ブルックナー 交響曲第4番「ロマンティック」
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181018-読響シンフォニックライブ 2018年9月21日東京・サントリーホール収録 ブルックナー 交響曲第4番(コーストヴェット校訂版)<ロマンティック>より カンブルランcond どないでした? 第1稿:変ホ長調→ハ短調→変ホ長調→変ホ長調 第2稿:変ホ長調→ハ短調→変ロ長調→変ホ長調 コーストヴェット校訂なんてくだらん。 自分の研究を売り込むため、作曲者も演奏を承認したなどと強引に結論づけてるだけ。 嫌々でも承認しなければ演奏してもらえなかったのが当時のブルックナーの立場だったんだろうに。 コーストヴェットにせよグンナーコールスにせよ、あの辺の研究者は新たな仕事を作り出すための理由付けをしているようにしか見えないね >>26 >>27 《第四》コースヴェット版は歴史を再生するということから意味深いと思う。 実際聴いてみないと自分自身の評価は出来ないから。 これまでの初版批判者は、聴きもせずに他人の評価を 鵜呑みにしている傾向がある。 《第九》コールズ版については、その中でいろんな研究成果が出ているとは思うが それらは果たして原典版印刷譜としての規矩を超えていないか? たとえば、アダージョのコーダ、第1、第2ヴァイオリンは本当にそうなのか? すなわちブルックナーの誤記と断定して良いのか? という点ではいささか疑問ではある。 《第二》キャラガン版はさらに問題多し(アダージョでのスラーの加筆・・・)。 要するに十把一絡げに断定することは出来ないということだ。 コーストヴェット版の打楽器の表記はブルックナー式ではない。 手稿譜どおりなら、これはブルックナーではありませんと自白しているようなもんだ >>28 もちろん校訂版を聴いたうえでのあくまでも個人的感想だ。 しかし、初演当時の楽譜をそのまま復興もしくは復元上演したのなら歴史的資料的価値もあるだろうが、 校訂というのは研究者の判断による「改善」が多数加わっている。もちろん修正箇所の詳細はわからないが、 コーストヴェットには、ハースやノヴァークのようなブルックナーに対する敬意が根本的に欠落していると思う。 >>29 弟子たちが書き下ろしてブルックナーが校閲した印刷用スコアなので スコアリングがブルックナー式でないのは当然といえば当然 その内容に対するブルックナーの承認の有無に関する判断が全集収録のポイントなのだろうけど ノヴァークのIV/2とコーストヴェットのIV/3の間に半世紀の時間差があるとはいえ 同じ第二次全集の中で整合されないのはどうなの?と思う (ひょっとして今流通しているIV/2はノヴァークの序文に補足が入っているのか?) >>29 <コーストヴェット版の打楽器の表記はブルックナー式ではない。 > ↑これでは、何のことを言ってるのかさっぱりわからない???? コースヴェット版のどの点を批判しているか、具体的に挙げてほしい。 って、多分まともな回答はないだろうから話を《第四》4楽章の76小節 に限って、検討してみよう。 ティンパニは、ハースもノーヴァクもブルックナー式ではない。 ブルックナーは、[3本髭]と[trem.]の2つを書いたが、ハースもノーヴァクも [3本髭]は印刷したが、[trem.]は省略した。コースヴェットは[tr]だけを採用。 シンバルは、《第八》の場合、ブルックナーはト音記号で和音内で記譜しているが、 コースヴェットは、ヘ音記号で記譜しているし、音の高さ[C]は和声内の音ではない。 《第四》のシンバルは、伝記でも分かるように、ブルックナーの発案では ないのは確かだ。だから、もちろん他人が書いたことは明白だ。 問題は、それをブルックナーが承認したかどうかだ。 なぜなら、《第七》や《第八》にはシンバル付き自筆譜が存在するからね。 そして、ブルックナーはこのシンバル付きの《第四》の演奏を聴いている。 それは、シンバルの有る無しという「好き嫌い」とは別問題だ。 もちろん、それが嫌いな人は聴かなくてよい。 私自身もシンバルが無い方が好きだ。 <コーストヴェットには、ハースやノヴァークのようなブルックナーに対する敬意が根本的に欠落していると思う。> 校訂のどの部分に対して、そう思われるのか? 単に、昔の原典版主義者たちの主張が刷り込まれているだけではないのか? たとえば、全集版印刷譜を見て、オーレルの《第九》の印刷譜は、ハースの《第八》の印刷譜 よりブルックナーへの敬意が多いように私は感じるけど・・・・ ちなみに、ヘ音記号[ハ音]というのは、オイレンブルクと一緒なので たぶん初版がそうなのではないか・・・? とにかく、ブルックナー風にト音記号[変ロ音]か[へ音]にしていないのは 弟子たちの記譜法に忠実だということで、逆に誠実ではないかと思う。 思い込みが激しいようだね。 好き嫌いの話など全くしていないんだがな。 >音の高さ[C]は和声内の音ではない。 それだよそれ。ブルックナー自筆ではあり得ない話。 >問題は、それをブルックナーが承認したかどうかだ。 1888年版には承認のサインをしていない。これもよく知られた話。 >なぜなら、《第七》や《第八》にはシンバル付き自筆譜が存在するからね。 7と8はすべて三和音のいずれかで表記されている 8の初稿と第二稿は和声が異なるからそれに合わせて打楽器の音程もそれぞれ変えている これがブルックナー流。 ヘルゴラントのシンバルもバスに合わせてGの音程だ。 作曲者の頭の中では、すべての楽器は和声を構成している。 シンバルであれトライアングルであれ例外は無い。 そこから外れた音を書くことは彼の場合あり得ないのだ。 コーストヴェットが初版に従ったなら、単に初版を整えて出版したと言えばいいこと。 >>34-35 昨夜同様横からですまんけど 弟子が書いたスコアをブルックナーが承認したなら打楽器の記譜を修正したはず、と考える? >>36 大前提として、ブルックナーにとって当時の版は妥協的なものであり、 原典譜は「後世のためだけ」のものだった。これは本人が手紙でも書いている。 自筆のいろいろなカット指示も当時に合わせた妥協であり、他人の手の入った初版も同じ。 妥協版として承認したにすぎない。 ここから先は想像になるが、1888年版はその承認すら出来ないほど酷いということじゃないかな。 シンバルの記譜問題が小さく思えるほどリズムやオーケストレーションの改変が大きいから。 つまりいちいち直す気にもならなかったと >>37 なるほど 初演や出版に関連する改訂に対して厳しい評価をしてる感じかな (III/3やVIII/2あたりもグレーゾーンになる?) でも、ブルックナーに限らず作曲者が最終的に完成したと確定される証拠の残っていない曲は、 みな研究対象に取り上げられ、今後はさまざまな校訂版が乱立する時代になるのかも。 <思い込みが激しいようだね。> この言葉をそっくりそのまま貴公に進呈してさしあげよう。 < 好き嫌いの話など全くしていないんだがな。> 他の作曲家の作品の校訂者とは違って、現代のブルックナーの校訂者は、 誰も決定版あるいは最終版の提示などを目的とはしていない。 したがって、彼らが提示したスコアを我々素人は好き嫌いで語るだけでよいのだ。 そして、和気あいあいと語り合うのであって、自分の好きな形態に何か権威付けを して他より優位に立とうとするのは、ブルヲタの風上にもおけないバカモノだという ことなのだ。 ただ、誤植や資料の選択ミス、楽譜の細部の解釈については間違いが 生じることがままあるので、それらは正していかなければならないとは思う。 コースヴェット版にも数多くの誤植や不明点が存在する。 また、校訂者は往々にして他の版との差別化を図ろうと無理な解釈や 別の資料をごちゃ混ぜにすることもあるので、その点は注意を要する。 >>37 私も50年前は、37に述べられた通りのことを考えていた。 しかし、遺書の文面やヴィーンの国立図書館に残されている膨大な 資料と遺書で言及されている立派に製本された自筆譜を見て (これらにはMus.Hs.19.4○○の資料番号が付いている)、戦前の 原典版論者が我田引水的に解釈したものが戦後のブルックナーブーム にのってわが国に拡散されたものであることがだんだん 分かるようになってきた。 いまや数多くの資料がネットで簡単に見られるご時世になったことだし、 ヨツベでも簡単に遺贈稿のいくつかは見れるのだ↓。 https://www.youtube.com/watch?v=-MiYzU8HQZQ 貴公もブルヲタ道を邁進するのなら、一次資料(楽譜や手紙) から直接情報を得て、そこから自論を作り出す努力を することを願っている。 とにかくブルックナー関係は、ヴァーグナー=ハンスリック論争以来 原典版=改訂版論争と嘘と誇大吹聴にまみれているので、 一度過去の知識は全て捨て去ることが必要かと思う。 好き嫌いというか感覚で論じるなら、 フルヴェンとかクナが演奏している版は、ブルックナーサウンドと明らかに違うよね 第一楽章のティンパニの「どんだだ、どんどん」とかダサすぎるし オーケストレーションも全体的に濁ってるし これを聴くとノヴァーク版で耳を洗わずにはいられない。 >>37 原典版派の金科玉条である「遺贈稿」について その実態を《第四》を例に述べてみよう。 ハースは、「遺贈稿」を使いながら、トリオでは 最初「遺贈稿」(Fl.とKl.がメロディー)で印刷して いたにもかかわらず、後に別の自筆稿を発見して それに変えた(Ob.とKl.がメロディー)。 なぜ、後世のためであるはずの「遺贈稿」を 変えてしまったのか?実際のところ「遺贈稿」では もともとOb.とKl.がメロディーを吹くようになっていた。 ノーヴァクは、「遺贈稿」を使わず、ニューヨーク筆写譜 を採用した。なぜ、後世のためであるはずの「遺贈稿」 を使わなかったのか? 