■■■フルトヴェングラー32■■■
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
古いタイプのマグネトフォンFT4(K4)について
ドイツ占領下のリトアニアのラジオ局に持ち込まれて
その後1965年まで現役だったという。
ttps://museumofmagneticsoundrecording.org/ManufacturersAEGMagnetophon.html
製作時期こそDCバイアスだが、実際には機械部分はそのままで
ACバイアスに改造して製造し続けたとも言われる。
ttps://www.radiomuseum.org/r/aeg_magnetophon_k4_k_4.html
こちらはスウェーデン放送局の話
この時期のストックホルム演奏会がテープ収録だった可能性が高い。
ttps://www.filmsoundsweden.se/backspegel/magnetophon.html スウェーデンにマグネトフォンが入った経緯は
1940年のヘルシンキ五輪のために大量に購入したが
大会が中止になったため、スウェーデン・ラジオがもらい受けたという。
この時期はシベリウスがテレフンケン製の高級ラジオを聴いてた時期とも重なる。
ttps://www.youtube.com/watch?v=nuHwwhGw7qo
ttps://www.radiomuseum.org/r/telefunken_spitzensuper_7001wk.html
Hem fran Babylon(1941)などの映画製作でも使用され
今でも十分高いクオリティを示す。
ttps://www.youtube.com/watch?v=vVpj9WovNl8
ttps://www.filmsoundsweden.se/backspegel/cmv3.html
ではフルトヴェングラーは? 日本もテープが余りそうなのでNHKがもらい受ければ...
でも現代だとしょうもない事に消費しちゃうよね。 8K用望遠レンズだけでも1本2000万するというので
他の民放や映画製作にも無償貸出すればいいかな。 1941年周辺のマグネトフォン・コンサートの記事
ttps://furtwaengler.org/download/Auftakt_und_Ausklang.pdf
1941年6月にUFA-Palast am Zooでのデモコンサートが企画された。
フルトヴェングラーは1940年12月にブラームス1番のデモ録音をしており
このレコードコンサートのトリもフルトヴェングラーの演奏だった。
この続きが1942年にずれ込んだのはスキーによる骨折事故のせいだと言われる。
この映画館は1943年の空襲で破壊されたが
1912年に動物園と併設して建てられたレンガ造りの建物に
1941年時点でどういう音響設備があったかはあまりよく判らない。
ttps://alchetron.com/Ufa-Palast-am-Zoo
1930年代のものであればEuropaである。
ttps://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10392&i=10518
1940年代で最大級はEuronorだが以下の写真はストックホルムである。
ttps://www.filmsoundsweden.se/backspegel/euronor.html 1941年のUFA主催の公開コンサートは大成功を収め
50近い報道機関により大々的に知らされたが
翌1942年のゲッペルスのコメントにより、一気に冷え込んだという。
「交響曲全体を細いテープに録音できるようになりました。
このプロセスが発展し続ける場合、
戦後、それはレコード業界全体に大混乱をもたらすでしょう。
したがって、私はそのような広範囲にわたる発明を民間企業に
委託したくありません。」
ttps://www.opusklassiek.nl/cd-recensies/cd-gvdl/furtwaengler_1939_1945_contents.pdf
とはいえ、その後の3年間に40近いコンサート収録が行われ
リトアニアやストックホルムでの例を挙げると
マグネトフォン技術はドイツ国外でもラジオから映画まで広く使用していたわけで
戦後の紆余曲折がありなから現在でも楽しめるわけだ。
ttps://furtwaengler.org/download/RundfunkSenAuf.pdf クルト・リースの伝記では
フルトヴェングラーが1941年に骨折のためウィーンで療養中に
はじめて自分の演奏をラジオ放送で聴く決意をしたと記述し
それが演奏中は忘我の状態でいるのを客観的に聴くためだとしている。
一方で、AEGの開発担当だったハンス・シーサーの証言では、
1940年12月16日のブラームス1番の録音の際に
「フルトヴェングラーはその録音品質に興奮し
何度も何度も録音を聴き返しました。
録音中や録音直後にそのような品質で聞くことができることを
彼は経験したことがなかった。」とあるので
自分の演奏をプレイバックで確認するという行為はすでに経験済みである。
ちなみに録音会場での確認は
ベイヤーダイナミック製のDT48ヘッドホンで試聴したと考えられ
ラジオ放送の品質よりもずっと鮮度の高いものを聴いたと思われる。
1941年のUFA Palastでのテープ再生コンサートに同意したのも
この新技術が既に実用段階に達していたと理解したのだ。 1941年6月のマグネトフォン・コンサートから得られることは
録音そのものはRRG局のシュナップ氏が担当したものの
その再生機器に関してはUFA(Klangfiim)が先導してプロモートし
その結果にフルトヴェングラー自身も新しいプロセスだと確信した
ということになる。
この1940年12/16録音のラジオ放送は1940年12/28〜41年1/5にかけ
テオドール・ベルガーのロンディーノ・ジョコーソとバッハのブランデンブルク5番と共に
デンマーク、ウィーン、ドイツで流された。
続けてブラームスP協2番(E.フィッシャー)、シューマン1番、ブルックナー7番などが
録音されたが、スキーの怪我のため長期療養に入る。
一方で、この技術が民生用に広まるとレコード業界に打撃を与えると
ゲッペルスはいらぬお節介をして政治利用しか許さなかった。
面白いことに療養中の4〜10月までは放送記録そのものもなく
2〜3月に放送した演奏が複製であることを悟られることを懸念したかもしれない。 UFA Palast am Zooでのマグネトフォン・コンサートのPA機器だが
客席2,000相当の規模だと44010 Europa Klartonということになる。
(以下の1942年カタログ P.10〜13)
ttps://www.filmsoundsweden.se/backspegel/aeg-klangfilm.html
これがフルトヴェングラーの最初のマグネトフォン体験となる。
少なくとも戦中のフルトヴェングラー周辺の音響技術が
現在のAMラジオで聴くような音質ではないことは理解できよう。 放送局側のモニターシステムは50〜10,000Hzを保証していた。
クラングフィルム Eckmiller型同軸2wayスピーカー
ttps://docplayer.org/58552474-Der-eckmiller-lautsprecher-6-charakteristische-groessen-fuer-die-elektroakustische-beurteilung-eines-lautsprechers.html
ttps://www.klangfilm.org/data/documentations/loudspeakers/loudspeakers/rrg_o15/02.jpg
ベイヤーダイナミック DT48型ヘッドホン
ttps://www.kaden-kensaku.com/blog/history-headphone/
ttps://www.filmsoundsweden.se/voxbilder/filmhist/magnetophon/radiotekniker_k4.jpg
ttp://cent20audio.html.xdomain.jp/Dresden-Buehlau-1948.jpg 読んでると言った奴、ちゃんと責任持って全部読んでるんだろうな >テオドール・ベルガーのロンディーノ・ジョコーソ
これ聴きたいんだけど、CD出てる? >>964
フルトヴェングラーの録音は失われていて
ベーム、クナッパーツブッシュ、ストコフスキー、コンヴィチュニーが録音している。
ちょっとしたアンコール・ピースのような小品だが
こうした現代作品を差し挟むのもフルトヴェングラーの演奏会には多い。 いや、曲は知ってる
クナ盤を持ってるしサヴァリッシュがN響で披露したのを聴いた
しかし、わざわざ録音したものを無くしたのか… 初期の録音テープが失われる機会は色々あって
1941年の時点では交流バイアス化されたK4レコーダーが試作品しかなくて
テープのコピーが残されないまま消去されたと考えられる点。
同時期の録音でテープが残っているものはほぼ皆無だ。
交流バイアス化が遅れた理由は、既にドイツ軍が直流バイアス式を大量発注したものの
生産が間に合わないなか、途中で仕様変更することを禁じたとも言われる。
もうひとつは、ゲッペルスが1942年にマグネトフォンと録音テープの商用利用に反対したため
(その理由が「レコード業界を混乱に陥れる」という他愛ないものだった)
1942年以降レコード化などの目途も立たないままテープが保管庫に眠っていたこと。
これは1941年のマフネトフォンコンサートの成功が新聞メディア等で大々的に宣伝され
1940〜41年にはフィンランド、スウェーデン、リトアニアなどにも幅広く量販してたのだが
ゲッペルスの発言後は急速に軍事機密扱いになったこととリンクしている。
最後のひと押しが戦後のソ連軍によるRRG録音テープの接収。
ただそれまでにドイツ国内でも諜報活動も含むマグネトフォンの扱いに紆余曲折があり
フルトヴェングラーの演奏記録も用途がかなり制限を受けていたと言うべきだろう。 当時のフルトヴェングラーの放送記録をまとめたものを参照すると
ttps://furtwaengler.org/download/RundfunkSenAuf.pdf
1941〜45年は外国遠征以外での生中継はしておらず
基本的にマグネトフォンでのテープ録音を放送している。
ベルリン空襲は1940年のロンドン誤爆以降続いており
1943年以降は制空権も失い昼夜問わず行われたので
生中継は空襲のリスクが大きく回避したと思われるが
マグネトフォンが高音質だったゆえの奇策だったことになる。 1941年に観客2000人のもと行われたマグネトフォン・コンサートで重要なのは
新しく交流バイアス化されたテープ録音機(50〜10,000Hz、S/N=60dB)のお披露目であり
それがラジオ用に限定した録音規格ではなく、もっと包括的なハイファイ技術のデモだったことだ。
その音響効果を確認する目標として、フルトヴェングラーとベルリンフィルの演奏が選ばれ
巨匠も新しい録音技術そのものへ同意して、その後の録音活動に協力した。
それは1941年以前の録音嫌いとは全く違う態度だったとみていい。
実態のない精神主義的な演奏論とは、むしろ決別する方向で未来を見ていたとも言える。 ちなみに今も曖昧になっている1941年のスキー事故の日時だが
クルト・リースの記述通り、入院中に聞いたラジオがブルックナー7番だとすると
演奏はウィーンで2月2日に行われ、RRG放送が確認できているのが2月23日
となるので、この3週間の出来事と考えられる。
その後は3/22放送を最後に10月の退院後の演奏会まで放送は途絶えるのだが
おそらくヒトラーがマグネトフォンを利用した演説放送で居場所をくらましていたのに対し
入院して演奏できないフルベンの録音が流れるのは不都合だと気付いたのだろうが
記録として2/23と3/22の放送が残っているため、入院時期を春として発表した
と考えるのが妥当だと思う。 ちなみに1940年12月から1941年2月までに録音された曲は以下のとおり。
おそらく1940.12と1941.01はコンサートを含め3日演奏しているのと
巨匠自身が録音の途中でもテープの内容を繰り返し確認したとあるので
セッション録音と同等の条件で録られたと予想される。
1940.12.16
Berger: Rondino giocoso
Brahms: Symphony #1
Bach: Brandenburg concerto #5
1941.01.12〜14
Brahms: Piano concerto #1 / Edwin Fischer
Schumann: Symphony #1
R.Strauss: Tod und Verklarung
最後のウィーン公演だけが本番一発録りで
巨匠が入院中にラジオで自身のライブ録音をはじめて確認したという
クルト・リースの証言もあながち嘘でもないような気がする。
1941.02.02(ウィーン公演)
Smetana: Die verkaufte Braut Ouv.
Zilcher: Violin concerto / Erich Rohn
Schubert: Violin rondo, D 438 / Erich Rohn
Bruckner: Symphony #7 >>936
「3)修正アメリカン(フルヴェンが考案とも) Vn.1-Vn.2-Vc-Vla」
これは、ドイツ型と言われる配置で、アバドがBPOに就任した頃は、ほとんどこの配置でしたね。 カラヤンもライブでは基本的にはドイツ型だったのだが。。。
ttps://img.hmv.co.jp/image/jacket/800/97/5/5/049.jpg
ttps://img.hmv.co.jp/image/jacket/400/36/2/7/514.jpg
ttp://img-cdn.jg.jugem.jp/5a9/3349251/20160331_1622422.jpg
指揮者の個性に比べれば、サウンドや演奏スタイルに弦楽配置はそれほど影響しないし
ベルリンフィルのアメリカ型配置はステレオ・レコードに合わせたパフォーマンスだと思う。 >指揮者の個性に比べれば、サウンドや演奏スタイルに弦楽配置はそれほど影響しないし
めちゃくちゃ影響する。というか配置は個性。
両翼を知らない人かな? 両翼配置がフルベンとカラヤンの演奏を隔てる理由にはなってない。 運命の第一楽章や、第九の第二楽章は両翼配置でなけりゃと思う。 当人が両翼にこだわってたのに、そこを軽視するファンが居るのは驚きだ サウンドにめちゃくちゃ影響するというんだから
モノラル録音からでも伝わるのだろう
よくわからんが 反応が薄すぎて失望したんじゃないか
ほほうと感心してただただ見ていたんだが 両翼配置は
クレンペラー、ムラゥィンスキー、クーベリックが
拘っていた。
所謂ストコ配置はステレオ録音で多数派になっていったのかね。
バイオリンが隣同士のが音合わせやすいという事情もあるのかもしれないが 指揮や演奏すると分かるけど
ストコ配置は弾きやすい >>982
そりゃ、弦で一番掛け合い多いのは、ファーストヴァイオリンとセカンドヴァイオリンだからね
だから、演奏は当然難しくなるが、両翼配置は古典的な配置で、昔の有名な作曲家はこれを前提にサウンド構築している(悲愴が有名)
そこらへんも含めた指揮者のこだわりの変数なんだろう
ただ、ストコ配置はコンマスとチェロトップが遠くなり、しかも途中にウロチョロする指揮者の姿が目線に入るので、存外これも合わせにくい、ファーストヴァイオリンとチェロは外声同士なので、正しくオケのサウンドのフレームになるからここのアンサンブルの精度も無視はできないからね
あと、大して上手くもないアマチュアが通ぶって両翼配置をオレタチ本モンダゼースゲーダロー的雰囲気醸し出しながらやっているのは、傍からは失笑でしかないのではあるが 両翼はVnの振り分け効果も大きいが
なによりチェロが正面に居る効果が凄い
チェロを右にまとめるとサウンドが薄っぺらになる チェコフィル始め東欧オケに見られるコントラバス横一列配置
全てを包み込むバスが素晴らしい
ストコフスキーはきっと片耳が悪かったのだろう ウィーンフィルやN響の(元?)定位置
ヴィオラが左のやつが一番合理的かもな
客席にチェロが側板向いてるよりは表板向いてる方が良いに決まってるし、ヴィオラは裏板が客席に向いてるのが楽器的にあってる
でもヴァイオリン両翼も作曲家の意図含め、サウンドの的な美しさは独特のものがある 的な→(削除)
コントラバス横一列はMVでのウィーンフィルが有名人だが、コントラバスは弾きにくいだろうな
しかしMVで聴くウィーンフィルは最高 戦時中までは古典式Vn1-Vc-Vla-Vn2
ttps://c8.alamy.com/comp/D868NH/berlin-philharmonic-under-furtwangler-1932-D868NH.jpg
復帰演奏会だけアメリカ式Vn1-Vn2-Vla-Vc
ttps://furtwangler.fr/wp-content/uploads/2017/05/Titania-Palast-mai-1947.jpg
ttps://photox.pchome.com.tw/s13/joehauz/98/142036409965/
その後はドイツ式Vn1-Vn2-Vc-Vla
ttps://www.youtube.com/watch?v=UUm-VfeCFBI ベルリンフィルはティンパニが第二の指揮者と言われてるから弦の配置が変わっても、
ティンパニは常に指揮者の正面に陣取っている。 ・1940年末までにマグネトフォンK4を交流バイアス化した試作機は完成しており
50〜10,000Hz、S/N=60dBをもつHi-Fi規格であった。(従来:100〜6,000Hz、40dB)
マグネトフォンK4は1941年までフィンランンド、スウェーデン、リトアニアと広範囲に販売されていた。
機密扱いになったのは1942年にゲッペルスが「テープ録音機はレコード業界を混乱に陥れる」という理由で
民間での販売を禁止したことによる。
・1940年12月に録音されたフルトヴェングラー/BPOのブラームス1番(現在紛失)では
巨匠も「その録音品質に興奮し、演奏中や演奏直後に何度も何度も聞き返した」とある。
この録音テープはベルリンのほかウィーン、コペンハーゲンなど広範囲に配信され
1941年6月にはクラングフィルム製PA機器で2,000人規模のコンサートが行われ大盛況となった。
このため戦中の録音品質はラジオ規格を越えた包括的なHi-Fi規格であったことが伺える。
・クルト・リースの著書で巨匠が入院時にラジオで自身のブルックナー7番を聴いたとの記述より
スキー事故は1941年2月2日のウィーン公演から2月23日のRRG放送までに起こったと推定される。
「春頃」とされる記録は3/23の放送が録音テープによることを隠ぺいするためだったと思われる。
・1942〜45年のフルトヴェングラーのマグネトフォン録音はベルリン空襲の激化と関連しており
この時点で巨匠のベルリン公演は実況中継が行われず録音テープでの放送のみとなっていた。
・1949年以降のライブ録音はFM放送向けのHi-Fi規格で録音され、ドイツ製ラジオも2wayスピーカー付だった。
・荻昌弘著「ステレオ(1968)」にバイロイトの第九が「総練習の実況録音といわれる」と記されていた。 総じてこのスレの後半は久々に読みごたえがあったので保存した
こことカラヤンスレもほほうと思いました
中の人ありがとう
>>996
乙 従来のライブ録音の音質評価で改めるべきこと
・1950年代ドイツのライブ録音はAM放送用のローファイ規格である
→1949年より50〜15,000HzのFM放送が開始されていた
・ライブ録音はラジオ用なので高級オーディオとは相性が悪い
→クラングフィルムのPA機器でコンサートが開けるクオリティがあった
・モノラル録音なのでオーケストラの音場感は皆無
→多くのステレオ装置は高域の指向性が狭いのでモノラル再生が貧弱になる
モノラルにはモノラル専用の再生装置が必要である
・古い録音はCDよりLPのほうが音が良い
→LP時代に放送局オリジナルテープが使えた盤は一握りであり
ほとんどのタイトルは2004年以降にCDリリースされたものが優位である
・なぜオリジナルテープが今頃出てきたのか
→ラジオ局は個別の演奏家と専属契約を結んでいなかったので
著作権の関係で演奏家の没後50年まで封印されていた
・サブスクなどネット音源はどうか
→デジタル・アーカイヴの在り方と関連するのだが
ドイツでは文化を広める広報活動の一貫として考えているので
サブスクで比較的どの音源もCDと同じ音質で提供している
(古文書類のファクシミリの扱いもほぼ同じである)
逆に日本やイギリスは商業活動や保護団体への対価がメインになるので
デジタル・コンテンツは全て有料で提供される
この辺はレコード販売での著作権保護の考え方が踏襲されている
ベルリンフィルのような団体は著作権上の法人として生きているので
自主レーベルの運営も兼ねてサブスクへの解禁はほとんどしていない ・サブスク音源があるのにCDやSACDでの販売は意味があるのか
→現在のサブスク音源はFLACによる非圧縮音源という提供だが
デジタルの七不思議でパソコンのソフトウェアではジッターが多く
音に深みがない、出音に滲みが出るなど音質の面ではまだ課題がある
いずれMQAなどチップ対応の配信が始まれば環境は整うと思う
・2004年以降のオリジナルテープでのLP盤はどうか
→限定盤ながらタイトル数は増えているのが現状だが
カッティング技術についてはアナログ全盛期に比べると競争もないのでまちまち
(ロックやジャズほどの知識がカッティング屋さんにないというのが正直なところ)
モノラル盤といえども1980年代のステレオカッティングレースによるので
古いヴィンテージ機器との相性には限界もある
製造コストもかなり高いこともありマニア向けの商品といえる ・今後CDやSACDの販売はどうなるのか
→CDもLP廃止と同じ40年の歳月を過ぎているので次世代議論は必須
欧米ではネット配信への切り替えが早くから進み
ベルリンフィルの広報も日本でのパッケージ・メディアの売れ行きは特殊だと言ってた
輸入盤で日本語解説付きのSACDが製造される事態にまで発展している
実際には古いオーディオ装置で余生を生きている人が買ってるので
いずれは無くなると思うが、CDが現在のLPと同じように復刻リソースとなる
そういう時が50年後にあり得るかもしれない このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 368日 13時間 12分 1秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。