日本語が簡単過ぎて泣けてくる
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文法は単純で簡単、発音も簡単、文字も言うほど難しくない
こんな簡単な言語は日本語くらいだろ >>754
実際どういう会話、どういう文脈で「私はウナギだ」なんて言う?
そういう言い回しがゼロだと言わないけど、
特別なシチュエーションでのレアケースに限られないかい? >>751
馬鹿言語屋を基準に物を考へないでくれたまへ・ 「私はウナギで」とは言うけど
「〜だ」と言い切ったりはなかなかしないよな 飲み屋で店員が注文した数種の酒をもってきたとき
「おれはレモンハイだ」とか言うだろ 今の女性語は「だ」に対する嫌悪感が強めで、性別を問わない中立的な「だ」も避ける
女性のニュースキャスターから見かけるようになったが、
「〜べきと述べました」←女性語の引用文の「べき止め」は90年代にはあったが、
今は引用に限らず言い切りにも使い、男性にも波及した
(女性キャスターのこの言い方についての言及は高島俊男のエッセーで見た)
また「僕はウナギで」のように意思表示を「で」で止める言い方も以前はなかった
これによって「だ」の直言・明言を避けて、語調を柔らかくしようとする傾向があるのだろう
こちらは若いサラリーマンからよく聞いたのが最初だったが、あるいは女性が先かもしれない
どちらもだいたい平成に入ってからだろうか >>751
文語というか、明治以降に定着した「欧文直訳体」の書き言葉。
主語に「被害」「受益」のニュアンスのない、会話文らしくないとされる受け身文は、
学術論文のような固い文章だけでなく、動詞によっては広く使われている。←こういう例
>>752
「〜ている」と「〜てある」の違いを考える時、補助動詞「いる」と「ある」の由来の違いに気付かされる。
動詞「ある」は無生物の存在を表し、動詞「いる」は人間を含む生物を主語とする。
そこで>>720の「壁に絵が掛けてある」「洗濯物が干してある」「自転車が駐めてある」を見ると、
壁、洗濯物、自転車、と無生物名詞が主語になっていることがわかる。
これは「…が〜てある」が、「人間」が「物」に対して何かの処置(他動詞で表される動作)を行なって、
その結果が継続している状態を表す構文だからだろう。
対する「…が〜ている」は「生徒が泳いでいる」「おじさんが弁当を食べている」なら人間が主語だが、
「風が吹いている」「岩が転がっている」は無生物が主語だから、範囲がより広いとは言える。
しかし人間が主語になれる他動詞文なら、「*弁当が食べている」とは言えない。
補助動詞に状態的なニュアンスがあっても、人間を主語とする他動詞の後に付くなら
その時点で意志的・動作的になるはず。従来はそうだったが…という話。 「ナニナニだ」には強い語気があるので、念を押したり、
強く何かを断言したり宣言をするときにしか使いませんね。
注文するときには
「にします」や「でお願いします」のほうが普通です。
店員さんが注文したものとは違う料理を何度も運んできて
客がキレて
「俺はウナギだと言っただろう、ウナギだと」みたいに怒る
シチュエーションしか思い浮かばないです。 社会言語学者さんあたりが、実際に調査したり、アンケートをとったりして
データを集めたらいいんじゃないかな?
あなたが料理店で料理を注文するときに使う言葉遣いはどれですかと。
「私はウナギ(にします)」と答える人がもっとも多いはず。
その省略形として「私はウナギ」と言う人はいても、
「私はウナギだ」という人は極めて稀か、特別なシチュエーションでしか考えにくいです。 「ご注文は?」
「中華飯にします」
「私は天津飯」
「じゃあ私は五目ラーメンで」
こういう会話なら自然な日本語です。
「私は天津飯」と言っている人は
最初の人は「私は」を省略しています。
2番めの人は「最初の人と違って私は」を強調するために
「私は」と言っています。そして前の人の「にします」を
自明の言葉として省略して「私は天津飯・・・」だけで済ませています。 >>760
少なくとも現代日本語では「**が売られている」という言い方を
日常会話の中で用いる頻度は稀だと思うけどね。
書き言葉の中か、朗読調でスピーチする場面、ニュースを読むキャスターや
アナウンサーの間では頻繁に観察できるかもしれないけど、純粋な会話ではまずない。
日常会話や5ちゃんねるのようなざっくばらんなチャット型掲示板では
「あそこでAが売ってるよ」という言い方がもっとも自然で当たり前のはずで、
「あそこでAが売られてるよ」という言い方は極めて珍しいか、
形式張っていて論文調の書き込みでしか遭遇しないはず。
会話の中で「売られているよ」というと「売っているよ」とは意味が
少し違ってきちゃうように感じさえする。 「昔のゲームソフトってもう売ってないかなあ?」
「あ、あった、あった。売ってる、売ってる。まだ売ってたね」
「昔のゲームソフトってもう売られてないかなあ?」
「あ、あった、あった。売られてる、売られてる。まだ売られてたね」
後者のほうが不自然だし、言っている意味が少し違うんじゃないかなあ? 「ある、いる」の区別はちょっと微妙なところがあるね。
「ここに人が二人いる」とは言えても「ここに人が二人ある』とは言えない。
昔は言えたようだけど。
「ここに桜の大木が二本あります」とは言えそうな気がする。
もちろん伐採された木材のことではなく生きている桜の木について。
でも、「生えてある」「植わってある」とは言えない。
機械が主語でも「車が走ってある」「飛行機が飛んである」とは言えない。 「てある」はそもそも「ている」と主題の文法関係が違うから 売られているだと、売っているよりは、
その商品目線に立って、その商品がそういう境遇に置かれている
ようなニュアンスを若干感じる。
売っているは商品が現在進行形でお店に置いてあることを指している。 「ウナギ文」は言語学界がつくりだした大いなる虚構ではないですかねえ? A ご出身はどちらですか?
B 広島です。
A Cさんは?
C 私は仙台です。
こういうやりとりなら違和感ないけどね。 「〜だ」言い切りが実際の会話にほとんど現れないだけであって
「〜だよ」とか敬語の「〜です」なら出現頻度も低くない 「今日は雨ですよ」がウナギ文か? これは主題文(トピック-コメント文)だ。
「今日が雨ですよ」これが本当のウナギ文か?
この「が」格は主格なのか?
しかし雨は意味的には形容詞じゃないか? >>771
一般に、
格助詞が文や節の中に閉じたスコープを持つのに対して
係助詞・副助詞「は」は文を越えたスコープを持っていると言われているね。
「は」はその場で交わされた会話全体を支配することがある。
つまり、「注文は?」「ご出身は?」というと、以降の会話では「注文」や「出身」が
話題の暗黙の前提として働き、
その言葉を文に組み込まずに省略(というより簡易化された言い方が)可能になる。
日本語では頻繁に「発話の経済」「発話の節約」が働く。 >>769
本が賣つてゐる→「本が(何かを)賣つてゐる」と云ふ意味になり、文章としては曖昧であり、完結してゐない。
本を賣つてゐる→「本を(誰が)賣つてゐるのか」と云ふ點で文章は完結してゐないが、單文としては意味が通る。
本が賣られてゐる→「本を(何處で)賣つてゐるのか」と云ふ點で文章は完結してゐないが、單文としては意味が通る。
格助詞「が」とは單文の主格を示す者。
格助詞「を」とは動詞に對して用ゐられる語に附屬するものにして、其の動詞の含める作用の影響の蒙る可き目標たる者を示す。
他動の目的は此れである。 >>775
本が賣られてゐる→「本を(何處で)賣つてゐるのか」
↓
本が賣られてゐる→「本を(何處で)賣られてゐるのか」 >>764
「使われています」以外でも、
「いくつもの企業で採用されています」
「ここの趣旨はあまり理解されていません」
は日常的な会話で使わないかな?
被害・受益以外の受け身だからってそんなに日常会話から縁遠いものだろうか?
