もう一つ裏側には17世紀の西洋事情があり、マテオ・リッチなどイエズス会の支那進出まで遡る。そこからの情報を元
に、キルヒャーやライプニッツがエジプト幻想と漢字を「完全言語/普遍言語」構想に取り混ぜた。やがて言語学が発展し、
明治期の日本にはサトウ(英外交官)やハーン(小泉八雲)が来る。しかし殆どの西洋人は日本の文字が読めない。仮名が
アルファベット的に機能する事は理解できても、漢字と仮名の深層にある相互干渉原理までは及ばないケースが多いためか、
予め機能優先で漢字と仮名を別物と考える。その上で「どちらも読めない」となると、17世紀の「理解=無理解」とさほ
ど事情は変わらない。
 無理解の領分を研究した結果の西洋的「理解」は先ず「読めない事」から出発し、それが学問をオーソドックスに牽引す
る。必ずしも「読める側」からの視点ではない。理解の中に潜む無理解(主観的)ではなく、外への無理解(客観的)を「理
解=解剖」しようとする。〜この視点を獲得するには、日本人自身「読めなくなる」のが手っ取り早い。ここでは最悪の舶
来崇拝が学問のグローバリズムと結託する。なぜなら学問は、外国人にも理解されねばならないのだから。…そうなる様に
記述するのが難しい。しかし我々は「なぜ書は読めるのか」を説明する前に、今や大方「読めなくなった」。
 誰もが読めないなら、読めなくてもよいのは当たり前。無理解には普遍性がある。そこから神秘主義めいた「文盲である
事の悦楽」が生まれ、「読める事」とは別の知的世界が創発する。〜ここまで来て、やっと日本人は17世紀ヨーロッパと肩
を並べられた。後は明治以来の伝統的思考様式「追い着き、追い越せ」へと舞い戻り、どう見ても「無駄足」ではあるにせ
よ「忘却の歴史」を取り戻せば/繰り返せばよくなるらしい。

(参考ブログ)
http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/879/