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習字も書道も捨てたもんじゃないよね!! その2
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0001わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2018/08/30(木) 15:58:24.47
お陰さまでその2になりました。お習字の人も、趣味の書道の人も、芸術書の人も、学問の人もみんなで語ろう!!!

書は奥が深いです。一生やってられます。いろんな人がいます。いろんな書があります。素晴らしいじゃないですか(*^◯^*)

自分が一番上手いと誰もが思ってます。そう、自分の中ではそれでイイんです。でも、自分より頑張ってる人がいるかも! 自分より悩んでる人がいるかも! まさかそんなことはないけど、自分より上手くて博学な人がいるかもしれないですよ(°_°) …まさか

語り合えばお互いに高めあえるかもしれないです。そんな淡い期待を胸に秘め、匿名の会話を楽しんでみませんか(*^◯^*)

★自慢話しや宣伝活動はお控えください。
★勧誘もお控えください。
★作品を見せ合うのはお控えください。
★荒らし・ほぼ荒らしには付き合わないでください。
★挑発的な言葉は控えましょう。
★意見が合わないこともあります。
★自論を押し付けないこと。
★結論を焦らないこと。
★カッとなって失礼なこと言ったら、頭を冷やしてちゃんと謝りましょう。
★お友達は出来ないと思ってくださいね。
★でも、みんな本当はいいヤツなんだよ(*^◯^*)

以下、その2から追加します

★基本sage進行でお願いします。
★ネタが無ければ黙ってましょう。
★意見は簡潔に述べましょう。
★比喩表現はよく吟味してから使いましょう。多用は嫌われます。


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◎前スレ
習字も書道も捨てたもんじゃないよね!
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/gallery/1498919452/l50
0310わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2018/10/21(日) 08:31:55.50
高斎単山の書塾(高田竹山の話)
 先生は、弟子に対してとても厳しい人でした。私達のような内弟子には、決して手を執って教えることをしません。初めて
書法を教えてくれるのは三年以上たってからですし、七年以上も先生のそばに内弟子として仕えなければ、書論の講義をして
もらえませんでした。どんなに書技が早く進んでも、年数による階級の区別は厳重だったのです。そこで、年数が少ないもの
は、毎月五日か六日、先生が揮毫して見せる日に、そばで墨を磨ったり紙を抑えたりして、先生の揮毫の仕方を覚えたもので
す。私は学僕(塾に住み込んで塾の雑用をしながら学ぶ若者)でしたから、月謝も食費もいりませんでしたが、その代りに、
炊事もやれば拭き掃除もやりました。それはこき使われるという感じのきつい仕事で、昼間はいろいろな用事を言いつけられ、
とても落ちついて勉強などできませんし、夜は仕事がすむと漢学塾(植村蘆洲の塾)へ漢学の勉強に行きましたから、書の練
習は、しばしば夜通しの修業になりました。夜も寝ずに夢中になって漢学の書物を開き、筆をとり、その場に疲れ切ってぶっ
倒れるまで学んだものです。冬の夜は、他の塾生が起きているうちは火の気もありますが、他人が寝てしまえば広い稽古場は
火の気がなくなります。まだ十代なかばの私は、ついうとうとと眠ったりしますが、目が覚めると手が寒気ですっかりこごえ
てしまい、文字を書こうにも動きません。息を吹きかけたり、もんだりするぐらいでは全く利きませんから、そういう時は庭
へ下りて井戸まで走って行き、はだかになって頭から一気に水を浴びるのです。山の手の井戸はしゅろの葉の繊維で編んだ縄
の十三、四ひろ(約十四、五メートル)も下る深さがありましたから、冬の水は温かく感じます。それを何度もかぶると、体
や指先がポカポカしてくるので、そこでまた机に向かって稽古を続けたものでした。
0311わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2018/10/21(日) 08:34:30.45
 また、昔の書家は、木版の版下(印刷用に文字をきざむ版木に、はりつけてほるための文字の下書き)を書いたものですが、
私も若いころによく書きました。もちろん修業を積み、先生に許されてから版下書きができるのですが、木版の版下はそれほ
ど細かい字ではありません。細かすぎては版木に彫るのもむずかしいし、彫れたとしても刷るのがまたむずかしくなるからで
す。明治時代に入って木版に代わり銅版が使われ出しました。銅の板で造った印刷用の原版で、原稿を手彫りしないですみま
す。薬品で腐食させて作るのですが、今のような活字がない時代ですから、文字は書家が書かねばなりません。しかし、銅版
は手彫りの必要がないからと、三ミリぐらいのごく小さな文字を書かされることになりました。もちろん、銅版の版下書きは
値段が高いわけです。私はまだ少年のことですから、目に自信がありましたし、お金も多くもらえるので、進んで銅版の版下
書きをしました。昼は学僕ですから、先生の用事も多く、時には先生の代りに子供の弟子へ稽古をつけることもしなければな
らなかったので、仕方なく夜の間に版下を書くことになります。今のような電灯はありません。魚油をともした行灯の薄暗い
あかりで書いたのです。行灯は三方を墨で塗り、一方に光を集める工夫をしてはありますが、その暗いあかりで三ミリ以内の
小さな文字を根気よく書いたわけですが、今考えると、よくあの様な仕事ができたものだと思います。
 書家になろうとする者は、大字は方一丈といって約三メートル四方、小字は方寸といって約三センチ四方に、千字は書かな
ければいけないと言われますが、大きな字を習うには普通の紙に書くわけにはいきません。そこで朝早く掃除をする時に、玄
関の広い式台(玄関の上がり口にある土間)に、しゅろの葉で作ったほうきを水につけて書いたり、砂場へ行って竹ぼうきで
書くということをよくやりました。そうすると、思い切って大きな字が習えたのです。
0312わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2018/10/21(日) 08:37:08.99
 また、昔の師匠は早起きの人が多く、日の出るころには起きて庭先の手水(手や顔を洗う水)を使いましたが、単山先生も
その例にもれません。先生の屋敷には、差し渡し三尺(約一メートル)ぐらいの手水鉢があって、私ども学僕は毎朝、先生の
起きる前に、それにいっぱい水をくみこんで用意しておかなければなりませんでしたが、それがなかなかいっぱいにならず、
実につらかったものでした。冬の最も寒い朝は、手水鉢の底まで氷が張っているので、くんだばかりの井戸水をどんどんかけ
て、氷を井戸水の温かさで溶かさなければなりませんでした。それをどんなに寒い朝でも、はだしで、針のようにとがった霜
柱をふんでしたものです。
 私が単山先生の門に入ったのは、明治二年で数え年九歳の時です。私は十二、三の時に先生について萩原秋巌の根岸の塾の
新年会に行き、単山先生の揮毫の後で書いてみせましたが、その時の秋巌の顔を今も覚えています
 単山先生の代りとして、東京山の手に住む仙台の若殿(私より三つか四つぐらい歳下だった)のところへ教えに行ったこと
があります。私も十代なかばで、お互い子供同志の遠慮のなさでの稽古ですから、先生が教えるより、私が教えた方がよく覚
えるというので、その後たびたび代稽古をしました。単山先生も、もちろんそこへ、出稽古をすることがありました。
0313わたしはダリ?名無しさん?
垢版 |
2018/10/21(日) 08:39:22.52
 こうして私は、十四、五歳まで先生のところで過ごしましたが、そのころから時勢が段段変わってきて、年二回の御礼が月
謝となり揮毫料なども決まって、先生の家の収入は次第にふえてきました。ある時、先生がいつものように私に代稽古を命じ
て、熱海温泉へ二週間ほど遊びに行かれましたが、あいにく、私はかぜがもとで肺炎を起こし高熱を発してたおれてしまいま
した。心配した父母が私を実家へ引き取って看病してくれたのですが、先生が帰ってこられてそれを知り、ひどく怒って私の
家へ来られ、「いやしくも師匠の代理をしておりながら、師匠の留守中に自分の家へ帰るとは何事だ」と言いました。私の父
はカンカンに怒って、「伜が重病だというので連れて帰ったのがなぜ悪い」と言いましたから、とうとう二人でけんかになり、
父は「そんなわからない師匠なら、もう行くに及ばん」と言い出しました。そのため私は住みこみをやめなければなりません
でしたし、父の怒りもしばらく続きましたが、その後また稽古に往き来するようになりました。
 明治五年に初めて小学校の制度ができて、これまでの私塾などがほとんどそのまま小学校になりましたが、単山先生の塾は、
そのような小学校よりずっと高等なもので、普通の小学校の卒業生などに教えていました。私などは、先ず最初に草書を一字
ずつ大きく書いてから、楷書を習ったものです。そうすると手がほぐれて、腕の回転が自由自在になるからです。
 私は十八歳の時に単山先生の塾をやめて、薬研堀(今の中央区東日本橋二丁目あたり)に書塾を開きましたが、やめる時は
私の苦しい修業振りを理解していた植村蘆洲先生が同情して下さって、私の退塾に不機嫌な単山先生から私をかばってくれま
した。書家の高林五峰さん(父の高林二峰も書家で、菱湖の高弟達と親交があった)は私と同じ年齢ですが、私より三年前か
ら蘆洲塾の門弟です
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