朝まではフランスの古代ローマ学ってポエニ戦争の研究とかのイメージがあったのだけれど
これでいいのだろうか… フランスの歴史学ってブローデルの『地中海』ぐらいしかイメージできないから勉強になるわ 欧州の史学者って
イスラムで東ローマ陥落の予言があるから
東ローマをビザンツと呼び方変えたりしたんでしょ >>540
????
「ビザンツ帝国」って語が生まれたのは東ローマ陥落後の時代だし
西のローマに対して東をビザンティウムと呼ぶのは大昔からだよ
(それこそ東ローマ側のプロコピオスとかも対比として使ってる) >>538
> >思想史・文化史・芸術史・建築史などから歴史を見つめ直そうとする
> これってそのまんまブラウンの提唱した古代末期学のように見える
フランスでは、それがピーター・ブラウン(1935年生)の出生前から続いてた フランスといえばアヌス学派
('A` )
(⊃⌒*⌒⊂)
/_ノωヽ) あ、な〜るほど
と思ったが、実はフランスにおける古代末期の継続は Alois Riegl の美術史にまで遡るのでアナル学派よりも古いのだ! フランスにおける古代ローマの最大の支援者はナポレオンだろうな >>541
ローマはローマだろ
なぜビザンチンとかギリシャとかいいたがるのか?
「イスラムがローマ滅ぼす予言があるから」(成就)じゃないの >>547
> なぜビザンチンとかギリシャとかいいたがるのか?
そもそも順番が逆なんだよなぁ
もともとビザンティウムのが古い名前で、ビザンティウムがコンスタンティノープルとも呼ばれるようになった後でも伝統的にビザンティウムという呼称が残ってただけなんだよ >>540
> 欧州の史学者って
> イスラムで東ローマ陥落の予言があるから
> 東ローマをビザンツと呼び方変えたりしたんでしょ
ビザンツ呼びはイスラム教が誕生する以前からですよ
>>547
> ローマはローマだろ
その通り、ローマはローマで、ギリシャはギリシャ
上で話題になってるのはギリシャのことでローマのことは話題になってない
>>549
ローマでないものまでローマって呼んだら本来の「ローマ」と区別がつかないでしょうが >>549
もともとローマと呼ばれていなかったものを「ローマ」と呼び方を変える理由は何? 同じ国内で文化も宗教も違う一派が好き放題やってるって言うならもうそれは別国家じゃね
お互いがお互いを同じ同胞として見れないからだよ 好き放題やるようになったのは西方のゲルマン諸国で正統はビザンツだから
たしかにゲルマン諸国は言語も文化も違う別国家 東ゴートは実体は王国ではないので東ゴート王国こそローマ帝国の一部である
名称を使うべき
西ゴートも前半はローマ人との結婚ができず、法も行政もローマのものがそのまま
利用され続け、土地も西ゴート人が所有できたのは1/3だけだったから
これも前半はローマ帝国内の自治領くらいの扱い >>549
実際オストロゴルスキーなど中世ローマ帝国と書いてる研究者も多い
しかし彼らも著作の題名に中世ローマ帝国を採用したことはない
大月康弘なんかが論文の題名で中世ローマ帝国と書いてるし
三佐川亮宏なんかも中世ローマ帝国と書いたことがあるが、後者は神聖ローマ帝国のこと
因みに9世紀のフランク国王がビザンツ皇帝を新ローマ皇帝(imperator Romae Novae)と
呼んだことがある
中世初期にはトリーアやミラノ、アーヘン、パヴィア、コンスタンティノープルなどが
Roma Novaと呼ばれたていた、定着しなかったが
別にビザンツ史をローマ史と呼んでもいいのだがそれだと神聖ローマもローマ史と呼ぶという
ような話になり混乱するから結局のとこビザンツに落ち着いている
>>552
学者の中には元首政の終わりを以てローマ史の終わりと考えてる人もいるね
元首政の終わりを212年に置く人から284年に置く人まで様々だが >>555
中世ローマ帝国って、いわゆる「東」を指して使ってて、西のゲルマン諸族が支配している領域のことではないことがほとんどでは >>556
> 中世ローマ帝国って、いわゆる「東」を指して使ってて、西のゲルマン諸族が支配している領域のことではないことがほとんどでは
主に西を指して使う人もいるし東を指して使う人もいる
古代における『ローマ帝国の東西分裂』や『西ローマ帝国の滅亡』を否定して『カール戴冠による帝位の分裂まで地中海は一つのローマ帝国だった』という意味で中世ローマ帝国と呼んでる人もいる >たしかにゲルマン諸国は言語も文化も違う別国家
どっちかと言えば「言語も文化も違う別国家」なのはビザンツなんだよなぁ >しかし彼らも著作の題名に中世ローマ帝国を採用したことはない
逆に「中世ローマ帝国」の題名で本を出した渡辺金一先生は本文ではビザンツ表記なのよね… 本村凌二なんかは大月康弘と同じく山田欣吾門下だけどビザンツに SPQR や Res Publica Romana の概念が(長らく)なかったことから「ローマの語は使わずビザンツと呼ぶのが適切である」としてたりするな 本村凌二は若い頃社会経済史の論文かいてたし弓削達にも指導されたことがあったそうだから
弓削門下ともいえるでしょ
大月康弘も渡辺金一に指導されたことがあったし今や唯一の渡辺系かな >>560
まえまえから疑問だったんだがウィキの東ローマ帝国の右上の国名欄にある
正式国名が Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων となっていて、訳語的にはこれが
Res Publica Romana なんだけど Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων って
(現代の事典じゃなくて)同時代の史料出典はどこなんだろうな? そういや渡辺金一先生なんかに言わせりゃ当初は「該当するギリシャ語すら使われていなかった」はずなんだよな
今のところWEB版の世界大百科事典が唯一の出典だけど、出典記載もないし署名記事でもないからそれ以上の調べようがない
そもそも皇帝の称号すら定まってない中世に「正式国名」なんてものがあったのかどうかが怪しいけど じゃあ古代ローマ帝国には「正式国名」ってなかったの?
レスプブリカ → ローマ人の共同体を指す語
SPQR → ローマ国家の主権者を指す語
インペリウム → ローマ元老院での決定が遂行される範囲
ローマニア → ローマの外でローマに従う領域
イタリア → 早くから都市ローマに直属してた領域(ローマに属するイタリア) 国号という概念があったかどうかも怪しい
アテナイだってスパルタだって法制的にはアテナイオイ(アテナイ人たち)スパルティアタイ(スパルタ人たち)だったそうだし、ビザンツ帝国も単にロメイオイだったんでは? >>564
そういう各種の概念を寄せ集めたものを後世の我々が「ローマ帝国」と呼んでるだけなのでは? イスラムに滅ぼされたから「ローマ」じゃなくしたんでは? ビザンツ帝国だって同じ
そしてその寄せ集めの中身がどんどん変わっていってしまっているから
単純な比較は困難で理解しにくくなっている ローマ帝国にせよ上で挙がってる東ゴート王国にせよ歴史研究上の便宜的な存在なので正式国名なんてないだろうね
正式名があるとしたら都市名ぐらいだろう 国号って言葉は日本で普通に使うが、英語では国名と同じ
国号は東アジア独自の概念だから他の地域では通常は都市名や地域名に「共和国」とか「王国」とかつける
イギリスがあんな変な国名になっているのも北アイルランド含んで一括して呼ぶ地域名がないから
ローマ帝国のキウィタスも都市名がそのまま都市領域の名称に流用されてた 「鎌倉幕府」だって、どこからどこまでが武家の棟梁としての主君権、総守護総地頭としての検断権、公卿の一人としての家政だったのか、判然と分離なんてできないしな >>567
>イスラムは常にルームってよんでたよ
もともとローマと呼ばれていなかったものを、なんでイスラムに合わせて「ローマ」と呼び方を変える必要が?
日本海を韓国人が東海と呼んでるから日本人も韓国に合わせて東海と呼べってか?
>>568
>イスラムに滅ぼされたから「ローマ」じゃなくしたんでは?
イスラム教が生まれる前から既に「ローマ」じゃないんですが? 日本語で「国名」と呼ばれてるものの中には「国名」と「政府名」がある >>571
変な国名???
北アイルランドはアイルランド王国を分割した後裔で、法制度上は同君連合
だからグレートブリテン連合王国と北アイルランド王国の連合だからグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国
なんの不思議も衒いもないわけだが? 不思議だなどとは書いてないのだが
これが国号だったらグレートブリテン+北部アイルランドを相称する国号が考えられる
そうではなく地域名だからグレートブリテン+北部アイルランドとなっているということ 古代中国の国号は日本の氏集団に近い概念
だから例えば「漢」が地上の統治を任されている時代にも同時に(例えば)「魏」のような別の国号が存在しうる イギリスと近い連合王国で国号に近いものがある国にスペインがあるが
イギリスと逆の方向をたどった
というのは、イベリア半島の名称はギリシア語由来だがイスパニアというラテン語由来の名称もあり、
今のスペインはイスマニアの訛の地域名だからポルトガルも含んでしまう
しかし実態はポルトガルを含まずスペイン王という俗称が近世以降定着している
つまり、現在の国名スペインは日本人が考える国号に近い
イギリスと同じ形式を強引にスペインに適用すると「ポルトガルを除くスペインの連合王国」ということに
なりかねない >>577
「国」はもともと都市名だったからではないだろうか
現在は中国でも普通に国号というと王朝名になっている’(中国語ウィキの国号もそうなってる)
中世までは統一前の国号が王朝名になったから
という理解だとすると、元以降国号の意味が変わった、ということだろうか ロシアはルーシ由来の国名だが、いにしえのルーシとは似ても似つかぬ国土 >という理解だとすると、元以降国号の意味が変わった、ということだろうか
もっと最近かもしれんね
自分たち以外の「国」の存在を認めたのが清の時代になってからだし ウラジーミルやヤロスラーヴリあたりを北東ロシアと呼ぶような、ヨーロッパロシアだけをロシアと呼ぶような用法も根強いけどね ロシアの場合はビザンツ帝国の継承者を自任してただけあって国名も似てるのかも!?
地名から分離してロシアが支配する領土がロシア
ローマ(ビザンツ)が支配する領土がローマニア
とか?
まあでもUnited Statesとやらも領土が一つの州に縮小しない限りUnited Statesだったりするな >>578
スペインは現在連合王国でもないし同君連合でもない
歴史的には同君連合(カスティーリャ、アラゴン、レオン)だった時期もあるが、スペイン継承戦争以降は建前すら無くなった、王冠は一つ
根本的な勘違いしてるような? >>579
>現在は中国でも普通に国号というと王朝名になっている’(中国語ウィキの国号もそうなってる)
「国号がそのまま王朝名として理解/再利用されている」と理解するとよいかと >>578
わかってて揚げ足取ってるだけなんだろね
「イギリスと同じ形式を強引に近世スペインに適用すると」
でいいかい? >ローマ(ビザンツ)が支配する領土がローマニア
ローマというかローマ人?
