隋唐帝国 三
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古代の日本に、唐使が来たことはわずか三回しかないんだよな
僧侶については唐人・インド人・ベトナム人・ソグド人など、多彩な顔ぶれがみられた
実は鑑真来日を要請した752年の遣唐使は、同時に儒教・文学の師として、
有名な文人簫穎士の渡日も願い出たのだが、本人の辞退によって実現しなかった
よほどの理由がない限り、中華思想を信条とする中国の知識人が、
東夷の国に定住する気にはなれなかっただろう
その点、仏教の世界は少し特別
しかしその仏教界でさえ、外国人は決して多くはない >>5
もっと来てるだろう?
郭務悰は4回来日してるし、その前に劉徳高が来てる。
正式な使節としてかどうかは知らないが。 唐と新羅は、同盟を結び、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした。
宿敵・高句麗を滅ぼした唐は、朝鮮半島を直轄領にする動きを見せた。
高句麗は、大陸からの侵攻を隋朝の頃から食い止めてきた強力な防波堤だった。
その高句麗を、こともあろうに唐と連合して滅ぼしてしまったのは、新羅にとって致命的な戦略の誤りだった
新羅は遅まきながら後悔し、高句麗の遺民を集めて復興に乗り出した。
その一方では、かつて唐とともに滅ぼした百済の地において、唐との戦闘が激化していた
新羅は、670年から676まで6年に渡り、唐との死闘を続けた。
幸運にも西の彼方で吐蕃の脅威が増大したため、唐軍は撤退した。
もしも吐蕃が弱かったら、唐は新羅を滅ぼすまで戦いを止めなかっただろう。
あと少しで、朝鮮半島全体が唐の領土になるところだった >>6
両人は白村江の戦いの戦後交渉のために来日。
実は進駐軍司令官で日本は唐の統治下に置かれてたんじゃないかという与太話がある。
ことに郭務悰率いる船47艘2千人の規模がデカい。 >>7
昨日の友は今日の敵。
昨日の敵は今日の友。
目まぐるしく情勢は変化する。 朝鮮半島全土は、いったんは唐の領土になった。
しかし、新羅が反抗して唐は半島から後退した 旧百済領域を委任統治するための唐が派遣した百済王族を追い出し旧百済領域を占領。
さらに旧高句麗の遺民を利用して唐を攻撃した。 >>8
郭務悰が率いていた2千人の半分は、白村江の戦の時の捕虜。
郭務悰は捕虜の交換のために日本に来た >>5
辞退ってwwwww
当時の状況からすると、
やだよあんなクソ田舎の離れ小島に行かねーよ
ってことだろ。 >>7
唐の領土になっていた方がよくないか?
そしたらもっと開明度があがっていたろうに 唐の倭国攻略だけど、安東都護府すら、吐蕃の反乱で、新城に移さなければ
ならないほどだったから、実質的に不可能だったと思う
唐の武将である薛仁貴が平壌を撤退するや否や、高句麗の残党の反乱がおこり、
高句麗の王族の安勝が新羅に亡命した 高句麗の遺民、安勝は偽王族
新羅に利用された
百済王族は唐に連行された >>17
安勝の字面でオグリキャップを勝たせて笠松から栗東に移籍した騎手がよぎった もしも唐朝が新羅を滅ぼして朝鮮半島を直轄領にしていたら、次は日本が標的になっただろう
白村江の戦いで壊滅させたとはいえ、人口が多く、船舶の材料となる木材も豊富な日本が、いつまた海軍を再建して朝鮮半島に攻めてくるか分からないから安心できない
実際に艦隊を送って攻めてくるかどうかはともかく、「唐朝に服属せよ」というプレッシャーがかつてないほど強くなり、日本の朝廷は重大な決断を迫られることになったはずだ
かつての大日本帝国が、日本を防衛するために朝鮮を併合し、朝鮮を防衛するために満州国を建て、満州を防衛するために蒙古へ・・・となったのと似ている?(笑) >>20
耽羅も台湾も海南島も獲れてないのに、日本が獲れるのか? 豊臣秀吉以後の清朝もそうだったらしい
「清の朝廷は、日本の動向をいつも気にしており、日本の現状ばかり聞いてくる」と、朝鮮の役人が書き残している
日本の江戸幕府に朝鮮征伐の意思はなかったが、疑心暗鬼は晴れなかった 高句麗滅亡後、唐の建国当初からの名将、李勣・劉仁軌はすでに老い、
蘇定方はすでに亡く、残っているのは、契苾何力と薛仁貴だけだった
契苾何力はもっぱら吐蕃戦に回り、東アジアに介入する名称は薛仁貴だけだった
その薛仁貴を吐蕃戦で欠き、せっかく陥落させた平壌経営もままならず、
安東都護府すら、遼東に後退せざるをえない状態だった
こんな状態で日本を獲れるわけがない >>22
日本の産品が欲しいからではないの?
ホンタイジ皇帝自ら乗り込んできて戦争したときの和睦条約にも、
朝鮮は日本と交易をして得たものを清国に渡せ
って条項盛り込んでいるし。 隋書にも、「新羅・百済は皆、倭を以て大国と為し、 珍物多しとして之を敬仰し、 恒に通使が往来す」と記録されている
倭国は、木材とか貴金属・宝石とか資源が多いし、気候は温暖湿潤で農業生産力が高く、海産物も豊富
遠い上に土地が狭いのがネックだが、関心は常に持たれる存在だ 日本と中国の交流史について調べてみると、近隣諸国と比べ、
人の交流の低調さははっきりしている
日本の唐文化への接触は、どうしても「もの」中心という特色を免れなかった
これでは中国文化の受け入れ方に、近隣の国々と差が出てくるのは当然である
朝鮮半島では、戦乱や貿易などを通じて、一般庶民の流入があったし、
知識人や技術者が、朝鮮諸国の希望により、皇帝の命で移り住むということも
南北朝時代には行われている
541年、南朝の梁が、百済の申請に応えて、陸詡を毛詩博士として送り、
あわせて工人、画師を遣わしたのは、その一例である
565年には、やはり南朝の陳が、劉思と僧明観の二人を派遣して、
仏教経典一千七百巻余りを贈ったというようなこともある >>27の続き
唐代以降は、朝鮮からの留学も盛んだったが、その間にも、唐の初めに、
高句麗が唐の派遣した道士を迎えて、『老子』の講義を聞いたり、
738年に唐から新羅へ使いが遣わされ、『老子』が送られたりしている
こうした近隣の様子と比べれば、遣唐使を通じての交流など足もとにも
及ばず、まったく密度の違うものだったといってもいいすぎではない 古代の東アジアの国際情勢を考える上では、この「古代の航路」図を常に念頭に置いておく必要がある
とくに、朝鮮半島と山東半島の距離が意外なほど近いこと、
東シナ海を横断して日本から中国に渡るのは絶望的なまでに遠いこと
この2点に注目
https://pds.exblog.jp/pds/1/201101/16/68/f0215268_1995227.gif 日本と朝鮮は、イギリスとヨーロッパ大陸よりもずっと遠く離れている上に、対馬海峡は海流が荒くて危険な海
「ドーバー海峡を泳いで渡った」という人はときどき出てくるが、対馬海峡を泳いで渡る人はいない 対馬海峡を泳いで渡った人はいるけど、3日間に分けて泳いでます。
初日は対馬を出発して半分くらいまで泳ぎ、船で対馬に戻って宿泊。
2日目は中継点から領海付近まで泳いで、また対馬に戻って出国手続き。
3日目に残りを泳ぎました。
https://chie-pctr.c.yimg.jp/dk/iwiz-chie/que-14139551819?w=999&h=999&up=0 福岡から対馬まで145km
対馬から釜山まで約50km
それに比べてイギリスと欧州大陸のドーバー海峡は、狭いところでは34km。
対馬と釜山より近い
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Strait_of_Dover_map.png >>29
チャイナの歴史観だと隋・唐は近世らしいけど。 現代でも日本人は、外国のモノは受け入れても、
外国人はあまり受け入れたがらないよな だからこそ、日本は中華文明の「いい所」のみを抽出して取り入れる事ができた
漢字に仏教、建築、箸の使用、紙、官僚組織などなど
地続きだったら文化の伝播は格段に速いが、悪いものまで持ち込まれる
宦官制度に戦乱、疫病…
元寇は別として近代までは「海」が天然の城壁だったが、
さすがに航空やミサイル、ネットが発展した今はそうも言えないなぁ >>36
地続は遅いだろ。
匈奴・突厥・モンゴル帝国がアホみたいに馬を駆るのが速かったのが例外。
たとえば、四大文明。
城市・麦畑・象形文字の使用が始まる次期がエジプト・メソポタミア・インダスでほぼ同時期精々100年程度の差。
支那文明は、その三つからおよそ1000〜1200年ほど遅れて始まっている。
海路で行こうとすると途中、およそ麦の栽培に不適な地域があるから、陸づたい。で大いに遅れる。 モンゴル人に言わせると、日本はいわれているほど閉鎖的な国ではないってさ
たとえば日本の相撲界にはモンゴル人をはじめ、外国人力士が大勢いるが、
モンゴルで、モンゴル相撲に外国人を入れるなんて考えられないって モンゴル相撲にプロがいるのか知らないが、モンゴル相撲では金が稼げないと思う >>37
中国とインドの間に、ヒマラヤ山脈があるからかな? >>41
モンゴル帝国のフレグ公は、ハンバリクでペルシャを獲ってこいと兄皇帝に命令されて、インドなんか見向きもせずヒマラヤなんか近づきもせず、
ペルシャを攻め落として、挙句、地中海を望むパレスチナでエジプトのバイバルス卿の軍勢とバチバチやりあってたらぜ。
フレグ公が宋との国境近くに貰っていた領地から呼び出されて「ペルシャを攻めて獲ってこい」の命令を受けたのが1953年。
1258年にバグダッド落城、アッバース朝カリフを捕縛。
1260年には地中海パレスチナに向けて進軍、今でいうとヨルダン川西岸地域でバイバルス卿と戦争。 >>39
モンゴル国にはブフ(モンゴル相撲)のプロリーグがある。 モンゴル高原からは、多くの民族が旅立っていった。
東胡、匈奴、月氏、鮮卑、ウイグル、契丹、突厥、柔然、セルジュークトルコ、オスマントルコなど
そして最後に残った部族をまとめて世界制覇したのがモンゴル モンゴル人には、ああ見えて選民意識がかなりある。
経済力で大差をつけられた今でさえ、どことなく中国人を見下しているところがある
あれほど何度も世界制覇した国は他にない
チンギス・ハーンをうかつに批判しようものなら、「あの方を悪く言うのだけは許せない」と朝青龍のTwitterに書かれる モンゴルでは、便器にもトイレットペーパーにもチンギス・ハーンの肖像が描かれている だが、モンゴル人の英雄はチンギス・ハーンだけではない
隋の煬帝も、唐の太宗も、モンゴル系の鮮卑族出身
彼らも「モンゴル人の英雄」と呼ばれる資格がある レスつけてスレ違いの自分のことを書きたいだけの人が中国関連スレはやたらと多いね 隋や唐は、北魏の途中から中国に同化してしまったから無理
現代に鮮卑族とか残っていない >>51
いや、だから、それが違うんだっての
昔はそういうことになってたが、今は「隋も唐も鮮卑の王朝」とするのが主流 日本は唐文化を取り入れるうえで選択的な受容が可能になった
人の交流の少なさは、政治的・軍事的関係の希薄さであったわけだが、
煎じ詰めれば、それは唐にとって日本が遠く離れた
「絶域」だったことに原因がある
日本はこの立地条件を逆手に取り、自らの望む範囲で
つかず離れずの態度を維持することができた
唐のものなら何でも受け入れなければならないという圧力は、
陸続きの朝鮮諸国などでは比較にならないほど強かったはずである 一応、日出ずる国を自称して対等だとタイマン張ってた。 >>51
だれか、>>51を翻訳して。意味不明だ。 >>58
鮮卑は北魏の途中から中国に同化したから隋唐の皇帝をモンゴル人の英雄というのは無理がある
と翻訳できる 新羅の遣唐使が、日本の遣唐使より上席につこうとして争ったらしい 岡本隆司氏が、唐代の日本との関係について、
「日本にとって、東アジアはそれなりに必要な世界だったのに対し、
東アジアにとって、日本はどうでもよい存在だった」
と書いている
これは近代以降も同じで、日本にとって、ヨーロッパは必要な世界だったのに対し、
ヨーロッパにとって、日本はどうでもよい存在だった >>63
契丹は既に南北朝後期から居たな。
唐代には李尽忠のように唐に服属と反乱を繰り返した者もいた。
モンゴルは先祖と言われる室韋が契丹の北に居た。 >>64
契丹はモンゴルではないでしょう?
モンゴルは契丹=支那と認識していたし。 唐は開放的だったのに、現在の中華人民共和国は民族浄化を行ってる
なぜこんなに非寛容な国になってしまったのか… 隋や唐は異民族の征服王朝だったので、有能なら異民族でも登用して優遇した。
中共は漢民族の集団。異民族は弾圧搾取の対象でしかない 漢民族が自己統治できる領域は遼河から西へ半円を描くように成都を囲み海南島にいたるところまでの範囲でしょう
東北三省、内蒙古、東トルキスタン(と寧夏)、チベット、雲南チワン、台湾は史的に漢宋明の漢民族王朝は統治できなかった
広域統治は異民族王朝の時のみじゃね基本
にもかかわらず清朝領土を中共が強引に引き継いでしまった悲劇
もし国民党ならどうしてただろうか >>66
モンゴル系であることがはっきりしている民族ということで挙げた。
契丹を指すヒャダットが中国という意味になったのは、
モンゴル帝国勃興期に金から契丹族が大挙して寝返ってきたのと
契丹族が漢族との通訳や中国北部の統治に当たらせられたから。
契丹族もモンゴル族も髪型同じで生活習慣も似ていた。 唐は異民族に寛容すぎて、どこの馬の骨か分からないような者を高官に取り立てて破滅した。
安禄山とか、他の時代なら官職につけるわけがない 儒者におもいっきり「燕賊簒位」って罵られたからな
十族皆殺しにしても収まらない 武則天が、北魏から続く名家を粛清してしまったので、その後には、科挙などによって人物登用しなければならなかった。
その中には、出自不明の不審者も含まれていた >>67
唐だって安史の乱のときに胡面排斥とかやっただろ。
顔がコーカソイドっぽいと捕まって処刑される。
明の時期には(モンゴル人、色目人の婚姻は必ず一方を漢人とするという政策をやったな。
イスラム教を禁止し忘れていたから、色目人の多かった地域は、今、回族だらけ。 西晋の江統は『徙戎論』を著して異民族に対する警戒を説いた >>70
ハッキリしてないじゃん?
今のモンゴル国国や中国領内蒙古に相当擂る場所に本拠地があっただけで。 唐に関係する民族なら、ウイグルだろう
ウイグルは唐代にはモンゴル高原に近い場所に本拠地があったが、次第に西域に追いやられていった。
確か安史の乱の鎮圧にはウイグルの援助を受けたはず 契丹とか満州方面のツングース系というイメージなんだが。
遼は真ツングース系の金に負けて、西域に逃亡していったが。その逃亡途中でモンゴル高原に少し立ち寄ったらしい 唐代にはシルクロードを通じて大規模に奴隷貿易が行われていた
絹馬交易ならぬ、絹奴交易である
ソグド人が扱った奴隷の産地はソグディアナ本国と草原地帯のトルキスタン
唐でもてはやされた胡姫や私妓には奴隷貿易で流入した者が多かったらしい 西域は異民族間の戦争が多かったから、負けたら処刑か奴隷になるんだね ウイグル帝国は、757年に、セレンゲ河畔に
ソグド人と漢人を駆使してバイバリク城を築かせた
これは遊牧ウイグル人のためではなく、外来のソグド人や
漢人たちを住まわせるためのものだった
ウイグル帝国はかつての柔然・高車や突厥と同じく、
初めからソグド人の経済的・外交的手腕を利用していた >>86
冬営地が要るし、夏場も何人か冬営地に見張り役・連絡役が常駐していた。
放牧地の中にポツンと数戸の天幕があるだのこともあれば、城市に近いところやべったり隣接していたり、
がっつり城市の中の石造の家だったりすることもある。
自分らで作るより買ってきた方が手っ取り早いものは、他民族の城市に買いに行く。
商機を求めて農耕圏から産品持って来る人も歓迎ってかたちで冬営地に住まわせたりする。 遊牧民は、必要なものがあれば、都市の住民から略奪すれば良い
負けて追撃されたら馬を使い逃げればよい。失うものは自分の命くらいしかない
都市の定住民からすれば、厄介な存在。 安史の乱では、ウイグルが強大な騎馬軍団による武力を行使して唐を救った
しかしそれ以後、ウイグルは唐に対し優勢を保ち、さまざまな要求をしてくる
ようになる
またウイグルと結びついたソグド商人も、虎の威を借るキツネのように、
勝手なふるまいを中国で行い、絹馬交易をはじめとする内陸での
シルクロード貿易の利益を壟断していく ソグド人の安禄山を贔屓して痛い目にあった玄宗
ソグド人は口達者のペテン師だらけだから信用したのが間違い ソグド人の子どもは生まれるや口に蜜を含ませられ,手に膠 (にかわ) を握らせられて,将来甘い弁舌と巧みな商才を身につけるように祈られる。5歳で読み書きを習い,20歳で隊商に加わって遠国へ行き経験を積む
生まれながらのペテン師商人 タリム盆地のオアシス都市では、最初はトカラ語が話されていたのだが、
ウイグルの支配を受けてからは、テュルク系の言語が話されるようになったのだとか
タリム盆地が、トルキスタンと呼ばれるようになったのはこのため トルキスタンと呼ばれるのは、トルコ系民族が居住しているからでしょう
トルコ語使用とは無関係だと思いますが 19世紀後半、ロシア帝国がタシュケントにトルキスタン総督府を置いた。ロシア領トルキスタン (西トルキスタン)という名称と実態が成立すると、その東方は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンとも呼称されるようになった。 >>93
言語がトルコ系だからトルコ系民族なんだろうて ソグド人も、今や歴史の荒波の中にもまれて沈んでしまったな。
ソグド語はもはや死語。
民族の痕跡すら定かではない >>96
タジキスタンの一部住民の間で使われてる、ヤグノブ語(ヤグノビー)って言語がある
この言語がソグド語の残存言語であるらしい ソグド人は、ゾロアスター教、マニ教、仏教、キリスト教ネストリウス派など多くの宗教を受け入れてきたが。
イスラム教は無理だったのだろうか? >>91
アケメネス朝やアレクサンドロス大王の時代から活躍してる歴史あるソグド人をディスるとはいい度胸だな。 >>98
ウマイヤ朝イスラム帝国にサマルカンドが征服されてからソグド人もイスラム化が始まってるんじゃないか?
