2872【04】Concocted Human History+Genzyo Sanzo捏造された人間史+玄奘三蔵はインド・ナーランダへは行っていなかったby Hiroshi Hayashi, Jap
https://youtu.be/jqXXU02Bp00

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにあります。
『玄奘三蔵は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、国禁を犯して密かに出国、役人の監視を逃れながらインドへ向かった。
玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越え、天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。
インドのナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している』と。
が、本当にそうでしょうか。
玄奘三蔵は、本当に、ナーランダ大学まで行ったのでしょうか。
その疑問の第一は、ナーランダ大学は、ブッダの仏教の大学。
一方、玄奘三蔵が長安へ持ち帰ったのは、密教。
つまり弥勒菩薩教。
もっとわかりやすく言えば、ミトラ教。
その証拠に、長安へ渡った空海が、日本に伝えたのは、弥勒菩薩教。
ブッダの仏教ではありません。
ナーランダ大学に残る仏像と、空海が高野山の根本大塔に収めた大日如来像を見比べてみれば、一目瞭然。
ナーランダ大学に残る仏像は、まさにブッダ像。
根本大塔の大日如来像とは、似ても似つかないものです。
つまり、空海が根本大塔に収めた大日如来像は、チベット密教の総本山、現在のタシルンポ寺にある、弥勒菩薩像と同じです。
つまり玄奘三蔵は、インドのナーランダ大学へは行っていない。
行ったとしても、チベット。
そのチベットで、いわゆるチベット密教をそっくりそのまま持ち帰った。
それがそののちの、密教となった。
それが私、はやし浩司の解釈です。




大唐西域記によると、玄奘三蔵法師が長安を発ったのは629年・・ 、
その頃のチベットは、統一への黎明期とも呼ぶべき時期で、いくつかの部族が争う混乱も多い時代であって、
仏教を学ぶ目的地として行けるところではありませんでした。
と言うか・・・、学ぼうにもシャーンタラクシタがチベットに仏教を興したのが761年、
パドマサンバヴァが密教をもたらし、チベット密教を興したのが774年、
いっぽう、玄奘三蔵法師が唐に、おびただしい数の仏教の経典や仏像や仏舎利、
仏教のほかにもナーランダ大学で、医学・薬学・土木などの科学知識などを学び、持ち帰ったのが645年です・・・。
まさか・・・、玄奘三蔵法師は、エイリアンならぬタイム・トラベラーだったとか言うのでしょうかw?

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「捏造された人間史」って・・・時空や史実を捻じ曲げて捏造しようとしているのは、
はやし浩司センセーのほうじゃないのかな・・・ (* ̄∇ ̄*)?