東方正教会のキリスト教徒がローマ人
そのローマ人が支配する土地がローマニア
そのローマ人が推戴するのがローマ皇帝
って参照で都市ローマにとらわれないローマを作り出してる スペイン王の正式称号って今でも「カスティーリャの王、アラゴンの王、レオンの王、エルサレムの王、インディアスの王」たらなんたらを延々とつなげたものじゃなかった? >>586
適用する意味がないだろ?
意味不明だよ
連合王国は連合王国だからあの国名になってるわけで、連合王国じゃなければグレートブリテン王国になってたかもしれんさ
しかし、あの国は連合王国(王国の連合体)なわけで、あれ以外に国名つけようがない
他の国との比較とか全くの無意味、他に同君連合維持してる国がありゃ別だがね
USとUKは地名どうこうじゃなく政治体制から国名付いてる例 >>589
その連合王国の構成各国のカントリーの名前は地域名由来でしょ?
「王国が連合した」という政治体制の話を否定しているわけではないのだが >>587
>東方正教会のキリスト教徒がローマ人 そのローマ人が支配する土地がローマニア
だいたいそうなんだけどマルケリヌスにRomaniae という用語が登場しているそうだ
彼の晩年には既にキリスト教国になってたとはいえこの記載がある部分は
まだテオドシウスの異教禁令が出る前の記載 >>590
1 スペインとの比較には全く意味がない
2 英国の正式名称は、「王国」の連合体である以上、たとえ総称があったとしてもあのように名乗るしかない(スコットランドとは連合法があるのでグレートブリテン連合王国とは名乗れる)
敢えて近代で比較するならオーストリア=ハンガリー(ハンガリーは独立した上で連合したから複合名になり、独立してない他の地域、クロアチアやボヘミアは名前に入らない)
英国やオーストリア=ハンガリーの名前の由来は確かに地名だが、国名は政治制度によって決定されている
だから"一括して呼ぶ地域名がないから"これは決定的な誤謬 >>591
それがもともとの「ローマニア」で、
>東方正教会のキリスト教徒がローマ人 そのローマ人が支配する土地がローマニア
ってのはビザンツでの話 >>592
君の主張だと、俺は、「「フランス共和国」が地名だけによって
決まっている」と考えてしまっているように見える
そうではない。フランス共和国が政治制度によって決まっていて、「フランス」の領土も
イル・ド・フランスという小さい地名由来ということは知っている
その上で、現在の六角形の地形を「フランス」だと認識され、現在では地名+政治制度名で
フランス共和国となっている、ということも理解している
もし、UKのカントリーが抽象的な総称を持てるなら、イル・ド・フランスがそうであったように、
アングル人の地由来のイングランドを相称という形にすれば、それは国号という抽象的な名称になる、といっている
君は 共和国や王国という政治制度の名前が少しでも入ればそれは国号 という定義の話をしているように見えるが
もしそうだとすると、認識はすれ違うだけだよ >>593
どっちの「ローマニア」も大まかに「ローマ人の土地」という意味だけど、その「ローマ人」の定義がビザンツと古代ローマ(特にイタリア)とでは微妙に違うのよね 「ローマニア」は古代末期に成立した言葉だから共和政時代や元首政期と意味が違うのだけど
どういうわけか古代末期の300年間くらいビザンツ的用法でも元首政期用法とも
微妙に違う意味で使われていた点はスルーされて共和政期とビザンツ期の用法ばかりが比較されてる印象
過渡期で端っこの端っことかいわれてスルーされてきたけど、実際には300年とかそれ以上もある期間があるわけだから
古代末期という枠組みを用意して固有の学問分野としてアピールする必要があったんじゃないかと思う
結局古代末期ってビザンツ学でも古代ローマ学でも端っこ扱いだったから、未だにこのあたりの
用語の定義の変遷の話もあまり知られてこなかったんじゃないかと思う >>594
その「もし」には学術的仮説としての意味がない
フランス的、ドイツ的な「国民国家(nation state )」的な、地名の拡張が英国でなぜなされなかったのか、は
なされなかったことに着目する研究は多様に存在するし比較に意味がある
しかし、「もし付いていたら」はほとんど意味をなさない、その仮説を一つ仮定するのに、どれだけのifを重ねる必要があるのか考えるだけでわかる
>>594を前提とするなら"一括して呼ぶ地域名がないから"は主客が逆転している
なぜ英国では国名としての地名が拡張しなかったか、という論点なら理解可能 >>597
そうだね
>なぜ英国では国名としての地名が拡張しなかったか、という論点なら理解可能
たしかに議論の順序は君のいう通り
英国では国名として地名が拡張しなかった(結果的に、であって原因が判明しているわけではない)
もし拡張していれば、総称としての北アイルランド含めた国号のようなものとなっていたかも知れない
と書けばよいのだろうか
これでよければ、
なぜ英国では国名として地名が拡張しなかったのかについてご高説と伺いたいのだが ローマはダニエル書の第4の獣
その最悪の獣は神の民に打ち倒される 古代末期に限らずある時代区分を取り上げて文化や制度が何も変わらなかったかのような暴論は結構目にするな
西欧のローマ皇帝は教皇が任命・承認していたとか言われても、いやそれ13世紀以降のキリスト教会側に限った理屈だから、となる >>598
単純化するなら
「英国にリシュリューがいなかった」
「議会主義で国内の法制度の強力な統一を図るのが困難だった」
「政治の近代的中央集権化が世界でももっとも早く進んだが、先行者として制度的には集権化しきれなかった」
(他国はフランスが行った文化統合政策を、なんらかの形で取り入れている)
他にもいろいろあるけど、それによって文化的統合がなされず、グレートブリテン全体としての帰属意識が生まれなかった
コモンローなイングランドと大陸方の影響が強いスコットランドの司法上の違いは、地味に文化の統合に悪影響だったように思える
逆にフランスの文化的統合(地域名の拡張)は、リシュリュー(の文化制作)なしには成立しなかったと考えている > イスラムは常に(ギリシャを)ルームってよんでたよ
じゃあイスラムはローマのことは何って呼んでたんだ? >>601
そういう可能性もあるのかも(疑ってるというわけではない)
ところで、フランスはイル・ド・フランスと書いたけど、このフランスは直接はフランキアが語源だけど
このフランキアとフランク王国のフランキアは本来同じ言葉だから、フランスが全体として外部からフランク帝国の時代から
フランクと呼ばれていたこと「も」、全体の総称化に寄与していたような印象がある
コルシカやサヴォワの一部を併合しても名称が変わらないのもリシュリューの貢献という可能性もあるのだろうけれど >>600
まさにその通り!前提の時代背景が議論となってる論者双方でぜんぜん違ってることが多い 日本では、アラビア科学が過大評価されて、
中世ラテン科学は過小評価されていると思わね?
フランク人・ブルグンド人・東ゴート人・西ゴート人などは、
ローマ文化を破壊したわけではなく、これを讃美し、
細々ながらもそれを消化・継承したわけだが 継承したローマ文化のうち科学の部分には何があるのだろう 個人的には西洋の発展はアルフレッド・W・クロスビーの数量化革命のようなものの影響も
大きいと思っているんだけど
この発展も時期的にはアラビア科学が入ってきた後なので西洋独自なのかアラビア科学の影響もあるのか
因果関係を見極めるのが難しい
結局両者の融合とか相互作用とか あいまって とかの曖昧な表現になってしまう >>605
> 中世ラテン科学は過小評価されていると思わね?
>
>>609
> 継承しても発展させなきゃ評価されないでしょ
>
>>610
> 評価の問題ではない そもそも消化も出来ていなければ継承も出来ていない
一部の聖職者が細々とラテン文学(科学部分は12世紀ルネサンスでアラブから入ってくるまで失伝)を伝えているのみで
カール大帝を筆頭に王侯貴族すら文盲という時点でもう色々と崩壊している アラビア科学というのは、科学というより応用技術
イスラーム圏の学者たちは原子論にほとんど興味を持たなかった 代数学も光学も応用技術?どちらもアラビア科学が発祥だったと思ったが ”THEODORIC THE EMPEROR” - https://www.jstor.org/stable/24759848
こんな名称の論文もあるのね 現代の発展途上国では、各民族のリーダー格が自集団に利益を持ち帰らないと
無能だと思われるので精一杯腐敗に努めるし、それが悪いだなんて思ってもいない
なんだか古代から中世初期のゲルマン人のリーダーみたいだな 略奪は正義。西欧という狭い地域で奪い合ってても得るものは無い。ヴェネチアを拠点として海から奪いにいくべし。 ゲルマン人は当初、パンの作り方を知らなくて、東ローマ帝国のローマ人から
パンの製造法を学んだのだとか
ゲルマン人の伝統的な食事は肉とビールだったからな >>627
ゲルマン人の場合、農耕はしていたけど、
パン焼き窯の作り方がわからなかったんじゃね? >>630
パンはエジプトで発達(BC2000年くらい)した時に発させるノウハウができて、地中海地域はその影響で発酵させるものが主流になってる 発酵は酒で知ってるのでは。酒を混ぜたら旨くなるんじゃね的なことやってればパンの発酵も出来てるんじゃ? ヨーロッパのパンの歴史は農耕始める前からある
ゲルマン地方も紀元前4000年前の遺跡でパン発見されてる
そのまま放置すれば勝手に発酵する物に知識はいらない そうなんか
東アジアだと「種無しパン」が糧食として幅をきかせてたからゲルマン人もそうのんかと思ってた >>636
古代エジプトのパンは、ビールの誕生と双生児だったと言われてるね 古代オリエントでパン焼き竈が発明され、
パレスチナやエジプトでパンが作られていた
ギリシャでは各種のパンが焼かれ、発酵パンと無発酵パンの別があり、
小麦パンのほかに大麦・ライ麦や他の雑穀のパンなど、さまざまな種類があった
それまで穀類を粉にしたり粥にして食べていたローマ人は、
ギリシャ人からパン焼き技術を学んだ
アウグストゥス帝の時代、ローマ帝国には329の良質の製パン所があったという 少なくとも理由の一つは、パンは窯がないと焼けないからじゃね?行軍移動の多い軍隊には向かない。 窯と水がないと炊けないから、って理由で米食文化圏での行軍食はパンだった 日本では兵食用のパンは幕末になってやっと江川太郎左衛門が苦心して開発したやん 日本は狭いから行軍ってほどの行軍なかったから遅れたんだろうね 漢代には糧食の主役になったとされる�ニ大�A
単純に無発酵パンと紹介されることもあるが、実は生地を発行させたものもあったという >>644
一番肝心なとこを暗号で書いてるのは意地悪してるん? ローマ人はギリシャ人同様、オリーブ油を滋養のある
食材と高く評価し、多量に消費した
しかしゲルマン民族の大移動とともに食生活も変化する
動物性の油を優遇したゲルマン人により、ラード、
次いでバターと種油が、オリーブ油と対抗するようになる
しかしまもなく修道院が、オリーブとオリーブ油を保護し、生産を始めた >>646
たぶんブラウザの非対応漢字なのでは?マイナーな漢字は化けやすい。 帝政ローマでは、都市下層民や奴隷にまで、葡萄酒は日常の飲み物となった
しかし「3世紀の危機」の時代に、ブドウ生産は急減し、中世がはじまったとき、
イタリアのブドウ生産は地に堕ちていた
そして初期中世には、希少価値を帯びた葡萄酒がエリートの
ステイタス・シンボルとなる ワインは古代からずっと中世までギリシャ産が最高級だったけど、それ以外の地域に高級品が切り替わったのはオスマン以降なんだろうか ローマ時代に最高級とされたのはファレルノなどのイタリア半島カンパニアのワイン
もちろんローマ人の好みというのも大きいけど トルコ人はイスラム教徒だけど酒飲むよな
遊牧民の享楽的な気質に禁酒はそぐわなかったか・・・ でも遊牧民の生業では、アルコールのもとになるデンプン質の食素材を得にくいよなぁ
馬乳酒なんか、農耕に頼らず何とかして酒のもとを手に入れたいという苦心惨憺が見て取れる アナトリアのトルコ人って脱イスラム化する前から酒飲むのが当たり前だったの?
