ちなみに現代の物語論に多大な影響を与えたソシュールの言語学では
「言葉が理解される」という現象を「ラング」と「パロール」という分類で説明している
簡単に説明するとラングというのはその言語の体系的法則、ルール。パロールは文章の内容
つまり「言語を理解する」という行為はその背後に「暗黙的に了解されたルールがある」ということ

例えば、たった今地球にやってきた宇宙人に「犬」という単語だけを教えても
実際の犬を見たことがなく、どんな形状をしてるどんな生き物なのかを知らなければ「犬」自体を理解出来ない
この理論はロシアフォルマリズムに直結し、映画を成立させてるモンタージュ理論の根拠にもなる

60年代以降の物語批評、解釈論はこれらの理論の上に立脚している
つまり「解釈の自由」なんてものは認められてない
物語というのは「その原則のなかで機能する選択肢の取捨」で出来てるとされる
現代の物語研究というのはだからその形式や原理の分析が主になってる

物語の読み取り方は自由だ、とか言ってるのがそもそも無知で幼稚なの
確かに解釈の余地をわざと残してるものはある(これをサブテキストという)
しかしそれはあくまで「こう理解してもらえるだろう」というルールの上で成り立ってる
(「色」の概念の無いものに「白かもしれないけど黒かもしれない」と理解することは出来ない)

君がやってんのは日本で起きた事件をアメリカ合衆国憲法で解釈する、みたいなこと
君は君の王様で、怒りは快楽的だと思ってんだろうけど、それはこの映画の解釈に通用しないということがわかってない
それを証明したいのなら君が君の論理で説明しなきゃならない
だから「正しい保証はどこにもない」なんてのはただの詭弁