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超回帰の言語学&あれこれメモ 2 [無断転載禁止]©2ch.net
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0090白馬青牛 ◆sKm0uQPecU 垢版2016/01/23(土) 03:41:47.610
>>79
>>89の神戸を体現しとった人物と云えば、
835 :白馬青牛 ◆sKm0uQPecU :2015/12/08(火) 02:56:53.97 ID:gQex2rGA
日本のオスカー・ワイルド風のダンディ云うたら、今井の朝やんさんかのう。
http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont06/cont06-1360.htm
前回で登場した〈赤マントの朝やん〉こと今井朝路(あさじ)は5丁目にあった今井計量器店の
次男坊、画家。実家の近所でバー「ランクル・ブルウ(青い錨)」を経営した。
《彼は天鵞絨(ビロード)の洋服を着て、黒い大きなボヘミヤンネクタイをしめ、漆黒の髪を長く
肩まで垂らし、鼻下に短い鬚を生やして、…今井あさ路は身の丈ほどある赤いマントを着ている
ので、往来の人々は吃驚して立ち止っては見返るのであった。この赤いマントを着ていたという
オスカー・ワイルドの真似をしていた今井あさ路は、神戸の「赤マント」という仇名で誰知らぬ
人がなかったのである。》
 東吾は同道することにもう恥ずかしさを感じなかった。学院がキリスト教主義でありながら
軍国主義に傾いていること、それによって自分の芸術的志向が阻害されていると打ち明ける。
あさ路も名門校の軍隊式に歯向かって放校処分になっていた。ブラジルで二人は酒を飲みながら
流行歌を歌う。
 後年、今井朝路は友人竹中郁の後を追ってパリに行く。帰国後、画塾を開くのだが、うまく
いかなかった。その後「ランクル・ブルウ」を開店した。
バーの主人は、今井朝路という伊達者で、赤ビロード総裏の黒マントでのし歩き、女出入りが
はげしかったと聞かされた。かっては洋行までした画描きだったとか、どうして画家として
頑張らなかったのかと惜しまれた。」
0091白馬青牛 ◆sKm0uQPecU 垢版2016/01/23(土) 03:43:26.980
>>79
今東光氏の自伝的小説の「青春の自画像」の「神戸の赤マント」から。
「この赤マントの今井あさ路は元町の秤屋の金持ちの息子で黒々とした長髪を肩までたらしオスカー・
ワイルド気取りに赤いカシミアのマントを曳るように歩いていたから、流石のハイカラな神戸市民も
目を丸くして驚いた。」
今井朝路氏の個展に猥褻として摘発に来た警察官にも、今井の朝やんは、
「わての絵は、あんたらのようなド頭の固い人には見ても解らんやろが肉眼で見るのんと
ちやう(違う)ねん。心眼。わかりまっか。武道でも言いまっしゃろ。心眼で見る限り目ェつぶっとっても
金的を射抜けるんや。何所が猥褻で、何所が風俗壊乱かはっきり指摘して貰いまひょ。
せやなかったら須磨警察は官憲の暴力によって展覧会を叩き潰したと法廷に訴えますし、新聞社を歴訪して訴え
続けまっせ。こんなわからずやの無茶おまっかいな。」
警察は「貴様は社会主義者やな」と怒鳴った。
おおむね官権を振り廻す奴は理屈に詰まると国賊社会主義者とぬかすのが落ちだ。そこで僕は
「おい、今井君。今から神戸へ去んでお前とこの顧問弁護士を連れて訴訟しようやないか。」
警部は顧問弁護士を抱えている坊々かと周章ててすたこら逃げ帰って仕舞った。
今井あさ路も、どうした間違いか丹波篠山の軍国教育で有名な武断的鳳鳴塾で上級生と
半死半生の喧嘩をして放校になるくらいの上玉だから、田舎警部ぐらいではビクともしないのだ。」
0092白馬青牛 ◆sKm0uQPecU 垢版2016/01/23(土) 03:47:57.960
>>79
>>90-91のオスカー・ワイルドについては、こっち。
http://tadaoh.net/design/2009/10/post-549.html
「彼に唱えた芸術至上主義、快楽主義、個人主義、そしてイギリスの「ダンディズム」をよく
表している一冊だと思います。人間は本能的に快楽を求める。それは人生が辛く、はかないものだからしかし。
それでも人は快楽に身をまかせてはいけない。自らを厳しい秩序で制限することで、人は幸せを
感じることができるのだ。人だけが感じることのできる快楽を享受できるのだ」
http://the-king.jp/nana_176.htm
 「不滅のダンディ定義」をブチかました男、オスカー・ワイルドにご登場頂くとしよう〜♪
左の写真のお方じゃ。ワイルドが纏ったファッションは、自ら「ワイルドだろう?」と言い放って
おった!ではなくてだな、今もなお「奇抜だった」と多くのファッション誌に記載されておる。
 その詳細は下記の通りじゃ。
ヘアスタイル・・・かる〜くカールしたやや長髪
ジャケット・・・丈の短いブラック・ヴェルヴェット。 襟と袖にあしらった大きなキルティングが
ポイント
マント(ケープ)・・・カラーが高く、手首まで隠れるウール地のマント
ネッククロス・・・シンプルに巻いたモスグリーンのロングタイ
パンツ・・・ニー・ブリーチズ(膝丈の半ズボン)
ソックス・・・膝上まであるシルクのロングソックス
シューズ・・・小さなリボン付パンプス。 もしくはロングブーツ」
1970年代頃は日本でも云うか広島じゃオスカー・ワイルド派の嘆美ダンディスタイルの少年の多かったし、
わしも、ミッキーマウスの額の剃り込みするボンクラスタイル(不良DQNスタイル)たぁ、長髪ぎみの
韋駄天スタイルの方に傾倒しよった時代じゃのう。
0093白馬青牛 ◆sKm0uQPecU 垢版2016/01/23(土) 03:54:20.670
>>79
今東光氏の「青春の自画像」から、今井朝路氏について書かれた記述から、神戸での
画廊開催での事。
{「今、三宮の警察が来てまっせ」
「これは猥褻だな」
「へえ。それ。猥褻だっか。僕ら何ともおまへんが、官服着てはると淫らな感覚を挑発されまっか」
と長髪の今井あさ路が揶揄した。
「何だ貴様。おう赤マントじゃね。」
「そうですよ。あんた等から見ると赤マントも紅いお腰に見えるんとちゃいまっか」
「おい、警察官を侮辱するんか」
「とんでもおまへん。唯、あんた等俗人と、わてら芸術家の感覚の相違を言うとるんでっさ」
この警部補も相手が元町の秤屋の砲坊ちでは喧嘩しにくい。何といっても元町の老舗からは
警察への寄付金を貰っている手前、
今井あさ路は、黒田清輝の裸婦像に警察がたまげて腰巻きをまかせたという露骨な例を持ち出し
「おいど(女陰部)を向けてるフランス女や。あちらでは人間の裸、描くの当たり前で誰も騒ぎより
しまへん。神戸みたいなハイカラな街で、こんくらいの裸婦像で目ェ剥いていたら、異人さんの
宴会なんか行けれしまへん。卒倒せんならん。」
「そんなところには行かんよ」
「そだっしゃろな。異人さんの宴会ちゅうたら、知事閣下殿、市長殿以下ちうわけで、あんたら等まで
招待状も来んやろうけど」
 とまで皮肉られると警部補は居たたまれない顔付になった。喋らせたら赤マントはまだ何を言い出すやら
わからない。「その絵と、もう一点。あしこにある若い女の裸絵、別の部屋にして下さい」
と言い残して警部補は帰って行った。
0094白馬青牛 ◆sKm0uQPecU 垢版2016/01/23(土) 04:04:51.010
>>79
>>93の続き。「その絵と、もう一点。あしこにある若い女の裸絵、別の部屋にして下さい」
と言い残して警部補は帰って行った。
その若い女というのは、ひどく早熟(ませ)た十七の女学生だったが、まだ処女なのに僕を誘惑して
「あんた好きやから処女をあげる」 と言って他愛もなく僕と寝た娘の裸を描いた作品だ。
カーテンを懸け特別室らしく壁に飾ったすると今井は 「うわあ。御真影みたいやな」
と不謹慎ことをぬかす。これが軍隊教育を受けた鳳鳴塾の学生上がりとは到底思えない奴だ。
第一日目に来た母親は、今井が得々として警察官を追っ払った話をするとたちまち不機嫌になり
「そんな売春婦の裸の絵とわたくしの肖像を一緒に陳列するとは恥知らずな所行です。警察官は
こんな展覧会を閉鎖すればよかったんです。わたしは見るも汚らわしいから帰ります」
と怒って見ずに帰って仕舞った。 」}
 {村の人々は数十歩へだてて物珍しいそうにぞろぞろついてくる。 「けったいな奴やな。絵見に
来るんやろうか」  と今井は言った。
「そうやないよ。君が赤マント着てるさかいに、けったいやなあ思うて、ついてくるんやないか」
「黒マントと赤マントと、どない違うんやろ。大して相違あれへんやないか。なあ。」
しかしながら、そりゃ無理だ。黒マントは紺野等も制服を脱いで和服のときは誰しも学生マント
として着用したが、赤マントは女の子しか着ない。
「東吾さん。赤マントと揃って歩くの厭やわ。人が笑うてるわ」 、「あの男おもろいで」 、
「赤マントは嫌い」 、滅多に好き嫌いなど口に出さない絹子も、赤マントだけは閉口していた。
というのも絹子の二三の 友達は、絹子と東吾とは愛し合っている仲と知っているので、彼が赤マントと歩いているのを
見かけると、直ぐ絹子に言いつけるらしい。絹子は友達から紺野と赤マントが元町を歩いていた
とか、 トーアロードをもつれるように歩いていたとか聞くのは、身を切られるように辛かったらしい。
つまり笑い者にされるよりは憎まれる方がましだという感情だろう。
0095白馬青牛 ◆sKm0uQPecU 垢版2016/01/23(土) 04:13:50.300
>>79>>94の続き。
けれども紺野は、笑われる ことに狎れて仕舞った。肉親の親兄弟に笑われて育ったのだから、
他人に笑われるのは当たり前だと 思っていた。今井朝路がデカダン派の(>>92)オスカー・
ワイルドを気取って赤マントを 着て笑われるのは、紺野の笑いに比べると、より悲壮に思われた。
今井朝路氏のエピソードの続きでも、見学に来た農民夫妻や徒弟が、赤マントの 今井朝路氏の描いた
{「股の間に塗られた血のような赤い色は、彼女達には汚辱の色彩とは見えても 蔓珠沙華とは
決して見えないのだ。それゆえ疑いもなくこの赤マントは、頭が狂い、 色情狂であるために身に
つけるものは赤マントであり、その描くとこの絵は淫猥なる裸体画だと思ったのだ。その馬鹿笑いを
聞くと赤マントは、 「二度と来ると承知せんぞ。おのれた等平凡な嬶どもめ。おのれらは土百姓と
一緒にいれば 好いのじゃ。天才の業積なぞ笑う資格も、権利もないのだぞッ。」
柔しい声音は、女にもまぎらわしいほどの赤マントが、烈火の如く怒って、…}
ミミズク先生の家の前で赤マントと別れ部屋に入ると、先生の奥さんから、
「紺野さん。もう、あんな気狂いと遊ぶんやありまへんで。何や先刻の怒りようは。まるきり狂暴
や。子供や村のおかみさんで石にあたって怪我しましたで」
「へえ、恩さんもいたんですか」
「ほんまに、あんな汚らわしい絵描いて。恥ずかしゅて、よう見られへん。もう。もう。あんな
色気狂いと遊んだらあきまへんよ」と言われた。}
と大正期のダンディも村の庶民層から歓迎されん真逆の扱いされたもんじゃが、村民も赤マントの今井
朝路氏が鳳鳴塾時代の上級生半殺しまで制裁したんと違い、村民が石投げられ額から流血程度で
済んだんは、赤マントの今井朝路氏の慈悲心でもあろうことを、村民は理解しとったたぁ思えんのう。
兎も角当時の神戸のように洗練された都市でも、ダンディを貫くと異端者扱いされた時代けぇのう。
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