ムラト2世だったかが妻がセルビア人だったためにワインを嗜んでいたことは知ってるけど >>656
テュルク系はイスラム化前からモンゴルと同じで馬乳酒飲みまくってた。 故・高坂正尭氏が、作家の塩野七生氏との対談で、日本の将来について、
「ビザンツ帝国みたいになれればいいがね。少なくともあの国は長生きした」
と言っていたけど、今の日本を見ているとビザンツのようになれるとは思えないけどな
少子化も進んでいるし >>658
先進国における少子化は、実のところ古代からの宿痾だったりする
ローマや中華諸王朝も、人口増の担い手は移民だった 人口減少といっても高度工業化社会のような少産少死とかはありえないと思うが >>660
と、思うだろ?
ところが古代中世の都市とか、推定出生率で1.5とかで移民いないと自然減とかだったりするんだぜ
当時の医療水準で1.5とかだと、まあ推して知るべしってなことに ビザンツ長生きしたっていうけど、言葉も民族も国家体制も権力者層も国民の自己認識も大きく替わってるの他の国と比べたら真似したくないけどな >>661
それって幼児や乳児で死んだものがカウントされてないみたいなうらがありそう
中世都市の自然人口減少は単に衛生状況からくる死亡率の高さで説明がつくし >>661
出生率じゃなくて人口再生産率じゃないのその数字
多産多死型だったけど、死亡率があまりに高くて再生産に追いつかなかったという構図 衰退期のヴェネツィア共和国では、生活水準を守るために独身で通す人が増加した >>657
なるほど
同じイスラム教徒でも国・地域・民族によって飲酒の度合いは違うとは聞いたことがあったけど、
イスラム化後も昔から酒飲みだったかテュルク系
今日のトルコ人(もちろんトルコ共和国の)もビールだのワインだのいろいろ飲んでるみたいだが
トルコの飲食店に水着美女がビールジョッキをアピールしているポスターが貼ってあるのを
見たことがあったんだが、あれは脱イスラム化したからってだけの理由じゃないのか 馬乳酒は酒感覚ではないが
保存食と同じ保存きくのみもの >>667
> 日本かて奈良時代と現代で全然違うがな
奈良時代の日本と今の日本は別の国だけど、それでもビザンツほどは離れてなくね メロヴィング朝のキルペリク1世はソワソンとパリに競技場を建設し、
人々に見世物を提供したり、ラテン・アルファベットにギリシア風の
文字を追加したり、自ら試作を試みたりしており、古典教養を身につけていたことが
強調されるが、実はこれらの行為はガリアでローマ文化が存続していたことの
証明ではなく、同時代のビザンツ皇帝を模倣しようとしていたらしい >>672
祖父のクロヴィスの代からビザンツの力を背景に成長した勢力だったし、クロヴィスを皇帝にしたのもアナスタシウスだったし、クロヴィスの四子に西域の統治を法的に委ねたのもユスティニアヌスだったしな >>672
> これらの行為はガリアでローマ文化が存続していたことの証明ではなく、同時代のビザンツ皇帝を模倣
ビザンツ皇帝のはローマ文化ではないと申されるか >>670
日本について戦後の日本と奈良時代の日本を比べているのだとしたら
日本の方が違い過ぎると思うよ
政治制度的にも物質的にも
>>662
ビザンツについてどの時代とどの時代のビザンツを比べているのかわからないのだが
7世紀頃のビザンツと14世紀頃のビザンツとでは
「言葉も民族も国家体制も権力者層も国民の自己認識」もあまり変わりはない
大きく違うのは領土くらいか。領土についていえば奈良時代に関東まで領土だったから
現代日本とあまり違わないといえるかも
恐らくこの人は共和政ローマと末期ビサンツを比較しているのだろうが
そうなら共和政ローマと末期ビザンツを比較してると書かなきゃわからないよ 戦車競技は、ガリアでは400年ごろにはすでに廃れていたらしい
いったん消滅した伝統を、再びビザンツ帝国から導入したのが
キルペリクの政策 普通に4世紀頃のビザンツと14世紀頃のビザンツとを比較してんじゃねぇの、と思うが・・・
ビザンツと言ってるのを共和制ローマのことだろうとかさすがに・・・ ローマ法については、ガリア南部だけでなく、変化をこうむりながらも
ガリア北部でも継承され実践されていた > 7世紀頃のビザンツと14世紀頃のビザンツとでは
> 「言葉も民族も国家体制も権力者層も国民の自己認識」もあまり変わりはない
言葉はともかくとして、民族や権力者層は結構入れ替わっているな >民族や権力者層
日本と比べて、のことだからね
確かに民族は議論があるが(領土の大きさがまったく違うから)
権力者層の入れ替わりは奈良時代と現在の日本では
大きく違う程度には、7世紀ビザンツと14世紀ビザンツもそれと同じ程度で大きく違う >>685
国民の自己認識も
7世紀 ローマ人(ギリシア系は蔑称)
13世紀 イレネス(古代ギリシア人との連続性を強調しだす)
15世紀 グレキ(より中立的な自称が好まれるようになる) ビザンツが途中で実質滅亡してるって言っても、日本だって1952年に主権回復(いわゆる独立)するまで独立国ですらなかったし > 権力者層の入れ替わりは奈良時代と現在の日本では
> 大きく違う程度には、7世紀ビザンツと14世紀ビザンツもそれと同じ程度で大きく違う
ビザンツでは7世紀から14世紀までの短い間に、8世紀から21世紀までの日本と同じぐらいの大きな変革が? 国家体制に関しちゃ日本の方が圧倒的に変わってるけどな
ビザンツは絶対君主制のままだったか、日本は絶対君主制から立憲君主制になってるから >13世紀 イレネス(古代ギリシア人との連続性を強調しだす)
>15世紀 グレキ(より中立的な自称が好まれるようになる)
これってエリート層だけの話らしいよね
一般の国民意識はオスマン末期までずっとロメイ(ローマ人)だったから
オスマン末期の近代ナショナリズムとギリシア人の結合がなかなかうまくいかなかった >>690
>日本と同じぐらいの大きな変革が?
「権力者層の入れ替わり」の話だからな? > 7世紀 ローマ人(ギリシア系は蔑称)
> 13世紀 イレネス(古代ギリシア人との連続性を強調しだす)
> 15世紀 グレキ(より中立的な自称が好まれるようになる)
そこらへんの節操のなさがビザンツ人の特徴と言われてたりする >>695
ローマにおいて王朝とは、という話ではある
王朝が続くこと=ローマの存続ではないからな >>698
王朝がその国家(この場合はローマ)の存続に大きな影響を与えないから>>695は
不適または意味不明って話なわけだが? 14もの王朝が入れ替わって特にその事で大きな出来事が無いんだから
ビザンツで王朝語るなら個人の趣味趣向の域
何も見ずにいくつあったとか全王朝名答えられる人は識者でも少ないと思うよ イスラムにローマ滅ぼすって予言があって
そのためにイスラムは初期からコンスタンティノープルに遠征を何十回とやっってたんだが
ローマは怖かったろうなあ
でローマじゃなくしたかった人もいるだろうなあ 西欧では、7世紀半ば過ぎに国王証書の素材が、
エジプトのパピルスから羊皮紙に変わる
8世紀初頭に香辛料も史料で言及されなくなる 今回のオリンピック騒動を見ると、衰退しゆく国が全盛期の夢を忘れられず復古的事業に手を出すも大失敗、衰退が加速度的に進行するオチという歴史のパターンを感じる・・・
ユスティニアヌスの西方遠征みたいな
大英帝国にとってのスエズ動乱なんかもそうかな 東京オリンピックの開幕を控え、続々と各国選手団が東京・晴海にある選手村に入村している。
しかし、組織的なドーピング違反のため、国家としての参加ができないロシア・オリンピック委員会(ROC)のチーム幹部から、
選手村の状況について酷評される事態が露呈した。
ロシア国営メディアによると、同幹部は選手村の状況について
「バスルームが狭い」「インターネットの接続環境が悪い」「アスリートが快適に過ごせる場所じゃない」
と一方的に批判。
その上で、選手村は「まるで中世の時代にあるようだ。21世紀の日本ではない」と指摘し、
改善を求めている。この動きに大会組織委員会も確認に乗り出した。 >>523
イタリアのパスタは美味い
茹でて食べてみると分かるが小麦の香りが違う
チュニジアやトルコの安物でも香りが強くて日本の国産スパゲティよりもはるかに上質
茹で汁だけでも香りが良くて飯が食えそうなレベルだ
日本の小麦粉ではパン文化が発達しなかったのが良く分かる
せいぜいそうめんが関の山だ
讃岐うどんも小麦は海外産を使っているよ
蛇足だが日本はなぜか蕎麦が美味い
これはとてもよろしい 美味いというのは好みに帰するから
でも香りが強いのは確かだね >>710
それなら最初から精白して白米になんかせんかったらええだけやん
精白してない穀物はそれだけで生きられるくらいの完全食品やで ローマ帝国の徴税制度は、7世紀まではほそぼそと生き残っていたみたいだね >ローマ帝国の徴税制度は、7世紀まではほそぼそと生き残っていたみたいだね
「”古代”ローマ帝国の」と言わんと オリンピックの採火式で廃墟化したアポロン神殿を見るたびに
初期キリスト教徒どもはクソだと思うワイ いつまでが古代ローマやねん
コンスタンティノポリス遷都までか? >>715
キリスト教徒は20世紀後半になる迄糞だろう。 >>716
> コンスタンティノポリス遷都までか?
