日本語が簡単過ぎて泣けてくる
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
文法は単純で簡単、発音も簡単、文字も言うほど難しくない
こんな簡単な言語は日本語くらいだろ >>651はこういうのをどう考えるんだろ
くう、たべる、めしあがる、いただく 敬語体系が崩壊して、主格対格に呼応する人称変化でも生まれたら面白いんだけどな。 >>658
屈折でも活用でもなんでもない
別個の単語 言語学的には日本語は屈折語だと分類する学説もあるらしいね。 「お*になる」「ご*になる」の形式がすべての動詞に当てはめられれば、
簡潔になるんだけどね。
「お見になる」よりも「ご覧になる」のほうが語呂がいいんだろうか。 >>657
お前が大きめの図書館へ行って『言語学大辞典 術語編』を読めばいいだけ
概略をここで紹介すれば?それとも文盲なの?図書館使えないの? 最近対格のヲの代わりにガが使われるケースをよく耳にする
もちろん文章では絶対にそんなミスしないだろうし口語故の咄嗟の間違いなんだろうけど
おそらく文の焦点マーカーという意図で話者の口を突いて出てしまうのだろう >>664
よく耳にするっておまいの個人的経験かよwwwwwwwww
間違えてる奴が単にタスマニアたけしみたいな言語障害者だか日本人じゃないかなんじゃねーの? >>665
その現象は最近目立つよ
気がついていないお前はテレビすら見ない引きヲタニート確定だわ >>666
目立つとか目立たないとか個人的感想はどうでもいいんで
具体的なソース出して、どうぞ
(てか引きヲタニートだったらいつも家にいるからテレビ見放題だろjk) 引きヲタニートはTV番組なんか見ないって5chいればわかる
だからとぼけたって無理
「本が売ってる」「違和感が感じた」「バイトが始めた」「服が買った」
いくらでも言ってるよ
引きヲタやお年寄りとはお互いギャップがひどすぎて
普段からろくに会話もしないだろうから気が付かないだろうな
文脈上のフォーカス、新情報の名詞は「が」を付ける、
という新ルールがそこらじゅうを漂っている
トピックの「は」と対になろうとしているかのようだ 「本が売ってる」「服が買った」
これは文脈によってはあり
「うちの買ってってよ」
「これ欲しい」
「それは売り物じゃないよ」
「どれが売ってるの?」
「本が売ってる」
こういう状況だと「売ってる物」の「物」を略して言える
「違和感が感じた」「バイトが始めた」これはないわwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
日本語として完全におかしいだろ
具体的にどういう文脈で使われたのかちゃんと例示しろ
それで判断する >>669
最初は笑うだろうが、そのうち草も生えなくなる
愕然とするぞ
お前が聞いたことないだけ >>669
そもそもお前はもう使って育っているのかも知れないが、
「本が売っている」は90年代になってはじめて聞かれだしたものだ
当時の30代以上は存在すら知らなかったし、話しても信じてもらえなかった
お前の下4行と同じだ
テレビのインタビューで若者がよくそういう言い方をする
なお俺(>>666)は>>664とは別人の横レスだ
全然わかっていないようなので足しておく だいいち、「本が売っている」自体が
「対格のヲの代わりにガが使われるケース」に相当しているじゃないか
それでもなんで>>665はアホな草を生やしていられるんだよ
これが矛盾しているじゃないか
あと>>669は「服が買った」がOKってマジか?
逆に驚きだわ
もう1つ、ガ格目的語自体は前からあって、今回問題になっているのはそれ以外の例だ(ろう)。
問題にならないのは、
1)「がわかる」などの自動詞が起源で意味的には他動詞であるもの
2)可能動詞、可能の助動詞など可能の意味が加わった他動詞「が買える」「が入手できる」など
3)「がほしい」など意味的には他動詞、形式上は形容詞であるもの
などだ まだ項目があったと思うけどとりあえずこれだけ挙げておく >>670-672
馬鹿の話は必ず長い
「〜を売っている」問題は調べたらここに突っ込み入れてる人がいたから読んでくれ
これは助動詞「いる」とその対義語「いない」の用法の問題であって、決して助詞「が」を「を」の代わりに使ってる訳ではない
http://www7b.biglobe.ne.jp/~w3c/kotoba/kokugo/kotoba/Utteita.html
「違和感が感じた」「バイトが始めた」「服が買った」が「違和感を感じた」「バイトを始めた」「服を買った」と同義だとする日本語母語話者が存在すると主張するのならまずインフォーマントの住所年齢性別と使用状況を示せ
俺がアナウンサーや声優の養成所の偉い人なら、自分とこに本当にそんな助詞の間違え方してる奴いたら張り倒してるところだわwwwwww >>669
御前の表記も日本語として十分にをかしいから(嗤)。 >>673
馬鹿のサイトは読む価値なし
否定しようがしまいが「〜が売っている」を使う使わないが変わることはない
若者はとっくに「(物)が売っている」を使うようになっている
昔は20代だったが今は繰り上がって40代にはなっている
お前が外に出ていないだけ な〜んや
ガイジの正体は旧表記ガイジだったかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
発狂すると日本語モドキやめて別の日本語モドキつかうのな(すっとぼけ)
「違和感が感じた」「バイトが始めた」「服が買った」とかいうのが何ソースなのか示さない時点で負けだゾ 頭のおかしい人の特徴
知ったかぶってソースもなしに事実と反することを言う 草ガイジが旧字旧仮名の自作自演だろ
頭の程度が同じ
ソースはテレビのインタビューな
あとは外に出て実際に聞け引きヲタ草ガイジ そんな変な文も、そのうちもっと普通に聞くようになる
その頃にはここのガイジどもはスレごといなくなっている
昔はおかしかった「本が売ってる」と同じように、それを当たり前のように使っている テレビしか見てなくてリアルに人間と話さないせいでテレビのインタビューとやらがソースだとかほざくブーメラン壁トークの引きこもりガイジがなんだって? ソースがテレビのインタビューってwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
教養の低さ丸出しwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwガイジwwwwwwwwwwwwwwまさにガイジwwwww発想がヒキコモリのそれwwwwwwwwwww
ガガイのガイ♪wwwwww >>681
古い春歌をパクっただけのそれの何が面白いの 動詞の受身の問題を格助詞のせいだと誤解するガイジがまともな訳ないんだよなあ 旧仮名ガイジくんには日本語が難しすぎた様だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 我愛中華
I love china.
我は中華を愛す。
日本語は「我愛中華」に對して多種多樣の表現が可能。 ガイジがまた見えない敵と戦ってるwwwwwwwwwwwwwwwwww 支那語の「我愛中華」には日本語にあるやうな辭の話し言葉としてのニユアンスが存在しない。
だから支那語は「詞」中心の言語世界なのである。 「映画が見れる」は正しい?
もちろんどちらも可能の意味だよ。=「映画が見られる」 中国語でVOがOVに逆転したときにSVと受け取られてしまう危険はないんだろうか?
「本が売る」とか「服が買う」ということは常識的に考えにくいのだから
そのよう「常識上」の解釈でもって文法的に意味が選択されるんだろうか? 「売っている」にはおおざっぱに二つの意味あるように思う。
1. ある人が商品を売る一連の行為をまさにその瞬間に観察している
2. ある商品が店頭に並べられたりして売られていること
「本が売っている」はおそらく2.の意味で使われている。 >>695
それは>>672の2)に相当し、以前からあったものだ
その意味では「本が売っている」を誤りとする立場から見ても、正しい さっきフジテレビのニチファミ!という番組の旅行スペシャルで
「時間がなったら門が閉まるんだ」と言っていた
今増えているのはこういう「とりあえず『が』で新情報を提示する」というものだ >>697
だったら「本が売られている」でいいだろう
実際昔はそうしていた
何がいけない?あるいは何がいけないことになった?
ちなみに昔は「本を売っている(主語なし)」でも全然問題なかった
「誰が」は言わなくていい情報として省いていた なぜそうしない?あるいはなぜそう言わなくなった? >>699
さすがにニ格をガに置き換えるのは初めて聞いた
人間の先験的な感覚というのはすごいな >>699
戸が閉まるは何も日本語としておかしくないだろいい加減にしろ!
閉まるは自動詞だぞ >>699
>>702
違うだろ
この場合は「時間」が主語
時間が「(決められた時刻に)なる」ものであると定義されてんだ >>701
この「が」は「とっさに」「とりあえず」出てしまうものらしい
「は」と同じように、情報構造の役割をになっていて、格助詞と交替可能な存在のようだ
最近までの規範的な文法は、旧情報が主題になるとき「は」が付き
格助詞は消えるかハと連なってニハ、デハのようになり、
ガはヲと同様に消えるほうの格助詞の一つだったが、
今度の新興の文法では新情報が「焦点」として文の中心となる時新係助詞「が」で提示され
焦点はいったんほかの格助詞を取らなくなるということらしい
格助詞のガも生きているから当面は混乱が続きそうだ そういう自由研究ではなくちゃんとした言語学者の論文でのソースをどうぞ 「時間になる」という慣用表現に対して「時間がなる」という表現の方が時間(時刻)が特定の状態になるという実態に即しているから標準的でない口語において許容されているというだけで
「に」が新しい用法を持った「が」に置き換わったのではないな いずれ論文になるよ
「本が売っている」だってそうだった 「オッサンのケツに糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええ」を
「オッサンのケツが糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええ」と変えると
「何が糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええって?」という質問への返答にはなりえ
「「オッサンのケツは糞まみれのチンポをつうずるっこんでやったら糞とションベンでずるずるして気持ちがええ」と言い換えることもできる
「時間になったら門が閉まるんだ」を
「時間がなったら門が閉まるんだ」にしても
「何がなったら門が閉まるって?」という質問が日本語として不自然であり
「時間はなったら門が閉まるんだ」はもはや非文である
「時間になる」が一つのイディオムであり不可分なのだからこれは当然
原因は「(特定の)時間になる」という慣用表現の代わりに「時間が(特定の状態に)なる」と言ったからであって
助動詞「いる」の挙動を原因とした「(誰かが)本を売っている」→「本が売っている(状態にある)」とは異質なものだよ G.J.Ramstedt氏によれば、日本語の文法はどちらかというと簡単なほうらしい。
ただし読み書き、特に漢字を除けば。
彼の母語がおそらくはフィンランド語であり、ウラル語族やアルタイ諸語に詳しかったという理由もあるだろうが。
それはさておき、細部を見れば、日本人でも説明に困ることがある。
http://lang-8.com/528751/journals/30244112888845415096903846427142343891
では英語の母語話者と思われる人が「日本語はわかりたい」という文を作っている。
それに対して日本語母語話者と思われる人が
「日本語がわかりたい」
「日本語をわかりたい」
「日本語を理解したい」
と修正している。どれも正しいのだろうか?
あるウェブページでは、「わかる」という動詞は意志を表さない自発の意味があるので、
「わかりたい」という形を作ることができないと説明していた。これが正しいのだろうか? また、五段活用動詞の自発・受身・尊敬は「わかられる」だと思うのだけれども、
この形を作ることはできないという説明もあった。
もちろん可能の形「わかれる」という形も作ることができない。
じゃあ「わかることができない」はどうだろうか?
似たような意味がある「理解できる」を作ることができるのはなぜなのか? 「本が売っている」は「時間がなったら」と違ってかなり普及した言い方だと思われるので、
一時的なヒューマンエラーだとは考えにくい。
ら抜き言葉と同様になんらかの合理性や日本語の動態的構造(変化の法則)とも関係があるのかもしれない。 「本が売っている」に関しては格側の問題というより述語側の問題のような気がするが >>712-713
「わかる」はガ格目的語を取る動詞であり>>672の1)に相当する
ガ格目的語を取る動詞は日本語を学ぶ外国人の教科書にも載っていて、
日本にいる外国人も当然よく知っている
>>714
だがこういう人も日本語教科書に決して載っていない「本が売っている」は話さないだろう
これは日本の若い人とよく会話するような人が、日本語学校の教室の外で習得するものだ >>711
ただし今ここで挙がっている「日本語の難しさ」は、表記法の複雑さのように一目瞭然のものや
ラ抜きのようにバカの一つ覚えで繰り返されるお決まりのテーマではなく、
日本人自身も内省だけでは上手く説明できない現象や、
変化しつつあり立場によって「乱れ」とも取られる現象の最先端だ
>>715
述語側の問題としては
1) 日本語の受け身文には、被害(殺された・盗まれた)・報奨(表彰された・褒められた)といった
動作内容の意味上の制約がある
2) 1)と関係なく、硬い表現では欧文直訳体の無制約な受け身文がよく用いられる←こういう文
3) 1)の制約と同時に日本語のガ格主語は本来は非義務的であり、省略可能な範囲が広い
(かつての「あそこで本を売っている」は「誰が?」と突っ込まれるような文ではなかった)
以上のうち1)だけが残って2)3)の情況が変化して無くなったのだが、
3)に対して新たに「ガ格の義務化」の傾向が生じているのではないのだろうか 「本が置いてある」と同形の「本が売ってある」が普及せずに
「本が売っている」のほうがむしろ普及したのはなぜだろう? >>712
ラムステッドの時代には形態論のほうが盛んで、日本語の統語論に踏み込んだ研究は
あまり盛んではなかったし、いつの時代だろうとプロの言語学者が
「日本語の難しさ」なんていう曖昧で主観的なテーマをそれほど掘り下げることもないからそこは雑談レベル
>>713
意味が似ていても「わかる」は非意志動詞、「理解する」は意志動詞だからね。
非意志動詞とは「死ぬ」「ころぶ」のように動作主の意志で操作できない動作を表す動詞だ。
だから非意志動詞には原則として「たい」を付けられない。
ただし「わかる」を、「理解する」と完全に同じ意味の、意志動詞として使うこともあり、
(これは別の「わかる」と考えてもいい)
その時は目的語の格助詞に「を」を使い、願望の助動詞「たい」を付けることもできる
非意志動詞の特徴は、語によって程度の差はあれ「動詞らしくない」ことで、
「わかる」に「れる/られる」が付けられないのもその例だろう。 >>718
「が+他動詞+てある」は、
・壁に絵が掛けてある
・洗濯物が干してある
・自転車が駐めてある
のように、何かの瞬間的な動作を行った、その「結果」の状態が継続していることを表すが、
本を置いてそれを販売しているという状態の「売る」は動作自体が継続しているからだろうか
「干す」をあくまでも瞬間の動作とみなせばそういうことになる を分ける が分かる
を開ける が開かる(が開く)
をかける がかかる
を預ける を預かる
を授ける を授かる
が負ける を負かす
をどける をどかす
が乾く を乾かす
が空く を空かす
が泣く を泣かす
一定しないが、辞書に自動詞と他動詞の区別が明示してあるとは限らない。
インターネット上の電子辞書には明示されていない。
例文でかろうじて分かるが、その例文でも分からない語もある。
国語文法では自動詞・他動詞の区別が軽視されてきたようだ。 日本人(日本語ネイティブスピーカー)向けの学校教育では
日本語の標準化・統一化ということが大きな目的だった可能性があるので
「本が売っている」やラ抜き言葉を«あえて»教えないというのは分かる。
しかし外国人向けの実用日本語講座ではそういうわけにはいかない。
こちらは外国人が日本人と言語コミュニケーションする実用性を目的としているので
日本語でかなり普及している語用が学校教育によって正統化・統制化されていないからと
言って省くわけには行かない。それは親切な日本語教育ではない。 >>722
それだけ「本が売っている」が、それを子供の頃から使っている世代が意外に思うほど、
歴史の浅い現象であるということ
たぶん平成の歴史と同じか、少し短いくらい
放っておいてもより規範的な言い方に淘汰されるかも知れない
それほど文学性の高い小説や、学術論文や、新聞記事や教科書の本文でも見かけない
そもそも論理的ですらないし、このまま温存して日本語にとって何かメリットがあるとも思えない 「ら抜き言葉」も最初は盛んにそう言われていたが、
のちに方言としてすでに定着していた地域があったことが分かった。
そしてそれが広まっていることも、
日本語の構造となんらかの整合性をもっていることもわかった。
そもそも言語は太古から変化していないわけではなく、
変化は地理的に均一に起こるわけでもない。
変化がいけないとみなすのはイデオロギーを言語学に持ち込むことである。
そうではなく、そのような規範価値付与現象をも客観化すること。
それが言語学が科学である証拠。 書き言葉、とくに上流階級や知識階級の人々による書き言葉は、
近代に外国語の影響を受けている可能性がある。
彼らは外国語を学び、外国語文法を学んでいるだろう。
そして脱亜入欧の視点から日本語を西欧的な文法で解析したり、
その合理性に合うように修正してきたかもしれない。 記述言語学はできるだけ「規範バイアス」というのを避けようとするはず。
理論の整合性が先にあり、それに合わない文例が見つかるとそれを排除してしまう。
その文例をも説明するために理論を修正することをせずにモデル原理主義に陥りがち。 ☆証拠有★完全オリジナル☆コピーOK☆たった30分の初期設定で自動入金システム★
一度設定すると放置で大丈夫です☆スマホOK★完全在宅☆クリーンなお仕事です^^
気になった方やご質問はkkaa-mmee@hotmail.co.jpまでメールお願いします!
誠意をもってお答えします^^ 川端康成「雪國」
「國境の長いトンネルを拔けると雪國であつた。」
サイデンステッカー氏の英譯 ”Snow Country”
"The train came out of the long tunnel into the snow country."
同じ文章を飜譯してゐる筈なのに文章から受けるニユアンスは全く違ふ。
此れは主語を必要としない日本語と、主語が無いと文章が成立しない英語からくる相違である。
假に英語話者が表面的にでも日本語を話す縡が出來たとしても、「國境の長いトンネルを拔けると雪國であつた」を讀み、
日本人が讀んだ時と同樣の情景、ニユアンスが掴めないと本當の意味で日本語を理會したとは云へぬ。
日本語の有つ此の特有のニユアンスと云ふ者は他の言語には中々見られぬ特質である。 「本を売っている」という表現自体はかなり最近のものしか見つけられなかったが、受身での助動詞「ゐる」でのガ格の戦前での使用例は発見できたぞ
https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/1670_9712.html
『でも、京にゐたつて好いことはありやしないよ。それよりも田舍に歸つて、身をかためる方が何んなに仕合せか知れやしないぢやないか……。朝起きると、路ばたの草にも綺麗な露が置いてゐるのだもの……』
(田山花袋『道綱の母』)
この作品は昭和二年が初出である >>729間違えた
×「本を売っている」
〇「本が売っている」 「本を賣る」「本を賣つてゐる」。
「本が賣る」とは云はぬ。
「本が賣られてゐる」が正しい。(受身) 日本語が母語ではない出自不明の旧ガイジの偽日本語は日本語ではないんでそういうのはいいです >>724
それだと、ラ抜きの急激な増加や、
中高年以上で「本が売っている」と全く/ほとんど?言わない/言わなかったことの説明がつかない
その落差の原因は何なんだろう
そこを不問にして「昔からあった」だけじゃあ科学もへったくれもないんだよ 「葉に露を置く」自体が非常に興味深いイディオムだよな
「誰が?」と思わず言いたくなる
しかしこれだって当時は使っている人たちにとってガ格動作主を必要としない表現であり、
神かそれに近い存在の主語や、言い換え形の受け身文すら要らなかったんだろう 古文では「置く」は露や霜が対象の場合だけ自動詞になるようだ
https://kobun.weblio.jp/content/%E7%BD%AE%E3%81%8F
徒然草 一九
「霜いと白うおける朝(あした)」
[訳] 霜がたいそう白く降りている朝。 ラ抜き言葉の仮説の一つに、現在では広く行き渡っているが、
「-られる」との意味上の差をはっきりさせるため、というのがある。
そしてそれが地理方言学的にも「-られる」言葉が尊敬語として多用される地域と
重なっているとする指摘がある。 ラ抜き合理説をあざ笑うかのように、今は「レ入れ」が進行しつつある
「書ける」を「書けれる」と言い「書けれない」のように言う
また可能動詞「取れる」は自動詞「取れる」(いじっていたらボルトが取れた)
と紛らわしく、また動詞によっては可能動詞形にしか見えない「思える」が
可能用法ではなく自発用法(どう見ても私にはそう思える=思われる(自発))しかない
これらの混乱した現象について「ラ抜きは可能用法だけ」「ラ抜きは合理的」という立場の人は何も言わない
そしてどの地方の方言にも江戸時代にも、無いかほとんど無かった「一段ラ抜き」や
「カ変ラ抜き」についても「ラ抜き合理派」は一切触れずに無視し続けている
一段ラ抜き…出れる、食べれる、聞ける(自発用法があり自発の動詞「聞こえる」と衝突)見れる(同じく「見える」と衝突)
「得れる」もどこかで現れているかも知れないし、「射る」の五段化が見られるので「射れる」もあるだろう
無文字言語じゃないんだから、文字言語の単なる習得漏れに過ぎないものを神聖視して
どれもこれも放置する必要もないのではないか ら抜きの「急激な増加」の大きな理由の一つを挙げるなら
間違いなく『しゃべれる、食べれる♪』と歌った
コンビニ「ミニストップ」のCMだろうなあ
あれ最初は「わざと子供みたいな言葉遣いをして」みたいな感じで笑ってたけど
そのうち世間のほうがあれを冗談と思わないというシャレにならん状態になってきた >「書ける」を「書けれる」と言い「書けれない」のように言う
ら抜きが常態の甲州弁なんかだと
それも固定化しているね
「このペン書けれんじゃん」とか 五段の可能動詞化だって合理的でも何でもないね
不合理なレ入れを容認してるんだから kak-ar-eru
kak-eru
ik-ar-eru
ik-eru
omow-ar-eru
omo(w)-eru
tabe-r-ar-eru
tabe-r-eru
tabe-eru
mi-r-ar-eru
mi-r-eru
mi-eru
自発・可能・尊敬、受身という理論的分類モデルを疑ってみたことはないだろうか?
これらの分類を超えたところにその真の意味合いがあったのだろうか? 自発は自然にという意味らしい。自分の意志によらない作用ということだろうか?
可能には状況可能と能力可能がある。状況可能はそれを可能にする環境にあるということだろう。
尊敬は神(自然)への畏怖? 何か自分を超えたものへの畏敬の念か。
受身はやはり自分の外からの影響・作用を意味する。 ik-areru
kak-areru
ik-areru
kak-ereru
レ足しはaがeに変化したもののにも見える。
-ar-抜きは明治末期にはすでに愛知県を中心とした東海地方に定着していたようだ。 ミスった。訂正:
ik-areru
ik-ereru
kak-areru
kak-ereru 自分の意志を中心に置き、それを言語主体としよう。
自分の意志によらない作用が自発・受身であり、物事が可能になる状況・環境だ。
もしかすると
昔の人は個人の能力も神から授かった受身の作用と感じたのかもしれない。
尊敬も神への尊敬、自分の意志を超えた作用への畏怖の念と関連しそうではある。
まあ、類推に過ぎないが、これらがもともと一つの意味をもっていたとしても驚かない。
しかし現代人はこういう思考法を徐々に捨ててきたのかもしれない。
これらの意味が一つであることを不自由に感じるようになってきた。
omow-ar-eru
omo-eru
「思うことができる」とはどういう意味だろうか?
思う能力?
思うは考えると違って「心に自然に浮かぶ」といった意味合いがありそうだ。
心に自然に浮かぶ能力がある? 日本語の受身が「雨に降られる」という形を持っていることからも、
「神や自然の作用を被る」という意味合いをまだ残存させているように思われる。
自分の意志を源にしない作用はすべて-ar-というわけか? 日本語のヴォイスを追いかけていると、
自動詞−受け身−非意志的−状態
他動詞−使役−意志的−動作
という概念がそれぞれ強く関連しあっていることがわかるよ 五段活用動詞のokuru「送る」のar抜き言葉であるokureru「送れる」は
「遅れる」とかぶってしまうね。okurareru「送られる」だとそうならない。
ar抜き言葉がなぜに生じたのだろうね。 「本が売られている」というのは現代日本語ではもはや文語的な固い表現じゃないか?
日常会話では「本が売っている」のほうがごくごく一般的であるように思えるが。 >>749
「している」の形も状態をあらわすニュアンスがあって、
自発や受身に近い連想が話者に働いているってことなんでしょうかね? 「私は«料理名»にします」と言っている人はいても
「私は«料理名»だ」なんて言っている人に遭遇したことがない。
文法学者の書いた書物や論文でしか実際には遭遇しない珍しい文例に思われる。 「〜のほうがごくごく一般的であるように思える」
「〜なんて言っている人に遭遇したことがない」
そんな個人の半径3メートルの知見だけで語られても >>754
実際どういう会話、どういう文脈で「私はウナギだ」なんて言う?
そういう言い回しがゼロだと言わないけど、
特別なシチュエーションでのレアケースに限られないかい? >>751
馬鹿言語屋を基準に物を考へないでくれたまへ・ 「私はウナギで」とは言うけど
「〜だ」と言い切ったりはなかなかしないよな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています