「僕はハイドンの音楽もなかなか好きだ。形式の完備整頓、表現の清らかさという点では無類である。
併し、モオツァルトを聞いた後で、ハイドンを聞くと、個性の相違というものを感ずるより、何かしら大切なものが欠けた人間を感ずる。
外的な虚飾を平気で楽しんでいる空虚な人の好さと言ったものを感ずる。
この感じは恐らく正当ではあるまい。
だが、モオツァルトがそういう感じを僕に目覚ますという事は、間違いない事で、彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞こえる程の驚くべき繊細さが確かにある。
心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。
一と度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ」(小林秀雄)

10代に小林秀雄を読み耽っていた頃、モーツアルトの音楽に日頃抱いていたあれやこれやの想いを一言で言い当てられ、感動した、これは、その文章の一つだ。

ベートーヴェンは精神に訴える音楽である。耳が酔うことはない。(無理を承知で1曲に絞れば)「朝比奈隆&大フィルの交響曲エロイカ2楽章(VDC-5528)」をその代表として、私は採る。

他方、モーツアルトは私の場合、(これも誤解を承知で言えば)ハーモニーに耳が酔う音楽であり、
ベートーヴェンの音楽がうったえる精神の、「さらに内奥にある、本能とは別の、自意識を超えた何かしら深いもの」に触れる、とでも言おうか、私にはそんな風に思える音楽なのだ。