いつ遷都したの? >>703
ヨーロッパの中心がローマの時代は
中国の中心が長安の時代より長かったのでは
パリ、ロンドン、ウィーンが中心になるのは
北京が中心になるより大分後で、それまでは
ローマ=世界の中心と考えていたような ローマがエジプトやシリア、カルタゴを押さえて
世界の中心になると、ギリシャ文化自体は
地中海全体に影響を与えても産出する富の価値は近東にあり、一旦ギリシャ本土はなくて済む土地になり、コンスタンティノポリス遷都や
ローマ帝国分裂でギリシャ本土の価値が再び
上がったのではないか 私がローマ皇帝ならローマ帝国の首都はバビロンかダマスカスかアレキサンドリアにしたい
ギリシャ人とラテン人以外蛮族しかいない
欧州にはいたくない だが、それだと
ゲルマン系やスラブ系蛮族の破壊ダメージは
低くてもアラブ・イスラム軍団により早く
滅ぼされる可能性大!!!難しい 中世初期、ガリア北部の商人たちは、その活動の領域をしだいに
北海やスカンディナヴィア、あるいはブリテン島との取引へと移し、
オリーヴ油にかえて蜜蠟や獣脂、地中海産のワインではなくライン地方などで
生産されるワインを扱うようになる
また紙については、パピルスではなく羊皮紙が使われるようになっていく >>718
> > コンスタンティノポリス遷都までか?
> いつ遷都したの?
公式あるいは明示的にコンスタンティノポリスに遷都された事実はない
実際的なという話なら、少なくともテオドシウス二世期やユスティニアス一世期にはまだ名目上はコンスタンティノポリスよりもローマが格上とされているので少なくともそれ以降ということになる 京都→東京みたいなもんやろ
旧都住民がうるさいからはっきり遷都宣言せずに実質移転 勝海舟の明治の談話にあるな
「陛下(明治帝)は西京に里帰りなさりたがるがお付きの者が嫌がるのだ。
昔の公家仲間が向こうに居って、それにタカられるからな」 >>724
ビザンツ学者の井上浩一は「西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」としている
そうだ 皇帝権て具体的になんのことだろうね
西の帝章のことなら確かに5世紀末オドアケルのときに東側に押し付けられてるけど コンスタンティノープルの主張に妥当性があるかどうかはともかくとして、正当な皇帝を任命する権利とかじゃないの
マルキアヌスやレオ1世なんかは何とか西ローマから皇帝として認めてもらおうとして必死に交渉してた
少しあとのユスティヌスやフォカスなんかもローマからの承認で正当性を確保しようとした > ローマに残されたヤツはイケズ化したのか
地方出身のローマ人を差別するようなイケズ化なら帝政後期から既に始まってた 地方出身のローマ人への差別は共和政時代からあったでしょ
イタリア半島の諸都市への権利付与も細かく権限を分けて差別化を図ってたし ローマによる同化は細かい差別化とワンセットだからな 権利付与される前の人たちはローマ人ではないのでは? >>734
それは定義次第だろ
ローマ市民権保持者で括りたいなら、最初からそう定義せんと 都市ローマのローマ人からみたら都市ローマ外のローマ人はなんちゃってローマ人でしかないからな >>735
> ローマ市民権保持者で括りたいなら、最初からそう定義せんと
ローマ市民権保持者でないローマ以外のローマ人って、例えば? たしかにローマ市民権付与される前の諸都市の人たちはローマ人ではないな >>737
ローマ市民
ローマ市民権保持者
共和制ローマ、帝政ローマの自由民含めた全般
ローマ時代に同時代に生きていた人々
どの定義も文脈次第で使われるから定義を明らかにするか、最初から厳密化された用語を用いるかどっちかにしろって話 ちなみに帝政ローマ時代の同時代に、ローマ市民権保持者+ラテン市民権保持者を指して「ローマ人」と括る用法が既にあった まあ、文脈や一般的な用法も無視して定義次第って言い出したらなんでも定義次第ではあるんだが >>744
だから、その文脈自体が読みきれないから「ローマ市民権保持者」と括りたいなら今からでも括れとそう言ってるわけだけど? >>650
古代ローマのワインは今の葡萄ジュースぐらい甘かったそうだが、今のようなワインの味が良いとされたのはその時代によるワインの質の変化から来たんだろうか? 古代ローマのワインってはちみつ入れてたんじゃなかったっけ
はちみつなしでも甘かったのかな 昔の醸造技術ではその程度しか発酵でけへんかったんやろ
まだまだ糖がたっぷり残ってるんや その弱いワインを更に水で割って呑んでたのか、なかなか酔えなさそう
ストゼロ持ってけば無双できるかも 穀物から作るのはそれなりに工程必要あるだろうけど、ワインに難しい工程はそうは無いかと
アルコール度は葡萄の糖度に依存するから、葡萄の産地とその年の出来具合で決まってしまう
問題は酸化で、空気に触れないようにするのは難しいと思う
酸化して不味いから酒に蜂蜜を混ぜてたんじゃないかな >>748
古代の名残が残ってると言われるグルジアワインは蜂蜜入れなくても甘いよ
>>749
それも一理あるけど、わざわざ蜂蜜入れてまでさらに甘くしていたワインをさらに発酵させて酸っぱくさせたものを美味いとしたのはどういう変化なんだろうな
食生活にも関係するんだろうか >>752
ルイ14世が「王のワインにしてワインの王」と称賛したトカイワイン(貴腐ワイン)もかなり甘いワインなんだよな 食生活も基本的にオイルや塩中心の調味料香辛料だったから
すぐ飽きるし何かと変化は求めてたんじゃないかな 何故近世から近代前期のヨーロッパ人は蒸気機関の実用化や改良、天文学には興味かあるのに
下水道に対する関心は依然として中世止まりで
古代ローマ以下なんだろ
普通は宇宙の遠くの天体より
木から落ちたリンゴより
まず近所のアパートから道に落ちたうんこの方が気になって何とかしようと思うはずだが
ローマ文明崩壊で不潔状態は平気になったのか 十字軍の要塞やゴシック建築の登場で
立派な建物が出来た割には下水道普及は遅れた
ローマ文明が回復しない
ルイ14世のスタイルは欧州はおろかアジアにすら真似る君主が出て、ベルサイユ宮殿みたいなのが
中国やタイにまで出たが、当時のベルサイユ宮殿ではおまるの排泄物を庭に捨てるだけ
依然、ローマ文明に劣る 幕末、明治のアジアやアフリカの人は西洋に
圧倒され、日本以外でも西洋化は進められた
だが、当時の日本人にとっての最新技術は
実は西洋人にとっても最新技術の事が多く、
当時の日本人が思うほどの差はなかった
19世紀後半が日本の文明開花なら
西洋は19世紀前半から文明開花の時代だっただけ
西洋と言っても本当に生活が変わってローマ時代を超えたのはここ200年間だけ 夏の湿気が酷けりゃヨーロッパももうちょい早く下水に真剣になっただろうな >>758
なるほど。でもインドは暑い
19世紀にコレラの原因を追求して下水道整備に
着手するまでは欧州も中国やインド、アフリカと
五十歩百歩だったのが何だかね 誰もやらないような仕事は権力者が金を散財して積極的にやらないと普及しない
世襲権力者は名声にならない事もしない、汚水排泄物整備したなんて画期的で良い政策であろうが末代の恥
そういうのは民主化で選ばれる選民と議会がないと話は進められない >>760
ふた昔くらい前のイデオロギー史観丸出しでドン引き >>757
いや洋務運動とか日本は後発もいいとこだぞ
明治維新にしても必要なものだけを取り入れるという風で東南アジア諸国みたいに国民の生活様式まで西洋式に変える
みたいな極端なものでもなかった そもそも「その当時に最新」でない技術が伝播するほうが珍しいし難しい
最新の技術は知ってる人も多いが一世代前の技術なんて知ってる人が少ない >>756
ベルサイユの個々の建物の建築技法や装飾は西欧オリジナルで
これらがアジアの宮殿建築にも移植されたが
そもそもベルサイユの広大な庭園や宮殿都市という発想自体は
ムガル朝や明朝の大宮殿都市が発想の根底にあるらしい 中国人に好きな王朝聞くと、漢や唐を挙げることが多いな
明は漢民族の王朝だが暗君多くて不人気だし、清は名君揃いで栄えたけど夷狄の満洲族の王朝だから好きになれないとか
かくいう俺は宋が一番気に入ってる
中華文明の全盛期だし、趙匡胤のぐう聖っぷりがもうね・・・
あと青磁の美しさ
奢侈文弱や靖康の変は瑕だがな
お前らはどの王朝に魅力を感じる? >>766
でも隋や唐も祖先は騎馬民族系と言うではないか。
まぁ中国史も漢が滅びたのちに長い混乱の時代
騎馬民族が北方から攻め込んでドロドロ
なんやかんやでまとまったのが隋唐の時代。
あとは五代十国の混乱もありながら、統一王朝でまとまってるな
ヨーロッパはローマ崩壊以降はバラバラだが >>768
それが気になる
スレタイにも関係するけど
中国は漢が滅んでも紆余曲折あって隋が統一し、更に唐という世界帝国にまでなって
その後も元、明、清、最終的に今の中華人民共和国に繋がるわけだが
一方、ヨーロッパの方はローマ帝国が東西に分裂して、東はユスティニアヌスの時を除いて巨大帝国に戻ったことはなかった
西はカール大帝の時はかなり拡大したけど結局分裂した
この違いはなんだろう? 西ヨーロッパに相当するのは中国ではなくて日本なのかも
中国に相当するのはむしろオリエント
地中海に該当するのは黄海・日本海・東シナ海
唐代までは東アジア世界は一つの文明圏だったが、
唐の滅亡後は各国が閉鎖的になって独自の文明を発展させる ローマ帝国に相当するのは、秦漢ではなくて隋唐
大唐世界帝国ともいうし
唐代ほど、中国が周辺諸民族に影響を及ぼした時代はなかった
また、周辺諸民族同士の交流も盛んだった
その後、吐蕃の勢力は弱まりチベット高原に逼塞する
ウイグルは西方に去ってイスラーム化する
南詔は雲南に帰ってしまう
やがて唐も新羅も滅び、渤海も契丹に滅ぼされた >>769
管理許容量と統治機構の差
シナは中華皇帝制度が専制に非常に有利で、漢代にはほぼ完成していた
五千万人以上の国民を管理する、それらの上に支配者が君臨できるテンプレートがある
だから限界まで拡張し、拡張し終わったら周囲を蛮族扱いしていびる
これを清まで繰り返してきた
五胡十六国、元の時代は中華皇帝制度から脱却するチャンスだったが、それが挫かれて今に至る
対してローマは管理許容量が非常に小さく、市民権のない者は国内ですら奴隷扱いだったかわり
市民権のある者は名士や貴族みたいな立場だった
市民(貴族)が肥大化し過ぎて国家財政が破綻し、末期はカラカラ帝が市民の定義や権利基準を下げて労働者にするため
底辺まで市民権ばらまいてガラガラポンをしたんだが、権利は相変わらず行使され続けて状況は悪化
その後の皇帝も匙投げた結果異民族流入→破綻→分裂したという経緯がある
資本主義が誕生するまで統治機構がシナに及ばず、統一国家となることを諦めていたのが実情
東ローマが長持ちしたのは、市民(貴族)を官僚に置き換えるのに成功し、異民族にも寛容だったからだけど
それができない西ローマはフランスや神聖じゃないローマ等に分裂を繰り返した >>770
>西ヨーロッパに相当するのは中国ではなくて日本なのかも
>中国に相当するのはむしろオリエント
>地中海に該当するのは黄海・日本海・東シナ海
良い視点 >>766
私も宋
中国で唯一反乱で滅びなかった王朝
ただ、中国人は弱いから嫌いみたい
多分、というか言っている人もいたけど中国人が最後に幸せだった時代 >>770
>西ヨーロッパに相当するのは中国ではなくて日本なのかも
>中国に相当するのはむしろオリエント
>地中海に該当するのは黄海・日本海・東シナ海
??? 銃・病原菌・鉄の主要なテーマな話(なぜ欧州は再統一せず、中国は再統一したのか)だな ペルシアの場合、一時的に異民族に征服されることはあっても、
ペルシア文化はずっと続いているよな ゾロアスター教は消滅してイスラム化したけどペルシャ文化は続いてる
むしろアラブ・トルコにとっての統治や文化の先生だし 唐の皇帝権力が諸州まで全国的にその支配が及んでいたのに対し、
日本の天皇権力は直接その支配がおよぶのは畿内を中心とした中央のみで、
地方については国司を媒介にしなければ支配が及ばないという
政治権力の弱さがあった
別な言い方をすれば、唐のほうが中央集権的な体制であり、日本の場合は、
朝廷から国司に委任された権限が広く、地方の独自性が認められている
この辺は、日本と同じく後進地域だった神聖ローマ帝国や、
初期のフランス王国と共通しているかもしれない >>780
唐の皇帝権力がそんなに中央集権なら、あんな独立性の強い「節度使」なんて存在は許容し得ない
日本の国司なんて単なる派遣官僚だけど、節度使はそうではないからな 中央集権になるのは宋から
皇帝独裁体制になるのは明から >>781
イランも、各地に事実上の領国に割拠する有力部族がいて、
歴代王朝を悩ませてきた
それでもイランという枠組みが維持されてきたのは、シーア派という特異な宗派と、
その指導者ウラマーの存在、また、〈イラン人の中華意識〉と皮肉られるほど
強烈なイラン文化への誇りと自意識も、個性と独立心を失わなかった大きな理由
しかしこの〈中華意識〉は、19世紀半ばにロシアに屈するまで、軍事から科学技術に
いたる諸事万端でヨーロッパと比べて劣勢であるのに、それを認める謙虚さを
失う理由でもあった 中央集権化の度合が違ったのはありそうかなと思ったけど、宋代だとどうなんだろね。ただ、絶対王政って、だいぶあとだし関係しそうか。キリスト教の宗派が分かれたのも関係あるかな? 西ヨーロッパって、結局、未開の部族社会の上にローマ帝国の制度が
薄く塗られていたにすぎないんじゃないのかなあ
だからローマ帝国の真似をしてみようとしてもうまくいかなかった
日本も、いったんは唐をモデルに律令国家を作ってみたけれど、
やがて国司の受領化が進み、国司とくに国守が受領として徴税請負人になっていき、
領域内に対する権限をより強化していく > 西ヨーロッパって、結局、未開の部族社会の上にローマ帝国の制度が
> 薄く塗られていたにすぎないんじゃないのかなあ
もともとローマ帝国の制度がしかれていた場所が人口減や内乱によって制度を維持できなくなっただけ 夏休みなのか、どこのスレも程度の低いのが増えた気がする 程度が低いというか、コラムニストが自説のために歴史ネタを使ってるような不自然な感じのが目立つようになったかなぁ >>778フレディーマーキュリーの家はゾロアスター教徒 ローマ帝国って何で官僚制が未整備だったのに繁栄できたの? 20年にわたるゴート戦争でイタリアの惨害と人口減はその極に達したとか
ベリサリウス自身の統率下の第四次侵攻の段階ですでに、ピケヌムの狭い地域だけで
五万人に上る農民が飢餓で死んだ
西ローマ帝国を真に滅ぼしたのはユスティニアヌスによる再征服戦争 >>766
清の統治のせいで漢民族の服飾や髪型の伝統が失われたのが痛かった。
辮髪はどうも滑稽に見えてしまうからな。
元はモンゴル式の髪型押し付けた訳ではないのに
漢民族マンセーの駄文小説家である田中芳樹は北宋、南宋崇拝者。
率先して漢化した北魏は認めているが、清王朝は名君ぞろいでも絶対に認めない。
ところでローマは支配地の民族に短髪やトーガの着用を押し付けたのか?
と、スレタイに合わせて質問してみる。 >>769
言語特性、特に文字言語がかなり影響しているだろう
漢語は一音節一語を基盤とする言語で、
そのために表語文字が一音節一文字で対応しやすかった
この辺りは、同じく表語文字を使用していた一方で複音節語である、セム諸語やメソアメリカ諸語と違うところだろう
しかも秦による統一時に、表語文字が小篆で統一された
だから、文字とその意味は同一、読みは地域ごとに自由(ちなみにその方式は日本や朝鮮半島やヴェトナムなどでも敷衍された)で、
統一的体制下での文字言語の統一性維持の要因になっていた
ローマの場合、印欧語族が基本的に複音節語かつ屈折語であり、ラテン語もギリシア語も表音文字で、
しかもラテン語派、ヘレン語派、ゲルマン語派、スラヴ語派など、地域によって語派もまちまちだったから、
言語的統一性が維持しにくい面があった
プロテスタントが特にゲルマン語派圏で大規模になったことも、言語の違いが大いに影響していた(活版印刷の普及もそれに拍車を掛けた) >>792
更にその後ランゴバルド族が侵入してヒャッハー
これで完全にイタリア終了
ルネサンスまで真っ黒黒助で、統一はカヴールまでずっとなし >>793
被支配民族に強制はしなかったが、元老院議員として元老院に列席する際にはトーガの着用は義務だった
ただ、率先してローマ風を取り込もうとする属州の支配層は多かった
これは古代帝国はイランでも中国でもそう
民族意識ってのはまだまったくの未成熟である時代には、文明の持つ明るさは圧倒的だった >>791
官僚制が未整備だと洪水、飢饉、疫病なんかの災害に効率的に対処出来なくない?
あと反乱が起きたり、盗賊に略奪されたりした時に国が危うくなる
しっかり中央が手網を握って地方に役人を送り込んで統治しないと小規模な都市国家ならいざ知らず大帝国は維持できないでしょ >>798
むしろ、古代の情報の伝達速度遅く、物流も未発達の時代だと、それらの対応が分権化されていないと柔軟に対応できない
古代帝国は、ローマも漢もイランも、それら即時性の必要度が高い事象には、多くの権限が地方官や実力者に付与されていた
国全体で自然災害に対処できるようになったのは近世も中期以降の話だよ なお、唐に節度使が置かれたのも、治安の悪化や反乱軍の対処に、中央の指示が追いつかないという事情があったのよね >>796
ゴート戦争の後も、東ゴートの残党と手を組んだ
フランク族とアレマンニ族がイタリアへ侵入している
彼らはレギウムとオトラントまで進んで掠奪と破壊を行った
結局はナルセスの反撃を受けて壊滅するんだが ローマ人やギリシャ人は専制君主&巨大官僚制の帝国をどう捉えていたんだ?
東方の豊かで先進的な国家の政治制度をなぜ模倣せずに共和制や民主制といった独創的な体制に固執したの?
初期からオリエントの真似をして君主制と官僚制を整備していたら中世の暗黒時代も早く終わって、ペルシャや中華のように再び統一帝国を築けたかもしれないのに >>802
少なくとも、ローマとアテネとスパルタの同時代人の間では「(専制)王政はくそ」という共通の価値観はあった模様 「修身 濟家 治國 平天下」って表現があるけど、
ギリシアでは、この並べ方は、本流と考えられていなかった
アリストテレスは、「政治学」の文中で、
「ポリスは家庭を拡大したものではない」とはっきり言いきってる
家庭は家長独自の裁量によって物事の方針や可否が決められるのに対し、
ポリスは各当事者間の議論によって物事の方針や可否が決められるからでもある
このことはむしろ立法制度や行政制度よりも司法制度に於いてはっきりするだろう
例えば、「大岡越前」や「遠山の金さん」に、常設的な制度に基づく弁護士が登場する回は事実上無い でも哲人王を望む理論もあったわけで
専制を実現するほどの富や人口を生み出せなかったら合議制という原始的な体制のまま行かざるを得なかったのが実情 >>805
まさにその哲人王による統治体制の実現可能性が(人間の本性上)極めて低いから、
現実的かつ継続的な政治って何だ、ということを考察したのが、
ほかでもない(哲人王の統治体制を唱えた人の直弟子さんであるところの)アリストテレスの
「政治学」(題を直訳すれば「ポリスについて」)だね
また、いわゆる帝政に入ったローマでも、
インペラートルは飽くまで、元老院と民会の議決のもとに共和体制下の諸々の高位公職を兼務する人、
という立場だったわけで 話は逸れるんだが、北朝鮮が典型だが、日本でも韓国でも中国でも東アジア文化圏に属する国では、国家を家庭の延長として捉える価値観がいまだに強いね
はっきり言って間違ってるんだけど
コミュニズムやフェミニズムすら、パターナリズムから逃れられない >>808
別に間違ってる間違ってないの話ではなくね?
政体循環論と同じくそれぞれ利点欠点や適合する時代が異なるだけだ ポリス的な直接民主主義は対等な市民同士の合議による意思決定により国家を運営するが
これが成立するには市民の数が少なく領域的にも合意形成が可能な規模に収まっている必要がある
人口が多く領域面積も広い帝国ではそのような政治手法での統治は困難を極めるだろう
だから民主主義は都市国家ではある程度機能したが時代が進んで領域国家の時代になると廃れたわけだ
時代が進むとヨーロッパでも家政的な国家が主流になる >>808
それこそ「国家」という訳語自体も、アリストテレス的な社会観で言えば、合成語として捉えるには矛盾があるわけだよね
幕末期から明治初期に多用されるようになった用語かもしれないけど、これの出典て確か中国南朝梁の文選だっけ
現代の中国語圏では、「ポリス」の訳語としては「城邦」の用語を使うようだね
たしかに「城邦」のほうが、「都市国家」といった用語よりも、分析的な定義付けとしてもふさわしそうだ シンガポールは都市国家だけど現代では珍しく専制的な独裁国家だよね
あと、古代中国の邑制国家も西洋と同じく都市国家な訳だけど共和制や民主制には発展しなかった
東洋や中華の文化だと民主共和制になりにくい理由でもあるのかな? >>810
それでも欧州圏では、こと司法に関しては、法廷での原告/被告の双方の弁論を(たとえ形式的にであれ)古代以来ずっと基本に据えてきて
「弁護士」という職名が、場合によっては苗字になったりすることもあるくらいだったでしょ
(オランダ人苗字の「アドフォカート」など)
共和政ローマ末期の政治家のキケロも、普段の本業は弁護士だったし 普遍的に都市国家が民主共和制と親和性あるなら
春秋から戦国にかけて一つくらい公族追放して共和制導入した都市があってもいいよな >>809
少なくとも近代的な主権国家体制において、特に民主主義体制において、家庭の延長として国家を据えるというのは決定的に誤っている
コミュニズムやフェミニズムに至っては、「家」の観点からの脱却が一つのテーマですらあったのに、結局逃れられない
そういう話をしている
君主制国家や独裁国家におけるパターナリズムや、保守主義におけるパターナリズムは、それはそれで一つの社会的価値なんだけどもね ヨーロッパの民主政共和政のほうが特殊なのでは?
