アンパンマンの歌に感動
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なんのために生まれて
なんのために生きる
わからないなんて
そんなのはいやだ >>7
うわぁ、本当だわ。やなせたかしの年齢的にも…… 作者の弟が特攻隊で出撃してるんだな。
確かに作風に合わない歌詞だと思う。 そう考えると「何処までも」ってあたりにモアイ像より重くてゆるぎない決意を感じてしまう そうだ、忘れないで、みんなのために。
愛と勇気だけが、友達さ。
みんなのために、孤独に生きてゆく正義のヒーロー、アンパンマン。 今日、橋本潮のバージョンを聴いた。多重録音で
二重唱を再現してた。なかなか良かったです 特攻の詩!マヂでか〜…。アンパンマーチすちだ
ナニゲに良スレハケーン 劇場版アンパンマンで、「勇気の花が開くとき」という歌は素で感動
去年の映画ドーリィの中で子供達が歌ってたアンパンマンマーチの替え歌も、この歳で涙がでてしまいますた 時ははやく過ぎる
光る星は消える
↑このあたりとても子ども向けとは思えなくて涙でそう。 / / ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
...―/ _) < 珍珍 鬼!鬼!鬼!
ノ:::へ_ __ / \_____________
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\ - / _/
所以我立大量珍種板於乳速、我不基地外。
又、不拘卑猥的話題。
我不好怯板停止又接続禁止。今徒貫我道。
之事、
2ch板的野蛮且無神経住人不理解、又、我不望其。 友人いわくアンパンマンの歌はヤバイ。
何故と訪ねたら、なにをナニと書くとヤバイとの事。
ナニが君の幸せ ナニをして喜ぶ
…受け止めようによるな。 やなせさんはいい詞をつくるよね
手のひらを太陽に とか 今日エネェチケーでやなせたかし出てたけど、どうみても88歳には見えんかった。
それとアンパンマン自体も、戦争体験の飢えと正義をもとに創られたみたいだから、特攻の話もあながち嘘じゃないかも。 やなせたかしは元気だの〜、このおじさん品があっていいね。 【総連】「安倍一味には負けない」総連弾圧に対して措置取る…朝鮮外務省代弁人声明
ttp://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1183572310/l50 ある晴れた 昼下がり
牢屋へ 続く道
車がゴトゴト アソパソ乗せてゆく
氏ねよおめーら しょっぴかれるよ
池沼そうな瞳で 見ているよ
パソ パソ パソ パソ アソパソ乗せて
パソ パソ パソ パソ 荷台が揺れる
___
/ \
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_┌┬┬┬┐_ | (゜) (゜) |
――┴┴┴┴┴―、 | )●( |
// // ||\ \ / ▽ ヽ ノ
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lロ|=☆= |ロロ゚|■■|■■∪警氏庁■■||∞∞∞| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| ∈口∋ ̄_l__l⌒l____|___l⌒l___||. └―◎――◎.―┘
 ̄ ̄`ー' ̄ `ー' `ー' `ー' 愛と勇気だけがともだちって、
バタコさんや食パンマンそのほかは何なんだろう。
友達と思っていないのか? 戦う時はひとりだと思って戦うんだよ
友達を頼らないように。巻き込まないように。 アンパンマンの曲の中でもアンパンマン号の歌は神曲
マーチは勇気でるしなける >>41
哀愁が漂う孤高の戦士なのか。
多人数でよってたかって闘う戦隊物とは違うわけだ。 >>40
”勇気のルンダ”だったかな?友だちは勇気だけになってるよ。
愛すらもどこかへ…。 こち亀30周年記念に出たやつのやなせさんのコメントがすごい。
他の漫画家とは違う重みのあるコメントだった
ここにそのまま書いても法律とか触れるかな? まぁいいや、書いちゃえ!法に触れてても見逃しとくれ。結構長いよ
明日の運命誰が知る人気落ちればタダの人の苛烈な競争社会で30年の長期連載
はすごい。しかも両津勘吉は少しも鮮度を失うことがない。生まれたてのような
強烈な個性で読者をよろこばせる。葛飾区亀有公園前といえば新宿や銀座のような
華やかさはない。ところがヒーローの行動は破天荒で派手で大げさで面白い。
スーパーナンセンスな漫画の王道を歩んでいる。それでいて下品にならないのは
作者の秋本治氏の善良で温和な人格のせいだと思う。
こんな感じ。すごいぜやなせさん。
愛と勇気のくだりは「愛」にバタコも食パンもカレーパンも包括されてるのではあるまいか?
しかし、内輪で固まらず、幅広く連帯をひろげる。
そんなニュアンスでね? みみずも、オケラもアメンボも、みんな友達、生きている
この精神なんだろ ばいきんまんも愛せることになるな。
何たる心の広さだろう。 ばいきんまんには愛嬌がある。
愛すべきキャラクターだよ。 >>53
やなせの話聞いてると、心が広いから愛せるんじゃなく、
自分がまさに虫けら同然で、それでも生きてる、すばらしい、
ってことらしいけどな。
バイキンマンは当然作者に愛されてると思われるよ。 >>30
寝言か?
本気で踊らされてるのか?
反吐が出るわ。 >>33
へぇぇ
そうなんだ…
歌詞やアンパンマンについてそういう視点でみてみると感慨深いものがあるね。
アンパンマンのマーチには元々、幾度となく考えさせられたけど。 >>59
最初に書かれたアンパンマンの絵本を読んだことがありますか?
33のような話に興味があるなら、最初の絵本を読むべきだと思う。
図書館行って司書さんに「一番最初のやつ」って説明したら
必ずみつかると思うよ。 良スレハケーン
アンパンマン体操もいいよ
もし自身を無くしてくじけそうになったら
いいことだけいいことだけ思い出せ
そうさ空と海を越えて風のように走れ
夢と愛を連れて地球をひとっとび
…元気でるお アンパンマンは君さ〜元気をだして〜アンパンマンは君さ〜力の限り〜ほ〜ら〜
輝くよ〜君は優しい〜ヒーローさ〜♪ >>64
俺キーマカレー食ったこと無いんだけどどんな感じ? fffffffffffffffffffっふぉおなかいたい
時ははやく過ぎる
光る星は消える
だから君は飛ぶんだ微笑んで
ここで「だけど」とかじゃなくて「だから」としてるのがたまらなく良い。 今日の「深イイ話」でやってたね。
アンパンマンのマーチはグッとくるね
大人むけだと思う。
揚げ足はとって欲しくない。
「愛と勇気だけが友達さ・・」っていうのはそれだけってことではなくて、
何事も愛と勇気をもって生きろ、そこが大事だってってことじゃないかなぁ。
ttp://csx.jp/~makoto-zebra/konogorobimyouniomohukoto.6.html
↑
こういうキチガイもいるんだぜ?
これ書いたやつ絶対ボダだろ、とっとと逝って欲しいわ
一番許せないのは何度削除依頼だしても放置してるhttp://csx.jp/だがな 漏れはアンパンマンがたった一人で空を飛び、
腹を減らした人たちに顔を分け与えてた絵本の頃の読者なんだけど、
アニメの主題歌を始めて聞いた時、
「たとえ誰にも理解されず、褒めてくれる人なんかひとりもいなくたって、
愛と勇気だけは自分の味方だ。それさえあれば強くなれる」
という意味に聞こえた。黙々と、やればいいのだと。
本当に感動した。泣けたよ。 愛ちゃんと優紀ちゃんがいればハーレムだから無敵って意味だろwwww やなせ氏の弟の歌なんじゃないの?
戦争で亡くしたその弟は空軍だったって話はもう出た? 俺の地元・熊本県の熊本県立美術館分館であったとある書道サークルの作品でアンパンマンの歌詞を書いてた人がいたな
アンパンマンの絵と一緒に >>90
それがやなせクオリティ。
だがそこがいい。 ようつべにドリーミングがNHKホールで生歌した動画あり 田舎DQN男の家族消えろ 田舎DQN男の親消えろ 田舎DQN男の子供消えろ 田舎DQN男の親戚消えろ
田舎DQN男の家族消えろ 田舎DQN男の親消えろ 田舎DQN男の子供消えろ 田舎DQN男の親戚消えろ
田舎DQN男の家族消えろ 田舎DQN男の親消えろ 田舎DQN男の子供消えろ 田舎DQN男の親戚消えろ
田舎DQN男の家族消えろ 田舎DQN男の親消えろ 田舎DQN男の子供消えろ 田舎DQN男の親戚消えろ
ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・)
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね 苦しんで死ね
死ぬとき このレスの事思い出してから地獄へ行けよ
ニヤ(・∀・)ニヤ(・∀・)
たとえ胸の傷が痛んでも〜の歌詞は
生きたくても生きられなかった人を思い出すと
胸が痛むということなのだろうな そうだ、生きることは楽しいんだ(と自分に言い聞かせ奮え立たせている)
例え胸の傷(=辛い出来事、挫折)が痛んでも生きていかなきゃいけない
時は早くすぎる、光る星(=若さ、希望)は消える
だから前に進まなきゃいけない、どこまでも
本当に深い歌詞だ
サビとメロディを変えれば卒業歌にでもできそうなくらい良い歌詞 >>90
愛と勇気だけが友達ってのも深く考えると浮く希ガス
よく茶化される部分だけど、戦争の傷跡かも知れないんだな。 バイキンマンとか出てこなかった、最初の絵本だったら
愛と勇気だけを友として、黙々と人を助けてる感じだったよ。 中年だと思ってない中年爺死ね中年だと思ってない中年爺死ね
中年だと思ってない中年爺死ね中年だと思ってない中年爺死ね
中年だと思ってない中年爺死ね中年だと思ってない中年爺死ね
中年だと思ってない中年爺死ね中年だと思ってない中年爺死ね
中年だと思ってない中年爺死ね中年だと思ってない中年爺死ね
中年だと思ってない中年爺死ね中年だと思ってない中年爺死ね
糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ
糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ糞ジジ
死死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
その老いたすがた気持ち悪すぎ
その老いたすがた気持ち悪すぎ
その老いたすがた気持ち悪すぎ
その老いたすがた気持ち悪すぎ
死ぬとき このレスの事思い出してくれよ 自分を犠牲にして人を助けるってまさに特攻隊の歌だよなぁ
だから君は飛ぶんだどこまでも
たとえどんな敵が相手でも
あんぱんまん優しい君は行けみんなの夢守るため
ってよくよく考えれば残酷だ
顔を取り替えて生き返るってのは特攻隊は死んでも変わりがいるってことなのかな 食べ物をたべるというのは
他の生き物の命をもらっているということなのさ アンパンマンのマーチには2つのテーマがあると思う。
1つは正義の問題。
2つは生きる意味の問題。
1.アンパンマンはジャムおじさんが作るアンパンを作ってくれなければ生きていけない。
でも「愛と勇気だけが友達さ」と言う。 実はアンパンマンは実体が無い操り人形。
アンパンマンは正義のむなしさ、幻想をうったえている。
2.歌詞を見ると、最初に「そうだうれしいんだ生きる喜び、
たとえ胸の傷が痛んでも」とあるので、なにか痛んでいるけど生きる喜び
を感じている。「今を生きる ことで 熱い こころ 燃える.. たとえ 胸の傷がいたんでも」
と繰り返し傷の痛みを唱えることで生きることの苦しさを匂わせている。
アンパンマンはニヒリストでそれを乗り越えようとしている。 カンタータ「アンパンマンマーチ」悲壮な戦い
コワイっす
ガクガクブルブル そうだ うれしいんだ いきるよろこび
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
たとえ 胸の傷がいたんでも
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
なんのために 生まれて なにをして 生きるのか
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
答えられないなんて そんなのは いやだ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
忘れないで 夢を こぼさないで 涙
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
だから 君は いくんだ 微笑んで
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そうだ おそれないで みんなのために
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
愛と 勇気だけが ともだちさ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ああ アンパンマン やさしい君は
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
いけ みんなの夢 まもるため 特攻隊の弟の曲だったら
何が君の幸せ 何をして喜ぶ
解らないまま終る そんなのは嫌だ
ってのは恋人(好きな人?)がいたんだろうけど戦争中で思いを告げたり
結ばれることなく行ってしまったんだろなって思って切なくなる。
終るってのは死ぬことだろうし、嫌と言ってるのに
忘れないで夢を こぼさないで涙
だから君はとぶんだ どこまでも
気丈な女性だったんだろうね。 そうだ おそれないで みんなのために
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
愛と 勇気だけが ともだちさ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
なにがきみの しあわせ なにをして よろこぶ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
分からないまま終わる そんなのは いやだ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
今を生きる ことで 熱いこころ 燃える
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
だから 君は とぶんだ どこまでも
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そうだ うれしいんだ いきるよろこび
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
たとえ 胸の傷がいたんでも
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ああ アンパンマン やさしい君は
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
いけ みんなの夢 まもるため 勇気の鈴がリンリンリン
不思議な冒険ルンルンルン
アンパン 食パン カレーパン
ジャム バタ チー…バタ子さん!止めなさい!! ジャムおじさんたちや
○○パンマンたちは
友達以上、つまり家族って意味かも どこか知らない 遠い所で 誰かが泣いている
声が聞こえる 泣かないで 挫けないで
僕がここにいるよ 勇気の花がひらくとき
僕が空を飛んでいくから きっと君を助けるから >>123
闘う時はみな孤独。とゆうことさ
大切な人を巻き込まないように 君は 小さな ちびドラゴン
まだ何もかも小さくて
泣き虫 弱虫 甘えん坊
でも ある朝に飛ぶんだよ
見知らぬ空へ ちびドラゴン
とべ!とべ!ちびごん
何回か聞いてるとじわじわと泣けてくる ttp://s04.megalodon.jp/2009-0511-1148-05/www.asahi.com/obituaries/update/0511/TKY200905110113.html
「津軽海峡・冬景色」 作曲家・三木たかしさん死去
2009年5月11日11時36分
「津軽海峡・冬景色」「時の流れに身をまかせ」など多くのヒット曲を生んだ
作曲家の三木たかし(みき・たかし、本名渡辺匡〈わたなべ・ただし〉)さんが11日、死去した。64歳だった。
東京都出身で、歌手の黛ジュンさんは妹。67年に「恋はハートで」(泉アキ)で作曲家デビュー。
77年には「思秋期」(岩崎宏美)や「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)で日本レコード大賞中山晋平賞を受賞。
その後も故テレサ・テンさんの「つぐない」「愛人」「別れの予感」をはじめ、
「夜桜お七」(坂本冬美)、「アンパンマンのマーチ」など日本歌謡史を飾る多彩なヒット曲を送り出した。
劇団四季や宝塚歌劇団のオリジナルミュージカルの音楽も数多く手がけた。
05年に紫綬褒章を受章。日本作曲家協会理事長も務めた。
06年に咽頭(いんとう)がんの手術で声帯の一部を切除した。
闘病のかたわら、昨年3月には弟子の歌手のライブでギター演奏を披露し、
プロ野球・楽天の野村克也監督への曲を準備するなど音楽への意欲を失わなかった。
時は早く過ぎる 光る星は消える
愛と勇気だけが友達さ
子供向けのアニメの歌詞にしては内容が残酷だよな。
そうだ 楽しいんだ 生きる喜び
のところは、アンパンマンが無理矢理自分自身を励ましているようにしか聞こえん。
アンパンマンの世界観には必ず正義と悪の対比がある。
視点としてはアンパンマンという正義の味方側で進められる。
しかし何百話と進んでもバイキンマンという悪が駆逐されることは無い。
アンパンマン自身、悪を根絶するという明確な意思表示が無い。
永遠に悪は消えないし、正義もまた消えない。
結局両者が紙一重なのを表している。
やなせとその弟が経験した戦争を鑑みても同じことが言える。
アンパンマンの歌詞は、終戦を前に特攻隊に志願したやなせの弟が
みつめたであろう"正義と悪、人々のあり方"を模した鎮魂歌。
何百話と続くストーリーは、歴史から学べずにいる人間の愚かさ、
悪と紙一重の正義を掲げたヒーローの苦悩、正義と悪それ自体の必要性を訴えている。 >>130
アンパンマンたいそうと比較しても面白い
もし自信をなくして
くじけそうになったら
いいことだけいいことだけ
思いだせ
アンパンマンは君さ
元 気をだして 火事出した店や出火元の土地には、絶対行かないんで。本当に私の両親を長生きさして 奇蹟のカーニバル
開 幕 だ
n: ___ n:
|| / __ \ .||
|| | |(゚) (゚)| | ||
f「| |^ト ヽ  ̄ ̄ ̄ / 「| |^|`|
|: :: ! }  ̄□ ̄ | ! : ::}
ヽ ,イ / ̄ ̄ハ ̄ ̄\ ヽ ,イ 自分には自分達にとっての正義がある。
だけど敵には敵なりの正義というものがある。
「たとへ胸の傷が痛んでも」というのは
そのあたりを言ってるのかな?と
自分は感じます。
敵を倒せば倒すほど自分が背負う
十字架が重くなるみたいな・・・。 名無しのお腹いっぱいこえええええええええええええっ 最近 道徳の授業で
やったんですが
アンパンマンとバイキンマン。
パンにとってバイ菌は敵だが、パンはイースト菌がないと作れない。
アンパンマンとバイキンマンは戦いながらも共存している。
人の心にも 善と悪があり
それは誰の心でも共存している。
それを子供たちに伝えたい。
ってことらしいですね。
なんか今日、朝から<a href="http://mobile.w-i-i.net/wd/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3/"></a>の主題歌が急に
頭で鳴り響いてるんだけど、どうして???
でもあの曲のブリッジのコード進行はよくよく考えてみると
突飛で興味深し。
アンパンマンの作者
やなせたかしは草加なのは有名な話
ママはそれ知ってて子供にアニメ見せてるのかな?
ドリーミングが創価なのと混ざってんじゃないの?
やなせはクリスチャンで有名だよ http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120623-OYT1T00476.htm
やなせたかしさん、漫画家協会の理事長辞任意向
「それいけ!アンパンマン」の作者として知られる漫画家のやなせたかしさん(93)が、
高齢と体調不良を理由に、日本漫画家協会の理事長を辞任する意向を示した。
やなせさんは2000年から理事長を務めていたが、
「昨年から目の具合が悪く、協会賞の選考もできなくなった」という。
22日には日本漫画家協会賞贈賞式に出席。壇上で歌うなど元気な様子を見せたが、
出席者への記念品とともに「このたび日本漫画家協会の理事長を辞任させていただきます。
私の人生劇場も終幕。このへんで退場させていただきます」などと記した文章を配布していた。
(2012年6月23日16時10分 読売新聞)
アンパンマンのうたといえばニコニコ動画で活躍してるアレしか思いつかないw
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8184981
ほれwww見てごらん。ちょー感動(泣) ださださアンパンマンおもちゃ
タッチ式のあいうえおキーボードすぐ壊れたよ
○ツマ金返せ あいうえお配列なんて、使いにくいと言ったらありゃしない。
長年、QWERTY配列でのローマ字入力、英文入力に慣れているしな…。
QWERTY配列はもともとは欧文用タイプライター時代の名残。
フルキーボードなら、ローマ字入力をして、かな漢字変換をすれば済むことだが、
携帯電話、スマートフォンなどでは、どうしてもキー数が不足する為、何らかの
特殊なインプットメソッドとして、Google日本語入力のAndroid版のフリック入力でカバーする。
更に、携帯電話は英文入力にもキー数が不足するので、基本的な言葉の一部を入力すると、
英語の基本的な言葉がリストアップされるなどの何らのインプットメソッドがあるし…。 女子大生のスカート内にカメラ付き携帯 明大院生を逮捕 戸塚署
,〜((((((((〜〜、
( _(((((((((_ ) 神奈川県警戸塚署は、県迷惑行為防止条例違反の現行犯で、明治大学の院生、
|/ ~^^\)/^^~ヽ| 飯野恭平容疑者(23)=横浜市戸塚区上倉田町=を逮捕した。同署によると容疑を認めているという。
| _ 《 _ |
(|-(_//_)-(_//_)-|) 逮捕容疑は20日午後10時25分ごろ、JR戸塚駅前にある商業施設内のエスカレーターで、
| 厶、 | 女子大学生(22)のスカート内に、カメラ付きの携帯電話を差し向けたとしている。
\ |||||||||||| / 同署によると、女性が声を上げ、近くにいた男性(22)がその場で取り押さえたという。
\_~~~~_/
__/|Y/\ 2012.8.21 産経ニュース
Ё|__ | / | . http://sankei.jp.msn.com/region/news/120821/kng12082117350007-n1.htm
| У.. | >>118 >>121
途中から歌詞が違う。
やり直せ さくらまやの演歌「アンパンマンのマーチ」面白いよ
意外なところにこぶしが効いてる
∨ (Vは強調)
あ〜 あ〜 あ〜んぱんま〜ん ご冥福をお祈りします。。。。
アンパンマンと正義
ヒーローとしてのアンパンマンが誕生した背景には、やなせたかしの従軍経験がある。
戦中はプロパガンダ製作に関わっていたこともあり、とくに戦いのなかで「正義」というものがいかに
信用しがたいものかを痛感した。しかし、これまでのヒーローは「正義」こそ口にするが飢えや
空腹に苦しむ人間へ手をさしのべることはしなかった。戦中、戦後の深刻な食糧事情もあり、
当時からやなせは「人生で一番つらいことは食べられないこと」という考えをもっていた。
50代で「アンパンマン」が大ヒットする以前のやなせは売れない作家であり、
空腹を抱えながら「食べ物が向こうからやって来たらいいのに」と思っていたという。
こういった事情が「困っている人に食べ物を届けるヒーロー」という着想につながった。
アンパンマンと「正義」というテーマについて、やなせは端的に「『正義の味方』だったら、
まず、食べさせること。飢えを助ける。」と述べている[14]。
また別のインタビューでも、やはり「究極の正義とはひもじいものに食べ物を与えることである」と述べている。
空腹の者に顔の一部を与えることで悪者と戦う力が落ちると分かっていても、目の前の人を見捨てることはしない。
かつそれでありながら、たとえどんな敵が相手でも戦いも放棄しない。これらの点について
「ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです」
第1作『あんぱんまん』のあとがきよりと、自身が絵本のあとがきで語っている。
そしてアンパンマンは食べられることはあっても、食べることはない。それは単純に(カレーパンマンやしょくぱんまんとは異なり)
アンパンマンが食事をする場面が一度も描かれないことにも現れている。「飲食」が大きなテーマとなった世界で、
本来の「食べる」と「食べられる」の食物連鎖的な循環を裁ち切り、自らを食事としてのみ差し出す自己犠牲こそが
アンパンマンのヒーロー性を支えているのである[16] ↓は反原発ソング歌詞です。この作詞を無償で◆作曲して頂ける反原発、作曲者を探しています。ハンドルネームをよければ添えて下さい。(その作曲スレ、会議室は歌詞下にリンク)
◆
2013/10/27(日) 10:54:05.24 ID:zE+SvsyD
どんな幸せのために ふるさとは壊されたの?
どんな欲望のために 海は汚されたの?
原発を支持するあなた
あなたは幸せですか?
あなたは何が欲しいの?
あなたは何を怖れているの?
あなたの毎日は楽しいですか?
どんな幸せのために ふるさとは犠牲になったの?
あといくつ ふるさとを壊したら あなたの欲望は叶うの?
美しかったふるさとの山は もう還ってこない
無邪気に泳げたふるさとの海は もう還ってこない
たとえあなたが幸せを手離しても
たとえあなたが欲望を諦めても
もう 還ってこないのです
..... ..... ......
作曲は↓のスレッドでお願い致しますm(_ _)m
カテゴリ音楽▼楽器・作曲板
◆反原発ソング◇作曲依頼スレッド
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/compose/1382841599/
▼質問、意見、提案は↓でお願い致します。
カテゴリ案内◆ラウンジ板
◇反原発ソング【会議室】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/entrance/1382840057/ _ _ _
,、=''" ゙'''ヽ、
/ノ ノ⌒ヽ、 :\
/ :_,_、 :::>‐-、 ) ...::::\
/ /~ヾ,} j| ::。:: }く、 .:ヽ
./ /|_::゚:: ,.>ー、ゞー≠__ヽ .ノヽ、:::i
y:::::ヽ :/:⌒::ヽ /::^::::ヽ ⌒ ....::::}
|:O。::) i;:::::::::::::::::)(:::O。:::::::) ー- .:::::i
|::::::::ノ ゝo::::o::ノ ゝ、:::::ノ ー- .::|
l / :r 」{,:::  ̄ ヽ ...:::i' そうだ!嬉しいんだ生きる喜び ♪〜
.l, ::ヘ_ _,,>ー=、_ / ...::/
ヽ `),,、-‐─゙ゝ=´ ....::/ たとえ胸の傷が痛んでも ♪〜
ゝ ==^^^≒、 ....::ノ
ゝ / ヽ、
丿\::>‐--、ニー ノ / `ー-
/ ∧ | ::。:o:} ∧、/
` ゞー-イ / パートで単純作業を繰り返していると、虚しくアンパンマンのマーチが響く。
音楽:「何のために生まれて、何をして生きるのか?」
そんなこと聞かないでくれ。
自分だって将来こんなことをして暮らすだろうと思っていなかった。
音楽:「夢を忘れないで」。
もう、夢はあきらめたよ。
余計なことを考えないほうが、余計なことを言わずに済むんだよ。
音楽:「流さないで、涙」。
そうだな。
自分の仕事が、自分よりも不幸な人々を苦しめる作業だとは気付いている。
でも、仕方ないんだ。
他の人もそうしているように、
自分も私利私欲のために生きるしかないんだ。
もう、涙は忘れたよ。
君も、もう涙なんて忘れなよ。 「韓国人の残虐性」
【韓国軍による民間人の大虐殺 犠牲者30万人以上】
ベトナム戦争において、韓国軍はベトナム人女性を幼児までをもレイプしました。
まず逃げることが出来ないように手足を切断してからゆっくり強姦、輪姦。
そして全員が射精し終わると、証拠隠滅のために生きたまま川に棄てた。
後日、多数の手足のない女性の遺体が川から発見された。
幼児でさえ強姦。遺体は性器が完全に破壊されているものもあった。
妊婦の腹を踏みつぶし胎児が飛び出すまで踏み続ける
母親の前で子供の首をはね切り刻んで埋めた。
https://www.youtube.com/watch?v=bJxvxI9epEs
これが朝鮮人です。こんな危険な生き物が日本に何十万人といます。
在日朝鮮人の財力暴力に影響された日本のメディアは、
在日朝鮮人やそれによる犯罪の実態を隠蔽してきました。
その結果、在日に対して無知な日本人は、その危険性を理解せず、
在日に関わり、弄ばれ、玩ばれ、傷つけられ、命や財産を奪われ、
また辱しめを与えられ続けてきました。
一生残る傷を負わされた日本人を思うと、在日朝鮮人は絶対許せません。
日本のメディアも同罪です。
韓国軍に両胸をえぐり取られれ、銃撃を加えられて瀕死の21歳のベトナム女性
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f7/Phong_Nhi_massacre_3.jpg
韓国軍から至近距離で撃たれ前頭部を吹き飛ばされた2名のベトナム人妊婦
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b6/Phong_Nhi_massacre_4.jpg
韓国軍に大量殺害されたベトナム人の子供の遺体
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/46/Phong_Nhi_massacre_2.jpg
韓国軍に焼かれた住民 強姦後は焼かれたり井戸に落とされ圧死させられた
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/67/Phong_Nhi_massacre_7.jpg/300 神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em ホセ・ゴンザレス戦を終えたリング。
レフェリーがポイントを集計している。
コーナーでは、段平があわただしくジョーのグローブをはずしている。
ジョー「葉子...葉子は...いるか?」
葉子、ハッとしてジョーに駆け寄り、思わず叫ぶ。
葉子 「矢吹君!私はここよ!!」
ジョー「受け取って...欲しいんだ...これをよ...」
激闘の後を伺い知るグローブ。
血が滴り落ちている。
葉子にそれを差し出す。
葉子 「.....」
言葉にならない葉子。
震える手でグローブを受け取る。
その時、レフェリーより結果発表が始まる。
レフェリー「...ホセ!」
ホセの右手が高々と挙がる。
しかし、ホセの髪の毛がなんと老人のように真っ白になっている。
恐怖の為に!
ジョー 「燃えたぜ...真っ白にな...」 大阪府三島郡島本町は
暴力とイジメのブラックタウンなの? 3年前にアンパンマンが靖国神社に現れたの思い出したよ アンパンマンがみたいと言っていたみたいだがにわかに進じられない アンパンマン関連の曲で唯一フルで歌えるのアンパンマンマーチ 住みにくさが高こうじると、安い所へ引き越したくなる。 どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画えが出来る。 やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。 ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。 ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降くだる。 あらゆる芸術の士は人の世を長閑のどかにし、人の心を豊かにするが故ゆえに尊たっとい。 住みにくき世から、住みにくき煩わずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画えである。 ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧わく。 着想を紙に落さぬとも鏘きゅうそうの音おんは胸裏きょうりに起おこる。 丹青たんせいは画架がかに向って塗抹とまつせんでも五彩ごさいの絢爛けんらんは自おのずから心眼しんがんに映る。 ただおのが住む世を、かく観かんじ得て、霊台方寸れいだいほうすんのカメラに澆季溷濁ぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収め得うれば足たる。 この故に無声むせいの詩人には一句なく、無色むしょくの画家には尺せっけんなきも、かく人世じんせいを観じ得るの点において、かく煩悩ぼんのうを解脱げだつするの点において、 かく清浄界しょうじょうかいに出入しゅつにゅうし得るの点において、またこの不同不二ふどうふじの乾坤けんこんを建立こんりゅうし得るの点において、我利私慾がりしよくの覊絆きはんを掃蕩そうとうするの点において、 ――千金せんきんの子よりも、万乗ばんじょうの君よりも、あらゆる俗界の寵児ちょうじよりも幸福である。 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐かいある世と知った。 二十五年にして明暗は表裏ひょうりのごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。 ――喜びの深きとき憂うれいいよいよ深く、楽たのしみの大いなるほど苦しみも大きい。 金は大事だ、大事なものが殖ふえれば寝ねる間まも心配だろう。 恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。 余よの考かんがえがここまで漂流して来た時に、余の右足うそくは突然坐すわりのわるい角石かくいしの端はしを踏み損そくなった。 平衡へいこうを保つために、すわやと前に飛び出した左足さそくが、仕損しそんじの埋うめ合あわせをすると共に、余の腰は具合よく方ほう三尺ほどな岩の上に卸おりた。 肩にかけた絵の具箱が腋わきの下から躍おどり出しただけで、幸いと何なんの事もなかった。 立ち上がる時に向うを見ると、路みちから左の方にバケツを伏せたような峰が聳そびえている。 杉か檜ひのきか分からないが根元ねもとから頂いただきまでことごとく蒼黒あおぐろい中に、山桜が薄赤くだんだらに棚引たなびいて、続つぎ目めが確しかと見えぬくらい靄もやが濃い。 少し手前に禿山はげやまが一つ、群ぐんをぬきんでて眉まゆに逼せまる。 禿はげた側面は巨人の斧おので削けずり去ったか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋うずめている。 行く手は二丁ほどで切れているが、高い所から赤い毛布けっとが動いて来るのを見ると、登ればあすこへ出るのだろう。 土をならすだけならさほど手間てまも入いるまいが、土の中には大きな石がある。 掘崩ほりくずした土の上に悠然ゆうぜんと峙そばだって、吾らのために道を譲る景色けしきはない。 左右が高くって、中心が窪くぼんで、まるで一間幅はばを三角に穿くって、その頂点が真中まんなかを貫つらぬいていると評してもよい。 路を行くと云わんより川底を渉わたると云う方が適当だ。 固もとより急ぐ旅でないから、ぶらぶらと七曲ななまがりへかかる。 谷を見下みおろしたが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。 方幾里ほういくりの空気が一面に蚤のみに刺されていたたまれないような気がする。 のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。 その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。 登り詰めた揚句あげくは、流れて雲に入いって、漂ただようているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡うちに残るのかも知れない。 巌角いわかどを鋭どく廻って、按摩あんまなら真逆様まっさかさまに落つるところを、際きわどく右へ切れて、横に見下みおろすと、菜なの花が一面に見える。 いいや、あの黄金こがねの原から飛び上がってくるのかと思った。 次には落ちる雲雀と、上あがる雲雀ひばりが十文字にすれ違うのかと思った。 最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦すれ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。 猫は鼠を捕とる事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。 時には自分の魂たましいの居所いどころさえ忘れて正体なくなる。 雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然はんぜんする。 雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。 魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。 たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦あんしょうして見たが、覚えているところは二三句しかなかった。 「前をみては、後しりえを見ては、物欲ものほしと、あこがるるかなわれ。 うつくしき、極きわみの歌に、悲しさの、極みの想おもい、籠こもるとぞ知れ」 なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳わけには行くまい。 西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛ばんこくの愁うれいなどと云う字がある。 詩人だから万斛で素人しろうとなら一合ごうで済むかも知れぬ。 して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨ぼんこつの倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。 超俗の喜びもあろうが、無量の悲かなしみも多かろう。 しばらくは路が平たいらで、右は雑木山ぞうきやま、左は菜の花の見つづけである。 鋸のこぎりのような葉が遠慮なく四方へのして真中に黄色な珠たまを擁護している。 菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座ちんざしている。 詩人に憂うれいはつきものかも知れないが、あの雲雀ひばりを聞く心持になれば微塵みじんの苦くもない。 菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍おどるばかりだ。 蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。 こう山の中へ来て自然の景物けいぶつに接すれば、見るものも聞くものも面白い。 起るとすれば足が草臥くたびれて、旨うまいものが食べられぬくらいの事だろう。 ただこの景色を一幅ぷくの画えとして観み、一巻かんの詩として読むからである。 画がであり詩である以上は地面じめんを貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲ひともうけする了見りょうけんも起らぬ。 ただこの景色が――腹の足たしにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴ともなわぬのだろう。 吾人の性情を瞬刻に陶冶とうやして醇乎じゅんことして醇なる詩境に入らしむるのは自然である。 恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。 しかし自身がその局きょくに当れば利害の旋風つむじに捲まき込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩くらんでしまう。 これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。 芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚たなへ上げている。 それすら、普通の芝居や小説では人情を免まぬかれぬ。 見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。 取柄とりえは利慾が交まじらぬと云う点に存そんするかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒じょうしょは常よりは余計に活動するだろう。 苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。 余も三十年の間それを仕通しとおして、飽々あきあきした。 飽あき飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。 余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞こぶするようなものではない。 俗念を放棄して、しばらくでも塵界じんかいを離れた心持ちになれる詩である。 いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。 どこまでも世間を出る事が出来ぬのが彼らの特色である。 ことに西洋の詩になると、人事が根本になるからいわゆる詩歌しいかの純粋なるものもこの境きょうを解脱げだつする事を知らぬ。 どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世うきよの勧工場かんこうばにあるものだけで用を弁べんじている。 いくら詩的になっても地面の上を馳かけてあるいて、銭ぜにの勘定を忘れるひまがない。 シェレーが雲雀ひばりを聞いて嘆息したのも無理はない。 うれしい事に東洋の詩歌しいかはそこを解脱げだつしたのがある。 採菊きくをとる東籬下とうりのもと、悠然ゆうぜんとして見南山なんざんをみる。 ただそれぎりの裏うちに暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。 垣の向うに隣りの娘が覗のぞいてる訳でもなければ、南山なんざんに親友が奉職している次第でもない。 超然と出世間的しゅっせけんてきに利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。 独ひとり坐幽篁裏ゆうこうのうちにざし、弾琴きんをだんじて復長嘯またちょうしょうす、深林しんりん人不知ひとしらず、明月来めいげつきたりて相照あいてらす。 ただ二十字のうちに優ゆうに別乾坤べつけんこんを建立こんりゅうしている。 この乾坤の功徳くどくは「不如帰ほととぎす」や「金色夜叉こんじきやしゃ」の功徳ではない。 汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼義で疲れ果てた後のちに、すべてを忘却してぐっすり寝込むような功徳である。 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。 惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ呑気のんきな扁舟へんしゅうを泛うかべてこの桃源とうげんに溯さかのぼるものはないようだ。 余は固もとより詩人を職業にしておらんから、王維おういや淵明えんめいの境界きょうがいを今の世に布教ふきょうして広げようと云う心掛も何もない。 ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。 ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。 こうやって、ただ一人ひとり絵の具箱と三脚几さんきゃくきを担かついで春の山路やまじをのそのそあるくのも全くこれがためである。 淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間までも非人情ひにんじょうの天地に逍遥しょうようしたいからの願ねがい。 もちろん人間の一分子いちぶんしだから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳わけには行かぬ。 淵明だって年ねんが年中ねんじゅう南山なんざんを見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪たけやぶの中に蚊帳かやを釣らずに寝た男でもなかろう。 やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生はえた筍たけのこは八百屋やおやへ払い下げたものと思う。 いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が募つのってはおらん。 じんじん端折ばしょりの頬冠ほおかむりや、赤い腰巻こしまきの姉あねさんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。 百万本の檜ひのきに取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑のんだり吐いたりしても、人の臭においはなかなか取れない。 それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵こよいの宿は那古井なこいの温泉場おんせんばだ。 レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言ことばに、あの鐘かねの音おとを聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。 一人の男、一人の女も見様次第みようしだいでいかようとも見立てがつく。 どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路うきよこうじの何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。 よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見おのうはいけんの時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。 七騎落しちきおちでも、墨田川すみだがわでも泣かぬとは保証が出来ん。 しかしあれは情じょう三分芸ぶげい七分で見せるわざだ。 我らが能から享うけるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際てぎわから出てくるのではない。 そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長ゆうちょうな振舞ふるまいをするからである。 しばらくこの旅中りょちゅうに起る出来事と、旅中に出逢であう人間を能の仕組しくみと能役者の所作しょさに見立てたらどうだろう。 まるで人情を棄すてる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまでは漕こぎつけたいものだ。 南山なんざんや幽篁ゆうこうとは性たちの違ったものに相違ないし、また雲雀ひばりや菜の花といっしょにする事も出来まいが、なるべくこれに近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視みてみたい。 芭蕉ばしょうと云う男は枕元まくらもとへ馬が尿いばりするのをさえ雅がな事と見立てて発句ほっくにした。 余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺じいさんも婆ばあさんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。 もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似まねをするだろう。 しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探さぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤じんじかっとうの詮議立せんぎだてをしては俗になる。 画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。 平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。 面倒になればなるほど美的に見ている訳わけに行かなくなる。 これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。 そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐ふところには容易に飛び込めない訳だから、つまりは画えの前へ立って、画中の人物が画面の中うちをあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。 間あいだ三尺も隔へだてていれば落ちついて見られる。 言ことばを換かえて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙あげて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。 余念もなく美か美でないかと鑒識かんしきする事が出来る。 煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂もたれ懸かかっていたと思ったが、いつのまにか、崩くずれ出だして、四方しほうはただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。 菜の花は疾とくに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃こまやかでほとんど霧を欺あざむくくらいだから、隔へだたりはどれほどかわからぬ。 時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背せが右手に見える事がある。 深く罩こめる雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。 雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。 路は存外ぞんがい広くなって、かつ平たいらだから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。 帽子から雨垂あまだれがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子まごがふうとあらわれた。 まだ十五丁かと、振り向いているうちに、馬子の姿は影画かげえのように雨につつまれて、またふうと消えた。 糠ぬかのように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋ひとすじごとに風に捲まかれる様さままでが目に入いる。 羽織はとくに濡れ尽つくして肌着に浸しみ込んだ水が、身体からだの温度ぬくもりで生暖なまあたたかく感ぜられる。 気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行あるく。 茫々ぼうぼうたる薄墨色うすずみいろの世界を、幾条いくじょうの銀箭ぎんせんが斜ななめに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏よまれる。 有体ありていなる己おのれを忘れ尽つくして純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保たもつ。 ただ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われはすでに詩中の人にもあらず、画裡がりの人にもあらず。 蕭々しょうしょうとして独ひとり春山しゅんざんを行く吾われの、いかに美しきかはなおさらに解かいせぬ。 雨は満目まんもくの樹梢じゅしょうを揺うごかして四方しほうより孤客こかくに逼せまる。 軒下のきしたから奥を覗のぞくと煤すすけた障子しょうじが立て切ってある。 五六足の草鞋わらじが淋さびしそうに庇ひさしから吊つるされて、屈托気くったくげにふらりふらりと揺れる。 下に駄菓子だがしの箱が三つばかり並んで、そばに五厘銭と文久銭ぶんきゅうせんが散らばっている。 土間の隅すみに片寄せてある臼うすの上に、ふくれていた鶏にわとりが、驚ろいて眼をさます。 敷居の外に土竈どべっついが、今しがたの雨に濡れて、半分ほど色が変ってる上に、真黒な茶釜ちゃがまがかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。 返事がないから、無断でずっと這入はいって、床几しょうぎの上へ腰を卸おろした。 鶏にわとりは羽摶はばたきをして臼うすから飛び下りる。 障子しょうじがしめてなければ奥まで馳かけぬける気かも知れない。 雄が太い声でこけっこっこと云うと、雌が細い声でけけっこっこと云う。 床几の上には一升枡いっしょうますほどな煙草盆たばこぼんが閑静に控えて、中にはとぐろを捲まいた線香が、日の移るのを知らぬ顔で、すこぶる悠長ゆうちょうに燻いぶっている。 しばらくすると、奥の方から足音がして、煤すすけた障子がさらりと開あく。 しかし自分の見世みせを明あけ放しても苦にならないと見えるところが、少し都とは違っている。 返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。 二三年前宝生ほうしょうの舞台で高砂たかさごを見た事がある。 その時これはうつくしい活人画かつじんがだと思った。 箒ほうきを担かついだ爺さんが橋懸はしがかりを五六歩来て、そろりと後向うしろむきになって、婆さんと向い合う。 余の席からは婆さんの顔がほとんど真まむきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。 茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。 「そこをもう少し燃もしつけてくれれば、あたりながら乾かすよ。 と立ち上がりながら、しっしっと二声ふたこえで鶏にわとりを追い下さげる。 ここここと馳かけ出した夫婦は、焦茶色こげちゃいろの畳から、駄菓子箱の中を踏みつけて、往来へ飛び出す。 「まあ一つ」と婆さんはいつの間まにか刳くり抜き盆の上に茶碗をのせて出す。 茶の色の黒く焦こげている底に、一筆ひとふでがきの梅の花が三輪無雑作むぞうさに焼き付けられている。 「御菓子を」と今度は鶏の踏みつけた胡麻ごまねじと微塵棒みじんぼうを持ってくる。 糞ふんはどこぞに着いておらぬかと眺ながめて見たが、それは箱のなかに取り残されていた。 婆さんは袖無そでなしの上から、襷たすきをかけて、竈へっついの前へうずくまる。 余は懐ふところから写生帖を取り出して、婆さんの横顔を写しながら、話しをしかける。 「あいにく今日きょうは――先刻さっきの雨でどこぞへ逃げました」 折りから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯さっと風を起して一尺あまり吹き出す。 軒端のきばを見ると青い煙りが、突き当って崩くずれながらに、微かすかな痕あとをまだ板庇いたびさしにからんでいる。 逡巡しゅんじゅんとして曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山ぜんざんの一角いっかくは、未練もなく晴れ尽して、老嫗ろううの指さす方かたにさんがんと、あら削けずりの柱のごとく聳そびえるのが天狗岩だそうだ。 余はまず天狗巌を眺ながめて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々はんはんに両方を見比みくらべた。 画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂たかさごの媼ばばと、蘆雪ろせつのかいた山姥やまうばのみである。 蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは物凄ものすごいものだと感じた。 紅葉もみじのなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。 宝生ほうしょうの別会能べつかいのうを観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。 惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、穏おだやかに、あたたかに見える。 金屏きんびょうにも、春風はるかぜにも、あるは桜にもあしらって差さし支つかえない道具である。 余は天狗岩よりは、腰をのして、手を翳かざして、遠く向うを指ゆびさしている、袖無し姿の婆さんを、春の山路やまじの景物として恰好かっこうなものだと考えた。 余が写生帖を取り上げて、今しばらくという途端とたんに、婆さんの姿勢は崩れた。 手持無沙汰てもちぶさたに写生帖を、火にあてて乾かわかしながら、 ありがたい事に達者で――針も持ちます、苧おもうみます、御団子おだんごの粉こも磨ひきます」 この御婆さんに石臼いしうすを挽ひかして見たくなった。 「ここから那古井なこいまでは一里足たらずだったね」と別な事を聞いて見る。 「込み合わなければ、少し逗留とうりゅうしようかと思うが、まあ気が向けばさ」 「いえ、戦争が始まりましてから、頓とんと参るものは御座いません。 「へえ、志保田しほださんと御聞きになればすぐわかります。 村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」 帳面をあけて先刻さっきの鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴きこえ出した。 この声がおのずと、拍子ひょうしをとって頭の中に一種の調子が出来る。 眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。 やがて長閑のどかな馬子唄まごうたが、春に更ふけた空山一路くうざんいちろの夢を破る。 憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画えにかいた声だ。 と、今度は斜はすに書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。 「また誰ぞ来ました」と婆さんが半なかば独ひとり言ごとのように云う。 ただ一条ひとすじの春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。 最前逢おうた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を下くだり、思われては山を登ったのだろう。 路寂寞じゃくまくと古今ここんの春を貫つらぬいて、花を厭いとえば足を着くるに地なき小村こむらに、婆さんは幾年いくねんの昔からじゃらん、じゃらんを数え尽くして、今日こんにちの白頭はくとうに至ったのだろう。 と次のページへ認したためたが、これでは自分の感じを云い終おおせない、もう少し工夫くふうのありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。 何でも白髪という字を入れて、幾代の節と云う句を入れて、馬子唄という題も入れて、春の季きも加えて、それを十七字に纏まとめたいと工夫しているうちに、 「はい、今日は」と実物の馬子が店先に留とまって大きな声をかける。 「そうさ、鍛冶町かじちょうを通ったら、娘に霊厳寺れいがんじの御札おふだを一枚もらってきておくれなさい」 枝繁えだしげき山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の塊かたまりを、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、仮かりの住居すまいを、さらさらと転ころげ落ちる。 馬は驚ろいて、長い鬣たてがみを上下うえしたに振る。 「コーラッ」と叱しかりつける源さんの声が、じゃらん、じゃらんと共に余の冥想めいそうを破る。 「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前めさきに散らついている。 裾模様すそもようの振袖ふりそでに、高島田たかしまだで、馬に乗って……」 「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に斑ふが出来ました」 心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、 不思議な事には衣装いしょうも髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。 しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影おもかげが忽然こつぜんと出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。 これは駄目だと、せっかくの図面を早速さっそく取り崩くずす。 衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗きれいに立ち退のいたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧もうろうと胸の底に残って、棕梠箒しゅろぼうきで煙を払うように、さっぱりしなかった。 空に尾を曳ひく彗星すいせいの何となく妙な気になる。 「それじゃ、まあ御免」と源さんが挨拶あいさつする。 「はい、少し骨が折れよ」と源さんは歩行あるき出す。 「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、峠とうげを越したのかい」 「志保田の嬢様が城下へ御輿入おこしいれのときに、嬢様を青馬あおに乗せて、源兵衛が覊絏はづなを牽ひいて通りました。 ――月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」 鏡に対むかうときのみ、わが頭の白きを喞かこつものは幸の部に属する人である。 指を折って始めて、五年の流光に、転輪の疾とき趣おもむきを解し得たる婆さんは、人間としてはむしろ仙せんに近づける方だろう。 湯治場とうじばへ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」 やはり裾模様すそもようの振袖ふりそでを着て、高島田に結いっていればいいが」 余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外真面目まじめである。 「嬢様と長良ながらの乙女おとめとはよく似ております」 「昔むかしこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者ちょうじゃの娘が御座りましたそうな」 「ところがその娘に二人の男が一度に懸想けそうして、あなた」 「ささだ男に靡なびこうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩わずらったが、どちらへも靡きかねて、とうとう あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも と云う歌を咏よんで、淵川ふちかわへ身を投げて果はてました」 余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅こがな言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。 「これから五丁東へ下くだると、道端みちばたに五輪塔ごりんのとうが御座んす。 ついでに長良ながらの乙女おとめの墓を見て御行きなされ」 一人は嬢様が京都へ修行に出て御出おいでの頃御逢おあいなさったので、一人はここの城下で随一の物持ちで御座んす」 「御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを、そこには色々な理由わけもありましたろが、親ご様が無理にこちらへ取りきめて……」 「めでたく、淵川ふちかわへ身を投げんでも済んだ訳だね」 「ところが――先方さきでも器量望みで御貰おもらいなさったのだから、随分大事にはなさったかも知れませぬが、もともと強しいられて御出なさったのだから、どうも折合おりあいがわるくて、御親類でもだいぶ御心配の様子で御座んした。 ところへ今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。 世間では嬢様の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。 もとは極々ごくごく内気うちきの優しいかたが、この頃ではだいぶ気が荒くなって、何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します。……」 これからさきを聞くと、せっかくの趣向しゅこうが壊こわれる。 ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て羽衣はごろもを帰せ帰せと催促さいそくするような気がする。 七曲ななまがりの険を冒おかして、やっとの思おもいで、ここまで来たものを、そうむやみに俗界に引きずり下おろされては、飄然ひょうぜんと家を出た甲斐かいがない。 世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の臭においが毛孔けあなから染込しみこんで、垢あかで身体からだが重くなる。 「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十銭銀貨を一枚床几しょうぎの上へかちりと投げ出して立ち上がる。 「長良ながらの五輪塔から右へ御下おくだりなさると、六丁ほどの近道になります。 路みちはわるいが、御若い方にはその方ほうがよろしかろ。 ――これは多分に御茶代を――気をつけて御越しなされ」 宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の具合ぐあい庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。 何だか廻廊のような所をしきりに引き廻されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。 晩餐ばんさんを済まして、湯に入いって、室へやへ帰って茶を飲んでいると、小女こおんなが来て床とこを延のべよかと云いう。 不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、晩食ばんめしの給仕も、湯壺ゆつぼへの案内も、床を敷く面倒も、ことごとくこの小女一人で弁じている。 赤い帯を色気いろけなく結んで、古風な紙燭しそくをつけて、廊下のような、梯子段はしごだんのような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降おりて、湯壺へ連れて行かれた時は、すでに自分ながら、 給仕の時には、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段ふだん使っている部屋で我慢してくれと云った。 床を延べる時にはゆるりと御休みと人間らしい、言葉を述べて、出て行ったが、その足音が、例の曲りくねった廊下を、次第に下の方へ遠とおざかった時に、あとがひっそりとして、人の気けがしないのが気になった。 昔し房州ぼうしゅうを館山たてやまから向うへ突き抜けて、上総かずさから銚子ちょうしまで浜伝いに歩行あるいた事がある。 余がとめるかと聞いたとき、年を取った方がはいと云って、若い方がこちらへと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた、広い間まをいくつも通り越して一番奥の、中二階ちゅうにかいへ案内をした。 三段登って廊下から部屋へ這入はいろうとすると、板庇いたびさしの下に傾かたむきかけていた一叢ひとむらの修竹しゅうちくが、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫なでたので、すでにひやりとした。 来年は筍たけのこが椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら、若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。 その晩は例の竹が、枕元で婆娑ばさついて、寝られない。 障子しょうじをあけたら、庭は一面の草原で、夏の夜の月明つきあきらかなるに、眼を走はしらせると、垣も塀へいもあらばこそ、まともに大きな草山に続いている。 草山の向うはすぐ大海原おおうなばらでどどんどどんと大きな濤なみが人の世を威嚇おどかしに来る。 余はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪し気な蚊帳かやのうちに辛防しんぼうしながら、まるで草双紙くさぞうしにでもありそうな事だと考えた。 その後ご旅もいろいろしたが、こんな気持になった事は、今夜この那古井へ宿るまではかつて無かった。 仰向あおむけに寝ながら、偶然目を開あけて見ると欄間らんまに、朱塗しゅぬりの縁ふちをとった額がくがかかっている。 文字もじは寝ながらも竹影ちくえい払階かいをはらって塵不動ちりうごかずと明らかに読まれる。 余は書においては皆無鑒識かいむかんしきのない男だが、平生から、黄檗おうばくの高泉和尚こうせんおしょうの筆致ひっちを愛している。 隠元いんげんも即非そくひも木庵もくあんもそれぞれに面白味はあるが、高泉こうせんの字が一番蒼勁そうけいでしかも雅馴がじゅんである。 今この七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。 ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかも知れぬ。 床とこにかかっている若冲じゃくちゅうの鶴の図が目につく。 これは商売柄しょうばいがらだけに、部屋に這入はいった時、すでに逸品いっぴんと認めた。 若冲の図は大抵精緻せいちな彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼きがねなしの一筆ひとふでがきで、一本足ですらりと立った上に、卵形たまごなりの胴がふわっと乗のっかっている様子は、はなはだ吾意わがいを得て、飄逸ひょういつの趣おもむきは、 長良ながらの乙女おとめが振袖を着て、青馬あおに乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。 女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上のぼって、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。 救ってやろうと思って、長い竿さおを持って、向島むこうじまを追懸おっかけて行く。 女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末ゆくえも知らず流れを下る。 妙に雅俗混淆がぞくこんこうな夢を見たものだと思った。 昔し宋そうの大慧禅師だいえぜんじと云う人は、悟道の後のち、何事も意のごとくに出来ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。 文芸を性命せいめいにするものは今少しうつくしい夢を見なければ幅はばが利きかない。 こんな夢では大部分画にも詩にもならんと思いながら、寝返りを打つと、いつの間にか障子しょうじに月がさして、木の枝が二三本斜ななめに影をひたしている。 気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。 夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに紛まぎれ込んだのかと耳を峙そばだてる。 細くかつ低い声には相違ないが、眠らんとする春の夜よに一縷いちるの脈をかすかに搏うたせつつある。 不思議な事に、その調子はとにかく、文句をきくと――枕元でやってるのでないから、文句のわかりようはない。 あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと長良ながらの乙女おとめの歌を、繰り返し繰り返すように思われる。 初めのうちは椽えんに近く聞えた声が、しだいしだいに細く遠退とおのいて行く。 突然とやむものには、突然の感はあるが、憐あわれはうすい。 ふっつりと思い切ったる声をきく人の心には、やはりふっつりと思い切ったる感じが起る。 これと云う句切りもなく自然じねんに細ほそりて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた秒びょうを縮め、分ふんを割さいて、心細さの細さが細る。 死なんとしては、死なんとする病夫びょうふのごとく、消えんとしては、消えんとする灯火とうかのごとく、今やむか、やむかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨うらみをことごとく萃あつめたる調べがある。 今までは床とこの中に我慢して聞いていたが、聞く声の遠ざかるに連れて、わが耳は、釣り出さるると知りつつも、その声を追いかけたくなる。 細くなればなるほど、耳だけになっても、あとを慕したって飛んで行きたい気がする。 もうどう焦慮あせっても鼓膜こまくに応こたえはあるまいと思う一刹那いっせつなの前、余はたまらなくなって、われ知らず布団ふとんをすり抜けると共にさらりと障子しょうじを開あけた。 途端とたんに自分の膝ひざから下が斜ななめに月の光りを浴びる。 あの声はと、耳の走る見当を見破ると――向うにいた。 花ならば海棠かいどうかと思わるる幹を背せに、よそよそしくも月の光りを忍んで朦朧もうろうたる影法師かげぼうしがいた。 あれかと思う意識さえ、確しかとは心にうつらぬ間に、黒いものは花の影を踏み砕くだいて右へ切れた。 わがいる部屋つづきの棟むねの角かどが、すらりと動く、背せいの高い女姿を、すぐに遮さえぎってしまう。 借着かりぎの浴衣ゆかた一枚で、障子へつらまったまま、しばらく茫然ぼうぜんとしていたが、やがて我に帰ると、山里の春はなかなか寒いものと悟った。 ともかくもと抜け出でた布団の穴に、再び帰参きさんして考え出した。 括くくり枕まくらのしたから、袂時計たもとどけいを出して見ると、一時十分過ぎである。 しかし出帰でがえりの御嬢さんとしては夜なかに山つづきの庭へ出るのがちと不穏当ふおんとうだ。 今まで懐中時計の音の気になった事はないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寝るな寝るなと忠告するごとく口をきく。 怖こわいものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。 凄すごい事も、己おのれを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画えになる。 失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の宿やどるところやら、憂うれいのこもるところやら、一歩進めて云えば失恋の苦しみそのものの溢あふるるところやらを、単に客観的に眼前がんぜんに思い浮べるから文学美術の材料になる。 世には有りもせぬ失恋を製造して、自みずから強しいて煩悶はんもんして、愉快を貪むさぼるものがある。 常人じょうにんはこれを評して愚ぐだと云う、気違だと云う。 しかし自から不幸の輪廓を描えがいて好このんでその中うちに起臥きがするのは、自から烏有うゆうの山水を刻画こくがして壺中こちゅうの天地てんちに歓喜すると、その芸術的の立脚地りっきゃくちを得たる点において全く等しいと云わねばならぬ。 この点において世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。 われわれは草鞋旅行わらじたびをする間あいだ、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向って曾遊そうゆうを説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。 面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々ちょうちょうして、したり顔である。 これはあえて自みずから欺あざむくの、人を偽いつわるのと云う了見りょうけんではない。 旅行をする間は常人の心持ちで、曾遊を語るときはすでに詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起る。 して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角いっかくを磨滅まめつして、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。 この故ゆえに天然てんねんにあれ、人事にあれ、衆俗しゅうぞくの辟易へきえきして近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅りんろうを見、無上むじょうの宝ほうろを知る。 燦爛さんらんたる彩光さいこうは、炳乎へいことして昔から現象世界に実在している。 ただ一翳いちえい眼に在あって空花乱墜くうげらんついするが故に、俗累ぞくるいの覊絏牢きせつろうとして絶たちがたきが故に、栄辱得喪えいじょくとくそうのわれに逼せまる事、念々切せつなるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、 応挙おうきょが幽霊を描えがくまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。 余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰だれが見ても、誰だれに聞かしても饒ゆたかに詩趣を帯びている。 ――孤村こそんの温泉、――春宵しゅんしょうの花影かえい、――月前げつぜんの低誦ていしょう、――朧夜おぼろよの姿――どれもこれも芸術家の好題目こうだいもくである。 この好題目が眼前がんぜんにありながら、余は入いらざる詮義立せんぎだてをして、余計な探さぐりを投げ込んでいる。 せっかくの雅境に理窟りくつの筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪わるさが踏みつけにしてしまった。 こんな事なら、非人情も標榜ひょうぼうする価値がない。 もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って吹聴ふいちょうする資格はつかぬ。 昔し以太利亜イタリアの画家サルヴァトル・ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を賭かけにして、山賊の群むれに這入はいり込んだと聞いた事がある。 飄然ひょうぜんと画帖を懐ふところにして家を出いでたからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしい事だ。 こんな時にどうすれば詩的な立脚地りっきゃくちに帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に据すえつけて、その感じから一歩退しりぞいて有体ありていに落ちついて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。 詩人とは自分の屍骸しがいを、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。 その方便は色々あるが一番手近てぢかなのは何なんでも蚊かでも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。 十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、厠かわやに上のぼった時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。 十七字が容易に出来ると云う意味は安直あんちょくに詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟さとりであるから軽便だと云って侮蔑ぶべつする必要はない。 軽便であればあるほど功徳くどくになるからかえって尊重すべきものと思う。 十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。 腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人ひとりが同時に働けるものではない。 涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離ゆうりして、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉うれしさだけの自分になる。 今夜も一つこの主張を実行して見ようと、夜具の中で例の事件を色々と句に仕立てる。 出来たら書きつけないと散漫さんまんになっていかぬと、念入りの修業だから、例の写生帖をあけて枕元へ置く。 「海棠かいだうの露をふるふや物狂ものぐるひ」と真先まっさきに書き付けて読んで見ると、別に面白くもないが、さりとて気味のわるい事もない。 次に「花の影、女の影の朧おぼろかな」とやったが、これは季が重かさなっている。 しかし何でも構わない、気が落ちついて呑気のんきになればいい。 それから「正一位しやういちゐ、女に化ばけて朧月おぼろづき」と作ったが、狂句めいて、自分ながらおかしくなった。 この調子なら大丈夫と乗気のりきになって出るだけの句をみなかき付ける。 などと、試みているうち、いつしか、うとうと眠くなる。 恍惚こうこつと云うのが、こんな場合に用いるべき形容詞かと思う。 明覚めいかくの際には誰たれあって外界がいかいを忘るるものはなかろう。 醒さめたりと云うには余り朧おぼろにて、眠ると評せんには少しく生気せいきを剰あます。 起臥きがの二界を同瓶裏どうへいりに盛りて、詩歌しいかの彩管さいかんをもって、ひたすらに攪かき雑まぜたるがごとき状態を云うのである。 自然の色を夢の手前てまえまでぼかして、ありのままの宇宙を一段、霞かすみの国へ押し流す。 睡魔の妖腕ようわんをかりて、ありとある実相の角度を滑なめらかにすると共に、かく和やわらげられたる乾坤けんこんに、われからと微かすかに鈍にぶき脈を通わせる。 地を這はう煙の飛ばんとして飛び得ざるごとく、わが魂たましいの、わが殻からを離れんとして離るるに忍びざる態ていである。 抜け出いでんとして逡巡ためらい、逡巡いては抜け出でんとし、果はては魂と云う個体を、もぎどうに保たもちかねて、氤いんうんたる瞑氛めいふんが散るともなしに四肢五体に纏綿てんめんして、 余が寤寐ごびの境さかいにかく逍遥しょうようしていると、入口の唐紙からかみがすうと開あいた。 あいた所へまぼろしのごとく女の影がふうと現われた。 余が閉とじている瞼まぶたの裏うちに幻影まぼろしの女が断ことわりもなく滑すべり込んで来たのである。 仙女せんにょの波をわたるがごとく、畳の上には人らしい音も立たぬ。 閉ずる眼まなこのなかから見る世の中だから確しかとは解らぬが、色の白い、髪の濃い、襟足えりあしの長い女である。 近頃はやる、ぼかした写真を灯影ほかげにすかすような気がする。 白い腕が袖そでをすべって暗闇くらやみのなかにほのめいた。 人に死して、まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであろう。 いつまで人と馬の相中あいなかに寝ていたかわれは知らぬ。 耳元にききっと女の笑い声がしたと思ったら眼がさめた。 見れば夜の幕はとくに切り落されて、天下は隅すみから隅まで明るい。 うららかな春日はるびが丸窓の竹格子たけごうしを黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議と云うものの潜ひそむ余地はなさそうだ。 神秘は十万億土じゅうまんおくどへ帰って、三途さんずの川かわの向側むこうがわへ渡ったのだろう。 浴衣ゆかたのまま、風呂場ふろばへ下りて、五分ばかり偶然と湯壺ゆつぼのなかで顔を浮かしていた。 第一昨夕ゆうべはどうしてあんな心持ちになったのだろう。 昼と夜を界さかいにこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。 身体からだを拭ふくさえ退儀たいぎだから、いい加減にして、濡ぬれたまま上あがって、風呂場の戸を内から開あけると、また驚かされた。 人のいるさえ予期しておらぬ出合頭であいがしらの挨拶あいさつだから、さそくの返事も出る遑いとまさえないうちに、 と後うしろへ廻って、ふわりと余の背中せなかへ柔かい着物をかけた。 ようやくの事「これはありがとう……」だけ出して、向き直る、途端とたんに女は二三歩退しりぞいた。 昔から小説家は必ず主人公の容貌ようぼうを極力描写することに相場がきまってる。 古今東西の言語で、佳人かじんの品評ひんぴょうに使用せられたるものを列挙したならば、大蔵経だいぞうきょうとその量を争うかも知れぬ。 この辟易へきえきすべき多量の形容詞中から、余と三歩の隔へだたりに立つ、体たいを斜ななめに捩ねじって、後目しりめに余が驚愕きょうがくと狼狽ろうばいを心地ここちよげに眺ながめている女を、もっとも適当に叙じょすべき用語を拾い来ったなら、 しかし生れて三十余年の今日こんにちに至るまで未いまだかつて、かかる表情を見た事がない。 美術家の評によると、希臘ギリシャの彫刻の理想は、端粛たんしゅくの二字に帰きするそうである。 端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。 動けばどう変化するか、風雲ふううんか雷霆らいていか、見わけのつかぬところに余韻よいんが縹緲ひょうびょうと存するから含蓄がんちくの趣おもむきを百世ひゃくせいの後のちに伝うるのであろう。 世上幾多の尊厳と威儀とはこの湛然たんぜんたる可能力の裏面に伏在している。 一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった暁あかつきには、泥帯水たでいたいすいの陋ろうを遺憾いかんなく示して、本来円満ほんらいえんまんの相そうに戻る訳には行かぬ。 運慶うんけいの仁王におうも、北斎ほくさいの漫画まんがも全くこの動の一字で失敗している。 これがわれら画工がこうの運命を支配する大問題である。 古来美人の形容も大抵この二大範疇はんちゅうのいずれにか打ち込む事が出来べきはずだ。 ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。 顔は下膨しもぶくれの瓜実形うりざねがたで、豊かに落ちつきを見せているに引き易かえて、額ひたいは狭苦せまくるしくも、こせついて、いわゆる富士額ふじびたいの俗臭ぞくしゅうを帯びている。 のみならず眉まゆは両方から逼せまって、中間に数滴の薄荷はっかを点じたるごとく、ぴくぴく焦慮じれている。 かように別れ別れの道具が皆一癖ひとくせあって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。 元来は静せいであるべき大地だいちの一角に陥欠かんけつが起って、全体が思わず動いたが、動くは本来の性に背そむくと悟って、力つとめて往昔むかしの姿にもどろうとしたのを、平衡へいこうを失った機勢に制せられて、心ならずも動きつづけた今日こんにちは、 やけだから無理でも動いて見せると云わぬばかりの有様が――そんな有様がもしあるとすればちょうどこの女を形容する事が出来る。 それだから軽侮けいぶの裏うらに、何となく人に縋すがりたい景色が見える。 人を馬鹿にした様子の底に慎つつしみ深い分別ふんべつがほのめいている。 才に任せ、気を負おえば百人の男子を物の数とも思わぬ勢いきおいの下から温和おとなしい情なさけが吾知らず湧わいて出る。 悟さとりと迷まよいが一軒の家うちに喧嘩けんかをしながらも同居している体ていだ。 この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。 不幸に圧おしつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。 「ありがとう」と繰り返しながら、ちょっと会釈えしゃくした。 と云うや否いなや、ひらりと、腰をひねって、廊下を軽気かろげに馳かけて行った。 ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど奇麗きれいに掃除がしてある。 ちょっと気がかりだから、念のため戸棚をあけて見る。 上から友禅ゆうぜんの扱帯しごきが半分垂たれかかって、いるのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。 扱帯の上部はなまめかしい衣裳いしょうの間にかくれて先は見えない。 一番上に白隠和尚はくいんおしょうの遠良天釜おらてがまと、伊勢物語いせものがたりの一巻が並んでる。 何気なにげなく座布団ざぶとんの上へ坐ると、唐木からきの机の上に例の写生帖が、鉛筆を挟はさんだまま、大事そうにあけてある。 夢中に書き流した句を、朝見たらどんな具合だろうと手に取る。 「海棠かいだうの露をふるふや物狂ものぐるひ」の下にだれだか「海棠の露をふるふや朝烏あさがらす」とかいたものがある。 鉛筆だから、書体はしかと解わからんが、女にしては硬過かたすぎる、男にしては柔やわらか過ぎる。 次を見ると「花の影、女の影の朧おぼろかな」の下に「花の影女の影を重かさねけり」とつけてある。 「正一位しやういちゐ女に化けて朧月おぼろづき」の下には「御曹子おんざうし女に化けて朧月」とある。 真似まねをしたつもりか、添削てんさくした気か、風流の交まじわりか、馬鹿か、馬鹿にしたのか、余は思わず首を傾かたむけた。 後のちほどと云ったから、今に飯めしの時にでも出て来るかも知れない。 ときに何時だなと時計を見ると、もう十一時過ぎである。 これでは午飯ひるめしだけで間に合せる方が胃のためによかろう。 右側の障子しょうじをあけて、昨夜ゆうべの名残なごりはどの辺へんかなと眺める。 海棠かいどうと鑑定したのははたして、海棠であるが、思ったよりも庭は狭い。 五六枚の飛石とびいしを一面の青苔あおごけが埋めて、素足すあしで踏みつけたら、さも心持ちがよさそうだ。 左は山つづきの崖がけに赤松が斜ななめに岩の間から庭の上へさし出している。 海棠の後うしろにはちょっとした茂みがあって、奥は大竹藪おおたけやぶが十丈の翠みどりを春の日に曝さらしている。 右手は屋やの棟むねで遮さえぎられて、見えぬけれども、地勢から察すると、だらだら下おりに風呂場の方へ落ちているに相違ない。 山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁ほどの平地へいちとなり、その平地が尽きて、海の底へもぐり込んで、十七里向うへ行ってまた隆然りゅうぜんと起き上って、周囲六里の摩耶島まやじまとなる。 温泉場は岡の麓ふもとを出来るだけ崖がけへさしかけて、岨そばの景色を半分庭へ囲い込んだ一構ひとかまえであるから、前面は二階でも、後ろは平屋ひらやになる。 椽えんから足をぶらさげれば、すぐと踵かかとは苔こけに着く。 道理こそ昨夕は楷子段はしごだんをむやみに上のぼったり、下くだったり、異いな仕掛しかけの家うちと思ったはずだ。 自然と凹くぼむ二畳ばかりの岩のなかに春の水がいつともなく、たまって静かに山桜の影をひたしている。 二株三株ふたかぶみかぶの熊笹くまざさが岩の角を彩いろどる、向うに枸杞くことも見える生垣いけがきがあって、外は浜から、岡へ上る岨道そばみちか時々人声が聞える。 往来の向うはだらだらと南下みなみさがりに蜜柑みかんを植えて、谷の窮きわまる所にまた大きな竹藪が、白く光る。 竹の葉が遠くから見ると、白く光るとはこの時初めて知った。 藪から上は、松の多い山で、赤い幹の間から石磴せきとうが五六段手にとるように見える。 入口の襖ふすまをあけて椽えんへ出ると、欄干らんかんが四角に曲って、方角から云えば海の見ゆべきはずの所に、中庭を隔へだてて、表二階の一間ひとまがある。 わが住む部屋も、欄干に倚よればやはり同じ高さの二階なのには興が催おされる。 湯壺ゆつぼは地じの下にあるのだから、入湯にゅうとうと云う点から云えば、余は三層楼上に起臥きがする訳になる。 家は随分広いが、向う二階の一間と、余が欄干に添うて、右へ折れた一間のほかは、居室いま台所は知らず、客間と名がつきそうなのは大抵たいてい立て切ってある。 客は、余をのぞくのほかほとんど皆無かいむなのだろう。 〆しめた部屋は昼も雨戸あまどをあけず、あけた以上は夜も閉たてぬらしい。 非人情の旅にはもって来いと云う屈強くっきょうな場所だ。 時計は十二時近くなったが飯めしを食わせる景色はさらにない。 ようやく空腹を覚えて来たが、空山くうざん不見人ひとをみずと云う詩中にあると思うと、一とかたげぐらい倹約しても遺憾いかんはない。 画えをかくのも面倒だ、俳句は作らんでもすでに俳三昧はいざんまいに入っているから、作るだけ野暮やぼだ。 読もうと思って三脚几さんきゃくきに括くくりつけて来た二三冊の書籍もほどく気にならん。 こうやって、煦々くくたる春日しゅんじつに背中せなかをあぶって、椽側えんがわに花の影と共に寝ころんでいるのが、天下の至楽しらくである。 畳から根の生えた植物のようにじっとして二週間ばかり暮して見たい。 やがて、廊下に足音がして、段々下から誰か上あがってくる。 それが部屋の前でとまったなと思ったら、一人は何なんにも云わず、元の方へ引き返す。 襖ふすまがあいたから、今朝の人と思ったら、やはり昨夜ゆうべの小女郎こじょろうである。 焼肴やきざかなに青いものをあしらって、椀わんの蓋ふたをとれば早蕨さわらびの中に、紅白に染め抜かれた、海老えびを沈ませてある。 「いいや、今に食う」と云ったが実際食うのは惜しい気がした。 ターナーがある晩餐ばんさんの席で、皿に盛もるサラドを見詰めながら、涼しい色だ、これがわしの用いる色だと傍かたわらの人に話したと云う逸事をある書物で読んだ事があるが、この海老と蕨の色をちょっとターナーに見せてやりたい。 滋養の点から云ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。 そこへ行くと日本の献立こんだては、吸物すいものでも、口取でも、刺身さしみでも物奇麗ものぎれいに出来る。 会席膳かいせきぜんを前へ置いて、一箸ひとはしも着けずに、眺めたまま帰っても、目の保養から云えば、御茶屋へ上がった甲斐かいは充分ある。 「うちに若い女の人がいるだろう」と椀を置きながら、質問をかけた。 なあるほど、大徹と云うのはこの額を書いた男に相違ない。 戸棚に遠良天釜おらてがまがあったのは、全くあの女の所持品だろう。 「それじゃ、昨夕ゆうべ、わたしが来る時までここにいたのだね」 膳を引くとき、小女郎が入口の襖ふすまを開あけたら、中庭の栽込うえこみを隔へだてて、向う二階の欄干らんかんに銀杏返いちょうがえしが頬杖ほおづえを突いて、開化した楊柳観音ようりゅうかんのんのように下を見詰めていた。 俯向うつむいて、瞳の働きが、こちらへ通わないから、相好そうごうにかほどな変化を来たしたものであろうか。 昔の人は人に存するもの眸子ぼうしより良きはなしと云ったそうだが、なるほど人焉いずくんぞかくさんや、人間のうちで眼ほど活きている道具はない。 寂然じゃくねんと倚よる亜字欄あじらんの下から、蝶々ちょうちょうが二羽寄りつ離れつ舞い上がる。 このスレッドは1000を超えました。
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