言語もペルシア語やチュルク系のウズベク語に変わっていく。 ていうか、「ソグド人がイスラム化されなかった」というのは聞いたことがない
「イスラム化されすぎて、文化的な独自性が失われた」というのなら、よく聞く話だが ソグド人は、イスラムの侵攻後に姿を消したのだから、イスラムに駆逐されたのだろう。 イスラム教に改宗したソグド人は、タジク人と呼ばれ、サーマン朝を築いたと言われている ソグド人は消滅したのではなく、他の民族の中に融解していったのである。ソグド人がもたらしたソグド文字がほそぼそとそのままウイグル文字となり、それが13世紀にモンゴル文字となった。さらにモンゴル文字が16世紀末〜17世紀初頭に改良されて満州文字となる。ソグド文化は清朝の文化に受け継がれ、現在も中国の内蒙古自治区で使われているモンゴル文字は現代に残るソグド文化の遺産なのである。 >>98
イスラム教を受け入れてタジク人になったんだろ 唐朝の盛時には、唐文明圏に組み込まれかけてたが
でも、やっぱり乾燥気候の人間は、西アジアの文化と相性がいい いや、拓跋人は完全に染まって無いだろ。
漢土の唐国の皇帝・朝廷として振る舞ったのは漢人に対してだけで、
北方西方に対しては拓跋の河汗と称してたろ。 >>106
インドでも、クシャーナ朝はギリシア・ローマ文化を受け入れたが、
南インドはローマ文化を受け入れようとしなかったのだとか >>108
グレコ・バクトリアを先に獲ったからね。 チベットでは、842年、10歳のダルマ・ウィドゥムテン王が
宰相の一党に殺され、王位の継承をめぐってチベット帝国は分裂した
もはや中央政府は存在せず、チベットはこれから150年間、
記録のない暗黒時代に入る 青海省とか甘粛省とか雲南省とかに、モンゴル語喋るチベット人の部族とか、チベット語喋るカザフ人の部族とか、
習俗、帰属意識、喋る言語の組み合わせがチグハグな集団が点在しているでよ。 吐蕃が唐と交流する中で、八世紀ごろチベット人は、
茶を薬としてではなく、生活に欠かせない飲料として
嗜むようになったのだとか
今でもチベットではバター茶が飲まれているけど 明治期にチベットを探検した川口慧海は、そのバター茶を「茶ではなく吸い物のようなもの」
と表現している。
でも「吸い物」という表現がイマイチしっくり来ないな。
吸い物と言えば、すっきりした出汁にワカメや麩を入れた、さっぱりした汁物。
バター茶のようなこってりした飲み物を「吸い物」と表現するのがわからない。
そういえば故事成語「羹に懲りて膾を吹く」の解説として
「羹は肉や野菜を煮込んだ吸い物。膾は生肉や野菜の和え物。熱い吸い物で口を火傷したので…」
肉や野菜を煮込んだら脂が浮いてコッテリするはず。
そんな汁物を「吸い物」と表現するのもしっくりしない。 >>116
まあこれは洋食ですけども肉を煮込んだ吸い物には油気の少ないコンソメスープというものもありましてですな
というか「吸い物」という用語を日本料理、それもわりと高級志向の料理に特化して想像してらっしゃいませんかな 味噌汁は必ず飯とセットでで来るけれど、吸物は単独でも出されるからな チベットのバター茶は茶とバターと塩を混ぜて作る
家畜を追い、山野で薬草をとる生活には、茶葉のビタミンやバターのカロリー、
そして汗で失われる塩分の補給に、このお茶は欠かせないものなのだろう チベット等で飲まれている茶は可搬性に優れた黒茶を固めた磚茶(団茶)
バター茶は味噌汁や海草スープに近い塩味があるらしい いちおうスレタイに話を戻せば、チベットに喫茶の風習を持ち込んだのは
唐の時代、吐蕃王のソンツェンガンポに嫁した文成公主かな? 13世紀にモンゴルからじゃないの?
薄く淹れた茶に、牛乳もしくは羊乳を加えてガシガシ撹拌して、塩と乳脂を添えて供するって
やり方似ている。 中国から中央アジアやチベットに茶がいつごろ伝わったか、はっきりしたことはわかっていません。
しかし、およそ8世紀から10世紀にかけて、中国のお茶を売るかわりに中央アジアの馬を買う茶馬交易がはじまっているので、そのころには喫茶の風習が定着してきたものと思われます。
もちろん中央アジアでは茶は生産できないので、遠く離れた四川省から馬に積んで運んできたのです。
その運搬の便利さと保存性のよさから、この地方では今でも団茶という古いタイプの固形茶が使用されています。
そして、団茶はとても貴重品で、昔は、お嫁にゆくときの財産にもなったそうです。 >>116
チベットのバター茶は、確かシコール・チャイというものだな。
モンゴルでほぼ同じだという物飲んだことあるが、
岩塩で味付けしてあって、口当たりは具のない豚汁という感じだった。 >>125
それはモンゴル語式の呼び名かな?
(あと、現代モンゴル語で「茶」を指す名詞の発音について、北部式発音では「ツァイ」で、「チャイ」は南部式発音だね)
チベット語では、バター茶のことを一般的には「スー・チャ」(「攪拌茶」の意味)と呼ぶそうな ソグド、突厥、ウイグル、吐蕃、更にはアッバース朝が送り込んだアラブ人部隊に蹂躪される唐。
唐が望んで受け入れてることも多いんだが、少々情けない。 >>127
支那人という人種は、は盗ッ人としては一流だけれど、軍隊の将兵としはクズしかいねえ。
そこらに沢山いるから、矢避け弾避けにでも使えなんて戦争に連れて行ったら、兵糧を盗む、
兵器を盗む、そしてそれを敵陣に売りに行く、というようなヤツしかいねえんだよ。
そして、あげく、共食い。 >>128
そんなクズ軍団にコテンパンにやっつけられた倭国兵。
兵数は倭国軍の方が勝ってたのに、
いざ開戦であっという間に倭国軍は壊滅。 >>129
白村江の戦いのときの唐軍は、満州兵が主力 後の満州族の祖先である、靺鞨の一部は、唐の味方だったらしいが 隋唐の主力だった関中兵も精強で知られたが、かれらは西域で防人をやってたので >>129
7世紀前半なら唐の軍隊は殆どが拓跋人や突厥人やらだろ。そりゃ強いわな。
対して、倭国は、味方に百済と任那と高麗だぞ。お荷物が3つもぶら下がってる。
戦争のセオリー、ダメ味方がいると戦線総崩れって。 >>136
百済復興軍が内紛を起こしてて、
その有力な指導者2人が次々と殺されてて、
ガタガタになってるところへ、
倭国軍が到着。
もはや協力のしようがない状態。
更には元々倭国軍は豪族の連合体で
動員力があったものの
統一的な作戦運用ができてないし、
作戦自体が
我等先を争はば、敵自づから退くべし
というようないい加減なものだった。 突厥(トルキスタン)とソグド(イラン)の混血で、ウズベキスタン生まれの安禄山は、必死に裸踊りをし、その腹にはなにが詰まっているのかを審理しましたが、 契丹語は蒙古語の側派の一つだから元王朝時代にボルジギン氏モンゴル部の言葉がコイネー化すると契丹語は消えてなくなった >>141
ダウール語が契丹語の特徴をかなり受け継いでいるそうだが。 10世紀とか13世紀には話されていた言語が今に失くなってしまったりとかは結構起こってたんではないのか? >>125
モンゴル語で、「ミルクティー」は
「スーテイ・ツァイ」(スー=乳 テイ=とともにある ツァイ=茶)だね
125さんが飲んだのは、それとは少し違う(バターのみ混ぜた)茶だったってこと? >>48
鮮卑はモンゴル系かトルコ系の可能性が高いが、現在のモンゴル人と直接的に
つながるとまでは言えないような。
それと、隋の楊氏、唐の李氏は、北魏の拓跋氏や北周の宇文氏と違い自称漢族。
もっとも、そもそもが漢族は自称で怪しい。母方はほぼ鮮卑系。
李氏の隴西李氏自称に至っては完全に嘘。ただ、趙郡李氏のマイナー家系が起源
の可能性は少しある。 >>146
> もっとも、そもそもが漢族は自称で怪しい。母方はほぼ鮮卑系。
「○○族」に両親は関係ない定期 隋と唐は鮮卑族王権
しかし漢族に同化しようとして出自を隠蔽していた。 >>147
氏族は父系だからね
漢民族の有力氏族が支配層の鮮卑族とのコネが欲しくて鮮卑族の女と結婚することは別におかしくないし 初期の唐王朝が軍事的に強かったのは五胡十六国以来の伝統で国家に忠誠を持った遊牧民階級の軍団が多かったから
ただこれは諸刃の剣で彼らが結束して反乱を起こしたら国家は簡単に転覆することを意味している
安史の乱がそれだった >>150
逆なんじゃない?
後の時代に歴史捏造で和蕃公主みたいなふうに言われてるけど、
積極的に支那方が女を差し出してきてたんだろ ガチガチの父系社会だから積極的に一族の女を縁組に差し出す
女に継承権がある社会だとそうは行かない >>153
姉妹弟兄皆列土
可憐光彩生門戸
遂令天下父母心
不重生男重生女
ってことだな。
白居易の長恨歌 >>155
母親のカレシに何百万円か借金して踏み倒すところから始めよう >>137
高句麗は何度も隋唐の親征軍を撃退した上に突厥の世子である契苾加力を討ち死に寸前まで追い詰めたり
百済の黒歯常之も唐軍が占領していた200城を抜くなど全盛期唐相手に底力をみせているのだが
倭軍は頭数多いくせに白村江の戦い一回で壊滅するという体たらくだからな 匈奴はじめ北方騎馬民族には、未亡人は亡き夫の兄弟と再婚する習慣があった。
未亡人の立場を守るとともに、財産の流出を避けるための策。
だが「貞女二夫にまみえず」を旨とする漢民族には理解不能だった
煬帝は亡き父帝の愛妾を自身の後宮に入れた。
これは漢民族的、儒教的には理解不能で許されない行為
だが煬帝、隋の楊氏が騎馬民族の末裔なら、普通の行いなのかな? 子供がいた場合甥とか姪も養育するわけだから
赤の他人と再婚させるよか可愛がられやすい気もするから
合理的やな
より徹底するとイスラムみたいに兄弟の子供たち同士を結婚させるケースやけど
ここまでいくと女性は所有物になるな >>158
百済の姓には、他にも億礼、鬼室、佐宅とかというのがある。 >>159
夫、妻の一族同士の繋がりの問題もあるからね。 >>159
ウチの大伯父(次男)は、長男が戦死して寡婦の嫁さんの再婚相手になったよ。
それで田んぼも引き継いでたよ。 ヘンリー8世も兄嫁を貰ったし、清王朝のホンタイジが死んだ後実権を握った弟のドルゴンが妃を貰った
騎馬民族に限らず権利を引き継ぐために前任者?の妻を娶ることは世界中に割とある 儒教の価値観では女にとって夫となる人間が一人だけだから、死別ー再婚すら良くないと思われてたのに
その相手が元夫の家族なら家族関係を破壊する乱倫になるという >>167
故夫の弟と再婚なら家族関係が一番変わらないんじゃないの?
夫の一族からすると、あの家からこの家に来たお嫁さんの地位で同じじゃん。 >>168
義理の母や義理の姉を妻にするのはアウト
義理だろうと母であり姉である存在だから、それと結婚したら近親婚と同じという >>168
中国漢民族の生活風習を見るがいい
基本は大家族、親族がひとつの邸宅に集まって暮らす(客家の土楼)
こうした環境下では嫁の性的関係がオープンだと都合が悪く、誰の子供かすらわからなくなり
財産の権利問題が生じる
家族がそれぞれ独立した家に居住し、成人すれば基本的に独り立ちする遊牧民とは
親族環境も大きく異なるといえる >>170
だったらなおさら亭主の弟と結婚した場合に、相続関係もそのまま変わらずに済むじゃん。 >>171
そんな単純な話ではないぞ
兄の子がいたらどうなるか?
弟の子が後で生まれたら?
嫡子と庶子に厳格な文化ではかなり大きなトラブルの原因になる 基本的に、宗教的な戒律やタブーなどというのはその民族の文化習俗を反映して形成されたものなので
(イスラム教徒が豚肉を禁忌にするのは、衛生面の理由とする説が有力)
儒教的なタブーについても同様に何らかの(おそらく相続等)の理由が起源であろう >>172
長子相続が原則なんだろ。結局、同じじゃないのか? >>174
何が同じなんだよ
妄想してないで主張したら >>175
爺様→長男→長男の子
って相続するんだから、
途中で長男死んで次男と長男の妻が再婚しても長男の子に家督とか遺産とか行くんじゃないの? >>176
儒教的な価値観が成立するかしないかの太古に長子相続なんて制度が確立してるわけないだろ… まあ、血も涙も無い支那人だと、兄貴の子は邪魔だ、殺してしまえ、ってふうになるだろうから、近くに置くと危ないよね。
たとえば、明国の
爺様=洪武帝 → 長男=懿文太子 → 孫=建文帝
は長男が若死しても長男の子が家督を継いだけれど、叔父に殺されてるし。
日本みたいに
爺様=景行天皇 → 日本武尊(若死に) → 仲哀天皇
の景行天皇と仲哀天皇の間ら成務天皇がいるけど、本来兄貴(日本武尊)が継ぐはずのものだから
日本武尊の子が皇位に就くべしって、自分の子を臣籍降下させてるよな >>178
儒教的価値観から脚色された神話をもとに歴史を語るって痛々しいな
中国人がどうのとか言えないほど日本の後続貴族大名と親族争いしまくっとるがな 日本の大名や武士どもがあまりにもお家騒動ばかり起こしているから
徳川家康が儒教と武家諸法度で強力に統制して相続法を確立させたように
古代中国でも相続関係で社会秩序が乱れるケースが頻発したからこそ
宗法や儒教の徳目といった礼が必要となり成立したとみるべきだな 儒教にある道徳に関して太古の儀礼よりも孔子個人の価値観が反映されてるから相続云々は関係ない >>179
儒教の本家で秦とモンゴル帝国期とを除いて、統一国家としては漢から清まで第一国是が儒教だったのに、
チャイナの倫理が儒教的でなかったのか?
兄貴が早世したら兄貴の子が宗家の跡取りにしない道理が通ってたのか? >>181
ヨーロッパはキリスト教の、中近東・北アフリカはコーランの、バーラタはリグヴェーダの教条に従って、
家督の相続とかやってたじゃん?