特定の家系が巨大権力を握って他者を圧倒するという社会構造を築けなかった
理由としては農業生産性の低さ、それに伴う人口の少なさ(一人あたりの市民の価値が高い) >>815
その近代的主権国家ってのがユーラシア辺境で生まれたひとつの社会制度でしかなく
これから先永遠かつ普遍的に有効といえる根拠はない
そういう文化相対論的な話をしている >>817
だとすると議論が完全に噛み合ってないので、批判は成立していないと考えていいのかな
近代主権国家体制が現代社会はともかく歴史的に普遍的なものであるとは思わないので >>816
農業生産力が低いのに何で豊かな市民社会を築けたんだろう?
普通痩せた土地の地域では慢性的な飢餓が起こるから生きることに必死になって市民がどうとか哲学がどうとか生き延びることに不要なことは考えないのでは?
豊かなペルシャの支配下に入って安定した食料を手に入れようという発想は無かったの? >>820
豊かな市民生活を享受できたのは一握りの上層市民だけだろう
しかも多くの都市国家は人口数千人が関の山
アテナイが都市国家としてかなりの人口を擁せたのは海上貿易の利益で穀物を大量に輸入できたから >>819
そもそも勝ち負けの話はしてない
その結論は理解できない >>822
理屈もなく間違っていると断言したり
突っ込まれれば近代主権国家の話と急に範囲を限定して逃げる理論こそ
理解できないよ 歌の文句じゃないが、
「言いたいことも言えない世の中は嫌だ」
っていうことが、特に南欧の気風では強かったんだろう
オイコス(家)とポリス(國)の違いでいうなら、
オイコスは血縁と養育に則った枠組であり人と人の関係性としてはストルゲー(肉親愛)に基づくのに対し、
ポリスは地縁と合意に則った枠組であり人と人の関係性としてはフィリア(友人愛)に基づく
ポリスというのが合意に則る社会的枠組であるからには、
その構成員が「言いたいことも言えない」状態では、枠組そのものが機能していないことになる
日本の場合、例えば中世末期の堺などが自治都市の性格の強い地域だったが、
それでも、そうした自治都市内の司法制度に、常設の弁護士を必ず置く規定があったとは聞かない
司法においても、対立する双方が基本的に対等の議論を行なえるようにしていたのが、古代以来の欧州の特徴であり強みだっただろう >>824
言いたいことを言えない世の中が嫌だなんていうのは世界中どこでも程度の差こそあれ同じじゃないの
そうあう民衆の不満を押さえつけられる力があれば専制となり
なければ権力者が妥協して民主政となる
そうあう社会構造の違いを生み出すファクターこそを考察するべきだ >>816
ヨーロッパ農業は土地あたり生産性は低いが労働人口あたり生産性はむしろアジアより高かっただろ >>826
だから一人あたりの市民の価値が高いと指摘してるやん
人の命が高いので容易に首を斬ることができず強権的な専制に発展しなかった ギリシアローマの古典は抽象的語彙力が豊富で現代人にとっても分かりやすい
ジャップ語の古文だと語彙力が貧弱で抽象概念は言い回しで表現するから読み手が空気読まないといけないようなところがある
だから明治以降に漢字を使って欧米流な概念語が作られるまでジャップは論理性の欠落した原始人だった
言語の近代化で語彙力は補完できても文法からくる論理性は曖昧で身につけられなかったからジャップは劣等民族のままだ
今の若者のほとんどは高校でジャップの古文を読んでも内容は理解できず暗記に頼っており何が面白いのか不明だろう ギリシャの翻訳は現代の英訳とくらべても表現に遜色ない
聖書とか全然だが >>816
>ヨーロッパの民主政共和政のほうが特殊なのでは?
全然特殊でも何でもないよ
例えば東アジアでも統一以前の新羅とか王権は七王と呼ばれる七家に分散されていて
更に王京人による民会組織である和白の決定に従わないといけないなどスパルタに近い国政
遼以前の契丹とか高砂族も部族協和制だな >>831
意外とゲルマン部族や神聖ローマ帝国の体制って
特殊ではないのか 日本史にだって町村の自治とか一揆みたいな先例はあるじゃん
(すべての人がメンバーではなかったり参加者が必ずしも平等ではなかったりはするけど、)共同体の合議による自治って全時代全世界に普遍的に見られるパターンじゃなかろうか? >>831
それがそのまま生き残るのが特殊
未開社会が文明化すると権力が集中し君主制となるのが普通 会社でも部活でも必ず社長や部長がいるじゃん
それこそ暴力団にだって組長がいる
トップがいない組織なんて無い
要するに専制君主制は1つの強大な組織が独占的に国を運営する方式で民主共和制は複数の弱小組織が寄り集まって国を運営する方式なんでしょ
ここで言う一つの強大な組織が一族だと王朝ができる >>831
> 例えば東アジアでも統一以前の新羅とか王権は七王と呼ばれる七家に分散されていて
日本の大王(おおきみ)なんかも当初は豪族の持ち回りだったとか言われてたりする 「社会が大規模になると合議が難しいから権力が集中する」という見解はまあいいとして
「それが世襲化する事例が世界的に多かった」のはなんでかな
ぶっちゃけ今時の世の中の選挙よろしく、「地盤・鞄・看板」が政治の世界ではつきものだから?
とはいえ、その点ローマの場合、いわゆる皇帝の時代にも建前上は世襲じゃなかったでしょ
まあローマではギリシア文化の影響力も強かったから、「齊家と治國は直結されない」という見解も強かったのかね >>831
女真・満洲族の、後金〜清(初期)の場合も、
ハンないし皇帝といえども事実上はベイレの合議に御輿として担ぎ上げられてるって状態だったような >>839
それは権力者の交代において後継者争いが生じるコストを抑える力学が働いたからだよ
王の子が権力を引き継ぐと事前に取り決めておけば権力の空白に乗じた内乱を防げる
アレクサンドロスが帝国を「最強の者」に遺そうとした結果、ディアドコイ戦争が起きて帝国は四分五裂したわけだ
ちなみにそういう権力構造の推移についての分析は子のうようなスレがあるから参加してみては
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1624219427/ 民主政共和政がヨーロッパに残ったと言っても本当に残ったのはヴェネツィアなどごく一部だ
イタリアの諸都市も僭主政になったし
大部分は封建領主が君臨する君主制に移行した
その下に自治が認められた都市が存在していた 世襲にしておけば教育のコストも減らせるしな
後継者の教育を家庭で行える家は限られたから独占・寡占になるのもわかる 権力交代のたびにいちいち光りもんが音立てるようなのって、なんかいよいよ北斗の拳の世界観みたいだけど、
そうならないシステム(法的に、また、手続き的に)を創った事例が世界的に少なかったのは、
要するに「面倒だったから」?
逆に言えば、ローマなどでは伝統的にその辺りのシステムがかなりしっかりしてたのはなぜだろう、
またその逆に、他ではそういうシステムが発達しなかった訳は?
例えば言語特性とか文字特性とかも影響するのかな
ギリシア語でいう「アレテー」はラテン語で「ウィルトゥス」に訳された
本来これ「美点としての能力、技芸的な才能」ってな意味に近いようだけど、
なぜかこれが、後の時代の政治理論家の間では
「実力、強制力、パワー」ってな感じのやたらどぎつい意味に再解釈されちゃったみたいだな
まあそれこそ荒くれ物が大手を振るって暴れまわるような世の中なら
「力とは腕っぷしで、それが無きゃそもそも生き延びられない」
って方向に考え方が行っちゃうのかもしれないが >>844
荒くれ物 → 荒くれ者
いくら何でもさすがに、この場合にも相手はロボットじゃなくてヒトなので、訂正 >>844
そうならないシステム
↓
社会的規模が大きくなっても合議に基づきかつ統治能力を一定程度公正に比較して責任者を決めるシステム >>842
ヴェネツィアなんかは、共和政だけど民主ではなかろう
というか、本質的には民主と共和は対立に近い概念で、少なくとも近世まではまとめて語られることはなかったはずなのに、自然と「民主共和」とか言われても困る >>846
ローマも含めて、近代に至るまでそんなシステムは存在してない
最も洗練された権力移行システムが存在する現代ですら、権力移行は混乱と多額の金銭が伴う >>847
共和とはレスプブリカの訳語であり公共物を意味する
公共物とはすなわち国家が君主など特定家系の私物ではなく市民全体の物という意味を持っているのであり
市民全体の合議によって国家の意思を決定する民主政(デモクラティア)とは極めて親和的な概念だよ
民主と共和が対立的ってどういう理屈なのかな? >>849
政治史における民主とは、なんらかの形で市民権を持つ市民よよる議決を経て意思決定がなされるシステムを指す
共和政とは、一部の議員による集会によって意思決定が行われるシステムで、近世以前は貴族主義との親和性によって説明される(ヴェネツィアが好例)
これを組み合わせたのが代議制であり、これは近代の所産
代議制が生まれるまでは、共和制と民主制は対立概念だよ
ただし、システムとして(例えばローマでは)共存しうる 代議員(元老院議員)とはなんなのか
これが世襲や職域代表、または指名制である限り、民主とは対立概念となるのよね共和政 >>851
それは貴族政や寡頭政の性質であって共和政の語義とは関係がない 欧州では中世や近世の王政時代でも主権や義務という概念があり民主主義を理解できるだけの知的レベルを持ち合わせていた
ここがジャップとの根本的な違い
中近東では民主主義の概念が発達しなかったが、これはローマ法ではなくイスラム法を受け入れていただけでジャップよりは知的レベルは高かったろう
ロシアが非欧米扱いされるのは人種的なものでなく民主主義と縁遠いせい
彼らはジャップに近いところがある クローヴィスがキリスト教に改宗したとき、キリストの受難と
死の哀切な話に激高した彼は、
「わが勇敢なフランク軍を率いて、おれがその場に居合わせたら、キリストの
お受けになった危害に復讐せずにはいなかったろうに」
と叫んだ
はたして彼がどれだけキリスト教の精神を理解していたかどうか疑問 コロナは中国が開発した生物兵器
ワクチン作って自国は安全にした後に他国にばら撒くつもりが、その前に研究所からウイルスが漏れて世界へ広がった ゲルマン人は割とすんなりキリスト教を受け入れたけど
ノルマン人はずっと北欧神話を信じ続けて、キリスト教化には時間がかかったね ゲルマニアの部族は部族別でそれぞれ他の部族と外交で仲良くなることはあるけど
基本はお互い敵同士の部族、なので追いつめられるし受容したほうが安全という選択肢も出てくる
ノルマン人は北欧神話の繋がりが強すぎて信仰の為なら一致団結する(大異教軍等)
そもそもそこまで追いつめられるという状況も少なかったので受容する選択肢が無かった
ノルマン人のキリスト教受容はブリテン島の領地取ってから始まり出した
それもまたブリテン島で追いつめられて受容した方が安全という選択肢から キリストの教えが単純明快というのもあるかもね
神を信じていれば救われる
隣人を愛せ
とかこれなら蛮族のゲルマン人たちでも十分理解できるし 処女から産まれた死刑囚が神と一体と言う単純明快さだよな キリスト教側がゲルマン人の風習を取り入れたりした歩み寄りがあったのもあるかと
これはアリウス派が主として行ったことだろうけど
クリスマスなどの風習はキリスト教全体に受け入れられていった感じなのかな ゲルマン人に布教する前にまずローマ帝国内で200年くらいかけて徐々に浸透していった
最初は奴隷とかの社会的弱者が主な信者だったが、そこから次に庶民や兵士へ広まり、仕舞いには元老院議員などの上層部にまで信者が出てくる よく大移動でゲルマン人が大挙して押し寄せてきたとあるけど
帝政初期から下級兵士や農民として帝国内に移住するやつはちょいちょいいたのよね >>862
全く明快じゃなくね
三位一体とか意味不明だし
イスラム教のほうがはるかにわかりやすい 中世の文献にちょいちょい出てくる三位一体は一味違う感じ ヨーロッパの中世の文献が多少あいまいでもジャップよりはまとも。
ジャップ語は修飾関係がわかりづらくジャップ語である限り曖昧さが混入する ゲルマン人の大規模な移動の存在については今は概ね否定的にみられている 西ゴート王国では、人口の大部分はヒスパノ=ローマ人で、
西ゴート人の数は全人口のわずか3〜4%だったといわれている
実際に移動したゲルマン人の数はそれほど多くなかったんじゃないのかな 三位一体はキリスト教徒でも薄々無茶なのを分かっていながら宗教会議で黙らせて来たのをイスラムの登場で統制が効かなくなった感じ >>872
ブリテン島除いてどの部族も移動後は元から住んでた住人を虐殺しなかった
栄えに栄えた広大な領土のローマ帝国の住人と比べたらそりゃほんの一握り >>874
ブリテン島でも、ケント王国には、ローマ時代の遺産がけっこう
残されていたというのは本当? ブリテン島はローマ軍が撤退した後、ケルト部族同士で争っているところに
アングル人やサクソン人が殴り込みをかけてきたって感じ >>860
ローマと仲良くて同盟を組む部族もいれば、敵対して帝国内に侵入し略奪しまくる部族もいた
ゲルマン人の全部が全部ヒャッハーだったというわけでもないんだよな 七王国からイングランド統一か・・・と思いきや、デーン人の侵攻が始まりあぼーん 西ゴート王国から後ウマイヤ朝になって
イベリア半島の文化・生活水準がむしろ上がってない? エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』には、コンスタンティヌス大帝による
キリスト教公認後、
「…そしてこれまで法の保護外に禁圧されていた俗間の小教派などを、頭から
馬鹿にしていた蛮族民たちも、いまやそれが世界最強の君主、世界最開化の国民により
新しく信奉される宗教になったと知ると、たちまち深い尊崇の念を抱くようになった」
と書いてある。 アフガンもそうだが
これからアメリカの衰退にローマの衰退をなぞらえる言説が
たくさん出てくるのだろうな >>881
ベトナム戦争直後のようだ
どちらもアメリカが(現地勢力のあまりの糞加減に)匙投げた案件だからなあ >>881
そんなんソ連の衰退にも清の衰退にもロシア帝国の衰退にもオスマン帝国の衰退にも漢の衰退にも何にでもなぞらえられるがな >>882
蒋介石もイランのシャーも同じようなもんや ローマ帝国が東西に分裂したように、アメリカ合衆国も分裂するのか
あるいは「三世紀の危機」のような状態になったりして ザクセン人のもとで9世紀半ばごろに、福音書のゲルマン語訳が成立した
しかしながら訳書においては、キリストは神の摂理を伝える者としてよりは、
むしろ土地と城を支配する民衆の主人として登場している
キリストは従者(使徒)を従え、神と悪魔の戦いは福音書の訳においては、
善と悪の二つの原理の戦いではなく、武装した戦闘として描かれている
神の犠牲の羊は高名な戦闘の指揮者となり、祝福をするのではなく、贈り物をする
救世主への期待は主人に対する従者の忠誠心となり、山上の垂訓は愛すべき領主から
ザクセンの民衆集会への呼びかけとなる
やっぱり中世初期のゲルマン人はキリスト教の精神について正確に
理解していなかったんじゃなかろうか >>703
オスマン・トルコがコンスタンティノープルを陥落させたので
予言は部分的に当たっている
それで、オスマンの君主はイエニチェリ制度というのを作ったけど、
ローマ帝国の近衛軍団と一緒じゃないかという・・・
どうも陥落したのは都だけのようです >>889
そんなんはどうでもいいだろ
コンスタンティノープル陥落だけじゃなく、モンゴルの侵攻の予言もハディースにあって
それもその通り起こってる アブー・フライラは伝えている
アッラーのみ使いは、「一方は陸地で他方は海に接している町(コンスタンチノーブル)について、なにか聞いたことがあるか」と言われた。
人々が「いいえ、ありません」と答えると、み使いは「“最後の時”が近づく頃には、七万のイスラーイールの民(バヌー・イスハーク)(注)がここを攻撃する。
彼らはここに上陸すると、武器を手にして戦うことも矢を射込むこともせず、ただ、アッラーの他に神はない!
アッラーは偉大なり!
と叫ぶだけであるが、それによって町の一角はくずれ落ちるであろう」と言われた。
このハディースに関連し、口述者の一人サウルは、次のように述べている。
「私は、み使いがこう言われるのを聞いた。
『海に面した二角がくずれおちる。
次いで、彼らは二度目にアッラーの他に神はない!
アッラーは偉大なり!
と叫ぶ。
するとまた、別の一角がくずれおちる。
更に彼らは、三度目に、アッラーの他に神はない!
アッラーは偉大なり!
と叫ぶ。
するとそれによって門が開かれる。
彼らは中に入り戦利品を集めて仲間同士でそれを分配し合う。
しかし、この時、「ダッジャールが現われた」と言う叫び声を聞く。
そのため、彼らはここに全てを残したまま、ダッジャールと戦うため帰途につくのである。』 アブー・フライラは伝えている
アッラーのみ使いは言われた。
「キスラー(ペルシャの王)が死ぬと、その後、キスラーになる者はいない。
カイサル(ローマ皇帝)が死ぬと、その後、カイサルになる者はいない。
私の生命を御手にする方に誓って!
あなたたちは、彼らの宝物をアッラーの道のために用いることであろう」
アブー・フライラは伝えている
アッラーのみ使いは言われた。
「“最後の時”が間近になる頃には、ムスリムはトルコ人たちと戦うであろう。
彼らは、打ち金付きの楯のような顔をし、毛織りの衣服を着、毛で作った靴をはいて歩く人(注)たちである」 ザイナブ・ビント・ジャフシュが伝えるところによれば、預言者は恐怖に満ちた表情で彼女
のところへ入ってきて、
「アッラーの他に神はなし。差し迫った罰のため、アラブの民に災いあれ。今日、ゴグとマゴグを
防ぐ防壁(イランのalexander gate)にこのような穴が空いた」と言って親指と人差し指で円を
作ってみせた。ザイナブは
「私達のうちに正しいものもいますが、滅びるのでしょうか?」と尋ねると、預言者は
「そのとおりだ。悪がはびこる時は」と答えた
実際このとおりにモンゴル人が侵攻してきた >>872
> 西ゴート王国では、人口の大部分はヒスパノ=ローマ人で、
> 西ゴート人の数は全人口のわずか3〜4%だったといわれている
西ゴートに限らず東ゴート王国もフランク王国も似たようなもの
しかも「種のモデル」によれば、その少数のゲルマン人すら現地でゲルマン人として雇われた元・非ゲルマン人だったとも クローヴィスは西ローマ帝国の執政官だったし、
東ゴートのテオドリックは、東ローマ皇帝アナスタシウス1世から
西ローマ帝国を統治する皇帝大権を与えられていた メロヴィング朝では戦争での捕虜を奴隷とする習慣が盛んにおこなわれていた
またトゥールのグレゴリウスは、パンを得ようとして自分の身を売った多くの
人間の例を挙げている 宋「一緒に遼を倒そうぜ!」
金「いいよ」
↓
宋「うはー全然勝てねえ・・・」
金「いいよ、俺がその分、戦うから」
↓
金「遼滅亡したけど報酬金は?」
宋「そんな金は無い(キリッ」
金「・・・」
↓
宋「金ウゼーし、遼の残党と組んで金を叩こうっと!早速手紙を送るお!」
↓
金「宋が遼に送った使者捉えたけど何だろう?この手紙・・・これは流石にキレちまったよ」 女真「ヒャッハー!石刻遺訓?やっぱ宝の在り処が示されてるんだろうな」
趙匡胤に皇位を譲った柴氏一族を子々孫々にわたって面倒を見ること。
女真「ええ話やん・・・」
崖山の戦いで柴氏の子孫が戦死しているなど宋代を通じてこの遺訓が守られたことを示している
宋滅亡後、趙氏一族は大都に送られ、フビライに厚遇されたという 東ローマはエフタルや突厥と組んでササン朝を挟撃してたな >>898
裏切るタイミングがワンテンポ遅い
コンスンチノープルで修行してこいと言いたい >>899
もう一条は「言論を理由に士大夫を殺してはならない」だっけ >>895
> クローヴィスは西ローマ帝国の執政官だった
執政官どころか「アウグストゥス」やで >>896
> メロヴィング朝では戦争での捕虜を奴隷とする習慣が盛んにおこなわれていた
メロヴィング朝どこらか、それ以前からの世界の常識
古代ローマでも奴隷獲得のために僻地への遠征が繰り返された >>903
東ローマ皇帝からアウグストゥスの称号を授与されただけ
称号の慣習的な付随として西ローマの執政官が付いてた
元老院はテオドリックの手中だし帝国その物があやふやなので
執政官としての実務は皆無 アルルとマルセイユの両都市は、メロヴィング朝の時代になっても、東方から
紙、葡萄酒、油、麻布、絹、宝石、香料などを輸入していた
当時アルルはまだローマの民政総督の政庁所在地とされていたし、
マルセイユは貿易と航海との利益によって大いに富んでいた
また大競技場では各種競技が興行されていた >>905
その頃の執政官はテオドリックに限らず名誉称号だった >>905
> 東ローマ皇帝からアウグストゥスの称号を授与されただけ
> 称号の慣習的な付随として西ローマの執政官が付いてた
「だけ」というには重要すぎることだわな >>908
実態がなければたいした意味はない
自称エルサレム王と変わらん >>909
イェルサレム王も、イェルサレム失陥した後も宗教的・世俗的権威としてはそれなりに威力あったぞ、特に西欧で >>910
イギリス王がフランス王称してるのと同レベルで意味ないぞ >>911
中世の話してんなら、フランス王の王位継承権主張しなかったら百年戦争がああはなってない >>912
儀礼称号の話をしてるのだとわからない? > 東ローマ皇帝からアウグストゥスの称号を授与されただけ
> 称号の慣習的な付随として西ローマの執政官が付いてた
> 実態がなければたいした意味はない
これ「実態がない」って何を指して言ってるんだろう?
