>>3
1958年、フランス政府給費留学生の試験を受けたが不合格となる。

しかし、成城学園時代の同級生の父である水野成夫たちの援助で渡欧資金を調達。 1959年2月1日から、スクーター、ギターとともに貨物船で単身渡仏。

このとき、小澤というアシスタントを失うことを恐れた齋藤からは渡欧について猛反対を受けたが、
桐朋の父兄会や水野成夫たちの支援を得て、1200ドル(約45万円)の餞別を受けた。

1959年パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。
ヨーロッパのオーケストラに多数客演。

カラヤン指揮者コンクール第1位。
指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。

1960年アメリカボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)で
クーセヴィツキー賞を受賞。
指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。

1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。
指揮者のレナード・バーンスタインに師事。

同年ニューヨーク・フィルの来日公演に同行。
カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

1961年にNHK交響楽団(N響)の指揮者に招かれ指揮活動を開始するが、
感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。
小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任
(これはN響事件、小澤事件、N響小澤事件などと呼ばれる=後述)。

このため日本では音楽活動をしないと決め、渡米した。
その後、NHK交響楽団とは32年の歳月を経て1995年1月に共演を果たしている。