チャイナでは儒教がそれに相当したんちげぇの? >>181
宗法やそれに基づく礼は孔子以前から存在する
それを体系化したのが孔子
そして古代中国人にもそれを受容する必要性と合理性があったとみるべき >>182
国是がどうであろうと国民全員がそれに従って完璧に運用できるわけないだろ
宗教や法律があっても一定の違反が生じるのは当然
ピュアか? >>184
礼儀作法に関しては周王朝伝統のものだけど、価値観は孔子自身のものだぞ
君子小人云々とか倫理道徳観は孔子本人の偏見と主観の塊 >>186
夫婦や親族における関係にまつわる価値観について今語ってるんだよ? >>187
だから儒教の価値観は古来の伝統ではなく孔子本人の主観が強く反映されてると言ってる
兄嫁貰っちゃいけないとか貞操に厳しいのは孔子本人の価値観であって相続権利は関係ない
同じ春秋戦国時代で主要な思想の一つである墨家に女系社会由来の概念が残ってるし >>185
>>184
さすがに2000年もやってりゃ根付くだろ。
その2000年の始まる前から何となくレベルでの慣習、孔子やらはその慣習を矛盾少なく文章化しただけなんだろうし。 秦 法家
漢 道家から儒家
三国〜魏晋南北朝 儒教から仏教
隋唐 仏教と道教
五代十国〜宋 儒教
元 仏教とイスラム教
明清 儒教
民国 色々
人民共和国 マルクス・レーニン主義 >>189
お前の論理だとキリスト教国の人間は例外なく全員慈愛にあふれてて罪を犯すことはないしイスラム教徒は全員酒飲まないでメッカに巡礼するってことになるけど >>191
>>188
>同じ春秋戦国時代で主要な思想の一つである墨家に女系社会由来の概念が残ってるし
殷王朝に女系社会の慣習があるし、儒家がガチガチの男系社会倫理観を強調するのも他の諸子百家と違うから
流石に儒教的な倫理観を儒教以前の伝統だと言い張るのは無理 >>188
その理屈は変だね
孔子の登場する時代以前から社会自体が母系社会から父系社会に変化しつつあって
その中で形成されつつあった慣習や宗法、礼といったものを孔子がまとめたにすぎない
孔子個人が長幼の序や夫婦の別といった概念を唱えたことによって中国社会が一斉に母系社会から父系社会にシフトしたわけではない
そんな力は孔子には無いし
孔子の思想に彼個人のオリジナルの部分があるとしても社会がそれを受け入れる下地が出来つつあったから広く受け入れらたとかんがえなければならない >>193
>>194と同様
古代中国社会が父系的な社会に遷移するなかで、より孔子の儒教が受け入れられた背景を考慮しなければならない
墨子の思想は結局広く受け入れられなかったのは
それがその時代の価値観・慣習とすでずれていたからにほかならない >>195
>墨子の思想は結局広く受け入れられなかったのは
まずここで間違ってる
墨家は春秋戦国時代では儒家に並ぶ主流 >>196
でも結局消えてるよね
墨子の思想や礼儀が中国社会にマッチしていたら現代まで残るはずだぞ 男子優先や長子優先、嫡子庶子の別など
王侯貴族の相続争いはたいてい親戚同士の決まりごとが曖昧なため生まれるしいちいち領地を兄弟間で分けていては国が弱体化していく
だから時代が下ることに中国のみならず欧州や日本でも分割相続から長子相続にシフトするのだよ
それが紛争回避や国家経営上合理的だからだ >>197
儒教の方が皇帝を頂点とする独裁支配体制の維持に役立つからだろう
漢の武帝が儒家を国教に定めてまだそんなに経ってない宣帝の時代では
民間育ちの宣帝が儒者を嫌って儒教の主張は世間知らずの現実離れだと切り捨てたように
儒教は支配階級が支配を定着させるための思想であって中国旧来のものじゃない >>199
世間知らずの現実離れといってるのは儒者が周代を理想としている点についてなので
旧来のものではないなどという話にこじつけるのは全く逆で的外れ(笑) という的外れなコメントしてるのですね
言い張るならまず周王朝時代の倫理観を根拠付きで説明したり
春秋戦国時代で儒家と同じ道徳倫理観を唱える他の学説を列挙してみるべきだろうに
根拠もなく逃げ回ってるだけじゃ無知の馬鹿でも出来る(笑) >>201
根拠もクソも
儒教ってのは周代に既に成立しかつ春秋時代に傾きかけてた旧来の価値観や身分秩序について孔子が再編・体系化しまとめあげたものってのは基礎知識であって
孔子がはじめて唱えた革新的な価値観とかそういうものでは全く無いんだが
むしろあなたの歴史感こそ定説とずれてるので
立論と立証責任はあなたにあると思いますが?(笑) >>200
漢の時代で儒教が懐古思想になってるならすでに当時社会の慣習になってないということじゃない? >>202
だから旧来ではなく孔子本人が理想とするものを伝統としてるだけ
殷王朝時代では母系社会の慣習があるのはすでに知られてる以上
儒教の価値観が古来の伝統とは言えない
それとも殷王朝は中国じゃないと言いたいのか? >>203
それは主に政策論に関して周代の施策は漢の時代にそのまま通用しないだろって話であって
祖先崇拝や儒教の徳目のような倫理というのは普通に通用しているよ
むしろそっちは漢民族の旧来の文化の追認だから齟齬は生じないのだよ >>204
意味わからない反論しないでもらえますか?
殷代の時代に母系社会の名残りがあるのは認めるが
周代にかけてそれが父系社会に移り宗法や礼が成立してるんで
それを孔子がまとめたって話なんだが
いっとくけど周代って数百年あるからね?w >>205
儒教文化が定着してるなら呂后が権力持てなかったぞ?
春秋戦国時代で西周封建体制が崩壊したように孔子が理想とした価値観も崩壊したから
ああして諸国回って徳を説いてるじゃん
周以前は存在しないし春秋戦国時代で崩壊したのならそれは伝統とは言わないよ? >>207
え?宗教や法、慣習が定着しててもその時々の権力者がそれを無視することなんて古今東西ありふれてますけど?
繰り返しになりますが、キリスト教徒が全員完璧に聖書の教えを守って罪を侵さず愛にあふれて暮らしていない限りあなたはキリスト教は定着してないとおっしゃるのでしょうか??(笑)
そしたら世の中に定着してる宗教や法律は皆無になりますけど、それってあなたの独自感覚ですよね(笑) >>207
周以前に存在してない宗法や儀式や価値観を孔子が独自に春秋時代に発明創設したっていう珍説を唱えるならそれこそ根拠付きで立証してくれwww
なんのために孔子は諸国をまわってそれぞれの礼を学んだのかwww >>208
>え?宗教や法、慣習が定着しててもその時々の権力者がそれを無視することなんて古今東西ありふれてますけど?
民間育ちの皇帝があんなの現実離れだと言ってるのに定着したと言い張るのか
法と慣習が定着したのなら春秋戦国時代であれだけ激しい下剋上は起きてないし
孔子もわざわざ諸国を回る必要がない
儒者並みに現実離れ過ぎるぞキミ それともこの人は周の成立頃から春秋時代、孔子が出るまでに成立してた宗法や価値観は時代が浅いから伝統じゃないって言いたいのかな?
まあでも周って紀元前1000年頃に成立してて孔子が登場するまで500年は経ってるんだけどね
500年の間に形成された価値観が新しいとは普通言わないんじゃないかなあ >>210
すでに書いてるけど孔子が生きてた頃には周の勢いは衰えて価値観が動揺してたんで、
孔子が再編しまとめてさらに諸国に広めようとしたのであり
それは儒教的な旧来の価値観や秩序が周代に成立し定着してたということでしかないんだけど
なにに反発してるのか全くわからないwww >>211
詩経で描写されたような孔子が理想とする礼儀作法と道徳倫理観は西周諸侯という支配階級限定
殷王朝の遺民が明らかに違ったし、民間発の諸子百家の道家と墨家に殷王朝の慣習と思想が残ってる以上
周王朝支配階級のお作法を伝統だというのが間違い >>212
>孔子が再編しまとめてさらに諸国に広めようとしたのであり
>それは儒教的な旧来の価値観や秩序が周代に成立し定着してたということでしかないんだけど
殷王朝はノーカウントか? >>213
それ裏を返せば支配階級の諸侯の価値観として定着してたってことを自分で認めてるよねw
そもそも周代の封建制というのは都市国家を中心とした氏族共同体を基本構成単位としており
都市共同体内の身分秩序として儒教的な価値観や礼法、宗法が発展し定着してるって流れなんだから
支配階級とそれ以外を切り離すほうがお門違いで、当時の社会の実態をなんら理解してないと言わざるを得ないなw >>214
殷王朝を最後に廃れた母系社会の風習の名残を強調する意味が全くわからないけど?w
それこそ定着してないでしょ、おまえさんの定義では >>215
相変わらず殷王朝をノーカウント扱いか
余程都合が悪いんだな
周王朝は西から来た征服王朝だし支配するために礼法を持ち込んで周王朝の支配階級がそれを使ってたけど
春秋戦国時代に入って廃れたということは絶対多数である被支配階級まで「定着しなかった」ということだぞ?
定着してたら下剋上が起きてないし春秋戦国時代では周王朝伝統の支配層のほとんどが没落して
旧支配層の礼法を受け継ぐのは儒家だけで他は殷王朝以来の伝統をベースにしたりしてる
そもそも伝統連呼するのに周以前も周以降も無視という凄い恣意的な伝統の決め方だなw >>216
廃れてないから墨家の思想に残ってんじゃんw
都合悪いものは無視か >>217
はいはい
だからあなたの定義じゃこの世に定着してる宗教や法律ってないよねって話にループするんだけど早くそれに回答しようぜ?
あなたの定着してるの定義が世間一般と較べ著しく狭いからゴネてるだけで
そういうのって世界に対して反逆してるたんなる中二病でしかないですよ?w >>218
はて、おかしいね
母系社会の風習な一部墨家の主張に残ってたら定着してるってことにするのに
儒教は春秋時代までに崩れたから定着してないって明らかにダブルスタンダードじゃんw
主張に筋が通ってないけどどーすんの?ん?w >>219
儒教の価値観が中国に本格的に定着したのは漢以降の話で
それ以前の時代ではそもそも伝統と言えるほどのものではない
と言ってるけど理解できないのか >>220
日本語読めないのかおまえ
儒教を国教としたのはいつの時代なのかも知らないのか こいつの中では一定の時期に通用してた法や価値観が後に廃れた場合定着してなかったということになるらしい
ヨーロッパでいえば中世のキリスト教全盛が現代は廃れてるとしたら
ヨーロッパではキリスト教が定着したことはなかった、ということになるらしい
意味わからんw >>223
頭悪いのかまともに反論できないから逃げたなおまえ
色々残念な脳みそだなw >>221
漢以降は定着した、っていってるけどその定着の定義はなんですか?
なにをもって定着してるっていってるの?
漢代以降も儒教的価値観が動揺しては再び安定するってことくりかえしてますけど
あなた独自の感覚で定着してるしてないとか言われても議論にならないから
そこをまず固めてもらえませんかねえ >>222
それまでの儒学を体系的にまとめたのは孔子であり、国教になるのはその後にしかならないのだから
国教であるかどうかをもって定着の基準にするのは周代における儒教の議論には当てはまらないぞ?w >>224
まともに反論できてないのは君だよ?
ダブルスタンダードの問題、定義の問題
なにひとつまともに説明しておらず口汚く否定するだけ
それじゃあ小学生やぞ?
論理で戦おうよw >>227
殷王朝に母系社会の慣習がまだ残ってた
孔子が提唱する父系社会倫理観を柱とする儒教の価値観が定着するのは漢以降
簡単な話なのに理解できない馬鹿が逃げ回ってるだけ >>228
え、聞かれたことに全く答えてないのに逃げ回ってるの君だよね?
定着の定義はなんですか?
殷代の風習は廃れても定着してるってことにしてるのはダブルスタンダードではありませんか?
日本語がわかるなら答えられるよね?w
逃げないできちんと答えようね、ぼくちゃん 殷代マンが質問に答えなかったら敗北宣言とみなしますね〜 そもそも殷代からの母系社会の名残が残ってることと
メインストリームとして新たな父系氏族社会としての風習が定着したことってなんら矛盾せず成立するのだけどね
儒教が定着してるかどうかについて0か100かみたいな殷代マンみたいな発想でレスバトルしてもしょうがないんだよ たとえば現代キリスト教圏においても
近代以前のような宗教的価値観は廃れたといえるが、
道徳観や宗教儀礼としてはしっかり定着してるわけだし
ここでいう殷代の風習にあたるようなキリスト教以前の習俗(冬至祭に由来するクリスマスなど)も名残として残ってるわけで
殷代マンのような世界の捉え方は単純すぎる >>199
王様や大臣が、宗教界を敵に回して、権力闘争なんて、世界自由いろいろ否時代の色々な国で起こってますがな。 唐代にも、もちろん儒教はあった
だが、仏教や道教に押されてた
次の時代に、宋学が登場して巻き返すことになる 「唐朝」と聞いても、いまひとつ具体的なイメージを描きにくい
絵があんまり残ってないのが、その大きな理由
唐代のイメージ形成に最も貢献したのは敦煌の壁画だけど、それも西域だから文化が違うしなあ 唐を舞台とする中国の歴史マンガ「長歌行」では、
「宋の名画・清明上河図を見てイメージをふくらませ、唐の風景を描きました」
と作者がコメントしていた
唐は、それほど絵が少ない時代 それに比べて平安時代の日本は、貴族の日記やら絵巻物やらが大量に残っていて、当時のことが手に取るように分かる
千年前のことがこんなに分かるのは、世界中でも日本だけ >>238
例えばイタリアの人が聞いたら「噴飯ものだ」って怒るかさもなくば大笑いするかってこと書いてるな
何でもかんでも日本だけと思い込むのはいかんよ
ましてや、ここは世界史板だ 首都に記録が豊富なのはある意味当たり前
逆に田舎のことなんか何もわからないぢゃん >>240
> 首都に記録が豊富なのはある意味当たり前
当たり前じゃないよ
千年前だぞ? 千年前のは少ないんだよ
だから「暗黒の中世」と言われる 中世の欧州でも文書記録が豊富
あっちは教会という記録機関があるから それが少ないから「暗黒の中世」なんだよ
修道院の一部のエリート修道僧くらいしか読み書きできない。一般の教会なんかじゃ無理
そんな修道院ですら、本は驚くほど少なかった 暗黒の中世は、なぜ「暗黒」と呼ばれるか?
それは、記録があまりに乏しくて、当時のことがよく分からないからだ
近代に入り、イラクで発掘調査した考古学者たちは、「大量に残った粘土板のおかげで、4千年前のシュメールのことは中世ヨーロッパよりずっとよく分かる」と感動した 唐朝や新羅も同じだ
これは当時の識字率が低かったからというより、首都の長安や慶州が滅んで寂れてしまったのが主因 まあ、新羅の場合は、朝鮮半島には紙の原料となるコウゾやミツマタのような植物が乏しく、紙が希少だったというのも大きいが >>247
暗黒の中世というのはそもそも間違いだし、華やかなローマ時代と対比しての話
大帝国が瓦解して封建領主乱立したから大規模事業出来なくなって退化したように見えただけ >>250
待て
高麗期には紙の生産が多くて品質の良さでも評判だったというぞ
ほんとにもともと新羅期から原料がきちんと採れない土地柄だったら、技術の継承もできないだろ >>252
> 高麗期には紙の生産が多くて品質の良さでも評判だったというぞ
それは、「そうだったらいいな」という願望 韓国から日本に来た留学生は、奈良時代や平安時代の古典文学を見てビックリする
そんな大昔の古典は、彼らの祖国には存在しない 誰が日本スゴイ君だ!
こちらは「唐代は、古代や近世と比べて 記録が少ない」という話をしてたのに、
「日本ガー!」と言い出したのはお前だろ(笑) そんな話してないが
また都合よくスレの流れを改ざんしとるんか
このアホは 唐代の話をしてるかと思ったら
いきなり日本スゴイ話を展開して他社から冷静に突っ込まれたのに
記憶を都合よく改ざんしてんじゃないよ
https://i.imgur.com/ZcqjLAd.jpg >>253
他国である宋の文献に記録されてることなんだが
まあ隋唐代の話題とはやや離れるから、これ以上のレスは不要 >>258
その「唐の絵画が少ない」ってのがそもそも間違いだけどね
現存する絵画や墓の壁画から唐の時代の上流階級の服装がほぼ判明してるし
副葬品の唐三彩の数もかなり多い
確かに清明上河図みたいな当時の街の全貌を描いたものがないけど
宋以前の時代にあんな傑作があったっけ? >>238
> それに比べて平安時代の日本は、貴族の日記やら絵巻物やらが大量に残っていて、当時のことが手に取るように分かる
>
> 千年前のことがこんなに分かるのは、世界中でも日本だけ
暗黒時代の中世西欧より記録が残ってないのに? 日記文学の中では最古の部類に入る三代御記ですら精々10世紀のもので中国では時代的にいうと北宋代にあたる
そもそも文字記録にしたって日本は後発も後発で国内最古の金石分も百済の肖古王が倭王に下賜した七支刀の銘文でしょ?