「売られている」以外の欧文直訳体由来の「(ら)れる」は、
もうかなり日本語の中に定着しているんじゃないか >>767
原則は原則で、もう少し細かい注釈が必要だからといって、
生物/無生物で一旦分けることが無効というわけでもないだろう >>770
自分がよくわからないものは
結託して一つの意思で陰謀を巡らしていると思いこむタイプだろ、あんた >>773
意味なんて主観の産物、どう解釈したかなんてどうとでも言える、あんたみたいにね
言語学はまず形式を調べる。「雨はつらい」「雨で困る」「雨の日」ほら名詞だ >>773
ウナギ文は紛うことなき「主題-評言」文だよ
だからコプラ「だ」「です」が「主語-述語」文と違ってA=Bの形に収まらない
むしろウナギ文は「主題-評言」文の典型と言っていい
あと例文にいちいち「よ」を付けているところを見ると、
話し言葉では「よ」を付けないと「だ」が機能しないと思いこんでいるらしいぶん、
論理構造とモダリティの区別もついていない
「だ」の使用頻度を低める人がいるのは文体的特徴にすぎず、モダリティの問題でしかない
お勉強が中途半端すぎ >>782
関東人じゃないから実態が分からん
関西では口語で言い切りの「〜や」も頻繁に聞くが
テレビや映画を見る限り関東弁で「よ」もつかない言い切りの「〜だ」を会話でそれほど聞くとは想像しがたい
少なくともウナギ文に関して「俺はウナギだ!」という「よ」のつかない自然な会話例でも俺のために作ってくれよ >>783
「よ」は本来
「あなたが知らないことだと思うのでこの情報を伝えよう」という意味の終助詞であり、
同じく終助詞である「ね」が
「あなたもこの情報を知っている/同じように感じていると思う、その情報・感覚を共有したい」
という意味の終助詞であることとの対を成す
東京を含む言語圏は女性語式の言い方の影響が強く、
中年以下の若い世代に言い切りの「だ」だけで終わる言い方を避ける傾向が強いが、
それはとても感情的な文体解釈による要因にすぎず
「だ」自体の論理上の無効や不必要を意味しない
また関係がありそうな現象として、30代以下の若い世代には「よ」を引用の助詞らしきものとして使おうとする傾向がある
敬語を使うあらたまった場面でも「この空間がとても居心地いいですよということをアピールしています」
みたいな事を説明口調で言う人はよくいて、年輩者にはここで強めに発音される「よ」がなんだか失礼で邪魔に感じられる >>775
日本語では「が」と「を」の両用が古くからあったのでは?
>>781
それは語形・形式と意味とを混同している。
>>773ではそのため意味的には形容詞だと書いている。
形式的には名詞だが意味的には形容詞だといちいち書く必要があったのか。 天気予報を確認して「明日は雨だ」「そうか、雨なんだ」などとつぶやくことはある。
スケジュール表を確認して「明日は出張だ」とか。
いずれも「明日は**の日であるんだ」という意味で言っている。
これが対人上になると「明日は雨だよ」「明日は雨だぞ」「明日は雨よ」「明日は雨だね」「明日は雨だな」などとなるのが自然。
ちなみに、「明日は雨か」「そうか、雨なのか」とか言うこともある。「か」がつくけどこれは疑問文じゃない。質問をしているわけでも雨になることを疑っているわけでもない。
ところで、「今日は一段と綺麗だよ」(「今日の君は一段と綺麗だよ」)と言うときの「だ」は何だろうか?
学校文法では形容動詞の活用語尾ということになっている。
しかし実際には「綺麗よ」「綺麗ね」「元気かい?」と「だ」が省かれる例は珍しくない。
>>782
モダリティという概念はなかなか曖昧で掴みどころがない。
どういう意味で使っていらっしゃる?
「である」「であります」もモダリティであると? >>785
> 「この空間がとても居心地いいですよということをアピールしています」
これはべつに不自然に感じない。
てか、この「よ」を引用の助詞っぽいと解釈する理由がわからない。 >>789
文体的な制約も無視し、
伝達内容に対する話者の態度なんていう不要な情報もいちいち盛り込むからだよ
引用と見るや入れてくるのが従来の言い方と違いすぎる >>788
形容詞なら述語になるだけじゃなく修飾語としても被修飾語の性質を表せる
だが「雨の日」と言った所でそれは名詞が名詞を修飾した文でしかない
形容詞ならではの特徴って何だ?
>>787
形式的に名詞で意味は形容詞、そんな言葉は確かにある
英語ならfunみたいなやつ
「雨」が形容詞なら「とても雨だ」のように程度副詞の修飾を受けることもできるはずだが
そんな言い方をするのは破格だとわかっていて修辞的に使う例ぐらいで、慣用的ではない >>788
モダリティという概念を理解しないのは知識を持っていないあなたの問題
どういう意味もこういう意味も、言語学用語としての定義は変わらないし、曖昧でもない
せめて>>420に挙がっている本の一冊でも読んで勉強したらどうだろう
真ん中のがモダリティについて比較的くわしい
>>789
不自然だよ
言葉の乱れの一種
ここに「よ」が入るのは馴れ馴れしすぎ
あと>>785の「よ」と「ね」の対比をちゃんと読んでほしい
それらが「だ」「です」「である」とは根本的に機能が違うということがわかるだろうか >>785
終助詞「よ」と「ね」のご説明は非常にわかりやすくて納得します。 >>795
わかってもらえたこと、たぶん興味を持ってもらえたことがうれしいです 「言葉の乱れ」と言うのは簡単だから言語学板ではなるべく避けたい。
科学というのは理論と現実を付きあわせて理論が間違っていれば速やかに
理論の側を修正することで発展するもの。
理論が常に正しくて現実が間違っていると言い始めたら科学でなくなっちゃう。 「本が売っている」は日本語としては間違い
それを言葉の乱れと呼んでも同じこと
もう使っているという人はこれから使わなければいい
日本語の教科書、文法書でも同じ
外国人向けでも、また日本人向けでも科学的な分析の結果できあがった規範がそう言っている
言語学の最先端でのみ言葉の乱れ、間違いといった規範的な言い回しは避けるべきだが
学校で現代日本語文法の規範もろくに習っていない、そしてそれを実践していない私たちが
そんな事を言うのは百年早い
分不相応、生意気、身の程知らず
まずはちゃんと規範を覚えてからものを言うべきだ
この板にはとっくに言語学者なんていないんだから
「本が売っている」には理論を推進させる力は何もない 規範に「規範」としての価値を認めるのはどうかと思うが 規範の価値を論じるのも規範をちゃんと知ってから、
規範が広く社会に知られ、認知されてからの話だ
今の日本人の文法意識は赤ん坊同然
規範文法を広めてみんながそれを作文やスピーチに活かせる社会にならないといけない 宗教学をやるならまず聖書をちゃんと読んで理解しろってのは尤もな話だが
言語の場合は別に言語の前に規範があるわけではないし、
多くの少数言語が「標準語」を持っていないように、規範が自然言語成立の必要条件であるわけではない
もちろん言語学をやる上で規範が存在する言語において規範に精通することは重要だが
規範のイデオロギー的側面に飲み込まれてはいけない
それはキリスト教原理主義者に科学的で中立の宗教学の研究が出来ないのと同じことだ 規範の存在意義とは当該言語における最上位のレジスターの有り様の規定と
最低限の明確なコミュニケーション手段の確保ではないだろうか
規範にこれ以上の価値を見出そうとする者は規範を実用的手段ではなく
それそのものを目的と見なしているのであり一種の信仰に近い心理状態に陥っていると言える 中央集権国家の運営における規範の価値そのものは評価すべきだが
マナー講師に代表されるように規範を悪用して悪辣な活動を働き不当な利益を得ている不届き者は断固糾弾されるべきである
また保守主義に基づいて市民の自由な日常の言語活動を抑圧する言語全体主義者も同じく評価すべきではないだろう 言語は生き物なので変わっていくのは当然である
規制する方がおかしい >>802-804
いつもの駄弁、読む価値なし
>>805
月並み、退屈、説得力なし
規制なんて誰もしていない
普及していないルールを広めることは規制する以前の話
立ち小便がしたかったらそこらでやってろ
痰を吐いてもいいぞ
それがお前の自由だ 馬鹿の話は必ず長い
こんなクソスレで何いっちゃってんのwwwwwwww 「青くありません」とは言うのに「青くあります」とは言わない。なぜ?
言葉の乱れ? >>807
俺は興味深く読んでいる
お前は消えろよキチガイ
書いてる人たちに失礼だろうが >>802
少数民族の自然言語と文明社会の大言語を比較するのが大間違い
前者の多くは部族社会において統制されているのと(だから若者が面倒がって継承しない)、
内的構造の複雑さ、自律的な文法によっておのずからがんじがらめだ
大言語の多くはそういう縛りをできるだけ減らした上に成り立っている
自由度が高いぶん、教育や規範によって自覚的に制限を加えないと社会がめちゃくちゃになる
よく知られる性・数・格や人称の縛りなんて、明示できるぶん透明度が高くてむしろ簡単なほうだ 動詞の尊敬語は主格を高め、動詞の謙譲語は与格を高める。
この説明は間違っているでしょうか。
当てはまらない事例があれば教えてくださりませ。 格というのは形態と密着した概念で、日本語で主格と呼んでしまうとそれはガ格しかなく、
与格と呼んでしまうとニ格しかないので、用語法的に避けたいです。
(ガ格目的語動詞やニ格主語動詞などもあるので)
格形態の如何に関わらず「動作主」「受け手」と分ければ、おっしゃる通りです
というか人間の動作に限って言えば、古典の授業でも習うくらい定説ですよね
例外は思い当たりませんがあるかもしれません
典型的な例は人間が動作主、人間が受け手で述語が動作らしい動作である場合ですが
この条件に当てはまらないものほど敬語の定義からも外れやすいようです ガ格目的語、二格主語と言われてるような現象って、日本語に限らず、格の概念のある言語ならよくある現象だとおもうけど、そういう言語において、主語・目的語って概念との住み分けってどうしてるんだろうね。 主語(subject)・目的語(object)のような文法関係と動作主(agent)・対象(theme)のような意味役割は区別しないとな >>815
連続する節において共通の存在を指していることが明らかであり、
かつ(少なくとも2番めの節から)省略可能な項、すなわりpivotとして認められるものは
復元したときに格が違っていても「主語」とみなすことができる
(私が)客室に入ってから(私が)窓を開けると、(私に(は))大きな山が見えた
格があるからって主語がないなんていう昔の暴論はもう通用しない
>>816
区別は当然、誰が混同している?
文法関係と意味役割は動詞の意味内容、指定する項の性質を通じて関係づけられている 「美味しいです」というのを文法違反だ、言葉の乱れだと書いてある本を読んだことがあります。
「美味しいだ」とは言えないので、「美味しいです」は完全に誤用だそうです。
これも「言葉の乱れ」でしょうか? よく創作物で田舎者が「美味しいだ」みたいな話し方するけどそういう方言実在するん? 反規範論者ってのは基本的に規範そのものを憎んでいるというよりも
規範を笠に着て個人の異様な言語観を他人に押し付ける人間が嫌いなんだよな
過去に追いすがり奇妙な知識を開陳する国語学者
若者を叩きたいが為に言葉遣いに難癖付ける老人
大衆の不安を煽り様々な捏造を繰り返して悪銭を稼ぐマナー講師
こういう輩に問題があるのであって
連中の道具になってる規範に罪は無い 言葉についての一般的な知識がないとそんなふうに見えるのか
話を何も聞いていないのと同じだな
被害妄想のバカ 米国務省発表『世界で最も難しい国ランキング』日本堂々のwww【海外の反応- 日本人に誇りを!】
https://www.youtube.com/watch?v=HRwvXPeNJqI >>799さんは学校教育による言語統制至上主義で、
言語が市場で自然に流通して普及する現象を完全に否定しているか、
それを認めたくない政治的意志を表明しているだけじゃないかな?
科学的見解とは区別したほうがいい。 >>824さんは言語市場における混乱至上主義者で
公的機関が混乱を収集して整理する働きを全面的に否定しているじゃないか
世代や階層や性別によって方言化がどんどん進行して
相互の誤解と衝突が増えなければ言語じゃないって決めつけてるだけじゃないかな? 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイの古典的名著が短編×100話で気軽に読めます
リライト本です。「なか見検索」で立ち読み頂けます。原版は
国立国会図書館デジタルコレクションで無料で読めます
法窓夜話私家版 (原版初版1916.1.25)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BT473FB
(続)法窓夜話私家版 (原版初版1936.3.10)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BP9CP5V >>827
何で両派ともこうも攻撃的で極端なんだ
もうちょっと冷静に話はできないのか
どっちも互を煽って怒らせることに終始してる >>827
結局反規範論者ってのは他人を攻撃したりマウントとったりするために規範を悪用してる人間が気に食わないだけだろ
規範そのものを壊滅し個人レベルまで方言化してバベルの塔の再演だなんて息巻くアナーキストは見たことがない 政府がなにか良かれとやることを「統制だ!」「支配だ!」なんて攻撃して破壊しようとする人間は
その時点でアナキストだろう >>818
それは確かに「言葉の乱れ」ですが、80歳代以上くらいの人にとっての「乱れ」であり、
その世代でもそれが乱れだったということを覚えている人はもう少数と思われ、
元に戻すことははるかに困難です。
なぜ今のようになったのかを順を追って書くことはできますが、長レスだからと嫌気がさされるのではないかと心配です たしかにもはや「乱れ」とは言えないものの
未だに何故かちょっとモゾモゾする感じのする
「居座りの悪い言葉」だよなあ <形容詞終止形+です もぞもぞするのは
脳内に「おいしいんです」か「おいしいのです」がデフォでインプットされてるから
字足らずに感じるのだと思われ おいしいです、は子どもの書く掟破りの幼稚な文章という気はしていたな
それでもそういうのに抵抗感のない若年層からどんどん世の中に蔓延してきて、慣れて来たわな ‥文章としては抵抗があったけど、口では平気で言っていたような気もする >>827
それは「言語政治学」として認めているよ。言語に対する政治的統制の一種として。 「おいしいのです」では意味が違うのでは?
「おいしいです」「おいしくないです」は言葉の乱れで
「おいしくあります」「おいしくありません」が正しい用法?
でも、「おいしいです」と「おいしくあります」を聞き比べて
どちらが違和感を持つ? >>839
おいしいもの+だ・です
おいしいの+だ・です
こういうのは体言+だ・です、で古くからの文法にかなっているということ
おいしいだ、おいしいです、とは言わないものだった 「服が売っている」も「服が売られている」よりも統計的頻度で上回っているでしょ。
Google検索で比較しても
"服が売っている"
約 174,000 件
"服が売られている"
約 57,000 件
ほら。 「これはおいしいのだ。あれはまずいのだ」には
「これはおいしいんだ。あれはまずいんだ」と
「これはおいしいものだ。あれはまずいものだ」という
二つの意味があるよねえ? 用言には「ます」
体言には「です」
という文法モデルを仮定すると、
「形容詞+ます」
「名詞+です」
で、「形容動詞+です」だから
形容動詞は体言になる。 >>834
「この花は青いです」と「この花は青くあります」を聞き比べると、
「です」のほうがモゾモゾするの? 〜くあります、は関係ない
あおいのです、と、あおいです、の問題 青いのです 正式
青いんです 関東方言
青いです 言葉の乱れ
だと今まで思っていたが >>842
どっちが多いかの問題じゃないでしょ
「服が売られている」だって、もう57,000件もあるんでしょ?
もはや「無生物主語文」「被害ではない受け身文」だからといって
「不自然な日本語」だなんて呼べないんじゃないかな >>845-846
そもそも「青くあります」のような言い回しは無い
ク活用形容詞連用形「-く」+補助動詞「ある」は
助詞「は」「も」「すら」によって分離されたときにしか成立しない
(「こそ」は「あれ」限定で化石的に可)
「ます」が無くても同じことが言えるので、>>846の言うように敬語形の変遷とは別の話 考察することに皆さん抵抗感が無くなってきたようなので>>818に長レスすると、
・たぶん明治〜昭和20年代くらい(仮)までの多くの社会人(軍人敬語除く)の会話体は、
動詞文の丁寧体肯定形「食べます」否定形「食べません」
形容詞文の丁寧体肯定形「寒い」「寒うございます」否定形「寒くない」「寒く(は)ありません」「寒うございません」
(後者は丁寧語でも敬意が強い。また818の挙げるような本では「当時は形容詞はです・ます無しで問題なかった」という)
形容動詞文の丁寧語肯定形「静かです」否定形「静かではありません」(続く) >>850続き ・昭和50年代(1970年代後半)以降の団塊世代が社会人として活躍しだす時期に、すでにあった「です」の拡張が定着しだす
形容詞文の丁寧体肯定形に「寒いです」が登場、対の否定形は当分「寒くありません」
※しかしここで「形容詞型イ終止形+です」が許されたことがきっかけで、特に90年代・平成以後に
(実際には若い人の文体「〜っす」や方言などで一部には存在はしていた)
願望助動詞「たい」+「です」、打消助動詞「ない」+「です」が許されるようになっていく
日本語教科書にはまだない「寒くないです」「静かじゃないです」「食べたくないです」が生まれ、
「ません」の使用範囲が狭まり、動詞文さえ「食べないです」が「食べません」を駆逐しつつある
そして『「食べません」は拒絶の感情があり、「食べないです」は拒絶しない柔らかい言い方だ』
という新しい解釈とともに「食べません」が口をついて出ることがない人が増えてきている
将来は動詞文肯定系「食べます」だけに残った「ます」もやがて消え「食べるです」に変わっていくかも知れない
ここまでの遠因は打消助動詞に「ます」専用になっていた「ぬ」と東日本口語起源の「ない」があったこと、
丁寧体が品詞の制約を超えて一貫性を求めるようになってきたことだろう
なお「食べるんです」「寒いのです」のいわゆる「のだ文」は
「説明のモダリティ」を持った別の文であり、丁寧体以外に普通体も一貫して存在するので、
ここまでの変遷に関わっていない >>851
団塊の世代は戦前戦中派が頑張って復興させた日本をダメにしただけでなく日本語まで乱していたか…(呆れ) 言語学やってる人間で乱れる乱れないとか言ってる奴がいるとしたら信じられない
乱れる乱れないでウダウダ騒いでる連中の行く末を白けた冷めた目で淡々と見守るのが言語学者だろ >>852
まあビートたけしが他の団塊文化人と組んで「俺たちが日本語をダメにした!」みたいな本を
出してるから、ああいう人達は自覚というか実感があるんだろうと思う
もちろん実際の原因はすべての世代が作っているから、規範の立場でも団塊だけを責めるわけにはいかない
たいていの「変化」は、一部に生じた特殊な形が、やがて大勢に使われるようになってはじめて
変化と呼べるようになるもので、その間には十年、二十年といったタイムラグがある
その新しい現象を「全体に及ぼす力」を持っているのは人口の膨らんだ世代、
かつての団塊世代、そして90年代に思春期〜20代だった第二次ベビーブーム世代などだ
特に後者はいろいろと日本語を変えたことに、たぶん自分たちでも無自覚だ(いいか悪いかは別として)
お手本となる「大人」が見えにくく、影響力が低下していた上に、同世代で固まって言葉を作っていたからだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています