「御所辺放火」計画については詳細な先行研究がある。
名城大学の原口清氏の成果である
(「禁門の変の一考察」『名城商学』46-2〜3、1996年)。

原口氏が使用した史料は、池田屋事件直後の
元治元年(1864)6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡である。
(『会津藩庁記録』4巻、664〜668頁)

在京の会津松平家老臣の書簡ならば、新選組ともきわめて近く
最も信用に足る史料の一つである。

原口氏はこの書簡を分析し、池田屋への出兵への経過を次のように述べる。
新選組が古高邸を襲撃したところ、甲冑10組程、鉄砲2〜3挺
長州人との往返の書類があった、そのなかに「機会を失しなわず様」と
記したものがあり、甚だ不審千万、きっと何か計画がある様子に見えた
その後何者かによって封印した土蔵が打破られ、甲冑や鉄砲が奪取られたことから
新選組が会津松平家へ「少しの間もそのままにしていてはいけないと思うので
すぐさま出動し長州を召捕りたい、そのための人数を拝借し
会津公用人も一人出張して頂きたい」と願ったというのである(意訳)。

原口氏はこの書簡に古高が「御所辺放火」を供述したという
記載が全くないことから、計画の存在を疑問視した。

そして事件から4日過ぎた6月9日付の一橋慶喜書簡(松平慶永宛)に
古高が「風便を待ち、御所を焼払」う計画をもつものだったと
突然「御所放火」が登場することを指摘する。その意味するところは実は御所辺放火計画はなかったのだが
慶喜らが周囲から長州人をはじめとする尊攘志士を弾圧したと
非難を受けることをかわすため(「史料的に確定は困難」とされてはいるが)
一・会・桑権力(慶喜、会津松平家、京都所司代桑名松平家の連立政権)の誰かが
何者からも長州人の弁護ができない取締りの理由として
6月9日ごろから御所辺放火計画が
でっちあげられた可能性が高いと結論づけるのである。