執政官って長らく名誉職的なものだったけど、その名誉職の奪い合いで殺し合いになったりするほど当時の人々にとっては名誉って重要な存在だったんだけどなあ… >東ローマ皇帝からアウグストゥスの称号を授与されただけ
アウグストゥス称号がどういったものか理解しているのか?
クロヴィスを称える"金貨"がビザンツで発行されていたことがどれほどのことか理解しているのか? 帝政ローマでは、執政官定員二名の一方が皇帝であることは珍しくなかった
だからやはり名誉ある称号だったんじゃないだろうか >>914
権威がどうのってよく言い訳に使われるからな
天皇の権威が外構に有利とかどうとか
まあその効果が具体的に示された試しはないのだがな
単なる思い込み・主観 >>913
中世のイェルサレム王が儀礼称号だと何故思った
そして中世のプランタジネット家のフランス王位が儀礼称号だと何故思ったのか >>913
中世のイェルサレム王が儀礼称号だと何故思った
さらに、中世のプランタジネット家のフランス王位が儀礼称号だと何故思ったのか、本気で分からん >>919
誰も中世って言ってないんだけど
理解力浅すぎ 平気で「意味ない」とか言っちゃうような奴が他人に「理解力浅すぎ」とか言っちゃうのか(呆れ
ああ、そういう奴だから言っちゃうのか >>921
具体的になにが重要なのかが全く示されてないからな このスレそもそも古代から中世のスレだし
元々のネタも十字軍後の西欧の話で中世末期のネタだしで
なんで中世以外のネタが出てくるのか意味がわからない >>924
逆だろ
イェルサレム王がイェルサレム陥落後も一定権威を持っていたって話からの派生に対して、近世以降の英国のフランス王称持ち出して否定するとかなんらの整合性も妥当性もないだろうさ
英国王室のフランス王自称とイェルサレム王比較するなら、ノルマンディー失陥後くらいが比較対象となるのではないか?
それすら理解しないなら、知識がないか論理性がない 天皇をエンペラーと位置付けるのはジャップの見栄から出た話であって実質は王未満の名誉酋長
例えていうのならば生花の家元のような存在であり大陸にある本物の王権とは比較対象にすらならないものだ
天皇などというのも一種の儀礼称号
ジャップは形式主義で形式に真実性が宿るという呪術的思想が強かったからこんなものが長続きしたのだろう
どちらにしてもこの島国の多くの悪習が歴史的伝統と不可分化して天皇制に紐づいているから早急な廃止が求められる 大日本帝国時代には実際に
「大日本帝国皇帝 裕仁」
と署名してたんやからしゃあないがな >>925
エルサレム王ってスペイン王とかも自称してたんだけどそれも知らない? それだとエルサレム王が「ワイはスペイン王や!」と言っていたように聞こえる・・・
いや、そう言っても間違いではないのか 昔のスペイン王称号
神の恩寵による、カスティーリャ、レオン、アラゴン、両シチリア、エルサレム、ナバーラ、グラナダ、トレド、バレンシア、ガリシア、マヨルカ、セビリア、サルデーニャ、コルドバ、コルシカ、ムルシア、メノルカ、ハエン、アルガルヴェ、アルヘシラス、ジブラルタル、カナリア諸島、東西インド、大洋の諸島及び陸地、の女王、オーストリア大公、ブルゴーニュ、ブラバント及びミラノの公、ハプスブルク、フランドル、チロル及びバルセロナの伯、ビスカヤ及びモリーナの領主、等々 >>926
今でもニューヨークタイムズとかの外国の新聞だと
天皇を「emperor」と記載してるよ >>931
ローマ皇帝の後継とは誰も思ってないけどな エンペラーを皇帝と表記するのを間違いとか言ってるようなもの 「諸王の王」の意味の単語はカエサル以前にはなかったのか? 同時代のローマに匹敵するのはペルシアのシャーくらいだろう 皇帝とEmperorが違うものなら中華帝国はhuangdiateとすべきなのか? そんなこと言い出したらペルシアのシャーもモンゴルの大ハーンも別物やし 日本の天皇、中国の皇帝、トルコのスルタン、イランのシャー
英語表記だと全てEmperor >>943
スルタンやシャーはそのままの場合が多い 今はオスマントルコとはあまり言わないみたいだね
トルコ民族だけでなく、アラブ、クルド、ギリシャ、スラブなどを含んだ他民族国家だったからな 親の代から東京住みのやつが東京人
上京組はどこまで行っても地方民の延長に過ぎない 日本が国際デビューした19世紀後半は世界中エンペラーだらけやったんやで
他がみんな滅びただけ
史上最弱帝国大韓帝国なんてのもあったぐらいやし 帝政後期になると、異民族の集団としての移住が目立つようになるな
食器などの生産には蛮族風の個人用の窯が用いられ、手作りの留め金が好まれた
さらに女性のブレスレット、ブローチ、ネックレスなどには、
けばけばしいものが多かった
属州全体をローマ化するほどの文明の優位さは、三世紀以後では
明らかに消え去りつつあった >>951
印度皇帝としての英帝国
清
オスマン帝国
ドイツ帝国
ハプスブルク帝国
ロシア帝国
これくらいか
大日本帝国も明治23年からやからギリギリ19世紀中にできてる 大韓帝国の悪口言ってるのはネトウヨな
伊藤博文の策謀で明治帝国政府のパペット状態だったが文化的には他国に引けを取らない存在だった どんな文化でしたか
比べるもんでもないと思いますが >>953
パフラヴィー朝イーラーン帝国
阮朝大越 >>955
そもそも、伊藤博文って総督として赴任するまで朝鮮政策で指導的地位にあったわけでもないわけで
世界史も日本史もまともに勉強したことない人が、民族教育受けた人なんだなとしか
日本が近代以降に朝鮮文化を抑圧した事実は否定しないが、伊藤は中心人物でも何でもないんだよねえ 伊藤博文が総督?
まともに勉強してないのがどっちかバレたな 正式名称は統監だけども
別にそこは本質じゃないしなぁ
朝鮮半島政策で伊藤がイニシアティブ取ったことほとんどない事実に変わりはないんだけどね
当時の軍政や朝鮮政策をリードした山縣や桂無視して伊藤ってのは、まあ偏ってるとしか言えない >>951
日本政府と国交があっだだけでも
ドイツ皇帝
プロイセン皇帝(ドイツ皇帝とは別枠)
ベルギー皇帝
デンマーク皇帝
スペイン皇帝
インド皇帝
イタリア皇帝
ノルウェー皇帝
スウェーデン皇帝
オスマン皇帝
ロシア皇帝
清皇帝 本質がどうのと語るのなら
伊藤が中心人物かどうかも論旨の本質ではないな >>961
そいつらの半分以上は日本人が勝手に皇帝と思ってただけでエンペラーを称してたわけでもなんでもないが >>962
伊藤博文の策謀ってことへのツッコミだからねえ
これが日本の朝鮮政策が主題なら別にまあって感じでしかない
>>961
欧州各国の日本語呼称「皇帝」は、英語でemperorって呼称されることないやろ
ロシアとドイツ、あとフランスだけだ ・Emperor≠皇帝、皇帝≠Emperor
・Empire≠帝国、帝国≠Empire
・皇帝がいる≠帝国、帝国である≠皇帝がいる
>>275-328 あたりも参照
あの頃と比べるとスレのレベルが格段に落ちてるな >>965
> あの頃と比べるとスレのレベルが格段に落ちてるな
なんでこのスレにいるの?ってレベルのがいついてるからねぇ
> 905 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 09:09:55.11 0
> 東ローマ皇帝からアウグストゥスの称号を授与されただけ >>957
パフラヴィー朝イラン帝国は1925年から
19世紀にはまだ無い
阮朝は国内でだけこっそりと皇帝を称してただけ
国際的には越南王でしかなく清に服属してた シクとかオヨとかソコトとかトゥクロールとかマラーターとか全部19世紀だぞ
どれも当時の英語圏で Empire & Emperor
日本じゃ王国って訳されがちだけど >>969
19世紀だとガージャール朝だが、彼らもシャーハンシャーだろう 清はエンペラーじゃな無くて皇帝
オスマンはエンペラーじゃななくてスルタンやパードシャー
ドイツはエンペラーじゃなくてカエサル
ロシアはエンペラーじゃなくてツァーリやインペラトルスコイ
日本はエンペラーじゃなくて天皇
基準ぶれぶれやん 清の皇帝も日本も天皇も、アメリカとの外交文書(米語)では「アウグストゥス」だった >>973
>日本はエンペラーじゃなくて天皇
大日本帝国時代の天皇の署名は「大日本帝国皇帝 裕仁」 >>971
そんな土人の酋長国の例を出してどうする >大日本帝国時代の天皇の署名は「大日本帝国皇帝 裕仁」
皇帝とエンペラーは別物って話なんだが難しすぎたかな >>978
大日本帝国の「皇帝」は中華皇帝ではなく西洋のエンペラーの訳語 たとえば、「封建制」でも
周の封建制と西洋のフェーダリズムの訳語としての「封建制」とがあるやろ >>977
> ここまで19cメキシコ帝国の名前なし?
ブラジル帝国もないよ
帝国(Empire)や皇帝(Emperor)の認定基準は >>976 のお気に召すかどうからしいので >>981
お気に召すとか以前に
土人の酋長国が欧州で皇帝としての礼遇を受けたの? > 大日本帝国の「皇帝」は中華皇帝ではなく西洋のエンペラーの訳語
(゚Д゚) > 土人の酋長国が欧州で皇帝としての礼遇を受けたの?
受けてたけど? 「皇帝としての礼遇」とか、これまた異世界ファンタジーの定義が飛び出したな >>986
はて
君主号など実質を伴ってなければなんの意味もないのだがな
シーランド公爵が本物の貴族社会で相手にされないのと同様 >>979
>大日本帝国の「皇帝」は中華皇帝ではなく西洋のエンペラーの訳語
大日本帝国の「皇帝」は中華皇帝由来で、エンペラーの訳語として「皇帝」が採用されるのは少し後の話 そもそも「皇帝としての礼遇」に実質がないのは無視なんかな >>991
お前のお気持ちなどどうでもいいぞ
客観的な事象で反証してみせろ ちょつと待って
今>>992が実態のある「皇帝としての礼遇」とやら
を客観的な事象で定義してくれるから 都合が悪くなるとすぐ逃げるから
妄想無知夫は馬鹿にされるんだ >>994
皇帝としての礼遇を受けた、と984が主張しているのだから
それが示されるまで待ってやろうじゃないか >>971: シクとかオヨとかソコトとかトゥクロールとかマラーターとか全部19世紀だぞ(事実)
>>976: そんな土人の酋長国の例を出してどうする(お気持ち) >>998
んで、そいつらを皇帝として遇した例は? このスレッドは1000を超えました。
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