草間氏や村上氏と彦坂尚嘉っていう人は誰がうまいか [無断転載禁止]©2ch.net
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「見られる光(時空の中)」の視点で
作られたものがデザイン・工芸で、
「見る光(純粋持続)」の視点から
作られたものが芸術だと私は思います。
メイプルソープやフェルメールが、
写真と絵画の領域を交差する領域で
作られた作品であるように、
常識的には工芸だが芸術になっている
というものもあり得ると思いますよ。 友達から教えてもらった嘘みたいに金の生る木を作れる方法
知りたい方だけみるといいかもしれません
グーグルで検索するといいかも『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』
L6CZK おめーらくっせーから書き込む気になんねーわ笑笑くだらねーやり取り続けてろ笑笑 ところでだ。「チンボがシコシコする」という日本語表現は、文法的に正しいのか?
チンボ「を」シコシコするのではなくて、チンボ「が」シコシコする。この場合、「チンボ」は主語となる。
オブジェクト指向で言う「集約」は2種類あって、全体(俺)と部分(チンボ)が繋がっている場合と、
全体(俺)と部分(チンボ)が別々になっている場合とが考えられる。けれども「チンボ」はそれ自体
が独立した生き物であり、所有者の意思とは無関係に、勃起して「シコシコする」。
例えば寝てる時にエロい夢みて朝起きてみたらチンコが勃起して射精してたとか。
違うか?
「頭がズキズキする」は良いが、「チンボがシコシコする」はダメな理由を、50字以内で述べろ! 中国で草間の偽物ばかりの展覧会が開催されているという。
逆に見てみたいな。
本物とはどう違うのか、どんな体感が得られるのか試してみたい。 928 デフォルトの名無しさん 2018/11/21(水) 18:59:11.61 ID:8Yc2p7H1
>>922
>ナンチャッテメッセージングスタイルになったのは
チンポ.オシッコを出す
チンポ.オシッコを止める
さっきトイレでやってきた。
929 デフォルトの名無しさん 2018/11/21(水) 19:07:17.83 ID:8Yc2p7H1
>>915
>単なる動的なメソッド呼び出しをメッセージと称し、ただしコールするメソッドが見つからない場合だけメッセージを
>ハンドリングできる省コストなナンチャッテメッセージングスタイルに落ち着いた。
×
俺.オシッコを止める 俺.オシッコを出す
○
俺.チンポに力を入れる 俺.チンポから力を抜く 彦坂って人は、新興宗教の人かなんかだと思ってた。
村上隆や草間と並ぶような芸術家だったの? 村上氏も会田氏も伝統技法しっかりと画に入れ込んでいるから適当前衛では無いと思う
草間大魔神は単体で水玉カボチャ見ても感動しなかった 空間全体を見た時に水玉カボチャが一気に空間の概念を変えた 水玉水玉騒ぐより 草間大魔神は空間と大きさの複合した作品の方をもっと見たい >>23
世の中には2種類の人間がいる
草間彌生のカボチャをひと目見て、白人のやわらかチンポが集まってできていると気づく人間と気づかない人間 漫画版は『週刊少年マガジン』私は全部読んでいました。 リトル・リチャードの音楽は、《芸術》になっているのです。 他人はそうは思ってくれないでしょうが、私としては、作品であります。 難しくて、考えないと、意見を言えないしろものであります。 密接にからみあっていて、そのあり方は、深いと思いました。 左右が激突していて、ここには、中道芸術がないのです。 ジェフ・クーンズも本人が製作してるわけじゃないし、それこそルーベンスだって工房作って人任せに制作してたしね。 ルーベンスは、作画指示のためか、小ぶりの油絵を自分で描いていて、それが妙に人気がある罠。 アド街ック天国で田中康夫が高校時代、同級生の草間くんが
「ウチの親戚のオバサンで絵を描いてるスゲーやべ〜人がいる」
と言ってて、それが草間彌生だったと話していたな そういえは、彦坂は奥さんがアメリカンだった。
アメリカ展開をしないのかな。 実はかなりの数の演奏をやってきています。音楽の作品は、実はかなりの数の演奏をやってきています。 基本的なスタンスは音楽と美術の区別はないという立場です。 伝統的な名曲的な演奏も成立しますが、同時に、緊密な構造性を欠いた音楽も成立します。 重視しているのは、《原-音楽》ということと、様態が《超高温プラズマ》ということです。 美術や芸術をやると言うのは、一般的には、《青春の芸術》と日本では言われていて、歳をとると、止めるのです。 依然として制作意欲と、執筆意欲があります。青春の芸術では無くて、《生涯の芸術》なのです。 一生懸命やって行かないと、どうしようもないのです。どうしようもないのですね。 現在は、私は《無-文明》になっていると、考えています。 近代を批判し、近代の外に出ようとすれば、展覧会を止めて、その外に出る必要があると考えます。 最初の個展をやったのはクールベで、1885年の第2回万国博覧会で、その会場のそばに小屋を建てて、個展を開催しています。 基本的には、美術展というものは、近代という時代の中で生まれました。 近代以前の古典文明では、例外はありますが、展覧会はありませんでした。 明度をコンピュータで厳密に調整しないとできないのです。 図形もコンピュータ上でやる必要があって、ベジェ曲線を使わざるを得ないのです。 教えて貰っていました。所がなかなかおぼえないのですね。 技術的には、Photoshopのベジェ曲線を使っているのです。 《想像界》だけの作品であるにもかかわらず、《原-芸術》《芸術》《反-芸術》《非-芸術》《無-芸術》の成立するのです。 従来の芸術というのの成立は、最低でも《想像界》《象徴界》の2界が必要でした。 《象徴界》を欠いた人の人数が増えてきて、《象徴界》を嫌って、見なくなっています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています