JAL123便のクルーについて語る

1名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/29(月) 02:32:46.27ID:N7yI/3Ou0
今年も慰霊の夏が近づいてきましたのでスレを立てました。

クルーについて熱い思いを語るのは自由ですが、亡くなられた方への尊厳や
ご遺族への配慮を忘れないよう、よろしくお願いいたします。

2名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/29(月) 02:33:21.86ID:N7yI/3Ou0
昭和11年1月2日生 宮崎県延岡市出身
京都市内の高校を中退後、海上自衛隊、富士航空、日本国内航空を経て
昭和41年12月1日、日本航空入社
ボーイング式747型(昭和50年7月1日取得)の他YS-11、B-727、DC-8の操縦歴
がある
昭和52年6月16日副操縦士に左席で操縦を行わせ得る機長の認定を取得、教
官に
総飛行時間12,423時間41分(B747は4,842時間22分)
事故当時千葉市宮野木在住、夫人は元日航CA、長女はJALI現職CA、次女は元
JAL職員
阪神タイガースと冷やし中華が好き 享年49歳

3名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/29(月) 02:34:00.11ID:N7yI/3Ou0
副操縦士 佐々木祐(ささき ゆう)
昭和21年生月日不詳 出生地不詳
国立東京工業大学工学部を卒業後の昭和45年4月18日日本航空入社
ボーイング式747型(昭和54年5月23日取得)の他DC-8の操縦歴がある
レフトシート副操縦士の認定を昭和59年6月4日に取得し機長訓練生に
総飛行時間は3,963時間34分(B747は2,665時間30分)
事故当時千葉県四街道市在住、夫人は元日航CA、長男は現職JALI副操
縦士(B777乗務)
学生時代は何か運動系の部活で実績があったらしい

4名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/29(月) 02:34:31.84ID:N7yI/3Ou0
航空機関士 福田博(ふくだ ひろし)
昭和14年生月日不詳 山梨県八代市出身
同市の工業高校を卒業後の昭和32年4月1日日本航空入社
整備士を経て昭和40年より航空機関士に(9月8日取得)
ボーイング式747型(昭和47年11月7日取得)の他にDC-6、B727、DC-8の
乗務歴がある
総飛行時間は9,831時間03分(B747は3,846時間31分)
事故当時千葉県佐倉市在住、子息がJAL現職副操縦士との情報有
事故当月に実家に帰省した際、親族に「これからはもっと多忙になる」
と技術教官としての近況を語っていたらしい

5名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/29(月) 02:35:20.52ID:N7yI/3Ou0
2.6 乗組員に関する情報
  2.6.1 運航乗務員
    機  長    男性   49歳
    日航入社                         昭和41年12月1日
    定期運送用操縦士技能証明書  第1125号   昭和44年7月4日取得
      限定事項 ボーイング式747型          昭和50年7月1日取得
             陸上単発、陸上多発、YS−11、B727、DC−8
    副操縦士に左席で操縦を行わせ得る機長の認定  昭和52年6月16日取得
    第1種航空身体検査証明書  第12810242号有効期限                    昭和61年1月18日
    総飛行時間                        12,423時間41分
    同形式機飛行時間                     4,842時間22分
    最近30日間の飛行時間                     53時間46分
    最近の訓練
      救難訓練                       昭和60年3月19日
      地上訓練(座学による)               昭和60年1月30日、3月26日
      飛行訓練(フライト・シミュレータによる。)     昭和60年6月27日
    最近の審査
      技能審査                       昭和60年6月28日
      路線審査                       昭和60年2月5日

6名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/29(月) 02:35:59.79ID:N7yI/3Ou0
副操縦士    男性   39歳
    日航入社                          昭和45年4月18日
      定期運送用操縦士技能証明書  第1125号  昭和59年6月20日取得
        限定事項  ボーイング式747型        昭和54年5月23日取得
                陸上単発、陸上多発、DCー8
    レフトシート副操縦士の認定              昭和59年6月4日取得
    第1種航空身体検査証明書  第12553779号
      有効期限                        昭和60年11月11日
    総飛行時間                         3,963時間34分
    同形式機飛行時間                     2,665時間30分
    最近30日間の飛行時間                    46時間47分
    最近の訓練
      救難訓練                       昭和60年4月5日
      地上訓練(座学による)               昭和60年4月8日、4月16日
      飛行訓練(フライト・シミュレータによる。)     昭和60年5月5日
    最近の審査
      路線チェック                     昭和60年7月19日

7名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/29(月) 02:36:27.82ID:N7yI/3Ou0
航空機関士   男性   46歳
    日航入社                          昭和32年4月1日
    航空機関士技能証明書  第266号         昭和40年9月8日取得
      限定事項 ボーイング式747型          昭和47年11月7日取得
             DC−6、B727、DC−8
    第2種航空身体検査証明書  第22552133号
      有効期限                        昭和60年11月13日
    総飛行時間                         9,831時間03分
    同形式機飛行時間                     3,846時間31分
    最近30日間の飛行時間                    41時間26分
    最近の訓練
      救難訓練                        昭和59年11月14日
      地上訓練(座学による。)               昭和59年10月5日、11月28日
      飛行訓練(フライト・シミュレータによる。)     昭和60年2月10日
    最近の審査
      路線チェック                      昭和59年8月27日

8名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/29(月) 02:37:00.22ID:N7yI/3Ou0
当時の新聞コラム
◆機長のボトル◆
高浜雅巳さんの家族5人がそろって暖簾をくぐるのは、決まって夕方の6時ごろだった。
千葉市栄町の一角にある、大ちょうちんが看板の焼き鳥屋の、奥の4畳半が定席だった。
手羽先、しそ巻き、つくねにネギマ。
マスターのが運んでいくと「子供たちの試験が終ったんですよ」などと奥さんがいい、
ご主人は、わきで「よっく勉強したからな」なんて、ニヤニヤしたりしていた。
ジャンボの機長をしているとは、聞いていた。
でも、まさか落っこちるなんて。
8月12日の晩、テレビで事故を知ったときのマスターは、もう、驚いたなんてモンじゃなかった。 高濱さんが始めて店に来たのは、54年秋の開店直後だった。
マスターの親友に同僚がいて、紹介された。その後は、いつも家族連れだった。
焼き鳥をほおばる3人の子供たち。ウィスキーのコップを傾けながら、見守る夫婦。
食べ終わると、子供たちが皿を片付ける。
「しつけがいいていいうのかなあ。いまどき珍しいとおもいましたよ」
葬儀があった1日、マスターは焼き鳥を持って、千葉市宮野木町の高浜家を訪れた。
「彼が好きだった焼き鳥を、みんなで食べたい」という友人たちの頼みを、二つ返事で引き受けた。
定休日だったが、炭火を起こして、いつもより念入りに焼いた。
店の棚に、「高浜」と黒く太い字で書かれた。ウィスキーのボトルが置いてある。
マスターはそれをしまう気になれない。今にも顔をみせてくれそうで・・・・・・。
このボトルいつかは高濱さんに返したい、と思っている。お墓に供えようか、
それともお宅に届けようか。

9名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/29(月) 02:45:15.52ID:N7yI/3Ou0
過去のスレ
JAL123便のクルーについて語る2
http://love6.5ch.net/test/read.cgi/space/1182928090/?v=pc

10名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/30(火) 03:10:51.62ID:XgN9Ysg90
7/27の夜、何でかこの事件が気になってしまい、ようつべ見まくっていたんだよな
そこにこのスレ!

11名無しさん@お腹いっぱい。2019/07/30(火) 06:52:46.18ID:XgN9Ysg90
367 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/12/01(水) 01:03:46 ID:2xxkkGXq0
03秒 (CAP) 塩分とるなそんなに
04秒 (CAP) 塩分とるなってんだろーがそんなに [脱毛警報音 2秒間]
05秒 (COP) はい
11秒 (CAP) 戻せ
12秒 (COP) 戻らない
15秒 (CAP) リアップ
27秒 (CAP) 毛根全部だめ?
28秒 (F/E) はい
31秒 (CAP) アポジカ
32秒 (COP) はい
33秒 (F/E) アポジカしたほうが
34秒 いいかもしれないですね
35秒 (COP) アポジカ
9分00秒 (CAP) 気合を入れろ (COP) はい
01秒 (F/E) ふりかけもってないかどうかきいて
02秒 みます
05秒 (CAP) ハゲるぞほんとうに
06秒 (COP) はい 気をつけてやります
07秒 (CAP) はいじゃないが
08秒 (COP) はい
09秒 (CAP) アポジカ
17秒 (F/E) 毛根がオールロスしてきちゃったですからな〜
34秒 (CAP) あ〜あああ
48秒 (CAP) これはハゲるかもわからんね

12名無しさん@お腹いっぱい。2019/08/11(日) 17:37:27.74ID:wrx5XtCN0
あれから34年
中曽根は何を隠してるんだ

13名無しさん@お腹いっぱい。2019/08/12(月) 12:55:28.14ID:nlNVdCVj0
バイキングで123便ネタやってるな

14名無しさん@お腹いっぱい。2019/09/13(金) 23:52:21.91ID:Bjkp/4yd0
当日の西武球場でのチェッカーズコンサート会場の様子をトップテン用に撮影していて
空も少し映っている
https://youtu.be/HFZdZ8D-1Lc?t=51m2s

15名無しさん@お腹いっぱい。2019/11/23(土) 01:14:08.27ID:1RumpKEk0
ワイ高房、何故かクルー達のことを深く知りたくて堪らない エピソードを漁るも写真等は粗方消えてて寂しい
でも未だにこういうスレがあることとか ニコニコなんかでも「今年も来たよ」とか見ると
救われるというか まだ生きてる気さえするような?... 3人はあちらでも飛行機に乗ってるのかな、なんて涙が出る
乱文スマソ 誰も見ないかもしれないけど でも書かずには居られなかったんだ

16名無しさん@お腹いっぱい。2019/11/23(土) 01:18:42.43ID:1RumpKEk0
ワイ高房、何故かクルー達のことを深く知りたくて堪らない エピソードを漁るも写真等は粗方消えてて寂しい
でも未だにこういうスレがあることとか ニコニコなんかでも「今年も来たよ」とか見ると
救われるというか まだ生きてる気さえするような?... 3人はあちらでも飛行機に乗ってるのかな、なんて涙が出る
乱文スマソ 誰も見ないかもしれないけど でも書かずには居られなかったんだ

17名無しさん@お腹いっぱい。2020/01/13(月) 07:42:51.15ID:G2rF+mH30
>>14
何分何秒に映ってんだ?

18名無しさん@お腹いっぱい。2020/01/23(木) 23:32:14.27ID:fG9Wq83M0
機長が笑顔でシェーしてる写真とご家族写真を見た辛い 例の空港エピといい、頼れる昭和オヤジ感が大好きだ ほんま最高のクルーやで

19名無しさん@お腹いっぱい。2020/02/07(金) 14:06:58.77ID:BlpPHclu0
事故後1ヶ月
佐々木副操縦士の妻S子さんはこの1ヶ月つらかったと涙ながらに語った。
事故直後から根強くあった操縦ミス。
最後に操縦かんを握っていたのは夫だった。
遺族に申し訳ないと眠れぬ日々が続いた。

しかしCVRが公開され「夫が最後まで努力してくれたことがわかったのが
唯一の救いでした。」
そして残された子供たち。
テレビに食い入るようにしてみて
「息子がお父さんを尊敬していると。そのあの子がお父さんと同じ道を目指す
というのです・・・」

家の前では兄妹が仲良く無邪気にボール遊びをしていた。
「お父さんは優しかった。でも悪いこと事をしたり同じ問題を何度も間違えたら
ゲンコツ。お父さんは休みの日はよく本を読んでいたな。

たくさん読んで勉強していたよ。事故の前日はプールに連れて行ってもらった。
妹とお母さんも一緒で楽しかったよ」
21年前すでに息子はパイロットになると決意していた

20名無しさん@お腹いっぱい。2020/02/07(金) 14:08:25.58ID:BlpPHclu0
子供たちは2人ともお父さん子で仕事から帰ってくると競って
父のそばにまとわりついて今日あったことを報告していた。

お父さんは息子に「何事もbetterじゃだめだ。
常にbestでなければ」とよく語っていた。

事故後テレビでCVRの内容が公開されるとき息子は
「お父さんの最後の声を録音するんだ」とレコーダーを
持ち出した。が当時はまだ文章のみで音声では公開ず父の声を
聞きたいという希望はかなわなかった。

21名無しさん@お腹いっぱい。2020/02/07(金) 17:25:54.32ID:r3ZSnQfG0
副操操縦士の故佐々木祐氏、出生地不詳って・・・
ちゃんと調べろよ。熊本出身だろ。
上田、有田の先輩にあたる熊本県立済々黌卒。

22名無しさん@お腹いっぱい。2020/02/09(日) 12:18:47.40ID:h/poGshH0
航空機関士 福田博(ふくだ ひろし)
昭和14年生月日不詳 山梨県八代市出身
同市の工業高校を卒業後の昭和32年4月1日日本航空入社
整備士を経て昭和40年より航空機関士に(9月8日取得)
ボーイング式747型(昭和47年11月7日取得)の他にDC-6、B727、DC-8の
乗務歴がある
総飛行時間は9,831時間03分(B747は3,846時間31分)
事故当時千葉県佐倉市在住、子息がJAL現職副操縦士との情報有
事故当月に実家に帰省した際、親族に「これからはもっと多忙になる」
と技術教官としての近況を語っていたらしい

23名無しさん@お腹いっぱい。2020/02/10(月) 01:20:29.29ID:3NJwdzWx0
佐々木副操縦士を確認

日航ジャンボ機墜落事故で、群馬県藤岡市民体育館での遺体の身元確認作業は15日午前7時過ぎに再開された。
      ・・・・・・・・(略)・・・・・・・・
午前9時20分、作業再開後初めての遺体の身元が判明した。
事故機の123便の副操縦士、佐々木祐さん(39)=千葉県四街道市。
義兄の内藤稔さん(41)が顔などから確認した。

     毎日新聞 : 昭和60年8月15日付け夕刊

24名無しさん@お腹いっぱい。2020/02/10(月) 01:30:41.50ID:3NJwdzWx0

25名無しさん@お腹いっぱい。2020/02/24(月) 12:10:47.38ID:Zh6nn4ME0
《補遺》ー佐々木祐(ゆたか)先輩の思い出ー

これは、すでに一部の方々にはお伝えしたことですが、
実際に、JAL123便で操縦桿を握っていた副操縦士の
佐々木祐(ゆたか)氏は、実は、私が卒業した小学校
(熊本市立白坪小学校)時代の、憧れの先輩でした。


 佐々木家は、熊本市内有数の名家です。
先輩の御祖父様は、かつて、熊本市の助役(今で言う副市長)をしていらっしゃいました。

 たいへん人望の厚い方だったと伺っています。

 私の幼少年時代、実家近くの神社の境内で遊んでいますと、夕方頃、羽織を着た立派なご老人が、実に丁寧に参拝している姿を、見掛けました。それも、ほぼ毎日なのです。

 白く、長い髭をたくわえた、何とも威厳のある雰囲気でした。

そのご老人こそ、佐々木先輩のおじい様でした。

 先輩のお父様は、隣町で果樹園を営む資産家でしたが、母の言によりますと、たいへん深い精神性を備えた方だったとのことでした。
例えば、終戦直前、日本は、徹底抗戦(いわゆる「本土決戦」)を選ばず、無条件降伏の道を選択しました。
 しかし、当時の陸軍の一部には、まだ、「本土決戦」を主唱する将校たちがいました。

 そんな中、昭和天皇は、「無条件降伏」を受諾されたのでした。

このことについて、佐々木氏は、周囲の人々に、こう語っておられたそうです。「天皇陛下が、私たちを救って下さいました」と。

 今の時代感覚では、なかなか理解しずらい内容の話ですが、母は 晩年、そのことを度々、とても懐かしそうに語ってくれました。

 今考えますと、佐々木家と我が家は、とても深い繋がりがありました。
つまり、お互いに助け合うような間柄でした。
 5歳年長の先輩とは、親しく話したことこそありませんでしたが、

同氏は、周囲の人々を包み込むような優しさがあり、何とも言えぬ

”カリスマ性”を備えていました。

 中学・高校時代の同氏は、とても色白で、少しふっくらとした感じでした。それこそ、平安時代の若き公達を見るような風情でした。

 人の顔というものは、時と共に、また環境の変化で、ずいぶんと変わるものです。

 日航パイロット時代の同氏は、日々、充実こそされていたのでしょうが、

たいへん緊張の多い日常ではなかったかと拝察いたします。

 先輩は、中学卒業後、市内の名門、済々黌高校に進学されました。
その当時、同高校は、質実剛健を旨として、男子生徒は丸刈りで、黄色い線の入った帽子を被っていました(今は、そうではありません)。

 私事で恐縮ですが、私が小学6年生の頃でしたか、その帽子を

被られた先輩が、青空の中で(つまり、中空で)、ニコニコと微笑んでおられる姿が、急に目に飛び込んで来たのです。

26名無しさん@お腹いっぱい。2020/02/24(月) 12:11:28.38ID:Zh6nn4ME0
 それこそ、まさに、”天空に浮かぶ巨大なイメージ”でした。

空の青と帽子の黄色の線が、余りにも鮮明でしたので、今も、強く目に焼き付いています。

 でも、何故、そのような”白昼夢”を見たのか、当時は、全く理解できませんでした。(正直、それは、今も全く同じ状況です。)

 実は、拙ブログ中の”天空に浮かぶ巨大なイメージ”というのは、60年近く前の、その時の印象を思い出したものなのです。(内容は、全く異なりますが。)

 ところで、佐々木邸の裏庭には、とても美しいガクアジサイが 咲いています。

 毎年毎年、まるで、佐々木先輩の御霊(みたま)のご帰宅を、待ち続けているかのような風情です。

 今年の梅雨時にも、きっと美しく咲いてくれることでしょう。
 また、正直申しまして、私が昨日、ナカソネ氏に関して、

あのような激烈な文章を書きましたのには、一つのワケがあります。

 それは、佐々木先輩始め、同機で犠牲となられた方々のご無念を、

少しでも晴らしたいという思いがあったからなのです。 
 佐々木家と我が家(すでに、熊本地震で被災して、駐車場になっていますが)は、200メートルと離れていません。

 1985年、先輩のご葬儀が、ご実家で営まれました。
母も参列いたしましたが、気丈な先輩のお母様は、母に、

こう語られたとのことです。「息子は、戦死しました」と。

 これは、生前の母から、直に聞いた言葉です。

 この平和な世の中で、亡き愛息の墓前で、こう語る母親の言葉は、

一体、何を物語るのでしょうか?

 私たち日本国民は、次の言葉を、今一度、心に深く刻むべきだと思うのです。

 ある墓碑銘には、こうあります。

「日航123便で死亡した520名の犠牲者1人1人がどうして

死ななければならなかったか、関係するあらゆる事実を解明し、

将来の安全に役立てることこそ、真の供養である」と。

(2004年8月12日 航空安全国際ラリー組織委員会)

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