古代東北の蝦夷(えみし)に焦点を当てた特別展「蝦夷−古代エミシと律令国家」が9月21日〜11月24日、多賀城市の東北歴史博物館で開かれる。開館20周年と宮城県多賀城跡調査研究所の設立50周年を記念して企画された。出土品の展示に加え、第一線の研究者による講演会や連続講座で、東北の古代史を解き明かす。
律令国家の支配に属さず蝦夷と呼ばれた人々について、最新の発掘調査や文献史料を基に、律令国家との争い以上に交易が盛んだったことを紹介する。
年代は、多賀城が設けられる直前の7世紀後半から平泉藤原氏が滅亡する12世紀後半までが対象。国重要文化財「金装獅噛三累環頭大刀柄頭(きんそうしがみさんるいかんとうたちつかがしら)」のほか、蕨(わらび)手刀、柳之御所遺跡の「カエル板絵」など北東北を中心に出土した約300点を展示する。
9月に「律令国家と蝦夷」、11月に「古代蝦夷研究の現在」をテーマにした記念講演会を開催。連続講座は9〜10月が「前九年・後三年合戦と平泉」、11月が「考古学からみた“伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱”」などを題材に開く。
24日にあったプレイベントでは、アニメ映画「アテルイ」が上映されたほか、元館長の進藤秋輝さんが「古代東北統治の拠点 多賀城」と題して講演し、多くの歴史ファンが訪れた。
特別展は一般1200円、65歳以上1100円、小中高生600円。毎週月曜は休館(休日の9月23日、10月14日、11月4日は開館し、いずれも翌日休館)。連絡先は同博物館headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190829-00000013-khks-soci
0002出土地不明2023/09/26(火) 01:31:07.90ID:ounQ6gQV
全板規模の荒らしによる重複スレ
以下、本スレへの誘導以外は書き込まないように
三陸河北新報社2022年8月24日
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。
ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。
当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。
古墳文化が波及しなかった北海道と南西諸島、古墳人骨がほとんど出土していない北東北などを除く日本列島9地域の古墳人集団に
縄文人、弥生人、現代人の4集団を加え、頭蓋計測値の形態距離で集団関係を分析すると、男性の場合、古墳人集団は大きく2群に分かれる。
第1群は畿内、北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国瀬戸内、関東・東北南部、南近畿(磯間人骨を含む)の6集団で、
第2群は南九州、西九州、北陸の3集団である。
近畿、四国瀬戸内、中国、北部九州、関東、東北南部には渡来形質が強く渡来系古墳人とよべる人々が広がっていたが、渡来系古墳人の最たるものが畿内古墳人である。
また、畿内古墳人は畿内現代人とほぼ同程度の頭蓋長幅示数をもち、上顔示数もかなり大きいが、バジオン・ブレグマ高は畿内現代人よりはるかに低いので、
短頭・高顔という畿内現代人の地域性は古墳時代すでに出現していたが、この地方における頭高の増大は古墳時代以降に起きた現象である。
鼻骨平坦示数は縄文時代人45、北海道アイヌ44、渡来系弥生人27、東日本古墳人31、南九州古墳人47~51
例えばコーカソイドはロシアスラブ系白人45、インド人47程度
北東北の終末期古墳も、集落を持たず定住しなかった人達が、外来の馬産や開拓者を受け入れて殆どが関東・東海からの移住の波が何度もあったことが最近知られてきている
そもそも東北の古墳時代期などの調査はゴッドハンドのせいもあるが、この地方の古代人の性格は他地域と比べると積極的に進まなかった
改めて東北の古墳時代を明らかにしていく段階に入り始めたと言える
4世紀には高塚古墳勢力が岩手県南部まで拡がっている
朝廷と戦った蝦夷は縄文人ではなく僻地に住んでいただけの和人
大和側と同じ渡来人だった
古墳時代前期から中期に該当する4~6世紀には、前方後円墳・箱式石棺や横穴式石室・横穴墓が東北南部にも数多く造営され、北限は岩手県奥州市にまで分布域を広げるようになる。
しかしこれとは別に、東北北部では、土坑墓と考えられる独自の遺構群の存在が確認されている。さらに7~10世紀には高塚古墳に似て非なる「終末期古墳」が築かれ、北上川流域を主たる分布域とするようになる。
0011出土地不明2024/03/15(金) 07:37:20.47ID:JNa77DIG
0012出土地不明2024/05/30(木) 10:16:13.00ID:st2zCYGL
近年、奥州藤原氏と蝦夷族長のルーツに関する研究が盛んになり、従来の「蝦夷の末裔」というイメージとは異なる興味深い事実が明らかにされています。
まず、奥州藤原氏三代のミイラについて、DNA分析の結果、渡来系であることが判明しました。具体的には、朝鮮半島南部にルーツを持つ集団と共通する遺伝子型が検出されています。
さらに、陸奥栗原の蝦夷族長伊治公砦麻呂(鳥矢ヶ崎古墳群)の発掘人骨も、一族ともに渡来系であることが判明しました。こちらも朝鮮半島南部との関連性が強く示唆されています。
同時代の陸奥胆沢の蝦夷族長阿弖流為(アテルイ)の人骨は現存していないため、DNA分析は行われていません。しかし、周辺地域の出土遺物や文献から推察するに、彼もまた渡来系だった可能性が高いと考えられます。
これらの研究成果は、従来の「蝦夷=純粋な縄文系民族」というイメージを覆し、東北地方の古代社会における民族交流の活発さを示唆しています。