要するに、両原典版とも「遺贈稿」通りではないのだ。 また、自筆譜の56分20秒のところで、ブルックナーは 自筆譜12小節を斜線で消し、その最初の4小節を12小節に 拡大した他人の筆写譜をそこへ追加挿入している。 これは純然たる自筆譜ではないのだ。 さらには、351小節から430小節まで削除するように 青い鉛筆でマークが入れられている。これは初版の 第1主題のカットどころではないのだ。もし、後世の ために残したものなら、こんなカット指示など消し去る べきであった。 「遺贈稿」の実態からみて、遺書と「遺贈稿」の関係は 原典版派が言うような絶対的、確定的なものではなく、 『将来、私の交響曲をもう一度見直して再出版しようと いう動きになれば、自筆資料を封印して帝室王室図書館 に遺贈しておくから、校訂の資料としてそれらを使ってほしい。」 といった意味であって、絶対的な最終の形がこれだと ブルックナーが決めつけたわけでは決してなかったということだ。 すなわち、原典版派の言う「贔屓の引き倒し」的な もの言いではなく、現代では初版を含めた膨大な資料群を それ相応のヒエラルキーのもとに批判検討して、 ブルックナーの交響曲像を構築していくべきだという 考え方になってきているというわけだ。 私自身はと言えば、「遺贈稿」最優先であるという考えは 変わらない。しかし、弟子が書いたものだからそれらは 排除すべきだという通り一遍の考え方には賛同できない。 コーストヴェット版のシンバルのCは和声に関わらずCになっている。 特に二発目はバスがCes, ティンパニがEs, そこにシンバルのC 排除すべきかどうかではなく、ブルックナーでは起こりえないこと。 これに対する反論はないようだな またも横レスで済まんけど 双方が上手く噛み合ってない感じでムズムズする 版下スコアが個人蔵で非公開らしいので残念 (写真コピーを収蔵しているウィーン市庁舎図書館は オーストリア国立図書館のようなデジタル公開はやっていない模様) >>48 まったく<ムズムズする >必要はない(笑) >>47 の御仁は、ブルックナーの手書き資料についての 見方ができていないというだけだ。 原典版派が吹き込んだ一種の「原理主義」的思考で、 純粋なブルヲタ的願望であることは理解出来るんだが、 いろんな資料を見ていくと、そんな自筆オンリーの思考は ブルックナーでは通用しないことはすぐわかるはずだ。 まあ、こういう人がいないと話にはならんということだがね。 たぶん、この人には>>44 で説明した56分20秒の所の 「遺贈稿」の状態の意味が分かってないんだろうねえ・・・ (ここでは、この動画を作った人は写譜を1ページ欠落 させてしまったミスもあるし) たぶん、版下スコアのコピーを見たって、たいしたことは 分からないんじゃあないかと思うんだけどなあ・・・ だって、もしブルックナー自身の明瞭な改訂の痕跡が そこにあるのなら、>>47 のような人を黙らせるためには(笑) コースヴェット自身が彼の版に、ぐだらぐだらと説明 するだけではなくて、証拠のコピー(印籠=笑)を印刷して 提示したはずだからねえ・・・ 印籠:「一同控え居ろう!この紋所が目に入らぬか!」 >>48 の投稿は1つ番号がずれていました。 >>48 →>>47 >>47 →>>46 失礼しました。 >>46 なぜ反論する必要があるのか? だって、それは弟子が書いたものであることは周知のことだから。 かえって、コースヴェットは資料に忠実であると褒めるべきではないか? 逆に、ノーヴァクの《第七》アダージョの打楽器については糾弾されるべきだろう。 貴君は、ハース版の序文に載っている打楽器のパート譜の写真を見たことがあるか? これは、ブルックナー自筆であって、「遺贈稿」に綴じ込まれている。 なんと、ノーヴァクは印刷スペースがなかったのだろうが、トライアングルと シンバルを1本線の譜表で印刷した。自筆譜では、ヘ音譜表でCの音が 記載されているにも拘わらずだ。これは是非修正されるべきだろう。 自筆にこだわる貴君に1つ挿話を差し上げよう。 ブルックナーには1865年作の吹奏楽のための《行進曲変ホ長調》という 作品がある。そしてその姉妹作として《アポロマーチ》というブルックナー自筆 の作品がある。これはゼヒター同門のハンガリーの作曲家ケラー=ベラ という作曲家が作曲した行進曲である。《第一交響曲》の演奏をもくろんでいた ブルックナーは、リンツの劇場オケには必要な管楽器が足らないので、 補充のため当地駐在の軍楽隊に近づいた。お近づきのしるしに作曲したのが 《行進曲変ホ長調》というわけだ。と言ってもブルックナーは吹奏マーチの 書き方などは分からなかったので、《アポロマーチ》を見せてもらい それを自身で筆写して手本としたので《アポロマーチ》はブルックナー作 ではないかと永年考えられていたのだ。 この《行進曲変ホ長調》には、Casseということで、スネア、バスドラム、シンバル が五線譜1段に記載されている。したがって音の高さなどという 後年のブルックナーの拘りなどとは全く関係なく書かれている(まあマーラーの 《第1交響曲》第3楽章の世界)。 しかし、ブルックナーの自筆であることには変わりない。 この翁はどうしても相手を原理主義者に仕立て上げたいらしいな(笑) その挑発は相手にしないが、必要な点だけ返事しよう。 >貴君は、ハース版の序文に載っている打楽器のパート譜の写真を見たことがあるか? >これは、ブルックナー自筆であって、「遺贈稿」に綴じ込まれている。 ハース版のポケットスコアが手元にあるよ。その写真を見た上で書いている。 >なんと、ノーヴァクは印刷スペースがなかったのだろうが、トライアングルと >シンバルを1本線の譜表で印刷した。自筆譜では、ヘ音譜表でCの音が >記載されているにも拘わらずだ。これは是非修正されるべきだろう。 知ってるし持ってる。 上の文章は金子氏がとうに指摘したことでもある。 >行進曲変ホ長調 これの譜は見ていなかった(曲は勿論知ってる)ので自筆譜をさきほどネットで見た。 打楽器の段にはヘ音記号があり、冒頭にフラット記号を消した跡があるね。 誰が消したかはわからないが、元の状態ではEsとGが太鼓に当てられている。 変ホ長調の長三度。まさにブルックナー流そのものじゃないか。 Trio(変イ長調に転調するところ)でもグランカッサのGはそのままなので記述は徹底されては居ないが、 打楽器群にpとdolceの指示がある。曲想的にもだが、あまり打楽器を鳴らしたくないのではないかな。 スネアのEsは五度だから和声的に問題ない。 あらためて、彼のこだわりがよく分かった次第。したがって >後年のブルックナーの拘りなどとは全く関係なく書かれている は正しくない。 >>52 《行進曲変ホ長調》 <後年のブルックナーの拘りなどとは全く関係なく書かれている は正しくない。> の見解については、ここを読む読者の判断にまかせよう。 1点だけ:フィナーレのコーダのppのシンバル<C⇔Ces>(いわゆる 『ローエングリン風』というやつ)については、コースヴェットの処理は 容認されるということかな? 『原理主義者』という言葉がお嫌いなようだが、ブルックナーの 音楽自体が、いわゆる原理主義的に出来ているんだから どういった原理に基づいているのかの見解の相違が争点に なっているだけだ。 >>47 が<ムズムズする>といってるのは、ほとんど同じこと を言ってるのに、なぜそこまで対立するのか?ということだろう。 ことは>>26 や>>29 に対する見解の相違が発端なのだ。 かつて、アイヒホルンが《第二》のキャラガン版のCDを リリースし直した時、なぜそんなにいろいろ出て来るのだ という不評が雑誌に現れたが、実際に全集版でキャラガン版 を見たとき確かにそういうことを感じた。《第二》の場合は 資料の重層化による複雑さに問題があって、キャラガンは 2つの稿にポイントを絞り切れていなかったのだ。 しかし、コースヴェット版はまったく事情が違っていて、 これの資料は単品である。 問題は作曲者自身の手になるものに対する考え方の違いである。 まあ、羹に懲りて膾を吹くって感じかな? >>52 それはそうと、《行進曲変ホ長調》の自筆譜に対する見解は 示されたが、56分20秒に対する見解は何故示されないのだろう? これをもう一度貼っておこう。 https://www.youtube.com/watch?v=-MiYzU8HQZQ >フィナーレのコーダのppのシンバル<C⇔Ces>(いわゆる >『ローエングリン風』というやつ)については、コースヴェットの処理は >容認されるということかな? わかってないな、全然意味が違う。 コーストヴェット版以外はどれも「最優先する和音」に合わせてるんだよ だから行進曲変ホ長調の場合は主調に合わせて打楽器を書いたのだ。 7番、8番、ヘルゴラントの頃にはもはや徹底して打楽器は三和音の一部になっている。 これに対し、4番コーストヴェット版のシンバルのCは変ホ長調、変ハ長調のいずれの三和音にも属さない。 よって強弱に関わらず、最初から逸脱している。これでわかったかな? ちなみにこの二つの和音は奇しくも、同時期に書き直していた8番第二稿の和音と同じだ。 そして8番第二稿ではバスBとCesに対するシンバルの音程はそれぞれBとEsだ。 仮にレーヴェに任せず、作曲者自らシンバルを加えて4番の改訂を行っていたとしたら 同様になっただろうことは想像に難くない。 だから>>29 で述べたように >これはブルックナーではありませんと自白しているようなもんだ となるんだよ。 >56分20秒に対する見解は何故示されないのだろう? 何故示さないといけないの? 自分で答えてるじゃん。 >要するに、両原典版とも「遺贈稿」通りではないのだ。 とね。「ああ、そうだね。」としか言い様がないよ。 あなたが思い込んでるような原理主義者ではないから(笑) ブルックナーの行動や態度が常に徹底していなかったことはファンも研究者も知っての通り。 特に楽曲構成についてはそう。2、3、4番は本人が長いこと迷い続けているし、書かれているようなことがあっても不思議は無い。 ただ、打楽器も和声を構成するという彼独自の思考は1860年代から既にあったことが行進曲でわかったし、 1880年代以降はもはや迷いが無い。これは彼の原則と考えて差し支えないと思う。 ブルックナーのような人の場合、細部をほじくれば矛盾が出てきて色々論争にもなるわけだが、 こと打楽器に関して言えばハッキリしている。ということだね。 ごめん、一箇所訂正。 >コーストヴェット版以外はどれも 全ての版に目を通してないから、これはいかん。 「今まで見た限りの自筆による打楽器はどれも」に直す。 横レス 正直に言えばジャッジすべき点がわからなかったりする 「第3稿」=版下スコアは弟子が書き起こしたこと 「第3稿」で初めて追加されたシンバルは弟子に由来するであろうこと その記譜はブルックナー式でないこと もし交響曲第7番のようにブルックナー本人が書けばそのようには記譜しなかったであろうこと ご両名の見解はそもそも一致している 自分も同様 >>59 たぶん、相変わらず<ムズムズする >状態なんだろうね。 同じことを言ってるのになぜ言い合うのか? >>26 <コーストヴェット校訂なんてくだらん。> 問題は、この1点。 この発言に対しての賛否を双方とも真っ向から論ぜず すなわちそこへ焦点を合わせず、双方が自論へ引き込もうと、 あるいは相手の論に引き込まれない様にと周辺部を ウロチョロしているだけだから、第三者には何のことやら と訝しがられているという構図だネ。 半世紀前、日本にデルンベルクの伝記本が出版され 多くのブルックナーファンがこの本から知識を得、 この本に共感を覚えたものです。 もちろん私もその一人。そして、彼の論調はいちいち 的確であり、理想主義的であった。ただ1点、彼は ハース版信奉者であって、当時普及しつつあった ノーヴァク版を毛嫌いしていた。たとえば、彼の版の 序文では、ときどき弟子たちの業績を正当に評価した 論調をとることがあったが、それに対して異論を述べている。 この理想主義は2つに分派した。 1つは、ブルックナー的な良い演奏を求める方向。@ もう1つは、「遺贈稿」の通りの版を求める方向。A @は弟子の介入を排除すれば成り立つと考えられた。 Aは<原典譜は「後世のためだけ」のものだった。> という遺書にある教義に基づくものだった。 2つともデルンベルクの本によって広められファンの なかで一般化したものであった。 ところが、いろんな情報や演奏が入ってくる中で、 Aの人たちが考えたブルックナーが確定した「最終決定稿」 などというものは存在しないことが分かった。 そこで、遺贈稿を中心として、左右の「異稿」と 「初版譜」が支えるという「やじろべえ論」というものが現れた。 これは、初版譜を切り捨てては成り立たないものである。 一方、@の人たちにはクナッパーツブッシュのような 初版を使いながらも良い演奏をする指揮者もいることが 腹立たしかった。「版は悪いが演奏は良い」なんてことを 言い出す始末。だいたい、良いコメ、良い野菜、良い魚や肉 を使えばおのずと美味しい料理が出来るなんてことは 有り得ないことだ。上手な調理法・味付け(指揮者の技量) があってはじめて美味しい料理が出来るのだ。 >Aは<原典譜は「後世のためだけ」のものだった。> >という遺書にある教義に基づくものだった。 この「遺書にある教義」ってデルンベルクの何ページに出てるの? >>62 この本は、初出後再刊されたのだが、私は最初のものしか持っていない。 そこでは、183〜184ページに記載されている。これは逐語訳 ではなくてデルンベルクの言葉で書かれたものである。 より、逐語訳にちかいものは、「音楽芸術」1984年4月号22ページに 土田英三郎氏が紹介されたものがある。引用しよう。遺書の第4項目: 「以下に掲げる私の作品、すなわち交響曲、これは今までに8つを数え、 第9番目のものはなろうことならやがて完成されるであろうー3つの大ミサ曲、 弦楽五重奏曲、テ・デウム、詩篇第150篇そして合唱曲ヘルゴラント、 以上の作品のオリジナル手稿譜を、ヴィーンの帝室並びに王室宮廷図書館 に遺贈する。また、同図書館の帝室並びに王室監督局には、これらの 手稿譜の保管に配慮を賜わられるよう、切に懇願する。 同時に、ヨーゼフ・エーベルレ商会は、同社が出版を引き受けた作品の 手稿譜を適当な時期に帝室並びに王室宮廷図書館から借り受ける権利を 有するものとし、また後者は、ヨーゼフ・エーベルレ氏と商会に対して 前記のオリジナル手稿譜を相応の時期に貸与する義務があるものとする。」 なお、ドイツ語原文は、私は持っていない。 >「後世のためだけ」 その引用部分にもデルンベルクの該当ページにも見当たらないんだけど、どこに書いてあるの? >>64 >>37 がそう言っている。 >>40 >>41 は私です。 多くのブルックナーファンが遺贈に対してそういうイメージを 持っているのは、まあありそうなことだがね。 ところで、もし君がブルックナーファンなら、こんな基礎的な 資料を引用してもらってお礼の一言もないの?・・・・(笑) >2つともデルンベルクの本によって広められファンの >なかで一般化したものであった。 あなたがこう書いてるんだよ 勝手に人の発言にしないでよ >>66 匿名の掲示板でわざわざ「私が>>37 です」というような人がいるのかなあ? それに比べて、横レス氏は掲示板でも紳士だなあ・・・ たぶん実生活でも好人物なのだろうと勝手に推測する。 それはそうと、デルンベルク本に薫陶された人は、私も含めて、 皆そう思っていたと私は理解しているんだけどねえ。 だって、弟子の介入のいくつかは、どう見たってブルックナー原理 からは外れているように見えるもの。 たとえば《第三》フィナーレ、(III/2)433小節に対応する、(III/3) 361小節のフルートの追加はどう見たってブルックナー流ではない。 ちなみに、この(III/3)391〜2小節は、シャルクがブルックナー に認めさせたということで話題になった時があった。それを 演奏で実現させようとCDにした指揮者もいたようだね。 誰だったか忘れちゃったけど・・・・ とにかく、原典版出版時の圧力を跳ね返すための、必要以上 の弟子誹謗というのが現代にも引き継がれており、それは是正 されなければならないというのが私の主張であって、>>26 は それに該当していると思うから執拗に反論しているわけである。 まあ、>>26 氏には、付き合っていただいて申し訳なくは思うんだけど・・・・ ああ、このひと26と37(自分)を同一人物と思ってたんだ。 だから妙に突っかかってくるんだ。 26さんはそもそも会話に参加してないよ。 あとね、答えを教えてあげよう。 「後世のためだけ」 はワインガルトナーへの手紙だよ。 >もし君がブルックナーファンなら、こんな基礎的な資料を引用してもらって いつも偉そうな割には基本的な資料を知らないんだね。 >>68 <26と37(自分)を同一人物と思ってたんだ。 > これは失礼しました。それでは、改めて訊くけど 「あなたは、コースヴェット版は全集版に組み込まれるべきかどうか?」 「コースヴェットの業績を評価するのかどうか?」 どうお考えで? <ワインガルトナーへの手紙だよ。 > それは残念ながら、この問題とは別のことだ(笑い) 確かに原典版派は遺贈稿とこの手紙を結びつけて 教義を作り出し自派の宣伝に使ったんだろうが、 実は原典版と初版の論争とは関係ないものだよ。 だから、初版もハースもノーヴァクもこの提案を採用しなかった。 ところが遺贈稿にはそれがちゃんと残っているんだよね。 不思議だ(笑) 内容は当時のマンハイムの聴衆はブルックナーの音楽に なじんでいなかったので、ブルックナーは初演を心配して、 長大なフィナーレのカットを勧めたのだ。 その時の言いぐさが: gilt nur spateren Zeiten und zwar fur einen Kreis von Freunden und Kennern. (ウムラウト省略) >>68 2006年に音友から出版された根岸一美さんのブルックナー伝では これをp133「もう少し時が経てば、 友人たちや専門家の間では理解されるようになると思うのですが。」 と訳しておられる。さすが学者だ。 大部のホークショウによる2巻の編集報告には、この時提案された 2か所のカットがどれだけのものか記載されている。 この手紙で提示されたカットの場所をご存知か? まあ、遺贈稿を見れば答えは書いてあるんだけどね。 こういった機会でないと話題にすることがない複雑で微妙な問題なので その点では貴君に感謝するが、とにかく新しい研究に基づいて、 過去の原典版派の呪縛から抜け出されるよう願っている。 ブルックナーがヴァインガルトナーに要請した 《第八》フィナーレの2箇所のカット(Mus.Hs.19.480) ノーヴァク版の小節数で記す: 【Z】〜【Aa】(345〜386)42小節、代わりに4小節の移行句(1ページ) 【Pp】の前6小節〜【Uu】(577〜646)70小節、代わりに4小節の移行句(1ページ) なお、【Pp】の方のノーヴァク版の処理は奇妙である(初版の方がまだまし)。 ちなみに、初版には別のカットの提案が印刷されている: 【Kk】のあと5小節目〜【Pp】の前2小節(523〜580)58小節。 わくわくするのは 最初の3分くらいだけで すぐに飽きる曲 特に第二主題の ひょっとこ躍りみたいなメロディー 何だあれ、雰囲気ぶち壊し どちらかというと第一主題と第二主題の間の経過句がチープに感ずる NHKアナがみんな「ロマンチック」って言うのが間抜け 54年のクレンペラー/ケルンRSOがいいな 真っ当な熱演を聴かせてもらった満足感があるよ >>78 ロマンチックと言うように、指導されてるからね。 たちつてと たてぃとぅてと ちゃちちゅちぇちょ つぁつぃつつぇつぉ Tは普通にティーって読んでるからなあ どうなんでしょう 日本語として定着した「ロマンチック」だとなんか違うんだよ って感覚 京響=ワイケルトのロマンチック地味だけどとても暖かくて誠実で良かったよ。 素朴なブルックナーは良いな。 ぼくはデラックスでダイナミックでアメリカンなブルックナーが好きです ロペス=コボスとシンシナティが明るくて美しい ちなみにクナとか朝比奈とかは大嫌いだww >>99 オーマンディ/フィラデルフィアの4番&5番 なかなか美味 >>99 バレンボイム/シカゴはクレベンジャーのホルンかな?金管パワフル気持ちいい。 ホルンでいうとブロムシュテッド/ドレスデンが一番好き。ペーター・ダムだろうね。 想像上の名演 セル&クリーヴランドの1番 ワルター&コロムビア響の2番 CBSの録音でどうぞ 今月はじめにロスフィル・ドゥダメルで4番聴いてきたよ。なかなか引き込まれる演奏だたよ ただ客がクソだった グスタフ・クーン指揮/フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団の第7番が良かったなあ1986年 きのうFMでやってたニュージーランドフィルのを録音して今聴いてるが、なかなかいい >>110 昔バンベルク響で、素晴らしいソロを聴いた もう二十年以上前 ローラント・ベルガー(ヴィーンフィル首席) 「ブルックナーの4番はホルン協奏曲です」 インキネン 日フィルの4月 4番 チケットとりたん 朝比奈隆指揮大阪フィルの第4は、冒頭のホルンのミスが少なく安心して聴けた。 >>119 ハルくん、ハルくん、うるせーよ あちこち、荒らすんじゃないよ むかしむかし、ラジオをつけたらたまたまこれが流れてて「おいおい、随分とロマンティックな曲だなぁ」と思って新聞のラテ欄で曲名見たらこれだったというエピソード、ありませんか? ブルックナーの第4はその位置づけにおいて第3の後に書かれており、また同時に第5の前に書かれた作品でもあるという特異な二面性があり、これがしばしば論議の的となることがある そしてこのロマンティックという副題 これはベートーヴェンが英雄、そして運命に挟まれた第4にだけ、副題を与えられなかったという音楽史上の汚名を見事に挽回したという功績においてブルックナーの名を一躍有名にしたという点は否定できない さらにブルックナーはピタゴラスのゼロの概念を音楽に融合させた革新的な一面も持ち合わせており、数学と音楽の総合芸術とも言える新たなジャンルを生み出したという功績もある さらに近年の音楽史研究ではブルックナーとドボルザークの類似点が提示されており、これがまた非常に興味深い内容となっている 研究者は論文においてアントンとアントニンを混同する非西洋圏の音楽家が非常に多いことを指摘している それは我々日本人がアントニオ猪木とアントキノ猪木を混同する西洋人を見るのと同じくらい、滑稽なことらしい 気づけばもう私も古いブルックナーのレコード、シンフォニーナンバーナインを聴きながら難渋な表情を浮かべ、ブラックコーヒーをすするのが似合う歳になってきた そんな見栄と虚栄心の固まりのような私ゆえに友人が私の書斎に来た時、いまだ愛聴しているナンノのレコードだけは友人に見られないように隠すようにしている 匿名のここだから話すが私が一番好きなシンフォニーは南野陽子のアルバム、ブルームに入ってる「星降る夜のシンフォニー」という曲だ ブルックナーという男のシンフォニーなんぞ私にとっては無用の長物なのである ブルックナーなんぞレコード棚のアクセサリーとして並べているだけである 世の真実なんてこんなものである しかし友人は私がバッハとブルックナーの音楽に常に耳を傾け、またゲーテやシェイクスピアの文学を嗜む高貴な人間と思いこんでいる 日頃の私の虚栄心が成せる技だ 実は本なんて全く読まない 本は読むものではなく、見るものだと思ってる 若い頃は根本はるみの書籍を買ってはあまりの爆乳っぷりによく股間を膨らませたものだ もちろんシコったこともある 恥ずかしい話で恐縮です 以上が私のブルックナーにまつわる思い出話である >>125 ブルマ = ロマンティック なのか?! >>1 ロマンティックのイメージから一番かけ離れたショルティ盤を推すとは おぬしもアマノジャクよのう >>137 それまで短調の曲を書いてきたブルックナーが気分一新して明るい曲調の交響曲を書いたのが4番だとFMの解説で聞いた 人生を肯定しようという気分にあふれているのだとか そういう風に聴けば聴けないこともない気がする 自分青春だったころは、カール・ベームのデッカ録音盤ほぼ一択 だった。この曲に関しての世評はね。 オレは、オイゲン・ヨッフムのみだけど(DG) >>140 ワルター押してたのは、宇野氏位だしょ? ちょっと、それるけど、オレが買った、最初のブラ4が、 ワルター/コロンビアのLPで、その解説も諸井誠さんだったなぁ。 いや、懐かしいわ。 どっちかというとハース版が好きなことが多い私だが この曲の冒頭だけはノヴァーク版がいい これに慣れるとハース版の物足りなさがヤバイ 秋に合う交響曲ベスト3 ・シューマン3番 ・ブルックナー4番 ・ブラームス3番 第1楽章の最初の 一気に盛り上がってフォルテになる直前に バイオリンがワンオクターブ上がるのって改訂版のアイデア? 手元のCDだとフルトヴェングラーとスクロヴァチェフスキがそうなってる 正直くっそ好きなんだが パーヴォのロマンティックは恰幅のいい演奏だなあ 2009年の録音 きびきびとしてるけどスケールそのものは大きくて素晴らしい デニス・ラッセル・デイヴィスの全集の4番は原典版なのが本当に残念 全体的に聴きやすい全集なのにそこだけが傷 すまんすまん 原典版じゃなくて第1稿ですな 犬のサイト見たら 使用楽譜:第1稿/1874年/ノヴァーク版 とあった >>151 その部分はカラヤン71年盤が一番好き 他のも上げるんだったらあれくらい強調して欲しいw カラヤンはハース版を土台にして 改訂版からは冒頭のオクターヴとフィナーレのシンバルだけ採り入れた >>158 >>159 ありがとうございます よくわかりました 私は>>151 ですが147と149でもあるわけです ノヴァーク版はそうなんだと勘違いしてたわけです こうしてみると改訂版も捨てたもんじゃないよね 今日は「ロマンティック」な夜だよなあ ブルックナー4番の副題にもなっているロマンティックは そんな意味ではないらしい… LAフィルの2枚 メータ盤とサロネン版がやたら良い ドゥダメルにも期待したい >>127 、128、130が面白いんだけどこれってコピペなん? 世の中才能ある人いるなあ 最近の演奏でおすすめがあったらご教示ください 版を開拓する気はないですが >>167 > この曲をきちんと聴くのは今回が初めてだったのですが おい笑 >いまいちどんなふうに楽しんだらいいのかわからないという人も多いのではないでしょうか。 そういう人向けだから問題なし 藝大出身でそれはどうなのか…と思う箇所 >時代的に録音技術が発達していないので というか、レコード発明以前です >主題と主題までの間の「繋ぎ」 というか、ソナタ形式です >そういう聴き手の感情をあまり気にしていないところに、僕はすごく共感します。 これは良い感想 >>168 「きちんと」にも幅があると思うぞ そうね「通しで聴く」から「分析しながら」まで 誰か ロマンティック 止めて ロマンティック 耳が 耳が 痛くなる 伝説の驚愕演奏・ 宇野功芳/《ロマンティック》 強烈な文章で人気を博す音楽評論家、宇野功芳氏は、個性的な指揮活動でも知られ、その特異なまでの演奏で良くも悪くも大きな話題を提供し続けていることはご存知の通り。 その宇野氏が真にやりたい放題の凄まじさをみせていたのは1980年代の演奏であるとされ、中でも日大管弦楽団とのブルックナー4番には定評(?)があり、マニアの間では語り草でしたが、今回その録音がとうとうCD化されました。 1981年6月20日のステレオ・ライヴで、宇野氏はこの時がコンサート指揮者としてのデビューにあたります。演奏ですが、これはもう皆様お一人お一人がご自身の耳でご判断いただきたい、としか言いようのない驚くべき内容。 《フィガロの結婚》序曲からして突拍子もないテンポの変転と壮烈なダイナミクス、異様なバランス設定に仰天、まして本編のブルックナーには形容の言葉もありません。このとんでもなく超個性的な指揮についていった日大オケの奮闘ぶりには、本当に頭が下がります。 今回このCDをリリースした「グランド・スラム」は、いまや伝説のマニア御用達季刊誌「クラシック・プレス」編集長として健筆を振った平林直哉氏が設立した自主制作レーベル。演奏当時の日大オケ団員であり、また選曲委員長として「宇野氏招聘」の張本人でもあった氏自ら、そのいきさつをライナーノートに執筆しています。 「交響曲第4番 変ホ長調 「ロマンチック」」 ブルックナー:作曲 (管弦楽)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、(指揮)ヘルベルト・ブロムシュテット (1時間5分24秒) >>175 4楽章しか聴けなかったが ドン引きするほどあまりに完璧なバランスのとり方だった神業 ブロムシュテットのブルックナーは好きではないが VPO相手にここまでできるのか メータもハイティンクも、WPH振るといい メータが若い頃LAPとやった8番は、ちょっとアレだったが 自分の刷り込みはヴァントとWDRの全集。エキサイティング ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.4.7 2024/03/31 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる