柄谷行人スレ【交換様式=D】
学界デビューは文芸評論だったものの、
元はと言えば宇野弘蔵が君臨する東京大学経済学部を出ておられる柄谷行人氏。
経済学板で2000年代以降の世界史的巨視的作品群を語るのもいいのではないかと思って
立てた次第。是非柄谷行人を批判し、讃えましょうぞ。 世界共和国へを途中で読むのをやめたのは何でだったか。
もう1回最初から読み直すか。 柄谷的経済史観とか言って誰かが文章を書かないかな。 交換様式論から関心を持ち始めて
それ以前の哲学、文芸批評的な著作も遡って読むようになりました。
オードリー・タンも交換様式論Dについて言及してましたね。
次著「ニューアソシエーショニスト宣言」(作品社)は今月刊行の予定だったようだが
延期されて残念 90年代前半、経済学徒(要するに学部生)でしたが
経済学はつまらないので
ドラッカーとかトフラーとかのフューチャリスト思想をよく読んでました。
インターネット前夜の思想というか、
冷戦後に分権的組織社会の到来を予想するという感じ。
柄谷さんは蓮實との対談本「闘争のエチカ」でこの二人をどちらかというと
馬鹿にしてるような発言をしてたけど、
1998年に交換様式論を閃いてからは、彼らに対する評価はどう変わったのかな? もうちょっと、ワルラス以降の新古典派的数理経済学について
言及してほしい気がする。
今年前半か去年後半に「マルクス可能性の中心」英語版の前書きか何かが
文芸誌に載ったが、確かそこで、ちょっと限界学派についての言及があった気が
するけど。マルクスも微分積分を勉強してたとか カントの格言「他者を手段としてだけでなく目的として扱え」というのが
社会主義革命の理念だとすれば
ブルジョア革命にもやっぱりその種の格言や理念はあって
マンデヴィルの「個人の悪徳は公共の美徳」
ベンサムの「最大多数の最大幸福」あたりが
それだと思う。 >>5
経営者である父をそばで見ていたから、
経営学の泰斗とか言われてもそれほどいいようには思えなかったのでは
と推察したくなる。 柄谷工務店ね。それホントなのかな。
講談社文庫、柄谷インタヴューズの上巻で
王寺賢太とのメールのやりとりで「ITの普及は、大企業解体の方向を示していて
、中小企業的な協同組合は今日少しも突飛ではない。
ブルジョア側も似たようなことを言ってるから」という発言があった。
ここでいうブルジョア側ってのは
ダウンサイジングとかリストラクチャリングとか言ってたアメリカ経営学者だろうし、
トフラーも「未来適応企業」で「マンモス企業は墓場に行け」と言ってた。 欧米のコングロマリットに相当するのは日本ではトヨタぐらいなものでは。
分権的組織社会と言っても、GAFAのようなとんでもない感じのものがいるし。
アメリカ政治の文脈ではスモールビジネスに配慮せよ
みたいな主張を政治家がするし、”ブルジョワ”と言っても学者を指したとは
必ずしも言えない気がする。 いや、やっぱり、柄谷アソシエーショニズム≒アメリカ・フューチャリズムだって!
柄谷が言わないだけさ。 ウィキノミクスの書評を書いたのは
それをもってドラッカーやトフラーへの言及に代えようとしたんだろうな。
ちなみにトフラーは元トロキツストという噂もある。
ドラッカーはまあ政治的には保守だろうけど、マルクスの評価は両義的で
「産業人の未来」で「資本論は退屈だ」と書いたこともあるけど
「イノベーションと企業家精神」では
「マルクスは技術についての最初で最高の思想家」だとも。
「年金基金社会主義」とか「非営利組織の経営」とか
「自由市場は信奉するけど、資本主義は疑う」とか。
最後の台詞なんて、マルクス=柄谷と通じると思うなあ 松石勝彦の『『資本論』と産業革命』は、「マルクスは技術についての最初で最高の思想家」のような観点で書かれた本なのだろうなと立ち読みした記憶を基にして言ってみる。
「自由市場は信奉するけど、資本主義は疑う」はハイエクっぽいから、
柄谷行人よりも西部忠っぽい、 しかし、NAMも
互酬を市場交換的にやるってことだから、自由市場的だよね。
ポランニーのexchange=交換様式Cは、市場交換と訳すのが一般的だが
柄谷は商品交換と訳す。「市場」という言葉は交換様式Dのために
取っておきたいってことだろう bazaarが日本語に訳されて日本に定着するときにバザーとバザールに分かれタノを
思い起こさせるね。 市場交換と一口に言っても、特定の人しか参加しない交易と、
不特定多数の者が参加するオープンなものとがあるよね。
そこら辺を意識しているのかな柄谷は。 >https://twitter.com/ISHIZUKA_R/status/1271229738862784512?s=20
交換様式Bと交換様式Cの違いは
マネタリーベースとマネーストックの違いに対応する
イングランド銀行創設における大和解は交換様式B内におけるB'C'の結合に過ぎない
柄谷交換様式論は信用貨幣論の理解を決定的にする最後の一撃なのだ
また、マルクスが資本論3:35:2で旧教と新教に分けたのは逆だ
重金主義より信用主義の方が古いのだから
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 「新古典派は貨幣を商品に対してメタレベルなものとしてのみ見ていて
貨幣が商品になることへの関心が薄い。ウィクセル(の累積過程論)だけが例外だ」
とトラクリで書いてたけど
「ワルラスの法則」で、貨幣財を需給連立方程式の一つに入れてるのは
「貨幣もまた商品である」という認識を古典派も持ってたことの証左ではないか。 柄谷にノーベル経済学賞をとか言ってる人をネットで時々見かけるが
ああいう賞は著作に発見を含んでいなければならない。
柄谷の経済学的発見と言ったら、剰余価値についての考え方かな。
商人資本は空間的な価値体系の差異を活用して剰余価値を儲けるが
産業資本はそれを時間に置き換えるとかなんとか。
「世界史の構造を読む」の佐藤優との対談によると
マルクスも宇野も言ってないらしい。 柄谷にノーベル経済学賞をとか言ってる人をネットで時々見かけるが
ああいう賞は著作に発見を含んでいなければならない。
柄谷の経済学的発見と言ったら、剰余価値についての考え方かな。
商人資本は空間的な価値体系の差異を活用して剰余価値を儲けるが
産業資本はそれを時間に置き換えるとかなんとか。
「世界史の構造を読む」の佐藤優との対談によると
マルクスも宇野も言ってないらしい。 あれ、なんで二回投稿したことになってる?すまん。
今発売中の週刊文春WOMANに、オードリー・タンとミュージシャンの岡村靖幸?
の対談が載ってたが、交換様式Dへの言及はあったか? >>22
資本論には、空間(労働)も時間(交換)も書いてあるね。 逆じゃないの?空間が商人資本的交換、時間が生産性上昇による(一商品あたりの)労働コストの縮小から得られる剰余価値。 ともあれ>>25の指摘が正しいとすると
時空的価値体系の違いから剰余価値を得るというのは
柄谷の発見じゃないということになる。
そうすると、あとは三つのトランスアクション(交換様式)を越えるDについての考察ということになろうが、これはやっぱり「広義の経済学」ということになるから、ノーベルは無理か?。 ノーベル経済学賞は
必ずしも数学を多用しなくてもいいようだけど、数理的じゃないとダメだと
小室直樹の本で読んだことがある。経済史は外国では歴史学の範疇。
上記の剰余価値の話は数理的だからアリかもしれないが、
『世界史の構造』みたいのは国際的な観点では歴史哲学だな。
昔はバートランド・ラッセルの哲学も広義の文学ってことで文学賞取ってたから、
そっちならありえるかな 左右で違いはあるけど、シカゴ大学の経済学部ではなくて社会思想委員会に属していた
ハイエクがノーベル経済学賞を取っているんだから、
英語などの翻訳がある柄谷行人だって取ってもいいんじゃないか
と思わなくはない。 >>30
ノーベル経済学賞というのは、資本主義礼賛のために英米人に与える賞。 想像で書くけど、
カントやケインズの解釈は大分違いそう。
岩井克人はケインズ信奉者って感じだけど・・ ケインズは資本ネーション国家そのものだな。自由市場はセイの法則を前提とするから
その前提を整備するために政府がばらまいたり金利操作する。
その外側に出ることが柄谷の課題。
岩井はそこまで考えてないってことか。
ワルラスへの過小評価は一致してそうだな。
岩井のシュンペーター論『遅れてきたマルクス』でも、ワルラスは退屈(厳密にはシュンペーターのワルラス論が退屈と言ってるんだけど、本音はそう思ってるとしか見えない)とか言ってたし そもそも日本はワルラス過小評価の国だ。
マルクスやケインズは一発変換できるけど
わるらす→悪ラス
みたいな シュンペーターの新結合(イノベーション)は、不況と関係付けられることが多いけど
どっちが原因でどっちが結果なのかよく分からん。根井が書いたサミュエルソンの本だと
イノベーションの結果として不況が起こるということらしいんだけど
柄谷のトラクリでは不況が金利の低下をもたらし、その時期にイノベーションが起こる、
つまり、前者が後者の原因だということになる。 不況と新結合は因果関係にあり
前者が後者の原因であり結果でもある、というアンチノミー。
ここがロードス島だ、ここで跳べ。 個人的には不況の間にイノベーションの準備がなされて好況になって現実のものになる
という感じがしっくり来るな。 >>41
在庫の増加によって不況が始まり、在庫の減少によって製造量が増えて好況になる。
古典的な動向だが、多くの業種にとっては現在でも変わらない。 >>40
個々の企業による、超過利潤や独占利潤を得るためのイノベーションは不況の原因。
よく柄谷が言う「売れてなかったことが判明して、信用が崩壊して恐慌になる」のは、
ある企業のイノベーションがライバル企業の商品を売れなくすることに一因がある。
いっぽうで、全社会的なイノベーション(IT革命とか)は、不況時に起こる。
柄谷がよく言う「世界商品」の交替は、その種の全社会的イノベーション。
「情報化社会」なんていうのは80年代くらいから叫ばれてたけど
失われた20年なんていわれた1990年以降に急速にITが普及した。
これもトラクリ風の言い方だけど80年代にもコンピュータはあったが
全社会的には「採用されなかった」。 まとめると
個々の企業による小さなイノベーションは不況の原因。
全社会的で世界商品の交替として現れるような、大きなイノベーションは不況の結果。
という感じかなと。 トラクリ単行本初版373ページ
(60年周期の景気循環は)「やはり一般利潤率の低下と、より根本的な技術革新の採用に関わっている」
とある。この一文の中の「より根本的な」の「より」というあたりに注目されたい 余談だが、80年代と
その後の「失われた20年」の、パソコンを中心とするITの進歩の度合いは
段違い。
80年代初頭は、まだ「マイコン」と呼んでた。インベーダーゲームのキャラを見れば分かるが
斜線や曲線すら書けず、階段みたいな形で斜線を表現していた。漢字などは書けず、アルファベットとカタカナだけ。
データの記録・保存は音楽用のカセットテープでやってた(!)。それをオーディオで再生すると
ちゃんと音が聞こえる。俺はそれを聞いたことあるよw このスレの住人には30代
あるいは20代の人もいるかもしれないが
想像できるかい? 今還暦であるような人より上の世代の、ゼネコン政治的な観点から見れば「失われた20年」だが
むしろ「得られた20年」だな お情けで買ってくれたってこと?
そんなわけ無いよな。 お情けで買ってくれたってこと?
そんなわけ無いよな。 講談社文庫インタビュー上巻
高澤秀次との対話二回目で
「思想は右か左かよりも、集権かアナーキーかで分けた方がいい」
ドラッカーはダイアモンド社を牙城とする経済右派
柄谷は岩波を牙城とする経済左派
しかし脱集権的組織の集積であるような社会をよしとする点で
アナーキーかどうかともかく
集権的ではない 分権型といえば、西部忠とハイエクもそうだな。
岩井克人とケインズとは対照的。 柄谷は何故か「分権」という言葉をあんまり使わないな。
古代ギリシャの政体イソノミアを模範としているから
あれはノー・ルール(無支配)だから、分権と言うと
まだ権力が残るからなのか。
しかし、NAM的な社会にも官僚制は必要だというし、
非ユークリッド幾何学の平行線公理を「平行線は交わらない」と表現するんだったら、非集権=分権でいいと思うけどねw 分権は英語で
デ・セントラライゼーション(非中心化)というくらいだし いま90年代に出た『戦前の思考』を読むと
だいぶ経済的自由主義を尊重してるな。
岩井との対談本でも「資本主義の発展=共産主義」
と言ってるようだし。資本主義と自由主義はちょっと違うけど。 歴史上での経済的自由主義ならば黒田明伸と通底しそうだな。 文学部を出て経済の方へ行った人か。
柄谷の逆コースだね。
ということは、柄谷が交換様式論で経済に戻って来たように
黒田も文芸批評やったりしてw『鬼滅の刃』のノベライズ版の読解とかwww 柄谷のも広義の経済学なんだから
黒田も広義の文芸批評
漫画のノベライズなんて
いかにも「広義」って感じwww まあ、史学畑の人っぽいから文芸評論はやらなさそうな気がするw 柄谷行人は『世界共和国へ』の中で、アソシエーショニズムのことを
リバタリアン社会主義と規定しているんだよな。
経済的自由主義としていた頃よりも、欧米での概念が発達して日本に入ってきたからなんだろな。 リバタリアン社会主義=アナーキズム
という感じか。 経済活動は徹底的に自由だが(リバタリアン)
政治的資源分配は厳格に行う(社会主義)という感じかもしれない。 ああでも、よく読むと、チョムスキーの発想を追ってる感じで、
政治的には徹底的に自由で、
経済的資源配分は厳格に
ということかもしれない。 そういうわけで、政治面ではアナキズムに近いかもしれないね。 副島隆彦が紹介しているようなリバタリアンは
獣のような自由って感じだけどな。 まあ、リバタリアン的なものは思考実験に止めておいた方がいいだろな。 副島と柄谷って意外にも共通点が
あった。経済がらみで言えばコモディティバスケット体制(ゴールドだけでなくレアメタルとか穀物などの複数の基本物資の組み合わせを商品貨幣にする)とか、アメリカ思想の源流にエマソンを見いだすところとか。
副島が自分のHPに書いた原発論を柄谷が映画監督の青山真治に読むように勧めたという話をどこかで読んだ記憶がある。 大学の専任の教員になったこともあれど、
在野の人というイメージが強いのも似ている。 なるほど。副島の大学って名前も忘れるような無名大学だったけど。常葉学園大学だっけか。 完全にスレ違いになるが、
日本学術会議から外された宇野重規も柄谷みたいな路線を目指せばいいと思うんだよな。
彼の場合はフランスの思想と日本の思想を付き合わせて発展させればいい。
社会科学研究所の教員ではあるが、この人も在野っぽい雰囲気を漂わせている。 日本の思想っていうのは『批評空間』とかで
柄谷行人と対談したこともある市田良彦を初めとするフランス哲学研究者たちの思想ね。
そうすると浅田彰とか東浩紀も射程に入ってくる。
ちなみに市田・浅田両名とも京大経済出身。 宇野重規って若年寄だよな。ルックス的に。
八十年代のニューアカは経済畑の人多かったね。
だけど、ブーム以降に日本人の経済リテラシーが上がったというと
全然だと思うけどな。 経済は本当に難しすぎる・・
90年代からゼロ年代を振り返ると、
ネットを舞台にした人々の経済談義が無視できず、
これまたネットを介した地域通貨運動と連動したNAMのような運動もあり、
まとめるのが大変。
リフレとかMMTとか後世にどう評価されるのやら。 アットプラス(太田出版)に連載していた『Dの研究』の続きは2020年には刊行できそうと柄谷は言ってたけど、たぶんニューアソシエーショニスト宣言がそれのはずかが、先月が予定されていたのに、出なかった。今年中は無理か? atプラスが途中で終わってしまったのも大きいだろうな。 柄谷は現代思想の宇沢弘文の特集で、
宇沢弘文のことを考えるようになったのは
だいぶ後になって柳田國男のことを
考えるようになってからだと書いていたな。
社会的共通資本とかもアソシエーショニズムの
中に組み入れようとしてたりして。 多摩ニュータウンのようなところに住んでいると、
散策すれば自然との触れ合いができて、
思索にはもってこいだろうね。 まあその自然との触れ合いが危うくなってきていることを憂慮する言説を
朝日の書評で触れているわけだが。 柄谷は農業についてはほとんど語らないが、
宇野弘蔵や大内力の農業経済論にはおそらく触れているのだろうな。 https://books.rakuten.co.jp/rb/16589328/?scid=af_pc_etc&sc2id=af_101_0_0
ニュー・アソシエーショニスト宣言
発売日: 2021年01月25日頃
出版社: 作品社
ページ数: 296p 25日頃ってのが
ちょっと不安だな。協同組合本の書評の著者紹介のときも十一月と言ってたのが
延期されたからな 確か2500 円くらいだっけ?高いな
ページは300弱? トラクリとかセカコーに比べると薄いね 2001年、2011年と
同時多発テロや震災などが、世を騒がせたが、
2021年は、ニュー・アソシエーショニスト宣言が最大の事件!? 今年一年は「力と交換様式」という論文にばかり注力していたらしい。
NA宣言と関係あるんかな。 俺は最初は、 ニューアソシエーショニスト宣言が
『力と交換様式』とか『Dの研究』とかの
仮題で呼ばれていたものの決定稿のタイトルだと思ってたけど
本スレというか哲学板のスレでは違うようなこと言ってる人がいたね。 Dの研究はアットプラスで連載したときに日本国内ではあまり反響が無くて
連載やめたら中国から続きを早く読みたいという熱い要望が届いたので、
完全版は中国で先に出したいと、どこかで書いていた。で、NA宣言は
中国で先行出版したらしい。そうするとNA宣言イコールD研究あるいは、力と交換様式かと思ったけど、そうではないと言ってる人がいた。 1ヶ月遅れのクリスマスプレゼントみたいなものかもなw 三週間遅れのお年玉かもよ?w
2010年代の終わりに出すより、2020年代の幕開けとして出した方が
めでたいのは確か。希望の原理なんだから。
逆の大江健三郎の『取り替え子』みたいな作品は
2000年の12月刊行だったが、世紀末に向いた作品。二十世紀の総括として
伊丹十三と自分の思い出を書くという感じ NA宣言、紙の本だけで
Kindle版は無いのね
作品社じゃ、無理か? >>72
副島のアメリカ思想の源流をエマソンに見出だす本読んでます。
柄谷がエマソンに言及したのは「批評とポストモダン」の表題作だったな。
プラグマティズムの源流にエマソンがあるとか。 100get
文學界の今月号、「思想家の節目」というエッセイ載るね
NA宣言のことも書いてるかな