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0019名無しさん@3周年垢版2018/01/05(金) 21:06:51.72ID:nHEsz0r6
デジタルモノ好きな人におすすめの儲かる情報

グーグル検索⇒『立木のボボトイテテレ』

CNMZ2
0020名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 01:59:59.17ID:UiJm6bjZ
さる人にして、いかで朝廷重くなれば徳川軽くなるの理見えずやあるべき。
0027名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:01:49.37ID:UiJm6bjZ
信長秀吉等は皆朝廷を担ぎて事を図りしかど、家康にはさる事なし。
0028名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:02:05.13ID:UiJm6bjZ
関ヶ原大坂の軍にも、朝旨を受けて、王師皇軍などいふ体を装はず。
0031名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:02:52.30ID:UiJm6bjZ
徳川の末世に及びて、勤王を唱へし徒は、朝廷尊崇をもて東照宮の遺意なるが如く説きて、幕府を責めしかど、実を知らぬ者の迂説なりけり。
0035名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:03:55.34ID:UiJm6bjZ
しかし最も愉快だつたのは鮮かに著者自身の性格を示したやはり数行の感想である。
0038名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:04:42.57ID:UiJm6bjZ
「始めて人を訪へば、知らぬ顔して室内の模様を見届け置くべし。
0041名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:05:29.83ID:UiJm6bjZ
「人物を知らんには、其の人の金のつかひやうと、妻に対する振舞との二つこそ尤も見まほしけれ。
0042名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:05:45.58ID:UiJm6bjZ
若し世に細君の自ら筆を染めて、細かに良人が日常の振舞を書き取れる日記と、金銀出納帳とだにあらば、之れに優る伝記の材料はなかるべし。
0043名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:06:01.26ID:UiJm6bjZ
「世評に善くいはるる人も、実際はそれ程の大人物に非ず、悪くいはるる人も、亦それ程の悪人にあらず、古今皆然り。
0044名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:06:16.91ID:UiJm6bjZ
個人の貫目を量らんには、世評の封袋を除くことを忘るべからず。
0046名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:06:48.31ID:UiJm6bjZ
「成る可く労力を節約して成るべく多く成功するの工夫を運らすべし。
0049名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:07:35.43ID:UiJm6bjZ
「愚人を相手に得々然たること能はざる政治家は、輿論政治の世に政治家たる資格なきものと知るべし。」
0050名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:07:51.18ID:UiJm6bjZ
男女とも尻つ尾さへぶら下げてゐなければ、一人前の人間だと考へるのは三千年来の誤謬である。
0051名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:08:06.94ID:UiJm6bjZ
一人前の人間となる為には、まづ脳髄と称へられる灰白色の塊にも一人前の皺襞を具へなければならぬ。
0052名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:08:22.58ID:UiJm6bjZ
この大久保湖州と云ふ書生は確かに孔雀や猿を脱した一人前の脳髄を所有してゐる。
0055名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:09:10.20ID:UiJm6bjZ
天下にかう云ふ文章ほど、一人前以上の脳髄の所在を歴々と教へる指道標はない。
0056名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:09:26.18ID:UiJm6bjZ
僕は皺くちやになつた五十銭札を出し、青黒いクロオスの表紙のついた「家康と直弼」を買ふことにした。
0057名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:09:41.96ID:UiJm6bjZ
買つた後に開いて見ると、巻頭には近衛公の題字を始め、重野成斎、坪内逍遥、島田沼南、徳富蘇峰、田口鼎軒等の序文だの、水谷不倒の「大久保湖州君小伝」だの、明治趣味の顋髯を生やした著者の写真だのもはひつてゐる。
0060名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:10:29.29ID:UiJm6bjZ
すると諸名士の金玉の序文も「家康と直弼」を伝へることには失敗したと云はなければならぬ。
0062名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:11:00.67ID:UiJm6bjZ
才人だと思つた大久保湖州も或は大学の教授に多い、荘厳なる阿呆の一人だつたかも知れない。
0063名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:11:16.32ID:UiJm6bjZ
僕は夜長の電燈の下にかう云ふ疑惑を抱きながら、まづ彼の大作たる家康篇を読みはじめた。……
0066名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:12:03.42ID:UiJm6bjZ
爾来僕は何かの機会にこの忘れられた歴史家を紹介したいと思ひながら、とうとう今日に及んでしまつた。
0067名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:12:19.07ID:UiJm6bjZ
紹介したいと云ふ以上、湖州大久保余所五郎の才人だつたことは云ふを待たない。
0068名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:12:34.80ID:UiJm6bjZ
いや、湖州は明治の生んだ、必しも多からざる才人中、最も特色のある一人である。
0070名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:13:06.21ID:UiJm6bjZ
諸君の確信する所によれば、古今の才人は一人残らず諸君の愛顧を辱うしてゐる。
0071名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:13:21.83ID:UiJm6bjZ
況や最も特色のある才人などと云ふものの等閑に附せられてゐる筈はない。
0073名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:13:53.32ID:UiJm6bjZ
第一古今の才人は何も才人だつた故に諸君の御意にかなつたのではない。
0075名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:14:24.82ID:UiJm6bjZ
つまり才人を才人にするのは才人自身といふよりも諸君であると云はなければならぬ。
0077名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:14:56.33ID:UiJm6bjZ
如何なる才人も諸君の為に門前払ひを食はされたが最後、露命さへ繋げぬのに違ひない。
0079名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:15:27.70ID:UiJm6bjZ
この故に亦大久保湖州も明治三十四年出版、正価一円二十銭の著書を、――
0080名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:15:43.48ID:UiJm6bjZ
しかも彼の唯一の著書を「引ナシ五十銭」に売られてゐるのである。
0083名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:16:30.62ID:UiJm6bjZ
その代りに僕は諸君の愛顧を辱うする光栄を得なかつた湖州の薄命を弔はなければならぬ。
0084名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:16:46.35ID:UiJm6bjZ
湖州もその後聞いた所によれば、少くとも識者の間には全然忘れられた次第ではない。
0086名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:17:17.80ID:UiJm6bjZ
現在の早稲田大学は片上伸の如き、本間久雄の如き、或は又宮島新三郎の如き、有為の批評家を世に出してゐる。
0087名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:17:33.55ID:UiJm6bjZ
けれども大久保湖州の名は未だ彼等の椽大の筆に一度たりと雖も上つたことはない。
0090名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:18:20.78ID:UiJm6bjZ
しかも湖州を逸してゐるのは怠慢の罪と云ふよりも、やはり我々と同じやうに無知の罪と云はなければならぬ。
0091名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:18:36.53ID:UiJm6bjZ
彼等は万里の波濤を隔てた仏蘭西、英吉利、露西亜等の群小作家の名をも心得てゐる。
0093名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:19:08.01ID:UiJm6bjZ
かう云ふ湖州を薄命と呼ぶのは必ずしも誇張とは咎め難いであらう。
0094名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:19:23.76ID:UiJm6bjZ
且又湖州は早稲田大学の前に銅像か何か建てられたとしても、依然たる薄命の歴史家である。
0099名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:20:42.23ID:UiJm6bjZ
「こころざしなかばもとげぬ我身だにつひに行くべき道にゆきにけり」――
0100名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:20:58.05ID:UiJm6bjZ
水谷不倒の湖州君小伝によれば、死に臨んだ彼は満腔の遺憾をかう云ふ一首に託したさうである。
0101名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:21:13.78ID:UiJm6bjZ
これをしも薄命と呼ばないとすれば、何ごとを薄命と呼ぶであらう?
0106名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:22:32.56ID:UiJm6bjZ
第三の「遺老の実歴談に就きて」は「明治維新の前後に際会して国事に与りし遺老の実歴談多く世に出づる」に当り、その史料的価値を考へた三十頁ばかりの論文に過ぎない。
0107名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:22:48.20ID:UiJm6bjZ
第二の「井伊直弼篇」も「井伊大老は開国論者に非ずといふに就いて」、「岡本黄石」、「長野主膳」の三篇の論文を寄せ集めた、たとへば「井伊直弼伝」と云ふ計画中の都市の一部分である。
0108名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:23:03.95ID:UiJm6bjZ
しかし第一の「徳川家康篇」だけは幸ひにも未成品に畢つてゐない。
0109名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:23:19.73ID:UiJm6bjZ
いや僕の信ずる所によれば、寧ろ前人を曠うした、戞々たる独造底の完成品である。
0110名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:23:35.48ID:UiJm6bjZ
一部の「徳川家康篇」は年少の家康を論じた「徳川家康」、中年の家康を論じた「鬼作左」、老年の家康を論じた「本多佐渡守」の三篇の論文から成り立つてゐる。
0112名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:24:07.23ID:UiJm6bjZ
「徳川家康」は明治三十一年、「鬼作左」は明治三十年、「本多佐渡守」は明治二十九年、――
0113名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:24:22.87ID:UiJm6bjZ
即ち作品の順序とは全然反対に筆を執つたのである。)是等の論文は必しも金玉の名文と云ふ訳ではない。
0115名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:24:54.45ID:UiJm6bjZ
しかし是等の論文の中から我々の目の前に浮んで来る征夷大将軍徳川家康は所謂歴史上の家康よりも数等に家康らしい家康である。
0116名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:25:10.20ID:UiJm6bjZ
たとへば「徳川家康」の中に女人に対する家康を論じた下の一節を読んで見るがよい。
0117名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:25:25.94ID:UiJm6bjZ
「家康の子、男女合はせて十六人、之れを生みし腹は十人、夫人の産みし二子を除きては、余は皆側妾の所出なり。
0118名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:25:41.57ID:UiJm6bjZ
(中略)其の最後にお勝が腹に末女を挙げさせしは、既に将軍職を伜に渡して、駿府に隠居せし身にて、老いても壮なる六十六歳の時なりとぞ識られける。
0119名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:25:57.20ID:UiJm6bjZ
其の他この豪傑が戯に手折られながら、子を結ばで空しく散りにし花は亦一二に止まらざるべし。
0121名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:26:28.75ID:UiJm6bjZ
秀吉は北条征伐の陣中より淀君が許に一書を寄せて、『二十日ごろに、かならず参候て、わかぎみ(鶴松)だき可申候。
0125名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:27:31.54ID:UiJm6bjZ
家康には表面さる事見えざりしかど、所詮言ふと言はぬとの相違にて、実は両雄とも多情の男なりけん。
0127名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:28:03.07ID:UiJm6bjZ
「さはれ流石に思慮深き家康は、秀吉の如く閨門の裡に一家滅亡の種を蒔かず、其が第一の禁物たる奢は女中にも厳に仮さで、奥向にも倹素の風行はれしは、彼の本多佐渡守が秀忠将軍の乳母なる大婆に一言咎められて、返す詞も無かりし一場の話に徴して知るべし。
0128名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:28:18.84ID:UiJm6bjZ
駿府にて女房等が大根の漬物の塩辛きに困じて、家康に歎きけるを、厨の事をば沙汰しける松下常慶を召して今少し塩加減よくすべしと諭ししかば、此の老人主が側に進み寄りて、何事をかささやきしに、主は言葉なくして唯笑ひけるを、彼れ其の儘退きしと云ふ。
0129名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:28:34.58ID:UiJm6bjZ
「老人ささやきしは、『今の如く塩辛く漬けさせ候てさへ、朝夕の用夥しきものを女房達の好みの如く、塩加減いたし候はば、何ほどの費用に及ぶべきも計りがたし。
0130名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:28:50.34ID:UiJm6bjZ
女房達の申す詞など聞し召さぬ様にて、わたらせ給ふこそ然るべけれ』とは曰ひしなりけり。
0131名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:29:06.08ID:UiJm6bjZ
常慶も塩辛き男なれば、家康が笑ひし腹加減も大に塩辛かりけり。
0135名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:30:09.14ID:UiJm6bjZ
成程遍数をへらし候へば、楽に成り候得共、幼少より戦国に生れ、多くの人を殺し候得ば、せめて罪ほろぼしにもなり候半。
0136名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:30:24.90ID:UiJm6bjZ
且年若より一日も隙に暮したる事なき身故、何ぞの業を致度候得ども、それもいらぬ事故、念仏を日々の稽古事の様に致し候ゆへ、毎日朝起いたし、夜もはやくは休不申、おこたらぬやうにこころ懸候事。
0137名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:30:40.91ID:UiJm6bjZ
夫故食事の中りもなく健にて、念仏の影と存候。』と言へるを看ても、裏面の行跡に大に放縦の振舞なかりしは察すべし。
0138名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:30:56.65ID:UiJm6bjZ
但し彼の秀吉すら「女に心不レ可レ免」と戒めたれば、家康が清浄潔白の念仏談も、曾て一時に数人の侍妾を設け置きし覚えある男の言と識るべし。
0139名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:31:12.49ID:UiJm6bjZ
人を殺しし罪ほろぼしの外に言ひ難き懺悔の珠数をば繰らざりしにや。
0140名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:31:28.30ID:UiJm6bjZ
徒士の者奥の女中に文を送りしとて、徒士頭松平若狭守改易の罪に処せられきと伝ふれば、奥向の規律の厳正なりしを窺ふべし。
0141名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:31:44.05ID:UiJm6bjZ
亦窮屈なる規則の内にても、主人には之を潜りて融通の道ありしを忘るべからず。
0144名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:32:31.31ID:UiJm6bjZ
「おのれ常に老臣共の衆評を聴きて、一人に権を占めさせじと努めし跡は、歴々として史上にも残りけるが、表の政治に用ゐし此筆法は、奥の女中を制御するにも応用して、一人の女に寵を専にさせじと抑えしは疑あらず。
0145名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:32:47.07ID:UiJm6bjZ
十六人の子を挙げし十人の妻妾、二人より多くを産みし者なかりしは、深き仔細ありぬるにや。
0146名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:33:02.70ID:UiJm6bjZ
強ち偶然の事のみにあらざるべし。」(胡麻点は原文のを保存したのである。)
0147名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:33:18.44ID:UiJm6bjZ
この徳川家康は女色を愛する老爺たるばかりか、産児制限をも行ふ政治家である。
0153名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:34:52.87ID:UiJm6bjZ
あらゆる新刊の小説や戯曲は必ずその広告の中に「人間らしい苦しみ」とか「人間らしい生活」とか、人間らしい万事を売りものにしてゐる。
0154名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:35:08.61ID:UiJm6bjZ
が、それらの小説や戯曲は果してどの位広告通り、人間らしい何ものかを捉へてゐるのであらうか?
0155名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:35:24.37ID:UiJm6bjZ
殊に英雄の伝記の作者は無邪気なる英雄崇拝者でなければ、古色蒼然たるモオラリストである。
0157名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:35:55.86ID:UiJm6bjZ
しかし彼等の人間らしさも実際彼等の吹聴するやうに人間らしいかどうかは疑問である。
0160名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:36:43.17ID:UiJm6bjZ
が、神には生れない以上、やはり凡人たる半面をも具へてゐたことは確かである。
0161名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:36:58.93ID:UiJm6bjZ
すると我我の目の前に何の某と云ふ人物を立たせ、その何の某の英雄たることを認めさせる為には、凡人たらざる半面を指摘すると同時に凡人たる半面をも指摘してなければならぬ。
0162名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:37:14.67ID:UiJm6bjZ
在来の伝記の英雄に人間らしさの欠けてゐるのはかう云ふ用意の足りぬ為である。……」
0163名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:37:30.43ID:UiJm6bjZ
けれどもこれだけの用意さへすれば、果して彼等の云ふやうに、人間らしい英雄を示し得るであらうか?
0165名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:38:01.70ID:UiJm6bjZ
「漢楚軍談」の漢の高祖は秦の始皇の夢に入つたり、白帝の子たる大蛇を斬つたり、凡人ならざる半面を大いに示してゐるかと思へば、女楽を好んだり、士に傲つたり、凡人に劣らぬ半面をもやはり大いに示してゐる。
0166名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:38:17.46ID:UiJm6bjZ
しかし「漢楚軍談」の漢の高祖に王者の真面目を発見するものは三尺の童子ばかりと云はなければならぬ。
0167名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:38:33.20ID:UiJm6bjZ
もう一つ次手に例を挙げれば、諸君の「漢楚軍談」よりも常に一層信用せぬ歴史、――
0169名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:39:04.58ID:UiJm6bjZ
新聞の記事の大臣も民意を体したり、憲政を擁護したり、凡人たらざる半面を大いに示してゐるかと思へば、をついたり、金を盗んだり、大凡下たる半面さへやはり大に示してゐる。
0170名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:39:20.32ID:UiJm6bjZ
が、新聞の記事の大臣に英雄の真面目は少時問はず、凡人の真面目さへ発見するものは三尺の童子――
0172名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:39:51.75ID:UiJm6bjZ
すると彼等の云ふやうに、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘することは少しも英雄の英雄たる所以を明らかにしない道理である。
0173名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:40:07.50ID:UiJm6bjZ
彼等はこの道理にも頓着せず、神経衰弱に罹つたエホバのやうに彼等の所謂人間らしい英雄なるものを創造した。
0175名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:40:38.98ID:UiJm6bjZ
山積する彼等の伝記の中から我我の目の前に浮んで来るものは丁度両頭の蛇のやうに凡人たらざる半面と凡人たる半面とを左右へ出した、滑稽なる精神的怪物である。
0177名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:41:10.36ID:UiJm6bjZ
モオラリストの英雄も余りに善玉でないとすれば、余りに悪玉であるかも知れない。
0178名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:41:26.13ID:UiJm6bjZ
しかし彼等の英雄は或統一を保つてゐる限り、人間らしいとは云ひ難いにもしろ、人形らしい可愛らしさを示してゐる。
0179名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:41:41.90ID:UiJm6bjZ
けれども一部の伝記の作者の所謂人間らしい英雄はかう云ふ可愛らしささへ示してゐない。
0180名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:41:57.66ID:UiJm6bjZ
就中彼等の創造した征夷大将軍徳川家康は最も不快なる怪物である。
0181名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:42:13.41ID:UiJm6bjZ
聖アントニウスを誘惑した、如何なる地獄の眷属よりも一層不快なる怪物である。
0182名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:42:29.16ID:UiJm6bjZ
湖州の徳川家康は是等の怪物に比べずとも、おのづから人間らしい英雄である。
0184名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:43:00.57ID:UiJm6bjZ
湖州は家康を論ずるのに、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘したのではない。
0185名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:43:16.35ID:UiJm6bjZ
唯凡人たる半面と凡人たらざる半面との融合する一点を指摘した、――
0186名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:43:31.99ID:UiJm6bjZ
と云ふよりも寧ろ英雄の中に黙々と生を営んでゐる人間全体を指摘したのである。
0187名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:43:47.71ID:UiJm6bjZ
これは言葉の穿鑿だけすれば、凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘するのと毫釐の相違に過ぎないかも知れない。
0189名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:44:19.33ID:UiJm6bjZ
凡人たらざる半面と共に凡人たる半面をも指摘するのは凡庸なる作者にも成し得るであらう。
0190名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:44:35.07ID:UiJm6bjZ
しかし神采奕々たる人間全体を指摘するのは一代の才人を待たなければならぬ。
0191名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:44:50.72ID:UiJm6bjZ
湖州の前人を凌駕する所以はこの人間全体を指摘した烱眼に存してゐる。
0192名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:45:06.48ID:UiJm6bjZ
湖州自身も史上の人物に人間全体を発見することは絶えず工夫を凝らしたものらしい。
0193名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:45:22.10ID:UiJm6bjZ
たとへば明治二十七八年頃の「随感録」と題する随筆は次の一節を録してゐる。
0194名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:45:37.87ID:UiJm6bjZ
「書を読て、心緒忽然として古人に触れ、静夜月を仰ぎて、感慨湧然として古人に及ぶ。
0198名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:46:40.95ID:UiJm6bjZ
更に略々同時代に成つた「伝記私言数則」は悉このことに及んでゐる。
0201名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:47:28.19ID:UiJm6bjZ
人は外界の事情に制せられて、己れの意志を枉げて心ならざる事を行ふ。
0211名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:50:05.48ID:UiJm6bjZ
一郷の人は一郷の眼を以て見るべく、一国の人は一国の眼を以て見るべく、天下の人は天下の眼を以て見るべし。」
0212名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:50:21.23ID:UiJm6bjZ
是等の言葉は湖州によれば、いづれも史上の人物に対する観照の態度を述べたものである。
0213名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:50:36.98ID:UiJm6bjZ
けれども湖州は古人にばかり、かう云ふ観照を加へたのであらうか?
0214名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:50:52.74ID:UiJm6bjZ
いや、徳川家康をも冷眼に眺めた大久保湖州に唯史上の人物にばかり、かう云ふ観照を加へろと云ふのは出来ない相談ではないであらうか?
0215名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:51:08.50ID:UiJm6bjZ
水谷不倒の湖州君小伝によれば「君、(中略)人に接するや寛容にして能く客を遇す。
0216名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:51:24.16ID:UiJm6bjZ
故に君の門を叩くもの日に絶えず、而して客の種類を問へば、概ね未来に属する政治家、文学者、詩人、美術家、史家、哲学者、事業家等あり。」だつたさうである。
0217名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:51:39.92ID:UiJm6bjZ
未来に属する政治家、文学者、詩人、美術家、史家、哲学者、事業家などと云ふものは勿論書生だつたのに違ひない。
0219名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:52:11.34ID:UiJm6bjZ
同時に又是等の人々の中に、貪慾なる、奸譎なる、野卑なる、愚昧なる、放漫なる、が、常に同情を感ずる人間全体を見出したのであらう。
0220名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:52:27.09ID:UiJm6bjZ
僕の信ずる所によれば、湖州たる所以は徳川家康と云ふ英雄の中に人間全体を発見する前に、この所謂未来に属する政治家、文学者、詩人、美術家、史家、哲学者、事業家などの一群の中に人間全体を発見したことである。
0221名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:52:42.85ID:UiJm6bjZ
大いなる支那の賢人は「古きを温ね、新らしきを知る」と云つた。
0222名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:52:58.59ID:UiJm6bjZ
成程神功皇后の古きを温ね奉ることは勇敢なる婦人参政権論者の新らしきを知ることになるかも知れない。
0224名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:53:29.98ID:UiJm6bjZ
のみならず新らしきも知らない癖に、古きばかり温ねるのは新古ともに茫々たる魔境に墜ちることも確かである。
0227名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:54:17.26ID:UiJm6bjZ
が、彼等自身をはじめ、彼等の父母妻子の人間たることさへ一度も真に知らずに来た彼等に、糢糊たる史上の人物はどの位心臓を窺はせるであらうか?
0228名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:54:33.02ID:UiJm6bjZ
湖州はかう云ふ出発点から、既に彼等とは反対の道へ精進の歩みを運んでゐる。
0229名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:54:48.78ID:UiJm6bjZ
湖州の徳川家康の人間らしい英雄となり得たのも偶然ではないと云はなければならぬ。
0230名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:55:04.53ID:UiJm6bjZ
「家康(中略)、おのが庶子於義丸を遣し、石川数正が子の勝千代と、作左衛門が子の仙千代とを附添へて都に登しぬ。
0231名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:55:20.18ID:UiJm6bjZ
(僕曰、小牧山の戦後、都にゐる秀吉に事実上の人質を出した時である。)於義丸は即ち黄門秀康の幼称にして、家婢お万の生む所、家康之を愛して孕みしかば、嫉妬深き築山夫人の怨を避けて、本多豊後守広孝が家老本多半左衛門が許に忍びしを、
0233名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:55:51.69ID:UiJm6bjZ
(中略)生まれし児は作左またおのが子として之れを養ひ、三歳のとき、兄信康この愛弟を連れて家康に見え、始めて実の父の膝に抱かれぬ。
0234名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:56:07.33ID:UiJm6bjZ
之れを尤も喜びしは、父よりも兄よりも、将た其の幼児よりも実は他人の作左衛門なるべし。
0235名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:56:23.10ID:UiJm6bjZ
「許多の武士味方の大家に遣はすめでたき養子と喜ばで、一時和したる敵国に遣はす質子なりと思ひ做しし中にも、作左衛門特に此念強かるべく、許さぬ仇敵の詐術と見ては、縦ひ戦国の世の習ひながらも、豪鋭の性いかで一冷笑に附し去るべき。
0236名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:56:38.84ID:UiJm6bjZ
而かも今は此の作左が身に、己れ多年養ひ進らせし公子をば、そが犠牲に供せざるべからざる難題、直接に降り懸りぬ。
0237名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:56:54.47ID:UiJm6bjZ
(中略)諤の作左を首肯せしめしには、家康必ず若干の苦労ありしなるべく、作左も亦己れを抑えて、もだし難き君命を奉ぜしには、千鈞の力をもて勇断せしなるべし。
0238名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:57:10.21ID:UiJm6bjZ
而して僅に十一歳の幼者をば、識らぬ人に託して遣るに忍びで、遂におのが一人の愛児をもさし出だして、其の行を共にせしむるに至りき、奉公の衷心、亦何ぞ美なるや。
0240名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:57:42.02ID:UiJm6bjZ
是より作左が心は常に上方に馳せて、二人の身の上に到ると共に、秀吉が振舞を注目することも一層厳刻となりしなるべし。
0241名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:57:57.77ID:UiJm6bjZ
「さる程に(中略)徳川の家中にては、弥増す敵意と猜念とをもて、上方の空を眺めつつ、変心測られぬ秀吉、いつ攻め来んも知り難しと、衆情枕をさへ安んぜざりし折柄、とりどりの流言伝はり、中にも秀吉於義丸等を殺すべしとの風聞は、痛く一家の人心をぞ刺しにける。
0242名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:58:13.52ID:UiJm6bjZ
(中略)家康は流石に忍刻の人、冷然として言へらく、『秀康今は我子にあらで、秀吉が子なり。
0244名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:58:45.02ID:UiJm6bjZ
想ふに秀吉往々威喝を用ゐて人を屈するを慣術とすれども、亦敢て籠裡の小禽をば無益に殺生せん暴人にはあらじ。
0246名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:59:16.55ID:UiJm6bjZ
其の自若として無慙の蜚説に意を留めざるは、恐らくは此の辺の観察もあるに依るなるべし。
0247名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 02:59:32.31ID:UiJm6bjZ
されど作左はまた斯くの如く冷酷に看過する能はずして、以為へらく『いや/\仙千代丸都におきて、人の疑うけん事も詮なし。
0250名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:00:19.90ID:UiJm6bjZ
蓋し作左我が子の愛情もさることながら、おのが多年育て上げし公子が身危しと聴きては、其の痛傷の感いかで仙千代を念ふにも劣るべき。
0251名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:00:35.61ID:UiJm6bjZ
既に秀吉に与へし上は、今更これを取返さんやうも無けれど、其の儘都に置きては、不安の想ひに得堪へで、仙千代が身に先だちて、必ず家康に公子が事を訴へしなるべく、座上無道の秀吉を罵りし憤慨の豪気も察せられたり。
0252名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:00:51.24ID:UiJm6bjZ
家康も於義丸は兎も角、仙千代招還せんことは作左が老情を酌みて、喜びて許ししなるべく、母が大病とは円滑に聞こえて、否み難き好辞柄なりけり。
0255名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:01:38.52ID:UiJm6bjZ
且つ夫れ仙千代と共に随ひ行きし勝千代が父は、彼の秀吉が覚よき石川伯耆守にして、徳川の家中には、兼ねてより、窃に其の二心を疑へる者さへありければ、作左は素より忠侃一辺の男なれど、当時雑説紛々の折柄、伯耆守と共に子思ひの作左が心底も動かずやと、
0256名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:01:54.27ID:UiJm6bjZ
家中の噂にも上りしことあるべく、疚しからぬ腹を揣摩せられて、潔白を傷けんも口惜しと、さてこそ思へば待てぬ作左衛門、急に疑の種をば引き戻すに至りしなるべけれ。」
0257名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:02:10.03ID:UiJm6bjZ
これは本多作左衛門と共に秀吉に雌伏する家康を論じた「鬼作左」の中の一節である。
0258名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:02:25.78ID:UiJm6bjZ
諸君は今もなほ大久保湖州を明治の才人の一人に数へる僕の蒙を笑殺するであらうか?
0260名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:02:57.17ID:UiJm6bjZ
唯僕は前に挙げた「伝記私言数則」の中に、「天自ら言はず、人をして言はしむ、されど人の声は、必ずしも天の声と一致せず、人の褒貶毀誉は、数々天の公裁と齟齬す。
0261名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:03:12.81ID:UiJm6bjZ
人世尤も憐むべきは、生前天の声を聞かずして死に入るものと為す。
0262名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:03:28.58ID:UiJm6bjZ
後人は彼が為めに、天に代り死後の知己たらざるべからず」の語を読んだ時、我々の忘れてゐた湖州の為に愴然の感を深うした。
0263名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:03:44.21ID:UiJm6bjZ
僕の文章は何であるにしろ、厳粛なる天の声などを代弁しないことは確かである。
0264名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:03:59.84ID:UiJm6bjZ
いや、得々と諸君の前に僕の発見を誇らうとする人の声に外ならぬかも知れない。
0265名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:04:15.58ID:UiJm6bjZ
しかし僕の文章を機会に、正真正銘の天の声の「家康と直弼」を讃美することは必しもないとは云ひ難いであらう。
0266名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:04:31.33ID:UiJm6bjZ
して見れば僕の文章は中道に倒れた先達の為にも多少の回向にはなる筈である。
0271名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:05:49.77ID:UiJm6bjZ
赤シヤツを着たO君は畳の上に腹這ひになり、のべつにバツトをふかしてゐた。
0272名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:06:05.52ID:UiJm6bjZ
その又O君の傍らには妙にものものしい義足が一つ、白足袋の足を仰向かせてゐた。
0274名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:06:37.00ID:UiJm6bjZ
O君は返事をする前にちよつと眉をひそめるやうにし、縁先の紫苑へ目をやつた。
0275名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:06:52.62ID:UiJm6bjZ
何本かの紫苑はいつの間にか細かい花を簇らせたまま、そよりともせずに日を受けてゐた。
0285名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:09:29.98ID:UiJm6bjZ
O君は杖を小脇にしたまま、或大きい別荘の裏のコンクリイトの塀に立ち小便をしてゐた。
0287名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:10:01.45ID:UiJm6bjZ
巡査は勿論咎めたかつたと見え、白扇でO君を指さすやうにした。
0298名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:12:54.68ID:UiJm6bjZ
僕はO君の家へ遊びに行き、四畳半の電燈の下にいろいろのことを話し合つた。
0300名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:13:26.17ID:UiJm6bjZ
Uと云ふ僕の友だちの一人はコツプに水を入れて枕もとへ置き、暫くたつてそのコツプを見ると、いつか水が半分になつてゐる、或晩などはうとうとしてゐると、いきなり顔へ水がかかつた。
0301名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:13:41.95ID:UiJm6bjZ
しかし驚いて飛び起きて見ると、コツプだけは倒れずにちやんとしてゐる、――
0303名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:14:13.47ID:UiJm6bjZ
それから僕等は散歩かたがた、町まで買ひものに出かけることにした。
0304名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:14:29.24ID:UiJm6bjZ
するとO君はいつもに似合はず、肘掛け窓の戸などをしめはじめた。
0306名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:15:00.51ID:UiJm6bjZ
「この窓に明りがさしてゐるとね、どうもそとから帰つて来た時に誰か一人ここに坐つて、湯でものんでゐさうな気がするからね。」
0308名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:15:32.03ID:UiJm6bjZ
O君はけふも不相変赤シヤツに黒いチヨツキを着たまま、午前十一時の裏庇の下に七輪の火を起してゐた。
0312名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:16:34.93ID:UiJm6bjZ
が、O君はふり返ると、僕の問には答へずにあたりの松の木へ顋をやつた。
0314名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:17:06.43ID:UiJm6bjZ
パナマ帽をかぶつたO君は小高い砂丘に腰をおろし、せつせとブラツシユを動かしてゐた。
0315名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:17:22.17ID:UiJm6bjZ
柱だけの白いバンガロオが一軒、若い松の群立つた中にひつそりと鎧戸を下してゐる。――
0317名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:17:53.65ID:UiJm6bjZ
松は僕等の居まはりにも二三尺の高さに伸びたまま、さすがに秋らしい風の中に青い松かさを実のらせてゐた。
0319名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:18:25.14ID:UiJm6bjZ
O君はブラツシユを動かしながら、僕の方へ向かずに返事をした。
0322名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:19:12.31ID:UiJm6bjZ
ちよつとO君を写生した次手にそれ等の発句もつけ加へるとすれば――
0330名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:21:18.02ID:UiJm6bjZ
今般、当村内にて、切支丹宗門の宗徒共、邪法を行ひ、人目を惑はし候儀に付き、私見聞致し候次第を、逐一公儀へ申上ぐ可き旨、御沙汰相成り候段屹度承知仕り候。
0331名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:21:33.76ID:UiJm6bjZ
陳者、今年三月七日、当村百姓与作後家篠と申す者、私宅へ参り、同人娘里(当年九歳)大病に付き、検脈致し呉れ候様、懇々頼入り候。
0332名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:21:49.54ID:UiJm6bjZ
右篠と申候は、百姓惣兵衛の三女に有之、十年以前与作方へ縁付き、里を儲け候も、程なく夫に先立たれ、爾後再縁も仕らず、機織り乃至賃仕事など致し候うて、その日を糊口し居る者に御座候。
0333名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:22:05.34ID:UiJm6bjZ
なれども、如何なる心得違ひにてか、与作病死の砌より、専ら切支丹宗門に帰依致し、隣村の伴天連ろどりげと申す者方へ、繁々出入致し候間、当村内にても、右伴天連の妾と相成候由、取沙汰致す者なども有之、兎角の批評絶え申さず、依つて、父惣兵衛始め姉弟共一同、
0334名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:22:22.02ID:UiJm6bjZ
種々意見仕り候へども、泥烏須如来より難有きもの無しなど申し候うて、一向に合点仕らず、朝夕、唯、娘里と共にくるすと称へ候小き磔柱形の守り本尊を礼拝致し、夫与作の墓参さへ怠り居る始末に付き、唯今にては、親類縁者とも義絶致し居り、追つては、村方にても、
0336名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:22:53.87ID:UiJm6bjZ
右様の者に候へば、重々頼み入り候へども、私検脈の儀は、叶ふまじき由申し聞け候所、一度は泣く泣く帰宅致し候へども、翌八日、再私宅へ参り、「一生の恩に着申す可く候へば、何卒御検脈下され度」など申し候うて、如何様断り候も、聞き入れ申さず、はては、
0337名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:23:09.60ID:UiJm6bjZ
私宅玄関に泣き伏し、「御医者様の御勤は、人の病を癒す事と存じ候。
0338名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:23:25.35ID:UiJm6bjZ
然るに、私娘大病の儀、御聞き棄てに遊ばさるる条、何とも心得難く候。」など、怨じ候へば、私申し候は、「貴殿の申し条、万々道理には候へども、私検脈致さざる儀も、全くその理無しとは申し難く候。
0339名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:23:41.10ID:UiJm6bjZ
何故と申し候はば、貴殿平生の行状誠に面白からず、別して、私始め村方の者の神仏を拝み候を、悪魔外道に憑かれたる所行なりなど、屡誹謗致され候由、確と承り居り候。
0340名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:23:56.84ID:UiJm6bjZ
然るに、その正道潔白なる貴殿が、私共天魔に魅入られ候者に、唯今、娘御の大病を癒し呉れよと申され候は、何故に御座候や。
0341名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:24:12.67ID:UiJm6bjZ
右様の儀は、日頃御信仰の泥烏須如来に御頼みあつて然る可く、もし、たつて私、検脈を所望致され候上は、切支丹宗門御帰依の儀、以後堅く御無用たる可く候。
0342名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:24:28.43ID:UiJm6bjZ
此段御承引無之に於ては、仮令、医は仁術なりと申し候へども、神仏の冥罰も恐しく候へば、検脈の儀平に御断り申候。」斯様、説得致し候へば、篠も流石に、推してとも申し難く、其儘凄々帰宅致し候。
0343名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:24:44.19ID:UiJm6bjZ
翌九日は、ひき明け方より大雨にて、村内一時は人通も絶え候所、卯時ばかりに、篠、傘をも差さず、濡鼠の如くなりて、私宅へ参り、又々検脈致し呉れ候様、頼み入り候間、私申し候は、「長袖ながら、二言は御座無く候。
0344名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:24:59.92ID:UiJm6bjZ
然れば、娘御の命か、泥烏須如来か、何れか一つ御棄てなさるる分別肝要と存じ候。」斯様申し聞け候へば、篠、此度は狂気の如く相成り、私前に再三額づき又は手を合せて拝みなど致し候うて、「仰せ千万御尤もに候。
0345名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:25:15.70ID:UiJm6bjZ
なれども、切支丹宗門の教にて、一度ころび候上は、私魂躯とも、生々世々亡び申す可く候。
0346名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:25:31.45ID:UiJm6bjZ
何卒、私心根を不憫と思召され、此儀のみは、御容赦下され度候。」など掻き口説き咽び入り候。
0347名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:25:47.09ID:UiJm6bjZ
邪宗門の宗徒とは申しながら、親心に二無き体相見え、多少とも哀れには存じ候へども、私情を以て、公道を廃す可らざるの道理に候へば、如何様申し候うても、ころび候上ならでは、検脈叶難き旨、申し張り候所、篠、何とも申し様無き顔を致し、少時私顔を見つめ居り候が、
0348名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:26:02.73ID:UiJm6bjZ
突然涙をはらはらと落し、私足下に手をつき候うて、何やら蚊の様なる声にて申し候へども、折からの大雨の音にて、確と聞き取れ申さず、再三聞き直し候上、漸、然らば詮無く候へば、ころび候可き趣、判然致し候。
0349名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:26:18.50ID:UiJm6bjZ
なれどもころび候実証無之候へば、右証明を立つ可き旨、申し聞け候所、篠、無言の儘、懐中より、彼くるすを取り出し、玄関式台上へ差し置き候うて、静に三度まで踏み候。
0350名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:26:34.25ID:UiJm6bjZ
其節は格別取乱したる気色も無之、涙も既に乾きし如く思はれ候へども、足下のくるすを眺め候眼の中、何となく熱病人の様にて、私方下男など、皆々気味悪しく思ひし由に御座候。
0351名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:26:49.99ID:UiJm6bjZ
扨、私申し条も相立ち候へば、即刻下男に薬籠を担はせ、大雨の中を、篠同道にて、同人宅へ参り候所、至極手狭なる部屋に、里独り、南を枕にして打臥し居り候。
0352名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:27:05.74ID:UiJm6bjZ
尤も身熱烈しく候へば、殆正気無之き体に相見え、いたいけなる手にて繰返し、繰返し、空に十字を描き候うては、頻にはるれやと申す語を、現の如く口走り、其都度嬉しげに、微笑み居り候。
0353名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:27:21.38ID:UiJm6bjZ
右、はるれやと申し候は、切支丹宗門の念仏にて、宗門仏に讃頌を捧ぐる儀に御座候由、篠、其節枕辺にて、泣く泣く申し聞かし候。
0354名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:27:37.13ID:UiJm6bjZ
依つて、早速検脈致し候へば、傷寒の病に紛れ無く、且は手遅れの儀も有之、今日中にも、存命覚束なかる可きやに見立て候間、詮方無く其旨、篠へ申し聞け候所、同人又々狂気の如く相成り、「私ころび候仔細は、娘の命助け度き一念よりに御座候。
0356名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:28:24.24ID:UiJm6bjZ
煎薬三貼差し置き候上、折からの雨止みを幸、立ち帰らんと致し候所、篠、私袂にすがりつき候うて離れ申さず、何やら申さんとする気色にて、唇を動かし候へども、一言も申し果てざる中に、見る見る面色変り、忽、其場に悶絶致し候。
0357名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:28:39.93ID:UiJm6bjZ
然れば、私大に仰天致し、早速下男共々、介抱仕り候所、漸、正気づき候へども、最早立上り候気力も無之、「所詮は、私心浅く候儘、娘一命、泥烏須如来、二つながら失ひしに極まり候。」とて、さめざめと泣き沈み、種々申し慰め候へども、一向耳に掛くる体も御座無く、
0358名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:28:55.66ID:UiJm6bjZ
且は娘容態も詮無く相見え候間、止むを得ず再下男召し伴れ、々帰宅仕り候。
0359名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:29:11.40ID:UiJm6bjZ
然るに、其日未時下り、名主塚越弥左衛門殿母儀検脈に参り候所、篠娘死去致し候由、並に篠、悲嘆のあまり、遂に発狂致し候由、弥左衛門殿より承り候。
0360名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:29:27.17ID:UiJm6bjZ
右に依れば、里落命致し候は、私検脈後一時の間と相見え、巳の上刻には、篠既に乱心の体にて、娘死骸を掻き抱き、声高に何やら、蛮音の経文読誦致し居りし由に御座候。
0361名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:29:42.92ID:UiJm6bjZ
猶、此儀は、弥左衛門殿直に見受けられ候趣にて、村方嘉右衛門殿、藤吾殿、治兵衛殿等も、其場に居合されし由に候へば、千万実事たるに紛れ無かる可く候。
0362名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:29:58.67ID:UiJm6bjZ
追つて、翌十日は、朝来小雨有之候へども辰の下刻より春雷を催し、稍、晴れ間相きざし候折から――
0363名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:30:14.43ID:UiJm6bjZ
村郷士梁瀬金十郎殿より、迎への馬差し遣はされ、検脈致し呉れ候様、申し越され候間、早速馬上にて、私宅を立ち出で候所、篠宅の前へ来かかり候へば、村方の人々大勢佇み居り、伴天連よ、切支丹よなど、罵り交し候うて、馬を進め候事さへ叶ひ申さず、依つて、私馬上より、
0364名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:30:30.18ID:UiJm6bjZ
家内の容子差し覗き候所、篠宅の戸を開け放ち候中に、紅毛人一名、日本人三名、各々法衣めきし黒衣を着し候者共、手に手に彼くるす、乃至は香炉様の物を差しかざし候うて、同音に、はるれや、はるれやと唱へ居り候。
0365名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:30:45.95ID:UiJm6bjZ
加之、右紅毛人の足下には、篠、髪を乱し候儘、娘里を掻き抱き候うて、失神致し候如く、蹲り居り候。
0366名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:31:01.69ID:UiJm6bjZ
別して、私眼を驚かし候は、里、両手にてひしと、篠頸を抱き居り、母の名とはるれやと、代る代る、あどけ無き声にて、唱へ居りし事に御座候。
0367名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:31:17.42ID:UiJm6bjZ
尤も、遠眼の事とて、確とは弁へ難く候へども、里血色至極麗しき様に相見え、折々母の頸より手を離し候うて、香炉様の物より立ち昇り候煙を捉へんとする真似など致し居り候。
0368名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:31:33.18ID:UiJm6bjZ
然れば、私馬より下り、里蘇生致し候次第に付き、村方の人々に委細相尋ね候へば、右紅毛の伴天連ろどりげ儀、今朝、伊留満共相従へ、隣村より篠宅へ参り、同人懺悔聞き届け候上、一同宗門仏に加持致し、或は異香を焚き薫らし、或は神水を振り濺ぎなど致し候所、
0369名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:31:48.92ID:UiJm6bjZ
篠の乱心は自ら静まり、里も程無く蘇生致し候由、皆々恐しげに申し聞かせ候。
0370名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:32:04.67ID:UiJm6bjZ
古来一旦落命致し候上、蘇生仕り候類、元より少からずとは申し候へども、多くは、酒毒に中り、乃至は瘴気に触れ候者のみに有之、里の如く、傷寒の病にて死去致し候者の、還魂仕り候例は、未嘗承り及ばざる所に御座候へば、切支丹宗門の邪法たる儀此一事にても分明致す可く、
0371名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:32:20.43ID:UiJm6bjZ
別して伴天連当村へ参り候節、春雷頻に震ひ候も、天の彼を憎ませ給ふ所かと推察仕り候。
0372名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:32:36.06ID:UiJm6bjZ
猶、篠及娘里当日伴天連ろどりげ同道にて、隣村へ引移り候次第、並に慈元寺住職日寛殿計らひにて同人宅焼き棄て候次第は、既に名主塚越弥左衛門殿より、言上仕り候へば、私見聞致し候仔細は、荒々右にて相尽き申す可く候。
0373名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:32:51.68ID:UiJm6bjZ
但、万一記し洩れも有之候節は、後日再応書面を以て言上仕る可く、先は私覚え書斯くの如くに御座候。
0375名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:33:22.97ID:UiJm6bjZ
天主のおん教を奉ずるものは、その頃でももう見つかり次第、火炙りや磔に遇わされていた。
0376名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:33:38.69ID:UiJm6bjZ
しかし迫害が烈しいだけに、「万事にかない給うおん主」も、その頃は一層この国の宗徒に、あらたかな御加護を加えられたらしい。
0377名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:33:54.45ID:UiJm6bjZ
長崎あたりの村々には、時々日の暮の光と一しょに、天使や聖徒の見舞う事があった。
0378名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:34:10.22ID:UiJm6bjZ
現にあのさん・じょあん・ばちすたさえ、一度などは浦上の宗徒みげる弥兵衛の水車小屋に、姿を現したと伝えられている。
0379名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:34:25.97ID:UiJm6bjZ
と同時に悪魔もまた宗徒の精進を妨げるため、あるいは見慣れぬ黒人となり、あるいは舶来の草花となり、あるいは網代の乗物となり、しばしば同じ村々に出没した。
0380名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:34:41.75ID:UiJm6bjZ
夜昼さえ分たぬ土の牢に、みげる弥兵衛を苦しめた鼠も、実は悪魔の変化だったそうである。
0385名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:36:00.33ID:UiJm6bjZ
が、何もし出さない内に、おぎん一人を残したまま、二人とも故人になってしまった。
0388名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:36:47.57ID:UiJm6bjZ
禅か、法華か、それともまた浄土か、何にもせよ釈迦の教である。
0389名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:37:03.30ID:UiJm6bjZ
ある仏蘭西のジェスウイットによれば、天性奸智に富んだ釈迦は、支那各地を遊歴しながら、阿弥陀と称する仏の道を説いた。
0391名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:37:34.68ID:UiJm6bjZ
釈迦の説いた教によれば、我々人間の霊魂は、その罪の軽重深浅に従い、あるいは小鳥となり、あるいは牛となり、あるいはまた樹木となるそうである。
0394名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:38:21.93ID:UiJm6bjZ
(ジアン・クラッセ)しかしおぎんの母親は、前にもちょいと書いた通り、そう云う真実を知るはずはない。
0396名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:38:53.46ID:UiJm6bjZ
寂しい墓原の松のかげに、末は「いんへるの」に堕ちるのも知らず、はかない極楽を夢見ている。
0398名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:39:24.89ID:UiJm6bjZ
これは山里村居つきの農夫、憐みの深いじょあん孫七は、とうにこの童女の額へ、ばぷちずものおん水を注いだ上、まりやと云う名を与えていた。
0399名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:39:40.66ID:UiJm6bjZ
おぎんは釈迦が生まれた時、天と地とを指しながら、「天上天下唯我独尊」と獅子吼した事などは信じていない。
0400名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:39:56.52ID:UiJm6bjZ
その代りに、「深く御柔軟、深く御哀憐、勝れて甘くまします童女さんた・まりあ様」が、自然と身ごもった事を信じている。
0401名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:40:12.16ID:UiJm6bjZ
「十字架に懸り死し給い、石の御棺に納められ給い、」大地の底に埋められたぜすすが、三日の後よみ返った事を信じている。
0402名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:40:27.93ID:UiJm6bjZ
御糺明の喇叭さえ響き渡れば、「おん主、大いなる御威光、大いなる御威勢を以て天下り給い、土埃になりたる人々の色身を、もとの霊魂に併せてよみ返し給い、善人は天上の快楽を受け、また悪人は天狗と共に、地獄に堕ち」る事を信じている。
0403名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:40:43.68ID:UiJm6bjZ
殊に「御言葉の御聖徳により、ぱんと酒の色形は変らずといえども、その正体はおん主の御血肉となり変る」尊いさがらめんとを信じている。
0408名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:42:02.31ID:UiJm6bjZ
おぎんはこの夫婦と一しょに、牛を追ったり麦を刈ったり、幸福にその日を送っていた。
0409名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:42:18.05ID:UiJm6bjZ
勿論そう云う暮しの中にも、村人の目に立たない限りは、断食や祈祷も怠った事はない。
0410名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:42:33.81ID:UiJm6bjZ
おぎんは井戸端の無花果のかげに、大きい三日月を仰ぎながら、しばしば熱心に祈祷を凝らした。
0415名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:43:52.45ID:UiJm6bjZ
するとある年のなたら(降誕祭)の夜、悪魔は何人かの役人と一しょに、突然孫七の家へはいって来た。
0416名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:44:08.19ID:UiJm6bjZ
孫七の家には大きな囲炉裡に「お伽の焚き物」の火が燃えさかっている。
0418名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:44:39.56ID:UiJm6bjZ
最後に後ろの牛小屋へ行けば、ぜすす様の産湯のために、飼桶に水が湛えられている。
0424名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:46:13.84ID:UiJm6bjZ
第一なたらの夜に捕われたと云うのは、天寵の厚い証拠ではないか?
0427名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:47:00.87ID:UiJm6bjZ
が、彼等はその途中も、暗夜の風に吹かれながら、御降誕の祈祷を誦しつづけた。
0428名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:47:16.64ID:UiJm6bjZ
「べれんの国にお生まれなされたおん若君様、今はいずこにましますか?
0431名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:48:03.68ID:UiJm6bjZ
悪魔は一人になった後、忌々しそうに唾をするが早いか、たちまち大きい石臼になった。
0433名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:48:35.21ID:UiJm6bjZ
じょあん孫七、じょあんなおすみ、まりやおぎんの三人は、土の牢に投げこまれた上、天主のおん教を捨てるように、いろいろの責苦に遇わされた。
0435名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:49:06.74ID:UiJm6bjZ
たとい皮肉は爛れるにしても、はらいそ(天国)の門へはいるのは、もう一息の辛抱である。
0436名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:49:22.49ID:UiJm6bjZ
いや、天主の大恩を思えば、この暗い土の牢さえ、そのまま「はらいそ」の荘厳と変りはない。
0437名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:49:38.30ID:UiJm6bjZ
のみならず尊い天使や聖徒は、夢ともうつつともつかない中に、しばしば彼等を慰めに来た。
0439名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:50:10.00ID:UiJm6bjZ
おぎんはさん・じょあん・ばちすたが、大きい両手のひらに、蝗を沢山掬い上げながら、食えと云う所を見た事がある。
0440名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:50:25.81ID:UiJm6bjZ
また大天使がぶりえるが、白い翼を畳んだまま、美しい金色の杯に、水をくれる所を見た事もある。
0441名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:50:41.57ID:UiJm6bjZ
代官は天主のおん教は勿論、釈迦の教も知らなかったから、なぜ彼等が剛情を張るのかさっぱり理解が出来なかった。
0443名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:51:12.84ID:UiJm6bjZ
しかし気違いでもない事がわかると、今度は大蛇とか一角獣とか、とにかく人倫には縁のない動物のような気がし出した。
0444名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:51:28.50ID:UiJm6bjZ
そう云う動物を生かして置いては、今日の法律に違うばかりか、一国の安危にも関る訣である。
0445名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:51:44.24ID:UiJm6bjZ
そこで代官は一月ばかり、土の牢に彼等を入れて置いた後、とうとう三人とも焼き殺す事にした。
0446名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:52:00.00ID:UiJm6bjZ
(実を云えばこの代官も、世間一般の人々のように、一国の安危に関るかどうか、そんな事はほとんど考えなかった。
0447名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:52:15.79ID:UiJm6bjZ
これは第一に法律があり、第二に人民の道徳があり、わざわざ考えて見ないでも、格別不自由はしなかったからである。)
0448名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:52:31.55ID:UiJm6bjZ
じょあん孫七を始め三人の宗徒は、村はずれの刑場へ引かれる途中も、恐れる気色は見えなかった。
0450名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:53:02.93ID:UiJm6bjZ
彼等はそこへ到着すると、一々罪状を読み聞かされた後、太い角柱に括りつけられた。
0451名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:53:18.68ID:UiJm6bjZ
それから右にじょあんなおすみ、中央にじょあん孫七、左にまりやおぎんと云う順に、刑場のまん中へ押し立てられた。
0455名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:54:21.68ID:UiJm6bjZ
が、彼等は三人とも、堆い薪を踏まえたまま、同じように静かな顔をしている。
0457名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:54:53.25ID:UiJm6bjZ
そのまた見物の向うの空には、墓原の松が五六本、天蓋のように枝を張っている。
0458名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:55:08.88ID:UiJm6bjZ
一切の準備の終った時、役人の一人は物々しげに、三人の前へ進みよると、天主のおん教を捨てるか捨てぬか、しばらく猶予を与えるから、もう一度よく考えて見ろ、もしおん教を捨てると云えば、直にも縄目は赦してやると云った。
0461名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:55:56.06ID:UiJm6bjZ
役人は勿論見物すら、この数分の間くらいひっそりとなったためしはない。
0464名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:56:43.34ID:UiJm6bjZ
見物はたいてい火のかかるのを、今か今かと待っていたのである。
0465名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:56:59.06ID:UiJm6bjZ
役人はまた処刑の手間どるのに、すっかり退屈し切っていたから、話をする勇気も出なかったのである。
0471名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:58:33.60ID:UiJm6bjZ
それは孫七が悲しそうに、おぎんの方を振り向きながら、力のない声を出したからである。
0474名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 03:59:20.88ID:UiJm6bjZ
その言葉が終らない内に、おすみも遥かにおぎんの方へ、一生懸命な声をかけた。
0477名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:00:08.11ID:UiJm6bjZ
ただ眼は大勢の見物の向うの、天蓋のように枝を張った、墓原の松を眺めている。
0479名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:00:39.58ID:UiJm6bjZ
じょあん孫七はそれを見るなり、あきらめたように眼をつぶった。
0482名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:01:26.82ID:UiJm6bjZ
が、孫七やおすみを見ると、急にその前へ跪きながら、何も云わずに涙を流した。
0488名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:03:01.34ID:UiJm6bjZ
その訣はふと向うに見える、天蓋のような松の梢に、気のついたせいでございます。
0489名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:03:17.09ID:UiJm6bjZ
あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。
0490名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:03:32.84ID:UiJm6bjZ
それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。
0492名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:04:04.22ID:UiJm6bjZ
どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。
0493名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:04:20.00ID:UiJm6bjZ
その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。………」
0494名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:04:35.77ID:UiJm6bjZ
おぎんは切れ切れにそう云ってから、後は啜り泣きに沈んでしまった。
0495名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:04:51.51ID:UiJm6bjZ
すると今度はじょあんなおすみも、足に踏んだ薪の上へ、ほろほろ涙を落し出した。
0496名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:05:07.27ID:UiJm6bjZ
これからはらいそへはいろうとするのに、用もない歎きに耽っているのは、勿論宗徒のすべき事ではない。
0497名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:05:22.92ID:UiJm6bjZ
じょあん孫七は、苦々しそうに隣の妻を振り返りながら、癇高い声に叱りつけた。
0510名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:08:47.39ID:UiJm6bjZ
もしその時足もとのおぎんが泣き伏した顔を挙げずにいたら、――
0512名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:09:18.81ID:UiJm6bjZ
しかも涙に溢れた眼には、不思議な光を宿しながら、じっと彼を見守っている。
0513名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:09:34.56ID:UiJm6bjZ
この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。
0519名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:11:09.05ID:UiJm6bjZ
この話は我国に多かった奉教人の受難の中でも、最も恥ずべき躓きとして、後代に伝えられた物語である。
0520名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:11:24.78ID:UiJm6bjZ
何でも彼等が三人ながら、おん教を捨てるとなった時には、天主の何たるかをわきまえない見物の老若男女さえも、ことごとく彼等を憎んだと云う。
0521名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:11:40.54ID:UiJm6bjZ
これは折角の火炙りも何も、見そこなった遺恨だったかも知れない。
0522名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:11:56.15ID:UiJm6bjZ
さらにまた伝うる所によれば、悪魔はその時大歓喜のあまり、大きい書物に化けながら、夜中刑場に飛んでいたと云う。
0523名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:12:11.89ID:UiJm6bjZ
これもそう無性に喜ぶほど、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的である。
0525名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:12:43.17ID:UiJm6bjZ
その上あらゆる売文業者のように、目まぐるしい生活を営んでいる。
0527名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:13:14.65ID:UiJm6bjZ
しかし往来を歩いていたり、原稿用紙に向っていたり、電車に乗っていたりする間にふと過去の一情景を鮮かに思い浮べることがある。
0528名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:13:30.42ID:UiJm6bjZ
それは従来の経験によると、たいてい嗅覚の刺戟から聯想を生ずる結果らしい。
0529名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:13:46.06ID:UiJm6bjZ
そのまた嗅覚の刺戟なるものも都会に住んでいる悲しさには悪臭と呼ばれる匂ばかりである。
0532名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:14:33.29ID:UiJm6bjZ
五六年前に顔を合せたあるお嬢さんの記憶などはあの匂を嗅ぎさえすれば、煙突から迸る火花のようにたちまちよみがえって来るのである。
0534名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:15:04.78ID:UiJm6bjZ
あるいはもっと厳密に云えば、あの停車場のプラットフォオムである。
0535名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:15:20.51ID:UiJm6bjZ
当時その避暑地に住んでいた彼は、雨が降っても、風が吹いても、午前は八時発の下り列車に乗り、午後は四時二十分着の上り列車を降りるのを常としていた。
0538名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:16:07.64ID:UiJm6bjZ
しかし毎日汽車になど乗れば、一ダズンくらいの顔馴染みはたちまちの内に出来てしまう。
0540名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:16:39.14ID:UiJm6bjZ
けれども午後には七草から三月の二十何日かまで、一度も遇ったと云う記憶はない。
0546名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:18:13.40ID:UiJm6bjZ
やはり銀鼠の靴下に踵の高い靴をはいた脚は鹿の脚のようにすらりとしている。
0548名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:18:44.88ID:UiJm6bjZ
保吉はまだ東西を論ぜず、近代の小説の女主人公に無条件の美人を見たことはない。
0552名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:19:47.77ID:UiJm6bjZ
だから保吉もこのお嬢さんに「しかし」と云う条件を加えるのである。――
0555名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:20:35.01ID:UiJm6bjZ
お嬢さんは騒がしい人ごみの中にぼんやり立っていることがある。
0557名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:21:06.53ID:UiJm6bjZ
あるいはまた長いプラットフォオムの縁をぶらぶら歩いていることもある。
0558名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:21:22.30ID:UiJm6bjZ
保吉はお嬢さんの姿を見ても、恋愛小説に書いてあるような動悸などの高ぶった覚えはない。
0559名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:21:38.05ID:UiJm6bjZ
ただやはり顔馴染みの鎮守府司令長官や売店の猫を見た時の通り、「いるな」と考えるばかりである。
0561名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:22:09.65ID:UiJm6bjZ
だから時たまプラットフォオムにお嬢さんの姿を見ないことがあると、何か失望に似たものを感じた。
0564名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:22:56.78ID:UiJm6bjZ
保吉は現に売店の猫が二三日行くえを晦ました時にも、全然変りのない寂しさを感じた。
0567名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:23:44.05ID:UiJm6bjZ
が、まず猫ほどではないにしろ、勝手の違う気だけは起ったはずである。
0570名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:24:31.33ID:UiJm6bjZ
何でもかすかな記憶によれば、調べ仕事に疲れていたせいか、汽車の中でもふだんのように本を読みなどはしなかったらしい。
0571名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:24:47.06ID:UiJm6bjZ
ただ窓べりによりかかりながら、春めいた山だの畠だのを眺めていたように覚えている。
0572名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:25:02.80ID:UiJm6bjZ
いつか読んだ横文字の小説に平地を走る汽車の音を「Tratata tratata Tratata」と写し、鉄橋を渡る汽車の音を「Trararach trararach」と写したのがある。
0573名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:25:18.44ID:UiJm6bjZ
なるほどぼんやり耳を貸していると、ああ云う風にも聞えないことはない。――
0579名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:26:52.81ID:UiJm6bjZ
保吉は前にも書いたように、午後にはまだこのお嬢さんと一度も顔を合せたことはない。
0580名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:27:08.73ID:UiJm6bjZ
それが今不意に目の前へ、日の光りを透かした雲のような、あるいは猫柳の花のような銀鼠の姿を現したのである。
0586名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:28:43.13ID:UiJm6bjZ
いや、当時もそんなことは見定める余裕を持たなかったのであろう。
0587名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:28:58.90ID:UiJm6bjZ
彼は「しまった」と思うが早いか、たちまち耳の火照り出すのを感じた。
0604名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:33:26.41ID:UiJm6bjZ
彼は一月五円の貸間と一食五十銭の弁当とにしみじみ世の中が厭になると、必ずこの砂の上へグラスゴオのパイプをふかしに来る。
0605名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:33:42.16ID:UiJm6bjZ
この日も曇天の海を見ながら、まずパイプへマッチの火を移した。
0610名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:35:00.98ID:UiJm6bjZ
しかし不良少年と思っていなければ、明日もまた今日のように彼のお時儀に答えるかも知れない。
0611名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:35:16.63ID:UiJm6bjZ
堀川保吉はもう一度あのお嬢さんに恬然とお時儀をする気であろうか?
0613名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:35:48.15ID:UiJm6bjZ
けれども一度お時儀をした以上、何かの機会にお嬢さんも彼も会釈をし合うことはありそうである。
0616名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:36:35.40ID:UiJm6bjZ
爾来七八年を経過した今日、その時の海の静かさだけは妙に鮮かに覚えている。
0617名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:36:51.14ID:UiJm6bjZ
保吉はこう云う海を前に、いつまでもただ茫然と火の消えたパイプを啣えていた。
0620名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:37:38.40ID:UiJm6bjZ
その小説の主人公は革命的精神に燃え立った、ある英吉利語の教師である。
0622名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:38:09.89ID:UiJm6bjZ
ただし前後にたった一度、ある顔馴染みのお嬢さんへうっかりお時儀をしてしまったことがある。
0626名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:39:12.76ID:UiJm6bjZ
とにかく自然とお嬢さんのことを考え勝ちだったのは事実かも知れない。………
0632名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:40:47.38ID:UiJm6bjZ
云わば彼の心もちは強敵との試合を目前に控えた拳闘家の気組みと変りはない。
0633名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:41:03.10ID:UiJm6bjZ
しかしそれよりも忘れられないのはお嬢さんと顔を合せた途端に、何か常識を超越した、莫迦莫迦しいことをしはしないかと云う、妙に病的な不安である。
0634名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:41:18.72ID:UiJm6bjZ
昔、ジァン・リシュパンは通りがかりのサラア・ベルナアルへ傍若無人の接吻をした。
0635名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:41:34.47ID:UiJm6bjZ
日本人に生れた保吉はまさか接吻はしないかも知れないけれどもいきなり舌を出すとか、あかんべいをするとかはしそうである。
0636名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:41:50.21ID:UiJm6bjZ
彼は内心冷ひやしながら、捜すように捜さないようにあたりの人々を見まわしていた。
0637名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:42:05.97ID:UiJm6bjZ
するとたちまち彼の目は、悠々とこちらへ歩いて来るお嬢さんの姿を発見した。
0650名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:45:30.36ID:UiJm6bjZ
日の光りを透かした雲のように、あるいは花をつけた猫柳のように。………
0651名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:45:46.10ID:UiJm6bjZ
二十分ばかりたった後、保吉は汽車に揺られながら、グラスゴオのパイプを啣えていた。
0655名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:46:48.98ID:UiJm6bjZ
しかしこんなことを考えるのはやはり恋愛と云うのであろうか?――
0657名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:47:20.48ID:UiJm6bjZ
ただ保吉の覚えているのは、いつか彼を襲い出した、薄明るい憂鬱ばかりである。
0658名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:47:36.15ID:UiJm6bjZ
彼はパイプから立ち昇る一すじの煙を見守ったまま、しばらくはこの憂鬱の中にお嬢さんのことばかり考えつづけた。
0659名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:47:51.89ID:UiJm6bjZ
汽車は勿論そう云う間も半面に朝日の光りを浴びた山々の峡を走っている。
0662名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:48:39.12ID:UiJm6bjZ
ふだんならばまだ硝子画の窓に日の光の当っている時分であろう。
0664名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:49:10.62ID:UiJm6bjZ
その中にただゴティック風の柱がぼんやり木の肌を光らせながら、高だかとレクトリウムを守っている。
0665名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:49:26.36ID:UiJm6bjZ
それからずっと堂の奥に常燈明の油火が一つ、龕の中に佇んだ聖者の像を照らしている。
0667名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:49:57.73ID:UiJm6bjZ
そう云う薄暗い堂内に紅毛人の神父が一人、祈祷の頭を垂れている。
0671名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:51:00.73ID:UiJm6bjZ
そう云えば「こんたつ」と称える念珠も手頸を一巻き巻いた後、かすかに青珠を垂らしている。
0675名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:52:03.55ID:UiJm6bjZ
紋を染めた古帷子に何か黒い帯をしめた、武家の女房らしい女である。
0681名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:53:38.08ID:UiJm6bjZ
女はさも珍らしそうに聖水盤や祈祷机を見ながら、怯ず怯ず堂の奥へ歩み寄った。
0691名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:56:15.44ID:UiJm6bjZ
南蛮寺の堂内へはただ見慣れぬ磔仏を見物に来るものも稀ではない。
0696名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:57:34.07ID:UiJm6bjZ
貧しい身なりにも関らず、これだけはちゃんと結い上げた笄髷の頭を下げたのである。
0699名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:58:21.30ID:UiJm6bjZ
「わたくしは一番ヶ瀬半兵衛の後家、しのと申すものでございます。
0700名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:58:37.03ID:UiJm6bjZ
実はわたくしの倅、新之丞と申すものが大病なのでございますが……」
0701名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:58:52.66ID:UiJm6bjZ
女はちょいと云い澱んだ後、今度は朗読でもするようにすらすら用向きを話し出した。
0704名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 04:59:39.88ID:UiJm6bjZ
咳が出る、食欲が進まない、熱が高まると言う始末である、しのは力の及ぶ限り、医者にも見せたり、買い薬もしたり、いろいろ養生に手を尽した。
0707名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:00:27.02ID:UiJm6bjZ
その上この頃は不如意のため、思うように療治をさせることも出来ない。
0713名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:02:01.42ID:UiJm6bjZ
その眼には憐みを乞う色もなければ、気づかわしさに堪えぬけはいもない。
0721名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:04:07.14ID:UiJm6bjZ
現にカテキスタのフヮビアンなどはそのために十字架を拝するようになった。
0722名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:04:22.90ID:UiJm6bjZ
この女をここへ遣わされたのもあるいはそう云う神意かも知れない。
0730名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:06:28.57ID:UiJm6bjZ
やはりその一瞬間、能面に近い女の顔に争われぬ母を見たからである。
0733名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:07:15.70ID:UiJm6bjZ
むかし飼槽の中の基督に美しい乳房を含ませた「すぐれて御愛憐、すぐれて御柔軟、すぐれて甘くまします天上の妃」と同じ母になったのである。
0740名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:09:05.67ID:UiJm6bjZ
「いえ、あなた様さえ一度お見舞い下されば、あとはもうどうなりましても、さらさら心残りはございません。
0741名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:09:21.41ID:UiJm6bjZ
その上はただ清水寺の観世音菩薩の御冥護にお縋り申すばかりでございます。」
0743名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:09:52.77ID:UiJm6bjZ
神父は何も知らぬ女の顔へ鋭い眼を見据えると、首を振り振りたしなめ出した。
0750名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:11:42.91ID:UiJm6bjZ
しかし女は古帷子の襟を心もち顋に抑えたなり、驚いたように神父を見ている。
0752名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:12:14.39ID:UiJm6bjZ
神父はほとんどのしかかるように鬚だらけの顔を突き出しながら、一生懸命にこう戒め続けた。
0754名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:12:45.88ID:UiJm6bjZ
まことの神はジュデアの国、ベレンの里にお生まれになったジェズス・キリストばかりです。
0758名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:13:48.86ID:UiJm6bjZ
ジェズスは我々を救うために、磔木にさえおん身をおかけになりました。
0760名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:14:20.24ID:UiJm6bjZ
ちょうど薄日に照らされた窓は堂内を罩めた仄暗がりの中に、受難の基督を浮き上らせている。
0764名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:15:23.21ID:UiJm6bjZ
倅の命さえ助かりますれば、わたくしはあの磔仏に一生仕えるのもかまいません。
0767名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:16:10.50ID:UiJm6bjZ
神父はいよいよ勝ち誇ったようにうなじを少し反らせたまま、前よりも雄弁に話し出した。
0768名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:16:26.35ID:UiJm6bjZ
「ジェズスは我々の罪を浄め、我々の魂を救うために地上へ御降誕なすったのです。
0770名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:16:57.83ID:UiJm6bjZ
神聖な感動に充ち満ちた神父はそちらこちらを歩きながら、口早に基督の生涯を話した。
0771名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:17:13.60ID:UiJm6bjZ
衆徳備り給う処女マリヤに御受胎を告げに来た天使のことを、厩の中の御降誕のことを、御降誕を告げる星を便りに乳香や没薬を捧げに来た、賢い東方の博士たちのことを、メシアの出現を惧れるために、ヘロデ王の殺した童子たちのことを、ヨハネの洗礼を受けられたことを、
0772名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:17:29.34ID:UiJm6bjZ
山上の教えを説かれたことを、水を葡萄酒に化せられたことを、盲人の眼を開かれたことを、マグダラのマリヤに憑きまとった七つの悪鬼を逐われたことを、死んだラザルを活かされたことを、水の上を歩かれたことを、驢馬の背にジェルサレムへ入られたことを、
0773名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:17:45.08ID:UiJm6bjZ
悲しい最後の夕餉のことを、橄欖の園のおん祈りのことを、………
0777名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:18:48.10ID:UiJm6bjZ
ジェズスは二人の盗人と一しょに、磔木におかかりなすったのです。
0780名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:19:35.37ID:UiJm6bjZ
殊に勿体ない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。
0784名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:20:38.23ID:UiJm6bjZ
見ればまっ蒼になった女は下唇を噛んだなり、神父の顔を見つめている。
0787名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:21:25.40ID:UiJm6bjZ
神父は惘気にとられたなり、しばらくはただ唖のように瞬きをするばかりだった。
0788名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:21:41.15ID:UiJm6bjZ
「まことの天主、南蛮の如来とはそう云うものでございますか?」
0789名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:21:56.78ID:UiJm6bjZ
女はいままでのつつましさにも似ず、止めを刺すように云い放った。
0790名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:22:12.53ID:UiJm6bjZ
「わたくしの夫、一番ヶ瀬半兵衛は佐佐木家の浪人でございます。
0792名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:22:44.03ID:UiJm6bjZ
去んぬる長光寺の城攻めの折も、夫は博奕に負けましたために、馬はもとより鎧兜さえ奪われて居ったそうでございます。
0793名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:22:59.76ID:UiJm6bjZ
それでも合戦と云う日には、南無阿弥陀仏と大文字に書いた紙の羽織を素肌に纏い、枝つきの竹を差し物に代え、右手に三尺五寸の太刀を抜き、左手に赤紙の扇を開き、『人の若衆を盗むよりしては首を取らりょと覚悟した』と、大声に歌をうたいながら、
0795名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:23:31.23ID:UiJm6bjZ
それを何ぞや天主ともあろうに、たとい磔木にかけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは見下げ果てたやつでございます。
0797名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:24:02.73ID:UiJm6bjZ
またそう云う臆病ものの流れを汲んだあなたとなれば、世にない夫の位牌の手前も倅の病は見せられません。
0799名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:24:34.12ID:UiJm6bjZ
臆病ものの薬を飲まされるよりは腹を切ると云うでございましょう。
0800名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:24:49.87ID:UiJm6bjZ
このようなことを知っていれば、わざわざここまでは来まいものを、――
0802名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:25:21.39ID:UiJm6bjZ
女は涙を呑みながら、くるりと神父に背を向けたと思うと、毒風を避ける人のようにさっさと堂外へ去ってしまった。
0808名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:26:55.68ID:UiJm6bjZ
下谷町二丁目の小間物店、古河屋政兵衛の立ち退いた跡には、台所の隅の蚫貝の前に大きい牡の三毛猫が一匹静かに香箱をつくつてゐた。
0812名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:27:58.53ID:UiJm6bjZ
雨は見えない屋根の上へ時々急に降り注いでは、何時か又中空へ遠のいて行つた。
0814名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:28:29.91ID:UiJm6bjZ
竈さへわからない台所にも、この時だけは無気味な燐光が見えた。
0815名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:28:45.68ID:UiJm6bjZ
が、ざあつと云ふ雨音以外に何も変化のない事を知ると、猫はやはり身動きもせずもう一度眼を糸のやうにした。
0816名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:29:01.42ID:UiJm6bjZ
そんな事が何度か繰り返される内に、猫はとうとう眠つたのか、眼を明ける事もしなくなつた。
0819名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:29:48.49ID:UiJm6bjZ
すると七つに迫つた時、猫は何かに驚いたやうに突然眼を大きくした。
0824名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:31:07.05ID:UiJm6bjZ
しかし数秒の沈黙の後、まつ暗だつた台所は何時の間にかぼんやり明るみ始めた。
0825名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:31:22.79ID:UiJm6bjZ
狭い板の間を塞いだ竈、蓋のない水瓶の水光り、荒神の松、引き窓の綱、――
0827名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:31:54.16ID:UiJm6bjZ
猫は愈不安さうに、戸の明いた水口を睨みながら、のそりと大きい体を起した。
0828名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:32:10.08ID:UiJm6bjZ
この時この水口の戸を開いたのは、いや戸を開いたばかりではない、腰障子もしまひに明けたのは、濡れ鼠になつた乞食だつた。
0829名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:32:25.84ID:UiJm6bjZ
彼は古い手拭をかぶつた首だけ前へ伸ばしたなり、少時は静かな家のけはひにぢつと耳を澄ませてゐた。
0830名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:32:41.60ID:UiJm6bjZ
が、人音のないのを見定めると、これだけは真新しい酒筵に鮮かな濡れ色を見せた儘、そつと台所へ上つて来た。
0832名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:33:13.11ID:UiJm6bjZ
しかし乞食は驚きもせず後手に障子をしめてから、徐ろに顔の手拭をとつた。
0835名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:34:00.28ID:UiJm6bjZ
乞食は髪の水を切つたり、顔の滴を拭つたりしながら、小声に猫の名前を呼んだ。
0836名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:34:16.03ID:UiJm6bjZ
猫はその声に聞き覚えがあるのか、平めてゐた耳をもとに戻した。
0837名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:34:31.77ID:UiJm6bjZ
が、まだ其処に佇んだなり、時々はじろじろ彼の顔へ疑深い眼を注いでゐた。
0838名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:34:47.40ID:UiJm6bjZ
その間に酒筵を脱いだ乞食は脛の色も見えない泥足の儘、猫の前へどつかりあぐらをかいた。
0842名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:35:50.43ID:UiJm6bjZ
が、それぎり飛び退きもせず、反つて其処へ坐つたなり、だんだん眼さへ細め出した。
0843名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:36:06.16ID:UiJm6bjZ
乞食は猫を撫でやめると、今度は古湯帷子の懐から、油光りのする短銃を出した。
0845名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:36:37.64ID:UiJm6bjZ
「いくさ」の空気の漂つた、人気のない家の台所に短銃をいぢつてゐる一人の乞食――
0847名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:37:09.04ID:UiJm6bjZ
しかし薄眼になつた猫はやはり背中を円くした儘、一切の秘密を知つてゐるやうに、冷然と坐つてゐるばかりだつた。
0848名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:37:24.83ID:UiJm6bjZ
「明日になるとな、三毛公、この界隈へも雨のやうに鉄砲の玉が降つて来るぞ。
0849名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:37:40.56ID:UiJm6bjZ
そいつに中ると死んじまふから、明日はどんな騒ぎがあつても、一日縁の下に隠れてゐろよ。……」
0855名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:39:14.69ID:UiJm6bjZ
よし又死なずにすんだ所が、この先二度とお前と一しよに掃溜めあさりはしないつもりだ。
0860名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:40:33.31ID:UiJm6bjZ
が、乞食は顔も挙げず、やつと検べ終つた短銃へ、丹念に弾薬を装填してゐた。
0862名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:41:04.89ID:UiJm6bjZ
いや、猫と云ふやつは三年の恩も忘れると云ふから、お前も当てにはならなさうだな。――
0868名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:42:39.29ID:UiJm6bjZ
いや、その外に水口の障子ががらりと明けられたのも同時だつた。
0870名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:43:10.78ID:UiJm6bjZ
すると障子を明けた誰かは乞食の姿を見るが早いか、反つて不意を打たれたやうに、「あつ」とかすかな叫び声を洩らした。
0873名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:43:57.84ID:UiJm6bjZ
が、最初の驚きから、やつと勇気を恢復すると、台所の薄明りに透かしながら、ぢつと乞食の顔を覗きこんだ。
0874名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:44:13.59ID:UiJm6bjZ
乞食は呆気にとられたのか、古湯帷子の片膝を立てた儘、まじまじ相手を見守つてゐた。
0875名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:44:29.35ID:UiJm6bjZ
もうその眼にもさつきのやうに、油断のない気色は見えなかつた。
0881名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:46:03.78ID:UiJm6bjZ
あんまり降りが強いもんだから、つい御留守へはひこみましたがね――
0884名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:46:51.04ID:UiJm6bjZ
いくら明き巣狙ひぢやないと云つたつて、図々しいにも程があるぢやないか?」
0895名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:49:44.26ID:UiJm6bjZ
彼女はまだ業腹さうに、乞食の言葉には返事もせず、水口の板の間へ腰を下した。
0897名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:50:15.68ID:UiJm6bjZ
平然とあぐらをかいた乞食は髭だらけの顋をさすりながら、じろじろその姿を眺めてゐた。
0898名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:50:31.33ID:UiJm6bjZ
彼女は色の浅黒い、鼻のあたりに雀斑のある、田舎者らしい小女だつた。
0899名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:50:47.08ID:UiJm6bjZ
なりも召使ひに相応な手織木綿の一重物に、小倉の帯しかしてゐなかつた。
0900名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:51:02.84ID:UiJm6bjZ
が、活き活きした眼鼻立ちや、堅肥りの体つきには、何処か新しい桃や梨を聯想させる美しさがあつた。
0901名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:51:18.74ID:UiJm6bjZ
「この騒ぎの中を取りに返るのぢや、何か大事の物を忘れたんですね。
0906名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:52:37.58ID:UiJm6bjZ
が、ふと何か思ひついたやうに、新公の顔を見上げると、真面目にこんな事を尋ね出した。
0910名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:53:40.36ID:UiJm6bjZ
すると猫は何時の間にか、棚の擂鉢や鉄鍋の間に、ちやんと香箱をつくつてゐた。
0912名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:54:11.76ID:UiJm6bjZ
彼女は柄杓を捨てるが早いか、乞食の存在も忘れたやうに、板の間の上に立ち上つた。
0913名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:54:27.52ID:UiJm6bjZ
さうして晴れ晴れと微笑しながら、棚の上の猫を呼ぶやうにした。
0920名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:56:17.48ID:UiJm6bjZ
と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を火照らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。
0921名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:56:33.11ID:UiJm6bjZ
家のお上さんは三毛を忘れて来たつて、気違ひの様になつてゐるんぢやないか?
0922名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:56:48.78ID:UiJm6bjZ
三毛が殺されたらどうしようつて、泣き通しに泣いてゐるんぢやないか?
0923名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:57:04.41ID:UiJm6bjZ
わたしもそれが可哀さうだから、雨の中をわざわざ帰つて来たんぢやないか?――」
0928名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:58:22.89ID:UiJm6bjZ
明日にも『いくさ』が始まらうと云ふのに、高が猫の一匹や二匹――
0930名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 05:58:54.36ID:UiJm6bjZ
お前さんの前だけれども、一体此処のお上さん位、わからずやのしみつたれはありませんぜ。
0938名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:01:00.01ID:UiJm6bjZ
それらは何処を眺めても、ぴつたり肌についてゐるだけ、露はに肉体を語つてゐた。
0941名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:01:47.29ID:UiJm6bjZ
「第一あの三毛公を探しに、お前さんをよこすのでもわかつてゐまさあ。
0945名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:02:50.21ID:UiJm6bjZ
まさか狼も出まいけれども、どんな危い目に遇ふかも知れない――
0947名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:03:21.61ID:UiJm6bjZ
「そんな余計な心配をするより、さつさと猫をとつておくれよ。――
0948名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:03:37.29ID:UiJm6bjZ
これが『いくさ』でも始まりやしまいし、何が危い事があるものかね。」
0950名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:04:08.68ID:UiJm6bjZ
若い女の一人歩きが、かう云ふ時に危くなけりや、危いと云ふ事はありませんや。
0952名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:04:40.27ID:UiJm6bjZ
万一わたしが妙な気でも出したら、姐さん、お前さんはどうしなさるね?」
0953名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:04:56.03ID:UiJm6bjZ
新公はだんだん冗談だか、真面目だか、わからない口調になつた。
0959名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:06:30.43ID:UiJm6bjZ
肩に金切れなんぞくつけてゐたつて、風の悪いやつらも多い世の中だ。
0969名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:09:07.91ID:UiJm6bjZ
この騒ぎに驚いた猫は、鉄鍋を一つ蹴落しながら、荒神の棚へ飛び移つた。
0970名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:09:23.57ID:UiJm6bjZ
と同時に荒神の松や油光りのする燈明皿も、新公の上へ転げ落ちた。
0971名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:09:39.23ID:UiJm6bjZ
新公はやつと飛び起きる前に、まだ何度もお富の傘に、打ちのめされずにはすまなかつた。
0976名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:10:57.64ID:UiJm6bjZ
この立ち廻りの最中に、雨は又台所の屋根へ、凄まじい音を湊め出した。
0977名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:11:13.40ID:UiJm6bjZ
光も雨音の高まるのと一しよに、見る見る薄暗さを加へて行つた。
0978名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:11:29.16ID:UiJm6bjZ
新公は打たれても、引つ掻かれても、遮二無二お富をぢ伏せようとした。
0979名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:11:44.81ID:UiJm6bjZ
しかし何度か仕損じた後、やつと彼女に組み付いたと思ふと、突然又弾かれたやうに、水口の方へ飛びすさつた。
0981名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:12:16.37ID:UiJm6bjZ
何時か髪も壊れたお富は、べつたり板の間に坐りながら、帯の間に挾んで来たらしい剃刀を逆手に握つてゐた。
0982名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:12:32.07ID:UiJm6bjZ
それは殺気を帯びてもゐれば、同時に又妙に艶めかしい、云はば荒神の棚の上に、背を高めた猫と似たものだつた。
0984名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:13:03.50ID:UiJm6bjZ
が、新公は一瞬の後、わざとらしい冷笑を見せると、懐からさつきの短銃を出した。
0987名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:13:50.66ID:UiJm6bjZ
それでも彼女は口惜しさうに、新公の顔を見つめたきり、何とも口を開かなかつた。
0988名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:14:06.39ID:UiJm6bjZ
新公は彼女が騒がないのを見ると、今度は何か思ひついたやうに、短銃の先を上に向けた。
1000名無しさん@3周年垢版2018/03/07(水) 06:17:15.07ID:UiJm6bjZ
お富は今までとは打つて変つた、心配さうな目つきをしながら、心もち震へる唇の間に、細かい歯並みを覗かせてゐた。
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