夜朗自大も甚だしいな笑 日本書紀読むと朝鮮人様文化を伝えてくださってありがとうばかりで泣けてくる
百済の馬丁の阿知吉師をオホキミは師として仰がれて文字を学んだとか完全にバカにされているとしか思えないのだが
なぜ馬鹿正直にこのようなことを当事の人々は記録に残したのだろうか? 公文書を改ざんしてもお咎めなしの今の日本と違って馬鹿正直に事実を書き残した古代日本人は立派じゃないか 日本人は公文書改竄するから日本書紀も古事記も信じ難い 実際、少なくとも日本書紀については既に改竄が指摘されてるね んなこと言ったら、シナの史書なんかウソ八百もいいとこだろ 日本書紀は記事水増しするたために中国の史書をマルコピしてる部分がめちゃくちゃ多い
どれくらい多いかというと全体の半分くらいがそう
仁徳紀なんてコピペ部分削ったら何も残らないぐらい多い だから、んなこと言ったらシナの史書も同じだっての(笑) 誇張があってもちゃんと記録があるのと自国にろくに歴史書がないので外国の歴史書の文章をパクって来て
これが我が国の歴史ですとウソをつくのでは全然違う アフォか
シナは広いんだよ
江南と関中なんか外国だ
司馬遷が書いてる呉や楚の話とか、すべて伝聞のコピペ シナ歴史教の信者が「史書に書かれていることは真実なのだ」と言い張る
キリスト教原理主義者が「聖書に書かれていることは真実なのだ」と言い張るのと一緒
単なる信仰だ 日本書紀によると神武天皇はお母さんがサメでおとうさんがサメとヒトのハーフ
つまり神武天皇は4分の3がサメってもはや人間じゃない
これを史実として教えていた戦前の皇民教育は頭おかしいな笑 ホレ、お前らがロクに話題ださないから
こんなかわいそうな奴が暴れるようになってしまった! 神武天皇の両親は甥と叔母の関係にあたるわけだが古代エジプトみたいに近親婚の風習でもあったのだろうか
聖徳太子の家系図もすごいことになっているし お前ら朝鮮人は、DNAレベルで脳が壊れてるようだな(笑) 神武天皇自体が妄想の産物だから真面目に考えるだけむだ 唐は野蛮な遊牧民が建てた国
日本人は本音では唐をバカにしていたが、利用できるとこだけ利用してた >>291
> 唐は野蛮な遊牧民が建てた国
その唐より遥かに文明レベルが低い日本土人をバカにしてるのか? >>236
唐三彩に王義之の書に唐詩に正倉院御物に、一番イメージしやすいのが唐じゃないのか? >>287
王侯貴族に近親婚が多いのは前近代では当たり前。
婚姻は家格の近いどうしが好まれるけれど、上位層ほど頭数が少なくて、結果、婚姻の相手方が同じ家ばかりということは起きやすい。
宗教的に六世代以内に共通の祖先のある近親婚は禁止していたカトリック圏ですら、王侯は別で、イトコ、叔父・姪の婚姻は多数。 >>294
王羲之は違うだろう
それを言うなら数年前国立博物館で展示会が開かれた顔真卿の方
確かに唐三彩は日本でも人気だし、李白杜甫は超がつくほど有名だからむしろ一番イメージしやすいよな 奈良の古刹は隋・唐を見てきた人が真似して造りました、だからな。
景色としてもこんな感じってのがイメージしやすいところはないかい? >>289
×朝鮮人は人間のランクが低い
◯日本のネトウヨは人間未満の低ランク マジで耐えられんな、朝鮮人だけは
心の底から嫌悪と侮蔑がわき上がってくるのは、世界中で朝鮮人だけ 唐なんて、内陸部の辺境の国だからな
たいして痕跡が残ってるわけでもない 唐の長安は、当時の痕跡をとどめている程度
奈良の明日香村くらいの感じ 実際のところ、唐と現代の中国など、ほとんど関係ない別の国
まあ、まったく関係ないとまでは言わないが、あんまり関係ない 実際のところ、邪馬台国と現代の日本など、ほとんど関係ない別の国
まあ、まったく関係ないとまでは言わないが、あんまり関係ない >>307
いちいちムキになって言い返さなくていいよ(笑) 全く関係ないとか
なにを基準にほざいてるのか全く不明瞭 邪馬台国なんて日本のどこにあったのかすらわからない古代の都市国家の名前でしょ
まぁ99.99%の日本人には関係のない話だわな
トルコ人にとってのトロイと似たような存在 >>311
> 邪馬台国なんて日本のどこにあったのかすらわからない古代の都市国家の名前でしょ
> まぁ99.99%の日本人には関係のない話だわな
> トルコ人にとってのトロイと似たような存在
現代の中国人にとっての唐の長安も、それと大差ない存在 唐は北はバイカル湖、西はアラル海、ガンダーラ、南は越南まで広がっていたのだから
中央アジア、アフガン、タジク、パキスタン、ベトナム人にとっても唐史の一部分は自国史でもある
まぁ日本みたいに一国史が一民族の歴史に収まっている閉鎖性の強い歴史をもつ国は世界中探してもそうそうないのだが 長安は廃墟になって何百年も放置された
唐代など痕跡が残る程度
奈良の明日香村とか、新羅の慶州みたいな感じだな >>313
> まぁ日本みたいに一国史が一民族の歴史に収まっている閉鎖性の強い歴史をもつ国は世界中探してもそうそうないのだが
それは誤解だ
古代の倭国は朝鮮半島南部に勢力を拡げていた >>316
>>313は「日本」と云ってるんだから一国史≒一民族史で大きくは間違っていない。
貴公の云う半島南部云々は白村江以前の倭国史だろう。
「日本」というのは白村江敗戦、半島完全撤退を踏まえて樹立された天武朝から現代に至るまでこの列島を支配している体制の呼称だ。
混同してはいけない。 >>316
けど本国の一部とは思ってなかったよね。
九州・南島・蝦夷の祖先をもつ氏族には、倭本国同等に、皇別・天孫・天神・地祇の氏族があるけれど、
がっつり支配していた任那ですらその出身者の後裔は隋唐や三韓の帰化者と同じく諸蕃氏族として分類していたよな。
関東東北の端やら九州の南の端にはとても支配が及んでいなかったけれど、そっちの帰順者は、
皇別氏族とか天神氏族か居たのに。 日本が半島南部を支配していたというのは大嘘と証明されている
そもそも任那日本府のごときは名前からして小学生でもねつ造であるとわかる
5世紀や6世紀という時代に日本という名称はまだ無かった
任那日本府説は学問ではなく大昔の大和政権が半島南部を支配していたため文化的歴史的根拠により日本は半島領有の権利があるという日帝が作ったプロパガンダに過ぎない
文化は常に高い方から低い方に流れる
半島領有などは考え難い 韓国人が任那は半島の一部を支配してないと言いつつ古代日本の政権は
半島から入った武装集団が建てたものという矛盾な主張をする
古代日本が朝鮮と無関係ならそもそも日本に半島由来の政権なんかできない >>319
> 文化は常に高い方から低い方に流れる
> 半島領有などは考え難い
日本のほうが文化水準は高い >>318
>がっつり支配していた任那ですら
任那を屯倉(大王領)としたというわりには必ず屯倉に付随する「名代・子代」が置かれていない
また書紀に現れる任那人の人名をみても大王に服従した証しであるカバネを持たず高句麗、新羅、百済、蝦夷の人名と同じく無姓
そしてその首長は「旱岐」というどう見ても和系ではない称号を名乗っている
この「旱岐」というのは井上秀雄氏によると扶余や高句麗の「加」、鮮卑、柔然、突厥の「可汗」とルーツを同じくする語で
古トルコ語で首長を意味するkghanから来ているらしい
書紀は呉(南朝)も倭の朝貢国としているぐらいの自大主義に染っているのでその記述は割り引いみる必要がある
まぁ精々倭のほうが立場的に上の同盟を結んでいた程度じゃないの 短甲が日本独自に発逹した鎧だと思われていた時代は倭系短甲なんてよばれて
半島に進出した倭人の痕跡などとも言われていたが現在では形式としては最古にあたる竪矧板革綴短甲が半島製と
わかってからはなりひそめちゃったね
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/574703
>この鎧は、現在の山梨県の甲府市にある古墳から発見されました。当時朝鮮半島の南にあった連合国、伽耶(かや)で作られたものか、
>もしくは伽耶の職人(工人)が日本で作ったものと考えられています。この古墳の主は、当時最先端の、外国の技術で作られた鎧を手に
>できるほど権力を持っていたことがうかがえます。 >>323
本国でなくて植民地だもんなあ。
野蛮すぎて本編入したくなかったのよ。
記紀にも野蛮さが書かれてるし。
支配のおぼつかない薩摩大隅方面奥羽方面は獲るなり順次本国編入。
開明度は近かったんだろう。 南朝の皇帝も、倭王が朝鮮半島南部を支配することを認めていたからな
欧米の歴史教科書でも、朝鮮半島南部は倭の領土として色を塗られている そもそも、新羅は倭人が建てた国
その新羅が、朝鮮半島を統一した 南朝だって、たいしたことないぞ
しょせん南朝だからな 日本書紀には唐や新羅のほか、ペルシャやインド、トハラなどの中央アジアの国々も日本の
最先端文化を学ぶために朝貢していた事実が記されている 「日本は、大陸に遣唐使を送って先進の文明を学び、未開国から脱しました」
というストーリーを、小中学校の歴史の教科書に書き込んで繰り返し刷り込むのは、
日本人にアジア大陸進出をヤメさせるためのアメリカ人たちによる洗脳工作
実際には、唐の文明なんかたいしたことなかった
誇大広告もいいとこ >>330
日本書紀にある吐火羅って、中央アジアのトハラなのか??
九州のトカラ列島という落ちじゃないんかい?
遣唐使の中継地でもあるし。 >>332
違うんじゃない?
日本書紀の時代なら「火」は「か」でなくて「くわ」だからな 講談社学術文庫『日本書紀(下)』には
吐火羅「タイ国のメコン河下流にあったドヴァラヴァティ王国と考えられ」とコメントしてる。
鹿児島県人だけはトカラ列島説を信奉してるんだろう。十島村HPに載ってた。
どんなトンデモ説でも成立可能なんでネトウヨが飛び付くわけだ。 この時代、世界の中心はバグダッドやダマスカス
唐など辺境もいいとこ 科学力ならオリエント>中国・インド
経済力ならインド>中国・オリエント
芸術なら中国>オリエント・インド >>337
> 芸術なら中国>オリエント・インド
賛成できない 東アジア地域限定なら、唐を中心に動いてるだろうが。
周辺諸国は皆、唐に倣おうとしてるじゃないか。
唐の文化圏が周辺諸国に広がったのであって、
日本の文化圏が広がったわけじゃない。
日本ホルホルのネトウヨ妄想にはウンザリだよ。 ネトウヨは日本を過大評価しすぎなんだよな
もっとも新羅より日本が上と騒いだ馬鹿が唐の時代にもいたようだが大人の対応で引いてやって勝ったと史書に書き残した恥ずかしい歴史書が残っているな 明らかに、東アジアの国際秩序の中で、日本の国格は新羅より上だった 「俺の方がエライ(※中華の配下限定)んだよ馬鹿野郎。」って諍いで嚙み合わせておくのが唐の、と云うより大陸王朝の常套よな。
そういう不毛かつ低水準の争いから或る時点でさっさと足を洗った「日本國」はそれなりに賢明だった、と。 >>341
どうせ唐語で国書が書かれてるし、
記録も漢文だし、
新羅使節と応対する日本代表との共通語も唐語だろう? 漢文は、大陸の先住民が遺した旧文明の言語だ
唐人は北や西からやってきた移民の子孫であり、直接の関係はない
倭人や新羅人と同じだ 菅原道真は渤海国使節と交友してて、
お互い漢詩を交換し合って楽しんだ。
道真は唐語を話せるはず。
その分、唐の実情を理解してて、遣唐使廃止を進言できた。 李白や杜甫、王維や韓愈、白楽天は日本の貴族に大きな影響を与えた。
しかも唐音で暗唱してた。訓読みなんぞ邪道。 白楽天の『長恨歌』が平安貴族に人気。
玄宗と楊貴妃を描いたもので、『源氏物語』の桐壺なんかに影響を与えてる。
日本人は悲恋モノが好みらしい。 陝西省など内陸部の奥地
唐の都・長安は、どうしようもない辺境地帯に位置していた 唐下げマンは自分の妄想ばかり書き込んでないでまともに働け >>351
いや、当の時代は辺地どころか、世界とつながってる入口だし。
北西遊牧圏を介して中近東圏、チベット圏を介してインド圏に向かう、
交通の要衝。
唐の末期くらいに日本は自力で中世型封建時代に差し掛かってきたけど、
それまで日本海方面はいいとこ世界のド田舎で、海に面した都なんて作る意味なかった。 >>351
長安が没落したのは安史の乱以後。
それまでは繁栄してた。
安史の乱で完全に世界が変貌した。
戸籍上で唐の人口の2/3が失われた。 >>357
チャイナは、税金が嫌で戸籍に乗らないとか逃亡して別のところに居るとか、今でもあるじゃん。
戸籍に載ってないってのは、単に、租税をとりっぱぐれているってだけじゃないの?
支那人の繁殖力なんてゴキブリ並で、共食いしながらでもあっという間にはびこるし。 >>358
人命が実際にどのくらい失われたかは諸説あって、確定できない。
唐が完全に変質したことは間違いない。 そうだ
中国史上、唐の前期と唐の後期が最大の断絶で転換点という人も多いくらいだからな 唐の後期は、日本でいえば戦国時代の室町幕府
統一国家とは名ばかりの群雄割拠 前期だって、武氏に王朝を乗っ取られて唐朝は中断した
かろうじて唐朝は復活したが、またすぐに韋氏に乗っ取られかけた
韋氏を倒した玄宗は、安史の乱で国を潰した
唐は300年続いたとはいえ、それはあくまで結果論
六朝や五代みたいにコロコロ王朝交代しても不思議はなかった 王朝交代したのに北魏から西魏〜北周〜隋〜唐って連続しているよね >>362
武韋の禍があっても国家自体は隆盛が続いてた。
むしろ門閥貴族が消えて新たな人材登用で玄宗前期の繁栄に導いた。 中華王朝は、形の上では漢からずっと続いている
本当に断絶して継承されなかったのは、元朝から明朝になったとき
モンゴル人は玉璽を持って漠北へと去り、行方不明となった >>365
元明清はまとめて北京帝国でいい。
政権トップが交代しただけで政府組織は継続してる。 阿倍仲麻呂は安史の乱の影響で渤海国経由の帰国許可が降りなかったことがあるんだな。
安南節度使になったり、激動の唐と共に人生を歩んだ。 外国人を調達した反対側の知事に充てる
ロシアのピョートル一世のお気入の黒人小姓アブラム・ガンニバルが、領地持の貴族・エストニアの知事に取り立てられてたのと似てる。 >>368
アブラム・ガンニバル
作家のアレクサンドル・プーシキンの母方のひいじいちゃんですな 中国史と日本史を無理やり対応させるなら、
夏殷周 : 弥生古墳 (古代)
春秋戦国 : 倭国大乱 (古代)
漢 : 飛鳥奈良平安 (古代)
魏晋南北朝 : 鎌倉南北朝 (中世前期)
隋唐 : 室町 (中世後期)
唐末五代十国 : 戦国安土桃山 (近世前期)
宋元明清 : 江戸 (近世後期)
清末民国 : 明治大正昭和初期 (近代)
人民共和国 : 昭和後期平成令和 (現代) アッシリアは秦
アケメネス朝は漢
セレウコス朝〜パルティアは魏晋南北朝
サーサーン朝は唐
ウマイヤ朝からオスマンまでのイスラム帝国は宋元明清 揚州周辺一帯は煬帝が生まれる千年前から揚州と呼ばれてたし、むしろ煬帝が名前を変えた 煬帝と武則天はもっと評価したい。
李世民は過大評価。 煬帝
1、軍事にすぐれた2代目、実質的な統一者
2、兄を殺し、父を退位(諸説ある)させて即位
3、高句麗遠征に失敗
4、大運河を建設
李世民
1、軍事にすぐれた2代目、実質的な統一者
2、兄と弟を殺し、父を退位(諸説ある)させて即位
3、高句麗遠征に失敗
4、大運河を完成
・・・こんなに似てるのに、煬帝は「史上最悪の暴君」、李世民は「史上最高の名君」とされている 煬帝が暴君とされる理由の1つに、「父の側室だった陳宣華を妃とした」というのがある
これは漢人の儒教倫理からすると許しがたいことなのだが、鮮卑の倫理では普通。
というよりむしろ、父の未亡人の面倒を見るのは男の甲斐性であり、ちっとも悪いことではない
だが、司馬光のような後世の儒者からは「父を弑し、その妾を姦す。まさにこれ畜生」とボロクソに批判された 後世の儒者から見れば女が権力を振るう武則天は許せない。
武則天以外にも太平公主、韋皇后、安楽公主、上官婉児などの女傑が勢揃い。
唐は中国史上稀有の女性活躍の時代。
ダラしない男どもをこき使う。 日本では女帝が次々登場するのと重なる。
新羅の善徳女王、真徳女王などもいる。
東アジア全体の時代の空気だと思う。 中華王朝は、形の上では漢からずっと続いている
本当に断絶して継承されなかったのは、元朝から明朝になったとき
モンゴル人は玉璽を持って漠北へと去り、行方不明となった
そして清王朝が誕生すると北元から受け継いだ玉璽が帝位の正当性の担保となった
つまり明の滅亡後のいわゆる中華は成吉思汗を始祖とする蒙古帝国の末裔となった
だからこそ李王朝の朝鮮王国は明の滅亡を持って中華文明は滅んだと解釈し自らを中華の正統を受け継ぐものとして小中華を名乗った >>382
朱元璋は元朝の官僚組織をほぼそのまま引き継いでる。
大臣クラスから地方官に至るまで、多くの官僚が元の役職のまま採用だったりする。
断絶どころか継続感の方が強い。
また清も北京入城時に明朝百官から熱烈歓迎を受け、
辮髪令に応じた明朝官僚はそのまま採用してる。
政権トップの交代であって、帝国組織は継続と見做すべき。 聖徳太子が日いずるところの天子、日ぼっするところの天子に、と送った相手が煬帝
怒って使者を斬首されてもおかしくなったが、高句麗侵攻で後背の日本と
連携しないといけなかったから見逃してくれた 高句麗さんしぶとく頑張るなぁ。
地の利なのかなぁ? >>380
遊牧圏だからな。
族長が頓死したら、次の族長が決まるまで、族長の未亡人が尼将軍するんよ >>386
それは理由ならもっと円満に権力移譲となるだろう。
唐の女傑たちが凄まじい血を血で洗う権力闘争を繰り広げた理由にならないよ。
突厥やウィグルなどの遊牧帝国で女帝がいたのかなぁ? 同時期に遊牧圏でない日本や新羅で女帝や女王が続いた理由にもならない。 「族長の未亡人」というのが、唐の女帝に対する最も自然な解釈 >>387
お妃が権力闘争の中心で動くなんてことは、世界中どこの後宮でも多々あったこだろ。 隋や初期の唐は、皇帝の代替わりのたびに兄弟がそれぞれの私兵を動員した武力闘争もしくはその一歩手前までいった
これは、遊牧民にアリガチな傾向 >>389
日本でも鎌倉幕府とか闇討ち暗殺ばっかりだったよな。 鮮卑系は有力外戚の対策に子貴母死を取るからむしろ女に厳しいだろう >>392
支那人王朝の漢やら晋やら明やらでも皇帝の代がわりで度々悶着が起きてるだろ 明以前は中原にも遊牧民が結構住んでいて
それが武人階級を構成していたからな
中原がほぼ漢人のみの居住地となったのは近世以降
唐の時代なんて鮮卑の末裔どころか突厥や契丹など
漢化してない遊牧民が内地に多く居住していたし
彼らが軍の主力だったから唐の軍事力は強かった
軍の主力を遊牧民階級に頼るというのは軍事力の
強化には役立つが彼らが反乱を起こしたら国家が
容易に転覆するという弱点にもなりうる
安禄山の乱はその弱点が露呈した事件ともいえる
唐はこれによって数千万人の人口を失った >>388
新羅の善徳女王や真徳女王の即位の場合は、
「父系・母系どちらも代々全員王族」の人が王族男性にいない状況だったから、という事情があったな
真徳女王の次の武烈王からは、
王の父母どちらも王族であっても代をたどると王族以外の血筋も入っている人も、即位するようになった
新羅では、末期に、真聖女王もいた
というわけで、新羅は歴代君主のうち3人が女性だった 唐三彩とか、絵図とかから唐代の女が騎馬していたのは確かで、
騎馬民族っぽい面かもしれない。
女が活躍する理由かもしれない。 中華ドラマで、女たちの服装で皆、おっぱいの谷間を見せてる。
単なる視聴者サービスかと思いきや、唐三彩の女服がそうだった。
開放的かもしれない。
唐はフェミ。 上官婉児は執務中、男装していた。
男性官僚の服装を着用していたわけだが、
男装の麗人が、男どもに、
「そんな簡単なこともわからぬのか!」と叱りつけ、
テキパキ指示を与えるイメージを思い浮かべると萌える。 >>401
> 中華ドラマで、女たちの服装で皆、おっぱいの谷間を見せてる。
「則天武后(武媚娘伝奇」は、中国共産党の検閲で「おっぱいの谷間を見せすぎ」とされた
このため、全編CG処理で修正された
別に視聴者サービスではなく、史実に忠実だったんだが 漢人は儒教倫理の世界なので、漢でも明でも女性の露出度は低く、身体をきつく縛る服装をしていた
唐は例外的に開放的で緩かった 宋や元での漢人服飾文化はどうなのかな
あとそれから、
清の満洲人の服飾文化の影響は現代中国語圏の服飾文化にも残ってるけど、
元のモンゴル人の服飾文化は明代以降にあまり影響を与えなかったのかな 纏足は宋から始まったからどうだったのか考えるまでもない >>392
どこもそうだよ
欧州もトルコもイスラムも日本も 絶版だが岩波書店「大唐帝国の女性たち」
唐代は女性が比較的開放された例外的時代だった。 遊牧民はむしろ厳しいじゃない?
女は基本的に財産扱いだから >>410
> 女は基本的に財産扱いだから
それは遊牧民の社会を根本的に誤解している >>403
唐代のファッションの特色は
・胡服が好まれたこと
・男装や軍装が流行したこと
(太平公主は、宮中で武官の恰好をして舞ってた)
・露出度が高いこと
(唐代女性の絵や俑などは、大胆に胸元を露わにされたものが多い)
もっとも「女が胡人の真似をするのは国が乱れる兆しだ!」と騒ぎ立てる人々は当時もいた。
「大唐帝国の女性たち」の著者は、魯迅の言葉を引用している。
魯迅曰く、
「誰か女性の服装を慨嘆して不満を述べる人が出てくれば、
我々はその時代の支配階級の状況がたいていうまくいっていないことを知る」
だそうだ。 >>412 第一段落
> 唐代のファッションの特色
現代のファッションの特色
に書き換えて、全く違和感無し >>412
>太平公主は、宮中で武官の恰好をして舞ってた
コスプレイベントですな
いろんな意味でまさに文字どおりの「御宅サークルの姫」 唐詩を検索したら、おっぱいを雪の白さに例えるのがあった。
長留白雪占胸前
(胸元に白い雪が長く留まっている)
粉胸半掩疑晴雪
(ピンクの胸あるいは小さい胸が半分雪で覆われてるみたいな) >>416
洛陽郊外の龍門山奉先寺の大仏が武則天をモデルにしたらしいぞ。
高さ17mだがさすって来い。 長編詩「長恨歌」では、楊貴妃が温泉で柔肌を洗う場面を
温泉、水滑らかにして凝脂を洗う
と表現している。
滑らかな肌を固まったラードに例えるなんて、まさに肉食民族の思考回路だな。 >>412
男装というより、乗馬服だろ、拓跋人が支配層だからね。
絵やお人形はまた別だ。 >>410
おおよそ胡の風俗は男を卑しみ女を尊ぶ(大唐西域記by三蔵法師)
スキタイ(モンゴル)人どもの男が女を尊ぶこと奴隷が主人に対するが如しである(大旅行記byイブン・バットゥータ) >>418
乗馬服はもちろんあるね。
女子が男装をしている姿は、敦煌の壁画に見られる。
『新唐書・李右伝』に同じ金鳥の錦の袍を玄宗と楊貴妃が温泉で着たことがわかる。ペアルックみたいなものだ。
踊りを披露する際に、武官の装束を身に着けることも多い。
流行は宮廷にとどまらず
庶民の間でも、男子の服・靴・短い衣を着用した女子がいるとの記述がある。 矢田尚子 著 — 唐代における男装の流行と『○国夫人游春図』の論文を検索するとダウンロードできるよ。
○は文字化けするところなので。 >>418
華清池に楊貴妃のセクシーな裸像が建ってるんだな。 >>421
そうだな。
唐代は西域の影響が濃厚。
女性が騎馬してポロに興じたり、
楊貴妃がソグド人の激しい胡旋舞の名手だったり、
女性が健康的で輝いていた。 中央アジアを旅したイブン・バットゥータの旅行記には、
「女主人と使用人の男だと思っていたら、その2人は夫婦だった」
という話が出ている
それが遊牧民の社会の特徴 今でもジャップはレディーファーストがなっていないね
欧米では夫はレストランで妻のために椅子を引いてやるしエレベーターを降りるときは女性に先を譲る
これなんかも江戸時代あたりならば女主人と男の従者の如しとジャップなら記載しただろう >>426
唐の文化はコスモポリタニスティックで華麗で自由闊達な印象が(女性文化の自由さも含めて)あるけど、
基本的には貴族文化が中心なんだっけ
一般庶民層までが洒脱で自由な文化に触れるようになるのは、宋代なのかな
ただ、宋代は版図の範囲を含め漢文化主軸の時代で、
唐代のような文化的混淆性が(女性文化の引き戻しを含め)やや目立たない感じでもあるか
それでいて、宋代と並行する周辺諸国分化、例えば日本文化や高麗文化では、
女性の活動がかなり自由だった特徴があるんだよな
これって、文化的波及でよく起こる、同心円的な時期・範囲のずれとも関りがあるのかね? 唐前期は儒教的制約がユルユルで、
女性に優しく、
異民族の文化や宗教に寛容だった。
唐後期になると国粋主義、排外主義が目立つようになる。
儒教的制約が増え、纏足が生まれ、
十数万人の外国人居住者が犠牲になった黄巣軍の広州大虐殺まで発生する。
国家が傾いてるのは異国人のせいと考えて敵意を示すようになってる。 >>431
>宋代と並行する周辺諸国分化、例えば日本文化や高麗文化では、
>女性の活動がかなり自由だった特徴があるんだよな
女性の活動が自由って具体的には?
日本なら平安時代はヤマト王権時代と比べて女性の相続権や財産権はかなり制限されるようになっているぞ >>433
安禄山はソグド人、
援軍にやって来たウィグル軍に略奪OKの公認。
アッバース朝のアラブ軍まで駐留して我が物顔。
いい加減に異民族が嫌いになる。 >>433
> 唐後期になると国粋主義、排外主義が目立つようになる。
> 儒教的制約が増え、纏足が生まれ、
> 十数万人の外国人居住者が犠牲になった黄巣軍の広州大虐殺まで発生する。
それは後期というより末期の話だな 安禄山は、いまでいう北京の勢力
安史の乱のあとも、北京は唐朝のコントロールを受けず、事実上の独立国として対抗勢力であり続けた
宋の時代になっても、北京は遼や金の拠点であり、宋にとっては最大の脅威
その後、宋はついに北京帝国に滅ぼされた
「北京帝国は、それ以前の諸王朝(秦、漢、唐、宋など)とは別の国であり、区別すべき」という所以がそこにある
「中国四千年の歴史」というイデオロギーで同じ色に塗りつぶされているが、秦漢と明清では、ローマ帝国とオスマン帝国くらいの違いが確実にある >>434
文字言語上の事情が大きいんだろうけど、
著作の活動とかとなると、
平安時代の日本は女流文学者が多いけど、
宋の著名な女流文学者というと、例えば詞人の李清照のほかには、なかなか挙がらないような >>436
安史の乱の最中にも揚州で数千人の胡人、ペルシア人、イスラム教徒が唐将によって殺されてる。
攘夷は既に始まってる。 >>435
アッバース朝軍は唐朝廷側の援軍だったんだっけ
タラス河畔の戦いから数年で、アッバース朝側から援軍を受けるというのは、
現実的な外交というべきか、背に腹は代えられなかったというべきか >>440
アッバース朝第2代カリフのマンスールは唐の要請に答えて4千人以上のアラブ兵を派遣してる。
ちなみにマンスールはタラス河畔の戦いの功労者ホラーサーン総督アブー・ムスリムの武力を脅威と見なし、暗殺した。 タラス河畔の戦いの唐将の高仙芝は安禄山の乱の最中に讒言による無実の罪で玄宗の命令で処刑されてる。
その後は防衛できずに玄宗は長安を離れる。
高仙芝を信頼して防衛を任せていれば、長安を逃げることもなかったかもしれない。 >>437
だから唐代に北京なんてないから
この時代の幽州の州冶といえば范陽だが現在の北京とは千代田区と前橋ぐらい距離がある 実は唐はインドやペルシャに対して文化後進国だったという説があるな
確かに唐はインドペルシャの文化的影響受けまくったけど、インドペルシャは中国文化の影響をほとんど受けていないもんな >>444
> 実は唐はインドやペルシャに対して文化後進国だったという説があるな
その通り
日本が遣唐使を送ったのも、インドやペルシャの文化を取り入れるのが目的 >>444
唐の物産を欲してた。
あと製紙法とか。 >>446
技術面にかぎられるんじゃない?
宗教思想や芸術に関しては唐が完全に輸入超過だったのでは? >>443
対高句麗戦の軍事拠点だね。
大運河の起点になった。 >>449
そうかもね。
仏教圏だった西域諸国もタラス河畔の戦い以後はイスラム化しちゃったなぁ。 >>443
大きな意味で >>437 が「北京」と言ってるだけでは?
安禄山が起兵した范陽は現在の北京市と河北省保定市にまたがってるのだから、
まるっきり違うとまでは言えないよ。 玄奘の「大唐西域記」って、
玄奘が旅したり伝え聞いた百数十か国を記してるけど、
インド方面が詳しく、シルクロード西域の大部分は簡略してるよな。
太宗に西域方面を詳細に教えたくなかったのと違うか? >>449
宗教に文明は関係ないよ
アラブ半島のイスラム教がパルティアとビザンツの支配地域に広まったのは文明が高かったからじゃない >>454
でも唐は美術音楽生活習慣まで影響受けてるからなあ 影響を受けることと文明的に遅れてることも関係ないよ?
現代アメリカも常に他国の文化に影響されて外国発のものがブームになったりするけど
アメリカが遅れてるからとは言わない
ベースとなる文化自体が外国のものに取って代わられるわけじゃないから 「文化」では絶望的な後進国、不毛の荒野であるアメリカ合衆国が「文明」ではなおも現代世界を席巻し続けている。 >>456
まあそもそも私は唐の文明がインドペルシャより進んでるかどうかではなく唐がインドペルシャに対して文化後進国だった可能性を問題にしてるんだが
唐がインドペルシャの文化に対して輸入超過だったのは間違い無いんで
つまり文明というよりは文化の問題ね >>457
> 「文化」では絶望的な後進国、不毛の荒野であるアメリカ合衆国が「文明」ではなおも現代世界を席巻し続けている。
アメリカが文化的な後進国?
100年前の世界からタイムスリップしてきたのか? 西域が唐文化よりペルシア文化の影響が大きいのは気候風土的に近いからじゃないの?
中東も中央アジアも同じ砂漠乾燥帯だしイスラムがよく馴染んだ
そして中東から中央アジアに向かう過程でインド文化の影響も混じった 中央アジアから唐に移住する人はいても唐から中央アジアに移住する人は少ない
中央アジアより唐の方が住みやすいから
それにより中央アジア文化その大元の中東イスラム文化が唐に伝わることがあっても、唐文化が中央アジアから中東へと伝わることは稀 モンゴル人がそうだったな
テント生活者にとって絨毯は必需品
最高級品はペルシャ絨毯で、トルコ絨毯がそれに次ぐ >>459
むしろお前さんが昭和二十年代の洗脳から抜けてないだけだよ。
あの時代でさえ米国が文化先進国ってのは虚構だった。
あれはヒトの生活文化やその根本原理が原始時代のまま、文明だけが肥大した歪な国。 いやいや、20世紀後半からは、音楽・美術・文学・哲学、あらゆる文化ジャンルでアメリカが最先端だ
フランスが対抗できてたのは第二次大戦前まで >>464
寝言は寝て云え。
フランスはおろか、米国が物理力で蹂躙したイラクやアフガンにさえ劣る。
印度やイランとは比べることさえ笑止。
文化に於いて米国と同水準なのは文革で自ら全てを破壊した中国だよ。 >>458
>唐がインドペルシャの文化に対して輸入超過だったのは間違い無いんで
中国の文物は西アジアでは高値で売れるのでそれを買いあさるために多くのソグドやムスリム商人が交易で訪づれているぐらいなのでそれはないな
アッバース朝の商人がかいた「中国とインドの諸情報」みてもイスラム帝国より唐のほうが物資の豊さでも工芸でも格上の国という認識 いや、中国の工芸の技術が優れていたのは古来から周知の事実で、マホメットも「技術は中国」と言っている
問題は、それ以外の宗教・哲学・音楽・美術・ファッションその他の文化が、完全に西から東への一方通行だということだ
この「西から東へ」という世界的な文化の一方通行の中に日本を置いてみると、だいぶ違って見えてくる 唐三彩、陶磁器、唐織物あと中国絵画が伝わってミニチュアールになったり
いくらでも西に流れてるがな >>469
> 唐三彩、陶磁器、唐織物
だから、それが「工芸技術」なんだっての
わかんねえ奴っちゃなあ 陶磁器と絹織物、ついでに茶
これが中国の三大輸出品だ >>469
>中国絵画が伝わってミニチュアールになったりいくらでも西に流れてるがな
それはイスラム教が原因
マホメットが偶像崇拝を禁止したおかげで、中近東では絵画が衰退してしまった
そこにモンゴル帝国が中国人の絵師を連れてきたため、絵画が復興した 漢方薬は輸出されなかったのかな?
乾燥帯で物産が乏しい中東からは良い薬草は取れなさそうだし 医学・薬学はイスラム文明圏の得意分野で圧倒的だった
千年前のバグダッドには、入院施設や外科手術の施設を備えた大病院があり、医師や看護師・薬剤師が分業して患者の治療に当たってた
イブン・シーナーの「医学典範」は、何百年も西洋で教科書として使われ続けた >>469
陶磁器もそうだけど絵画なんてあんたがあげた>>468美術そのものなんじぁねえの?
織物はファッションにも該当するよな 中国では、そういう科学的な医学は発達しなかったが、広いだけに薬草の品揃えは豊富だった
漢方医学というのは、薬草がメイン
中国人は科学的・抽象的な思考が不得手だが、薬草の効能のような経験知は得意だ
もっとも、そんな漢方医学も西方に影響を及ぼしたという話は聞かない https://www.waseda.jp/inst/weekly/news/2021/05/13/86202/
>時の権力者が東側の美術をより好み、絵画のみならず中国製の
>陶磁器や玉器を収集・模倣していた形跡が強く残っています。
>例えば、15世紀のイランで描かれた絵画(図を参照)に登場する
>人物は、龍や鳳凰(ほうおう)の文様の織り込まれた雲肩(中国で女
>性の肩周りにつける飾り)や補子(中国で官位を表すために補服の
>胸と背中につけられた四角い刺しゅう)など、当時ティムール朝で
>流行していた中国の服飾を身に着けています >>475
> 陶磁器もそうだけど絵画なんてあんたがあげた>>468美術そのものなんじぁねえの?
だから、それはイスラム教のせいで絵画が衰退しきってた13世紀の話だ
隋唐時代の中国絵画など、西方に何の影響も及ぼしていない
つくづく、わかんねえ奴っちゃなあ >>477
いつの時代の話をしてるんだ
唐の話じゃないのかよ?
何なんだ、お前は?(笑) >>475
> 陶磁器もそうだけど絵画なんてあんたがあげた>>468美術そのものなんじぁねえの?
> 織物はファッションにも該当するよな
工業製品としての陶磁器を製造する技術は、中国が世界最高だった
でも、デザインが必ずしも高く評価されていたわけではない
派手好みな中近東の人々は、地味な中国の陶磁器に金の吸い口をつけたり、着色したりしていた >>468
ようするに中国と日本の文化の伝流が一方通行なのがオジサンは気に入らないわけだ
そういえば近代以前に日本から中国へと伝わった文化は不思議と一つもないね
高麗や新羅ですら中国美術に影響を与えているのにね >>481
> ようするに中国と日本の文化の伝流が一方通行なのがオジサンは気に入らないわけだ
そういうことだ
やっと分かってきたみたいだな?
「日本は遣唐使を送って、唐から先進文化を取り入れました」
と、小中学校の歴史の教科書からずっと刷り込まれてきたわけだが、それは日本と中国しか見ていないせい
視野を世界大に広げれば、まったく違って見えてくる たとえば、日本人が「中国から伝わってきた文化」と考える代表格の仏像
仏教はインドの思想だし、彫刻はギリシャの美術
この2つがシルクロードで融合したのが仏教彫刻でガンダーラ美術
それが中国に入って、インド風の濃い顔から中国風の薄い顔に変わり、日本に入ってきた
雅楽も同じで、ほとんどがペルシャから伝来した楽器 日本人は唐で、何を最も熱心に学んだか?
加持祈祷と易占だ
「日本人が来ると、経典がみんな売り切れてしまう」と言われるほど、日本人は宗教書を求めていた
唐から帰ってきた留学生は、流れ星を見て「天狗が吠えている」だの、白い雉を見て「縁起が良いので年号を白雉にしましょう」とか、そういう思想を持ち帰ってきた
現代人が考える「先進文化」とはかなり異なる 半島にすら後れをとっていた倭が唐の文物を模倣できるレベルなわけないんだよな〜
百済から瓦博士や寺匠が来るまでオオキミですら竪穴式住居で暮らしてたわけだし
芸術や思想とか1000年はやい 徴税や司法制度から中国や半島のぱくりじゃん
公式文章が外国の文字で書かれているとか恥ずかしくないの〜 >>478
むしろ中国は西域の影響を受ける方だったもんな
敦煌の壁画見りゃ一目瞭然 >>486
> 徴税や司法制度から中国や半島のぱくりじゃん
隋唐の国家体制は、鮮卑が漢人を効率的に支配するために生み出した制度
漢人という支配される側があってこそ出てきたものだ
言ってみれば、中国人や朝鮮人は奴隷
奴隷をコントロールする制度が隋唐の均田制や律令制度 >>486
> 公式文章が外国の文字で書かれているとか恥ずかしくないの〜
漢字を生み出したのは、遥か昔の黄河文明の先住民だ
唐人ではない >>481
日本刀、屏風、扇子、蒔絵、伊万里焼、螺鈿
日本の学者の言うことを鵜呑みにしちゃいかんよ >>486
ぱくりがいかんのなら中国がインドペルシャ西域の影響受けまくったのどーすんの?
中国なんか生活習慣まで西域式になっちゃったでしょ
机椅子の生活にな >>480
デザインはまさに中国が一方的にかぶれて真似てたもんね
それがいわゆる「国際色豊かな唐」の内実だよな 和服はもとは呉服というように元は中国南朝の服装だ
古墳時代の我々の先祖は埴輪を見れば分かるとおりモンゴル族ウイグル族やカザフ族の伝統衣装である
デールにそっくりな服装をしていた
中国以外の外国の文化を受容するにしてもそれは中華ナイズされたものでオリジナルとは大幅に異なっている >>483
その通りですよね
なのに何で日本の学者って隋唐が世界の文化的中心地みたいに言いたがるんだろう? >>492
逆に中国から影響されたものもあるよ
分かりやすいものだと龍をかたどった模様とかな
あと三本足の烏も東アジアがルーツ 日本は唐よりも半島からの影響が多きかった
遣唐使が取り入れて文化は日本で韓半島文化を下敷きにして加上されていき平安中期には国風文化へと変化している >>496
ここに書き込むのは、もっと日本語を勉強してからにしなよ >>496
> 遣唐使が取り入れて文化は日本で韓半島文化を下敷きにして加上されていき平安中期には国風文化へと変化している
「加上」っていったら中国語だな
中国人? 富永仲基
https://kotobank.jp/word/加上説-1289477
…のちその上に黄帝をおき,神々をすべて黄帝の系譜とする百家の言が起こったが,古い神々ほど,新しく上に重ねられる傾向をもつ。日本の富永仲基のいう〈加上説〉であり,中国の神話学の道をひらいた疑古派のいう〈古史累層造成説〉である。
[神話学の方法]
神話は古代史や経典と異なって,本来の文化のなかにあって実修的に伝承されることによってのみ,意味をもちうるものである。… >>499
富永の加上説から分かるのは古い神々ほど新しく上に重ねられる傾向をもつということ
つまり天照の先代とされるような観念的な神々は新しく創作された存在ということだな
太極や陰陽や天地や五行を司る神々として後世の人間が考え出して日本神話に追加されたという話になる ネトウヨは知らぬだろうが加上説といって新しく創作された神々ほど正当性を主張するために古い存在と位置付けられるのだ
これは江戸時代の学者が唱えたものだ
ネトウヨはよく江戸時代を自慢するよな
古い天皇や古い神々ほど後から追加された創作の可能性が高いのだ
神話的天皇というのは権威づけのために作られた後からの追加に過ぎぬ
天照の先代とされる神々も中国思想の影響で天地創生には太極や陰陽や天地や五行があったはずだろという話になって後から入れとかないといけないなと神話に追加された存在だろう
奈良時代に日本書紀や古事記が編纂されたときに日本は天地創生の頃からの歴史を伝えているという権威づけが必要となり太古の神々が神話に組み込まれ神と人の中間的存在の天皇が創作された
富永の加上説で全てが説明できる
ネトウヨが邪馬臺國論争などで古代の天皇や神々を実在のように論争していて草が生えるわ >>501
訂正
お前は中国人でも朝鮮人でもないようだ
単にアタマがおかしいだけだな >>491
日本では、奈良時代の貴族は木靴や革靴を履き、椅子と机、ベッドのある生活らしい。 三足烏は高句麗起源だろう
韓流ドラマのチュモン(朱蒙)を見たものは分かるだろう
サムジョゴ(三足烏)の紋章は高句麗のシンボルであった >>396
そこまでしないと女系親族が強すぎたということじゃね? >>494
東アジア限定では間違いなく文明の中心だからいいじゃんか。
隋唐が他文明圏より劣ってたことをいくら強調しても、
日本は偉くなれない。
日本スゴイなんてぇことにはならぬ。 遣唐使を廃止したために国風文化が生まれたという説明は嘘だな。
遣唐使廃止後も平安貴族たちは唐物や唐様が大好き。 >>506
いや、意外とそうでもないぞ
長安など、内陸部の乾燥気候にあるもともと貧しい土地
周や秦の時代から軍事的には東アジアの覇権を握ってきたが、本質的に辺境の地であることは現代と変わりない
日本のほうが恵まれた土地であることは、当時の人々の目にも明らかだっただろう
日本の古典を見ても、異国の文物への憧れはあるが、大陸へのコンプレックスは感じられない 平安末期の日本人は「日本は世界のハテに位置している」という辺境意識を持ってたが、それは仏教の聖地である天竺から遠いからという話
唐が世界の中心だという意識は、日本人には無かった >>509
>長安など、内陸部の乾燥気候にあるもともと貧しい土地
そもそもこれが間違い >>484
易占は算術や天文学を生む土台。
錬金術から化学が生まれるのと同様。
アイザック・ニュートンだってオカルト大好き神学マニア。
自然科学研究は非科学的なものが動機になる。
ギャンブル好きが確率論を生むなど、
不純な動機でも文明は高まる。 >>509
大陸へのコンプレックスはないけど、
政治制度、通貨、法制度、建築様式、ファッション、音曲、宗教、文字なんかは真似る。
唐風にするとカッコよかった。 >>511
長安が没落するのは安史の乱以後で、
それまでは世界有数の繁栄を誇ってたよなぁ。
現代でも水不足の北京から西安に遷都しよっかという話が出るぐらい
水資源に恵まれてる地域。 遣唐使を廃止したのは公的な貿易が無くなったというだけで薬や香料などは輸入が必要だったから民間船が貿易を担うようになった
博多商人は琉球から江南に向かう航路を利用したらしく喜界島が朝廷の出先機関として活躍した
この航路開拓が琉球王国の成立と何らかの関係があったかもしれない 河朔三鎮の節度使たちは唐王朝の統制に従わない困った独立勢力だけど、
北方の契丹の攻勢から唐王朝を守ってくれる有り難い存在だよね。
藩鎮としての役割をしっかり果たしてるじゃないか。 >>514
今の西安を見て唐の長安内陸部の乾燥気候の貧しい土地だから辺境とか言ったらバグダードどうすんの?って話になるし >>517
今の西安も緑豊か。
郊外の秦嶺山脈に森林公園が広がってる。 >>517
バクダッドは辺境ではない
メソポタミアは緑したたる桃源郷 今の西安(シーアン)は、半導体工場の集積地
コロナで通勤できなくなり生産が減っているらしい 華北が女真族に攻め取られた南宋時代、漢族は中原の開封や洛陽、長安の奪還を目指した
漢民族王朝の故地、という意味以外に水資源的にも魅力的な土地なんだろうか。
江南のほうが水が豊かだろうに >>504
意外だけど甕城 、日本城郭でいう升形虎口も高句麗起源
日本では5世紀の遺構である三ツ寺遺跡が初出
にわか向けの本だと鉄っぽうの伝来から升形虎口が見られるようになったとか書いてあるけど
実際は古墳時代にはすでに半島から伝っている ジャップは緑豊かというと熱帯雨林のような一面の緑のジャングルを思い浮かべるのかもしれないな
そういう場所では米はともかく小麦は育たないのだ
水に困らず日差しは強く空気が多少乾燥しているくらいが農耕に向いた一番豊かな土地なのだ
あまりにも暑く湿潤だとマラリアなどの伝染病も発生するからな
人類最初の農耕文明が中近東で発祥したのには理由がある >>515
>遣唐使を廃止したのは公的な貿易が無くなったというだけで薬や香料などは輸入が必要だったから民間船が貿易を担うようになった
鉄器や銅器もね
日本の製銅技術では満足に良質な貨幣を造れなかったので銅を輸出して銅銭を輸入するという本末転倒なことをやっていた
また江戸時代まで日本では外国ほどの鉄の精錬技術を持たなかったことから中国やシャムからの輸入に頼っていた
南蛮鉃という語があるのだけどあの「南蛮」というのは中国南部や東南アジアのことをさしている そもそも日本とか平安時代になっても京以外に都市らしい都市がない未開の地だろ
百済ですら三十七郡に二百城あり戸数七十六万戸(新唐書220列伝145)高句麗は五部に、百七十六城ありて戸数六十九万
一方倭はというと「國無城郛,聯木爲柵落,以草茨屋。」(その国には城市はない。木柵を連らね草で屋根を葺き村落を形成している。)
辺境の東夷の中でも更に辺境
隋唐に張り合おうなど夜郎自大も甚だしいな >>526
平安京は未完成のまま遷都11年目に工事が中止。
右京はすぐに寂れて農地化。
左京も図面通りの大きさに完成せず。
見栄も大概にしろよな。恥ずかしい。 武則天の思想は日本の国体の原点
日本は正当な武周の後継国だと俺は思う。 ちょいとスレチだが鮮卑王朝って天王とか天皇っていう称号用いたり、周の文化風習に拘りがあるようだが、元はこいつら呉人じゃね?倭人ルートで山東半島から朝鮮半島に脱出してそのまま北上して匈奴に拉致られた一派がほどなくして脱柵して鮮卑山に逃げ込んだやつらの末裔。 逆
天王とか天皇という称号は漢字と一緒に中国から入ってきたもの 安史の乱で崩壊した運河輸送。
これを再建し輸送改革に尽力し、塩専売制改革で財政も再建したのが劉晏。
また使い物にならない租庸調制に替わって、両税法を編み出したのが楊炎。
結局、徳宗は劉晏も楊炎も処刑しちゃった。
徳宗の中興成らず。
節度使たちの反乱で長安を追われ、ごめんなさいの罪己詔を発す。 古代の日本は未開の土地
ネトウヨは近世以降の日本しか知らないからな
それも時代劇で見たというレベルでしかない
日本に地方都市が生まれたのは戦国時代以降
それもごく小規模な町レベルだ
鄙という言葉がピタリとする世界の辺境国だった
半島や大陸から見たら文明のない野人の国だったんだよ 日本をどうこき下ろそうと、唐の文化を一番保存してるのは日本なんだがな。つか古代から中世にかけての日本文化なんてそのまま唐の文化だ
中国人も納得してるし、中国人が京都の街並みの素晴らしさを世界で一番理解できる。 >>529
倭人が周の末裔だとか呉の太伯の末だというのは単なる仮冒でしかない
鮮卑人は墓から発掘された隋の煬帝の遺骨から検出されたハプロはサエモードなどのフィン・ウゴル系と共通するN1系
この集団は遼河で生まれてシベリアに拡散していったのだが故地に残った連中が鮮卑になったのだろう 唐音を一番保存しているのは日本語だけど日本文化に唐要素なんてほとんどないけどな
むしろ宋や明とか古代だと百済や新羅の文化の影響がデカいぞ
半島から伝わった大壁建物とか農家では江戸時代までスタンダードだったぐらいだし 中国人ですら日本文化は古代の韓国文化に唐の文化が混じったものと認めている
京の仏教文化に唐の影響が強いのは事実だろう
ただし禅宗系では主に宋の影響の方が強い
地方に関しては先史時代の渡来人がもたらした半島文化の延長だな 現代中国人は、「日本髪は、唐時代の髪型の影響」だと言ってる。
確かに島田髷なんかと唐時代の絵画の女性の髪型は似てるかもしれんが、偶然の一致だろうさ 古代の倭国は、朝鮮半島南部に進出して支配していた
いまでいう韓国の地は、古代には日本の一部
現代の地図による先入観は捨てたほうが良い 中国の南朝の皇帝も、倭王が南朝鮮を支配することを公認していた 隋書(正史)
「新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來」
意味
「新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している」 唐の文化ってほとんど残ってないじゃない?
そりゃ遊牧民族の征服王朝によって大幅に変わった中国より面影が残ってるかもしれんけど
すでに唐の文化とは似ても似つかない別物になってる そりゃそうだ
中国人が京都や奈良を見て「まるで唐朝みたいだ!」というのは、「古い文化が残っている」という意味。
彼らの唐朝の文化なんか痕跡を見たことしかないから比較のしようがないし(笑) 唐の長安も、新羅の慶州も、昔の文化は石仏とかの痕跡が残る程度
京都や奈良に古い文化が残っているのを、「日本人は古いものを大事にするからだ」という人がよくいるけど、そうではないと思う。
日本だって、明日香村は廃墟になって久しく、「マラ石」とかの痕跡しか残っておらず、慶州と似たようなものだ。
京都は放置されず、ずっと政治経済の中心であり続けたから残った 唐と新羅に共通しているのは、「後世にやってきた北方民族の征服者が、北族にとって都合のよい場所に首都を移してしまったため、廃墟となって放置された」ということ
奈良の法隆寺を見て衝撃を受けた韓国大統領の朴正熙は、「我が国でも歴史的建造物で民族意識を高揚すべきだ」と考え、新羅の故地・慶州に仏国寺を建設した。
「再建した」とは言えない。法隆寺をモデルに想像力をふくらませ、「新築した」というもの 五胡十六国時代に騎馬民族の侵入で華北は混乱し、漢民族は南方に逃れた。
以降、華北の言葉は異民族の影響を受けた言葉になった。
なので、福建や広東の言葉に古代中国語の名残が残っている
っていうのはマジ? 間違ってたわ、文化っていうか、、、国体だ、国体そのものがもう武則天が権力簒奪した時代の唐から周のそれの延長なんだよ。
天皇制の原点は武則天の思想にあるとみえる
照、鳥のトーテム、天皇。
だれか宮司の前で武則天の肖像画ビリビリにやぶってみてくれないかな、反応が見たい。 >>525
銅銭輸入したのは中世は小さな政府になって外国から入手する方が安上がりだってだけだろ?アホか?
奈良平安時代は作ってただろーが >>526
その記述が本当なら朝鮮の人口は近代になるまでほとんど増えなかったってことだろ
そっちの方がやばくないかw >>552
残念ながら日本で大量に取れた硫化銅を精錬する技術を持っていなかった。
あまり取れない酸化銅から皇朝十二銭を製造してたが、すぐに枯渇してしまう。
おまけにせっかく作った銭を鋳潰して銅材にして使う人が続出。
自国産の銅貨の信用度が低いため、本来の使い方が出来なかった。 宋銭を国内で流通させてたのが日本だけならともかく、当時は東アジア全域、東南アジアや中央アジアでも宋銭が流通してたということを忘れてはならない
後の明銭とは違って、銅の含有率が高い良貨だった 明代にも、「日本人は宋銭での支払いを要求してくる」という記録が残っている
宋銭を持ち帰った日本人は、日本で鋳潰して銅として使った >>553
> >>526
> その記述が本当なら朝鮮の人口は近代になるまでほとんど増えなかったってことだろ
実際のところ、「高麗の人口は妙に多かったようだ」というのが、韓国のネットでも話題になっていた 朝鮮半島は高麗の前期くらいが最盛期で、以後は衰退していく一方だったようだ >>553
>その記述が本当なら朝鮮の人口は近代になるまでほとんど増えなかったってことだろ
いわゆるマルサスの罠というやつだな
朝鮮はまだましな部類、イラク何て紀元前10世紀頃から1920年まで人口300万をピーク値として推移していて
19世紀には100万以下になることもしばしばだった 百済は660年から670年まで熊津都督府が高句麗は668年から676年まで安東都護府が
統治していたので正確な統計が唐書に残っている
数値もそのころを反映したものだな >>545
また適当なデマを流しているな
仏国寺は朝鮮総督府が修復したもので戦前にはすでに観光名所になっている
それにソクラムみたいな岩のドームを作る技術は法隆寺どころか明治に入るまで日本にはねーよ >>559
そう考えると戦乱期以外右肩上がりの中国はかなり特殊だな 李王朝時代の朝鮮王国か低迷したのは長年に渡る倭寇の略奪とヒデヨシの入侵が原因 >>562
税制と人口が大きく関係するね。
租庸調制→両税法→一条鞭法→地丁銀制
人頭税、労働税の傾向が強い時は人口が増え難い。 >>566
そうだね。
ただ高句麗、新羅、渤海国は隋唐史に深く関わってるので、切り分けは難しい。
高麗はともかく、李朝の話はいらないよな。
日本スゴイ、朝鮮の方が上の論争は唐代にもあった押し問答。
遣唐使はネトウヨ。 >>567
> 日本スゴイ、朝鮮の方が上の論争は唐代にもあった押し問答。
いや、その論争が始まったのは20世紀末からの話
江戸時代から昭和時代までは朝鮮人が一方的に主張するだけで日本人は相手にせず無視していたが、ここ数十年は日本人も反応するようになったので論争になった >>447
どちらかというと古代仏教は貴族のための宗教。
これに対し、唐中期頃から科挙官僚が出世し始めると、
彼ら儒者たちが激しく仏教を批判するようになってる。
道士主導の廃仏運動だが、
背景に科挙官僚の勢力拡大と、貴族勢力の凋落があると思う。 >>568
唐の正月朝賀の儀式で、日本と新羅が席次を争った事例を言ってるだけなんだが。
最初の席次
東班
第一 新羅
第二 大食(イスラム帝国)
西班
第一 吐蕃
第二 日本
これに噛みついたのが、遣唐副使であった大伴宿禰古麻呂。
新羅より下とはけしからん!!と抗議。
結果、こうなった。
東班
第一 日本
第二 大食(イスラム帝国)
西班
第一 吐蕃
第二 新羅
イスラム帝国より上で、吐蕃帝国と同等。
はっきり言って唐を打ち破った両国より上や並ぶなんて、余りに恐れ多い話だ。
結論、大伴宿禰古麻呂はネトウヨ。 >>570
> 唐の正月朝賀の儀式で、日本と新羅が席次を争った事例を言ってるだけなんだが。
だから、それを「 日本スゴイ、朝鮮の方が上の論争」などではないと言ってるんだが 日本も、バラバラな日本列島各地の勢力を天皇の権威でまとめているんだ。
新羅が日本の天皇に朝貢している事実は重い。
気持ちの問題じゃないんだよなあ >>569
唐が弱体化して、次第に自国文化や宗教を重んじ、外国文化や宗教を排する動きの一方、
周辺諸国も文化面で自立する空気が出てるんじゃないか?
