>>162
> もし、音声学上、生理学上の要請であるのなら、世界中の言語に【同じ】母音調和があっていいはずですが、じっさいにはありません。

なんらの便宜性はべつの便宜性とのトレードオフの関係、天秤の関係にあるかもしれず、
鳥が飛ぶことの利便性を追求した結果、失った利便性があるかもしれませんし、
哺乳類が母胎と母乳で子育てをする利便性を追求した結果、失った利便性があるかもしれません。
ヒトが直立二足歩行のなんらかの利便性を追求した結果、失った利便性もあるでしょう。

しかし、翼をもって空を飛ぶことの利便性はたしかにありますし、
卵ではなく母胎で子を育てる利便性もたしかにあると思われまし、
おそらく、ヒトの直立二足歩行もなんらかの利便性があったのでしょう。
これらは自然選択のレベルでの多様性の話ではありますが、これらのことは自然界に
おいても「利便性=一様性」でないことを証明しているのではないかと思います。

人間の言語発音の生理学上の便宜性があったとしても、人間のオーラル言語すべてが
その生理的便宜性を優先して利用するとはかぎらないことは勿論でありまして、
そうした事実は母音調和に生理的便宜性があることの「反証ではない」と思うのです。
母音調和があらゆる人間の言語に存在しなくても、母音調和に生理学的に考えられる利便性に
由来しているのかもしれないということの反証にはならないのではないか、と。

この点がまず一つ前提として。

でもって、いかなる客観的利便性を優先的に利用するかどうかが文化的恣意性にかかわる
選択的・慣習的事実であることには異論がありません。
書き言葉における文化的恣意性の慣習にはそれ独自の自律的歴史が見出せる趣旨のことを
木村さんはお書きになっていましたが、私は、その同じことが話し言葉においてもありうる
と考えているということになります。母音調和もその例の一つになりはしないかと。