モーツァルトとベートーヴェンはどっちが凄い 19
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前スレ
モーツァルトとベートーヴェンはどっちが凄い 18
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1527425706/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured 要するに、音を聞くのは耳
耳が付いている生命なら、周波数帯域に違いがあるけど
だいたい同じように聞こえるはず
問題は、こころ
人間には、いいか悪いか別にして、心が発達していて、妄想に次ぐ妄想をするようにできている
だから、感激したり、興奮したりする
クラシック的感動とは、そんな、たわいもないもの マーラーやシューマンは精神性が低く、ベートーヴェンは精神性が高いのか、、
www シャイーいいね
こういうのをピリオドアプローチっていうのかな?
ピリオドとモダンと良いとこ取りみたいな
違ってたらごめんw シャイーはピリオドとか関係なくサクサク振る指揮者だから良くわからん モーツァルトっぽい曲が流れてるなぁって思ったらハイドンの曲だったwってのはよくあるんかな? ハイドンを聴き始めるといつも
モーツァルトを聴いた方がいいなと思ってしまう モーツァルトは作曲がほぼ快楽
ベートーヴェンは結構苦悩 モーツァルトの良さがわかりません
僕の耳は腐ってるのでしょうか? 俺も高校生くらいまでモーツァルトの良さがわからなかった
チャラチャラした軽い音楽しか作れない奴と思っていた
彼の音楽の背後に広がる世界に気づき始めたのは大学にはいってからだった モーツァルト
39→ムラヴィンスキー
40・41→ショルティ/ヨーロッパ室内管
ただし3大ツィクルスとしてはアーノンクール
レクイエムはカラヤン/ウィーンフィルの最晩年のやつ
ベートーヴェンの交響曲はアーノンクールとラトルにしとけば間違いないでしょう 小林秀雄ってなかなかと思うが、多母国語の人たちでかれを褒めているのは聞いたことない
やはり日本だけで通じるポエムなんだろうな 「疾走する哀しみ」なんて今となっては失笑ものでしょう
所詮印象批評、この国の文明開化の後進性だよ 高橋英夫氏は第U章「逃走」の中で、この話をさらに掘り下げ、小林秀雄はゲオンの言葉を誤訳したのではないか書いています。
「小林秀雄が、ゲオンのいう allante を『疾走する』と訳し、『モーツアルトのかなしさは疾走する』といったのは小林秀雄的『誤訳』、一種の創造的誤訳ではなかったのか!?」
「ゲオンは tristesse allante を直接にはニ長調の『フルート四重奏曲K.285』の第1楽章について言っているのである。
もちろんすぐ続けて、その曲が後の傑作、ト短調の『弦楽五重奏曲K.516』の冒頭の『新しい音』を時に響かせていると述べているし、
K.516を語った個所からも、ゲオンがこのト短調の中にやはり tristesse allante を感じていたであろうことは察しがつくのであるのだが」
「しかし、訳語の『疾走する』はもう少し問題にしなければならない。語学的にはそれは誤っているが、
だからといって現行の仏和辞典での allante の訳語『動き回ることの好きな、活動的な』、『元気旺盛な、はつらつとした』、
『活動的な、元気な』を持ってきて、例えば『活動的な悲しみ』、『はつらつとした悲しさ』というふうに言い表せば、的確と言えるだろうか。
それでもまだぴったりしないように思われる。
これは『陽気で軽快』ではあるが、、中には『悲しみ』がたたえられているという二つの矛盾した特性の融合なのである。
アンビヴァレンツを含んでいるのである。ゲオンが言いたかったのはそれであろう。
このように了解した上で、おそらくいかなる訳語も完全には表現しきれないモーツアルト的本質がそこにある、と受け止めるほかない」 うーん、はつらつとした哀しさの方がいいと思うがなあ
疾走すると訳すとモーツァルトの曲が辛気くさいと勘違いされる 今となっては関わるのは無意味な人なんじゃないですかね 久元祐子・演奏に関する「箴言」
https://www.yuko-hisamoto.jp/aph/gheon1.htm
(フルート四重奏曲ニ長調K285)第1楽章(アレグロ)は、1787年の無二の傑作
『弦楽五重奏曲ト短調』K516の冒頭部アレグロの最高の力感のうちに見出される
新しい音を時として響かせている。それはある種の表現しがたい苦悩で、流れゆく
悲しさ(tristesse allante)、言い換えれば、爽快な悲しさ(allegre tristesse)
とも言える《テンポ》の速さと対照をなしている。この晴れやかな陰翳という点か
らみれば、それはモーツァルトにしか存在せず、思うに、彼のアダージオやアンダ
ンテなどのうちのいくつかをよぎる透明な告白よりもずっと特殊なものである。
アンリ・ゲオン まあ文章書かせたら文系はダメってのは常識「理科系の文章技術」って本は文系理系問わずオススメ >>881
それは、小林秀雄の文章が破綻しているという批判なのかな、実際に本を読んでそう思ったのかな? 「国境の長いトンネルを…」「我輩は猫である。名前はまだない。」「春はあけぼの」とか小説や随筆なら読んだことないのにそのフレーズだけは知っているっていうのはある
…けど評論という体裁の文章でそこだけ切り取られて有名なフレーズってのは他に心当たりがないこれはけっこうスゴイことではなかろか
ただし個人的にはモーツァルトに疾走するイメージはまったくない
「おいていかれる」感覚はときどき受けるがこれは疾走するスピードではなく変わり身の早さゆえだモーツァルトは足は速くないが身が軽い 評論は大きく分けて、三つのものがあると思う
1、既存の価値観に照らし合わせて新しいものを評価する
2、新しい価値観に基づいて古いものを再評価する
3、新しい価値観によって新しいものを評価する
疾走するモーツアルトという詩的な表現は、それまで日本人が誰も公きすることがなかったモーツアルト像を提示するとともに、音楽という非言語を言語化する可能性をひろげた
出版から長い時間を経た現代からみると、表現の正確性には様々な異論が出る可能性は否定し得ない
氏を知らねえよというのは、歴史に興味ないのと同じで一つの生き方ではあるが、知らないのに批判するとしたら、ベートーベンをまともに聞いたこともない人間が、あんな退屈な音楽と言い捨てるに等しい てか、小林秀夫よりお前らの方がよっぽどモーツァルト聴いてるだろw 別に音楽についてに限らず小林秀雄は読んだけど、正直古いと思ったな。
でもそれは彼の見方が今じゃ広く一般常識(的)に共有されてるからかなと思う部分もたくさんあった。
「疾走する哀しみ」は個人的にはちょっとキザじゃねと思うw 歌物の良さが全然わからなかったんだけど、モーツァルトのK.108レジーナ・チェリ聴いて初めて歌物を素晴らしいと思った。
それでアーノンクールのモーツァルト宗教音楽全集買って聴いてるんだけど、レクイエムやミサソレムニスやハ短調ミサやら素晴らしいね。
今までベートーヴェンのほうがやや上かと思ったけど、モーツァルトは宗教曲やさらにオペラもあるんだから五分かそれ以上かもね。 そもそもクラシックの起源はグレゴリオ聖歌だと言われるくらいだから歌物聴かないとクラシック好きとは言えない 最も古いクラシックって?〜現存最古のクラシック グレゴリオ聖歌を聴く〜
http://gotamag.com/books/gregorianchant/
この記事でグレゴリオ聖歌の「怒りの日」について
「題名からは想像もつかないような癒しBGMの雰囲気に、思わず笑ってしまいました。」とあるが、
この「怒りの日」はベルリオーズ「幻想交響曲」終楽章などで使われた有名な旋律ですよ というか、ベルリオーズ「幻想交響曲」終楽章を聴いて、金管で「怒りの日」の旋律が奏でられることに気付かないのは魅力半減だと思う ちなみに「幻想交響曲」はベートーヴェンと比較してかなり新しい曲だと思われがちだが、1830年作曲・1832年初演とそこまでではない グレゴリオ聖歌の旋律を交響曲で使うのはベルリオーズが最初ではなくハイドンもその一人で30番「アレルヤ」は有名だね
ハイドンは聖歌に似せた素朴な主題を自作し変奏曲として交響曲によく採用してる
一番好きなのは75番の2楽章で、ヴァイオリンとチェロの二重奏が聞けるところがグッド マーラーが苦手とか言っちゃうクラヲタは
クラ聴くセンスが無い ブルックナーとかマーラーが良い人はテレビの砂嵐とかも好きだと思うんだよ モーツァルトの音楽って意外に脳が疲れるんだよな
ロココ・ギャラント様式の音楽で実はアクが強い
クリエイター系の人で仕事中にモーツァルト聴くって人がいるけど、俺には信じられない
脳をニュートラルな状態にしてくれるのはバッハ でもまあ意外と疲れるっていうのはわかる気がする。
て言うか、いい音楽で仕事中に聴くとか脳をニュートラルにするとかってある?
いい音楽ほど仕事そっちのけで夢中になるし、興奮してニュートラルから程遠い状態になるんじゃない? ピアノ協奏曲の十番代ばかり聴いてるけど疲れたことなんてないよ ピアノ協奏曲の9番を聞いて次に22番を聞くと、木管楽器の扱いが熟達していて驚く 時々弦が沈黙して木管の室内楽とピアノの掛け合いを聴いてるようなピアノ協奏曲といえば17番じゃないだろうか その流れで、久しぶりに23番聞いてみた
陳腐で、色あせたような演奏、途中で止めた
アシュケナージ・フィルハーモニア管 >>907
19番あたりでもすごいんだが24番となるとほとんど
ピアノと木管のための協奏曲って感じ>木管楽器の扱い ベトの音楽は、ああこういうつもりで作ったなってのが分かるのが
聴き手の若いうちは感心、興奮、ひれ伏したりもするんだけど、
そのうち「ああもうわかったよ」ってなるところがある。
まあ全部それじゃないけど。 別に普通の能力でわかるよ
よしそれが誤謬であってもベトの曲はそういうことを考えさせるところがあるのは確かだと思う 「そのうち「ああもうわかったよ」ってなるところがある。 」そうかな?
一流の指揮者やピアニストが、演奏するたびに新しい発見があるって言ってる
俺は、ベートーベンは何回聞いても飽きないよ、特に、ピアノソナタ >>913
分かるよ。
すでに音楽そのものがオワコン化してる現代人の耳には、音楽って素晴らしい!ってやられても白けるだけなんだよなぁ。
ベトの音楽にはとりわけそういう汗臭さというか、説教臭いところがあって、食指が動かない。
モーツァルトはそういう俗っぽさとは無縁で、まったく嫌みがない。
モーツァルトにとって、音楽は自然や世界そのもので不可分のものという気がする。
こんな風に思わせる音楽家はモーツァルト唯一人!…ってのは万人の感慨なんじゃないか。 貴方はそう考えるのは、結構ですが
万人の考えじゃないか、と言うのは、違うと思いますよ
僕は、モーツァルトは飽きたけど、ベートーベンはずっと聞いていくと思います
実際、僕のCDボックスは、ほとんどベートーベンのピアノソナタで、いつも聞いています モーツァルトに飽きるような耳で聞くベートーベンというのも、随分薄っぺらと思われるが、また、それも人生色々 じんせいーーーイロイロ
島倉千代子はいいなあ〜って、圓楽が言ってた モーツァルトに飽きた人は誰のベートーヴェンのピアノソナタが好きなの? キャパシティが小さく感性が歪んでいて根性のひん曲がっている奴がどっちかをけなしているだけなんだがね どれも素晴らしいと思いますが
5、8,9、14、15、17、19,20,21、22、25、29
は、ほとんど聞きません モーツァルトのピアノ協奏曲に29番なんてないなと思ったら
ベートーヴェンのピアノソナタかwww
半分は聴いてないのか それって >>936
あなたを温かい気持ちにするのは、そんなに凄いことなの? 第九はティンパニ交響曲なのでホグウッドがベスト、ただし終楽章を除く 昨今では「モグリでしょ」は通じないのか「ニワカでしょ」これなら通じる? 11月だってのどこもかしこもクリスマスソングばっかでうんざりだ
いくら名曲でもクラシックまで第九ばかりになるのはせめて12月に入ってからにしてくれ
第九はフィナーレだけだと思ってるのは当の合唱団員に多いらしいね
年末の第九ってのはオケ団員の餅代稼ぎに始まったそうな日本じゃ合唱団はふつーアマチュアだから
アマチュアってのは客連れて来るらしい日常業務のオケ団員と違って合唱団員にとっては少なくとも数ヶ月場合によっちゃ一年間の練習の仕上げの晴れ舞台だから;親せき縁者一人が二人連れて来るだけで200人になるからね >>943
でもべーやん自身は第九の終楽章をオケだけのものに置き換える計画持ってたそうよ
となると当然第九の終楽章は大フーガと同じく単独曲だ
(当然あの1〜3楽章の否定部分は削除) もともとは器楽のフィナーレの作曲に詰まって同時に作曲してた幻想合唱曲だったか?と一緒にしちゃったらしいよ
初演はそれがウケたけど再演は不評で器楽のフィナーレ作り直すかと言ってたってのも本当のようだけど
どっちにしろ第九と言えば合唱曲であって器楽だけの楽章なんて余分だ!なんていうニワカというか知ったかには第九の本当の聞きどころは第三楽章までだ!と説教かましてやるべきでしょう >>947
低次元の仮想敵をわざわざ作って、低レベルの仲間で盛り上がらなくても 最終楽章もテノールのあとの器楽だけの長い間奏みたいなところが好きだな。
あそこはいつ聴いても感動する。
最後の最後で声楽にええところ持っていかれちゃったけどやっぱりベーやんは器楽やでって。 >>949
同感!
そのあとのおずおずと助走をつけてのオケトゥッティフルコーラスでの歓喜の歌はなんというかズルイと思う
ここで涙がにじんでこないようであれば演ってる方か聴いてる方か少なくともどっちかに問題ありだ >>950
自分はどっちかつとテノールのマーチに男性合唱が入ってきて
それが頂点に達したあとオケだけが残って疾走し始めるところが抜群にしびれる
コーダ除いて最後の器楽の花道
今まで全9つの交響曲を築いてきた器楽の最後の見せ場
こっちが本当のベートーヴェンだろみたいな レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。