日本の国風文化とか。 >>573
勢力バラバラのまんま白村江の戦いに臨んだんだな。
兵力で上回ってるが勝てない。 体制を立て直して再挑戦したいところだったが、百濟が滅んでしまった >>575
韓愈の仏教批判なんかが有名。
憲宗が崇仏派で仏舎利の供養を宮中ですると、
干からびた骨をあがめるなんぞ迷信の極みと批判して怒りを買い、
極刑になるところだった。
「論仏骨表」には
仏に若しも霊が存在して、
祟りや禍いをなすようなことがあれば、
その咎は臣(私)に宜しく加えよ。
と大胆な挑戦までしている。 >>578
少し違う。
百済が滅亡した後で、兵を出してる。
百済を復活させたかった。 NHKブックス
『天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ』
には、白村江の戦後に日本が唐の占領支配下に入ったとの異説を展開している。 妄想はまず妄想じゃない証拠を出さないとな
中国が占領したら皇帝の功績として大々的に宣伝してたはず >>582
百済残党軍司令官の鬼室福信を
日本が担ぎ上げた百済王子の扶余豊璋が猜疑心から誅殺しちゃう。
これで百済残党軍がガタガタになってしまった。
バカ王子に協力すべきでなかった。 >>585
証拠がNHKブックスの方に書いてあるんだろ。
反論の本を書けばいい。 地続きの高句麗遠征でさえ、あれだけ記録に残ってるのに
古代の船で遠い日本を征服するなど、尋常な大事業じゃないぞ。こっそりできるようなことか >>590
占領云々は自分は否定派だが、
戦後に唐との友好関係が成立し、
急速に律令制国家としての整備・改革が実施されてはいる。
敗戦ショックの危機感が国家体制を変え、倭国から日本になっていく。 日本書紀には
白村江で捕虜になった大伴部博麻、筑紫薩夜麻たちが、
長安に連行された。
長安で唐が日本へ侵攻する計画を持ってることを知る。
それを知らせるために大伴部博麻が自分を奴隷として売り、
その金で筑紫薩夜麻たちを帰国させたことが記されてる。
実際に日本侵攻計画があったとの唐側資料はないと思う。
噂を聞いただけなのかもしれない。 唐に占領されたのかどうかを議論していくと、占領されたと考える派は陰謀論者のレッテルを貼られる傾向がある。
ちなみに俺も占領軍と列島の協力者が日本を建国したと思う。 >>585
唐側に全く記録がないが、
日本書紀に
669年(天智天皇8年)、郭務悰らが軍兵と思われる2千人、47艘の大船団を率いて来日。
長期駐留してる。
672年に天智天皇が崩御したが駐留が続く。
交渉の末、唐軍に大量の甲冑弓矢と絁(ふときぬ)1673匹、布2852端、綿666斤の贈物をすると、ようやく帰国してもらえた。
天智天皇はこの郭務悰率いる唐軍に殺されたという説まである。 唐室の皇族たちって滅亡後どうなったんだろう、なんか文献残ってないですか? >>595
唐の方に記録がない時点でないとしか言えん しじつがんには記載あったような
くとうじょには記載ないね 上のほうで議論になってる席次騒動、
吐蕃やアッバース朝あたりの記録には何も無いのかな
そばづえを食らう格好になったそれらの国の外交官はどう思ってたんだろう
当時の吐蕃やアッバース朝の影響力からいえば、
ユーラシアの隅々にまで「モンスタークレーマー」みたいに見られても不思議じゃないような状況だったんじゃないの、これって >>599
アッバース朝(イスラム教)や吐蕃(仏教)にとって中国の儀礼上の席次など重要ではなかったのではないかな >>595
郭務悰の唐駐留軍が帰国した1ヶ月後に壬申の乱が発生。
何らかの関連が疑われる。
勝利者の天武天皇は在位中に遣唐使を全く送らず、遣新羅使ばかり送ってた。
日本と唐に加えて新羅の思惑が動いてるみたい。 治
顕
旦
重茂
隆基
純
唐の皇族の名前って独特だよね、漢人とは一風違う。結構日本人が名付けそうな名前が多い。日本人は知らない間に感性が唐によっているのでは? 唐と戦争した時の中国の最高司令官が武照と高宗天皇帝なんだよな、ただの皇帝じゃなくて権謀術数でのしあがった女帝が支配する国。匂うわ。 >>602
唐側記録がなければ日本書紀の記述はウソと結論できないよ。
ネットで郭務悰を検索すると
○現地軍の独断派遣で唐朝廷中央に報告してなかった。
○郭務悰軍団とは唐を騙る偽物で新羅軍だった。
○郭務悰が藤原鎌足になった。
まである。
何でもあり状態。 妄想史学を熱烈主張してる人って
陰謀論好きそう
冴えない人生送ってる奴って
俺は邪悪な存在に邪魔されてるんだと
誰かせいにして自分を楽にする傾向があるだよな
そういう奴が邪悪な存在があるとホントにあると
説明しようとして妄想に走るんたわ
妄想史学なんてのはその発展系だな
ひどいのになると悪魔がどーのと言い出す >>605
家に留じこもってググるだけじゃなくて図書館で日本書紀や三国史記、新旧唐書の翻訳を読んでみたら?
唐軍は670年3月から676年11月までの新羅との戦争で20万近い兵士を失い、新羅軍も曉川、義文、山世、能申、豆善、安那含など
の諸将が戦死するという大打撃を受けていて日本なんぞにかまっている余裕はない 日本書紀の記述は書いた当時の事情が大きく反映されてるから書いてあるから事実、と言えないことが多い
唐の将軍が本国に無断で海を渡って長期間滞在したことなんて
当時の唐の実情を考えるとあり得ないことだから、日本書紀の記述を書かせた人間が
唐の将軍か使節が日本に来て関係改善に勤めてたという記録が欲しいからそう書かせた、と考えるのが普通
対中外交方針を敵対から交流に転換するためや政治上のライバルに対する正当性をアピールするなど
唐の使節との交流をでっち上げた方がいいとか 同盟軍も裏切ってちゃっかり都守府建設する唐が、韓国まで進軍して海を渡らずUターンして帰る筈がないと思うんだよな、
倭が国勢を少しでも回復して高句麗についたらやっかいな事になる、隋は高句麗遠征の失敗で滅亡したし。
ただ歴史書に書かれてないってことは、唐の正規軍ではないのかも。武則天からしたら唐の直接の影響はなくとも意のままに動く忠実な部下、家族のような存在
まぁこれは妄想なんだが、 >>607
史料が絶対的に少ない以上、
足りないところを想像するしかない。
それを全部、妄想史観と切り捨てるべきではない。 >>609
アジア全体を見る視点は重要だね。
670年に唐軍は吐蕃に大敗をしてる。
これで朝鮮半島方面に力を割けなくなった。
その間隙に新羅が唐に歯向かうようになった。
天智天皇在位中は唐に恭順するだけだったが、
672年の壬申の乱以後、天武天皇は唐に距離を置くようになった。
一方で唐に歯向かう新羅に近づく
在位中に遣唐使を全く出さなかったが、遣新羅使を何度も出してる。 >>569
宋が成立する遥か前から予兆はあったのか! >>612
「記録に残ってない」というのが、最も雄弁な記録だったりするんだよな >>615
記録がないことをどう解釈するかは想像しかない。 >>617
文教大学の中村修也教授が根拠を提示してるじゃん。 >>619
中村修二教授の論文前にも同様のが誰かいた。
少数派ではあろうが、妄想呼ばわりは良くない。 日本語タミル語起源説とかも学者が唱えてるけどほぼ妄想
日本語学や言語学の学会では相手にすらされてない
そもそも提唱してる学者がその分野の専門家ではない
それと同じようなものかと >>616
いや、そんなことはない
「記録が無い」ということは、「無かった」と推定するのが普通
それをあえて「有った」と主張するには、それなりの根拠が必要だ >>626
ただの趣味。
本人でも学会関係者でもないのに疑われるほど偉くもない。 >>624
出兵したとされる中国に記録がないのが何よりの根拠 >>628
日本書紀の記述をなかったことにはできないよ。
郭務?については何度も登場するし。
天智天皇3年目(664年)、天智天皇4年目(665年)、天智天皇8年目(669年)、天智天皇10年目(671年)。
(後ろ2回は重複説と重複はあり得ない説あり)
3〜4回、倭国に来てることになる。 >>629
> 3〜4回、倭国に来てることになる。
唐からの外交使節だな >>630
後ろ2回が2千人規模の兵を伴っていた。
重複はあり得ない説では、
我が国史上初の外国軍の上陸・進駐という超国家緊急事態に関して、
わずか2年違いで重複記事を記すことは有り得ないと考える。 旧唐書 新唐書 資治通鑑 三国史記
外国史書のどれにもそれらしき記述無いのはどう説明するわけ >>632
郭務?の上司、上官の劉仁願については中国側記述があるんだけどね。
郭務?の文字列すら全く見つからない。 >>614
唐宋変革というか、
国際主義から国粋主義の傾向なんかは、
唐中期に予兆があるんじゃないかな。 >>629
>>610
残念ながら信憑性は裏取れて初めて認められるもの
日本書紀に神々の事も書かれてるけどそれも全て史実だと言ったらまず誰にも相手にされない >>635
日本書紀の天智天皇の部分の多くは他国文献や考古学等で裏が取れてるだろ。
事実を隠したり、塗替えの可能性はあるが、神話扱いまではないだろ。 >>636
だから他国の史書から裏取れてない部分は信憑性ないと言ってるじゃん
唐の立場から見れば指揮官が2000人を連れて日本に進駐して数年間駐在して貢物まで貰ったことを
隠蔽する理由も必要もないし、あったらむしろ大々的に宣伝する功績なのに全くないってことは
そもそも無かったとしか言いようがない
日本書紀が書かれた8世紀の日本では唐の使節が日本に来たという記述が必要だったから
史実の人物に虚構の部下をでっち上げて書いたというのは一番辻褄が合う話 >>637
他国文献と完全に一致する方が少ないのでは? 唐の人物なのに唐の史書になく出来事自体もないとなれば話自体無かった
そもそも唐の史書だけでなく関係者だった朝鮮半島側の史書にもない >>639
日本側だけしかない記録も結構あるだろ? >>640
だから唐の人物なのに唐の史書にない時点で話にならない >>640
いくつか言ってみて
そしてそう言った記録で史実として証明された例は? >>642
上で話題になった賀正の席次争いは他国文献にないんじゃないか?
このエピソードは虚構だという人もいる。
絶対にあったと証明できないが、
絶対に無かったと証明することもできない。
どちらも、ただの説だよ。 いやでも日本側に記述があるんだからなかった事にはならんだろ、そんな記述すら信用できないなら日本書紀なんて何一つ信用する事のできないただの奇書じゃん。
日本にやってきた軍隊は非公式で非正規の軍隊だったのでは? この手の妄想史観の信者ってムーとか一生懸命に読んでそうなレベルの人が多そう >>644
>いやでも日本側に記述があるんだからなかった事にはならんだろ、そんな記述すら信用できないなら日本書紀なんて何一つ信用する事のできないただの奇書じゃん。
裏取れない記述に信憑性はない
いくら粘っても意味ない >>631
> 後ろ2回が2千人規模の兵を伴っていた。
たったの2千人で倭を占領できるわけないだろ では唐人が渡ってきたらしい記述は無視するのが正しいというわけか?んな馬鹿な >>647
天智天皇は唐に恭順する意を示していたから、十分だろ。
唐側も半島情勢激変で日本の協力が欲しい。 鬱陶しいな
義経ジンギスカン説とかもこいつにとっては反証できない説になるのか
ただの作り話 >>650
一応、日本書紀にある記述。
ジンギスカン伝説のレベルではない。 >>651
伝統ある手法かもね。
異国の政権を残したままの間接統治。 >>652
同じレベルだろ
唐側に記録なくて日本側が勝手に言ってるだけの話だから 日本書記に、「倭は唐軍に占領されました」と書いてあるのか? >>653
> 伝統ある手法かもね。
> 異国の政権を残したままの間接統治。
だから、「それを占領とは言わない」と言ってるんだが? >>656
呼び方は知らない。
事実上の支配下。
唐式の律令国家制度に作り変えられる。 唐の史書に記録はない、だけで十分なのに、自分の妄想の方向性と一致するから粘る人って
ラノベも根拠にしてしまうタイプかな
唐が新羅と朝鮮半島で戦ってる最中に部隊の指揮官が無断で2000人の兵を連れて海を渡って
数年間日本を占領統治して国の制度を作り替えてさらに貢物をゲットしてから帰る
しかもその間の出来事は唐の朝廷はもちろん新羅も知らず全て指揮官の独断でという設定
これを事実だと思える人間は妄想癖があると言われても仕方ないね >>659
その記述の元ネタというか
なんのためにそんなことを書き込んだのか
については興味があるけどね >>654
日本書紀にのみあって、中国側にないものなんていっぱいあるだろ。
反対に中国側にあって、日本書紀にないものや矛盾してるのもいっぱいある。
例えば遣隋使や遣唐使も両者で合致してなかったりする。
「隋書倭国伝」の600年の倭王(男)と推古天皇(女)とが合ってなかったりする。
「旧唐書日本伝」で、日本国は倭国の別種(別の国)だし。 >>661
だからどうした笑
他にもあるから唐による占領が事実だとでも?
論理が成り立っていない。 双方の記録を照合して裏を取って信憑性を確認出来たものしか説として認められてない
>>661の主張通りなら日本になく中国にあるというものを全て真実として認めないといけないけど
そうすると日本の史実が否定されることになるけどそんなアホな話はないよなw >>662
日本書紀によれば少なくとも唐軍駐留があった。
事実でないと決めつけられない。 >>664
唐側の記録にはない
事実と決めつけるな笑 唐の人物と出来事だから唐の記録を重視するのが当たり前だろう
常識もないのかキミ たったの2千人で倭を占領できるわけないだろ。いくらなんでも少なすぎる
日本書記にある誇張した記録でさえ2千人なのだから、実際にはもっと少ない >>665
事実だと決めつけられない。
事実でないとも決めつけられない。 そんな曖昧な理由て妄想垂れ流すのが許されるのなら
阿倍比羅夫が実は遼東半島を占領していたとか
何でもこじつけの話作れそうだな
何せ史書に書かれてなくても◯◯の状況なら
ありえなくはないで話が成立しちまうんだから >>669
事実と決めつけてるのはお前
普通の人間は可能性が極めて薄い創作の類と判断する 0か100かしか考えられない馬鹿がこのような極論に走る 上杉謙信女説とかも
事実でないとは決めつけられない
よって上杉謙信は性別不詳とすべき
とでもいうのかね ◯◯の状況なら◯◯は成立する
何でも当てはまるぞ
上杉謙信は実は女だった
源義経は成吉思汗だった
ナチスはユダヤ人の自作自演だった
明治維新はフリーメーソンの陰謀だった
広開土王碑は日本軍によって改ざんされていた
明治天皇の正体は大室寅之祐だった
創作歴史を作り放題だな 唐の絵画に古墳時代のミズラみたいな髪型の若者がよく描かれてるけど、あれは男装の女性なのかな? 唐の絵画に古墳時代のミズラみたいな髪型の若者がよく描かれてるけど、あれは男装の女性なのかな? なんで隋の表記が揺らいでるんだwwwww
『これ、おかしくないか…髄の表記どうしよう…』 ツングースに似てる人いるじゃん?
🇱🇹リトアニアとか、🇧🇾ベラルーシとか。
ハプログループN
この人達が一番唐に近いのでは?
遺伝子比較すると🧬
中国なんか混血しちゃってるだろw 安史の乱以前に
文言文で書かれた文章見つからないから。
入れ替わってるんだろう。後唐で。
言語同じだとは思えない。漢文と中国語は。 >>680
13〜14世紀に、モンゴル帝国から反主流派のモンゴル人やらタタール人やらが、部族単位・騎兵団単位で結構な数がリトアニアに逃げ込んでるで。
リトアニアは対蒙・対露防衛の軍務と引き換えに族長クラスを貴族待遇で迎え入れて重用していた。 唐は鮮卑系の王朝
中華の歴代政権はみな外来種族
中国人がやたら持ち上げる明なども
漢人皇帝は初代の太祖だけで次の永楽帝は
高麗人女性と元の皇帝トゴンテムルとの子
つまり韓国人とモンゴル人の混血の皇帝 リトアニアだけでなく、東欧はモンゴル系やトルコ系との接触が多い
アヴァール人の遺伝子調査で、彼らと柔然が同一種族と分かったのが最近
古代の漢語で烏恒はアウァールと発音する
中国人は静音と濁音を区別しないから、アヴァールもアウァールになる
東ローマ人はアヴァールをジェジェンと呼んでいたが、これは柔然のことだね
アヴァール=烏恒・柔然
これでほぼ確定だよ モンゴル帝国が中央アジアの城市を攻めるときに、支那式の現地組み立て式の攻城兵器と支那人の歩兵とを多数連れていっていて
効果的に城塞都市を破壊して侵略していた。
攻略すると、そのまま支那人の歩兵を屯田兵として住まわせた。
ロシア・東欧の城市を攻略するときも、中央アジアに居た支那人の歩兵を再度徴用して投入。
日本を攻めた元寇も、うまく侵略すればそのまま住まわせる手筈で、支那人の兵員には開墾ツールも持たせてた。
失敗して、蒙古人高麗人は斬首、宋人は強制送還になったけど。 >>684
知らなかった
それでリトアニアは強大化したのか >>688
モンゴルが本格的にロシアを攻めだしたあたりから、タタールの軛が崩壊する辺りまで、
波状的に何度も来ている。
中身も、カザフステップのキプチャク人のうちモンゴルの支配を良しとしない人たちだったり
当の攻めいてるモンゴル人等極東出身者だったり、モンゴル支配期に寝返ったり、
政争に敗れて落ち延びてきたりだったり、中央アジア直送のバリバリの遊牧民だったり、
ロシアを統治に出されてる間にスラブ化して殆どロシア貴族というような人だったり。 マジで唐の絵画に出てくる日本のミズラみたいな髪型気になるわ >>691
> 親父の愛妾とやっちゃうなんて煬帝やばすぎる
儒教の倫理観ではヤバいのだが
遊牧民の倫理だと、父の未亡人を娶って面倒を見るのは別におかしくない
武則天も、太宗の死後は高宗の妃になった
隋唐王朝の上層部が、いうほど漢化していなかったと推測されるのも、こういう遊牧民的な行動パターンが随所に見られるから
煬帝や武則天が後世の儒者からメチャクチャに叩かれ、極悪人とされた大きな原因にこれがある
遊牧民の倫理観として一般化するならもっと事例を出さなきゃね 隋と唐はなぜ朝鮮半島にあれだけこだわったのでしょうか? こだわってたのは、半島じゃなくて高句麗
いまでいう遼寧省、東北部の満州の地 高句麗は、もともと満州の地にあったのが、
南下して北朝鮮に領土を広げた国
隋や唐がこだわってたのは満州の地 >>696
高句麗は中国の歴史においては「外国」という認識ではなく地方政権という扱いだから、隋唐といった中国の統一政権においては征服すべき存在であったといえる 唐には官人の位階に応じて農地の私有を認める官人永業田の制度があり、官人が私財を
投じて開墾した農地を子孫に伝えることができた。
これに対して日本の令で永代世襲できるのは、特に功績ある官人に与えられた
大功田だけだった。 >>702
昨日買ってしまった。
これから読んでみる。 >>704
自己レス。
やっと読み終えた。
政治史中心で読みやすかった。
李淵の建国にソグド人が関わってたことは知らなかった。
交易の民で胡文化をもたらしたぐらいにしか知らなかったもので。
やっぱり唐は女が強いな。
建国時に李淵の娘の平陽公主の娘子軍が先陣を切るのを始め、次々と女傑が登場する。 中国の古来国家は文字記録がなかったり、焚書がおきたせいで神話化してしまった
中国戦国ー秦帝国まで文字、システム、識字は発達したが焚書が2回おきた弊害で、歴史と記録が空洞化した
史記をつくる由来は2回焚書が起きて記録欠如したのが理由だ。中国の古代史がやたら空想やファンタジーが混在するのは記録文化が焚書できえたせい
このせいで中国のBC1300-200年の文字と記録は大きく遺失したせいで中国の歴史、物事、記録というのが空想混在の不正確となり学問の証明、記録、正確性が逸脱
そして漢代はこのあやふやさ+財政社会混乱で儒教が栄えた結果、中国のシステム、科学あらゆるものが混迷を極める
中国漢代までの1500年ほどの歴史にたいして文度が有耶無耶で制度が混乱するのはようは焚書のせいで歴史と学問のルーツが崩壊したせいなのだ
結果中国は混迷を極めた前漢崩壊→後漢以後にできた文字、システム、記録から始まる国家で、それまでの1500年のノウハウを遺失したといえるのだ
そして唐国時代は漢代で雑だった制度を論理化、合理化、改定を達成したいる王朝であり、中国は唐ー南宋までは継続的に学問と科学が発達する
しかしそれもモンゴル襲来で失われた 中国の歴史上の文字、記録、物事システムは基本的に欠史、焚書、学者の遺失などで持続発展性を欠いた
バグダット陥落、虐殺的な文明喪失は中国で何回も起きた
中国社会と学問はそういった歴史の中で、その学問やファンダメンタルズの根幹的な原理は
①記録と出来事が不確かだ
②ここに裁量的、融通的な思考で雑に柔軟に解釈する。こういう思考は儒教的でもある
③結果社会全体の数字や経営が狂い社会統計が不確実
④この体質は漢から共産党まで一貫してある。戸籍と人口把握がいい加減なのは漢代から
こういう気質が中国社会中枢の思考にあり、結果裁量で数字を作る気質がスタンダードで社会政策は常に狂い続ける
製造業でいえば検品をおこたり異様にスキップとコストカットする
この欠陥構造は2000年間変化なし ↑全然違うでしょ
中国の歴史記録は世界有数の古さであって
ヨーロッパでも驚きをもって捉えられた要素
記録や文字史料が豊富に残されてることがむしろ中国文明の特色なのに
記録や文字史料がないことが中国文化の欠陥みたいなのは単純に論理破綻しとるよ 発掘された戦国竹簡とか見るにほとんど普通に伝承できてると思うが… そもそも司馬遷が史記を編纂するにあたっての元資料が戦国時代からの歴史記録だし >>708
各王朝の人口を推計するに戸籍があるだけマシ。
他地域のほとんどはそれすら存在しない。 司馬遷と斉の桓公は、我々と足利義満くらい時代が離れている
それなのに、その場で見てたかのような描写ができた 安史の乱の犠牲者数を3600万人とするのは、納税記録に基づく。
実際の死者は1300万人程度ではないかという推計もある。
どちらにせよ膨大な人命が失われたことで安史の乱の前後で唐の様子は全く変質したであろうと理解ができる。
戸籍資料は人口の実態を完全に正確に捉えたものではないが、
大体の傾向を知ることは可能だ。
これだけの史料が残ってるのは他地域ではないだろ? >>715
他人様にオネダリする前に手前ェで立てろ。
どうせ書込数一桁で止まって廃スレ化するだけだろうがな。
駄スレ乱立荒らしと同じだ。 微妙にスレ違いかもしれないけど二つ質問させて
1)三国では魏が最強だったのに、
煬帝が大運河を造らないと北部を賄えないほど衰退したのって
やっぱり五胡十六国から北朝の動乱が極度に荒廃させたから?
2)長安が西安になるほど衰えたってのは、モンゴルが食い散らかしたから?
どっちも直接的には隋唐から外れてはいるけど、
隋唐の洛陽と長安がどっちにも関わっているから許して >>717
一つの切り口として、気候変動史や自然災害史と照合してみるのも面白いかもしれない。
所詮人為は自然環境条件で規定されるものだから。 安史の乱の後の唐朝は、応仁の乱の後の室町幕府に似ている >>717
長安が衰えるのは唐後期に始まってて、モンゴルは関係ないのでは?
シルクロードのルートがモンゴル高原を抜けるステップコースが栄えるようになって、長安が凋落する。
替わりに交易幹線を把握する北方諸民族が次々と興隆し、やがてモンゴルが登場するようになる。 そう、それ
もうシルクロードの時代じゃなくなった
北京を起点とする高原ルートが主流に
なったため、長安からの砂漠ルートは
相対的に衰退した
あくまでも相対的な衰退であって、
なくなったわけじゃないが 海洋貿易が盛んになり、福建省や広東省の港が発展した 内陸部の衰退と、沿海部の発展は
現代に始まることではない
ある意味、それは中国大陸の歴史そのもの >>725
黄巣の乱の際に、広州のイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒などの20万人が虐殺された。
唐代に多くのアラブ人、ペルシャ人、インド人が広州に住むようになってた。
唐中期以降に排外主義的な空気が生まれ、唐末に大虐殺という結果となり、国際交流が一時断絶する。 唐前期から皇帝たちや武則天は洛陽に行ってることが多い。
長安に戻ろうとしない。
長安の食糧が足りないこともその原因の一つ。
既に長安衰退の兆しがあったのかもしれない。 >>728
兆しどころか唐の最初からとっくに貧しい地方になってる
それなのに昔からの惰性で無理矢理長安に都を置いた >>729
宰相裴耀卿の漕運改革で長安への穀物輸送が順調になったため、
長安の食糧問題は一応解決できた。
唐が長持ちできた理由の一つがこの漕運改革にある。
かつては正丁800万人のうち400万人が帝国各地で物資輸送に駆り出されていた。
均田制の崩壊で正丁を集めることが困難になり、
労役方式ではなく、庸などで納税させて、代わりに人を雇うシステムになった。 長安は、対・突厥の防衛拠点としても
西域との交易拠点としても重要だった
後の時代には、そのどちらも北京に移る 隋の煬帝も、江南に行幸したまま
帰ってこないので事実上の遷都
そのスキを突いて李淵に長安を乗っ取られた その洛陽も、五代十国期には辺境と化した
北朝は開封に首都を置くのがスタンダード
洛陽に遷都しようとして「なんと時代錯誤な」と反対された皇帝もいた なんだか中国史やってると『北宗』なんて割と最近に思えるのに
実際は遥か千年前なんだよな
そんなに距離がない洛陽から開封に軸がシフトしたのって
意外と川とかの自然環境に左右されたのかもな >>739
意外と、ではない。
ヒトの動向は全て自然環境条件によって不可抗/不可避に規定される。
人為の根源的動機を突き詰めれば必ず自然環境条件に帰結する。
他の生物と何ら択ぶ所は無い。 穀物の品種改良は自然に対してめっちゃ抗ってると思う
例えば日本で北海道でも育つ稲が平安時代にあったら歴史が相当変わりそうだ
中国も穀物の品種改良で漢民族が北進したのかな? >>741
シベリアにいた漢民族が南進して華北にいついた >>743
いったいいつの時代を考えてるねん
戦国時代頃でもまだ漢人なんていう民族はてきてないで 現代の中国人は唐の時代に憧れているらしいけど、この時代の
中国の将兵は、短期間に西アジアから東アジアまで移動し、
西はアラブ兵・ペルシア兵、東は倭兵にいたる、ほとんどの
民族と対戦していた。覇権国家というのも楽ではないよな。
19世紀のイギリスや、現代のアメリカ合衆国を見ていても
わかるけど。 >>746
諸民族と対戦ばかりしてたわけでなく、
諸民族の協力や助力も得てた。
突厥やソグドの援軍がなければ建国すらできない。
ウィグルやアッバース朝イスラムですら利を求める思惑から朝貢したり援軍を送ったりする。
元々、唐王朝自体が鮮卑・拓跋であって、騎馬民族の機動力、長距離移動力を有してた。 >>746
> 現代の中国人は唐の時代に憧れているらしいけど
「唐朝」っていうバンドに人気が出たくらいだからな
唐朝の動画を見ると、画面に映るのは砂塵に埋もれかけた廃墟の風景ばかり
これが中国人にとっての唐代のイメージなんだってことが、よく分かる
https://youtu.be/Zk6OXjK1loQ 日本では、京都や奈良に昔の風景がたくさん残っているが
唐の長安や新羅の慶州は廃墟となり、ずっと後で再建された
これを、「日本人は古いものを大切にするから」という人もいるが、そうではない
京都は、平安朝の後もずっと日本の中心地であり続けたが、長安や慶州は完全に中心から外れた辺境になってしまったのが原因 中国は風土の変容がダイナミックだよな
それでも中心地が変わるだけなんだから漢土の広さよ >>749
汝や知る都は野辺の夕雲雀
上がるを見ても落つる涙は 西安地域は砂漠なんかではない。
秦嶺山脈のお陰で河川網が充実してて水が豊富。 唐が晋陽からおこって長安に入ったときに、突厥騎兵の
援助を受けていた 武則天は武氏の周朝を建てたが
東突厥から異議が出され、
その軍事的圧力に屈して、
李顕を皇太子にせざるを得ず、
唐王朝の復活に繋がる。 きっと唐とは鮮卑・拓跋と突厥とソグドの連合政権であって
漢人王朝ではなかったんだよ。 >>755
もう二十年も前に杉山正明らが指摘したことを、何を今更。
安禄山と史思明はソグドと突厥の混血。
安史の乱の後は鎮圧で功績のあるウィグルやアラブ兵が我が物顔で狼藉を働く。
すっかり外国人嫌いになってしまい、
国際色豊かな気風が消えていった。
安史の乱後の唐は別種の国に変貌した。 唐代に、契芯何力という鉄勒出身の武将がいた
太宗に拾われた恩義を感じ、当時、周辺の諸民族の反乱の
ほとんどの討伐に加わって数々の武勲をたてた
太宗が死んだとき、殉死しようとして高宗に止められ、引き続き、
高宗の時代にも周辺諸民族の討伐に大いに活躍した
彼は死後、并州大都督に追任され、昭陵に陪葬されるという、
武将としての最高の栄誉に浴した >>759
自分は中国SNS詳しくないんで未確認ですが・・・
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/army/1679996121/729
729 名無し三等兵 sage ▼ 2023/06/24(土) 12:22:14.67 ID:CHrwxUgU
ロシアのロストフナドヌーでプリゴジンによる反乱が発生。
中国SNSでは安禄山がトレンドになっている模様。 玄宗の時代、唐の正規軍ではとうて周辺民族に対応しきれなくなり、
次第に周辺民族に冠位を授けたので、唐の軍勢はウイグル・雲南
(南詔)などの周辺民族の傭兵が主体になってくる。 >>762
大燕建国を宣言した安禄山は北京帝国の始まりだな。
河朔三鎮と呼ばれる節度使たちは安禄山の部下ばっかりだし。
幽州節度使の後継が遼で、成徳軍節度使と魏博節度使の後継が五代十国の王朝のいくつかとなる。
契丹や沙陀族による征服王朝であり、
この流れが女真族やモンゴルの征服王朝につながる。 則天の時代、吐番など周辺遊牧民が力を増し、唐そのものが
攻められるような事態になっていったのは、唐の建国当初の
将軍たちが老いて次々に引退・死亡するという事情もあったのかな? >>90
国忠のせいだろ
乱後の安禄山の錯乱ぶりみれば自分から叛乱するだけの度胸のある人物ではなかった 支那に民族魂を売った隋唐は北魏の後継にあらず。
日本こそ北魏! 中公新書 「隋―「流星王朝」の光芒」
平田陽一郎 著
今年3月に出た「唐」が290年間を379ページ、「隋」が38年間を314ページ。
粗密が随分あるなぁ。
「唐」はおよそ2ヶ月で読み終えたが、「隋」はどのくらいかかるかなぁ? >>767
あ、そういえば東方書店「北魏史」も第1章を読んでそれきりだ。
漢や唐と比べて登場人物の名前になじみがないのでさっぱり進まないw さらに記述年代を行ったり来たりしてるのもいらいらのもと 唐から皇帝の帝号は突然長くなり出した
朝廷のお役人達はその時点までの帝号をちゃんと覚えてたのだろうか
(高祖)神堯大聖光孝皇帝
(太宗)文武大聖大廣孝皇帝←(太宗)文武大聖皇帝←(太宗)文武聖皇帝
(高宗)天皇大聖大弘孝皇帝←(高宗)天皇大聖皇帝←(高宗)天皇大帝
則天順聖皇后
(中宗)大和大聖大昭孝皇帝←(中宗)大和大聖皇帝←(中宗)孝和皇帝
(睿宗)玄真大聖大興孝皇帝←(睿宗)玄真大聖皇帝←(睿宗)大聖真皇帝
(玄宗)至道大聖大明孝皇帝
(粛宗)文明武徳大聖大宣孝皇帝
(代宗)睿文孝武皇帝←(世宗)睿文孝武皇帝
(徳宗)神武孝文皇帝
(順宗)至徳弘道大聖大安孝皇帝
(憲宗)昭文章武大聖至神孝皇帝←(憲宗)聖神章武孝皇帝
(穆宗)睿聖文恵孝皇帝
(敬宗)睿武昭愍孝皇帝
(文宗)元聖昭献孝皇帝
(武宗)至道昭粛孝皇帝
(宣宗)元聖至明武献文睿智章仁神懿道大孝皇帝←(宣宗)聖武献文孝皇帝
(懿宗)昭聖恭恵孝皇帝
(僖宗)恵聖恭定孝皇帝
(昭宗)聖穆景文孝皇帝
昭宣光烈孝皇帝 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています