>>639
ケチを付けるつもりはサラサラないんですが……

>光景とした現れる?
「光景として現れる」の間違いなのでは?

私自身はベートーヴェンのピアノソナタを山脈に喩える意図はサッパリ分かりません。

悲愴ソナタ/ムーンライトソナタで「モーツァルトのK.310/331を超えられないと」悟ったベートーヴェンが、ピアノソナタでは「自分の行くべき道」を突きとめた音楽。
交響曲分野でジュピターを超えられないと悟ったベートーヴェンが「エロイカ」で交響曲をオペラに匹敵する音楽にしたにした点に似ている。
ピアノソナタは「熱情」でベートーヴェンのモーツァルトを超えようという頂点に達する。音楽の性質がまるで違うのでK.310との優劣はつけられない。
交響曲も5番でジュピターと対抗する音楽(優劣ではない)の頂点に達する。

作曲家としての苦しみはベートーヴェンの場合はこれ以降始まる。
ピアノソナタ作品109/110/111を経て、終着点は作品131だと個人的には思っている。
わたしのような凡人には遠く及ばぬ精神世界だが、この時、ベートーヴェンはモーツァルトは、モーツァルトK.622「2楽章」で遥か天空を駆けていた気がしたのではないか。
繰り返すが曲の優劣ではない。わたしの直観にすぎない。

はっきりしているのはモーツァルトにはその音楽を継ごうとする作曲家が皆無だったこと。こんな音楽を書いた作曲家は彼の前にも後にもいやしない。

ベートーヴェンの晩年の苦しみを誰よりも最初に理解したのがワグナーであること。リングはその結果生まれたと思っている。
もうひとりはブラームス。交響曲1番は傑作だが、ベートーヴェンとはまったく異なる音楽になってしまっている。
特に4番は1〜2度聴いたきり。
曲は短いが、ショパン/バラード1番(ルービンシュタイン番)のほうがわたしは遥かに好む。